アニメーション・アニメーション!

2021年8月10日 (火)

竜とそばかすの姫

評価:A+

Ryu

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CGキャラクターデザインは『塔の上のラプンツェル』『ベイマックス』『アナと雪の女王』などでメインキャラクターを担当したジン・キム。インターネット上の仮想世界〈U〉のコンセプトアートを担当したのは新進気鋭のイギリス人建築家/デザイナー、エリック・ウォンという人選がユニークだ。岩崎太整、Ludvig Forssell、坂東祐太の3人が担当した音楽の充実ぶりにも目を瞠るものがある。

〈U〉における主人公の名前がベルであることからも明らかなように、本作は『美女と野獣』を下敷きにしており、彼女が沢山歌うスタイルは、ディズニーの十八番であるミュージカル・アニメーションを彷彿とさせる。日本のアニメ業界が長年不得意として来たジャンルだが、この野心的な試みは見事に成功している。

『美女と野獣』や『かえるの王さま』といった西洋の異類婚姻譚は最後、魔法が解けて王子様の姿に戻り、ヒロインと結ばれてめでたしめでたしとなる訳だが、今回はそうではなく、主人公の母性が覚醒するに至るというのが、いかにも日本人らしい発想で面白かった。

細田監督は東映アニメーション時代に短編3D立体映画『銀河鉄道999〜ガラスのクレア〜』(2000)を監督しており(詳細はこちら)、『竜とそばかすの姫』はベル(Belle)がメーテルになるまでを描いていると解釈することも可能なのではないだろうか?(実際のところ鉄道に乗り、窮地に立つ“鉄郎”を救出するために駆けつけるわけだから。)

 ・松本零士「銀河鉄道999」とエディプス・コンプレックス〜手塚治虫/宮﨑駿との比較論 2016.07.07

〈U〉は『サマーウォーズ』における〈OZ〉の進化系だが、細田監督の描くインターネット上の仮想空間は、他の映画でありがちな流言飛語が渦巻き、妬みや悪意に満ちた場所ではなく、遠く離れた人と人の心が通じ合い、繋がることが出来るという世界観であり、前向き思考だ。

あまりにも楽観的でご都合主義ではないかという批判も当然あるだろうが、僕は花も実もある絵空事として好意的に捉えた。考えてみれば往年のハリウッド映画はハッピー・エンドしかなかったわけで、観客に夢や希望を与え元気づけるという効能も、僕たちが愛する映画の大きな魅力の一つではないかと思うのだ。

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2021年4月 2日 (金)

映画「ミナリ」と、ハリウッド実写版「君の名は。」

評価:B+

 Minari

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映画『ミナリ』のリー・アイザック・チョン監督は、新海誠監督のアニメーション映画『君の名は。』のハリウッド実写版監督に決まっている。当初は『アメイジング・スパイダーマン』『(500)日のサマー』のマーク・ウェブがメガフォンを取ると発表されていたのだが、降板した。チョン監督の『君の名は。』についてのコメントはこちら。ドゥニ・ヴィルヌーブ監督『メッセージ』でアカデミー脚色賞にノミネートされたエリック・ハイセラーが執筆したシナリオを現在リライト中とのこと。

『ミナリ』とは韓国語で香味野菜のセリ(芹)のこと。在米韓国人一家の生き様を描いており、会話の50%以上が韓国語ということでゴールデングローブ賞の作品賞(ドラマ部門/コメディ部門)候補対象外となり、外国語映画賞にノミネートされたことで物議を醸した。正真正銘のアメリカ映画なのに、英語以外は「外国語」なのか?という問いがそこにはあった(結局、外国語映画賞を受賞)。ゴールデングローブ賞は現在87名いる外国人映画記者協会メンバーのうち黒人が1人もいないことに対しても激しく非難を浴びた。よって来年までに少なくとも13人は黒人会員を入れると声明を発表している。 なおアカデミー賞で本作は作品・監督・主演男優・助演女優・オリジナル脚本・作曲の6部門にノミネートされた。

TV『大草原の小さな家』とか、日本の『北の国から』を彷彿とさせる雰囲気がある。スルメのように噛めば噛むほど味が出る作品だ。本作中に登場するセリ(minari)は幾多の困難を乗り越えてそこにしっかり根を張っていく家族を象徴している。

さて、ハリウッド版『君の名は。』はどんな作品になるだろう?多様性(diversity)が叫ばれる昨今だから主人公の男女の人種は当然変えてくるだろう。片方は多分アジア人。韓国系にするか、オリジナルを尊重して日系にするか?そして相手は黒人か、ヒスパニック、それともアメリカ先住民?多分白人はないだろう。いろいろと想像するだけで楽しくなる。

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2021年3月11日 (木)

中二病からの脱出〜映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

評価:A+

Eva

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テレビ・アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の放送(1995年10月4日-1996年3月27日)から25年、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開から14年。漸くこの物語は完結した。特に前作『Q』から8年以上も待たされた。そもそも2020年6月27日公開予定だったのが新型コロナウィルス感染拡大の影響で翌年1月23日に延期となり、さらに緊急事態宣言が発令されたため3月8日(月)に再延期された。緊急事態宣言の期限が3月7日に設定されていたからである。しかし結局、あてが外れて首都圏の1都3県では宣言が更に2週間延長されることになった。

