古典芸能に遊ぶ

柳家喬太郎「なにわ独演会」

9月22日(土)大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)7階ホールへ。

Doom

  • 柳家喬太郎:家見舞
  • 柳家喬太郎:そば清
  • 一龍斎貞寿(講談):八百蔵吉五郎
  • 柳家喬太郎:結石移動症(喬太郎 作)

冒頭、前座の体(てい)で登場した喬太郎は「おあとをお楽しみに、しばらくお付き合いください」と笑わせて根多へ。開口一番がシモネタで、トリは現代のソープランドが登場する新作だったので心底驚いた!攻めてる〜ぅ。これ、観客に子供がいたら演れないね。

「家見舞」は引越祝いに水瓶を担いで訪れた二人組に対して家主の兄貴分が「今度フナを持ってきてくれ、フナは澱を食うらしい」と言うのに対して、「フナには及ばんよ。何しろその瓶にはついこないだまでコイ(肥)が泳いでいたのだからな」と答えるのがサゲなのだが、耳で聴いただけでは〈鯉→肥溜め〉という連想が出来なかった。この地口落ち(ダジャレ)は現代人に通用しないんじゃないだろうか?

ドーンセンターでの口演は初めてで、「参画(さんかく)センターと聞いていたので、江戸川乱歩『三角館の恐怖』みたいにホールが三角形なのかと想像していたら、違いました」と喬太郎。流石上手いこと言う。

「そば清」のマクラは青森県に招かれた時、ホッケの刺身が出たそう。「鮮度がよくないとなかなか食べられないんですよ」と言われ、「食べてみましたが……焼いたほうが美味しい」に場内爆笑。また秋田市のフードコート(@フォンテAKITA)に「おしゃれそば」なるものがあると紹介。チャーシューと支那竹が入っているという。さらに二つ目の頃、「乾電池くんと輪投げをしよう!」というイベントの司会で初めて大阪に営業に来たエピソードも飛び出して、「マクラが迷走してます」と自戒の念。

東京の講談師は現在、男性よりも女性の数が上回っているという。しかしトーンが高い女性の声による講談はどうも違和感がある。

「結石移動症」はかなり冒険的な根多だが、考えてみれば古典落語には「明烏」「三枚起請」「 紺屋高尾」「居残り佐平次」「品川心中」など遊郭を舞台にした廓噺沢山あるわけだから、確かにこういうのもあっていいなと思った。

それにしても医学的に出鱈目な病名で、いかにも落語的。面白かった!

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柳家喬太郎・柳亭市馬 「江戸落語 喜楽館寄席」

7月17日神戸新開地・喜楽館へ。

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東京・落語協会の面々が集った(故・桂歌丸や春風亭昇太らは落語芸術協会所属)。

  • 柳亭市坊:子ほめ
  • 柳家さん若:権助魚
  • 柳家喬太郎:孫、帰る(山崎雛子 作)
  • 柳家小菊:粋曲
  • 柳亭市馬:船徳

喬太郎の「孫、帰る」はお盆の噺だし、「船徳」といい、夏らしい噺を味わった。

柳家小菊は都々逸、寄席のうたを披露。江戸の「粋」を堪能した。痺れるね!

開口一番、「日大の内田です」と会場を沸かせた喬太郎(日本大学商学部経営学科卒)は「近くに高級なお風呂屋さんがある」新開地という場所のいかがわしさで客をいじり、東京の寄席も鈴本演芸場@上野のすぐ脇に「日本一ポン引きが多い通り」があることや、池袋演芸場の「い」は「いかがわしい」の「い」、「け」は「汚らわしい」の「け」。そういう「袋」なんですと。

山崎雛子は喬太郎が以前、池袋のカルチャーセンターで創作落語の講師を務めていたときの生徒らしい。噺の中で喫煙する場面があり、「従業員雇う飲食店は原則禁止」とする受動喫煙防止条例を提案した小池都知事に対するボヤキも。

 ー以下ネタバレあり、要注意!ー




「孫、帰る」の前半は爆笑の連続だったが、孫が実は交通事故で亡くなっていて幽霊だと分る後半は客席がしんと静まり返り、そのコントラストが鮮やかだった。どこか上方の「たちぎれ線香」に通じるものがある、傑作怪異譚である。

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桂文珍・あやめ「ベッコの会」@神戸新開地・喜楽館

7月13日(金)神戸・新開地にできたてホヤホヤの寄席小屋「喜楽館」へ足を運んだ。7月11日にオープンしたばかりである。

1階席は座席の前列・後列の間が広く、座り心地がとても良い。この点では天満天神繁昌亭を凌駕している。ただし2階席は幅が狭く、座ると膝が前列に当たるので、繁昌亭と同程度。よって断然1階席がお勧め。

