アニメーション・アニメーション!

2012年3月14日 (水)

「魔法少女まどか☆マギカ」を語ろう!

魔法少女まどか☆マギカ」略称「まどマギ」は最初、絵柄から言っても「クリーミーマミ」みたいなロリコン・アニメか、「美少女戦士セーラームーン」のように幼い女の子のためのアニメだとずっと信じ込んでいた。つまり僕には無縁ということだ。

ところがどうも様子が違うと直感したのは2011年12月にこの作品が文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞受賞した時である。エッ、そんな大人の鑑賞に堪えうるものなの??調べてみると同年10月には日本SF大賞にもノミネートされ、最終候補のひとつに残ったという。エ、エ、SF大賞!?

作家の宮部みゆきはSF大賞の選評で本作を次のように評価した。

よき企みがあるミステリーとして幕を開け、それぞれに自己実現を希う少女たちの友情物語として進行し、終盤でミステリーの謎解きのために用意されていたSF的思考が披露されるという、実に贅沢な造りになっています。

「誰かの幸せを願った分、別の誰かを呪わずにいられない」。劇中で繰り返されるこの言葉は、見事に人間の業を言い当てています。それが、年齢性別を問わず、観る者の心を揺さぶるのです。今回、小説の方に桁違いの傑作があったことで損をしてしまいましたが、私には忘れがたい作品でした。

調べてみると本作(全12話)は2001年1月から4月までTBS系の深夜枠で放送されたという。つまり端から子供向けではなかったのだ。

公式サイトはこちら。さらにアメリカの公式サイトはこちら。既に3部作での映画化も決まっている(テレビ版再編集2本+完全新作1本)。

Madokamagica

評価:AAA

第2話までは学園ドラマ+魔法少女もののようにほのぼのとした展開をするが、第3話から急転直下、作品世界の様相はガラリと反転する。エンディングテーマ曲もここで切り替わり唖然とさせられた。またオープニングテーマ曲「コネクト」はあろうことか第10話でエンディングに流れ、その時視聴者は初めて、この歌詞に隠された真実を知り、戦慄することになる。なんという企み!!

物語の前半は基本的に「新世紀エヴァンゲリオン」のプロットを下敷きに進行する。碇シンジ@エヴァの優柔不断で引きこもり気味の性格は主人公のまどかに、そして攻撃的性格は美樹さやかに分配される。感情表現の乏しい綾波レイ@エヴァは暁美ほむらに、いイメージで活発、物語の途中で他所からやって来る惣流・アスカ・ラングレー@エヴァは佐倉杏子といった具合に継承されている。本作における「魔法少女になる」という行為は「エヴァンゲリオンに乗る」ことと同義である。そして「まどマギ」における魔女は「エヴァ」の使徒であることは論を待たない。

しかし、それだけでは終わらない。視聴者は「キュウべえ」というキャラクターが実はゲーテの「ファウスト」におけるメフィストフェレスの役割を担っていることを後に知ることになる。

またシェイクスピアの「マクベス」に登場する三人の魔女の台詞"Fair is foul, and foul is fair."(きれいはきたない、きたないはきれい)が「まどマギ」の世界を紐解く鍵になっていることにも気付かされる。

さらに後半、キャラクターの一人がタイム・トラベラーだったことが明らかにされる。ここで筒井康隆「時をかける少女」(あるいはアメリカ映画「恋はデジャ・ブ」Groundhog Day)のエッセンスがぶち込まれる。

驚きははまだまだ続く。卑弥呼、クレオパトラ、ジャンヌ・ダルク、アンネ・フランクも魔法少女だったという設定には頭がクラクラした。すごい、凄過ぎる……。な、な、なんなんだ、この気が遠くなるような壮大な物語は!!!アニメ版「2001年宇宙の旅」だと評しても過言ではあるまい。

また劇団イヌカレーが担当した登場する魔女たちのデザインや、それらが蠢く異空間の美術が素晴らしい。芸術の域に達している。梶浦由記の音楽も印象深い。

象徴的な背景画にも注目したい。例えば屋外でまどか杏子さやか救出について話し合っている場面に人魚とユニコーン(一角獣)の看板が登場する。ここでさやかの運命がアンデルセン童話「人魚姫」に擬えられていることが明らかとなり、また杏子がユニコーン(=その角には蛇などの毒で汚された水を清める力がある)になる未来を暗示するのである。

