古典芸能に遊ぶ

2017年8月30日 (水)

【アフォリズムを創造する】その4「立川談志とニーチェ」

ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で初めて語られた【力への意志】とは弱い(仕える)者が強い者(主人)になりたいという意志のことである。永遠の善悪など存在しない。善悪は、自分で自分を繰り返し克服していくしかない。権力者(神/社会)が定めた道徳、善悪の基準に縛られて、自分の欲求・願いを我慢するのは愚かなことだ。自分自身で善悪を創造せよ。そのためにはまず既存の価値観を破壊しなければならない。

【力への意志】Wille zur machtという言葉はナチス・ドイツにより曲解され、悪用された。レニ・リーフェンシュタール監督が国家社会主義ドイツ労働者党の第6回全国党大会の様子を撮った余りにも有名な記録映画「意志の勝利」Triumph des Willensのタイトルも明らかに【力への意志】を意識したものだ。ツァラトゥストラは語る「俺が待っているのは、もっと高い者、もっと強い者、もっと勝利を確信した者、もっと快活な者だ」(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)。「わが闘争」を読めば判るがヒトラーは自分こそが超人だと考えていた。しかしその実態はゲルマン民族至上主義の差別者であり、戦争を引き起こし国民に犠牲を強いる単なる独裁者でしかなかった。

ナチの思想はニーチェの考えとかけ離れているが、その哲学の危うい(誤解されやすい)側面を示していることも否定出来ない。

落語とは「人間の業」を肯定する芸能だと噺家・立川談志は語った。その思想はニーチェが説く【力への意志】とほぼ同じことを言っている。落語を聴き、朗らかに笑え。それが超人への第一歩となる。笑うライオンになれ!

立川談志の著書に「現代落語論」がある。そしてその続編「あなたも落語家になれる」に、かの有名な一節が登場する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。

「人間の業」の肯定とは自分自身の欲望に素直になり、それを無理矢理抑えつけるなということである。つまり【力への意志】だ。

「ツァラトゥストラはかく語りき」でニーチェはイエス・キリストが笑わないことを非難する。よく笑い、踊り、鳥のように軽やかに飛べ!がニーチェの主張だ。

ニーチェは「神は死んだ」と言い、キリスト教を徹底批判した。彼の両親は共にプロテスタントの牧師の家系であった。フロイトに師事して精神分析家となり、後に考え方の違いから袂を分かつたユングもプロテスタント牧師の家に生まれた。さらに「神の沈黙」三部作と呼ばれる映画を撮ったスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの父もまた、牧師だった。彼らがその思想を深化させた根源には父親に対する承認欲求反発があり、それが拗(こじ)れ、暴走したものと考えられる。

ウディ・アレンも私淑するベルイマンの映画「仮面/ペルソナ」はユング心理学に基づいており、また映画冒頭にキリストのメタファーであるタランチュラが登場するが、これはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」から拝借したアイディアである(第2部「タランチュラについて」)。

息子の父親に対する承認欲求がいかに強いかは、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の映画「エデンの東」が見事に描いている。

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2017年7月14日 (金)

笑福亭鶴笑 IN ナカノシマ大学寄席「奇想天外の落語 ーあたま山 VS 理論物理学ー」

7月12日(木)大阪大学中之島センターへ。

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  • 笑福亭鶴笑:落語「あたま山」
  • 高島幸次大阪天満宮文化研究所員、大阪大学招聘教授):講演
  • 橋本幸士(大阪大学教授、理論物理学者):講義
  • 鶴笑・橋本・高島:鼎談

落語「頭山」はシュールな江戸落語である。上方では小佐田定雄が脚色し、桂枝雀が「さくらんぼ」として演じた。現在ではその弟子の雀々が受け継いでいる。また山村浩二がこれを基に短編アニメを作成し、アヌシー国際アニメーション映画祭で最高グランプリを受賞、ザグレブ・広島のアニメーション映画祭でもグランプリを受賞し三冠を達成した。米アカデミー賞にもノミネートされている。

まず司会の高島招聘教授から挨拶があり、「鶴笑師匠は奇想天外なパペット落語を演る奇人です。橋本教授は天才。二人の対決をお楽しみに」と。

鶴笑登場。師匠の笑福亭松鶴は「芸は人に教わるもんやない。盗むもんや」と言っていた。そして入門当初に習った「平林(たいらばやし)」が如何にへんてこりんな落語かを語った。

続いて枝雀のショート落語(SR)「スビバセンおじさん」から、

おじさんが大きな穴を掘っているので訊ねると、誰かがここに深い大きな穴があると言ったので、それを一生懸命探しているという。

日に一本ずつ煙突が増える工場。何の工場かと訊けば、煙突の工場でないかとの答え。

プラグをコンセントに差し込んだり抜いたりしても、電灯が点かない。「見てみ。あのおっちゃん、さっきから頭がピカッと光ったり消えたりしとるで」

などを披露。

「あたま山」はまず物語を一通り演じ、続けて森山直太朗の歌「さくら」に乗せ、サイレント(パントマイム)のパペット落語に移行した。秀逸。場内爆笑。

高島教授は【死を考える】落語として「胴斬り」「首提灯」「粗忽長屋」を挙げた。一人称の死・二人称の死・三人称の死があるが、いつも我々が体験するのは二人称の死。「されど死ぬのはいつも他人」(マルセル・デュシャン)。一方、【異国を訪ねる】落語があり、その代表格が「一眼国」「地獄八景亡者戯」「松山鏡」。江戸時代には見世物小屋で七面鏡(詳しくはこちら)が話題となっており、「松山鏡」にはその影響が伺える。そしてその源流は恐らくスウィフトの「ガリヴァー旅行記」だろう(「ガリヴァー旅行記」には日本が登場する)。また「あたま山」の原話は吉田兼好「徒然草」〜”堀池の僧正”のエピソードではないかと。

