アニメーション・アニメーション!

2017年9月20日 (水)

夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密の鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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2017年9月 9日 (土)

【アフォリズムを創造する】その7「矛盾について」〜宮﨑駿という男

世の中では首尾一貫した行動が褒められる。「AだからBだ」と筋が通った発言が求められる。原因があって結果がある。それは一般に永遠不変の真理とされる。例えば「神様がいるから、現在の我々が存在する」といった具合だ。旧約聖書によると人(アダム)は神の姿に似せて創造され、女(イヴ)はアダムの肋骨から創られたという。

論理的思考が法体系を整備し、科学を発展させてきた。コンピューターは全て2進法で計算し、情報を処理する。

「辻褄が合う」ことが良いとされる。そういう理屈を考えるのは意識自我(ego)の部分だ。しかし人のからだ・自己(self)はもっと大きな理性で出来ている。そこには無意識が含まれる。無意識混沌としており、という訳の分からないもので出来ている。深層心理学において、それを探る方法が分析である。

宮﨑駿のアニメーション映画「風の谷のナウシカ」を初めて観たのは大学生の時だった。その時から僕は「矛盾に満ちた人だなぁ」と想っていた。

宮さんは「戦争は駄目だ」「《風の谷》のように人は自然とともに生き、自給自足の生活をおくるのが一番幸せだ」と言う。しかし宮崎アニメの醍醐味は戦闘シーンにある。彼は戦車や戦闘機など殺戮兵器が大好きだ。意識が語る言葉と、からだが示すことが分裂している。その極めつけが次の場面だ。

ペジテ市の輸送船に捕えられたナウシカの脱出をアスベルが助ける。メーヴェに乗り飛び立つナウシカをトルメキア帝国の武装航空コルベットが追撃する。万事休すかと思われたその時、ナウシカの救援に駆けつけたミトのガンシップが正面から忽然と現れ、その砲撃でコルベットは大破、撃沈する。ナウシカは当初「ミト!」と満面の笑みを浮かべるが、その直後に炎上し墜落するコルベットを振り返り、「嗚呼、あの船に乗っている人たちは皆死んでしまうんだわ」と哀しみの表情に変わる。「殺さないで!」と叫ぶ一方で、敵を殲滅することで自分が助かったのを喜んでいる(実際別の場面で彼女は怒りに駆られ、トルメキア兵を数名殺戮している)。完全に矛盾している。

平和や自然、調和を愛する(アポロン的である)一方で、根源から湧き上がる破壊衝動(デュオニソス的側面)がある。この矛盾は終始、宮崎アニメに付き纏ってきた。

宮﨑駿は一貫して共産主義者(communist)である。東映動画時代は高畑勲と一緒に労働組合幹部として会社と闘った。《風の谷》も、「もののけ姫」の《たたら場》も、生活共同体(commune)幻影の産物である。しかしその反面、スタジオ・ジブリ時代は日本テレビと組み大ヒットを飛ばし、米国配給では資本主義の権化とも言うべきディズニー・スタジオの協力を得た。もし宮﨑駿がソビエト連邦や中華人民共和国に生まれていたら、今日のような作品は生み出せなかっただろう。これも矛盾だ。

そんなある日、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが彼にこう言った。「宮さん、矛盾に対する自分の答えを、そろそろ出すべきなんじゃないですか。年も年だし」そうして生まれたのが「風立ちぬ」である。

「風立ちぬ」の堀越二郎は悪魔に魂を売った男である。彼は零戦の設計に全精力を注ぐ。それは殺戮兵器=戦闘機である。何故か?「美しいから」……答えは極めてシンプルだ。彼は善悪の彼岸にいる。他人からどんなに誹られようと構わない。糾弾・問責はしっかりと受け止める。それでも夢を信じ、自分がやりたいことを貫き通す。その覚悟についての物語である。つまり本作の肝は、力強い矛盾の肯定だ。真に美しい映画であった。

混沌(chaos)から創造が生まれる。世界は矛盾で満ちている。矛盾した自己(self)、混沌とした世界をまず肯定することから生を始めよう。

また宮﨑駿へのインタビュー記事をまとめた本「風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡」の中で彼は次のように語った。

旧約聖書の中の一書)伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。

引用文中下線部は噺家・立川談志の言う「人間の業」の肯定と全く同じ趣旨である。

そして(「人生なんて所詮こんなものだ、意味なんかない」という)ニヒリズムを突破し、自分自身を克服せよ!という主張はニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じたこと。宮﨑駿はあくまでPositive thinkingの人なのである。

ギリシャ神話において、パンドラの箱を開けると世界に禍々しい災厄がもたらされるが、最後に「希望」が残った。「風の谷のナウシカ」や「崖の上のポニョ」のラストシーンが正にそれである。

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2017年9月 7日 (木)

