アニメーション・アニメーション!

2018年4月25日 (水)

スピルバーグの大傑作「レディ・プレイヤー1」を観る前に知っておくべき2,3の事項

評価:A+

Ready

大阪エキスポシティでIMAX次世代レーザー3D版を鑑賞。これってヴァーチャル・リアリティのお話だから、IMAXか4DX3Dなど没入感を味わえる環境で体感することが極めて重要。公式サイトはこちら

1980年に公開された「1941」と「未知との遭遇 特別編」以降、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画は全作品を映画館で封切り時に観ている。駄作「オールウェイズ」や「フック」も含めてだ。

本作を観ながら僕は今から25年前の1993年のことを想い出した。その年の6月11日に全米で「ジュラシック・パーク」が公開され、わずか半年後の12月15日に「シンドラーのリスト」が立て続けに公開された。前者はスピルバーグが心底撮りたい映画、そして後者はアカデミー賞を獲るための必殺剣。結局アカデミー賞で「ジュラシック・パーク」は視覚効果・音響編集・録音の3部門、「シンドラーのリスト」は作品・監督・脚色・作曲・撮影・編集・美術の7部門で受賞、合せ技で10部門を制したのである。これこそがスピルバーグ一流のバランス感覚だ。

そして今回はがっつり社会派でシリアスな「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」が2017年12月22日に公開され、超娯楽大作でめっぽう愉しい「レディ・プレイヤー1」が翌18年3月29日に続いた。他者の追随を許さぬ見事なバランス感覚の再現。因みに「レディ・プレイヤー1」の撮影監督ヤヌス・カミンスキーとスピルバーグが初めて組んだ作品が「シンドラーのリスト」で、カミンスキーにオスカーをもたらした(「プライベート・ライアン」が2回目の受賞)。

「レディ・プレイヤー1」は1980年代のポップカルチャーに標準が合わされ、「ジュラシック・パーク」のT-レックス、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のデロリアンとか大友克洋「AKIRA」の主人公・金田のバイク、ガンダムなどが登場するので話題になっている。

原作者で共同脚本も執筆したアーネスト・クラインとスピルバーグはウルトラマンを登場させたいと考えていた。しかし版権問題が複雑すぎて結局無理だと諦め、アイアン・ジャイアントにその役割を担わせたという(こちらにそのインタビュー記事)。ウルトラマンに関しては円谷プロが法廷でつい先日まで争っていた→「ウルトラマン」国外利用権で円谷プロが米国で勝訴。タイ実業家らと20年以上係争(AV Watch)しかしアイアン・ジャイアントの一般的知名度は高いと言えず、コンテンツとしては弱いだろう(いや、僕はBlu-rayを持っているし、ブラッド・バード監督の最新作「インクレディブル・ファミリー」には大いに期待しているのだが……)。

それにしてもキングコング登場の場面では元祖1933年版のためにマックス・スタイナー(「風と共に去りぬ」「カサブランカ」)が作曲した音楽が使用され、ゼメキスキューブが使用される場面では「バック・トゥ・ザ・フューチャー(BTTF)」の音楽が高鳴り、メカゴジラが暴れ出すと伊福部昭作曲ゴジラのテーマが。あがった!ちなみに「レディ・プレイヤー1」の音楽はスピルバーグの朋友ジョン・ウィリアムズではなく、BTTFのアラン・シルヴェストリである。

他にも、ある人物の爆死シーンが明らかに「スター・ウォーズ エピソード4」のオマージュであるとか、アイアン・ジャイアントがシュワちゃん@ターミネーターの"I'll be back."ポーズをするとか、小ネタに関しては枚挙に暇がない。

ハイタッチのことを英語で”HI FIVE”という。ホラ、AKB48のシングル"GIVE ME FIVE !"ね。で「レディ・プレイヤー1」の主人公は当初、誰からもHI FIVEをしてもらえないという屈辱を味わうのだが、これが実は後の伏線になっているので要注目!

本作を観る前に最低限の予習(教養)として、オーソン・ウェルズ監督「市民ケーン」(1941)とスタンリー・キューブリック監督「シャイニング」(1980)をご覧になっておくことを強くお薦めする。だって予備知識がないと「バラの蕾(Rose Bud)」と言われたって、なんのこっちゃ、さっぱり解らないでしょう?

因みにスピルバーグはキューブリックの遺志を継いで映画「A.I.」(2001)を撮った。彼が自らシナリオを執筆したのは「未知との遭遇」と「A.I.」2作のみである。それだけ想い入れが強いということ。そして「A.I.」はピノキオの物語がベースになっており、「未知との遭遇」の主人公ロイは子どもたちを連れてディズニーの「ピノキオ」を観に行こうとするし、映画の最後に主題歌「星に願いを」が流れる。また「ピノキオ」を基に手塚治虫は人間になりたがったロボットの漫画「鉄腕アトム」を描き(アトムはサーカスに売り飛ばされる)、そのアニメをアメリカで観たキューブリックは「2001年宇宙の旅」の美術監督を担当して欲しいと手塚治虫にオファーした。しかし当時、虫プロを抱え漫画の連載にも追われ多忙を極めた手塚はそれを断ったのである。ここにもうひとつの「レディ・プレイヤー1」の物語(ポップカルチャー史)がある。

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2018年4月18日 (水)

ギリシャ神話(オルフェウス)と日本神話、そして新海誠「君の名は。」の構造分析

以前、新海誠監督のアニメーション映画「君の名は。」には日本神話からの引用があると詳しく解説した。

上記事でイザナミとイザナギの物語がギリシャ神話と非常に類似していることにも触れた。そこで今回は社会人類学者レヴィ=ストロースの手法を用いて、両者の構造分析をしてみたい。

これは僕にとって、構造主義をどれだけ理解しマスター出来たかを試す応用問題だと位置づけている。まずはギリシャ神話から見ていこう。

オルペウス(オルフェウス)の妻エウリュディケーはある日、毒蛇に噛まれて死んだ。妻の不在に耐えられなくなったオルペウスは冥府に下り、竪琴を奏でてエウリュディケーの返還を求めた。悲しい琴の音に涙を流すペルセポネ(春の女神、ハデスの妻)に説得され、冥界の王ハデスは、「ここから抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、エウリュディケーをオルペウスの後ろに従わせて送った。目の前に光が見え、あと少しというところで不安に駆られたオルペウスは後ろを振り向き、妻の姿を見たが、それは一瞬のことですべては霧のように消え去ってしまった。

