アニメーション・アニメーション!

にわかには信じ難い大傑作アニメ「若おかみは小学生!」と大林映画

評価:AA

Waka

映画公式サイトはこちら

大の大人が口にするのも恥ずかしい題名である。そして絵柄(キャラクター・デザイン)がはっきり言って生理的に受け付けられない。「ムリ……」と思った。映画館で予告編を見たが、全く食指が動かなかい。ところが!!である。

いくら耳をふさいでも、あちらこちらで絶賛の嵐が吹き荒れている音が聞こえてくる。その熱量が半端ではない。

大人たちが熱狂している。

これは尋常じゃない。僕は人が勧めるものは素直に従う人間なので(自分の好みに拘泥していては世界が広がらない)、激しい抵抗感を覚えながらも半信半疑でTOHOシネマズ(シネコン)に重い足を運んだ。21時05分開始のレイトショーである。そもそもこんな題名の映画(子供だまし)をレイト上映している事自体、どうかしている。

そして……

涙腺決壊とはこのような映画を指すのだろう。もう、とめどなく涙が流れた。悔しいけれど認めざるを得ない。掛け値なしの大、大傑作。2018年の日本映画(実写含む)を代表する一本である。「この世界の片隅に」を第1位にして、「君の名は。」をランク外としたキネマ旬報ベストテンが本作をどう扱うのか、要注目だ。

高坂希太郎監督は「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」で原画を担当し、「耳をすませば」「もののけ姫(共同)」「千と千尋の神隠し(共同)」「ハウルの動く城(共同)」「風立ちぬ」で作画監督を務めてきた人である。宮崎駿の右腕であり、自然描写など、そのイズムが本作でも透徹している。また次々と出てくる食べ物の美味しそうなこと!

そして最大の功績は吉田玲子の脚本にある。京アニ「リズと青い鳥」のホンも素晴らしかったし、今年の脚本賞は是非彼女にあげたい(でも多分、今年の映画賞で脚本賞を総なめにするのは「カメラを止めるな!」の上田慎一郎だろうなぁ)。

映画の冒頭と締め括りは神楽で(女の子ふたりが舞うのでどうしても「君の名は。」を想い出す)、その間に日本の春夏秋冬が丹念に描かれる。

本作の魅力をズバリ一言で述べるとしたら「共時的」であるということに尽きる。これはスイスの構造主義言語学者ソシュール(1857-1913)の用語で、対義語が「通時的」。関連する複数の現象や体系を、時間の流れや歴史的な変化にそって記述する事を言う。つまり〈過去→現在→未来〉という不可逆的・一方通行の流れ。対して「共時的」とは、過去・現在・未来が同時にそこにあることを示している。フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは「神話は共時的である」と述べている。

映画「若おかみは小学生!」で温泉旅館〈春の屋〉に最初にやってきたお客さん=美少年は主人公おっこ(現在)のメタファーである。〈鏡〉に写った彼女自身と言っても良いし、ユング心理学における〈影〉、あるいは〈ドッペルゲンガー(二重身)〉と言い換えることも出来るだろう。彼女は美少年に対し、「頑張れ自分!」と背中を押す。

次のお客さん、占い師のグローリー・水領さんは未来のおっこ。水領さんは「そんなに気を張って、頑張らなくてもいいんだよ。子供らしくたまにははしゃぎなさい」と現在のおっこをギュッと抱きしめてくれる。

そして三番目のお客さんは、まだ両親がいて、何の心配も要らなかった頃の無邪気/純真な( innocent )おっこ。そんな幼い頃の記憶を現在のおっこがしっかり抱きとめる。

つまり過去・現在・未来のおっこが、そこに同時に存在しているのである。

こうして一年の体験を通して、彼女は意識と無意識を統合し、自己実現を果たす。舌を巻くほどの構成力だ。

本作最大のクライマックスとなる、ある事件を目撃しながら、僕が即座に想い出したのは、赤川次郎原作、大林宣彦監督の映画「ふたり」のラストシーンである。大林宣彦作詞、久石譲作曲の主題歌「草の想い」が流れ始め、石田ひかりがカメラに向かって正面から坂道を登ってくる。カメラが切り替わり、後ろ姿を捉えると、それは交通事故で死去した彼女の姉を演じた中嶋朋子に入れ替わっている(ふたりでひとり=自己実現)。この場面で起こるある出来事が「若おかみは小学生!」と密接に関連しているのである(ネタバレになるので具体的には書きません)。因みに赤川次郎の原作にこのエピソードはない。動画はこちら

考えてみれば死んだ両親の幽霊が主人公の目の前に現れるという設定は山田太一原作、大林宣彦監督「異人たちとの夏」だ。もしかしたら原作者の令丈ヒロ子は大林映画のファンなのではないか?と考え、彼女がなにかそのことに言及していないか調査をはじめた。つまり自分が立てた仮説の〈裏を取る〉作業である。そしたら、あったあった!

公式ツイッターで呟いていた。

大林監督が長年、掘り下げて来たのも「共時的」映画である。「異人たちとの夏」に代表されるように大林映画は生者と死者が共生する世界である。また山中恒原作の「さびしんぼう」では主人公ヒロキの母タツ子と、彼女の少女時代の姿=さびしんぼう(なんだかへんて子)が同時にそこに存在している。同じく山中恒原作の「はるか、ノスタルジィ」では50歳を過ぎて久しぶりに故郷の小樽に帰ってきた小説家・綾瀬慎介(ペンネーム)が、そこで自分の少年時代の姿・佐藤弘(綾瀬の本名)に出会う。これも「共時的」物語である。

そして令丈ヒロ子はこちらのインタビュー記事で、大林映画「転校生」に触れ、原作「おれがあいつであいつがおれで」を書いた山中恒を”師匠”と呼んでいる

大林映画「時をかける少女」の後日談をアニメーション映画に仕上げ、大林監督が〈映画の血を分けた息子〉と呼んでいる細田守監督が今年完成させた「未来のミライ」もまた、「共時的」アニメーションを志した。しかしこちらの方は残念ながら「若おかみは小学生!」程の完成度の高さには至っていない。

余談だが「共時的」映画の元祖はイングマール・ベルイマン監督「野いちご」(1957)である。そしてフェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2」(1963)がこのジャンルの代表作と言えるだろう。「ベルイマン生誕100年映画祭」に大林監督が寄せたコメント(こちら)で「野いちご」に触れ、〈ベルイマンの発明〉と述べているのは「共時的」表現法のことである。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」(フェデリコ・フェリーニ)

劇場版「若おかみは小学生!」の話に戻ろう。僕が心底惚れ込んだのは、主人公のライバルとなる大旅館の跡取り娘”ピンふり”こと真月(声:水樹奈々)だ。何と言ってもキャラが立っている!〈おっこ vs. 真月〉の図式は明白に、美内すずえの漫画「ガラスの仮面」における〈北島マヤ vs. 姫川亜弓〉の変換だろう。特に真月がスティーブ・ジョブズやトルストイの名言を引用する場面にはやられた。そして最後に引用するのがウォルト・ディズニーというのが泣ける。クーッ、カッケー!

