クラシックの悦楽

クラシック音楽業界の虚飾を剥ぐ〜大フィル初演!コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲

1月18日(木)フェスティバルホールへ。

角田鋼亮/大阪フィルハーモニー交響楽団による定期演奏会で、

  • コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲
  • マーラー:交響曲第1番「巨人」

を聴く。ヴァイオリン独奏は竹澤恭子(ソリスト・アンコールはレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ:揚げひばり)。

僕がエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトが作曲した映画音楽「シー・ホーク」を初めて聴いたのは高校生の時。スタンリー・ブラック指揮、ロンドン・フェスティバル管弦楽団によるLPレコードだった。そして「なんて壮大な楽曲だろう、この人は天才だ!」と想った。

それから時を経て彼のヴァイオリン協奏曲を初めてCDで聴いたのが今から約30年前。その濃厚なロマンティシズムにいっぺんに魅了された。パールマン、プレヴィン/ピッツバーグ響の演奏で、EMIの輸入盤。当時、国内盤は一切なかった。0である。初演者ヤッシャ・ハイフェッツの名盤ですら手に入らなかった。コルンゴルトは完全に忘れ去られた(日本人は端から知らない)存在だったのだ。

今では東京で五嶋みどり、神尾真由子、諏訪内晶子らがこのコンチェルトを演奏するなど、すっかり市民権を得た。しかし大阪は東京より遥かに遅れていて、大阪交響楽団が定期演奏会で取り上げたのが漸く2016年末。

大フィルに至ってはそもそもコルンゴルトの楽曲を演奏すること自体、今回が初めてである。なお関西フィルは今年4月29日の定期演奏会で(独奏:オーギュスタン・デュメイ!)、日本センチュリー交響楽団は10月25日の定演で(独奏:荒井英治)で同曲を取り上げる。遂にコルンゴルトの時代が来たのだ。

このコンチェルトがアメリカで初演されたのが1947年。70年も経過している(日本初演は1999年。グリーン・ユース・オーケストラ '99、何とアマチュアの団体である)。どうしてこれ程までに適正な評価が遅れてしまったのか?その理由は大きく2つある。

  1. 初演された当時はアルノルト・シェーンベルクの十二音技法を経て、無調音楽が主流の時代になっており、「調性音楽は過去の遺物、時代錯誤だ!」と楽壇から無視された。
  2. 全楽章の主題(テーマ)全てがコルンゴルトが過去に手掛けた映画音楽から採られており、聴衆からも「映画に身を売った作曲家」と蔑まれた。

映画音楽を馬鹿にする風潮は今のクラシック音楽業界にも根強くあり、例えばオーケストラの定期演奏会で映画音楽が取り上げることは極めて稀である。要するにお高くとまっているのだ。プロコフィエフ「アレクサンドル・ネフスキー」「キージェ中尉」は例外中の例外。彼の場合、映画はあくまで副業であり、主軸がコンサート・ピースだからだろう。

現在はウィーン・フィル、ベルリン・フィル、NHK交響楽団も「スター・ウォーズ」や「E.T.」「ハリー・ポッター」などを演奏するようになったが、あくまでポップス・コンサートや野外コンサートに限られている。大フィルも今度、武満徹とジョン・ウィリアムズの特集を組むが、やはり枠外(「Enjoy !オーケストラ」)だ。定期演奏会では歌劇の序曲やチャイコフスキーのバレエ音楽が演奏されるのに、映画音楽はどうして無視されるのか?そこには偏見以外の理由があろう筈がない。

つまりアメリカ合衆国においてアフリカ系アメリカ人による公民権運動が始まる前(20世紀前半)の状態、人種隔離政策ならぬ「音楽隔離政策」が未だにクラシック音楽の世界では当たり前のように蔓延(はびこ)っているのである。マーティン・ルーサー・キング牧師の有名な演説"I Have a Dream"(1963)じゃないけれど、僕も次のように叫びたい。

わたしには夢がある!何時の日にか映画音楽がジャンルの色で差別されることなく、ベートーヴェンやチャイコフスキー、マーラーらの作品と肩を並べ、オーケストラの定期演奏会で取り上げられる日が来ることを。

闘いの日々は続く。TO BE CONTINUED...

