クラシックの悦楽

【総括】20世紀の芸術(現代美術・現代音楽)とは一体、何だったのか?

僕は20世紀後半(昭和40年代〜平成)を生きてきた。小学校4年生くらいからクラシック音楽を聴くようになったが、当初から不思議に思っていたことがある。

コンサートで演奏されるのは大体19世紀の作曲家(リスト/ワーグナー/ブルックナー/マーラー)までで、20世紀以降の現代音楽は殆ど取り上げられない。強いて言えばストラヴィンスキー「春の祭典」やバルトーク「管弦楽のための協奏曲」など数曲あるが、それでもせいぜい20世紀前半止まりだ。

結局、シェーンベルク/ヴェーベルン/ベルクら新ウィーン楽派、ブーレーズ/ノーノ/シュトックハウゼンらセリー音楽トータル・セリエリズム)といった無調音楽は一般聴衆から拒絶され、コンサートのメイン・プログラムに入れると全く集客出来ず、閑古鳥が鳴くという状況が現在も続いている。

20世紀の聴衆が現代音楽に対して嫌悪感を抱き、そっぽを向いてしまった主な理由として〈シェーンベルクによる十二音技法の発明無調音楽への完全移行〉という流れが挙げられる。はっきり言って、聴いていて心地よくない。不快だ。我々の耳は依然として調性音楽を求めている。では何故、〈作曲家の意志↔聴衆の嗜好〉に埋めようのない乖離が起こってしまったのか?そこにはヨーロッパ人が根強く持つ進歩思想、つまり【芸術は、新しい形式が古いそれに続くという、進歩の状態に絶えずある】と見なす思想が横たわっている。

進歩思想は生物の進化論と深く関わっている。ここで多くの人が持つ誤解を解いておきたいのだが、チャールズ・ダーウィンは進化(evolution)という言葉を使っていない。彼の著書「種の起源」に登場するterm(用語)はmodification(変更・修正・調整)である。種の保存(遺伝)、自然選択(淘汰)、存在し続けるための努力(生存競争)がその理論の根幹を成す。つまりダーウィンは〈遺伝子の突然変異→環境に適応したものが生き残る〉ことを主張しているのであって、その変化は必ずしも進化を意味しない。例えば人間の足の指を考えればいいだろう。使わないから退化している。手指の変化と真逆の関係にあるのだ。

進歩思想の深層にはキリスト教(およびユダヤ教)が潜んでいる。旧約聖書の創世記によると、最初の男アダムは神に似せて造られた。つまり人間は神の似姿であり、成長とともに父親(理想像)に近づかなければならないという強迫観念妄執に彼らは囚われている。これを父性原理という。

1970年代くらいまで欧米人(と西洋かぶれの日本の知識人・エリート大学生)は本気で進歩史観を信じていた。【歴史とは人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程である】と見なす歴史観である。イギリスにおけるホイッグ史観がその代表例で、【歴史とは人類が理性によって現状を克服し、精神の自由を実現させていく過程である】とするドイツのヘーゲル史観や、カール・マルクスによる唯物史観も同様。マルクスにとっての最終形態は共産主義社会の到来であり、その実現(=正義)のためには暴力革命も肯定される。その成れの果ての姿が連合赤軍によるあさま山荘事件であり、(テルアビブ空港乱射やダッカ日航機ハイジャックなど)日本赤軍事件であった。

音楽における進歩思想は【無調音楽という新しい進歩の段階に入ったのだから、いまさら調性音楽という前の段階には逆行出来ない】ということになるだろう。故に20世紀に調性音楽を守ろうとした作曲家たちは「時代遅れ」「ナンセンス!」という烙印を押され、映画音楽やミュージカルなどのジャンルに散っていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、ジョン・ウィリアムズ、ニーノ・ロータ、クルト・ワイル、レナード・バーンスタイン、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド・ウェバー、久石譲らである。

映画音楽に使用したモティーフを流用したコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は1947年に初演されて以降、半世紀に渡って馬鹿にされ、蔑まれ、無視され続けてきた。しかし21世紀に入り漸く調性音楽の復権が進み、日本でもオーケストラの定期演奏会でしばしば取り上げられるようになった。

現代美術においてもは進歩思想が跋扈した。つまり具象を否定し、抽象絵画に走ったのである。そして鑑賞者の共感と支持を完全に失った。このように20世紀における現代音楽と現代美術、そして共産主義国家建設という壮大な実験(と失敗)は完全にリンクしていた

僕に言わせれば芸術における進歩思想は愚の骨頂であり、殆ど狂気の沙汰である。文学や演劇を例に取れば分かり易いだろう。ここで読者に2つ質問をしよう。

  • あなたは紫式部「源氏物語」よりも、村上春樹の小説の方が進歩(進化)していると思いますか?
  • あなたは古代ギリシャ悲劇「オイディプス王」「エレクトラ」やシェイクスピアの作品よりも、現代演劇の方が進歩(進化)していると思いますか?

全くナンセンスな問いだ。それぞれの時代に様式(style)の変化はあるだろう。しかしそれは進歩ではない。そしていつの時代にも優れた作品と、そうでないものがある。それだけのことだ。同時代の人間にはその真価を見抜けず、時の洗礼を経なければ判らないこともある(例えばマーラーやコルンゴルトの音楽)。それが自然淘汰である。

また進歩史観の間違い・迷妄も次の2つの問いにより簡単に証明出来る。

  • あなたは19世紀ドイツの首相ビスマルクよりも20世紀に普通選挙で首相に就任したアドルフ・ヒトラーの方が優れた政治家だと思いますか?
  • あなたはエイブラハム・リンカーンよりもジョージ・W・ブッシュの方が優れたアメリカ大統領だと思いますか?

賭けてもいい。少なくとも過去2,000年間、人間性(humanity)は一切進化していない。もし人類が進化していると思うのなら、それは単なる錯覚である。代わって間違いなく進化していると言えるのは科学技術であり、富の再分配など社会(補償)制度、つまりsystemだ。

確かに人類の知識(知恵)は増えている。でもそれは進化じゃない。文字という媒体(現代ではコンピューター)により知識の蓄積が可能となり、それを幼少期から効率よく脳に詰め込むための教育制度(system)が発達したのだ。履き違えてはいけない。

故に人の心(意識+無意識=自己)を表現する芸術に、進化などあろう筈がないのである。

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河村尚子「ベートーヴェン紀行」第2回@兵庫芸文

11月25日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。河村尚子でオール・ベートーヴェン・プログラムを聴く。

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  • ピアノ・ソナタ 第18番
  • ピアノ・ソナタ 第21番「ワルトシュタイン」
  • ピアノ・ソナタ 第24番「テレーズ」
  • ピアノ・ソナタ 第23番「熱情」
  • エリーゼのために(アンコール)

河村は兵庫県西宮市生まれ。地元でのコンサートである。A席2,000円という破格の安さ!