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  • あやめ・智之介・三ノ助:神戸トーク(鼎談)
  • 笑福亭智之介:たぬさい
  • 桂三ノ助:皿屋敷
  • 姉様キングス(あやめ・染雀):音曲漫才
  • 桂文珍:旅立ち(文珍 作)

桂あやめ、笑福亭智之介、桂三ノ助は全て神戸市出身の落語家。桂文珍は神戸市灘区在住。つまり「ベッコ」とは神戸っ子のことらしい。

鼎談では地元のパン屋さんドンク -DONQ- を智之介が知らないことで盛り上がる。また神戸でメロンパンといえばラグビーボール型で中に白あんが入っており、あやめが大阪に行ったときに全く通じなかったというエピソードを披露。

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現在はコープこうべが「神戸ハイカラメロンパン」と命名し、ご当地フードとして定着させようと頑張っているという。因みに全国的に親しまれている円形のメロンパンは神戸でサンライズと呼ばれている。

また若い頃、あやめが神戸出身を打ち明けると「お嬢さんなんやね」と良く言われたが、そんなことは全く無い。神戸沿線は阪急線(山側)・JR線・阪神線(海側)で(社会階層が)線引されており、阪急沿線(高台)に住む人々は宝塚歌劇を観劇する層で、近所に「いかりスーパー」があって、その駐車場にはベンツとかBMWばかり停められており、「つっかけじゃ、いけへん」と。

「狸賽(たぬさい)」本来のサゲはサイコロの五の目を表現するために「狸が冠かぶって、杓(しゃく)持って、天神さんのかっこで立っとりました」なのだが、「神戸の人に天神さんの格好ってイメージ出来るんかいな?」と思って聴いていたら、智之介はサゲを変えてきた。これには納得。

「姉様キングス」としてあやめとコンビを組む林家染雀は大阪府八尾市出身。染雀は三味線、あやめはバラライカを持ち、どちらも三弦の撥弦楽器。あやめによると「父親が共産党」(←これ、「恋人はサンタクロース」の替え歌で姉様キングスのネタにもなっている)で、幼い頃ハレの日に洋食を食べるとなると必ず神戸にある老舗のロシア料理店「バラライカ」に行っていたと。店内に楽器が飾ってあって、それを弾いてみたいと思ったのが切掛だとか。

そして「のんき節」改め「喜楽節」、「ストトン節」、「あほだら経」などを披露。

桂文珍の創作落語「旅立ち」はセレモニーホールを舞台にした噺。桂歌丸の告別式に参列したエピソードを皮切りに、弟子・珍念の弟の葬儀で棺桶を担いだ逸話を面白可笑しく語り(どこまで本当か分からない)、麻原彰晃や金正恩など時事ネタを盛り込み、さすがの上手さだった。

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柳家喬太郎独演会@兵庫芸文(2日連続)

6月23日(土)、24日(日)、兵庫県立芸術文化センター中ホールへ。

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1日目

  • 春風亭正太郎:五目講釈
  • 柳家喬太郎:ほんとのこというと(喬太郎 作)
  • 江戸家小猫:動物ものまね
  • 柳家喬太郎:ぺたりこん(三遊亭圓丈 作)

2日目

  • 春風亭正太郎:四段目(上方では「蔵丁稚」)
  • 柳家喬太郎:錦の袈裟
  • 江戸家小猫:動物ものまね
  • 柳家喬太郎:名人長二 〜仏壇叩き〜
          (三遊亭圓朝 作)

喬太郎はこまつ座で上演された井上ひさし作「たいこどんどん」(演出:ラサール石井)に出演したエピソードを披露。ふんどし姿になる場面があり、バレエの衣装を売っている店に行ってTバックを購入した。もの凄く恥ずかしかったと。そもそもの切掛は映画やドラマでも活躍する春風亭昇太が電話を掛けてきて、ラサール石井からの出演依頼を伝え、「出なよ」と説得されたそう。

また福家書店で書店員として働いていた頃の想い出も。

神戸・新開地に出来る寄席小屋「喜楽館」については、「いかがわしい場所にあるのは正しい!」と。そして東京の新宿末広亭や鈴本演芸場などが、いかに「いかがわしい場所」にあるかを面白可笑しく解説してくれた。

「ぺたりこん」はカフカ「変身」のような不条理噺である。そこに浮かび上がるのは人の悪意や醜さであり、実に面白い作品だ。

圓朝の傑作では喬太郎の描く人物像に凄みがあった。ちょっと怖いくらい。

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夜鷹は何故、そう呼ばれたか?