ブレンダンとケルズの秘密

評価:A

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「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」のトム・ムーア監督がその前に手掛けた作品で、漸く日本で公開された。2作連続で米アカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートされている。

映画公式サイトはこちら

ケルズの書とは8世紀にアイルランドの修道士たちの手で完成された装飾写本で現在はアイルランドの国宝となっている。ケルト特有の渦巻き、人、動物が描かれ、「世界で最も美しい本」と呼ばれている。

Kells1 Kells2

兎に角、美しいアニメであった。「ソング・オブ・ザ・シー」の方がより洗練されているが、それで本作の価値が下がるわけではない。

アイルランドのアニメーション・スタジオ「カートゥーン・サルーン」の作品はNetflixで配信されているテレビ・シリーズ「ウーナとババの島」(Puffin Rock)も観ているのだが、円を主体とする絵柄に特徴がある。で「ブレンダンとケルズの秘密」を観て、その原点がケルズの書にあったのだなということがよーく分かった。

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2017年8月28日 (月)

【アフォリズムを創造する】その3「超人」とは何か?そして「永劫回帰」とは?

存在の不安から、また生きる意味を見出したくて人間は神や天国という超越的な価値、理想郷をでっち上げた。しかし神は死んだ。フリードリヒ・ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じた超人とは「この世に神様が存在しないんだったら、人間がその代わりを務めればいいんじゃね?」という発想に集約される。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは精神(=生)の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。「汝なすべし」と義務を課す大きな龍(=神)がライオンの行く手を阻む。しかしライオンは「われ欲す」と答える。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになるのだ。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

超人の秘密を知りたかったら映画「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督)を観よ。あるいはアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」(新房昭之)や「攻殻機動隊」(押井守)でもいいだろう。

「2001年宇宙の旅」の最後に木星探査船ディスカバリー号のボーマン船長はスターチャイルドへと進化を遂げる。このスターチャイルドこそ、ニーチェの言う子ども超人だ。だから映画の冒頭と最後にR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」が高鳴るのである。この時地球の向こう側から太陽が登って来るのだが、太陽とはツァラトゥストラの象徴である。ツァラトゥストラはゾロアスター(モーツァルトのオペラ「魔笛」に登場するザラストロも同じ)のドイツ語読み。ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーは太陽神であった。

「魔法少女まどか☆マギカ」の最後に鹿目まどかは「アルティメットまどか」に変身する。この「アルティメットまどか」も超人である。そして「アルティメットまどか」は全ての魔法少女たちを円環の理(えんかんのことわり)へ導く。円環の理とは何を隠そう、「ツァラトゥストラはかく語りき」で言及される永劫回帰(えいごうかいき)のことである。

また「マトリックス」にも多大な影響を与えた「攻殻機動隊」の最後に、主人公・草薙素子はネットの海に溶け込み同化する。これは彼女が神(超人)になったことを意味している。「2001年宇宙の旅」で人類に進化を促すモノリス(石版)を創った宇宙人は映画終盤にベッドルームで笑い声を発するが、姿は見えない。つまり彼らも草薙素子同様に肉体(「攻殻機動隊」における義体)を失い、魂が海(宇宙)に漂っている存在であると推定される。

また原作:大場つぐみ、作画:小畑健による少年漫画「DEATH NOTE デスノート」もまた、神になろうとした男の物語である。しかしその野望は死神リューク(ゲーテ「ファウスト」に登場するメフィストフェレスの役回り)の気まぐれで打ち砕かれる。金子修介監督による映画版も、舞台ミュージカル版も完成度が高い(Netflix版には絶対手を出さないように!!)。

永劫回帰とは超人的な意思により、ある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことである。

永劫回帰はウロボロスのイメージで表せる。己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。あるいは禅宗における書画「円相」にも喩えられるだろう。始まりもなく終わりもない。音楽で言えば短い音型やリズム・パターンを反復する)ミニマル・ミュージックがこれに該当する。

Uroboros Ensou

上図左がウロボロス、右が円相である。

永劫回帰のことをもっとよく知るためには、押井守監督の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」も参考になるだろう。「ビューティフル・ドリーマー」で意思する者はラムであり、「まどマギ」では「アルティメットまどか」。そしてになったまどかを取り戻すために悪魔になることを決意する暁美ほむらもそう。この悪魔の対決は、ミルトンの小説「失楽園」に基いている。さらに永劫回帰「ループもの」映画の代表として、他にビル・マーレイ主演「恋はデジャ・ブ Groundhog Day」(1993)を推薦しておこう。小説ならケン・グリムウッドの「リプレイ」や北村薫の「ターン」ね。

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はその著書「シネマ1 運動イメージ」「シネマ2 時間イメージ」で映画を素材に哲学を語った。現代において哲学を体感し、思考する力を育むには、優れた映画やアニメーションを沢山観ることが格好の教材となるだろう。

特にお勧めしたい作品は上述した6作品に加え、「仮面/ペルソナ」、「未知との遭遇」、「ブレードランナー」、「いまを生きる」「インセプション」、「風立ちぬ」、「君の名は。」、そしてドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「メッセージ (Arrival)」などが挙げられる。

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2017年8月26日 (土)

【考察】アニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」最後に何が起こったか?