実に歯切れよく、曖昧さはなし。ペダルの使用は最小限で音が濁らない。

タッチは力強く男性的。実際に音だけでブラインド試聴したら、女性ピアニストだと判らないだろう。感情の突発的爆発など曲想にメリハリがあり、スケルツォでは気まぐれや戯けが鮮やかに表出される。彼女のベートーヴェンはドイツのヴィルヘルム・バックハウスに近い雰囲気があるなと僕には感じられた。

テンポをプレストに上げた「熱情」終楽章のコーダは何かに取り憑かれた巫女舞を彷彿とさせる、いわばトランス状態で弾き切った。

アンコールの前に「テレーズ」に初めて取り組んだ10歳の時の想い出を語り、「エリーゼのために」は実は「テレーズのために」なんじゃないかという自説を述べた(似た旋律が登場するのだという)。

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スペイン再発見〜古楽最前線!ー躍動するバロック@いずみホール

11月11日(日)いずみホールへ。

に続くシリーズ第3弾、今回はファミ・アルカイ(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、アカデミア・デル・ピアチェーレを聴く。

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曲目は、

  • 作者不詳(16世紀頃):ディ、ペーラ・モラ
  • カベソン&アルカイ:ラ・ダマ・レ・デマンダ
  • イザーク&アルカイ:ラ・スパーニャに基づくグロサーダ
  • アルカデルト、オルティス&アルカイ:「おお幸福な私の目」
  • アルカイ:「牛を見張れ」によるディフェレンシアス
  • カベソン:第1旋法によるティエント 第3番
  • アルカイ:ジョスカンの「はかりしれぬ悲しさ」によるグロサ
  • ムルシア:ファンダンゴ
  • カベソン&アルカイ:グロサーダ「ある日シュザンヌが」
  • 作曲家不詳&アルカイ:ハカラス&フォリアス
  • サンス&アルカイ:パッサカリア、マリオナス、カナリオス

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アルカイはスペイン生まれだが、父はシリア人で母はパレスチナ人だそう。

彼はジミ・ヘンドリックスの楽曲をカヴァーしたり、スタジオにはなんとエレキ・ヴィオラ・ダ・ガンバを所持しているという!型破りというか、規格外の人だ。

一旦は滅んで、1970年以降にヴィーラント・クイケン、ジョルディ・サヴァールらの尽力により復活した古楽器ヴィオラ・ダ・ガンバの概念を根底からひっくり返す、革新的演奏であった。特にガンバを横向きに倒し膝に載せ、ギターのように撥弦(はつげん)楽器として扱う手法には心底驚かされた。そしてカッケー!

ヴィオラ・ダ・ガンバ3丁とギター、チェンバロという五重奏を聴きながら、僕が真っ先に想起したのはアストル・ピアソラが率いるキンテート・タンゴ・ヌエヴォ( New Tango Quintet )だ。両者には迸る情熱がある。

ピアソラは生涯に八重奏団、六重奏団なども結成したが、バンドネオン奏者として頂点を極めたのがキンテート(五重奏団)時代だったことは論を俟(ま)たない。バンドネオン(ピアソラ)、ピアノ(パブロ・シーグレル)、ヴァイオリン、ギター、コントラバスという編成で、日本のバンドネオン奏者・三浦一馬もこのキンテート・スタイルを踏襲している。

今回のコンサートを聴き、確信を持ったのは、〈アルゼンチン・タンゴとスペイン音楽は密接に繋がっている〉ということ。16世紀以降、アルゼンチンはスペインの植民地となり、現在も公用語はスペイン語である。スペインとアルゼンチンの音楽は互いに影響し合い、共鳴している。それはアフリカ音楽とアメリカで誕生したジャズの関係に近い。

あと僕の脳裏に蘇った映像はアマゾン奥地でゴム園を開拓してオペラハウス建設の資金を作ろうとする1人の男を主人公とするヴェルナー・ヘルツォーク監督クラウス・キンスキー主演のドイツ映画「フィツカラルド」と、やはりヘルツォークとキンスキーが組み、伝説の都市エル・ドラドを探し求め、アンデスの山々を彷徨うスペインの探検隊を描く映画「アギーレ/神の怒り」であった。

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ファミ・アルカイとアストル・ピアソラに共通するもの。それは一つの音楽ジャンルの境界線を越えようとする強靭な意志である。ふたりは革命家なのだ。そして彼らはフィツカラルドとアギーレの姿に二重写しになる。

物凄い音楽を聴いた。

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アントネッロの〈エソポのハブラス〉@兵庫芸文

11月3日兵庫県立芸術文化センター小ホールへ。

古楽アンサンブル「アントネッロ」を聴く。

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〈エソポのハブラス〉とは、日本初の西洋文学の刊行物〈イソップ物語〉のこと。今から400年以上も前、安土桃山時代の出来事である。天正遣欧少年使節の帰国や鉄砲伝来と同時期にあたる。

  • パバナス(器楽)
  • 《恋人よ、あなたを見る時》(ソプラノ&テノール)
  • 《大いなる秘跡ゆえ》(ソプラノ&テノール)
  • イソップ『アリとセミ』
  • イソップ『ウサギとカメ』
  • イソップ『犬と肉』(ソプラノ)
    (アロンソ・ムダーラ《主が家を建てられるのでなければ》の替え歌)
  • イソップ『牛とオオカミ』
  • 《羊の世話をしてくれたら》(テノール)
  • ラス・バカス(器楽)
  • 《緑の野原にため息をつきに来てちょうだい》(ソプラノ&テノール)
  • 《君の町へ》(ソプラノ&テノール)
  • ファンタジア(器楽)
  • 《羊の世話をしてくれたら》による変奏曲(ハープ独奏)
  • 『出陣の法螺貝』
  • 《おろろんおろろん》(ソプラノ)
  • 《めでたし澄みきったワインの色》(テノール)
  • 《僕のかわいいヒョウタンちゃん》(テノール)
  • ハカラス(器楽)
  • イソップ『カラスと狐』
  • 《あなたから笑顔と元気を奪ったのは誰?》(ソプラノ)
  • 《ああ、美しい恋人よ》(テノール)
  • 《キスして抱きしめて》(ソプラノ&テノール)

物語仕立てで、時折スペインの古謡や踊り、天草の子守唄などが織り込まれる。

いやぁ愉しかった!異次元空間(ドリームタイム)に彷徨い込んだような、摩訶不思議な感覚を味わった。

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《聖母マリアの夕べの祈り》@いずみホールと、「マリア崇敬」について

11月2日(水)いずみホールへ。

  • モンテヴェルディ:聖母マリアの夕べの祈り
  • カヴァッリ:サルヴェ・レジーナ(アンコール)

を聴く。演奏はジャスティン・ドイル/RIAS合唱団、カペラ・デ・ラ・トーレ(ピリオド楽器アンサンブル)。独唱は、

ソプラノ:ドロテー・ミールズ、マーガレット・ハンター
テノール:トマス・ホッブズ、マシュー・ロング

Izumi

今回のシリーズ【古楽最前線!ー躍動するバロック】を企画・監修した礒山雅・国立音楽大学招聘教授は2018年1月に雪で足を滑らせ頭を打ち、外傷性頭蓋内損傷のため死去した(享年71歳)。礒山氏はバッハ研究で名高い音楽学者だが、《聖母マリアの夕べの祈り》について次のように書いている。

私が無人島に持っていきたい曲は、モンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈り Vespro della Beata Vergine》である。《マタイ受難曲》ではないのですか、とよくいわれるが、さすがの《マタイ》も《ヴェスプロ》の前では色褪せる、というのがかねてからの実感である。中世以来連綿と続いてきた、「マリア崇敬」の芸術――その頂点が美術ではラファエロの聖母像にあるとすれば、音楽では、間違いなくこの作品にあると思う。