橋本教授はサンダル履き、半袖半ズボン姿で登場。「これが理論物理学者の普通の恰好です」と。全宇宙は17の素粒子のみで構成されていると説明し、「宇宙を支配する数式」を示した。

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音も素粒子で構成されているという。

続いて「物理学の手法」を解説。

  1. 問題の抽出
  2. 定義の明確化
  3. 理論による演繹

「頭山」の場合、1.自分の頭の上に出来た池に溺れるとはどういう状況か? 2.「溺れる」の定義は頭の周囲が水に覆われる状態である。3.重力が下向きに作用するという状態が、問題解決を困難にしている。→ならば、「宇宙に逃げた」ならどうか?無重力なら水は球体になる。→数式により顔の表面が1cm幅ですっぽり水に覆われた状態になり得る。Q.E.D.証明終了。

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座談会ではまず平田オリザ作「素粒子の世界」という落語があることが話題に。そして鶴笑の「パペット落語」が生まれた背景について司会者から質問あり。落語ブームが到来するまで(「タイガー&ドラゴン」「ちりとてちん」放送以前)は落語会に来る客が5−6人なんてことはザラだった。吉本興業に所属する鶴笑は「心斎橋筋2丁目劇場」(1986年開業 - 99年閉館)に出演していた。ダウンタウンの絶頂期だった。マネージャーから「落語はいらんねん」と言われた。自分がステージに上がると客はトイレ休憩するために出ていった。そんな中で格闘しながら思いついたのが人形を使うことだった。「膝小僧」という言葉もあるし、膝も活用しよう。そして現在、「パペット落語」のネタは30に達した。イラクやアフガニスタンの難民キャンプでも公演した。「笑いは世界の共通語」。しかし、人が安心しないと笑いは生まれない。機関銃を持った兵士に守られている場所ではなかなか難しいなどといったことを語った。

ここで司会者が呼びかけ、会場で聴いていた精神科医のMr.X(事情があって名は明かせない)が加わった。「粗忽長屋」などは統合失調症の患者に典型的な自我障害であると。「私を飛び越える」行為と言える。理論物理学者を見ていると、そういう自我からポーンと遠くに飛び越えることを普段からやっているのではないか?しかし学者は自在に元の場所に戻ってこれる。患者はコントロールが効かない(戻れない)。そこに違いがあるのだろうと。橋本教授は「そういえば理論物理学者は車の運転をしちゃいけないと言われています」と答えた。ふと我に返ると赤信号を通り過ぎちゃったということがあるそう。

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最後に。 橋本教授が着ているのは【反り牛=そりゅうし】Tシャツだって!

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2017年6月30日 (金)

柳家喬太郎独演会@兵庫芸文

6月18日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

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  • 柳家やなぎ:青春ナイン(やなぎ 作)
  • 柳家喬太郎:そば清
  • 林家二楽:紙切り
  • 柳家喬太郎:孫、帰る。(喬太郎 作)

「青春ナイン」はサゲが判り難い。あと将棋の知識がないとチンプンカンプン。新作の出来としてはそこそこ。

喬太郎は前日に兵庫県加東市の落語会に出演したそう。夜、一座で飲みに行こうと思ったら「つぼ八」しかなかったと。

映画「スプリング、ハズ、カム」に出演した。広島に住むタクシー運転手の役で、この春に東京の大学に行く娘のために上京し、部屋探しをする。その娘を演じるのはE-girlsの石井杏奈(映画「ソロモンの偽証」にも出演)。兵庫県では7月に上映される。題名は「春が来た」なのに。

広島弁が厄介だったと喬太郎は「仁義なき戦い」の菅原文太を真似て場内爆笑。「どうしてよりによって広島なんですか?」と監督に尋ねると、長距離バスで上京出来るギリギリの線を狙ったという。所要時間約12時間。大阪ー東京だと近すぎる。九州からだと流石に新幹線か飛行機を使うだろう。広島ー東京の往復にバスを使わざるを得ないという経済状況に観客は悲哀を感じるだろうという回答だった。

たまに役者をして困るのは「通常、ひとりで喋っていますから人と会話が出来ない。相手が喋っている時にどうリアクションすれば良いのか解らない。あと上半身で仕事をしていますから、下半身の芝居が出来ない」

続いて秋田市のフードコート(@フォンテAKITA)に「おしゃれそば」なるものがあると紹介。チャーシューとメンマ(支那竹)が入っているそう。こちらでその写真を発見。また柳家喜多八と青森に巡業に行った時、落語会会場近くのラーメン屋にふらりと入ると、味噌ラーメン/カレーラーメン/牛乳ラーメン/バターラーメンとメニューにあった。喜多八が「大将、お勧めは?」と尋ねると「全部入り」と。結局3人で【味噌カレー牛乳ラーメン バターのせ】を食べた。スープが「ウルトラQ」のオープニングみたいだった(あるいは洗濯機を上から見た図/EXILEが"ChooChooTRAIN"で演る、ぐるぐるダンス)。

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ところが、「これが食べたら美味かったんです!」

帰宅して調べてみると、何と!Wikipediaにも【味噌カレー牛乳ラーメン】が載っている。青森県青森市のB級グルメとある。1978年に誕生したそうで歴史がある。カップラーメンも発売されているようだ。

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「そば清」は上方の「蛇含草」を江戸に移植したもの。以前、喬太郎の師匠・さん喬でも聴いたことがある。