まどかの母と友人(担任の先生)がバーで語り合う場面ではその壁画がミケランジェロの「最後の審判」になっており、来たる「ワルプルギスの夜」(ベルリオーズ/幻想交響曲の最終楽章も同名)が最後の審判の日であることを示している。

「新世紀エヴァンゲリオン」は日本のアニメ界にとってエポック・メイキングな作品だったが、エヴァの大きな傷は庵野秀明が大風呂敷を広げ過ぎて、最後に収拾がつかなくなり物語が破綻したことにある(テレビ版最終回、旧劇場版ともに)。しかし「まどマギ」はそんなことは微塵もなく、見事に完結した。圧倒的な体験であった。これは21世紀の新しい地平を開く、桁外れの傑作である。

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2011年10月26日 (水)

答えのない質問 (The Unanswered Question) 2

これは前頁、「答えのない質問 (The Unanswered Question)」の続きである。

宮崎駿さんの発言内容には人類に対する深い絶望があると書いたが、もっと具体的に宮さんのアニメーション作品から解説を試みたい。

例えば「天空の城ラピュタ」の最後を想い出して欲しい。天空の要塞ラピュタはその恐るべき破壊兵器部分が崩壊し、上層部の大樹と飛行石部分を残してより高く上昇していく。そこにはキツネリスや鳥たちがいるが、人間は一人も残っていない。つまり、人類や文明が消え去って初めて、ラピュタは天空の楽園(パラダイス)になり得たのである。宮さんらしいペシミズムだ。

また「崖の上のポニョ」のレビューで僕は、宗介とポニョ以外、全員死亡説を唱えた。考えは今でも変わっていないし、それ以外にあの物語を解釈しようがないと確信している。つまり嵐や津波により人間全てが滅亡し、地球がリセットされ(古代魚の登場)、新しいアダムイヴとして宗介とポニョがまた最初から人類(ポニョは半魚人だから「新人類」)の歴史をやり直すのだと考えられる。

こうして見ていくと、地球が再生するためには、人類も、それが生み出した文明も一旦滅びるしかないと宮さんが考えていることがよく理解できるのではないだろうか?

以上、「本当は恐ろしい宮崎アニメ」の世界でした。

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2011年10月25日 (火)

答えのない質問 (The Unanswered Question)

3月11日の東日本大震災、そしてそれに続く福島原発事故で僕たちは大きな心の傷を負った。

日本人にとっての「パンドラの箱」は原発だったのだなと、今にしてつくづく想う。蓋は開かれ、中から一気呵成に飛び出した災厄は東日本を覆い尽くした。セシウム、ストロンチウム、プルトニウムといった放射性物質は日本の国土の一部を回復不能なまでに汚し、また海水にも大量の放射能が流れ、魚を汚染した。果たして「パンドラの箱」の最後に「希望」は残るのだろうか?

作家・開高健は次のような言葉を残している(出典はこちら)。

人間が一歩進むと自然は音もなく二歩後退します。

また、アニメーション作家・宮崎駿さんはこのようなことを語っておられる。

人間というものの存在の本質の中に、どこかで自分たち以外の生物を虐殺したり、生け贄にしたり、勝手に色々作り変えたりしながら、それが文化であったり文明であったりするわけです。そうして、人間というものが今日在るわけです。そのやり方についての反省はあったとしても、人間の存在そのものを否定するのかどうか。

電気を使う暮らしとか、病気を克服しようとか、貧乏を無くそうとか、不条理な死から解放されたいとか―そういうありとあらやる人間のやって来たこと、それがいいことだと思ってやって来たことが、実は自然というものを人間のために利用するということに尽きるわけですね。だから、悪い奴が悪いことをやって来たからこうなったわけじゃないんです。いいことをしようと思ってやって来たことに原因があるんですよ。