<講談社学術文庫「バロック音楽名曲鑑賞辞典」より> 

ここで礒山氏の言う「マリア崇敬」について考察してみよう。

(ユダヤ教及び)キリスト教は父性原理の宗教である。旧約聖書の「創世記」において、神はまず自分の姿に似せ最初の男アダムを創り、アダムの肋骨から最初の女イヴを誕生させた。つまり男がで、女はということになる。また、三位一体:〈父と子と精霊〉に女性は含まれない

父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、父性は子供を能力や個性に応じて分類する。

フランス人はまさに父性原理の権化であり、首と胴体を「切断する」ギロチンはフランス人が発明した。21世紀の現在もフランス人は赤ちゃんが生まれると、幼少期から夫婦と別室に寝かせる。子供を早くから自立させることが目的とされるが、つまりは親子の情や絆を「切断」しているわけだ。フランス人の多くが冷淡な性格なのは、ここに原因があるのではないかと僕は勘ぐっている。

そんな父性原理に対して、母性原理を導入して補完しようとした動きが「マリア崇敬」なのではないかというのが僕の考えである。

「マリア崇敬」はイタリアを中心に盛んとなった。世間一般にイタリア人=マザコンと言われることと(→こちらのブログを参照あれ)、母性原理導入とは無関係ではないだろう。スーパーマリオの口癖「マンマ・ミーア!」(ミュージカルの題名にもなった)は「なんてこった!」という意味で用いられるが、直訳すると「僕のお母ちゃん!」である。英語なら"Oh,my God !"なわけで、つまり〈神(父)→母〉に変換されている。「マリア崇敬」がこの慣用句にも潜んでいるのだ。イタリア人がどれくらい母親を大切にし、甘えているかは、フェデリコ・フェリーニ監督作品などイタリア映画を観ればよく分かる。

一方、ドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハの受難曲(Passion)やミサ曲、カンタータは父性原理に貫かれており、非常に厳格である。余りマリアに触れられることはない。この「切断する」厳しい父性原理はベートーヴェンに引き継がれた。

マリアに焦点が当てられた宗教曲「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」の名作を作曲したのは、パレストリーナ、ヴィヴァルディ、ペルゴレージ、ロッシーニなどやはりイタリア人が中心であり(チェコのドヴォルザーク作も素晴らしい)、ドイツ・オーストリア・フランス・イギリスの作品は極めて稀だ。フランス人のプーランクが「スターバト・マーテル」を作曲しているという反論もあろうが、彼はゲイだから。一般にゲイの人に「どうして結婚されないんですか?」と尋ねると「母が素晴らしすぎたから」という答えが帰ってくる。ニーノ・ロータ(作曲家)や木下惠介(映画監督)、淀川長治(映画評論家)がそうだった。閑話休題。

演奏について。色彩豊かな合唱が素晴らしく、ソリストも特に透明感のあるドロテー・ミールズ、たおやかで美しいトマス・ホッブズの歌声が絶品だった。

僕は予習としてヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂で収録されたジョン・エリオット・ガーディナー/モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツのDVDを繰り返し鑑賞して臨んだのだが、指揮に関してはガーディナーの方が躍動感で勝っていると思った。

あと楽器編成が両者で相当異なっていたので面食らった。カペラ・デ・ラ・トーレは18人の編成で、いささか音が薄っぺらく感られた。

今回の上演では途中、サラモーネ・ロッシ、ビアージョ・マリーニ、ガスパロ・ザネッティが作曲した当時の器楽曲や、グレゴリオ聖歌「私を見てはならない」が挿入された。またガーディナーの映像同様に、要所要所でソリストと合唱が場所を移動して歌った。

《聖母マリアの夕べの祈り》について、モンテヴェルディ研究者のジルケ・レオポルト博士は「それは、さまざまな機会に応じて配置を入れ替え、編成を変えて上演することのできる、小品のゆるやかな連合体なのです」と書いている。

言い換えるならば、J.S.バッハ以降の音楽とは違って、【古楽とは、ジャズのジャムセッション(Jam session)・即興演奏( Improvisation)の如く、自由度が高くて変換可能な音楽である】と、僕は理解した。

礒山さんがもし生きておられたら、さぞかし今回の演奏を歓び、心から愉しんで聴かれたことだろうと、しみじみ思った。

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アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽

に続く、三部作完結編をお届けする。この記事を執筆するに際し、参考にした書籍は最後に列記する。

オーストラリア映画の金字塔「ピクニック at ハンギング・ロック」との出会いを契機に、アボリジニの創造神話ーそれは思想といっていいー〈ドリームタイム〉に心を奪われた。〈ドリームタイム〉は現地の言葉でtjukurpa(チュクルパ)、あるいはalcheringa(アルチェリンガ)という。

アボリジニとはオーストラリア先住民の総称であり、17世紀にオランダ人が初めて大陸に到来した時に、言語は250種類、部族の数は700以上存在したと言われている(現在は激減)。彼らは文字を持たず、農耕も家畜もしない。

アボリジニには「時間」という概念がない。彼らにとって「創造」は過去→現在→未来へと連続する運動ではなく、主観的状態から客観的状態への移行を意味する(通時的ではなく、共時的な思考の構造)。「夢見(ドリーミング)から実在が生じる」のである。

つまり先祖(原初)の夢見(ドリーミング)が実相であり、我々が触知出来るこの世界(yuti;ユティ)はその内的ヴィジョンの外界への投影=仮相ということになる。現代に生きる我々は原初の夢見の中で、さらに夢見ているのだ。アボリジニは二つの世界を並行して生きている。

偉大なる彼らの祖先はエネルギー場のような、触知出来ない振動する身体を備えていた。振動するエネルギー=気息から音、言葉、歌が生み出された。〈ドリームタイム〉における創造とは、この世に歌いだされた世界のことを意味している。その足跡は〈ソングライン〉と呼ばれ、オーストラリア全土を縦横に走っている。隔たれた場所で暮らす各部族は〈ソングライン〉をコミュニケーション・ネットワークにすることで、お互いの文化を交換しあっている。

アボリジニの言葉を借りれば「森羅万象には、夢見(ドリーミング)がある」。植物とは、種子が見た夢である。

ある長老はこんな言葉を残している。

ほうぼうの土地や動植物を何らかの目的で利用したり、食べたりする場合にはまず、土地や動植物の夢見に入り込む術を身につけなければならないんじゃ。白人たちは、そんなことはいっさいしない。だから、病気になったり、気がふれたりして、身を滅ぼしてしまうのじゃよ。

【ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界」より】

建築物の場合、資材となる石やレンガそれ自体の内に可能性(potential)が秘められていると彼らは考える。建築家だけではなく石の方でも夢見があり、そこから建物が生み出されてゆくというわけだ。

人類は当初、意識の主観的なエネルギー状態として存在する。夢、直感、そして思考は、振子のように揺れながら、外界を対象化(外在化)してゆく。物質の創造や活動に参加するようになると、意識の振子は一転して、客観的実在から主観的状態へと振り戻され、内的記憶となる(〈ドリームタイム〉への魂の再吸収)。ここに円環構造がある。ニーチェが言うところの永劫回帰だ。

