クラシックの悦楽

2019年2月16日 (土)

チャイコフスキー革命!〜クルレンツィス/ムジカエテルナ@フェスティバルホール

2月14日(木)フェスティバルホールへ。クルレンツィス/ムジカエテルナを聴く。

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テオドール・クルレンツィスはギリシャ・アテネ生まれの46歳。サンクトペテルブルク音楽院で学び、ロシアのウラル山脈の麓に位置するペルミを本拠とするアンサンブル、ムジカエテルナを創設した。

クルレンツィスを一躍時代の寵児へと押し上げたのは、チャイコフスキー「悲愴」とマーラーの交響曲第6番のCDで2年連続レコード・アカデミー大賞に輝いたことである。これは前例のない快挙であった。

わかりやすく言えば、彼はカルロス・クライバー級のカリスマ/スーパースター/風雲児なのである。

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ヴァイオリン独奏はモルドヴァ出身のパトリシア・コパチンスカヤ。彼女のリサイタルは以前、ザ・フェニックスホールで聴いている。出自についても下記事で詳しく解説した。

曲目は、

  • チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
  • 藤倉大:kusmetche(クズメッチェ) 
    ソリストアンコール 日本初演
  • チャイコフスキー:交響曲 第6番「悲愴」

弦は古典的対向配置。コンチェルトは座奏だったが、後半のシンフォニーではチェロとチューバ以外、全員立奏で度肝を抜かれた。チャイコフスキーでこんなのは前代未聞である。前半は指揮台なし、後半ありで、クルレンツィスは指揮棒を使用せず。

コパチンスカヤは赤いスリッパを履いて登場。本番では裸足で演奏した。

囁くような弱音で始まり、次第に前のめりになり野性の本能を剥き出しにする。獲物を狙うの姿勢。彼女は〈歌う〉というよりは〈呪術的〉な音色を奏でる。

クルレンツィスの足は鹿のようにスリムで、踊るように動く。時にふたりは向かい合い、互いに煽りオデコがぶつかりそうなくらい接近する。

第2楽章は「ジプシーの夜」。野営地で焚き火を囲んだロマたちの姿が幻視される。

第3楽章のテンポは変幻自在。自由度が高く、破天荒規格外の演奏だった。

このコンチェルトがロマの音楽に聴こえたのは初めての体験だった。コパチンの父親がツィンバロン(ハンガリーを中心に中欧・東欧地域で演奏されている打弦楽器)奏者であることと、決して無関係ではないだろう。

アンコールで披露された作曲家・藤倉大は1977年大阪生まれ、現在はイギリス在中。だからフェスティバルホール@大阪で演奏されたのには大きな意味がある。ブルガリアのダンス・リズムがベースになった楽曲だという(藤倉夫人はブルガリア人)。ちなみに直木賞・本屋大賞をダブル受賞した恩田陸の小説「蜜蜂と遠雷」が映画化され10月4日に公開されることが決まったが、劇中に演奏されるピアノコンクール2次予選の課題曲「春と修羅」を藤倉が作曲するとつい先日発表された。

立奏の「悲愴」はオーケストラ全体が一つの有機体となり、大きなうねり/ グルーヴ(groove)を感じた。立奏は吹奏楽のマーチングに繋がるし、ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オケによるバーンスタイン「ウエストサイド物語〜マンボ」のパフォーマンスを想起させた(熱狂の映像はこちら!)。

第2楽章は儚く、息も絶え絶え。中間部のティンパニの連打はまるで心音のよう。

第3楽章は抜群の機動力を発揮しグイグイ引っ張り、最終楽章の悲痛な叫びに至る。我々はズルズルと底なし沼に引きずり込まれ、虚空に呑まれる。ニーチェの言葉〈お前が深淵を覗く時、深淵もまたお前を見返しているのだ〉(「善悪の彼岸」)が脳裏に浮かんだ。

最終音が消え、クルレンツィスが手を下ろすまでの約1分間。長い沈黙に聴衆もよく堪えた。未曾有の体験だった。

これはチャイコフスキー・レヴォリューションだ。アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが衝撃的なヴィヴァルディ「四季」のLPレコードで、世間に殴り込みをかけてきた日のことを想い出す。ピリオド・アプローチ革命の夜明けであった。

賛否両論も当然あろう。クルレンツィスについて来れない守旧派、哀れな者たちはとっとと、惨めに消え去れ!残ることを選びし我々は新しい風を全身に浴び、見たこともない景色を目の当りにするのだ。

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2019年1月23日 (水)

