Cinema Paradiso

【解説】「ペンギン・ハイウェイ」〜〈海〉と〈お姉さん〉に関する考察

森見登美彦の小説は以前から大好きで、今までに「太陽の塔」「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」「【新釈】走れメロス他四篇」「有頂天家族」「宵山万華鏡」「夜行」を読んでいる。しかし日本SF大賞を受賞した「ペンギン・ハイウェイ」は未読であり、映画版が余りにも素晴らしすぎたので、これを機会に一気呵成に読み通した。

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上記事で〈海〉とは〈ワームホール〉みたいなものだろうと僕の考えを書いたのだが、なんのことはない、小説の中で何度もワームホールについて言及されていた。

本作はポーランドの作家スタニスワフ・レムが執筆したSF小説「ソラリス(ソラリスの陽のもとに)」に触発されている。歯科医院で小学校4年生の主人公アオヤマくんがいじめっ子のスズキくんに対し、歯の中にばい菌がいっぱいになって、歯をぜんぶ抜かないと治らない〈スタニスワフ症候群〉という嘘の病気について語るエピソードがある。

「ソラリス」は2度映画化されている。アンドレイ・タルコフスキー監督の1972年「惑星ソラリス」@ソ連と、ジェームズ・キャメロン製作、スティーブン・ソダーバーグ監督の2002年「ソラリス」@アメリカ合衆国である。1965年に出版された原作小説の日本における最初の翻訳「ソラリスの陽のもとに」はロシア語からの重訳であり、さらにソ連に於ける検閲を考慮し四百字詰め原稿用紙四十枚分に及ぶ削除箇所があった。その後、「ソラリスの陽のもとに」を高校生の時に読んで魅了され、ポーランド語を学んだという沼野充義によるポーランド語原典からの完全翻訳版が2015年にハヤカワ文庫SFより刊行された。

これはソラリスの〈海〉が、その上空にある惑星観測ステーションに勤める研究者の記憶をもとにコピー人間(似姿)を造る、つまり死者を実体化(擬態)する物語である。

海は地球上の生命のすべての起源であり、なるものである。「ペンギン・ハイウェイ」ではそれを〈お姉さん〉のおっぱいが象徴している。そしてペンギンは〈お姉さん〉=が生む子供たちだ。また海は命を与える存在であると同時に、命を奪う者でもある。それは3・11東日本大震災で我々の多くが実感したことだ。

映画「ペンギン・ハイウェイ」には出てこないが、原作小説には〈お姉さん〉が日曜日に教会に通っていることが言及されている。ここで〈お姉さん〉に聖母マリア像が重ねられていることが分かる。キリスト教におけるマリアは古来、海の星の聖母(Stella Maris)と呼ばれていた。希望の印、導きの星であり、船乗りにとってステラ・マリスとは航海の目印となる北極星を指すとか、宵の明星=金星のことだとする説もある。つまり〈海〉=〈お姉さん〉=聖母マリアという三位一体が成り立ち、さらにマリア→海の星→宇宙へと繋がっているのである。

〈お姉さん〉は〈海〉の創造物である。これは間違いない。では〈お姉さん〉の原型(prototype)は何か?つまり〈海〉は何に基づいて似姿を創ったのだろう?小説に次のような記述がある。

 彼女(お姉さん)の顔を観察しているうちに、なぜこの人の顔はこういうかたちにできあがったのだろう、だれが決めたのだろうという疑問がぼくの頭に浮かんだ。(中略)そして、ぼくがうれしく思うお姉さんの顔がなぜ遺伝子によって何もかも完璧に作られて今そこにあるのだろう、ということがぼくは知りたかったのである。

ここで僕が考えたのは、〈海〉はアオヤマくんの心の中にある女性の理想像、ユング心理学で言うところのアニマ(元型 archetype)を実体化したのではないか?という仮説である。ゲーテの言葉で言い換えるなら「永遠に女性的なるもの」。しかしそうするとアオヤマくんが〈お姉さん〉の生まれ故郷、海が見える坂の街の場所を知らなかったという矛盾が生じる。彼はそもそも本物の海を見たことがない。

「もし私が人間でないとして、海辺の街の記憶はなんだろう?」
 お姉さんは路地を歩きながら言った。「私だってお父さんやお母さんのことを憶えているし、自分が今まで生きてきた思い出があるよ。それもぜんぶ作りもの?」
「ぼくにはわかりません」