アボリジニの先祖はみな、人間と(他の)動物の特徴を併せ持っており、そのどちらにも姿を変えることが出来た。夢見(ドリーミング)が完了すると、先祖は大地の中へと姿を消し、「潜勢力(potentiality)」となった。そして動物とヒトは再び結び合わされ氏族トーテムとなった(これが父系半族と母系半族に分かれる)。

人類の内的心理状態と情緒が、外的には、動物の体や行動に象徴されることにより、「ライオンのように勇敢な」「チョウのように繊細な」「ハチのように忙しい」「鳥のように自由な」といった言い回しが、世界中の言語に溢れている。そこには人間の本性と動物との密接な関係が如実に現れている。生態学者ポール・シェパードによれば、ノアの箱舟は、人類の集合的無意識の象徴だという。

アボリジニは空間を距離とは考えない。空間内にある知覚可能な実在はちょうど「意識」に相当し、対象間に存在する肉眼では見えない空間は、「無意識」に当たる。「意識」と「無意識」は常に同じものであり、「無意識」とは、夢見(ドリーミング)という連続体の一部なのだ。〈意識+無意識=森羅万象〉は覚醒と睡眠、生と死のあいだで出現と消滅を繰り返している。

夢見という観点から見れば、昼と夜とは同時に存在している。アボリジニにとってとは無意識の象徴の最たるものであり、不可視のものが姿を現し始める夢見(ドリーミング)にほかならない。は大地と、生きとし生けるものを豊かにする神秘のエネルギー源であり、鎌首をもたげる虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)は大地と天空を結ぶ立法者である(水を司り、洪水をもたらす)。両性具有である虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)の腹の中には森羅万象が内包さている。虚空をゆく鳥は、無意識の使者であり、稲妻が放つ閃光は、無意識の内奥から溢れ出たエネルギーの荒々しい放電である。

Mimisnake
↑虹蛇の横に立つのは精霊ミミ。背が高くマッチ棒のような身体で、岩の裂け目に住み、人々から恐れられている。

夢の論理によれば、人類とその他の生物との間には垣根など一切存在しない。だからアボリジニはどんな生物にも変身出来るし、どんな生物の意識をも味わえる。夢の中では、主体と客体は相互に入れ替わることが出来る。

ここで20世紀以降に得られた科学的知見から検討してみよう。宇宙に存在する「形あるもの」は、究極的に素粒子(電子+クオーク)で構成される。素粒子は「物質」ではなく、「状態」である。ここで粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を併せ持つ存在として「量子」(quantum)が定義された。「量子」は微小なエネルギー量の単位であり、素粒子=量子である。つまり世界を構成するのは、突き詰めればすべてエネルギーということになる。また「場の量子論」では、時空間を満たす「場」という存在を考え、場の一部が振動してエネルギー量子のように振る舞うのだとされる。つまりアボリジニの思想と現代物理学は次のような対応関係が成立する。

  • 大地/先祖→夢見(ドリーミング)→我々が知覚する世界(ユティ)
  • 宇宙/時空間→それを満たす場の振動/エネルギー→物質/生命

さらに〈ドリームタイム〉は、ユング心理学における集合的(普遍的)無意識に相当すると考えられる。

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ユングは集合的無意識の中に存在する元型(archetype)という概念を提唱した。アニマ(男性が持つ内なる女性性)・アニムス(女性が持つ内なる男性性)・老賢者(The Wise Old Man)・太母(The Great Mother)・永遠の少年/少女(幼児元型)がその代表例だ。アボリジニが言う、〈ドリームタイム〉における先祖とか精霊はこの元型(archetype)に合致する。例えば彼らの神話に登場するウィーリーヌンは字義的に「賢い男」を意味し、魔法使いや学識者を指す。正に老賢者(The Wise Old Man)そのものである。またムリー・ムリーという、ウィーリーヌンが指示を与える夢の精霊(使い魔)が活躍するのも面白い。

絶え間ない変化と適応を繰り返すユティ(知覚可能な世界)から〈ドリームタイム〉に移行するための手段として、睡眠・儀礼(イニシエーションなど)・祭儀(踊り→トランス状態)・音楽(歌謡/ディジュリドゥ)・美術(岩絵/ボディ・ペインティングなど)・うなり板(ブルロアラー bullroarer)・神話・水晶や石などのトーテム(象徴)がある。

Bullroarer
↑うなり板:紐の一端を持ち、空中で回旋させることで音を発す。精霊の声とされる。宮崎駿「風の谷のナウシカ」では〈蟲笛〉として登場した。

ピクニックatハンギング・ロック」の岩場(モノリス)もトーテムであり、〈ドリームタイム〉への入口となった。アボリジニの聖地エアーズロック(ピチャンチャチャラ/アナング族の言葉ではウルル)や、スピルバーグ監督「未知との遭遇」に登場するデビルズ・タワー(アラパホ族などアメリカ先住民族が熊信仰の対象とした)も同様の役割を果たしている。水晶内にクラック(ひび割れ)を持つものはそのクラック面が光を反射する際に虹色に輝く。つまり虹蛇に結びつき、原初のエネルギーと共鳴する。ウルルの泉にも虹蛇が住むとされる。

夢見へのステップは①感覚が異常に研ぎ澄まされる知覚過敏②五感が渾然一体化する「共感覚」がある。例えばある色を見ると特定の音が現実に聞こえてしまう。ある種の味を味わうと、ある色が見えたりするなど。1960年代〜70年代前半に欧米のヒッピーたちの間で流行った、LSDなどの幻覚剤によるサイケデリック体験がそれに近い。

 その昔、大地が真っ暗で深いしじまに包まれていたころ、不毛な地表を動く物陰は何一つなかった。ヌッラボル平原に穿たれていた深い洞窟には、美女の「太陽」が眠っていた。偉大なる父の精霊は、太陽をやさしく目覚めさせると、彼女に「洞窟から出てきなさい。宇宙をかき回して生命を生み出すのですよ」と言った。母なる太陽が目を覚ますと、彼女から放射される光線が、大地の上に広がって、暗闇はすっかり消え失せてしまった。太陽が息を吸い込むと、大気の様子は一変してしまった。かすかなそよ風が吹くと、大気はやさしくうち震えた。
 母なる太陽はそれから、長旅に出かけることにした。北から南へ、そして東から西へと不毛の大地を横切っていったのだ。大地には、森羅万象を生み出す種子の潜勢力が備わっていた。太陽が放つやさしい光が大地に降り注ぐ所にはどこにでも、草や低木や木々が生え、やがてその土地は、あたり一面、植物に覆われてしまった。

【ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界」〜カッラウル族の神話】

上記アボリジニ神話って、「古事記」に書かれた「天の岩戸」開きに凄く似ていませんか?天照大御神=太陽神=女神であり、アボリジニの太陽も女神イェだ。月は男神バールー。一方、ヨーロッパのギリシャ神話では、太陽神ヘリオス(≒アポロン)は男。月は女神で、セレネやアルテミスが該当する。日本の月詠(ツクヨミ)は男神とされるが、詳しい記載はない。アボリジニ神話はヨーロッパよりも、断然日本神話に近い。

