クラシックの悦楽

真価が分かるまで、一朝一夕にはいかないクラシック音楽について語ろう。

僕がクラシック音楽を本格的に聴き始めたのは小学校4年生の頃である。きっかけとなったのはシモーネ/イ・ソリスティ・ヴェネティが来日し、地元・岡山での公演を聴きに行ったこと。その予習としてわが家にあったアーヨ(ソロ・ヴァイオリン)&イ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ「四季」のLPレコードを繰り返しかけた。

ヴィヴァルディ「四季」が入門として最適だったのは標題音楽だからである。物語があるので分かり易かった。

クラシック音楽を聴く初心者男性は大抵、標題音楽とか派手なオーケストラ曲が入口となる。女性だと幼少期からピアノを習っている場合が多く、ショパンやモーツァルトの器楽曲から入る場合もある。しかしそこから室内楽や、古楽(ルネサンス、バロック音楽)、現代音楽に進む人はごく一握りに過ぎない。

そこで僕がその魅力に開眼するに至るまで、数十年を要した作品を今回はご紹介していきたい。クラシック音楽の奥座敷会員制倶楽部へようこそ。若い人たちにとって、なんらかの参考になれば嬉しい。勿論、僕の意見を押し付けるつもりは毛頭ない。長く生きていると考え方(意識)や感じ方(感覚所与)に生成変化が起きることがある。そういうことを心に留めておいて欲しいのである。

1)J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ、チェロ組曲
2)J.S.バッハ:マタイ受難曲

3)ベートーヴェン:後期弦楽四重奏曲 第13−15番
、大フーガ
4)ベートーヴェン:後期ピアノソナタ 第30−32番

5)シューベルト:後期ピアノ・ソナタ 第19−21番

6)ショスタコーヴィッチ:ヴァイオリン・ソナタ、ヴィオラ・ソナタ

7)ショスタコーヴィチ:交響曲 第15番

8)モンテヴェルディ:聖母マリアの夕べの祈り
9)フランツ・シュミット:交響曲 第4番

ご多分に漏れず、僕も小学生の頃は交響曲や管弦楽曲、協奏曲ばかり聴いていた。中学生でオペラに目覚め、ヴェルディやプッチーニ、ワーグナーに夢中になった。大編成で派手に鳴る音楽ばかりである。それらに比べ室内楽は地味で、特にJ.S.バッハの無伴奏の楽曲なんて、「一体、これの何が面白いんだ?」とサッパリ解らなかった。結局、目覚めるまでに30年以上もの歳月を費やしてしまった。

バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ無伴奏チェロ組曲を一言で評すなら、故スティーブ・ジョブズの座右の銘が最も相応しいであろう。

洗練を極めると簡素(シンプル)になる
( Simplicity is the ultimate sophistication. )

これはiPhoneのデザインにも通じるし、日本の茶道や、枯山水にも当てはまるだろう。ジョブズは京都を愛し、俵屋旅館に泊まり、西芳寺(苔寺)などを訪ねた。またの思想に多大な影響を受けた。中・高校生が竜安寺の方丈庭園(石庭)を見学しても、その良さってなかなか理解出来ないでしょう?バッハの音楽も然り。わび(侘び)・さび(寂)は日本人の専売特許ではない。

マタイ受難曲は宗教曲ということで初心者には敷居が高い。僕も「キリスト教徒じゃないと関係ないんじゃないの?」と若い頃は思っていた。しかし作曲家・武満徹が死ぬ直前に病床で、ラジオから流れてきたこの曲を熱心に聴いていたというエピソードを知ってから俄然興味が湧いた。彼の心に去来したものは何だったのか?そのことについて考えたことを下の記事に書いた。

「マタイ」は人類にとって究極の音楽遺産である。〜すべての道はバッハに通ずことを、貴方も何時かきっと解る日が来るだろう。

Bach

2018年1月に雪で足を滑らせ頭を打ち、外傷性頭蓋内損傷のため死去した礒山雅・国立音楽大学招聘教授(享年71歳)はバッハ研究で名高い音楽学者だが、「聖母マリアの夕べの祈り」について次のようなことを書いている。

私が無人島に持っていきたい曲は、モンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈り Vespro della Beata Vergine》である。《マタイ受難曲》ではないのですか、とよくいわれるが、さすがの《マタイ》も《ヴェスプロ》の前では色褪せる、というのがかねてからの実感である。中世以来連綿と続いてきた、「マリア崇敬」の芸術――その頂点が美術ではラファエロの聖母像にあるとすれば、音楽では、間違いなくこの作品にあると思う。

<講談社学術文庫「バロック音楽名曲鑑賞辞典」より> 

聖母マリアの夕べの祈り」は1610年にヴェネツィア共和国で出版された。今から400年も前のことである。シェイクスピアの「マクベス」が上演されたという最古の記録が残っているのが1611年グローブ座なので、丁度同時代だ。日本では1603年に江戸幕府が開かれたばかり。気宇壮大で宇宙的広がりが感じられる音楽である。礒山氏も書いているが、モンテヴェルディが楽長も務めたヴェネツィアのサン・マルコ教会で1989年に収録されたジョン・エリオット・ガーディナー指揮/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団による演奏を収録した映像(DVD)をまず第一に推したい。また礒山氏が音楽ディレクターを務めた、いずみホール@大阪市で今年11月7日に《ヴェスプロ》が演奏される。詳しくはこちら。僕も聴きに行きます。そういえば礒山さんを最後にお見かけしたのは、イザベル・ファウストによるJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータの2夜連続全曲演奏会@いずみホールだった。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲だと、入門編として聴き易いのはラズモフスキー第1-3番(通し番号で第7−9番)だろう。そして第11番「セリオーソ」。しかし後期の第13番以降は掴みどころがなく、敷居が高い。まず4楽章形式ではなくなるし、〈第1楽章がソナタ形式で第2楽章が緩徐楽章……〉という「定形」から逸脱して、どんどん自由になってゆく。初心者には到底歯が立たない。しかし作品に何度も拒絶されながらも挑み続け、作曲家の孤高の境地(魂)に少しでも触れることが出来た時、高い山の山頂に立ったような得も知れぬ達成感が貴方を待ち受けている。それは無意識の深層に在り、における悟りの境地と言っても良いかも知れない。

同じことが後期ピアノ・ソナタにも言える。最初は表題のついた「悲愴」「月光」「熱情」「ワルトシュタイン」「告別」「テンペスト」あたりがとっつき易いだろう。しかしその更に奥に、深淵な世界が広がっているのだ。後期のソナタやカルテットの特徴はスケールが大きい変奏曲とフーガ。ベートーヴェンは明らかにJ.S.バッハに回帰しようと欲している。ゴルトベルク変奏曲や、数々のオルガン曲(「幻想曲とフーガ」「パッサカリアとフーガ」等)が彼の目指す先にある。