テレビ・アニメ版『エヴァ』を一言で表現するなら「中二病」となるだろう。事実、登場する少年少女たちの年齢は14歳である。

Wikipediaによると「中二病」という言葉は1999年、伊集院光がラジオで発言したことに端を発するという。彼の潜在意識にも当然『エヴァ』のことがあっただろう。また精神科医・斎藤環はシンジを「ひきこもり」、アスカを「境界性パーソナリティ障害」、レイを「アスペルガー症候群」と評している。シンジの父・碇ゲンドウも未熟な精神の持ち主であり、「中二病」「厨房」と断じて差し障りない。

ライムスター宇多丸がパーソナリティを務めるTBSラジオ『アフター6ジャンクション』(アトロク)には現在「新概念提唱型投稿コーナー:イキりゲンドウ」というのがあり、めっぽう面白い。碇ゲンドウへオマージュを捧げているわけだが、実際のところあの男は言動がイキっているだけなんだよね。「人類補完計画」なんて大層なことを言っているけど、実質は死んだ(L.C.L.に溶けた)妻ユイともう一度会いたいだけ。そんな個人的なことに人類全体を巻き込もうってんだから、発想が身勝手で幼稚。〈対人関係が苦手/強いこだわり示す〉といった特徴をもつ発達障害の一つ「自閉スペクトラム症(ASD)」と診断出来るだろう。今にして思えば『エヴァ』という作品は〈ぼく(ゲンドウ)ときみ(ユイ)を中心とした小さな関係性の問題が、中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結している〉という定義にピッタリ当てはまり、セカイ系のはしりだったと言える。

旧劇場版『Air/まごころを、君に』の頃は庵野秀明自身も心が病んでいた。序盤でシンジがアスカの裸を見ながらマスターベーションして精液を飛ばす描写があったり、シンジがアスカの首を絞め、アスカの「気持ち悪い」という台詞で締めくくられたり、ホントどうかしている。実写で映画館の客席に座るアニメ・ヲタクを映す場面なんか、「自分を支えてくれているファンに対して喧嘩売っとんかい!」と怒り心頭に発した。おそらく当時の庵野はヲタクの事を本気で「気持ち悪い」と思っていたのだろう。自分のことは差し置いて。

アニメ+旧劇版は大風呂敷を広げっぱなしのまま何も回収せず無責任に終わったが、新劇場版は序・破・Qで散りばめられた伏線を『シン・エヴァンゲリオン』できれいに回収して風呂敷を畳み、有終の美を飾ったので心底驚いた。『Q』で登場しなかった加持リョウジやトウジ、ケンスケがその後どうなったか、渚カヲルの名前の由来など懇切丁寧な説明があり、アスカが眼帯している理由も分かる。「この四半世紀で庵野秀明も大人になったんだなぁ!」と妙なところで感動した。ちゃんと観客をもてなそう(entertain)という意志がある。そして救いのない旧劇に対して新劇の最後には明るい希望が見える。アニメ版が放送開始になった時、庵野は35歳。人間、何歳からでもやり直せる、成長出来るんだということを彼の生き様から学ばせて貰った。そして『シン・エヴァ』で碇シンジも真の大人になった。

上映時間が2時間35分と聞いたときは「集中力が持つかな?」と些か不安だったが、一瞬たりとも退屈することなく杞憂に過ぎなかった。

庵野の原体験として『宇宙戦艦ヤマト』と『ウルトラマン(特に、帰ってきたウルトラマン)』が作品に多大な影響を与えていることは、つとに有名である。『エヴァ』劇伴のティンパニの使い方は『ウルトラセブン』や『帰ってきたウルトラマン』に触発されているし、日本中の電力を集める「ヤシマ作戦」は『帰ってきたウルトラマン』の第20話「怪獣は宇宙の流れ星」が元ネタ。そもそもエヴァの内部電源5分間という設定はウルトラマンのカラータイマー3分由来であり、エヴァ自身は怪獣(中身)の暴走を制御するため拘束具としての装甲に覆われている。また庵野は『Q』と『シン』製作の合間に、『宇宙戦艦ヤマト2199』オープニングアニメーションの絵コンテを担当し、劇場版『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』では原画を描いている。

で『シン・エヴァンゲリオン』では葛城ミサトが「ヤマト作戦」とか言い出して、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』みたいな展開になるし、シンジとゲンドウが対決する場面はまるでウルトラマンと怪獣が戦う箱庭(特撮現場)のような空間構造になっている。ウルトラセブンとメトロン星人がちゃぶ台を挟んで向かい合う第8話「狙われた街」(実相寺昭雄監督)を彷彿とさせる場面も。

今まで何だかんだやいのやいの悪口も言ったが、『エヴァ』シリーズには長い間、本当に楽しませてもらった。心からありがとう!そして「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」

キネマ旬報ベストテンで第2位に選出された『シン・ゴジラ』も傑作だったし、最近の庵野は絶好調だ。作家としての成熟を感じる。『シン・ウルトラマン』の公開日が待ち遠しい。

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2021年2月 2日 (火)

わが心の歌 25選 ⑧フランク・シナトラ「マイ・ウェイ」(多くの日本人が知らない歌詞の意味)と「私を月まで連れてって!」

『マイ・ウェイ』という楽曲に初めて心底感銘を受けたのはジプシー・キングスが1987年にリリースしたカヴァー盤だった。Spotifyでの試聴はこちら

Gipsy

歌詞がスペイン語なので何を歌っているのかさっぱり分からないが、迫力のあるアレンジが圧巻だった。2016年にUCCコーヒーのCMにも使用された。ジプシー・キングスは何しろユニークなバンドだ。『ジョビ・ジョバ』『ベン、ベン、マリア』『ボラーレ』など日本のCMソングとして使用された彼らの楽曲は多い。

