舞台・ミュージカル

わが心の歌 25選 ⑥ ミュージカル「回転木馬」と、サッカーとの摩訶不思議な関係/メグ・ライアンの想い出

作詞:オスカー・ハマースタイン2世、作曲:リチャード・ロジャースという、『オクラホマ!』や『王様と私』で知られるコンビによるミュージカル『回転木馬 Carousel 』は1945年にブロードウェイで初演された。1993年にはキャメロン・マッキントッシュ製作、『ミス・サイゴン』のニコラス・ハイトナー演出で再演され、トニー賞を5部門受賞(ミュージカル・リバイバル作品賞/ミュージカル演出賞/振付賞/装置デザイン賞/ミュージカル助演女優賞:オードラ・マクドナルド)。因みに初演時はトニー賞創設前であった(初回授賞式は1947年)。56年には20世紀フォックスで映画化された。主演はシャーリー・ジョーンズとゴードン・マクレー。また2006年ごろにヒュー・ジャックマン主演で映画のリメイク企画があったのだが、立ち消えになっている(記事こちら)。

日本では69年に宝塚雪組が初演した(宝塚大劇場)。84年に宝塚星組が宝塚バウホールで再演し、95年に東宝が帝国劇場他で上演。僕は1996年7月9日~8月27日 大阪・劇場飛天(現在の梅田芸術劇場)における上演を観た。演出:ニコラス・ハイトナー、振付:サー・ケネス・マクミラン、訳詞は『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』の岩谷時子。涼風真世、石川禅、吉岡小鼓音、市村正親らが出演した。このプロダクションはこれっきりで、2009年に東京の銀河劇場でロバート・マックイーン演出、笹本玲奈・浦井健治 主演で再演されたようだが、関西には来なかった。

一番好きなナンバーは、なんといっても"You'll Never Walk Alone"である。映画版ではオペラ歌手(コントラルト)クララメイ・ターナーが歌った。

これは現在サッカーのサポーター・ソングとして、英国のリヴァプールFCやJリーグのFC東京のファンの間で愛唱されている。

 

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上はリバプールFCのエンブレムだが、ここにも "You'll Never Walk Alone"の文字が刻まれている。

世界でなんと、20以上のサッカー・チームのサポーター達がこれを歌い継いでいるのである!次のような歌詞だ。

When you walk through a storm
Hold your head up high
And don't be afraid of the dark

嵐の中を歩くとき
顔を上げ、しっかり前を向きなさい
暗闇を恐れないで

At the end of the storm
There's a golden sky
And the sweet silver song of a lark

嵐の向こうには
光り輝く空が広がっている
そして雲雀の優しく澄んだ歌声が聴こえる

Walk on through the wind
Walk on through the rain
Though your dreams be tossed and blown

風の中を歩きなさい
雨の中を歩きなさい
たとえ夢が吹き飛ばされたとしても

Walk on, walk on
With hope in your heart
And you'll never walk alone

歩いて、歩き続けなさい
希望を胸に抱いて
独りぼっちじゃないよ

And you'll never walk alone

あなたは独りぼっちじゃない

まずフランク・シナトラの歌唱で聴いてみてください。こちら!あと歌なしのフランク・チャックスフィールド&オーケストラの演奏もどうぞ。こちら

同じハマースタイン2世&ロジャースのコンビ作『サウンド・オブ・ミュージック』で修道院長が歌う「すべての山に登れ(Climb Every Mountain)」は内容的にこの歌に非常に近い(映画版の動画はこちら)。僕は中学生の時に初めて「すべての山に登れ」を聴いて、心を打たれた。からだの奥底からじわじわと勇気が湧いてくる気がした。

ミュージカル『回転木馬 (Carousel)』の主人公ビリーはすぐに妻や娘に手を上げる暴力夫であり、#MeToo 運動が盛んな現代には受け入れ難いかも知れない。しかしどの楽曲も極上の出来であり、オーケストラだけで演奏されるカルーセル・ワルツも僕は大好き。こちら!物語後半のビリーは悔い改めているので、どうか許してやってください。

原作は1909年にハンガリー・ブタペストで初演された戯曲『リリオム』。1934年にフリッツ・ラングが監督したフランス映画『リリオム』も傑作。ユダヤ人のラングはこの時ちょうどアドルフ・ヒトラー政権を逃れてドイツからフランスに亡命していたのだが、ドイツ軍がフランスに侵攻したため、さらにアメリカ合衆国に渡ることになる。

『回転木馬』を鑑賞するには映画版を観るのも良し、もっとお勧めなのがリンカーンセンターで開催された公演を収録したDVD。

Carousel

ただし、北米のリージョン1対応DVDなので、日本国内の(リージョン2)プレイヤーでは観ることが出来ない。

ところが!コロナ禍のおかげ(?)で2020年7月10日よりミュージカル全編がYouTubeで無料配信されているのを発見した!!!こちら画面右下あたりのスイッチをクリックすれば、英語字幕を呼び出す機能も。

ヒロイン=ジュリーを演じるのはケリー・オハラ。渡辺謙と『王様と私』で共演し、トニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞した。その友人キャリー役は『ビューティフル − キャロル・キング・ミュージカル』でトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞したジェシー・ミューラー。ビリー役はメトロポリタン・オペラにしばしば出演しているバリトンのネイサン・ガン。また「6月は一斉に花開く(June Is Bustin' Out All Over)」や、"You'll Never Walk Alone"を歌うステファニー・ブライスもメトで活躍するメゾ・ソプラノ。これ以上望みようのない超豪華キャストである。オーケストラはニューヨーク・フィル。至れり尽くせりだ。

劇中clambakeという言葉が出てくるのだが、これは海浜で焼け石を使ってハマグリなどを焼いて食べるピクニックのことを指す。日本人には馴染みがない習慣なのでピンとこない。あと「6月は一斉に花開く」は名曲だが、日本で6月といえば梅雨の季節なので、やはりどうもイメージが湧かない。余談だがこの歌詞中に"March went out like a lion"(3月はライオンのように過ぎ去っていった)とあり、な、なんと羽海野チカの漫画『3月のライオン』に繋がっている!

