古典芸能に遊ぶ

2019年12月24日 (火)

鶴瓶・仁智「笑福亭に乾杯!」&「笑福亭鶴笑一門会 in 町家」

12月15日(日)神戸喜楽館@新開地へ。

Kaku1

  • 笑福亭たま:ぐつぐつ(柳家小ゑん 作)
  • 笑福亭鶴二:御神酒徳利
  • 笑福亭仁智:いくじい(仁智 作)
  • 笑福亭鶴笑:SDGsを入れた環境落語「ゴミ怪獣の地球破壊」
  • 笑福亭鶴瓶:徂徠豆腐

「ぐつぐつ」はおでん達が主人公の奇想天外な新作。面白い!

「御神酒徳利」は二つの型があり、鶴二は柳家小さんが演っていた別名「占い八百屋」の方のようだ。

「いくじぃ」は嘗て、やんちゃをしていた「源太と兄貴」シリーズの後日譚。仁智の新作は庶民的で、「寅さん」シリーズのような味わいがある。

鶴笑のパペット落語の演出は結局、「立体西遊記」「義経千本桜」「時ゴジラ」などみんな同じで、今回の「ゴミ怪獣の地球破壊」もご多分に漏れないのだけれど、まぁ何度観ても爆笑だわ。ちなみにSDGsって「持続可能な開発目標」のことなのだそうだ。詳しくは外務省のサイトへ。

鶴瓶の「徂徠豆腐」を聴くのはこれが三回目。

12月21日(土)神足ふれあい町家@長岡京へ。

Kaku2

  • 笑福亭鶴笑:絵本読み聞かせ
  • 笑福亭笑生:桃太郎
  • ぱふく亭レモン:住吉駕籠
  • 笑福亭鶴笑:ラーメン屋
  • ぱふく亭パペット:狸の札
  • 笑福亭笑利:八五郎坊主

笑福亭笑生(しょうき)は以前、福井県住みます芸人「クレヨンいとう」(吉本興業所属)として活躍していたらしい。現在37歳。この11月30日に福井で命名式と落語家デビューを果たしたばかり。

ちょっと残念だったのは鶴笑のパペット落語がなかったこと。チラシには笑福亭つる吉とあったが、恐らく笑生の出演が急遽決まったため、取り止めとなったのだろう。絵本の読み聞かせは、「おおかみだあ!」や「つきよのかいじゅう」が取り上げられた。鶴笑の絶妙な語り口で、会場の子供たちは大喜び。沸きに沸いた。

「ラーメン屋」は五代目古今亭今輔の噺で、五街道雲助はこれを改作し「夜鷹そば屋」として演じている。いや〜しかし、人情噺よりもパペット落語が観たかった。

トリの笑利もパペットを使わない古典落語だったので意表を突かれた(チラシと違う)。でも上手かった。

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2019年9月18日 (水)

柳家喬太郎なにわ独演会(昼・夜 通し)

9月14日(土)ドーンセンター・ホール@大阪市へ。柳家喬太郎の独演会を昼・夜 通しで聴く。

Kyon2

昼の部

  • 林家八楽:からぬけ
  • 柳家喬太郎:初音の鼓
  • 柳家喬太郎:午後の保健室(喬太郎作)
  • 林家二楽・八楽:紙切り
  • 柳家喬太郎:縁切榎

夜の部

  • 林家八楽:子ほめ
  • 柳家喬太郎:親子酒
  • 柳家喬太郎:稲葉さんの大冒険(三遊亭圓丈作)
  • 林家二楽・八楽:紙切り
  • 柳家喬太郎:心眼

一席目と二席目の間に一旦舞台から退出する喬太郎。「一々高座をおりずに続けて演れば良いようなものですが、こういうのを専門用語で〈気を取り直す〉と申します」と(勿論、出鱈目)。

「午後の保健室」は3人の叙述トリックという手法が斬新。1人ならアガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」など数多(あまた)あるが、これだけの人数を出来るのは落語ならではだろう。

「稲葉さんの大冒険」において、松の木を背中に担いで移動する場面では「桂枝雀師匠『宿替え』へのオマージュです」と言い、喝采を浴びた。シュールで悪魔的。抱腹絶倒の新作落語。

「心眼」は三遊亭圓朝作。目が見えない方が、実は世の中のことをよく見通すことが出来るという皮肉。実に巧妙な噺である。

喬太郎の出演する落語会はもう数十回足を運んでいるのだが、未だに彼の新作「ハワイの雪」に当たっていない。もうそろそろ、関西でかけてくれませんか、喬太郎さん?

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2019年7月27日 (土)

父親殺し〜【考察】新海誠監督「天気の子」の心理学

ネタバレあります。未見の方は要注意。また、下記事も合わせてお読み下さい。

1)父親殺し

映画の冒頭、主人公である16歳の家出少年・帆高は「さるびあ丸」という船で離島から東京に向かっている途中に異常気象の雨に襲われ、甲板から転落しそうになったところをオカルト雑誌のライター、須賀圭介に助けられる。つまり、手をキャッチされる。これは帆高が読んでいるサリンジャー(著)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の内容に呼応している。

崖っぷち近くにある、だだっ広いライ麦畑で子供たちが大勢集まって何かゲームをしている。中には前をよく見ていなくて勢い余って崖から落ちそうになる子がいる。彼らをそっと見守り、危ない時はキャッチ(捕手)してあげられるような大人になりたい、と16歳の主人公ホールデンは妹フィービーに対して語る。

父親不在の「天気の子」において、Catcher(命の恩人)として登場した須賀は、帆高にとっての〈父親代わり〉となる。 社会に出たときの規範であると同時に、胡散臭い男なので〈なりたくない自分=〉でもある。つまり相反する感情がそこにはある。

帆高=ホールデンならば、〈父親代わり〉としての須賀は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 に於ける誰に対応するだろう?と僕は考え、ホールデンが退学した学校の恩師アントリーニ先生かな、と思った。

アントリーニ夫婦はニューヨークのすごくしゃれた高層アパートメントに住んでおり、「入り口から二歩階段を下りたところにある居間に入ると、バーなんかもついている」と書いてある(村上春樹訳、白水社)。

ここで村上春樹と柴田元幸(東京大学名誉教授)の対談「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)から引用しよう。

柴田 あのアパートメントというのが、何段か階段を降りてリビングに入っていくようになっているということが書いてあって、ちょっと地下なんですよね。それであそこだけ、暖かい。なんとなく子宮的。
村上 たしかにそうですね。フィービーの部屋だって暖かくないです。

僕はハッとした。帆高が住み込みで働くことになる須田の事務所は半地下にあるのだ!