一方、大御所のフランク・シナトラが歌ったヴァージョンが琴線に触れることはなかった。ところが不思議なもので、最近シナトラの歌がしみじみ身に沁みるようになった。僕も歳を重ね、彼が『マイ・ウェイ』を歌った年齢に達したこととも無関係ではないのだろう。

『マイ・ウェイ』の原曲はフランスの歌で1967年に発表された。ポール・アンカが新たに英語詞を書き、シナトラがシングルを発売したのが69年。御年54歳だった。ビートルズの『イエスタデイ』に続き、カヴァーされた回数が史上第2位の歌だそう。試聴はこちら

Myway

この度、インターネット上に掲載されている『マイ・ウェイ』の和訳を7,8つほど見てみたのだが、日本語として成り立ってないものばかりで驚いた。特に後半部の詞章が全く意味不明。そこで念の為『マイ・ウェイ』がクライマックスで歌われ劇的に盛り上がる、イルミネーション・エンターテインメント製作のアニメーション映画『SING/シング』(2016)英語版の日本語字幕もチェックしたのだが、訳が英語歌詞に少しも対応していないので面食らった。

もしかしたら日本人の殆どはこの歌の本当の内容を知らないのではないか?そこで僕自身で訳してみることにした。万が一おかしな所があれば、コメント欄でご指摘ください。速やかに対処します。

And now, the end is near
And so I face the final curtain
My friend, I'll say it clear
I'll state my case, of which I'm certain
I've lived a life that's full
I travelled each and every highway
And more, much more than this
I did it my way

そしていま、終りが近い
最終幕を控えカーテン前に私は立つ
友よ、はっきりしておこう
私はこれから自分の経験に基づく信念を述べる
私は充実した人生を送ってきた
私はどんな(州間)高速道路も旅した
そして、そんなことよりもまず
私はわたしの流儀で生きてきた

"the final curtain"とは三幕ものあるいは四幕ものの芝居で、終幕のカーテンがこれから開こうとしているということ。「死期が近い男の歌」という解釈を見かけたが、それは言い過ぎだろう。そもそもシナトラは82歳まで生きたわけで、まだ54歳だから老年期とも言い難い。これから壮年期を迎える、「人生の最終コーナーを回ったところ」といった感じか。因みにポール・アンカがこの歌詞を書いたのは28歳である。

シナトラは歌手として全米巡業を行った。"I travelled each and every highway "はそのことを指しているのだろう。また、この後に登場するbyway(わき道)と対になっているので、highwayを「主だった道」「幹線道路」と訳すことも可能だろう。

Regrets, I've had a few
But then again, too few to mention
I did what I had to do
And saw it through without exemption
I planned each charted course
Each careful step along the byway
And more, much more than this
I did it my way

後悔なら、いくつかあるさ
しかし改めて言及すべきことは殆どない
私はすべきことをした
過去の行いを振り返り、言い訳することなどない
地図に書かれた道をひとつひとつ行こうとした
脇道に沿って注意深く歩んだ
そして、そんなことよりもまず
私はわたしの流儀でそれを実行したんだ

後悔は"a few"(いくつか)あるが、言及することは"few"(ほとんど〜ない)と訳し分けることが大切。ニュアンスが違う。

"And saw it through without exemption"は直訳すると「免除なしで見通す」なので、「言い訳することなく私がしたことを振り返る」ということだろう。「過去を振り返ってみて、隠し立てすることはなにもない」でも良いかも知れない。

Yes, there were times
I'm sure you knew
When I bit off
More than I could chew
But through it all
When there was doubt
I ate it up and spit it out
I faced it all and I stood tall
And did it my way

そうさ、時には
君も知っての通り
身の程知らずなことをして
持て余したことはあった
しかし、いついかなる時でも
疑問に思うことがあれば
それを食い尽くした上で吐き出した
全てに正面から立ち向かい、堂々と振る舞った
私なりのやり方で

"When I bit off/More than I could chew"は直訳すると「噛める以上のものを噛み切った時」だから、「適応能力の限界を超えて挑んだ」ということ。

I've loved, I've laughed and cried
I've had my fill, my share of losing
And now, as tears subside
I find it all so amusing
To think I did all that
And may I say, not in a shy way
Oh, no, oh, no, not me, I did it my way

私は愛し、笑い、泣いた
満ち足りたこともあったし、それなりに失ったものもある
そして今、涙が収まると
それら全てのことが面白く感じられる
私がいままでしてきたことを考えると
尻込みしたことなど一度もないと言わせてもらおう
いやいや、ない。断じて怖気づいたりしなかった。私の流儀でやったんだ。

have one's share of は「その人なりの~がある」「それなりに」といった意味。

For what is a man, what has he got?
If not himself, then he has naught
To say the things he truly feels
And not the words of one who kneels
The record shows I took the blows
And did it my way

Yes, it was my way

人は何のために生きるか、彼が今まで得たものは?
もし自分自身のために生きていなければ、得たものは無だ
心底感じたままに言うんだ
祈りの文句じゃなく
そりゃあ打撃を受けたこともあるさ
そして私なりのやり方で受け流した

そうさ、それが私の流儀だった

1行目"For what is a man"が曲者だが、元の肯定文は"A man is for 〜"だから「人は〜のために存在する」「人は〜のために生きる」となる。

続く2行目"If not himself"は"If a man is not for himself"を省略したものなので「もし自分自身のために生きるのでなければ」"he has naught"は"he has got naught"の省略なので、「彼が今までに得たものはゼロだ」。つまり最終章の1行目と2行目に対応関係があることに気が付かなければ、わけのわからない日本語になってしまう。