Whenharrymetsally

「It Had To Be You」(ハリー・コニック Jr.) はメグ・ライアン主演、ロブ・ライナー監督『恋人たちの予感』(When Harry Met Sally...)で使用された楽曲。試聴はこちら。脚本を書いたノーラ・エフロン(1941-2012)は後に監督業に進出し、メグ・ライアン主演で『めぐり逢えたら』『ユー・ガット・メール』とロマンティック・コメディ三部作を仕上げた。なおノーラはウォーターゲート事件の真相を暴いた記者、ワシントン・ポスト紙のカール・バーンスタインと結婚していた時期があり、映画『大統領の陰謀』シナリオの手直しにも関わっていたらしい(アカデミー脚色賞受賞)。だからスティーヴン・スピルバーグが監督し、ワシントン・ポスト社が舞台となる『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』のエンドロールに「ノーラ・エフロンに捧ぐ」とクレジットされている(ラストシーンは『大統領の陰謀』冒頭部に直接繋がっている)。

「もしあなただったら」と訳されたりもする "It Had to Be You"は1924年に発表された。アイシャム・ジョーンズが作曲し、カス・カーンが作詞した。ハリー・コニック Jr.のパフォーマンスはフランク・シナトラを彷彿とさせ、「ビッグ・バンド・スタイル」の再来と評された。マーク・シャイマンによるゴージャスなアレンジの功績が大きい。シャイマンは後にブロードウェイ・ミュージカル『ヘアスプレー』や『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『チャーリーとチョコレート工場』を作曲した。

"It Had to Be You"はメグのお相手役だったビリー・クリスタルのテーマ曲となり、彼がアカデミー賞授賞式司会者に起用された際、登場場面で必ずこの曲が演奏された(計9回担当)。

『恋人たちの予感』はメグ・ライアン絶頂期の作品で彼女が最高にキュート、掛け値なしに名作なのだが、公開当時劇場で観たときから僕にはどうしても納得がいかないことがあった。映画冒頭で〈セックス抜きで男女の友情は成立するのか?〉と問題提起されるのだが、最後にハリーとサリーは性交してしまう。つまり〈セックス抜きで男女の友情は成立しない〉と結論を下しているのである。そんなのあり??僕は憤った。許し難い背信行為である。

結局この問題に決着をつけてくれたのがアイルランド出身ジョン・カーニー監督の『ONCE ダブリンの片隅で』(2007)と『はじまりのうた』(2013)。漸く我が意を得たりと溜飲を下げることが出来た。またジョン・カーニーが監督したAmazon プライム・ビデオのドラマシリーズ『モダン・ラブ ~今日もNYの街角で~』第1話“私の特別なドアマン”も同趣旨の大傑作である。こちらからどうぞ。

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#MeeToo 運動とウディ・アレン「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」

かつて〈ニューヨーク派〉と呼ばれる映画監督たちがいた。映画の都ハリウッド@ロサンゼルス(西海岸)よりも、ニューヨーク(東海岸)でロケすることを好む人々。古くはシドニー・ルメット、ジョン・カサヴェテスなど。現役ではマーティン・スコセッシやウディ・アレンが代表格。1989年のオムニバス映画『ニューヨーク・ストーリー』ではスコセッシとアレン、そしてフランシス・コッポラが監督を務めた。『イカとクジラ』『フランシス・ハ』『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』のノア・バームバックもニューヨーク派と言えるだろう。最新作『マリッジ・ストーリー』はNYとLAの二都物語になっている。

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ウディ・アレン脚本・監督の『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は2017年に撮影されたが同年、映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ問題が大々的に報じられ、社会的な #MeToo 運動に発展していった。アレンは1992年に交際していたミア・ファローの養女に対して性的虐待を行った容疑で訴えられ捜査の結果、証拠不十分で不起訴となっていたが、#MeToo の余波でこの件が蒸し返された。ディラン・ファローは7歳の時に性的虐待を受けたと繰り返し主張し、アマゾン・スタジオは本作を含め4本の映画契約を破棄、アメリカでの公開を見送った。アレンはこれを不服として、2018年2月に同スタジオを契約不履行で訴えた。そして『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の出演者たちは軒並み本作に出演したことを後悔する声明を発表、ティモシー・シャラメはギャラを全額寄付した。

シャラメは2018年に『君の名前で僕を呼んで』でアカデミー主演男優賞にノミネートされており、アレンは「ティモシーと彼のエージェントは、私を非難すれば授賞する可能性が高くなると思った。だからそうしたんだ」とコメントしている。

これはアレンが気の毒である。ワインスタインの犯罪については100人を超える女性たちの証言があり間違いないが(現在服役中)、ディラン・ファローについては本人の主張だけで証拠が全くない。彼女は裁判でも敗訴しているわけで、今更アレンの罪を社会的に問うのは絶対におかしい。狂っている。「疑わしきは罰せず」が大原則だろう。アマゾン・スタジオだって契約時にディラン・ファローとの揉め事は把握していたわけで、#MeToo 運動が盛り上がったからといって約束を反故にするのは後出しジャンケンで卑怯だ。

