Cinema Paradiso

四元素でたどる音楽史〜古楽最前線!ー躍動するバロック@いずみホール

古代ギリシャ時代には万物全てが「水」「気(風)」「火」「地」の四つの元素で構成されていると信じられ、近代科学が成立するまで大きな影響力を持っていた。ここには、【人間は二項対立で思考するものだ】という基本構造が隠されている。

まず〈気⇔地〉〈火⇔水〉という2組の基本的な二項対立があり、〈気⇔地〉は垂直方向の差異〈上(天)⇔下(地)〉、〈火⇔水(雨・川)〉は〈上昇⇔下降〉として示される。「気(風)」は生者、「地」は死者のメタファーでもある。また「火」は愛(情熱)、「水」は無関心(つれない)と言い換えることも出来るだろう。

次に〈火・気⇔水・地〉という組み合わせは〈温かい⇔冷たい〉であり、〈火・地⇔水・気〉は〈乾いた⇔湿った〉という二項対立を表している。これらを図にすると次のようになる。

4

日本人の感覚でこの分類はピンとこないかもしれないが、乾燥した地中海の気候をイメージしていただきたい。オリーブが育つ土壌で、春の訪れを告げる豊穣の西風ゼピュロスや、暖気と雨を運んでくる東風エウロスが吹く場所。

11月2日(金)いずみホールへ。

Izumi2

今年亡くなった礒山雅 招聘教授〈企画・監修〉による、【古楽最前線!】シリーズ第1回目はレクチャー&コンサート「四元素でたどる音楽史〜中世からモンテヴェルディまで」と題された。

演奏はカペラ・デ・ラ・トーレ(ピリオド楽器管楽アンサンブル)初来日とマーガレット・ハンター(ソプラノ)。お話は市川克明(音楽学)。

曲目は、

作曲者不詳:ファンファーレ(16世紀)
ランディーニ:さあ、春が来た

~WATER~「水」の巻
ビクトリア:めでたし、海の星
作曲者不詳/即興:バスダンス《新アリオト》(15世紀)
ギッツォーロ:セイレーンの歌/ネプチューンの応答
アルカデルト:真白で優しい白鳥は
アレグリ:セーヌのニンフたちの第5バッロ

~AIR~「気」の巻
フレスコバルディ:そよ風吹けば
(伝承曲):パッサメッゾ
モンテヴェルディ:いとも優しいナイチンゲールよ
プレトリウス:カナリー(カナリア)
モンテヴェルディ:西風が戻り

~FIRE~「火」の巻
作曲者不詳/カヴァリエーリ:おお、なんと新たな奇蹟よ
作曲者不詳:愛の神よ、与えてください(16世紀)
フォリアーノ:甘い愛の炎
トロンボンチーノ:あくまで従ってまいります
作曲者不詳:戦いの道をたどろうとする者は(17世紀)

~EARTH~「地」の巻
ビクトリア:レクイエム入祭唱
ホルボーン:パヴァーヌ:葬送
      アルマンド:愛の果実
ピッファロ:あなたの神々しい姿を
ランディ:生のパッサカリア~「死なねばならぬ」

An

カペラ・デ・ラ・トーレは2005年にミュンヘン生まれのショーム奏者カタリーナ・ボイムルによって創設された。今回使用された楽器は、

  • ショーム(シャルマイ・ポンマー):オーボエの前身
  • ドゥルツィアン:ファゴットの前身
  • サックバット:トロンボーンの前身
  • ツィンク(ルネサンス・コルネット):発音機構上金管楽器に属すが、木製
  • リュート、テオルボ:撥弦楽器
  • ポジティフオルガン
  • 打楽器

伝承曲「パッサメッゾ」は変奏曲になっており、途中からまるでジャズの即興演奏(インプロヴィゼーション)風になり、ノリノリだった。

モンテヴェルディ「西風が戻り」は奏者が一人ずつ演奏をやめ、舞台を立ち去り、最後はテオルボとオルガン奏者のふたりだけに。ハイドンの交響曲 第45番「告別」を彷彿とさせるな演出。

ヨーロッパの洗練を感じさせる、愉快な演奏会だった。

市川克明氏から、「1600年を境にオペラが生まれ(ヤコポ・ペーリ「ダフネ」「エウリディーチェ」)、長調と短調が明確に別れたのもこの頃」というお話があり、大変興味深かった。なお、モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」が初演されるのが1607年である。

またトロンボンチーノは奔放な人だったと触れられたので、興味を持って帰宅後調べてみた。

ルネサンス期に活躍した作曲家バルトロメオ・トロンボンチーノはその名の通りトロンボーン奏者でもあった。メディチ家のために演奏していたこともあるという。しかし素行に問題があり、マントヴァで宮廷音楽家となるもその悪行ゆえヴェネチアに逃亡。またマントヴァに戻ったと思ったら、今度は妻が愛人と密会しているのを目撃して殺害した。これは当時の慣例で許されたが、さらに別の悪行に及んで再びマントヴァを去り、フェラーラの宮廷に仕えるようになった。

!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽

に続く、三部作完結編をお届けする。この記事を執筆するに際し、参考にした書籍は最後に列記する。

オーストラリア映画の金字塔「ピクニック at ハンギング・ロック」との出会いを契機に、アボリジニの創造神話ーそれは思想といっていいー〈ドリームタイム〉に心を奪われた。〈ドリームタイム〉は現地の言葉でtjukurpa(チュクルパ)という。

アボリジニとはオーストラリア先住民の総称であり、17世紀にオランダ人が初めて大陸に到来した時に、言語は250種類、部族の数は700以上存在したと言われている(現在は激減)。彼らは文字を持たず、農耕も家畜もしない。

アボリジニには「時間」という概念がない。彼らにとって「創造」は過去→現在→未来へと連続する運動ではなく、主観的状態から客観的状態への移行を意味する(通時的ではなく、共時的な思考の構造)。「夢見(ドリーミング)から実在が生じる」のである。

つまり先祖(原初)の夢見(ドリーミング)が実相であり、我々が触知出来るこの世界(yuti;ユティ)はその内的ヴィジョンの外界への投影=仮相ということになる。現代に生きる我々は原初の夢見の中で、さらに夢見ているのだ。アボリジニは二つの世界を並行して生きている。

偉大なる彼らの祖先はエネルギー場のような、触知出来ない振動する身体を備えていた。振動するエネルギー=気息から音、言葉、歌が生み出された。〈ドリームタイム〉における創造とは、この世に歌いだされた世界のことを意味している。その足跡は〈ソングライン〉と呼ばれ、オーストラリア全土を縦横に走っている。隔たれた場所で暮らす各部族は〈ソングライン〉をコミュニケーション・ネットワークにすることで、お互いの文化を交換しあっている。

アボリジニの言葉を借りれば「森羅万象には、夢見(ドリーミング)がある」。植物とは、種子が見た夢である。

ある長老はこんな言葉を残している。

ほうぼうの土地や動植物を何らかの目的で利用したり、食べたりする場合にはまず、土地や動植物の夢見に入り込む術を身につけなければならないんじゃ。白人たちは、そんなことはいっさいしない。だから、病気になったり、気がふれたりして、身を滅ぼしてしまうのじゃよ。

【ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界」より】

建築物の場合、資材となる石やレンガそれ自体の内に可能性(potential)が秘められていると彼らは考える。建築家だけではなく石の方でも夢見があり、そこから建物が生み出されてゆくというわけだ。

人類は当初、意識の主観的なエネルギー状態として存在する。夢、直感、そして思考は、振子のように揺れながら、外界を対象化(外在化)してゆく。物質の創造や活動に参加するようになると、意識の振子は一転して、客観的実在から主観的状態へと振り戻され、内的記憶となる。ここに円環構造がある。ニーチェが言うところの永劫回帰だ。

アボリジニの先祖はみな、人間と(他の)動物の特徴を併せ持っており、そのどちらにも姿を変えることが出来た。夢見(ドリーミング)が完了すると、先祖は大地の中へと姿を消し、「潜勢力(potentiality)」となった。そして動物とヒトは再び結び合わされ氏族トーテムとなった(これが父系半族と母系半族に分かれる)。