江戸を描いた時代小説や落語などにしばしば登場する「夜鷹」とは夜、道ばたで客を引いた、下等の売春婦のことを指す。

江戸落語「時そば」で言及される「夜鷹そば」の由来は諸説あるが、最も有力な説は夜鷹を相手に商売したからだという。夜鷹には「二十四文」の異名があり、二十四文が相場だった。蕎麦の相場は十六文(天ぷらそばが三十二文)。天保二年(1831)の川柳に次のようなものがある。

客二つ つぶして夜鷹 三つ食い

つまり夜鷹が客を2人相手すれば稼ぎが24文×2=48文なので、蕎麦が3杯食べられたという意味である(16×3=48)。これはしばしば「時そば」のマクラで紹介される。因みに江戸時代の一文の価値は現代の貨幣に換算すると25-30円程度なので、夜鷹の相場は700円前後!?正に最下層と言える。

「夜鷹」は江戸固有の呼び方、土着の言葉で、京都では「辻君」、大坂(大阪と表記されるようになったのは明治以降)では「惣嫁(そうか)」と呼ばれた。

ではどうして彼女たちは「夜鷹」に喩えられたのか?辞書などの説明では夜行性だからとしか書かれていない。しかし考えてみれば夜行性の動物なんて、ニシキヘビとかミミズク、フクロウ、アマガエル、サンショウウオ、タヌキなど沢山いる。何故ヨタカが選ばれたのだろう?そこに必然性があったことを僕は今になって初めて知り、衝撃を受けたのでご紹介したい。

フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースはその著書「やきもち焼きの土器つくり」(みすず書房)に於いて、南アメリカ・アンデス山脈に暮らすヒバロ族の神話を発端に、ヨタカについての考察を展開している。この鳥は目の後ろ耳元まで裂けた口や夜行性の習性を特徴に持つ。

Yotaka

彼らは巣を作らず、地面あるいは石の上に直に卵を二つ産み付ける。

それと対照的なのが、立派な巣作りをするカマドドリである。

Kamado

神話に登場するヨタカは三つの欲望ないしは感情、すなわち吝嗇嫉妬恨みがましさに結び付けられる。これらは口唇的欲望を共示している。口唇は肛門に対立し、身体の開口に関わっている。そして肛門/膣による欲望と変換による対応関係にある。ギニアのカリブ族は夜だけ活動するヨタカを、孤独と放蕩の象徴としており、ブラジルの先住民はしばしばヨタカの大口を女陰になぞらえる。

つまり江戸固有の土着の言葉「夜鷹」は鳥の開口を陰唇に見立て、その貪欲さを淫乱の隠喩としているのだ。

それだけではない。

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夜鷹の絵である。彼女はござを抱えている。なんとこれが商売道具なのだそうだ。つまり部屋を借りるとお金が掛かるので、ことは全て野外で済ませた。そして鳥のヨタカも巣(=家)を作らない。正にこれぞ「野生の思考」と言えるだろう。

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「シェイプ・オブ・ウォーター」がアカデミー作品賞を受賞した歴史的意義を「野生の思考」で読み解く。

2018年僕のアカデミー賞予想は17部門的中であった。過去に20部門的中させたことがあるので、今年はまぁまぁかな。

それにしても獲れないだろうと諦めかけていた「シェイプ・オブ・ウォーター」が見事作品賞を受賞したのには息を呑んだし、心底嬉しかった。大アマゾンの半魚人を主人公とするモンスター映画がアカデミー作品賞を受賞する時代が訪れようとは、一体誰が想像しただろう?これはもう歴史的快挙大事件である。

僕のアカデミー賞に対する不信感は1983年に遡る(今から35年前!!!)。この年、作品賞・監督賞でスピルバーグの「E.T.」が凡庸な「ガンジー」に敗れたのである。どちらが歴史的傑作で後世に多大な影響を及ぼしたか?火を見るより明らかだろう(スピルバーグは「未知との遭遇」でも監督賞候補になったが、「アニー・ホール」のウディ・アレンに攫われた)。この時からスピルバーグの「アカデミー賞欲しい病」が始まった。宇宙人が出てくるSF映画ではアカデミー会員に認めてもらえない。彼は方針転換し、アカデミー賞を獲るために「カラー・パープル(受賞失敗)」「シンドラーのリスト(成功)」「プライベート・ライアン(成功)」を撮った。

故にギレルモ・デル・トロは作品賞受賞スピーチで幼いころメキシコで観た「E.T.」について触れ、数週間前にスピルバーグから言われた言葉を紹介した。

"If you find yourself there, find yourself at the podium, remember that you are part of a legacy. You are part of a world of filmmakers, and be proud of it.”