モンテヴェルディ:オペラ「ポッペアの戴冠」@いずみホール

1月19日(土)いずみホールへ。〈古楽最前線!〉シリーズ、

  • モンテヴェルディ:オペラ「ポッペアの戴冠」

を観劇。20分✕2回の休憩を含め、上演時間4時間の長丁場だった。

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本作は作曲家の死の前年1642年に初演された最初期のバロック・オペラである。

ローマの暴君ネロ(ネローネ)とその後妻ポッペアを巡る史実に基づいており、ポッペアは許嫁の将軍オットーネを裏切りネロを誘惑、徳の道を説く哲学者セネカを自殺に追い込む。ネロは皇后のオッターヴィアを小舟で島流しにし、ポッペアがその後釜に座る。そんな彼女とネロを天上から愛の神が祝福して幕を閉じる。

要約するなら、「不倫は文化だ!」(by 石田純一)、最後に「愛は勝つ」(by KAN)、そして「悪徳の栄え」(by マルキ・ド・サド)でめでたしめでたし、ということになるだろう。勧善懲悪からかけ離れた、こんなimmoral(不道徳な)オペラは後にも先にもない。前代未聞である。幕切れの甘美で陶酔的な愛の二重唱とワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の近似性を指摘する人もいる。しかしトリスタンとイゾルデは不倫の清算を〈死〉で贖うが(そこにカタルシスがある)、「ポッペアの戴冠」はハッピーエンドである。正反対だ。

指揮者のアーノンクールは本作を次のように評している。「基本的なテーマは、破壊的な、それも社会をも破壊してしまう愛の力である」

欲望(愛欲・出世欲)の肯定。それは倫理よりも優先される。もしかしたらモンテヴェルディはAntichrist(反キリスト者)なのではないか?とすら思った。考えてみれば彼の代表作「聖母マリアの夕べの祈り」はあくまでマリア(母なるもの)に対する崇敬であって、キリストを讃えているわけじゃないものね。

特に感銘を受けたのが哲学者セネカが自死を強要され舞台から去った直後の、小姓ヴァレットと侍女ダミジェッラの恋の戯れ。彼らは「出来る限り長く生きて、愛し合いたい」と歌い、ここに死と生の二項対立がくっきりと浮かび上がる。鮮烈である。

ヴァレットは机上の空論を振り回す哲学者を徹底批判する。理性なんかクソくらえ。彼岸(イデア)を否定し、本能や「今」にしか価値がないとする彼の主張は250年後に登場するニーチェの思想(「神は死んだ」)にピッタリ重なる。何という先見性だろう!

本作の主題はラテン語の〈カルペ・ディエム〉(=英語で言えばSeize the day;その日を掴め/その日の花を摘め)そして〈メメント・モリ〉(死を想え)に通じるのではないかと感じた。

また似た言葉として次のようなものがある。

いのち短し 恋せよ乙女(ゴンドラの唄)

人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり(吉田兼好「徒然草」)

生ける者(ひと) 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は 楽しくをあらな(大伴旅人「万葉集」)

指揮・チェンバロが渡邊順生、コンサートマスターが伊佐治道生。古楽器オーケストラは弦楽奏者8名+リコーダー、ドルツィアン(ファゴットの原型)、コルネット、テオルボ(リュート族の撥弦楽器)という編成。

歌手もオケも全員日本人で、これだけ高い質の演奏を実現出来たのだから大したものだ。歌の方は特に斉木健詞(セネカ)、望月哲也(ネローネ)、阿部雅子(ポッペア)、山口清子(ドゥルジッラ)、向野由美子(小姓ヴァレット)が素晴らしかった。一方、加納悦子(オッターヴィア)、岩森美里(乳母アルナルタ)はいまいち。話題のカウンターテナー・藤木大地(オットーネ)はまぁまぁかな。ダミアン・ギヨン、アンドレアス・ショル、米良美一らのレベルには到達していないなという印象を受けた。

古きを温(たず)ねて新しきを知る。斬新で、とにかくワクワクした!