オーストラリア最北端の島、メルビル島に暮らすティウィ族の神話に登場する太陽神はプキという名の女神で、空からやってきて大地と海と島を創造した。また動物や木々や川もつくりだした。海はまだ淡水だったが、ツルのイリチに頭を殴られた衝撃でプキはおしっこを漏らし、海を塩からくしたという。

次にニューサウスウェールズ州のンゲアンバ族の神話を紹介しよう。

 この世の最初のころにはまだ男はいず、人間は姉妹だけだった。ある日の夕方、妹は一人で平原にでかけていき、花を一つ摘み、樹皮をはぐと、その中に花をそっとおいた。それからその樹皮を丸太の陰においた。つぎの日も、そのつぎの日も彼女が様子を見に来ると、花は男の子の赤ん坊になっていた。
 大きく成長したその子は、やがて呪術師になり、ムレイアンと名づけられた。彼はワシタカだった。彼は空にのぼると赤く輝く星になった。それはいまも天空に瞬いている。

松山利夫(著)「精霊たちのメッセージ ー 現代アボリジニの神話世界」より】

これは正しく〈母性原理〉の物語であり、最初の男アダムの肋骨から最初の女イヴが創られたとする〈父性原理〉の「旧約聖書:創世記」とは対極をなす。

オーストリア先住民は狩猟採集社会に生き、日本人は農耕民族である。この違いはしっかり認識しておく必要がある。しかし重要なのは、天照大御神の神話が生まれた時代に日本で農耕は未だ始まっていなかったという事実だ。水稲農耕が開始されたのは紀元前5世紀、弥生時代と推定される。つまりアボリジニの神話は狩猟採集生活を送っていた頃の日本人の心のあり方に近いと言えるだろう。余談だが「天の岩戸」神話には矛盾がある。天照大神が鏡に写る自分の姿を、別人の〈貴い神〉だと勘違いする場面があるのだが、中国から日本に銅鏡が伝来したのは弥生時代の紀元1世紀頃と言われており、神々の時代に合致しない。「古事記」に編纂されるまでは口伝だったわけで、恐らく鏡の逸話は後年付け加えられたものではないだろうか?歴代演者の工夫が積み重ねられた古典落語のように。つまり神話は共時的に読解する必要がある。

また「こぶとりじいさん」によく似た、「踊るカンガルー」というアーネムランド(オーストラリア北部)に伝わるアボリジニ神話もある。

さて、20世紀を代表する作曲家・武満徹は1980年9月にオーストラリア北端のグルート島を旅し、オーストラリア全域からこの島に24の異なる部族(トライブ)の原住民が集まり、一週間に渡り彼らの祭祀、うたや踊りによる交歓が行われるを目の当たりにした。

 グルート島への旅で思い返されるのは、踊りや祭祀を含めた原住民(アボリジニ)の生活だが、その未分化の名づけようもない巨大な自然空間が、わたしたちとおなじこの惑星のうえに存在しているということが、いまは異様にさえ感じられる。今日、わたしたちは、自然を失ったと口にするが、わたしがみたグルート島の自然は、わたしたちが相対概念として拵(こしら)えあげた「自然」などではなく、大地そのものであり、そこでは生命(いのち)は相争うものではなく相互に生かし合い、自然は動いてやまない。(中略)
 グルート島には、自然が与えてくれるディッジャリデュー(中空にした木で、息をふきこむ)のようなものはあっても、そのほかに、人為的な楽器というものはまったく無い。白アリがその髄を喰って空洞にしたマングローブやユーカリ樹の幹を、管を吹くように息を吹きいれて音をたてる。それは、ちょうど、ディ・ジャ・リ・デュー、というように響くのだが、直接、大地から聴こえてくるような、低く唸るような音である。

【武満徹(著)「音楽を呼びさますもの」〜グルート島素描】

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 言語が発達して、ことばの指示機能が先鋭になることで、(私たちが)失ってしまったものは大きいように思う。(中略)音楽は知的に理解されるだけのものではない。音楽言語ということが言われるが、これは一般的な文字や言語と同じではないだろう。音楽には、ことばのように名指ししたり選別したりする機能は無い。音楽は、人間個々の内部に浸透していって、全体(宇宙)を感じさせるもので、個人的な体験でありながら、人間(ひと)を分け隔てるものではない。(中略)
 かれら原住民(アボリジニ)にとって、すべては自然と大地が齎(もたら)すものであり、かれらの生は自然に支配され、かれらはけっして自然を支配しようなどと思わず、かれらのうたや踊りは、だから、かれらの肉体(からだ)を通して表象される自然そのものなのである。

【武満徹(著)「音楽を呼びさますもの」〜グルート島紀行】

この体験を通して生まれた武満の楽曲が「夢の時」"Dreamtime"(for orchestra)である。

ディジュリドゥの音は動物の鳴き声(特にカエル)に近い。また時に僧侶による読経のようにも聞こえる。音階が存在せず、西洋音楽の平均律とは全く概念が異なる。ムルンギン族の神話では虹蛇がディジュリドゥを所有しており、それが歌い出すと、虹蛇に呑み込まれて死んだ筈の姉妹と彼女らの赤ん坊は生き返った(死と再生)。

武満徹は「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」で初代監修を務め、その最後の年ー1998年の委嘱作品がオーストラリアの作曲家、ピーター・スカルソープ(1929-2014)の「グレート・サンディ・アイランド」だった(武満は96年に死去したが、人選は98年までなされていた)。初演時には武満の「夢の時"Dreamtime"も演奏された

スカルソープはタスマニア島で生まれた白人である(3万7千人いたタスマニアン・アボリジニはイギリス植民者に一掃され、19世紀末に絶滅した)。彼の作品中、何と言っても一番の聞きものは「アース・クライ(大地の叫び)」だろう(→NMLで試聴)。ディジュリドゥ(無調)とオーケストラ(調性)が競演する。摩訶不思議で、とてもスリリングな音楽だ。動画視聴はこちらからどうぞ。スカルソープにはディジュリドゥを伴う弦楽四重奏曲という、けったいな作品群もある(→NMLで試聴)。またS.オボイル/W.バートン:ディジュリドゥ協奏曲も一聴をお勧めしたい(→NMLで試聴)。

今回〈ドリームタイム〉を体感するために、万博記念公園(@大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館に足を運んだ。大変充実したコレクションがあり、虹蛇や精霊ミミの絵とか、ディジュリドゥ、ブーメラン、柱状棺(遺骨の容器)などが展示されていた。わざわざ行った甲斐があった。

最後に、アボリジニへの理解を深めるために役に立つ映画をいくつかご紹介しよう。

美しき冒険旅行WALKABOUT (1971)

Walkabout

「赤い影」で知られるニコラス・ローグ監督作品。ローグは「赤死病の仮面」「華氏451」などの撮影監督としても名高く、本作でも撮影を兼任している。大変映像が美しい。

アメリカで最も著名で信頼された映画評論家ロジャー・エバート(1942-2013)が"The Great Movies"と題し、過去100年の中から選りすぐった映画リストの中に「ピクニック at ハンギング・ロック」と並んで本作も入選している。

原題のwalkaboutとはビンダブー族(bindaboo Tribe)に属するアボリジニの少年が大人になるための通過儀礼のこと。そこに、ひょんなことからオーストリアの砂漠を放浪するはめになった白人の姉弟との出会いと、別れを描く。弟(6歳)を演じているのが、ニコラス・ローグの息子である。

これは二度と戻ることが叶わない、「エデンの園」での日々(失楽園)の物語である。胸がかきむしられるくらい痛ましく、しかしそれ故に輝かしい、忘れ得ぬ傑作。一押し!