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【解説】「ペンギン・ハイウェイ」〜〈海〉と〈お姉さん〉に関する考察

森見登美彦の小説は以前から大好きで、今までに「太陽の塔」「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」「【新釈】走れメロス他四篇」「有頂天家族」「宵山万華鏡」「夜行」を読んでいる。しかし日本SF大賞を受賞した「ペンギン・ハイウェイ」は未読であり、映画版が余りにも素晴らしすぎたので、これを機会に一気呵成に読み通した。

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上記事で〈海〉とは〈ワームホール〉みたいなものだろうと僕の考えを書いたのだが、なんのことはない、小説の中で何度もワームホールについて言及されていた。

本作はポーランドの作家スタニスワフ・レムが執筆したSF小説「ソラリス(ソラリスの陽のもとに)」に触発されている。歯科医院で小学校4年生の主人公アオヤマくんがいじめっ子のスズキくんに対し、歯の中にばい菌がいっぱいになって、歯をぜんぶ抜かないと治らない〈スタニスワフ症候群〉という嘘の病気について語るエピソードがある。

「ソラリス」は2度映画化されている。アンドレイ・タルコフスキー監督の1972年「惑星ソラリス」@ソ連と、ジェームズ・キャメロン製作、スティーブン・ソダーバーグ監督の2002年「ソラリス」@アメリカ合衆国である。1965年に出版された原作小説の日本における最初の翻訳「ソラリスの陽のもとに」はロシア語からの重訳であり、さらにソ連に於ける検閲を考慮し四百字詰め原稿用紙四十枚分に及ぶ削除箇所があった。その後、「ソラリスの陽のもとに」を高校生の時に読んで魅了され、ポーランド語を学んだという沼野充義によるポーランド語原典からの完全翻訳版が2015年にハヤカワ文庫SFより刊行された。

これはソラリスの〈海〉が、その上空にある惑星観測ステーションに勤める研究者の記憶をもとにコピー人間(似姿)を造る、つまり死者を実体化(擬態)する物語である。

海は地球上の生命のすべての起源であり、なるものである。「ペンギン・ハイウェイ」ではそれを〈お姉さん〉のおっぱいが象徴している。そしてペンギンは〈お姉さん〉=が生む子供たちだ。また海は命を与える存在であると同時に、命を奪う者でもある。それは3・11東日本大震災で我々の多くが実感したことだ。

映画「ペンギン・ハイウェイ」には出てこないが、原作小説には〈お姉さん〉が日曜日に教会に通っていることが言及されている。ここで〈お姉さん〉に聖母マリア像が重ねられていることが分かる。キリスト教におけるマリアは古来、海の星の聖母(Stella Maris)と呼ばれていた。希望の印、導きの星であり、船乗りにとってステラ・マリスとは航海の目印となる北極星を指すとか、宵の明星=金星のことだとする説もある。つまり〈海〉=〈お姉さん〉=聖母マリアという三位一体が成り立ち、さらにマリア→海の星→宇宙へと繋がっているのである。

〈お姉さん〉は〈海〉の創造物である。これは間違いない。では〈お姉さん〉の原型(prototype)は何か?つまり〈海〉は何に基づいて似姿を創ったのだろう?小説に次のような記述がある。

 彼女(お姉さん)の顔を観察しているうちに、なぜこの人の顔はこういうかたちにできあがったのだろう、だれが決めたのだろうという疑問がぼくの頭に浮かんだ。(中略)そして、ぼくがうれしく思うお姉さんの顔がなぜ遺伝子によって何もかも完璧に作られて今そこにあるのだろう、ということがぼくは知りたかったのである。

ここで僕が考えたのは、〈海〉はアオヤマくんの心の中にある女性の理想像、ユング心理学で言うところのアニマ(元型 archetype)を実体化したのではないか?という仮説である。ゲーテの言葉で言い換えるなら「永遠に女性的なるもの」。しかしそうするとアオヤマくんが〈お姉さん〉の生まれ故郷、海が見える坂の街の場所を知らなかったという矛盾が生じる。彼はそもそも本物の海を見たことがない。

「もし私が人間でないとして、海辺の街の記憶はなんだろう?」
 お姉さんは路地を歩きながら言った。「私だってお父さんやお母さんのことを憶えているし、自分が今まで生きてきた思い出があるよ。それもぜんぶ作りもの?」
「ぼくにはわかりません」

ということは、彼女は何らかの理由で早逝し、〈海〉が残された両親の記憶から似姿を創ったのかも知れない。

次に〈お姉さん〉の言う海辺の街はどこだろう?と想像してみる。真っ先に連想したのは森見が書いた「夜行」の舞台となった尾道市である。しかし海辺の街の坂の上には教会があるという記述があるので当てはまらない。大林映画でも分かる通り、尾道は寺と神社の町なのだ。ならば海+坂道+教会といえば長崎市や神戸市が候補に挙げられる。もし長崎ならば〈お姉さん〉は原爆投下で命を落としたのかも知れない。その時〈海〉は長崎に出現していて、〈海〉自身が〈お姉さん〉を記憶していたのだろう(両親も同時刻に亡くなった筈なので)。

物語の最後に〈お姉さん〉は消失する。言い換えるなら〈海〉に還る。この場面で僕が想い出したのは、押井守監督のアニメーション映画「攻殻機動隊」である。主人公の草薙素子はインターネットという〈海〉に溶けて〈神〉になる。何だか似ていませんか?未来のアオヤマくんは素子を探し続けるバトーになるわけだ。

そこで僕は森見登美彦が押井守について言及した記事がないか探した。つまり、自分が立てた説の裏を取ろうと考えたのである。そして……あった、あった!

