クラシックの悦楽

2023年5月27日 (土)

クラシック通が読み解く映画「TAR/ター」(帝王カラヤン vs. バーンスタインとか)

評価:A+

アカデミー賞で作品賞/監督賞/主演女優賞/脚本賞/撮影賞/編集賞の6部門にノミネート。ケイト・ブランシェットがクラシック音楽界の頂点に上り詰めた指揮者を演じる映画『TAR/ター』公式サイトはこちら

Tar

無茶苦茶面白かったのだけれど、普段クラシック音楽に余り親しんでいない観客にはどう受け止められたのだろう?という気持ちにもなった。ある程度クラシック音楽の知識を持っていた方がさらに数倍楽しめる映画だと思うので、クラオタの視点から本作に新たな光を当てていきたい。

史実におけるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者の変遷は以下の通り。

〈フルトヴェングラー(一時期ルーマニア出身のセルジュ・チェリビダッケ)→カラヤン(オーストリア:ザルツブルク)→クラウディオ・アバド(イタリア)→サイモン・ラトル(イギリス)→キリル・ペトレンコ(ロシア)〉

しかし映画では〈フルトヴェングラー→カラヤン→アバド→アンドリス・デイヴィス→リディア・ター〉という流れのようだ。

アンドリス・デイヴィスという名前が面白く、現在もベルリン・フィルに客演しているアンドリス・ネルソンス(ラトビア)と、アンドルー・デイヴィス(イギリス)あるいはコリン・デイヴィス(イギリス)を掛け合わせたのだろう。

巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラー亡き後、1955年にベルリン・フィルの首席指揮者として破格の終身契約を結び(この時水面下で交わされた駆け引きが実に面白いのだが、それはまた別の話)、帝王と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)は、ベルリンでスターは自分一人で十分だと考えていた。故にライバルであるレナード・バーンスタイン(1918-1990)を客演指揮者として一度も定期演奏会に招かなかった。

バーンスタインは生涯に一度だけベルリン・フィルを指揮したことがある。1979年10月4日と5日の演奏会で、曲目はマーラー:交響曲第9番だった。

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正に一期一会、伝説的名演として知られ、1992年に漸く発売されたライヴ音源は日本の「レコード芸術」誌においてレコードアカデミー大賞を受賞した。その演奏会直後の79年11月から翌80年にかけてカラヤンは同曲をベルリン・フィルとセッション録音した。彼はそれまで一度も演奏会でこの曲を指揮したとがなく、ボウイング(弦楽器の運弓法)などバーンスタインがオケを鍛えたノウハウを利用/活用したのではないかという疑惑が囁かれている。実はカラヤンには前科がある。

1949年夏に引き続き1950年8月、フルトヴェングラーはザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮し、モーツァルトの歌劇『魔笛』を上演した。その年の11月、カラヤンはウィーン・フィルを指揮し『魔笛』をセッション録音した。キャスト(歌手)は、フルトヴェングラーがザルツブルクで指揮した『魔笛』とほぼ同じだった。フルトヴェングラーはこれを知り激怒した。自分が2年間にわたってザルツブルクで練り上げた成果をカラヤンが横取りしたと感じたのだ。まるで自分はカラヤンのリハーサル指揮者ではないか。(参考文献:中川右介 著『カラヤンとフルトヴェングラー』幻冬舎新書)

バーンスタイン(以下愛称のレニーと呼ぶ)がベルリンに登場したのはドイツ連邦政府が主催するベルリン芸術週間であり、カラヤンの管轄外だった。しかしカラヤンはこの歴史的音源が世に出ることを、自分が生きている間は阻止することに成功した

映画の冒頭、ケイト・ブランシェット演じるターが足でカラヤン/ベルリン・フィルの「マーラー:交響曲第9番」(1982年ライヴによる再録音)LPジャケットを足で払いよける場面があるのはそうした経緯がある。彼女はレニーに師事した経歴を持ち、同じ部屋にレニー/ベルリン・フィル「マーラー9番」LPもある。

対談の中でターは、生前のレニーから受けた教えで一番印象に残っているものは何かと問われ、次のヘブライ語を挙げる

精神的な集中を意味する〈カバナ kavanah〉と、(罪を悔い改め神の元へ)回帰することを意味する〈テシュヴァ teshuvah〉である。英語では"intension" and "return"。

レニーと親交が深かった指揮者・大植英次は次のように回想している。

「バーンスタイン先生は、正式に弟子というものを取ったことがなかった。世界に、バーンスタインの弟子、と言って喧伝しているものは少なくないが、セミナーやリハーサルなどで一緒に時間を過ごしただけの者が多い」しかし「もし、一人あげるならば、それはマイケル・ティルソン=トーマス」(山田真一著「指揮者 大植英次」アルファベータ より引用)

  大植英次、佐渡 裕~バーンスタインの弟子たち 2008.02.29

劇中ターがラジオから流れてくるマイケル・ティルソン=トーマス (MTT) 指揮するショスタコーヴィチ:交響曲第5番の終結部を聴き「こんなにテンポを遅くしては駄目」と言う(ショスタコの5番もレニーが得意とした曲)。同じ門下生としての対抗意識が剥き出しにされる場面だ。なおターは同性のパートナーであるベルリン・フィルのコンサートマスター(コンサートミストレスとも言われる)シャロンと暮らし、養女を育てており(ドイツでは2017年10月1日から同性婚が認められた)、MTTはゲイであることをカミングアウトしている。一方、レニーは結婚し子供も生まれたが、ゲイだったことはよく知られている(詳しい事情は今年Netflixから配信される予定のブラッドリー・クーパー監督・主演の映画『マエストロ』をご覧あれ)。またニューヨーク、マンハッタン生まれの女性指揮者マリン・オールソップについて言及されるが、彼女も同性愛者であるとカミングアウトしており、パートナーとの間に息子が一人いる。レニーが提唱し、1990年に始まった若い音楽家のための教育音楽祭PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌)の第1回にマリン・オールソップは参加し、佐渡裕と共に(交代で)指揮台に立った。そしてその3ヶ月後にレニーは亡くなった。彼女がターのモデルであることは間違いないが、この映画に対しては否定的なコメントを表明している。

映画の最初の方でターが受け取った、送り主不明の本はイギリスの女性作家ヴィタ・サックヴィル=ウェストの小説『Challenge』初版本。日本語訳はない。ヴィタはヴァージニア・ウルフの恋人で、名作『オーランドー』のモデル。同性愛は当時のイギリスで非合法だった。

