Cinema Paradiso

米アカデミー外国語映画賞&監督賞最有力!「ROMA/ローマ」とフェデリコ・フェリーニ

アルフォンソ・キュアロンが監督したメキシコ映画「ROMA/ローマ」はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、米アカデミー賞でも外国語映画賞及び監督賞受賞をほぼ確実にしている(既にゴールデングローブ賞を同部門で受賞)。焦点は最早、外国語映画として史上初の作品賞(大トリ)を勝ち取るのか!?に移っている。因みに過去、フランス映画「アーティスト」(2011)が作品賞を受賞しているが、ダイアログは英語だった。日本では12月にNetflixから配信されており、本作がアカデミー作品賞や監督賞、外国語映画賞を受賞すれば、配信作品として史上初の快挙となる。

スティーヴン・スピルバーグ監督は動画配信サービスが手掛けた映画に対して、「私は(映画賞の選考対象になるために)数か所の劇場で1週間上映されたくらいの作品を、アカデミー賞候補の選考対象にするべきではないと思っている」「実際にはテレビのフォーマットで製作したならば、それはテレビ映画だと思う」と述べているが、最早時代の流れを押し止めることは出来ないだろう。スピルバーグのように、自由に映画が撮れるような潤沢な資金を持つフィルムメーカーなど稀有の存在なのである。

評価:AA  公式サイトはこちら

Roma

視聴したのは我が家の55型 4Kスマートテレビである。白黒映画。撮影には6Kの65mmデジタル・シネマカメラ ARRI ALEXA 65(詳しくはこちら)が使用された。つまりフィルム撮影ではないので、映画館で観るメリットは皆無である

ROMAというタイトルだがイタリアが舞台ではない。メキシコシティのコロニア・ローマ地区を指す。

キュアロンはここで中流階級の白人家庭に生まれた。本作は彼の幼少期を、住み込みで働く先住民のお手伝いさんクレオを主人公として描いている。映画の最後に「リボへ」という献辞が登場するが、キュアロンの乳母のこと。1970年末から71年にかけての物語である。当時彼は9歳だった。

本作を一言で評すなら、キュアロン版「フェリーニのアマルコルド」。これに尽きるだろう。

Amarcord

「アマルコルド」もアカデミー外国語映画賞を受賞したが、フェデリコ・フェリーニ監督の故郷である北部イタリアのリミニ地方の、今はもう死語になっている言葉"a m'arcord "(私は覚えている)が語源である。「ROMA/ローマ」は幼少期の想い出を描く「アマルコルド」を基調としつつ、やはりフェリーニの自伝的映画「青春群像」の要素も散りばめられている。また身勝手な男を優しく許してしまうヒロイン・クレオのイメージは、間違いなくジュリエッタ・マシーナがフェリーニの「道」で演じたジェルソミーナや、「カビリアの夜」の娼婦カビリアに繋がっている。

La_strada

つまり【クレオ ≒ ジェルソミーナ/カビリア ≒ マグダラのマリア(新約聖書に登場する罪深い女)】という等式が成立する。

1971年を迎えた新年パーティの場面で、ターンテーブルのレコードから流れるのはアンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲したロック・オペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」である。じつはこれ、1970年にまず先行で2枚組LPレコードが発売され、ブロードウェイで初演されたのは71年なのだ。で、かかっている曲は"I Don't Know How To Love Him"(私はイエスがわからない)で、マグダラのマリアが歌うナンバーなのである!ね、一目瞭然でしょ?

こうして考察していくと、なぜタイトルが(紛らわしい)ROMAなのか、得心が行くだろう。「道」「アマルコルド」など、フェリーニ映画の多くはローマのチネチッタ撮影所で生み出されており、そのものズバリ"ROMA"(フェリーニのローマ)という作品もある。つまり本作は和歌で言うところの〈本歌取り〉なのである。

Roma

またキュアロンの「ROMA/ローマ」では大型車〈フォードのギャラクシー〉が父親の威圧的存在感を象徴するのだが、最初にこの車が登場した時に父親がカーステレオで聴いているのがベルリオーズ:幻想交響曲の第2楽章(演奏はコリン・デイヴィス/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)。このシンフォニーは〈幻の女〉に囚われたひとりの男の狂気を扱っているのだが、それがしっかり映画の内容にリンクしている。

アメリカ映画「宇宙からの脱出」を家族で劇場に観に行く場面がある。これでピンときたのが、「うゎ!『ゼロ・グラビティ』(アカデミー監督賞受賞)の原点はこの体験にあったんだ」ということ。

キュアロンと言えば撮影監督エマニュエル・ルベツキ(「ゼロ・グラビティ」「バードマン」「レヴェナント」で3年連続アカデミー撮影賞受賞)とのコンビが有名である。しかし今回ルベツキは参加出来ず、キュアロン自らがカメラを回した。で「トゥモロー・ワールド」同様に、ここぞという時の長回しが効いている。まず映画冒頭の俯瞰ショットはジャック・ドゥミ監督「シェルブールの雨傘」(1964)以来と言っていいくらいの鮮烈な印象を受けた。またクライマックス、海辺での移動撮影(ドリーショット)が「どうやって撮ったの!?」というくらい凄い。

本作には女性に対する敬意・感謝と、メキシコ先住民に対する贖罪の気持ちがいっぱい詰まっている。掛け値なしの傑作である。

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2018年映画ベスト39&個人賞発表!

2018年に劇場で初公開された作品及び、Netflix, Huluなどインターネットで配信された映画を対象とする。ただし、「ザ・クラウン」「ゲーム・オブ・スローンズ」「ストレンジャー・シングス」「侍女の物語(The Handmaid's Tale)」など連続ドラマは除外する。タイトルをクリックすれば過去に僕が書いたレビューに飛ぶ仕組み。

ここで断っておかなければならないのは、本来「花筐」と「勝手にふるえてろ」は東京で17年に公開された作品だが、関西での公開が遅かったために今年に入れた。

またアカデミー監督賞(アルフォンソ・キュアロン)並びにアカデミー外国語映画賞の大本命「ROMA/ローマ」(メキシコ代表)と、「メアリーの総て」「グリンチ」「シュガーラッシュ・オンライン」のレビューは年末までに間に合わなかったので、年が明けてから書く予定。悪しからず。

