クラシックの悦楽

菊池洋子 モーツァルト 音のパレット 第3回

5月19日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。菊池洋子のオール・モーツァルト・プログラムを聴く。

D6ju9zv4aez2re

  • ピアノ・ソナタ 第15番
  • ピアノ・ソナタ 第12番
  • ピアノ・ソナタ 第8番
  • ピアノ・ソナタ 第17番
  • 小さなジグ K.574(アンコール)
  • トルコ行進曲(アンコール)

菊池は日本人として初めてモーツァルト国際コンクールで優勝した。

玉のようにコロコロ転がるモーツァルトを堪能した。

| | コメント (0)

キアロスクーロ・カルテット@兵庫芸文

4月27日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。アリーナ・イブラギモヴァ率いるキアロスクーロ・カルテットを聴く。

Sq

  • J.S.バッハ:「フーガの技法」より
  • メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 第1番
  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第7番「ラズモフスキー第1番」
  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第2番より第3楽章(アンコール)

このカルテットは(通常のスティールではなく)ガット弦を張り、基本的にノン・ヴィブラート奏法(ピリオド・アプローチ)である。

チェロ以外は立奏で、チェロは下を支えるエンドピンがない古楽器。しかし楽譜は最新式で全員iPadを使用。譜めくりはフットスイッチで操作。

メンデルスゾーンは清新で軽やか。

ベートーヴェンはラ・サール弦楽四重奏団やアルバン・ベルク弦楽四重奏団ほど威圧的・厳格にならない。そこに「女の眼」を感じた。丁度良い匙加減。

今やピリオド・アプローチでベートーヴェンの交響曲を演奏するのは当たり前の時代になったが、後期の弦楽四重奏曲については殆ど前例がない。キアロスクーロ・カルテットが第13番以降に取り組む日は果たして来るのか?大いに注目したい。

| | コメント (0)

河村尚子の弾くベートーヴェンからロシアのピアニズムを聴き取る。

4月29日(祝)関西フィル定期のあと、兵庫県立芸術文化センターへ。河村尚子のオール・ベートーヴェン・プログラムを聴く。使用されたピアノはベーゼンドルファー 280VC。最高額のA席が3,000円なのだけれど、全く同じプログラムで東京の紀尾井ホールは4.500円なので、大変お得。河村は兵庫県西宮市出身であり、地元での平成最後のコンサートとなった。

Kawa

  • ピアノ・ソナタ 第26番「告別」
  • ピアノ・ソナタ 第27番
  • ピアノ・ソナタ 第29番「ハンマークラヴィア」

河村の演奏は左手の打鍵が力強く、たいへん歯切れがよい。言い換えるなら、不必要に足ペダルを多用しない。ギレリス、リヒテル、ラザール・ベルマンらに繋がるロシアのピアニズムを感じさせる。調べてみると案の定、彼女がハノーファの音楽大学で師事したウラジミール・クライネフはロシア出身のピアニストであった。それでいてちゃんと、女性らしい丸みを持った音を奏でる。

ウクライナ生まれでキエフ音楽院で学んだピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツは嘗てこう言い放った。

東洋人にはピアノは弾けない」

しかし河村は逆にそれを、しっかりとした武器として活用している。ホロヴィッツが思いもしなかった形で。つまり、

ロシア人の父性原理+日本人の母性原理(女性性)=河村のピアニズム

という式が成り立つ。同じことは6歳でモスクワに渡った松田華音の演奏にも言えるだろう。

大作「ハンマークラヴィア」は隙(すき)がなく完璧で、聴いていると肩がこり、息苦しくなる。感情移入を拒む楽曲であり、そういう意味ではJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集とかオルガン曲を彷彿とさせる。第4楽章にフーガが登場するしね。

河村は張り詰めた音を紡ぎ、緊迫感があった。改めて超人的というか、デモーニッシュな音楽だと思った。

心理学者カール・ユスタフ・ユングは次のような言葉を残している。

創造的な人は、自分自身の生活に対して、ほとんど力をもっていない。彼は自由ではない。彼はデーモンによって把えられ、動かされているのだ。

河村が語ったところによると、彼女は先日、山田和樹/NHK交響楽団と定期演奏会で共演し、矢代秋雄のピアノ協奏曲を弾いたそう。その模様は、7月7日にEテレで放送される予定。

アンコールの矢代秋雄:夢の船(四手用に書かれた楽譜を二手で演奏)は愛らしい小品。そして「告別」の終楽章が再び演奏された。

| | コメント (0)

調性音楽の勝利!〜菅野祐悟の交響曲第2番初演:関西フィル定期

20世紀は〈戦争の世紀〉であると同時に〈実験の世紀〉だった。マルクス主義者たちが実行した〈社会主義国家建設〉という実験もそのひとつで、壮大な失敗に終わったことは記憶に新しい(終わっていないと信じている人々も極少数いるが……)。芸術の分野では〈十二音技法・無調音楽〉や〈抽象絵画〉〈アングラ演劇〉などの実験が流行った。それは言い換えるなら〈調性の破壊〉〈具象・輪郭線の破壊〉であり、共通項は〈フォルムの破壊〉だった。つまり〈秩序から無秩序・混沌への移行〉を試みたわけだ。根底には〈人類は常に進化し続けなければならない〉という強迫観念・迷妄があった。その結果、現代芸術は大衆/一般鑑賞者の支持を完全に失った。