なお、高校の音楽科に通う学生たちを描く青春小説「船に乗れ!」の中で、作者の藤谷治は「ベートヴェンのピアノソナタ第28番、イ長調がこの世のすべてのピアノソナタの中で、一番好きだ」と書いている。この気持も共感出来る。

オーストリアのピアニスト、アルフレート・ブレンデルはベートーヴェンピアノ・ソナタ 第30-32番や、シューベルト後期ピアノ・ソナタ 第19−21番は、3曲まとめて1セットで考えるべきだと述べている。シューベルトの3曲は1828年9月、彼が死を迎える2ヶ月前に一気に書き上げられた。

シューベルトのピアノ・ソナタは冗長で退屈だとず〜っと思っていた。その深みに気が付いたのは、ほんのつい最近のことである。切掛はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したトルコ映画「雪の轍」に第20番の第2楽章が使用されていたこと。また第21番の第1楽章はアカデミー視覚効果賞を受賞したSF映画「エクス・マキナ」で流れた。

シューベルトは31歳の若さで没したが、自分自身の死期を悟っていた。梅毒感染を宣告され、その治療を受けていたのである。死を意識しながら後期ソナタを作曲したという点を抑えておくことが鑑賞する上でとても大切だ。第21番の第1楽章は左手が迫り来る死神を表現し、右手が美しく儚い白鳥の歌を歌う。詳しくは下記事に書いた。

ショスタコーヴィチの音楽は謎に満ちている。幾重にも屈折し、一筋縄ではいかない。彼のオペラ「ムツェンクス郡のマクベス夫人」はスターリンを激怒させ、1936年にソ連政府の機関紙「プラウダ」から痛烈な批判を浴びた。さらに1948年から58年まではジダーノフ批判に晒された。彼は国家から「革命に奉仕する芸術」、つまり社会主義リアリズムの精神に則ることを強制された。無茶苦茶な話だ。これに抵抗したショスタコは、如何にして政府高官を騙すかを徹底的に考え抜き、入念な偽装工作を自作に施した。つまり彼の本心を見抜くには覆われたベールを次から次へと剥いでいかなければならない。厄介だ。ことについては下記事で論じた。

最後の交響曲 第15番は1971年に書き上げられた。この頃作曲家は右手の麻痺と2度目の心臓発作に苦しんでいた。第1楽章についてショスタコは「玩具屋で起こるようなこと」と語ったことがある。拍子抜けするくらい軽い諧謔皮肉パロディ精神に満ち溢れ、《ウィリアム・テル》序曲からの引用もあり、サーカス小屋の雰囲気を感じるのは僕だけではないだろう。【笑い】は庶民が公権力に牙を剥き、"No."を突き付けるための方便だ。道化師の哀しみ。第2楽章は苦渋に満ちている。そして第4楽章はワーグナーの楽劇《ニーベルングの指環》から「運命の動機」が重要なモティーフとして引用される。続いて登場する旋律はグリンカの《故なく私を誘うな(悲歌)》。歌詞はこちら。「過ぎ去った日々を蒸し返すな/私の微睡みを妨げるな/寝させておいてくれ」はある意味、語り部の死を暗示させる。さらに、この3音はワーグナー《トリスタンとイゾルデ》前奏曲の冒頭部にも共通している。つまり終楽章は告別の歌なのだ。クルト・ザンデルリンク/クリーヴランド管弦楽団のCDでどうぞ。

1968年に作曲されたヴァイオリン・ソナタと75年に完成し、ショスタコ最後の作品となったヴィオラ・ソナタ諦念虚無に支配されている。スターリンやソビエト共産党との間で展開された死闘の果に、燃え尽きて真っ白な灰になった自画像が淡々と描かれる(漫画「あしたのジョー」の最後を想い出して欲しい)空恐ろしい音楽だ。

1934年に初演されたフランツ・シュミット交響曲 第4番については下記事で述べた。

日本では未だ知られていない作曲家の生涯、このシンフォニーが書かれた時の状況、ナチス・ドイツとの関係など詳しく書いたので参照されたい。お勧めのCDはメータ/ウィーン・フィルの演奏。また《デジタル・コンサートホール》に加入すれば、キリル・ペトレンコ/ベルリン・フィルの演奏で愉しむことも出来る。

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シリーズ【大指揮者列伝】ジョン・バルビローリ「バルビ節とは何か?」

ジョン・バルビローリ(1899-1970)はイギリスの指揮者。ロンドンに生まれた。本名ジョヴァンニ・バッティスタ・バルビロッリから推察される通り、父はイタリア人、母がフランス人である。つまり実際はイギリス人の血が一滴も流れていない

Barbirolli

実は彼が得意とするフレデリック・ディーリアスも「イギリスの作曲家」ということになっているが、両親の生まれはドイツで、オランダ系の血筋であった。父ユリウスがイングランドに移り住んだのは羊毛商人として一旗揚げるためであり、息子が作曲家になることに反対した父は彼に羊毛業を継がせようとし、それが駄目と解ると今度はオレンジのプランテーションを学ばせるためにアメリカのフロリダに送り出した。そこで生まれたのが「フロリダ組曲」である。閑話休題。

さて、サー・ジョンはチェリストとして音楽活動を始め、エルガーのチェロ協奏曲を演奏したりもした。その後指揮者に転向、30歳の若さでニューヨーク・フィルの首席指揮者に就任した。1943年イギリスに戻り、地方都市マンチェスターにあるハレ管弦楽団の音楽監督にとなった。当時は戦争中で、徴兵のために33人まで減っていた楽員の補充を女性中心に始め、手塩にかけて育成した。両者の親密な関係は彼の死まで27年間続いた。70年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団を率いて来日する予定だったが、その直前に心臓発作で急逝した。

サー・ジョンの指揮の最大の特徴は3つ挙げられるだろう。

  1. 慈愛
  2. カンタービレ cantabile
  3. 没入感

1)音楽が慈しむように奏でられる。そこにサー・ジョンの無限の包容力が感じられる。

2)兎に角、よく歌う。それはサー・ジョンに流れるイタリア人と密接に結びついている。つまりカンツォーネのノリだ。彼はヴェルディ「アイーダ」「オテロ」、プッチーニ「蝶々夫人」など、イタリア・オペラを得意とした。巷で言われる「バルビ節」の正体は、ずばりこのカンタービレのことである。

3)問答無用、聴けば分る。

では代表的名盤を挙げよう。全てナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)で聴くことが出来る。

  • エルガー:チェロ協奏曲
    (独奏:ジャクリーヌ・デュ・プレ、ロンドン響)
  • シベリウス:交響曲第2番(ロイヤル・フィル)
  • 「イギリス弦楽合奏作品集」エルガー:序奏とアレグロ ほか
    (シンフォニア・オブ・ロンドン)
  • ディーリアス:管弦楽曲集「夏の歌」「夏の庭で」ほか
    (ロンドン響、ハレ管)
  • マーラー:交響曲第9番(ベルリン・フィル)
  • ブラームス:交響曲第2番、ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲 第6番
    (バイエルン放送交響楽団)