さて、本日の演奏についてだがまず第1,2楽章の異様に遅いテンポに驚いた。僕は今までにこのコンチェルトのCDをハイフェッツ含め10種類以上聴いているが(ヒラリー・ハーンのDVDも)、竹澤は史上最遅である。豊穣な響きでたっぷりと歌うが、些か間延びした印象を受けたことも否めない。第3楽章は標準的な速さになり、引き締まった。力強く張りがあり、雄弁だった。そしてオーケストラを含め音色は美しく、総論として満足した。

マーラーについては歌い方、テンポ、ダイナミズム、どれをとっても良く言えば「中庸」、悪く言えば「中途半端」。楷書的な解釈で、はっきり言って「おもろない」。シンフォニーの冒頭から、盛り上がりに欠けたフィナーレまで頭の中では「この指揮者、一体何を表現したいの??」という疑問符がグルグル回り続けていた。彼の描こうとするヴィジョンが全く見えて来ない。

これは僕の持論だが、クラシック音楽はあくまで欧米の文化なんだから、若い指揮者は日本国内のポストだけで満足していたのでは駄目だ(その良い例が金聖響)。若い時こそ海外に武者修行に飛び出さなくちゃ!小澤征爾だって、大野和士や尾高忠明だって、一流の人たちは皆そうしてきた。角田鋼亮よ、旅に出て揉まれて来い!!

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ハンス・ロットの日本初演とマーラー「巨人」ハンブルク稿〜大響定期

1月12日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

寺岡清高/大阪交響楽団で、

  • ロット:ハムレット序曲(日本初演)
  • ロット:「管弦楽のための組曲 変ロ長調」からの二章(日本初演)
  • ロット:「管弦楽のための組曲 ホ長調」からの二章
  • マーラー:交響形式による二部の音詩「巨人」(ハンブルク稿)

ハンス・ロットは交響曲第1番をこのコンビで二度聴いている。

25年という作曲家の短い生涯については上記事で詳しく語ったのでここで繰り返さない。

交響曲第1番は級友マーラーに多大な影響を与えた点でも見逃せないし、聴き応えのある佳曲だと想う。このシンフォニーは2019年2月9日、10日にパーヴォ・ヤルヴィ/NHK交響楽団が、2019年2月9日に川瀬賢太郎/神奈川フィルハーモニー管弦楽団が定期演奏会で取り上げるということで巷で話題騒然となっている。なんと同じ日に競演!!ハンス・ロット再評価(いや、新発見?)の機運は大いに高まっている(パーヴォは既にフランクフルト放送交響楽団と同曲をレコーディング済み)。

だが今回取り上げられたハムレット序曲は作曲家18歳、管弦楽のための組曲は19−20歳の頃の作品であり、習作の域を出ていない。ワーグナーやリスト(前奏曲)の影響がモロに出ており、はっきり言って駄曲。図書館規模で網羅されているナクソス・ミュージック・ライブラリーですら収録されていない有様だから、推して知るべし。

マーラー「巨人」ハンブルク稿は、楽譜が失われたブタペスト初演稿に続く、第2稿である。次のような副題が付いている。

第1部青春の日々から】 第1楽章「終わりのない春」 第2楽章「花の章」 第3楽章「順風に帆を上げて」

第2部人間喜劇】 第4楽章「カロ風の葬送行進曲」 第5楽章「地獄から天国へ」

カロ風の葬送行進曲は下の版画に触発されたもの。

Schwind_begraebnis_9

森に棲む動物たちが、(本来は自分たちを殺す存在である)狩人を埋葬しようとしているという倒錯した情景が描かれている。

第3(決定)稿との一番大きな違いは「花の章」がカットされたことだろう。勿論「花の章」がオマケとして付いた「巨人」のCDは持っているし、大植英次/大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏で実演を(アンコールとして)聴いたこともある。しかしラトル/バーミンガム市響のCDなどは「巨人」とは別枠で「花の章」が収録されており、第2楽章という中に組み込まれた形で聴くのは今回が初めて。今までとは全く違った景色が見えてきた。甘い香り。青春の儚さ、その光と影といったものがより鮮明に浮かび上がってきたのである。僕は決定稿よりハンブルク稿の方が好きかも。

ただ演奏の方は粗さが目立った(特に終楽章)。児玉宏が大響の音楽監督を務めていた時は定期会員になり毎月足を運んでいたが(夢のような時代)、外山雄三がミュージック・アドバイザーに就任して以降はプログラムの内容といい全く魅力のないオケに成り下がってしまった。今やデュメイ音楽監督の下で弦楽アンサンブルを鍛えられた関西フィルの方が実力が上ではないだろうか?大響もそろそろ目を覚ました方がいい。

