古典芸能に遊ぶ

2016年12月28日 (水)

桂文三 三番勝負 ー其の壱ー 柳家喬太郎の巻

12月27日(火)天満天神繁昌亭へ。

  • 桂三語:手水廻し
  • 桂文三:時うどん
  • 柳家喬太郎:ウルトラ仲蔵
     中入
  • 桂文三:三枚起請

約5割が女性客。

「時うどん」は文三の鉄板ネタで、声が高い喜六がとにかく陽気。後うどんを食べる時の擬音が上手い。

喬太郎は登場するやいなや、「今日の髪型、ドナルド・トランプに似てるでしょ?」で場内爆笑。文三からのリクエストという「ウルトラ仲蔵」はハードルの高い新作落語。江戸の人情噺「中村仲蔵」をベースに、ウルトラ兄弟やウルトラの怪獣たちで描く。上方の客は「中村仲蔵」を知らない人が多いし、ウルトラマンを観たことがない人にはチンプンカンプンでイメージすら湧かないだろう。僕は幸い、5歳の息子と一緒に「ウルトラQ」「(初代)ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」を全話レンタルDVDで観ていたので、十分愉しめた。

ケムール人やバルタン星人、大阪城を破壊したゴモラなどが暴れまわる。ウルトラマンキングには鼻がないという小ネタあり。喬太郎のDVD「ウルトラマン落語」にも収録されていないので、これは貴重な体験だった。

そもそもウルトラマンが大好きで意気投合した喬太郎と文三。新春の新聞に文三は「ウルトラマニア芸人」として登場するそう。

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2016年9月29日 (木)

白鳥・三三 両極端の会 in ひょうご 「兄さん、まさかの第2回目ですよ!」

9月18日(日)兵庫県立芸術文化センター中ホールへ。

  • 三三・白鳥:ごあいさつ
  • 柳家三三:看板のピン
  • 三遊亭白鳥:牡丹の怪(白鳥作)
  • 三遊亭白鳥:アジアそば(白鳥作)
  • 柳家三三:任侠流山動物園(白鳥作)

2014年に開催された第1回目の感想はこちら

白鳥は古今亭志ん朝と桂枝雀が出演した落語会で前座を務めた想い出話などを語った。

「牡丹の怪」は三遊亭圓朝の怪談噺「牡丹燈籠」のパロディ。売れない落語家・ミミちゃんが登場するが、勿論三三の字を傾けたという趣向。上出来。

「任侠流山動物園」は「清水次郎長伝」のパロディで、僕は柳家喬太郎で3回聴いたことがあるネタ。三三は喬太郎とはまた違った味がある。クライマックスではやおら釈台を取り出し、講釈の名調子で一気に駆け抜けた。お見事!

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2016年8月25日 (木)

後世に多大な影響を与えた映画〜イングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」からミュージカル「エリザベート」へ

後世に多大な影響を与えた(追随者/信奉者を産んだ)映画がある。例えば1932年にアカデミー作品賞を受賞した映画から名付けられた「グランド・ホテル」形式は後の「ポセイドン・アドベンチャー」「タワーリング・インフェルノ」「大空港」「有頂天ホテル」「さよなら歌舞伎町」を産んだし、オーソン・ウェルズ「市民ケーン」(デヴィッド・フィンチャー「ソーシャル・ネットワーク」は21世紀の「市民ケーン」だ)、ウォルト・ディズニー「ピノキオ」(→スティーブン・スピルバーグ「未知との遭遇」「A.I.」)、ウォルト・ディズニー「ファンタジア」(スティーブン・スピルバーグ「ジュラシック・パーク」、コリン・トレボロウ「ジュラシック・ワールド」、ティム・バートン「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」)、黒澤明「七人の侍」「隠し砦の三悪人」「用心棒」(ジョン・スタージェス「荒野の七人」、ジョージ・ルーカス「スター・ウォーズ」、セルジオ・レオーネ「荒野の用心棒」、ジョン・ミリアス「風とライオン」、ウォルター・ヒル「ラスト・マン・スタンディング」、ピーター・ジャクソン「ロード・オブ・ザ・リング/2つの塔」)、黒澤明「天国と地獄」のパートカラー(スティーヴン・スピルバーグ「シンドラーのリスト」、アカデミー短編アニメーション映画賞を受賞したディズニーの「紙ひこうき」)、ビリー・ワイルダー「サンセット大通り」(デヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」、サム・メンデス「アメリカン・ビューティ」)、ビリー・ワイルダー「アパートの鍵貸します」(三谷幸喜脚本「今夜、宇宙の片隅で」、マーティン・スコセッシ「ウルフ・オブ・ウォールストリート」、ディズニー短編アニメ「紙ひこうき」)、スタンリー・ドーネン「恋愛準決勝戦」(スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」、デヴィッド・クローネンバーグ「ザ・フライ」、スティーヴン・スピルバーグ製作・原作・脚本「ポルターガイスト」)、アルフレッド・ヒッチコック「めまい」(ブライアン・デ・パルマ「愛のメモリー」、デヴィッド・フィンチャー「ゴーン・ガール」、大林宣彦「はるか、ノスタルジィ」)、スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」(庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」、ピクサー・アニメ「ウォーリー」、クリストファー・ノーラン「インターステラー」ほか多数)、ジョン・ランディス「サボテン・ブラザース」(三谷幸喜脚本「合い言葉は勇気」、本広克行「踊る大捜査線」シリーズ)、大林宣彦「時をかける少女」(本広克行「幕が上がる」、細田守「時をかける少女」)、大林宣彦「HOUSE ハウス」(三木孝浩「陽だまりの彼女」、高橋栄樹【AKB48 MV】「永遠プレッシャー」)等が代表例だろう。

