Cinema Paradiso

2017年9月22日 (金)

宮﨑駿とフリードリヒ・ニーチェ 〜 風の谷のナウシカとは何者か?

上記事で宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」にドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想ー永劫回帰超人が深く関わっていることを明らかにした。

僕はその後も宮崎アニメとニーチェの関係について熟考を重ねた。すると、驚くべき事実に思い当たった。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは生の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになる。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

映画「風の谷のナウシカ」は”火の七日間”と呼ばれる最終戦争後、「腐海」が発する猛毒の瘴気に覆われた世界の物語である。人類は、発達し過ぎた文明による罪(自然破壊)を背負わされたラクダの状態にある。それを象徴するのがユパが引き連れているトリウマ(ダチョウに似た鳥類で、人々が馬代わりに利用する)のカイとクイ。彼らもまた重い荷を担いでいる。ユパらは砂漠でナウシカと出会う。彼女こそ笑うライオンだ(劇中に「姫様 笑うとる 助かるんじゃ」という台詞がある)。しかし時には獰猛になり、トルメキア兵を殺戮したりもする(この時彼女の髪は逆立ち、ライオンのたてがみのようになる)。

Anger

映画のクライマックスでナウシカは倒れ、オームの血を浴びて、古い伝承に「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」と歌われた人物として蘇る。つまり超人になるのだ。この時、幼い女の子の声で「ラン、ランララ、ラララン」と歌われる「ナウシカ・レクイエム」が流れる。これは別名「遠い日々」とも呼ばれ、当時4歳だった久石譲の娘、麻衣が歌っている(彼女は現在もプロの歌手として活躍し、先日NHKで放送された久石譲コンサート@パリでもこの曲を歌った)。ナウシカはニーチェの言う子どもに還ったのである。

ナウシカの肩にはキツネリスの「テト」が乗っている。これはツァラトゥストラにいつも寄り添っている鷲と蛇の代わりと言えるだろう。

宮﨑駿は「本へのとびらー岩波少年文庫を語る」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。

このニヒリズムの克服こそ「風の谷のナウシカ」のテーマであり、ニーチェに通底する課題である。

腐海は人間により汚染された壌土を清浄なものに変化させている。これは永劫回帰に導くための装置だ。

ツァラトゥストラは「軽やかにダンスし、鳥のように飛べ!」と言う。ナウシカは「鳥の人」だ。鳥の人」はサウンドトラック・アルバムのタイトルにも用いられている。

全般に宮崎アニメは飛ぶ人=正義であり、飛べない人は見下される傾向にある。「紅の豚」のポルコ・ロッソは次のように言う。

飛ばねぇ豚はただの豚だ

正にニーチェ哲学の実践である。

また「ツァラトゥストラはかく語りき」に次のような一節が登場する。

 ーしかし、人間も木も同じようなものだ。
 木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪のなかへ 
(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

これが「天空の城ラピュタ」の構造である。そして「バルス!」という呪文の言葉による崩壊の後、パズーとシータは木の根に助けられる。

「崖の上のポニョ」の嵐の場面ではワーグナーの「ワルキューレの騎行」(もどき)が高鳴る。実は若い頃のニーチェはワーグナーに私淑し、ワグナー論も執筆しているのだ(「悲劇の誕生」など)。

ニーチェを読めば、宮崎アニメをより深く味わうことが出来るだろう。

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2017年9月20日 (水)

夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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2017年9月19日 (火)

映画「三度目の殺人」の哲学的問い

評価:A

Sand

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「そして父になる」の是枝裕和が原案・脚本・編集・監督を担当した「三度目の殺人」には哲学的問いがある。ひとつは【人が人を裁くことは可能なのか?(法廷で真実は明かされるのか?)】、もうひとつは【生まれてこなかった方が良かった人間はいるか?】である。僕は後者に対してYes.と答える。アドルフ・ヒトラー、ポル・ポト、ヨシフ・スターリンらがその代表格であろう。しかし反面、ナチス・ドイツは人類に大きな問いを残した。それは【人はどこまで残酷になり得るのか?】ということ。我々は生涯をかけて、この問いを自問し続けなければならない。

真相は最後まで藪の中。そういう意味で本作は「羅生門」形式と言える。面白いのは加害者(役所広司)も被害者も、そして弁護士(福山雅治)も一人娘がいるという設定である。このことから同情や共感、共犯関係が生まれる。弁護士は当初真実には何の興味もなく、依頼人(被告)の減刑しか考えていない。ところが……予想外の展開が観客を待ち構えている。役所広司が怪演。レクター博士並みの不気味さで秀逸だ。広瀬すずのキャスティングもドンピシャ!