「もし君が受賞出来て表彰台(壇上)に立てたなら、君は映画遺産(レガシー)の一部になるんだ。偉大な先達の映画製作者(フィルムメーカー)たちが築いてきた世界の一員に加わることになる。そのことを誇りに思いなさい」

この言葉に込められた含意を僕なりに翻訳すればこうなる。「35年前にE.T.で俺が味わった無念をどうか君が晴らしてくれ。絶対にこのモンスター映画でオスカーを勝ち取り、新たな歴史を刻め!!胸熱である。

デル・トロの受賞で、メキシコの三羽烏(The Three Amigos of Cinema)が揃い踏みとなった。アルフォンソ・キュアロンが「ゼロ・グラビティ」で、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは「バードマン」と「レヴェナント」で2年連続アカデミー監督賞を受賞しているからである。3人は大の仲良しで、共同取締役として「チャチャチャ・フィルム」を立ち上げた(ニューヨーク・タイムズの記事はこちら!←写真あり)。「シェイプ・オブ・ウォーター」のエンド・クレジットでもspecial thanksとしてジェームズ・キャメロン、コーエン兄弟らとともにキュアロンとイニャリトゥの名が挙げられている。

「シェイプ・オブ・ウォーター」と共に、ピクサー・アニメーション「リメンバー・ミー」の舞台としてもメキシコが脚光を浴びた。また大プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ問題に端を発し、性暴力被害者が#MeTooや#TimesUpとSNSで声を上げ、それは授賞式にも波及した。そして主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドはスピーチの中でアカデミー賞候補になった女性を全員立たせ、“Inclusion Rider”をぶち上げ話題を攫った。

これを切っ掛けに、ハリウッドはさらに大きな変革の時を迎えるだろう。

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評価:A

「シェイプ・オブ・ウォーター」も弱者・マイノリティに寄り添う映画である。本作の登場人物たちはみな孤独で、差別される者たちだ。半魚人(モンスター)、障害者、女、黒人、LGBT、そしてソ連のスパイ。彼らはひとりひとりだと無力だが、力を合わせることで何事かを成し遂げるのだ。

ハリウッドという夢の工房は生まれたての頃から世界中の才能を貪り食ってきた。サイレント時代のチャップリンはイギリスから大志を抱いて渡ってきた。ルドルフ・ヴァレンティノはイタリアから、グレタ・ガルボやイングリット・バーグマンはスウェーデンからやって来た。特に第二次世界大戦中はナチス・ドイツを逃れてユダヤ人を中心とする大量の亡命者が押し寄せた。この頃、フランスの大監督ジュリアン・デュヴィヴィエ(望郷、舞踏会の手帳)やルネ・クレール(巴里の屋根の下、巴里祭)、ジャン・ルノワール(大いなる幻影、ゲームの規則)らも一時期アメリカに身を寄せた。

デル・トロが授賞式のスピーチで言及したダグラス・サーク(天はすべて許し給う、風と共に散る)とウィリアム・ワイラー(ローマの休日、ベン・ハー)の場合を見てみよう。

サークはデンマーク人の両親の元、ドイツのハンブルクで生まれた。妻がユダヤ人だったため、1937年にドイツを離れアメリカへ亡命した。

ワイラーはアルザス地方のミュルーズ(現在はフランス領だが当時はドイツ帝国)で生まれた。両親はユダヤ人だった。映画を志し、職を求めて1920年18歳で渡米した。第二次世界大戦中は陸軍航空隊中佐として従軍し、「メンフィス・ベル」や「サンダーボルト」など戦争ドキュメンタリー映画を撮った(ワイラーとは別の戦闘機に乗り込んだ撮影監督は撃墜され、死亡した)。その際に故郷ミュルーズに立ち寄ったが、家族はドイツ軍に連れ去られた後で、もぬけの殻だった。

つまり映画界ではまずヨーロッパ→ハリウッドという才能の流出があり、20世紀後期以降はその流れが中南米&オセアニア→ハリウッドに変わったということである。因みにオセアニア(オーストラリア・ニュージーランド)の才能としてはニコール・キッドマン、ヒュー・ジャックマン、メル・ギブソン、ピーター・ジャクソン(ロード・オブ・ザ・リング)、バズ・ラーマン(ムーラン・ルージュ、華麗なるギャツビー)、ジョージ・ミラー(マッドマックス 怒りのデス・ロード)らがいる。