ということは、彼女は何らかの理由で早逝し、〈海〉が残された両親の記憶から似姿を創ったのかも知れない。

次に〈お姉さん〉の言う海辺の街はどこだろう?と想像してみる。真っ先に連想したのは森見が書いた「夜行」の舞台となった尾道市である。しかし海辺の街の坂の上には教会があるという記述があるので当てはまらない。大林映画でも分かる通り、尾道は寺と神社の町なのだ。ならば海+坂道+教会といえば長崎市や神戸市が候補に挙げられる。もし長崎ならば〈お姉さん〉は原爆投下で命を落としたのかも知れない。その時〈海〉は長崎に出現していて、〈海〉自身が〈お姉さん〉を記憶していたのだろう(両親も同時刻に亡くなった筈なので)。

物語の最後に〈お姉さん〉は消失する。言い換えるなら〈海〉に還る。この場面で僕が想い出したのは、押井守監督のアニメーション映画「攻殻機動隊」である。主人公の草薙素子はインターネットという〈海〉に溶けて〈神〉になる。何だか似ていませんか?未来のアオヤマくんは素子を探し続けるバトーになるわけだ。

そこで僕は森見登美彦が押井守について言及した記事がないか探した。つまり、自分が立てた説の裏を取ろうと考えたのである。そして……あった、あった!

森見は大森望(書評家)との、「夜は短し歩けよ乙女」を巡っての対談で次のように語っている。

大森 つげ義春の『ねじ式』とか、あるいは押井守を連想したんですが。
森見 押井守さんも好きなので、入ってるだろうと思います。ボーッとしてると、押井守と宮崎駿が自動的に出てくるんです。
大森 たしかに、『千と千尋の神隠し』っぽいところもあるし。

             (「本の旅人」2006年12月号より)

また朋友・明石氏(現在は弁護士)との対談で、次のような発言もある。

明石 なぜか、いきなり盛り上がったなあ。夕方になって日が傾いた頃に、突然森見君が「押井守を知ってるか」って言い出して(笑)。「短篇集のレーザーディスクとか一式持ってるから、今から俺の下宿に観に来るか」って。
森見 それはね、高校の時には、誰とも押井守の話とかできなかったんですよ、まったくまわりに通じなくて。そしたら明石君が押井守の名前を知ってたから、「この人なら!」と思ったんでしょうね(笑)。
明石 たまたま『攻殻機動隊』が好きだっただけなんですけどね。後日森見君の家に泊まったら、押井守のレーザーディスクをかたっぱしから見せられた(笑)。

       (「文藝」2011年5月号 【森見登美彦】特集より)

最後に。「ペンギン・ハイウェイ」に登場するジャバウォックとチェスゲームはルイス・キャロル「鏡の国のアリス」からの引用である。そして「ソラリス」もまた、に映る自己(self)についての物語なのだ。

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ウインド・リバー

評価:A

Wind

ドゥニ・ヴィルヌーヴがメガホンをとった映画「ボーダーライン」と、アカデミー作品賞にノミネートされた「最後の追跡」(日本では直接Netflixから配信)の脚本家テイラー・シェリダンが脚本・監督を務めた。

公式サイトはこちら

ワイオミング州にある保留地で発生した殺人事件を追う新人女性FBI捜査官と、彼女に協力する現地の凄腕ハンター(野生生物局職人)を主人公としたクライム・サスペンス仕立ての映画である。しかし作品の狙いは謎解きにはなく、徐々にアメリカ先住民(Native American)に対してスポットライトが当てられていく。

ヨーロッパからアメリカ大陸に渡ってきたピューリタン(清教徒)を主とする植民者たちは先住民を虐殺し、肥沃な土地を奪い、全国土の3%にも満たない保留地へと彼らを強制移住させた。そのアメリカの暗部/恥部が本作を通して浮き彫りにされる。

ウインド・リバーは極寒の、想像を絶する不毛の土地である。そこへ押し込められた先住民たちの静かな、しかし絶望的な叫びを体感せよ。

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インクレディブル・ファミリー

評価:A

Incredibles2

公式サイトはこちら。前作「Mr.インクレディブル」も2004年公開時に映画館で観ているのだが、何しろ14年前の話なので当ブログも未だ開設していなかった。更に遡って当時書いた拙レビューを発見した。こちら

ブラッド・バード監督は安定の面白さ。ただ実写への進出作(「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル 」「トゥモローランド」)がイマイチだったので、アニメの世界の戻ってきてくれて本当に嬉しい。ド派手なアクションのてんこ盛りで、息もつかせぬとは正にこのこと。

007シリーズのジョン・バリーを彷彿とさせるマイケル・ジアッキーノのJazzyな音楽も乗りに乗っている。エンド・クレジットでMr.インクレディブル、イラスティガール、フロゾン各々のテーマソングが流れるのがご機嫌だ。