  1. ペンギン・ハイウェイ
  2. 若おかみは小学生!
  3. 花筐/HANAGATAMI
  4. ROMA/ローマ
  5. 万引き家族
  6. 勝手にふるえてろ
  7. リズと青い鳥
  8. アリー/スター誕生
  9. アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル
  10. ミッション・インポッシブル/フォールアウト
  11. 未来のミライ
  12. ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書
  13. レディ・プレーヤー1
  14. スリー・ビルボード
  15. シェイプ・オブ・ウォーター
  16. ラブレス
  17. メアリーの総て
  18. シュガーラッシュ・オンライン
  19. ウインド・リバー
  20. カメラを止めるな!
  21. インクレディブル・ファミリー
  22. ファントム・スレッド
  23. ザ・スクエア 思いやりの聖域
  24. 生きのびるために
  25. ボヘミアン・ラプソディ
  26. パディントン2
  27. デトロイト
  28. 羊と鋼の森
  29. ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男
  30. 来る
  31. ちはやふる ー結びー
  32. グレイテスト・ショーマン
  33. アンダー・ザ・シルバーレイク
  34. アナイアレイション ー全滅領域ー
  35. グリンチ
  36. 犬ヶ島
  37. ゲティ家の身代金
  38. フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法
  39. クワイエット・プレイス
監督賞:大林宣彦(花筐/HANAGATAMI
主演女優賞:松岡茉優(勝手にふるえてろ
助演女優賞:安藤サクラ(万引き家族
主演男優賞:ブラッドリー・クーパー(アリー/スター誕生
助演男優賞:サム・エリオット(アリー/スター誕生
スタント賞:トム・クルーズ(ミッション・インポッシブル/フォールアウト
脚本賞:吉田玲子(リズと青い鳥若おかみは小学生!
撮影賞:アルフォンソ・キュアロン(ROMA/ローマ
編集賞:大林宣彦花筐/HANAGATAMI
美術賞:篠原睦雄(リズと青い鳥
衣装デザイン賞:マーク・ブリッジス(ファントム・スレッド
作曲賞:アレクサンドル・デスプラ(シェイプ・オブ・ウォーター
歌曲賞:「グレイテスト・ショーマン」より"This Is Me"
今年最高の台詞:「俺はガンダムで行く!」(レディ・プレーヤー1
 

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ビヨンセからレディー・ガガへ〜映画「アリー/スター誕生」

評価:A+ 公式サイトはこちら

Star

まずはこちらからお読みください。

上の記事に書いたとおり、「スター誕生」4回目の映画化である。

僕が今回のリメイクの話を聴いたのは2011年だった。その頃はクリント・イーストウッド監督ビヨンセ主演で企画が動いていた。

ところが!撮影直前になってビヨンセの妊娠が発覚、完全に白紙撤回になってしまった。つまりビヨンセは自分の女優としてのキャリアよりも、「女の幸せ」を選択したのだ。プロ意識が欠けた、大馬鹿者である。同時期にビヨンセ主演でディズニー・ミュージカル「アイーダ」映画化という構想もあったが、こちらもポシャってしまった。彼女の罪は重い。

不意打ちを食らった気の毒なイーストウッドは完全にこのプロジェクトに興味を失い、彼が監督した映画「アメリカン・スナイパー」で主演を務めたブラッドリー・クーパーに譲ってしまう。しかし以前からミュージカル映画を撮りたいと考えていたイーストウッドは代わりにブロードウェイ・ミュージカル「ジャージー・ボーイズ」を映画化し(2014年)、キネマ旬報ベスト・テンでその年の外国映画ベスト・ワンに選出された。

ブラッドリー・クーパーは主演と監督を兼任することになり、ヒロインにレディ・ガガを決めたとき、イーストウッドに報告に行ったそうである。その時、言われたのは「やめとけ」。後に完成した映画を観て、イーストウッドは自分が間違っていたことを素直に認めた。

僕は2度目の映画化、ジョージ・キューカー監督ジュディ・ガーランド主演のバージョンがとても好きである。特にジュディがバンドの仲間たちと"The Man That Got Away"を歌っているときに、ジェームズ・メイソンが店に入ってくる場面は何度観ても痺れる(動画はこちら)。そしてデイミアン・チャゼル監督はこの名シーンを映画「ラ・ラ・ランド」で再現している(男女入れ替わりバージョン→こちら)。「アリー/スター誕生」ではガガがゲイ・クラブでシャンソン「バラ色の人生」を歌う場面に相当する。

ガガは若い頃、ストリップクラブで働いていたことがあり、劇中で彼女は音楽プロデューサーから「君は鼻が高すぎるからスターになれない」と言われたと語るが、これも彼女の実体験である。また「私が書いた曲」と歌い出す"Shallow"(浅瀬)も実際にガガの作詞/作曲である(アカデミー歌曲賞受賞、間違いなし)。つまり本作は虚実の皮膜を縦横無尽に行き来するスリリングな構造になっており、そこがガガの強み。アカデミー主演女優賞、本当にいけるんじゃないかな!

ブラッドリー・クーパーは本作に取り組む前に全く歌ったことがなかったそうなのだが、どうしてどうしてじっくり聴かせるし、プロの歌手そのものだった。役者って凄い!

またクーパーの腹違いの兄を演じたサム・エリオットがいい味出しているんだ。

キャメラは常に主人公たちを半径1m以内から捉えており、殆どがクローズ・アップからバスト・ショットまで。その近接性が独特の個性を醸し出していた。

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来る

評価:A

Kuru

「へレディタリー/継承」に引き続き、〈呪いとしての家族〉のお話である。

外連味たっぷりの、ド派手なエンターテイメントだ。面白い!公式サイトはこちら

本作を観ながら感じたのは、「これって日本版『エクソシスト』だな」ということ。「エクソシスト」で少女に取り憑いた悪霊を祓うのはカトリック教会の神父だが、「来る」では神道+仏教の総力戦となる。

中島哲也監督は「告白」同様、冴え冴えとした画面の感触が作品の世界観にぴったり寄り添っていた。

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へレディタリー/継承

評価:D

Heredi

公式サイトはこちら

家族の物語である。しかし愛とか絆ではなく、呪いとしての家族を描いている。詳しくは下記事に書いた。

脚本・監督を努めたアリ・アスターの実体験に基づいているとのことだが、確かに相当な恨みとか心的外傷(トラウマ)はしっかり伝わってくる。そして冒頭のドールハウスを用いたトリッキーな長回しや、昼間の家の外観が夜の外観に一瞬で切り替わるジャンプカットなど映像センスに長けていることは認める。

しかし僕は本作が嫌いだ。生理的に受け付けられない。観終わって、いやーな気持ちになる。

評価:D

この監督にとって家族が忌まわしいものであることは十分理解した。しかしその私怨を表現するためにご都合主義のシナリオをでっち上げる姿勢には感心しない。プロットが余りにも杜撰だ。

警告!以下ネタバレあり。



ー Are you ready? ー



映画の発端で夫婦の会話から、娘がナッツを食べるとアナフィラキシー・ショックを起こすことが言及される。彼らはそのことに十分気を配っている。

そこへ高校生の息子が友人宅のパーティへ行きたいと言い出す。息子が飲酒するのではないかと心配した母親はお目付け役として妹を連れて行けと命令する。まずこの母親の態度に思慮が欠けている。普通なら「絶対にナッツが入ったものは食べさせないでね」と釘を刺すだろう。