要注意!!ネタバレあります。

アニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の巷での評判が散々だ。特に「どういうこと!?」「意味が判らない!!」と罵詈雑言を浴びせられているのがラストシーンである。シナリオを書いた大根仁が自らノベライゼーションした小説版を読んでも、結末が違う(海の場面で終わり)。そこでどういう可能性が考えられるか、僕なりにいくつか挙げていこう。

仮説1)典道はなずなのもとに向かい、本当に駆け落ちした。

つまり【もしも玉】が粉々になった時写っていた、東京でのふたりの【(if)もしも】を実行したのである。

仮説2)典道はなずなが【もしも玉】を拾い、彼とキスをした浜辺に行き、彼女との想い出に耽っている。

綺麗な終わり方だけれど、何だか凡庸だ。

仮説3)典道はなずなに籠絡され、今でも延々とループを繰返している(新学期という時間に到達していない)。

この物語を表面的に眺めると、典道の意志で【(if)もしも】を繰返しているように見える。しかし果たしてそうだろうか?そもそも典道に【もしも玉】を渡したのはなずなである。プールの場面も不自然だ。どうしてなずなはスクール水着を来てプールサイドに横たわっていたのか?事前に掃除当番が誰かは把握していた筈だ。つまり端から典道(か祐介)を誘惑する気だったのではないか?そうすると彼女の台詞「私にはママのbitchな血が流れている」が意味深に響いてくる。典道は傀儡(操り人形)に過ぎず、全て主導権はなずなが握っているのだ。なずな=魔女witchbitchと一字違い)なら、【もしも玉】=ソウルジェム(グリーフシード)だ。詳しくは新房昭之監督の「魔法少女まどか☆マギカ」をご参照あれ。最後に【もしも玉】は粉々になってしまったがソウルジェム(グリーフシード)なら複数個あっても不自然じゃない。「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」は登場人物全員がラムの夢に翻弄される物語だった。「まどマギ」の場合は暁美ほむら。ループする物語はいつも、女性が主導権を握っている。

仮説4)結果的に映画の冒頭で暗示されているように典道は海で溺死したが、そのことはなずな以外誰も知らない。

最も悪魔的解釈である。ここで、

典道「ふたりで死ぬの?」
なずな「それは心中でしょ。か・け・お・ち」

という会話が生きてくる。終盤でなずなが先に海に入り、視線で典道を誘う。ローレライ伝説を想い出して欲しい。水の精となった彼女の声は漁師を誘惑し、破滅へと導く。またギリシャ神話に登場する海の怪物セイレーンは岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせるのだ。セイレーンは鳥の姿をしている。そしてなずなの衣装にも羽がある

Sirene

また浜辺に打ち上げられたなずなの父親の溺死体が【もしも玉】を持っていたことが、この説に信憑性を与えている。 つまり【(if)もしも】の世界は、人が死の間際に見る、走馬灯のように巡る風景とも解釈出来るだろう(走馬灯もループする)。

仮説5)【もしも玉】の力で、なずなが転校しない世界にたどり着いた。二人は授業を抜け出し、校舎の周りを駆けている(教室内のシーンの直前にふたりの人影が映る)。

これはインターネット上で見かけた説だが、ぼくは賛同しかねる。何故なら及川(おいかわ)なずな→島田典道(しまだのりみち)。つまり三浦先生が出席を取る際に、あいうえお順で典道の前になずなの名前が呼ばれる筈だからである。

Q.E.D. 考察は以上で終了。

この度2回目の鑑賞をし、1回目より更に深く感銘を受けた。特に「〈物語〉シリーズ」も担当した神前暁(こうさきさとる)の音楽。典道が初めて【もしも玉】を投げる直前だけ、ミニマル・ミュージック(パターン化された非常に短い音型を反復させる音楽)になるのである。つまり、その後に展開されるループする物語を予告しているわけだ。

上記事でループものはニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じた永劫回帰(えいごうかいき)に繋がっているのではないかと書いた。典道は駅でなずなに「跳ぶぞ!」と言う。そしてふたりは電車の中で踊る。

ツァラトゥストラは、ダンスをする。ツァラトゥストラは、軽い。翼で合図をする。飛ぶ準備ができている。すべての鳥に合図して、いつでも飛び立てる。至福で軽く仕上がっているのだから。 (丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)

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2017年8月22日 (火)

劇団四季×ディズニー・ミュージカル「ノートルダムの鐘」〜ヴィクトル・ユーゴーの深層に迫る!