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【考察】映画「ペンギン・ハイウェイ」と宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

評価:AA (最高はAAA)

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大傑作!暫定今年のベスト・ワン(邦画・洋画併せて)。公式サイトはこちら。監督はこれが長編デビュー作となる石田祐康。

森見登美彦の原作は日本SF大賞を受賞している。仕掛けは本格的だ。

森見の小説は「四畳半神話大系」「有頂天家族」「夜は短し歩けよ乙女」が既にアニメ化されており、実にアニメーションとの親和性が高い。

そして脚色を担当した劇団「ヨーロッパ企画」@京都の上田誠と森見が組むのは「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」に続いて今回が3度目。抜群の相性の良さを示している。パーフェクトだ。

この物語のヒロインである〈お姉さん〉の姿に二重写しになって見えた人物が二人いる。松本零士「銀河鉄道999」のメーテルと、岩井俊二監督「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の及川なずな(奥菜恵)である。「銀河鉄道999」は勿論、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を下敷きにしており、岩井が執筆した「打ち上げ花火」の原作小説「少年たちは花火を横から見たかった」もまた、「銀河鉄道の夜」の冒頭部を読み上げる場面から始まる。つまり〈お姉さん〉≒メーテル≒なずな≒カムパネルラであり、「ペンギン・ハイウエイ」における小学校4年生の主人公アオヤマくん≒ジョバンニという図式が成立する。孤独な少年ジョバンニは友人カムパネルラとふたりきりで銀河鉄道に乗り込んで旅をするが、それは「銀河鉄道999」の星野鉄郎とメーテルも同様であり、「打ち上げ花火」の島田典道となずなは”かけおち”するために電車に乗ろうとするが、果たせない(後のアニメ版ではふたりきりで乗り込むことに成功する)。そして「ペンギン・ハイウエイ」のアオヤマくんと〈お姉さん〉も電車に乗って街を離れようと試みる。

「銀河鉄道の夜」「銀河鉄道999」「ペンギン・ハイウエイ」にもう一つ共通するのは死の匂いである。一見関係なさそうな「打ち上げ花火」にも、”かけおち”を持ちかけられた典道が、なずなと次のような会話を交わす場面がある。

典道「二人で・・・死ぬの?」
なずな「それは心中でしょ」

そしてアニメ版でなずなの母と”かけおち”し、サーフショップを開いた父は海で溺死している。

「ペンギン・ハイウエイ」に登場する〈海〉という概念はとても魅力的だ。映画「コンタクト」「インターステラー」における〈ワームホール〉みたいなものだろう(この二作品を監修したキップ・ソーンは2017年ノーベル物理学賞を受賞した)。また僕は〈真空崩壊〉も連想した(詳しくはこちら)。

ここで宮沢賢治が書いた絵をご覧いただこう。

Kenji

背景に宇宙が在り、空間の裂け目からいくつもの手が伸びる。「ペンギン・ハイウエイ」の 〈海〉に、どこか似ていませんか?

アオヤマくんは〈お姉さん〉と一緒に体験した冒険を通じて、宇宙とか世界の果てについて思惟する。ジョバンニのように。そして初めて死を身近に意識し、大人への階段を一歩登る。少年期の終わり。哲学的であり、秀逸なジュブナイル映画である。

また〈お姉さん〉の声を当てた蒼井優が素晴らしかったことも特筆に値する。

ー 最後にネタバレでもう一言 ー

Are you ready ?

銀河鉄道に乗ったカムパネルラは生者ではなく、既に死んでいる。メーテルが生身の人間なのか、機械人間なのかは未だに意見が別れており、結論は出ていない(松本零士は「メーテルは”人間”です」と言っているが、それでは説明がつかない点が多々ある。作家とは信頼できない語り手である)。また「打ち上げ花火」のなずなの正体は人魚(セイレーン)なのではないかと僕は考えている。最後は水のきらめきの中に消えてゆくし、岩井俊二は「ウォーレスの人魚」という小説を書いているくらいだからね。そして「ペンギン・ハイウエイ」のアオヤマくんは最後に「お姉さんは人間ではない」という結論に達する。やはりこれら4作品は繋がっているのである。

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【考察】映画「カメラを止めるな!」の構造分析と三谷幸喜

評価:A+ 公式サイトはこちら

この映画を一言で評すなら、(三谷幸喜&東京サンシャインボーイズ「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」+フランソワ・トリュフォー「映画に愛をこめて アメリカの夜」+「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」)÷3である。

これ以上何を書いてもネタバレになるので、以下ネタバレ全開で語ります。未見の方はご注意ください。

Camera

用意はよろしいか?