しかし、考えてみて欲しい。例えば紫式部「源氏物語」と村上春樹の小説を比較して、文学は果たしてこの一千年の間に進化しているだろうか?また、人間の心のあり方(human nature)は進化しているだろうか?答えは自明であろう。

つまり人間性とか芸術は、〈進化する〉という性質を一切持ち合わせていない。この一千年で進化しのは、科学技術(technic)であり、社会(保証)制度(system)だけである。そこを決して履き違えてはならない。

〈十二音技法・無調音楽〉は作曲技法(technic) が一つ、増えたというだけのことである。絵画でいうならばパレットに絵の具が一つ増えたことに等しい。だからといって調性音楽を否定することは三原色(赤・青・緑)を否定することに他ならず、愚の骨頂である。

だから20世紀は芸術にとって不毛の時代であった。調性音楽を守ろうとした誠実な作曲家たちは、映画音楽やミュージカルの世界に散らばっていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、クルト・ヴァイル、ニーノ・ロータ、ジョン・ウィリアムズ、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド=ウェバーらである。

しかし100年間に及ぶ迷走を経て、芸術家たちは自分たちが犯したとんでもない間違いに漸く気が付き始めた。調性音楽の復権が始まったのである。エリック・ウォルフガング・コルンゴルトの再評価・発見がそれを象徴する出来事となった。そしてウィーン・フィルやベルリン・フィルが「スター・ウォーズ」を演奏する時代が遂に到来した。サイモン・ラトルはベルリン・フィルの定期演奏会でバーナード・ハーマン作曲「サイコ」(アルフレッド・ヒッチコック監督)の音楽も取り上げた。

藤岡幸夫は長年、調性音楽の復権に真剣に取り組んできた指揮者である。その豊かな成果が英シャンドスに録音した、一連の吉松隆の交響曲・協奏曲シリーズだろう。

そして最近、藤岡が新たにタッグを組み始めたのがNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」やテレビ「昼顔」等の音楽で知られる菅野祐悟である。2016年には関西フィルと「交響曲 第1番 〜The Border〜」を初演した。

このシンフォニーは4つの楽章から構成され、それぞれDive into myself/Dreams talk to me/When he was innocent/I amと副題が付いている。僕はこれを見て「ああ、この人はユング心理学から多大な影響を受けたんだなぁ」と感じた。つまり「夢(Dream)」を分析することで意識の層を潜り(Dive)、「個人的無意識(Personal unconscious)」を超えて深層の「集合的無意識(Collective unconscious)」に接続し、「元型(Archetype )」である「永遠の少年(プエル・エテルヌス)」や「自己(Self)」をしっかりと見据えて自己実現を図るという物語をそこから読み取った。

Jungsmodel

この初演はライヴCDとなり、Amazon.co.jpのレビューでは2人が「交響曲にはなっていない」と書いている。

では「交響曲」の定義とは一体何か?〈オーケストラが演奏する〉は大前提だ。誰も異論はなかろう。他は〈3つ以上の楽章に分かれる〉とか、〈第1楽章がソナタ形式〉〈中間に緩徐楽章や舞曲(メヌエット/スケルツォ)を持つ〉とかだろうか?しかしシベリウスの交響曲 第7番を見てみよう。単一楽章でソナタ形式も持たない。この「交響曲」とシベリウスの交響詩「タピオラ」を分かつものは何か?答えは作曲家が「交響曲」と呼んだから。根拠はそれだけしかない。磯田健一郎(著)吉松隆(イラスト)「ポスト・マーラーのシンフォニストたち」(音楽之友社)にも、作曲家がそれを「交響曲」と呼べば「交響曲」なのだと書かれている。乱暴なようだが「真実はいつもひとつ」(by 江戸川コナン)。菅野祐悟に対して「交響曲にはなっていない」などとアホなこと抜かすな!無知蒙昧な輩はおとといきやがれ、である。

さて4月29日(祝)ザ・シンフォニーホールへ。藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

Kan_1

  • ディーリアス:春を告げるカッコウ
  • エルガー:チェロ協奏曲(独奏:宮田大)
  • 菅野祐悟:交響曲 第2番 世界初演

大学生の頃からディーリアスの音楽はジョン・バルビローリ、トーマス・ビーチャム、エリック・フェンビー、チャールズ・マッケラスらの指揮で親しんで来た。藤岡の指揮はふわっとした響きで、テンポは上述した指揮者たちよりも幾分速め。リズミカルで、ゆりかごが揺れているような感じ(back and forth)。すごく心地良かった!藤岡のヴォーン=ウィリアムズが絶品なのは知っていたが、どうしてどうしてディーリアスもいける。もっともっと聴きたいな。因みに僕のお気に入りは「夏の夕べ(Summer Evening)」「夏の歌(Song of Summer)」そして「夏の庭で(In a Summer Garden)」。それと藤岡さん、演奏会形式で歌劇「村のロメオとジュリエット」全曲とかいかがでしょう?エッ、採算が取れない?そう仰るなら、せめて間奏曲「楽園への道」だけでもどうかお願い致します。