マリン・オールソップと共に代表的な女性指揮者として劇中で名前が挙げられるナディア・ブーランジェ(1887-1979)について。フランスの作曲家・指揮者・ピアニスト・教育者で、詳細は不明だがレニーも彼女の門下生だそうだ(Wikipediaに記載されている)。映画『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』『華麗なる賭け』の作曲で知られるミシェル・ルグランもパリ国立高等音楽院で彼女の薫陶を受けた。また何と言っても面白いのはタンゴの革命児アストル・ピアソラの逸話だろう。1954年、33歳の時、タンゴに限界を感じたピアソラは渡仏しパリでナディア・ブーランジェに師事する。ピアソラが提出した〈クラシック音楽〉の楽譜に首を傾げた彼女は「アルゼンチンではどんな音楽をやっていたの?」と訊ねた。渋々自作のタンゴを彼女に見せると「これが本物のピアソラよ。この音楽を決して捨ててはいけない」と励ましたという。 新生ピアソラ (Nuevo tango) が誕生した瞬間である。

カラヤンがベルリン・フィルとマーラーの交響曲第5番を初めて演奏したのは1973年。2月13日から16日にかけドイツ・グラモフォンにセッション録音し、翌17日に定期演奏会で聴衆に初披露した。レコーディングだとたっぷりリハーサルに時間をかけられるので(経費はレコード会社が全て負担)、レコーディング→演奏会本番というパターンを彼はしばしば行った。シンフォニーの第4楽章 アダージェットが有名になるきっかけとなったルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』が公開されたのが1971年だから、商売上手なカラヤンはその人気に便乗したのではないかと僕は疑っている(カラヤンの死後コンピレーション・アルバム『アダージョ・カラヤン』が発売されヨーロッパや日本で驚異的な大ヒット、全世界で500万枚以上売れた。その冒頭にアダージェットは収録されている)。ターがリハーサルでアダージェットを指揮する場面があり、ヴィスコンティに言及する。

 ・  ヴィスコンティ映画「ベニスに死す」の謎

Karajan

映画の後半、彼女が「私が所有するマーラー5番のスコアを盗まれた!」と騒ぎ立てる場面があるが、スコアには様々な書き込みをしている筈であり、つまり自分のアイディア・解釈を盗まれたと言っているのだ。これはレニーとカラヤンの確執を彷彿とさせる仕掛けになっている。

カリスマ的天才指揮者カルロス・クライバー(1930-2004)はレパートリーが非常に少ないことでも知られている。実は彼が指揮した曲の殆どは偉大な父エーリッヒ・クライバー(1890-1956)が生前指揮したものであり、カルロスは父が残したスコアへの書き込みなど資料をふんだんに活用し、メモがないものに対しては自信がなかったのではないかと推測される。とてもセンシティブな人だった。ちなみに僕は中学生の時に彼が指揮するミラノ・スカラ座引っ越し公演プッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』を大阪・旧フェスティバールで鑑賞している。

 ・ シリーズ《音楽史探訪》音楽家の死様(しにざま) 2014.04.21

映画でマーク・ストロング演じる投資銀行家で、アマチュア・オーケストラの指揮者としても活動するエリオット・カプランのモデルはギルバート・カプラン(1941−2016)だろう。アメリカの実業家でアマチュアながらゲオルグ・ショルティに師事。大好きなマーラー:交響曲第2番「復活」のみを専門にする指揮者として自費を投じコンサートを世界各地で開き、最終的にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振ったCDを天下のドイツ・グラモフォンから発売するまでに至った。

Kaplan

ターはアバド/ベルリン・フィルが1993年に録音したマーラー:交響曲第5番のLPジャケットを選び出し、それを模した写真を取ろうとする。彼女は常に『自分はどう見られているか』を意識しており、性格的にカラヤンに最も近い人物像となっている。

カラヤンはセルフ・プロデュース力に長け、常に自分が最も美しく写真に撮られることを心がけた。彼はおびただしい数のコンサート映像を残したが、映像演出にも口を出した(オペラ演出もした)。基本的に指揮する彼の顔は正面よりも横顔が映し出される方が多い。自分の横顔が美しいことを彼はよく知っていたのだ。そしてカメラはオーケストラの楽器を大写しにするが、奏者の顔は写さない。つまりあくまでスターはカラヤンただ一人であり、オケは彼の楽器でしかないことを示している。1960年代半ばまではリヒテルやロストロポーヴィチと共演することもあったが、70年代以降は協奏曲で巨匠と呼ばれるソリストと組むことはなくなった。スターは彼一人だけ。カラヤン/ベルリン・フィルがアンネ=ゾフィー・ムターとモーツァルトを録音したときムターは15歳。エフゲニー・キーシンがカラヤンとチャイコフスキーを録音したときキーシンは17歳。晩年若手と組むことを好んだのは、その方がカラヤンが全体を支配し易いからだと僕は考えている。

カラヤンが陶酔したように目をつむり指揮するのも、その方がフォトジェニック(映える)からだからだろう。そもそも目を閉じたら奏者とアイコンタクトが取れない。つまり合理的ではない。カラヤン以前も以後も、こんなことをする指揮者は誰もいない。彼は徹底したナルシストだった。

ターはロシア出身の新人チェリスト・オルガにのめり込んでいく。同郷の偉大なチェリスト、ロストロポーヴィチが好きなのか?とオルガに尋ねるとイギリスのジャクリーヌ・デュ・プレ(愛称ジャッキー)がお気に入りだという。切っ掛けとなったのはYouTubeで見たエルガー:チェロ協奏曲の演奏。ここでターが少し失望したような表情を浮かべる。映像が残っているのはダニエル・バレンボイム/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との共演。音楽好きなら誰でも知っている。みじかくも美しく燃えた稀代のチェリスト、デュ・プレ究極の名盤はバルビローリ/ロンドン交響楽団との共演盤であることを。そもそもYouTubeの音質はCDより遥かに劣る。つまりこのエピソードはオルガが俗物で、大したセンスの持ち主ではないことを端的に示しているのだ。