スウェーデンのイングマール・ベルイマン監督「仮面/ペルソナ」(1966)もそんな映画だ。長らく観ることが難しい作品だったが昨年HDリマスター版DVDが発売され、現在はTSUTAYA DISCASで借りることも可能となった。

Persona

舞台(古代ギリシャの仮面劇「エレクトラ」)出演中に失語症に陥った女優と、海に臨む島の別荘(サマーハウス)で彼女の治療のために共同生活を送る看護師の物語である。やがてふたりの人格は融合し始める。これは片方がもう一方のドッペルゲンガー(分身/二重身/自己像幻視)であるという解釈も可能だ。では女優と看護師のどちらが本体でどちらが分身かというのが問題になってくるが、看護師の名前がアルマであることから正解が判る。"alma"とは「魂」の意味で、ラテン語ではアニマ(女性名詞)/アニムス(男性名詞)となる。

キリスト教的価値観/倫理観(蜘蛛の糸=神が支配する手)に絡め取られ、失語症に陥った女優は自分の性的願望を抑制し、欲しくもない子供を堕胎することすら叶わなかった。一方、彼女の心の深層に形成された(=生きられなかった反面)であるアルマは奔放な女で、堕胎も厭わない。そして最終的に両者は同一化することに成功し、新たな自己を形成する。因みにベルイマンの父親は牧師であり、その厳格で冷たい人間性に反発した彼は「神の沈黙」三部作を撮った。

実はアニマアニムスはユング心理学の用語である。ペルソナ(仮面)もユングが用いた言葉で、私達は1人の人間でも実に様々な「顔」を持っている。会社での「顔」、家族と接するときの「顔」、幼なじみと酒を飲み交わす時の「顔」。その場その場に応じて別の「仮面」を付け、「役割を演じている」のである。僕が強く印象に残っているのは、上方落語の「爆笑王」こと故・桂枝雀が、よく「本来私は陰気な性格で、舞台では”笑いの仮面”を付けているのです」と語っていたことだ。

「難解」と言われるベルイマン映画だが、ユング心理学を抑えておくと理解し易い。興味がある方には臨床心理学者・河合隼雄の著書「無意識の構造(影/ペルソナ/アニマ/アニムスについての解説あり)」「コンプレックス(ドッペルゲンガーについて言及あり)」「昔話の深層」などを読まれることをお勧めしたい。平易な文章で書かれており、すらすら読める。

またシナリオ段階でベルイマンは「映画」というタイトルを考えていたという。全篇喋り通しのアルマは自己を語るベルイマン=映画であり、黙ってそれを聴く舞台女優=スクリーンを見つめる観客、と見立てることも可能だろう。つまり映画を観るという行為は、新たな仮面を得ることに等しいというわけだ。

本作はブラッド・ピット主演、デヴィッド・フィンチャー監督「ファイトクラブ」(1999)に多大な影響を与えた。物語の構造自体もそうだし、「ファイトクラブ」のラストシーンで勃起したペニスの映像がサブリミナル効果として挿入されるのは「仮面/ペルソナ」冒頭部の再現である。

また、デヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」(2001)は明らかに「サンセット大通り」と「仮面/ペルソナ」を足して2で割ったようなものだ。ちなみにマルホランド・ドライブもサンセット・ブルーバードもロサンゼルスを並走する道路の名称である。

ウディ・アレン「私の中のもうひとりの私」(1988)はベルイマンに私淑する彼なりの「仮面/ペルソナ」であり、ご丁寧に同作の撮影監督スヴェン・ニクヴィストをスウェーデンから呼び寄せている。ダーレン・アロノフスキー「ブラック・スワン」(2010)にも本作が濃い影を落としている。

「仮面/ペルソナ」最初の6分間は非常にアヴァンギャルド(前衛的)なモンタージュが続く。1960年代はポップ・カルチャー、アンダーグラウンド映画が花盛りで、その気分を見事に反映している。フィルムが燃えるショットなどは後の大林映画「HOUSE ハウス」等に影響を与えたのではないかと推察される。

