クラシックの悦楽

2018年4月14日 (土)

何故ひとは、二項対立で思考するのか?その根源に迫る。

社会(文化)人類学者レヴィ=ストロースについて色々書いてきた。彼の構造分析に出会い、大いに魅了されたからである。因みに社会人類学 (Social Anthropology)は主にヨーロッパで用いられる名称で、文化人類学 (Cultural Anthropology)はアメリカで用いられる名称である。レヴィ=ストロースはフランス人なので、彼に敬意を表し社会人類学とする。

レヴィ=ストロースは1962年に出版した「野生の思考」で一世風靡し(ブリコラージュという概念も流行った)、構造主義を打ち立てた。後半生は壮大な構想による「神話論理」4部作に専念した。

彼はこう説く。一つの神話だけでそれを解釈することは不可能であり、出来うる限り近隣の類似する神話を集め、各々最小単位(誰が、誰に対し、何をした。という短い文)まで分解し(それを彼は神話素と呼ぶ)、神話群相互関係を熟慮し、共通する神話素を見出す。

神話群間には変換(変奏)を伴う。例えばこうだ。

①A→B→C→D→E
②A'→C'→B'→F→E'
③A''→F'→D'→C''→E''

A,B,C…は神話①を構成する神話素であり、神話②③のA',B',C'…はその変換(変奏)を示す。対応する順番は入れ替わることがあり、通時的だけではなく、共時的に把握する必要がある。これを神話の〈時間統合機能〉と呼ぶ。つまり時間の流れに沿って左から右に読むだけではなく、同時に交響曲の総譜(フルスコア)のように、上から下に眺める必要がある。神話素(細部)は変換されるが、構造は不変である

共時態=〈時間統合機能〉とはフランスの哲学者ベルクソンが説く逆さ円錐モデルで考えると分かりやすいかも知れない。

神話の構造はJ.S.バッハ以降の西洋音楽の形式に似ている。A-A'-A''の関係は主題(A)と変奏(A',A'')だ。私たちは変奏曲に接した時、無意識のうちにそこに主題を重ねて聴いている(共時的)。そうして初めて曲の構造が理解出来る。例えばモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナーらの(任意の)交響曲 第1楽章を見てみよう。全て同じ構造を持っている。第1楽章はソナタ形式と相場が決まっていて、(序奏:ある場合とない場合がある)→提示部(第1主題、第2主題)→展開部(主題の変奏)→再現部(原型主題の再登場)→終結部となっている。構造は同じだが内容(主題の旋律、変奏様式)には変換がある。そこに作曲家の個性が滲み出るのだ。

神話と他の神話との変換関係は幾つかのコード(規則/規定)にそって(手がかりにして)見てゆく。

コード(規則/規定)には【料理のコード(生のもの↔火を通したもの)】【宇宙論のコード(太陽↔月↔地上)】【空間のコード(近すぎる接触↔遠すぎる分離、水平↔垂直)】【婚姻のコード(婚姻的〈夫婦〉↔非婚姻的〈忌避〉】【親族関係のコード(近しい↔疎遠)】【季節のコード(雨季〈湿った〉↔乾季〈乾いた〉)】【植物学のコード(つた植物〈天〉↔樹〈地上〉↔水生植物】【動物学のコード】などがある。

構造分析の手法は演劇(オペラ、ミュージカル)や映画にも応用出来る。一番分かりやすい例はシェイクスピア「ロミオとジュリエット」とミュージカル「ウエストサイド物語」だろう。シェイクスピア「マクベス」↔黒澤明「蜘蛛巣城」、シェイクスピア「リア王」↔黒澤明「乱」でも良い。構造は全く同じ、しかし細部に変換を伴う。

ここでマーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」とノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」の共通項/構造的対応関係を見てみよう。

  1. 内戦が勃発する(南北戦争↔ロシア革命)
  2. 家族が引き裂かれる(スカーレット・オハラの母は病死し、父は狂い、妹たちとは対立する↔ジバゴの家族はパリに亡命する)
  3. 神出鬼没、境界を超えて活躍するトリックスターが登場する(レット・バトラー↔弁護士ヴィクトル・コマロフスキー)
  4. スカーレットはレットにチャリティ舞踏会で再会する↔ジバゴはコマロフスキーにクリスマス舞踏会で初めて合う
  5. スカーレットは2人の男(アシュレー、レット)を愛す↔ジバゴは2人の女性(ラーラ、トーニャ)を愛す
  6. アシュレーには妻メラニーがいる↔ラーラには夫パーシャがいる
  7. 物語の最後にスカーレットはひとりぼっちで故郷タラに帰る↔ジバゴはひとりぼっちでモスクワに帰る