エルガーのチェロ協奏曲と言えば、泣く子も黙るジャクリーヌ・デュ・プレとバルビローリ/ロンドン交響楽団による究極の名盤がある。唯一無二。ジャッキーの演奏が強烈すぎて、他のチェリストで聴きたいという気が全く起こらない。困ったものである。ミラノ・スカラ座にはヴェルディの「椿姫」に関して〈カラスの呪い〉という伝説があり、1955年にマリア・カラスが演じたヴィオレッタが余りにも素晴らし過ぎて、その後39年間「椿姫」が再演出来なかったのだが(64年にカラヤン、フレーニが試みたものの惨憺たる失敗に終わった)、エルガーのチェロ協奏曲に関しても間違いなく〈ジャッキーの呪い〉があると僕は踏んでいる(余談だが今年、ピアニストのアリス・紗良・オットがジャクリーヌと同じ病気、多発性硬化症を罹患したと報道された。心配である)。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(スラヴァ)が生涯、この曲を演奏しなかったのも、「ジャッキーには到底敵わない」という思いがあったのだろうと僕は確信している。

Jac
上写真はジャッキーとスラヴァ。

この度、宮田大の演奏に接し、初めてジャクリーヌ・デュ・プレ以外にも聴く価値のあるエルガーを弾けるチェリストがいるのだと知った。ジャッキーが情熱的でエモーショナルなのに対して、宮田はまるで虚無僧のようである。そこから聞こえているのは〈わび・さび〉。ゆったりとした第1楽章は枯れ葉舞う秋を感じさせる。第2楽章はトリックスターがちょこまか飛び回り、第3楽章はカンタービレと緊張感ある弱音が実に美しい。そして魂が入った第4楽章にはグルーヴ(うねり)があった。

ソリストのアンコールはカタロニア民謡「鳥の歌」、実はクリスマス・キャロルである。この曲を聴くと、否応なくパブロ・カザルスのことを想い出す。ケネディが大統領だった頃のホワイトハウス・コンサート(CDあり)。そして94歳の時、ニューヨーク国連本部での演奏と「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」という有名なスピーチ(映像はこちら)。

菅野の新作には"Alles ist Architektur"と副題が付いている。ウィーン生まれの建築家ハンス・ホラインの言葉で、「すべては建築である」という意味である。僕はこの言葉を「すべては構造である」と読み替えることが出来るなと思った。つまり今回は、フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースの思想に繋がっている。

プレトークでは藤岡から「調性を取り戻す!」という決意の言葉が力強く発せられた。また藤岡によると菅野の和声進行は独特で、リハーサル中に作曲家から「そこは神の声で」と注文があったというエピソードも披露された。

各楽章には様々な建築家の言葉が添えられている。

第1楽章:「建築の偉大な美しさの一つは、毎回人生がふたたび始まるような気持ちになれることだ」レンゾ・ピアノ(イタリア)
第2楽章:「建築とは光を操ること。彫刻とは光と遊ぶことだ」アントニ・ガウディ(スペイン)
第3楽章:「建築は光のもとで繰り広げられる、巧みで正確で壮麗なボリュームの戯れである」ル・コルビュジエ(フランス)
第4楽章:「可能性を超えたものが、人の心に残る」安藤忠雄

しかし音楽を聴いているうちに、こうした作曲家のコンセプトにいちいち拘る必要はないのではないか、あまり意味はないという気がしてきた。

そこで僕が想い出したのはレナード・バーンスタインが台本・指揮・司会を努めたヤング・ピープルズ・コンサートで第1回目(1958年)にTV放送された「音楽って何?(What Does Music Mean ?)」である。最初に「ウィリアム・テル」序曲が演奏され、「君たちはこれを聴くとローン・レンジャーとか西部劇を連想するかもしれないが、作曲家のロッシーニはアメリカの西部なんか知らなかった」とレニーは語る。次に演奏されるのがR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」でレニーは次のような、でたらめな物語を述べる。「ある無実の男が刑務所に留置され、それを友人のスーパーマンが助けに来る。スーパーマンは看守を殴り、男をバイクの後ろにヒョイと乗せ、立ち去る。遂に彼は自由の身になった!」その後で本当のドン・キホーテ物語を紹介し、もう一度演奏する。レニーはカーネギー・ホールに集った子供たちに語る。「どうだった?でも音楽自体は何も変わらなかっただろう。つまり、作曲家が語る物語とか情景描写というのは所詮おまけ(extra)に過ぎず、音楽の本質とは一切関係がない

というわけで、以下は僕が感じたままに書こう。第1楽章は途中、鳥の声が聞こえてきたりして、ベートーヴェン「田園」のような自然描写の音楽だと思った。第2楽章で連想したのはルロイ・アンダーソンの「ジャズ・ピチカート」。あとバリのガムランみたいな雰囲気も。色彩豊かで万華鏡のような音楽が展開され、レヴィ=ストロースの「野生の思考」という言葉が思い浮かんだ。つまり音符のブリコラージュだ。

緩徐楽章の第3楽章はエンニオ・モリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」的。あとNHK「ルーブル美術館」でも再使用された映画"La califfa"の音楽(試聴はこちら)。メロディアスで心が癒やされる。そして終楽章は荘厳でパイプオルガンの響きがした。脳裏に浮かんだのは教会の尖塔。中間部に弦のトレモロから金管のコラールに移行する箇所があり、もろにブルックナーのシンフォニーだった。作曲家が「神の声」と言ったのはこの箇所ではなかったろうか?僕は「調性音楽の勝利!」と心の中で叫んだ。けだし傑作。今からライヴCD発売が愉しみである。

 

| | コメント (0)