"the words of one who kneels"は「ひざまずく人の言葉」、つまり「祈りの言葉」「聖書の言葉」。「既成概念」「倫理」「道徳」と言い換えても良いだろう。自己犠牲や禁欲を説く社会(教会)からの抑圧、同調圧力には屈しないと歌っている。

Fly

フランク・シナトラの魅力は、なんと言ってもその重低音の歌声にあるのだが、その良さを際立たせているのが伴奏するビッグバンドであることを忘れてはならない。キャリア初期のトミー・ドーシーは言うに及ばず、その頂点を極めたのが1953年にキャピトル・レコードと契約した時期に組んだ、ネルソン・リドルのアレンジに負うことが大きい。実に優雅で洗練されたスウィング・ジャズであった。クルーナー歌手(Croon:低い声で、そっとつぶやく)として彼とナット・キング・コールが双璧であろう。

"Fly Me to the Moon"でシナトラが組んだのはカウント・ベイシー・オーケストラだが、このアレンジも卓越している。これぞ〈粋の極み〉。試聴はこちら。僕が大好きなナット・キング・コールも同曲を歌っているが、これはシナトラに敵わない。伴奏で負けた。

竹宮恵子の漫画『私を月まで連れてって!』(1977-1986)は"Fly Me to the Moon"から着想された。また『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズのエンディングテーマ曲として庵野秀明の希望でこの曲が採用されたことでも有名。全部で14のバージョンが使われた。綾波レイ役の林原めぐみ、惣流・アスカ・ラングレー役の宮村優子、葛城ミサト役の三石琴乃らそれぞれのソロ・バージョン、3人で歌うバージョン、CLAIRE(クレア・リトリー)や高橋洋子が歌うバージョン、歌なしのインストゥルメンタル・バージョンなど多彩に楽しめる。

ところが!『新世紀エヴァンゲリオン』TV版がNetflixで世界配信された際、Netflixは"Fly Me to the Moon"の米国におけるライセンス使用料を高すぎると判断したらしく、この曲をカット、別のピアノ曲に置き換えた。北米のエヴァ・ファンはこれに激怒、大騒動となった(日本での配信は"Fly Me to the Moon"がそのまま流れる)。まぁ逆に、本来は"Fly Me to the Moon"が流れることを知っているということは、北米のヲタクたちがそもそもDVD/Blu-rayを所有しているということを意味するので、そこまで目くじら立てなくても……という気もするのだが。きっとそれが〈愛〉なんだね。

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2021年1月 8日 (金)

【考察】高橋留美子「めぞん一刻」はラブコメの元祖?(新海誠「天気の子」との関係も)

高橋留美子原作『めぞん一刻』のテレビ・アニメ版(全96話)を初めてU-NEXTの配信で観た。そのきっかけとなったのはギルバート・オサリバンが歌った"Alone Again"である。詳しくは下記事に書いた。

"Alone Again"は石原真理子主演、澤井信一郎監督の映画『めぞん一刻』実写版(駄作)の主題歌としてエンドロールで流れた。そして1986年の映画公開に合わせて、特別にアニメ版の第24話でオープニングに"Alone Again"、エンディングに同じくオサリバンの"Get Down"が使用された。"Get Down" は「おすわり」という意味。可愛い恋人を犬に見立てた歌なので、『めぞん一刻』の内容にピッタリ。この〈幻のオープニング&エンディング〉 が一回きりで終わったのは著作権・使用料の問題であったようだ。

また第27話『消えた惣一郎!?思い出は焼き鳥の香り』では物語の終盤に挿入歌として"Alone Again"が使用された。これが大変な名場面で、僕は甚く感動した。脚本は後に押井守監督『機動警察パトレイバー the Movie 1 & 2』や、金子修介監督の平成ガメラ三部作で名を馳せることになる伊藤和典。こんな情景だ。

夕暮れの坂道。行方不明になった惣一郎(=犬。名前は死んだ夫に由来する)を探していた音無響子(アパート「一刻館」管理人)は坂の下方から見上げ、犬を連れて歩く五代裕作(「一刻館」住人で大学生)を見つける。そのシルエットから死んだ夫が蘇ったのではないかと錯覚した響子は思わず「惣一郎さん!」と叫ぶ。遠くを走る電車。その時、街灯が坂下から順番に灯り、五代の顔が照らされる。ここで"Alone Again" が静かに流れ始める。「五代さん……」がっかりしたような、それでいて逆に嬉しそうにも聞こえる響子の呟きだった。

これは『めぞん一刻』のターニング・ポイントと言える極めて重要なシーンで、響子の亡き夫への未練が、五代に対する愛に変化(していることを自覚)する瞬間を捉えている。

そして僕は即座に新海誠監督『天気の子』を思い出した。東京・田端駅近くの不動坂で帆高が陽菜の体が透き通っていることを発見する場面だ。刻限は夕方であり、灯る街灯の演出もそっくり。どう考えても間違いなく『めぞん一刻』へのオマージュだろう。新海監督は大学生の頃『めぞん一刻』を愛読していたことをインタビューで語っているし、そもそも年上の女の人を好きになる主人公という設定は既に『言の葉の庭』で使っている。アニメ版で音無響子の声を務めた島本須美が『天気の子』でも声の出演をしているのは決して偶然ではないだろう。

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さて、今回『めぞん一刻』という作品を通して観て感じたのは「これってもしかしたらラブコメの元祖なんじゃないか?」ということだった。

ラブコメの女王といえば言わずと知れたメグ・ライアンだ。彼女が脚本家ノーラ・エフロンと組んだラブコメ三部作の第一作『恋人たちの予感(When Harry Met Sally...)』が公開されたのは1989年。それ以前のハリウッド映画のラブコメは思いつかない。

高橋留美子の漫画『うる星やつら』初掲載は1978年、『めぞん一刻』が80年である。柳沢きみお『翔んだカップル』をラブコメの元祖とする説もあり、この連載開始が1978年。あだち充が『みゆき』の連載を開始したのが1980年、『タッチ』が81年なのでほぼ同時期と言えるだろう。

2021年現在、『愛の不時着』など韓国ドラマはラブコメの絶頂期を迎えている。しかし韓国でラブコメの源流を探ると、せいぜい2001年に公開された映画『猟奇的な彼女』あたりだろう。やはり世界的に眺めても、高橋留美子はラブコメの元祖(同時多発した作家の一人)と言えるのではないだろうか?