こうして分析すると両者は全く同じ構造を持つことがご理解頂けるだろう。

しかし、だからといってパステルナークが意識的にミッチェルを模倣したわけではないだろう。レヴィ=ストロースの構造分析はユングが言うところの普遍的(集合的)無意識の探索である。彼の守備範囲は人類学のみならず、音楽、ソシュールの言語学、深層心理学、哲学的思考にも及ぶ(レヴィ=ストロースは若い頃、哲学の教師だった)。正に彼こそが境界を超えるトリックスターであった。それ故に、フロイトに匹敵する偉業を成し遂げたにも関わらず、多くの人々に理解されているとは言い難い。とても残念だ。

僕は他にも次のような構造分析をした。

コード(規則/規定)の項で示したように、ひとは常に二項対立で思考するとレヴィ=ストロースは主張する。コンピューターの情報処理も二進法だ。0か1か - YesかNoか - その問いを繰り返し、積み重ねることで、ひとの思考を模倣出来る。さらに彼は次のように語る。

人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点はきまってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表しているとすれば、結局のところ、人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう。(「神話と意味」大橋保夫訳、みすず書房)

レヴィ=ストロースの論理に従い、ひとが必ず二項対立で思考するのなら、宇宙にも二項対立があるのではないだろうか?僕はそう考えた。

ここで面白いことに気がついた。地球上の動物はみな左右対称である。対称ということは二分割出来るということだ。

人間には手・足など二つある器官が沢山ある。目は二つないと立体視出来ない。耳は二つないと音の方向が識別出来ない。だから必然性がある。しかし鼻の穴は二つ必要だろうか?また女性の乳房は子供を育てるのに二つないと困る?精巣とか卵巣だって、二つなくても子作りは出来そうだ。腎臓も片方を摘出しても人間は生きていける。どうして二つあるのだろう?考えてみれば不思議である。

豚の乳首は7対=14個ある。猫:5対=10個、犬:4対=8個、熊:3対=6個、牛:2対=4個、つまり産子数が減ると乳首の数も減るが常に左右対称であり、一つにはならなかった

ひとの心臓は一つだが内部は右心と左心に分かれている。魚類には右心と左心の区別がなく、カエルの心室は一つしかない。

Heart_2

こうして見ていくと動物は進化とともに器官を二つに分離しようとする傾向が強いことがお分かり頂けるだろう。そして脳も右脳と左脳に分離している。この事実と、人が二項対立で思考することは決して無関係ではないだろう

レヴィ=ストロースは神話変換が周辺に広がっていく様子を教会のステンドグラスの薔薇模様に喩えた。

Rose

これはまるで細胞分裂のようだ。

Dna

1つの細胞が2つになり、4,8,16……と【2のn条個】に増殖していく。 ということは必ず2で割り切れる。だから真核生物はすべて左右対称なのだ。そして人の思考法もこの体細胞分裂を模倣する

では「宇宙の秩序」とは何か?それは「球形」である。星の形を見てごらんなさい。無重力空間の宇宙には上下も左右もない。だから物質は球になる。

これが地上では重力の影響で円、または回転対称になる(粘土で作った球を対側から挟んで押しつぶしたイメージ)。(上空から見た)山や湖の形、木の形、そして植物や花の形が該当する。一輪の花や一本の木を考えた場合、そこに回転対称はあるが左右対称など一対のみの対称はない。ランダム性のあるアメーバ運動をする原生生物にも回転対称が認められる。ところが高等生物になると全てが(限定的)左右対称になる。つまり水平方向の直線運動をするようになり、(無機物・植物)回転対称→(動物)左右対称に移行したと言える。円を一方向に引っ張ったイメージだ。

ユングはチベット仏教の曼荼羅図形こそ自己の象徴であり、普遍的(集合的)無意識の中にある元型であると考えた。

そして教会の薔薇窓も回転対称である。ひとの無意識の源流を遡ると、円に辿り着く。

古事記に記載されているイザナギ・イザナミの日本神話、そして旧約聖書の「創世記」にせよ、神話は必ず天と地の分離から始まる。それは【重力freeの世界↔重力に囚われた世界】の二項対立だ。つまり重力こそが二分割思考の原初なのである

僕の仮説がもし正しければ、無重力空間に知的生命体は生まれないということになる。さて、読者の皆さんはどう思われますか?

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2018年3月13日 (火)