森見は大森望(書評家)との、「夜は短し歩けよ乙女」を巡っての対談で次のように語っている。

大森 つげ義春の『ねじ式』とか、あるいは押井守を連想したんですが。
森見 押井守さんも好きなので、入ってるだろうと思います。ボーッとしてると、押井守と宮崎駿が自動的に出てくるんです。
大森 たしかに、『千と千尋の神隠し』っぽいところもあるし。

             (「本の旅人」2006年12月号より)

また朋友・明石氏(現在は弁護士)との対談で、次のような発言もある。

明石 なぜか、いきなり盛り上がったなあ。夕方になって日が傾いた頃に、突然森見君が「押井守を知ってるか」って言い出して(笑)。「短篇集のレーザーディスクとか一式持ってるから、今から俺の下宿に観に来るか」って。
森見 それはね、高校の時には、誰とも押井守の話とかできなかったんですよ、まったくまわりに通じなくて。そしたら明石君が押井守の名前を知ってたから、「この人なら!」と思ったんでしょうね(笑)。
明石 たまたま『攻殻機動隊』が好きだっただけなんですけどね。後日森見君の家に泊まったら、押井守のレーザーディスクをかたっぱしから見せられた(笑)。

       (「文藝」2011年5月号 【森見登美彦】特集より)

最後に。「ペンギン・ハイウェイ」に登場するジャバウォックとチェスゲームはルイス・キャロル「鏡の国のアリス」からの引用である。そして「ソラリス」もまた、に映る自己(self)についての物語なのだ。

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インクレディブル・ファミリー

評価:A

Incredibles2

公式サイトはこちら。前作「Mr.インクレディブル」も2004年公開時に映画館で観ているのだが、何しろ14年前の話なので当ブログも未だ開設していなかった。更に遡って当時書いた拙レビューを発見した。こちら

ブラッド・バード監督は安定の面白さ。ただ実写への進出作(「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル 」「トゥモローランド」)がイマイチだったので、アニメの世界の戻ってきてくれて本当に嬉しい。ド派手なアクションのてんこ盛りで、息もつかせぬとは正にこのこと。

007シリーズのジョン・バリーを彷彿とさせるマイケル・ジアッキーノのJazzyな音楽も乗りに乗っている。エンド・クレジットでMr.インクレディブル、イラスティガール、フロゾン各々のテーマソングが流れるのがご機嫌だ。

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【考察】映画「ペンギン・ハイウェイ」と宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

評価:AA (最高はAAA)

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大傑作!暫定今年のベスト・ワン(邦画・洋画併せて)。公式サイトはこちら。監督はこれが長編デビュー作となる石田祐康。

森見登美彦の原作は日本SF大賞を受賞している。仕掛けは本格的だ。

森見の小説は「四畳半神話大系」「有頂天家族」「夜は短し歩けよ乙女」が既にアニメ化されており、実にアニメーションとの親和性が高い。

そして脚色を担当した劇団「ヨーロッパ企画」@京都の上田誠と森見が組むのは「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」に続いて今回が3度目。抜群の相性の良さを示している。パーフェクトだ。

この物語のヒロインである〈お姉さん〉の姿に二重写しになって見えた人物が二人いる。松本零士「銀河鉄道999」のメーテルと、岩井俊二監督「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の及川なずな(奥菜恵)である。「銀河鉄道999」は勿論、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を下敷きにしており、岩井が執筆した「打ち上げ花火」の原作小説「少年たちは花火を横から見たかった」もまた、「銀河鉄道の夜」の冒頭部を読み上げる場面から始まる。つまり〈お姉さん〉≒メーテル≒なずな≒カムパネルラであり、「ペンギン・ハイウエイ」における小学校4年生の主人公アオヤマくん≒ジョバンニという図式が成立する。孤独な少年ジョバンニは友人カムパネルラとふたりきりで銀河鉄道に乗り込んで旅をするが、それは「銀河鉄道999」の星野鉄郎とメーテルも同様であり、「打ち上げ花火」の島田典道となずなは”かけおち”するために電車に乗ろうとするが、果たせない(後のアニメ版ではふたりきりで乗り込むことに成功する)。そして「ペンギン・ハイウエイ」のアオヤマくんと〈お姉さん〉も電車に乗って街を離れようと試みる。

「銀河鉄道の夜」「銀河鉄道999」「ペンギン・ハイウエイ」にもう一つ共通するのは死の匂いである。一見関係なさそうな「打ち上げ花火」にも、”かけおち”を持ちかけられた典道が、なずなと次のような会話を交わす場面がある。

典道「二人で・・・死ぬの?」
なずな「それは心中でしょ」

そしてアニメ版でなずなの母と”かけおち”し、サーフショップを開いた父は海で溺死している。

「ペンギン・ハイウエイ」に登場する〈海〉という概念はとても魅力的だ。映画「コンタクト」「インターステラー」における〈ワームホール〉みたいなものだろう(この二作品を監修したキップ・ソーンは2017年ノーベル物理学賞を受賞した)。また僕は〈真空崩壊〉も連想した(詳しくはこちら)。

ここで宮沢賢治が書いた絵をご覧いただこう。

Kenji

背景に宇宙が在り、空間の裂け目からいくつもの手が伸びる。「ペンギン・ハイウエイ」の 〈海〉に、どこか似ていませんか?

アオヤマくんは〈お姉さん〉と一緒に体験した冒険を通じて、宇宙とか世界の果てについて思惟する。ジョバンニのように。そして初めて死を身近に意識し、大人への階段を一歩登る。少年期の終わり。哲学的であり、秀逸なジュブナイル映画である。

また〈お姉さん〉の声を当てた蒼井優が素晴らしかったことも特筆に値する。

ー 最後にネタバレでもう一言 ー

Are you ready ?

銀河鉄道に乗ったカムパネルラは生者ではなく、既に死んでいる。メーテルが生身の人間なのか、機械人間なのかは未だに意見が別れており、結論は出ていない(松本零士は「メーテルは”人間”です」と言っているが、それでは説明がつかない点が多々ある。作家とは信頼できない語り手である)。また「打ち上げ花火」のなずなの正体は人魚(セイレーン)なのではないかと僕は考えている。最後は水のきらめきの中に消えてゆくし、岩井俊二は「ウォーレスの人魚」という小説を書いているくらいだからね。そして「ペンギン・ハイウエイ」のアオヤマくんは最後に「お姉さんは人間ではない」という結論に達する。やはりこれら4作品は繋がっているのである。

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アカデミー長編アニメーション映画賞候補作「生きのびるために」

