Cinema Paradiso

35年目の奇跡〜「ブレードランナー2049」、あるいは頭脳の映画。

評価:AA (最高評価はAAA

Bladerunner2049

リドリー・スコット監督「ブレードランナー」が日本で公開されたのは1982年。僕は高校生だった。ダグラス・トランブルが手がけた特撮シーンがテレビの映画紹介で放送され、その映像美に魅了された。是非観たいと想ったのだが、何しろ当時は大学受験を控える身。映画に関しては禁欲生活を送っていたので断念した。そして大学に合格し、漸くレンタルビデオで観ることが叶った。本作は北米公開も日本でもコケて、映画館はガラガラだったという話を聞いたが、85年くらいには「カルト映画」として確固たる地位を得て、その後の世界に(敢えて「映画」とは言わない)多大な影響を与えた。

さらにレーザーディスクLDで劇場公開版より2分長い《完全版》を観て、公開10周年を記念し監督の本意ではなかったナレーションやラストの車での逃避行(キューブリック「シャイニング」未使用映像の流用)を省き、ユニコーンのシーンを追加した《ディレクターズ・カット/最終版》DVDを購入。そして現在我が家には公開25周年に再び監督自身の総指揮によって編集された《ファイナル・カット》Blu-rayがある。結局4ヴァージョンを観たことになる。

ヴァンゲリスの音楽も大好きで、特に最後に流れるテーマ曲はクールで最高だった!しかし当初市場に出回っていた「サントラ盤」と称す代物はヴァンゲリスによるシンセサイザーではなく、ニュー・アメリカン・オーケストラという謎の交響楽団によるしょぼい演奏(カヴァー)だった(勇気があったら聴いてみやがれ!→こちら。どうだ!!参ったか)。

New

89年になって漸く「ザ・ベリー・ベスト・オブ・ヴァンゲリス」(Themes)というCDにオリジナル版の”エンド・タイトル”と”愛のテーマ”のみが収録された。シンセサイザーによる全曲が聴けるには、さらに94年まで待つ羽目になる。そんな紆余曲折があった。

「ブレードランナー2049」は第1作公開から実に35年ぶりの続編であり、物語としては30年後の世界を描いている。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は当初、音楽を朋友ヨハン・ヨハンソン(「ボーダーライン」「メッセージ」)に託したが、よりヴァンゲリスの音楽に近づけたいという監督の意図でヨハンソンは途中降板することになり、ハンス・ジマー&ベンジャミン・ウォルフィッシュが代打した。ここで謎なのはヴァンゲリスは未だ健在(74歳)なんだよね。何で本人がやらないんだろう??厄介な人だ。

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はスタンリー・キューブリックの作品を【頭脳の映画】だと評している(対して、ゴダールやカサヴェテスは【身体(からだ)の映画】)。

キューブリックにおいては世界そのものが頭脳であり、『博士の異常な愛情』の輝く円形の大テーブル、『2001年宇宙の旅』の巨大なコンピューター、『シャイニング』のオーヴァールック・ホテルのように、頭脳と世界との同一性が成立している。『2001年』の黒い石は、宇宙の諸状態をつかさどるとともに、頭脳の諸段階をつかさどる。それは地球、太陽、月という三つの天体の魂であり、動物、人間、機械という三つの頭脳の胚珠でもある。キューブリックが秘儀伝授的な旅のテーマを革新したとすれば、それは、世界のあらゆる旅が、頭脳の探求であるからだ。(中略)『2001年』の終わりでは、まさに四次元にそって、胎児の領域と地球の領域は、計り知れない未知の新しい関係の中に入る幸運にめぐまれ、それが死を新たな生へと転換することになる。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

ドゥルーズの理論を応用すると、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品も【頭脳の映画】だと言える。アカデミー外国語映画賞にノミネートされた「灼熱の魂」(2010)に登場する双子の姉弟は、亡くなった母親の脳内(記憶)を探る旅に出る。またジェイク・ギレンホール主演「複製された男」(2014)は、一人の男の頭の中で展開される物語だ。彼はアダムという人格と、アンソニーという人格を分離させる。ドッペルゲンガー/二重身である。アダムは真面目で禁欲的な大学の講師。一方のアンソニーは売れない役者で、欲望のまま生きる(欲動イメージ)。映画の最後に主人公は脳内でアンソニーを殺す。アダムが生き残るが、彼の手元にふたたび誘惑者から鍵が送られてくるのだ(欲動の再起動)。それを監視するのが蜘蛛(主人公を抑圧する母親/妊娠した妻の隠喩)である。しかし結局、蛇(サタン)にそそのかされたアダムはリンゴ(知恵の実)を齧るだろう……。