8月19日(土)京都劇場へ。劇団四季「ノートルダムの鐘」を観劇。

Notre

1996年に公開されたディズニー・アニメーション「ノートルダムの鐘」の音楽はアラン・メンケンの最高傑作だと今でも信じて疑わない。

上記事で僕が書いたコメントを再録しておく。

アラン・メンケンには名曲が多い。「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」「魔法にかけられて」…。何れの作品と置き換えても構わない。しかし「ノートルダムの鐘」こそ最も荘厳で、劇的な音楽だと想う。

ヴィクトル・ユーゴーの原作は日本で「ノートルダムのせむし男」として親しまれてきた。しかし近年、「傴僂(せむし)」が差別用語に当たるとして、この名称は使われなくなった。ディズニー・アニメの原題は"The Hunchback of Notre Dame"で、直訳すれば「ノートルダムのせむし男」になる。それではまずいので日本で配給したブエナ・ビスタ・ピクチャーズは「ノートルダムの鐘」に邦題を決定、ご丁寧なことに英語のタイトルもわざわざ"The Bells of Notre Dame"に変更した。これは日本国内で発売されているDVD/Blu-rayも同様である。

アニメの日本語吹き替え版は全面的に劇団四季が担当した(DVD/Blu-rayに収録されている)。

  • カジモド:石丸幹二
  • エスメラルダ:保坂知寿
  • フィーバス:芥川英司(現:鈴木綜馬)
  • クロパン:光枝明彦
  • フロロー:村俊英

この中で現在も四季に残っているのは村俊英だけである。

今回のキャストは、

  • カジモド:田中彰孝
  • エスメラルダ:岡村美南
  • フィーバス:清水大星
  • クロパン:阿部よしつぐ
  • フロロー:芝 清道

劇団四季が上演するのは2014年に米国カリフォルニア州サンディエゴのラ・ホイヤ劇場で初演されたプロダクションで、作詞・作曲は映画と同じくスティーヴン・シュワルツ(「ウィキッド」)&アラン・メンケン(「美女と野獣」「アラジン」)のコンビ。演出はスコット・シュワルツ。

実はディズニーによる舞台ミュージカル「ノートルダムの鐘」にはもうひとつ、1999年6月5日にドイツのベルリンで初演を迎えたバージョンがあった。演出はジェイムズ・レパイン(「イントゥ・ザ・ウッズ」「パッション」「日曜日にジョージと公園で」)。劇団四季もそのプレミア上演に幹部や役者たち数名が出席したのだが、どうも不出来だったのか日本での上演には至らなかった。その後内容がさらに練られ、満を持しての日本お披露目に至ったわけである。ただし現時点でブロードウェイでの上演は実現していない。

僕は今回、余りの完成度の高さに息を呑んだ。凄い、凄すぎる!「オペラ座の怪人」や「ミス・サイゴン」を初めて観た時の感銘に匹敵する。

アニメ版で不満だったのは、アンデルセンの「人魚姫」を「リトル・マーメイド」にした時と同様、ヴィクトル・ユーゴーの原作を無理やりハッピー・エンドに変更したことである。カジモドはフロローを殺さないし、最後にカジモドもエスメラルダも死なない。子供向けとは言え、いくら何でもあんまりだ。しかし舞台版はほぼ原作に忠実で、一層残酷でダークになった。

キリスト教は父性が強い宗教である。三位一体とは父と子(イエス)と精霊を指し、そこに女性は一切関わらない。父性の特徴は「切断」にあり、世界を二分する。天国と地獄、天使と悪魔(善と悪)、光と闇。そして人間と「怪物」。「神」とか「天国」といった仮想の超越的な価値、理想郷を設定したために、キリスト教徒は現世や自分自身の生を一段低いものとして貶める価値観を見出した。それが「原罪」であり「最後の審判」である。ローマ帝国に対するルサンチマン(強者=支配者への怨恨、嫉妬)から育まれた攻撃性が自分自身に向かい、禁欲自己犠牲を美徳とする考え方が生まれた。この世は仮の住まいであり、欲望を抑えて隣人愛に徹すれば来世で幸福になれると信じたのである(以上の考察はニーチェの哲学とユング心理学に基づいている)。