人類の内的心理状態と情緒が、外的には、動物の体や行動に象徴されることにより、「ライオンのように勇敢な」「チョウのように繊細な」「ハチのように忙しい」「鳥のように自由な」といった言い回しが、世界中の言語に溢れている。そこには人間の本性と動物との密接な関係が如実に現れている。生態学者ポール・シェパードによれば、ノアの箱舟は、人類の集合的無意識の象徴だという。

アボリジニは空間を距離とは考えない。空間内にある知覚可能な実在はちょうど「意識」に相当し、対象間に存在する肉眼では見えない空間は、「無意識」に当たる。「意識」と「無意識」は常に同じものであり、「無意識」とは、夢見(ドリーミング)という連続体の一部なのだ。〈意識+無意識=森羅万象〉は覚醒と睡眠、生と死のあいだで出現と消滅を繰り返している。

夢見という観点から見れば、昼と夜とは同時に存在している。アボリジニにとってとは無意識の象徴の最たるものであり、不可視のものが姿を現し始める夢見(ドリーミング)にほかならない。は大地と、生きとし生けるものを豊かにする神秘のエネルギー源であり、鎌首をもたげる虹蛇は大地と天空を結ぶ立法者である(水を司り、洪水をもたらす)。両性具有である虹蛇の腹の中には森羅万象が内包さている。虚空をゆく鳥は、無意識の使者であり、稲妻が放つ閃光は、無意識の内奥から溢れ出たエネルギーの荒々しい放電である。

Mimisnake
↑虹蛇の横に立つのは精霊ミミ。背が高くマッチ棒のような身体で、岩の裂け目に住み、人々から恐れられている。

夢の論理によれば、人類とその他の生物との間には垣根など一切存在しない。だからアボリジニはどんな生物にも変身出来るし、どんな生物の意識をも味わえる。夢の中では、主体と客体は相互に入れ替わることが出来る。

ここで20世紀以降に得られた科学的知見から検討してみよう。宇宙に存在する「形あるもの」は、究極的に素粒子(電子+クオーク)で構成される。素粒子は「物質」ではなく、「状態」である。ここで粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を併せ持つ存在として「量子」(quantum)が定義された。「量子」は微小なエネルギー量の単位であり、素粒子=量子である。つまり世界を構成するのは、突き詰めればすべてエネルギーということになる。また「場の量子論」では、時空間を満たす「場」という存在を考え、場の一部が振動してエネルギー量子のように振る舞うのだとされる。つまりアボリジニの思想と現代物理学は次のような対応関係が成立する。

  • 大地/先祖→夢見(ドリーミング)→我々が知覚する世界(ユティ)
  • 宇宙/時空間→それを満たす場の振動/エネルギー→物質/生命

さらに〈ドリームタイム〉は、ユング心理学における集合的(普遍的)無意識に相当すると考えられる。

Mu

ユングは集合的無意識の中に存在する元型(archetype)という概念を提唱した。アニマ(男性が持つ内なる女性性)・アニムス(女性が持つ内なる男性性)・老賢者(The Wise Old Man)・太母(The Great Mother)・永遠の少年/少女(幼児元型)がその代表例だ。アボリジニが言う、〈ドリームタイム〉における先祖とか精霊はこの元型(archetype)に合致する。例えば彼らの神話に登場するウィーリーヌンは字義的に「賢い男」を意味し、魔法使いや学識者を指す。正に老賢者(The Wise Old Man)そのものである。またムリー・ムリーという、ウィーリーヌンが指示を与える夢の精霊(使い魔)が活躍するのも面白い。

絶え間ない変化と適応を繰り返すユティ(知覚可能な世界)から〈ドリームタイム〉に移行するための手段として、睡眠・儀礼(イニシエーションなど)・祭儀(踊り→トランス状態)・音楽(歌謡/ディジュリドゥ)・うなり板(ブルロアラー bullroarer)・神話・水晶や石などのトーテム(象徴)がある。

Bullroarer
↑うなり板:紐の一端を持ち、空中で回旋させることで音を発す。精霊の声とされる。宮崎駿「風の谷のナウシカ」では〈蟲笛〉として登場した。

ピクニックatハンギング・ロック」の岩場(モノリス)もトーテムであり、〈ドリームタイム〉への入口となった。アボリジニの聖地エアーズロック(ピチャンチャチャラ/アナング族の言葉ではウルル)や、スピルバーグ監督「未知との遭遇」に登場するデビルズ・タワー(アラパホ族などアメリカ先住民族が熊信仰の対象とした)も同様の役割を果たしている。水晶内にクラック(ひび割れ)を持つものはそのクラック面が光を反射する際に虹色に輝く。つまり虹蛇に結びつき、原初のエネルギーと共鳴する。ウルルの泉にも虹蛇が住むとされる。

夢見へのステップは①感覚が異常に研ぎ澄まされる知覚過敏②五感が渾然一体化する「共感覚」がある。例えばある色を見ると特定の音が現実に聞こえてしまう。ある種の味を味わうと、ある色が見えたりするなど。1960年代〜70年代前半に欧米のヒッピーたちの間で流行った、LSDなどの幻覚剤によるサイケデリック体験がそれに近い。

 その昔、大地が真っ暗で深いしじまに包まれていたころ、不毛な地表を動く物陰は何一つなかった。ヌッラボル平原に穿たれていた深い洞窟には、美女の「太陽」が眠っていた。偉大なる父の精霊は、太陽をやさしく目覚めさせると、彼女に「洞窟から出てきなさい。宇宙をかき回して生命を生み出すのですよ」と言った。母なる太陽が目を覚ますと、彼女から放射される光線が、大地の上に広がって、暗闇はすっかり消え失せてしまった。太陽が息を吸い込むと、大気の様子は一変してしまった。かすかなそよ風が吹くと、大気はやさしくうち震えた。
 母なる太陽はそれから、長旅に出かけることにした。北から南へ、そして東から西へと不毛の大地を横切っていったのだ。大地には、森羅万象を生み出す種子の潜勢力が備わっていた。太陽が放つやさしい光が大地に降り注ぐ所にはどこにでも、草や低木や木々が生え、やがてその土地は、あたり一面、植物に覆われてしまった。

【ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界」〜カッラウル族の神話】

上記アボリジニ神話って、「古事記」に書かれた「天の岩戸」開きに凄く似ていませんか?天照大御神=太陽神=女神であり、アボリジニの太陽も女神イェだ。月は男神バールー。一方、ヨーロッパのギリシャ神話では、太陽神ヘリオス(≒アポロン)は男。月は女神で、セレネやアルテミスが該当する。日本の月詠(ツクヨミ)は男神とされるが、詳しい記載はない。アボリジニ神話はヨーロッパよりも、断然日本神話に近い。

オーストラリア最北端の島、メルビル島に暮らすティウィ族の神話に登場する太陽神はプキという名の女神で、空からやってきて大地と海と島を創造した。また動物や木々や川もつくりだした。海はまだ淡水だったが、ツルのイリチに頭を殴られた衝撃でプキはおしっこを漏らし、海を塩からくしたという。

次にニューサウスウェールズ州のンゲアンバ族の神話を紹介しよう。

 この世の最初のころにはまだ男はいず、人間は姉妹だけだった。ある日の夕方、妹は一人で平原にでかけていき、花を一つ摘み、樹皮をはぐと、その中に花をそっとおいた。それからその樹皮を丸太の陰においた。つぎの日も、そのつぎの日も彼女が様子を見に来ると、花は男の子の赤ん坊になっていた。
 大きく成長したその子は、やがて呪術師になり、ムレイアンと名づけられた。彼はワシタカだった。彼は空にのぼると赤く輝く星になった。それはいまも天空に瞬いている。