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2019年1月18日 (金)

尾高忠明の武満とエルガー〜大阪フィル定期

関西フィルの首席指揮者・藤岡幸夫のシベリウスとヴォーン=ウィリアムズは超一級品である。同様に、大フィルの音楽監督に就任した尾高忠明と言えば、武満徹とエルガーを振らせたら(現役指揮者では)右に出る者がいない(出演キャンセルが続く小澤征爾は現役として認めない)。彼は英エルガー協会からエルガー・メダルを授与された唯一の日本人である。

1月17日(木)フェスティバルホールへ。

尾高忠明/大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く。ヴァイオリン独奏は神尾真由子。

  • 武満 徹/トゥイル・バイ・トワイライト
  • ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲 第1番
  • エルガー/交響曲 第1番

twilとは「あや織り」のことでtwilightは「薄明/黄昏時」。移ろいゆくもの、ゆらぎが、きめ細やかな音のパレットで捉えられる。ぼんやりして焦点が定まらない世界。

武満にはとか、雨・海)をテーマにした作品が非常に多い。「夢の時」「夢の引用」「夢の縁へ」「夢見る雨」「ウォーター・ドリーミング」「雨の樹」「雨の庭」「雨ぞふる」「海へ」「星・島」「From me flows what you call time(私から”夢”と呼ばれるものが流れ出す)」等々。夢も水も形が定まらない曖昧な存在、ゆらぎである。それは黄昏(「君の名は。」の”かたわれ時”)とか、も同じだろう。「虹へ向かって、パルマ」という作品もある。

ブルッフの神尾は野太い音を奏で、張りのある演奏だった。

尾高のエルガーは骨太である。第1楽章はNoble(気高い)、第2楽章のスケルツォは勇ましい。叙情的な第3楽章アダージョでもしっかりと一本の芯が通っている。そして闘争的な終楽章。アスリートのようにしなやかな筋肉を持った、男臭い演奏だった。僕は「う〜ん、マンダム」のCM(演出は大林宣彦)で有名な俳優チャールズ・ブロンソンを思い出した。動画はこちらとか、こちら。現役のスターならさしずめ、ベネチオ・デル・トロかな。

最後に、尾高さんに今後どうしても取り上げてほしい曲を挙げておく。

  1. 武満徹:系図 ―若い人たちのための音楽詩―
    (ナレーターは絶対に10代の若い女の子で!上白石萌音・萌歌姉妹を推薦)
  2. 武満徹:夢の時 Dreamtime
  3. エルガー:オラトリオ「ゲロンティアスの夢」

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2019年1月 4日 (金)

ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート今昔物語

旅先の宿・法師温泉でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団恒例のニューイヤーコンサート 2019をNHKの中継で観た。

今年現地の特設スタジオにゲストとして登場したのはウィーン・フィルの元コンサートマスター、ライナー・キュッヘル夫妻と、2018年11月26日に同団のヴィオラ奏者と結婚した中谷美紀。興味深かったのは、NHKのアナウンサーが「女優の」ではなく「俳優の中谷美紀さんです」と紹介したこと。これはきっと中谷のこだわりなのだろう。それから彼女の結婚について一切触れなかったことも反って異様で、可笑しかった。プライベートに関してはアンタッチャブルということなのかな?中谷の口から「シェーンベルク」などといった固有名詞が飛び出したので、感心することしきり。

さて、2019年新春の指揮者として抜擢されたのはドイツ・ベルリン出身のクリスティアン・ティーレマン。

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僕は時代に背を向ける守旧派・ティーレマンのことを〈生きた化石〉と揶揄しており、大嫌いなのだが、お手並み拝見と構えていたら意外にも極上の演奏で驚いた。

ピリオド・アプローチ(古楽奏法)が主流となった現代の演奏の多くはどちらかと言えば感情を排し、Dryである。ところが今年のニューイヤーはWetで、これだけ艶のある音は本当に久しぶりに聴いた気がした。ティーレマンはR.シュトラウスのオペラを得意としており、「ばらの騎士」へ通じる馥郁たる色香を感じた。リズムも軽やか。

僕が初めてニューイヤーコンサートを視聴したのは小学生の頃である。未だボスコフスキーが健在だった。考えてみれば過去40年の変遷を見てきたわけで、中には若い人にとって耳新しいこともあるんじゃないか?そう思い、今昔の違いを語ってみることにした。

1)昔は指揮者が固定制だった。

創始者であるクレメンス・クラウスが1954年に亡くなり、当時ウィーン・フィルのコンサートマスターだったヴィリー・ボスコフスキーが1955年から79年まで25年間、指揮者を務めた。ボスコフスキーの病気で登壇したのがロリン・マゼール。彼は7年連続で登板した。ボスコフスキーはヴァイオリンを弾きながら指揮台に立ち、時折り弓を指揮棒代わりに使った。この「弾き振り」スタイルはピッツバーグ交響楽団でヴァイオリニストとして活躍した経験を持つマゼールも踏襲した。そして87年のカラヤン以降は「弾き振り」がなくなり、毎年指揮者が交代するシステムとなった。因みに2020年に登壇する予定なのはラトビア出身のアンドリス・ネルソンスである。