Ready,go !

映画の冒頭はB級ホラー仕立てであり、その低予算ぶり、素人臭さから言って「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の雰囲気に近い。ストーリー的にはジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」とか「ゾンビ」なのだけれど、意図的にそのクオリティーに達していない。

すると途中から《ホラー映画を撮影中のクルーを本物のゾンビが襲う、というプロットの映画を撮っているクルーの舞台裏(back stage)を描く》という構造が立ち現れてくる。つまり三重入れ子構造になっているのだ。

Ireko

二重構造なら古くはシェイクスピア「ハムレット」から、映画「Wの悲劇」とか「リズと青い鳥」などの前例があるが、三重というところが本作のユニークなところである。そして彼らが撮っているホラー映画が①生放送で、②全編ワンカットの長回しという条件がつくことにより、ドタバタ(シチュエーション)コメディに転化するという仕掛けだ。それは上演中の芝居(三谷幸喜&東京サンシャインボーイズ「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」)とか、radioの生放送(三谷幸喜&東京サンシャインボーイズ「ラヂオの時間」)における舞台裏のてんやわんやと同じ構造を持つことになる。タイトルの「カメラを止めるな!」は、演劇における(どんなトラブルが起ころうと途中で)「幕を降ろすな」と同義である。

三谷幸喜が小劇団「東京サンシャインボーイズ」時代に指針にしていたのは「がんばれベアーズ」などのバディ・ムービーである。つまり《仲間が一番》ということ。何かの困難に直面し、チームワークで一丸となってそれを切り抜ける。その精神が「カメラを止めるな!」にも受け継がれている。特に最後の組体操=人間ピラミッドで、そのスピリットをしっかり「絵」として見せた技には唸った。こうして綻びかけていた家族の絆もしっかりと修復された。脚本・監督の上田慎一郎、大した才能である。

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シリーズ《映画音楽の巨匠たち》第7回/ミクロス・ローザ(ロージャ・ミクローシュ)篇

まず最初に、シリーズ《映画音楽の巨匠たち》過去記事をご紹介しよう。

今回ご紹介したいのはハンガリー出身の作曲家ミクロス・ローザ。ハンガリー読みでは日本語同様に姓・名の順で表記するのでロージャ・ミクローシュとなる。アカデミー作曲賞に17回ノミネートされ、「白い恐怖」「二重生活」「ベン・ハー」で3度受賞した。

ローザといえば泣く子も黙る《史劇の達人》である。「ベン・ハー」「エル・シド」「クォ・ヴァディス」「ジュリアス・シーザー」「ヤング・ベス」「黒騎士」「円卓の騎士」「キング・オブ・キングス」「ソドムとゴモラ」など枚挙に暇がない。ローマ帝国時代の音楽の雰囲気を巧みに醸し出しながらも、しっかりとハンガリー民謡の節回しを仕込んでいるところがさすが匠の技である。

僕の考えるローザの映画音楽ベストを挙げる。

  1. ボヴァリー夫人(1949)
  2. 白い恐怖(1945)
  3. ベン・ハー(1959)
  4. 針の眼(1981)
  5. 炎の人ゴッホ(1956)
  6. キング・オブ・キングス(1961)
  7. エル・シド(1961)
  8. 失われた週末(1945)
  9. シャーロック・ホームズの冒険(1970)
  10. ヤング・ベス(1953)
  11. 悲愁(1979)
  12. ジャングル・ブック(1942)
  13. リディアと四人の恋人(1941)
  14. シンドバッド黄金の航海(1973)
  15. プロビデンス(1979)

「ボヴァリー夫人」は、ミュージカル映画「巴里のアメリカ人」「バンド・ワゴン」「恋の手ほどき」で知られるヴィンセント・ミネリ監督作品だが、僕はミネリの最高傑作だと信じて疑わない。本作についてはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズによる卓越した分析があるので、そちらを是非ともお読み頂きたい。下記事に引用している。

ローザの音楽も実に素晴らしい。特に圧巻なのが舞踏会シーンで流れるワルツ。狂気が疾走する。ミネリはこの音楽をThe "Neurotic Waltz"(神経症的円舞曲)と呼んだ。途轍もない渦の中に呑み込まれる印象。ヒロイン(ジェニファー・ジョーンズ)が夢に貪り喰われる瞬間が描かれる。お勧めはエルマー・バーンスタイン/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏(ステレオ録音。オリジナル音源はモノラル)。iTune Storesで「Madame Bovary」「バーンスタイン」というキーワードを入力し検索すれば購入出来る。また映画のDVDはAmazonで入手可能。