松山利夫(著)「精霊たちのメッセージ ー 現代アボリジニの神話世界」より】

これは正しく〈母性原理〉の物語であり、最初の男アダムの肋骨から最初の女イヴが創られたとする〈父性原理〉の「旧約聖書:創世記」とは対極をなす。

オーストリア先住民は狩猟採集社会に生き、日本人は農耕民族である。この違いはしっかり認識しておく必要がある。しかし重要なのは、天照大御神の神話が生まれた時代に日本で農耕は未だ始まっていなかったという事実だ。水稲農耕が開始されたのは紀元前5世紀、弥生時代と推定される。つまりアボリジニの神話は狩猟採集生活を送っていた頃の日本人の心のあり方に近いと言えるだろう。余談だが「天の岩戸」神話には矛盾がある。天照大神が鏡に写る自分の姿を、別人の〈貴い神〉だと勘違いする場面があるのだが、中国から日本に銅鏡が伝来したのは弥生時代の紀元1世紀頃と言われており、神々の時代に合致しない。「古事記」に編纂されるまでは口伝だったわけで、恐らく鏡の逸話は後年付け加えられたものではないだろうか?歴代演者の工夫が積み重ねられた古典落語のように。

また「こぶとりじいさん」によく似た、「踊るカンガルー」というアーネムランド(オーストラリア北部)に伝わるアボリジニ神話もある。

さて、20世紀を代表する作曲家・武満徹は1980年9月にオーストラリア北端のグルート島を旅し、オーストラリア全域からこの島に24の異なる部族(トライブ)の原住民が集まり、一週間に渡り彼らの祭祀、うたや踊りによる交歓が行われるを目の当たりにした。

 グルート島への旅で思い返されるのは、踊りや祭祀を含めた原住民(アボリジニ)の生活だが、その未分化の名づけようもない巨大な自然空間が、わたしたちとおなじこの惑星のうえに存在しているということが、いまは異様にさえ感じられる。今日、わたしたちは、自然を失ったと口にするが、わたしがみたグルート島の自然は、わたしたちが相対概念として拵(こしら)えあげた「自然」などではなく、大地そのものであり、そこでは生命(いのち)は相争うものではなく相互に生かし合い、自然は動いてやまない。(中略)
 グルート島には、自然が与えてくれるディッジャリデュー(中空にした木で、息をふきこむ)のようなものはあっても、そのほかに、人為的な楽器というものはまったく無い。白アリがその髄を喰って空洞にしたマングローブやユーカリ樹の幹を、管を吹くように息を吹きいれて音をたてる。それは、ちょうど、ディ・ジャ・リ・デュー、というように響くのだが、直接、大地から聴こえてくるような、低く唸るような音である。

【武満徹(著)「音楽を呼びさますもの」〜グルート島素描】

Barton

 言語が発達して、ことばの指示機能が先鋭になることで、(私たちが)失ってしまったものは大きいように思う。(中略)音楽は知的に理解されるだけのものではない。音楽言語ということが言われるが、これは一般的な文字や言語と同じではないだろう。音楽には、ことばのように名指ししたり選別したりする機能は無い。音楽は、人間個々の内部に浸透していって、全体(宇宙)を感じさせるもので、個人的な体験でありながら、人間(ひと)を分け隔てるものではない。(中略)
 かれら原住民(アボリジニ)にとって、すべては自然と大地が齎(もたら)すものであり、かれらの生は自然に支配され、かれらはけっして自然を支配しようなどと思わず、かれらのうたや踊りは、だから、かれらの肉体(からだ)を通して表象される自然そのものなのである。

【武満徹(著)「音楽を呼びさますもの」〜グルート島紀行】

この体験を通して生まれた武満の楽曲が「夢の時」"Dreamtime"(for orchestra)である。

ディジュリドゥの音は動物の鳴き声(特にカエル)に近い。また時に僧侶による読経のようにも聞こえる。音階が存在せず、西洋音楽の平均律とは全く概念が異なる。ムルンギン族の神話では虹蛇がディジュリドゥを所有しており、それが歌い出すと、虹蛇に呑み込まれて死んだ筈の姉妹と彼女らの赤ん坊は生き返った(死と再生)。

武満徹は「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」で初代監修を務め、その最後の年ー1998年の委嘱作品がオーストラリアの作曲家、ピーター・スカルソープ(1929-2014)の「グレート・サンディ・アイランド」だった(武満は96年に死去したが、人選は98年までなされていた)。初演時には武満の「夢の時"Dreamtime"も演奏された

スカルソープはタスマニア島で生まれた白人である(3万7千人いたタスマニアン・アボリジニはイギリス植民者に一掃され、19世紀末に絶滅した)。彼の作品中、何と言っても一番の聞きものは「アース・クライ(大地の叫び)」だろう(→NMLで試聴)。ディジュリドゥ(無調)とオーケストラ(調性)が競演する。摩訶不思議で、とてもスリリングな音楽だ。動画視聴はこちらからどうぞ。スカルソープにはディジュリドゥを伴う弦楽四重奏曲という、けったいな作品群もある(→NMLで試聴)。またS.オボイル/W.バートン:ディジュリドゥ協奏曲も一聴をお勧めしたい(→NMLで試聴)。

今回〈ドリームタイム〉を体感するために、万博記念公園(@大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館に足を運んだ。大変充実したコレクションがあり、虹蛇や精霊ミミの絵とか、ディジュリドゥ、ブーメラン、柱状棺(遺骨の容器)などが展示されていた。わざわざ行った甲斐があった。

最後に、アボリジニへの理解を深めるために役に立つ映画をいくつかご紹介しよう。

美しき冒険旅行WALKABOUT (1971)

Walkabout

「赤い影」で知られるニコラス・ローグ監督作品。ローグは「赤死病の仮面」「華氏451」などの撮影監督としても名高く、本作でも撮影を兼任している。大変映像が美しい。

アメリカで最も著名で信頼された映画評論家ロジャー・エバート(1942-2013)が"The Great Movies"と題し、過去100年の中から選りすぐった映画リストの中に「ピクニック at ハンギング・ロック」と並んで本作も入選している。

原題のwalkaboutとはアボリジニの少年が大人になるための通過儀礼のこと。そこに、ひょんなことからオーストリアの砂漠を放浪するはめになった白人の姉弟との出会いと、別れを描く。弟(6歳)を演じているのが、ニコラス・ローグの息子である。

これは二度と戻ることが叶わない、「エデンの園」での日々(失楽園)の物語である。胸がかきむしられるくらい痛ましく、しかしそれ故に輝かしい、忘れ得ぬ傑作。一押し!

007シリーズや「ある日どこかで」で知られるジョン・バリーの音楽が素晴らしい。途中児童合唱が登場するのだが、歌詞は「マザー・グース」の1篇<クックロビン(だれがコマドリを殺したの?)〉から採られている。また映画冒頭にはディジュリドゥの音も聴こえる。

裸足の1500マイルRabbit-Proof Fence (2002)

Rabbit Rabbitproof_fence

1931年のオーストラリアを舞台に、アボリジニと白人の親を持つ混血(ハーフ・カースト half-caste)の子どもたちに対する隔離・同化政策を描く。強制収容所の理不尽さ、白人どもの傲慢さに、怒り心頭に発することは必定。ディズニー実写版「シンデレラ」や「オリエント急行殺人事件」リメイク版の監督としても知られるケネス・ブラナーが名演技を披露。原題は〈ウサギよけの囲い〉のこと。本作で描かれる児童隔離政策の犠牲者たちのことを〈盗まれた世代 (Stolen Generation)〉と言う。

「サムソンとデリラ」 Samson and Delilah (2009)

Samson

現代のアボリジニが置かれた、厳しい現実を描く。ワーウィック・ソーントン監督はアボリジニ出身で、第62回カンヌ国際映画祭でカメラドール(新人監督賞)を受賞した。セシル・B・デミル監督の同名作品と混同しないよう要注意。

本作に登場する、アボリジニの間で社会問題になっているという、ガソリンを吸引し酩酊を楽しむ〈ペトロールスニッフィング petrol-sniffing〉という習慣にはカルチャーショックを受けた。