2)昔NHKは第2部からしか生中継をしていなかった。

現在は日本時間の夜7時15分から第1部の演奏が開始され、休憩を挟み8時15分から第2部が始まるというスタイルだが、昔は第2部からしか放送がなかった。第1部も視聴出来るようになったのはNHK-BS放送開始(89年6月1日)以降と記憶している。地上波では従来どおり第2部のみ放送し、「衛星放送なら第1部から見れますよ、だらか専用アンテナを設置してくださいね!」という意向だった。

3)女性楽員問題と〈ザビーネ・マイヤー事件

ボスコフスキー時代、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの楽員は全員男性だった。1982年、ベルリン・フィルの芸術監督兼終身指揮者だったカラヤンが女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤー(当時23歳)をBPOに入団させようとしたが猛反発を受け、楽員全員による投票でマイヤーの仮採用は否決された。「マイヤーの音には、BPOの管楽器奏者にとって不可欠の、厚みと融合性が欠如している」というのが総意だった。この〈ベルリン・フィル入団騒動〉でマイヤーはかえって有名になり、現在では世界屈指のソリストとして認められている。〈ザビーネ・マイヤー事件〉でベルリン・フィルとの関係がすっかり冷え込んだカラヤンは晩年、ウィーン・フィルに客演することが多くなった。チャイコフスキーの後期交響曲やドヴォルザークの交響曲第8番、9番、ブルックナーの交響曲第7番、8番がウィーン・フィルとレコーディングされたのも、87年のニューイヤーコンサートにカラヤンが登場したのも、こういう経緯があった。またこの時にソプラノのキャスリーン・バトルが「春の声」を歌ったが、異例の出来事であり、カラヤン以降にゲスト出演者は全くいない。

カラヤンの死後シェフがクラウディオ・アバドに交代し、ベルリン・フィルは女性奏者をどんどん採用するようになった。しかしウィーン・フィルは頑なに男尊女卑を押し通し、女性の権利団体から国際的な非難を浴び続けた。外圧に耐えかねて漸く女性(ハープ)奏者の入団を認めたのは1997年のことである。現在は全楽員の約1割を女性が占め、初の女性コンサート・マスターも誕生した(アルベナ・ダナイローヴァ)。

4)客席の日本人

DVDで確認することが出来るが、ボスコフスキーが「弾き振り」していた頃のニューイヤーコンサートの客席には殆ど日本人がいない。しかし今年の中継を見ると、カメラが客席のどこを写しても、日本人だらけ。雨後の筍のごとく、うじゃうじゃいる。ここ40年で日本人が豊かになったことの証左であり、国際的に見てもとりわけ我々がニューイヤーコンサートを愛しているということなのだろう(年末に第九を聴く日本独自の習慣に似ている)。

5)ウィーン国立バレエ団

演奏中にウィーン国立バレエ団の踊る映像が挿入されるのは、ボスコフスキー時代から現在まで変わらない伝統である(映像ソフトとして販売される商品にはない)。しかしダンスの質が大きく変貌した。昔は「いもねーちゃんと、いもにーちゃんが田舎の古風な踊りを披露している」という印象だった。

はっきり言ってウィーン国立バレエ団は世界的に見て二流〜三流の団体である。因みに一流と言えるのはパリ・オペラ座バレエ、英国ロイヤル・バレエ、ボリショイ・バレエ、マリインスキー(旧キーロフ)・バレエ、アメリカン・バレエ・シアター(ABT)、ニューヨーク・シティ・バレエ、そしてミラノ・スカラ座バレエ団といったところである。

ところが今年のパフォーマンスを観ると、斬新で洗練された振付が施されており、ダンサーも白人だけではなく、アジア系も混ざり国際的になっている。目が覚めるような鮮烈な印象を受けた。

6)アンコール

アンコールで「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」が演奏されるのは今も昔も変わらぬ光景だ。しかし指揮者が「ラデツキー行進曲」で客席を振り向き、手拍子をコントロールするようになったのはマゼール以降である。ボスコフスキー時代は聴衆任せだったので、中間部の静かなところで手拍子がそれに同調出来ず、全く統制が取れていなかった。

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2018年12月26日 (水)

D. ハーディング/パリ管 ✕ I. ファウスト@ザ・シンフォニーホール

12月19日ザ・シンフォニーホールへ。

Paris

ダニエル・ハーディング/パリ管弦楽団を聴く。

  • ベルク:ヴァイオリン協奏曲(独奏 イザベル・ファウスト)
  • クルターグ:サイン、ゲームとメッセージより
    für den, der heimlich lauschet(ソリスト・アンコール)
  • マーラー:交響曲第1番「巨人」
  • エルガー:エニグマ変奏曲より第9変奏「ニムロッド」(アンコール)