ふたりはパーティ会場に到着。妹が邪魔な兄は「お前はそこでケーキでも食べていろ」と指示し、妹は素直にそれに従う。ありえないだろう!かくして悲劇は起こる。

アホかと言いたい。

あと事故発生後、警察が現場検証をしないのもあまりにも不自然だ。

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レディー・ガガがアカデミー主演女優賞を受賞する、これだけの理由(「万引き家族」や「未来のミライ」の話もしよう)

日本では12月21日に公開される「アリー/スター誕生」に出演したレディー・ガガの演技に対して絶賛の嵐が巻き起こっている(映画公式サイトはこちら)。アカデミー主演女優賞にノミネートされるのは100%確実、授賞式で彼女の名前が呼ばれる可能性も高い。

女優に関してのみ適応されるのだが、映画の中で自分自身で歌うと、アカデミー賞を受賞し易いという鉄則がある。先鞭をつけたのが「メリー・ポピンズ」(1964)のジュリー・アンドリュース。背景には「マイ・フェア・レディ」映画化に際してのすったもんだがあった。詳しくは下記事に書いた。

その後この鉄則に当てはまる女優たちを列挙しよう。「ファニー・ガール」のバーブラ・ストライサンド、「キャバレー」のライザ・ミネリ、「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」のリース・ウィザースプーン、「シカゴ」のキャサリン・ゼタ・ジョーンズ、「ドリームガールズ」のジェニファー・ハドソン、「レ・ミゼラブル」のアン・ハサウェイ、「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーン等々。ね、沢山いるでしょう?そしてジュリーにしろバーブラにしろ、ジェニファー・ハドソンもそうだけれど、確かに歌唱力は圧倒的だが演技に関しては???……頭の中で沢山の疑問符がくるくる回る。50年以上という長きにわたり、歌ったら有利である事実は揺らがない。

もう一つ挙げるなら、レディー・ガガは今や、昨年ハリウッドを席巻した #Me Too 運動のシンボル的存在になっていることである。彼女は19歳のときに音楽プロデューサーにレイプされたことをラジオで告白し、何年間もセラピーに通ったとその苦悩を語った。そしてガガはアメリカの大学キャンパスで起きた性的暴行の被害者を取り上げたドキュメンタリー映画"The Hunting Ground"のために作詞・作曲した<Til It Happens To You>でアカデミー賞歌曲賞にノミネートされ、授賞式でレイプ被害者たちと共にパフォーマンスを披露した。熱狂的なスタンディングオベーションで迎えられたことは言うまでもない(その時の報道記事はこちら)。

人は物語を求める。お膳立ては整った。あとは幕が上がるのを待つばかり。

なお「スター誕生」は今回、4回目の映画化である。ウィリアム・A・ウェルマンが監督し、1937年に公開された「スタア誕生」ではジャネット・ゲイナーがアカデミー主演女優賞にノミネートされた。ジョージ・キューカーが監督した1954年版ではジュディ・ガーランドがアカデミー主演女優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞ではミュージカル・コメディ部門で受賞した。1976年版ではバーブラ・ストライサンドが作詞・作曲し歌った〈愛のテーマ〉がアカデミー歌曲賞を受賞し、バーブラはゴールデングローブ賞(ミュージカル・コメディ部門)で主演女優賞に輝いた

話は変わるが、日本代表の是枝裕和監督「万引き家族」がアカデミー外国語映画賞にノミネートされるのは、ほぼ確実な情勢である。2008年「おくりびと」受賞以来の快挙となる。ただし、今回の受賞はメキシコ代表のアルフォンソ・キュアロン監督「ROMA」で間違いない。

それと、運がよかったら細田守監督「未来のミライ」が長編アニメーション部門にノミネートされるかも知れない。日本では評判が悪かったが、あちらでの評価はすこぶる高いみたい。今から愉しみだね。しかし受賞するのは多分ディズニー/ピクサーの「インクレディブル・ファミリー」だろう。

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続・終物語

今まで長らく封印してきたのだが、遂にそれを解き、西尾維新原作の〈物語〉シリーズについて語ることにしよう。

僕が最初に観たのは2016年1月から17年1月にかけて東宝で公開された三部作の劇場アニメ「傷物語」(I 鉄血篇、 II 熱血篇、 III 冷血編)だ。時系列で言えば〈物語〉の発端に位置する。正直、これだけではどうもピンとこなかったので当ブログでは取り扱わなかった。

映画館に足を運んだきっかけは、「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされたからである。

「まどマギ」の新房昭之が〈物語〉シリーズの総監督を務めており、シャフトが制作したアニメをもっと観たいと思った。また「まどマギ」で異空間設計(プロダクションデザイン)を担当した劇団イヌカレーも参加している。

その後、AmazonプライムやNetflix、Huluで配信されたものを断続的に観た。アニメが製作された順番に列記すると、

  • 化物語(全十五話)
  • 偽物語(十一話)
  • 猫物語〈黒〉(四話)
  • 〈物語〉シリーズ セカンドシーズン(二十八話)←「猫物語〈白〉含む
  • 憑物語(四話)
  • 終物語 (二十話)

となる。結局合計すると八十五話!他にもiOS,Android向けにリリースされたアプリにて配信された「暦物語(十二話)があるらしい。時期的には「終物語」上・中巻(2015年10-12月に地上波で放送)と下巻(2017年8月12・13日にBS11で放送)の間。沢山の〈物語〉の集合体であり、時系列がバラバラなので、こうやって書いていてもややこしくて頭が混乱する。ま、そこがこのシリーズの醍醐味でもあるのだが。

〈物語〉シリーズを一言で評すなら、〈ハーレム〉のお話ということになるだろう。高校三年生の主人公・阿良々木暦はありとあらゆるタイプの女性たちからモテモテになる。ツンデレ(戦場ヶ原ひたぎ)、メガネっ子・巨乳(羽川翼)、ロン毛の妖女(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード)、幼女(忍野忍)、小学生少女(八九寺真宵)、ロリ系中学生(千石撫子)、ボーイッシュでBL好きの後輩高校生(神原駿河)、妹系ていうか正真正銘の妹!(阿良々木火憐/月火)、能面・影(忍野扇)、ツインテール・学級委員長で攻撃的性格(老倉育)、はんなり京都弁(影縫余弦)、童女・人形(斧乃木余接)、「何でも知っている」自信家(臥煙伊豆湖)等々。

わかりやすく言えば1994年に発売され、一世を風靡した「ときめきメモリアル(ときメモ)」みたいな感じかな。つまり恋愛シュミレーションゲームだ。ここで声を大にして言っておくが、僕自身は「ときメモ」をしたことは一切ないし、興味もなかった。プレステ自体持っていないしね(こういう言い訳を一々しないといけないので、〈物語〉シリーズを語るのは気が重い)。余談だが「ときめきメモリアル」は97年にフジテレビ制作で実写映画化された。その時ヒロイン・藤崎詩織を演じたのが吹石一恵で、今は福山雅治の奥さんね(僕は映画版も未見)。