團伊玖磨:オペラ「夕鶴」@兵庫芸文と「蝶々夫人」

3月10日(土)兵庫県立芸術文化センター・中ホールで團伊玖磨作曲「夕鶴」を鑑賞。

Tsuru

このオペラを観るのは2回目だ。

配役は、

  • つう:佐藤美枝子
  • 与ひょう:松本薫平
  • 運ず:柴山昌宣
  • 惣ど:豊島雄一

園田隆一郎/ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団、夙川エンジェルコール

今回つくづく感じたのはプッチーニ「蝶々夫人」との類似性である。実はこの両者、物語の構造(structure)が全く同じであることに気がついた。

  1. 團伊玖磨の管弦楽法や旋律の歌わせ方(カンタービレ)は明らかに「蝶々夫人」を意識している。
  2. 両者ともに日本の民謡・わらべ唄が引用されている。
  3. 異文化・異人の結合と乖離をテーマにしている。
    「蝶々夫人」大和撫子↔アメリカ人の男
    「夕鶴」鶴(メス)↔人間の男
  4. 二人の間には子供(またはそれに準ずるもの)が生まれるが、女はその忘れ形見を男に残して死ぬ。
    「蝶々夫人」息子を残して自決する。
    「夕鶴」鶴の千羽織を二枚織り、一枚(=子供)は大事にとっておいてねと言い残し、最後の体力を振り絞って空に羽ばたく(その先にあるのは死である)。
  5. 「夕鶴」与ひょうの「つう・・・つう・・・」という呼びかけで終わる。
    「蝶々夫人」幕切れでピンカートンが"Butterfly! Butterfly! Butterfly!"と3回叫ぶ。

佐藤美枝子は情感豊かで、芝居中に何度も涙を流していた。松本薫平の純朴そうな与ひょうも○。オーケストラは雄弁だった。

岩田達宗の演出は、最後つうが千羽織を抱えて織屋から出てくる場面で、明らかに赤ちゃんを抱っこするような姿勢だったのが印象深く、もののあはれを感じた。

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2018年3月12日 (月)

井上道義/大フィルのショスタコ第2・3交響曲

3月9日(金)フェスティバルホールへ。

井上道義(ミッキー)/大阪フィルハーモニー交響楽団・合唱団による定期演奏会を聴く。

  • バーバー:ピアノ協奏曲
    (独奏 アレクサンデル・ガジェヴ)
    ラフマニノフ:エチュード「音の絵」Op.39-5(ソリスト・アンコール)
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第2番「十月革命に捧げる」
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第3番「メーデー」

アレクサンデル・ガジェヴはイタリア生まれの33歳。達者な演奏だった。バーバーのコンチェルトは初めて聴いたが、JAZZっぽい語法満載の面白い曲。

1927年に初演されたショスタコの交響曲第2番は作曲家が20歳の作品。第3番が23歳である。

オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がプラウダ批判を浴びるのが1936年、29歳の時。生命の危険を感じた彼は交響曲第4番初演を凍結し、25年間封印。代わりに用意周到に準備した第5番が熱狂的に歓迎され、名誉を回復する。

単純明快な第5番と比較すると、第2・3番はアヴァンギャルド(前衛的)で、顕著なモダニズムを示している。僕が想い出したのはその頃(大正末期から昭和初期に)日本で流行った「モボモガ」という言葉。モダン・ボーイとモダン・ガールの略称である。つまり若き日のショスタコは正真正銘モボだったのだ。そして後に自分に降り懸ってくる災厄など夢にも知らず、脳天気に共産主義の正義と明るい未来を信じていたことが楽曲から窺い知れる。才気煥発過剰な音楽で、青春は爆発だ!!

「アホでも分かる」ようにするため第5番で多用されるユニゾンも、この初期の交響曲では影を潜めている。

結局プラウダ批判、そして1948年のジダーノフ批判を経て、ショスタコの音楽はどんどん変質してゆく。明るさは消え、アイロニー(皮肉)と自嘲、苦渋と諦念に満ちたものになり、最終的に晩年のヴァイオリン・ソナタとか、遺作のヴィオラ・ソナタでは感情すら喪失し、虚無だけが支配する空恐ろしい世界になる。そして音符は灰となり、雲散霧消する。

ショスタコがもしスターリン時代のソ連に生きていなければ、全然違った作曲家になったのではないか?そんなことどもを夢想しながら音楽に聴き入った。

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ワーグナー〈ニーベルングの指環〉第1日「ワルキューレ」@びわ湖ホール

3月3日(土)びわ湖ホールへ。ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」第1日「ワルキューレ」を鑑賞。昨年観た序夜「ラインの黄金」の詳細なレビュー及び作品論はこちら。4年間掛けて4部作を上演するプロジェクトである。2日間の公演ともにチケットは完売。

演出:ミヒャエル・ハンペ、美術・衣装:ヘニング・フォン・ギールケ、沼尻竜典/京都市交響楽団。

主な配役はジークムント:アンドリュー・リチャーズ、フンディング:斉木健詞、ヴォータン:ユルゲン・リン、ジークリンデ:森谷真理、ブリュンヒルデ:ステファニー・ミュター、フリッカ:小山由美 ほか。

前回同様、舞台前面にシルクスクリーンが張られプロジェクション・マッピングが効果的に用いられた。ハンペは奇を衒わず台本に忠実、つまりオーソドックな演出で、見応えがあった。現在流行りの「読み替え」演出は失敗することの方が多いので、こういう王道を往くのも、たまには悪くない。特に最後〈ヴォータンの告別と魔の炎の音楽〉は眠りにつくブリュンヒルデを予想以上に大きな炎が包み、びっくりした。