昨年度アカデミー作品賞/監督賞にノミネートされた「メッセージ(Arrival)」の場合はどうだろう?これも言語学者であるヒロイン(エイミー・アダムス)の頭の中で起こった出来事と解釈可能だ。地球に飛来する”はかうけ”に似た宇宙船は「2001年宇宙の旅」における黒い石(モノリス)と同じ役割を果たす。それは彼女の過去ー現在ー未来を結び、現動化し、円環を成す。物事には始まりもなければ、終わりもない。彼女の生成変化を象徴するのが宇宙船の中にいる地球外生命体(ヘプタポッド)が使用する文字=円環構造だ。

「ブレードランナー2049」の主題となるのは一人のアンドロイド=レプリカント"K"の脳内で起きた生成変化だ。彼はピノキオのように「人間になりたい」と願う。物言うコオロギ、ジミー・クリケットの如く、彼の心の旅のお供をするのはホログラフィーAIのジョイ(Joy:歓び)。そこには【人間とは何か?】という一つの問いがある。そして最後に"K"は知る。人になるとは、まず自分ひとりだけの大切な記憶(秘密)を持つこと。そして誰かのために自分の命を投げ打っても構わないと思うこと。誰かに何かを残すこと。……何だか切ないね。ここで流れるのが何と、前作の音楽"Tears in Rain"。これには、してやられた!ピノキオを夢見るアンドロイドと言えばキューブリックの遺志をスピルバーグが継いだ「A.I.」だが、この回帰も偶然ではないだろう。ちなみに「A.I.」の主人公の少年の名はデヴィッドで、リドリー・スコットが監督した「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」に登場するアンドロイドもデヴィッド。これも意図的な所業だ。

「ブレードランナー2049」がロシアのアンドレイ・タルコフスキー監督の映画(具体的には「惑星ソラリス」「ストーカー」「サクリファイス」)を引用していることは沢山の識者が言及していることなので、ここで繰り返さない。代わりに誰も気がついていないことを指摘しておこう。

ホログラフィーAIジョイちゃんはレプリカントの娼婦(セクサロイド)マリエッティを雇い、同期する(Kと性交するために)。二人の女が立体的に重なる。これは完璧にイングマール・ベルイマン監督「仮面/ペルソナ」へのオマージュである。「仮面/ペルソナ」で二人の女は顔の右半分と左半分がくっついて合体するのだが、21世紀的手法を用いているのが本作のミソ(2D→3Dへ)。因みにヴィルヌーヴは「複製された男」でも「仮面/ペルソナ」を引用している(蜘蛛=世界を支配し、絡め取る者)。

あと2回目の鑑賞(TOHOシネマズ2D、1回目はIMAX 3D)でアッと想った。本作でハリソン・フォードは映画の終盤でしか登場しないのだが、これって「地獄の黙示録」のカーツ大佐みたいだね。主人公が暗殺の密命を帯びているのも共通している。そこで調べてみると案の定、ヴィルヌーヴ監督が「灼熱の魂」で、彼のお気に入りの「地獄の黙示録」オープニング・シーンを意識したというインタビュー記事を発見した→こちら!しかもハリソン・フォードは「地獄の黙示録」に出演している。あとジョイちゃんの巨大広告の場面はやはりコッポラが監督した「ワン・フロム・ザ・ハート」のナスターシャ・キンスキーね。公開年が初代「ブレラン」と同じ82年で、ラスベガスが舞台になっているのも一致する。

レイチェルとは旧約聖書に登場するラケル(Rachel)の英語読みである。前作ではあまり関係なかったのに、本作では旧約聖書の物語が重要な意味を帯びてくる。また新しい王(イエス・キリスト)がエルサレムに生まれたと聞き怯えたユダヤのヘロデ王が2歳以下の男児を皆殺しにするよう命じた新約聖書の物語も絡んでくる。こうして「ブレードランナー2049」は神話になった。