あくまで上品なさん喬に対し、喬太郎は全く異なるアプローチでコミカル。そばを食べる仕草(=アクションと言ってもいい)がダイナミックで可笑しい。

紙切りはOHP(Overhead projector)を使い、「桃太郎」を手始めに会場からリクエストを募り、「横綱(土俵入り)」「紫陽花」「パンダ」を切った。

そして喬太郎が再び登場。夏休みに祖父母の家に遊びに行ったら「東宝チャンピオンまつり」に連れて行ってくれた時の想い出を語った(これに対抗して「東映まんがまつり」もあった)。トリはゴジラ。悪いゴジラではなく、良い方のゴジラ。そしてネタ「孫、帰る。」へ。非常にトリッキーな噺で、井上ひさしの戯曲「父と暮せば」(後に宮沢りえ、原田芳雄主演で黒木和雄監督が映画化)を彷彿とさせた。満足、満足。

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2017年4月18日 (火)

笑福亭鶴瓶落語会@兵庫芸文

4月15日(土)兵庫県立芸術文化センター中ホールへ。

  • 笑福亭瓶吾:看板の一
  • 柳家喬太郎:紙入れ
  • 笑福亭鶴瓶:死神(リニューアル版)
  • 笑福亭鶴瓶:妾馬(八五郎出世)

2年前にこの会に掛けられたネタ「山名屋浦里」は後に歌舞伎になり、東京歌舞伎座で上演された。

鶴瓶の弟子・瓶吾は現在53歳とのことで(入門は平成元年)、そんな年にもなって前座を務めてていて暮らしていけるのかな?と余計な心配をした(娘がいるそう)。

喬太郎の「紙入れ」は過去に2回聴いている。

鶴瓶の「死神」はリニューアル前も聴いているが、面白くなったようには感じなかった。三遊亭円朝のオリジナルでは爺さんの死神を鶴瓶版は若い女に変えているのだが、そもそもこの改変自体が効果的とは思えない。今回のリニューアルで「無意識」という言葉が繰り返されたのにも違和感を覚えた。確かに「死神」はユング心理学で言うところの無意識の噺だが、古典落語にこの語彙が飛び出すのはどうも……。

「八五郎出世」が「妾馬(めかうま)」と呼ばれるのは、噺の後半部で分かるのだが、現在後半が演じられることはほぼない。鶴瓶版も同様。で「死神」はいまいちだったけれど、家族の噺だからと鶴瓶が今回ネタおろしした「妾馬」は良かった。

僕は江戸落語が大嫌いだし(喬太郎は除く)、「妾馬」も気に入らない。あの人情の押し売りが我慢ならない。ところが鶴瓶版は滑稽噺に軸が傾いており、お涙頂戴があまりなかった。酔っ払い芸は笑福亭一門のお家芸だし、侍に取り立てようとするお殿様の申し出を八五郎がきっぱり断る最後は溜飲が下がった。そう来なくっちゃ!

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2016年12月28日 (水)

桂文三 三番勝負 ー其の壱ー 柳家喬太郎の巻

12月27日(火)天満天神繁昌亭へ。

  • 桂三語:手水廻し
  • 桂文三:時うどん
  • 柳家喬太郎:ウルトラ仲蔵
     中入
  • 桂文三:三枚起請

約5割が女性客。

「時うどん」は文三の鉄板ネタで、声が高い喜六がとにかく陽気。後うどんを食べる時の擬音が上手い。

喬太郎は登場するやいなや、「今日の髪型、ドナルド・トランプに似てるでしょ?」で場内爆笑。文三からのリクエストという「ウルトラ仲蔵」はハードルの高い新作落語。江戸の人情噺「中村仲蔵」をベースに、ウルトラ兄弟やウルトラの怪獣たちで描く。上方の客は「中村仲蔵」を知らない人が多いし、ウルトラマンを観たことがない人にはチンプンカンプンでイメージすら湧かないだろう。僕は幸い、5歳の息子と一緒に「ウルトラQ」「(初代)ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」を全話レンタルDVDで観ていたので、十分愉しめた。

ケムール人やバルタン星人、大阪城を破壊したゴモラなどが暴れまわる。ウルトラマンキングには鼻がないという小ネタあり。喬太郎のDVD「ウルトラマン落語」にも収録されていないので、これは貴重な体験だった。

そもそもウルトラマンが大好きで意気投合した喬太郎と文三。新春の新聞に文三は「ウルトラマニア芸人」として登場するそう。

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2016年9月29日 (木)

白鳥・三三 両極端の会 in ひょうご 「兄さん、まさかの第2回目ですよ!」

9月18日(日)兵庫県立芸術文化センター中ホールへ。

  • 三三・白鳥:ごあいさつ
  • 柳家三三:看板のピン
  • 三遊亭白鳥:牡丹の怪(白鳥作)
  • 三遊亭白鳥:アジアそば(白鳥作)
  • 柳家三三:任侠流山動物園(白鳥作)

2014年に開催された第1回目の感想はこちら

白鳥は古今亭志ん朝と桂枝雀が出演した落語会で前座を務めた想い出話などを語った。

「牡丹の怪」は三遊亭圓朝の怪談噺「牡丹燈籠」のパロディ。売れない落語家・ミミちゃんが登場するが、勿論三三の字を傾けたという趣向。上出来。

「任侠流山動物園」は「清水次郎長伝」のパロディで、僕は柳家喬太郎で3回聴いたことがあるネタ。三三は喬太郎とはまた違った味がある。クライマックスではやおら釈台を取り出し、講釈の名調子で一気に駆け抜けた。お見事!