本来、検察官(検事)と弁護士は敵対関係にあり、裁判官は中立の立場の筈。しかし三者には阿吽(あ・うん)の呼吸があり、以心伝心で共謀することもあるという皮肉。裁判制度に一石を投じる奥深い映画だ。

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2017年9月15日 (金)

紛れもないクリストファー・ノーランの最高傑作「ダンケルク」@IMAX®次世代レーザーとヒッチコックの「鳥」

天才クリストファー・ノーラン監督最新作「ダンケルク」を大阪エキスポシティのIMAX®次世代レーザーで鑑賞。そもそも本作はIMAXカメラで撮影されており、撮影されたままの画角で観ることが出来る施設は日本で唯一ここだけ(詳しい説明はこちら)。縦横比が1:1.43。これが通常の映画館だと上下約40%がトリミング(カット)されてしまうのだ。

Dunk

評価:AA ←因みに当ブログ最高評価はAAAで、直近ではこれとかこれAAA

Img_1237

公式サイトはこちら

大画面と音響の迫力が凄まじかった。正に戦場の真っ只中に放り込まれた印象。「観る」というよりは「体感する」映画である。あと冒頭から最後まで秒単位でリズムを刻み続けるハンス・ジマーの音楽が最高!未知の体験である。緊迫した場面では早まり、またもとに戻り、これは「鼓動」だね。

クリストファー・ノーランといえば凝りに凝ったシナリオで有名である。初期の「メメント」(2000)は10分しか記憶を保てなくなった男を主人公に時系列が逆向きに進行していく。「インセプション」(2010)はユング心理学に基づき無意識(夢)が4層に分けられ、登場人物たちが各層に潜ってゆく(最下層がlimbo=虚無)。

「ダンケルク」は3つのパートに別れている。

  1. The Mole - one week
  2. The Sea - one day
  3. The Air - one hour

つまり①防波堤から英国に脱出しようとする兵士たちの1週間 ②彼らを救出しようとイギリスの港から駆け付ける船舶の1日 ③スピットファイア戦闘機に乗り込んだパイロットの1時間 ーこの3つの異なる時間軸をクロスカッティングし(ショットとショットを交互に繋ぎ)、最後の最後に1点に集約するという離れ業を成し遂げている。

ノーランは本作を製作するにあたり、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の「恐怖の報酬」やヒッチコック監督作品など、サスペンス映画の演出を研究したと告白している。特に強い影響を与えたのではないかと僕が感じたのはヒッチコックの「鳥」だ。

「ダンケルク」は一切、ドイツ兵の顔を見せない。状況を説明する冒頭のスーパーインポーズでもドイツ軍ではなく、The enemyと書く徹底ぶり。

つまり本作は単なる戦争映画ではなく、ある日突然我々が襲われるかも知れない災厄を描いているとも解釈可能である。それは地震・台風・津波などの自然災害かも知れないし、原発事故もあり得る。だからはっきりした理由もなく不意に人間を攻撃してくる「鳥」に極めてよく似ているのだ。ヒッチコックの「鳥」は1963年の作品。米ソ冷戦時代であり、その前年にアメリカはキューバ危機を経験している。つまり鳥の攻撃=核戦争の恐怖のメタファーと言える。人々はただ、逃げ惑うしかない。

鳥→ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットへの変換。ノーランの戦略は実にしたたかだ。戦争映画というジャンルは、「ダンケルク」の登場で間違いなくアップデートされた。この世紀の傑作をゆめゆめ見逃すことなかれ。

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2017年9月11日 (月)