「シェイプ・オブ・ウォーター」は現代のお伽噺であり、一つのメルヘンだ。ここからは臨床心理学者・河合隼雄の著書「母性社会日本の病理」「昔話と日本人の心」「昔話の深層 ユング心理学とグリム童話」等で得た知識を基に論を進めてゆきたい。河合は日本人として初めてユング派分析家の資格を取得した人だが、スイス・チューリッヒにあるユング研究所では神話や昔話の研究をしているという。それらと心理学に一体どんな関係があるのか不思議に思われるかも知れない。神話や昔話は人から人へと口伝えされた伝承である。そこには数多くの人々の集合的(普遍的)無意識が集積していると考えられるのだ。日本の落語も同様である。

ここで面白いのは西洋の昔話・童話には人間と他の生き物(獣・物の怪)が結婚して子供が生まれるという物語が一切ないということである。「美女と野獣」にせよ、「カエルの王子」にせよ、元々人間だった者が魔法で野獣やカエルに変えられてしまい、人間に戻ってから結婚するのである。アンデルセンの「人魚姫」は人間の姿に変身するが、結局王子様とは結ばれず、泡になって消えてしまう。

ところが日本の場合、「鶴女房(鶴の恩返し/夕鶴)」は鶴と人間が結婚し、「狐女房(落語では「天神山」/「安兵衛狐」)」はキツネと人間が結婚し子作りをする。羽衣伝説は天女と人間が結婚し、やはり子供が出来る。どうして欧米にはこのような物語がないのだろう?そこにはキリスト教が濃い影を落としている。

旧約聖書の「創世記」で最初の人間(アダム)は神に模して創造される。そして女(イヴ)はアダムの肋骨から創られた。つまり人は神の似姿(肖像)なのであり、特別な存在、つまり一番偉いのだ。故に他の動物とは明確に区別される。未だにダーウィンの進化論を絶対に認めないキリスト教徒の一派がいる所以である(→進化論裁判)。

キリスト教は父性原理の宗教だ。三位一体「父(神)と子(イエス)と精霊」が重要であり、女性は一切関与しない。女性はローマ法王になれない。父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。光と闇、天国と地獄、天使と悪魔、正義と悪といった具合に二項分類する。それを発展させたのが二進法で計算処理するコンピューターだ。0か1か、白か黒か。人間と自然も完全に分けて考える。自然はあくまでも利用する対象であり、客観的に自然現象を観察し、近代科学を飛躍的に発展させた。彼らにとって最も崇高なものは理性であり概念である。皮膚感覚(感性)は下等なものとして蔑ろにされた。

一方、日本人は母性原理で生きて来た。天照大神(アマテラスオオミカミ)も女性である。母性原理は全てを包み込み、呑み込む。我々は自然と自分たちを一体と見做し、切断しない。だから狐や鶴とでも結合出来るのである(西洋人にとっては「考えられない」「気持ち悪い」行為だろう)。日本の社会では個人主義も徹底されず、他者と交流(やりとり)も以心伝心に重きを置き、「なあなあ」の、何となく「くっついた」関係で生活している。

自然を客観視し徹底的に管理・制御(control)しようとする欧米諸国と、そのまま溶け込もうとする日本の違いはイギリス式/フランス式庭園と、日本庭園の差異に如実に現れている。

人間と自然を別のものとして分離し、肉体と精神をも分けて考えようとする西洋的・キリスト教的思考に異を唱えたのがフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースが書いた「野生の思考」(1962年出版)である。人間と自然(他の動物)の間に壁はないし、肉体と精神もひとつだと彼は主張した。そして南北アメリカ大陸先住民の神話研究に没頭した。

彼は神話的思索の方法をブリコラージュと表現した。ブリコラージュは「器用仕事」とか「寄せ集め細工」「日曜大工」と訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。ブリコルール(器用人)は手持ちのものを調べ直し、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選び、組み立てる。夜遅く帰宅し、冷蔵庫にあるありあわせのものでちょちょいと料理するイメージだ。