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2016年8月25日 (木)

後世に多大な影響を与えた映画〜イングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」からミュージカル「エリザベート」へ

後世に多大な影響を与えた(追随者/信奉者を産んだ)映画がある。例えば1932年にアカデミー作品賞を受賞した映画から名付けられた「グランド・ホテル」形式は後の「ポセイドン・アドベンチャー」「タワーリング・インフェルノ」「大空港」「有頂天ホテル」「さよなら歌舞伎町」を産んだし、オーソン・ウェルズ「市民ケーン」(デヴィッド・フィンチャー「ソーシャル・ネットワーク」は21世紀の「市民ケーン」だ)、ウォルト・ディズニー「ピノキオ」(→スティーブン・スピルバーグ「未知との遭遇」「A.I.」)、ウォルト・ディズニー「ファンタジア」(スティーブン・スピルバーグ「ジュラシック・パーク」、コリン・トレボロウ「ジュラシック・ワールド」、ティム・バートン「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」)、黒澤明「七人の侍」「隠し砦の三悪人」「用心棒」(ジョン・スタージェス「荒野の七人」、ジョージ・ルーカス「スター・ウォーズ」、セルジオ・レオーネ「荒野の用心棒」、ジョン・ミリアス「風とライオン」、ウォルター・ヒル「ラスト・マン・スタンディング」、ピーター・ジャクソン「ロード・オブ・ザ・リング/2つの塔」)、黒澤明「天国と地獄」のパートカラー(スティーヴン・スピルバーグ「シンドラーのリスト」、アカデミー短編アニメーション映画賞を受賞したディズニーの「紙ひこうき」)、ビリー・ワイルダー「サンセット大通り」(デヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」、サム・メンデス「アメリカン・ビューティ」)、ビリー・ワイルダー「アパートの鍵貸します」(三谷幸喜脚本「今夜、宇宙の片隅で」、マーティン・スコセッシ「ウルフ・オブ・ウォールストリート」、ディズニー短編アニメ「紙ひこうき」)、スタンリー・ドーネン「恋愛準決勝戦」(スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」、デヴィッド・クローネンバーグ「ザ・フライ」、スティーヴン・スピルバーグ製作・原作・脚本「ポルターガイスト」)、アルフレッド・ヒッチコック「めまい」(ブライアン・デ・パルマ「愛のメモリー」、デヴィッド・フィンチャー「ゴーン・ガール」、大林宣彦「はるか、ノスタルジィ」)、スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」(庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」、ピクサー・アニメ「ウォーリー」、クリストファー・ノーラン「インターステラー」ほか多数)、ジョン・ランディス「サボテン・ブラザース」(三谷幸喜脚本「合い言葉は勇気」、本広克行「踊る大捜査線」シリーズ)、大林宣彦「時をかける少女」(本広克行「幕が上がる」、細田守「時をかける少女」)、大林宣彦「HOUSE ハウス」(三木孝浩「陽だまりの彼女」、高橋栄樹【AKB48 MV】「永遠プレッシャー」)等が代表例だろう。

スウェーデンのイングマール・ベルイマン監督「仮面/ペルソナ」(1966)もそんな映画だ。長らく観ることが難しい作品だったが昨年HDリマスター版DVDが発売され、現在はTSUTAYA DISCASで借りることも可能となった。

Persona

舞台(古代ギリシャの仮面劇「エレクトラ」)出演中に失語症に陥った女優と、海に臨む島の別荘(サマーハウス)で彼女の治療のために共同生活を送る看護師の物語である。やがてふたりの人格は融合し始める。これは片方がもう一方のドッペルゲンガー(分身/二重身/自己像幻視)であるという解釈も可能だ。では女優と看護師のどちらが本体でどちらが分身かというのが問題になってくるが、看護師の名前がアルマであることから正解が判る。"alma"とは「魂」の意味で、ラテン語ではアニマ(女性名詞)/アニムス(男性名詞)となる。

キリスト教的価値観/倫理観(蜘蛛の糸=神が支配する手)に絡め取られ、失語症に陥った女優は自分の性的願望を抑制し、欲しくもない子供を堕胎することすら叶わなかった。一方、彼女の心の深層に形成された(=生きられなかった反面)であるアルマは奔放な女で、堕胎も厭わない。そして最終的に両者は同一化することに成功し、新たな自己を形成する。因みにベルイマンの父親は牧師であり、その厳格で冷たい人間性に反発した彼は「神の沈黙」三部作を撮った。

実はアニマアニムスはユング心理学の用語である。ペルソナ(仮面)もユングが用いた言葉で、私達は1人の人間でも実に様々な「顔」を持っている。会社での「顔」、家族と接するときの「顔」、幼なじみと酒を飲み交わす時の「顔」。その場その場に応じて別の「仮面」を付け、「役割を演じている」のである。僕が強く印象に残っているのは、上方落語の「爆笑王」こと故・桂枝雀が、よく「本来私は陰気な性格で、舞台では”笑いの仮面”を付けているのです」と語っていたことだ。

「難解」と言われるベルイマン映画だが、ユング心理学を抑えておくと理解し易い。興味がある方には臨床心理学者・河合隼雄の著書「無意識の構造(影/ペルソナ/アニマ/アニムスについての解説あり)」「コンプレックス(ドッペルゲンガーについて言及あり)」「昔話の深層」などを読まれることをお勧めしたい。平易な文章で書かれており、すらすら読める。

またシナリオ段階でベルイマンは「映画」というタイトルを考えていたという。全篇喋り通しのアルマは自己を語るベルイマン=映画であり、黙ってそれを聴く舞台女優=スクリーンを見つめる観客、と見立てることも可能だろう。つまり映画を観るという行為は、新たな仮面を得ることに等しいというわけだ。

本作はブラッド・ピット主演、デヴィッド・フィンチャー監督「ファイトクラブ」(1999)に多大な影響を与えた。物語の構造自体もそうだし、「ファイトクラブ」のラストシーンで勃起したペニスの映像がサブリミナル効果として挿入されるのは「仮面/ペルソナ」冒頭部の再現である。