ジャッキーは21歳の時アルゼンチン出身のユダヤ人、バレンボイムとイスラエルのエルサレムで結婚した(バレンボイムの祖父母はそれぞれベラルーシとウクライナ出身で、ユダヤ人排斥運動を逃れてアルゼンチンに移住した)。その時彼女は家族の猛反対を押し切りユダヤ教に改宗している。しかしジャッキーは26歳の時に指先の感覚が鈍くなってきたことに気付き、後に多発性硬化症と診断され引退を余儀なくされる。病床の彼女を捨てバレンボイムはパリで別の女性と同棲し2人の子をもうけた。1987年にジャッキーが42歳で亡くなるのを待ち、翌88年バレンボイムとエレーナ夫人の正式な再婚が成立した。

ターが強引にオルガをエルガーのソリストに起用しようとするエピソードはクラシック音楽界の常識では到底考えられないことだ。定期演奏会で演奏される協奏曲において外部から有名アーティストを招かない場合、そのオケの首席奏者がソロを弾くのが当たり前。だからターと楽員との間に溝が深まるのは当然のことである。またマーラーとエルガーを組み合わせるプログラム編成にも違和感しかない。そもそもヨーロッパ大陸ではイギリスの作曲家(ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ウォルトンら)が見下されており、フルトヴェングラーやカラヤン、アバドがエルガーを振ることは一度もなかった。

オルガ起用については1982年にカラヤンとベルリン・フィル団員との間で勃発したザビーネ・マイヤー事件彷彿とさせる。当時このオケの楽員は全員男性だった。そこにカラヤンが女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーを強硬に入団させようとしたのだが、団員投票で入団反対が決議され、それに従うべきだとするオケ側とで確執が生じた。その後、カラヤンは険悪な仲となったベルリン・フィルを避けるようになり、チャイコフスキーの後期交響曲(第4−6番)などはウィーン・フィルとレコーディングした。アバド時代になると漸く女性の楽員が少しずつ増え始め、2023年2月にオーケストラ140年の歴史で初の女性コンサートマスターが誕生した(アルテミス弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者だったヴィネタ・サレイカ=フォルクナー)。一方、ウィーン・フィルに女性奏者の正会員採用が始まったのは1997年のことである。世界のオーケストラの中で最も遅かった。それまで様々な人権団体から散々非難され、ニューヨークのカーネギーホールがウィーン・フィルに対して1998年までに女性奏者がいなければ舞台に立たせないとする最後通牒を突きつけたため、ようやく重い腰を上げたというわけ。1965年にショパン国際ピアノコンクールで優勝した名ピアニスト、マルタ・アルゲリッチがウィーン・フィルと初めて共演したのは2017年。どうして長い間ウィーン・デビューが実現しなかったのか?「これまで演奏しなかったのは、女性がひとりもいないオケだったからです」彼女はインタビューにきっぱりと答えた。

フルトヴェングラーは第二次世界大戦後、連合国による「非ナチ化」裁判を経てドイツでの活動が認められるようになるまで、約2年を要した。アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ政権下でもベルリンに留まり、ヒトラーの誕生日には御前でベルリン・フィルを指揮しベートーヴェンの第九を演奏したりしていたからである。ムッソリーニ政権のファシズムを嫌悪しアメリカに亡命したイタリアの大指揮者トスカニーニは徹底的にフルヴェンを非難した。またカラヤンはナチスに入党した前歴があり、戦後やはり問題視された。戦時下においてドイツではナチス党員にならないとオーケストラの主要ポストには就けなかったのである。

映画『TAR/ター』には芸術家(アーティスト)の作品と、その人の人間性・Political Correctnessを関連付けて考えるべきか、切り離して評価すべきかという議論が出てくるが、これはフルトヴェングラーやカラヤンの実績を評価するか否かの問題と密接にリンクしている。端的に言えば「あなたは殺人者の芸術を認めますか?」という問いだ。ドイツの哲学者ショーペンハウアーが俎上に載せられる。年配の裁縫婦が彼のアパートの扉の前で友達とペチャクチャ喋っているのをうるさく思い、階段から突き落として大怪我を負わせた。その女は裁判に勝ち、ショーペンハウアーは終身扶養の義務を負わされることになる。

宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』でカプローニが言う「君はピラミッドのある世界と、ピラミッドのない世界とどちらが好きかね?」も同義である。

 ・ 宮崎駿「風立ちぬ」とエリア・カザン~ピラミッドのある世界とない世界の選択について 2013.08.28

なおクロード・ルルーシュ監督の映画『愛と哀しみのボレロ(Les Uns et les Autres)』ではカラヤンをモデルにした指揮者が登場し、ナチスとの関係が描かれていて実に面白い。特にカーネギー・ホールでブラームス:交響曲第1番のタクトを振る場面は必見。

レニーはユダヤ人であり、祖父母はウクライナからの移民。そういう意味でも元・ナチス党員のカラヤンと水と油であった。またマーラーもユダヤ人。フルトヴェングラーやカラヤンがナチス政権下でマーラーの楽曲を指揮することは一度もなかったし、戦後フルヴェンは『さすらう若人の歌』をザルツブルク音楽祭で取り上げたが(独唱はディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ)、交響曲を指揮することは生涯なかった。

ロシアがウクライナを蹂躙する現在、ウラジーミル・プーチンと親しく、彼を批判しないロシアの指揮者ヴァレリー・ゲルギエフがヨーロッパから追放される憂き目にあった。ミュンヘン・フィルは首席指揮者だった彼を解雇。再び政治的立場と芸術を結びつけるべきなのかどうかが議論の的となっている。

映画の話に戻ろう。ジュリアード音楽院での講義でパンセクシャル(Pansexual、全性愛)の学生がJ.S. バッハについて、生涯に20人もの子供をもうけ男性優位的思考の持ち主だから人間として絶対に認められない、バッハの音楽もまともに聴いたことがないと言ったのに対し、ターはその人となりと生み出した作品は分けて考えるべきだと主張し、彼を徹底的に論破し恥をかかせる実に痛快な場面がある。 「すべての道はバッハに通ず」と言われるくらいで、大バッハを勉強せずしてこの業界で優れた楽曲を書ける筈がない。

スキャンダルに巻き込まれ追い落とされたターはニューヨーク市のスタテンアイランドにある自宅に帰り、兄のトニーと再会する。二人の会話からターの本名がリンダであり、ヨーロッパで受けの良いリディアに改名したことが判明する。スタテンアイランドは下町で、彼女が労働者階級(ブルーカラー)の出身だということが明らかになる。