そういう風に考えていくと、自然の問題というのは簡単に残せばいいんだとか、樹を植えればいいんだとか、それは大事なことで日常的にやんなきゃいけないことですけれども、実際にはバランスを取るしかないんですね。他の生物の犠牲の上に人間が存在しなければならないという、この問題をどういう風につかまえるんだろうと。そこまで考えないと。

つまり宮さんが言いたいのは人類に対する限りない絶望である。

地球の生態系を考える時、人間はこの世に存在しないほうが絶対にいい。我々にとって受け入れがたいことではあるが、これは否定しようがない真実である。人は「開発」「発展」という名の下に、自然を破壊し、地球を汚す。地球温暖化の問題は森林の伐採、工場や自動車による二酸化炭素排出が原因であり、一昔前に問題となったオゾン層破壊はフロンガスが原因だった。

だから人間の「知恵」とか「生産活動」は地球にとって害悪でしかない。そんなものはない方がよっぽどいい。

では何故、神は数ある生き物の中で我々だけに「知恵」や「言葉」を授けたのか?その究極の目的は何か?いや、そもそも神(見えざる意思)は存在するのだろうか?

正に「答えのない質問」である。有史以来人間は問い続け、その答えを求めて沢山の宗教が生み出された。しかし、我々が明快な正解を手にすることは未来永劫ないだろう。

「生きる(進化する)目的は何か?」「人生に意味はあるのか?」結局、僕たちはこの「答えのない質問」を自らに問い続け、生きていくしかない。そして自然(地球)とどう折り合いをつけるのか、考え続けなければならない。

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2011年8月29日 (月)

カーズ2(ディズニー デジタル 3D、字幕版)

評価:B+

映画公式サイトはこちら

Cars2tokyo

正直、「カーズ」第1作は退屈で、全然面白いと思わなかった。だからこの2作目も全く期待していなかったのだが、路線変更で違ったテイストになっており、これは意外な収穫だった。

Cars2paris

英国のスパイ、フィン・マックミサイル(声:マイケル・ケイン)とその相棒ホリー・シフトウェルら新キャラクターが秀逸。矢継ぎ早に登場する秘密兵器(スパイ機器)にワクワク、ドキドキした。まるで007、ジェームズ・ボンドのノリ。マイケル・ケインの声が渋くていいね!

Cars2italia

今回はアメリカを飛び出して、東京、パリ、ポルトコルサ(イタリア)、ロンドンと場所が次々に変わっていくのも愉しい。

Cars2london

昨年、TOHOシネマズで「トイ・ストーリー3」を観た時は3Dメガネが重く、画面が暗くて愉しめなかったのだが、1年ぶりに試してみるとメガネが変更され軽くなり、画面も明るく、3D効果も抜群だった。これなら鑑賞に堪え得る。

また併映された短編「トイ・ストーリー」シリーズのスピンオフ「ハワイアン・バケーション」も出色の出来。アカデミー賞狙えるんじゃないかな?

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2011年8月 7日 (日)

コクリコ坂から

評価:B

Ko1

傑作じゃないけれど佳作。監督は宮崎吾朗。企画・脚本が親父(宮崎駿)で、キャラクターデザインが近藤勝也。はっきり言って誰が監督しようが、ある一定のクオリティは保障されている「耳をすませば」方式だもんね(「耳をすませば」の監督は47歳で亡くなった近藤喜文だが、キャラクターデザイン・脚本・絵コンテは宮崎駿さんが担当し、実質的な宮崎アニメである。宮さんは後に、すべてを近藤さんに任せなかったことを後悔している)。

「コクリコ坂から」は”心情左翼”宮崎駿の側面が炸裂!1963年の日本を舞台に、安保闘争やら学生運動へのノスタルジーを高らかに歌う。ヒロインの父親が船乗りで、朝鮮戦争時に米軍の後方支援=LSTに従事し、撃沈されたという設定にはびっくりした(つまり、日米安保の犠牲者というわけ)。

ポスターなどタイトルにが使われているのがミソ。コクリコとはフランス語で「ひなげし(虞美人草)」の意味で、フランス国旗(トリコロール)にはひなげしの赤が使われているそう。ヒロインはその三色旗を掲揚するが、日の丸は揚げない。ゆえに、この映画は「の豚」に繋がっている(「紅の豚」の挿入歌はパリ・コミューン時代に流行ったシャンソン「さくらんぼの実る頃」)。