少女ファニーと運命の旅

評価:B+

Funny

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フランス/ベルギーの合作。実話である。僕はナチス・ドイツのせいで起こった悲劇に興味があり、結構沢山の映画を観ている方だと想う。最近でも「ふたつの名前を持つ少年」(ドイツ/フランス)、「サウルの息子」(ハンガリー)、「ヒトラーの忘れもの」(デンマーク/ドイツ)などがあった。

ユダヤ人の子どもたちだけでナチス占領下のフランスから国境を超えスイスに逃げようとする物語である。最後はちょっと、ジャン・ルノワール監督の名作「大いなる幻影」(1937)のことを想い出した。「ふたつの名前を持つ少年」「ヒトラーの忘れもの」同様、子どもたちの姿が健気で痛ましい。それはユダヤの子どもたちだけではなく、ドイツの子どもたちも同様。敵味方は関係ない。彼らは皆、戦争の被害者だ。

「戦争は悪だ、二度としてはいけない」と叫ぶのは簡単だ。誰にだって分かっている。しかしそんなお題目ばかり並べても、戦争の抑止力にはならない。全く意味がない。善人面して言った奴が、いい気持ちになるだけのこと。単なる自己満足、愚の骨頂である。

これから求められるのは戦争に至るメカニズムを解明し、それを未然に防ぐ事だろう。つまりナチス・ドイツが生まれた背景は何か?どうして当時のドイツ国民はヒトラーを支持したのか?ということを真剣に探る必要がある。というわけで皆さん、まずは「わが闘争」を読むことから始めましょう。

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2017年9月 8日 (金)

エル ELLE

評価:A

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Elle

オランダ出身の映画監督ポール・バーホーベン(現在79歳)の映画を初めて観たのはテレビで放送された「ロボコップ」(1987)だった。「トータル・リコール」(90)以降は全て映画館で観ている。「ショーガール」(95)も「スターシップ・トゥルーパーズ」(97)にも足を運んだ。

バーホーベンは豪快な男だ。「ショーガール」がゴールデン・ラズベリー(ラジー)賞で最悪作品賞・最悪監督賞・最悪主演女優賞・最悪新人俳優賞・最悪脚本賞・最悪主題歌賞の6部門制覇した時には受賞会場に意気揚々と現れて、トロフィーを掻っ攫っていった。不名誉なこの祭典に、受賞者が登壇したのは史上初であつた。その後も本作は1990年代最悪作品賞も受賞している。

バーホーベン映画の特徴は偽悪的なこと。ワルぶっているのだ。ニーチェの概念で表するなら芸術性の高い「アポロン的」ではなく、衝動に突き動かされ荒々しい「デュオニュソス的」であると言える。

バーホーベンは善悪の彼岸にいる。

彼の初期作品及びオランダに帰って撮った「ブラックブック」(2006)はオランダ語(ドイツ語も飛び交う)、ハリウッド時代は当然英語。そして最新作「エル ELLE」のダイアログはフランス語である。イザベル・ユペールは本作で初めて米アカデミー主演女優賞にノミネートされ、セザール賞では主演女優賞を受賞した。

相変わらずパワフルで強烈な映画である。悪趣味だけど嫌いじゃない。映画が始まって10分ほどして、「これって『氷の微笑』路線?」と感じたが、ユペールが双眼鏡で隣の男を見ながら自慰行為に及ぶ場面に至り(撮影当時彼女は62歳!)、それは確信に変わった。シャロン・ストーンがスターになれたのは、「氷の微笑」のあの場面があったからこそだろう。主人公が経営するゲーム会社で開発しているゲームも女性がモンスターにレイプされるという内容で、凄まじい。

隣人の妻は敬虔なカトリック信者なのだが、キリスト教に対する辛辣な批判も感じられた。バーホーベンは1938年生まれで、幼少期をナチス占領下のハーグで過ごした(オランダがドイツに破れたのは40年)。味方であるはずの連合国は度重なる空爆で町を破壊。道端のあちこちに死体が転がっていたという。敵も味方もあるものか!正義と悪の境目も判らない、神も信じられない男として彼は大人になったのであろう。

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2017年9月 7日 (木)