「生きのびるために」は米アカデミー長編アニメーション映画賞にノミネートされ、仏アヌシー国際アニメーション映画祭2018では長編コンペティション部門で観客賞と審査員賞を受賞した(日本から出品された「未来のミライ」は無冠に終わった)。アニー賞では長編インディペンデント作品賞を受賞。「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」で知られるアイルランドのスタジオ、カートゥーン・サルーン製作で、監督はノラ・トゥーミー(女性)。彼女は「ブレンダンとケルズの秘密」でトム・ムーアと共同監督を務めた。

Bread

日本では劇場公開されず、現在既にNetflixから配信中。

やはりアカデミー賞にノミネートされた「ブレンダンとケルズの秘密」も「ソング・オブ・ザ・シー」もアイルランドの伝承やケルト神話に基づく作品だったので、最新作がタリバン政権下のアフガニスタンが舞台になっているのには面食らった。

カナダの児童文学作家デボラ・エリスの小説が原作で、同じ主人公パヴァーナで「さすらいの旅」「希望の学校」という三部作になっているようだ(さ・え・ら書房から日本語訳が出版されている)。彼女は1997年、1999年の二度にわたりパキスタンのアフガン難民キャンプを訪れ、女性や子どもたちからタリバン支配下のアフガニスタンについて聞きとり調査をしたという(詳細はこちら)。

映画を観ると、しっかりとカートゥーン・サルーン印が刻印されていたので感心した。その特徴は2つに集約される。

  1. キャラクター・デザインが「円」を基本にしていること。
  2. 現実の物語とアフガニスタンの神話が同期する(synchronize)。
厳しい現実をテーマにして、こういう切り口があろうとは!いやはや恐れ入りました。必見。

評価:A

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【考察】今夏最大の問題作「未来のミライ」(細田守監督)の構造分析と時間イメージ

評価:A

Mirai

公式サイトはこちら

細田守監督の最新作「未来のミライ」はアヌシー国際アニメーション映画祭コンペティション長編部門に出品され、結局無冠に終わった。7月20日に日本で公開されたが、巷での評判はすこぶる悪い。「何が言いたいのか、意味が分からない」「タイムスリップがご都合主義だ」等の否定的意見多数。SNSでの不評を受けて公開第1週の全国週末興行成績ランキングは「ジュラシック・ワールド 炎の王国」(2週目)に次ぐ第2位からの発進となった。最終興収58.5億円を記録した細田の前作「バケモノの子」の興収比60.0%という低調な成績である。

僕は小学校1年生の息子と観に行ったが、彼の感想は「面白かった」。

な映画である。言い換えるなら極めてユニークだ。あんまり類似した作品を想い出せない。これは「バケモノの子」=(「ベスト・キッド」+「千と千尋の神隠し」)÷2だったのに対して対照的だ。宮崎駿のアニメーションのスケールの大きさと比べると、細田守のそれは非常に小さい。製作のきっかけとなったのは細田自身に男の子と女の子の子供が生まれたことである。主題歌の打ち合わせの時に山下達郎から「すごい、また今回も私小説的ですね」と言われたそうだ。

細田は正真正銘ケモナーである。「サマーウォーズ」にはウサギ型アバター・キングカズマが登場し、「おおかみこども」は狼と人間が結婚し子作りをする。「バケモノ」の熊徹も毛がふさふさ。僕は細田の海外での評価が極めて低いのは、ケモナーであることが一因なのではないかと考えている。そして「未来のミライ」にも監督のフェティシズムが迸っている。くんちゃんが犬の尻尾を自分のお尻にくっ付けて、メタモルフォーゼ(変身)する場面があるのだ。やれやれ……。

あと「バケモノの子」で師匠・宮崎駿(=熊徹)に対し、主人公・九太の口を借りて「俺のやることを、そこで黙って見てろ!」と言い放った細田だが、本作でくんちゃんのひいおじいちゃん(曽祖父)は戦闘機のエンジンを作っているという設定であり、それってまんま駿のオヤジの話じゃん!!(宮崎の父は零戦のコックピットを作っていた)。もう大爆笑である。駿に憧れる余りに、遂に自分の記憶の改竄自己同一化)に乗り出したのだ。いやはや、恐れ入りました。

「すごい、また今回も私小説的ですね」
「すごい、また今回も私小説的ですね」

さて、本作の構造をフランスの哲学者アンリ・ベルクソンが著書「物質と記憶」(1896年初版)で論じた逆さ円柱モデルを応用し、説明してみよう。

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図上部の逆さ円錐がベルクソンが提示したモデル。下部の円錐がそれを反転したもの(鏡像)である。逆さ円錐の全体SABが主人公くんちゃんの記憶に蓄えられたイマージュの総て(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり、くんちゃんの「今」の知覚である。Pという平面は現在彼がいる世界・宇宙そのもの。くんちゃんは円錐の中を自由に、生成され続ける過去(A'B'やA''B'')へと螺旋状に飛翔し、またSに戻ってくる。ここまでの構造時間イメージはフェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2」やアラン・レネ「去年マリエンバートで」、イングマール・ベルイマン「野いちご」、大林宣彦「はるか、ノスタルジィ」などの前例がある。しかし「未来のミライ」がユニークなのは下部の円錐。それは未来に広がっている。中学生(15歳くらい)になった妹ミライちゃんは∀,B,あたりからやって来る。

「未来のミライ」はくんちゃんの内面意識個人的無意識自己 self)を描いていると解釈出来るだろう。その深層は過去から未来までの家族史(家族的・集合的無意識ー犬を含む)に接続している。

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しかし、4歳児のくんちゃんが中学生となった妹ミライちゃんを知っている筈がなく、ひいおじいちゃん(曽祖父)の個人史も知らないという矛盾が生じる。ここで多くの観客が困惑してしまうわけだ。しかし15年後のくんちゃんの内面だとしたらどうだろう?曽祖父の生い立ちについても両親から聞いて知っていてもおかしくない。こう仮定すれば全ての整合性がとれるのである。

つまり物語を通時的(時間の流れに沿って)考えるのではなく、共時的に捉える必要がある。過去も未来も今ここ(self)にあるのだ。

フェリーニは次のように語っている。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

これを未来にまで延長したのが本作なのだ。

逆さ円錐(上部)と円錐(下部)の中心を貫いているのが、くんちゃんちの庭に植えられた一本の生命の樹 Tree of Lifeである。それは宮崎駿「となりのトトロ」に繋がっており、トトロ同様、「未来のミライ」でも《迷子》というモティーフが繰り返される。