昔、神奈川フィルの常任指揮者やオーケストラ・アンサンブル金沢のアーティスティック・パートナーを歴任した金 聖響(きむせいきょう)という在日韓国人3世の指揮者がいたが、実は芸名だった。映画『この胸いっぱいの愛を』で共演した女優のミムラ(美村里江)と2006年結婚し2010年に離婚。その後2億円の借金トラブルを抱えていることが週刊文春で報道され、現在は雲隠れしている。彼は佐村河内守『交響曲1番HIROSHIMA』全国ツアーにも関わっていた。

 ・ 稀代の詐欺師・自称「作曲家」佐村河内守について 2014.02.12

佐村河内守の経歴詐称騒動も、作曲家の人生とその作品を結びつけて考えるべきか否かという問いを我々に突きつけてくる。

ターの実家のクローゼットには録画した日付と『YPC』という文字が背表紙に書かれたVHSビデオが数十本ズラッと並んでいる。レナード・バーンスタインが企画・指揮・司会を務めニューヨーク・フィルが演奏するYoung People's Concerts (ヤング・ピープルズ・コンサート)のことだ。子供のための音楽教育番組で53公演がCBSによりテレビで中継された。放送開始は1958年、最終回が72年。日本のテレビ番組『オーケストラがやってきた』や『題名のない音楽会』も本コンサートを手本として企画されている。ターはその第1回「音楽って何? (What Does Music Mean?)」でレニーが語り、チャイコフスキー:交響曲第5番 第4楽章を指揮する場面を観ながら涙を流す。これが彼女が音楽家を志す原点だった。番組の冒頭、ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲を振り終えたレニーが振り返り、客席を埋め尽くす子供たちに問う。「この曲を知っているかい?」子供たちが元気に叫ぶ、「ローン・レンジャー!」(当時大人気だったテレビ西部劇、後に映画化された)。

劇中、#MeeToo 運動が盛り上がりを見せる中、名前を挙げられた2人の指揮者について。2017年に女性オペラ歌手3人と女性音楽家1人が、1985年から2010年の間に米国でシャルル・デュトワからセクハラを受けたと訴えた。女性らによると、デュトワは女性たちに無理やりキスをし、口の中に舌を入れたとされる。本人は疑惑を否定。女性らに対する法的措置を講じたが、芸術監督・首席指揮者を務めていた英ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団から解雇された。それ以降、名誉音楽監督だったNHK交響楽団を指揮することはなくなり、大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮するという「都落ち」を体験した。また香港フィルハーモニー管弦楽団やシドニー交響楽団@オーストラリアなど非欧米圏を中心に活躍するようになる。しかし新型コロナ禍の3年間を経て、現在漸く名誉を回復しつつあるようだ。

また2017年12月2日、40代男性が15歳だった1985年から数年間にわたり、ジェームズ・ レヴァインより性器を触られたり目前で裸になり自慰行為を強要されるなどの性的虐待を受けたため自殺を考えるまでに思いつめていたとニューヨーク・ポストが報じた。彼が名誉音楽監督を務めるニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)は調査の結果、性的虐待疑惑の「信頼できる証拠」が出たとしてレヴァインを解雇、失意のうちに彼は2021年に亡くなった。

映画で言及されなかったが、ダニエレ・ガッティは一部メディアに報じられた過去のセクハラ疑惑によりロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を2018年8月に解任された。しかし本人は疑惑を否定、同年12月にはローマ歌劇場の音楽監督に就任し、2021年1月にはベルリン・フィルに客演している。

ターと彼女の教え子クリスタ、アシスタントのフランチェスカはアマゾン先住民、シピボ=コニボ族を研究するため彼らが暮らすペルーの熱帯雨林を流れるウカヤリ川中流地域でフィールドワークを行った。その際ターがフィールド・レコーディングしたシピボ族のシャーマンが歌うイカロ(治療歌)が映画冒頭のクレジットで流れる。劇中何度か登場する迷路のような幾何学模様「Kené(クヌー)」はシピボ族特有の文化で、シピボ族の創生神話によるとこの世界は銀河に誕生した天の川、母なるアナコンダ「Ani Ronin」が自分の肌に描かれたKené(クヌー)を歌ったときに始まったとされる。Kené(クヌー)とは「振動を生む宇宙エネルギーの構成図」で、シピボ族はすべての生物が独自のKené(クヌー)を持つと考える。

これはオーストラリアの先住民アボリジニの神話〈ドリームタイム〉と〈虹蛇〉の関係によく似ている。正にユング心理学における〈集合的無意識〉の産物と言えるだろう。

 ・ アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽

朝日新聞の記者・小原篤氏は『TAR/ター』について次のような感想を書いている。

「アジア」や「モンスターハンター」を「零落」や「屈辱」のダシに使うんですか? ふーん。

僕は全く違う印象を受けた。

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ネタバレ警告!以下本作の結末について触れます。

心の準備はよろしいか?

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ヨーロッパの楽壇から放逐されたターがフィリピンでボートに乗り川を遡る場面で、マーロン・ブランドの映画のせいで未だにワニが生息していると言われる場面がある。これはフランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』のことでブランド演じるカーツ大佐は密林の中で王国を築く。カーツのイメージにターが重ねられているのだ。また 『地獄の黙示録』 では第一騎兵師団がワーグナーの『ワルキューレの騎行』をヘリコプターに据え付けられたスピーカーから大音量で流しながらベトコンの村を襲う場面があるが、これは楽劇『ニーベルングの指環』の楽曲で、ワーグナーはアドルフ・ヒトラーがこよなく愛した作曲家。プロパガンダとしても当時ドイツで盛んに利用された。『ニーベルングの指環』を毎年上演するバイロイト祝祭劇場を運営するのはワーグナー家であり、ナチス政権とベッタリ相思相愛の関係にあった。ユダヤ人にとってはそのトラウマもあり、現在でもイスラエルでワーグナーの楽曲が演奏されることは殆どない(そのタブーを破ったのがバレンボイム)。つまり 『地獄の黙示録』 は西洋文化の暴力性を象徴する映画であり、進み過ぎた文明の行き着く果てを示している。フルトヴェングラーもカラヤンもワーグナーを得意とした指揮者であった。因みに映画の原題はApocalypse Now(現代の黙示録)で黙示録にはこの世の終末や最後の審判などについて記載されている。