以前ハリウッド映画には〈スクリューボール・コメディ〉というジャンルがあった。スクリューボールは当時のクリケットや野球の用語で「スピンがかかりどこへ飛ぶか予測がつかないボール」を指し、転じて突飛な行動をとる登場人物が出てくる映画をこう呼ぶようになった。代表作に次のような作品がある。

・或る夜の出来事(1934)
・特急二十世紀(1934)
・赤ちゃん教育(1938)
・ヒズ・ガール・フライデー(1940)
・フィラデルフィア物語(1940)
・レディ・イヴ(1941)
・教授と美女(1941)
・結婚五年目/パームビーチ・ストーリー(1942)

従って、これらを撮ったフランク・キャプラ、ハワード・ホークス、ジョージ・キューカー、プレストン・スタージェスらが〈スクリューボール・コメディ〉の名手と言える。

またこれと一部重なるが〈ロマンティック・コメディ〉とか、〈ソフィスティケイテッド・コメディ〉と呼ばれるジャンルがあり、その代表作が以下の通り。

・極楽特急(1932)
・生活の設計(1933)
・青髭八人目の妻(1938)
・ニノチカ(1939)
・天国は待ってくれる(1943)
・ローマの休日(1953)
・麗しのサブリナ(1954)
・昼下がりの情事(1957)
・お熱いのがお好き(1959)
・アパートの鍵貸します(1960)

上記のリストでも明らかな通り、このジャンルの名手といえばエルンスト・ルビッチとビリー・ワイルダー、女優の代表選手はオードリー・ヘップバーンということになる。

しかしここからプッツリと伝統は途絶え、〈ロマンティック・コメディ〉暗黒時代が1960年代〜70年代〜そして『恋人たちの予感』が登場する80年代後半までほぼ30年間続くことになる。

やはり大きな影を落としたのがベトナム戦争と米ソ冷戦(ベルリンの壁が築かれるのが1961年)、そしてアフリカ系アメリカ人による公民権運動だろう(キング牧師による「ワシントン大行進」が1963年、マルコム・X暗殺が65年)。混乱の時代だった。

1960年代にフランス・ヌーベルバーグ(新しい波)が台頭し、60年代後半にアメリカン・ニューシネマに飛び火した。フランソワ・トリュフォーとジャン・リュック・ゴダールが乗り込んでカンヌ国際映画祭を中止に追い込んだのが1968年、同じ時期日本は安保闘争や東大安田講堂事件(1969)に揺れ、72年のあさま山荘事件に雪崩込んでいく。前衛・アヴァンギャルドの時代であり、独立プロやATGが活発になった。ハリウッドでは大手映画会社が市場を牛耳るスタジオ・システムが呆気なく瓦解し、〈ロマンティック・コメディ〉どころではなくなった。ようやく『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』が公開された1977年辺りから映画界は落ち着きを取り戻していく。〈ハリウッド・ルネッサンス〉の到来である。

あと『めぞん一刻』で感じたのは、非常に落語的だということ。一浪し三流大学に入学した五代はアパートの住人たちから「意気地なし」「甲斐性なし」「落ちこぼれ」と言われる。また日曜日の昼間から住人4人が寝間着姿で五代の部屋に集まって、ぐうたらしていると、五代は響子から「若いうちからこんな生活してたら、駄目になっちゃいますよ」と言われる。

駄目でいいんだという価値観。「ダメ人間万歳!」つまり、立川談志が言うところの〈人間の業の肯定〉が『めぞん一刻』の根底にある。

立川談志の著書に「現代落語論」がある。そしてその続編「あなたも落語家になれる」に、かの有名な一節が登場する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。

この解説で『落語』を『めぞん一刻』に置き換えると、そのままピッタリ当てはまるのだ。

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2020年12月 2日 (水)

真風涼帆(主演)宝塚宙組「アナスタシア」と、作品の歴史を紐解く。

11月23日(祝)宝塚大劇場で『アナスタシア』を観劇した。

1997年に公開されたアニメーション映画『アナスタシア』に着想を得たミュージカルで、2017年4月24日にブロードウェイで開幕。以降、2019年3月まで2年間に及ぶロングラン上演となった。日本では2020年3月にヒロイン・アーニャ(アナスタシア)を木下晴香と葵わかなのダブル・キャストで東京公演が行われたが新型コロナウィルス禍の影響で度々中断され、4月に梅田芸術劇場で予定されていた大阪公演は全て中止となった。僕は購入していたチケットの払い戻しをする羽目になった。また当初6〜7月に予定されていた宝塚歌劇版も延期となり、漸く11月7日に幕が開いた。

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1990年代初頭、ウォルト・ディズニー・スタジオは『アラジン』(1992)、『ライオンキング』(1994)などの大ヒットで第二次黄金期を迎えていた。 映画『アナスタシア』はフォックス・アニメーション・スタジオの第1回長編作品で、アカデミー賞の作曲賞と歌曲賞にノミネートされた。