エルガーの協奏曲はジャクリーヌの性格も相まって、正に「一音入魂」とはこの録音のためにある言葉だと確信させられる。没入感が凄まじい。怖いくらいだ。ーみじかくも美しく燃えー 聴く度にタジタジとする、一世一代の名演。

サー・ジョンは手兵のハレ管とシベリウスの交響曲全集を録音している。ただ残念なのはハレ管は所詮、2.5流のオーケストラであり、聴いていてどうも居心地が悪い。だから英国のレーベル・EMIはもっと格上のオーケストラ、例えばニュー・フィルハーモニア管(二流)とか、ロンドン響(一流)と組ませようと、涙ぐましい努力をした形跡がある。ブラームスの交響曲全集では天下のウィーン・フィル(超一流)を用意した。日本で言えばロンドン響=NHK交響楽団/東京交響楽団、ハレ管=関西フィル/大阪フィルと考えてもらえば理解し易いだろう。ニュー・フィルハーモニア管はさだめし、京都市交響楽団あたりかな。

今回挙げたロイヤル・フィルとのシベリウス2番は演奏の質もすこぶる良いし、何よりも米国チェスキー・レーベルによる録音が圧巻である。アナログ時代に於ける最高峰と断じても過言ではない。火の玉のように熱く燃え上がるシベリウスで、未だに同曲のベストだろう。「名曲名盤300 ベスト・ディスクはこれだ!」などを読むと、時々バルビローリ/ハレ管のシベリウスを挙げる批評家は見かけるが、このチェスキー盤に言及する人は皆無である。「貴方たちの耳は節穴か!」と言いたい。

「イギリス弦楽合奏作品集」は豊穣な響き、弦の粘りに魅了される。これはサー・ジョンが元々チェリストであったことと無関係ではあるまい。特にエルガーの序奏とアレグロは超絶的名演。涙が出る。心を鷲掴みにされる体験をどうぞ。

夏といえばディーリアス。そこに異論を差し挟む余地はない。そしてサー・ジョンのディーリアスは慈しむように育まれた音楽の果実であり、たおやかで滋味に富む。彼の優しく、情け深い人格が滲み出ているかのようだ。「夏の歌 A Song of Summer」「夏の庭で In a Summer Garden」ーもう最高。

Song

サー・ジョンはベルリン・フィルとライヴでマーラーの交響曲第1番から6番までを演奏している。1964年、第9番のセッション・レコーディングは彼の客演を体験し、感動した楽員からの熱心な要望で実現したという。カラヤン/ベルリン・フィルのマーラー初録音は1973年の第5番なので、それよりもずっと前のことになる。当時サー・ジョンはEMIと、ベルリン・フィルは独グラモフォンと専属契約を結んでいたので、グラモフォンがオケをEMIに貸し出すという形で実現した。弦の強奏が印象的。

バイエルン放送響との録音は1970年4月10日。サー・ジョンが亡くなるのが同じ年の7月29日である。これほど歌心に満ち溢れたブラームスを僕は他に知らない。時折彼の唸り声が聴こえる。因みにレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第8番はサー・ジョンに献呈され、彼が指揮するハレ管が初演した。

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菊池洋子が弾くモーツァルト@兵庫芸文

6月30日(土)兵庫芸術文化センターへ。

Kiku

菊池洋子のピアノで、オール・モーツァルト・プログラム。

  • ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333
  • ロンド ニ長調 K.485
  • 幻想曲 ニ短調 K.397
  • ピアノ・ソナタ 第18(17)番  ニ長調 K.576
  • ピアノ・ソナタ 第9(8)番  イ短調 K.310
  • ピアノ・ソナタ 第11番「トルコ行進曲つき」
  • リスト編曲:アヴェ・ヴェルム・コルプス(アンコール)

菊池はモーツァルト国際コンクールで日本人として初めて優勝。フォルテピアノの弾き手でもあるが、今回はモダン・ピアノを使用。

演奏は軽やかでキレがある。低音がしっかりと鳴り、きれいな音のピラミッドを形作る。達者で活きが良い。

ウクライナ(帝政ロシア)生まれの名ピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツは嘗て「東洋人と女にはピアノは弾けない」と言い放った。1965年にマルタ・アルゲリッチがショパン国際ピアノコンクールで優勝して以降、そんな妄言を吐く人間はいなくなったが、少なくとも彼女の登場以前、世間でそう思われていたことは紛れもない事実である。アルゲリッチ以前のイングリット・ヘブラーとかクララ・ハスキルとかは、単に「モーツァルトが得意なピアニスト」としてしか認知されていなかった。それは言い換えるなら「彼女たちが弾くモーツァルト以外のレパートリーは聴く価値がない」と見做されていたことを意味する。

僕が小学校4年生ぐらいの時に初めてモーツァルトのソナタを聴いたのも、ヘブラーが録音したLPレコードだった。「トルコ行進曲つき」を聴くと、否応なく幼少期の想い出が懐かしく蘇ってくる。それは母の懐に抱かれているような、ゆりかごでうたた寝をしているような感覚だ。

ニ長調のソナタK.576はスキップし、イ短調のソナタK.310は激しい感情が溢れ、決然と進行する。第3楽章は小林秀雄の論評「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」がぴったりきた。「トルコ行進曲」は敏捷で、瞬発力があった。

菊池の解釈は、ヘブラーと比べると断然モダンでスタイリッシュ。次回は彼女のフォルテピアノも聴いてみたい。

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シリーズ【大指揮者列伝】クリストフ・フォン・ドホナーニを知っていますか?

クリストフ・フォン・ドホナーニは1929年ドイツで生まれた。祖父はハンガリーの著名な作曲家エルンスト・フォン・ドホナーニ。父ハンス・フォン・ドホナーニは1902年ウィーンに生まれ、ドイツで法律家となり、反ナチスのレジスタンス活動に身を投じた。ヒトラー暗殺計画に加担したためキリスト教神学者だった叔父ともども1945年4月8日に強制収容所で処刑された。享年43歳。ドイツが無条件降伏したのは6月5日、たった2ヶ月後のことである。2003年イスラエルは彼の功績を讃え、ヤド・ヴァシェム(ホロコースト)記念館の壁にドホナーニの名を刻んだ。

Doh
(↑ハンス・フォン・ドホナーニ生誕100年を記念したドイツの切手)

父がナチスに殺された時、クリストフは15歳だった。彼の解釈に何か音楽を突き放して見つめているような冷めた視線を感じるのは、恐らくその根底に人間不信があるからではないかと僕は考えている。感情移入した(emotional)とか、情熱的(passionate)といった言葉とは対極にある芸術諦念虚無感が支配する世界と言い換えても良いだろう。なおクリストフの兄クラウスは政治の道に進み、ハンブルク市長を務めた。超エリート一家である。

辰巳渚
辰巳渚

クリストフ・フォン・ドホナーニはウィーン・フィルと英デッカにメンデルスゾーン:交響曲全集、ベルクのオペラ「ヴォツェック」「ルル」など夥しい録音を行ったが、恐らく1995年のブラームス/シェーンベルク編:ピアノ四重奏曲第1番 他のCDが最後だろう。その後両者の関係はプツリと途絶えてしまう。1984-2002年にクリーヴランド管弦楽団の音楽監督、97-08年にフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者を務めた。2004年から北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者となったが、だんだん携わるオケの質が低下していると感じるのは僕だけだろうか?