また本作の舞台女優と息子の、絆が「切れた」関係はウィーン・ミュージカル「エリザベート」のシシィとルドルフそっくりだなと想った。オマケに女優の名前はエリザベートだし。そこでハッとした。ミュージカルの作詞・台本を手掛けたミヒャエル・クンツェが「仮面/ペルソナ」を強く意識しているのは間違いない。やはりクンツェが台本を書いたミュージカル「モーツァルト!」には主人公ヴォルフガングとその分身アマデが登場する。アマデはドッペルゲンガーであり、「を逃れて」というナンバーもある。アマデがヴォルフガングの腕にペン先を刺して、そので譜面を書く場面が第1幕フィナーレだが、これも「仮面/ペルソナ」でエリザベートがアルマの腕から流れるに吸い付く場面(女吸血鬼を描くロジェ・バディム「とバラ」を彷彿とさせる)に呼応する。

「仮面/ペルソナ」ほど影響力を持った映画は滅多にない。未見の方は是非一度、ご覧になることをお勧めしたい。

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2016年7月17日 (日)

祝!ウルトラマン放送開始50年

初代「ウルトラマン」の放送がTBSで始まったのは1966年(昭和41年)7月17日のことだった。つまり今日でちょうど50年である。

僕は「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」(1967)、「帰ってきたウルトラマン」(1971)、「ウルトラマンタロウ」(1973)の主題歌を歌えるのだが、話の内容は全く覚えていない。怪獣の名前も言えない。年齢的にリアルタイムで体験しているとは考え難く、恐らく幼年期に夕方の再放送を観ていたのだと思われる。

小学校3-4年生の頃にはすっかり卒業して、その後は無縁の暮らしをしていた。再び興味を持ったのは10年前に関西に引っ越してきて、落語を聴くようになってからである。噺家の桂文三が熱烈なウルトラマン・ファンで、マクラでよくその話をした。東京から来演した柳家喬太郎も出囃子で「ウルトラQ」を使ったり、ウルトラマンの怪獣を登場させる「抜けガヴァドン」(古典「抜け雀」のパスティーシュ)を高座に掛けたりした。この噺を初めて聴いたのが2015年だが、その時はガヴァドンという名前すら知らなかった。

僕の息子は現在5歳だが、3歳頃から恐竜やウルトラマンの怪獣が好きになりフィギュアを集め始めた(僕自身は親に買って貰ったことがない)。そこでTSUTAYA DISCUSでDVDをレンタルし、「ウルトラマン」全39話と「ウルトラセブン」全49話を息子と一緒に観た(ただし佐々木守脚本、実相寺昭雄監督のセブン第12話「遊星より愛をこめて」はある事情により欠番になっている。画質は悪いが幾つかの動画サイトで試聴可能)。現在は「帰ってきたウルトラマン」を途中まで観ているところである。

元祖「ウルトラマン」のシリーズ中、突出して面白いのは佐々木守脚本、実相寺昭雄監督の回である。ファン投票でトップの人気を誇る「故郷は地球」や、ガヴァドンが登場する「恐怖の宇宙線」もそう。このコンビによる「怪奇大作戦 京都買います」はテレビドラマ史上最高傑作だと信じて疑わないのだが、どうしてなかなかウルトラマンも負けてはいない。

佐々木脚本が傑出しているのは価値観の反転を行っていることにある。ガヴァドンは子どもたちの描いた画が宇宙線を浴びて実体化した怪獣であり、彼等はウルトラマンに「ガヴァドンを殺さないで!」と懇願する。つまりウルトラマン&科学特捜隊は【子どもたちの想像力を踏みにじる大人たち】に成り下がり、どちらが正義でどちらが悪かこんがらがってくるのである。父性原理で「断ち切る」性質を持つ欧米人(キリスト教徒&ユダヤ教徒)の思想は光と闇、天国と地獄、天使と悪魔に分ける二元論がその根幹を成している。しかし「世界はそんな単純な二元論で割り切れるものではない」という立場に立つのが我々日本人なのだ。考えてみればゴジラ(Godzilla)も人間にとっての敵であると同時に、台風や津波、地震など自然災害にも似た「荒ぶる」であり、水爆実験による「被害者」でもある。その多義性に魅力の本質がある。

「故郷は地球」(2016年8月21日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)に登場するジャミラも宇宙にひとりぼっちで取り残された宇宙飛行士の成れの果ての姿だ(映画「オデッセイ」のマット・デイモンと同じ)。彼は本当に退治すべき「悪」なのだろうか?それとも……。

「怪獣墓場」では科学特捜隊が今まで倒した怪獣たちを弔うために戒名をつけ、坊さんを呼んでお経を唱える怪獣供養が行われる。そのユニークな発想にびっくりした。そして怪獣墓場から落っこちてくる亡霊怪獣シーボーズ(←坊主?)は空を見上げて泣き叫ぶばかりで破壊行動もせず、もののあはれを感じさせる。余談だが怪獣墓場をもじった怪獣酒場が神奈川県川崎市にあり、大阪・難波にも元祖怪獣酒場があった。後者は惜しまれつつ閉店したのだが。