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「東京って怖えぇ」と言う帆高にとって、須田の事務所は暖かく、穴ぐらにある隠れ家のような落ち着ける場所である。

須賀の娘・萌花は喘息を患っている。そしてアントリーニ先生の奥さんも喘息がひどい。ここにも共通項がある。

アントリーニ先生はホールデンに次のように言う。「私の目にはありありと見えるんだよ。君が無価値な大義のために、なんらかのかたちで高貴なる死を迎えようとしているところがね」(村上春樹訳、白水社)。まるで「天気の子」のヒロイン・陽菜に対する言葉みたいではないか。

映画のクライマックスで帆高は須田に銃口を向け、引き金を引く。これは通過儀礼としての象徴的な〈父親殺し〉であると言えるだろう。つまり「僕はあんたたちみたいに”常識”とか”倫理”に囚われたインチキな(phony)大人には絶対ならない!そうなるくらいならいっその事、青臭い(=童貞)と言われようがアドレッセンス(思春期)に留まる」という決意表明と解釈出来る。

その直後、警官に取り囲まれた帆高を助けるために陽菜の弟が飛び込んでくる。それまで彼を「センパイ」と呼んでいた帆高は「凪 !?」と叫ぶ。さらに天空にいる陽菜を奪還する場面で初めて彼は「陽菜さん」ではなく、「陽菜!」と呼び捨てにする。つまり、姉弟に対して〈弟分〉のような甘えた気持ちで接して来た帆高は、〈父親殺し〉を契機に〈家長〉としての自覚を持ったのである。そして2年半後、嘗て「大人になれよ、少年」と言っていた須田は帆高を「青年」と呼ぶ。

「天気の子」同様、空から魚が降ってくる村上春樹の小説「海辺のカフカ」は15歳の少年が主人公で、父親から「母と交わり父を殺し、姉とも交わる」という呪いをかけられたため家出を決意する。ベースにあるのはギリシャ悲劇「オイディプス(エディプス)王」。つまり〈父親殺し〉をめぐる物語だ。「天気の子」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「海辺のカフカ」は密接に繋がっている(三位一体)。「君の名は。」でいうところの〈ムスビ産霊〉〉だ。

エンドロールでRADWIMPSの野田洋次郎はこう歌う。

君にとっての「大丈夫」になりたい

帆高は心理的な〈父親殺し〉を経ることにより文化的社会的規範から自由になり、自我を確立して陽菜にとっての「キャッチャー」になったのである。

新海誠は長野県小海町の建設会社「新津組」(公式サイトはこちら)社長の息子として生まれた。父は息子に家業を継がせるつもりだったと語っている(記事はこちら)。しかし新海はアニメーションという仕事を選んだ。そこには当然大きな葛藤があったろう。心理的な〈父親殺し〉が必要だったのかも知れない(「新津」を捨て「新海」を名乗る)。なお、新海と父の関係は「君の名は。」のテッシー(勅使河原)父子に投影されている。

2)夢の効用〜「フィールド・オブ・ドリームス」

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (古今集)

陽菜が天に昇る夢を帆高と陽菜の弟・、須賀、そして須賀の娘・萌花が同時に見る。つまり四人は夢を共有している。そこには〈夢の通い路〉〈夢の直路(ただち)〉がある。

はかなしや 枕さだめぬ うたたねに ほのかにまよふ 夢の通ひ路(千載集)

恋ひわびてうち寝るなかにいきかよふ夢の直路はうつつならなむ(古今集)

映画「フィールド・オブ・ドリームス」にはサリンジャーをモデルにした作家テレンス・マンが登場する(原作小説ではサリンジャーその人となっている)。

そして「フィールド・オブ・ドリームス」でも複数の登場人物たちが同じ夢を共有する。これって単なる偶然だろうか?

3)人柱は何故生まれたか?

旱魃(かんばつ)という言葉の、旱(かん)は「ひでり」、魃(ばつ)は「ひでりの神」を意味する。中国神話によると、中国を統一した黄帝は戦争の際、敵陣営の風雨を司る雨師と風伯に対抗して体内に大量の熱を蓄えている娘・魃を呼び寄せ対抗した。魃が雨を止めることで黄帝は勝利を掴んだが、魃は力を使いすぎて天へ帰れなくなっていた。日照りが続いたため、魃は北方の山中に幽閉された。跋は日本における巫女のような存在であり、100%の晴れ女である。

古代アステカ人は雨乞いや豊穣を祈願して人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。またマヤ文明に於いて旱魃は雨の神チャクの怒りによるものだと考えられたため、14歳の美しい処女を選び、聖なる泉に生贄として捧げた。この生贄の儀式はメル・ギブソンが監督した映画「アポカリプト」にも描かれている(ダイヤログは全編マヤ語)。

人柱など人身御供は〈神とのコミュニケーション〉の手段として活用された。人と人とのコミュニケーションの基本は〈価値の交換〉である。言葉の交換もそうだし、物々交換の代わりとして現在では貨幣経済が主流となった。貨幣が〈価値の担保〉になったのである。同様に人が神様に何かをお願いするためには、等価のものをこちらから差し出さなければならない。つまり〈代償を支払う〉必要がある。それが人柱、人身御供だ。

4)指輪は何故、陽菜の指をすり抜けたのか?

「天気の子」のクライマックスで昇天した陽菜の指から、帆高から貰った指輪が抜け落ちる。多くの人はこれが、陽菜の体が透明になったせいだと考えているが、果たしてそうだろうか?ならば、陽菜が着ている服やチョーカー(首飾り)も地上に落下しなければ矛盾する。

人柱になった陽菜は神への供物であり、巫女=コミュニケーション・ツールだ。巫女は処女でなければならない。しかし男から貰った指輪は穢(けがれ)だ。だから神は弾き飛ばしたのである。

助けに来た帆高は陽菜がいる、かなとこ雲の上(=神の座)に乗ることが出来ない。それは彼が穢(けがれ) だからである。

5)「崖の上のポニョ」

本作は「天空の城ラピュタ」との類似点を沢山指摘出来る。陽菜が身に付けているチョーカー(首飾り)は飛行石みたいだし、「天気の子」の雲の周りを龍神が泳いでいるのは「ラピュタ」の”竜の巣”に相当する。そして男の子と女の子が両手を繋いで落下する場面も共通している。さらに「ラピュタ」の美術監督として圧倒的に美しい雲を描いた山本二三が「天気の子」では気象神社の天井画を描いている。しかし、物語の構造的に一番近いのは「崖の上のポニョ」であろう。

水没する世界。でもキミ(ポニョ/陽菜)とボク(宗介/帆高)さえいれば大丈夫、なんとかなるさ。

なお、宮崎駿は水没する世界というイメージが大好きで、「パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻」「ルパン三世 カリオストロの城」などで繰り返し描いている。

それで想い出したのだが、新海誠「秒速5センチメートル」の少年少女は古代カンブリア紀の話をしていた(明里は「私、ハルキゲニアが好きだな」と言うのだけれど、多分それは新海誠が村上春樹を好きっていうこと)。そして「崖の上のポニョ」には古代デボン紀の魚が登場する(公式サイトの解説はこちら)。

6)両性具有

以前、こんな記事を書いた。

「天気の子」で両性具有を担っているのが陽菜の弟・凪である。実際「君の名は。」同様、凪は男女入れ替わりを実行する。それは王朝文学「とりかへばや物語」に繋がっている。

7)ミュージカル「RENT」

予報1を観たときから、主題歌「愛にできることはまだあるかい」冒頭のコード進行が、ピューリッツァー賞やトニー賞を総なめにしたブロードウェイ・ミュージカル「RENT(レント)」の名曲"Seasons of Love"(作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン)と全く同じなことに気付いていた。試聴はこちら。「どういう意図があるのだろう?」と、それからずーっと考え続けてきた。ふと思ったのは、「RENT」はAIDSが蔓延した絶望的な世界の中で、身近な人たちとの愛を拠りどころに一日一日を大切に生きていこうというメッセージを発している。そういう意味で「天気の子」に近い志向を持っていると言えるだろう。

8)もやもや感の正体

「天気の子」に否定的な意見を持つ人の多くが異口同音に言っているのが結末が「モヤモヤする」ということである。どういうことか?