あと今回初めて気が付いたことがある。ライトモティーフ(示導動機)のひとつ〈愛による救済の動機〉とレナード・バーンスタイン作曲ミュージカル「ウエストサイド物語」の〈あんな男に〜私は愛している(A Boy Like That - I Have A Love)〉の後半部(アニタとマリアの二重唱)がそっくりなのである!!これ絶対オマージュだよね。因みにレニーは「ウエストサイド物語」の〈サムウェア〉にチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の旋律(終結部のチェロ)も引用している。

ジークムントの声は線が細かったが美しかった。ブリュンヒルデは声量があり○。あとフンディング役の斉木健詞が豊かな低音で聴衆を魅了した。一般論として日本人歌手は低音が弱いので、希少な存在だ。沼尻の指揮は室内楽的なアプローチだった。

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2018年3月 7日 (水)

カーゲル「フィナーレ」〜いずみシンフォニエッタ大阪 定期

2月10日(土)いずみホールへ。

飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪の記念すべき第40回定期演奏会を聴く。

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  • レスピーギ(川島素晴 編):ローマのいずみ
  • 西村朗:オーボエ協奏曲「四神」(世界初演)
    【オーボエ独奏 トーマス・インデアミューレ】
  • カーゲル:フィナーレ

「ローマのいずみ」は1管編成の室内管弦楽版で、「ローマの泉」だけではなく「松」「祭り」のエッセンスも積み込まれ、アイディア満載だった。

カーゲルのフィナーレは第1回定期演奏会でも演奏された曲で、途中で指揮者が倒れ、担架で運ばれるという演出が可笑しかった。これは「見る音楽」だ。フジテレビ系バラエティ番組「トリビアの泉」でも取り上げられ、お茶の間で話題になったという。

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2018年3月 1日 (木)

尾高忠明/大フィルの奏でる武満徹とジョン・ウィリアムズ

2月9日(金)ザ・シンフォニーホールへ。尾高忠明/大阪フィルハーモニー交響楽団で、

【第1部】武満徹の世界

  • 3つの映画音楽(「ホゼー・トレス」から”訓練と休息の音楽”〜「黒い雨」から”葬送の音楽”〜「他人の顔」から”ワルツ”)
  • 夢千代日記
  • 「波の盆」組曲

【第2部】ジョン・ウィリアムズの世界

  • 「未知との遭遇」組曲
  • 「ハリー・ポッターと賢者の石」ヘドウィグのテーマ
  • 「シンドラーのリスト」メイン・テーマ
  • 「E.T.」フライング・シーン
  • 「ジョーズ」メイン・テーマ
  • 「スター・ウォーズ」メイン・テーマ

補助席も出て満席。会場内は熱気に満ち溢れていた。

何よりありがたかったのは武満徹の音楽を沢山聴けたこと。東京と比較すると関西で武満が聴ける機会は稀だ。大フィルも関西の作曲家、例えば大栗裕とか貴志康一の作品ならたまに「義務感」で仕方なしに演奏するのだが、関東の作曲家になるとからっきし駄目。黛敏郎とか芥川也寸志など皆無に等しい。京都市出身の松村禎三ですら1989年(平成元年)3月の定期で1回取り上げられたきりという惨状である。

だから武満と親交が深かった尾高が音楽監督に就任するのは大歓迎である。特に聴きたいのが究極の名曲「系図(Family Tree)  ー若い人たちのための音楽詩ー」。頼みまっせ!!!

ただ尾高が今年2月札幌交響楽団の定期で「ファミリー・トゥリー」を取り上げたときの語りは中井貴惠(60歳)だったのだが、どうか老人は勘弁して下さい。若い人たちのための音楽詩ーなので。日本の初演は遠野凪子(なぎこ)で、当時15歳。今なら上白石萌音/萌歌 姉妹あたりを推薦しておく(萌歌は山田和樹/日本フィルで「系図」の経験あり)。

ホゼー・トレス」は劇的でダイナミック。「乱」はオーボエ・ソロが諸行無常を嘆き、無意識・混沌が描かれる。

武満が「乱」の音楽を担当した時、黒澤明はロンドン交響楽団かハリウッドのスタジオ・オケを起用するよう要望した。それに対し武満は岩城宏之/札幌交響楽団がいいと主張、喧嘩になった。結局武満が黒澤を札幌のホールまで連れていき音を聴かせたところ、漸く納得したという。そんなエピソードを尾高は披露した。

ノスタルジックな「波の盆」は塗り薬がひたひたと傷口から体内に浸透し、全身をゆったり癒やすような雰囲気。

ジョン・ウィリアムズの世界では会場に来ている子供たちをステージに上がらせ、奏者の間近で聴かせた。これが前衛的な「未知との遭遇」というのがイカしてる!尾高は確信犯だね。