客席は6−7割の入り。ハーディングは札幌公演の際に雪で滑り転倒、足を骨折したため、車椅子でステージに登場した。しかし本人はいたって元気、精力的な指揮ぶりで安心した。

僕は新ウィーン楽派から無調音楽に至る音楽史に対して否定的見解を持っている。

しかしベルクのコンチェルトは例外だ。文句なく美しいレクイエムである(献辞に”ある天使の思い出に”とある)。ファウストにはクラウディオ・アバド/モーツァルト管と共演した素晴らしいCDがあり、2012年度レコード・アカデミー大賞を受賞した。また〈ベルリン・フィル デジタル・コンサートホール〉のアーカイブにはアバド/ベルリン・フィルと同曲を演奏した映像が収められており、それらを繰り返し鑑賞して今回のコンサートに臨んだ。

第1楽章には透明感があり、雪の結晶を連想させた。透き通るような哀しみ。第2楽章はfurious(怒り狂った)状態から、祈りへ(後半部にJ.S.バッハのコラール「われ満ち足れり」が静かに流れる)。結局この作品はベルクの遺作になったので、自分自身への鎮魂歌という側面もあるだろう。そういう意味において、モーツァルトのレクイエムに近いと言える。

マーラーは対向配置。最弱音が美しい。音楽は瑞々しく精緻、ハーモニーの解像度が極めて高い。「誰かの演奏にどこか似ている……」聴きながら必死に考えて、クラウディオ・アバド/シカゴ交響楽団の録音(1981)に思い至った。僕は発売時にLPレコードを買ったのだが、冒頭弦楽器のppp(フラジオレット)が聴こえないのでスレテオのボリュームを上げると、ffの大音量に飛び上がるというダイナミックレンジが広い、当時としては超優秀デジタル録音で、演奏もキレッキレだった。アバドは89年にベルリン・フィルと再録音するのだが、こちらの方はぼんやりした凡演だった。閑話休題。

第2楽章のスケルツォは弾け、全体として青春の光と影のコントラストが鮮やかだった。病んでいない真っ直ぐなマーラー。ハーディングのアプローチは的確だ。

ただ惜しむらくは、今回のプログラムにフランスものがなかったこと。折角のパリ管なのだから聴きたかったなぁ。

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2018年12月19日 (水)

P. ヤルヴィの「ザ・グレイト」とH. ハーンのモーツァルト@兵庫芸文

12月15日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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パーヴォ・ヤルヴィ/ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団、ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)で、

  • モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲
  • モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 第5番
  • J.S.バッハ:パルティータ第3番より”プレリュード”(ソリスト・アンコール)
  • J.S.バッハ:パルティータ第1番より”サラバンド”(ソリスト・アンコール)
  • シューベルト:交響曲第8番ハ長調「ザ・グレイト」
  • シベリウス:アンダンテ・フェスティーヴォ(アンコール)

パーヴォ率いるオーケストラは時に鹿の如く、しなやかに跳躍する。ソファで子供が無邪気に飛び跳ねているように弾力性に富み、柔軟な音楽を繰り広げた。

ヒラリーはエレガントで可憐なモーツァルトを奏でた。アンコールの大バッハは厳しい音楽だが、まぁるい音で優しさに包まれる。”サラバンド”は荒野に咲いた一輪の赤い花。

現在はギドン・クレーメルにしろ五嶋みどりにしろ、バッハの無伴奏ソナタやパルティータを弾く時はノン・ヴィブラート奏法(ピリオド・アプローチ)が主流である。しかしハーンはヴィブラートを捨てない。だからといって装飾過多に陥ることもなく、気品に満ちているのだからさすがである。

彼女は1979年生まれなので現在39歳だが、その美貌は一向に衰える気配がない。驚嘆すべき人だ。

プログラム後半のシューベルトは生命力が横溢する。ダンス・ダンス・ダンス!哀しみを帯びた第2楽章ですら踊り出したくなる。終楽章は草原を仲間たちと馬で駆ける疾走感があった。

シューベルトは「未完成」交響曲を作曲した時期に梅毒の宣告を受け、意気消沈していた。

しかしこのハ長調交響曲ではそのうつ状態から完全に立ち直り、あたかも「世界は美しい!」と全身で生を謳歌しているようだ。

パーヴォの解釈を「セカセカしている」と否定的に評したレビューを読んだが、僕は些かもそうは思わない。快速テンポこそハ長調交響曲に相応しく、寧ろ昔の巨匠たちのように重々しく演奏すべきではないと確信する。

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2018年12月 7日 (金)

【総括】20世紀の芸術(現代美術・現代音楽)とは一体、何だったのか?