恐らくこのハーレム状態がヲタクたちの妄想を膨らませ(王様気分)、絶大な支持を得て息の長い作品となっているのだろう。女性たちにとっては何が面白いんだかさっぱり理解出来ないかも知れないが、逆ハーレムの少女漫画「王家の紋章」を想い出して欲しい(プリンセス気分)。両者は鏡像の関係で全く同じ構造なのだ。「王家の紋章」も1976年10月の連載開始から未だに続いている(42年間!)。

キャラクター・デザイン:渡辺明夫が描く女の子たちは「萌え」というヲタクの心をくすぐる。東宝の川村元気プロデューサーが岩井俊二の「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」のアニメ映画化を企画した際、新房昭之に監督を依頼すると同時に「キャラクター・デザインは是非、渡辺明夫さんで」と指名したのは、〈物語〉シリーズのことが頭にあったからである。

また〈物語〉シリーズ恋愛シュミレーション怪異仕様となっている。怪異とは妖怪変化や幽霊のこと。つまり水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎」や手塚治虫「どろろ」の雰囲気を兼ね備えている。

で僕が一番好きなキャラクターは貝木舟(かいきでいしゅう)。詐欺師(悪役)として登場するのだが、どこか憎めない屈折したキャラクター。一筋縄ではいかず、人間に深み(闇)がある。特にセカンドシーズン恋物語」の彼は最高だね。あとネーミング・センスが上方落語「狼講釈」「べかこ」「深山隠れ」に登場する丹坊堅丸(どろたんぼうかたまる)みたい。因みに江戸時代の画家・鳥山石燕の今昔百鬼拾遺」には田坊(どろたぼう)という妖怪が登場する。

「まどマギ」もそうだが、新房昭之の演出は極めてスタイリッシュ。画面を横溢する無数の縦線と横線。そして時折アクセントとして登場する円。カッケー!首を曲げる独特なポーズ「シャフ度(シャフト角度)」のこともこのシリーズを通して学んだ(「まどマギ」や「打ち上げ花火」にも出てくる)。

で「終物語」で完結したと思わせておいて、「続・終物語」って一体どういうこと!?と狐につままれたような気分である。

Zoku

評価:B+

TOHOシネマズでイベント上映を鑑賞。公式サイトはこちら。上映時間は148分。はじめにテレビ放送ありきの企画であり、それを劇場公開用につなげたものなので長め。導入部は「鏡の国のアリス」を彷彿とさせる。つまり今までの〈物語〉シリーズに登場したキャラクターの反転した姿であり、返しの世界が描かれる。だから多分、本編を知らないと意味不明だろう。

まぁ、それなりに面白かった。おまけみたいなものだから。

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艱難汝を玉にす(Adversity makes men wise.)〜映画「ボヘミアン・ラプソディ」

評価:A+

Bohemian_rhapsody_imax

まずは下記事からお読みください。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」は完成までにトラブル続きで、紆余曲折があった。

主演のラミ・マレック(ロックバンド「クイーン」のボーカリスト、フレディ・マーキュリー役)と衝突していたブライアン・シンガー監督が感謝祭の休暇後に現場に戻らなかったことで、撮影終了2週間前にシンガーは解雇された。後任のデクスター・フレッチャーが監督を引き継ぐまでの間、撮影監督ニュートン・トーマス・サイジェルが監督代行を務めたという。

結局シンガーは解雇されるまでに2/3を撮り終えており、全米監督協会DGAの規定に従い、監督のクレジットはシンガーのみとなった

しかし出来上がった作品はそんな混迷を微塵も感じさせない、極めて高い完成度に到達しており、心底驚いた。奇跡と言ってもいい。事態の成り行きから考えればシンガーは当然、ポスト・プロダクション(編集作業など)に関与していない筈であり、このテンポの良さはデクスター・フレッチャーのセンスの賜物なのか、編集者(ジョン・オットマン)が優秀なのか?狐につままれたような気分である。

兎に角、音楽映画として出色の出来だ。はっきり言ってヒュー・ジャックマン主演「グレイテスト・ショーマン」より本作の方が格上。そしてシンガーの過去の代表作「ユージュアル・サスペクツ」や「X-MEN」シリーズより僕はこっちの方が断然好き。図らずも彼の最高傑作となった。

クライマックスでは1985年の史上最大のチャリティコンサート〈ライヴ・エイド〉の21分のパフォーマンスが丸々再現されている。

僕が本作を観ながら即座に脳裏に蘇ってきたのはクロード・ルルーシュ監督「愛と哀しみのボレロ」(1981)である(何と映画館で観て以来、既に37年が経過している)。作曲家として「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」のミシェル・ルグランと、「男と女」「ある愛の詩」のフランシス・レイの大御所ふたりが起用されたことでも話題となった。

フランス映画「愛と哀しみのボレロ」は終盤、エッフェル塔が見える野外ステージでモーリス・ベジャール振付、20世紀バレエ団のジョルジュ・ドンによるラヴェル作曲「ボレロ」のパフォーマンスがフルサイズで展開される。そしてその「ボレロ」に向かって全ての物語が収束していく。一方、「ボヘミアン・ラプソディ」も〈ライヴ・エイド〉の会場に一同が集結し、また一部の人達は生中継されるテレビを見ているという構成もそっくり同じなのである。そしてジョルジュ・ドンは後にAIDSで亡くなり、フレディ・マーキュリーと同じ運命を辿った(マーキュリーは91年、ドンは92年に死去)。

この〈ライヴ・エイド〉がアガる演出で、映画館は興奮の坩堝と化した。ロンドン郊外のウェンブリー・スタジアムをカメラが縦横無尽に駆けるのだが、恐らく遠景はCGの筈なのだけれれど、CGとエキストラを動員した実写との繋ぎ目が全く分からない!それくらいリアルなのだ。臨場感が半端ない。

本作はフレディ・マーキュリーの劣等感に焦点が当てられる。出っ歯であること。そしてペルシャ系インド人で、周囲から「パキ!(パキスタン人のこと)」と侮辱されるファルーク・バルサラが、戸籍までも名前をフレディ・マーキュリーに変え、ゾロアスター教徒であることを生涯隠し続けたことに対する罪悪感。それが「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞に結実する。

Mama,just killed a man,
Put a gun against his head,
Pulled my trigger,now he's dead,
Mama,life had just begun,
But now I've gone and thrown it all away-