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女神の見えざる手

評価:A+

Misssloane

映画公式サイトはこちら。原題"Miss Sloane"とはヒロインの名前である。

むっちゃくちゃ面白い!大興奮した。僕が知る限り、アメリカのロビイストを主人公にした映画は本作が初ではないだろうか?ジェシカ・チャステインがお洒落で、超格好いい!!姐さん、地獄の果てまででもお供しますぜ。彼女が本作でアカデミー主演女優賞にノミネートされなかった事実が全く信じられない。ジェシカ、来年はきっと取れるよ("Molly's Game")。

「恋におちたシェイクスピア」(1998)のジョン・マッデン監督がテンポよく、卓越した仕事をした。「恋におちたシェイクスピア」がアカデミー作品賞を受賞したのは、今や評判が地に落ちハリウッドから追放されたプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインがアカデミー会員を買収したからだと巷では公然と噂されているが、そんなことはないと僕は信じてるよ。貴男には才能がある。でも同作でグィネス・パルトロウがアカデミー主演女優賞に輝いたのは100%間違いなく裏で積まれたワインスタイン・マネーのお陰だろう。だって彼女、演技らしい演技してないもん。

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エタニティ 永遠の花たちへ

評価:A

フランス=ベルギー合作映画。原題はÉternité。公式サイトはこちら

Postereternity

トラン・アン・ユン監督(1962- )はベトナム生まれだが、12歳のときベトナム戦争を回避して家族でフランスの移住した。そういう意味で長崎に生まれ、5歳でイギリスに渡ったカズオ・イシグロに境遇が似ている。

アカデミー外国語映画賞にノミネートされたデビュー作「青いパパイヤの香り」(1993)は1951年のサイゴン(現ベトナムのホーチミン市)を舞台にしているが、全編がフランスで組んだセットで撮られた。そしてこれは庭の映画であった。

「エタニティ」も庭の映画である。物語の大半は室内と庭で展開される。主役のオドレイ・トトゥ(アメリ、ロング・エンゲージメント)は10代から老年期まで演じるが、自宅と教会以外に彼女が外に出ることは一切ない

母→娘→孫へと連なる悠久の時。その中で繰り返される生と死(ニーチェの言う「永劫回帰」)。さらに処女作への回帰。喜びや悲しみを感じる一瞬に永遠(Éternité)はある。

ユン監督の「ノルウェイの森」は余り評判が芳しくなかったが、僕はとっても好きだった。「エタニティ」もそうで、特に欧米での評価は惨憺たるものである(例えばインターネット・ムービー・データベースの評価は10点満点で5.6点。「ノルウェイの森」は6.4点、「青いパパイヤの香り」は7.4点)。多分それは彼らがキリスト教文化であることと無関係ではないだろう(ニーチェはイエス・キリストの教えを否定した)。本作の核(コア)は流転・転生にあり、実にアジア的発想なのだ。

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映画「ドリーム」レビューと、邦題が起爆剤となった大炎上について

評価:A

Hiddenfigures

映画公式サイトはこちら

原題は"Hidden Figures"つまり「隠された姿」という意味で、NASAでアポロ計画に先立つマーキュリー(有人宇宙飛行)計画に携わった3人の黒人女性にスポットライトを当てる。アメリカ本国で興行収入は「ラ・ラ・ランド」を上回ったという。アカデミー作品賞ノミネート。また全米俳優組合賞では作品賞に該当するキャスト(アンサンブル演技)賞を受賞した。

元々日本の映画宣伝部が考案したのは「ドリーム 私たちのアポロ計画」だった。

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ところがこの邦題を巡ってSNSで大炎上!「マーキュリー計画」なのに「アポロ計画」は変じゃないかと抗議が殺到したのである。「マーキュリー計画」は日本人に馴染みがないというのが宣伝部の言い分だった。事態は一向に収まる気配がなく、結局タイトルはシンプルに「ドリーム」に変更となったのである。ネット民の一方的勝利であった。しかし「ドリーム」じゃ全く意味不明だな。まぁ一時期は日本公開も危ぶまれていただけに、たとえ炎上商法であろうが話題になることは良いことだ。やはりアカデミー作品賞にノミネートされたデンゼル・ワシントン製作・監督・主演「フェンス」は本邦で劇場未公開のままビデオ(DVD)スルーとなってしまったのだから。

「マーキュリー計画」を描いた映画では「ライトスタッフ」(1983)という不朽の名作があるので、未見の方には是非是非ご覧になることをお勧めしたい。

「ドリーム」は兎に角、痛快な実話である。胸がスカッとする。女性映画として極めて上等といえるだろう。

ケビン・コスナーを本当に久しぶりに見た!調べてみると僕が最後に観た彼の映画が1994年の「ワイアット・アープ」だから、実に23年ぶり。昔は嫌いだったけど、脇に回って味が出てきた。

本作の男たちは「前例がない」と口々に言い、女性・黒人に対する差別を平然と続ける。しかし「前例」は自分たちで作り、歴史に名を刻めばいいと映画の作者たちは力強く語るのだ。カッケー!