平成を振り返って

平成という時代が今日、終わろうとしている。

僕は昭和に生まれ、大学生の時に平成を迎えた。どんな時代だったのか、振り返ってみよう。

個人史はさて置き、歴史的側面から平成の10大ニュース/トピックスを選んでみた。基本的に年代順に並べている。

  • バブル景気の終焉(平成3年)
  • ベルリンの壁崩壊(平成3年)
  • 地下鉄サリン事件(平成7年)
  • インターネットの普及(平成10年)からSNSの全盛期へ
  • アメリカ同時多発テロ事件(平成13年)
  • 「千と千尋の神隠し」アカデミー長編アニメ映画賞を受賞(平成15年)
  • 会いに行けるアイドルの時代(平成17年)
  • 東日本大震災(平成23年)
  • 佐村河内守とゴーストライター(平成26年)
  • 厄介な隣人・韓国との関係悪化(平成27年)

〈バブル景気〉時代の日本人は妙に浮かれていた。しかし実体はなかった。その姿を象徴するのがディスコ「ジュリアナ東京」の〈お立ち台〉だろう。キーワードは〈虚ろ〉〈軽薄〉。

〈ベルリンの壁〉は米ソ冷戦の象徴的存在だった。この崩壊はマルクス主義の決定的敗北を意味していた。思えば〈社会主義国家建設〉という野望は20世紀という1世紀をまるまるかけた壮大な実験だった。終焉を迎えた時、実験台の上に載せられた人々の思いはどうだったろう?

オウム真理教事件は日本人に様々な爪痕を残した。村上春樹の「アンダーグラウンド」という作品も生まれた。サリンを撒いた実行犯たちが辿った心理的状況を追っていくと、不思議と〈あさま山荘事件〉を起こした連合赤軍の学生たちにどこか似ている(高学歴とか内輪揉めによるリンチ殺人という点を含めて)。つまり新興宗教とマルクス主義には共通点があるということだ。

僕にとってインターネットの普及を象徴する映画は平成10年に公開された「ユー・ガット・メール」である。パソコンのメールを媒体として男女(メグ・ライアンとトム・ハンクス)が出会う。未だ〈出会い系サイト〉などという言葉が生まれる前だった。更に遡ると、平成8年に森田芳光監督の映画「(ハル)」が公開された。これはniftyパソコン通信の映画フォーラムでめぐり逢う男女の物語である。

Haru

インターネットのおかげで今日、このブログもある。ありがたいことである。インターネットは僕たちの生活に劇的変化をもたらした。その最大の効能は①情報伝達の即時性②検索能力 だと僕は思っている。何が疑問があれば図書館に行かずとも、パソコンやスマホでたちどころに調べられる便利な時代が到来した。僕らの脳味噌における〈知識の蓄積〉も圧倒的に加速した。

SNSの素晴らしさは〈つなぐ〉力だ。SNS登場前だったら絶対に出会うことがなかった人々と繋がり、コミュニケーションをとり、情報交換が出来る。

明治維新以降、日本人は欧米文化の影響を多大に受け、徐々に個人主義に移行した。親と別居し核家族化し、町内の祭りとか寄り合いに参加することも稀となり、近所付き合いがなくなってマンションの隣の住人の名前も知らないなんてことが当たり前になった。しかし、近代的自我の最大の病は孤独である。自立したと思っているうちに、実際は孤独だと気付くことになる。それを補完し、孤独な魂と魂を〈つなぐ〉ことで癒やしてくれるのがSNSなのだ。

アメリカの同時多発テロと、それに続くイラクへの侵略戦争は、〈アメリカの正義〉の胡散臭さを白日の下に晒すことになった。詳しいことを知りたかったら映画「バイス」を観てください。さらに9・11は米ソ冷戦からテロリズムとの戦いへの移行を象徴する出来事でもあった。

「千と千尋の神隠し」オスカー受賞(並びにベルリン国際映画祭で金熊賞受賞)は日本のアニメーションが漸く世界で認められたことの証左であった。アメリカ公開に尽力してくれたジョン・ラセターさん、ありがとう!そして今では日本の漫画やゲーム・ソフトがハリウッドで実写映画化されることもちっとも珍しくなくなった(「アリータ:バトル・エンジェル」「進撃の巨人」「バイオハザード」「名探偵ピカチュウ」)。

Miya

平成17年12月8日はAKB48の劇場公演初日である。CDが売れない時代に〈握手券〉〈総選挙の投票用紙〉としてCDの価値を変換するAKB商法は画期的発明だった。そして〈ご当地アイドル〉が隆盛を極めた。それは〈ゆるキャラ〉ブームと相まって〈地方の時代〉の到来でもあった。

しかし、山口真帆に対する暴行事件を巡るNGT48のゴタゴタがAKB商法の限界を指し示し、暗い影を落としている。今年は〈総選挙〉も中止になった。そろそろ賞味期限切れかもね。

僕は完全にCD収集を止め、配信サービス(ナクソス・ミュージック・ライブラリー、Spotify)で音楽を聴くことに移行した。

阪神・淡路大震災が発生した平成7年に僕は仕事の関係で広島に住んでいた。その時の震度は4で早朝に揺れで目が覚めた。5時46分だった。

東日本大震災の時は大阪府堺市にあるホテルの11階にいた。揺れは中々収まらなかった。テレビで見た津波の規模にも唖然としたが、やはりなんと言っても衝撃的だったのは福島原発事故である。