ママ、たったいま人を殺してしまった
彼の頭に銃を突き付け
引き金を引いたら、彼は死んだ
ママ、人生は始まったばかりなのに
僕はその一切を駄目にしてしまった

この、僕が殺した"a man"がファルーク・バルサラを指すことは言うまでもない。

またフレディは最後まで、自分がゲイであることを明言しなかったが、これは当時の社会情勢と無縁ではないだろう。イングランドとウェールズで21歳以上の男性同士の同性愛行為が合法化されはのは漸く1967年のことである(それまでは逮捕され刑務所に収監されるか、同性愛を「治療」するための化学療法を受けるかの選択を強いられた)。しかしスコットランドでは1980年、北アイルランドでは1982年になるまで、同性愛は違法だった。

なお、ブライアン・シンガー監督はバイセクシャルだとカミングアウトしており、「最終的に僕はゲイの方向に進んでいると思います。感情的な部分で、男性との関係に傾倒しているので自分はゲイなのだと思います」と語っている。

映画ではフレディと元マネージャーのポール・プレンターや、最後の恋人ジム・ハットンとの関係が赤裸々に描かれる。

しかし本作でユニークなのがメアリー・オースティン(ルーシー・ボイントン)の存在だ。つまりフレディは観念(ギリシャ哲学でいうイデア)においてメアリーを心から愛しているのだが、肉体欲望)は男を求めてしまう。その自己が引き裂かれるというテーマが新鮮だった。

僕がふと想い出したのが映画「五線譜のラブレター」(2004)で描かれた、ゲイの作曲家コール・ポーターと、そのセクシャリティを受け入れ、彼を支えた妻リンダの関係性である。

さて、〈ライヴ・エイド〉で歌われる「レディオ・ガ・ガ」はものすごい高揚感なのだが、聴きながらこれを芸名の由来とするレディー・ガガ主演の映画「アリー/スター誕生」に見事に繋がっていくんだなと鳥肌が立った。なおレディー・ガガはアカデミー主演女優賞ノミネートが確実視されており、賞レースは彼女とグレン・クローズの一騎打ちの様相を呈している。

追伸:本作に由縁のある大阪桐蔭高等学校吹奏楽部の生徒さんたちは全員で、映画を鑑賞されたのだろうか?もしそうなら、若い人たちがどういう感想を持ったのか、とても興味がある。

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四元素でたどる音楽史〜古楽最前線!ー躍動するバロック@いずみホール

古代ギリシャ時代には万物全てが「水」「気(風)」「火」「地」の四つの元素で構成されていると信じられ、近代科学が成立するまで大きな影響力を持っていた。ここには、【人間は二項対立で思考するものだ】という基本構造が隠されている。

まず〈気⇔地〉〈火⇔水〉という2組の基本的な二項対立があり、〈気⇔地〉は垂直方向の差異〈上(天)⇔下(地)〉、〈火⇔水(雨・川)〉は〈上昇⇔下降〉として示される。「気(風)」は生者、「地」は死者のメタファーでもある。また「火」は愛(情熱)、「水」は無関心(つれない)と言い換えることも出来るだろう。

次に〈火・気⇔水・地〉という組み合わせは〈温かい⇔冷たい〉であり、〈火・地⇔水・気〉は〈乾いた⇔湿った〉という二項対立を表している。これらを図にすると次のようになる。

4

日本人の感覚でこの分類はピンとこないかもしれないが、乾燥した地中海の気候をイメージしていただきたい。オリーブが育つ土壌で、春の訪れを告げる豊穣の西風ゼピュロスや、暖気と雨を運んでくる東風エウロスが吹く場所。

11月2日(金)いずみホールへ。

Izumi2

今年亡くなった礒山雅 招聘教授〈企画・監修〉による、【古楽最前線!】シリーズ第1回目はレクチャー&コンサート「四元素でたどる音楽史〜中世からモンテヴェルディまで」と題された。

演奏はカペラ・デ・ラ・トーレ(ピリオド楽器管楽アンサンブル)初来日とマーガレット・ハンター(ソプラノ)。お話は市川克明(音楽学)。

曲目は、

作曲者不詳:ファンファーレ(16世紀)
ランディーニ:さあ、春が来た

~WATER~「水」の巻
ビクトリア:めでたし、海の星
作曲者不詳/即興:バスダンス《新アリオト》(15世紀)
ギッツォーロ:セイレーンの歌/ネプチューンの応答
アルカデルト:真白で優しい白鳥は
アレグリ:セーヌのニンフたちの第5バッロ

~AIR~「気」の巻
フレスコバルディ:そよ風吹けば
(伝承曲):パッサメッゾ
モンテヴェルディ:いとも優しいナイチンゲールよ
プレトリウス:カナリー(カナリア)
モンテヴェルディ:西風が戻り

~FIRE~「火」の巻
作曲者不詳/カヴァリエーリ:おお、なんと新たな奇蹟よ
作曲者不詳:愛の神よ、与えてください(16世紀)
フォリアーノ:甘い愛の炎
トロンボンチーノ:あくまで従ってまいります
作曲者不詳:戦いの道をたどろうとする者は(17世紀)

~EARTH~「地」の巻
ビクトリア:レクイエム入祭唱
ホルボーン:パヴァーヌ:葬送
      アルマンド:愛の果実
ピッファロ:あなたの神々しい姿を
ランディ:生のパッサカリア~「死なねばならぬ」

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カペラ・デ・ラ・トーレは2005年にミュンヘン生まれのショーム奏者カタリーナ・ボイムルによって創設された。今回使用された楽器は、

  • ショーム(シャルマイ・ポンマー):オーボエの前身
  • ドゥルツィアン:ファゴットの前身
  • サックバット:トロンボーンの前身
  • ツィンク(ルネサンス・コルネット):発音機構上金管楽器に属すが、木製
  • リュート、テオルボ:撥弦楽器
  • ポジティフオルガン
  • 打楽器

伝承曲「パッサメッゾ」は変奏曲になっており、途中からまるでジャズの即興演奏(インプロヴィゼーション)風になり、ノリノリだった。

モンテヴェルディ「西風が戻り」は奏者が一人ずつ演奏をやめ、舞台を立ち去り、最後はテオルボとオルガン奏者のふたりだけに。ハイドンの交響曲 第45番「告別」を彷彿とさせるな演出。

ヨーロッパの洗練を感じさせる、愉快な演奏会だった。

市川克明氏から、「1600年を境にオペラが生まれ(ヤコポ・ペーリ「ダフネ」「エウリディーチェ」)、長調と短調が明確に別れたのもこの頃」というお話があり、大変興味深かった。なお、モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」が初演されるのが1607年である。

またトロンボンチーノは奔放な人だったと触れられたので、興味を持って帰宅後調べてみた。

ルネサンス期に活躍した作曲家バルトロメオ・トロンボンチーノはその名の通りトロンボーン奏者でもあった。メディチ家のために演奏していたこともあるという。しかし素行に問題があり、マントヴァで宮廷音楽家となるもその悪行ゆえヴェネチアに逃亡。またマントヴァに戻ったと思ったら、今度は妻が愛人と密会しているのを目撃して殺害した。これは当時の慣例で許されたが、さらに別の悪行に及んで再びマントヴァを去り、フェラーラの宮廷に仕えるようになった。