ターは宿泊地近くのマッサージ店で、透明なガラス越しに座るたくさんの女性たちの中からひとり選ぶように言わる。それはオーケストラの配列によく似ている。胸にNo.5をつけた女性がターを見つめ、彼女は店を飛び出して嘔吐する。ここは売春宿で、その女性の位置はオーケストラにおけるオルガのポジションに相当し、No.5はマーラーの交響曲を想起させる。ヴィスコンティ映画『ベニスに死す』にも老作曲家グスタフ・フォン・アッシェンバッハの回想の中で、娼館で少女娼婦を買う場面がある。少女はベートーヴェンの『エリーゼのために』を弾く。そのイメージは、疫病が蔓延するベニスでアッシェンバッハが出会う美少年タッジオに繋がっている。

『TAR/ター』最後の場面はスクリーンに映し出される映像を背景にオーケストラが演奏する『モンスターハンター:ワールド』コンサート(曲は“友との出会い Meeting a Friend”)。聴衆は皆コスプレしている。日本では『狩猟音楽祭』と呼ばれる。

『モンスターハンター』は4人で協力し巨大なモンスターを狩るゲームであり、本作においては〈モンスター=ター〉、〈狩人=SNSで彼女に対する敵意・悪意をばら撒く人々〉という図式が成り立つ。

しかしこのラストは果たしてターの「零落」や「屈辱」なのだろうか?僕はそう思わない。全然。むしろ「開放」だろう。それは楽しかったペルーでのフィールドワークへの「原点回帰」とも言えるし、彼女はこの熱帯でカーツ大佐のように「王国」を築くのかも知れない。

ベルリン時代、ターはミソフォニア(misophonia 音嫌悪症)に悩まされていた。稀に診断される医学的な障害で、特定の音に対して否定的な感情(怒り、嫌悪、逃避反応)が引き起こされる。指揮者に多い。また彼女は過度の潔癖症でもあった。これらは文明の病と言える。

さらに彼女は欧米社会で指揮者としてのキャリアを築くために「覇権的男性性(hegemonic masculinity)」を鎧として身にまとわなければならなかった。「父の娘」であったとも言える。これはユング派の女性分析家によって1980年代に提出された概念で、個人的な親子関係を越えて「父なるもの(父権制/家父長制 )」の強い影響下にある女性を意味する。

しかしフィリピンでのターは不潔でも気にせず、周囲の騒音に悩まされている様子もなくリラックスしているように見える。

そもそもゲーム音楽がクラシック音楽よりも劣ってる、堕落だという発想が根本的に間違っている。つい50年前までは映画音楽も同様の扱いだった。ウィーンのオペラ作曲家からハリウッドの映画音楽作曲家になったエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは「大衆文化に身を売った男娼」と楽壇から徹底的に蔑まれ、カラヤンやアバドの時代にベルリン・フィルが映画音楽を演奏することなど考えられなかった。

 ・ シリーズ《音楽史探訪》Between Two Worlds ~コルンゴルトとその時代(「スター・ウォーズ」誕生までの軌跡) 2014.01.17

しかし今はどうだ?ジョン・ウィリアムズはウィーン・フィルおよびベルリン・フィルの指揮台に経ち『スター・ウォーズ』や『E.T.』『ハリー・ポッター』を演奏したし、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲はオーケストラの重要なレパートリーとなり大人気だ。キリル・ペトレンコ/ベルリン・フィルは先日初めてコルンゴルトの交響曲を定期演奏会で取り上げた。そして今年、ドイツ・グラモフォンは久石 譲/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団による映画音楽集を発売する。10年前にはあり得なかったことだ。

『TAR/ター』の行き着いた先を肯定的に捉えるか、否かであなたの人間性が試される。そういうリトマス試験紙になっている。なんとも恐ろしい映画だ。

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2023年4月27日 (木)

雑感「レコード芸術」休刊に寄せて

クラシック音楽CDの専門月間誌「レコード芸術」が、2023年7月号を最後に休刊となると発行元の音楽之友社が発表した。 創刊は1952年3月だから71年の歴史に幕を閉じることになる。奇しくも先日亡くなった坂本龍一と同い年だ。

僕が「レコ芸」を定期購読するようになったのは小学校高学年で、カール・ベームがウィーン・フィルと来日してベートーヴェンの交響曲第5番・第6番を演奏した1977年か、翌78年頃だったと思う。ニコラウス・アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが77年に録音したヴィヴァルディのLPレコードが《衝撃の四季!》というキャッチコピーとともに紙面に広告掲載されていたことを鮮明に覚えている。正に古楽器による演奏、ピリオド・アプローチの黎明期だった。

当時、新譜の批評は1人で行われていたが1980年1月号から「2人の筆者による合評」が開始され、両者が推薦したレコードが「特選盤」と表記されるようになった。因みに1人が「推薦」、もう1人が「準推薦」なら「準特選」。

1990年に「ビデオディスク」部門が、2010年1月号からは「吹奏楽」部門が新設された。また1996年3月号から新譜の「さわり」を収録した試聴(サンプラー)CDが付録として添付されるようになった。

ただ1978年当時定価は580円(消費税導入前)だったので小学生の小遣いで買えたのだが、最新号の定価は税込み1,430円。いくら何でも高すぎる!新譜でなければCDが優に1枚買える値段だ。定価が1,000円を超えたあたりから次第にバカバカしくなり購読をやめた。図書館の雑誌コーナーで読めば十分だろう。

そもそも1982年に商用音楽CDが登場し、86年にLPレコードの国内生産枚数を追い抜いて以降は「レコード芸術」という雑誌名からして時代遅れとなった。そりゃ無理やりこじつければ「レコード」を「録音する」という動詞と解釈し、CDも「録音物の芸術」だと言い張ることも出来るだろう。しかしそれなら「レコーディング芸術」が正しく、「レコード」はあくまで毎分33回転の30cm LPか17cm シングル、または78回転 SPというモノを指す言葉だ。CDは該当しない。

さらにサブスクリプションなど音楽配信サービスが主流となった現在、CDは売れず発売される新譜の数も激減した。体感として1978年と比較し4分の1程度ではないだろうか。ドイツ・グラモフォン、ソニー・クラシカル(米)、オランダのフィリップスを統合したデッカ・レコード(英)といったクラシック音楽のメジャー・レーベルが積極的にレコーディングをしなくなったため、シカゴ交響楽団やロンドン交響楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ、そして天下のベルリン・フィルでさえも、各オーケストラが個別に自主レーベルを立ち上げざるを得ない状況に追い込まれている。

今にして思えば2008年、早々に映像配信サービス「デジタル・コンサートホール」を開設したベルリン・フィルは先見の明があった。2023年から漸くドイツ・グラモフォンも重い腰を上げ、「ステージプラス」というクラシックの映像&音楽配信サービスを始めた。