僕は20世紀後半(昭和40年代〜平成)を生きてきた。小学校4年生くらいからクラシック音楽を聴くようになったが、当初から不思議に思っていたことがある。

コンサートで演奏されるのは大体19世紀の作曲家(リスト/ワーグナー/ブルックナー/マーラー)までで、20世紀以降の現代音楽は殆ど取り上げられない。強いて言えばストラヴィンスキー「春の祭典」やバルトーク「管弦楽のための協奏曲」など数曲あるが、それでもせいぜい20世紀前半止まりだ。

結局、シェーンベルク/ヴェーベルン/ベルクら新ウィーン楽派、ブーレーズ/ノーノ/シュトックハウゼンらセリー音楽トータル・セリエリズム)といった無調音楽は一般聴衆から拒絶され、コンサートのメイン・プログラムに入れると全く集客出来ず、閑古鳥が鳴くという状況が現在も続いている。

20世紀の聴衆が現代音楽に対して嫌悪感を抱き、そっぽを向いてしまった主な理由として〈シェーンベルクによる十二音技法の発明無調音楽への完全移行〉という流れが挙げられる。はっきり言って、聴いていて心地よくない。不快だ。我々の耳は依然として調性音楽を求めている。では何故、〈作曲家の意志↔聴衆の嗜好〉に埋めようのない乖離が起こってしまったのか?そこにはヨーロッパ人が根強く持つ進歩思想、つまり【芸術は、新しい形式が古いそれに続くという、進歩の状態に絶えずある】と見なす思想が横たわっている。

進歩思想は生物の進化論と深く関わっている。ここで多くの人が持つ誤解を解いておきたいのだが、チャールズ・ダーウィンは進化(evolution)という言葉を使っていない。彼の著書「種の起源」に登場するterm(用語)はmodification(変更・修正・調整)である。種の保存(遺伝)、自然選択(淘汰)、存在し続けるための努力(生存競争)がその理論の根幹を成す。つまりダーウィンは〈遺伝子の突然変異→環境に適応したものが生き残る〉ことを主張しているのであって、その変化は必ずしも進化を意味しない。例えば人間の足の指を考えればいいだろう。使わないから退化している。手指の変化と真逆の関係にあるのだ。

進歩思想の深層にはキリスト教(およびユダヤ教)が潜んでいる。旧約聖書の創世記によると、最初の男アダムは神に似せて造られた。つまり人間は神の似姿であり、成長とともに父親(理想像)に近づかなければならないという強迫観念妄執に彼らは囚われている。これを父性原理という。

1970年代くらいまで欧米人(と西洋かぶれの日本の知識人・エリート大学生)は本気で進歩史観を信じていた。【歴史とは人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程である】と見なす歴史観である。イギリスにおけるホイッグ史観がその代表例で、【歴史とは人類が理性によって現状を克服し、精神の自由を実現させていく過程である】とするドイツのヘーゲル史観や、カール・マルクスによる唯物史観も同様。マルクスにとっての最終形態は共産主義社会の到来であり、その実現(=正義)のためには暴力革命も肯定される。その成れの果ての姿が連合赤軍によるあさま山荘事件であり、(テルアビブ空港乱射やダッカ日航機ハイジャックなど)日本赤軍事件であった。

音楽における進歩思想は【無調音楽という新しい進歩の段階に入ったのだから、いまさら調性音楽という前の段階には逆行出来ない】ということになるだろう。故に20世紀に調性音楽を守ろうとした作曲家たちは「時代遅れ」「ナンセンス!」という烙印を押され、映画音楽やミュージカルなどのジャンルに散っていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、ジョン・ウィリアムズ、ニーノ・ロータ、クルト・ワイル、レナード・バーンスタイン、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド・ウェバー、久石譲らである。

映画音楽に使用したモティーフを流用したコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は1947年に初演されて以降、半世紀に渡って馬鹿にされ、蔑まれ、無視され続けてきた。しかし21世紀に入り漸く調性音楽の復権が進み、日本でもオーケストラの定期演奏会でしばしば取り上げられるようになった。

現代美術においてもは進歩思想が跋扈した。つまり具象を否定し、抽象絵画に走ったのである。そして鑑賞者の共感と支持を完全に失った。このように20世紀における現代音楽と現代美術、そして共産主義国家建設という壮大な実験(と失敗)は完全にリンクしていた

僕に言わせれば芸術における進歩思想は愚の骨頂であり、殆ど狂気の沙汰である。文学や演劇を例に取れば分かり易いだろう。ここで読者に2つ質問をしよう。

  • あなたは紫式部「源氏物語」よりも、村上春樹の小説の方が進歩(進化)していると思いますか?
  • あなたは古代ギリシャ悲劇「オイディプス王」「エレクトラ」やシェイクスピアの作品よりも、現代演劇の方が進歩(進化)していると思いますか?