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【増補改訂版】近・現代芸術を理解するための必読書 その2

これは、過去に書いた記事

の続編となる。今回まず、お薦めしたいのは臨床心理学者・河合隼雄による一連の著作である。

そもそも河合の名前を初めて知ったのは2016年夏に兵庫芸文で上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の夢」について勉強している時だった。ことの詳細は下記に書いた。

河合と翻訳家・松岡和子との対談、「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)は目から鱗の連続だった。特に「夏の夜の夢」が意識↔無意識の4層構造になっているという解釈はまるでクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」みたいで新鮮だった。調べてみると河合は、村上春樹や小川洋子、遠藤周作、安部公房ら小説家、ノンフィクション作家・柳田邦男、詩人・谷川俊太郎、宗教学者・中沢新一、脳科学者・茂木健一郎ら錚々たるメンツと対談本を上梓していることが判明した。その後夢中になって彼の著作を読み漁った。

僕は生まれてこの方、2,700本以上の映画を観てきた。膨大な数だ。どうしてこれほどまでにフィクションに魅了されるのか、自分でも不思議だった。過去には次のような記事も書いた。

「博士の愛した数式」で有名な小説家・小川洋子は二十代半ばでデビューした当時、「なぜ小説を書くのですか」とインタビューで問われる度に明確な回答が出来ず、その質問が苦痛でならなかったという。しかし河合隼雄の著作を読み、物語というものの解釈に出会って彼女の目の前に立ち込めていた霧が晴れた。河合と小川の共著「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)に小川が書いたあとがきから引用する。

物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。(中略)内面の深いところにある混沌は理論的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

まさにこれこそが、河合隼雄から僕が学んだことである。

現在までに彼の著書を30冊読んだが、お勧めのベスト5を挙げておく。

  • 無意識の構造(中公新書)
  • 母性社会日本の病理(講談社+@文庫)
  • 昔話と日本人の心(岩波現代文庫)
  • 快読シェイクスピア 増補版(ちくま文庫)
  • 神話と日本人の心(岩波現代文庫)

「母性社会日本の病理」や「昔話と日本人の心」を読み、如何に自分がイザナギ・イザナミ・アマテラス・ツクヨミ・スサノオなど日本の神話のことを知らないかを思い知らされた。理由のひとつには学校教育で教わらないということもあるだろう。第2次世界大戦において、日本の神話は軍部に利用された。それへの反省もあり、また日本神話は天皇制に結びつくということもあって、日教組から徹底的に嫌悪され教育現場から排除された。河合がスイスのユング研究所での留学を終えて帰国してからも暫くの間、神話の話など持ち出そうものなら「この右翼め!」と袋叩きに合いそうな雰囲気だったので、口を閉ざしていたという(1960年代は安保闘争や学生運動が花盛りだった)。

しかしキリスト教を知らなければ欧米人のものの考え方を理解出来ないように、日本の神話や昔話を知らずして、日本人の深層心理、無意識の在り方に到達することなど到底不可能なのではないだろうか?「君の名は。」の新海誠監督も日本の昔話や神話、万葉集、古今和歌集などを読み、創作の参考にしていると語っている→こちら

ユング心理学を応用すれば、こんな解釈も可能だということを示したのが以下の記事である。

深層心理学は自然科学とは異なり、客観性よりも主観が大切である(故に「科学じゃない」という批判もある)。それは自己(self)の問題であり、物語の読解に実に役立つのである。

もう一つ挙げたいのはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」だ。

フロイトやユングの打ち立てた心理学はニーチェ哲学を土台にしているし、「ツァラトゥストラ」を通して、映画「2001年宇宙の旅」「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」「攻殻機動隊」「魔法少女まどか☆マギカ」「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」などが何を物語ろうとしているのか、一層深く読み取れるだろう。

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「エイリアン:コヴェナント」を観る前に知っておくべき幾つかの事項