ヒロインは皆から「メル」という渾名で呼ばれている。「何で?」と疑問に想いながら観ていて、途中でハッと気が付いた!彼女の名前「海」はフランス語で"La mer"(ドビュッシーの曲名)。だからカルチェ・ラタンも登場するんだね。

ヒロインが憧れの先輩と自転車の二人乗りをする場面は「耳をすませば」を彷彿とさせ、胸がキュンとなった。そして伏魔殿のように起立するカルチェ・ラタンは「千と千尋の神隠し」の湯屋みたいだし、途中それが「カリオストロの城」の時計塔に変身する。

時代考証をしっかりして、細部まで丁寧に描かれているのはさすがスタジオ・ジブリ。クオリティは高い。

しかし、演出に欠けているもの。つまり父にあって息子にないもの。それは映像の「スピード感」と「躍動感」。これは生まれもったセンス、天賦の才能だからどうしようもないよね。

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2011年5月24日 (火)

フランス産アニメーション映画「イリュージョニスト」

評価:C+

Lillusionniste

映画公式サイトはこちら

フランスのアニメーション「ベルヴィル・ランデブー」で気を吐いたシルヴァン・ショメ監督の最新作。2作品ともアカデミー長編アニメーション賞にノミネートされた。

前作に続き極端に会話が少なく、音楽が付いた(劇判)サイレント映画のような雰囲気。

ショメ監督初期の短編アニメ「老婦人とハト」(アカデミー短編アニメーション賞ノミネート)や「ベルヴィル・ランデブー」は大好きな作品だ。独特のタッチの絵がいいし、ブラック・ユーモアのセンスも○。ただ「イリュージョニスト」はジャック・タチが執筆した脚本を元に製作されているので、ショメ特有の”毒”が薄まり、魅力が半減したような気がする。

「老婦人とハト」や「ベルヴィル・ランデブー」はパワフルなところが持ち味なので、「イリュージョニスト」に漂う孤独・哀感は何だか似合わない。

いや、確かに絵の魅力はあるし、アニメーションとしてのクオリティは決して低くないんだけどね。

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2010年7月28日 (水)

トイ・ストーリー3/3D字幕版

評価:B

Toystory3

ピクサー映画は全て”バディ・ムービー”である。つまり、「仲間が一番」ということ。それはこの最新作でも同じこと。予定調和ではあるが、ハイ・クオリティーでウェル・メイドな映画にゆったりと身を委ねた。たまにはこういう時間の過ごし方もいいだろう。

映画公式サイトはこちら

「トイ・ストーリー」第一作はピクサー初の長編アニメーションだった。アメリカ公開が1995年で翌年に日本で公開。考えてみればこの作品から僕はピクサー映画全作品を映画館で観てきたことになる。

そうだなぁ、ピクサーで一番好きなのはブラッド・バートが監督した2作品「Mr.インクレディブル」と「レミーのおいしいレストラン」かな?彼の映画は”バディ・ムービー”の殻を突き破ろうとする途轍もないパワーがある。今度バートはトム・クルーズ主演の「ミッション:インポッシブル4」の監督に抜擢されたそうで、実写でどれくらいその手腕が発揮できるのか愉しみである。

「トイ・ストーリー」の話に戻るが、前2作を撮ったジョン・ラセターから監督が交代したが、違和感は皆無。さすがディスカッションを重ねながら合議制で製作を進めるピクサー方式に死角なし。

一時期、ディズニーがピクサーとは無関係に続編を作る(無謀な)企画が進められたが、ディズニーの業績不振によるアイズナーCEOの失脚、ジョン・ラセターのディズニー復帰(チーフ・クリエイティブ・オフィサー就任)により、ピクサーが権利を取り戻すことが出来て本当に良かった。

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2010年7月23日 (金)

借りぐらしのアリエッティ

評価:B+

今更僕が言うまでもないが、アニメーション作家・宮崎駿は天才である。これは疑う余地がない。ただスタジオ・ジブリにとって不幸だったのは、宮さんが天才故に何でも自分でやってしまい、後進を育てられなかったことである。