『ローズマリーの赤ちゃん』『テス」のロマン・ポランスキー監督は1977年にジャック・ニコルソン邸で当時13歳の子役モデルに淫行した容疑で逮捕され、仮釈放中に米国から海外逃亡した。#MeToo が切っ掛けとなって、この一件を理由に2018年5月に彼は映画芸術アカデミーから除名されたのだが、全くもって変な話である。何故なら2002年にポランスキーは『戦場のピアニスト』でアカデミー監督賞を受賞しているのだ(アメリカに入国したら逮捕されるので代理人が受け取った)。当然この時点でアカデミー会員は全員、淫行事件のことを知っていたし、僕も知っていた。1977年の件で資格を剥奪されたのなら、『戦場のピアニスト』の受賞も無効になる筈だ。滑稽・茶番と言わざるを得ない。因みに『戦場のピアニスト』はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞している。閑話休題。

評価:A

公式サイトはこちら

ペンシルベニア州のヤードレー大学に通うカップルが週末をNYで過ごすことが決まり、生粋のニューヨーカーであるティモシー・シャラメがはしゃいで「父親のコネでミュージカル『ハミルトン』のチケットを取ってもらうよ!」と言う場面でグッと来た。現在は新型コロナウィルス蔓延のためブロードウェイの劇場は全て閉鎖されており、『ハミルトン』を生で観劇することは2021年まで叶わない。そういえばアレンがイギリスで撮った『マッチポイント』(2005)ではデートでアンドリュー・ロイド・ウェバーの新作ミュージカル『ウーマン・イン・ホワイト』を観に行ってたよなぁと懐かしく思い出した。

奇しくも本作が日本で公開された7月3日(金)からDisney+で映画『ハミルトン』が世界同時配信された。これは初演キャストによる劇場公演を2016年に映像収録したもので、当初は2021年に劇場公開が予定されていた。しかしコロナ禍の煽りを食い、急遽配信に切り替えられたのだ。ところが配信までに日本語字幕が間に合わなかった。何やってんだDisney+、ふざけんな!Netflixの爪の垢でも煎じて飲め。閑話休題 Part 2。

シャラメの役名がギャツビーなのは間違いなくスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を意識している。小説の舞台もニューヨークであり、アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』にはスコット&ゼルダ・フィッツジェラルド夫妻が登場する。

スコット・フィッツジェラルドはジャズ・エイジと呼ばれる狂騒の20年代の作家であり、アレンはこの時代の音楽が大好き。劇中シャラメがピアノを弾き語りする"Everything Happens To Me"は1940年の曲。ジャズのスタンダードとしてセロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、キース・ジャレットらがレコーディングしている。ウディ・アレンの映画には度々ジョージ・ガーシュウィン、アービング・バーリン、ジェローム・カーン、リチャード・ロジャース、ハロルド・アーレンらが1920-50年代に作曲した“グレイト・アメリカン・ソングブック”の楽曲が登場する(詳細こちら)。

ギャッビーは言う。「僕はスカイ・マスターソンみたいになりたい」字幕ではギャンブラーとだけ説明されていたが、スカイはNYを舞台とするブロードウェイ・ミュージカル『野郎どもと女たち(ガイズ & ドールズ)』の主人公で、映画ではマーロン・ブランドが演じた。また『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』でクラップ・ゲームの話題が出てくるが、「クラップしようぜ」というのが『ガイズ&ドールズ』の登場人物ビッグ・ジュールの口癖なのだ。

さらに1958年のMGMミュージカル映画『恋の手ほどき(GIGI)」(監督はヴィンセント・ミネリ)について言及され、後にバーのピアニストが"GIGI"を奏でたりもする。粋だね!

エル・ファニング演じるアシュレーはアリゾナ出身のお嬢さんで、セレーナ・ゴメス演じるNYガールのチャン(ギャツビーの幼馴染)は「アリゾナの人って休日には何するの?サボテンでも眺めるとか?」と馬鹿にする。因みにアリゾナ州はハリウッドのあるカリフォルニア州のお隣で、メキシコにも接している。

これで思い出したのがブロードウェイ・ミュージカル"42nd Street"。主人公ペギー・ソーヤーはペンシルベニア州アレンタウンからミュージカルのオーディションを受けるためにニューヨークにやって来た田舎娘で、演出家のジュリアン・マーシュに「アレンタウンだと!」と吐き捨てるように言われる場面がある。この田舎者を揶揄する感じって、いかにもニューヨーカーらしいんだよね(ビリー・ジョエルの楽曲に「アレンタウン」があり、歌詞で町の雰囲気が分かるだろう)。

また本作に登場する映画監督について、「彼が落ち込んだときにはノーマ・デズモンドみたいに酒に酔いつぶれるのさ」と評されるのだが、これはビリー・ワイルダー監督『サンセット大通り』に準拠している。

撮影監督は『地獄の黙示録』『レッズ』『ラストエンペラー』で3度アカデミー賞を受賞したヴィットリオ・ストラーロ。室内撮影がオレンジ色の光線で、まるでヨーロッパ映画のよう。ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を思い出した。

僕は『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観て、ウディ・アレンのニューヨークに対する愛に心打たれた。あっけらかんと明るいアシュレーは(ハリウッドを含む)西海岸の象徴であり、憂いを帯びたチャンは天気の悪い東海岸(ニューヨーク)の象徴。その両者の間でギャツビーが揺れ動くという構造になっている。また神経質で情けないギャツビーのナレーションで映画全体が彩られるという趣向は、アレンが主演・ナレーションを兼任しアカデミー作品賞・監督賞を受賞した『アニー・ホール』(1977)を彷彿とさせる。これもニューヨークが舞台である。

しかし"I ♡ NY"(アイ・ラブ・ニューヨーク)の精神に溢れた本作がアメリカ本国での公開が決まっていないというのは、返す返すも残念なことである。

I-ny

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【考察】我が国の新型コロナウィルス感染予防対策は果たして正しいか(日本人とは何者か)?