評価:A

Aliencovenant

映画公式サイトはこちら

まず事前に知っておくべきこと。宣伝では隠されているが、「エイリアン:コヴェナント」は紛れもなく「プロメテウス」の続編である。

「プロメテウス」を知らなくとも本作を愉しめるが、知っていれば一層理解が深まるだろう。どうして隠すのか?それは興行成績を上げるため。続編だと世間が認知すれば、前作を観ていない人が映画館に行くのを躊躇するリスクがある。鈴木敏夫プロデューサーも押井守監督「イノセント」が「攻殻機動隊」の続編であることを隠してヒットに導いた。

「プロメテウス」の物語を要約すると、【わざわざ人間の創造主(=エンジニア)を訪ねて行ったら、まともに対話すら出来ない、手が付けられない暴れん坊だった】ということになるだろう。そしてリドリー・スコット監督が言いたいのは【そんなロクデナシの神なんか殺っちまえ!】といったところ。【神は死んだ】と説いたニーチェ哲学に繋がっている。

今回映画冒頭で、前作にも登場したアンドロイドのデイヴィッドの名前の由来がミケランジェロの”ダビデ像”(の英語読み)であることが明らかになる。ダビデとは古代イスラエルの王のこと。

デイヴィッドはパーシー・ビッシュ・シェリーの詩「オジマンディアス」を諳んじる。

I met a traveller from an antique land
Who said: “Two vast and trunkless legs of stone

Stand in the desert. Near them, on the sand,
Half sunk, a shattered visage lies, whose frown,
And wrinkled lip, and sneer of cold command,
Tell that its sculptor well those passions read
Which yet survive, stamped on these lifeless things,
The hand that mocked them and the heart that fed:
And on the pedestal these words appear:
‘My name is Ozymandias, king of kings:
Look on my works, ye Mighty, and despair!’
Nothing beside remains. Round the decay
Of that colossal wreck, boundless and bare
The lone and level sands stretch far away.”

私は古(いにしえ)の国から来た旅人に会った

彼は言った「胴体のない巨大な石の足が2本
砂漠に立っている その近く
半ば砂に埋もれ 砕けた顔が転がっている しかめっ面で
唇をゆがめ 冷やかに命令を下すように嘲笑している
この彫師たちにはよく見えていたのだ
それらの表情は命のない石に刻まれ
彫った者やモデルとなった者が事切れた後も生き続けると
台座には次のように記されている
『我が名はオジマンディアス 王の中の王
全能の神よ 我が為せる業を見よ そして絶望せよ!』
ほかには何も残っていない 
この巨大な残骸の周囲には
寂しく平坦な砂漠がただひたすらに広がっているだけだ」

(雅哉 訳)
 無断転載禁止!

オジマンディアスとはエジプトのファラオ、ラムセス2世のこと。またこれを書いた詩人の妻はメアリ・シェリー、小説「フランケンシュタイン」の作者だ。アンドロイドはいわば【フランケンシュタインの怪物】の末裔である。

人類に火をもたらしたギリシャの神Prometheusが前作の宇宙船の名前だったように、宇宙船Covenant号は「誓約・聖約」という意味であり、神と人の間に交わされる神聖な約束のこと。

本作の企画が発表された当初は"Alien : Paradise Lost"という副題がついており、本編にもミルトンの小説「失楽園(Paradise Lost)」からの引用がある。

Better to reign in Hell, than serve in Heaven.

天国で神に仕えるよりは、地獄で王になる方がマシだ。

ミルトンの「失楽園」は「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」のモチーフにもなっている。神に叛逆し堕天使となったルシファー(悪魔)が復讐を果たす物語である。

デイヴィッドはピアノでワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」から”ヴァルハラ城への神々の入場”を弾く。「ニーベルングの指環」は神々の黄昏人類の黎明を描いており、宮﨑駿「崖の上のポニョ」とも関係が深い。

また宮崎アニメ関連で言うと、「耳をすませば」で使用された歌”カントリー・ロード(Take Me Home, Country Roads)”が「エイリアン:コヴェナント」でも流れたので笑ってしまった。これは望郷の歌(宮﨑駿による日本語詞は意図的に内容を変えている)であり、エリザベス・ショウ博士の気持ちを代弁しているが、もっと広く「我々は何処から来たのか?」と自らのルーツ(創造主)を知りたがる人類そのものを象徴しているとも解釈可能だろう。