セカイ系の旗手・新海誠は処女作「ほしのこえ」からバッドエンドを描いてきた。その究極形が「秒速5センチメートル」であり、〈キミとボク〉の関係はすれ違いのまま幕を閉じる。ここで大きく舵を切って大ヒットを飛ばしたのが「君の名は。」である。〈キミとボク〉もハッピー、セカイもハッピーエンドを迎えた(アメリカで初めて上映されたとき、雪の降る東京の街角で瀧と三葉がすれ違う場面では客席から"Oh my god !"〘あーあ、またか!〙というため息が漏れたという)。しかし、「天気の子」の場合、〈キミとボク〉はハッピーだけれど、セカイにとってはバッドエンドだ。このベクトル(進む方向)の差異が違和感の正体だろう。

 

以上どうでしたか?新海誠の超ディープな世界をご堪能頂けただろうか。それではサヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

Sayonara

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2019年6月27日 (木)

新海誠と、和歌&王朝文学〜「君の名は。」から「天気の子」へ

新海誠監督のアニメーション映画「言の葉の庭」(2013)の雪野百香里(ユキちゃん先生)と主人公のタカオ(高校生)は、万葉集にある次の歌を互いに口ずさみ、心を通わせる。

(女)雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ
(男)雷神の 少し響みて 降らずとも 吾(われ)は留(と)まらむ 妹(いも)し留めば

映画「君の名は。」(2016)の企画書には「古今和歌集」に収載された小野小町の歌が引用されている。

思ひつつ 寝(ぬ)ればや人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

そして「君の名は。」の古文の授業でユキちゃん先生は黒板にチョークで万葉集の歌を書いている。

誰そ彼と 我をな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つ我そ

誰そ彼(たれそかれ)」が「黄昏(たそがれ)」の語源であり、「かはたれ時」とか、「逢魔が時」と呼ばれたりもする。「君の名は。」ではその派生語として「かたわれ時」となり、さらに〈片割れ→半月 Half Moon〉という連想に繋がる(瀧が高山で来ているTシャツにHalf Moonが描かれている)。瀧と三葉という半月どうしが結合することで満月(Full Moon)になるわけだ。

2002年のデビュー作「ほしのこえ」から新海誠はセカイ系の旗手と呼ばれた。セカイ系の定義は以下の通り。

ヒロイン(きみ)と主人公(ぼく)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。

この姿勢は「君の名は。」まで見事に一貫している。そして恐らく「天気の子」も。

きみとぼく」のやり取りを詠ったのが和歌である。新海誠のセカイの中心(セカチュー)には和歌がある。これは彼が中央大学文学部国文学専攻を卒業したことと無関係ではあるまい。

「ほしのこえ」で地球と冥王星軌道にまで引き離された男女は携帯電話(当時はガラケー)でメールのやり取りをする。音声ではない

「秒速5センチメートル」(2007)の引き離された男女は手紙で文通したり、高校生になった貴樹(主人公)は出す当てのないメールを書いては消し、書いては消し、を繰り返している。小学校時代に貴樹と、ヒロインである明里が電話で言葉を交わす場面が唯一あるが、この時ふたりは携帯電話を持っていなかったから仕方なかったのである。中学生になり、明里が引っ越した栃木まで貴樹が東京からJRを乗り継いで訪ねていく場面がある。途中で大雪となり、到着したのは深夜だった。初キスを交わしたふたりは岩舟駅近くの誰もいない小屋で一夜を過ごす(新海誠が大好きな倉本聰作「北の国から'87初恋」へのオマージュ)。明け方、貴樹は始発の電車に乗り、明里が見送る(ふたりにとって最後の逢瀬となった)。ここで描かれているのは通い婚だった平安時代の日常風景だった〈後朝(きぬぎぬ)の別れ〉(男女が一夜をともにした翌朝の別れ)であり、「古今集」でも数多く詠われている。

「君の名は。」で瀧と三葉はスマートフォンを活用して交換日記を交わす。瀧が初めて三葉に電話しようとすると通じない。つまり全篇を通して、ふたりは音声でコミュニケーションを取ることが一切ないのである。これは極めて特異なことだと言える。

瀧が三葉に”すきだ”という気持ちを伝えるのも、口頭ではなく文字である。

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つまり新海誠は話される言葉を信じていない人の心の想いを伝えられるのは書かれた言の葉だけなのである。この姿勢は「天気の子」でも継承されるだろう。

「君の名は。」の男女入れ替わりという主題は平安時代後期に成立した王朝文学「とりかへばや物語」に源流をたどることが出来る。そもそも新海誠が最初に提出した企画書のタイトルは「夢と知りせば(仮)-男女とりかえばや物語」だった(詳しくはこちら)。さらに「古事記」「日本書紀」に記されたイザナギ(男神)とイザナミ(女神)の神話が加味されている。

僕はつい先日、紫式部の「源氏物語」を読み終わった。どうしても「天気の子」公開日までに間に合わせたかった。確かな根拠はない。しかし、新海誠のセカイをより深く理解するためには王朝文学の最高峰である「源氏物語」を熟知しておくことが必須であるという直感があったのだ。

「源氏物語」の後半、宇治十帖では浮舟の死と再生が描かれる。これを読みながら、「何処か三葉の死と再生に似ている」と思った。

新海誠のセカイでは夢が重要な役割を果たす。ここで大切なことは、現代人と、古代日本人の夢の捉え方は違うということである。そして勿論、新海誠は平安時代の思考法でセカイを見つめている。

フロイトの「夢判断」やユング心理学を経て、現代人は夢が潜在意識の顕現であることを知っている。例えば私たちの夢の中に他者が登場した時、それは私たちが潜在意識の中でその人のことを思っているからだと解釈する。しかし古代日本人は、「その人が私のことを思っているから、私の夢に現れた」と見做す。つまり小野小町の詠んだ、

思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

は「ある男に対して恋心をつのらせていると、男の夢の中に入っていけた」と言っているのである。その行程が、「古今集」の中に登場する〈夢の通い路〉であり、〈夢の直路(ただち)〉だ。