実相寺監督独特の凝りに凝った構図も見どころのひとつである。

また第一期を企画立案し、メインの脚本家として活躍したのが金城哲夫(きんじょうてつお)。沖縄県出身である。「ウルトラセブン」や「帰ってきたウルトラマン」の多くを執筆した上原正三も沖縄県出身である。彼等は幼少期に凄絶な沖縄戦を体験し、その後アメリカ合衆国に統治された故郷を憂えた。沖縄が返還されたのは1972年、「帰ってきたウルトラマン」放送終了後のことである。そもそも琉球王国は1609年に薩摩藩に征服され付庸国となり、明治維新の時に沖縄県として再編された。つまり彼等にとっては日本人も侵略者なのである。そういう屈折した複雑な想いがシリーズに込められている。

今回初めて「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」の明確なコンセプトの違いを知った。マンが戦う相手は怪獣だが、セブンの敵は宇宙人。つまり後者はSF要素が色濃い。セブンにはウルトラホーク1号から3号までのメカの魅力も加味され、ウルトラ警備隊の専用車「ポインター」のデザインも格好いい。また主人公がマンに変身すると必ず巨大化するが、セブンは①人間と等身大のまま、②巨大化するという2段階のプロセスが有る。

「ウルトラセブン」になると佐々木守が2本しか執筆していないのが哀しい。しかもうち1本(「遊星より愛をこめて」)は永久欠番だし。セブンの最高傑作は金城哲夫脚本、実相寺昭雄監督「狙われた街」(2016年8月28日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)であることは論を俟たないだろう。卓袱台を挟んでウルトラマンとメトロン星人が対峙するのは史上屈指の名場面である(これぞ昭和!)。また上原正三脚本、実相寺明雄監督「第四惑星の悪夢」は後の映像作家たちに多大な影響を与えた。例えばアニメ「宇宙戦艦ヤマト 2199」の第14話「魔女はささやく」は「第四惑星の悪夢」への熱烈なラヴ・レターである。

セブンに参加した新しい才能で特筆すべきは「快獣ブースカ」で脚本家デビューを果たした市川森一である。「盗まれたウルトラ・アイ」は詩的かつ叙情的な逸品だ。市川は後にTBSの金曜ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」で第1回向田邦子賞を受賞する。また市川が執筆したNHK大河ドラマ「黄金の日日」は三谷幸喜のお気に入りで、松本幸四郎演じる主人公・呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)は本日放送される「真田丸」にも特別出演する運びとなった。

あとセブンで注目すべきはアンヌ隊員(菱見百合子)のエロさである。この役は映画出演決定を理由に降板した豊浦美子の代役として急遽決まったため、コスチュームのサイズが合わず体にぴったりとフィットしたものになったという。市川森一や評論家・森永卓郎らが「アンヌは初恋の人」と告白している。また落語家・立川談志も写真集「アンヌへの手紙」に寄稿している。

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「ウルトラセブン」はモロボシ・ダンとアンヌの悲恋物語として観ることも出来る。最終話(2016年9月11日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)でシューマンのピアノ協奏曲が流れる趣向はとてもロマンティックで、胸がキュン!とする。一方、「ウルトラマン」の紅一点、フジ・アキコ隊員(桜井浩子)はお色気ゼロだ。

金城哲夫は1969年に円谷プロを退社し沖縄に帰った。「帰ってきたウルトラマン」では第11話のみ脚本を執筆している。佐々木守は完全に撤退し、実相寺昭雄は第28話のみ監督した。その代わり初代「ゴジラ」の名匠・本多猪四郎が第1話・最終話など全5話を監督していることが「帰ってきた」の白眉である。

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2016年7月13日 (水)

上方落語(関西)と江戸落語(関東)の比較文化論〜その深層心理を紐解く

落語は江戸時代前期・元禄に露の五郎兵衛京都の四条河原町や北野などの大道で活躍した「辻噺」に端を発する。少し遅れて大阪・生玉神社の境内で米沢彦八が辻噺を行った。上方では今も毎年9月初旬に生玉神社で「彦八まつり」が開催されている。大道芸から始まったので行き交う人々の注意を惹くために使われた小拍子見台、そして膝隠しが上方落語の特徴になっている。

それからしばらくして江戸では酒宴など様々な屋敷に招かれて芸を披露する「座敷噺」が人気となる。座敷芸なので人寄せのための小拍子や見台は必要とせず、座布団一枚に噺家が正座するだけのシンプルなスタイルとなった。上方の方がレパートリーが豊富なので沢山のネタを噺家が江戸に持ち帰り、改変を施した。現在、東京で演じられる落語のネタのうち約7割が上方由来だと言われる

そこで上方落語が江戸に移植された際、どのようなアレンジが施されたか、また江戸で生まれたオリジナル落語の特徴は何かを探っていけば、関西人と関東人の気質・文化的背景の違いが見えてくるのである。