また、ワーウィック・ソーントン監督の新作で、2017年ベネチア国際映画祭に於いて審査員特別賞を受賞した"Sweet Country" は、日本公開が決まれば是非観たいと思っている。予告編は→こちら

参考文献:①ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界 ー ドリームタイムと始まりの日の声」青土社 
K・ラングロー・パーカー(著)松田幸雄(訳)「アボリジニー神話」青土社 
③松山利夫(著)「精霊たちのメッセージ ー 現代アボリジニの神話世界」角川書店 
④ジーン・A・エリス(著)国分寺翻訳研究会(訳)「オーストラリア・アボリジニの伝説 ー ドリームタイム」大修館書店
⑤武満徹著作集 2より「音楽を呼びさますもの」新潮社

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

にわかには信じ難い大傑作アニメ「若おかみは小学生!」と大林映画

評価:AA

Waka

映画公式サイトはこちら

大の大人が口にするのも恥ずかしい題名である。そして絵柄(キャラクター・デザイン)がはっきり言って生理的に受け付けられない。「ムリ……」と思った。映画館で予告編を見たが、全く食指が動かなかい。ところが!!である。

いくら耳をふさいでも、あちらこちらで絶賛の嵐が吹き荒れている音が聞こえてくる。その熱量が半端ではない。

大人たちが熱狂している。

これは尋常じゃない。僕は人が勧めるものは素直に従う人間なので(自分の好みに拘泥していては世界が広がらない)、激しい抵抗感を覚えながらも半信半疑でTOHOシネマズ(シネコン)に重い足を運んだ。21時05分開始のレイトショーである。そもそもこんな題名の映画(子供だまし)をレイト上映している事自体、どうかしている。

そして……

涙腺決壊とはこのような映画を指すのだろう。もう、とめどなく涙が流れた。悔しいけれど認めざるを得ない。掛け値なしの大、大傑作。2018年の日本映画(実写含む)を代表する一本である。「この世界の片隅に」を第1位にして、「君の名は。」をランク外としたキネマ旬報ベストテンが本作をどう扱うのか、要注目だ。

高坂希太郎監督は「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」で原画を担当し、「耳をすませば」「もののけ姫(共同)」「千と千尋の神隠し(共同)」「ハウルの動く城(共同)」「風立ちぬ」で作画監督を務めてきた人である。宮崎駿の右腕であり、自然描写など、そのイズムが本作でも透徹している。また次々と出てくる食べ物の美味しそうなこと!

そして最大の功績は吉田玲子の脚本にある。京アニ「リズと青い鳥」のホンも素晴らしかったし、今年の脚本賞は是非彼女にあげたい(でも多分、今年の映画賞で脚本賞を総なめにするのは「カメラを止めるな!」の上田慎一郎だろうなぁ)。

映画の冒頭と締め括りは神楽で(女の子ふたりが舞うのでどうしても「君の名は。」を想い出す)、その間に日本の春夏秋冬が丹念に描かれる。

本作の魅力をズバリ一言で述べるとしたら「共時的」であるということに尽きる。これはスイスの構造主義言語学者ソシュール(1857-1913)の用語で、対義語が「通時的」。関連する複数の現象や体系を、時間の流れや歴史的な変化にそって記述する事を言う。つまり〈過去→現在→未来〉という不可逆的・一方通行の流れ。対して「共時的」とは、過去・現在・未来が同時にそこにあることを示している。フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは「神話は共時的である」と述べている。

映画「若おかみは小学生!」で温泉旅館〈春の屋〉に最初にやってきたお客さん=美少年は主人公おっこ(現在)のメタファーである。〈鏡〉に写った彼女自身と言っても良いし、ユング心理学における〈影〉、あるいは〈ドッペルゲンガー(二重身)〉と言い換えることも出来るだろう。彼女は美少年に対し、「頑張れ自分!」と背中を押す。

次のお客さん、占い師のグローリー・水領さんは未来のおっこ。水領さんは「そんなに気を張って、頑張らなくてもいいんだよ。子供らしくたまにははしゃぎなさい」と現在のおっこをギュッと抱きしめてくれる。

そして三番目のお客さんは、まだ両親がいて、何の心配も要らなかった頃の無邪気/純真な( innocent )おっこ。そんな幼い頃の記憶を現在のおっこがしっかり抱きとめる。

つまり過去・現在・未来のおっこが、そこに同時に存在しているのである。

こうして一年の体験を通して、彼女は意識と無意識を統合し、自己実現を果たす。舌を巻くほどの構成力だ。

本作最大のクライマックスとなる、ある事件を目撃しながら、僕が即座に想い出したのは、赤川次郎原作、大林宣彦監督の映画「ふたり」のラストシーンである。大林宣彦作詞、久石譲作曲の主題歌「草の想い」が流れ始め、石田ひかりがカメラに向かって正面から坂道を登ってくる。カメラが切り替わり、後ろ姿を捉えると、それは交通事故で死去した彼女の姉を演じた中嶋朋子に入れ替わっている(ふたりでひとり=自己実現)。この場面で起こるある出来事が「若おかみは小学生!」と密接に関連しているのである(ネタバレになるので具体的には書きません)。因みに赤川次郎の原作にこのエピソードはない。動画はこちら

考えてみれば死んだ両親の幽霊が主人公の目の前に現れるという設定は山田太一原作、大林宣彦監督「異人たちとの夏」だ。もしかしたら原作者の令丈ヒロ子は大林映画のファンなのではないか?と考え、彼女がなにかそのことに言及していないか調査をはじめた。つまり自分が立てた仮説の〈裏を取る〉作業である。そしたら、あったあった!

公式ツイッターで呟いていた。

大林監督が長年、掘り下げて来たのも「共時的」映画である。「異人たちとの夏」に代表されるように大林映画は生者と死者が共生する世界である。また山中恒原作の「さびしんぼう」では主人公ヒロキの母タツ子と、彼女の少女時代の姿=さびしんぼう(なんだかへんて子)が同時にそこに存在している。同じく山中恒原作の「はるか、ノスタルジィ」では50歳を過ぎて久しぶりに故郷の小樽に帰ってきた小説家・綾瀬慎介(ペンネーム)が、そこで自分の少年時代の姿・佐藤弘(綾瀬の本名)に出会う。これも「共時的」物語である。

そして令丈ヒロ子はこちらのインタビュー記事で、大林映画「転校生」に触れ、原作「おれがあいつであいつがおれで」を書いた山中恒を”師匠”と呼んでいる

大林映画「時をかける少女」の後日談をアニメーション映画に仕上げ、大林監督が〈映画の血を分けた息子〉と呼んでいる細田守監督が今年完成させた「未来のミライ」もまた、「共時的」アニメーションを志した。しかしこちらの方は残念ながら「若おかみは小学生!」程の完成度の高さには至っていない。

余談だが「共時的」映画の元祖はイングマール・ベルイマン監督「野いちご」(1957)である。そしてフェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2」(1963)がこのジャンルの代表作と言えるだろう。「ベルイマン生誕100年映画祭」に大林監督が寄せたコメント(こちら)で「野いちご」に触れ、〈ベルイマンの発明〉と述べているのは「共時的」表現法のことである。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」(フェデリコ・フェリーニ)

劇場版「若おかみは小学生!」の話に戻ろう。僕が心底惚れ込んだのは、主人公のライバルとなる大旅館の跡取り娘”ピンふり”こと真月(声:水樹奈々)だ。何と言ってもキャラが立っている!〈おっこ vs. 真月〉の図式は明白に、美内すずえの漫画「ガラスの仮面」における〈北島マヤ vs. 姫川亜弓〉の変換だろう。特に真月がスティーブ・ジョブズやトルストイの名言を引用する場面にはやられた。そして最後に引用するのがウォルト・ディズニーというのが泣ける。クーッ、カッケー!

| | コメント (0) | トラックバック (1)
|

映画「アンダー・ザ・シルバーレイク」と〈陰謀論〉について。

大傑作ホラー映画「イット・フォローズ」のデビッド・ロバート・ミッチェル監督最新作ということで劇場に足を運んだ。公式サイトはこちら

評価:B+

魑魅魍魎が跋扈する街ハリウッドを舞台とする、陰謀論の話である。ポスターから既に凝っていて、メッセージ(映画を紐解く鍵)が密やかに忍び込まされている。その一部を切り取った。