全くナンセンスな問いだ。それぞれの時代に様式(style)の変化はあるだろう。しかしそれは進歩ではない。そしていつの時代にも優れた作品と、そうでないものがある。それだけのことだ。同時代の人間にはその真価を見抜けず、時の洗礼を経なければ判らないこともある(例えばマーラーやコルンゴルトの音楽)。それが自然淘汰である。

また進歩史観の間違い・迷妄も次の2つの問いにより簡単に証明出来る。

  • あなたは19世紀ドイツの首相ビスマルクよりも20世紀に普通選挙で首相に就任したアドルフ・ヒトラーの方が優れた政治家だと思いますか?
  • あなたはエイブラハム・リンカーンよりもジョージ・W・ブッシュの方が優れたアメリカ大統領だと思いますか?

賭けてもいい。少なくとも過去2,000年間、人間性(humanity)は一切進化していない。もし人類が進化していると思うのなら、それは単なる錯覚である。代わって間違いなく進化していると言えるのは科学技術であり、富の再分配など社会(補償)制度、つまりsystemだ。

確かに人類の知識(知恵)は増えている。でもそれは進化じゃない。文字という媒体(現代ではコンピューター)により知識の蓄積が可能となり、それを幼少期から効率よく脳に詰め込むための教育制度(system)が発達したのだ。履き違えてはいけない。

故に人の心(意識+無意識=自己)を表現する芸術に、進化などあろう筈がないのである。

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2018年11月27日 (火)

河村尚子「ベートーヴェン紀行」第2回@兵庫芸文

11月25日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。河村尚子でオール・ベートーヴェン・プログラムを聴く。

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  • ピアノ・ソナタ 第18番
  • ピアノ・ソナタ 第21番「ワルトシュタイン」
  • ピアノ・ソナタ 第24番「テレーズ」
  • ピアノ・ソナタ 第23番「熱情」
  • エリーゼのために(アンコール)

河村は兵庫県西宮市生まれ。地元でのコンサートである。A席2,000円という破格の安さ!

実に歯切れよく、曖昧さはなし。ペダルの使用は最小限で音が濁らない。

タッチは力強く男性的。実際に音だけでブラインド試聴したら、女性ピアニストだと判らないだろう。感情の突発的爆発など曲想にメリハリがあり、スケルツォでは気まぐれや戯けが鮮やかに表出される。彼女のベートーヴェンはドイツのヴィルヘルム・バックハウスに近い雰囲気があるなと僕には感じられた。

テンポをプレストに上げた「熱情」終楽章のコーダは何かに取り憑かれた巫女舞を彷彿とさせる、いわばトランス状態で弾き切った。

アンコールの前に「テレーズ」に初めて取り組んだ10歳の時の想い出を語り、「エリーゼのために」は実は「テレーズのために」なんじゃないかという自説を述べた(似た旋律が登場するのだという)。

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2018年11月15日 (木)

スペイン再発見〜古楽最前線!ー躍動するバロック@いずみホール

11月11日(日)いずみホールへ。

に続くシリーズ第3弾、今回はファミ・アルカイ(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、アカデミア・デル・ピアチェーレを聴く。

Kogaku

曲目は、

  • 作者不詳(16世紀頃):ディ、ペーラ・モラ
  • カベソン&アルカイ:ラ・ダマ・レ・デマンダ
  • イザーク&アルカイ:ラ・スパーニャに基づくグロサーダ
  • アルカデルト、オルティス&アルカイ:「おお幸福な私の目」
  • アルカイ:「牛を見張れ」によるディフェレンシアス
  • カベソン:第1旋法によるティエント 第3番
  • アルカイ:ジョスカンの「はかりしれぬ悲しさ」によるグロサ
  • ムルシア:ファンダンゴ
  • カベソン&アルカイ:グロサーダ「ある日シュザンヌが」
  • 作曲家不詳&アルカイ:ハカラス&フォリアス
  • サンス&アルカイ:パッサカリア、マリオナス、カナリオス

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アルカイはスペイン生まれだが、父はシリア人で母はパレスチナ人だそう。

彼はジミ・ヘンドリックスの楽曲をカヴァーしたり、スタジオにはなんとエレキ・ヴィオラ・ダ・ガンバを所持しているという!型破りというか、規格外の人だ。

一旦は滅んで、1970年以降にヴィーラント・クイケン、ジョルディ・サヴァールらの尽力により復活した古楽器ヴィオラ・ダ・ガンバの概念を根底からひっくり返す、革新的演奏であった。特にガンバを横向きに倒し膝に載せ、ギターのように撥弦(はつげん)楽器として扱う手法には心底驚かされた。そしてカッケー!