ブレンダンとケルズの秘密

評価:A

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「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」のトム・ムーア監督がその前に手掛けた作品で、漸く日本で公開された。2作連続で米アカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートされている。

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ケルズの書とは8世紀にアイルランドの修道士たちの手で完成された装飾写本で現在はアイルランドの国宝となっている。ケルト特有の渦巻き、人、動物が描かれ、「世界で最も美しい本」と呼ばれている。

Kells1 Kells2

兎に角、美しいアニメであった。「ソング・オブ・ザ・シー」の方がより洗練されているが、それで本作の価値が下がるわけではない。

アイルランドのアニメーション・スタジオ「カートゥーン・サルーン」の作品はNetflixで配信されているテレビ・シリーズ「ウーナとババの島」(Puffin Rock)も観ているのだが、円を主体とする絵柄に特徴がある。で「ブレンダンとケルズの秘密」を観て、その原点がケルズの書にあったのだなということがよーく分かった。

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2017年9月 1日 (金)

【アフォリズムを創造する】その6「芸術について」

音楽は言葉で表現できないことを語る。つまり夢=無意識に関わる芸術である。一方、文学は言葉で語る。それは意識・自我(ego)に属している。では映画(アニメ含む)はどうか?映画のはじめに言葉ありきーシナリオは言葉で綴られる。しかし同時に映像はイメージであり、音楽も加わりそこに無意識が忍び込む。故に映画は意識+無意識=自己(self)を表現する。

上の式を図で示すと次のようになる。

Mu

図全体が自己(self)だ。これはユング心理学からの引用であるが、ニーチェは次のように語っている。《兄弟よ、君が「精神」と呼んでいる、君の小さな理性も、君のからだの道具なのだ。君の大きな理性の、小さな道具であり、おもちゃなのだ。「私は」と、君は言って、その言葉を自慢に思う。「私は」より大きなものを、君は信じようとしないがー「私は」より大きなものが、君のからだであり、その大きな理性なのだ。大きな理性は、「私は」と言わず、「私は」を実行する。(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)》つまり「精神」(小さな理性)=自我であり、からだ(大きな理性)=自己と解釈出来る。

以前のアフォリズムで紹介したように、例えばイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」冒頭に登場するタランチュラはイエス・キリストの、「2001年宇宙の旅」の太陽はツァラトゥストラ=ニーチェのメタファーであり、イメージの世界だ。新海誠監督「君の名は。」も三日月(三葉)、半月(かたわれ)、満月(三葉と瀧の結合)といった具合でイメージの洪水である。

映画は運動を描く。英語でもmotion picture(動く絵)と書く。つまりからだと同義だ。そしてそのイメージは観客の心の深層(魂)に働きかける。

イメージは無意識を探るため、心理学でも利用されている。その代表例がロールシャッハ・テストである。

Rorschach

また心理学者・河合隼雄が日本に紹介した箱庭療法も言語化出来ないイメージを活用している。

Hako

J.S.バッハから古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)を経て、ロマン派(ブラームス、ワーグナー、マーラー)に至るまで、作曲家たちは夢=無意識を描く音楽を、小さな理性でコントロールしようとしてきた。その手段が、旋律・調性・和声・拍子・形式である。ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、リゲティら20世紀の作曲家たちが挑戦したのは、その枷(かせ)を取り払い、音楽を混沌(Chaos)に引きずり戻す作業であった。それは「アポロン的」表現から「デュオニュソス的」表現への変換を意味していた。

調性とは長調とか短調のこと。形式とはソナタ形式(主題提示部-展開部-再現部-終結部)・ロンド形式(A-B-A-C-A-D-A)・三部形式(A-B-A')・変奏曲などを指す。ハイドンからマーラーの時代まで約150年間、交響曲やソナタといえば第1楽章がソナタ形式で、中間に緩徐楽章や舞曲(メヌエットまたはスケルツォ、三部形式)を挟み、終楽章は再びソナタ形式かロンド形式とほぼ型(フォーマット)が決まっていたのだから驚くべきことだ。それは音楽という暴れ馬に馬具を装着し、制御するシステムであった。この工夫により聴衆は頭(意識)で全体像を把握し、理解することが出来た。