悲惨だったのがデッカにクリーヴランド管弦楽団と全曲レコーディングしようとしたワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」4部作だ。序夜「ラインの黄金」は93年12月に、第一夜「ワルキューレ」は92年11月に録られた。デッカとしてもショルティ/ウィーン・フィル(1958-65)以来、久々(2度目)のスタジオ録音になる筈だった。しかし計画は途中で頓挫、第二夜「ジークフリート」以降は実現しなかった。なんと中途半端な!前代未聞の醜聞(スキャンダル)!!

結局デッカとの契約はあと5年残されていたのに、首を切られてしまった。人気がなくCDが全く売れなかったとはいえ、酷い話だ。新譜が出ないから日本でも忘れ去られ、近年では「え、未だ生きてたの?」「引退したんじゃない?」とSNSで囁かれる始末。88歳、バリバリの現役です。ヘルベルト・ブロムシュテットより2歳若い。2018年もパリ管の指揮台に立っている。

どっこい生きている。

ドホナーニの特徴はまず明晰であること。セッション録音の技術も相まってだろうが解像度が高く、オーケストレーションの細部まで隈無く聴こえる。見通しが良く非常に精緻だ。そしてバーンスタインとか大植英次みたいな「オレ流」、つまり主観的表現ではなくあくまで客観的。音楽そのものに語らせる。ドホナーニは作品(楽譜)になにも足さないし、なにも引かない。タメとか外連味とかとは無縁で、大見得を切ったりはしない。でも、神は細部に宿る。だからといって冷え切った(cold)とか、よそよそしいということもない。せいぜい人肌程度の温もりはある。レニーみたいに熱くならないだけだ。日本酒で喩えるなら凍結酒ではなく、「ぬる燗」。

彼の指揮するブラームス:交響曲第1番 第1楽章は「ダ・ダ・ダ・ダン」という「運命」の動機(モティーフ)が、他の指揮者の誰よりも鮮明に聴こえてくる。だからこそこのシンフォニーが「ベートーヴェンの第10交響曲」と呼ばれる理由が了解出来るのだ。因みに調性はハ短調であり、ベートーヴェンの第5番と同一。アーノンクールは「死を意味する調性」だと語っている。

クリーヴランド管とはブルックナーのシンフォニーを3−9番まで録音した。贅肉を削ぎ落としたスリムな響きで、淀むことなく素っ気ないくらいサクサク進む。鈍重でソース焼きそばのようにこってりした朝比奈隆の信者(ブルヲタ←ほぼ全員男性)が多い日本で、決して粘らず、あっさり爽やか透明な彼のブルックナーは「物足りない」「神々しさがない(←そもそもドホナーニはキリスト教の神を信じていない)」「こんなのブルックナーじゃない!」と非難轟々、散々こき下ろされた(ドホナーニは塩焼きそば。或いは朝比奈=豚骨ラーメンに対する、ざるそばと評しても良いかも知れない)。しかしフルトヴェングラー、カラヤン、ベーム、ヴァントなど重厚な大巨匠の時代が終わり、「颯爽とした」「軽い」ピリオド・アプローチ(アーノンクール、ガーディナー、ノリントン、ラトル、ミンコフスキ、パーヴォ・ヤルヴィ、ロト、クルレンツィスら)の洗礼を受けた21世紀のいま見直すと、新鮮な驚きや発見がある。そろそろドホナーニも再評価されて良いのではないだろうか?

それにしてもドホナーニ時代クリーヴランド管の鉄壁のアンサンブルは驚異的だ。ジョージ・セルの死後、ロリン・マゼール統治下の低迷期を抜けて、第2の黄金期を築いたと言っても過言ではなかろう。

最後に推薦ディスクをご紹介しよう。本来ならドホナーニを語る上でオペラは外せない。ベルク「ヴォツェック」「ルル」そしてR.シュトラウス「サロメ」「エレクトラ」といったところが代表的演目だろう。しかしオペラを聴覚のみで鑑賞することは決してお勧めしない。歌詞対訳なしでは十分な理解を得られないし、その条件を満たす(日本語で書かれたテキストが付随する)国内盤CDを入手することは現在、ほぼ不可能だ。というわけで、彼が振るオペラをお愉しみになりたければDVDでご鑑賞ください。

更にクリーヴランド管とレコーディングしたブルックナー交響曲集や、ベートーヴェン&ブラームス交響曲全集のCDは現在極めて入手困難な状況である。そもそも今やCDを買う時代ですらない握手券としてのCDの価値は唯一の例外とする)。それは既に骨董品収集家(マニア)=化石人類の領域だ。世界の趨勢はダウンロードや配信サーヴィスであり、未だにCDが売れているのは日本だけ。(アイドル・ヲタ以外の)日本の高校生の殆どがCDを一度も買ったことがないというのが実情である。故に推薦アルバムはiTunesでダウンロード出来たり、Amazon MusicやNaxos Music Library (NML)で聴けるものに絞った。

  • メンデルスゾーン:交響曲全集 ウィーン・フィル
    (強いて一曲に絞るなら「スコットランド」)
  • ドヴォルザーク:交響曲 第7−9番 クリーヴランド管
    (強いて一曲に絞るなら「新世界より」)
  • ベルリオーズ:幻想交響曲 クリーヴランド管
  • バルトーク/ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲 クリーヴランド管
  • ショスタコーヴィチ:交響曲 第10番 クリーヴランド管
  • マーラー:交響曲 第6番 クリーヴランド管

ショスタコーヴィチはヒリヒリするくらい非情で無機質。スターリン政治の恐怖が浮き彫りにされる。ベルリオーズにファンタジーは皆無で、あちらこちらから研ぎ澄まされた狂気が迸る。また眼前に寂寞として荒涼たる景色が果てしなく広がるマーラーを聴きながら心に浮かぶのは、ダンテ「神曲」地獄篇に登場する《この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ》という銘文である。余談だが、未完に終わったマーラーの交響曲第10番 第3楽章は楽譜に「プルガトリオ(煉獄)」と書かれている。マーラーがダンテを読んでいたことは間違いない。

さて、次回のシリーズ【大指揮者列伝】はイギリスの指揮者ジョン・バルビローリ(Sir John)を取り上げる予定。「バルビ節」とは何か?を紐解いていこう。7月中には記事をupしたい。何しろ夏といえばディーリアスの季節だから。