007シリーズや「ある日どこかで」で知られるジョン・バリーの音楽が素晴らしい。途中児童合唱が登場するのだが、歌詞は「マザー・グース」の1篇<クックロビン(だれがコマドリを殺したの?)〉から採られている。また映画冒頭にはディジュリドゥの音も聴こえる。

裸足の1500マイルRabbit-Proof Fence (2002)

Rabbit Rabbitproof_fence

1931年のオーストラリアを舞台に、アボリジニと白人の親を持つ混血(ハーフ・カースト half-caste)の子どもたちに対する隔離・同化政策を描く。強制収容所の理不尽さ、白人どもの傲慢さに、怒り心頭に発することは必定。ディズニー実写版「シンデレラ」や「オリエント急行殺人事件」リメイク版の監督としても知られるケネス・ブラナーが名演技を披露。原題は〈ウサギよけの囲い〉のこと。本作で描かれる児童隔離政策の犠牲者たちのことを〈盗まれた世代 (Stolen Generation)〉と言う。

「サムソンとデリラ」 Samson and Delilah (2009)

Samson

現代のアボリジニが置かれた、厳しい現実を描く。ワーウィック・ソーントン監督はアボリジニ出身で、第62回カンヌ国際映画祭でカメラドール(新人監督賞)を受賞した。セシル・B・デミル監督の同名作品と混同しないよう要注意。

本作に登場する、アボリジニの間で社会問題になっているという、ガソリンを吸引し酩酊を楽しむ〈ペトロールスニッフィング petrol-sniffing〉という習慣にはカルチャーショックを受けた。

また、ワーウィック・ソーントン監督の新作で、2017年ベネチア国際映画祭に於いて審査員特別賞を受賞した"Sweet Country" は、日本公開が決まれば是非観たいと思っている。予告編は→こちら

参考文献:①ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界 ー ドリームタイムと始まりの日の声」青土社 
K・ラングロー・パーカー(著)松田幸雄(訳)「アボリジニー神話」青土社 
③松山利夫(著)「精霊たちのメッセージ ー 現代アボリジニの神話世界」角川書店 
④ジーン・A・エリス(著)国分寺翻訳研究会(訳)「オーストラリア・アボリジニの伝説 ー ドリームタイム」大修館書店
⑤武満徹著作集 2より「音楽を呼びさますもの」新潮社
⑥ハワード・モーフィ(著)
松山利夫(訳)「アボリジニ美術」岩波書店
⑦ジェームズ・ヴァンス・マーシャル(再話)百々佑利子(訳)「カンガルーには、なぜふくろがあるのか」岩波書店

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バッティストーニ指揮/血湧き肉躍るヴェルディ「アイーダ」

10月24日(水)兵庫県立芸術文化センターへ。

  • ヴェルティ:オペラ「アイーダ」

を観劇。

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国内4つの劇場で上演する共同制作公演で、

アンドレア・バッティストーニ/東京フィルハーモニー交響楽団、兵庫芸術文化センター管弦楽団(バンダ)、二期会合唱団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団らによる演奏。バレエは東京シティ・バレエ団。

独唱はモニカ・ザネッティン(アイーダ)、福井敬(ラダメス)、清水華澄(アムネリス)、上江隼人(アモナズロ)、妻屋秀和(ランフィス)、ジョン ハオ(エジプト国王)ほか。演出はジュリオ・チャバッティで大道具・衣装・小道具はローマ歌劇場が製作した。

バッティストーニはイタリア・ヴェローナ生まれの31歳。故郷にあるローマ帝国時代の闘技場(アレーナ)が会場となる野外オペラ祭でも看板演目「アイーダ」を振っている。また現在、ジェノヴァ・カルロ・フェリーチェ歌劇場の首席客演指揮者を務めている。

僕の席は最前列ど真ん中。1.5m先にバッティストーニの頭が見える状態。彼は全て暗譜で振ったので度肝を抜かれた!切ればが吹き出すような熱血指揮ぶりを眺めていると、「若き日のリッカルド・ムーティはこんな感じだったんじゃないか?」と思った。時折、唸り声を発し、〈勝ちて帰れ(Ritorna vincitor) !〉では一緒に歌っていた。

バッティストーニの棒振りスタイルは、フェラーリ、ランボルギーニ、アルファ ロメオなどイタリアのスポーツカーを想起させる。熱き血潮が滾る第2幕フィナーレではアクセルをグイグイ踏む込み、ガンガン加速して、聴衆を興奮の坩堝に叩き込んだ

かと言ってただオケを鳴らすだけではなく、しっかりと弱音の美しさも際立たせ、強弱がくっきりとしたメリハリある音楽づくりが成し遂げられていた。

舞台上だけではなく、オーケストラ・ピット(オケピ)の中で巻き起こるドラマにも目が離せない!こんな体験は、カルロス・クライバーが指揮するヴェルディの「オテロ」や、R.シュトラウスの「ばらの騎士」に近いものがあるのではないだろうか?因みに僕は中学生の時に、カルロスが指揮するミラノ・スカラ座の「ラ・ボエーム」(フランコ・ゼフィレッリ演出)を旧フェスティバルホール@大阪市で観劇している。

モニカ・ザネッティンの体型は細く、美しい人で、声量もあって文句なし。情感あふれる歌いっぷりだった。

福井は時折声が掠れるのが気になったが、及第点。掘り出し物だったのが上江のアモナズロ。美声で迫力があった。アムネリスはX。普段、ジュリエッタ・シミオナート(カラヤン盤)とかエレナ・オブラスツォワ(アバド版)などの名唱を聴き慣れていると、いかんせん物足りない。

美術や衣装はミラノ・スカラ座や新国立劇場で上演されたフランコ・ゼフィレッリ版みたいな絢爛豪華でド派手なものではないが、シックで品があり、まるでルキノ・ヴィスコンティ監督の映画を観ているようであった(因みにゼフィレッリは若い頃、ヴィスコンティの助監督を務めた)。

兎に角、これだけの充実したパフォーマンスを、たった1,2000円で観られるなんて、なんて幸せなことだろう。今回の公演に携わった諸氏に心から感謝したい。

ところで、イタリア・オペラでテノールが演じる役には、ある共通する特徴がある。

  1. 直情径行型:何も考えず直ちに行動する。すぐ激昂する。
  2. コロッと騙されやすい:つまり、おつむが少々足りない。
  3. 嫉妬深い:単純な誤解から女を殺したり、暴力を振るう。

ヴェルディなら、「椿姫」のアルフレードとか「イル・トロヴァトーレ」のマンリーコ、「オテロ」のタイトルロール、そして「アイーダ」のラダメスがその典型だろう。またプッチーニ「トスカ」の主人公は女だけれど、上記特徴にピッタリ当てはまる。逆にドイツ・オペラには、こういう性格の人物は稀だ。