ボヴァリー夫人」が公開された1940年代、ハリウッドでは映画にフロイトの精神分析を絡めることが流行っていた。アルフレッド・ヒッチコック監督の「白い恐怖」もその一つである。幻想シーンのイメージはシュルレアリスムの画家サルバドール・ダリが起用された。この映画のテーマもズバリNeurosis(神経症)である。「白い恐怖」は電子楽器テルミンが使用された。映画でテルミンを初めて使用したのはローザである。これに関しては面白いエピソードがあるので下記事で紹介した。

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一方で「白い恐怖」の音楽はとてもロマンティックだ。映画を元に再構成した、華麗なピアノ協奏曲版もあるのでお聴きあれ。

ローザの遺作は「スティーブ・マーティンの四つ数えろ」(1982)だが、「針の眼」はその一つ前、晩年の大傑作である。スパイ・スリラーとして映画の出来もよく、これを観たジョージ・ルーカスは監督のリチャード・マーカンドを「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」に抜擢した。高校生の時、僕は「針の眼」のサウンドトラックLPレコードを購入し、繰り返し聴いた(その時点で映画は未見だった)。成人してCDで買い直そうと考え、輸入CDショップ(タワーレコードかHMV)で見つけたのだが、何と値段が5,000円以上もした!多分、限定版(limited edition)だったのだろう。迷いに迷った挙げ句、断念した。結局その後一切お目にかかることは出来なかった。四半世紀探し求め続けた……そして今ではiTune Storesでダウンロード出来るようになった。良い時代になったものである。

イエス・キリストの生涯を描く「キング・オブ・キングス」はもう冒頭の「ホザンナ」の合唱からその荘厳さに圧倒される。

「エル・シド」は中世スペイン地方のムード満点。

「シャーロック・ホームズの冒険」はヤッシャ・ハイフェッツが初演したローザのヴァイオリン協奏曲 第2番が流用されている。ホームズは趣味でヴァイオリンを弾くので。ハイフェッツの演奏はCDで聴くことが出来る。

「ヤング・ベス(悲恋の王女エリザベス)」は若き日のエリザベス一世を描く。後日《Fantasy on Themes from "Young Bess "》(「ヤング・ベス」の主題による幻想曲)というコンサート・ピースに再構成された。パイプ・オルガンが前面に押し出され、重厚な金管アンサンブルに対峙する。また映画半ばでグレゴリオ聖歌「怒りの日」が立ち現れる。

ビリー・ワイルダー監督「悲愁(Fedora)」は、もうひとつの「サンセット大通り」。どちらもウィリアム・ホールデンが出演している。

「ジャングル・ブック」の魅力は野性味。

「リディアと四人の恋人」は「舞踏会の手帖」「パリの空の下セーヌは流れる」などで知られるフランスの巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督が第2次世界大戦勃発により、アメリカに疎開している際に撮った作品。同時期に彼は「運命の饗宴」も製作した。ピアノ協奏曲仕立てなのが素敵。

「シンドバッド黄金の航海」は「シンドバッド七回目の航海」(1958)の続編で、前者の音楽を担当したのはヒッチコック映画で名高いバーナード・ハーマン。両者を聴き比べてみるのも一興だろう。

というわけで次回《映画音楽の巨匠たち》はバーナード・ハーマンか、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト、あるいは久石譲を取り上げたいと考えている。誰がいい?リクエストお待ちしています。

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ジャンヌ・ダルクに魅せられた女優〜イングリッド・バーグマンとマリオン・コティヤール

アカデミー監督賞・主演女優賞を受賞したミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」のヒロイン、ミア(エマ・ストーン)の部屋には巨大なイングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)のポスターが張ってあった。ミアは映画「カサブランカ」(1942)の彼女に憧れているという設定である。

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スウェーデンからハリウッドに渡った大女優イングリッド・バーグマン(「ガス燈」「追想」でアカデミー主演女優賞を2度受賞、「オリエント急行殺人事件」で助演女優賞を受賞)はジャンヌ・ダルクに囚われていた。「白い恐怖」「汚名」「山羊座のもとに」と3本のヒッチコック映画に出演した時も、撮影の合間にヒッチにジャンヌを演りたいと熱心に語っていたという。そして彼女はブロードウェイで「ロレーヌとジャンヌ」という戯曲に出演し、その映画化「ジャンヌ・ダーク」(1948)でも主演の座を射止めた(アカデミー主演女優賞にノミネート)。監督は「風と共に去りぬ」「オズの魔法使い」のヴィクター・フレミング。彼は映画公開直後に心筋梗塞で亡くなったのでこれが遺作となった。