聖職者のフロローは禁欲に生きている。一方、エスメラルダや流浪の民ジプシー(ロマ)たちはキリスト教の神を信じず、(善と悪の)境界に生きる者たちである。二分法の世界に生きるキリスト者には彼らのことが理解出来ない。得体の知れない「怪物」だ。自分たちはあらゆる欲望を我慢して生きているのにジプシー(ロマ)は歌って踊り、自由恋愛を愉しみ、生を謳歌している。彼らに対する嫉妬の感情もある。故にエスメラルダは「魔女」と断罪され、火あぶりの刑に処されるのだ。フロローも禁欲の末、歪んだ妄想・倒錯した欲情をエスメラルダに抱く。フロローはカジモドのことを「怪物」と呼ぶが、本当の「怪物」はどちらなのか?そして「怪物」を産んだのはキリストの教えなのではないか?ユーゴーが本作で語りたかったのは、そのことではなかったのかと僕は想った。

「ノートルダムの鐘」でユニークな存在はクロパンである。彼は道化であり、道化はトリックスターだ。トリックスターとは神話や伝説の中で活躍するいたずら者で、 その狡猾さと行動力において比類ない。善であり悪であり、壊すものであり作り出すものだ(scrap and build)。変幻自在で神出鬼没、全くとらえどころがない。単なるいたずら好きの破壊者で終始することもあれば、時として英雄にも成り得る(例えば人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウス)。境界を超えて出没するところに特徴がある。トリックスターは既存の秩序を解体し、(本作ではキリスト教の)価値観を転倒する。シェイクスピアの「マクベス」に登場する魔女3人の台詞「きれいはきたない、きたないはきれい」に呼応する。正に「ノートルダムの鐘」のラストでフロローとカジモドの立場は逆転するのである。

演出に関しては天井から降りてくる7つの鐘が強烈な印象を与えた。またクワイヤ(聖歌隊)の存在が、古代ギリシャ劇におけるコロス(合唱隊)を連想させ、鮮やかだなと舌を巻いた。

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2017年8月18日 (金)

ループする物語〜アニメーション映画「打ち上げ花火、横から見るか?下から見るか?」

評価:A

映画公式サイトはこちら

Fire

先ずはこちらからご一読を。

結論から言えばアニメ版は岩井俊二(監督)の実写オリジナル版を超えることが出来なかったし、「〈物語〉シリーズ」の渡辺明夫がキャラクターデザインを担当したなずなはたしかにエロくて魅力的だが、奥菜恵の神々しいまでの輝きには到底敵わない。そして虚淵玄(脚本)新房昭之(監督)「魔法少女まどか☆マギカ」ほどの衝撃もない。それでも僕はこの作品が好きだ。愛おしい。

それにしてもアニメ版のポスターを見たときからなずなが「〈物語〉シリーズ」のツンデレ女子・戦場ヶ原ひたぎによく似ているなぁと想っていたのだが、クラス担任の三浦先生が想定外の巨乳で、「〈物語〉シリーズ」の羽川翼そっくりだったから驚いた。ちなみに三浦先生の声を担当する花澤香菜は、新海誠監督「君の名は。」でも先生役だったが、「〈物語〉シリーズ」ではロリ系美少女・千石撫子を担当している。そのギャップが凄い。また三浦先生の彼氏を演じる櫻井孝宏は「〈物語〉シリーズ」で怪異の専門家・忍野メメの声を当てている。

オリジナル版(45分)で時間を逆戻りするのは1回。しかしアニメ版(90分)は岩井のアイディアで「もしも玉」というガジェット(小道具・仕掛け)を新たに登場させ、主人公・典道は何度も時間を遡行する。

映画史的に言えば、時間ループのアイディアを発明したのは押井守監督「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984)である。SF小説で有名なのはケン・グリムウッドの「リプレイ」だが、こちらの出版は1987年。「ビューティフル・ドリーマー」の方が先なのだ。実写映画ではビル・マーレイ主演「恋はデジャ・ブ Groundhog Day」(1993)が名作中の名作。「ビューティフル・ドリーマー」以降、アニメで時間ループものは一つの確固としたジャンルとなり、京都アニメーション制作の「涼宮ハルヒの憂鬱」の"エンドレスエイト"では何と同一エピソードが計8回もTV放送された!また「魔法少女まどか☆マギカ」も同ジャンルと言えるだろう。

そして「ループもの」の原点に遡ると、哲学者フリードリヒ・ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で提示した永劫回帰(えいごうかいき)の思想に辿り着くというのが僕の考えである。永劫回帰するには超人的な意思を要するが、「打ち上げ花火」で意思する者は言うまでもなく典道である(「まどマギ」の場合は暁美ほむら)。

今回新機軸だなと想ったのは、「ループもの」は基本的にいつも同じ時刻に戻るのだが、「打ち上げ花火」はだんだん戻る時刻がズレていく。「三百六十五歩のマーチ」みたいに《三歩進んで 二歩さがる》感じ。つまり厳密に言えば「ループ」ではなく「らせん」構造に近い。それを典道が通う中学校の螺旋階段が象徴している。(ところで途中から風力発電の風車が逆回転してる??)