本記事はNHKスペシャルの新型コロナ特集や、ノーベル医学賞を受賞した山中伸弥による新型コロナウィルス情報発信サイトに掲載された論文を参照した上で、執筆したものである。

【国別死亡率に大きな差異がある理由は?】わが国の新型コロナ感染症(COVID-19)の感染率・死亡率が低い理由として、

  • 日本人特有の生活習慣(挨拶で握手とかハグをしたりせず、距離を取る)
  • 日本人は清潔好きで家庭内では靴を脱ぐ
  • マスク率の高さ
  • 医療体制の充実

などが挙げられている。しかし果たして本当だろうか?

こちらの日経メディカルの記事をご覧いただきたい。COVID-19について人口100万人当たりの死者数が国別に表になっている。抜粋しよう。

  • スペイン:580
  • 英国:558
  • イタリア:557
  • スウェーデン:452
  • フランス:445
  • アメリカ合衆国:333
  • ポルトガル:143
  • ドイツ:104
  • イラン:96
  • 中国(湖北省):78
  • イラク:7
  • 日本:7
  • 韓国:5
  • マレーシア:4
  • オーストラリア:4
  • 台湾:0.3
  • タイ:0.2

ここで僕が「感染者数」を指標としなかったのには理由がある。韓国のように徹底的にPCR検査をした国と、我が国のようにPCR検査数が極端に少ない国の感染者数を単純比較することは出来ない。日本のやり方では無症状の(不顕性)感染者の拾い上げが出来ないからである。菅官房長官は6月24日の記者会見で、その日東京都で新型コロナウイルスの感染者が新たに55人報告されたことに関し「同一のホストクラブ関係者などに積極的に検査をした結果」と述べた。つまり検査を積極的にするか消極的にするかで感染者数は恣意的に操作出来るということだ。しかし死者に対しては嘘をつけない。死亡率は真の感染率を反映していると見なせる。

こうしてみると日本だけではなく、中国以外のアジア諸国の感染率がおしなべて低いことがわかるだろう。またオーストラリアの感染予防対策は日本より優秀だ。

さて、日本とイラクの死亡率(≒感染率)はほぼ同等。ではイラク人のマスク装着率は日本人に匹敵するのだろうか?あるいはイラクの医療水準が日本と同等なのか?ナンセンスである。台湾やタイの死亡率が日本の20分の1以下なのも上述した説明では全く納得がいかない。

つまり国別の死亡率(≒感染率)の差異の理由は必ず他にある筈だ。BCG接種の有無と、BCG株の違いは間違いなくその有力候補だろう。特に隣同士の国、スペイン vs. ポルトガルや、フランス vs. ドイツの死亡率に、どうしてこんなに差(4対1)があるのかは注目すべきポイントである。

【疫学調査の手法】結局、マスク着用が感染予防に有効なのか?とか、手洗いなど衛生面が有効なのかといった評価は〈多変量解析〉(解説こちら)をしなければ分からない。複数の独立変数(説明変数)があるからである。喫煙率とかGDP(国内総生産)、大気汚染(PM2.5)、肥満度(BMI)なども加味する必要がある。ちなみに中国やイランはPM2.5の濃度が高く、米国国内では低所得者である黒人の死亡率が高く、ブラジルでは富裕層より貧困層の死亡率が高い。〈多変量解析〉により死亡率が高い群(スペイン、イタリア、フランス、米国)と低い群(日本、韓国、台湾、タイ)の二群間で、明らかに統計学的有意差(P値が0.05以下)がある変数が見つかれば、その対策が効果的だったと評価出来る。これが公衆衛生学における疫学調査の基本である。

【マスクは新型コロナ感染予防に有効か?】ドイツ・マインツ大学などの研究チームは、同国でのマスクの義務化が新型コロナウイルスの感染者を「大幅に減少させた」とする研究結果を発表した(記事はこちら)。結論に異議はない。ただこの研究の問題点は〈感染者がマスクをした場合、拡大防止に有効か?〉と、〈非感染者がマスクをした場合、感染を予防出来るか?〉という問いを分けていないことである。一緒くたにしてしまっている。All or Nothingでは問題の本質を見失ってしまう。特にドイツの死亡率(≒感染率)は日本の十数倍である。(北海道と東京以外で)新規感染者が殆どなくなった日本で、健常者がマスクをすることに果たして意味があるのだろうか?

【感染者がマスクをする意義】感染者がマスクをすればウィルスの飛散を予防出来る。鼻や口からしぶきとして飛び出し、空中を漂う〈マイクロ飛沫〉の拡散を防止することが重要。これは間違いない。多数の実験がされており、論文発表もある。確かなエビデンスがあると僕も認める。

【非感染者がマスクをすることで予防出来るか?】この問いに対しては僕の知る限りエビデンスがない。もし明らかな反証があれば後学のために是非ご一報頂きたい。そもそも日本でも多数の医療機関でクラスターが発生し、医療従事者が感染している。彼らは当然マスクをしている筈であり、つまり感染予防に効果がないことを示唆している。いちばん重要なのは感染者と濃厚接触をしないことだ。SARS騒動のときも用いられたN95マスクをしていた救急隊員も感染したと報道されている。つまり僕は症状のない健常者がマスクをしても全く意味がないと考える。EBS(Evidence-Based Safety:根拠に基づく安全理論)と言えない。過剰反応だろう。

【クラスターが発生する条件】今までの経験で、どういう場所がクラスター(新型コロナ感染が異常に高い発生率である集団)になり易いかが判明している。

  • ライブハウス
  • ナイトクラブ、ホストクラブ、ゲイバーなど接待を伴う飲食店
  • カラオケ店(特に最近は北海道の昼カラオケ)
  • コールセンター(電話オペレーター)
  • スポーツジム
  • プロ野球、テニスなどスポーツ選手(特にロッカールームは閉鎖空間で危険)
  • 病院、デイサービス、ショートステイ、福祉事務所(医療/介護従事者、入院患者)
  • 合唱団の練習場
  • 中国から来た旅行者を乗せた観光バスや、クルーズ船乗客を乗せたタクシー

共通する特徴は明白である。「換気の悪い密閉空間で感染者と濃厚接触すること(3密)」「特に2m以内に近接し、感染者が発声することがハイリスク」「喋らなくても運動をしてハァハァ激しく呼吸をすることも危険」。

しかし僕が知る限りミュージカル・演劇を上演する劇場や、クラシック音楽のコンサート・ホールでクラスターが発生したという報告はない。これは日本だけでなく欧米諸国など世界に目を向けても同じだ。ではライブハウスとコンサート・ホールの違いは何か?