Jeanne

映画は興行的に大失敗で、製作費を回収することすら出来なかった。しかしジャンヌに取り憑かれているイングリッドがこれで満足する筈もなかった。

1949年、イングリッドはネオレアリズモ(イタリアン・リアリズム)の「無防備都市」をハリウッドで観て感激した。彼女は自分がいかにこの映画を賞賛しているか、いかにロッセリーニ監督作品への出演を望んでいるという内容の手紙をロッセリーニに送った。この縁で彼女はイタリアに飛び、1950年「ストロンボリ/神の土地」に出演した。二人はたちまち恋に落ち、彼女はロッセリーニの子を身籠った。実はイングリットは既に37年に歯科医と結婚しており、娘もいた。つまり不倫の関係だったのである。これは大スキャンダルとなり、アメリカ上院議会でも取り上げられた。そして彼女はハリウッドから完全に追放された。

イタリアでイングリットはさらにジャンヌ・ダルクに挑む。前夫と離婚が成立しロッセリーニと再婚を果たした彼女は、夫の演出でフランスの作曲家オネゲルの劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」をヨーロッパ各地で演じた後、1954年に映画化・主演している。凄まじい執念だ。正にジャンヌ・ダルクになろうとした女と言えるだろう。

Stoll

なおこの後、イングリッドはロッセリーニと破局し、「追想」(56)で劇的なハリウッド復帰を遂げることになる。アカデミー賞授賞式では彼女の友人であるケーリー・グラントが代理でオスカー像を受け取った。また娘のイザベラ・ロッセリーニも女優となり、映画「ブルーベルベット」「複製された男」等に出演している。

さて、現代のジャンヌ・ダルクといえば、「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」でアカデミー主演女優賞を受賞したフランスの女優マリオン・コティヤールにとどめを刺す。彼女は2015年3月4日、5日にフィルハーモニー・ド・パリで山田和樹/パリ管弦楽団とオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を演じ、続く6月10日〜13日の4日間、ニューヨークのエイブリー・フィッシャー劇場でアラン・ギルバート/ニューヨーク・フィルと共に同オラトリオに出演した。また2012年スペインのバルセロナにおける彼女のパフォーマンスはDVDになっている。

Cotillard

美しく、入魂の演技で、完璧に彼女はジャンヌ・ダルクになり切っている。Bravissimo !!!

なお、このDVDを購入されたい方はこちらからどうぞ。

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「ミッション・インポッシブル/フォールアウト」とヒッチコック映画

評価:A+

トム・クルーズ56歳。「サザエさん」の磯野波平 (54) より2歳上回っている。驚異的なタフ・ガイだ。よく撮影中に死ななかったなと、本作を観ながら唖然とした。ちなみにビルからビルに飛び移るシーンで足を骨折し、撮影は6週間中断している。

Mission

公式サイトはこちら

前作「ローグ・ネイション」のオペラ「トゥーランドット」@ウィーン国立歌劇場における首相暗殺計画は、明らかにアルフレッド・ヒッチコック監督「知りすぎていた男」(1955)へのオマージュであった。また悪の組織に潜入していた女スパイが、主人公のせいで首領から疑いの目を向けられるというプロットは、ヒッチコック「北北西に進路を取れ」(59)からの引用である。

今回は《螺旋階段をトムが登るのを俯瞰で捉える→屋根から屋根に飛び移る》という流れがあり、これはヒッチコック「めまい」(58)のジェームズ・スチュアートを彷彿とさせる。またトムがミサが行われている教会で敵に囲まれる場面は「北北西に進路を取れ」における骨董品のオークション会場シーンの再現だ。そしてクライマックス、断崖絶壁で展開される死闘は「北北西に進路を取れ」におけるラシュモア山といった具合。

またクリストファー・マッカリー監督はパリでのカーチェイス・シーンについて、クロード・ルルーシュ監督の短編「ランデヴー」を参考にしたと語っている。「ランデヴー」は2016年に「男と女」がリヴァイヴァル上映された折に併映され、僕はそれを観て度肝を抜かれた。

Lelouch

映画史上に燦然と輝くカーチェイスといえば、直ぐ思い出すのがスティーヴ・マックィーン主演ピーター・イェーツ監督の「ブリット」(1968)、ジーン・ハックマン主演ウィリアム・フリードキン監督「フレンチ・コネクション」(71)、そして逆走が鮮烈だった、ロバート・デ・ニーロ主演ジョン・フランケンハイマー監督「RONIN」(98)である。