Under_the_silver_lake

泡の中にギター、海賊姿の男の顔、ジェームズ・ディーンの顔、風船の女、双眼鏡、JESUSと刻まれた十字架(逆さま)などが隠されている。また髪の毛にはSEXという文字が。

カフェの窓ガラスにスプレーで書かれた落書き"Beware The Dog Killer"(犬殺しに気をつけろ)ではじまる本作の主人公は、夢を抱いて映画の都にやって来たけれど仕事がなく、家賃滞納でコンドミニアムから追い出されそうなヲタク青年(アンドリュー・ガーフィールド;エマ・ストーンと交際していたが2015年に破局した)。「ラ・ラ・ランド」の悪夢版という宣伝文句は言い得て妙で、どちらもグリフィス天文台が登場し、ジェームズ・ディーンが絡んでくる。で、「ラ・ラ・ランド」のふたりはそこから空中浮遊し昇天するのだが、本作の主人公は地底に潜ってゆく。見事に好対照を成している。なお、エマ・ストーンはガーフィールドと別れた後から運に恵まれ、「ラ・ラ・ランド」でアカデミー主演女優賞を受賞した。

本作は完全に映画ヲタク向け仕様であり、普段あまり古典名画を観ない人にはチンプンカンプンかも知れない。前半部はアルフレッド・ヒッチコックに対するオマージュが散りばめられており、双眼鏡での覗きや、美女が登場する瞬間にコマ落としになる演出は「裏窓」、車での追跡や逆ズームは「めまい」、花火は「泥棒成金」といった具合。「イット・フォローズ」のディザスターピース(リッチ・ブリーランド)が作曲した音楽はバーナード・ハーマンを模倣している。映画評論家・町山智浩氏は「めまい」にそっくりだと述べているが、僕はハーマンがオーソン・ウェルズと組んだ「市民ケーン」の方に似ていると想う。で、映画中盤で主人公が古城に住むソングライターを訪ねる場面があるのだが、これ完全に「市民ケーン」の豪邸ザナドゥーね(ここは「オズの魔法使い」だと、町山氏は解説する)。主人公の部屋には「大アマゾンの半魚人」のポスターが貼ってあって、こちらはアカデミー作品賞・監督賞を受賞したギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の元ネタ。フィルム・メーカーに大人気の作品なんだね。後に失踪する美女の部屋で主人公が一緒に観る映画は「百万長者と結婚する方法」で、テレビの横にマリリン・モンロー、ローレン・バコール、ベティ・グレイブルのフィギュアが置いてあるという周到(マニアック)さ。そのブロンドの美女が裸になってプールで泳ぐ場面は、マリリン・モンローの遺作で未完に終わった「女房は生きていた(Something's Got to Give )」の再現。編集されたフィルムは37分しかなく、勿論未公開。いやはや!!あと海賊姿の男は、やはりハリウッドを舞台とするデヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」のカウボーイを変換したものであり、「マルホランド・ドライブ」からも多大な霊感を得ている。だから、自分の部屋に警官と管理人が立ち入るのを別の部屋から主人公が眺める場面で映画は締めくくられるのだが、なんだか幽体離脱みたいで、この語り部は「マルホランド・ドライブ」(さらにその元ネタ、ビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」)同様に、既に死んでいるんじゃないかという仮説も捨てきれない。映画全体を〈腐乱死体が見た夢〉だと解釈すれば、周囲の人々が主人公に対して「臭い!」と嫌な顔をするのも頷ける。まるで迷宮Labyrinth)を彷徨うような映画である。

この監督の前作「イット・フォローズ」で魅了されたのは、なんといっても映像表現である。何だかね、カメラが動いただけで怖いんだ!特にヒロインが廃墟の中で車椅子に拘束されている場面の移動撮影には息を呑んだ。あと360°を超えるパン(撮影技法)とか。つまりキャメラがぐるっと水平方向に一回転して、更に回るなかで劇的な状況変化が起きる。これを観たナイト・シャマランが撮影監督のマイケル・ジオラキスを新作「スプリット」に起用したのも頷ける。そしてジオラキスが続投した「アンダー・ザ・シルバーレイク」の映像も冴えに冴えている。

本作の主人公は妄想性人格障害パラノイヤ(偏執病)と思われる。僕が真っ先に連想したのはスタンリー・キューブリック監督「博士の異常な愛情」でスターリング・ヘイドンが演じたリッパー准将。彼は「水道水フッ化物添加はアメリカ人の体内の〈エッセンス〉を汚染しようとする陰謀だ」と陰謀論を説く。

昔からフリーメーソン陰謀論とか色々あって、子供の頃、日本テレビ「矢追純一UFO現地取材シリーズ」を観ていたら、ケネディ暗殺は「1947年のロズウェル事件で墜落したUFOの生存者グレイ(宇宙人)はアメリカ空軍が管理するエリア51で保護され、そこではUFOの研究が続けられている、と世間に公表しようとしたケネディを邪魔に思った秘密機関MJ-12(マジェスティック・トゥエルヴ)のメンバーたちが首謀者である」という陰謀論を流していた。因みにこのエリア51はスピルバーグの「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」やテレビドラマ「Xファイル」にも登場する。あと、アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」には、ユダヤ人陰謀論が延々と書かれている。正にパラノイヤの産物である。

何故、陰謀論が世間を跋扈するのか?それは結局、人間というものは〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉とか〈我々が生きる目的は何か〉〈我々はどうして死ななければならないのか〉とかを、自らに問わずにはいられない生き物だからだろう。そいう心理過程を経て宗教が誕生した。そして陰謀論は、〈この複雑に糸が絡み合った、混沌とした世界(カオス)を、どうにか単純化して理解したい〉という欲望から生まれたと言える。その根底には存在の不安がある。つまり、

  • 宗教一神教):この世界を創造した人物(=神)を設定(単純化)し、世界の成り立ち(生者必滅の理由など)を理解したい。因果を知りたい。
  • 陰謀論:この世界で起こる全ての問題/事件を、単一の首謀者(人物またはグループ)が計画したことであると単純化し、理解したい。

結局、両者の構造は全く同じなのである。〈全ては偶然の産物に過ぎず、計画者など誰もいない〉という考え方は、どうやら多くの人々にとって我慢ならない、受け入れ難いもののようである。

| | コメント (0) | トラックバック (3)
|

大阪桐蔭高等学校吹奏楽部×映画「ボヘミアン・ラプソディ」奇跡のコラボ!!

まずはこの映像からご覧あれ。→夏の甲子園を盛り上げた大阪桐蔭吹奏楽部が映画『ボヘミアン・ラプソディ』とコラボ!(You Tube)

20世紀フォックスの公式サイトですよ!!信じられる!?明らかにワーナー・ブラザースがヒュー・ジャックマン主演の映画「グレーティスト・ショーマン」で大阪府立 登美丘高校ダンス部とコラボしたこの動画に対抗している。大阪桐蔭吹部の生徒さんたちは幸せだ。一生の宝物になるね。桐蔭は夏の甲子園の応援歌としてクイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を演奏したので、おそらくそのパフォーマンスが映画会社の目に止まったのではないだろうか?なお、MV冒頭はオフ・ブロードウェイのパフォーマンスショー"STOMP"仕立てになっている(動画はこちら)。

Bohemian

さて、今年の全日本吹奏楽コンクール高校の部は関西代表の3校のうち金賞が丸谷明夫先生率いる淀川工科高等学校1校のみで、大阪桐蔭と明浄学院高等学校は銀賞という結果だった。九州代表の3校(玉名女子・精華女子・福工大付城東)が全て金賞だっただけに、悔しい思いが残る。関西の吹奏楽の実力って、こんなものじゃないでしょう?大阪桐蔭が自由曲にデュカス作曲「魔法使いの弟子」を選んだことに対する僕の心情は、関西吹奏楽コンクールの前日に下の記事に綴った。