「作曲家」佐村河内守が明らかにしたのは、世の中には音楽の本質(itself)が全く耳に入らず、余剰・おまけに過ぎない(作者が語る)「物語」しか理解が出来ない聴衆が沢山いることだ。天下の NHKはまんまと騙され、慶応義塾大学教授/音楽評論家の許光俊赤っ恥をかいた。

慰安婦問題日韓合意が成されたのは平成27年12月28日である。この時、「慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した 」筈だったのに、平成28年12月に朴槿恵(パク・クネ)大統領が罷免・逮捕され、文在寅(ムン・ジェイン)が大統領になると、〈合意〉はなかったことにされ、日本からの〈拠出金〉10億円は〈使途不明金〉になってしまった。〈合意〉とは一体何だったんだ!?

条約に調印しても政権が変わると平気で約束を反故にしてしまい、一方的に恨(ハン)を募らせてくる国とは外交が成立しないし、今後一切話し合いに応じることは出来ない。全く困ったものである。

NHKで韓国ドラマ「冬のソナタ」が放送されたのは平成15年から16年にかけて。空前の〈冬ソナ現象〉〈韓流ブーム)を巻き起こしたが、今はすっかり冷え込んで「冬の時代」に成り果ててしまった。

それにしても、いわゆる〈従軍慰安婦問題〉の発端は朝日新聞社による捏造記事(詳細はこちら)なわけで、随分と罪作りな話である。

| | コメント (0)

ワンコイン・プレ・レクチャー〈これが『オン・ザ・タウン』だ!〉 by 佐渡裕

4月4日(木)兵庫県立芸術文化センターへ。レナード・バーンスタインのミュージカル「オン・ザ・タウン」上演を前にしたプレ・レクチャーを聴講する。講師は兵庫芸文の芸術監督でレニーから薫陶を受けた佐渡裕。お代は500円ポッキリ。

Pre

佐渡がレニーに出会ったのは1985年。大阪の旧フェスティバルホールでバーンスタイン/イスラエル・フィルによるマーラー:交響曲第9番の伝説的名演を聴いたのだそう。「自由で創造的だった」と。

87年にはタングルウッドで直接指導を受けた。その時の貴重なビデオ映像も見せてくれた。この時英語が喋れず、劣等感を感じていた佐渡に対してレニーは「君は能を知っているか?」と語りかけてきた。お能のマスクの数の話や「俺は3時間じっくり鑑賞したけれど、普通の西洋人だったら耐えられないはずだ」と言い、「例えば君と握手するとしよう。能だとこんな風にゆっくりした動きになる(と実演)。ここに高いエネルギーが集積する。マーラーのアダージョも同じように振りなさい」

佐渡曰く、レニーは「破天荒な人だった」と。ここで清水華澄(メゾソプラノ)、白石准(ピアノ)の演奏で1942年に作曲された歌曲『私は音楽が嫌い』(I Hate Music)が披露された。10歳の少女が作詞したものだそうで、ユーモラスでチャーミングな楽曲。

バーンスタインの父はウクライナ系のユダヤ人移民で理髪店を営んでいた。両親は音楽と無関係の暮らしをしており、10歳の時に叔母の家でピアノに出会った。父は当然、音楽家の道に進むことに反対した。

1943年、急病で降板したブルーノ・ワルターの代わりにニューヨーク・フィルの指揮台に立ち(ラジオでも放送された)、一大センセーションを巻き起こした。それまでアメリカの主要交響楽団のシェフは皆ヨーロッパ出身者で(クーセヴィツキー・ロジンスキ・トスカニーニ・セル・ストコフスキー・オーマンディ・ライナーなど)、アメリカ人はヨーロッパに対する強いコンプレックスを持っていた。そこに初めて自国生まれのスーパースターが誕生したのである。

佐渡が師に「今まであなたが指揮したコンサートのうち、一番思い出深いのはどれですか?」と訊ねたことがあった。ウィーン・フィルとのベートーヴェン・チクルスや、1979年10月ベルリン・フィルとの唯一の共演となったマーラーの9番、89年ベルリンの壁崩壊記念コンサート(東西ドイツ・フランス・イギリス・アメリカ・ソ連の6つのオーケストラに所属する混成メンバー)でのベートーヴェン第九などを佐渡は予想していたが、答えは意外にも米CBSでテレビ中継された〈ヤング・ピープルズ・コンサート〉だった。その時点で佐渡は〈ヤング・ピープルズ・コンサート〉を見たことがなかった。現在ではDVDとBlu-rayが発売されており、つい先日我が家にもAmazon.co.jpからVol.1が届いて小学校一年生の息子と一緒に視聴しているところである(内容はため息が出るくらい素晴らしい!ただし日本語字幕が無茶苦茶。例えば「オーケストレーション」が「指揮」と訳されている。だから寧ろ英語字幕を出して見ている)。間もなくVol.2も市場に出る。

Young

結局その後日本のテレビで始まった音楽番組「オーケストラがやってきた」(山本直純司会)や「題名のない音楽会」(黛敏郎司会)も、〈ヤング・ピープルズ・コンサート〉をお手本にしている。佐渡が「題名のない音楽会」の司会者を引き継いだのも、恩師への深い思いがあったからである。また佐渡時代はテーマ曲としてレニーのミュージカル『キャンディード』序曲が使用された(現在の司会者は元劇団四季の石丸幹二)。