一方、古事記に書かれた日本神話はこうなっている。

イザナギとイザナミは国産み・神産みにおいて本州・四国・九州などの島々、海・山・風など森羅万象を創った。火の神カグツチを産んだ際、イザナミは陰部に火傷を負い亡くなった。

これは火の起源を物語っている。火は料理土器づくりに繋がり、自然→文化への移行を象徴していている。ギリシャ神話では以下の通り。

人類に火をもたらしたプロメテウスは大神ゼウスから火を奪った罰を受け、30年間鷲に臓腑をえぐられ続けた。

Pro

料理(火でものを焼く)という文化を人類に与えたプロメテウスは生肉を喰らうもの(鷲)にいたぶられる罰を受ける。ここに二項対立が出現する。

  • 火を通したもの(文化)↔生のもの(自然)
  • 地上に下った火↔空高く舞う鷹【垂直方向の差異】

なおインドの神話「リグ・ヴェーダ」によると、マータリシュヴァンは天界からアグニ(火の神)を奪い、人間にもたらした。このエピソードはプロメテウスとそっくりだ。プロメテウスもマータリシュヴァンも言うまでもなく境界を超えて活躍するトリックスター二項対立を取り結ぶ/仲介する第三項)である。

ギリシャ神話と日本神話には次のような変換関係を認める。

  • 人類に火をもたらしたプロメテウスはゼウスから罰を受けるという代償を払う。→火の神カグツチを産んだイザナミは命を落とす。【自然→文化というプロセスの危険性】

古事記の続きを見よう。

イザナギがイザナミの遺体にすがって泣いていると、彼の涙からナキサワメ(泣沢女神)が生まれた。

ナキサワメは水の女神であり、火の起源に続き、水の起源が描かれる。

イザナギはイザナミにもう一度逢いたいという気持ちを押さえきれず、黄泉の国に旅立つ。しかしイザナミは黄泉の国の竈(かまど)で炊いた食べ物を既に食べてしまったから帰れないと彼に告げる(黄泉戸喫:よもつへぐい)。

古代では埋葬の際に食べ物を一緒に埋めていた。これを食べることで、死者は蘇ることが出来なくなると当時の人々は考えていたのである。つまり「同じ釜の飯を食う」という帰属意識だ。ギリシャ神話でも、ハデスに無理やり連れ去られ死者の国の食べ物(ザクロの実12粒のうち4粒)を食べさせられたペルセポネは、1年のうち4ヶ月は冥界で暮らさなければならなくなってしまった。

「決して覗いてはいけない」というイザナミとの約束を破り、イザナギは髪に挿していた櫛を折り、火をつけてイザナミの寝姿を見る。彼女の体は腐敗して蛆にたかられていた。驚き逃げるイサナギ。恥をかかされて怒り、追いかけてくるイザナミと8人の泉津醜女(ヨモツシコメ)。イザナギは髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実を投げつけて撃退した(ヨモツシコメたちはそれらを食べた)。そしてあの世とこの世の境である黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に辿り着くと大岩で塞ぎ、イザナミと完全に離縁した。

ここに幾つかの二項対立が認められる。

  • 腐ったもの(イザナミ・死者)↔新鮮なもの(葡萄、筍、桃)
  • 蛆(自然)↔火・松明(文化)
  • あの世↔この世【大岩で完全に分離】

では、オルペウスの竪琴に対応するアイテムは日本神話においては何だろう?

ここでイザナミ・イザナギの息子・須佐之男(スサノオ)が登場する。彼が所持していた三種類の神器があり、内訳は①生太刀(いくたち):生命の宿る剣、これで切れば病や傷が治るといわれる ②生弓矢(いくゆみや):生命の宿る弓矢、これで射れば死者さえも甦るといわれる ③天詔(あめののりごと):神のお告げに使う

  • オルペウスは竪琴で死者を黄泉から帰らせようとする↔須佐之男の三種の神器

高天原を追放された須佐之男は出雲の国に向かい、そこで八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄にされようとしていた、美しい少女・櫛名田姫(クシナダヒメ)を助け出し、八岐大蛇を退治する。

  • オルペウスはニンフ・エウリュディケーを蛇の襲撃から守れない↔須佐之男は大蛇を倒し姫を救う

その結果として、

  • 冥界から帰還した後、女性との愛を絶ったオルペウスから見向きもされなかったトラキアの娘たちは怒り狂って彼の手足を裂き、頭と竪琴をヘプロス河へ投げ込んだ↔須佐之男は櫛名田姫と夫婦になり、末永く幸せに暮らした

ここに逆転による変換関係が認められる。さらに次のような変換も含まれている。

  • 須佐之男は八岐大蛇を八つ裂きにした↔トラキアの娘たちはオルペウスを八つ裂きにした
  • 須佐之男が退治した大蛇の尾を切ると、中から大刀が出てきたので、彼はそれを天照大神に献上した↔引き千切られたオルペウスの首は歌を歌いながら竪琴と共にヘプロス河を流れくだった。最終的にレスボス島に流れ着き、オルペウスの死を偲んだアポローン(異伝ではゼウス)によって竪琴は天に上げられ、琴座となった

Orfeo

トラキアの娘達がオルペウスを八つ裂きにしたのはディオニュソス(豊穣とブドウ酒の神)の祭りの時で、彼女たちは酩酊していたという。つまり”貪欲な口(口唇の欲望)=節度なき消化器を表している。一方、須佐之男は姉・天照大神のいる高天原(たかまがはら)に居座り、神殿に糞を撒き散らすなど狼藉を働いたため、天照大神は天の岩屋に身を隠した。このエピソードは”粗放な肛門(肛門による漏出)=節度なき消化管”を表している。ここにも変換関係がある。

こうして分析を進めていくと、ギリシャ神話と日本神話が全く同じ構造を持っていることがご理解頂けただろう。両者を貫く主題は【生と死の分離】である。何故ひとは、永遠の命(連続)を有さず、有限(不連続)なのか?果たして我々が生きる意味はあるのか?その矛盾を少しでも解消・緩和すべく神話は存在する。