あと「モテキ」「バクマン。」の大根仁監督が書いたシナリオが優れているなと感心したのはオリジナル版で典道なずなが乗れなかった電車に、ふたりを乗せてあげたこと。それにより、元から裏設定としてあった宮沢賢治「銀河鉄道の夜」との関係がより鮮明になった。

映画前半はオリジナル版を忠実になぞり、特に駆け落ちしようとしたなずなを母親が無理やり連れ戻す場面はアングルもカット割りも完璧に一致している。ところが後半から本作は大胆にジャンプし、全く違った世界に辿り着くのだ。そこが賛否の別れるところだろう(僕は○)。

新房監督は相変わらずスタイリッシュ。画面を横断・縦断する直線、斜線、円・楕円・長方形・菱形など幾何学模様が横溢している(そもそも花火や灯台の光源、そして「もしも玉」は球体だしね)。またなずなの目をクローズアップした演出がアニメ独特の表現法で、ミステリアスな雰囲気を醸し出すことに成功している(目も球体だ)。

最後に、

上記事で僕はアニメーション映画が大ヒットする(化ける)か否かを決めるのは観客の女性率が3割を超えるラインにあると自説を披露した。では「打ち上げ花火、横から見るか?下から見るか?」公開初日はどうだったか?僕の目算では男性率9割5部!劇場版「まどマギ」と同じ水準。女子の支持を全く得られていない。う〜ん、これはちょっと厳しいかも……。

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2017年8月17日 (木)

当ブログはアニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を全身全霊で応援します!

岩井俊二(脚本・監督)「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」はフジテレビ「If もしも」シリーズの一つとして1993年8月19日に放送された。そして岩井監督はテレビドラマとしては異例の日本映画監督協会新人賞に選ばれた。僕は再構成され劇場公開されたバージョンを95年に岡山のミニシアター「シネマ・クレール」で観た。その時の衝撃は鮮烈に憶えているのだが、同時上映で別の岩井映画を観た筈なのに、全く記憶から吹き飛んでいた。調べてみると「undo」らしい……「undo」?何それ??……出演者の欄を見ると山口智子と豊川悦司とある。そこで朧気にトヨエツが山口をロープで縛る画面が浮かび上がってきた。そうか、確かに観たっけ……。

それくらい「打ち上げ花火」に打ちのめされ、後は夢うつつ(トランス状態)だったということだ。

その後、岩井俊二を最新作「リップヴァンウィンクルの花嫁」まで追いかけてきたが、未だに「打ち上げ花火」を超える作品にめぐり逢えていない。唯一無二、紛れもなく彼の最高傑作である。

僕にとって「打ち上げ花火」は聖なる映画だ。奥菜恵が眩いばかりの閃光を発したのは後にも先にもこれしかない。それは「LOVE LETTER」の酒井美紀、「花とアリス」の蒼井優にも言えること。岩井俊二は少女が最高に輝く瞬間を捉え、フィルムに永遠に封印する能力に長けた映画作家である。「20世紀ノスタルジア」の原将人監督が「広末涼子は女優菩薩である」と絶賛しているのを聞いて笑っちゃったのだが、「打ち上げ花火」の奥菜恵(限定)にも同じことが言えるだろう(人のことは笑えない)。

REMEDIOSの歌「Forever Friends」も忘れ難い。プールの水面に浮かび上がった奥菜恵が最初は深刻な表情をしているのだが、ふっと笑顔になる。その瞬間にこの曲が掛かるのだ。冴え渡る岩井演出。そしてオキメグは水の煌めきの中に消えてゆく。まるで人魚セイレーンウンディーネ水の精)のように。岩井俊二が「ウォーレスの人魚」という小説(映画「ACRI」原作)を書いているのは決して偶然ではない。

この時オキメグは主人公の少年に「今度会えるの2学期だね。楽しみだね」と言う(しかしその日は来ない)。これは新海誠のアニメ映画「秒速5センチメートル」(2007)で明里が踏切で言う「隆貴くん、来年も一緒に桜、見れるといいね」に呼応する(しかしその日はやはり来ない)。「秒速5センチメートル」には岩井映画へのオマージュが散りばめられていて、図書館の場面なんか、もろに「LOVE LETTER」である。近年、岩井と新海は急接近し、岩井のアニメ「花とアリス殺人事件」にはspecial thanksとして新海が、また「君の名は。」には岩井の名前がエンドロールでクレジットされている。