また1985年「広島平和コンサート」で自作の交響曲 第3番『カディッシュ』を振った時、原爆資料館を見たときの衝撃についてリハーサルで若い演奏家たちに熱く語るレニーの姿を捉えた映像も見せてくれた。

『ウエストサイド物語』について。冒頭口笛で奏でられる〈ソードーファ#〉のモティーフ。〈ファ#〉が「居心地が悪い」と。そこに若者たちの「抑えられないエネルギー」があり、これは♪『マリア』や♪『クール』などのナンバーにも登場する。

また『オン・ザ・タウン』の聴きどころについて、佐渡は「Swing」だと。

そして再び清水と白石が現れ、『オン・ザ・タウン』から♪『私は料理も上手よ』(I Can Cook too)が歌われて、お開きとなった。

夏の上演(7月12日-21日)がとても愉しみである。

| | コメント (0)

大フーガ〜関西弦楽四重奏団

3月18日(月)ザ・フェニックスホールで関西弦楽四重奏団のベートーヴェン・ツィクルスを聴く。

  • 弦楽四重奏曲 第2番
  • 弦楽四重奏曲 第13番「大フーガ」付き

Kan

「大フーガ」は元々、弦楽四重奏曲 第13番の終楽章として作曲された。しかし初演時に余りにも長大で難解であるとされ評価が二分、出版社からの要請や友人からの助言に従いこれを外し、ベートーヴェンは新たに軽快で小規模の第6楽章を作曲した。

今回は〈原典版〉として終楽章で「大フーガ」を演奏し、アンコールで最終版の第6楽章を弾いた。

僕は「大フーガ」をJ.S.バッハの「シャコンヌ」(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番)に匹敵する偉大なる傑作、人類の至宝、音楽遺産だと考えるが、しかし弦楽四重奏曲 第13番の終楽章としては他楽章と比べて余りにも重すぎてバランスを欠き、失敗作と断じざるを得ない。そして「大フーガ」を欠く第13番は、続く第14,15番よりはどうしても聴き劣りがする。如何せん凡庸なのだ。だからそこら辺の判断が難しいところである。

関西弦楽四重奏団の演奏は些か荒っぽく、一心不乱で「大フーガ」を弾き切った直後はトライアスロンを完走した選手のように目が虚ろで、疲労困憊していた。第一ヴァイオリンを担当した林 七奈は〈取り乱していた〉と表現しても良いくらいであった。如何にこの作品に取り組むことが大変かということを僕は肌で感じた。

アンコール前、他のメンバーを休ませている間にヴィオラの小峰航一が喋ったことによると、 彼は京都市交響楽団の楽員なのだが、昨年末に弾いたシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」、今年3月のワーグナー作曲/楽劇「ワルキューレ」全曲@びわ湖ホール、そして定演でのマーラー作曲/交響曲第7番「夜の歌」、それらスコアに書かれたことは全てベートーヴェンが「大フーガ」に盛り込んでいる、先取りしていると。成る程なと、唸った。

| | コメント (0)

【考察】日本人は何故、CDを買い続けるのか? 〜その深層心理に迫る

外部記事で次のようなものがある。

つまり現在、日本はCDが世界で一番売れている国なのだ。他の国は全て音楽ストリーミング配信を聴くか、iTunesなどダウンロードに完全移行している。

正にガラパゴス化である。どうしてこんな珍妙奇異な現象が我が国だけで起こっているのだろう?

ここで議論の混乱を避けるため、現象を2つに分ける必要がある。①AKB48や坂道グループのCDの売上げ②それ以外 である。①の理由は明白。CD購入は音楽を聴くためではなく、「握手券」や「”総選挙”の投票用紙」としての価値に置き換えられている。いわゆる「AKB商法」だ。ファンは同じCDを大量に買い、封入された「握手券」だけを抜き取って後は捨てる。

僕が注目したいのは②の方。「握手券」「チェキ券」「CDお渡し会参加券引き換えチケット」など付加価値・特典がないCDを日本人が未だに買い続けるのは何故なのか?そこにはどのような心理的要因が働いているのであろう。

クラシック音楽CDを買い続けている人のブログやtwitterの投稿を読むと、どうやらその理由は次の2つに集約されるようだ。①配信よりもCDの方が高音質である。②(空気や振動のように実体がない)音楽を物質(もの)として所有していないと、どうも心もとない。安心出来ない。

そこでまず①について検証してみた。僕が持っているクラシック音楽CDと、同じ音源をデジタル音楽配信サービスSpotifyで聴き比べるブラインド・テストを行った。試聴機はTechnicsのハイレゾ対応一体型ステレオシステムOTTAVA f SC-C70である。被験者は複数人参加してもらった。そしてCDに対してSpotifyの音質に遜色はなく、むしろ音源によってはSpotifyの方が勝っているという結論に達した。これはクラシック音楽専門配信サービスNAXOS Music Libraray(NML)も同様である。

そもそも音質にこだわるならばハイレゾ(High Resolution)音源をダウンロードすれば良いだけのこと。CDを圧倒的に上回る情報量を持っており、その音質は最早新次元である。ピアソラ(バンドネオン)の「ライヴ・イン・ウィーン」をハイレゾで購入したが、目の前で本人が演奏していると錯覚するくらいの〈生音〉に驚愕した。ビル・エヴァンスの音源も、まるで僕自身がヴィレッジ・ヴァンガード(マンハッタンにあるジャズクラブ)でグラス片手に彼のピアノを聴いているような臨場感がある。つまり①は、なんの根拠もない風評・幻想に過ぎない。