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音楽を愛するすべての人へ!〜【本屋大賞】宮下奈都「羊と鋼の森」と大林映画「ふりむけば愛」

 森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。

最初の一文から一気に心を鷲掴みにされた。そしてこれは僕のために書かれた小説なのだという強い確信を持った。

宮下奈都(みやしたなつ)著「羊と鋼の森」は2016年に本屋大賞に選ばれた。また紀伊國屋書店のスタッフが全力で推すキノベス!でも堂々第1位に輝いた。現在東宝で映画化が進行中で、公開日は2018年6月8日を予定している。主演は山崎賢人。

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本屋大賞を受賞した時からずっと読みたいと思っていたのだが、1,620円もする単行本にはおいそれと手を出せなかった。漸く図書館で予約した順番が回ってきたので、いそいそと借りに行ったという次第。本を開くやいなやページをめくる手が止まらなくなった。なお文庫本(702円)は2018年2月9日に発売予定。

調律師の物語である。「羊と鋼の森」とは言うまでなくピアノの暗喩だ。「鋼」は弦(ピアノ線)のことであり、「羊」はハンマーヘッドを包む羊毛で出来たフェルトを指す。ハンマーが弦を叩くことで音が鳴る。つまりピアノは弦楽器であり、かつ打楽器なのだ。

主人公は高校の体育館で板鳥という調律師の仕事を間近に見て、そこに「森」を感じる。僕は頻繁にクラシック音楽の演奏会に足を運んでいるが、正直今までピアノの響きに「森」の気配を察知したことはない。しかしコンサートでしばしば「森」の中で彷徨している気分に浸る体験はあって、それは特にバロック・ヴァイオリンやバロック・チェロの音色に対してである。これら古楽器に張られているガット弦には羊の腸が使われている。また胴体(函)は木製だ。過去に僕が「森」について言及した記事を下に挙げておく。

音楽とは「森」である。臨床心理学者・河合隼雄はグリム童話などに登場する森は無意識のメタファーだと論じている。音楽もまた、無意識を表現する芸術だ。

調律師が主人公の小説ってすごく珍しい。他に思い浮かばない。よくよく考えて、一本の映画を想い出した。ジェームズ三木(脚本)、大林宣彦(監督)の「ふりむけば愛」(1978、東宝)だ。主演は山口百恵と三浦友和のゴールデンコンビ。

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「大林作品はピアノ映画だ!」と看破したのは映画評論家・石上三登志だが、本作で百恵はピアノ調律師を演じた。実は百恵・友和の出会いそのものが大林が演出したグリコCMだった。映画の題名は大林が「このふたりは、僕と5年近くコマーシャルをやっているうちに、幼なじみだったのがいつの間にか気がついたら恋人になっていたんだよな、フッと振り向いたらそこに恋人がいたんだよ」と言ったら、三木が「ああ、ふりむけば愛ですね、それで行きましょう」という会話から生まれた。サンフランシスコ・ロケの際に大林は早々と必要なカットを撮り終え、ふたりが自由に過ごせる日を丸一日設けてあげた。百恵が大阪厚生年金会館でのリサイタル中に「私が好きな人は、三浦友和さんです」とファンの前で恋人宣言するのは翌1979年である。

そしてな、な、何と、東宝映画「羊と鋼の森」で調律師・板鳥を演じるのは三浦友和なのである!!こんな偶然ってあり得る!?いやいや、これは必然に違いない。

物語の舞台となるのは北海道で、映画は旭川市でロケされた。小説執筆当時、宮下は家族と大雪山国立公園内にある富村牛(トムラウシ)集落@十勝管内新得町で1年間暮らしていたという(山村留学)。だから主人公の名前が外村(とむら)なのだ。

外村は仕事先の家庭でふたごの高校生姉妹と出会う。彼女たちの名前は「和音(かずね)」と「由仁(ゆに)」。和音(わおん)は言うまでもなくハーモニーであり、由仁はユニゾンだ。ハーモニーもユニゾンも一人で奏でることが出来ないところがミソ。ふたりでひとり。このふたごを映画では上白石萌音・萌歌の姉妹が演じる。萌音も萌歌も音楽に纏わる名前。何だか出来過ぎている。