恋ひわびて うち寝るなかに いきかよふ 夢の直路は うつつならなむ

「源氏物語」に次のようなエピソードがある。六条御息所(光源氏の愛人で七歳年長、非常に教養が高い)が葵祭の見物の際に光君の正妻・葵の上との車争いに巻き込まれ、敗れる。公衆の面前で恥をかかされた六条御息所は恨みに思い、彼女の体から生霊が彷徨い出て葵の上を呪い殺す(六条御息所本人は無意識のまま実行される)。また彼女の死後も死霊が紫の上(光君の若妻)に取り憑き、悩ます。これも正に〈他者の夢の中に入っていく〉行為である。

他者の夢の中に入っていく〉という着想は「秒速5センチメートル」や「君の名は。」で重要な役割を果たすし、恐らく「天気の子」にも出てくるだろう。この着想に取り憑かれたハリウッドの映画監督もいる。「巴里のアメリカ人」「バンド・ワゴン」のヴィンセント・ミネリであり、「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」のデイミアン・チャゼルだ。詳しくは下記事に書いた。

平安時代の人々は現世のことを〈浮世(うきよ)〉と呼んだ。これはふわふわして頼りなく、実感が乏しいものであると同時に、〈憂き世〉を意味した。一方、彼岸・あの世を〈常世(とこよ)〉とした。永遠に変わることのない理想郷のことである。そして「君の名は。」の中で一葉ばぁちゃんは〈常世〉のことを〈隠り世(かくりよ)〉と呼んだ。寧ろ古代人は〈浮世=仮相、常世=実相〉と考えていたのではないだろうか?これはどこかアボリジニ(オーストラリア先住民)の語る〈ドリームタイム〉に近いものがある。

最後に、紀貫之(古今集選者)の辞世の歌をご紹介しよう。

手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ
(手にすくった水に映る月の光のように、あるかないか覚束ない、儚いこの世だったことよ)

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2019年6月13日 (木)

ウルトラマン落語キター!〜柳家喬太郎独演会 2018@兵庫芸文

6月8日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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〈昼の部〉

  • 柳家小んぶ:安兵衛狐
  • 柳家喬太郎:抜け雀
  • 翁家和助:太神楽(だいかぐら)曲芸
  • 柳家喬太郎:ハンバーグができるまで

〈夜の部〉

  • 柳家小んぶ:幇間(たいこ)腹
  • 柳家喬太郎:抜けガヴァドン(ウルトラマン落語
  • 翁家和助:太神楽曲芸
  • 柳家喬太郎:死神

喬太郎は柳家さん喬の総領(一番)弟子。小んぶは十番弟子で現在、二ツ目だそう。

「安兵衛狐」は上方の「天神山」を江戸に移植したものであり「本来は前座ネタじゃないんですけれど、お客様からは温かい反応を頂き、ありがたいことです」と喬太郎。僕みたいに昼・夜通しで聴く客が300人ほどいるそう(中ホールのキャパは800席)。さらに翌日、岸和田での独演会にも足を運ぶ予定というツワモノも。

喬太郎はマクラで初めて仕事で大阪に来たときのエピソード(乾電池まつりの司会)や種子島での落語会に日帰りで行ったことなどを話した。

「抜け雀」で宿が大人気になり、増築したという件で「本館・新館・アネックスが出来た」と。これは兵庫芸文の近くにあるショッピング・モール〈阪急西宮ガーデンズ〉のことであり、大受け。さすが地元ネタも巧みに盛り込んで上手い。

「死神」では死神を消すための呪文の最後に〈エッ、マジ?蒼井優が!?〉を挿入。会場が大爆笑になったことは言うまでもない。

夜の部で、昼の部の「抜け雀」と全く同じ内容の導入部を喬太郎が話し始めた瞬間、僕は「アッ、『抜けガヴァドン』キター!」とこころの中で叫んだ。実は2015年にTORII HALL(トリイホール)で聴いていたのである。出囃子も「ウルトラQ」だったしね。

4年前は元ネタとなったウルトラマン第15話「恐怖の宇宙線」を未見だった。だからガヴァドンA?、ガヴァドンB??と中々イメージが沸かなかったのだが、今回は我が家にウルトラマンBlu-ray Boxを購入済みで、予備知識はバッチリ。大いに愉しんだ。佐々木守(脚本)実相寺昭雄(監督)の回は名作揃いである。このコンビによるウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」がある事情から初回放送後に封印され、現在では欠番扱いとなり、観ることが叶わないのは返す返すも残念だ。因みに彼らの最高傑作が「怪奇大作戦 京都買います」であることは論を俟たない。

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2019年4月19日 (金)

百人一首から万葉・古今・新古今和歌集へ〜古代日本人の深層心理を探る旅

新元号が〈令和〉に決まった。「万葉集」に書かれた、梅花の宴(序文)に由来する。出典が国書であるのは史上初だという。〈令和〉で「万葉集」に注目が集まるのは大変結構なことだ。今まで全て中国古典出典だったというのが却って不思議な気すらする。

僕が今回、「万葉集」「古今集」「新古今集」に集中的に取り組もうと決意した理由は、これらを読めば古代日本人の心、深層心理が分かるんじゃないだろうかと考えたからである。例えば「古今集」に収録されているのは1,111首。紀貫之ら撰者4人の歌が全体の2割以上を占めるなど沢山選ばれている歌人もいるが、それでも何百人もの〈思い〉〈感情〉が集積している。そこから何らかの集合的無意識が浮かび上がってくる可能性もあるのではないか?

本稿を執筆するに当たり、読んだ本を挙げておく。

  • 最果タヒ「千年後の百人一首」(リトル・モア)
  • 最果タヒ「百人一首という感情」(リトル・モア)
  • 上野誠「はじめて楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)
  • 「万葉集 ビギナーズ・クラシック 日本の古典」(角川ソフィア文庫)
  • 「新版 古今和歌集 現代語訳付き」(角川ソフィア文庫)
  • 「新古今和歌集 ビギナーズ・クラシック 日本の古典」(角川ソフィア文庫)

いずれも解説・現代語訳付きでわかり易い。お勧め!

さて、「万葉集」より前の、最初期の和歌の話から始めよう。〈難波津(なにわづ)の歌〉である。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

末次由紀による漫画「ちはやふる」でも描かれている通り、競技かるたにおいては競技開始時に〈難波津の歌〉を詠むことが通例となっている。百人一首には入っていない。大阪市はこの歌にちなみ〈咲くやこの花館〉や〈咲くやこの花賞〉を設立している。王仁の作とされ、「古今和歌集」の仮名序で、字を習う人が最初に書くものとして紹介されている。仁徳天皇が即位したことを祝ったものと言われており、4世紀末から5世紀初頭の作品と推定される。

和歌は5-7-5-7-7というたった31文字で表現しなければならないのに、そのうち〈咲くやこの花〉という7文字(全体の23%)を繰り返している。何という無駄!「繰り返しのリズムが心地よい」などという戯言は聞きたくない。ハッキリ言う。単純で稚拙である。では、ここから出発した和歌は後にどのような進化を遂げたのだろう?