その1【うどん vs. そば】

上方落語にはうどんネタが多い。「時うどん」「かぜうどん」「親子酒」が代表例である。これが江戸に移るとそばネタに変化する(「時そば」など)。また腹いっぱいもちを食べるという上方落語「蛇含草」が、お江戸では「そば清」になる。逆に上方落語にそばは一切出てこない。ここで興味深いのは関西で「うどん」と言えば汁のある「かけうどん」を意味し、江戸落語の「そば」は「ざるそば」である。

関西に住むようになって10年が経過したが、つくづく感じるのはここは出汁(だし)文化だということ。出汁に手間暇をかけている。玉子焼きも関西では出汁巻き玉子を指す。僕は香川県高松市に2年半ほど住んでいたことがあるのだが、さぬきうどんはコシが命である。しかし大阪のうどんは違う。柔らかい麺自体にそれほど魅力はなく、むしろ重要なのは出汁。例えば道頓堀今井という名店の名物はきつねうどんだが、兎に角、油揚げから滲み出した汁(つゆ)の味が絶品なのだ。難波千日前「千とせ」の名物「肉吸い」は吉本新喜劇の花紀京が二日酔いで現れて、「肉うどん、うどん抜きで」と注文したのが切っ掛けで生まれたものである。うどんは二の次なのだ。

秋田県に旅行した時に驚いたのは、あちらでは全く出汁を取らないこと。昭和初期までの東北は貧しく、飢饉の年は餓死するものが沢山いた。出汁を取った魚介類は捨ててしまう。だからそんな勿体ないことは出来ない。関西の食文化が如何に豊かであったかということを実感させられた。うどんが東に移行するとそばになることには、これだけ深い意味があるのである。

その2【商家 vs. 武家】

江戸時代の上方は商人文化が栄えた。鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)が豪商の代表格で、落語「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にその名前が登場する。一方、参勤交代で地方の大名が集まる江戸は武家社会を形成した。上方落語には商家を舞台にした作品が多い。裕福な商人の若旦那=極道/ドラ息子という図式が典型的。しかし武士はほぼ不在、殿様に至ると皆無と言っていい。

桂枝雀が演じた「胴斬り」には新刀の試し切りする辻斬りが登場するが、一瞬の内に通り過ぎてしまい台詞もない。「桜の宮」にも武士が登場するがこれは江戸落語「花見の仇討」を上方に移植したもの。生粋の上方噺に武士が出てくるのは「禁酒関所」「宿屋仇」くらいかな。「茶瓶ねずり(薬缶なめ/癪の合薬)」は江戸に伝わった後に改変された可能性があり、原話も武家のハゲ頭を舐める噺だったか疑わしい(あと奉行所が舞台となるお裁きもの「佐々木裁き」「鹿政談」←元は講談ネタ「天狗裁き」「次の御用日」があるが、彼らの役割は侍ではなく裁判官である)。一方、江戸落語は「目黒のさんま」「妾馬(八五郎出世)」「盃の殿様」「将棋の殿様」「そばの殿様」「粗忽の使者」「紀州」「三味線栗毛(錦木検校)」「火焔太鼓」「竹の水仙」「高田馬場」「館林」「棒鱈」「井戸の茶碗」など武士・殿様が登場する噺が多数。「たがや」は庶民の侍に対する憎しみ(敵対心)が滲みだす強烈な噺だ。

その3【滑稽噺 vs. 人情噺】

基本的に上方落語は落とし噺であり、江戸のような人情噺がないと言って良い。「立ち切れ線香」を人情噺と明言しているプロの噺家もいるが、それは明らかな間違いである。桂米朝は著書「落語と私」(文春文庫)の中で、講談における「世話物」を(講談のような)説明口調ではなく、(落語家が)感情を込めて喋るものと人情噺を定義し、人情噺にはサゲがないと書いている(代表的演目「文七元結」「紺屋高尾」「しじみ売り」など)。よって立派なサゲがある「芝浜」や「たちきり(たちぎれ)」は人情噺ではないというのが彼の見解である。唯一の例外が「鬼あざみ」かな(講談ネタ)。「上方では浄瑠璃が確固たる地位を築いていたので、落語が人情噺を受け持つ必然性が薄かったからだろう」と米朝は述べている。

「落語DE枝雀」(ちくま文庫)の《情は情でも落語の情は》という章より桂枝雀と落語作家・小佐田定雄との対談を引用する。

枝雀 なんぼ「情」が結構やちゅうてもおしつけがましなったらいけまへん。おしつけがましい「情」てなもん、私らの最もかなわんもんでっさかいね。

小佐田 演者に先に泣かれてしまうと私らみたいなヘソ曲がりの客は「オッサン、なに泣いとんねん」てなもんで、 かえってサーッと醒めてしまいますねんな。ことに落語なんかで「泣き」を入れられると、「わかったわかった。もうええもうええ」てな気ィになってしまいますな。(中略)一般に「情」とか「人情」とかいうと、つい「お涙頂戴」的なものを思いうかべてしまうんですが、それとは正反対の「薄情な情」こそが上々のものであるというのが我々の結論ですかね。