はっきり言う。今どきCDを買うやつはどうかしてる。時代遅れも甚だしい。世界的に見てもCDを未だに購入しているのは日本人だけで、海外は完全に配信に移行している。えっ、サブスクよりもCDの方が音が良いって??アホぬかすな!音質にこだわるならハイレゾ音源配信を買え。

どうして日本だけCDが細々と流通しているのか。これは付喪神(つくもがみ)信仰と深い関係があるのではないかと僕は考える。九十九神とも表記され、 長い年月を経た道具などには精霊が宿るとされる。神道においては、古来より森羅万象に八百万(やおよろず)の神が宿るとするアニミズム的世界観(汎神論)が定着していた。付喪神となりうる寄り代も森羅万象であり、道具や建造物の他、動植物や自然の山河などに及ぶ。

CD(モノ)には神が宿る。実体のない配信では覚束ない。それは単なる空間の振動だ。モノが手元にないと安心出来ない……令和になっても性懲りもなくCDを買い続けている日本のクラヲタの深層心理はこのような感じではないか?

 ・ 【考察】日本人は何故、CDを買い続けるのか? 〜その深層心理に迫る 2019.03.16

さらにクラシック音楽を聴く人は老人が多く、新しい時代のデバイスに順応出来ていないという側面もあるのかも知れない。閑話休題。

1947年に創刊された、ジャズを専門とする月刊音楽雑誌「スイングジャーナル」誌は2010年7月号をもって休刊、63年に及ぶ歴史に幕を閉じた。同誌の取り上げる音楽家やレコードなどの評論には定評があり、「スイングジャーナル・ジャズディスク大賞」なども発表していた。「スイングジャーナル」の訃報を聞いた時、僕は「レコード芸術」終焉も時間の問題だと悟った。すでに命運は尽きていたのである。むしろそれから13年間、よく持ちこたえた方だろう。音楽之友社さんは頑張った。お疲れ様でした、安らかにお眠りください。

一部の愛読者の間から雑誌存続を求める署名活動も始まっているようだ。これを聞いて思い出したのが、橋下徹氏が大阪府知事だった時代に起こった、大阪センチュリー交響楽団(当時)に対する府からの年間4億1千万年の補助金廃止を是とするか否かの論争である。

 ・ 在阪オケ問題を考える 2007.07.31
 ・ 
在阪オケ問題を考える 2012年版 2012.04.14

補助金継続を求める一派が熱心に署名運動を行った。その時も感じたこと。

署名するなら金を出せ。

「レコード芸術」休刊もそうだが、問題の本質は財政難にある。署名は無料(ただ)だ。お気楽な形で正義を振りかざし悦に入るな。「レコード芸術」存続を希望し署名する者たちは、例えば毎月10万円ずつ音楽之友社に寄付するくらいの覚悟はあるのか?あるいは毎月1人20冊以上購入するとかね。それくらいの気概がなければ経営は成り立たないだろう。現実を直視せよ!

ただ、クラシック音楽の録音物のどれを聴けば良いのかサブスクで選ぶときの指標があると重宝するので、新譜の批評が読めなくなるのは困ったものだ。識者による音楽評や映画評は(盲信しないが)役に立つので、今後も彼らが活躍する場があれば良いなと思う次第である。個人のブログ・SNSには限界があるので。

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2023年4月25日 (火)

ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽(ピアノ四重奏曲)@フェニックスホール

3月17日(金)フェニックスホール@大阪市へ。

ヴァイオリン:樫本大進(ベルリン・フィル第1コンサートマスター)、ヴィオラ:アミハイ・グロス(ベルリン・フィル首席奏者)、チェロ:オラフ・マニンガー(ベルリン・フィル首席奏者)、ピアノ:オハッド・ベン=アリで、

 ・ベートーヴェン:ピアノ四重奏曲 WoO.36-1
 ・フォーレ:ピアノ四重奏曲 第2番
 ・ブラームス:ピアノ四重奏曲 第2番

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実は同ホール・同メンバー・同じプログラムで2022年3月16日に公演が予定されていたのだが、新型コロナウイルス感染症拡大に係る、日本政府による水際対策の影響により中止に追い込まれてしまった。僕はチケットを購入していたが払い戻しになった。そのリターン・マッチである。

ベートーヴェンのピアノ四重奏曲は15歳の若書き。たおやかで平和。ベートーヴェン「らしからぬ」楽曲だった。

フォーレは美しく幻想的。樫本はソロで聴くと物足りないのだが、室内楽、特にフランスものはいい。

ブラームスのピアノ四重奏曲は第1番のほうがよく演奏される。第4楽章「ジプシー風ロンド」が愉快で盛り上がるし、シェーンベルクが編曲した管弦楽版が有名になったことも一因だろう。僕もこの管弦楽版を生演奏で何度か聴いたことがある。しかし作曲家の生前は3曲のピアノ四重奏曲の中で第2番が最も人気のある作品だったという。今まで熱心なリスナーではなかったが、じっくり向かい合ってみると、実はなかなかに魅力的な作品だと初めて気がついた。

室内楽の悦楽を満喫した一夜だった。

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2023年4月 7日 (金)

パトリツィア・コパチンスカヤ ヴァイオリンリサイタル 2023

3月19日(日)フェニックスホール@大阪市へ。

モルドヴァ生まれのヴァイオリニスト、パトリツィア・コパチンスカヤを聴く。共演はフィンランド出身のピアニスト、ヨーナス・アホネン。アホネン(「草原から来た者」を意味する)はアイヴズら現代音楽も得意とするが、テオドール・クルレンツィスが主宰するフェスティバルに参加したり、フォルテピアノの弾き手でもある。

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2014年にも同ホールで彼女の演奏を聴いている。

 ・ 激震!コパチンスカヤ 2014.06.20

上記事の中で僕はアンコールとして演奏されたクロイツェル・ソナタの終楽章を聴きながら、松明が煌々と焚かれた闇夜の野営地でジプシー(ロマ)の女がヴァイオリンを弾いていおり、その後彼女が火あぶりの刑に処せられる光景を幻視した、と書いた。つまりヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」に登場するアズチェーナのイメージがピッタリ重なったのだ。全く同じイメージが今回も目に浮かんだので、なんだか可笑しかった。

 ・ シェーンベルク:幻想曲 op.47
 ・ ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第7番
 ・ ウェーベルン:ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 op.7
 ・ ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第9番「クロイツェル」
 ・ リゲティ:Adagio molto semplice (アンコール)
 ・ カンチェリ:RAG-GIDON-TIME (アンコール)