距離的にギリシャと日本は遠く隔たっている。構造が同じだからといって神話が伝播したわけでは当然ない。同時に発想されたと考えるべきだろう(共時態)。つまり人間の根源的思考様式(野生の思考)は万国共通なのである。これをユングは普遍的(集合的)無意識と呼んだ。

しかしたとえ構造が同じでも、文化の違いによる差異は当然ある。ギリシャ神話において、オルペウスが妻奪還に失敗したのは、ハデスとの契約を破ったためである。故にペナルティを課された(罪と罰)。プロメテウスがされたのも、神々の掟を破るというを犯したためである。

一方、イザナギが失敗したのは、イザナミにをかかせたからである。しかし約束を反故にしたからといってイザナギが罰されたわけではなく、あの世とこの世の境を塞いだのはあくまで彼の意志なのだから、責任の所在が曖昧な、いかにも日本的な解決策であると言えるだろう。【をかかされたものが身を引く(をかかせた者への責任は問わない)】というパターンは「鶴女房(鶴の恩返し)」「狐女房」「見るなの座敷(うぐいす長者/うぐいすの里)」などの日本昔話でも見られる。ところが西洋の童話「青ひげ」では、見るなと言われた部屋を覗いた新妻は青髭に殺されそうになる。やはり罪と罰なのだ。

  • 罪の文化/契約社会(西欧)↔恥の文化/なあなあの社会(日本)

これが神話で明かされる両者の差異である。

次に映画「君の名は。」の構造分析をしよう。まず瀧↔三葉には、

  • 男↔女【変換可能!】
  • 都会生活↔田舎暮らし
    (日照時間長い↔短い)
  • 父と同居、一人っ子↔父は家を出た、妹がいる
  • 大雑把↔几帳面・器用
  • 生者↔死者
  • 水平方向の隔たれた距離↔3年という時間のズレ
  • 半月Half Moon(一人ぼっちの瀧)↔満月(瀧+三葉)
  • 扉・襖(ふすま)が閉じる(回路閉鎖)↔開く(回路開放)
  • (ラストシーン)須賀神社の階段を上る(通時的)↔下る(遡及的)

といった二項対立がある。他に

  • 三葉(神に仕える巫女)↔父(人に命令を下す行政の長)
  • 三葉(ミズハノメ=の女神)↔繭五郎の大・神社で燃える松明
  • ティアマト彗星↔地上【垂直方向の差異】
  • 第1回隕石落下:山頂のクレーター(御神体)↔第2,3回目:糸守湖形成【垂直方向の差異】
  • この世↔カクリヨ(隠り世)=あの世
  • 三葉・テッシー・さやちん↔瀧・司・高木【親友】
  • 三葉・テッシー・さやちん↔松本・桜・花(意地悪)【敵対】
  • 朝日(スマホのアラームが鳴る/室内)↔かたわれ時(日没/屋外)

では二項対立仲介しようとする第三項は何か?次のようなアイテムが挙げられるだろう。

  • 「来世は東京のイケメン男子にしてくださ〜い!!」という鳥居下での三葉の叫び
  • 組紐・ムスビ(一葉の台詞「でも米でも酒でも、人の身体に入ったもんが、魂と結びつくこともまたムスビ」)
  • 電車(東京と糸守を結び、ラストシーンも並行して走る電車の窓越しにお互いを見つける)
  • この世と隠り世の間を流れる三途の川【
  • 口噛み酒(男女を結合させる精液/膣分泌液の暗喩)【
  • 天と地を結ぶ隕石(ティアマト彗星の破片)→それは同時に瀧と三葉の結合を切断する刃でもある。【矛盾】
  • 巫女舞の髪飾りに描かれた竜(龍)→彗星の暗喩であり、「瀧」も〈さんずい()+龍〉→精子の暗喩でもある。瀧が御神体の中で見た夢(幻想)では彗星が地球(卵子)の表面に衝突して受精し、細胞分裂を経て三葉が生まれる。
  • 三葉ともう一度入れ替わるために山頂の御神体を目指して瀧が登ってゆく際に、しとしとと降る雨(天と地を結ぶ)→ラストの再会の場面も雨上がりである(がふたりを結ぶ)。

が媒介する(第三項)という意味ではギレルモ・デル・トロ監督「シェイプ・オブ・ウォーター」の構造に近い(勿論、「シェイプ…」の方が後発)。

ではオルペウスの竪琴に相当するものは「君の名は。」の中で何か?それは組紐だろう。組紐は細い絹糸や綿糸を束ねて編む。竪琴は複数の弦を張り、音を編む(紡ぐ)。やはり構造は同じである。

神話としての「君の名は。」のテーマは、オルペウスやイザナギの物語と同様に【生と死の分離/離別】という矛盾の解消・緩和にある。そこには東日本大震災(3・11)という出来事が大いに絡んでいる。

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2018年4月 4日 (水)

「映画ドラえもん のび太の宝島」と「リメンバー・ミー」

「映画ドラえもん のび太の宝島」評価:B+

6歳の息子と鑑賞。すこぶる愉しかった。最大の功績は脚本を書いた川村元気だろう。「告白」「悪人」「君の名は。」のプロデューサーであり、「世界から猫が消えたなら」「億男」「四月になれば彼女は」などの小説家としてしても知られている。

本作は明らかに宮﨑駿「天空の城ラピュタ」を下敷きにしている。宝島の内部構造はラピュタそのものだし、クライマックスで文明に毒された下部を切り離して上昇するのもそう。そして「魔女の宅急便」のパン屋さんが出てくるし、しずかが海賊に攫われ、それを追うという展開は「未来少年コナン」。ご丁寧なことに有名な海中のキスシーンに似た場面まで用意されている。あとフロック(兄)とセーラ(妹)の父キャプテンシルバーは庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」の碇ゲンドウだね。シルバーの野望「ノアの方舟計画」≒エヴァの「人類補完計画」という対応関係が認められる。研究者であった妻が亡くなり、常軌を逸したという設定も全く同じ。よく考え抜かれている。