  • コンサート・ホールの方が空間が広い。
  • ライブハウスでは観客が歓声を上げたり、コール&レスポンス(演奏者の呼びかけに対して観客が応えること)したり、踊って息をハァハァしたりする。テーブルが設置され飲食可能な場合もある。一方、コンサートホールで観客は黙って音楽を聴くだけであり、同じ方向を向いている(感染者と向かい合わない)。またライブハウスは基本スタンディングなので、着席して大人しく聴くコンサート・ホールより密になる。

満員電車でクラスターが発生していないのも同じ理屈である。窓を開けて換気し、会話さえしなければ危険じゃない。それに対して観光バスでは長時間乗り、隣どうしてペチャクチャお喋りをする。補助席のない大型バスでは窓が開かない場合も多い。

映画館でのクラスターも皆無だが、法令により換気がしっかりしていること、観客が黙って同じ方向を向いていることにその理由があるだろう。

合唱団やロックバンド(グループ魂の宮藤官九郎ら)でクラスターが発生しているのに、オーケストラや吹奏楽団など楽器演奏家に事例が見当たらないのも発声の有無に問題の核心があることを示している。

【映画館・劇場対策に意味はあるのか?】2020年6月末現在、映画館や一部劇場が再開されたが、座席は前後左右1席ずつ開けるとか、マスク着用が必須とか条件付きである。ほとんどの商業演劇・ミュージカルでは客席数を半分以下に減らされると採算が取れない。オーケストラの演奏会だってそう。無茶な話である。ブロードウェイでは9月6日まで劇場閉鎖が決まっており、さらに延長される可能性も高い。「キャッツ」や「レ・ミゼラブル」、「オペラ座の怪人」といったミュージカル作品を手がけてきた著名な演劇プロデューサーで劇場オーナーでもあるサー・キャメロン・マッキントッシュは、ソーシャル・ディスタンシング措置のため来年までロンドンの劇場を再開出来ないと明言している。また経営難に陥った劇団四季はクラウドファンディングを開始した(こちら)。世界中のエンターテイメント業界は危機的状況にある。

ここで大いに疑問に思うのは、劇場に今までどおり客を入れた場合よりも、前後左右1席ずつ開けた方が感染リスクを統計学的有意差をもって低減出来るというエビデンス(根拠となるデータ)は本当にあるのだろうか?そういう実験をどこかでしたという話を僕は一切聞いたことがない。〈相手と2mの距離を取る〉というのは向かい合って、会話するという条件から生まれてきた指針である。喋らず、同方向を向いている状況で、ソーシャル・ディスタンシングを保つべき距離は自ずと変わってくる筈だ。発声を控えればマスクだって不要だろう。

京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸准教授は次のように述べている(出典こちら)。

「緊急事態宣言の発令後、映画館やパチンコ店など、ほとんど話をしない場所への自粛も呼びかけられ、駅の利用状況も問題視されましたが、唾液が飛ばないところで自粛しても意味がありません」

【恐怖心】アメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)はこう言った。「恐怖は常に無知から生まれる (Fear always springs from ignorance. )」知識を得ることは恐怖の解毒剤である。妖怪とか幽霊といった類は正にこれであろう。特に電気のない時代、蝋燭とか灯台(火皿に油を注ぎ灯芯を浸したもの)で照らす夜は暗く、見えないことの恐怖が彼らを生んだ。ウィルスも目に見えない。見えない敵と戦うことは恐怖心や不安感を増幅させる。

20世紀で最も著名なイギリスの論理学者で哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」と述べている。新型コロナウィルス流行で脚光を浴びたのがアマビエという妖怪である。僕は今まで全く知らなかった。

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疫病除けでこういうのが流行るのも迷信のひとつだろう。そもそも宗教そのものが死の恐怖、人の命が有限であることの恐怖から生まれたと言える(↔永遠の命を有する神)。

また新型コロナに対する恐怖心から生まれた残虐が〈自粛警察〉であり、マスクをしていない人を公衆の面前で怒鳴りつける〈マスク警察〉だ。欧米では「コロナが感染拡大したのはおまえらのせいだ」とアジア人に対する差別や暴行事件が蔓延している。被害に遭っているのは中国系だけではなく、インドネシア人、ビルマ人、シンガポール人、韓国人、日本人と多岐にわたる(新聞記事こちら)。

ラッセルは「人間は信じやすい動物だから、何かを信じたくなる。信ずるに足る何かを見出だせない場合は、信ずるに足らないことでも満足してしまう」とも言っている。今回の場合は〈マスクによる感染予防効果〉がそれに当たるだろう。神社のお守り・お札みたいなものだ。

【新型コロナ恐るるに足らず】2020年6月26日現在、新型コロナウィルスによる日本の死者数は総計970人である。一方厚労省によると、通常の季節性インフルエンザによる年間死亡者数は日本で約1万人と推計されている(資料こちら)。世間の人々は神経質になり過ぎではないだろうか。