宮さんは他人とコラボレーション(協調)することが出来ない人だ。押井守と一緒に作品を作るという企画は頓挫した。「ハウルの動く城」では細田守監督と大喧嘩をして結局、細田さんがジブリを去り、宮さんが監督を引き継ぐことになった。天才は孤独なのだ。

例えば長年、作画を担当してきた近藤喜文を監督に据えた「耳をすませば」を見てみよう。何とこの作品、脚本・キャラクターデザイン・絵コンテまで宮さんが担当している(おまけに主題歌「カントリー・ロード」の作詞も!)。だからこの作品は完全な宮崎アニメ。近藤さんの個性はどこに?と問いたくもなるではないか(いや、僕はこの作品、大好きだけど)。そして宮さんの後継者として期待された近藤さんは1998年に解離性大動脈瘤破裂で亡くなった。享年47歳だった。

「スタジオ・ジブリは宮崎駿・一代で終わればいいんじゃないか?」と僕は想っていた。でも宮さんや鈴木プロデューサーはそうは考えていなかったようだ。「猫の恩返し」や「ゲド戦記」といった迷走を経て、この度「借りぐらしのアリエッティ」を世に問うた。監督は37歳のアニメーター・米林宏昌、愛称:麻呂(まろ)。彼の顔は「千と千尋の神隠し」のキャラクター・カオナシのモデルとなったという。

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本作のポイントは宮崎駿がどこまで作品の完成までちょっかいを出さず(影響力を行使せず)、我慢出来るかということであった。結局、宮さんは企画・脚本のみに留まり、麻呂の書いた絵コンテにも一切目を通さなかったそうだ。えらい!なお、ヒロイン・アリエッティは米林監督が好きな映画「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)をモデルにしているという。さらに宮さんが書いたシナリオに丹羽圭子の手が加わり、宮崎臭は払拭された。

公式サイトはこちら

映画冒頭、主人公の少年・翔が車に乗って屋敷に到着する場面はまるで「千と千尋の神隠し」みたいだった。彼の動きが鈍く、この監督は絵の動かし方(タイミングの取り方)が下手なのかな?と一瞬想ったが、次第にこの少年が胸を患っていることが明らかになってくる。そして床下に住むアリエッティが登場すると敏捷な動きで、静と動の対比を鮮明にする演出だったのだなと合点がいった。また翔が住む世界は青を基調とした寒色系で、アリエッティが赤など暖色系でそのコントラストも見事。うん、なかなかセンスがあるじゃないか。

ダイナミックなアクション・シーンが話題になる宮崎アニメだが、実は重要なのは「静」の場面であったりする。例えば「ルパン三世 カリオストロの城」でルパンが空に浮かぶ雲を眺めながら「平和だねぇ…」と呟くシーン。あるいは「天空の城ラピュタ」でパズーとシータが漸くラピュタにたどり着き、次第に雲が晴れて城の全容が明らかになるシーン。それらがあればこそ、後に展開される「動」が生きる。米林監督はそのことがよく分かっている。

また、往年の宮崎アニメに対するオマージュ(敬意)があちらこちらに散りばめられていて愉しい。アリエッティの視点から見た猫はまるで「となりのトトロ」の猫バスだし、「アルプスの少女ハイジ」(宮さんがレイアウトを担当)のチーズを乗せたパンも登場する。そして朝日の差し込むラストシーンで「耳をすませば」を想い出さない人はいないだろう。

僕が特に気に入ったのは中盤で登場する少年、スピラー。彼がやることなすこと、もう完全に「未来少年コナン」のジムシーだ!むちゃくちゃ懐かしかった。

鈴木Pが指名した米林監督は大当たりだった。これでジブリの未来に希望が見えた。

鈴木Pはこう語る。

「試写が終わった後、突然宮崎駿が立ち上がって、前に座っていた麻呂の手を持ち上げ、『麻呂、よくやった!』と言ったんです。その後、僕だけに『映画観ながら、泣いちゃった』と。『ジブリ育ちの初めての演出家が誕生した』と言っていて、これは嬉しかったです」