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藤岡幸夫/関西フィルのシベリウス第1番と、《大島ミチルーヘッセーユングー仏教》complex(複合体)

6月21日(木)ザ・シンフォニーホールへ。藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

Kan

  • 大島ミチル:オーケストラと合唱のための組曲《アウグストゥス》
    ~ヘルマン・ヘッセの短編集『メルヒェン』より~ (世界初演)
  • 大島ミチル:《塵JIN》&《輪RIN》  ~クラリネット、マリンバ、
    オーケストラのための2つのラプソディ~ (世界初演)
  • シベリウス:交響曲第1番

合唱は大阪府立夕陽丘高等学校音楽科、クラリネットはリチャード・ストルツマン、マリンバはミカ・ストルツマン(旧姓:吉田ミカ、熊本県天草市出身、ニューヨーク在住)。

大島ミチルは子供の頃読んで大好きだったというヘルマン・ヘッセの短編集「メルヒェン」の中から「アウグストゥス」という小説を元に、自ら詞を作り上げた。こんな物語だ。

アウグストゥスという名の少年が生まれた時、未亡人となった母は隣人の不思議なおじいさんビンスヴァンゲンから「望みを一つだけ叶えてあげよう」と言われ、息子が「誰からも愛される人に」と願う(天使の笛の音が聴こえる)。その通り少年は誰からも愛され、チヤホヤされるのが当たり前の生活を送った挙げ句の果てに彼は故郷を捨て、ひとり旅立つ。天使の音楽は聴こえなくなり、母は孤独に死ぬ。凛々しい青年に成長した彼は社交界で放蕩の限りを尽くし、友を騙し、貴婦人と愛欲生活に浸るが、やがて虚しさを感じて自殺を図る。そこにドアがノックされ、ビンスヴァンゲンが現れる。「君の母の願いを叶えたが、愚かなことだった。いまの君に欠けているものを与えたい。望みを一つだけ叶えてあげよう」と言う。アウグストゥスは「これからは僕が人を愛することが出来ますように」と願う。周囲の態度は一変した。「お前は詐欺師だ!」「悪魔だ!」「金を返せ!」と罵倒され、ついに投獄される。牢獄を出た時には既に老いていた。もう誰も彼を知らない。しかし彼は幸福を感じる。みんなを愛しているし、何もかもが美しく愛おしい。冬が来てアウグストゥスは故郷に帰る。ビンスヴァンゲンに「素晴らしい旅だった。だけど僕は少し疲れてしまった」と告げ、眠りに就く。彼は天に向かう扉へ少しずつ近づく。そこに子供の頃のように天使の音楽が聴こえてくる。「おやすみアウグストゥス」愛してる。「アーメン」

小説の存在すら今まで全く知らなかったが、僕はこの合唱曲を聴きながら円環構造があることに気が付いた。少年が生まれ(天使の音楽+)、旅立ち(天使の音楽ー)、回帰して死ぬ(天使の音楽+)。そして頭に浮かんだ映像のイメージはチベット仏教の曼荼羅図であり、禅宗における円相だった(映画「メッセージ」"Arrival"を参考にされたし)。

En

スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは1912年頃より自分の無意識の世界と対決をはじめ、凄まじいヴィジョンと夢に悩まされる。そして1916年に最初の曼荼羅図形を書いた。

Mandala

後に彼は中国研究の権威リヒャルト・ヴィルヘルムからチベット仏教の曼荼羅を紹介され、自分が書いたものと余りにも似ていることに驚いた。これこそ集合的無意識(Collective unconscious=Cの世界)の産物であると言えるだろう。

ヘルマン・ヘッセは仏陀の本名を冠した「シッダールタ」という小説を書いている。彼は第一次世界大戦の影響で、深い精神的危機を経験した(父の死や妻の精神病悪化が重なった)。彼は小さな村で静養をしながら、ユングの弟子である精神分析医ヨーゼフ・ベルンハルト・ラング博士の診察を72回受けた(博士は彼に絵を描くことを勧めたという)。そうして完成したのが「デミアン」である。その後ヘッセはユング本人とも親交を深め、ユングが設立した「心理学クラブ」を訪れた記録も残っている。

ユングは「元型」という集合的無意識内に住む住人(アーキタイプ)の概念を提示した。「太母(the Great Mother)」「アニマ(女性像)」「アニムス(男性像)」に並び、「老賢人(the Wise Old Man)」がいる。「アウグストゥス」に登場するビンスヴァンゲンこそ、正に「老賢者」なのである。つまりこの小説は「アーメン」など表層はキリスト教の偽装をしているが、その深層には仏教の思想が根を張っていると言えるだろう。

20世紀フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースは著書「親族の基本構造」の中で、オーストラリアの原住民らを研究し、近親相姦の禁忌と、母方交叉イトコ婚が推奨されるのは何故かを解明した。そこには「女性の交換」という原理があった。人間社会の基本はコミュニケーションであり、それは言葉や物(お金を含む)を交換することにある。ではアウグストゥスの場合はどうか?若い頃の彼は一方的に愛された(贈与の一方通行)。だから幸福になれなかった。しかし年老いた彼は愛す(お返しをする)ことで交換が成立し、初めて「人間」になれたのである。

第1幕はメルヒェン、第2幕で子供の無邪気さが描かれ、第3幕は円舞曲。そして第4幕で激情が走り、魂の救済で幕が閉じられる。大変美しい音楽で深く感銘を受けた。老賢者ビンスヴァンゲンとアウグストゥスが会話する場面で何だかミクロス・ローザ(ロージャ・ミクローシュ)作曲「ベン・ハー」風になるのが可笑しかった(イエス・キリスト登場シーン)。

続く珍しい楽器の組み合わせ(吹奏楽器クラリネットと打楽器マリンバ)によるコンチェルトは第1曲が「塵」。仏教用語で煩悩や感覚の対象だそう。第2曲が「輪(わ)」。円環の理(ことわり)でヘッセに繋がっている。登壇した大島ミチルは「音色を楽しんで欲しい」と語ったが、冒頭は独奏者のみの演奏で、スロー・テンポで開始される。「節回しがコープランドを彷彿とさせるな」と想いながら聴いていると次第に速くなり、Jazzyに。第2曲は西部劇調(「ロデオ」「ビリー・ザ・キッド」)の音楽にミニマル・ミュージック(パターン化された短い音型が反復される=永劫回帰)の要素が加味され、これぞアメリカン!引き出しの多い作曲家だなとほとほと感心した。いやー、スリリングで面白かった!