小説の中で、こんな文体に憧れていると原民喜(はらたみき)が書いた一節が引用される。

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体

板鳥はそんな音をつくり出すことを目指している。その想いは作者本人にも繋がっているだろう。

僕はこのブログで沢山のコンサートレビューを書いてきたが、つくづく音楽を文章で表現することの難しさを感じている。困難というよりも、殆ど不可能な作業である。そもそも作曲家というのは言葉に出来ない自分の想いを音符に託しているわけだから、土台無理なのだ。時には絶望的な気持ちにすらなる。宮下は本書でその不可能性に果敢に挑み、格闘し(藻掻い)ている。それが堪らなく愛おしい。

外村はドイツから来日した巨匠とも魔術師とも称されるピアニストを聴くために町のコンサートホールに行く。そのピアニストは板鳥に全幅の信頼を寄せている。板鳥が調律するのを眺めながら、彼は次のように述懐する。

 自分が迷子で、神様を求めてさまよっていたのだとわかる。迷子だったことにも気づかなかった。神様というのか、目印というのか。この音を求めていたのだ、と思う。この音があれば生きていける、とさえ思う。

僕もコンサートを聴いている最中に「音楽の神様がホールに舞い降りた」と直感する瞬間がある。しかしそれは数年に一度であり、滅多にあることではない。

コンサートの帰り道、外村は勤め先の楽器店の社長と次のような会話を交わす。

「こんな小さな町にいるよりも、もっと大きな場所で、たくさんの人の耳に触れるピアノを調律したほうが板鳥さんの腕を活かせるんじゃないでしょうか」
「ほんとにそう思うのかい。(中略)ここに素晴らしい音楽がある。辺鄙な町の人間にも、それを楽しむことはできるんだよ。むしろ、都会の人間が飛行機に乗って板鳥くんのピアノを聴きに来ればいい、くらいに私は思っているんだがね」

ここには地方に住む人間の挟持、気概がある。僕は確信した。宮下は東京に住んでいないと。調べてみると案の定、彼女は福井県福井市在住だった。

日本は今やクラシック音楽大国である。世界中の著名な音楽家が我が国に殺到し、飽食状態である。しかしそれは東京一極集中型であり、美味しい想いをしているのは関東の人々だけというのが実情だ。例えば昨年のベルリン・フィル来日公演もそうだったけれど、関東にだけ来てそのまま帰国する音楽家たちのなんと多いことか!大阪にすら来てくれない。東京都には9つのプロ・オーケストラがあるが、大阪府は4つ、滋賀県・奈良県・和歌山県は0である。日本の文化的「豊かさ」って一体、何なんだろう?とつくづく考えさせられる今日このごろである。

そんなこんなで共感することの多い小説だった。音楽を愛する全ての人々にお勧めしたい。特にピアノを習っていたり、吹奏楽部に所属する中学・高校生は是非読んでみて!

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エマニュエル・パユ×エリック・ルサージュ@兵庫芸文

11月30日(木)兵庫県立芸術文化センターへ。

エマニュエル・パユ(フルート)とエリック・ルサージュ(ピアノ)のデュオを聴く。

P

  • モーツァルト:ソナタ 第17番(原曲はヴァイオリン・ソナタ)
  • シューベルト:「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲
  • ドビュッシー:ビリティス(カール・レンスキ編)
  • フォーレ:シシリエンヌ/コンクール用小品/幻想曲
  • プーランク:フルート・ソナタ

     ー以下アンコールー
  • マーラー:「子供の不思議な角笛」より《ラインの伝説》
  • マーラー:「亡き子をしのぶ歌」より
      《いつも思う。子どもはちょっと出かけただけなのだと。》

11月23-25日に東京と川崎でサイモン・ラトル/ベルリン・フィルの来日公演があった。その後、首席奏者であるパユはそのまま日本に留まり、各地でリサイタルを開催。ル・サージュはレ・ヴァン・フランセの仲間である。

パユは兵庫県と縁が深い。1989年に第2回 神戸国際フルートコンクールで優勝している。神戸市が補助金打ち切りを決め、コンクールが岐路に立たされた2015年には神戸市長に手紙を送っている→内容はこちら。その甲斐もあり、結局どうにか存続されることになった。

彼はiPadの電子楽譜を使用。譜めくりはフットペダルで。こういうやつ。

Foot

ただし楽章間は指でタップ。

最初のモーツァルトから弱音の美しさが際立つ。これが下手な奏者になると息のフーという音ばかり目立ち、掠れちゃうんだ。基本、頭と音尻はノン・ヴィブラートで、伸ばす中腹に装飾的ヴィブラートを掛ける感じ。