はっきり言う。「フォールアウト」のアクション演出は間違いなくこれら名作群を凌駕している。逆走もちゃんとあるしね。どえらい傑作だ。近年の「ミッション・インポッシブル」シリーズはしっかりチームワークが出来ているし、第1作目、第2作目の頃(トムの独擅場)と比べて明らかに進化している。

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アカデミー長編アニメーション映画賞候補作「生きのびるために」

「生きのびるために」は米アカデミー長編アニメーション映画賞にノミネートされ、仏アヌシー国際アニメーション映画祭2018では長編コンペティション部門で観客賞と審査員賞を受賞した(日本から出品された「未来のミライ」は無冠に終わった)。アニー賞では長編インディペンデント作品賞を受賞。「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」で知られるアイルランドのスタジオ、カートゥーン・サルーン製作で、監督はノラ・トゥーミー(女性)。彼女は「ブレンダンとケルズの秘密」でトム・ムーアと共同監督を務めた。

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日本では劇場公開されず、現在既にNetflixから配信中。

やはりアカデミー賞にノミネートされた「ブレンダンとケルズの秘密」も「ソング・オブ・ザ・シー」もアイルランドの伝承やケルト神話に基づく作品だったので、最新作がタリバン政権下のアフガニスタンが舞台になっているのには面食らった。

カナダの児童文学作家デボラ・エリスの小説が原作で、同じ主人公パヴァーナで「さすらいの旅」「希望の学校」という三部作になっているようだ(さ・え・ら書房から日本語訳が出版されている)。彼女は1997年、1999年の二度にわたりパキスタンのアフガン難民キャンプを訪れ、女性や子どもたちからタリバン支配下のアフガニスタンについて聞きとり調査をしたという(詳細はこちら)。

映画を観ると、しっかりとカートゥーン・サルーン印が刻印されていたので感心した。その特徴は2つに集約される。

  1. キャラクター・デザインが「円」を基本にしていること。
  2. 現実の物語とアフガニスタンの神話が同期する(synchronize)。
厳しい現実をテーマにして、こういう切り口があろうとは!いやはや恐れ入りました。必見。

評価:A

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【考察】今夏最大の問題作「未来のミライ」(細田守監督)の構造分析と時間イメージ

評価:A

Mirai

公式サイトはこちら

細田守監督の最新作「未来のミライ」はアヌシー国際アニメーション映画祭コンペティション長編部門に出品され、結局無冠に終わった。7月20日に日本で公開されたが、巷での評判はすこぶる悪い。「何が言いたいのか、意味が分からない」「タイムスリップがご都合主義だ」等の否定的意見多数。SNSでの不評を受けて公開第1週の全国週末興行成績ランキングは「ジュラシック・ワールド 炎の王国」(2週目)に次ぐ第2位からの発進となった。最終興収58.5億円を記録した細田の前作「バケモノの子」の興収比60.0%という低調な成績である。

僕は小学校1年生の息子と観に行ったが、彼の感想は「面白かった」。

な映画である。言い換えるなら極めてユニークだ。あんまり類似した作品を想い出せない。これは「バケモノの子」=(「ベスト・キッド」+「千と千尋の神隠し」)÷2だったのに対して対照的だ。宮崎駿のアニメーションのスケールの大きさと比べると、細田守のそれは非常に小さい。製作のきっかけとなったのは細田自身に男の子と女の子の子供が生まれたことである。主題歌の打ち合わせの時に山下達郎から「すごい、また今回も私小説的ですね」と言われたそうだ。

細田は正真正銘ケモナーである。「サマーウォーズ」にはウサギ型アバター・キングカズマが登場し、「おおかみこども」は狼と人間が結婚し子作りをする。「バケモノ」の熊徹も毛がふさふさ。僕は細田の海外での評価が極めて低いのは、ケモナーであることが一因なのではないかと考えている。そして「未来のミライ」にも監督のフェティシズムが迸っている。くんちゃんが犬の尻尾を自分のお尻にくっ付けて、メタモルフォーゼ(変身)する場面があるのだ。やれやれ……。

あと「バケモノの子」で師匠・宮崎駿(=熊徹)に対し、主人公・九太の口を借りて「俺のやることを、そこで黙って見てろ!」と言い放った細田だが、本作でくんちゃんのひいおじいちゃん(曽祖父)は戦闘機のエンジンを作っているという設定であり、それってまんま駿のオヤジの話じゃん!!(宮崎の父は零戦のコックピットを作っていた)。もう大爆笑である。駿に憧れる余りに、遂に自分の記憶の改竄自己同一化)に乗り出したのだ。いやはや、恐れ入りました。