実は「未来のミライ」の構造が一番近いのは大林宣彦監督「時をかける少女」(1983)かも知れない。深町くん(高柳良一)は未来からやって来るし、主人公・芳山和子(原田知世)は自分の幼少期にタイムスリップしたりもする。細田版アニメーション映画「時をかける少女」(2006)は実質的に大林版の後日談であり、芳山和子(魔女おばさん)の声優として細田は原田知世にオファーしたが、断られている。そして大林監督は細田のことを【映画の血を分けた息子】と呼んだ。

「未来のミライ」は現代の神話である。今度はフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースの手法を用いて、本作を読み直してみよう。

オーケストラの総譜(スコア)を例に説明しよう。

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楽譜を(左→右)に読むと通時的流れがある。 ①行目:曽祖父の個人史、②行目:母の個人史、③行目:愛犬ゆっこの個犬史、④行目:くんちゃんの個人史、⑤行目:ミライちゃんの個人史、といった具合だ。音楽用語で言えばモノフォニー単一旋律 melody)である。そして映画に於ける《くんちゃんの冒険》は楽譜を(上↔下)に、螺旋状に行ったり来たりする。そこに家族史というharmonyが響き合う。これが共時的読解である。音楽用語で言えばポリフォニー多声音楽)となる。

「未来のミライ」は作家性(癖)が強く、奇天烈で、決して万人受けするようなウェルメイド・アニメとは言い難い。しかし僕は斬新で愛すべき作品だと想うし、断固支持したい。細田守を「モスラ」に喩えるなら、いま彼は折れた東京タワーに繭を張った幼虫の状態にあるのだ。間もなく殻を破り、成虫が羽を広げ飛翔する時が必ず来るだろう。その日を愉しみに待ちたい。

最後に。くんちゃんの声をあてた上白石萌歌が、4歳の男の子のようには全く聴こえず、10代の女の子以外の何者でもなかったことについては不問に付す。

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《増補改訂版》「コードギアス 反逆のルルーシュ」の魅力とその構造を徹底分析する。

TBSラジオで65年間続いた野球中継(午後6時からのナイター)が2018年3月末で終了し、代わって4月から月〜金曜日にヒップホップ・グループRHYMESTER(ライムスター)宇多丸(49)がパーソナリティを務めるカルチャー・キュレーション番組「アフター6ジャンクション」 #utamaru #アトロク が開始された。そして1ヶ月経ち、蓋を開けてみるとTBSラジオは聴取率1位を独走する結果となった。これがめっちゃ面白いので、僕も毎日通勤時にラジオクラウドで愛聴している。

5月22日(火)に【宇垣美里アナ&藤津亮太が語る「今からでも間に合うコードギアス一夜漬け入門」】という特集が組まれた。神戸市出身で同志社大学在学中にミスキャンパス同志社のグランプリを獲得、つい先日は「週刊プレイボーイ」のグラビアを飾ったTBSの宇垣アナ(27)が、助っ人・藤津亮太(アニメーション評論家)の力を借りて「コードギアス」を一度も見たことのないライムスター宇多丸に対してその魅力をとことん語り、「全力で」推しまくるという企画であった。宇垣アナは「ルルーシュと結婚したい!」と公言するくらいの熱狂的ファンである(その一方でルルーシュの親友・枢木スザクのことを「ウザク」と呼ぶ)。

僕はCLAMPによる耽美な、そして癖のあるキャラクターデザイン(絵柄)が苦手で今まで敬遠していたのだが、ラジオを聴きその内容にすこぶる興味を惹かれた。調べてみたところNetflixで配信されているのを発見、放送終了後19日間で全50話を一気に見通した。最終回が終了した直後からRe; turnし、2回目の鑑賞に突入。

「コードギアス」シリーズは2006年10月より第1期、2008年4月より第2期がテレビ放送された。現在はその総集編である劇場版3部作が公開中。

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本作最大の魅力は物語の反転にある。敵と味方が目まぐるしく入れ替わる。息もつかせぬ展開とは正にこのこと。そして戦争に《正義の側》と《悪の側》という絶対的な価値は存在せず、あくまで相対的なものだと教えてくれる。宇垣アナも激賞していたが、とにかく大河内一楼の脚本が圧倒的に素晴らしい!

藤津亮太は《全部のせ》と評したが、確かにその通りだった。

ユーフェミア(神聖ブリタニア帝国・第三皇女)は上空から落ちてきて枢木スザクに抱きとめられる。これは宮崎駿「天空の城ラピュタ」冒頭の引用であり、スザクが猫に指を噛まれるのは「風の谷のナウシカ」(ナウシカ↔キツネリス”テト”)。そして日本が神聖ブリタニア帝国に占領され、名前を奪われて「エリア11」と呼ばれる設定には「千と千尋の神隠し」が木霊する。ルルーシュがスザクにかけるギアス「生きろ。」は勿論、「もののけ姫」だ。中華連邦における花嫁略奪は「ルパン三世 カリオストロの城」。天子(てんし)≒クラリスであり、彼女がまだ幼いときに黎 星刻(リー・シンクー)≒ルパンの命を救ったという設定も同じ。

またルルーシュがギアスの力を用いてある登場人物の記憶を消去するのだが、これは筒井康隆のSF小説(ジュブナイル)「時をかける少女」にそっくり。他にも、ピカレスクロマン、軍師もの(頭脳戦)、くノ一(女忍者)、メイドアニメ、学園ラブコメ、ボーイズ・ラブ、「機動戦士ガンダム」をはじめとするロボットアニメ等の要素がてんこ盛り

本作はシェイクスピア「ハムレット」の構造を踏襲している(第1話、サイドカーでルルーシュは「ハムレット」を読んでいる)。ハムレットは殺された父の仇を取るために王に即位した叔父と、その妻になった母を暗殺しようと計略をめぐらせる。一方、ルルーシュは暗殺された母を守らなかった父、ブリタニア皇帝シャルルを討つために着々と準備を整える(父↔母が変換されている)。ハムレットは気が触れたふりをする。(Hamlet pretends to be mad.)「コードギアス」第2期で監視されているルルーシュも記憶を取り戻していないという見せかけの演技をする。

さらに「父殺し」というギリシャ神話「オイディプス王」のテーマが重ねられる(フロイトはこれに基づきエディプス・コンプレックスという概念を提示した)。フランスの人類学者レヴィ=ストロースは彼の著書「構造人類学」の中で「オイディプス王」の構造を分析している。この神話には《オイディプスは父を殺す》《オイディプスの息子エテオクレスはその兄弟ポリュネイケスを殺す》という【親族関係の過小評価/価値を切り下げられた親族関係】と、《オイディプスは母と結婚する》《オイディプスの娘アンティゴネは、反逆者として死んだ兄ポリュネイケスを、禁を破って埋葬する》という【親族関係の過大評価】の二項対立があると述べている。では「コードギアス」はどうか?《父殺し》だけではなく《ルルーシュは兄である第3皇子クロヴィスを暗殺する》という【親族関係の過小評価】があり、一方で《ルルーシュは妹ナナリーを溺愛する(彼が反逆する目的は全てナナリーの安全を守り、彼女を幸せにするためだけにある)》《第2皇女コーネリアは妹(第3皇女)ユーフェミアを溺愛する》という【親族関係の過大評価】が対立する。