月日は流れ2010年、テレビ東京でドラマ「モテキ」が放送された。脚本・監督は大根仁。その第2話で森山未來と満島ひかりが「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の聖地巡礼をする。当然「Forever Friends」も流れる。ロケ地の千葉県飯岡町まで行きキャメラを持ちはしゃぐ満島を見ながら僕は腹を抱えて笑い転げ、「君は僕だ!」と画面に向かって叫んだ。大林宣彦監督「尾道三部作」のロケ地巡りをした自分自身の姿が彼女に重なったのである。この回を見たスタッフから岩井監督に話が伝わり、後に岩井監督と大根監督の対談が実現。ふたりは意気投合し、「打ち上げ花火」アニメーション化の企画が持ち上がった時に岩井監督はシナリオライターとして大根を指名した。そのアニメ版は今年8月18日に公開される。公式サイトはこちら

Fire

「君の名は。」を大ヒットさせた敏腕プロデューサー川村元気はアニメ「化物語」「魔法少女まどか☆マギカ」を観て、 新房昭之監督と是非いつか組みたいと考えていたという。しかし手ぶらで会いに行くわけには行かないので「打ち上げ花火」アニメ化というアイディアを携えて懇請すると、快諾を得た。それにしても岩井俊二大根仁新房昭之という3人の鬼才が一同に会すとは壮観である。その仕掛け人川村元気に対し、快哉を叫びたい(川村と大根は既に「モテキ」「バクマン。」で組んでいる)。

岩井版の上映時間は45分。今回の尺は少なくとも倍以上になる筈であり、大根仁の腕の見せ所である。どうも予告編を見るとオリジナル版では時間を遡行しパラレルワールド(並行世界)に入り込むのが1回なのに対し、アニメ版ではそれが繰り返されるようだ。もしかしたら映画「恋はデジャ・ブ(原題:Groundhog Day)」みたいな感じかも!?

世紀の大傑作「まどマギ」については上記事で語り尽くしたのでもう十分だろう。ついでに新房監督の〈物語〉シリーズについても触れておこう。「化物語」から始まる〈物語〉シリーズの原作は西尾維新。「化」は現在、Amazonのプライム・ビデオやNetflixで観ることが出来るので、是非お勧めしたい。ただ物語の順番としては劇場公開された「傷物語」の方が先なので、「傷」からが良いかも。「傷物語」→「化物語」→「偽物語」→「猫物語(黒)」の順で観るのがベスト。新房演出の真骨頂は画面に交錯する縦と横(と斜め)の直線。そして円・楕円・四角形・菱形などシンボリックな記号の横溢である。スタイリッシュなのだ。

〈物語〉シリーズは一言で評すならハーレムの話である。主人公の阿良々木暦はモテモテ男子で、メガネっ娘・巨乳・ツンデレ・ボーイッシュ(百合系)・ロリ少女・(文字通りの)妹など、ありとあらゆるタイプの女子から愛される。ヲタクの夢がここでは実体化している。まぁそんな内容だから女性ファンが皆無に等しい作品でもある(逆ハーレムの少女漫画「王家の紋章」が男子に人気がないのと同じこと)。

アニメ版「打ち上げ花火」製作発表では広瀬すずが声を当てた「なずなはエロい」という発言が相次いだが、〈物語〉シリーズも相当エロい。エロスを描かせると新房昭之の右に出るものはいないだろう。因みにアニメ版「打ち上げ花火」のキャラクターデザインは〈物語〉シリーズの渡辺明夫。そして「化物語」のツンデレ女子・戦場ヶ原ひたぎなずなの容姿はよく似ている。

なお新房昭之は2002-4年に南澤十八という秘密のペンネームで「アンバランス」など5作品のアダルト・アニメ(18禁)を演出している。そして2004年に監督した「月詠」からアニメーション制作会社シャフトに拠点を移した。

最後に。アニメ版で「Forever Friends」が流れなかった嫌だなぁと思っていたら、どうやらDAOKOがカヴァーして歌っているようだ(岩井俊二が飯岡町で撮ったMVはこちら)。またREMEDIOSの「Forever Friends」は伴奏がギターとトライアングル以外シンセサイザーなのだが、今回のアニメ版は本物の弦楽器が演奏している。音に厚みが増した。至れり尽くせりだ。川村プロデューサー、本当にありがとう!そしてどうか、映画が大ヒットしますように。

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2017年8月 2日 (水)

怪盗グルーのミニオン大脱走

怪盗グルー・シリーズ第3弾。サブキャラクターだったミニオンたちが思いもかけぬ大人気となり、「ミニオンズ」というスピンオフ映画まで製作された。USJでは「ミニオン・パーク」が誕生し、今や完全に主役(グルー)を食っている。日本の配給会社が当初は彼らに期待していなかった事が、第1作「怪盗グルーの月泥棒」という邦題からも窺い知れる(原題はDespicable Me,Despicable Me 2,Despicable Me 3 ←3作目まで一切ミニオンという言葉が登場しない)。

Despicable

評価:A

鉄板の面白さ。文句なし。今回初登場となる双子の兄弟ドルーとグルーでひとつの人格と考えるべきだろう。悪事から足を洗い善人になろうとするグルー vs. 悪党の魅力に取り憑かれるドルーという構図。矛盾した意識、分裂した自己がそこに描かれる。