また、デヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」(2001)は明らかに「サンセット大通り」と「仮面/ペルソナ」を足して2で割ったようなものだ。ちなみにマルホランド・ドライブもサンセット・ブルーバードもロサンゼルスを並走する道路の名称である。

ウディ・アレン「私の中のもうひとりの私」(1988)はベルイマンに私淑する彼なりの「仮面/ペルソナ」であり、ご丁寧に同作の撮影監督スヴェン・ニクヴィストをスウェーデンから呼び寄せている。ダーレン・アロノフスキー「ブラック・スワン」(2010)にも本作が濃い影を落としている。

「仮面/ペルソナ」最初の6分間は非常にアヴァンギャルド(前衛的)なモンタージュが続く。1960年代はポップ・カルチャー、アンダーグラウンド映画が花盛りで、その気分を見事に反映している。フィルムが燃えるショットなどは後の大林映画「HOUSE ハウス」等に影響を与えたのではないかと推察される。

また本作の舞台女優と息子の、絆が「切れた」関係はウィーン・ミュージカル「エリザベート」のシシィとルドルフそっくりだなと想った。オマケに女優の名前はエリザベートだし。そこでハッとした。ミュージカルの作詞・台本を手掛けたミヒャエル・クンツェが「仮面/ペルソナ」を強く意識しているのは間違いない。やはりクンツェが台本を書いたミュージカル「モーツァルト!」には主人公ヴォルフガングとその分身アマデが登場する。アマデはドッペルゲンガーであり、「を逃れて」というナンバーもある。アマデがヴォルフガングの腕にペン先を刺して、そので譜面を書く場面が第1幕フィナーレだが、これも「仮面/ペルソナ」でエリザベートがアルマの腕から流れるに吸い付く場面(女吸血鬼を描くロジェ・バディム「とバラ」を彷彿とさせる)に呼応する。

「仮面/ペルソナ」ほど影響力を持った映画は滅多にない。未見の方は是非一度、ご覧になることをお勧めしたい。

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2016年7月17日 (日)

祝!ウルトラマン放送開始50年

初代「ウルトラマン」の放送がTBSで始まったのは1966年(昭和41年)7月17日のことだった。つまり今日でちょうど50年である。

僕は「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」(1967)、「帰ってきたウルトラマン」(1971)、「ウルトラマンタロウ」(1973)の主題歌を歌えるのだが、話の内容は全く覚えていない。怪獣の名前も言えない。年齢的にリアルタイムで体験しているとは考え難く、恐らく幼年期に夕方の再放送を観ていたのだと思われる。

小学校3-4年生の頃にはすっかり卒業して、その後は無縁の暮らしをしていた。再び興味を持ったのは10年前に関西に引っ越してきて、落語を聴くようになってからである。噺家の桂文三が熱烈なウルトラマン・ファンで、マクラでよくその話をした。東京から来演した柳家喬太郎も出囃子で「ウルトラQ」を使ったり、ウルトラマンの怪獣を登場させる「抜けガヴァドン」(古典「抜け雀」のパスティーシュ)を高座に掛けたりした。この噺を初めて聴いたのが2015年だが、その時はガヴァドンという名前すら知らなかった。

僕の息子は現在5歳だが、3歳頃から恐竜やウルトラマンの怪獣が好きになりフィギュアを集め始めた(僕自身は親に買って貰ったことがない)。そこでTSUTAYA DISCUSでDVDをレンタルし、「ウルトラマン」全39話と「ウルトラセブン」全49話を息子と一緒に観た(ただし佐々木守脚本、実相寺昭雄監督のセブン第12話「遊星より愛をこめて」はある事情により欠番になっている。画質は悪いが幾つかの動画サイトで試聴可能)。現在は「帰ってきたウルトラマン」を途中まで観ているところである。

元祖「ウルトラマン」のシリーズ中、突出して面白いのは佐々木守脚本、実相寺昭雄監督の回である。ファン投票でトップの人気を誇る「故郷は地球」や、ガヴァドンが登場する「恐怖の宇宙線」もそう。このコンビによる「怪奇大作戦 京都買います」はテレビドラマ史上最高傑作だと信じて疑わないのだが、どうしてなかなかウルトラマンも負けてはいない。

佐々木脚本が傑出しているのは価値観の反転を行っていることにある。ガヴァドンは子どもたちの描いた画が宇宙線を浴びて実体化した怪獣であり、彼等はウルトラマンに「ガヴァドンを殺さないで!」と懇願する。つまりウルトラマン&科学特捜隊は【子どもたちの想像力を踏みにじる大人たち】に成り下がり、どちらが正義でどちらが悪かこんがらがってくるのである。父性原理で「断ち切る」性質を持つ欧米人(キリスト教徒&ユダヤ教徒)の思想は光と闇、天国と地獄、天使と悪魔に分ける二元論がその根幹を成している。しかし「世界はそんな単純な二元論で割り切れるものではない」という立場に立つのが我々日本人なのだ。考えてみればゴジラ(Godzilla)も人間にとっての敵であると同時に、台風や津波、地震など自然災害にも似た「荒ぶる」であり、水爆実験による「被害者」でもある。その多義性に魅力の本質がある。

「故郷は地球」(2016年8月21日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)に登場するジャミラも宇宙にひとりぼっちで取り残された宇宙飛行士の成れの果ての姿だ(映画「オデッセイ」のマット・デイモンと同じ)。彼は本当に退治すべき「悪」なのだろうか?それとも……。