次にサゲの有無とは別の視点から、人情噺とは何かを考察してみたい。

ユング心理学の権威・河合隼雄はその著書「昔話と日本人の心」「母性社会日本の病理」「コンプレックス」「無意識の構造」等において、欧米人と日本人の自我・自己のあり方の違いについて論じている。

幼児期の人の心は意識と無意識をが一体となった混沌(カオス)の状態にある。成長とともに光と闇、天と地、太陽と月、男と女などを区別するようになる。この「分類する」という行為が人間固有の知性の萌芽であり、意識と無意識が分離される。やがて意識の中に自我が形成され始める。一方、無意識の中には元型としてのグレートマザー(太母)が存在する。これは「無条件の愛を与え、慈しみ守ってくれる」母親(=聖母マリア、観音菩薩)の像であると同時に、「束縛する」「飲み込んでしまう」という恐ろしいイメージ(=魔女、山姥)をも内包している。欧米人(キリスト教徒)は成人するまでに心の中での「父親殺し」「母親殺し」を実行し、意識を無意識から完全に切り離して強い自我を確立する。ここで言う「母親」とはグレートマザーのことであり、「父親」とは文化的社会的規範を指し、切断する機能を持つ(ロックンロールの真髄も既成の価値観の破壊、大人への叛逆にある)。彼らは血による関係を強烈に否定する。しかし、わが国の男子は「母親殺し」が出来ず、グレートマザーの強力な作用を受け、それとの一体感を支えとして生きている(母性の優位性)。日本人の場合、意識と無意識は明確に区別されていない。

父性(切断)原理が優勢な欧米人は個の倫理で生き、他者との違いを明確にし、契約で結びつく(神との関係も契約である)。しかし日本人の場合は【なーなー】的横のつながり、なし崩し的一体感を重視し、場(コミュニティ)の倫理で動く。一旦そこに形成された場の平衡(母のぬくもり)を保つことに腐心するのである。それは学校の同級生だったり、ママ友や会社の同僚、政界の派閥だったりする。幼稚園や小学校のかけっこで順位を付けないというのは、真に日本人的(集団内での能力の差を認めない横並びの)発想である。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」というビートたけしのギャクは言い得て妙だ。そこでは母性の本能である清濁併せ呑むという機能が働く。逆にヨーロッパの小学校では留年や飛び級が当たり前で、フランスの初等教育をストレートで卒業できる生徒はごく僅かに過ぎない。また日本人は自分たちのに属していないと見做す者達に対して、時に残酷になり、暴走することもある。村八分、学校のいじめ、連合赤軍のリンチ殺人、オウム真理教による地下鉄サリン事件などがそれに該当する。そして我々には契約という観念が乏しく、責任の所在も曖昧である(一億総無責任社会)。

話を落語に戻そう。「人情噺」とは場の平衡を保とうとする心情である、というのが僕の解釈である。場(コミュニティ)とは親兄弟ら家族であり、大家と店子、大工など職人の徒弟制度、武家という組織だったりもする。「忠臣蔵」の赤穂浪士で判る通り、浅野内匠頭が刃傷におよぶと浅野家は断絶・お取り潰しとなり、召し抱えられていた武士たちは一人残らず身分を剥奪され、浪人となった。つまり武家とは集団責任を問われる社会であり、十把一絡げ=場の倫理で動いているのである。その場では尊重されない(出る杭は打たれる)。

親子に通うのは人情だが、結婚前の男女の恋愛は独立した自我と自我が結合しようとする作用であり、人情ではない。「ロミオとジュリエット」のことを人情噺とは言わないでしょ?だから「立ち切れ線香」も違う。しかし結婚すればコミュニティ(一蓮托生の運命共同体)を形成するので夫婦愛は人情に変化を遂げる。

落語「子は鎹」は喧嘩別れした夫婦が、息子を鎹(かすがい)として再結合する。つまり、壊れかかった(コミュニティ)が子供の力で修復される(平衡状態に戻る)噺だ。「妾馬(八五郎出世)」で主人公の妹は大名に気に入られ、側室として招かれる。つまり八五郎は彼の才覚とは無関係に、家族のおかげ=場の倫理で出世するのだ。これが江戸落語の特徴である。

しかし、上方落語に兄弟姉妹が登場することはない。つまり関西人は場の倫理で行動しない。例えば「寝床」や「口入屋」、「百年目」、芝居噺「蛸芝居」で描かれる商家の人々は各々、好き勝手に生きている。番頭も丁稚も親旦さんの言いなりにはならない。彼らのは確立しており、「御家のために」という発想がない。つまり横の連携が「切れている」のだ。「親子酒」に登場する父と息子も酔っ払って互いを罵倒するばかりで、親子の情は繋がっていない。

上方唯一の人情噺と言われる「鬼あざみ」も内容をよく検討すると父は息子に対して「切断」を実行している。一旦は包丁で我が子を刺そうとし、思い直して奉公に出す。十年後に帰郷した息子は盗賊の頭になっていた。桂吉朝最後の高座となった「弱法師(よろぼし、別名「菜刀【ながたん】息子」)も人情噺に聴こえるが、やはり父親は息子を勘当しており「切れている」。お江戸の人情噺とは明らかに一線を画しているのである。ここに商人気質、関西人の心意気が窺い知れよう。