ではお伽話であり現代の神話とも言える「シェイプ・オブ・ウォーター」に於けるデル・トロの思考はどうだったか?中を覗いてみよう。

まず1954年のユニバーサル映画「大アマゾンの半魚人」があった。デル・トロは6歳の時にテレビで観ている。それにアンデルセンの「人魚姫」をくっ付けた(ヒロインは声を失っている)。さらにダグラス・サーク監督のメロドラマ風味を加え、副菜としてスタンリー・ドーネン(雨に唄えば)やヴィンセント・ミネリ(巴里のアメリカ人、バンド・ワゴン)などMGMミュージカル要素を添えた。1960年代に流行ったスパイ映画の雰囲気(007シリーズ、さらばベルリンの灯、国際諜報局、寒い国から帰ったスパイ)も盛り込んだ。また葛飾北斎が描いた鯉の鱗が半魚人のデザインに応用されており、ヒロイン・イライザが住むアパートの壁紙にもそのモティーフが用いられている。正にブリコラージュ野生の思考である。

因みに「シェイプ・オブ・ウォーター」で半魚人を演じるダグ・ジョーンズはデル・トロの「ヘルボーイ」シリーズでも半魚人エイブを演っている。

それにしても半魚人と人間の女性がセックス(結合)する映画がヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、ハリウッドもその価値を認めたのは画期的である。欧米人(キリスト教徒)たちは変わりつつあり、野生の思考を取り戻そうとしている。そんな手応えを今、ひしひしと感じている。

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笑福亭鶴笑一門会だど!

2月26日(月)天満天神繁昌亭へ。

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  • 笑福亭鶴笑:ご挨拶
  • パピプ亭パペット:パペット落語「平林〜夏の医者」
  • 笑福亭笑利:パペット落語「もののけ姫」
  • 笑福亭鶴笑:パペット落語「平の陰(手紙無筆)」
     中入り
  • 全員:人形劇「三枚のお札」
  • 笑福亭笑子:パペット落語「あたま山(さくらんぼ)」

オーストラリア在住・笑子の帰国に合わせて開かれた一門会。全部人形が登場するという異色の会だ。パピプ亭については、落語に本格的に取り組みたいというよりはむしろ、ゆる〜く演りたいという弟子に名乗らせているそう。パピプ亭パペットは女性なので、商家の旦那を演じるのに違和感あり。

で「夏の医者」と「もののけ姫」の両者には大蛇(うわばみ)が登場し”ネタがついた”ので、会場は大爆笑となった。

「手紙無筆」はパペットの笑福亭つる吉が落語を演るという趣向。

いやー面白かった!これぞ名人芸。

人形劇は笑利が操演した山姥がエキセントリックで最高!彼、もの凄く才能あるわ。驚いた。

「あたま山」は鶴笑版を観たことがある。

てっきり師匠の小道具を借りてやるのかと思いきや、笑子のオリジナルで、台本も全く異なるものだったので感心した。但し、エピローグは蛇足かな。

兎に角愉しかったので、こういう一門会があればまた行きたい。

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笑福亭鶴瓶落語会 2018@兵庫芸文

1月28日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

  • 笑福亭鶴瓶:鶴瓶噺(Stand-up comedy)
  • 笑福亭由瓶:鉄砲勇助
  • 桂吉弥:七段目
  • 笑福亭鶴瓶:妾馬(八五郎出世)
  • 笑福亭鶴瓶:徂徠豆腐(そらいどうふ)ネタ下ろし

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鶴瓶は開口一番「いま楽屋で週刊文春の記事を読んでました。僕のことが載っていると聞いたので。(桂)文枝兄さんの件とちゃいますよ」(会場笑い)。

彼は1月初旬に前立腺精密検査目的で入院した(結果は良性)。退院後、週刊文春の直撃取材を受けたそう。前立腺ということも調べ上げられており、その取材力に感心したと。「あの人たちは下半身のことに煩(うるさ)いんです。容赦しません」

吉弥は戌年にちなみ、故・桂枝雀のSRから「犬」と「定期券」をマクラで紹介(その中身はこちら)。そしてハメモノの入る芝居噺を得意とした師匠・吉朝譲りの鉄板ネタ「七段目」へ。

鶴瓶の「妾馬」は昨年の落語会でも聴いた。「一年間、これで全国を回ってきたので、どう変わったかその成果を聴いてください」と。軽妙で可笑しい。この人情噺は演者が泣かせにかかるとホトホトうんざりさせられるのだが、鶴瓶の場合そんなことは一切ない。家族に乾杯Ver.というか、こざっぱりして嫌味がない。good !