【アメリカ人はマスクをしない】2020年6月20日トランプ大統領が行った6,000人を超える大規模集会において、会場ではマスクが入場者に配布されたものの、実際に着用している人はほとんどいなかった。こちらの記事の動画をご覧頂きたい。ソーシャル・ディスタンシングなんか全く考慮しない、密の状態だということがお分かり頂けるだろう。

【日本人の生真面目さ】2020年4月7日に「緊急事態宣言」が発令され、5月25日に解除されるまで僕は無意味だと思いつつ、政府の方針に従って電車の中ではマスクを着用して通勤した。解除後も更に1ヶ月、我慢した。僕が住む兵庫県では1ヶ月以上、新型コロナウィルスの新規感染者は0だった。しかし6月末現在、阪急電車におけるマスク着用率は未だに100%である。どうして皆、そんなにお上に対して素直に従うんだ!?何故自分自身の頭で考えて、何が正しいかを判断しない?これはもう、一種の思考停止だ。感心を通り越して呆れてしまう。結局、軍国主義に走って暴走した政府に誰も異を唱えなかった第2次世界大戦時と日本人のあり方は少しも変わっていない。「欲しがりません勝つまでは」今も昔も羊のように従順な国民性だったのである。悪く言えば未だに〈個が確立されていない〉。しかし一方で、アメリカ人やフランス人みたいに個人主義が徹底しすぎても、良いことばかりではないのも確かだ。アメリカ人の離婚率の高さは悲惨だし、フランス人が一般に冷淡なのは、赤ちゃんのときから親が別室で寝る習慣が災いしているのではないかと僕は考える。つまり国民全体が〈愛着障害〉なのだ。

言い換えよう。日本人は昔から〈個よりも公を重んじる〉国民性なのだろう。出る杭は打たれ、和を以て貴しとなす(聖徳太子「十七条憲法」第一条)。それが良い場合もあれば、悪い場合もある。個か公か?何事も極端に走らず、程々が肝要である。

【同調圧力】そもそも外出時にマスクを付けなさいとかいうのは政府の〈要請〉であり〈強制〉ではない。罰則規定はないし、従わないからといって罪に問われるわけではない。米ニューヨーク州では行政命令でマスク着用が義務化された。アメリカ人は全然、人の言うことを聞かないからだ。パリでもメトロでマスクが義務化され、違反者には罰金1万6千円(135€ )が課せられる。じゃあ日本でも罰則規定を設ければいいじゃないかって?感染率がぜんぜん違う。フランスは日本の50倍以上だ。あちらでの義務化は感染者からの拡散を防ぐことに狙いがある。なお厚労省の調査で、東京都民の新型コロナウィルス抗体保有率は0.1%と判明した。一方、ニューヨーク州が実施した検査の抗体保有率は12.3%、スウェーデンのストックホルムは7.3%に達している。桁が違う。

しかし日本でマスクを着用せず街を歩いているとひしひしと同調圧力を感じる。汚物でも見るように、あからさまに嫌な顔をされ避けられたりする。ムラの発想だ。マスクをしない者は村八分。息苦しく、住みにくい世の中になったものだ。しかし僕はへこたれない。今の風潮は明らかに間違っている。誰になんと非難されようが「王様は裸だ!」とこれからも言い続ける。

【新しい生活様式のあるべき姿】以上述べてきた根拠に基づき、僕が考える〈新しい生活様式〉を提案したい。日本人は従順な国民だから、政府がしっかりとメッセージを発信すれば、きちんと実践出来る筈。

①以下のどれかに当てはまる人は必ず外出時、あるいは対面で会話をするときは必ずマスクを着用することとする。

  • 過去に新型コロナウィルスに感染した既往歴がある。
  • 直近2週間以内に新型コロナウィルスに感染した人と接触した可能性がある。
  • 37.5℃以上の発熱がある。
  • 咽頭痛や違和感・咳・頭痛・味覚/臭覚異常(味や臭いが分からない)・倦怠感などの症状がある。

これらに当てはまらない人はマスクは不要。勿論、不安があれば着用すればいいが熱中症に十分注意して適宜水分補給をする。

②映画館や劇場(ライブハウスを除く)で客席のソーシャル・ディスタンシングは不要。マスクも義務化しないが着席後の発声は慎む。また入場時の検温は実施する。

③舞台に立つ役者や演奏家には全員、新型コロナウィルスのPCR検査、またはLAMP法、抗原検査を実施する。感染初期には陽性化しない抗体検査はダメ。6月5日、 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が3ヶ月ぶりに公演を再開した際、楽員全員がPCR検査を受けた。

【最後に】読者の皆さんに切に訴えたい。「マスクを捨てよ、町へ出よう」

本物の日常を取り戻そう。

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わが心の歌 25選 ① 総論 (メニュー)&「いつも何度でも」「エメ Aimer」

新型コロナウィルス感染拡大により、世の中が荒(すさ)んでいる。皆が感染防御にピリピリ神経を尖らせており、うつ病を発症したり、不安や恐怖に圧倒されて凹んでいる人々も少なくない。

そこで気分転換のすゝめ。珈琲とか紅茶でも一杯飲みながら、素敵な歌でも聴いてくつろぎませんか?一息つきましょう。

「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」(バートランド・ラッセル:英国の哲学者。ノーベル文学賞受賞)