ハリー・ポッターはチェレスタの後の繊細な最弱音がキレッキレだった。

E.T.は流麗。

大フィルの「スター・ウォーズ」は大植英次・音楽監督時代に何度か聴いているのだが、今回の演奏が最もレベルが高かった。これはホルン首席・高橋将純氏の功績が大だろう。大植時代に高橋さんはいなかったからね。

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2018年2月17日 (土)

イタリア人指揮者/吹奏楽と「ローマ三部作」〜バッティストーニ登場!大フィル定期

2月16日(金)フェスティバルホールへ。アンドレア・バッティストーニ/大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く。

  • レスピーギ:交響詩「ローマの噴水」
  • 同:交響詩「ローマの祭り」
  • 同:交響詩「ローマの松」

バッティストーニはイタリア・ヴェローナ生まれの30歳。ジェノヴァ・カルロ・フェリーチェ歌劇場首席客演指揮者及び東京フィルハーモニー交響楽団首席指揮者を務めている。東フィルと録音した「ローマ三部作」のCDは絶賛を博した。

「ローマ三部作」と言えばトスカニーニ/NBC交響楽団やムーティ/フィラデルフィア管弦楽団の音源が名盤と誉れ高い。どちらもイタリア人であり、かつオペラ指揮者だ。よって一般的イメージとして「イタリア人指揮者なら誰しもレスピーギが得意」と思われがちだ。しかしクラウディオ・アバドはこの曲を毛嫌いし生涯一度も振らなかったし、カルロ・マリア・ジュリーニも然り。またリッカルド・シャイーはベルリン・フィルと「ヴァルトビューネ2011」で演奏したりもしているが、レコーディングは一切していない。日本人指揮者だからといって、誰しも武満徹の作品を振るわけではないのと同じことなのだろう。

さて、吹奏楽をした経験がある人なら誰でも知っていることだが、レスピーギの「ローマの祭り」は吹奏楽コンクールで大人気の自由曲だ。おそらく演奏回数No.1だろう。データベースで検索したところ、全日本吹奏楽コンクール(全国大会)で演奏されたのは今までに113回(中・高・大学・一般・職場含む)!うち金賞受賞数は延べ44団体。因みにもう一つの人気曲、ラヴェル作曲「ダフニスとクロエ」が自由曲に選ばれたのは111回である。これが「ローマの噴水」になると25回、「ローマの松」だと20回と極端に少なくなる。

「ローマの祭り」はどうしてこんなに人気なのか?まず難易度が高い。テクニックをこれ見よがしに誇示出来る。そしてリムスキー=コルサコフに作曲を師事したレスピーギのオーケストレーションは華麗で、演奏効果が高い。多少のミスが有っても上手に聴こえる。しかし散々吹奏楽コンクールで聴かされて、がなり立てるような大音響に閉口するし、気が狂ったような乱痴気騒ぎに、こちとらはもううんざりだ。カオス(混沌)だね。

前置きはこれくらいにして本題のバッティストーニの話をしよう。まず「ローマの噴水」は繊細な弱音に魅了された。特に弦の響きが美しい。がさつな吹奏楽アレンジとは大違い。リズムには切れがあり、「ローマの祭り」で聖歌の旋律が奏でられる箇所はよく歌う。強烈なカンタービレに、さすがイタリア人の血だと想った。主顕祭ではトロンボーンが吹く千鳥足の酔っぱらいがユーモラスで、メリーゴーランドがクルクル回る情景が目に浮かんだ。迫力があるが全然うるさくはなく、ffでも細部まで明晰、解像度が高かった。お見事!文句なし。

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2018年1月28日 (日)

#クラシック名曲マイベスト10

Twitterのハッシュタグで #クラシック名曲マイベスト10 というのがあって、これを眺めているだけでもすこぶる愉しい。多種多様。書き手の「人となり」が窺い知れる。

ある種の傾向も見えてくる。オーケストラ曲(協奏曲含む)やピアノ曲ばかり聴いている人が結構多い(室内楽少なっ!)とか、メンデルスゾーンやサン=サーンスが不人気とか。

ぶっちゃけ星の数ほどある名曲の中から10選ぶなんて不可能。無茶振りだ。しかし話の種としては面白い。「へーそんなに良いんだ。一度聴いてみよう」という切っ掛けになるかも知れない。よって僕も参戦することにした。

これはお遊び、ゲームだ。そしてゲームには規則が要る。僕がこういうときに重視するのはバランス感覚である。偏らないこと。そこで2つのルールを設定した。

  1. 一作曲家一作品とする。
  2. 交響曲・管弦楽曲・協奏曲・室内楽・器楽・歌劇・歌曲・音楽史(ルネサンス〜バロック期)とすべてのジャンルを網羅する。

その結果、次のようなラインナップとなった。

  • コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲
  • フランツ・シュミット:交響曲第4番
  • J.S.バッハ:マタイ受難曲
  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番
  • プーランク:フルート・ソナタ
  • 武満徹:系図 ―若い人たちのための音楽詩―
  • ディーリアス:夏の夕べ(「3つの小さな音詩」より)
  • ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」
    (または「トリスタンとイゾルデ」
  • ドビュッシー:2つのアラベスク
  • シューベルト:歌曲集「冬の旅」
    (または歌曲「魔王」「水の上で歌う」「影法師Doppelgänger