「すごい、また今回も私小説的ですね」
「すごい、また今回も私小説的ですね」

さて、本作の構造をフランスの哲学者アンリ・ベルクソンが著書「物質と記憶」(1896年初版)で論じた逆さ円柱モデルを応用し、説明してみよう。

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図上部の逆さ円錐がベルクソンが提示したモデル。下部の円錐がそれを反転したもの(鏡像)である。逆さ円錐の全体SABが主人公くんちゃんの記憶に蓄えられたイマージュの総て(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり、くんちゃんの「今」の知覚である。Pという平面は現在彼がいる世界・宇宙そのもの。くんちゃんは円錐の中を自由に、生成され続ける過去(A'B'やA''B'')へと螺旋状に飛翔し、またSに戻ってくる。ここまでの構造時間イメージはフェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2」やアラン・レネ「去年マリエンバートで」、イングマール・ベルイマン「野いちご」、大林宣彦「はるか、ノスタルジィ」などの前例がある。しかし「未来のミライ」がユニークなのは下部の円錐。それは未来に広がっている。中学生(15歳くらい)になった妹ミライちゃんは∀,B,あたりからやって来る。

「未来のミライ」はくんちゃんの内面意識個人的無意識自己 self)を描いていると解釈出来るだろう。その深層は過去から未来までの家族史(家族的・集合的無意識ー犬を含む)に接続している。

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しかし、4歳児のくんちゃんが中学生となった妹ミライちゃんを知っている筈がなく、ひいおじいちゃん(曽祖父)の個人史も知らないという矛盾が生じる。ここで多くの観客が困惑してしまうわけだ。しかし15年後のくんちゃんの内面だとしたらどうだろう?曽祖父の生い立ちについても両親から聞いて知っていてもおかしくない。こう仮定すれば全ての整合性がとれるのである。

つまり物語を通時的(時間の流れに沿って)考えるのではなく、共時的に捉える必要がある。過去も未来も今ここ(self)にあるのだ。

フェリーニは次のように語っている。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

これを未来にまで延長したのが本作なのだ。

逆さ円錐(上部)と円錐(下部)の中心を貫いているのが、くんちゃんちの庭に植えられた一本の生命の樹 Tree of Lifeである。それは宮崎駿「となりのトトロ」に繋がっており、トトロ同様、「未来のミライ」でも《迷子》というモティーフが繰り返される。

実は「未来のミライ」の構造が一番近いのは大林宣彦監督「時をかける少女」(1983)かも知れない。深町くん(高柳良一)は未来からやって来るし、主人公・芳山和子(原田知世)は自分の幼少期にタイムスリップしたりもする。細田版アニメーション映画「時をかける少女」(2006)は実質的に大林版の後日談であり、芳山和子(魔女おばさん)の声優として細田は原田知世にオファーしたが、断られている。そして大林監督は細田のことを【映画の血を分けた息子】と呼んだ。

「未来のミライ」は現代の神話である。今度はフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースの手法を用いて、本作を読み直してみよう。

オーケストラの総譜(スコア)を例に説明しよう。

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楽譜を(左→右)に読むと通時的流れがある。 ①行目:曽祖父の個人史、②行目:母の個人史、③行目:愛犬ゆっこの個犬史、④行目:くんちゃんの個人史、⑤行目:ミライちゃんの個人史、といった具合だ。音楽用語で言えばモノフォニー単一旋律 melody)である。そして映画に於ける《くんちゃんの冒険》は楽譜を(上↔下)に、螺旋状に行ったり来たりする。そこに家族史というharmonyが響き合う。これが共時的読解である。音楽用語で言えばポリフォニー多声音楽)となる。

「未来のミライ」は作家性(癖)が強く、奇天烈で、決して万人受けするようなウェルメイド・アニメとは言い難い。しかし僕は斬新で愛すべき作品だと想うし、断固支持したい。細田守を「モスラ」に喩えるなら、いま彼は折れた東京タワーに繭を張った幼虫の状態にあるのだ。間もなく殻を破り、成虫が羽を広げ飛翔する時が必ず来るだろう。その日を愉しみに待ちたい。

最後に。くんちゃんの声をあてた上白石萌歌が、4歳の男の子のようには全く聴こえず、10代の女の子以外の何者でもなかったことについては不問に付す。

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