Spotify, Amazon Musicなど音楽配信(サブスクリプション)サービスで聴ける曲の中から厳選した。

  • いつも何度でも(木村弓)
  • One more time,One more chance(山崎まさよし)
  • なんでもないや -movie ver. (RADWIMPS - 上白石萌音)
  • Alone Again(ギルバート・オサリバン)
  • 水の上で歌う(フランツ・シューベルト)
  • ジュ・トゥ・ヴ(エリック・サティ)
  • Woman 〜“Wの悲劇”より(薬師丸ひろ子)
  • 聞かせてよ愛の言葉を(リュシエンヌ・ボワイエ)
  • 小さな空(武満徹)
  • ひこうき雲(荒井由実)
  • この空を飛べたら(中島みゆき - 加藤登紀子)
  • 時には昔の話を(加藤登紀子)
  • (They Long To Be) Close To You(カーペンターズ)
  • 打上花火(DAOKO × 米津玄師)
  • 22才の別れ(伊勢正三 - 風)
  • 翼をください(山田和樹/東京混声合唱団)
  • エメ〜ミュージカル“ロミオ&ジュリエット”より(ジェラール・プレスギュルヴィック)
  • Papa Can You Hear Me ? 〜“愛のイェントル”より(バーブラ・ストライザンド)
  • Another Day Of Sun 〜“ラ・ラ・ランド”より(ジャスティン・ハーウィッツ)
  • こどものせかい 〜“マイマイ新子と千年の魔法”より(コトリンゴ)
  • The Man That Got Away 〜“スター誕生”より(ジュディ・ガーランド)
  • Unforgettable(ナット・キング・コール)
  • ノルウェイの森(ビートルズ)
  • It Had To Be You(ハリー・コニック Jr.)
  • You'll Never Walk Alone(リチャード・ロジャース)

括弧内は基本的に歌手名を書いたが、フランツ・シューベルト、エリック・サティ、リチャード・ロジャース、武満徹、ジェラール・プレスギュルヴィック、ジャスティン・ハーウィッツは作曲家名である。

19世紀(今から200年前)にシューベルトが作曲したドイツ・リートから、フランスのシャンソン(聞かせてよ愛の言葉を)やミュージカル、さらにハル・デヴィッド&バート・バカラックというコンビによる英語歌(Close To You)、日本のフォークデュオ「風」(22才の別れ)を経て、ニコニコ動画ボカロP出身の米津玄師(打上花火)まで。四つの言語、古今東西、バラエティに富む選曲になったんじゃないかなと自負している。

本当は映画『ふたり』主題歌ー大林宣彦(作詞)久石譲(作曲)「草の想い」も入れたかった。しかし残念なことに現時点ではサブスクで聴けないので断念した。

では推薦文付き各論へ。

「いつも何度でも」についてまず語ろう。言うまでもなく宮崎駿監督による国民的アニメーション映画『千と千尋の神隠し』主題歌である。レコード大賞で金賞を受賞。元々は宮崎監督が構想していた『煙突描きのリン』のために書かれたもので、その企画は結局ボツになった。しかし宮さんはこの曲を気に入り、『千と千尋』で使う事になったそう。

『千と千尋』は劇場公開された2001年夏に、当時住んでいた愛媛県新居浜市の小さな映画館で観た。花火大会の夜で、館内に花火の音が聞こえてきたことを今でも鮮明に覚えている。その後DVDで10回位鑑賞しているが、正直この歌の印象は薄かった。ところが2020年2月21日にスタジオジブリの楽曲が一斉にサブスク解禁になったので久しぶりにじっくり聴いてみると、その歌詞の素晴らしさに初めて気付き、深い感銘を受けた。

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい

かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える

「呼んでいる」のは誰か?それは「あなた」だろう。そして「あなた」とは、〈こころ〉の奥底にある自己SELF)ではないか、と僕は考える。

ここでアンソニー・スティーヴンズがカール・グスタフ・ユングの理論を描いた、〈こころの図〉を用いて説明しよう。〈こころ〉はドイツ語でSeele。〈魂〉とも訳され、英語ではpsycheとなる。

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円の外層にConsciousness(意識)、内層にUnconscious(無意識)があり、さらにPersonal unconscious(個人的無意識)と深層のCollective unconscious(集合的無意識)に分かれる。そして集合的無意識の中心にSELF(自己)がある。一方、表層の意識内にEGO(自我)があって、Ego-Self axis(自我ー自己軸)で自己と繋がっている。また集合的無意識内にA=Archetype(元型)が、個人的無意識の領域にはC=Complex(感情に色付けされた心的複合体)がある。

「いつも何度でも」終盤の歌詞は以下の通り。

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

「海の彼方」とは彼岸であり、日本神話で言うところの常世(とこよ)/隠世(かくりよ)を指す。住人が不老不死の理想郷で、黄泉もそこにあるとされる。キリスト教的には神のおわす天国で、プラトン哲学ではイデアだ。しかし、「わたし」のなかに見つけた「輝くもの」とは自己SELF)であり、つまり神=自己を発見したわけだ。神は「わたし」の外側にいない。この思考はユング心理学に一致する。「いつも何度でも」は自己実現を歌っていた。

プロデューサーの川村元気が『君の名は。』が受けた理由について語った言葉を借りるなら、『千と千尋の神隠し』が日本の歴代興行成績第1位になったのは、〈集合的無意識にヒットした〉ということになるだろう。

やはりサウンドトラック盤の木村弓の歌唱が良い→Spotifyではこちら

「エメ Aimer」はフランス語で「愛」のこと。フランス産ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』のナンバーで、舞台ミュージカルの中で究極の名曲だと想う。途中どんどん転調し、まるで螺旋階段を駆け上っていくような高揚感がたまらない魅力!これはミシェル・ルグランなどフランス歌曲の特徴である。めくるめく陶酔。城田優(ミュージカル・スター)と生田絵梨花(乃木坂46)のデュエット(日本語歌詞)でどうぞ→Spotifyではこちら

次回は「One more time,One more chance(山崎まさよし)」、「なんでもないや -movie ver. (RADWIMPS - 上白石萌音)」について語る予定。