「徂徠豆腐」は江戸中期の儒学者・荻生徂徠の逸話。元は講談ネタ。鶴瓶がこれを演ろうと思った切っ掛けは、近頃の政治家が信用出来なくなってしまったからだという。彼は住民票が西宮市にあるので、テレビで号泣した県議とか、新聞記者に暴言を吐いた市長とか……。「投票した時は若くていい人に見えたんです。見かけだけじゃ判りませんねぇ」そして雑誌の対談で会った中曽根康弘・元総理とか、野中広務・元官房長官がどれだけ立派な人たちであったかを語った。

立川志の輔がこれを高座に掛けているのを聴いて気に入り、志の輔に上演許可を貰おうとしたら「あ、あれは僕のじゃないんです」と別の師匠を紹介された。面識はなかったが電話を掛け、ツマガリ@甲陽園のケーキを送ったと(ここで会場がドッと沸く)。

清々しいネタ。鶴瓶は「お直し」とか「山名屋浦里」など若い女性(花魁)を演じると違和感ありまくりだが(大阪のオバチャンにしか見えない)、こういうのは良い。一聴の価値あり。

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【アフォリズムを創造する】その4「立川談志とニーチェ」

ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で初めて語られた【力への意志】とは弱い(仕える)者が強い者(主人)になりたいという意志のことである。永遠の善悪など存在しない。善悪は、自分で自分を繰り返し克服していくしかない。権力者(神/社会)が定めた道徳、善悪の基準に縛られて、自分の欲求・願いを我慢するのは愚かなことだ。自分自身で善悪を創造せよ。そのためにはまず既存の価値観を破壊しなければならない。

【力への意志】Wille zur machtという言葉はナチス・ドイツにより曲解され、悪用された。レニ・リーフェンシュタール監督が国家社会主義ドイツ労働者党の第6回全国党大会の様子を撮った余りにも有名な記録映画「意志の勝利」Triumph des Willensのタイトルも明らかに【力への意志】を意識したものだ。ツァラトゥストラは語る「俺が待っているのは、もっと高い者、もっと強い者、もっと勝利を確信した者、もっと快活な者だ」(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)。「わが闘争」を読めば判るがヒトラーは自分こそが超人だと考えていた。しかしその実態はゲルマン民族至上主義の差別者であり、戦争を引き起こし国民に犠牲を強いる単なる独裁者でしかなかった。

ナチの思想はニーチェの考えとかけ離れているが、その哲学の危うい(誤解されやすい)側面を示していることも否定出来ない。

落語とは「人間の業」を肯定する芸能だと噺家・立川談志は語った。その思想はニーチェが説く【力への意志】とほぼ同じことを言っている。落語を聴き、朗らかに笑え。それが超人への第一歩となる。笑うライオンになれ!

立川談志の著書に「現代落語論」がある。そしてその続編「あなたも落語家になれる」に、かの有名な一節が登場する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。

「人間の業」の肯定とは自分自身の欲望に素直になり、それを無理矢理抑えつけるなということである。つまり【力への意志】だ。

「ツァラトゥストラはかく語りき」でニーチェはイエス・キリストが笑わないことを非難する。よく笑い、踊り、鳥のように軽やかに飛べ!がニーチェの主張だ。

ニーチェは「神は死んだ」と言い、キリスト教を徹底批判した。彼の両親は共にプロテスタントの牧師の家系であった。フロイトに師事して精神分析家となり、後に考え方の違いから袂を分かつたユングもプロテスタント牧師の家に生まれた。さらに「神の沈黙」三部作と呼ばれる映画を撮ったスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの父もまた、牧師だった。彼らがその思想を深化させた根源には父親に対する承認欲求反発があり、それが拗(こじ)れ、暴走したものと考えられる。

ウディ・アレンも私淑するベルイマンの映画「仮面/ペルソナ」はユング心理学に基づいており、また映画冒頭にキリストのメタファーであるタランチュラが登場するが、これはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」から拝借したアイディアである(第2部「タランチュラについて」)。

息子の父親に対する承認欲求がいかに強いかは、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の映画「エデンの東」が見事に描いている。

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笑福亭鶴笑 IN ナカノシマ大学寄席「奇想天外の落語 ーあたま山 VS 理論物理学ー」

7月12日(木)大阪大学中之島センターへ。

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  • 笑福亭鶴笑:落語「あたま山」
  • 高島幸次大阪天満宮文化研究所員、大阪大学招聘教授):講演
  • 橋本幸士(大阪大学教授、理論物理学者):講義
  • 鶴笑・橋本・高島:鼎談

落語「頭山」はシュールな江戸落語である。上方では小佐田定雄が脚色し、桂枝雀が「さくらんぼ」として演じた。現在ではその弟子の雀々が受け継いでいる。また山村浩二がこれを基に短編アニメを作成し、アヌシー国際アニメーション映画祭で最高グランプリを受賞、ザグレブ・広島のアニメーション映画祭でもグランプリを受賞し三冠を達成した。米アカデミー賞にもノミネートされている。