「リメンバー・ミー」評価:B-

これも息子を連れて行こうと予めチケットを購入していたのだが、直前に彼がインフルエンザAに罹患し、結局独りで観た。アカデミー歌曲賞、長編アニメーション映画賞を受賞。泣く子も黙る天下のピクサー作品である。クオリティの高さは折り紙付き。しかしおもろない。第1回劇場作品「トイ・ストーリー」からピクサーのテーマはいつも同じ(ただし、異端児ブラッド・バード作品は除く)。「仲間が一番」。つまり常にバディ・ムービーなのだ。今回は「家族が一番」。何も変わらない。ひねりがなさ過ぎる。もう飽いたわ。

「ドラえもん(日本のアニメ)」にあって「リメンバー・ミー(アメリカのCGアニメ)」に決定的に欠けているもの。それは萌えである。

それにしてもここ最近のアカデミー長編アニメ映画賞受賞作品を見て欲しい。

2007年 レミーのおいしいレストラン
2008年 ウォーリー
2009年 カールじいさんの空飛ぶ家
2010年 トイ・ストーリー3
2011年 ランゴ
2012年 メリダと恐ろしの森
2013年 アナと雪の女王
2014年 ベイ・マックス
2015年 インサイド・ヘッド
2016年 ズートピア
2017年 リメンバー・ミー

なんとディズニー・ピクサー映画が11作品中10作品を占め、例外は「ランゴ」のみ!!内訳はディズニー:3、ピクサー:7なのだけれど、ディズニーが史上初めて受賞した「アナ雪」以降はジョン・ラセターがディズニー&ピクサー両スタジオのチーフ・クリエイティブ・オフィサーを兼務しているんだよね。ラセター恐るべし(現在は「不適切な行為」で6ヶ月間休職中)。

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2018年3月24日 (土)

レヴィ=ストロース「野生の思考」と神話の構造分析

最初の切っ掛けは2016年に兵庫芸文で観たベンジャミン・ブリテンのオペラ「夏の夜の夢」だった。

観劇の予習としてシェイクスピアを翻訳した松岡和子とユング派臨床心理学の第一人者・河合隼雄との対談「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)を読み、ユング心理学に興味を持った。ぶっちゃけ「これは物語や映画の読解/分析に使える!」と思ったのである。そして河合隼雄の著書を30冊以上読み漁っているうちに河合と中沢新一(宗教学・人類学者)の対談本「ブッダの夢」に出会った。そこで中沢からフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(著)「野生の思考」の紹介があった。

ユング心理学を習得した後、今度は長年の懸案事項だったニーチェ哲学に取り組んでみようと決意した。食わず嫌いで敬遠していた「ツァラトゥストラはかく語りき」は読んでみるとすこぶる面白く、平易だった。

続いてニーチェの思想を受け継いだ20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズとミシェル・フーコーを勉強してみた。

ドゥルーズの「シネマ」は大いに役立った。そしてドゥルーズやフーコーが「ポスト構造主義」と呼ばれていることを知った。では「構造主義」とは何ぞや??調査したところ、その親玉(Boss)がレヴィ=ストロース(1908-2009)であることが判った。ならば次の標的(Target)は彼しかいないだろう。狙いは定まった。

レヴィ=ストロースでまず魅了されたのが「野生の思考」で言及されるブリコラージュという概念である。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。ブリコルール(器用人)は手持ちのものを調べ直し、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選び、組み立てる。詳しくは下記事で紹介した。

レヴィ=ストロースは南北アメリカ大陸の先住民の神話を詳細に研究した。神話を通して人類の無意識を探ろうという姿勢はユング心理学に共通している。

「神話論理」四部作でレヴィ=ストロースは次のように説く。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である。

自然と文化の対立を語る神話が、様々なコードを用いて様々な二項対立(天と地、生のもとと火にかけたもの、新鮮なものと腐ったもの、裸と着衣、空っぽのものと詰まったもの、容れるものと容れられるもの=能動と受動、内のものと外のものなど)を語るのは、この調停不可能な根源的対立の調停を行う(隔たりを緩和したり、その間を循環する第三の項〘例えば天と地を結ぶ雨など水/つる植物〙を導入する)ためである。

自然から文化への移行は、連続体としての自然に差異を導入して不連続化することによってなされる。この不連続化は言葉と交換(彼の著書『親族の基本構造』で明らかにされたように女性や財の交換)による他者とのコミュニケーションという、人間社会の基本的条件をもたらす。

レヴィ=ストロースがしようとしたことは「人間が神話の中でいかに思考するかではなく、神話が人間の中で、人間に知られることなく、いかに思考するか」であった。

彼は「私の思考」という主体性を棄て、無意識という空虚な場での他者との交差を重視した(「私たちの各自が、ものごとの起こる交差点のようなものです」)。

レヴィ=ストロースによる神話の構造分析は映画に応用することが出来る。

例えば宮﨑駿「風の谷のナウシカ」の二項対立差異)を挙げてみよう。

森・王蟲(オーム)↔都市文明・人間

樹を育てる水↔全てを焼き尽くす火の七日間(巨神兵)

この2極を結びつける(調停する/媒介する)のがナウシカの存在である。

ではアカデミー作品賞・監督賞に輝いたギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の場合はどうか。

アマゾンの半魚人(自然)↔軍人ストリックランド(核戦争危機)

傷口の治癒力↔銃弾・破壊

自由奔放なイライザの女性性↔男根(ファルス)至上主義(phallocracy)

この物語の中で調停役として媒介するのは特定の形はなく間隙を満たす「水(water)」であり、それは「愛」の隠喩(metaphor)でもある(無意識の中では、愛と憎しみは一体である)。そして男根の表徴(symbol)となるのが①ストリックランドの指(半魚人に噛み千切られ、接合しても腐ってゆく)②半魚人を叩きのめす電気棒③キャデラック などである。

宮﨑駿「崖の上のポニョ」にも似た構造(structure)が認められる。

ポニョ(魚=自然)↔宗介(人間=文化)