コルンゴルトフランツ・シュミットについては下記事をお読みください。

J.S.バッハに関してはマタイ受難曲をゴルトベルク変奏曲無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ、あるいは無伴奏チェロ組曲に置換可。

ベートーヴェンの最高傑作も、弦楽四重奏曲第14,15番大フーガ後期ビアノ・ソナタ第30−32番のどれにするか決めかねる。

プーランクピアノ協奏曲もとても美しくて好き。

武満徹系図( Family Tree )は少女の語り手とオーケストラのための作品である。テキストは谷川俊太郎の詩集「はだか」。僕は日本初演を果たした遠野凪子(当時15歳)の語りが一番好き。上白石萌歌とかも演じており、異色なところでは京都市交響楽団定期演奏会の吉行和子!!あのぉ、少女じゃないんですけれど……。

夏になると無性に聴きたくなるのがディーリアスの音詩(Tone Poem)。「夏の歌」「夏の庭園で」にも置換可。

ニーベルングの指環」の歴史的意義/後世への多大な影響については下記事で詳しく述べた。

印象派を代表して、玻璃のように繊細なドビュッシーのピアノ曲を。「」とか「月の光」に置換可。オーケストラ曲「牧神の午後への前奏曲」や、無伴奏フルート独奏曲「シランクス(パンの笛)」もいいね。

シューベルトは当初、後期ピアノ・ソナタ第19−21番を挙げようと計画していた。しかしふと、思い直した。シューベルトと言えば「歌曲王」。それを避けて通るのはいくらなんでも失礼、外道の所業だろう。「冬の旅」は暗く、悲痛である。若くして梅毒に感染し、死の恐怖に怯えながら生き、(当時の治療法だった)水銀中毒により31歳の若さで亡くなった作曲家の人生と、「冬の旅」の主人公はピタッと重なる。

魔王」は18歳の時に作曲された劇的な傑作。「水の上で歌う」は映画「バトル・ロワイヤル」で印象的に使われていた。また「ドッペルゲンガー(二重身)」をテーマにベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」やデヴィッド・フィンチャー「ファイト・クラブ」、ドゥニ・ヴィルヌーヴ「複製された男」が創られた。

続いてMore 10 (Another version)を挙げよう。

  • シベリウス:交響曲第7番
  • ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」
  • ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲第4番「ドゥムキー」
  • チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」
  • モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番
    (またはアダージョとフーガ K.546、交響曲第25番
  • マーラー:交響曲第9番
  • サティ:ジムノペディ(または「あんたが欲しいのジュ・トゥ・
  • ブラームス:弦楽五重奏曲第2番
  • フランク:ヴァイオリン・ソナタ
  • ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」

シベリウスは後期交響曲第4,5,6番のどれもいいなぁ。迷う。

ヴェルディのオペラは「椿姫」「ドン・カルロ」「アイーダ」「仮面舞踏会」「オテロ」など傑作が数多(あまた)あるが、僕は「シモン・ボッカネグラ」にとどめを刺す。指揮者クラウディオ・アバドがこよなく愛した作品でもある。

ドヴォルザークからは民族色に溢れた、またチャイコフスキーからは哀しみに満ちた室内楽を選んだ。

モーツァルトピアノ・ソナタは第3楽章「トルコ行進曲」で有名だが、はっきり言ってどうでもいい。このソナタの白眉は第1楽章 変奏曲である。何ともInnnocent(無垢)な気持ちになる。僕が小学校4年生の頃、母に買ってもらったイングリット・ヘブラーが弾くLPレコードに収録されており(併録はソナタ8番と9番)、繰り返し聴いた。モーツァルトの真髄は長調から短調に転調する瞬間にある。そこに神が宿る。

マーラー第9番にはこの世への執着/未練を示した「大地の歌」を経て、諦念と浄化がある。最後にはひたすら青い空が広がり、清々しい気持ちになれる。未完に終わった第10番も良い。

ブラームス交響曲第4番も迷ったけれど、ここは室内楽の名手を讃えて。ヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」も捨てがたい魅力がある。

裏ベスト

  • アレグリ:ミゼレーレ(無伴奏合唱曲)
  • テレマン:フルートとリコーダーのための協奏曲
  • ブルックナー:交響曲第7番
  • レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第3番(または第5番)
  • ラヴェル:序奏とアレグロ(七重奏曲)
  • エルガー:チェロ協奏曲
    (または
    弦楽四重奏×弦楽合奏による序奏とアレグロ
  • メシアン:世の終わりのための四重奏曲
  • グラナドス:スペイン舞曲集より「オリエンタル」「アンダルーサ」
  • バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番
    (または弦楽四重奏曲第4,5番
  • ヤナーチェク:歌劇「利口な女狐の物語」
    (または弦楽四重奏曲第1,2番