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アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽

に続く、三部作完結編をお届けする。この記事を執筆するに際し、参考にした書籍は最後に列記する。

オーストラリア映画の金字塔「ピクニック at ハンギング・ロック」との出会いを契機に、アボリジニの創造神話ーそれは思想といっていいー〈ドリームタイム〉に心を奪われた。〈ドリームタイム〉は現地の言葉でtjukurpa(チュクルパ)、あるいはalcheringa(アルチェリンガ)という。

アボリジニとはオーストラリア先住民の総称であり、17世紀にオランダ人が初めて大陸に到来した時に、言語は250種類、部族の数は700以上存在したと言われている(現在は激減)。彼らは文字を持たず、農耕も家畜もしない。

アボリジニには「時間」という概念がない。彼らにとって「創造」は過去→現在→未来へと連続する運動ではなく、主観的状態から客観的状態への移行を意味する(通時的ではなく、共時的な思考の構造)。「夢見(ドリーミング)から実在が生じる」のである。

つまり先祖(原初)の夢見(ドリーミング)が実相であり、我々が触知出来るこの世界(yuti;ユティ)はその内的ヴィジョンの外界への投影=仮相ということになる。現代に生きる我々は原初の夢見の中で、さらに夢見ているのだ。アボリジニは二つの世界を並行して生きている。

偉大なる彼らの祖先はエネルギー場のような、触知出来ない振動する身体を備えていた。振動するエネルギー=気息から音、言葉、歌が生み出された。〈ドリームタイム〉における創造とは、この世に歌いだされた世界のことを意味している。その足跡は〈ソングライン〉と呼ばれ、オーストラリア全土を縦横に走っている。隔たれた場所で暮らす各部族は〈ソングライン〉をコミュニケーション・ネットワークにすることで、お互いの文化を交換しあっている。

アボリジニの言葉を借りれば「森羅万象には、夢見(ドリーミング)がある」。植物とは、種子が見た夢である。

ある長老はこんな言葉を残している。

ほうぼうの土地や動植物を何らかの目的で利用したり、食べたりする場合にはまず、土地や動植物の夢見に入り込む術を身につけなければならないんじゃ。白人たちは、そんなことはいっさいしない。だから、病気になったり、気がふれたりして、身を滅ぼしてしまうのじゃよ。

【ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界」より】

建築物の場合、資材となる石やレンガそれ自体の内に可能性(potential)が秘められていると彼らは考える。建築家だけではなく石の方でも夢見があり、そこから建物が生み出されてゆくというわけだ。

人類は当初、意識の主観的なエネルギー状態として存在する。夢、直感、そして思考は、振子のように揺れながら、外界を対象化(外在化)してゆく。物質の創造や活動に参加するようになると、意識の振子は一転して、客観的実在から主観的状態へと振り戻され、内的記憶となる(〈ドリームタイム〉への魂の再吸収)。ここに円環構造がある。ニーチェが言うところの永劫回帰だ。

アボリジニの先祖はみな、人間と(他の)動物の特徴を併せ持っており、そのどちらにも姿を変えることが出来た。夢見(ドリーミング)が完了すると、先祖は大地の中へと姿を消し、「潜勢力(potentiality)」となった。そして動物とヒトは再び結び合わされ氏族トーテムとなった(これが父系半族と母系半族に分かれる)。

人類の内的心理状態と情緒が、外的には、動物の体や行動に象徴されることにより、「ライオンのように勇敢な」「チョウのように繊細な」「ハチのように忙しい」「鳥のように自由な」といった言い回しが、世界中の言語に溢れている。そこには人間の本性と動物との密接な関係が如実に現れている。生態学者ポール・シェパードによれば、ノアの箱舟は、人類の集合的無意識の象徴だという。

アボリジニは空間を距離とは考えない。空間内にある知覚可能な実在はちょうど「意識」に相当し、対象間に存在する肉眼では見えない空間は、「無意識」に当たる。「意識」と「無意識」は常に同じものであり、「無意識」とは、夢見(ドリーミング)という連続体の一部なのだ。〈意識+無意識=森羅万象〉は覚醒と睡眠、生と死のあいだで出現と消滅を繰り返している。

夢見という観点から見れば、昼と夜とは同時に存在している。アボリジニにとってとは無意識の象徴の最たるものであり、不可視のものが姿を現し始める夢見(ドリーミング)にほかならない。は大地と、生きとし生けるものを豊かにする神秘のエネルギー源であり、鎌首をもたげる虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)は大地と天空を結ぶ立法者である(水を司り、洪水をもたらす)。両性具有である虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)の腹の中には森羅万象が内包さている。虚空をゆく鳥は、無意識の使者であり、稲妻が放つ閃光は、無意識の内奥から溢れ出たエネルギーの荒々しい放電である。

Mimisnake
↑虹蛇の横に立つのは精霊ミミ。背が高くマッチ棒のような身体で、岩の裂け目に住み、人々から恐れられている。

夢の論理によれば、人類とその他の生物との間には垣根など一切存在しない。だからアボリジニはどんな生物にも変身出来るし、どんな生物の意識をも味わえる。夢の中では、主体と客体は相互に入れ替わることが出来る。

ここで20世紀以降に得られた科学的知見から検討してみよう。宇宙に存在する「形あるもの」は、究極的に素粒子(電子+クオーク)で構成される。素粒子は「物質」ではなく、「状態」である。ここで粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を併せ持つ存在として「量子」(quantum)が定義された。「量子」は微小なエネルギー量の単位であり、素粒子=量子である。つまり世界を構成するのは、突き詰めればすべてエネルギーということになる。また「場の量子論」では、時空間を満たす「場」という存在を考え、場の一部が振動してエネルギー量子のように振る舞うのだとされる。つまりアボリジニの思想と現代物理学は次のような対応関係が成立する。

  • 大地/先祖→夢見(ドリーミング)→我々が知覚する世界(ユティ)
  • 宇宙/時空間→それを満たす場の振動/エネルギー→物質/生命

さらに〈ドリームタイム〉は、ユング心理学における集合的(普遍的)無意識に相当すると考えられる。

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ユングは集合的無意識の中に存在する元型(archetype)という概念を提唱した。アニマ(男性が持つ内なる女性性)・アニムス(女性が持つ内なる男性性)・老賢者(The Wise Old Man)・太母(The Great Mother)・永遠の少年/少女(幼児元型)がその代表例だ。アボリジニが言う、〈ドリームタイム〉における先祖とか精霊はこの元型(archetype)に合致する。例えば彼らの神話に登場するウィーリーヌンは字義的に「賢い男」を意味し、魔法使いや学識者を指す。正に老賢者(The Wise Old Man)そのものである。またムリー・ムリーという、ウィーリーヌンが指示を与える夢の精霊(使い魔)が活躍するのも面白い。