しかしシェーンベルクは十二音技法を生み出すことで調性を破壊し、音楽は協和音から不協和音が支配する世界に突入した。旋律や形式も木っ端微塵に打ち砕かれた。

「アポロン的」と「デュオニュソス的」対立軸はニーチェがその著書「悲劇の誕生」(1872年出版)でギリシャ悲劇を引き合いに出して創造した概念である。ギリシャ神話に於けるアポロン神は理知的で、情念(混沌)に形(フォルム)を与え、高尚な芸術へと昇華させる力を象徴している。一方、デュオニュソス神はバッカスとも呼ばれ、豊穣とブドウ酒、酩酊の神である。祝祭における我を忘れた狂騒や陶酔を象徴する。つまり秩序化された世界を、もう一度根源的なカオスに解体する力を司るのだ。アポロンは英知と理性であり、デュオニュソスは泥臭い人間の業(ごう)、欲深い本性であるとも言える。

確かにダンス・ミュージックであるベートーヴェンの交響曲第7番はある意味ディオニュソス的である。しかし知性(旋律・調性・和声・拍子・形式)でコントロールされている。手綱はしっかりアポロンが握っているのだ。

こうして見ると、1913年にパリで初演され、大騒動となったバレエ音楽「春の祭典」が果たした役割が理解出来るだろう(パニックの顛末は映画「シャネル&ストラヴィンスキー 」に描かれている)。それまでの音楽は知的で上品であり、調和に満ちていた。ストラヴィンスキーはそこにデュオニュソス的な、原始的で荒々しいどんちゃん騒ぎを持ち込んで建築物をぶっ潰し、混沌(土)に戻したのである。ベルクやバルトーク、リゲティ、武満徹らが成し遂げたことも、同じ方向性であった(武満の音楽は流動的な「水」や「夢」をテーマにしたものが多い)。

20世紀美術も音楽と同様な流れを辿った。ピカソが「私の唯一の師」と讃えるセザンヌを経てキュビズム(立体派)が完成され、やがてフォルムが解体されて抽象絵画に突き進んだ。人物/静物の輪郭=実際に目に見えるもの(意識)であり、それが失われるとイメージや無意識(魂)が残った。

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ベイビー・ドライバー

評価:B+

Babydriver

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本作が傑作であることを認めるのは吝(やぶさ)かではない。特に序盤のリズミカルな編集は斬新で、例えばヒッチコック「サイコ」のシャワー・シーンとか、ブラジル映画「シティ・オブ・ゴッド」(フェルナンド・メイレレス監督)に匹敵する出来栄えである。その直後に今度は長回しに切り替わる演出も冴えている。あと冒頭、ピーという耳障りな雑音が聞こえてくるのも効果的だ(しっかり後の伏線になっている)。

iPodの音楽に乗せて展開されるカー・チェイスは正にセミ・ミュージカルであり、爽快だ。ただし、どうも僕はエドガー・ライト監督と波長が合わないらしく、映画後半は「ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 」を観た時と同じ感想を抱いた。即ち、「悪趣味で下品なんだよ!!」やっつけてもやっつけても蘇る○○に対しては「お前はゾンビか、それともターミネーターかっ!?」とツッコミを入れた。

最高だったのは「シンデレラ」のリリー・ジェームズ。あまりの美しさに息を呑んだ。彼女の美貌はイングリッド・バーグマンとかヴィヴィアン・リーに匹敵する。イギリスの至宝、国宝級だ。

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スパイダーマン:ホームカミング

評価:C

Spider_man

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ダメだ。余りにも評判が高いから期待して観に行ったのだが、やっぱり僕はアメコミを受け入れられない。全く性に合わない。アメコミものは沢山観たが、傑作だと想うのはクリストファー・ノーランによる「バットマン」三部作とギレルモ・デル・トロの「ヘルボーイ」二部作だけだな。「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー 」も実にくだらなかった。

チャラい主人公には全く共感できないし、ウザい。ジョン・ヒューズ風学園ドラマのノリも退屈なだけ。勝手にやってろ。どうでもいい。こんな映画ばかり観ていると、どんどん頭が悪くなりそうだ。

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