「しぼめる花」の序奏はさすらい人の姿が目に浮かぶよう。孤独で寂しい。変奏曲になると一転して華麗に。

「ビリティス」はドビュッシー特有のゆらぎが素敵。武満徹が愛したのイマージュ。全6曲で最初にギリシャ神話の半獣神《パン》が登場するのだが、僕が知っているだけでもドビュッシーは《パン》を3回取り上げている。まず「牧神の午後への前奏曲」(牧神=パン)、そして無伴奏フルートのための「シランクス」。旋律はそれぞれ異なるが、何れもフルートが「パンの笛」のイメージを担っているのが特徴。

フォーレは凛として格調高い。

フルートのために書かれた楽曲の史上最高傑作であるプーランクのソナタは冒頭のpure toneから魅了された。

アンコールのマーラーは優雅で洗練され、優しく繊細。文句なし。《フルートの貴公子》は相変わらずパーフェクトであった。

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デュメイ&横山幸雄/フレンチ・カーニバル!〜関西フィル定期

11月23日(祝)ザ・シンフォニーホールへ。オーギュスタン・デュメイ/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。ピアノ独奏は横山幸雄。

  • フランク:ヴァイオリン・ソナタ(デュメイ&横山)
  • サン=サーンス:ピアノ協奏曲 第2番
  • ドビュッシー:前奏曲集 第2巻 第6曲「風変わりなラヴィーヌ将軍」
    (ソリストアンコール)
  • ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
  • デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」
  • ビゼー:「アルルの女」よりアダージェット(アンコール)

関西に居ながらにして、世界で第一級のヴァイオリニスト・デュメイの演奏をしばしば聴く機会があるのは幸福なことだ。

フランクのソナタではピンと張り詰めた線があり、激しさと力強さが交差する。第4楽章の春の訪れと共に緊張感が少し緩む。そこには物語がある。

サン=サーンスは過小評価されている作曲家だと常々想っている。日本は無論のこと、(フランス以外の)ヨーロッパでも。イギリスのオケやベルリン・フィル、ウィーン・フィルはドビュッシーやラヴェルをしばしば演奏するが、サン=サーンスは滅多に演らない。皆無に等しい。彼の曲を聴く度に、「才気が迸ってるなぁ!」と感じる。ただ「知」が勝りすぎて「情」が乏しい側面は確かにあるので、不人気なのはそこが原因なのかも。つまり聴き手が感情移入出来ないわけだ。ピアノ協奏曲 第2番もJ.S.バッハ「平均律クラヴィーア曲集」を彷彿とさせる厳粛なピアノ独奏から開始され、そこから浪漫派の潮流の中に一気に聴衆を運び去る傑作。溜めて歌わせる演奏に酔い痴れた。

ベルリオーズは活発で歯切れよい。すばしっこくちょこまか動く。

デュカスでは冒頭の繊細な弱音に魅了された。魔法が効くと音楽はスキップし始める。速いテンポで切れ味鋭い解釈に、万雷の拍手が送られた。

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佐藤俊介(Vn.)×鈴木秀美(Vc.)×スーアン・チャイ(P)/ブラームスの夕べ @いずみホール

11月18日(土)いずみホールへ。

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佐藤俊介(ヴァイオリン)、鈴木秀美(チェロ)、スーアン・チャイ(フォルテピアノ)で、オール・ブラームス・プログラムを聴く。

  • ヴァイオリン・ソナタ 第2番
  • チェロ・ソナタ 第1番
  • ヨアヒム編曲:ハンガリー舞曲集より 第1、14、2番
    (ヴァイオリン&フォルテピアノ)
  • ピアノ三重奏曲 第3番

今回使用されたピアノは1868年に製造されたJ.B.シュトライヒャー。丁度、チェロ・ソナタ 第1番が作曲された頃だ。

また佐藤は一番太いG線以外に銀線を巻かない裸のガット弦を張り、鈴木も高弦の2本にピュア・ガットを使用。音程は現代のピッチ(444Hz)より少し低い、a≒438Hzが採用された。

ヴァイオリン・ソナタはガット弦の雑味が野性的で、洗練されたスチール弦とは一味違った。曲がより陰鬱で、内省的に響く。

チェロ・ソナタはあくまで渋く。

ロマ(ジプシー)の音楽に触発されたハンガリー舞曲集は異質なものがぶつかり合い、生成変化していくよう。

ピアノ・トリオは荒々しく大胆なヴァイオリンと、貴族的で気高いチェロが好対照をなし、その結晶作用としての「アンサンブルの妙」をじっくり味わった。

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関西弦楽四重奏団/ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 全曲演奏プロジェクト始動!