イタリア・オペラの登場人物は〈過剰な人々〉である。理性の欠片もない。しかし久しぶりに今回「アイーダ」を再見して、こういう欲望の赴くままに突っ走る生き方も素敵だなと思った。つまりイタリア・オペラは禁欲とか倫理などを押し付けてくるキリスト教へのアンチテーゼであり、野生の思考が息づいているのだ。カトリック教会が支配的なイタリア社会に於いて、オペラは長年ガス抜きの役割を果たしてきたのだろう。そもそも「アイーダ」で描かれるエジプトは非キリスト教社会だ。「オテロ」はムーア人=異教徒だし、「椿姫」の原題La traviata(ラ・トラヴィアータ)の意味は〈道を踏み外した女〉、つまりアウトローはみ出し者。いずれもキリスト教的価値観からの逸脱束縛からの開放を虎視眈々と狙っている。

イタリア人の多くが「ドイツ・オペラは退屈だ」と思う気持ちがよく理解出来た。我を忘れた熱狂陶酔はイタリア・オペラにしかない。

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関西弦楽四重奏団/ベートーヴェン・チクルス 第3,4回

関西弦楽四重奏団によるベートーヴェン・チクルス。第3,4回@ザ・フェニックスホール。

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7月2日

  • 弦楽四重奏曲 第5番
  • 弦楽四重奏曲 第11番「セリオーソ」
  • 弦楽四重奏曲 第7番「ラズモフスキー第1番」
10月1日
  • 弦楽四重奏曲 第6番
  • 弦楽四重奏曲 第3番
  • 弦楽四重奏曲 第9番「ラズモフスキー第3番」
この団体は低音域のヴィオラとチェロが雄弁なので、綺麗な音のピラミッドを構築し、安心して聴ける。緊密なアンサンブルを堪能した。

しかし、相変わらず曲ごとに第1/第2ヴァイオリン奏者が交代するのは如何なものか?「仲良しクラブ」じゃないんだから。プロとしてしっかり決断すべき。こういうのが合議性(民主主義)の悪いところ。芸術には時として専制君主(強力なリーダー)が必要な場合がある。例えばアルバン・ベルク弦楽四重奏団のギュンター・ピヒラーとか、テツラフ・カルテットのクリスティアン・テツラフのように。

ちゃんと最終回まで聴きに行きます。

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【考察】マーラー:千人の交響曲の正体は一体、何なのか?@びわ湖ホール開館20周年記念

9月30日(日)、びわ湖ホールは開館20周年記念公演としてマーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」の演奏会を開催する予定だった。

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ところが!台風24号がその日に関西を直撃することが判明し、開催が危ぶまれた。そこで9月28日になって、次のような告知がホームベージや公式twitterであった。

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というわけで僕は、急遽29日(土)に行われることになった緊急特別公演を聴きに行った。

結局、30日の公演は中止になった(JRから30日昼頃より関西全域で運転を見合わせると発表があった)。

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何しろマエストロの提案で緊急公演開催が決まったのが前日である。どれくらい人が集まるのだろう?と危惧したが、会場は4割くらいの入りとなった。これもインターネット・SNS時代ならでは。20年前だったら実現不可能だったろう。

さて、僕がこのシンフォニーを生で聴くのはこれが2回目。前回は1988年9月26日、旧フェスティバルホール。ジョゼッペ・シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団、合唱はコードリベット・コール 大阪すみよし少年少女合唱団 ほかの演奏だった。当時僕は大学生で、岡山からわざわざ新幹線に乗り大阪まで聴きに来た。旧フェスの音響の悪さに閉口した記憶がある(音が割れていた)。

兎に角、規模が大き過ぎて滅多に演奏されない楽曲だ。実際にマーラーが指揮した初演時はソリスト8名+オルガニスト1名+オーケストラ170名+児童合唱を含めた合唱850名で合計1,030名に及んだという。はっきり言って採算が取れない。これだけの出演者を集めて1回きりの公演だと大赤字だろう。

大阪フィルハーモニー交響楽団が小林研一郎指揮でこれを最後に演奏したのが1999年7月25日@旧フェス。19年前である。

30年ぶりにライヴを体験したわけだが、理解度/感銘の深さが全然違った。やはりゲーテの小説「ファウスト」をその間に読んだことが大きい。千人の交響曲 第2部では「ファウスト」最終場が歌われる。小説を読んでいなければ、マーラーが言わんとしたことは絶対に判らない。保証する。ヨーロッパの聴衆にとっては、知っていて当たり前の教養なのだ。最後は神秘の合唱が〈永遠に女性的なるものが、私たちを高みへと引き上げるのだ。〉と高らかに歌いクライマックスを築くのだが、グレートヒェンによるファウストの魂の救済を示している。シューベルトの歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」と同一人物ね。これはワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」で、【乙女ゼンタの自己犠牲→オランダ人(幽霊船船長)の救済】という形で変換されているが、構造は全く同じ。なお、1897年に念願のウィーン宮廷歌劇場指揮者に就任したマーラーは同年「さまよえるオランダ人」を新演出で上演している。

実は「ファウスト」には元ネタがあり、それはダンテ「神曲」である。地獄と天国の中間地点=煉獄篇で山に登ったダンテは山頂で永遠の淑女ベアトリーチェに出会い、彼女に導かれて天国へと昇天する。つまりファウスト≒ダンテ、グレートヒェン≒ベアトリーチェという関係式が成立し、メフィストフェレスに相当するのがダンテの水先案内人、詩人ウェルギリウスである。

ダンテ「神曲」宮崎駿のアニメーション映画「風立ちぬ」にも多大な影響を与えた。ラストシーンで主人公の堀越二郎(≒ダンテ)とカプローニ(≒詩人ウェルギリウス)が立っているのは煉獄である。そこに天国から菜穂子(≒ベアトリーチェ)が迎えに来る。ここで彼女の台詞は「来て」だったのだが、最終的に「生きて」に変更された。鈴木プロデューサーは語る。

鈴木「宮さんの考えた『風立ちぬ』の最後って違っていたんですよ。三人とも死んでいるんです。それで最後に『生きて』っていうでしょう。あれ、最初は『来て』だったんです。これ、悩んだんですよ。つまりカプローニと二郎は死んでいて煉獄にいるんですよ。そうすると、その『来て』で行こうとする。そのときにカプローニが、『おいしいワインがあるんだ。それを飲んでから行け』って。そういうラストだったんですよ。それを今のかたちに変えるんですね。さて、どっちがよかったんですかね」

鈴木「やっぱり僕は、宮さんがね、『来て』っていってた菜穂子の言葉に『い』をつけたっていうのはね、びっくりした。うん。だって、あの初夜の晩に『きて』っていうでしょう。そう、おんなじことをやったわけでしょ、当初のやつは。ところが『い』をつけることによって、あそことつながらなくなる」
     出典:鈴木敏夫(著)「風に吹かれて」中央公論新社

マーラーはダンテ「神曲」にも惹かれていたと推察される。未完に終わった彼の交響曲 第10番 第3楽章の楽譜には「プルガトリオ(煉獄)またはインフェルノ(地獄)」と書かれ、後半「またはインフェルノ」の部分に消された跡があるのだ