僕は常々、関西人の乾いた笑いのセンスはフランス人に近いと思っていた。明石家さんま(師匠は落語家・笑福亭松之助)がフランス産コメディ映画「奇人たちの晩餐会」の舞台版を演じたのは決して偶然ではない。両者には通底するものが間違いなくある。

僕はジトッと湿った江戸落語が大嫌いだ。ただし例外はあって、三遊亭圓朝と柳家喬太郎の創作落語には凄みを感じる。彼らに匹敵する作家は中々見当たらない。

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2016年7月 6日 (水)

三谷文楽「其礼成心中」@大阪初演

三谷幸喜が台本を執筆した文楽「其礼成心中(それなりしんじゅう)」を森ノ宮ピロティホールで鑑賞。

Sorenari_2016

僕は2014年に京都公演を観ている。その時のレビューはこちら。待望の大阪公演(初演)である。近松門左衛門の「曾根崎心中」は大阪が舞台であり、現在大阪市日本橋に国立文楽劇場があるのは御存知の通り。

文楽人形「みたに君」が前説を述べるというスタイルは京都公演同様だが、阪神戦の始球式で登板したこと(その様子はこちら)、人間以外が投げるのは「ふなっしー」以来2人目かなと思っていたら、くまモンや貞子も投げていた等と語った。

休憩なし2時間、コンパクトに纏まっており、伏線の張り方が巧みで最後まで飽きさせない。秀逸な「曾根崎心中」のパロディである。戯作者・近松門左衛門も登場するのが実に愉快だ。これだけ面白ければ文楽ファンも増えるだろう。三谷幸喜には是非第二弾にも取り組んで貰いたい。

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2016年6月 7日 (火)

柳家喬太郎の怪談噺(昼夜通し)@兵庫芸文

5月29日(日)兵庫県立芸術文化センター 中ホールへ。

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【昼公演】

  • 柳家小太郎:弥次郎
  • 柳家喬太郎:夜の慣用句(喬太郎 作)
  • 三増紋之助:江戸曲独楽
  • 柳家喬太郎:怪談牡丹燈籠 お札はがし

【夜公演】

  • 柳家小太郎:あたま山
  • 柳家喬太郎:任侠流山動物園(三遊亭白鳥 作)
  • 三増紋之助:江戸曲独楽
  • 柳家喬太郎:怪談牡丹燈籠 栗橋宿

喬太郎は柳家さん喬の一番弟子で小太郎は九番弟子。小太郎は初めて聴いたが口跡よく、中々達者。

「弥次郎」は上方落語「鉄砲勇助」を改変したもの。逆にシュールな江戸落語「あたま山」は落語作家・小佐田定雄の手で「さくらんぼ」として上方に移植され、桂枝雀/雀々らが演じている。

喬太郎の4つのネタはいずれも聴いたことがあるものばかりで感想も過去の記事に書いているので、こここでは繰り返さない。「任侠流山動物園」の出囃子はウルトラQ!「三遊亭圓朝の玄孫(やしゃご)弟子で、いずれ人間国宝になるであろうと期待されている三遊亭白鳥師匠の新作」という紹介に、場内大爆笑だった。

また小太郎がマクラで「芝浜」を演りたいと言い、それを受けて喬太郎が「私は3分で『芝浜』を演じる手法を編み出しました」と、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」の替え歌「五十両と芝浜」を歌い、やんや、やんやの大喝采。死ぬほど可笑しかった!!

三遊亭圓朝作の「怪談牡丹燈籠」を改めて聴いて、これは潜在意識のことを扱った噺だなと想った。つまり幽霊として現れる旗本の娘・お露とその下女は、浪人・萩原新三郎の潜在意識(無意識)の住人であり、新三郎は潜在意識の中に幽閉され、出られなくなってしまうと解釈出来る。これはスピルバーグの映画「未知との遭遇」の主人公が最後に、マザーシップに乗って宇宙の彼方に飛び立っていくことに呼応している。

あと使用人の夫婦、伴蔵とお峰の関係がマクベスとマクベス夫人みたいだった。

圓朝の「死神」はグリム童話「死神の名付け親」を翻案したものだと言われており、他にもモーパッサン「親殺し」やヴィクトリアン・サルドゥ「トスカ」を原作とする新作落語もある。だから彼がシェイクスピアの「マクベス」を参考にした可能性は十分残る。

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2016年3月31日 (木)

柳家喬太郎・柳亭左龍 兄弟会@亀屋寄席

3月27日(日)大阪府高槻市にある亀屋旅館へ。

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  • 柳家喬太郎:館林
  • 柳亭左龍:甲府い
  • 柳亭左龍:英会話
  • 柳家喬太郎:任侠流山動物園(三遊亭白鳥 作)