ラディカルで挑発的、赤裸々。がっぷり四つに組んだ二人の音楽家のパフォーマンスは暴れ馬同士が激しくせめぎ合っている印象。

コパチンの弓が激しく弦を叩き、雑音が混じっても意に介さない。疾風怒濤、型破り、奇想天外。装飾音以外、基本的にヴィブラートをかけないので、ピリオド・アプローチと言ってもいいくらい。

彼女は野生児だから素足でステージに現れ、ドンドン床を踏み鳴らす。グイグイ動かすテンポ、あまりにもとんでもない演奏で笑ってしまう。ヤバイ!!ベートーヴェンが生きていたらビックリして席から転げ落ちるだろう。

「滑らか」とか「落ち着いた」という表現と対極に位置していて尖っている。細かいことは気にしない。ADHD(注意欠如・多動症)的という表現が相応しいかも知れない(褒めてます)。唯一無二、規格外。「音楽は自由だ!」と、快哉を叫びたくなった。

アンコールで演奏された『ラグ・ギドン・タイム』はジョージア(グルジア)の作曲家ギア・カンチェリの作品で、恐らくギドン・クレーメル(ラトビア出身)のために書かれたものと推定される。クレーメル本人もしばしばアンコールで取り上げているようだ。

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2023年3月31日 (金)

第10回 神戸国際フルートコンクール 優勝記念演奏会

2月23日(木・祝)神戸文化ホールへ。第10回 神戸国際フルートコンクールで優勝したラファエル・アドバス・バヨグ(スペイン)とマリオ・ブルーノ(イタリア)の演奏を聴く。共演は鈴木華重子(ピアノ)と神戸室内管弦楽団のメンバーたち。

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このコンクールは4年ごとに開催されてきたが、今回は新型コロナウイルス禍の影響で全審査がオンラインで行われた。

過去の入賞者にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席のエマニュエル・パユ(第1位)と元・首席マチュー・デュフォー(第2位)、ロイヤル・コンセルトへボウ管弦楽団首席エミリー・バイノン(第3位)らがいる。新型コロナウィルス(パンデミック)に対する楽団の対応に不満を抱いていたため辞めたと言われるデュフォーの代わりにベルリン・フィルの首席となったセバスチャン・ジャコーも第8回大会(2013年)の優勝者だ。僕が第7回を聴いた感想は下記。

 ・ 第7回神戸国際フルートコンクール/入賞者による披露演奏会 2009.04.06

この時優勝したダニエラ・コッホは現在バンベルク交響楽団の首席フルート奏者。 第3位のデニス・ブリアコフはロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団首席フルート奏者として活躍している。なお、マチュー・デュフォーは嘗てロサンゼルス・フィルとシカゴ交響楽団の首席を兼任していたことがある。

演奏会のプログラムは以下の通り。

・ W.F.バッハ:2つのフルートのための二重奏曲第1番(アドバス・バヨグ、ブルーノ )
・ ジャレル:無伴奏フルートのための3つの小品(ブルーノ)
・ ドブリエール:5つの不思議な小品(ブルーノ、鈴木)
・ シュルホフ:フルート・ソナタ(アドバス・バヨグ、鈴木)
・ アドバス・バヨグ:"Music is Life"(アドバス・バヨグ) 
・ フランセ:五重奏曲(ブルーノ、鈴木、弦楽のメンバー) 
・ モーツァルト:フルート四重奏曲第1番(アドバス・バヨグ、弦楽のメンバー)  
・ F & K ドップラー:「ハンガリーの羊飼いの歌」による幻想曲(アドバス・バヨグ、ブルーノ、鈴木 )

僕はどちらかというと低音が豊かに響くブルーノの音色に心惹かれた。

スイス出身の現代音楽作曲家ジャレルの小品は蚊の鳴く声のようだったり鼓だったり“フルートらしくない”音響が面白い。

フランスの作曲家ドブリエールの小品では高音の弱音が掠れず、綺麗だった。

チェコのプラハに生まれたユダヤ人作曲家シュルホフはナチスドイツに「退廃音楽」の烙印を押され、強制収容所で亡くなるという悲劇的人生を送った。そのフルート・ソナタをアドバス・バヨグは暗譜で吹いた。ジャズの要素が加味され、第3楽章はミステリアスで痺れる。

アドバス・バヨグの自作自演は途中に何度も"Music is Life !"と叫び、唾を飛ばしたり足踏みするなど実にユニークなパフォーマンス。尺八的な響きで「さくら」が奏でられたり、J.S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番の旋律が聴こえたりする場面も。

フランセは軽妙洒脱、モーツァルトのフルート四重奏は昔から大好きな曲で、ドップラーのハンガリー田園幻想曲は僕自身フルートをたしなむので吹いたことがあるが、「ハンガリーの羊飼いの歌」は初体験。とても美しく、聴き惚れた。

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2023年3月10日 (金)

イリーナ・メジューエワ、モーツァルトを弾く

1月29日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

イリーナ・メジューエワのピアノでオール・モーツァルト・プログラムを聴く。

 ・ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調
 ・幻想曲 ハ短調 K.396
 ・ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調
 ・ロンド イ短調 K.511
 ・グラスハーモニカのためのアダージョ ハ長調 K.356
 ・ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調「トルコ行進曲付き」
 ・ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調より第2楽章(アンコール)

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イリーナはロシア出身。音楽学校でヴラディミール・トロップに師事した。

僕が小学生の頃から親しんできたモーツァルトのソナタはオーストリア・ウィーン出身のピアニスト、イングリット・ヘブラーの演奏。女性らしくまろやか、温かく包み込んでくれるような母性を感じさせ、イリーナは方向性がちょっと違う。ヒヤッとした感触で、鋼のような強さがあり、何と言ってもロシア的なのである。スヴャトスラフ・リヒテルとかエミール・ギレリス、ラザール・ベルマンらに近いものを感じる(リヒテルとギレリスは現在のウクライナ領に生まれ、長じてモスクワ音楽院で学んだ)。だから現役のピアニストなら、ロシア出身のウラジーミル・クライネフに師事した河村尚子に近いタイプと言える。

こういったカチッとして、情に流されないモーツァルトも良い。

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2022年12月12日 (月)

児玉桃 メシアン・プロジェクト「世の終わりのための四重奏曲」

12月11日(日)兵庫県立芸術文化センター小ホールへ。

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児玉桃(ピアノ)、竹澤恭子(ヴァイオリン)、横坂源(チェロ)、古田誠(クラリネット)で、