まぁ今年は桐蔭の野球部が強すぎたし、梅田隆司先生が大好きな「魔法使いの弟子」でもう一度、全国大会に挑みたいというお気持ちもよく分かるのだが……(梅田先生は大阪市立生野中学校と大阪市立城陽中学校の教諭時代にこの曲で全国大会に出場されている)。

それにしても大阪桐蔭の演奏するクイーンは若々しく、溌剌としていて実に素晴らしい。(クラシック音楽ではなく)こういう曲でこそ、彼らの本領は発揮される。特に「ボヘミアン・ラプソディ」の中間部、オペラティックな曲調(スカラムーシュ・ファンダンゴ・ガリレオ・フィガロ)のところで、桐蔭の十八番=合唱になるのが最高だね!胸がスカッとした。当然来年2月の定期演奏会でも聴けると思うが、その際「伝説のチャンピオン」にも合唱を取り入れて欲しいな。切にお願いします。

We are the champions - my frends
And we'll keep on fighting -
till the end -

俺たちは勝者だ!友よ
そして俺たちは戦い続ける
死を迎える日まで

なんて聴いたら、泣いちゃいそう。

大阪桐蔭吹部の生徒さんたちへ。クイーンの曲を演奏する上で映画評論家・町山智浩氏の解説がとても参考になると思うので、是非ご一読ください→こちら

映画「ボヘミアン・ラプソディ」について。撮影中から色々不穏なエピソードが聞こえてきた。実はブライアン・シンガー監督(「ユージアル・サスペクツ」「X-メン」)が休暇後にも現場に戻らず、撮影終了2週間前にして監督を解雇されたと報道された。どうも主演のラム・マレックと衝突していたらしい。シンガーの代理でデクスター・フレッチャーが起用されたが、その時点で主要撮影の3分の2が完了していた為に監督のクレジットはシンガーになったという。またリードボーカルのフレディー・マーキュリーがゲイで、死因がAIDSだということも映画ではっきり言及されていないと風の便りで聞いた。そんなんで本当にまともな作品に仕上がっているのか??疑問は残るが、僕は観に行くつもりだ。

映画の予習として現在、「伝説の証 ~ロック・モントリオール1981&ライヴ・エイド1985 」Blu-rayと「ライヴ・アット・ウェンブリー・スタジアム」DVDを鑑賞中。断然、前者の方がお勧め!まずフィルム撮りなので、画像が綺麗(後者はビデオ撮り)。それから前者は歌詞の日本語訳が字幕になっているのでありがたい(後者は歌っている間に字幕スーパーが一切ない)。

ライヴ映像を観ながら気が付いたのだが、クイーンには「レディオ・ガ・ガ Radio Ga Ga」という曲がある。何と、これがレディー・ガガの名前の由来なんだね!彼女の初期の楽曲に携わった音楽プロデューサーがこの芸名を与えたそう。因みにレディー・ガガ主演の映画「アリー/スター誕生」は大評判で、アカデミー主演女優賞ノミネートが確実視されている。日本では12月21日に公開される。

最後に、AIDSで倒れた芸術家やパフォーマーたちを列記しておく。

  • ロック・ハドソン 1985年死去(映画「ジャイアンツ」「風と共に散る」に出演)
  • マイケル・ベネット 1987年(「コーラスライン」原案/演出/振付、「ドリームガールズ」演出)
  • ジャック・ドゥミ 1990年(映画「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」監督)
  • フレディー・マーキュリー 1991年
  • ハワード・アッシュマン 1991年(ディズニー「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」作詞)
  • ジョルジュ・ドン 1992年(20世紀バレエ団ダンサー、映画「愛と哀しみのボレロ」出演)
  • アンソニー・パーキンス 1992年(映画「サイコ」主演)
  • ルドルフ・ヌレエフ 1993年(ソ連生まれのバレエ・ダンサー)

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

神田沙也加主演 ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の〈正体〉

10月20日梅田芸術劇場へ。ミュージカル「マイ・フェア・レディ」舞台版を人生初観劇した。

この作品との最初の出会いは高校生の時、1980年代である。「雨に唄えば」「サウンド・オブ・ミュージック」などミュージカル映画が大好きになった僕は「マイ・フェア・レディ」のサウンド・トラックLPレコードを購入し、歌詞対訳を見ながら繰り返し聴いた。「スペインの雨」"The Rain In Spain"とか「踊り明かそう」"I Could Have Danced All Night"は英語歌詞を丸暗記した(今でもそらで歌える)。DVDはおろか、レンタルビデオとかレーザーディスク(LD)すらなかった時代である。映画自体を見ることが出来たのは、大学生になってからだった。正直冗長で退屈だった。ロバート・ワイズ監督のような映画的飛躍(編集のキレ)がなく、まるごとセット撮影(ロケ一切なし)で、まるで舞台を観ているかのようだった。

ジョージ・キューカー監督の映画「マイ・フェア・レディ」(1964)にオードリー・ヘップバーンが出演したのは35歳だった。はっきり言って年を取りすぎ、そして痩せすぎ。全く魅力がないヒロインだった。おまけに歌はマーニ・ニクソンによる吹替えである(マーニは「王様と私」のデボラ・カー、「ウエストサイド物語」のナタリー・ウッドの吹替えもしている)。ちなみに1956年にジュリー・アンドリュースがブロードウェイの舞台でイライザを演じたのは20歳の時。製作者ジャック・L・ワーナーは大馬鹿者である(彼はヒギンズ教授役をケーリー・グラントに打診し、けんもほろろに断られている)。

映画「マイ・フェア・レディ」は結局、作品賞・監督賞・主演男優賞(レックス・ハリソン)などアカデミー賞で8部門受賞したが、オードリーはノミネートすらされず、代わって主演女優賞を征したのは「メリー・ポピンズ」のジュリー・アンドリュースだった。ぶっちゃけジュリーの演技は大したことないので、同情票が集まったものと見られる。

この主演女優をめぐる大騒動の結果、後に創られるハリウッド製ミュージカル映画で主演級の俳優の歌に吹替えを使うのは一切なくなった。逆に映画で本人が実際に歌えば、アカデミー賞が受賞し易いという状況が生まれている(「ファニー・ガール」のバーブラ・ストライサンド、「キャバレー」のライザ・ミネリ、「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」のリース・ウィザースプーン、「シカゴ」のキャサリン・ゼタ・ジョーンズ、「ドリームガールズ」のジェニファー・ハドソン、「レ・ミゼラブル」のアン・ハサウェイ)。

映画「マイ・フェア・レディ」にジュリーが出演出来なかったのは痛恨の極みなのだが、もし彼女が役を掴んでいれば逆にスケジュール的に「メリー・ポピンズ」に出演することもなかっただろう。どちらが幸いだったのか、難しいところである。因みに僕は現在、彼女が歌うブロードウェイ・オリジナル・キャスト版とロンドン・キャスト版のCDを所有している。

原作はバーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」。題名はギリシャ神話に基づく。こちらを1938年にレスリー・ハワード主演で映画化したバージョンの方が出来は良い。ちなみにレスリー・ハワードは翌年「風と共に去りぬ」にアシュレー役で出演。43年に彼が乗っていた旅客機をチャーチル首相搭乗機と勘違したドイツ空軍が誤爆し、非業の死を遂げた。

2009年にはキーラ・ナイトレイ主演で映画「マイ・フェア・レディ」のリメイク企画が持ち上がった(記事はこちら)。ヒギンズ教授役はリヴァイヴァルの舞台でも演じたジョナサン・プライスが適役なのでは?と思っていたのだが、結局立ち消えになった。そして2014年、周防正行監督の映画「舞妓はレディ」は極めて質の高い「マイ・フェア・レディ」のパスティーシュであった。

以前から舞台版を是非観たいと希っていたのだが、大地真央が花売り娘イライザ役を長年牛耳っていたので、全く行く気になれなかった。彼女が演じ始めたのが34歳の時で、結局54歳まで続けた。言語道断である。恐らくギネスブックに申請すれば世界最年長記録であろう。ババアのイライザなんか絶対嫌だ。