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ミュージカル仕立てを基本とするディズニー・アニメのスタイルを踏襲した本作はちゃんとヒットしたが、次作のSFアニメ『タイタンA.E.』が7500万ドルの製作費に対し、たった2200万ドルの収入で大赤字となり、2000年にはスタジオが閉鎖された。 一方ワーナー・ブラザースはブラッド・バードを監督に迎え1999年に『アイアン・ジャイアント』を製作したが、こちらも興行的に振るわず、ワーナーはアニメーション部門を凍結、ブラッド・バードはピクサーに移籍し『Mr.インクレディブル』『レミーのおいしいレストラン』でアカデミー賞を受賞することになる。こうしてセル画による2Dアニメーション映画の相次ぐ失敗を受け、ハリウッドの各スタジオは3DCG(3次元コンピューターグラフィックス)への完全移行を余儀なくされた。

なお20世紀フォックスという映画会社そのものが2019年にディズニーに買収され消滅したため、現在映画『アナスタシア』はDisney+から配信されている(こちら)。

ブロードウェイ・ミュージカル版はアニメから引き続き作詞:リン・アレンス、作曲:ステファン・フラハティが担当した。このコンビはブロードウェイ・ミュージカル『ラグタイム』でトニー賞の楽曲賞を受賞している。他にドクター・スースの絵本を原作とするミュージカル『スーシカル(Seussical)』がある。僕は『ラグタイム』の音楽が大好きなのだが、1998年のトニー賞に12部門ノミネートされながら、台本賞・楽曲賞・助演女優賞(オードラ・マクドナルド)・オーケストレーション賞しか受賞出来なかった。実はこの年の対抗馬がディズニー製作のミュージカル『ライオンキング』で、ミュージカル作品賞・演出賞をはじめ話題を全てそちらに持っていかれてしまったのである。WASP/ユダヤ人/アフリカ系アメリカ人(黒人)の対立を描くという題材の難しさもあって、日本での『ラグタイム』上演は未だ実現していない。

また舞台版『アナスタシア』の台本を書いたテレンス・マクナリーは「愛!勇気!同情!」や「マスター・クラス」などでトニー賞を4回受賞した劇作家で、2020年新型コロナ感染症で亡くなった。彼はアニメ版に関わっていない。

アニメ版から舞台版への移行で最も大きな変更点は敵側の設定である。アニメ版ではロシアの怪僧ラスプーチンの亡霊(本人はロシア帝政末期1916年に暗殺された)がアーニャの前に立ちはだかった。しかし舞台版でラスプーチンは一切登場せず、ボリシェヴィキの警視副総監グレブ・ヴァガノフが新たに設定された。正直このグレブという新キャラクターに全く魅力がなく、彼抜きでも物語は成立するのでは?という気がする。ただグレブを省くと、大本のネタであるイングリット・バーグマン、ユル・ブリンナー主演の映画『追想(原題はAnastasia)』(1956年、20世紀フォックス)と全く瓜二つになってしまう。苦しいところである。僕は元々バーグマンが2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した『追想』も大好きで、アルフレッド・ニューマンの音楽も素敵だ。このロマンティックな物語には何か強く惹かれるものがある。

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僕はアニメ版『アナスタシア』を1997年12月の日本公開時に映画館で観ているし、音楽が大いに気に入ってサントラCDも購入した。だから待望の舞台版である。

プロローグの"Once upon a December"(昔々、ある12月に)や、アカデミー歌曲賞にノミネートされた"Journey to the Past"(過去への旅)は舞台版にも流用された。一方で当然ながらラスプーチンの歌はことごとく廃棄され、沢山の新曲が加わった。

ロマノフ王朝の末裔、皇女アナスタシアがロシア革命時の処刑から難を逃れて生きているという伝説は実際に根強くあった。しかし結局2007年までに皇帝一家全員の遺骨が発掘され、遂に生存者なしと確認された。

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偽アナスタシアの中でも有名なのがアンナ・アンダーソン。彼女の死後10年が経過した1994年にDNA鑑定が実施され、漸く偽者(僭称者)であることが判明した。

さて、宝塚歌劇版の出演は真風涼帆、星風まどか、芹香斗亜ほか。グレブ・ヴァガノフを演じた芹香は影が薄かった。華がない。果たしてこれで将来、トップになれるのか?

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真風は鷹揚としたトップで、存在感があってセンターがよく似合う。星風はきりりとして逞しく、芯が強いアーニャにピッタリ!このふたりは文句なし。

潤色・演出の稲葉太地は場面転換がスピーディで「盆(回り舞台)」の使い方が抜群に上手い!背景を彩る映像とのコンビネーションも手練れの技で、特に雪景色の中を疾走する列車の場面は絶品だ。

待ちに待った公演であり大満足、2021年2月11日にBlu-rayが発売されたら必ず購入するつもりなのだが、最後に一言だけ文句を言わせてください。

第一幕フィナーレで名曲中の名曲、"Journey to the Past"(過去への旅)を男役の真風が歌い始めたときにはずっこけた。これ、アニメ版もブロードウェイ版もアーニャ(アナスタシア)のソロ・ナンバーなんですけど!?途中から星風が加わりデュエットとなるのだが、『エリザベート』同様、タイトルロールである娘役最大の見せ場を男役が奪わないでほしいと切に願う。いや、事情は分かるよ。宝塚歌劇というのは現代日本において唯一〈男尊女卑〉が正々堂々とまかり通る世界であり、娘役より圧倒的に男役ファンの方が多い。そりゃ、第一幕の幕切れを「所詮添え物にすぎない」娘役のソロというわけにはいかないだろうさ。でもね、それでも……。もし潤色・演出が小池修一郎だったら、こんな酷い扱いはしなかっただろうと僕は信じる。稲葉よ、再演の際はこのシーンをもう一度考え直してほしい。頼みます。