扱われた素材を見てみよう。4,500首以上ある「万葉集」(759年以降に成立)でが詠まれたのは41首。全体の1%にも満たない。花の中で一番多く詠まれたのがで141首、続いての116首、第3位が橘・花橘の107首。は植物の中で第10位なのだという(群馬県立女子大・北川和秀教授の集計に基づく)。これが905年に成立した「古今和歌集」になると(春歌全133首のうち)が18首に対して、が70首と逆転し、圧倒した(ほぼ4倍)。つまり和歌で「花」といえば「桜」を指すという常識が成立したのは平安時代以降なのである。余談だが現代人が「桜」で真っ先に連想するのはソメイヨシノ(染井吉野)だが、これは江戸時代中期ー末期に園芸品として生み出された交配種である。和歌で詠まれる「桜」は吉野山などに咲く山桜と考えるべきだろう。

「万葉集」は全て漢文で書かれており、中国文化の影響が色濃い。だからが好まれた。そして仮名文字が登場する「古今和歌集」成立まで約150年が経過する間に日本人の美意識は確立され、歌に詠まれる対象(花)も独自の素材としてに移行した(838年を最後に遣唐使が廃止されたことも大きいだろう)。と同時に薫物(たきもの)、(こう)の文化が発展した。奈良時代には主に宗教儀式で用いられたが、平安時代になると貴族たちが家伝の秘法に従って練香を作り、これを披露し合う〈薫物合わせ〉を愉しむようになった。は「古今集」のみならず「源氏物語」でも重要な役割を果たすことになる。また同じ自然現象を〈春ー霞〉〈秋ー霧〉と明確に区別するようになったのも「古今集」からで、「万葉集」では混用されている。ここにも繊細な美意識の萌芽が認められる。

なおは8世紀(飛鳥〜奈良時代)に遣唐使によって中国から持ち込まれた外来種である。「古事記」や「日本書紀」には一切、に関する記述がない。一方、山桜は古来からある自生種である。

奈良時代→平安時代の文化の変遷は1868年の明治維新から、約150年を経た現代までの変化に非常に似た状況であると言えよう。江戸時代の鎖国を経て明治時代は一気に西洋文化が日本に流入した。「欧米諸国に追いつけ追い越せ!」とばかり〈富国強兵〉が叫ばれた。それは〈猿真似の時代〉でもあった。しかし第二次世界大戦後、手塚治虫の出現とともに漫画文化が栄え、スタジオジブリの宮崎駿らが牽引した日本のアニメーションが今や世界を席巻した。プレイステーションやNintendo Switch、ポケットモンスターなどゲームソフトでも他国の追随を許さない。歴史は繰り返すのである。

和歌の話に戻ろう。

「万葉集」の特徴は素朴であること。例えば次の歌だ。

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

身も蓋もない言い方をすれば「見たままやん!」とツッコミを入れたくもなる。何のひねりもない。後者の〈にほふ〉は嗅覚じゃないかという反論があるやも知れぬが、古語でこの言葉は〈美しく咲く/美しく映える/美しさがあふれている〉という意味もある。

〈掛詞(かけことば)〉は「万葉集」にごく少数しか認めない。これが盛んになったのは「古今和歌集」から。〈掛詞〉はダブル・ミーニング(double meaning)であり、僕は「これってダジャレと同じじゃね?」と思った。古代日本人も現代の我々同様、ダジャレが大好きだったのだ。何だか親しみが湧いた。

「万葉集」から「古今和歌集」に移行すると、仮構性が強くなる。想像上の美の世界、ヴァーチャル・リアリティだ。「百人一首」にも選ばれた次の歌が代表例だろう。

心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

「初霜」と「菊」がどちらも真っ白なので、折ろうとしても見分けがつかないというのだ。そんなことってあり得る!?同じ作者(凡河内躬恒)の歌で、月明かりの白さと梅の白さが紛れて見えない(だから匂いで梅の花のある場所を察知するしかない)というのもある。

月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞしるべかりける

「んなあほな!」ツッコミどころ満載である。明治時代になって正岡子規が「歌よみに与ふる書」で「古今集」を徹底批判した気持ちが分からなくもない(「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と子規は記している)。

確かに花も実もある絵空事ではある。しかし一方で、僕はフィクションとしての面白さ、嘘から出たまこともあると思うのだ。凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌は、例えばフランス印象派のドビュッシーが作曲したピアノ曲「月の光」や歌劇「ペレアスとメリザンド」を想起させる。自然ではないが、人間が構築した完全なる美の世界がここにある。

〈本歌取り〉が盛んになるのは鎌倉時代初期、1205年に成立した「新古今和歌集」の時代になってからである。「古今和歌集」からさらに300年が経過している(「万葉集」から約450年)。「新古今」まで行くと、超絶技巧というか、余りにも人工的で僕にはToo much !と感じられる。貴族文化が成熟し、熟れ過ぎて腐りかけた状態。正にデカダンスである。「新古今」を読みながら僕が連想したのは、形式が肥大化し瓦解寸前のグスタフ・マーラーの交響曲や、ルキノ・ヴィスコンティ監督(イタリア貴族の末裔)の映画「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」「家族の肖像」などである。〈本歌取り〉は元の歌を知らないと意味を成さない。つまり高い教養が問われる。また当時は歌会が盛んで「お題」を出されて詠まれた歌が多く、その多くが実体験に基づかない男が女の気持になって詠んだものもある。何だそれ!?ここまで来ると単なるお遊び、ゲームだ。だから武士の台頭とともに和歌や貴族文化が滅びるのは必然だったという気が僕にはするのである。朴訥な「万葉集」と爛熟した「新古今」、その中間の程よい匙加減が「古今集」というのが率直な印象である。

三島由紀夫は「日本文学小史」の中で次のように述べている。

 われわれの文学史は、古今和歌集にいたつて、日本語といふものの完熟を成就した。文化の時計はそのやうにして、 あきらかな亭午(ていご:真昼)を斥す(=指す)のだ。ここにあるのは、すべて白昼、未熟も頽廃(たいはい)も知らぬ完全な均衡の勝利である。 日本語といふ悍馬(かんば:あばれうま)は制せられて、だく足も並足も思ひのままの、自在で優美な馬になつた。調教されつくしたものの美しさが、なほ力としての美しさを内包してゐるとき、それをわれわれは本当の意味の古典美と呼ぶことができる。 制御された力は芸術においては実に稀にしか見られない。

ここで三島の言う〈未熟〉=「万葉集」であり、〈頽廃〉=「新古今和歌集」であることは論を俟たない。僕は三島の意見に全面的に賛成である。

「万葉集」では鳥の中でホトトギスが最も多く詠まれた。一説では156首、二番目に多い雁が63 首とされる(ホトトギスが153首、雁が67首とする説もある)。ただここで注意すべきは「万葉集」の時代、ホトトギスとカッコウは混同されていた可能性があるのだ。少なくとも平安時代において、カッコウは文学に全く登場しない。現代において「郭公」という漢字はホトトギスとカッコウという二つの読み(意味)があるが、古典ではホトトギスという読みしかなかった。実は生物学上も両者はカッコウ目カッコウ科の鳥に分類されており、案外近い存在なのである。ホトトギスの声は田植えを始める時期を知らせるということで「時鳥」という異名も与えられ、冥界を往来するというイメージまで付与された。