またルルーシュとスザクは幼馴染の親友→敵対関係に移行し、以後も揺れ動く。これは永井豪の漫画「デビルマン」に於ける不動明(=デビルマン)と飛鳥了の関係を彷彿とさせる。「デビルマン」におけるデーモン≒ギアスと考えてほぼ間違いないだろう。2018年にNetflixから配信が開始された湯浅政明監督によるアニメ「DEVILMAN crybaby」(全10話 傑作!)の脚本を「コードギアス」の大河内一楼が執筆しているのは決して偶然ではない。さらに「デビルマン」の源流を辿ると、ダンテの「神曲」とミルトンの「失楽園」にたどり着く(永井豪の自作「魔王ダンテ」が原型)。「コードギアス」R2(第2期)TURN1「魔神が目覚める日」のサイドカーでルルーシュが読んでいるのは"La Divina Commedia"つまり「神曲」である。

ルルーシュと魔女C.C.(シーツー)が結ぶ契約は、ゲーテの小説「ファウスト」における主人公とメフィストフェレスの関係の変換である。これは後に「魔法少女まどか☆マギカ」の魔法少女↔キュゥべえに踏襲される。さらに「コードギアス」第2期(R2)冒頭の記憶を失った登場人物たちが、違和感を覚える日常を送っている姿は「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」冒頭部に重なる。

ルルーシュが持つギアス=《絶対遵守》の力が、原作 - 大場つぐみ・作画 - 小畑健による漫画「DEATH NOTE(デスノート)」(2003年12月から2006年5月まで連載)の効力に類似していることも指摘しておこう。

----- 以下ネタバレあります。未見の方はご注意ください。 -----



ルルーシュは仮面で素顔を隠して「ゼロ」と名乗るのだが、これはゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)を示している。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシアの原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)は浮遊する過剰シニフィアンであり、その多義性に特徴がある。「ゼロ」の仮面もルルーシュだけではなく、C.C.(シーツー)、篠崎咲世子(くノ一/女忍者)、スザクらがかぶる。物語の中を漂い、循環するのである。

ゼロ」の仮面同様、本作でゼロ記号として働いているのが言うまでもなくギアスだ。ワーグナー「ニーベルングの指環」やトールキン「指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)」における指輪、「スター・ウォーズ」のフォース、「ハリー・ポッター」シリーズの魔法同様、ギアスという得体の知れない力は二項対立を結び、両極間を循環する第三項である。

ルルーシュ(ゼロ)が純血派の将校ジェレミアに対してハッタリで言う「オレンジ」という言葉もまた、ゼロ記号としてシニフィエ(意味されている対象)が定まることなく浮遊する。

皇帝の騎士としてナイトオブラウンズ(Knights of the Round)が登場するが、これは日本語に訳すと「円卓(roundtable)の騎士」となる。スザクが乗る人型兵器(ロボット)「ランスロット」もまたアーサー王物語に登場する円卓の騎士のひとり。彼はアーサー王と決裂し、円卓の騎士は王の軍勢に加わる者とランスロット派に二分され、戦うことになる。この構造が「コードギアス」に引き継がれている。アーサー王の狙いはブリタニア(現在のイギリス)の平定であったが、「コードギアス」には神聖ブリタニア帝国が登場する。ロイド、セシルらが所属しランスロットを開発した技術部・特派は後に「キャメロット」という組織へと発展解消した。キャメロットはアーサー王の王国であり、キャメロット城が築かれた。また生徒会で飼われている猫の名はずばり、アーサーである。

ナイトオブラウンズのNo.3(ナイト・オブ・スリー)が乗る人型兵器の名は「トリスタン」。これはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の主人公。元々はケルトの説話であり、後にアーサー王物語に取り込まれた。円卓の騎士のひとりとしてランスロットに次ぐ強さの持ち主だったという。

また機動兵器「ジークフリート」が登場するが、これはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場する英雄。元は北欧神話である。

生死に関係なく、人の心と記憶が集まる「Cの世界(集合無意識/Collective unconscious)」という概念はユング心理学に由来する。それはシャルルやV.V.(ヴイツー)から「神」と呼ばれている。

Jungsmodel

シャルルが読んでいる本に登場する、ユングによる「心」の構造である。中心に自己(SELF)があり、それを取り巻く円の内側(深層)が集合的無意識(Collective unconscious=Cの世界)。A元型(Archetype)で、アニマ(男性の思い描く理想的女性像)、アニムス(女性が思い描く理想的男性像)、太母(the Great Mother)、老賢人(the Wise Old Man)等が該当する。その外側に個人的無意識(Personal unconscious)が存在し、心的複合体=感情複合(Complex)を内包する。その代表例がフロイトが提唱したエディプス・コンプレックス。さらに「心」の表層に意識(Consciousness)があり、自我(EGO)が配置されている。

シャルルがいる神殿のような仮想空間は「アーカーシャの剣」。アーカーシャとは古代インド・サンスクリット語で「虚空」を意味し、存在の一切を統括する法則を指す。「剣」と命名されているのはアーサー王が持つ剣「エクスカリバー」を意識してのことだろう。これには魔法の力が宿るとされ、ブリテン島の正当な統治者の象徴である。石に刺さったエクスカリバーを引く抜くことがアーサーの血筋を証明することになる。一方、ジークフリートは「ノートゥング」という剣を鍛え直すのだが、そちらは神々の長ヴォータンが人間の女に産ませた息子ジークムントに与えたもので、木に刺さって誰も抜けなかったノートゥングを彼が引き抜く。2つの剣は見事に対称を成している。

シャルルとV.V.(ヴィツー)の悲願は《嘘のない世界》を創生する計画=「ラグナレクの接続」である。Cの世界に干渉し、不老不死のコードの力を使って全人類を集合無意識へと回帰させるというもの。つまり、個々人の意識間にある壁(新世紀エヴァンゲリオンでいうところのATフィールド)を取り払い、全人類の意識を強制的に共有状態にすること。ラグナレク(ラグナロク)とは北欧神話の世界において神々と巨人族が争う世界終末戦争のことであり「神々の黄昏」ともいう。ここでも「ニーベルングの指環」に接続している。