11月27日(月)ザ・フェニックスホールへ。関西弦楽四重奏団によるベートーヴェン・ツィクルスが始動した。

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  • 弦楽四重奏曲 第1番 ヘ長調
  • 弦楽四重奏曲 第10番 変ホ長調「ハープ」
  • 弦楽四重奏曲 第12番 変ホ長調

今回は全て長調の作品が並べられた。次回取り上げられる3曲は全て短調の予定。

ベートーヴェンのカルテットを聴くという行為は、深い森を探索することに喩えられる。それも鬱蒼と木が生い茂った仄暗い森である。その最深部は言うまでもなく第13−15番だ(第16番に至ると、明るい場所に浮上する)。四重奏曲に比べれば、偉大な9つの交響曲もせいぜい「林」程度と言えるだろう。

僕は弦楽四重奏団でいちばん重要なのは低音部のチェロだと想っている。次にヴィオラ。ヴァイオリンの実力に関しては団体間でそんなに大差ない。関西弦楽四重奏団の場合、上森祥平のチェロが非常に雄弁で、しっかりと土台を支えている。京都市交響楽団首席奏者である小峰航一のヴィオラもよく鳴る。

第1番は優雅で貴族的。暖炉の温もりが感じられ、音に厚みがあった。

全体として丁々発止としたやり取りが展開され、緊密なアンサンブルを堪能した。全曲、聴きに行きます。

ただ少し気になったのは、相変わらず曲によって第一・第二ヴァイオリンの奏者が交代していたこと。民主的であることが芸術的に正しいかどうかは分からない。仲良しグループの余暇活動じゃないんだから。もっと上を目指すんだったら、そろそろ覚悟を決めたほうが良いんじゃないだろうか?例えば楽曲ごとにAKB48のセンターが交代したら、そこに運営の迷いを感じ、観客は萎える。それと同じことだ。固定すべき、というのが僕の意見だ。

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バルトルド・クイケン/バロック・フルート・ソロリサイタル

11月24日イシハラホールへ。バルトルド・クイケンで無伴奏フルート作品を聴く。

Ishi

  • テレマン:ファンタジア 第7番、第6番 ①
  • ミシェル・ド・ラ・バール:組曲+フランソワ・クープラン:恋の鶯 ②
  • J.S.バッハ:無伴奏フルートのための組曲(パルティータ)イ短調 ②
  • C.P.E.バッハ:無伴奏フルートのためのソナタ イ短調 ③
  • シルヴィウス・レオポルド・ヴァイス:組曲 ト長調 ②
    (原曲はリュート作品)

使用されたフラウト・トラヴェルソ(バロック・フルート)は以下のレプリカ(複製)。楽器の解説はクイケン自身による。
①ヨハネス・ヒアキントス・ロッテンブルク(ブリュッセル、1735年):②よりややピッチが高く、ソプラノ・ヴォイス。
②オトテール(パリ、1700年):ルイ14世の時代の楽器で、深く温かい音。
③アウグスト・グレンザー(ドレスデン、1750年):①よりもっとソプラノ。Singing instrument。

アンコールは3曲でJ.S.バッハとテレマンのファンタジーから。

②オトテールの音色は朴訥で雅(みやび)。木のぬくもりが感じられた。

大バッハのパルティータはクイケンの寄稿文によると、もしかしたらリュートのための作品ではないかと。何故なら息継ぎの出来る箇所が殆どないからだ。そして彼はこう断言する。「バッハの音楽は、時間も場所も超越しているーそのことに気づかされるとき、私はいつも驚き、そのたびに幸福な思いにひたります」

息子C.P.E.の楽曲は華麗で気高い。

ヴァイスの曲はフルートのためのオリジナル作品のように響き、全く違和感がなかった。

久しぶりに古楽の世界を堪能した。

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カティア・ブニアティシヴィリ登場!広島交響楽団定期

11月15日ザ・シンフォニーホールへ。

フィンランドの指揮者ハンヌ・リントゥと広島交響楽団で、

  • ストラヴィンスキー:葬送の歌
  • チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
  • バルトーク:管弦楽のための協奏曲