中国の故事を紐解くと長江流域に蜀という傾いた国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して君主になった。杜宇が死ぬとその霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため飛んで来て鋭く鳴くようになったという。故に「杜宇」はホトトギスの異名となった。

ホトトギスとカッコウには托卵(ホトトギスは鶯の巣に卵を生む)という共通する生態があり、その他ホトトギスの習性として、夜に鳴くこと、雨の日にも鳴くこと、一ヶ所に留まらず飛び回りながら鳴くこと、そのため姿が見えないことなどが挙げられる。またホトトギスの口中は朱色なので、〈鳴いて血を吐く〉とも言われた。結核を病み、喀血した正岡子規の雅号「子規」もホトトギスの異名であり、「死期」を連想させる。

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おそらく冥界との繋りは、こうした生態に由来する発想なのだろう。常にこの世にいるわけではないので、子育ても他の鳥に委託するわけだ(ホトトギスの托卵は万葉人も知っていた)。

また鶯は谷の古巣で春を待つものとされた。

次に季節を見てみよう。「古今和歌集」で詠まれた内訳は以下の通り。

春:134首、夏:34首、秋:145首、冬:29首

つまり春≒秋、は夏≒冬と比較して約4〜5倍多く詠まれていることが判る。

なぜ秋が最も多いのか?秋は枯れ葉が舞い落ち、〈(夏)〉から〈(冬)〉への〈移行期〉〈境界域〉に立つ季節。だから「寂しい」という気持ちが掻き立てられ、「もののあはれ」にしみじみ感じ入る。例えば冬、雪が降り積もったスキー場やクリスマス商戦で賑わう12月の街角で「寂しさ」は感じないでしょう?既ににどっぷりと〈死の世界〉に足を踏み入れているから完了した状況であって、変化しつつある運動性を欠くのだ。故に心は動かない。逆に春は〈死〉から〈生〉への移行期なのでやはり「もののあはれ」がある。さらに散りゆくの花びらが〈生〉から〈死〉へ移行するメタファーとなる。

詠まれた時刻を見ると、真昼よりも夕刻(黄昏=誰そ彼/アニメ映画「君の名は。」における〈かたわれ時〉)・夜・明方が圧倒的に多い。夕刻や明方は昼(動)↔夜(静)の〈移行期〉〈境界域〉であり、そこに「もののあはれ」「幽玄」が潜む。明方(しののめ)は通い婚だった当時において、男女が一夜を共にした翌朝の別離=〈後朝(きぬぎぬ)の別れ〉を意味しており、より一層切なさを増す。また夜は月の満ち欠けが「無常(生滅変転して片時も同じ状態に留まらないこと)」「哀愁」に結びつく。

最後に。「拾遺和歌集」に収録された、紀貫之の辞世の歌とされるものを見てみよう。

手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ

下の句は、「はかない人生/世の中であった」と解釈されることが多いようだが、僕は寧ろ「手に取ることが出来ない不確かな、夢のような人生であった」と積極的・肯定的に受け止めたい。それはアボリジニ(オーストラリア先住民)の概念〈ドリームタイム〉に繋がってゆく。 

紀貫之には「古今和歌集」に載った、次のような歌もなる。
            あひしれりける人の、身まかりにける時によめる
夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな
(この世は、夢とこそ言うべきであったのだ。私を取り巻く世界には確かな現実があるものだと思っていたのだがなぁ)
夢の時ドリームタイム)とこの世の〈境界域〉に、和歌は息づいている。

今回の体験を通して、僕は次に向かうべきターゲットを絞った。紫式部「源氏物語」である。そして遂に大伽藍に足を踏み入れたところである(角田光代 訳)。いずれ超大作「源氏物語」を言祝(ことほ)ぐ日も来よう。乞うご期待。

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2019年4月 9日 (火)

桂雀々 立川志らく 東西会

4月7日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

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  • 雀々・志らく:オープニングトーク
  • 桂優々:大安売り
  • 立川志らく:親子酒
     (仲入り)
  • 桂雀々:代書
  • 桂雀々:花ねじ(隣の桜)

立川談志の弟子、志の輔と談春の落語は生で聴いたとこがあるが、志らくは一度もなかったので今回の会に足を運んだ。結論から述べると大したことはなかった。時事ネタをいろいろ投入して来るのだが、正直余り面白くない。冴えが感じられない。もうええわ。

雀々は相変わらず師匠譲りの疾走感のある語り口で耳に心地よい。京都から山梨県の山中湖まで台湾人観光客のバスツアーに添乗し、通訳を間に挟んで落語をしたというエピソードが最高に可笑しかった。また「花ねじ」のマクラでは師匠・枝雀が創作したSR(ショート落語)を幾つか披露(「万年筆」「ソケット」「犬」「定期券」)。「花ねじ」は途中ではめもの(お囃子)が入り賑やかで、花見シーズンにピッタリだった。

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2019年3月 2日 (土)

虹についての考察(万葉集から能「道成寺」、LGBTまで)

まずは大前提として下記事をご一読ください。

更に出来得ることなら、次も併せて目を通して戴ければありがたい。

アボリジニ(オーストラリア先住民)の神話と、そこにしばしば登場する〈虹蛇〉について書いた。

概要を述べる。アボリジニの概念〈ドリームタイム〉には守り神のような存在〈虹蛇〉が棲み、両性具有水を司る。鎌首をもたげた蛇の姿と虹の足が重ねられたイメージ。蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在である。

古代中国人も虹と蛇を結びつけて思考していた。「虹」という漢字の虫偏(むしへん)は大蛇/龍を意味する。漢文で書かれた「万葉集」が編纂され、漢文学が隆盛を極めた古代日本(7世紀〜8世紀)の人々もその概念を共有していた。平仮名が公的な文書に現れるのは905年に完成した「古今和歌集」からである。

では蛇は男性と考えられたのか?女性なのか?古代人の思考は昔話に顕現する。「蛇女房」と「蛇婿入り」という、どちらも人間と結婚する噺がある。つまり古代日本における蛇のイメージもアボリジニ神話と同様、両性具有と考えられる。一方、「鶴女房(鶴の恩返し)」はあるが、鶴が人間の男として現れる噺は聞かない。鶴は女性原理の象徴なのだ。

「蛇女房」はこんな噺だ。出産時に夫が「見るなのタブー」を破ったため蛇の正体がばれ、夫婦は一緒に暮らせなくなる。女房は別離の際、子供に乳代わりにしゃぶらせるよう自分の眼を与えるが、不思議な玉の評判が広まり、殿様に取り上げられてしまう。ここから2つのパターンの類話に分かれる。①困った夫は池に女房を探しに行き、彼女はもう片方の眼も与えて盲目となってしまう。時と方向が判らなくなると困るからと言い、蛇は夫に朝と晩に鐘を鳴らしてくれるよう頼む。②殿様の横暴に怒った蛇は洪水を起こし、城ごと押し流してしまう。