シャルルとV.V.は《嘘のない世界》を志向するが、その一方でルルーシュとスザクは《秘密と嘘に塗(まみ)れた世界》に生きている。この二項対立の根底には【個々人の思考に差異がなく、コミュニケーションが必要ない世界が仮に実現したとして、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか?】【競争や対立、諍いのない暮らしは果たして人に幸福をもたらすか?】【人が本心を隠し仮面(ペルソナ)を被るのは善きことか、否か?】という哲学的問いがある。そして更に《限りある生命↔永遠の命》の相克に思いを馳せることになる。

またラグナレクの接続の場面で"Lasciate ogni speranza, voi ch'entrate."(この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ)というダンテ「神曲」の一節が登場することも付け加えておく。

最後に、最終話 TURN 25「Re;」について考察する。果たしてルルーシュは本当に死んだのだろうか?ここでまず、ナナリーが血まみれのルルーシュの手を触れた時に、ルルーシュの記憶が彼女に流れ込む場面に注目したい。これはルルーシュがC.C.と出会い、彼女からギアスを授けられた第1話 = STAGE 1「魔神が生まれた日」の再現になっている。そしてラストシーン、C.C.が荷馬車に積まれた藁の上から語りかけている相手は誰なのか?彼女の額には未だコードが浮かんでいるか?御者の顔はどうして見えない?これらを考えれば、答えは自ずから解るだろう。こうして物語は振り出しに戻り(Re;turn)、循環する。STAGE 1「魔神が生まれた日」の冒頭。暗闇の中でドックンドックンと心臓の鼓動が聞こえ、やがて瞳が開かれて最初に視界に浮かぶのがC.C.の姿である。さて、この瞳は誰のもの?

大河内一楼、恐るべし!!「コードギアス 復活のルルーシュ」を待て。

Next

TO BE CONTINUED...

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ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞「犬ヶ島」

評価:B+

Dogs

日本を舞台にしたウェス・アンダーソン監督のストップモーション・アニメである。ベルリン国際映画祭で銀熊(監督)賞を受賞した(最高賞は金熊)。公式サイトはこちら

けったいな映画である。でもそこに監督の(へんてこな)個性が刻印されており、好感が持てる。

早坂文雄が作曲した黒澤明『七人の侍』のテーマ曲(オリジナル音源)が流れ、『酔いどれ天使』からは2つの歌「東京シューシャインボーイ」「小雨の丘」が引用されている。あと少年の父親が『天国と地獄』に於ける三船敏郎そっくりだったり、世界観が『野良犬』だったりと黒澤映画への愛が全編に満ち溢れており、観ていて面映ゆいくらいである。

先日のスピルバーグ監督『レディ・プレイヤー1』にはガンダムやメカゴジラが登場し、伊福部昭の音楽が流れたし、すげえな。「日本文化ばんざい!」

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吹奏楽女子に告ぐ。「リズと青い鳥」は絶対、ぜーったいに観るべし!

評価:A+

Liz

公式サイトはこちら。京都アニメーション(以下、京アニと略す)「響け!ユーフォニアム」のスピンオフ映画である。

「響け!」の1stシーズンは絶賛したのだが、2ndシーズン(第二期)はビミョーだった。特にイライラさせられたのが新キャラの鎧塚みぞれ(よろいづかみぞれ;オーボエ)と、傘木希美(かさきのぞみ;フルート)。因みに鎧塚みぞれは劇場版(第一期総集編)から登場している。正直、「このふたり、いらんわ!」と想った。何かね、本筋とは関係ないんよ。そういう視聴者のもやもやした空気を察知したのか(??)、第二期の総集編である「劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜」ではふたりの登場シーンをバッサリまるごとカット。却って全体の風通しが良くなり、テレビ・シリーズより断然引き締まった作品に生まれ変わった。

そして本編から排除されたふたりを主人公に、完全新作として製作されたのが「リズと青い鳥」だ。「響け!」を観ていなくても全然大丈夫。独立した作品として存分に愉しめる。

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 (↑入場者特典。何故、トランペットの高坂麗奈??)

山田尚子監督はテレビ・シリーズ「けいおん!」から観ているし、映画「聲の形」に対しては厳しいことも書いた。

しかし「リズと青い鳥」は文句なしに素晴らしい。彼女の最高傑作であると同時に、京アニが今まで培ってきたノウハウの集大成、紛うことなき金字塔であると断言する。

まず画風を本編とはガラリと変えてきた(「響け!」のキャラクターデザインは池田晶子、「リズ」は「聲の形」の西屋太志)。そして背景画は淡い水彩画調になった。僕が真っ先に連想したのが高畑勲監督「ホーホケキョ となりの山田くん」である。

本作は故・高畑勲へのオマージュで満ち溢れている。童話「リズと青い鳥」の世界観は欧米を舞台にした高畑勲演出「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」のスピリット(魂)を引き継ぐものとなっている。つまり何気ない日常生活のリアリティを徹底的に追求する姿勢だ。中でも山田監督は「赤毛のアン」に対して強い想い入れがあるんじゃないかな?そんな気持ちが画面を通してビンビン伝わってきた。

本作は薬師丸ひろ子が主演した映画「Wの悲劇」と同様、入れ子構造になっている。

Ireko

つまり現実の物語(吹奏楽部の日常)と劇中劇(童話「リズと青い鳥」)に一対一対応の関係があり、密接にリンクしながら物語が進んでゆく。確信を持って言うが、山田監督が意識していてのは吉田秋生の漫画「櫻の園」ではないだろうか?女子校の演劇部が舞台となり、彼女たちが演じるチェーホフの戯曲「桜の園」とリンクする。一方「リズと青い鳥」の北宇治高校も、まるで女子校のように描かれる。共学なのに。男子はその気配を消す。「響け!」のレギュラー・メンバーである塚本秀一(トロンボーン)は一瞬(数秒)画面に現れるが、台詞は一切なし。

そして本作の作劇(プロット)が極めて巧妙なのは、並行する2つのセリー(系列)で最初【リズ→(北宇治の)A、青い鳥→(北宇治の)B】という対応関係を想定して観ていたら、途中から【リズ→B、青い鳥→A】だと気付かされ、逆転(構造の変換)が起こるんだ!これにはしてやられた。鮮やか、天晴である。