絶え間ない変化と適応を繰り返すユティ(知覚可能な世界)から〈ドリームタイム〉に移行するための手段として、睡眠・儀礼(イニシエーションなど)・祭儀(踊り→トランス状態)・音楽(歌謡/ディジュリドゥ)・美術(岩絵/ボディ・ペインティングなど)・うなり板(ブルロアラー bullroarer)・神話・水晶や石などのトーテム(象徴)がある。

Bullroarer
↑うなり板:紐の一端を持ち、空中で回旋させることで音を発す。精霊の声とされる。宮崎駿「風の谷のナウシカ」では〈蟲笛〉として登場した。

ピクニックatハンギング・ロック」の岩場(モノリス)もトーテムであり、〈ドリームタイム〉への入口となった。アボリジニの聖地エアーズロック(ピチャンチャチャラ/アナング族の言葉ではウルル)や、スピルバーグ監督「未知との遭遇」に登場するデビルズ・タワー(アラパホ族などアメリカ先住民族が熊信仰の対象とした)も同様の役割を果たしている。水晶内にクラック(ひび割れ)を持つものはそのクラック面が光を反射する際に虹色に輝く。つまり虹蛇に結びつき、原初のエネルギーと共鳴する。ウルルの泉にも虹蛇が住むとされる。

夢見へのステップは①感覚が異常に研ぎ澄まされる知覚過敏②五感が渾然一体化する「共感覚」がある。例えばある色を見ると特定の音が現実に聞こえてしまう。ある種の味を味わうと、ある色が見えたりするなど。1960年代〜70年代前半に欧米のヒッピーたちの間で流行った、LSDなどの幻覚剤によるサイケデリック体験がそれに近い。

 その昔、大地が真っ暗で深いしじまに包まれていたころ、不毛な地表を動く物陰は何一つなかった。ヌッラボル平原に穿たれていた深い洞窟には、美女の「太陽」が眠っていた。偉大なる父の精霊は、太陽をやさしく目覚めさせると、彼女に「洞窟から出てきなさい。宇宙をかき回して生命を生み出すのですよ」と言った。母なる太陽が目を覚ますと、彼女から放射される光線が、大地の上に広がって、暗闇はすっかり消え失せてしまった。太陽が息を吸い込むと、大気の様子は一変してしまった。かすかなそよ風が吹くと、大気はやさしくうち震えた。
 母なる太陽はそれから、長旅に出かけることにした。北から南へ、そして東から西へと不毛の大地を横切っていったのだ。大地には、森羅万象を生み出す種子の潜勢力が備わっていた。太陽が放つやさしい光が大地に降り注ぐ所にはどこにでも、草や低木や木々が生え、やがてその土地は、あたり一面、植物に覆われてしまった。

【ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界」〜カッラウル族の神話】

上記アボリジニ神話って、「古事記」に書かれた「天の岩戸」開きに凄く似ていませんか?天照大御神=太陽神=女神であり、アボリジニの太陽も女神イェだ。月は男神バールー。一方、ヨーロッパのギリシャ神話では、太陽神ヘリオス(≒アポロン)は男。月は女神で、セレネやアルテミスが該当する。日本の月詠(ツクヨミ)は男神とされるが、詳しい記載はない。アボリジニ神話はヨーロッパよりも、断然日本神話に近い。

オーストラリア最北端の島、メルビル島に暮らすティウィ族の神話に登場する太陽神はプキという名の女神で、空からやってきて大地と海と島を創造した。また動物や木々や川もつくりだした。海はまだ淡水だったが、ツルのイリチに頭を殴られた衝撃でプキはおしっこを漏らし、海を塩からくしたという。

次にニューサウスウェールズ州のンゲアンバ族の神話を紹介しよう。

 この世の最初のころにはまだ男はいず、人間は姉妹だけだった。ある日の夕方、妹は一人で平原にでかけていき、花を一つ摘み、樹皮をはぐと、その中に花をそっとおいた。それからその樹皮を丸太の陰においた。つぎの日も、そのつぎの日も彼女が様子を見に来ると、花は男の子の赤ん坊になっていた。
 大きく成長したその子は、やがて呪術師になり、ムレイアンと名づけられた。彼はワシタカだった。彼は空にのぼると赤く輝く星になった。それはいまも天空に瞬いている。

松山利夫(著)「精霊たちのメッセージ ー 現代アボリジニの神話世界」より】

これは正しく〈母性原理〉の物語であり、最初の男アダムの肋骨から最初の女イヴが創られたとする〈父性原理〉の「旧約聖書:創世記」とは対極をなす。

オーストリア先住民は狩猟採集社会に生き、日本人は農耕民族である。この違いはしっかり認識しておく必要がある。しかし重要なのは、天照大御神の神話が生まれた時代に日本で農耕は未だ始まっていなかったという事実だ。水稲農耕が開始されたのは紀元前5世紀、弥生時代と推定される。つまりアボリジニの神話は狩猟採集生活を送っていた頃の日本人の心のあり方に近いと言えるだろう。余談だが「天の岩戸」神話には矛盾がある。天照大神が鏡に写る自分の姿を、別人の〈貴い神〉だと勘違いする場面があるのだが、中国から日本に銅鏡が伝来したのは弥生時代の紀元1世紀頃と言われており、神々の時代に合致しない。「古事記」に編纂されるまでは口伝だったわけで、恐らく鏡の逸話は後年付け加えられたものではないだろうか?歴代演者の工夫が積み重ねられた古典落語のように。つまり神話は共時的に読解する必要がある。

また「こぶとりじいさん」によく似た、「踊るカンガルー」というアーネムランド(オーストラリア北部)に伝わるアボリジニ神話もある。

さて、20世紀を代表する作曲家・武満徹は1980年9月にオーストラリア北端のグルート島を旅し、オーストラリア全域からこの島に24の異なる部族(トライブ)の原住民が集まり、一週間に渡り彼らの祭祀、うたや踊りによる交歓が行われるを目の当たりにした。

 グルート島への旅で思い返されるのは、踊りや祭祀を含めた原住民(アボリジニ)の生活だが、その未分化の名づけようもない巨大な自然空間が、わたしたちとおなじこの惑星のうえに存在しているということが、いまは異様にさえ感じられる。今日、わたしたちは、自然を失ったと口にするが、わたしがみたグルート島の自然は、わたしたちが相対概念として拵(こしら)えあげた「自然」などではなく、大地そのものであり、そこでは生命(いのち)は相争うものではなく相互に生かし合い、自然は動いてやまない。(中略)
 グルート島には、自然が与えてくれるディッジャリデュー(中空にした木で、息をふきこむ)のようなものはあっても、そのほかに、人為的な楽器というものはまったく無い。白アリがその髄を喰って空洞にしたマングローブやユーカリ樹の幹を、管を吹くように息を吹きいれて音をたてる。それは、ちょうど、ディ・ジャ・リ・デュー、というように響くのだが、直接、大地から聴こえてくるような、低く唸るような音である。