②は悪く言えば〈物欲〉、よく言えば〈ものを大切にする心〉なのだが、その根底には付喪(つくも)神〉が無意識のうちに存在しているのではないかと僕は考える。つまり〈(実体のある)CDには音楽の神様が宿っている〉という土着信仰である。

付喪(つくも)神〉とは、日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿ったものである。 荒ぶれば禍をもたらし、和(な)ぎれば幸をもたらすとされる。〈九十九神〉とも書き、「長い時間」「多種多様な万物」という意味合いを含んでいる。

〈つくも〉とは元々〈つつも(次百)〉であったと言われている。古語で、ものの満ち足らないことを意味する〈つつ〉に、百を意味する〈も〉を加えることで、「百に一足りない」という意味になっている。

〈つつも〉から〈つくも〉に転訛(なまった)のは平安初期に成立した「伊勢物語」からとされており、主人公である在五中将(=在原業平)が、老いてもなお色恋を求め自分(業平)の家に来て覗き見する老婆を詠んだ歌に登場する。

百年(もゝとせ)に 一年(ひとゝせ)たらぬ つくも髪 我を恋ふらし 面影にみゆ
(百歳に一年足りない白髪の老婆が私を恋しく思っているらしい。まぼろしになって見える。)

つまり〈九十九(つくも)〉とは白髪のことを指す。この時既に魑魅魍魎・山姥のイメージが重ねられている。余談だが、埼玉県には女性の長い髪を御神体とする「毛長(けなが)神社」がある。詳細はこちら

九十九髪〉という言葉が〈付喪神〉に転じたのは室町時代と言われており、「伊勢物語抄」では百鬼夜行のこととされる。

かの有名な妖刀〈村正〉伝説も付喪神〉である。(映画化・テレビドラマ化・宝塚歌劇で舞台化もされた)藤沢周平の小説「蝉しぐれ」には〈秘剣村雨〉なんて妖刀が出てくるし、ゲーム・アニメ・2.5次元ミュージカルなどで大人気「刀剣乱舞」の刀剣男士は全員付喪神〉である。日本人はこういうのが大好物なのだ。

ニニギノミコトが日本を統治するために天から舞い降りるとき、天照大神(アマテラスオオミカミ)から託された鏡・剣・勾玉を〈三種の神器〉という。うち〈草薙剣〉は名古屋にある熱田神社の御神体となっている。

また奈良県にある石上神社の御神体である〈布都御魂(ふつのみたま)〉は日本神話に現れる建御雷命(タケミカヅチノミコト)の所有していた霊剣で、命(ミコト)の分身とされる。

一方、欧米諸国に目を転じると自由意志を持った〈付喪神〉に該当するものはほぼ皆無である。強いて挙げるなら、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場するトネリコの樹に刺さったノートゥング(剣)や、アーサー王伝説に登場するエクスカリバーくらいだろう。エクスカリバーは石に刺さった剣で、それを引く抜くことがアーサー王の血筋の証明となる。ノートゥングの役割も全く同じ。つまり〈剣=神〉ではなく、それを所有する者が英雄(あるいは王位継承者)であることを認証するための道具に過ぎない。「ハリー・ポッター」シリーズでホグワーツ魔法学校入学時に、生徒たちが入る寮を決める〈組分け帽子〉みたいなものだ。

日本では石や岩も御神体になっている。京都・伏見稲荷の境内社である「御剱社(みつるぎしゃ)」や、群馬県の「榛名(はるな)神社」、三重県の「花の窟(はなのいわや)神社」がそれに該当する。

無機物を神と見做す思想は、オーストラリアの先住民アボリジニの神話にも見られる。彼らの言う〈ドリームタイム〉に登場する先祖は、岩や石に变化(へんげ Metamorphose)する。嘗ては「エアーズロック」と呼ばれた、オーストラリア大陸にある一枚岩「ウルル」も、彼らの先祖(神)そのものである。故に「ウルル」は2019年10月26日から観光客向けの登山が禁止となる。

Uluru

それから、次に語ることは日本人に限ったことではないが、「映画は映画館で観るべきだ」と主張する人々が少なからずいる。スティーヴン・スピルバーグ監督もその一人で、Netflixなど配信サービスの映画がアカデミー賞を受賞するのは相応しくないと強硬に反対の姿勢を貫いている。フィルムで撮っていた時代なら僕も意義を認めるが、現在はデジタル撮影/デジタル上映が殆ど。理性的に判断すれば、映画館で観るメリットは皆無だろう。

結局、上記の人々は潜在意識の中で映画館の暗闇を〈映画の神様が降臨する社(やしろ)/教会〉のような場所として神聖視しているのではないだろうか?こうなると理屈ではなく最早宗教であり、彼らを説得し、翻意を促すことは極めて困難である。実に厄介な話だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「妙技爛漫〜バーゼルの喜び!〜」いずみシンフォニエッタ大阪 定期

3月1日(金)いずみホールへ。

飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪の定期演奏会を聴く。

  • A.ゴーサン:Eclips(日蝕) 日本初演
  • リゲティ:ヴァイオリン協奏曲
    (独奏:神尾真由子)
  • オネゲル:交響曲 第4番〈バーゼルの喜び〉