ローマのシスティーナ礼拝堂で歌われ、楽譜が門外不出の秘曲だった「ミゼレーレ」を14歳だったモーツァルトが二度聴いただけで正確に採譜したというのは余りにも有名なエピソードである。透明感あふれるタリス・スコラーズの合唱でどうぞ。

ヴォーン・ウィリアムズについては下記記事をお読みください。

ラヴェル序奏とアレグロはNHK BS プレミアム「クラシック倶楽部」のオープニングテーマに採用されている。

エルガーのチェロ協奏曲はデュプレ×バルビローリの、火の玉と化した壮絶な演奏をお聴きあれ。

グラナドスオリエンタル」「アンダルーサ」は勿論オリジナルのピアノも良いのだが、是非ギター編曲版も聴いて欲しい。あと映画「エル・スール」は必見。

バルトークコンチェルトは冒頭のヴァイオリン独奏を聴くと、否応なく「嗚呼、ハンガリーだなぁ」としみじみ想う。

ヤナーチェクは色っぽいね。弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」は不倫音楽だ。

次点

  • ベルリオーズ:幻想交響曲
  • フォーレ:レクイエム
  • シューマン:子供の情景
    (またはノヴェレッテ第1番
  • メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」
    (またはピアノ三重奏曲第1番
  • ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
  • ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第8番
    (またはヴァイオリン/ヴィオラ・ソナタ
  • プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」
    (または交響曲第7番
  • ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー
  • ハワード・ハンソン:交響曲第2番「ロマンティック」
  • モンポウ「内なる印象」(特に第8曲「秘密」が白眉)

オイストラフ60歳の誕生日のために作曲されたショスタコーヴィチヴァイオリン・ソナタと、遺作となったヴィオラ・ソナタは無機質というか、空恐ろしい虚無の音楽である。殆どの聴き手は拒絶反応を示すのではないだろうか?でも作曲家の心の深淵を覗き込むような体験が出来る、稀有な作品と言えるだろう。

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2018年1月25日 (木)

イザベル・ファウストとスティーブ・ジョブズ/バッハ無伴奏Vn.ソナタ&パルティータ全曲演奏会

1月23日及び24日に連続で、イザベル・ファウストの弾くJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲演奏会を聴いた@いずみホール。

Faust

【第1夜】

  • 無伴奏Vn.ソナタ 第1番
  • 無伴奏Vn.パルティータ 第1番
  • 無伴奏Vn.ソナタ 第2番

【第2夜】

  • 無伴奏Vn.パルティータ 第3番
  • 無伴奏Vn.ソナタ 第3番
  • 無伴奏Vn.パルティータ 第2番

第2夜で曲順の入れ替えを行っているのは言うまでもなく、最後に【音楽世界遺産】である超弩級の名曲「シャコンヌ」を擁する無伴奏Vn.パルティータ第2番を持ってくるためである。余談だが1977年に遙かなる宇宙を目指し打ち上げられたボイジャー探索機には遠い未来、それが遭遇するかもしれない地球外知的生命体(宇宙人)に向け人類からのメッセージとしてゴールデンレコードが搭載されており、そこには無伴奏Vn.パルティータ第3番の第3曲「ロンド風ガヴォット」が選ばれている(演奏はグリュミオー)。詳しいリストはこちら

Lp

どうして「シャコンヌ」じゃないんだ?という疑問は当然湧くが、恐らく収録時間の問題だろう。CDじゃなくレコードだからね。「ガヴォット」が3分弱。対して「シャコンヌ」はファウストのCDだと12分26秒。

ファウストは東京でしばしば無伴奏ソナタ&パルティータ全曲演奏会を開いているが、大阪では今回が初めて。僕は京都市のバロックザールで一度聴いており(レビューはこちら)、その時は3曲のみだった。またチョン・キョンファが一晩で6曲全曲演奏を行う無謀な挑戦にも足を運んだが、途中で弾くのが止まるわボロ雑巾みたいな状態で、惨憺たる結果に終わった。

バロックザールで3曲聴いたときよりも今回の方が遥かに感動が大きかった。全然違う。やはり6曲を集中して、通しで聴くというのが鍵なのだろう。音楽は清冽で、暗闇の中でメラメラと真直ぐに燃える蝋燭の太い芯のような演奏であった。

ファウストはバロック・ヴァイオリンに裸のガット弦を張りバッハの無伴奏を弾いたことがあるそうなのだが、CDや今回は愛器ストラディバリウス「スリー・ピング・ビューティ」+スチール弦+バロックボウ(弓)という組み合わせ。その理由はこちらのインタビューで彼女が詳しく語っている。なおバロック弓は現代のものよりも約5cm短く、重量も15gほど軽い。よって構え方や運弓法(ボウイング)に違いが出てくる。ノン・ヴィブラートによるピリオド・アプローチ(古楽奏法)。ピッチを揺らすのは装飾音のみ。