ここからはっきりと分かるのは【①蛇と寺の鐘の密接な結び付き②蛇は水を司る】ということである。

次に「今昔物語集」に書かれた〈安珍・清姫伝説〉を見てみよう。熊野に参詣に来た美形の僧・安珍を見て清姫は一目惚れし、言い寄る。修行の身ゆえ、困った安珍は清姫を騙して逃げる。清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。道成寺に逃げ込んだ安珍は梵鐘を下ろしてもらい、その中に潜む。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。遂に安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。

ここでも蛇と寺の鐘が結びついている。そして蛇と水の親和性も語られる。〈安珍・清姫伝説〉は後に能「道成寺」に変換された。寺の鐘は形態的に女性の子宮に似ており、そこに閉じこもる〈安珍・清姫伝説〉は胎内回帰願望と読み解くことも可能だろう。アボリジニ神話において、虹蛇に母子が呑み込まれる物語に類似している(レヴィ=ストロース著「野生の思考」に紹介されている)。

安珍・清姫伝説〉には続きがあり、蛇道に転生したふたりはその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。また能「道成寺」では死んだ清姫が白拍子の姿に変化(へんげ Metamorphose)し、再び寺を訪ね舞を舞う。アボリジニ神話の母子もその後、虹蛇に吐き出され生き返る。両者は死と再生というテーマで繋がっている。

こうして見ていくと、オーストラリアのアボリジニ・古代中国・古代日本を結ぶ〈虹=蛇〉という概念は、ユング心理学における元型のひとつ、太母(the Great Mother)に相当すると考えられる。

Jungsmodel

上図はユングによる「心」の構造である。中心に自己(SELF)があり、それを取り巻く円の内側(深層)が集合的無意識Collective unconscious=Cの世界)。A元型(Archetype)で、アニマ(男性の思い描く理想的女性像)、アニムス(女性が思い描く理想的男性像)、太母(the Great Mother)、老賢人(the Wise Old Man)等が該当する。その外側に個人的無意識(Personal unconscious)が存在し、心的複合体=感情複合(Complex)を内包する。その代表例がフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスだ。さらに「心」の表層に意識(Consciousness)があり、自我(EGO)が配置されている。

太母(the Great Mother)とは、子を慈しみ、優しく包み込むのような存在であると同時に、牙を向き人々に襲いかかり、すべてを呑み込む山姥のような姿として立ち現れることもある。安珍に襲いかかり焼き尽くす清姫や、殿様の狼藉に怒り川を氾濫させ、洪水で城下町を呑み込む蛇女房の姿は、正に太母(the Great Mother)そのものである。

虹=蛇〉は母であると同時に父でもある。蛇の頭部は男根を想起させる。両性具有の性質を象徴するのが〈〉だ。フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南北アメリカ先住民の神話を研究した「神話論理」において〈〉を「半音階的なもの」と呼んだ。つまりある音から、別の音に、段階的(微分)変化を経て移行することを意味する。具体的にはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」やラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」に顕著な手法である。

父性原理で思考する欧米の人たち(キリスト教徒)は全てのことを〈2項対立〉に分けて、切断する。正義か悪か、YesかNoか、男か女か。その中間項は一切認めない。いわゆる近代ヨーロッパにおける合理主義である。0か1かの二進法で計算するコンピューターの原理も同じ。だからキリスト教社会において同性愛者は差別され続けてきた。しかし日本など母性社会では違う。

ここでLGBTと虹の関係について述べよう。LGBTとは、「Lesbian」(レズビアン、女性同性愛者)、「Gay」(ゲイ、男性同性愛者)、「Bisexual」(バイセクシュアル、両性愛者)、「Transgender」(トランスジェンダー、性別違和を含む性別越境者)の頭文字をとった言葉で、Sexual Minority(性的少数者)の総称。そのシンボルとなっているのがレインボーフラッグである。1970年代から使用されているという。

Flagsvg

何故〈虹の旗〉なのか?

それは性別を男か女か、2つに分けて切断するのではなく、その移行段階グラデーション)、境界域に位置する人々を(排除せず)認めて欲しいという主張であり、多様性(Diversity)を象徴している。

今年のグラミー賞も、アカデミー賞も多様性(Diversity)が大きなテーマとして掲げられた。これが現在、世界を取り巻く潮流である。いま欧米社会は、失ってしまった〈野生の思考〉を取り戻そうと、必死に藻掻いている。

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

Ouro

蛇は円環を形成し、始まりもなく終わりもない。過去・現在・未来は同時にここにある共時的(対義語は通時的)表象であるウロボロスはアボリジニの概念〈ドリームタイム〉と同義である。

中国では新石器時代の紅山文化(紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)にウロボロスが現れている。

Kure

これぞ正に集合的無意識(Cの世界)・〈野生の思考〉の産物と言えるだろう。

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2019年2月21日 (木)

【考察】何故、虹を詠んだ和歌は希少なのか?

神戸生まれの詩人・最果タヒの著書「千年後の百人一首」「百人一首という感情」に続いて現在、「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」を読み進めているところである。若い頃の僕は完全に理系人間だったので、自分が将来古文に親しむようになろうとは夢にも思わなかった。人生先のことは分からないものである。

そもそも百人一首に興味を持ったのは広瀬すず主演の映画「ちはやふる」三部作のおかげ。だから原作漫画を書いた末次由紀には感謝しなければならない。また「万葉集」や「古今和歌集」を読みたいと思ったのはアニメーション映画「言の葉の庭」「君の名は。」を観たことが切掛なので、ただただ新海誠監督に感謝あるのみ。映画って本当に素晴らしい。

百人一首を一通り読んで激しい違和感を覚えた。〉を詠んだ歌が一首もないのである。

7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた「万葉集」(全部で四千五百首以上ある)で〈〉を詠んだものは、次のたった一首しかない。群馬県の歌である。

伊香保〈いかほ〉ろの 八尺〈やさか〉のゐでに 立つ虹〈のじ〉の あらはろまでも さ寝をさ寝てば
(榛名山麓にある高い堤に立つ虹のように、人目につくほどあなたと共寝さえできれば、なにも悔いることはない)

これ以降は、「玉葉和歌集」に収録された藤原定家(1162-1241)の、

むら雲の 絶え間の空に 虹たちて 時雨過ぎぬる をちの山の端

あたりまで、ほぼ皆無である。なんとこの間、五百年も経過している。

〉は儚く、美しいのに、何故和歌の素材として忌避されるのか?ここにはきっと何か、重大な秘密が隠されている筈である。ぞわぞわした。その理由を探求する過程で、〈古代人の心〉つまり古来日本人の持つ無意識・深層心理が見えてくるのではないか?僕はそう考えた。

最初に立てた仮説は、「古代人はあまり虹を見る機会がなかったんじゃないか?」というものだった。雨があがり、日光が差し込んできた瞬間に虹は生まれる。狩猟民族なら虹を見る機会も多かろう。しかし日本人は農耕民族である。しかも着物だから濡れると厄介なので雨天時に出歩いたりしない。特に平安時代、和歌を読んだのはもっぱら天皇や貴族だったわけで、屋敷にこもった状態で虹に遭遇する機会など殆どなかったのではなかろうか?