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2020年11月13日 (金)

アカデミー長編アニメーション部門のノミネートは確実!「ウルフウォーカー」

アイルランドのアニメーション・スタジオ、カートゥーン・サルーンは今まで『ブレンダンとケルズの秘密』『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『生きのびるために/ブレッドウィナー』と製作した全ての長編アニメーション映画でアカデミー賞ノミネートを果たしている。『ブレンダン』『ソング・オブ〜』に続くケルト三部作の掉尾を飾る『ウルフウォーカー』もノミネートは確実、そろそろ受賞も夢ではないのではなかろうか?

僕が初めてこのスタジオの作品を観たのはトム・ムーア監督『ソング・オブ・ザ・シー』だった。絵の美しさとケルト神話の世界に魅了された。多神教のケルト神話が日本人にすごく身近に感じられるのは、八百万の神々を想起させるからではないだろうか?また『ソング・オブ〜』は人間とアザラシが結婚して子供が生まれるお話なので、日本昔話『狐女房』に通じる異類婚姻譚だなと思った。

『ソング・オブ・ザ・シー』に登場する狼の描き方は高畑勲監督『太陽の王子ホルスの大冒険』を意識しているのでは?と感じたのだが、『ウルフウォーカー』も『ホルス』は勿論のこと、線描の力強さが『かぐや姫の物語』を彷彿とさせるし、宮崎駿監督『もののけ姫』へのオマージュが鮮明に刻印されている。

評価:A+  公式サイトはこちら

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本作は城壁に囲まれた中世の街と、その外に広がる森の対立が描かれる。それは文化と自然の対立であり、ひいてはイングランドとアイルランド、さらに一神教であるキリスト教とケルト神話の対立でもある。そして城壁内に暮らす人々のキャラクターデザインや美術は四角形を主体とする角張ったもので、一方の森は円を主体に描かれる。

イングランドからアイルランドにやって来た少女ロビンが森でウルフウォーカーのメーヴと出会うことで、ロビンを取り巻く角張った世界が次第に円形の世界へ吸収され、融合していく。それはとても感動的な情景だった。

ケルト三部作のみならずアフガニスタンを舞台とする『生きのびるために/ブレッドウィナー』も含め、カートゥーン・サルーン作品における円とは、チベット仏教の曼荼羅のように完全性とか、文化と自然の調和を象徴しているのではないかと僕は考えている。

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余談だが、主人公のロビンはイングランドの妖精ロビン・グッドフェローに由来する。シェイクスピア『夏の夜の夢』に登場する妖精パックもロビン・グッドフェローと呼ばれる。つまりロビンはトリックスター(境界を超える者)なのだ

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2020年11月 2日 (月)

【考察】「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」は何故、これだけの大ヒットになったのか?

新海誠監督『君の名は。』が世界的メガヒットを飛ばした時、プロデューサーの川村元気がその要因を「集合的無意識にヒットした」と解説した。また日本で過去最高の興行成績を上げた宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』は主人公の女の子がトンネルを潜り、集合的無意識の世界で八百万(やおよろず)の神々と出会う物語だった。

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今回の劇場版『鬼滅の刃』大ヒットの要因も集合的無意識が関わっているのではないかという気がする。『君の名は。』は他者の夢の中に入っていくということがテーマになっていたが、『無限列車編』もやはり、他者の夢に入って行く。そして夢を覆う膜を引き裂くと外側に無意識の領域が広がっており、そこに精神の核があるという設定は非常にユング心理学的だなと思った。

さらに列車という装置は宮沢賢治『銀河鉄道の夜』や松本零士『銀河鉄道999』と同様に、心の内奥(ないおう)への旅を想像させる。

そもそも『鬼滅の刃』における「鬼とは何か?」を考えてみると、不安とか恐怖、怒りといった諸々の感情が渦巻く人間の集合的無意識が生み出した魔物と言えるのではないだろうか?また鬼を消滅させる陽の光とは、覚醒の暗喩と解釈出来る。

主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)は他者への共感性が強いこと特徴だが、それは彼が、集合的無意識という井戸の底に深く潜っていって、他者と繋がる才能に長けていることを意味しているのだろう。『君の名は。』で言うところの〈ムスビ/産霊〉だ。絵柄も浮世絵とか錦絵を連想させ、日本人の心を揺さぶる。

21世紀の日本は核家族化、少子化が進み、経済的な豊かさや家事の自動化などにより、親もまた一人の人間として生を謳歌し、自分の自己愛を追求しようとするようになった。それによって子供に与えられる愛情は不安定なものとなりやすく、また「隣は何をする人ぞ」と地域住民相互の交流は失われた。社会の自己愛性は、非共感性が幅を利かせていることを意味する。他人の心の痛みに対して無関心な人が増え、ネットリンチ(ネットいじめ)が横行、社会は分断され不認証環境(自分が表した気持ちに対し適切な対応が得られず、嘲笑われたり、否定されたり、無視されたりする状況)を呈している。しかし一方で「関係性喪失」への漠然とした不安を感じ、無意識のうちに「今のままでは駄目だ。人と人の絆、共感性を取り戻さなければ」という想いや、焦りもあるだろう。そうした願いが『鬼滅の刃』への支持に結びついたと言えるのではないだろうか?

