20世紀は〈戦争の世紀〉であると同時に〈実験の世紀〉だった。マルクス主義者たちが実行した〈社会主義国家建設〉という実験もそのひとつで、壮大な失敗に終わったことは記憶に新しい(終わっていないと信じている人々も極少数いるが……)。芸術の分野では〈十二音技法・無調音楽〉や〈抽象絵画〉〈アングラ演劇〉などの実験が流行った。それは言い換えるなら〈調性の破壊〉〈具象・輪郭線の破壊〉であり、共通項は〈フォルムの破壊〉だった。つまり〈秩序から無秩序・混沌への移行〉を試みたわけだ。根底には〈人類は常に進化し続けなければならない〉という強迫観念・迷妄があった。その結果、現代芸術は大衆/一般鑑賞者の支持を完全に失った。
しかし、考えてみて欲しい。例えば紫式部「源氏物語」と村上春樹の小説を比較して、文学は果たしてこの一千年の間に進化しているだろうか?また、人間の心のあり方(human nature)は進化しているだろうか?答えは自明であろう。
つまり人間性とか芸術は、〈進化する〉という性質を一切持ち合わせていない。この一千年で進化しのは、科学技術(technic)であり、社会(保証)制度(system)だけである。そこを決して履き違えてはならない。
〈十二音技法・無調音楽〉は作曲技法(technic) が一つ、増えたというだけのことである。絵画でいうならばパレットに絵の具が一つ増えたことに等しい。だからといって調性音楽を否定することは三原色(赤・青・緑)を否定することに他ならず、愚の骨頂である。
だから20世紀は芸術にとって不毛の時代であった。調性音楽を守ろうとした誠実な作曲家たちは、映画音楽やミュージカルの世界に散らばっていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、クルト・ヴァイル、ニーノ・ロータ、ジョン・ウィリアムズ、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド=ウェバーらである。
しかし100年間に及ぶ迷走を経て、芸術家たちは自分たちが犯したとんでもない間違いに漸く気が付き始めた。調性音楽の復権が始まったのである。エリック・ウォルフガング・コルンゴルトの再評価・発見がそれを象徴する出来事となった。そしてウィーン・フィルやベルリン・フィルが「スター・ウォーズ」を演奏する時代が遂に到来した。サイモン・ラトルはベルリン・フィルの定期演奏会でバーナード・ハーマン作曲「サイコ」(アルフレッド・ヒッチコック監督)の音楽も取り上げた。
藤岡幸夫は長年、調性音楽の復権に真剣に取り組んできた指揮者である。その豊かな成果が英シャンドスに録音した、一連の吉松隆の交響曲・協奏曲シリーズだろう。
そして最近、藤岡が新たにタッグを組み始めたのがNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」やテレビ「昼顔」等の音楽で知られる菅野祐悟である。2016年には関西フィルと「交響曲 第1番 〜The Border〜」を初演した。
このシンフォニーは4つの楽章から構成され、それぞれDive into myself/Dreams talk to me/When he was innocent/I amと副題が付いている。僕はこれを見て「ああ、この人はユング心理学から多大な影響を受けたんだなぁ」と感じた。つまり「夢(Dream)」を分析することで意識の層を潜り(Dive)、「個人的無意識(Personal unconscious)」を超えて深層の「集合的無意識(Collective unconscious)」に接続し、「元型(Archetype )」である「永遠の少年(プエル・エテルヌス)」や「自己(Self)」をしっかりと見据えて自己実現を図るという物語をそこから読み取った。

この初演はライヴCDとなり、Amazon.co.jpのレビューでは2人が「交響曲にはなっていない」と書いている。
では「交響曲」の定義とは一体何か?〈オーケストラが演奏する〉は大前提だ。誰も異論はなかろう。他は〈3つ以上の楽章に分かれる〉とか、〈第1楽章がソナタ形式〉〈中間に緩徐楽章や舞曲(メヌエット/スケルツォ)を持つ〉とかだろうか?しかしシベリウスの交響曲 第7番を見てみよう。単一楽章でソナタ形式も持たない。この「交響曲」とシベリウスの交響詩「タピオラ」を分かつものは何か?答えは作曲家が「交響曲」と呼んだから。根拠はそれだけしかない。磯田健一郎(著)吉松隆(イラスト)「ポスト・マーラーのシンフォニストたち」(音楽之友社)にも、作曲家がそれを「交響曲」と呼べば「交響曲」なのだと書かれている。乱暴なようだが「真実はいつもひとつ」(by 江戸川コナン)。菅野祐悟に対して「交響曲にはなっていない」などとアホなこと抜かすな!無知蒙昧な輩はおとといきやがれ、である。
さて4月29日(祝)ザ・シンフォニーホールへ。藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