本編に先立って、恒例のロビー・コンサートあり。

D1g0tsqvyaah5lc

「泉(いずみ)」に因んだ音楽で、アルフォンス・アッセルマン(1845-1912)はハープ奏者兼作曲家。マルセル・トゥルニエ(1879-1951)はその弟子。ドビュッシーらフランス印象派を彷彿とさせる作風。因みにトゥルニエはローマ賞の二等賞を受賞しており、これは5回挑戦して最高位が「第二等次席」(事実上の第三位)だったモーリス・ラヴェルより上なんだよね。芸術家に対する真の評価は〈時の洗礼〉を受けないと下せないものだ。

フランスの作曲家アラン・ゴーサン(1943- )のEclipseはけったいな楽曲だった。そういえば武満徹にも琵琶と尺八のための「エクリプス(蝕)」があった。

リゲティの協奏曲はオカリナやリコーダーも登場し、スコルダトゥーラ(変則調弦)されたヴァイオリンとヴィオラ1丁ずつ、そして平均律で鳴らされるその他管弦楽との微細な音のズレ、微分音やハーモニクスを多用した響きで音の迷宮を創り出す。プレトークで飯森が、「絶対音感を持つ音楽家は演奏中に気が狂いそうになる」と発言していたのが印象的だった。神尾は大変な熱演。ただコパチンスカヤがラトル/ベルリン・フィルと同曲を演奏している時に(@デジタル・コンサートホール)、終盤でヴァイオリンを弾きながら歌う場面があるのだが、神尾はなし。一体全体、楽譜の指示はどうなってんの!?まぁコパチンは裸足でパフォーマンスするような野生児だから、何を仕出かすか見当もつかないところがあるのだが。

リゲティといえばスタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」(1968)である。「アトモスフェール」とか「レクイエム」が使用された。僕の場合、リゲティの面白さが漸く分かってきたのはつい最近のこと。キューブリックが「2001年」を撮ったのが39歳。恐るべき先見の明だ。

オネゲルの交響曲 第2番は第二次世界大戦中に作曲された陰鬱な音楽だ(1942年初演)。また戦争が終結した45年から46年にかけ作曲された交響曲 第3番〈典礼風〉について作曲家は次のように述べている。「私がこの曲に表そうとしたのは、もう何年も私たちを取り囲んでいる蛮行、愚行、苦悩、機械化、官僚主義の潮流を前にした現代人の反応なのです」やはり戦争が暗い影を落としている。ところが一転、第4番は軽やかで無邪気な曲想になっている。僕は本作を聴きながら、「もしオネゲルが戦争のない時代に生きていたとしたら、明るくてモーツァルトのように天衣無縫な音楽をもっともっと沢山書いていたのではないか?」という気がした。ただ仮にそうなったとして、我々聴き手にとって幸せだったのか否かは判らない。

作曲家を襲った不幸・災厄が、その創作活動にとっては必要不可欠だったりすることが間々(まま)ある。生きるとはかような、理不尽で儘ならないものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ワーグナー〈ニーベルングの指環〉第2日「ジークフリート」@びわ湖ホール

3月2日(土)びわ湖ホールへ。ワーグナーの楽劇「ジークフリート」を鑑賞。

14時開演で終演が19時20分の長丁場。途中30分の休憩が2回あり、実質上演時間は4時間強。

D1afzw2vsaaydxf1

配役はジークフリート:クリスティアン・フランツ、ミーメ:トルステン・ホフマン、さすらい人(ヴォータン):青山貴、エルダ:竹本節子、ブリュンヒルデ:池田香織、森の小鳥:吉川日奈子 ほか。沼尻竜典/京都市交響楽団の演奏。

ミヒャエル・ハンペの演出、ヘニング・フォン・ギールケの美術は当然、序夜「ラインの黄金」からの基本姿勢を貫いており、舞台前面にシルクスクリーンが張られ、後方も映像が投影されプロジェクション・マッピングで挟み撃ちにする手法が用いられている。だから演じる歌手たちがまるで〈絵の中の人物〉のように見え、〈夢〉の中を彷徨っているような錯覚を起こす仕掛けになっている。僕が連想したのは黒澤明監督の映画〈夢〉で、マーティン・スコセッシ演じるゴッホが自分の描いた〈絵〉の中を彷徨う場面(ショパンの「雨だれ」が流れる)。

ハンペの演出は今流行りの〈読み替え〉ではなくオーソドックスだが、テクノロジーが新しいので目に愉しく、僕はすごく好感を持っている。

歌手に関して。フランツはよく通る美声で◯。青山貴もいい声しているが、些か声量不足。圧巻だったのが池田香織。彼女の深く豊かな声に魅了された。ゴメン、日本人歌手を舐めてました。森の小鳥(吉川)も爽やかで、耳に心地よかった。

改めて「ジークフリート」は非の打ち所がない完璧な音楽だと舌を巻いた。

〈ニーベルングの指環〉がバイロイトで初演されたのが1876年。ロマン派の極北であり、調性音楽の完成された姿である。本作を聴いた当時の作曲家たちはみな、打ちのめされたのではないだろうか?これ以上先に進める余地はない。Dead End,行き止まり

そうした絶望感の中で生まれた逆転の発想が、〈調性音楽の破壊=十二音技法、無調音楽の誕生〉に繋がったような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