ではマーラーにとって永遠に女性的なるもの(≒グレートヒェン≒ベアトリーチェ)とは一体誰か?言うまでもないだろう。ミューズにしてファム・ファタール(運命の女)、妻アルマである。この場合、アルマが夫に対して愛情を持っていたかどうかは不問に付す。ユング心理学的に分析すれば無意識に存在する元型( archetype)アニマ(男性が持つ、内なる女性性)を外界に投影したものということになる。正に誇大妄想による産物だ。アルマの姿は例えば交響曲第5番 第4楽章アダージェット、交響曲第6番 第1楽章ー第2主題(アルマのテーマ)、同 中間楽章アンダンテ・モデラートなどに繰り返し登場する。

あと第2部冒頭は聖なる隠者たちが潜む、山あいの谷が描写されるのだが、これを聴きながら僕はニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」の情景を想い出した。どちらにもライオンが登場するしね。考えてみれば、マーラーの交響曲第3番 第4楽章のアルト独唱は「ツァラトゥストラの輪唱」から採られた歌詞を歌うではないか!見事に繋がっている。

さて今回は沼尻竜典/京都市交響楽団(118名)、びわ湖ホール声楽アンサンブル(14名)、「千人の交響曲」合唱団(219名)、大津児童合唱団(44名)、そしてソリスト8名で計403名による演奏だった(指揮者を除く)。

沼尻の指揮は、びわ湖ホールにおけるワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」4部作でも感じることなのだが、とても室内楽的な響きがする。透明度が高く、細部に至るまで見通しがきいている。主観的に音楽にのめり込み、こってり濃厚なレナード・バーンスタインのアプローチとは対極をなすが、これはこれで聴き応えが在り、大満足だった。

ソリストの中ではソプラノII(悔悟する女):砂川涼子、ソプラノIII(栄光の聖母):幸田浩子、テノール(マリアを崇める博士):清水徹太郎が素晴らしかった。

さて、次回このシンフォニーを聴けるのは何年後だろう!?

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吹奏楽 vs. オーケストラ

2017年、全日本吹奏楽コンクール高校の部に出場した30団体のうち、クラシック音楽を編曲したものを自由曲に選んだのは12団体であった。その前年は13団体。つまり、全体の40%以上を占めていることになる。

吹奏楽の起源は軍楽隊にある。故に基本は行進曲であり、コンクールの課題曲でマーチを演奏する団体が多い(丸谷明夫/淀川工科高等学校吹奏楽部はマーチ以外を絶対に選ばない)。

自由曲にオーケストラ曲の編曲が未だに多いのは、指揮者のクラシック音楽への憧れ劣等感が潜在意識の中にあるからではないか?と僕は考えている。しかしそれでは所詮、吹奏楽はオーケストラの代用品に過ぎず、オリジナルを凌駕することは絶対に出来ない。全く無駄な努力のように想われる。

吹奏楽関係者がクラシック音楽へ注ぐ愛情は片思い、単なる一方通行に過ぎず、クラシック音楽ファンは吹奏楽など見向きもしない。吹奏楽はあくまで《アマチュアが演奏するための音楽》でしかなく、《鑑賞に耐えうるものではない》と大半の人々は考えている。嘘だと思うなら近くにいるクラシック音楽愛好家に「アルメニアン・ダンスって聴いたことある?」と訊ねてご覧なさい。アルフレッド・リードの名前すら誰も知らないから。月刊誌「レコード芸術」の新譜批評に「吹奏楽」部門が新設されたのは2010年、たった8年前のことである。

吹奏楽コンクール全国大会の自由曲にチャイコフスキーを選ぶと、金賞が受賞出来ないことはよく知られている。屋比久勲/福工大付属城東高は「白鳥の湖」、石津谷治法/習志野高は「くるみ割り人形」と「眠れる森の美女」、畠田貴生/東海大付高輪台高は「白鳥の湖」で全国大会に臨んだが、いずれも銀賞に終わっている。彼らの演奏を聴いて感じるのは、「チャイコフスキーが作曲したオーケストラ曲の最大の魅力は優美に奏でる弦楽器にある」ということ。弦抜きだと魅力が半減してしまうのだ。違和感しかない。

吹奏楽の演奏に対する褒め言葉でよく見かけるのが「木管の響きが、弦をこすって出したような音色になっている」というものだが、だったら弦楽器で演奏すれば済むことじゃない?馬鹿みたい。まがい物は所詮、まがい物。模倣品・贋作・ものまね芸人が本物の価値を上回ることなど決してないのである。吹奏楽にはもっと、別の良さがあるだろう。しっかりと独自の道を歩むべきだ。

クラシック音楽の中で編曲が新たな価値を生み出した代表例を見てみよう。

  • J.S.バッハ/ストコフスキー 編:トッカータとフーガ、小フーガほか
  • ムソルグスキー/ラヴェル 編:展覧会の絵
  • サティ/ドビュッシー 編:ジムノペディ 第1,3番
  • ブラームス/シェーンベルク 編:ピアノ四重奏曲 第1番
J.S.バッハ/ストコフスキーの原曲はオルガン・ソロ、ムソルグスキーとサティはピアノ・ソロ、ブラームスがカルテットで、それらがオーケストラ曲に生まれ変わっている。つまり編成が拡大されている。逆に、例えばベートーヴェンの交響曲やワーグナーの歌劇をリストがピアノの連弾や独奏曲に編曲しているが、成功したものは皆無である。オーケストラ曲→吹奏楽曲の場合も全く同様だ。

だから全国大会に出場するような実力を持つ指導者の方々には、是非もっと吹奏楽のオリジナル作品に取り組んで頂きたい。日本も優れた作曲家を沢山輩出しているのだから。

ただし、クラシック音楽→吹奏楽へのアレンジで成功しているものもごく僅かながらある。

  • リスト/田村文生 編:バッハの名による幻想曲とフーガ
  • J.S.バッハ/伊藤英明 編:シャコンヌ
  • J.S.バッハ/森田一浩 編:シャコンヌ

リストの原曲はピアノまたはオルガン独奏曲であり、バッハは無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータである。やはり編成を拡大することで新しい価値を生み出しているのだ。

それから原曲がポップスや映画音楽、ミュージカルの場合は全く話が別である。こういった音楽は基本的にオリジナル原理主義ではなく、アレンジして演奏されるのが前提の世界だからである。過去の吹奏楽コンクールで深い感銘を受けたアレンジ物を挙げよう。

  • シェーンベルク/宍倉 晃 編:ミュージカル「ミス・サイゴン」
    大滝 実/埼玉栄高等学校吹奏楽部 2002年 金賞
  • アーノルド/瀬尾宗利 編:映画「第六の幸福をもたらす宿」より
    (井田重芳/東海大学付属札幌高等学校 2006年 金賞
  • シェーンベルク/森田一浩 編:ミュージカル「レ・ミゼラブル」
    (宇畑知樹/伊奈学園総合高等学校 2013年
    金賞

また僕が定期演奏会で聴いた、梅田隆司/大阪桐蔭高等学校による「キャラバンの到着」(ミュージカル「ロシュフォールの恋人たち」より)や、ミュージカル「銀河鉄道の夜」「ラ・ラ・ランド」も実に素晴らしかった!こういうのをもっとコンクール全国大会で聴きたいのである。

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