- ディーリアス:春を告げるカッコウ
- エルガー:チェロ協奏曲(独奏:宮田大)
- 菅野祐悟:交響曲 第2番 世界初演
大学生の頃からディーリアスの音楽はジョン・バルビローリ、トーマス・ビーチャム、エリック・フェンビー、チャールズ・マッケラスらの指揮で親しんで来た。藤岡の指揮はふわっとした響きで、テンポは上述した指揮者たちよりも幾分速め。リズミカルで、ゆりかごが揺れているような感じ(back and forth)。すごく心地良かった!藤岡のヴォーン=ウィリアムズが絶品なのは知っていたが、どうしてどうしてディーリアスもいける。もっともっと聴きたいな。因みに僕のお気に入りは「夏の夕べ(Summer Evening)」「夏の歌(Song of Summer)」そして「夏の庭で(In a Summer Garden)」。それと藤岡さん、演奏会形式で歌劇「村のロメオとジュリエット」全曲とかいかがでしょう?エッ、採算が取れない?そう仰るなら、せめて間奏曲「楽園への道」だけでもどうかお願い致します。
エルガーのチェロ協奏曲と言えば、泣く子も黙るジャクリーヌ・デュ・プレとバルビローリ/ロンドン交響楽団による究極の名盤がある。唯一無二。ジャッキーの演奏が強烈すぎて、他のチェリストで聴きたいという気が全く起こらない。困ったものである。ミラノ・スカラ座にはヴェルディの「椿姫」に関して〈カラスの呪い〉という伝説があり、1955年にマリア・カラスが演じたヴィオレッタが余りにも素晴らし過ぎて、その後39年間「椿姫」が再演出来なかったのだが(64年にカラヤン、フレーニが試みたものの惨憺たる失敗に終わった)、エルガーのチェロ協奏曲に関しても間違いなく〈ジャッキーの呪い〉があると僕は踏んでいる(余談だが今年、ピアニストのアリス・紗良・オットがジャクリーヌと同じ病気、多発性硬化症を罹患したと報道された。心配である)。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(スラヴァ)が生涯、この曲を演奏しなかったのも、「ジャッキーには到底敵わない」という思いがあったのだろうと僕は確信している。

上写真はジャッキーとスラヴァ。
この度、宮田大の演奏に接し、初めてジャクリーヌ・デュ・プレ以外にも聴く価値のあるエルガーを弾けるチェリストがいるのだと知った。ジャッキーが情熱的でエモーショナルなのに対して、宮田はまるで虚無僧のようである。そこから聞こえているのは〈わび・さび〉。ゆったりとした第1楽章は枯れ葉舞う秋を感じさせる。第2楽章はトリックスターがちょこまか飛び回り、第3楽章はカンタービレと緊張感ある弱音が実に美しい。そして魂が入った第4楽章にはグルーヴ(うねり)があった。
ソリストのアンコールはカタロニア民謡「鳥の歌」、実はクリスマス・キャロルである。この曲を聴くと、否応なくパブロ・カザルスのことを想い出す。ケネディが大統領だった頃のホワイトハウス・コンサート(CDあり)。そして94歳の時、ニューヨーク国連本部での演奏と「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」という有名なスピーチ(映像はこちら)。
菅野の新作には"Alles ist Architektur"と副題が付いている。ウィーン生まれの建築家ハンス・ホラインの言葉で、「すべては建築である」という意味である。僕はこの言葉を「すべては構造である」と読み替えることが出来るなと思った。つまり今回は、フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースの思想に繋がっている。
プレトークでは藤岡から「調性を取り戻す!」という決意の言葉が力強く発せられた。また藤岡によると菅野の和声進行は独特で、リハーサル中に作曲家から「そこは神の声で」と注文があったというエピソードも披露された。
各楽章には様々な建築家の言葉が添えられている。
第1楽章:「建築の偉大な美しさの一つは、毎回人生がふたたび始まるような気持ちになれることだ」レンゾ・ピアノ(イタリア)
第2楽章:「建築とは光を操ること。彫刻とは光と遊ぶことだ」アントニ・ガウディ(スペイン)
第3楽章:「建築は光のもとで繰り広げられる、巧みで正確で壮麗なボリュームの戯れである」ル・コルビュジエ(フランス)
第4楽章:「可能性を超えたものが、人の心に残る」安藤忠雄
しかし音楽を聴いているうちに、こうした作曲家のコンセプトにいちいち拘る必要はないのではないか、あまり意味はないという気がしてきた。
そこで僕が想い出したのはレナード・バーンスタインが台本・指揮・司会を努めたヤング・ピープルズ・コンサートで第1回目(1958年)にTV放送された「音楽って何?(What Does Music Mean ?)」である。最初に「ウィリアム・テル」序曲が演奏され、「君たちはこれを聴くとローン・レンジャーとか西部劇を連想するかもしれないが、作曲家のロッシーニはアメリカの西部なんか知らなかった」とレニーは語る。次に演奏されるのがR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」でレニーは次のような、でたらめな物語を述べる。「ある無実の男が刑務所に留置され、それを友人のスーパーマンが助けに来る。スーパーマンは看守を殴り、男をバイクの後ろにヒョイと乗せ、立ち去る。遂に彼は自由の身になった!」その後で本当のドン・キホーテ物語を紹介し、もう一度演奏する。レニーはカーネギー・ホールに集った子供たちに語る。「どうだった?でも音楽自体は何も変わらなかっただろう。つまり、作曲家が語る物語とか情景描写というのは所詮おまけ(extra)に過ぎず、音楽の本質とは一切関係がない」
というわけで、以下は僕が感じたままに書こう。第1楽章は途中、鳥の声が聞こえてきたりして、ベートーヴェン「田園」のような自然描写の音楽だと思った。第2楽章で連想したのはルロイ・アンダーソンの「ジャズ・ピチカート」。あとバリのガムランみたいな雰囲気も。色彩豊かで万華鏡のような音楽が展開され、レヴィ=ストロースの「野生の思考」という言葉が思い浮かんだ。つまり音符のブリコラージュだ。
緩徐楽章の第3楽章はエンニオ・モリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」的。あとNHK「ルーブル美術館」でも再使用された映画"La califfa"の音楽(試聴はこちら)。メロディアスで心が癒やされる。そして終楽章は荘厳でパイプオルガンの響きがした。脳裏に浮かんだのは教会の尖塔。中間部に弦のトレモロから金管のコラールに移行する箇所があり、もろにブルックナーのシンフォニーだった。作曲家が「神の声」と言ったのはこの箇所ではなかったろうか?僕は「調性音楽の勝利!」と心の中で叫んだ。けだし傑作。今からライヴCD発売が愉しみである。
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