「怪獣墓場」では科学特捜隊が今まで倒した怪獣たちを弔うために戒名をつけ、坊さんを呼んでお経を唱える怪獣供養が行われる。そのユニークな発想にびっくりした。そして怪獣墓場から落っこちてくる亡霊怪獣シーボーズ(←坊主?)は空を見上げて泣き叫ぶばかりで破壊行動もせず、もののあはれを感じさせる。余談だが怪獣墓場をもじった怪獣酒場が神奈川県川崎市にあり、大阪・難波にも元祖怪獣酒場があった。後者は惜しまれつつ閉店したのだが。

実相寺監督独特の凝りに凝った構図も見どころのひとつである。

また第一期を企画立案し、メインの脚本家として活躍したのが金城哲夫(きんじょうてつお)。沖縄県出身である。「ウルトラセブン」や「帰ってきたウルトラマン」の多くを執筆した上原正三も沖縄県出身である。彼等は幼少期に凄絶な沖縄戦を体験し、その後アメリカ合衆国に統治された故郷を憂えた。沖縄が返還されたのは1972年、「帰ってきたウルトラマン」放送終了後のことである。そもそも琉球王国は1609年に薩摩藩に征服され付庸国となり、明治維新の時に沖縄県として再編された。つまり彼等にとっては日本人も侵略者なのである。そういう屈折した複雑な想いがシリーズに込められている。

今回初めて「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」の明確なコンセプトの違いを知った。マンが戦う相手は怪獣だが、セブンの敵は宇宙人。つまり後者はSF要素が色濃い。セブンにはウルトラホーク1号から3号までのメカの魅力も加味され、ウルトラ警備隊の専用車「ポインター」のデザインも格好いい。また主人公がマンに変身すると必ず巨大化するが、セブンは①人間と等身大のまま、②巨大化するという2段階のプロセスが有る。

「ウルトラセブン」になると佐々木守が2本しか執筆していないのが哀しい。しかもうち1本(「遊星より愛をこめて」)は永久欠番だし。セブンの最高傑作は金城哲夫脚本、実相寺昭雄監督「狙われた街」(2016年8月28日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)であることは論を俟たないだろう。卓袱台を挟んでウルトラマンとメトロン星人が対峙するのは史上屈指の名場面である(これぞ昭和!)。また上原正三脚本、実相寺明雄監督「第四惑星の悪夢」は後の映像作家たちに多大な影響を与えた。例えばアニメ「宇宙戦艦ヤマト 2199」の第14話「魔女はささやく」は「第四惑星の悪夢」への熱烈なラヴ・レターである。

セブンに参加した新しい才能で特筆すべきは「快獣ブースカ」で脚本家デビューを果たした市川森一である。「盗まれたウルトラ・アイ」は詩的かつ叙情的な逸品だ。市川は後にTBSの金曜ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」で第1回向田邦子賞を受賞する。また市川が執筆したNHK大河ドラマ「黄金の日日」は三谷幸喜のお気に入りで、松本幸四郎演じる主人公・呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)は本日放送される「真田丸」にも特別出演する運びとなった。

あとセブンで注目すべきはアンヌ隊員(菱見百合子)のエロさである。この役は映画出演決定を理由に降板した豊浦美子の代役として急遽決まったため、コスチュームのサイズが合わず体にぴったりとフィットしたものになったという。市川森一や評論家・森永卓郎らが「アンヌは初恋の人」と告白している。また落語家・立川談志も写真集「アンヌへの手紙」に寄稿している。

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「ウルトラセブン」はモロボシ・ダンとアンヌの悲恋物語として観ることも出来る。最終話(2016年9月11日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)でシューマンのピアノ協奏曲が流れる趣向はとてもロマンティックで、胸がキュン!とする。一方、「ウルトラマン」の紅一点、フジ・アキコ隊員(桜井浩子)はお色気ゼロだ。

金城哲夫は1969年に円谷プロを退社し沖縄に帰った。「帰ってきたウルトラマン」では第11話のみ脚本を執筆している。佐々木守は完全に撤退し、実相寺昭雄は第28話のみ監督した。その代わり初代「ゴジラ」の名匠・本多猪四郎が第1話・最終話など全5話を監督していることが「帰ってきた」の白眉である。

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2016年7月13日 (水)

上方落語(関西)と江戸落語(関東)の比較文化論〜その深層心理を紐解く

落語は江戸時代前期・元禄に露の五郎兵衛京都の四条河原町や北野などの大道で活躍した「辻噺」に端を発する。少し遅れて大阪・生玉神社の境内で米沢彦八が辻噺を行った。上方では今も毎年9月初旬に生玉神社で「彦八まつり」が開催されている。大道芸から始まったので行き交う人々の注意を惹くために使われた小拍子見台、そして膝隠しが上方落語の特徴になっている。

それからしばらくして江戸では酒宴など様々な屋敷に招かれて芸を披露する「座敷噺」が人気となる。座敷芸なので人寄せのための小拍子や見台は必要とせず、座布団一枚に噺家が正座するだけのシンプルなスタイルとなった。上方の方がレパートリーが豊富なので沢山のネタを噺家が江戸に持ち帰り、改変を施した。現在、東京で演じられる落語のネタのうち約7割が上方由来だと言われる

そこで上方落語が江戸に移植された際、どのようなアレンジが施されたか、また江戸で生まれたオリジナル落語の特徴は何かを探っていけば、関西人と関東人の気質・文化的背景の違いが見えてくるのである。

その1【うどん vs. そば】

上方落語にはうどんネタが多い。「時うどん」「かぜうどん」「親子酒」が代表例である。これが江戸に移るとそばネタに変化する(「時そば」など)。また腹いっぱいもちを食べるという上方落語「蛇含草」が、お江戸では「そば清」になる。逆に上方落語にそばは一切出てこない。ここで興味深いのは関西で「うどん」と言えば汁のある「かけうどん」を意味し、江戸落語の「そば」は「ざるそば」である。