鈴木さん、本人は嫌がるかも知れないけれど、是非また彼を監督に起用してくださいね。

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2010年3月15日 (月)

映画「プリンセスと魔法のキス」/そして、ディズニー・アニメ現代史

評価:B

Theprincessandthefrog

今年のアカデミー賞では、長編アニメーション部門と、歌曲賞に2曲ノミネートされた。監督は「リトル・マーメイド」「アラジン」のジョン・マスカーとロン・クレメンツのコンビ。映画公式サイトはこちら。なお、歌曲賞にノミネートされた"Almost There"の視聴はこちら、"Down in New Orleans"はこちら

JAZZのメッカ=ニューオーリンズを舞台に、ディズニー・アニメ初となるアフリカ系アメリカ人をヒロインに据えた。

ここ10年間のウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの混乱については、下記記事に詳しく語った。

要約すれば、アニメーション製作部門最高責任者であったジェフリー・カッツェンバーグがマイケル・アイズナー会長と仲たがいして、1994年にスタジオを飛び出し、ドリームワークスを設立したことが事の発端である。同時期にピクサー・アニメーション・スタジオの台頭でCGアニメーションが世間を席巻し、アイズナーがセル画アニメーションを捨てると宣言、優秀なアニメーターを大量解雇するという暴挙に出てディズニーの力は急速に衰退した。

その窮状を救ったのが、古巣ディズニーに帰ってきたジョン・ラセター(ピクサーのチーフ・クリエイティブ・オフィサー、「トイ・ストーリー」「カーズ」の監督でもある)なのだから、実に皮肉な話である(現在はディズニーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーを兼任)。なお、アイズナーは2004年3月の株主総会において業績悪化などを理由に不信任投票が43%で可決され、退陣に追い込まれた。

宮崎駿監督の大ファンであるラセターはディズニーに乗り込むと直ちにセル画アニメーション復活を決断。漸くこの「プリンセスと魔法のキス」の登場となるのである。

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TOHOシネマズなんばで字幕版を鑑賞。

映画冒頭、ミッキー・マウスがパラパラ漫画風に登場し、それが短編アニメ「蒸気船ウィリー」(1928年、白黒。ミッキーのデビュー作)の動画となる。ここに製作者たちの「初心忘るべからず」という並々ならぬ決意表明が感じられ、感動した。

「美女と野獣」のベルを彷彿とさせる、前向きな生き方をするヒロイン像、愛らしい動物たち、そして音楽に満ちた正真正銘のミュージカル・アニメーション(ランディ・ニューマンが作曲したディキシーランド・ジャズは圧巻)。これぞディズニー・ブランドの真骨頂!なんという心地よさだろう。改めて「絵が動くことの愉しさ」を満喫。原点回帰(Back To The Basics)、手書きアニメ復活のセレブレーションに相応しい作品であった。

Miya

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2009年12月29日 (火)

戦場でワルツを

評価:D

アカデミー外国語映画賞にノミネートされたイスラエルのアニメーション映画。公式サイトはこちら

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1982年にレバノンで起こったパレスチナ難民大虐殺を題材にしている。これは日本の「火垂るの墓」でも感じたことだが、リアルで過酷な現実をわざわざアニメーションの手法で語る意味って何?という疑問を最後まで拭えなかった(それに本作は最後の虐殺シーンでドキュメンタリー映像に切り替わる。だったら端から実写でやれや)。

それからナチスに迫害されたユダヤ人が、イスラエル建国後はパレスチナ人を虐げているというテーマは、天才・手塚治虫が漫画「アドルフに告ぐ」(1983-85連載)で既に描いている。今更、時代遅れである。

アニメのキャラクターに魅力がない。それからセル画とCGの融合が上手く機能しておらず、違和感ありまくり。お粗末!

ご存じの通り、今世界でCGアニメーションに関してはピクサーのひとり勝ちであり、セル画については(スタジオジブリなど)日本の技術が突出してる。結局「戦場でワルツを」は、イスラエルの実力の低さを露呈する作品に過ぎなかった。

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