とても嬉しかったのは、「プロメテウス」でちょっとだけ登場した、故ジェリー・ゴールドスミス作曲「エイリアン」Main Titleがいきなり映画冒頭からフル・バージョンで登場したこと。ちゃんと「プロメテウス」のテーマ曲(by マルク・ストライテンフェルト)も途中で出てきます。

当シリーズで気になるのは、どんどんリドリー・スコットの「ブレードランナー」の世界に接近していること。デイヴィッドの思考はかなりレプリカント(人造人間)のそれに近い。おまけに今回、「ブレードランナー」ではお馴染みの目のアップまであってドキッとした。「ブレードランナー」と「エイリアン」シリーズは近い将来、マーベル映画みたいにユニバースを形成するのか!?今後の展開から目が離せない。しかしまずは本作が大ヒットし、さらなる続編が製作されることが絶対条件だ。祈るような気持ちで見守りたい。

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宮﨑駿とフリードリヒ・ニーチェ 〜 風の谷のナウシカとは何者か?

上記事で宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」にドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想ー永劫回帰超人が深く関わっていることを明らかにした。

僕はその後も宮崎アニメとニーチェの関係について熟考を重ねた。すると、驚くべき事実に思い当たった。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは生の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになる。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

映画「風の谷のナウシカ」は”火の七日間”と呼ばれる最終戦争後、「腐海」が発する猛毒の瘴気に覆われた世界の物語である。人類は、発達し過ぎた文明による罪(自然破壊)を背負わされたラクダの状態にある。それを象徴するのがユパが引き連れているトリウマ(ダチョウに似た鳥類で、人々が馬代わりに利用する)のカイとクイ。彼らもまた重い荷を担いでいる。ユパらは砂漠でナウシカと出会う。彼女こそ笑うライオンだ(劇中に「姫様 笑うとる 助かるんじゃ」という台詞がある)。しかし時には獰猛になり、トルメキア兵を殺戮したりもする(この時彼女の髪は逆立ち、ライオンのたてがみのようになる)。

Anger

映画のクライマックスでナウシカは倒れ、オームの血を浴びて、古い伝承に「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」と歌われた人物として蘇る。つまり超人になるのだ。この時、幼い女の子の声で「ラン、ランララ、ラララン」と歌われる「ナウシカ・レクイエム」が流れる。これは別名「遠い日々」とも呼ばれ、当時4歳だった久石譲の娘、麻衣が歌っている(彼女は現在もプロの歌手として活躍し、先日NHKで放送された久石譲コンサート@パリでもこの曲を歌った)。ナウシカはニーチェの言う子どもに還ったのである。

ナウシカの肩にはキツネリスの「テト」が乗っている。これはツァラトゥストラにいつも寄り添っている鷲と蛇の代わりと言えるだろう。

宮﨑駿は「本へのとびらー岩波少年文庫を語る」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。

このニヒリズムの克服こそ「風の谷のナウシカ」のテーマであり、ニーチェに通底する課題である。

腐海は人間により汚染された壌土を清浄なものに変化させている。これは永劫回帰に導くための装置だ。

ツァラトゥストラは「軽やかにダンスし、鳥のように飛べ!」と言う。ナウシカは「鳥の人」だ。鳥の人」はサウンドトラック・アルバムのタイトルにも用いられている。

全般に宮崎アニメは飛ぶ人=正義であり、飛べない人は見下される傾向にある。「紅の豚」のポルコ・ロッソは次のように言う。

飛ばねぇ豚はただの豚だ

正にニーチェ哲学の実践である。

また「ツァラトゥストラはかく語りき」に次のような一節が登場する。

 ーしかし、人間も木も同じようなものだ。
 木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪のなかへ 
(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

これが「天空の城ラピュタ」の構造である。そして「バルス!」という呪文の言葉による崩壊の後、パズーとシータは木の根に助けられる。

「崖の上のポニョ」の嵐の場面ではワーグナーの「ワルキューレの騎行」(もどき)が高鳴る。実は若い頃のニーチェはワーグナーに私淑し、ワグナー論も執筆しているのだ(「悲劇の誕生」など)。

ニーチェを読めば、宮崎アニメをより深く味わうことが出来るだろう。

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夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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映画「三度目の殺人」の哲学的問い