彼女の奏でる音を聴きながら僕が想起したのは故スティーブ・ジョブズの座右の銘「洗練を突き詰めると簡潔になる(Simplicity is the ultimate sophistication. )」。大バッハの音楽はiPhoneの姿形に似ている。ファウストの舞台衣装もそうで、一見地味でシンプルだがその実とってもお洒落。どうやらイッセイミヤケのプリーツプリーズらしい。そしてスティーブ・ジョブズが生前愛用していた黒のタートルネックも三宅一生がデザインしたものだった(詳しくはこちら)。一部でセントクロイ・コレクションだという情報が飛び交っているがそれは間違い。ちゃんと伝記に明記されている。ある日ニューヨークにあるイッセイミヤケの事務所にジョブズ本人から電話があり、100着まとめて注文したという。彼は同じものを毎日着替えていた。

Steve_jobs

僕はこの2日間、ファウストと共に深い、深い思索の森を散策した。それは「森林浴」と言ってもいい、魂が浄化される体験であった。周りの聴衆も殆どが連日足を運んだ人たちばかりで、いわば我々は「旅の仲間」「同志」だった。彼女がバッハを奏でる様子は農家の夫人が真摯な祈りを捧げている姿を連想させる。そう、ミレー「晩鐘」のイメージだ。

M_2

そして本屋大賞を受賞した宮下奈都(みやしたなつ)著「羊と鋼の森」の次の一節を想い出した。

 自分が迷子で、神様を求めてさまよっていたのだとわかる。迷子だったことにも気づかなかった。神様というのか、目印というのか。この音を求めていたのだ、と思う。この音があれば生きていける、とさえ思う。

神はそこ(ホール)にいた。その神はキリスト教徒が思い描くような手の届かない彼岸の存在、絶対的な真理・イデアではなく、偉大な人間(バッハ)の想像力(イマジネーション)と叡智によって創り出されたものであった。

稀有な演奏会だった。現在望みうる最高のバッハ。是非何年後かにまた彼女で聴きたい。さらに五嶋みどりやアリーナ・イブラギモヴァが弾くバッハの無伴奏Vn.全曲演奏会も期待したい。いずみホールのスタッフの方々、よろしくお願いします。

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2018年1月24日 (水)

!〜関西弦楽四重奏団/ベートーヴェン・ツィクルス第2夜

1月22日(月)ザ・フェニックスホールへ。関西弦楽四重奏団によるベートーヴェン・ツィクルス第2夜を聴く。

Ks

  • 弦楽四重奏曲 第4番
  • 弦楽四重奏曲 第8番「ラズモフスキー第2番」
  • 弦楽四重奏曲 第15番

第1回(レビューはこちら)が長調ばかりだったのに対し、今回は短調の楽曲がずらりと並んだ。

初期の第4番は例えば鋭いナイフのような切れ味のアルバン・ベルク弦楽四重奏団の方向性とは違って、小気味良い演奏。「若気の至り」という言葉を想い出した。

ラズモフスキー第2番はしなやかに歌う。終楽章は「狩り」を連想した。馬のギャロップ。躍動感があった。このカルテットは特にヴィオラとチェロの低音部が卓越しており、土台がしっかりと支えた美しいピラミッド型音響を成している。

弦楽四重奏曲(SQ)第15番は名曲中の名曲。ベートーヴェンの最高傑作は?と問われたら僕は後期ピアノ・ソナタ第30−32番と、SQの第14番か第15番を挙げる。どちらがbetterかは計り知れない。どれも最高!論じても意味がない。

中間の第3楽章は病気のせいで作曲を一時中断し、回復した後に追加されたもので、「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」と題されている。ゆったりした教会旋法の部分と、より速めの「新しい力を得た」部分とが交差する。真摯な祈りと、漲る力/大いなる自信に溢れている。僕は小学校5−6年生の頃に読んだ武川寛海(著)「ベートーヴェンの虚像をはぐ」(現在絶版)のことを想い出した。

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この本の中で有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」の話題が取り上げられて、そもそもベートーヴェンは信心深いカトリック教徒なのだから、その教えに背く自殺を本気で考える筈がない。遺書に書かれたことは単なる妄想の産物だと一刀両断されており、目から鱗が落ちた。SQ 15番を聴けば、彼の信仰心が如何に篤かったかが窺い知れる。

終(第5)楽章は運命という波に呑み込まれて、アッと言う間に遥か彼方に押し流されてしまうような印象を抱く。厳しく、決然とした超弩級の名演だった。はっきり言って第1回よりも格段の進化を遂げており、今後の展開が一層愉しみとなった。

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