大地真央の次に抜擢されたのは霧矢大夢真飛聖。どちらも宝塚男役トップスター出身であり、やはり年を取りすぎていた。

僕は待ち続けた。そして神田沙也加出演の報を聞き、漸く「時は来た!」と快哉を叫んだのであった。

Kanda

翻訳/訳詞/演出:G2

出演は神田沙也加、別所哲也、相島一之、今井清隆、平方元基、前田美波里ほか。

僕は神田沙也加が初舞台を踏んだミュージカル「INTO THE WOODS」(宮本亜門演出)を2004年6月に東京の新国立劇場中劇場で観ている。赤ずきんちゃん役で、未だ17歳だった。

彼女のイライザは素晴らしかった!すっごく可愛いし、はっきり言ってオードリー・ヘップバーンより断然いい。歌も、映画吹替えのマーニ・ニクソンを上回っていた。「踊り明かそう」のナンバーは柔らかくしっとり歌い上げ、イライザのレディとしての覚醒を見事に表現していた。パーフェクトである。長年待った甲斐があった。また今井清隆のドゥーリトルははまり役だったし、歌わない前田美波里も気品と威厳があって素敵だった。

ポスターでも分かる通り、衣装はブロードウェイ版及び、映画で美術・衣装デザインを担当したセシル・ビートン(アカデミー賞ダブル受賞)のデザインを踏襲している。例えばアスコット競馬場の場面は全員の衣装が白黒のモノトーンで統一されているといった具合。

実は、映画「マイ・フェア・レディ」を初めて観たときから、僕はモヤモヤとした違和感、腑に落ちない〈何か〉が気にかかっていた。この居心地の悪さの正体は、一体……?

本作はしばしば世間で〈ロマンティック・コメディ〉と称されるが、それは果たして本当だろうか?そもそもイライザとヒギンズは恋愛関係なの??劇の終盤、戻ってきたイライザに対してヒギンズは"Where the devil are my slippers?"(私のスリッパは一体どこにある?)と言うのだが、それって〈愛の告白〉ですか???少なくとも〈将来の妻〉に対して言う台詞ではないだろう。

30年以上抱えていた問いに対して、明快な解(かい)を見出したのは、つい最近のことである。

この物語の中で非常に不可解なのはピッカリング大佐の存在である。ヒギンズとピッカリングは共に〈独身主義者 bachelor〉であり、意気投合したふたりは一緒に暮らし始める……。そうか!彼らはゲイカップルで、最後にイライザを養女として迎え入れる。そう解釈すればすべての謎が氷解する。つまりミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」と同じ構造なのだ。娘に「スリッパはどこだ?」と訊ねるのなら、不自然じゃない。

そして映画版の監督ジョージ・キューカーとセシル・ビートンはゲイだった。成る程、繋がっている。

最後に。今後イライザとして観たい日本のミュージカル女優たちの名を挙げておこう。

  • 昆夏美
  • 木下晴香
  • 高畑充希
  • 上白石萌歌

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

究極のカルト映画「ピクニック at ハンギング・ロック」の衝撃と、ドリームタイム

ピーター・ウィアーが監督したオーストラリア映画「ピクニック at ハンギング・ロック」は豪州で1975年に封切られ、日本公開は11年後の1986年4月だった。有名な役者が出ているわけではないし、そもそも本邦で上映される予定はなかった。

Picnicathangingrock

状況に変化が生じたのはウィアーがハリウッドに渡り、ハリソン・フォード主演で「刑事ジョン・ブック 目撃者」を撮ったことに端を発する。日本公開が1985年6月22日。アカデミー賞では作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞・作曲賞・撮影賞・美術賞・編集賞の8部門でノミネートされ、脚本賞・編集賞の2部門を受賞した。つまり「目撃者」が高く評価され、有名になったおかげで過去の出世作が発掘されたというわけだ。

僕は「目撃者」を映画館で観て甚く感銘を受けた。「ピクニック at ハンギング・ロック」については日本公開当時にキネマ旬報の特集記事を読んだ。そこに書かれていたのは〈1900年の聖バレンタインデー。オーストラリアにある寄宿学校の女生徒たちが山にピクニックに出かけ、失踪するという実際に起った事件に基づいている。しかし最後まで真相は明かされない難解な映画〉といった内容だった。この紹介文に尻込みし、結局鑑賞するのを見合わせた。

30年以上の時を経て、「ピクニック at ハンギング・ロック」はすっかりカルト映画の仲間入りをした。そしてつい先日、WOWOWで放送されたのを機会に初めて観て、雷に打たれたような衝撃を受けた。打ちのめされた。なんて素晴らしい作品なんだ!巷の評判を信じた僕が大馬鹿だった。間髪入れず充実した特典ディスクが付いたBlu-rayを購入した。

ピーター・ウィアーの作品はこれまでに「危険な年」「目撃者」「モスキート・コースト」「いまを生きる」「トゥルーマン・ショー」「マスター・アンド・コマンダー」と観てきたけれど、紛れもなく「ピクニック at ハンギング・ロック」こそが彼の最高傑作であり、それだけに留まらずオーストラリア映画史上のベスト・ワンだと断言出来る。「マッドマックス」なんか目じゃない。

Directors

インターネット上で検索すると、未だに本作が実話だと信じている人が少なくないのだが、明らかに間違いである。特典ディスクに原作者ジョーン・リンジーのインタビューが収録されているが、彼女はTrue storyだなんて一言も言っていない。また映画の最後にも〈この作品はフィクションです。もし実在の人物・団体と類似していたしても、全くの偶然です。〉とクレジットされる。

1998年、本作がクライテリオン・コレクションとしてDVDで発売された時、映像も音もブラッシュアップされディレクターズ・カット版として生まれ変わった。非常に高画質だ。そして驚くべきことに、再編集によりオジリナル版よりも7分短くなったのである(大抵は長くなる)。Blu-rayにはオリジナル版も収録されているのだが、正直カットされたシーンは確かに蛇足であり、再編集版の方が引き締まって更に良くなっている。特典映像にはヒロイン・ミランダ役:アン・ランバートのコメントが入っていて、「公開されたら映画は観客みんなの共有財産よ。たとえ監督といえども手を加える権利なんか無いわ。短くするなんて!!」と激怒しているので、笑ってしまった。逆に同級生イルマ役のカレン・ロブソンは監督から手紙を貰い、彼女の出演場面を新たにカットした理由が述べられ、「決して君の演技が拙かったわけじゃないんだ」と書き添えられていたそうで、まんざら嫌でもなさそうだった。

神隠し(Spirited Away)に遭った女学生ミランダは、言わば美の化身として描かれている。劇中、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に喩えられるし、彼女の姿と白鳥が二重写しになったりもする。ルッキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」(1971)の少年タッジオみたいなものだ。

究極の美は手が届かない存在だ。「ベニスに死す」の主人公・作曲家アッシェンバッハは最後にタッジオに向けて手を伸ばすが、触れることは叶わない。また「ピクニック at ハンギング・ロック」の校長室に飾られた、英国のフレデリック・レイトン男爵が1895年に描いた絵画「燃え上がる6月(Flaming June)」がとても印象的だ。

Flaming_june

右奥に配置されたキョウチクトウには毒性があり、微睡みから死への移ろいの可能性を示唆している。また遠景に見えるのはエーゲ海に浮かぶロードス島である。

映画に於いてこの絵は、イギリスからの植民者の末裔である女学生たちの、19世紀ヴィクトリア朝時代の堅苦しい宗教的・道徳的拘束(手袋、コルセットなど)からの開放を象徴している。

彼女たちは何処に消えたのか?「町山智浩の映画ムダ話」を聴いて、そのヒントが後年ピーター・ウィアーが撮った豪州映画「ザ・ラスト・ウェーブ」(1977、日本未公開)にあることを知り、早速Amazon.co.jpからDVDを取り寄せて観た。