『無限列車編』の場合、父親から認めてもらえなかったというトラウマを抱えた煉獄さんの〈承認欲求〉が最後に満たされ、彼が〈自己実現〉を果たすまでの物語という捉え方も出来る。故に「我々はなぜ生きるか?」という根源的問いに答えてくれるような作品に仕上がっているな、と僕は感じた。

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2020年10月19日 (月)

ぶっちぎりのロケットスタート!「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」

前代未聞、桁外れの特大ヒットである。僕が観た兵庫県西宮市のTOHOシネマズでは公開初日金曜日の上映回数が30回!レイトショーは20時00分、10分、20分、30分、40分と10分刻みの上映開始で、「電車の時刻表か!」と呆れた。TOHOシネマズ新宿は全12スクリーンのうち11スクリーンを稼働し、1日で42回上映したという。週末3日間の興行収入は46億円を突破。日本国内で公開された映画(洋画含む)の興行収入と動員の歴代1位となった。昨年の興収トップだった『天気の子』と比較して、約3倍とぶっちぎりである。最終的に『天気の子』の記録、141億9000万円を超えるのではないだろうか。

東宝は『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に社運を賭けており、新型コロナ禍で落ち込んだ収益をここで一気に挽回するぞと鼻息が荒い。

評価:A

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京アニ『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、テレビ・シリーズを観ていなくてもこれまでの経緯がわかるような親切な構成だったが、『鬼滅の刃』はそんなことを一切斟酌しない。テレビ・シリーズを観ていることが大前提で話は展開する。僕も当然、全26話を鑑賞した上で映画館に臨んだ。

原作者・吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)は覆面漫画家であり、その正体は男なのか女なのかが議論の的になっている。僕は女性だと確信している。漫画家・きたがわ翔と山田玲司も対談(『れいとしょう』)の中で、女性説を支持している。その根拠となっているのが鬼殺隊に退治された鬼の死に際。人間だった頃の回想が長々とあり、この世の未練を切々と語る。それを傾聴した主人公・炭治郎が「可哀想に。辛かったろう」と涙を流す。その共感性の高さが女性作家ならではだというのだ。つまりemotional、今流行りの言葉で表現するなら「エモい」。

『無限列車編』も過剰なまでにエモい、そして熱い、いや、熱苦しい。些かtoo muchで辟易すると言えなくもないが、それは本シリーズ一貫した特徴なので、肯定的に受け取りたい。僕は幼少期から女性作家と相性が良いのだ(マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ」、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』、アガサ・クリスティの推理小説、紫式部『源氏物語』、角田光代『対岸の彼女』『八日目の蝉』、宮部みゆき『火車』)。

夢と無意識がテーマという点でも大いに気に入った。とってもカール・グスタフ・ユング的。そういう意味で『君の名は。』『インセプション』『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『劇場版 まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』に近い。テレビ・アニメ『宇宙戦艦ヤマト2199』なら第14話〈魔女はささやく〉が該当する。こういうの、大好物です。

あと本作は、煉獄さんの〈承認欲求〉が満たされるまでの物語という捉え方も可能だろう。

客層の男女比はほぼ半々で、やや女性が多めか。クライマックスではあちらこちらからすすり泣く声が聞こえてきた。

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2020年9月30日 (水)

「愛してる」劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

評価:A+

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映画公式サイトはこちら

テレビ・アニメ版が全13話、そして第4話と第5話の間に位置するExtra Episodeが1話、さらに映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 ー永遠と自動手記人形ー』があり、全てNetflixが独占配信している。本作はそれらを受けての大団円である。

僕は当然ながら全ての作品を観て臨んだが、今回の劇場版が初体験となる人でも今までの経緯が理解出来るよう配慮されており、抜かりがない。

もう大満足。観たいと思っていたものを、しっかりと観せてくれた。パーフェクト、感無量である。

アニメ映画『リズと青い鳥』『若おかみは小学生!』に続き、吉田玲子の脚色が圧倒的に素晴らしい!ヴァイオレットが生きた時代の(恐らく)100年後から、物語を照射するという趣向が鮮烈である。

とはいえ、些か不満がないではない。例えばヴァイオレットが少女兵だった陸軍時代の上官で、大戦で大怪我を負って安否不明「未帰還兵扱い」となっているギルベルト・ブーゲンビリア少佐の生死の謎もミエミエだし(そもそも上のポスターが既にネタバレになっている!ここまで引っ張るほどのネタではないだろう)、クライマックスの海の場面では「エエッ、この島こんなに遠浅なん??これじゃ船を接岸出来ないでしょ!」とかツッコミを入れたくもなるが、それは野暮というもの。大目に見よう。あと『涼宮ハルヒの憂鬱』の時代から『響けユーフォニアム』にしても京アニ作品には必ず巨乳キャラが登場し、それば『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も例外ではない(自動手記人形のカトレア)。しかし「そこまでヲタクに媚びなくても」という気もするのである。閑話休題。

僕はこの作品の世界観が好きだ。衣装デザインが美しいし、ヴァイオレットちゃんは健気だしね。吹奏楽ファンなので『響けユーフォニアム』も大のお気に入りだが、やはり『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』こそ京アニの最高傑作では?と思うのだ。

「大切なことは言葉にならない」は映画『海獣の子供』のキャッチコピーだが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は「言葉にしなければ自分の想いをしっかりと相手に伝えられない」ということを教えてくれる。

痛ましく辛いあの事件を乗り越え、スタジオの総力を結集して金字塔を打ち立てた!京都アニメーション、「心から、愛してる」。

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