ポニョが住む海底の家↔宗介が住む崖の上の家

ポニョの家と宗介の家には水平方向(距離)と垂直方向(高低差)の大きな隔たりがある。それを媒介・緩和するのが津波、やはり水なのだ。またナウシカの手助けをするのが、彼女が手厚く葬ったペジテ王女ラステルの兄アスベルであり、一方ポニョを手伝うのが彼女の妹たちであるという対応関係/コードの変換にも注目すべきだろう。そしてポニョは父フジモトから「ブリュンヒルデ」と呼ばれることからも判る通り、神話「ニーベルングの指環」と同じ構造(structure)を持つ。「ニーベルングの指環」が【神々の黄昏→人間の時代の到来】を描くように「崖の上のポニョ」は【人間の黄昏→新人類(ポニョと宗介の子供)の誕生】を示唆している。つまり宗介=ジークフリートという関係式が成り立つ。

「風の谷のナウシカ」では最後に腐海から木の芽が生えてくる。地球は再生される。「崖の上のポニョ」の最後は古代魚が泳ぐデボン紀に戻り(公式サイトの解説)、車椅子のお婆ちゃんたちは立ち上がり駆けまわる(若返る)。「シェイプ・オブ・ウォーター」で半魚人が画家ジャイルズの禿頭に手を当てると、そこから髪の毛が生えてくる(再生)。

レヴィ=ストロースが確立した構造主義は大変ためになるのだが、いきなり「野生の思考」を読むのはハードルが高すぎるだろう。定価が税込みで5千円強なので値段も高いしね。そこでお勧めしたい入門書を幾つかご紹介しよう。

  1. 中沢新一:100分 de 名著「野生の思考」(NHKテキスト)
  2. 小田亮:レヴィ=ストロース入門(ちくま新書)Kindle版あり
  3. 鷲田清一・山極寿一:都市と野生の思考(インターナショナル新書)Kindleあり

1.はNHK Eテレで放送された番組のテキストで、番組をYouTubeで視聴も可能。
2.は
「神話論理」四部作の要旨までバッチリ判る優れもの。
3.は「野生の思考」を日本人に応用するとどうなるかが語られる
、哲学者にして京都市立芸大学長・鷲田清一と、ゴリラ研究の世界的権威にして京都大学総長・山極寿一との対談。実に愉しき知の冒険である。

最後に、今までレヴィ=ストロースの構造分析を応用して書いた記事をご紹介しておく。

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2018年3月19日 (月)

アカデミー賞受賞「シェイプ・オブ・ウォーター」2回目の鑑賞で大発見!

「シェイプ・オブ・ウォーター」がアカデミー賞で作品賞・監督賞・美術賞・作曲賞を受賞した後に、ギレルモ・デル・トロ監督が31年間連れ添った妻(1986年結婚)と2017年2月に別居し、9月に離婚が成立していたことを発表した。

アカデミー賞授賞式では彼の横に美女が座っていたのだが、脚本家キム・モーガンであることが判明(写真はこちら←5枚あり)。彼女はデル・トロが監督する予定になっている、1947年のフィルム・ノワール"Nightmare Alley"(日本では劇場未公開で現在「悪魔の往く町」というタイトルでDVD発売中)リメイクの脚色を手がけているらしい。で調査したところ彼女もバツイチで、前夫はカナダのガイ・マディン監督だそう。

授賞式でデル・トロの名前が呼ばれ、彼が壇上に向かっている時に客席の彼の娘をカメラが捉えたのだが、不貞腐れたような顔でダルそうに拍手していたのが最高に可笑しかった。そりゃ父が母を棄てて、間髪をいれず別の若い女と公の場で睦み合っていたら、娘としては面白くないわな。「不潔!サイテー」と叫ぶ彼女の心の声が聞こえるようだった。人生いろいろである。

さて映画の2回目を観て、新たに気付いた点、また前回記事で書き切れなかったことを列記してみよう。

1)何故ジェームズ・キャメロンなのか?:エンドロールのSpecial Thanksでメキシコの仲間(アミーゴ)であるアルフォンソ・キュアロン、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥらとともにジェームズ・キャメロン監督の名が登場する。1回目に観た時は「何故キャメロン?」と理由が分からなかった。2回目で「アッ!」と叫びそうになった。映画冒頭、カメラは水中をグングン進み、扉を開けて水没したヒロイン・イライザの室内に入ってゆく。そこでは眠るイライザと家具が浮遊している。これって映画「タイタニック」冒頭の水中撮影とそっくりじゃん!

2)怪物(Monster)とは誰か?:映画の冒頭で語られる、ナレーションを引用しよう。

"Would I tell you about her? The princess without voice. Or perhaps I would just warn you, about the truth of these facts. And the tale of love and loss. And the monster, who tried to destroy it all."

「声を失ったお姫様、彼女のことを語ろうか?それとも起こった出来事の真実を聞かせて、君に警告を与えようか?それは愛と喪失、そして全てを破壊しようとした怪物(Monster)の物語だ」

この映画を初めて観る人は当然モンスター=半魚人のことだと思うだろう。「お姫様」と並列して語られるから当然である。しかし実はこれが巧妙なミスリードなのである!映画を最後まで観た人には分かる。だって半魚人は何も破壊していないのだから。つまりモンスターとは明らかに別のキャラクターのことを言っているのである。

3)Positive Thinking:軍人で機密機関「航空宇宙研究センター」警備責任者のストリックランドはノーマン・ヴィンセント・ピールが1952年に出版した「積極的考え方の力」(The Power of Positive Thinking)を読んでいる。ピールはニューヨーク・マンハッタン五番街に面したマーブル共同教会の牧師を半世紀以上勤めた人で、デール・カーネギー、ナポレオン・ヒルと並ぶ自己啓発の御三家と呼ばれている。またハンバーガーチェーン店マクドナルドの創業者レイ・クロックを描く映画「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」で主人公はノーマン・ヴィンセント・ピールが吹き込んだレコードをいつも熱心に聴いている。そして「積極的考え方の力」はドナルド・トランプ大統領の愛読書なのである。つまり「シェイプ・オブ・ウォーター」はNegative thinkingの弱い者たち(イライザの協力者)が力を合わせてThe Monster of Positive Thinkingと対決する寓話とも読み取れるのである。

4)色彩設計:「航空宇宙研究センター」の壁やイライザたちが着る制服は青緑色で統一されている。言うまでもなく水中のイメージだ。

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またストリックランドが購入する高級車(キャデラック・ドゥビル)の色はGreen(緑)ではなく、Teal(ティール)だとディーラーから説明がある。Tealとは日本語で「鴨の羽色」のことで、マガモの頭から首にかけての羽毛の色からとられた名前である。