今回の敵バルタザール・ブラットの場面では80年代ポップスの使い方が絶妙。特に冒頭、ベルリン【愛は吐息のように(Take My Breath Away from "Top Gun"】→マイケル・ジャクソン【Bad】→a-ha【Take on Me】の流れには爆笑した。Take on Me】は映画「ラ・ラ・ランド」にも登場。80年代を代表する曲ということなのだろう。

バルタザールの声を当てるのはアニメ「サウスパーク」のトレイ・パーカー。実は「サウスパーク」第1シーズン 第12話に【メカ・ストライザンドの大迷惑】という傑作エピソードがあり、バーブラ・ストライザンドがゴジラみたいに巨大化し、サウスパークの町を破壊するという物語だった。何だか凄くこの映画に似ていませんか?

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2017年7月27日 (木)

映画「君の名は。」Blu-rayとティアマト彗星の軌道問題

待ちに待ったアニメーション映画「君の名は。」のBlu-ray 「コレクターズ・エディション」が我が家に届き、6歳の息子と一緒に、途中僕の解説を挟みながら早速鑑賞した。圧倒的な高画質で、IMAX版を遥かに凌駕していた(我が家は4Kテレビ)。

幼稚園児に理解出来るのか(特に3年間のズレ)?と些か不安があったが、「男の子と女の子の入れ替わりが面白かった!」と好評で、胸をなでおろした。因みに「今まで観たアニメの中で何が一番好き?」と訊ねると、「君の名は。」だそう(「太陽の王子 ホルスの大冒険」「どうぶつ宝島」「長靴をはいた猫」「空飛ぶゆうれい船」「パンダコパンダ」「カリ城」「ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」「魔女の宅急便」「千と千尋」「ポニョ」「バケモノの子」「アナ雪」「白雪姫」「ダンボ」「ファンタジア」「バンビ」「ピノキオ」「アラジン」「ヒックとドラゴン」「アイアン・ジャイアント」「怪盗グルーの月泥棒」「LEGO® ムービー」「ベイマックス」「ズートピア」「ソング・オブ・ザ・シー」なども観せているのだが)

さて、

上記事に書いたが、映画公開直後からティアマト彗星の軌道がニュース映像の2回目・3回目で物理学的に間違っていると話題になっていた。彗星は太陽(恒星)の重力に引っ張られてその外縁を弧を描くように曲がる筈だが、アニメの作画では太陽に到達する手前、地球(惑星)の外縁でUターンしていた。劇場で観たIMAX版も英語主題歌版でもそのままだったのだが、遂に今回発売のBlu-ray/DVDで修正された。一安心だ。

Suisei

Blu-ray「コレクターズ・エディション」は映像特典ディスクが3枚に及び、なんと9時間超えの大容量となっている。製作発表記者会見&舞台挨拶だけでも大量に収録されており、RADWIMPSの野田洋次郎がサプライズで登場し、「前前前世」をギター1本で唄ったアコースティック・バージョンや、上白石萌音(三葉)が野田の伴奏で唄う「なんでもないや」まで聴ける。

他に英語主題歌版本編、新海誠監督によるビデオコンテ全編(効果音付き、声を監督自身と、その妻で女優の三坂知絵子のふたりが入れている。「まんが日本昔ばなし」みたいなスタイル。因みに「まんが日本昔ばなし」の市原悦子は「君の名は。」で宮水一葉の声を当てている)、神木隆之介・上白石萌音・RADWIMPSによるビジュアルコメンタリー全編(スプリット画面でコメンテーターの表情も見れる)、本編映像に未使用音声をのせた音声クリップ、サントリー天然水CM、スパークル [original ver.](新海誠監督が新たに編集したMusic Video。映画本編にない新規カットあり)、新海監督講演映像(『君の名は。』の物語~現代の物語の役割)など盛り沢山。ファン垂涎の中身になっている。プロモーション映像集(特報・予告)では公開前のものから公開後に観客動員数がどんどん増えていく様子、興行成績ランキングでアジア圏5冠(日本、台湾、タイ、香港、中国)さらに6冠(+韓国)を達成、おまけに2017年春休みバージョンまで収録されていて愉しい。

あとメイキングドキュメンタリーでは

  • 企画書:「夢と知りせば(仮)」
         ー男女とりかえばや物語
  • 脚本第2稿:「きみはこの世界の、はんぶん」
  • 脚本第3稿:「夢にさえ、逢うこと難く」
  • 脚本第4稿:「かはたれそ」(彼は、誰そ)
  • 脚本第5稿:「かたわれの恋人」

と、タイトルがどんどん変わっていったのが興味深かった。

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