関西に住むようになって10年が経過したが、つくづく感じるのはここは出汁(だし)文化だということ。出汁に手間暇をかけている。玉子焼きも関西では出汁巻き玉子を指す。僕は香川県高松市に2年半ほど住んでいたことがあるのだが、さぬきうどんはコシが命である。しかし大阪のうどんは違う。柔らかい麺自体にそれほど魅力はなく、むしろ重要なのは出汁。例えば道頓堀今井という名店の名物はきつねうどんだが、兎に角、油揚げから滲み出した汁(つゆ)の味が絶品なのだ。難波千日前「千とせ」の名物「肉吸い」は吉本新喜劇の花紀京が二日酔いで現れて、「肉うどん、うどん抜きで」と注文したのが切っ掛けで生まれたものである。うどんは二の次なのだ。

秋田県に旅行した時に驚いたのは、あちらでは全く出汁を取らないこと。昭和初期までの東北は貧しく、飢饉の年は餓死するものが沢山いた。出汁を取った魚介類は捨ててしまう。だからそんな勿体ないことは出来ない。関西の食文化が如何に豊かであったかということを実感させられた。うどんが東に移行するとそばになることには、これだけ深い意味があるのである。

その2【商家 vs. 武家】

江戸時代の上方は商人文化が栄えた。鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)が豪商の代表格で、落語「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にその名前が登場する。一方、参勤交代で地方の大名が集まる江戸は武家社会を形成した。上方落語には商家を舞台にした作品が多い。裕福な商人の若旦那=極道/ドラ息子という図式が典型的。しかし武士はほぼ不在、殿様に至ると皆無と言っていい。

桂枝雀が演じた「胴斬り」には新刀の試し切りする辻斬りが登場するが、一瞬の内に通り過ぎてしまい台詞もない。「桜の宮」にも武士が登場するがこれは江戸落語「花見の仇討」を上方に移植したもの。生粋の上方噺に武士が出てくるのは「禁酒関所」「宿屋仇」くらいかな。「茶瓶ねずり(薬缶なめ/癪の合薬)」は江戸に伝わった後に改変された可能性があり、原話も武家のハゲ頭を舐める噺だったか疑わしい(あと奉行所が舞台となるお裁きもの「佐々木裁き」「鹿政談」←元は講談ネタ「天狗裁き」「次の御用日」があるが、彼らの役割は侍ではなく裁判官である)。一方、江戸落語は「目黒のさんま」「妾馬(八五郎出世)」「盃の殿様」「将棋の殿様」「そばの殿様」「粗忽の使者」「紀州」「三味線栗毛(錦木検校)」「火焔太鼓」「竹の水仙」「高田馬場」「館林」「棒鱈」「井戸の茶碗」など武士・殿様が登場する噺が多数。「たがや」は庶民の侍に対する憎しみ(敵対心)が滲みだす強烈な噺だ。

その3【滑稽噺 vs. 人情噺】

基本的に上方落語は落とし噺であり、江戸のような人情噺がないと言って良い。「立ち切れ線香」を人情噺と明言しているプロの噺家もいるが、それは明らかな間違いである。桂米朝は著書「落語と私」(文春文庫)の中で、講談における「世話物」を(講談のような)説明口調ではなく、(落語家が)感情を込めて喋るものと人情噺を定義し、人情噺にはサゲがないと書いている(代表的演目「文七元結」「紺屋高尾」「しじみ売り」など)。よって立派なサゲがある「芝浜」や「たちきり(たちぎれ)」は人情噺ではないというのが彼の見解である。唯一の例外が「鬼あざみ」かな(講談ネタ)。「上方では浄瑠璃が確固たる地位を築いていたので、落語が人情噺を受け持つ必然性が薄かったからだろう」と米朝は述べている。

「落語DE枝雀」(ちくま文庫)の《情は情でも落語の情は》という章より桂枝雀と落語作家・小佐田定雄との対談を引用する。

枝雀 なんぼ「情」が結構やちゅうてもおしつけがましなったらいけまへん。おしつけがましい「情」てなもん、私らの最もかなわんもんでっさかいね。

小佐田 演者に先に泣かれてしまうと私らみたいなヘソ曲がりの客は「オッサン、なに泣いとんねん」てなもんで、 かえってサーッと醒めてしまいますねんな。ことに落語なんかで「泣き」を入れられると、「わかったわかった。もうええもうええ」てな気ィになってしまいますな。(中略)一般に「情」とか「人情」とかいうと、つい「お涙頂戴」的なものを思いうかべてしまうんですが、それとは正反対の「薄情な情」こそが上々のものであるというのが我々の結論ですかね。

次にサゲの有無とは別の視点から、人情噺とは何かを考察してみたい。

ユング心理学の権威・河合隼雄はその著書「昔話と日本人の心」「母性社会日本の病理」「コンプレックス」「無意識の構造」等において、欧米人と日本人の自我・自己のあり方の違いについて論じている。

幼児期の人の心は意識と無意識をが一体となった混沌(カオス)の状態にある。成長とともに光と闇、天と地、太陽と月、男と女などを区別するようになる。この「分類する」という行為が人間固有の知性の萌芽であり、意識と無意識が分離される。やがて意識の中に自我が形成され始める。一方、無意識の中には元型としてのグレートマザー(太母)が存在する。これは「無条件の愛を与え、慈しみ守ってくれる」母親(=聖母マリア、観音菩薩)の像であると同時に、「束縛する」「飲み込んでしまう」という恐ろしいイメージ(=魔女、山姥)をも内包している。欧米人(キリスト教徒)は成人するまでに心の中での「父親殺し」「母親殺し」を実行し、意識を無意識から完全に切り離して強い自我を確立する。ここで言う「母親」とはグレートマザーのことであり、「父親」とは文化的社会的規範を指し、切断する機能を持つ(ロックンロールの真髄も既成の価値観の破壊、大人への叛逆にある)。彼らは血による関係を強烈に否定する。しかし、わが国の男子は「母親殺し」が出来ず、グレートマザーの強力な作用を受け、それとの一体感を支えとして生きている(母性の優位性)。日本人の場合、意識と無意識は明確に区別されていない。