評価:A

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「そして父になる」の是枝裕和が原案・脚本・編集・監督を担当した「三度目の殺人」には哲学的問いがある。ひとつは【人が人を裁くことは可能なのか?(法廷で真実は明かされるのか?)】、もうひとつは【生まれてこなかった方が良かった人間はいるか?】である。僕は後者に対してYes.と答える。アドルフ・ヒトラー、ポル・ポト、ヨシフ・スターリンらがその代表格であろう。しかし反面、ナチス・ドイツは人類に大きな問いを残した。それは【人はどこまで残酷になり得るのか?】ということ。我々は生涯をかけて、この問いを自問し続けなければならない。

真相は最後まで藪の中。そういう意味で本作は「羅生門」形式と言える。面白いのは加害者(役所広司)も被害者も、そして弁護士(福山雅治)も一人娘がいるという設定である。このことから同情や共感、共犯関係が生まれる。弁護士は当初真実には何の興味もなく、依頼人(被告)の減刑しか考えていない。ところが……予想外の展開が観客を待ち構えている。役所広司が怪演。レクター博士並みの不気味さで秀逸だ。広瀬すずのキャスティングもドンピシャ!

本来、検察官(検事)と弁護士は敵対関係にあり、裁判官は中立の立場の筈。しかし三者には阿吽(あ・うん)の呼吸があり、以心伝心で共謀することもあるという皮肉。裁判制度に一石を投じる奥深い映画だ。

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紛れもないクリストファー・ノーランの最高傑作「ダンケルク」@IMAX®次世代レーザーとヒッチコックの「鳥」

天才クリストファー・ノーラン監督最新作「ダンケルク」を大阪エキスポシティのIMAX®次世代レーザーで鑑賞。そもそも本作はIMAXカメラで撮影されており、撮影されたままの画角で観ることが出来る施設は日本で唯一ここだけ(詳しい説明はこちら)。縦横比が1:1.43。これが通常の映画館だと上下約40%がトリミング(カット)されてしまうのだ。

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評価:AA ←因みに当ブログ最高評価はAAAで、直近ではこれとかこれAAA

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大画面と音響の迫力が凄まじかった。正に戦場の真っ只中に放り込まれた印象。「観る」というよりは「体感する」映画である。あと冒頭から最後まで秒単位でリズムを刻み続けるハンス・ジマーの音楽が最高!未知の体験である。緊迫した場面では早まり、またもとに戻り、これは「鼓動」だね。

クリストファー・ノーランといえば凝りに凝ったシナリオで有名である。初期の「メメント」(2000)は10分しか記憶を保てなくなった男を主人公に時系列が逆向きに進行していく。「インセプション」(2010)はユング心理学に基づき無意識(夢)が4層に分けられ、登場人物たちが各層に潜ってゆく(最下層がlimbo=虚無)。

「ダンケルク」は3つのパートに別れている。

  1. The Mole - one week
  2. The Sea - one day
  3. The Air - one hour

つまり①防波堤から英国に脱出しようとする兵士たちの1週間 ②彼らを救出しようとイギリスの港から駆け付ける船舶の1日 ③スピットファイア戦闘機に乗り込んだパイロットの1時間 ーこの3つの異なる時間軸をクロスカッティングし(ショットとショットを交互に繋ぎ)、最後の最後に1点に集約するという離れ業を成し遂げている。

ノーランは本作を製作するにあたり、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の「恐怖の報酬」やヒッチコック監督作品など、サスペンス映画の演出を研究したと告白している。特に強い影響を与えたのではないかと僕が感じたのはヒッチコックの「鳥」だ。

「ダンケルク」は一切、ドイツ兵の顔を見せない。状況を説明する冒頭のスーパーインポーズでもドイツ軍ではなく、The enemyと書く徹底ぶり。

つまり本作は単なる戦争映画ではなく、ある日突然我々が襲われるかも知れない災厄を描いているとも解釈可能である。それは地震・台風・津波などの自然災害かも知れないし、原発事故もあり得る。だからはっきりした理由もなく不意に人間を攻撃してくる「鳥」に極めてよく似ているのだ。ヒッチコックの「鳥」は1963年の作品。米ソ冷戦時代であり、その前年にアメリカはキューバ危機を経験している。つまり鳥の攻撃=核戦争の恐怖のメタファーと言える。人々はただ、逃げ惑うしかない。

鳥→ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットへの変換。ノーランの戦略は実にしたたかだ。戦争映画というジャンルは、「ダンケルク」の登場で間違いなくアップデートされた。この世紀の傑作をゆめゆめ見逃すことなかれ。

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