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鴨は淡水域、湿原、海洋などに生息し、やはり水と深い関わりを持つ。

5)"Bojangles"(ボージャングル):イライザが住むアパートの隣人でゲイの画家ジャイルズは白黒テレビでシャーリー・テンプル主演映画「少連隊長(Little Colonel)」を観ている。ここで彼が言う「ボージャングル」とは世界最高のタップ・ダンサーと称されたビル・”ボージャングル”・ロビンソンのこと。実はテンプルとボージャングルはアメリカ映画史上初の白人と黒人のダンス・ペアだった。当時白人と黒人のダンサーが映画の中で一緒に歌い踊るということは滅多になかった。僕が知る限りフレッド・アステアは一度もなかったし、ジーン・ケリーはヴィンセント・ミネリ監督「踊る海賊」のナンバー、"Be A Clown"でニコラス・ブラザーズと一度踊ったきり。またMGMのミュージカル大作「ショウ・ボート」(1951)で混血の娘ジュリー役にキャスティングされたレナ・ホーン(黒人)は結局降ろされて、同役を白人のエヴァ・ガードナーが演じた。そういう時代だった。

6)アリス・フェイ:やはり白黒テレビで放送されているミュージカル映画"Hello, Frisco, Hello"(日本未公開)の中でアリス・フェイが"You'll Never Know"を歌う。これは1943年度のアカデミー歌曲賞を受賞している。アリス・フェイの名前を知っている日本人はもう殆どいないだろう。彼女の不幸は20世紀フォックスと専属契約を結んだミュージカル女優だったことだろう。何しろミュージカル映画と言えばMGMの専売特許だった時代である。60年代に衰退したMGMミュージカルは70年代に「ザッツ・エンターテイメント!」というアンソロジー映画として息を吹き返すのだが(Part 3まで製作された)、フォックスの場合はそんな気運すらなく、70年代は「スター・ウォーズ」や「エイリアン」などSFブームに呑み込まれてゆく。ちなみに「少連隊長」も20世紀フォックス作品であり、「シェイプ・オブ・ウォーター」を製作したフォックス・サーチライト・ピクチャーズは1994年に設立された20世紀フォックスの子会社である。

7)キューバ危機:物語の時代背景は東西冷戦下の1962年である。途中ラジオから「ミサイル基地が見つかった」というニュースが流れるが、これはキューバ危機の発端となった。

8)辻一弘:エンドロールにKazuhiro Tsuji の名前を発見!勿論、「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」でアカデミー賞を受賞したメイクアップ・アーティスト、辻一弘氏だ。辻さんは半魚人の目の部分を担当したそうだ。

9)半魚人=王蟲(オーム)?:前述したようにイライザは基本的に青緑色の服を着ている。ところがラスト・シーンで彼女が身につけているコートは赤色だ。何故か?

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ここで彼女は銃で撃たれ、コートはに染まる。2回目の鑑賞で脳裏をよぎったのが宮﨑駿のアニメーション映画「風の谷のナウシカ」である。

物語の終盤でナウシカはペジテの赤い服を着ている。

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しかし囮として囚われた王蟲(オーム)の子供を開放しようとして、その傷口から噴出する体液を浴びて深い青色に変わる。

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つまり「シェイプ・オブ・ウォーター」と「風の谷のナウシカ」には

  1. 人間に捕らえられ、利用されようとした生物(半魚人/王蟲)をヒロインが開放する。
  2. その過程でヒロインは負傷し、着衣が血/体液で染まる。
    「シェイプ・オブ・ウォーター」青緑→赤
    「風の谷のナウシカ」赤→深い青
  3. 半魚人は傷口を癒やしたり髪の毛を生やす神秘的力を有す。
    王蟲もナウシカの傷を癒やし、木を芽吹かせる力がある。
  4. 半魚人はアマゾン川で神と崇められている。
    王蟲は森の守り神。

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という構造(structure)の一致、対応関係(変換)が認められる。つまりギレルモ・デル・トロにとって半魚人=王蟲イライザ=ナウシカなのだ。これぞ構造人類学者レヴィ=ストロースが言うところの神話的「野生の思考」である。

映画「パンズ・ラビリンス」(2006)で主役の少女を演じたイバナ・バケロは撮影前にデル・トロから「風の谷のナウシカ」のコミック本を全巻貰ったと証言している。

また「パシフィック・リム」(2013)に出演した菊地凛子によると、撮影中に落ち込んでいる時、監督が「となりのトトロ」の♪さんぽ♪を歌って、励ましてくれたそうだ(こちらの記事)。

デル・トロはあるインタビューに答え、こう語っている。

「日本の配給会社に『宮崎さんに会いたい』と頼んだけれど、宮崎さんは忙しくて時間がつくれないらしい。残念だけど、仕方ないよね」

宮さん、どうか彼に会ってあげて!

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2017年12月18日 (月)

「銀河鉄道999」に見る、松本零士の病理

僕が小学校低学年の頃、コミックスは「オバケのQ太郎」とか「ドラえもん」等を中心に読んでいて、完全に藤子不二雄派だった。大学生になると「ブラック・ジャック」「火の鳥」「ブッダ」「アドルフに告ぐ」など手塚治虫や「トーマの心臓」「ポーの一族」など萩尾望都を読み漁った。一方、松本零士には全く食指が動かなかった。彼が描くメーテルら美女たちが好みでなかったのも大きいだろう。

初めて「銀河鉄道999」に興味を覚えたのは、大阪桐蔭高等学校吹奏楽部のアンコール定番曲としてゴダイゴの主題歌を聴き、大のお気に入りになったからである。そこで映画を観てびっくり仰天した。その経験を通して思索したことについて下の記事に詳しく書いた。

メーテルのイメージが、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画「わが青春のマリアンヌ」(1955)に由来することにも触れた。

さてこの度、4Kテレビ購入と同時に加入したNetflixに「銀河鉄道999」のテレビ版が配信されていることを知り、一気に45話(ワルキューレの空間騎行 後編)まで観た(Netflixでの配信は12月15日に終了)。そこで気づいたことをまとめよう。