プログラム後半は藤岡幸夫渾身のシベリウス。関西フィルとこのシンフォニーを演奏するのは6回目であり、自家薬籠中の物としている。藤岡はイギリスのハレ管弦楽団定期にデビューした時もこのシベリウス1番を取り上げたという(なんと豪胆な)!ハレ管はジョン・バルビローリが手塩にかけて育てたオーケストラであり、シベリウス自身も指揮台に立った。藤岡によるとハレの楽員から色々教えてもらい、第1楽章冒頭クラリネット・ソロのあと弦楽器のトレモロが続く箇所で作曲家は「ここは吹雪だ」と言ったそう。第3楽章はPirate(海賊)。

藤岡の解釈はゆったりとして雄大。そして熱い。ギラギラしていてマグマが噴き出すかのよう。第2楽章中間部は激情が走る!第3楽章スケルツォは狂騒。そして第4楽章は堂々たる横綱相撲。圧巻だった。ライヴレコーディングによるCDの全集が楽しみだ。

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トリオ・ヴァンダラー@兵庫芸文

6月16日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。トリオ・ヴァンダラーを聴く。1987年にパリで結成された常設のピアノ三重奏団で、シューベルトの「さすらい人」から名前を採られている。88年にミュンヘン国際コンクールで優勝。

実は常設のピアノ三重奏団って世界的に見ても珍しい。例えば日本人が結成した弦楽四重奏団ならクァルテット エクセルシオとかロータス・カルテット、解散した東京クヮルテットとかあるけれど、ピアノ・トリオは聞いたことないでしょう?

嘗てはチェコのスーク・トリオとか、アメリカのボザール・トリオ、ロシアのボロディン・トリオ等あったが、皆解散してしまった。だから現役ではトリオ・ヴァンダラーが恐らく実力No.1だろう。

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  • ハイドン:ピアノ三重奏曲 第41番
  • ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 第7番「大公」
  • シューベルト:ピアノ三重奏曲 第2番

ハイドンは悲劇の予感が漂う。ピアノが華やか。

「大公」は音の波がうねり、グルーヴ(高揚感)があった。ヴァイオリンは抑制が効いており、しかしいざという時はちゃんと前に出て主導権を握る。

僕は中学生の頃から明朗なシューベルトのピアノ・トリオ第1番を愛聴していた。しかし第2番は正直今まで面と向かって聴いたことがなかった。今回の演奏会で初めてこの曲の魅力に開眼した次第である。

本作は1827年11月に作曲されたとされ、D929である。未完成交響楽や交響曲 ハ長調「ザ・グレート」、最後の弦楽四重奏曲 第15番 (D887)より後で、翌28年9月(死の直前)に最後のピアノ・ソナタ第19−21 番(D958-960)が作曲された。つまりすでに梅毒の宣告を受け、死を意識していた時期の作品である。

もののあわれとか、生きる哀しみをひたひたと感じさせる音楽だ。第2楽章アンダンテはピアノ伴奏の上にチェロが主題を奏で、まるでバリトンが歌う歌曲集「冬の旅」のよう。ホールが寂寞とした雰囲気に包まれた。

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またアンコールのドゥムキーが最高に素晴らしかった!是非次回来日時には全曲を聴きたい。

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アルテミス・カルテット@兵庫芸文

6月10日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。アルテミス・カルテットを聴く。

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  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第3番
  • ヤナーチェク:弦楽四重奏曲 第1番「クロイツェル・ソナタ」
  • モーツァルト:弦楽四重奏曲 第19番「不協和音」
  • メンデルスゾーン:SQ  No.3 第3楽章 アンダンテ(アンコール)
  • J.S.バッハ:四声のコラール「聖霊の豊かなる恵みを」(アンコール)
ベルリンを拠点に活動する彼らの演奏を前回聴いた感想は下記。
15年にヴィオラ奏者フリーデマン・ヴァイグルが亡くなり、第2ヴァイオリンのグレゴール・ジーグルがヴィオラに移ってアンシア・クレストンを新たに迎えた。創立メンバーで残っているのはチェロのエッカート・ルンゲのみ。

しなやかで力強く、一糸乱れぬ緊密なアンサンブルを堪能した。

ヤナーチェクは艶っぽい。そのことはオペラ「利口な女狐の物語」で痛感した。そして彼の弦楽四重奏曲 第1番、第2番は正真正銘、不倫音楽である。
内面から迸る情熱と、闇を引き裂く叫び、そこには狂気があった。

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アカデミー作品賞ノミネート/ゲイ映画「君の名前で僕を呼んで」にラヴェルの音楽が流れる理由(わけ)

評価:B

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アカデミー賞で脚色賞(ジェームズ・アイヴォリー)を受賞、ほか作品賞・主演男優賞(ティモシー・シャラメ)・歌曲賞の計4部門にノミネートされた。監督はイタリア人ルカ・グァダニーノ。映画公式サイトはこちら

ジェームズ・アイヴォリーといえば「眺めのいい部屋」(1986)、ハワーズ・エンド(92)、そして(ノーベル文学賞を受賞した)カズオ・イシグロ原作「日の名残り」(93)など文芸映画を撮らせたら超一級の監督という印象があった。しかし最近、名前を聞かないなぁと思っていたら久々の復活である。なんと現在89歳、アカデミー賞史上最年長での受賞(全部門)となった。企画初期の段階ではアイヴォリーも共同監督を務める予定だったが、フランスの出資者から(2人が撮影現場で対立するんじゃないかと)懸念が出て、結局身を引いたという。

本作の話題で初めて知ったのだが、アイヴォリー自身がゲイだったそう。ところが公私にわたり長年パートナーだった映画プロデューサーのイスマイル・マーチャントが2005年に亡くなってしまった(1961年にMerchant Ivory Productionsを設立)。それで意気消沈し、すっかり創作意欲を失っていたということらしい。

考えてみればE.M.フォースター原作「モーリス」(87)もバリバリのゲイ映画であった。

英ガーディアン紙のインタビュー記事でアイヴォリーは、「君の名前で僕を呼んで」に下半身を露出したヌードシーンがないことに不満を持っていると述べている。シャラメ君とアーミー・ハマーの出演契約にフルヌードが禁止条項として盛り込まれていたためだという。

本作を観た率直な感想を言えば、結局同性愛という設定を男女に変換してみれば、割とありきたりな恋愛(はつ恋の)映画だな、と。それは同様のテーマを持つ「キャロル」とか、アン・リーがアカデミー監督賞を受賞した「ブロークバック・マウンテン」にも感じたことである。

シャラメ君演じる主人公エリオは17歳であり、女の子にも興味があって、同性愛者というよりは、思春期特有の両性愛的感情のように僕には思われた。

舞台が北イタリアなので、イギリスの令嬢がイタリアのフィレンツェを訪れ、そこで恋に落ちるアイヴォリー監督「眺めのいい部屋」のことを想い出した。そういう意味でアイヴォリー色が色濃い。

物語の設定は1983年。街にダスティン・ホフマン主演、映画「トッツィー」のポスターが張ってあり、映画「フラッシュダンス」の挿入歌"Lady,Lady,Lady"(作曲はイタリア生まれのジョルジオ・モロダー)に乗って踊る場面もある。当時僕は高校生だったが「トッツィー」も「フラッシュダンス」も映画館で観ているので、なんだか懐かしかった。