Thelastwave

〈黒い雨や大粒の雹(ひょう)が降るなど異常気象が続くオーストラリア。先住民・アボリジニ同士の殺人事件を担当することになった白人弁護士(リチャード・チェンバレン)は、大陸が津波に襲われ水没する予知夢に連夜悩まされていた……。〉

主人公がアボリジニ文化を研究するウィットバーン博士を訪ねる場面があるのだが、その博士を演じるのは「ピクニック at ハンギング・ロック」で女生徒たちと共に蒸発したマクロウ先生役ヴィヴィアン・グレイである。彼女はアボリジニ独特の考え方「ドリームタイム(夢の時)」について解説する。アボリジニは(我々が知覚出来る)現世と、ドリームタイムという、並行する二つの世界を同時に生きている。彼らにとってはむしろドリームタイムの方が本物(real)なのだ。ドリームタイムは無限の、精霊(Spirit)の周期であり、彼らには”時間”(過去→現在→未来という不可逆的流れ)という概念がない……。

つまり「ピクニック at ハンギング・ロック」の失踪した女生徒とマクロウ先生は、ドリームタイムの世界に移行した、と解釈すれば全ての謎が氷解する。ハンギング・ロックで時計が止まった理由や(ドリームタイムには過去→現在→未来という流れがない)、巨大な石がトーテム(象徴)としてドリームタイムへの入口となったこと、等々。

「ピクニック at ハンギング・ロック」にアボリジニは一切、登場しない。しかしハンギング・ロック(岩)そのものと、そこに登場するトカゲや鳥など動物たちがアボリジニのメタファーなのである(ドリームタイムの中で彼らは他の動物に変容・転生する能力を持つと神話は語る)。それは白人文化とアボリジニ文化との衝突を意味している。劇中で繰り返し、「少女たちは誰かにレイプされて殺されたのではないか?」という問いが発せられるが、そこに白人たちの、「我々が蹂躙・虐殺したアボリジニの人々から、いつか復讐されるのではないか?」という恐怖心・潜在意識が反映されている。〈異文化との遭遇〉という主題は後にウィアーが監督した「刑事ジョン・ブック 目撃者」で再び取り上げられることになる。

こうして考察していくと、2年後に公開されたスティーヴン・スピルバーグ脚本・監督の「未知との遭遇」(1977)が、「ピクニック at ハンギング・ロック」から多大な影響を受けていることが判る。岩山がトーテム(象徴)の役割を果たしていること(異次元との接触点)、失踪した人々のうち帰還する者もいるが、主人公ロイ(リチャード・ドレイファス)は家族を捨て、あっちの世界に行ったきりになってしまうなど、はっきり言って、物語の構造は全く同じである

「ピクニック at ハンギング・ロック」で、イギリスから叔父の家に遊びに来ていた青年マイケルはミランダに一目惚れし、捜索にも参加する。彼が湖畔でミランダの幻を見る場面には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章が静かに流れる。実は映画「いまを生きる」にも「皇帝」第2楽章が登場する。アメリカ・バーモント州にある全寮制学院ウェルトン・アカデミーに就任した英語教師(ロビン・ウィリアムス)がロンドンに残してきた妻の写真を見ながら、彼女に手紙を書くシーンだ。つまり男性が遠く離れた女性を想う時、「皇帝」が流れるという法則がウィアーにはあるようだ(全寮制の学校が舞台となり、生徒のひとりが自殺するという状況も両者に共通している)。ちなみに彼が監督した「フィアレス」では「皇帝」の第3楽章が使用されているらしい。どんだけ好きなんだよ!!

また寄宿学校の校長室には英国の画家ハーバート・トーマス・ディックシーが1900年に描いた"The Watcher on the Hill"も飾られている。

Watcheronthehill

この虎はまるで、ドリームタイムに無断で侵入しようとする余所者を入り口で見張っている番人のようだ。校長先生はこれに拒絶され、崖から突き落とされたのだろう。

町山氏からドリームタイムという言葉が飛び出した時、武満徹(1930-1996)が「夢の時(Dreamtime)」というオーケストラ曲を書いていることを直ちに思い出した。調べてみると案の定、アボリジニの概念を題材にした作品だった。

俄然興味が湧いた。もっともっと詳しく知りたい!こうなったら徹底的にドリームタイムについて勉強してみよう。そう僕は決意したのだった。

続く To Be Continued...

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

クワイエット・プレイス

評価:B+

Quiet

映画公式サイトはこちら

「音を立てたら、即死。」というキャッチコピーが秀逸。良く出来たB級ホラーである。

襲ってくるモンスターは聴覚が異様に発達しているが、目は全く見えない。このゲームのルールは、盲目の退役軍人の家に窃盗目的で忍び込んだ若者たちの恐怖体験を描く映画「ドント・ブリーズ(息をしないで!)」の構造を踏襲している。

Dont
↑ポスターも似てるでしょ?

あと車に閉じこもった姉と幼い弟をモンスターが襲い、屋外にいる大人が彼らをなんとか助けようと奔走するという展開はまんま「ジュラシック・パーク」である。

映画の9割以上はサイレント(無声)であり、また「大草原の小さな家」みたいなアメリカ開拓史ものを彷彿とさせる。つまり襲ってくるモンスターは、狼や熊、アメリカ原住民(虐げた彼らからいつか復讐されるんじゃないかという、植民者が抱く恐怖)のメタファーとも解釈出来るだろう。

TBSラジオ「アフター6ジャンクション」の映画時評コーナーで、パーソナリティーのRHYMESTER 宇多丸が「あの一軒家に灯る電気はどこから来ているんだ?」とツッコミを入れていたが、自家発電なんじゃないかな。アメリカにはそういう家庭が多いと聞く。「大草原の小さな家」をベースにした倉本聰「北の国から」でも、黒板五郎(田中邦衛)が自作した風力発電機を動かす場面があるしね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)
|

プーと大人になった僕

評価:B+

Christopherrobin

公式サイトはこちら

極上とは言えないが上出来。前提としてディズニー・アニメ「くまのプーさん」(2011年版)を観ておいた方がbetterだろう。実質的な続編となっている。それに1977年の「くまのプーさん 完全保存版」が加わればperfect。この2作にエピソードの重複はない。

プーさんはいわば、惚けたおっさんだ(フーテンの寅さんに近い)。昔の言葉で言えば「うつけ者」。でもそこに味がある。理性的に考え、合理的生活を送る都会人が見失ったものが、彼や「100エーカーの森」の住人たちにはしっかり見えている。

7歳の息子と一緒に日本語吹き替え版を鑑賞。クリストファー・ロビン役を吹替した堺雅人の声はピッチが高いので、ユアン・マクレガーの声とのギャップになかなか馴れなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (1)
|

マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー

評価:F

Mammamia

救いようのない駄作。久しぶりに地雷を踏んだ。前作のレビューはこちら

一作目同様ABBA(アバ)の歌が全編に散りばめられたジューク・ボックス・ミュージカルだが、表題曲「マンマ・ミーア」のみならず、「アイ・ハヴ・ア・ドリーム」「サンキュー・フォー・ザ・ミュージック」など楽曲の重複が多過ぎ。物語のバカバカしさは前作を遥かに上回っている。くだらん。死ぬほど退屈した。

コリン・ファースやピアーズ・ブロスナンは歳をとったなぁ。もうお爺ちゃんだ。考えてみれば前作から10年経過している。

僕が今回注目していたのが、ディズニー実写版「シンデレラ」のヒロインを射止めた、英国が世界に誇る絶世の美女リリー・ジェームズがどれくらい歌えるのか?ということ。結論から言うとドナ役メリル・ストリープよりはマシ、ソフィー役アマンダ・セイフライドには及ばずといったところかな。まぁ、そこそこね。

それにしてもメリル・ストリープの若い頃がリリー・ジェームズという設定はいくら何でも無理がある。年齢的にメリルが「ディア・ハンター」に出ていた頃だぜ!?

Meryl_streep James

| | コメント (0) | トラックバック (1)
|

より以前の記事一覧