今回改めて音楽(アンサンブル)とは楽器と楽器の対話なのだということを思い知らされた。繊細で切なく、心に残る名作である。

山田監督は意識的にターゲット(観客)層を変えたいと藻掻いている。「けいおん!」「涼宮ハルヒの憂鬱」の頃から京アニに登場する女子高生といえば、パンツが見えるか見えないかというぎりぎりの超ミニスカートが定番だった(しかし決して見せない。ここが新海誠「君の名は。」との違い)。そして内股。この【萌え】要素で数多くの男性ファンを獲得してきたわけだが、「リズと青い鳥」における北宇治高校制服のスカート丈は明らかに「響け!」より長くなっている(内股かどうかもよく判らない)。つまり山田監督の意図としては「(ヲタクだけでなはく)是非若い女の子に観て欲しい!」ということなのだろう。ところが、僕が観た劇場(109シネマズ大阪エキスポシティ)の観客は9割が男で、しかも40過ぎたオッサンばかり。(自分のことは差し置くが、)これじゃ駄目なんだ!届けるべき人々(吹奏楽女子)にメッセージが届いていない。暗澹たる気持ちになった。全日本吹奏楽連盟はもっと京アニと連携し、映画の鑑賞を推奨するべきだし、中学・高校の吹奏楽部顧問の先生たちも、生徒に観るよう促すべきだろう。それが音楽教育の本来あるべき姿だと僕は想う。

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スピルバーグの大傑作「レディ・プレイヤー1」を観る前に知っておくべき2,3の事項

評価:A+

Ready

大阪エキスポシティでIMAX次世代レーザー3D版を鑑賞。これってヴァーチャル・リアリティのお話だから、IMAXか4DX3Dなど没入感を味わえる環境で体感することが極めて重要。公式サイトはこちら

1980年に公開された「1941」と「未知との遭遇 特別編」以降、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画は全作品を映画館で封切り時に観ている。駄作「オールウェイズ」や「フック」も含めてだ。

本作を観ながら僕は今から25年前の1993年のことを想い出した。その年の6月11日に全米で「ジュラシック・パーク」が公開され、わずか半年後の12月15日に「シンドラーのリスト」が立て続けに公開された。前者はスピルバーグが心底撮りたい映画、そして後者はアカデミー賞を獲るための必殺剣。結局アカデミー賞で「ジュラシック・パーク」は視覚効果・音響編集・録音の3部門、「シンドラーのリスト」は作品・監督・脚色・作曲・撮影・編集・美術の7部門で受賞、合せ技で10部門を制したのである。これこそがスピルバーグ一流のバランス感覚だ。

そして今回はがっつり社会派でシリアスな「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」が2017年12月22日に公開され、超娯楽大作でめっぽう愉しい「レディ・プレイヤー1」が翌18年3月29日に続いた。他者の追随を許さぬ見事なバランス感覚の再現。因みに「レディ・プレイヤー1」の撮影監督ヤヌス・カミンスキーとスピルバーグが初めて組んだ作品が「シンドラーのリスト」で、カミンスキーにオスカーをもたらした(「プライベート・ライアン」が2回目の受賞)。

「レディ・プレイヤー1」は1980年代のポップカルチャーに標準が合わされ、「ジュラシック・パーク」のT-レックス、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のデロリアンとか大友克洋「AKIRA」の主人公・金田のバイク、ガンダムなどが登場するので話題になっている。

原作者で共同脚本も執筆したアーネスト・クラインとスピルバーグはウルトラマンを登場させたいと考えていた。しかし版権問題が複雑すぎて結局無理だと諦め、アイアン・ジャイアントにその役割を担わせたという(こちらにそのインタビュー記事)。ウルトラマンに関しては円谷プロが法廷でつい先日まで争っていた→「ウルトラマン」国外利用権で円谷プロが米国で勝訴。タイ実業家らと20年以上係争(AV Watch)しかしアイアン・ジャイアントの一般的知名度は高いと言えず、コンテンツとしては弱いだろう(いや、僕はBlu-rayを持っているし、ブラッド・バード監督の最新作「インクレディブル・ファミリー」には大いに期待しているのだが……)。

それにしてもキングコング登場の場面では元祖1933年版のためにマックス・スタイナー(「風と共に去りぬ」「カサブランカ」)が作曲した音楽が使用され、ゼメキスキューブが使用される場面では「バック・トゥ・ザ・フューチャー(BTTF)」の音楽が高鳴り、メカゴジラが暴れ出すと伊福部昭作曲ゴジラのテーマが。あがった!ちなみに「レディ・プレイヤー1」の音楽はスピルバーグの朋友ジョン・ウィリアムズではなく、BTTFのアラン・シルヴェストリである。

他にも、ある人物の爆死シーンが明らかに「スター・ウォーズ エピソード4」のオマージュであるとか、アイアン・ジャイアントがシュワちゃん@ターミネーターの"I'll be back."ポーズをするとか、小ネタに関しては枚挙に暇がない。

ハイタッチのことを英語で”HI FIVE”という。ホラ、AKB48のシングル"GIVE ME FIVE !"ね。で「レディ・プレイヤー1」の主人公は当初、誰からもHI FIVEをしてもらえないという屈辱を味わうのだが、これが実は後の伏線になっているので要注目!

本作を観る前に最低限の予習(教養)として、オーソン・ウェルズ監督「市民ケーン」(1941)とスタンリー・キューブリック監督「シャイニング」(1980)をご覧になっておくことを強くお薦めする。だって予備知識がないと「バラの蕾(Rose Bud)」と言われたって、なんのこっちゃ、さっぱり解らないでしょう?

因みにスピルバーグはキューブリックの遺志を継いで映画「A.I.」(2001)を撮った。彼が自らシナリオを執筆したのは「未知との遭遇」と「A.I.」2作のみである。それだけ想い入れが強いということ。そして「A.I.」はピノキオの物語がベースになっており、「未知との遭遇」の主人公ロイは子どもたちを連れてディズニーの「ピノキオ」を観に行こうとするし、映画の最後に主題歌「星に願いを」が流れる。また「ピノキオ」を基に手塚治虫は人間になりたがったロボットの漫画「鉄腕アトム」を描き(アトムはサーカスに売り飛ばされる)、そのアニメをアメリカで観たキューブリックは「2001年宇宙の旅」の美術監督を担当して欲しいと手塚治虫にオファーした。しかし当時、虫プロを抱え漫画の連載にも追われ多忙を極めた手塚はそれを断ったのである。ここにもうひとつの「レディ・プレイヤー1」の物語(ポップカルチャー史)がある。

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