本作は全編に渡ってピアノ曲に彩られている。冒頭シャラメ君が弾いているのはJ.S.バッハのカンタータ「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」。そして彼が次第に恋に落ちると、フランス印象派の作曲家モーリス・ラヴェルのピアノ組曲「鏡」より”海原の小舟”が断片的に流れ始める。そして同じラヴェルの「マ・メール・ロワ」から”妖精の庭”も使用されている。何故ラヴェルなのか?実は既に10年前、拙ブログ記事にその答えを書いていた。

”海原の小舟”は高速アルベジオ(分散和音)が水の煌めきを巧みに表現しており、正に「ときめく」感情にピッタリと寄り添っている。

2020年に続編製作が予定されており、グァダニーノの構想ではリチャード・リンクレイター監督のビフォア・シリーズ(Before Sunrise、Before Sunset、Before Midnight )のようにしたいとのこと。

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神話の構造「スター・ウォーズ」と「指輪物語」&「ニーベルングの指環」

1876年に第1回バイロイト音楽祭において初演されたワーグナーの「ニーベルングの指環」4部作は北欧神話に基づいている。J・R・R・トールキンの「指輪物語」(The Lord of the Rings)は1954-5年に出版され、それに先立って「ホビットの冒険」が37年に出版された。そして1977年にジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」が公開される。

以下、この3作品の構造が全く同じであることを証明していくが、そこに宮﨑駿「崖の上のポニョ」も絡めたい。ポニョの父フジモトは彼女のことを”ブリュンヒルデ”と呼ぶ。「ニーベルングの指環」の登場人物である。つまり彼女と妹たちはワルキューレ(北欧神話に登場する半神)なのだ。ポニョが津波の上に立ち宗介のところに現れる場面で久石譲の音楽がワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」にそっくりなのは決して偶然じゃない。「ニーベルングの指環」で【神々の黄昏→人類の台頭】が描かれるのに対し、「ポニョ」は【人間の時代の終焉→新人類(ポニョと宗介の子供= a Star Child)誕生】をテーマにしている。洪水の後に古代デボン紀の水中生物たちが現れるのはそのためである(公式サイトへ)。なお「スター・ウォーズ」で作曲家ジョン・ウィリアムズが採用したライトモティーフ(示導動機)の手法は「ニーベルングの指環」に由来する。

構造分析はフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)の手法に倣った。

「ニーベルングの指環」のあらすじはこちら。人物相関図はこちら。「指輪物語」の概要についてはこちらとか、こちらの年表をご参照あれ。

「ニーベルングの指環」では

  • ヴォータンの支配する天上の神々の世界↔地下のニーベルング族《垂直方向の差異

という二項対立があり、その中間地点=地上の人間世界では

  • ヴェルズング族(ジークムント、ジークリンデ)↔フルンディングの一族

という二項対立がある。ジークムント、ジークリンデはヴォータンが人間に産ませた双子の兄妹なので

  • 神々(その長がヴォータン)↔フルンディング(人間界)

の相克にも置き換えられる。これが最終夜「神々の黄昏」では

  • ジークフリート(ジークムントとジークリンデの間に生まれた息子)↔グンター(ライン河畔ギービッヒ家の当主)+ハーゲン(グンターの異父兄弟、父はニーベルング族のアルベリヒ)

となる。

「指輪物語」では

  • 冥王サウロン+サルマン(白の魔法使い)↔人間+エルフ(自然と豊かさを司る半神)+ガンダルフ(灰色の魔法使い)《水平方向の差異

「スター・ウォーズ」では

  • 銀河共和国(滅亡後はレジスタンス)&ジェダイの騎士(白っぽい服装)↔銀河帝国(シスの暗黒卿、ダース・ベイダー)(黒っぽい服装)《光と闇、明度の差異

変換される。ここで興味深いのが「指輪物語」で魔法使いが両陣営に分かれていること。「スター・ウォーズ」でもジェダイの騎士が light sideとdark side両方に布陣している。これに相当するのが「ニーベルング」では人間である。【神と結合し、子(ジークムントとジークリンデ)を産む女↔地下世界の住人ニーベルング族と結合し、子(ハーゲン)を産む女】

では上述した二項対立を結び、その境界を超え循環する第三項は何か?「ニーベルング」「指輪物語」については言うまでもなく指輪であり、「スター・ウォーズ」ではForce(日本語では〈理力〉〈霊力〉、中国語では〈原力〉と訳された)が該当する。指輪フォースも絶大な力を秘めていることは確かだが、その実態はよく判らない(指輪の場合は欲望のメタファーでもある)。得体が知れない。レヴィ=ストロースはこれをゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)と名付けた。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。そしてゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシア(オセアニア)の原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。ジャック・ラカン(1901-81)の精神分析においてその機能を果たすのは「ファルス」(象徴的な男根)と言える。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)は浮遊する過剰シニフィアンである。意味が無いのではなく、その多義性に特徴がある。なお「ハリー・ポッター」シリーズにおけるゼロ記号は勿論、魔法だ。

「ニーベルングの指環」ではライン川の3人の乙女が守る黄金を地底の住人アルベリヒが奪い、鍛えて指輪を造る。最終的にブリュンヒルデの手で指輪はラインの乙女たちのもとに戻る。その時、ライン川が氾濫し大洪水が発生する。「指輪物語」においてサウロンはモルドールにある滅びの山(火山)の火口で金属を鍛えて指輪を造る。そして最終的にフロドが滅びの山の火口に指輪を葬る。その行為は大噴火というカタストロフィー(破滅的な災害)を起こす《からへの変換》。両者に共通するのは「一体化していたあるものを無理矢理引き剥がし過渡の分離をしたために起こった混乱・無秩序・悲劇を解消するために、仲介者がそれを本来あるべき場所に戻す」という構造(プロット)である。また「指輪物語」では白の魔法使いサルマンの居城があるアイゼンガルドをエント(木に似た巨人)がアイゼン川のを引き入れて水没させる。では「スター・ウォーズ」の場合はどうだろう?フォースという神秘的な力を持つアナキン・スカイウォーカー(=ダース・ベイダー)はダース・シディアス(シスの暗黒卿/パルパティーン)の計略にはまり、妻や子供たちと引き離される。しかし最後に、家族のもとに還る(エピソード6 ジェダイの帰還)。その際に核爆発によるデス・スター内部からの崩壊=カタストロフィーが発生する(初代および第2デス・スター、そしてエピソード7のスターキラー基地は全て同じ運命をたどる)。大洪水火山の噴火核爆発ーこれら「すべてを呑み込む」性質(昔話では山姥、ユング心理学におけるグレートマザー/太母に相当)は不変である。