 ・メシアン:8つの前奏曲集より第1曲「鳩」
 ・ミヨー:ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための組曲
   I.序曲 II.ディヴェルティメント III.遊び IV.導入と終わり
 ・ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲 第2番 ホ短調
 ・メシアン:世の終わりのための四重奏曲

僕は『世の終わりのための四重奏曲』が大好きで、実演を聴くのも3回目である。この楽曲については下記事で詳しく解説した。

 ・〈20世紀の黙示録〉メシアンの最高傑作「世の終わりのための四重奏曲」をめぐって 2019.10.04

腕っこきの音楽家たちによる演奏に陶酔した。第6曲〈7つのラッパのための狂乱の踊り〉は正に阿鼻叫喚の音楽といった感じ。最終曲〈イエスの永遠性への讃歌〉は旋律が次第にゆるゆると上昇していき、浮遊感があって、カタルシス(悲劇が観客の心に怖れと憐れみの感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果)を感じた。

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2022年11月28日 (月)

樫本大進 ✕ 藤田真央/ピアノ四重奏の午後

11月27日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

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樫本大進(ヴァイオリン)、赤坂智子(ヴィオラ)、ユリアン・シュテッケル(チェロ)、藤田真央(ピアノ)で、

 ・モーツァルト:ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調
 ・メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調
 ・ブラームス:ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調

ご存知の通り樫本大進はベルリン・フィルの第1コンサートマスター。彼のソロ・コンサートを聴いたことがある。どうも単独ではおとなしいというか物足りないのだが、室内楽は申し分ない。アンサンブル向きの資質なのだろう。

藤田真央は2019年のチャイコフスキー国際コンクールで第2位。タッチは繊細でありながら躍動感もあり、素晴らしい!

ユリアン・シュテッケルはミュンヘン国際音楽コンクール第1位。大変雄弁な演奏。

モーツァルトのト短調といえば交響曲第25番と40番が想起される(他のシンフォニーはすべて長調)。ピアノ四重奏曲は初体験だったが劇的で聴き応えがあった。

メンデルスゾーンのピアノ・トリオ No.1を初めて聴いたのは小学生の時。1961年11月13日パブロ・カザルス(チェロ)によるホワイトハウス・コンサートのLPレコードで、ケネディ大統領から招待された伝説的録音だった。キューバ危機の1年前である。ピアノがミエチスラフ・ホルショフスキー、ヴァイオリンがアレクサンダー・シュナイダー。心に染みる名曲だ。

ブラームスのピアノ四重奏曲第1番は何とシェーンベルクによる管弦楽編曲版があり、そちらも生演奏を聴いたことがある。今まで何度も書いてきたことだが、ブラームスは室内楽曲の達人であり、中でもこれは代表作と言えるだろう。

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2022年10月18日 (火)

アリーナ・イブラギモヴァ 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル

9月10日(土)兵庫県立芸術文化センター大ホールへ。ロシア出身(イギリス在住)のヴァイオリニスト、アリーナ・イブラギモヴァを聴く。彼女はピリオド(時代)楽器とモダン楽器の両方を演奏する。

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曲目は、

 ・ビーバー:「ロザリオのソナタ」よりパッサカリア ト短調
 ・J.S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番
 ・イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第3番「バラード」
 ・バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ

イブラギモヴァはiPadの楽譜を使用。ビーバーは鋭いが、温かみのある音色。

J.S. バッハの有名な「シャコンヌ」はゆっくり重く、荘厳に開始され、次第に音楽は熱く、激しくなってゆく。

イザイは情熱的で、ハンガリーの民族色豊かなバルトークも魅惑的であった。

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2022年10月17日 (月)

河村尚子 ピアノ・リサイタル〜オール・シューベルト・プログラム

兵庫県立芸術文化センター小ホール@西宮市へ。

河村尚子を2日に渡り聴く。オール・シューベルト・プログラムで、

3月12日(土)

 ・即興曲 第3番 変ロ長調 D935/3
 ・ピアノ・ソナタ 第18番ト長調 D894「幻想」
 ・「3つの小品」より 第1番 変ホ短調 D946/1
 ・ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958

 アンコール曲
 ・シューベルト:即興曲 第2番 D935
 ・シューベルト(リスト編):12の歌「糸を紡ぐグレートヒェン」
 ・バッハ(ペトリ編):羊は安らかに草を食み

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9月19日(月・祝)

 ・「楽興の時」第3番 ヘ短調 D 780/3
 ・「3つの小品」より 第3番 ハ長調 D 946/3
 ・ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D 959
 ・即興曲 第3番 変ト長調 D 899/3
 ・ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D 960

 アンコール曲
 ・「楽興の時」 第2番 変イ長調 D 780/2 

シューベルト最後のピアノ・ソナタ第19-21番は1828年9月に一気に書かれた。その年の11月9日に作曲家は亡くなっているので正に死の直前、白鳥の歌である。3部作と言っても過言ではなく、そういう意味でベートーヴェンのピアノ・ソナタ30-32番と成立過程が似ている。ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタは3曲連続で演奏される機会が多く、シューベルトの3部作もそれが理想である。ただし、シューベルトのソナタの方が演奏時間が長いので、なかなか一夜で一気にというわけにいかない。そこが難しいところ。

河村尚子は兵庫県西宮市出身。地元なので彼女の気合が入った演奏を沢山聴けるのは嬉しい限りだ。河村はドイツのハノーファー音楽演劇大学でロシア出身のピアニスト、ウラジミール・クライネフ(チャイコフスキー国際コンクールで第1位)に師事した。師匠譲りの剛直なタッチで、やはりロシアピアニズムの継承者だなぁとつくづく感じる。だからどこか彼女の演奏はリヒテルのそれに近いのである。リヒテルもシューベルトを得意としており、特に1972年に録音された第21番は今でも超一級の名演として知れ渡っている(メロディア音源で当初日本ではビクターから発売されていたが、現在はAlto レーベルから出ており、Spotifyなどサブスクリプションでも聴ける)。

第20番は深淵を覗き込むような虚無感に襲われる第2楽章が白眉で、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したトルコ映画『雪の轍』で印象的に使われた。また第21番は純粋無垢に歌い続ける天使(ピアノの右手)≒シューベルトと、彼を死の闇に引きずり込もうとするとする悪魔(左手)の相克がスリリングだ。

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