父性(切断)原理が優勢な欧米人は個の倫理で生き、他者との違いを明確にし、契約で結びつく(神との関係も契約である)。しかし日本人の場合は【なーなー】的横のつながり、なし崩し的一体感を重視し、場(コミュニティ)の倫理で動く。一旦そこに形成された場の平衡(母のぬくもり)を保つことに腐心するのである。それは学校の同級生だったり、ママ友や会社の同僚、政界の派閥だったりする。幼稚園や小学校のかけっこで順位を付けないというのは、真に日本人的(集団内での能力の差を認めない横並びの)発想である。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」というビートたけしのギャクは言い得て妙だ。そこでは母性の本能である清濁併せ呑むという機能が働く。逆にヨーロッパの小学校では留年や飛び級が当たり前で、フランスの初等教育をストレートで卒業できる生徒はごく僅かに過ぎない。また日本人は自分たちのに属していないと見做す者達に対して、時に残酷になり、暴走することもある。村八分、学校のいじめ、連合赤軍のリンチ殺人、オウム真理教による地下鉄サリン事件などがそれに該当する。そして我々には契約という観念が乏しく、責任の所在も曖昧である(一億総無責任社会)。

話を落語に戻そう。「人情噺」とは場の平衡を保とうとする心情である、というのが僕の解釈である。場(コミュニティ)とは親兄弟ら家族であり、大家と店子、大工など職人の徒弟制度、武家という組織だったりもする。「忠臣蔵」の赤穂浪士で判る通り、浅野内匠頭が刃傷におよぶと浅野家は断絶・お取り潰しとなり、召し抱えられていた武士たちは一人残らず身分を剥奪され、浪人となった。つまり武家とは集団責任を問われる社会であり、十把一絡げ=場の倫理で動いているのである。その場では尊重されない(出る杭は打たれる)。

親子に通うのは人情だが、結婚前の男女の恋愛は独立した自我と自我が結合しようとする作用であり、人情ではない。「ロミオとジュリエット」のことを人情噺とは言わないでしょ?だから「立ち切れ線香」も違う。しかし結婚すればコミュニティ(一蓮托生の運命共同体)を形成するので夫婦愛は人情に変化を遂げる。

落語「子は鎹」は喧嘩別れした夫婦が、息子を鎹(かすがい)として再結合する。つまり、壊れかかった(コミュニティ)が子供の力で修復される(平衡状態に戻る)噺だ。「妾馬(八五郎出世)」で主人公の妹は大名に気に入られ、側室として招かれる。つまり八五郎は彼の才覚とは無関係に、家族のおかげ=場の倫理で出世するのだ。これが江戸落語の特徴である。

しかし、上方落語に兄弟姉妹が登場することはない。つまり関西人は場の倫理で行動しない。例えば「寝床」や「口入屋」、「百年目」、芝居噺「蛸芝居」で描かれる商家の人々は各々、好き勝手に生きている。番頭も丁稚も親旦さんの言いなりにはならない。彼らのは確立しており、「御家のために」という発想がない。つまり横の連携が「切れている」のだ。「親子酒」に登場する父と息子も酔っ払って互いを罵倒するばかりで、親子の情は繋がっていない。

上方唯一の人情噺と言われる「鬼あざみ」も内容をよく検討すると父は息子に対して「切断」を実行している。一旦は包丁で我が子を刺そうとし、思い直して奉公に出す。十年後に帰郷した息子は盗賊の頭になっていた。桂吉朝最後の高座となった「弱法師(よろぼし、別名「菜刀【ながたん】息子」)も人情噺に聴こえるが、やはり父親は息子を勘当しており「切れている」。お江戸の人情噺とは明らかに一線を画しているのである。ここに商人気質、関西人の心意気が窺い知れよう。

僕は常々、関西人の乾いた笑いのセンスはフランス人に近いと思っていた。明石家さんま(師匠は落語家・笑福亭松之助)がフランス産コメディ映画「奇人たちの晩餐会」の舞台版を演じたのは決して偶然ではない。両者には通底するものが間違いなくある。

僕はジトッと湿った江戸落語が大嫌いだ。ただし例外はあって、三遊亭圓朝と柳家喬太郎の創作落語には凄みを感じる。彼らに匹敵する作家は中々見当たらない。

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2016年7月 6日 (水)

三谷文楽「其礼成心中」@大阪初演

三谷幸喜が台本を執筆した文楽「其礼成心中(それなりしんじゅう)」を森ノ宮ピロティホールで鑑賞。

Sorenari_2016

僕は2014年に京都公演を観ている。その時のレビューはこちら。待望の大阪公演(初演)である。近松門左衛門の「曾根崎心中」は大阪が舞台であり、現在大阪市日本橋に国立文楽劇場があるのは御存知の通り。

文楽人形「みたに君」が前説を述べるというスタイルは京都公演同様だが、阪神戦の始球式で登板したこと(その様子はこちら)、人間以外が投げるのは「ふなっしー」以来2人目かなと思っていたら、くまモンや貞子も投げていた等と語った。

休憩なし2時間、コンパクトに纏まっており、伏線の張り方が巧みで最後まで飽きさせない。秀逸な「曾根崎心中」のパロディである。戯作者・近松門左衛門も登場するのが実に愉快だ。これだけ面白ければ文楽ファンも増えるだろう。三谷幸喜には是非第二弾にも取り組んで貰いたい。

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