洪水という主題は「崖の上のポニョ」にも現れる。旧約聖書では言うまでもなく《ノアの方舟》だ。

「スター・ウォーズ」におけるR2-D2とC-3POの役割は傍観者/語り部で、かつコメディリリーフだ。つまり彼らは(二項対立の)境界を超え、行き来するトリックスターである。その直接の影響が黒澤明「隠し砦の三悪人」であることは余りにも有名だが、「指輪物語」の中ではさしずめホビットが該当しよう。”語り部”の役割はビルボ・バギンズ→フロド・バギンズに、”コメディリリーフ”の役割はピピンとメリーが分け合い担っている。シェイクスピア「夏の夜の夢」のトリックスター・妖精パックも語り部であり、劇の最後に口上を述べる。「指輪物語」に於けるトリックスターはの神ローゲ(北欧神話のロキLoki)だろう。ローゲはいたずら好きで狡猾な半神だ。つまり人間と神の境界に潜む。神出鬼没であり、「ワルキューレ」ではヴォータンからの召喚に応じ岩山のブリュンヒルデを魔ので囲む。そして「神々の黄昏」では神々の居城=ヴァルハラ城を焼き尽くす。トリックスターの面目躍如である(ロキは「終わらせる者」という意で、両性具有であるという)。ギリシャ神話のトリックスター・プロメテウスは神の世界から人間界にをもたらす。は【生のもの→調理したもの】という、自然から文化への移行を象徴している。また宮﨑駿「ハウルの動く城」に登場するカルシファー≒ロキと考えてほぼ間違いない。

  • 「ニーベルング」ジークムントとフンディングの戦いのときヴォータンが現れ、自らが与えた剣ノートゥングを打ち砕く。武器を失ったジークムントは、フンディングの槍に刺されて絶命する↔「指輪物語」ゴンドール(都)の執政デネソールは戦で重傷を負った次男ファラミアが死んだと勘違いし、ファラミアもろとも焼身自殺を図る↔「スター・ウォーズ」ダース・ベイダーはルークとライトセーバーで戦い、ルークの腕を切り落とす《親族の過小評価
  • 「ニーベルング」洞窟の中で大蛇に変身したファフナー(巨人族)が財宝を守っている。ジークフリートが退治し、指環と隠れ頭巾を奪う↔「ホビットの冒険」スマウグ(ドラゴン)が財宝を守っている。ビルボが黄金の杯を盗む

隠れ頭巾というガジェット(小道具・仕掛け)は「ホビットの冒険」「指輪物語」において、指輪をはめると姿が消えるという設定に変換されている。また「スター・ウォーズ」ではジェダイの騎士がフォースの力(理力)で自分の気配を消すことが出来る。「ハリー・ポッター」にも隠れマントが登場する。

「ニーベルング」における【父ヴォータン↔娘ブリュンヒルデ】の二項対立は「指輪物語」では【ゴンドール(都)の執政デネソール↔息子(次男)ファラミア】の確執に変換されている。その背景には死んだ長男ボロミアに対するデネソールの偏愛がある。「スター・ウォーズ」では言うまでもなく【父ダース・ベイダー(アナキン)↔息子ルーク・スカイウォーカー】だ。プリクエル(前日譚、エピソード1-3)では【師オビ=ワン・ケノービ(父代わり)↔アナキン・スカイウォーカー】の衝突に置き換えられている。ギリシャ神話《エディプス王》的”父殺し”の主題はエピソード7の【ハン・ソロ↔カイロ・レン】に引き継がれる。

「指輪物語」のファラミアは父に愛してもらいたいと切望している。しかしそれは決して満たされない。これは旧約聖書《カインとアベル》の物語の引用だ。後にスタインベックの小説「エデンの東」になった。カインが弟アベルを殺すのは、神ヤハウェがアベルしか愛さなかったから。つまり嫉妬である。「ニーベルング」ではブリュンヒルデとの結婚の宴を開いたギービッヒ家の当主グンターを異父兄弟ハーゲンが殺し、指輪を奪おうとするという形で現れる(「神々の黄昏」)。「スター・ウォーズ」プリクエルでは女王パドメ・アミダラとオビ=ワンが密通ているのではないかという疑心暗鬼・嫉妬から、アナキン・スカイウォーカーがオビ=ワンとの死闘になだれ込む(「最後のジェダイ」ではレイを巡ってカイロ・レンが叔父ルークに嫉妬する)。

「ニーベルング」のジークムントとジークリンデという双子の主題は「スター・ウォーズ」の双子ルークとレイアに再現される。エピソード4ではルークがレイアに恋心を抱いているようにも描かれる《近親相姦的、親族の過大評価》。「指輪物語」ではアラゴルン(帰郷した人間の王)と結ばれるエルフ族のアルウェンに双子の兄エルラダンとエルロヒアがいるという設定として現れる。双子とは一つの卵子が二つに分化することの暗喩であり、自然(神々の黄昏)→文化(人間の台頭)への移行を象徴している。

ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」の撮影時に繰り返し観ていたという黒澤明「七人の侍」もまた、【武士道の終焉→庶民(農民)の時代の到来】を描いている。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はその著書「シネマ」の中で「七人の侍」に触れ、「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在すると語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

ジェダイの騎士(「ニーベルングの指環」では神々)の置かれた立場も正に、侍と同じなのである。

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デュメイ/関西フィルのドヴォルザーク:弦楽セレナーデ

5月16日(水)ザ・フェニックスホールへ。

Spring

オーギュスタン・デュメイ(指揮&ヴァイオリン)/関西フィルハーモニー管弦楽団のメンバーによる弦楽アンサンブル(コンサートマスター:岩谷祐之)で、

  • ドヴォルザーク:ロマンス ヘ短調 作品11
  • ブラームス:ハンガリー舞曲 第2番、第5番
  • メンデルスゾーン:無言歌集より ①安らぎもなく(作品30-2)
    ②後悔(作品19-2)③さすらい人(作品30−4)
  • ドヴォルザーク:弦楽セレナーデ

前半「ロマンス」から無言歌①まではデュメイのソロ&弦楽アンサンブルによる演奏で、無言歌②以降デュメイは指揮に専念した(指揮棒なし)。

デュメイは決してヴァイオリンを咽び泣かしたりしない。その音は鋭く尖っていて、情熱が迸る。

僕は過去にチャイコフスキーの弦楽セレナーデを4回、生演奏で聴いている。

ところがドヴォルザークの方はなんと今回が初めて!実は意外に演奏されないのだ。CDではカラヤン/ベルリン・フィルの名盤が有名で、チャイコフスキー&ドヴォルザークのカップリングが多いのにね。

デュメイはここでも感傷に浸ることなく、山椒は小粒でもぴりりと辛い。第3楽章 スケルツォ:ヴィヴァーチェは目の前の草を鎌でバッサバッサと薙ぎ倒すかのように進む。第4楽章 ラルゲットは硬質な抒情がキラッと光り、畳み掛けるような第5楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェは動的で弾けていた。

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