ヴィオラ・ダ・ガンバ3丁とギター、チェンバロという五重奏を聴きながら、僕が真っ先に想起したのはアストル・ピアソラが率いるキンテート・タンゴ・ヌエヴォ( New Tango Quintet )だ。両者には迸る情熱がある。

ピアソラは生涯に八重奏団、六重奏団なども結成したが、バンドネオン奏者として頂点を極めたのがキンテート(五重奏団)時代だったことは論を俟(ま)たない。バンドネオン(ピアソラ)、ピアノ(パブロ・シーグレル)、ヴァイオリン、ギター、コントラバスという編成で、日本のバンドネオン奏者・三浦一馬もこのキンテート・スタイルを踏襲している。

今回のコンサートを聴き、確信を持ったのは、〈アルゼンチン・タンゴとスペイン音楽は密接に繋がっている〉ということ。16世紀以降、アルゼンチンはスペインの植民地となり、現在も公用語はスペイン語である。スペインとアルゼンチンの音楽は互いに影響し合い、共鳴している。それはアフリカ音楽とアメリカで誕生したジャズの関係に近い。

あと僕の脳裏に蘇った映像はアマゾン奥地でゴム園を開拓してオペラハウス建設の資金を作ろうとする1人の男を主人公とするヴェルナー・ヘルツォーク監督クラウス・キンスキー主演のドイツ映画「フィツカラルド」と、やはりヘルツォークとキンスキーが組み、伝説の都市エル・ドラドを探し求め、アンデスの山々を彷徨うスペインの探検隊を描く映画「アギーレ/神の怒り」であった。

Fitz Aguirre_

ファミ・アルカイとアストル・ピアソラに共通するもの。それは一つの音楽ジャンルの境界線を越えようとする強靭な意志である。ふたりは革命家なのだ。そして彼らはフィツカラルドとアギーレの姿に二重写しになる。

物凄い音楽を聴いた。

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アントネッロの〈エソポのハブラス〉@兵庫芸文

11月3日兵庫県立芸術文化センター小ホールへ。

古楽アンサンブル「アントネッロ」を聴く。

Eso

〈エソポのハブラス〉とは、日本初の西洋文学の刊行物〈イソップ物語〉のこと。今から400年以上も前、安土桃山時代の出来事である。天正遣欧少年使節の帰国や鉄砲伝来と同時期にあたる。

  • パバナス(器楽)
  • 《恋人よ、あなたを見る時》(ソプラノ&テノール)
  • 《大いなる秘跡ゆえ》(ソプラノ&テノール)
  • イソップ『アリとセミ』
  • イソップ『ウサギとカメ』
  • イソップ『犬と肉』(ソプラノ)
    (アロンソ・ムダーラ《主が家を建てられるのでなければ》の替え歌)
  • イソップ『牛とオオカミ』
  • 《羊の世話をしてくれたら》(テノール)
  • ラス・バカス(器楽)
  • 《緑の野原にため息をつきに来てちょうだい》(ソプラノ&テノール)
  • 《君の町へ》(ソプラノ&テノール)
  • ファンタジア(器楽)
  • 《羊の世話をしてくれたら》による変奏曲(ハープ独奏)
  • 『出陣の法螺貝』
  • 《おろろんおろろん》(ソプラノ)
  • 《めでたし澄みきったワインの色》(テノール)
  • 《僕のかわいいヒョウタンちゃん》(テノール)
  • ハカラス(器楽)
  • イソップ『カラスと狐』
  • 《あなたから笑顔と元気を奪ったのは誰?》(ソプラノ)
  • 《ああ、美しい恋人よ》(テノール)
  • 《キスして抱きしめて》(ソプラノ&テノール)

物語仕立てで、時折スペインの古謡や踊り、天草の子守唄などが織り込まれる。

いやぁ愉しかった!異次元空間(ドリームタイム)に彷徨い込んだような、摩訶不思議な感覚を味わった。

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