しかし、どうも説得力に乏しい。もやもやした気持ちが残る。貴族だって〈野駆け〉(花見やもみじ狩りなど、山野を歩き回って遊ぶこと)をしたわけだし、天皇も〈行幸〉(外出)中に雨に降られることもあっただろう。滝にだって虹は出るし……

というわけで僕は答えを求めて、さらに調査を続けた。そして〈〉の語源を調べていて、衝撃的な事実を知った。

岩波書店の「広辞苑」ではについて次のように説明されている。

形声。「虫」(=へび)+音符「工」(=つらぬく)。にじを、空にかかる大蛇に見たててできた文字。

またWikipediaのの項には次のような説明がある。
「虹」を意味する漢字(虹、蜺、蝃、蝀)に虫偏が多く存在する点を見ても解る通り、中国語では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習が多い。

エエッ、これってアボリジニ(オーストラリアの先住民)神話にしばしば登場する虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)と全く同じ発想じゃないか!!青天の霹靂だった。

つまり古代中国人も、遠く離れたアボリジニも虹と蛇を同一視していた。正にフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースが言うところの〈野生の思考〉であり、ユング心理学における集合的無意識Collective unconscious:アニメ「コードギアス」シリーズではCの世界と呼ばれる)の産物以外の何物でもない。

「万葉集」は全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。この時代は中国文化の影響が大きく、天智(てんじ)天皇の近江朝(おうみちょう)には漢文学が隆盛をきわめた。

つまり古代日本人は、〈〉を結びつけて考える中国の概念を共有していたということになる。

古代において、蛇は禍福に強く関わっている存在だった。以下「民族大辞典」より日本各地での伝承をご紹介しよう。

「蛇が道を横切ると悪いことが起きる」(宮城県)
「蛇に道切りをされると、なにか持ち物を落とすから、蛇に道を横切られた時は三歩退け」(奈良県吉野郡)
「蛇の夢を見れば験が悪い」(三重県四日市)
「蛇の夢を見れば、よくないことが起こるから、氏神様にお参りしなければならない」(長野県)

僕が住む兵庫県宝塚市には蛇神社がある。宝塚で幼少期を過ごした手塚治虫の漫画「モンモン山が泣いているよ」にこの蛇神社が登場する。

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蛇は水を司る。全国で信仰されている水神さまは大抵、蛇や龍(または河童)を祀っている。

つまり〈虹=蛇〉は干ばつ時にという恵みをもたらすが、時には人々に牙を向き、川の氾濫など洪水を引き起こす怖ろしい神(災厄)にもなり得る。

中国の神話に登場する四神(しじん)とは四方の神、すなわち

  • 東ー青龍(せいりゅう)
  • 西ー白虎(びゃっこ)
  • 南ー朱雀(すざく):火の象徴。鳳凰。
  • 北ー玄武(げんぶ):水神。カメの甲にが巻きついた形に表す。

を指す。やはり蛇が水神を表象している。江戸時代の祭りには「四神旗」が必ずといってよいほど使われ、落語「百川」でも言及される。

だから雅(みやび)で「もののあはれ」を表現する短歌の世界に、畏れ多い存在である〈虹=蛇〉が登場しないのは当たり前なのではないだろうか?こうして僕の疑問は氷解した。

ところが明治維新以降、突如として〉は和歌の世界に立ち現れる。

明治・大正・昭和を生きた与謝野晶子(1878-1942)の歌に次のようなものがある。

小百合さく 小草がなかに 君まてば 野末にほひて 虹あらはれぬ
とき髪を 若枝にからむ 風の西よ 二尺に足らぬ うつくしき虹
わが恋は 虹にもまして 美しき いなづまとこそ 似むと願ひぬ

晶子はこの他にも多数、を詠んでいる。

また昭和生まれの俵万智には幼子を見つめる母の想いを詠んだ、次のような美しい歌がある。

一生を見とどけられぬ寂しさに振り向きながらゆく虹の橋

つまり「万葉集」から千年以上経過し、虹=蛇〉という結びつきがすっかり忘却の彼方へ追いやられてしまった。そこへ明治以降、〈虹は美しい〉という新しい概念が欧米から輸入され、人々の意識に定着し、和歌の世界にも取り込まれた。そういうことなのではないだろうか?

映画「オズの魔法使い」でジュディ・ガーランドが歌った〈虹の彼方に(Over the Rainbow)〉こそ、欧米人の虹に対する見方を代表するものである。

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2019年2月13日 (水)

春風亭一之輔 独演会@兵庫芸文

2月11日(月・祝)兵庫県立芸術文化センター中ホールへ。春風亭一之輔の落語を初めて聴く。

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  • 春風亭きいち:寄合酒
  • 春風亭一之輔:鈴ヶ森/ガマの油
  • 林家たけ平:相撲風景
  • 春風亭一之輔:百川

一之輔は現在41歳。2012年3月に真打昇進した際、〈二十一人抜きの大抜擢!〉と巷で評判になった。

開口一番、NHK大河ドラマ『いだてん』を観てますよと。古今亭志ん生を演じるビートたけしについて、「本物の志ん生師匠よりも、何喋っているんだかさっぱり分からない」と会場を沸かす。なお、志ん生は昭和36年(1961年)に脳出血で倒れ、半身不随となった。よって〈病後〉に芸風が変わった。

また立川談春原作『赤めだか』ドラマ版でビートたけしは立川談志を演じており、「いま志ん生師匠や談志師匠を演れるのは、たけしさんしかいない」とも。

テレビ『林家三平ものがたり』で三平を演じたのが山口達也、『赤めだか』では新井浩文が”立川ダンボール”という落語家に配役された。またNHKプレミアムドラマ『人生、成り行き 天才落語家・立川談志 ここにあり』では若き日の談志を小出恵介が演じた。

「だからテレビで落語家を演じた俳優は、後に警察沙汰なるという法則があるんです」と一之輔。そして盗人の噺「鈴ヶ森」へ。上手いねぇ〜。なおビートたけしも〈フライデー襲撃事件〉で逮捕歴がある。

一之輔の口跡には畳み掛けるようなリズム感があり、聴いてきて実に心地よい。なるほど、評判通り彼は天才だ。柳家喬太郎を初めて聴いたときのような、新鮮な驚きがあった。

「百川」ではマクラで〈四神旗〉の説明があった。四神(しじん)とは四方の神、すなわち

  • 東ー青龍(せいりゅう)
  • 西ー白虎(びゃっこ)
  • 南ー朱雀(すざく):火の象徴。鳳凰。
  • 北ー玄武(げんぶ):水神。カメの甲に蛇が巻きついた形に表す。

を指す。大変勉強になった。そうか、アニメ『コードギアス』の登場人物、枢木スザクとその父・枢木ゲンブの名は四神由来だったんだね。

今回の独演会で些か残念だったのは三席とも滑稽噺だったという点。一之輔の怪談噺や人情噺も聴いてみたいと、強く思った。

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