まず司会の高島招聘教授から挨拶があり、「鶴笑師匠は奇想天外なパペット落語を演る奇人です。橋本教授は天才。二人の対決をお楽しみに」と。

鶴笑登場。師匠の笑福亭松鶴は「芸は人に教わるもんやない。盗むもんや」と言っていた。そして入門当初に習った「平林(たいらばやし)」が如何にへんてこりんな落語かを語った。

続いて枝雀のショート落語(SR)「スビバセンおじさん」から、

おじさんが大きな穴を掘っているので訊ねると、誰かがここに深い大きな穴があると言ったので、それを一生懸命探しているという。

日に一本ずつ煙突が増える工場。何の工場かと訊けば、煙突の工場でないかとの答え。

プラグをコンセントに差し込んだり抜いたりしても、電灯が点かない。「見てみ。あのおっちゃん、さっきから頭がピカッと光ったり消えたりしとるで」

などを披露。

「あたま山」はまず物語を一通り演じ、続けて森山直太朗の歌「さくら」に乗せ、サイレント(パントマイム)のパペット落語に移行した。秀逸。場内爆笑。

高島教授は【死を考える】落語として「胴斬り」「首提灯」「粗忽長屋」を挙げた。一人称の死・二人称の死・三人称の死があるが、いつも我々が体験するのは二人称の死。「されど死ぬのはいつも他人」(マルセル・デュシャン)。一方、【異国を訪ねる】落語があり、その代表格が「一眼国」「地獄八景亡者戯」「松山鏡」。江戸時代には見世物小屋で七面鏡(詳しくはこちら)が話題となっており、「松山鏡」にはその影響が伺える。そしてその源流は恐らくスウィフトの「ガリヴァー旅行記」だろう(「ガリヴァー旅行記」には日本が登場する)。また「あたま山」の原話は吉田兼好「徒然草」〜”堀池の僧正”のエピソードではないかと。

橋本教授はサンダル履き、半袖半ズボン姿で登場。「これが理論物理学者の普通の恰好です」と。全宇宙は17の素粒子のみで構成されていると説明し、「宇宙を支配する数式」を示した。

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音も素粒子で構成されているという。

続いて「物理学の手法」を解説。

  1. 問題の抽出
  2. 定義の明確化
  3. 理論による演繹

「頭山」の場合、1.自分の頭の上に出来た池に溺れるとはどういう状況か? 2.「溺れる」の定義は頭の周囲が水に覆われる状態である。3.重力が下向きに作用するという状態が、問題解決を困難にしている。→ならば、「宇宙に逃げた」ならどうか?無重力なら水は球体になる。→数式により顔の表面が1cm幅ですっぽり水に覆われた状態になり得る。Q.E.D.証明終了。

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座談会ではまず平田オリザ作「素粒子の世界」という落語があることが話題に。そして鶴笑の「パペット落語」が生まれた背景について司会者から質問あり。落語ブームが到来するまで(「タイガー&ドラゴン」「ちりとてちん」放送以前)は落語会に来る客が5−6人なんてことはザラだった。吉本興業に所属する鶴笑は「心斎橋筋2丁目劇場」(1986年開業 - 99年閉館)に出演していた。ダウンタウンの絶頂期だった。マネージャーから「落語はいらんねん」と言われた。自分がステージに上がると客はトイレ休憩するために出ていった。そんな中で格闘しながら思いついたのが人形を使うことだった。「膝小僧」という言葉もあるし、膝も活用しよう。そして現在、「パペット落語」のネタは30に達した。イラクやアフガニスタンの難民キャンプでも公演した。「笑いは世界の共通語」。しかし、人が安心しないと笑いは生まれない。機関銃を持った兵士に守られている場所ではなかなか難しいなどといったことを語った。

ここで司会者が呼びかけ、会場で聴いていた精神科医のMr.X(事情があって名は明かせない)が加わった。「粗忽長屋」などは統合失調症の患者に典型的な自我障害であると。「私を飛び越える」行為と言える。理論物理学者を見ていると、そういう自我からポーンと遠くに飛び越えることを普段からやっているのではないか?しかし学者は自在に元の場所に戻ってこれる。患者はコントロールが効かない(戻れない)。そこに違いがあるのだろうと。橋本教授は「そういえば理論物理学者は車の運転をしちゃいけないと言われています」と答えた。ふと我に返ると赤信号を通り過ぎちゃったということがあるそう。

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最後に。 橋本教授が着ているのは【反り牛=そりゅうし】Tシャツだって!

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