「銀河鉄道999」を支える三つの太い柱がある。

  1. エディプス(マザー)・コンプレックス=母性社会日本の病理
  2. ルサンチマン
  3. 人情噺=江戸落語的

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1.については上記事で縦横無尽に語ったので省略する。

ルサンチマンとはドイツの哲学者ニーチェが創造した概念である。弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情のことを指す。ニーチェはイエス・キリストの思想を批判する目的でこの言葉を用いた。当時のユダヤ人たちはローマ帝国に支配され、貧しく、恨みの感情を抱いていた。ここで価値の転倒(発想の転換)が起こる。「虐げられている俺達が正しい。支配者(ローマ帝国)こそ悪だ!そして現世では幸福になれなくても、死後天国に行けばきっと幸せになれる」(彼岸=絶対的不動の善・真理の設定)

このルサンチマンの心理はフランス革命やロシア革命にも当てはまる。圧政に苦しむ民衆・人民こそが正義。贅沢三昧の生活を享受するルイ16世/ロマノフ家/ブルジョアジーは悪。だから彼らを処刑せよ!奴らの財産は俺達のものだ!!

いわゆる従軍慰安婦問題など韓国人が日本人に対して抱いている、どうしても拭い去ることが出来ない恨【ハン】(解説はこちら)という感情もルサンチマンの亜種であろう。

「銀河鉄道999」で鉄郎とメーテルは様々な星に停車する。その多くで人々は貧しい生活を強いられ、権力者への恨みをつのらせている。鉄郎はアンドロメダ星雲にあるという、機械の体をタダでくれるという星を目指して旅をするが、それは正しく彼岸=永遠=イデア(哲学者プラトンが説く理想郷)である。

このルサンチマンをこじらせた世界観は松本零士の生い立ちと無関係でない。彼は福岡県久留米市に生まれた。父親は元軍人で、戦後は実家のある大平村で素焼きをし、小倉では大八車を押して野菜の行商をしながら線路脇のバラックに住んでいたという。彼がどれほど貧しい生活を送っていたかは→こちらの記事に詳しい。

松本零士と対象的なのが手塚治虫の漫画である。手塚漫画にはマザー・コンプレックスもなければ、ルサンチマンも皆無である。

手塚は代々医者の家系に生まれた。曽祖父は蘭方医で、漫画「陽だまりの樹」のモデルになっている。父は宝塚倶楽部の会員であり、一家はしばしば宝塚ホテルで食事をした。そして幼少期に母には宝塚少女歌劇団に連れて行ってもらっていた(この体験が「リボンの騎士」の原点となる)。家には8mmカメラがあり、当時の治虫の映像が残っている。また家の映写機でディズニーのアニメを初めて観たという。1930年代の話である。つまり手塚は正真正銘「良家のお坊ちゃん」だったのだ。

松本零士と手塚治虫。ふたりの「お育ちの違い」が作品に明白に反映されているというのは興味深い現象である。三つ子の魂百までとは、言い得て妙だ。

江戸落語にもルサンチマンが渦巻いている。貧乏長屋に住む庶民の、武士の横暴に対する怒り・怨念。「たがや」がその代表例だろう。そして江戸っ子は人情噺を好む。一方、豊かな商人の街に発展した上方落語にはルサンチマン人情噺も綺麗サッパリない。つまり松本漫画 ≒ 江戸落語/手塚漫画 ≒ 上方落語という図式が成り立つのである。

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2017年12月 6日 (水)

KUBO/クボ 二本の弦の秘密

評価:A+

Kubo

映画公式サイトはこちら

大傑作!一コマずつ被写体を動かして作り出す〝ストップモーション・アニメ〟。とにかく映像が凄い。アカデミー賞では長編アニメーション部門及び視覚効果部門にノミネートされた。舞台は日本だが、全く違和感がなかった。特に折り紙の表現が最高。

監督のトラヴィス・ナイトは1973年にナイキ創業者のフィル・ナイトの次男として生まれた。8歳の時、仕事で日本へ行く父親に同行した際、日本の美術や建築、テレビ番組、漫画などに強い感銘を受けたという。

ズバリ、本作のテーマは物語の効用であると言えるだろう。根底に「どうして人は物語を必要とするのか?」という問いがある。

タイトル「二本の弦(原題ではTwo Strings)」の本当の意味が判明するラストシーンで貴方の涙腺が決壊することを保証しよう。

エンディング・クレジットに流れるのはビートルズの「ホワイト・アルバム」に収録された"While My Guitar Gently Weeps"(作詞・作曲:ジョージ・ハリスン)。これをギターではなく、何と三味線が演奏するんだ。粋だねっ!試聴は→こちら

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2017年9月22日 (金)

宮﨑駿とフリードリヒ・ニーチェ 〜 風の谷のナウシカとは何者か?

上記事で宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」にドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想ー永劫回帰超人が深く関わっていることを明らかにした。

僕はその後も宮崎アニメとニーチェの関係について熟考を重ねた。すると、驚くべき事実に思い当たった。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは生の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになる。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

映画「風の谷のナウシカ」は”火の七日間”と呼ばれる最終戦争後、「腐海」が発する猛毒の瘴気に覆われた世界の物語である。人類は、発達し過ぎた文明による罪(自然破壊)を背負わされたラクダの状態にある。それを象徴するのがユパが引き連れているトリウマ(ダチョウに似た鳥類で、人々が馬代わりに利用する)のカイとクイ。彼らもまた重い荷を担いでいる。ユパらは砂漠でナウシカと出会う。彼女こそ笑うライオンだ(劇中に「姫様 笑うとる 助かるんじゃ」という台詞がある)。しかし時には獰猛になり、トルメキア兵を殺戮したりもする(この時彼女の髪は逆立ち、ライオンのたてがみのようになる)。

Anger

映画のクライマックスでナウシカは倒れ、オームの血を浴びて、古い伝承に「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」と歌われた人物として蘇る。つまり超人になるのだ。この時、幼い女の子の声で「ラン、ランララ、ラララン」と歌われる「ナウシカ・レクイエム」が流れる。これは別名「遠い日々」とも呼ばれ、当時4歳だった久石譲の娘、麻衣が歌っている(彼女は現在もプロの歌手として活躍し、先日NHKで放送された久石譲コンサート@パリでもこの曲を歌った)。ナウシカはニーチェの言う子どもに還ったのである。