「館林」は「首提灯」にも似た、シュールな滑稽噺。江戸庶民の武士に対する反発心が垣間見られる。ブラックな味わいで◯。

甲府い」は僕が大嫌いな人情噺。退屈極まりなかった。これだから江戸落語は……。地口(駄洒落)オチも苦しいし、判り難い。お粗末。

「英会話」はまず噺の出来が悪い。無理やり過ぎて全然笑えない。現代が舞台なのに子供が「金坊」なのも不自然。

任侠流山動物園」は20012年にトリイホールでも聴いている。レビューはこちら。今回は前回より長いバージョンだった。牛、豚、鶏、トラ、パンダ、象が喋る!物語は「清水次郎長伝」のパロディであり、途中、上方落語「動物園」のエッセンスも登場。最高に可笑しかった。

亀屋さんでの喬太郎の会はこれからも大いに期待するが(よろしくお願いします!)、左龍はもういいや。

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2015年7月28日 (火)

柳亭市馬・柳家喬太郎 二人会(最終回)

7月26日(日)トリイホールへ。20回、足掛け10年続いたこの会も大団円を迎えた。

  • 露の瑞:道具屋
  • 柳家喬太郎:首ったけ
  • 柳亭市馬:二十四孝
  • 柳家喬太郎:カマ手本忠臣蔵
  • 柳亭市馬:三十石

露の瑞(みずほ)は以前、桂雀々の弟子・鈴々として高座に上がっていたが、師匠が米朝事務所を退社、東京に進出することを決めた2011年10月に一旦落語家を辞めた。僕は彼女の初高座を2010年7月17日に聴いている。その時の感想は下記。

そして2013年2月24日に露の都の弟子として再出発。復帰後聴くのは今回初めてとなった。昔からハキハキして達者な若手なので今後の活躍に期待する。なにしろ僕が初高座を聴いた落語家5人のうち、彼女以外の4人は全員廃業してしまった。頑張ってもらわないと困る。

喬太郎は最近髪を黒く染めて(一部だけ白く残し)ていたが、映画(「スプリング、ハズ、カム」)撮影のためだったと。大学に入学する娘のために上京してきた広島のタクシー運転手の役だそう(本人は運転免許を持っていない)。表参道の美容室へ行った(場違いな?)体験談を披露。撮影は終了し、先月聴いた時に比べて色が薄らいだ。

「首ったけ」は吉原を舞台にした滑稽噺。男が遊女にいいようにあしらわれるという点では「三枚起請」や「辻占茶屋」に近いものがある。

喬太郎がケーブルテレビで渥美マリ主演の「裸でだっこ」(1970,大映)という映画を観ていたら、古今亭志ん朝が出ていて驚いたと。もし、噺家で忠臣蔵を映画化するとしたら、故人でもよければ大石内蔵助は志ん朝が適役ではないか(今なら市馬)、堀部安兵衛は武闘派だから立川談春か林家彦いちを、また吉良上野介はこの人を置いてないと、声を出さずに立川談志の形態模写をして場内爆笑に。その百面相の可笑しいこと!

「カマ手本忠臣蔵」は浅野内匠頭とその家臣がゲイだったらという設定で、クライマックスの討ち入りも四十七士(ノンケなし)が全滅するという奇想天外な展開に。小説「影武者徳川家康」みたいな歴史の新解釈というかミステリー仕立てですこぶる面白かった。

「三十石」は船頭の舟唄がたっぷりあって、市馬の美声を堪能。こればっかりは上方で彼に太刀打ち出来るものはいないのではないかと想った。大満足。

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2015年7月 9日 (木)

桂吉弥 独演会

7月5日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

  • 桂米輝:子ほめ
  • 桂吉弥:親子酒
  • 桂佐ん吉:堪忍袋
  • 桂吉弥:メリーさん(吉弥 作)
  • 桂吉弥:蛸芝居

米輝(よねき)は初めて聴いた。米團治の弟子らしい。リズム感があっていい。

吉弥は先日亡くなった米朝師匠の想い出噺を。平成7年から10年まで米朝宅で内弟子生活を送り(吉朝一門の習わしだった)、その間に大師匠が人間国宝に認定されて紅白歌合戦の審査員を務めた時もカバン持ちをしたと。そして直伝の落語(小咄)「たけのこ」を披露。上方では数少ない、お武家様が登場する噺。「親子酒」は陽気でコミカルな一席。

桂文枝(旧・三枝)に勧められて始めた創作落語。毎年、干支にちなんだ作品を一つづつ創る。マクラでは高校生の頃ラジオが好きで、MBSヤングタウンの島田紳助とかをよく聴いていたと。「メリーさん」は乗ったタクシーにラジオが流れているという設定で、FM103で笑瓶がパーソナリティを務めている。フリップでラジオ局のイラストを掲げ、見台にラジオを置いてBGMを要所で流す。創意工夫があり、サゲも秀逸だった。一昨年の吉弥作「にょろにょろ」は聴いている途中にサゲが読めたので興ざめだったが、着実に進化している。文枝の創作落語と比べても遜色ない。甚く感心した。

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