ピアノ独奏はジョージア(昔はグルジアと呼ばれていた)生まれのセクシー・ダイナマイト、カティア・ブニアティシヴィリである。

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1909年に初演後、ロシア革命などによる混乱のため楽譜が行方不明になっていたストラヴィンスキー「葬送の歌」は2015年にたまたま発見され、16年12月にゲルギエフ指揮により100年以上の時を経て蘇演された。これを日本のオケが演奏するのは今回初だそう。バレエ音楽「火の鳥」の”子守歌”を彷彿とさせるような曲調だった。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は超有名曲だが、意外にも生で聴く機会は少ない。調べてみたら僕は何と6年ぶりだった。

ブニたん(「ブニ子」と呼ぶ人もいる)は人魚仕様の赤いドレスで登場。指が鍵盤の上で、活きのよい魚のように弾ける。大胆でありながら、同時にしっかりコントロールされた、「飼いならされた激情」を発散する。有名な序奏部を経て、気忙しい第1主題はまるで民族舞踏のよう。展開部に至ると軽やかなギャロップとなる。第2楽章は繊細。第3楽章ロンドはすばしっこいネズミを想起させる。リントゥの指揮はキレッキレだった。

広響のコンサートマスターは以前、大阪フィル第2ヴァイオリン首席奏者だった佐久間聡一(35)。コンチェルトの後、ブニたんとちゃっかり抱擁(hug)している彼を見て「役得だな!」と感心することしきり。他の楽員たちがニヤニヤしているのが可笑しかった。

ソリストのアンコールは、

  • ドビュッシー:月の光
  • リスト:メフィスト・ワルツ第1番「村の居酒屋での踊り」

「月の光」は音と音の間隙に多くを語らせる、間の力能があった。

バルトークのオケコンは曲の冒頭にコントラバスが奏でる音のうねりが大地の唸り声のようで、ニーチェが言うところの「デュオニソス的」だなと感じた。あくまで根を張るように低く水平に広がる世界。故にハルサイ(ストラヴィンスキー「春の祭典」)に繋がっている。それに対してラヴェルやプーランク、メシアンなど20世紀フランスの作曲家たちは「アポロ的」と言えるだろう。垂直に上昇して蒼穹(メシアンの場合は神)を目指す。ここでのリントゥは楽句(フレーズ)ごとの性格の描き分けが巧みだった。おぬし、なかなかやるな。

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エリシュカさん、さようなら。〜大フィル定期

10月19日(木)フェスティバルホールへ。

チェコの巨匠ラドミル・エリシュカの指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団・合唱団で、オール・ドヴォルザーク・プログラムを聴く。

  • 伝説曲 より第1〜4曲
  • テ・デウム(独唱:木下美穂子、青山 貴)
  • 交響曲 第6番

エリシュカは現在86歳。高齢であり、ドクター・ストップがかかり今回が最後の来日となった。チケットを購入するのにも躊躇があった。果たして彼は本当に日本に来れるのだろうか?体調不良でキャンセルになりはしないか?例えば過去にもゲルハルト・ボッセが振る筈だった大フィル定演(2012年1月)が急病により代演となった(ボッセは2月1日に死去)。

どうするか迷いに迷った。しかしここで、僕が生涯のベストワンとして愛して止まない映画「はるか、ノスタルジィ」ではるか(石田ひかり)が言う台詞「愛していると言わないで後悔するより、言って後悔した方がいい」を想い出した。「買わずに後悔するより、買って後悔した方がいい」そこに真理がある。決意は固まった。そして僕は賭けに勝った。

「伝説曲」は温かい空気に包まれ、音楽は膨張と収縮をゆったりと繰り返し、自然の息吹が感じられた。

「テ・デウム」は朗らか。ズッシリとした低音が全体をしっかりと支え、安定感があった。

後半のシンフォニーはふっくらとパン粉が膨らむイメージ。ボヘミアの自然の力強さと、同時に厳しさがある。第2楽章は一音一音を慈しむように奏でられる。第3楽章は野性の雄叫び。指揮者の肉食系の気質が剥き出しになる。喰らいついたら離さない。

終楽章でホールは祝祭空間となり、音楽は生を謳歌する。万感胸に迫る究極の名演であった。ありがとう、エリシュカ!

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