【武満徹(著)「音楽を呼びさますもの」〜グルート島素描】

Barton

 言語が発達して、ことばの指示機能が先鋭になることで、(私たちが)失ってしまったものは大きいように思う。(中略)音楽は知的に理解されるだけのものではない。音楽言語ということが言われるが、これは一般的な文字や言語と同じではないだろう。音楽には、ことばのように名指ししたり選別したりする機能は無い。音楽は、人間個々の内部に浸透していって、全体(宇宙)を感じさせるもので、個人的な体験でありながら、人間(ひと)を分け隔てるものではない。(中略)
 かれら原住民(アボリジニ)にとって、すべては自然と大地が齎(もたら)すものであり、かれらの生は自然に支配され、かれらはけっして自然を支配しようなどと思わず、かれらのうたや踊りは、だから、かれらの肉体(からだ)を通して表象される自然そのものなのである。

【武満徹(著)「音楽を呼びさますもの」〜グルート島紀行】

この体験を通して生まれた武満の楽曲が「夢の時」"Dreamtime"(for orchestra)である。

ディジュリドゥの音は動物の鳴き声(特にカエル)に近い。また時に僧侶による読経のようにも聞こえる。音階が存在せず、西洋音楽の平均律とは全く概念が異なる。ムルンギン族の神話では虹蛇がディジュリドゥを所有しており、それが歌い出すと、虹蛇に呑み込まれて死んだ筈の姉妹と彼女らの赤ん坊は生き返った(死と再生)。

武満徹は「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」で初代監修を務め、その最後の年ー1998年の委嘱作品がオーストラリアの作曲家、ピーター・スカルソープ(1929-2014)の「グレート・サンディ・アイランド」だった(武満は96年に死去したが、人選は98年までなされていた)。初演時には武満の「夢の時"Dreamtime"も演奏された

スカルソープはタスマニア島で生まれた白人である(3万7千人いたタスマニアン・アボリジニはイギリス植民者に一掃され、19世紀末に絶滅した)。彼の作品中、何と言っても一番の聞きものは「アース・クライ(大地の叫び)」だろう(→NMLで試聴)。ディジュリドゥ(無調)とオーケストラ(調性)が競演する。摩訶不思議で、とてもスリリングな音楽だ。動画視聴はこちらからどうぞ。スカルソープにはディジュリドゥを伴う弦楽四重奏曲という、けったいな作品群もある(→NMLで試聴)。またS.オボイル/W.バートン:ディジュリドゥ協奏曲も一聴をお勧めしたい(→NMLで試聴)。

今回〈ドリームタイム〉を体感するために、万博記念公園(@大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館に足を運んだ。大変充実したコレクションがあり、虹蛇や精霊ミミの絵とか、ディジュリドゥ、ブーメラン、柱状棺(遺骨の容器)などが展示されていた。わざわざ行った甲斐があった。

最後に、アボリジニへの理解を深めるために役に立つ映画をいくつかご紹介しよう。

美しき冒険旅行WALKABOUT (1971)

Walkabout

「赤い影」で知られるニコラス・ローグ監督作品。ローグは「赤死病の仮面」「華氏451」などの撮影監督としても名高く、本作でも撮影を兼任している。大変映像が美しい。

アメリカで最も著名で信頼された映画評論家ロジャー・エバート(1942-2013)が"The Great Movies"と題し、過去100年の中から選りすぐった映画リストの中に「ピクニック at ハンギング・ロック」と並んで本作も入選している。

原題のwalkaboutとはビンダブー族(bindaboo Tribe)に属するアボリジニの少年が大人になるための通過儀礼のこと。そこに、ひょんなことからオーストリアの砂漠を放浪するはめになった白人の姉弟との出会いと、別れを描く。弟(6歳)を演じているのが、ニコラス・ローグの息子である。

これは二度と戻ることが叶わない、「エデンの園」での日々(失楽園)の物語である。胸がかきむしられるくらい痛ましく、しかしそれ故に輝かしい、忘れ得ぬ傑作。一押し!

007シリーズや「ある日どこかで」で知られるジョン・バリーの音楽が素晴らしい。途中児童合唱が登場するのだが、歌詞は「マザー・グース」の1篇<クックロビン(だれがコマドリを殺したの?)〉から採られている。また映画冒頭にはディジュリドゥの音も聴こえる。

裸足の1500マイルRabbit-Proof Fence (2002)

Rabbit Rabbitproof_fence

1931年のオーストラリアを舞台に、アボリジニと白人の親を持つ混血(ハーフ・カースト half-caste)の子どもたちに対する隔離・同化政策を描く。強制収容所の理不尽さ、白人どもの傲慢さに、怒り心頭に発することは必定。ディズニー実写版「シンデレラ」や「オリエント急行殺人事件」リメイク版の監督としても知られるケネス・ブラナーが名演技を披露。原題は〈ウサギよけの囲い〉のこと。本作で描かれる児童隔離政策の犠牲者たちのことを〈盗まれた世代 (Stolen Generation)〉と言う。

「サムソンとデリラ」 Samson and Delilah (2009)

Samson

現代のアボリジニが置かれた、厳しい現実を描く。ワーウィック・ソーントン監督はアボリジニ出身で、第62回カンヌ国際映画祭でカメラドール(新人監督賞)を受賞した。セシル・B・デミル監督の同名作品と混同しないよう要注意。

本作に登場する、アボリジニの間で社会問題になっているという、ガソリンを吸引し酩酊を楽しむ〈ペトロールスニッフィング petrol-sniffing〉という習慣にはカルチャーショックを受けた。

また、ワーウィック・ソーントン監督の新作で、2017年ベネチア国際映画祭に於いて審査員特別賞を受賞した"Sweet Country" は、日本公開が決まれば是非観たいと思っている。予告編は→こちら

参考文献:①ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界 ー ドリームタイムと始まりの日の声」青土社 
K・ラングロー・パーカー(著)松田幸雄(訳)「アボリジニー神話」青土社 
③松山利夫(著)「精霊たちのメッセージ ー 現代アボリジニの神話世界」角川書店 
④ジーン・A・エリス(著)国分寺翻訳研究会(訳)「オーストラリア・アボリジニの伝説 ー ドリームタイム」大修館書店
⑤武満徹著作集 2より「音楽を呼びさますもの」新潮社
⑥ハワード・モーフィ(著)
松山利夫(訳)「アボリジニ美術」岩波書店
⑦ジェームズ・ヴァンス・マーシャル(再話)百々佑利子(訳)「カンガルーには、なぜふくろがあるのか」岩波書店

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