ナウシカの肩にはキツネリスの「テト」が乗っている。これはツァラトゥストラにいつも寄り添っている鷲と蛇の代わりと言えるだろう。

宮﨑駿は「本へのとびらー岩波少年文庫を語る」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。

このニヒリズムの克服こそ「風の谷のナウシカ」のテーマであり、ニーチェに通底する課題である。

腐海は人間により汚染された壌土を清浄なものに変化させている。これは永劫回帰に導くための装置だ。

ツァラトゥストラは「軽やかにダンスし、鳥のように飛べ!」と言う。ナウシカは「鳥の人」だ。鳥の人」はサウンドトラック・アルバムのタイトルにも用いられている。

全般に宮崎アニメは飛ぶ人=正義であり、飛べない人は見下される傾向にある。「紅の豚」のポルコ・ロッソは次のように言う。

飛ばねぇ豚はただの豚だ

正にニーチェ哲学の実践である。

また「ツァラトゥストラはかく語りき」に次のような一節が登場する。

 ーしかし、人間も木も同じようなものだ。
 木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪のなかへ 
(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

これが「天空の城ラピュタ」の構造である。そして「バルス!」という呪文の言葉による崩壊の後、パズーとシータは木の根に助けられる。

「崖の上のポニョ」の嵐の場面ではワーグナーの「ワルキューレの騎行」(もどき)が高鳴る。実は若い頃のニーチェはワーグナーに私淑し、ワグナー論も執筆しているのだ(「悲劇の誕生」など)。

ニーチェを読めば、宮崎アニメをより深く味わうことが出来るだろう。

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2017年9月20日 (水)

夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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2017年9月 9日 (土)

【アフォリズムを創造する】その7「矛盾について」〜宮﨑駿という男

世の中では首尾一貫した行動が褒められる。「AだからBだ」と筋が通った発言が求められる。原因があって結果がある。それは一般に永遠不変の真理とされる。例えば「神様がいるから、現在の我々が存在する」といった具合だ。旧約聖書によると人(アダム)は神の姿に似せて創造され、女(イヴ)はアダムの肋骨から創られたという。

論理的思考が法体系を整備し、科学を発展させてきた。コンピューターは全て2進法で計算し、情報を処理する。

「辻褄が合う」ことが良いとされる。そういう理屈を考えるのは意識自我(ego)の部分だ。しかし人のからだ・自己(self)はもっと大きな理性で出来ている。そこには無意識が含まれる。無意識混沌としており、という訳の分からないもので出来ている。深層心理学において、それを探る方法が分析である。

宮﨑駿のアニメーション映画「風の谷のナウシカ」を初めて観たのは大学生の時だった。その時から僕は「矛盾に満ちた人だなぁ」と想っていた。

宮さんは「戦争は駄目だ」「《風の谷》のように人は自然とともに生き、自給自足の生活をおくるのが一番幸せだ」と言う。しかし宮崎アニメの醍醐味は戦闘シーンにある。彼は戦車や戦闘機など殺戮兵器が大好きだ。意識が語る言葉と、からだが示すことが分裂している。その極めつけが次の場面だ。

ペジテ市の輸送船に捕えられたナウシカの脱出をアスベルが助ける。メーヴェに乗り飛び立つナウシカをトルメキア帝国の武装航空コルベットが追撃する。万事休すかと思われたその時、ナウシカの救援に駆けつけたミトのガンシップが正面から忽然と現れ、その砲撃でコルベットは大破、撃沈する。ナウシカは当初「ミト!」と満面の笑みを浮かべるが、その直後に炎上し墜落するコルベットを振り返り、「嗚呼、あの船に乗っている人たちは皆死んでしまうんだわ」と哀しみの表情に変わる。「殺さないで!」と叫ぶ一方で、敵を殲滅することで自分が助かったのを喜んでいる(実際別の場面で彼女は怒りに駆られ、トルメキア兵を数名殺戮している)。完全に矛盾している。

平和や自然、調和を愛する(アポロン的である)一方で、根源から湧き上がる破壊衝動(デュオニソス的側面)がある。この矛盾は終始、宮崎アニメに付き纏ってきた。

宮﨑駿は一貫して共産主義者(communist)である。東映動画時代は高畑勲と一緒に労働組合幹部として会社と闘った。《風の谷》も、「もののけ姫」の《たたら場》も、生活共同体(commune)幻影の産物である。しかしその反面、スタジオ・ジブリ時代は日本テレビと組み大ヒットを飛ばし、米国配給では資本主義の権化とも言うべきディズニー・スタジオの協力を得た。もし宮﨑駿がソビエト連邦や中華人民共和国に生まれていたら、今日のような作品は生み出せなかっただろう。これも矛盾だ。

そんなある日、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが彼にこう言った。「宮さん、矛盾に対する自分の答えを、そろそろ出すべきなんじゃないですか。年も年だし」そうして生まれたのが「風立ちぬ」である。

「風立ちぬ」の堀越二郎は悪魔に魂を売った男である。彼は零戦の設計に全精力を注ぐ。それは殺戮兵器=戦闘機である。何故か?「美しいから」……答えは極めてシンプルだ。彼は善悪の彼岸にいる。他人からどんなに誹られようと構わない。糾弾・問責はしっかりと受け止める。それでも夢を信じ、自分がやりたいことを貫き通す。その覚悟についての物語である。つまり本作の肝は、力強い矛盾の肯定だ。真に美しい映画であった。

混沌(chaos)から創造が生まれる。世界は矛盾で満ちている。矛盾した自己(self)、混沌とした世界をまず肯定することから生を始めよう。

また宮﨑駿へのインタビュー記事をまとめた本「風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡」の中で彼は次のように語った。

旧約聖書の中の一書)伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。

引用文中下線部は噺家・立川談志の言う「人間の業」の肯定と全く同じ趣旨である。

そして(「人生なんて所詮こんなものだ、意味なんかない」という)ニヒリズムを突破し、自分自身を克服せよ!という主張はニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じたこと。宮﨑駿はあくまでPositive thinkingの人なのである。

ギリシャ神話において、パンドラの箱を開けると世界に禍々しい災厄がもたらされるが、最後に「希望」が残った。「風の谷のナウシカ」や「崖の上のポニョ」のラストシーンが正にそれである。

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