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新型コロナウィルスにより、変わりゆく世界の中で

新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、安倍晋三首相が全国すべての小中高校に3月2日から臨時休校することを求めたのが2020年2月27日。この時点で各地コンサートホールでの演奏会や演劇の公演が次々と中止になった。

コンサートを開催できない状況が続く中、僕が生演奏を聴いたこともある(@びわ湖ホール)、ヴァイオリニストの成田達輝が次のようなツィートを投稿した。

ここには記事〈新型コロナウィルスと”浮草稼業"〉に書いた、落語家・桂米團治(先代)が弟子の米朝に諭した言葉 ー好きな芸をやって生きているのだから、末路哀れになっても仕方がないー という覚悟・諦念がある。実に立派だと思う。たかだか劇場が1,2ヶ月閉鎖されただけで「演劇の死」などと大げさなことをほざく野田秀樹には彼の爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。

ベルリン・フィル第1コンサートマスターを務める樫本大進はNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」緊急企画(4月28日放送)の中でこう述べた。

コロナになる前は、音楽なしでは生きていけないと思っていました。本当に。社会的にも、僕自身だけじゃなく、音楽なしでは地球が回らなくなると思っていました。それを信じていましたから。でもそうではないんだなって、この1ヶ月ですごく分かって。自分でもそうじゃないんだなって、それよりもっと大事なものがいくらでもあるんだと。自分の健康から、家族の健康から、周りの人たちの健康から。ここまで自分の存在が使えないもの、必要ないもの、存在がないって感じたのは今回が初めてですし、3月の終わりの方ぐらいにすごく悩んだことでもありますし、「この仕事でいいのかな」とか反対に思っちゃいますし。

しかし一方で、自宅待機の生活が長く続く間にこういう感情も芽生えたという。

自分が弾きたくなったという気持ちがあって。今まで常に弾いているから、練習しなきゃではなく、コンサートしなきゃではなく、本当にただ自分のために弾きたいなっていう気持ちは、そこまで今まで味わったことがなかったので。僕でも必要と思っているということは、もっと必要と思ってくれている人がいっぱい外にはいるんだと考え始めました。(中略)文化を必要としているのは社会だと思う。心を失ったら社会は死んでしまうので、その心を生き残らせるために上からのサポートが必要というのは、ひとりひとりが叫ばなきゃだめだと思います。本当は今一番音楽っていうのが必要なものだと僕は思っています。一番生活に必要なくて、一番生活に必要なものだと、僕は信じています。

そして最後に視聴者へのメッセージ。

コロナっていう手ごわい相手に全員で戦っている状況です。みんなが闘っているということは、全世界がひとつになれるチャンスだと。気持ちを、みんなでひとつになれるような状況を作って、コロナを倒したあともっともっとすごい世界になれるように頑張りたいと思います。

精神科医・医学博士である高橋和巳が著書「人は変われる」(ちくま文庫)で書いたように、新型コロナ禍という絶望を経験することで自分を客観視できるようになり、現実をあきらめることで「新しい解釈」が生まれ、古い自分を乗り越えて新しい行動を取り始める姿がここに写し出されている(記事〈新型コロナウィルスという災厄の中から生まれるもの〉を参照されたし)。

日本では「自粛疲れ」が蔓延し、ウィルスに対する不安や恐怖心に押し潰され、世界中のサッカー選手にうつ病が急増したり、パニック/ヒステリー状態に陥った人々も少なくない。なんだか世間全体がピリピリしている。

  • 2月18日、福岡市の地下鉄でマスクを着用せずにせきをしていた乗客がいたことを理由に隣の乗客と口論となり、非常通報ボタンが押され列車が停止した。
  • 2月25日、横浜市のドラッグストア「マツモトキヨシ」に開店前からマスク買うために並んでいた列に割り込みがあり、殴り合いの喧嘩になった(その動画がマスコミで報道された)。
  • 大阪府警に「飲食店でくしゃみをしたことが発端でもめた」などの通報が相次いでいる。(4月26日サンケイスポーツより)
  • 4月28日、ブラジルのスーパーで男性客が店員にマスクをしていないことをとがめられて激高。店員を殴り倒した。止めに入った警備員にも殴り掛かり、警備員が拳銃を発砲、居合わせた女性店員の首に弾が命中し死亡した(この日州法で、公の場でのマスク着用が義務付けられた)。

しかし、悪いことばかりではない。

  • インド北部のパンジャブ州では新型コロナウイルス対策のロックダウン(都市封鎖)で全土の大気汚染が大幅に改善し、200キロ近く離れたヒマラヤ山脈が数十年ぶりに見晴らせるようになった。
  • 国際エネルギー機関(IEA、本部パリ)は4月30日、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、2020年のエネルギー関連の二酸化炭素(CO2)排出量が前年比約8%減少するとの見通しを公表した。米スタンフォード大学のロブ・ジャクソン教授は、この50年間でこれだけの効果を上げた危機は他にはなかったと語った。もしかしたら、地球温暖化の速度が緩むかも知れない。
  • 日本で各種学校の休校が長期化する中、 全国知事会でこの際9月入学に移行するべきだという意見が多く出された。僕は従来どおり、桜が咲く4月入学の方が情緒的には相応しいと考えるが、世界的標準に合わせた9月入学だと海外留学がしやすくなるなどメリットも見過ごせず、新型コロナ禍なくしてこういった議論も有り得なかったわけで、大変有意義なことだと思う。
  • 今回の騒動がきっかけで、オンライン授業やテレワークなどシステム環境の整備が一気に加速した。この経験は業務や学業が通常通り再開された後も、決して無駄にはならないだろう。

5月1日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は当初イスラエルの都市テル・アヴィヴで予定されていたヨーロッパ・コンサートを新型コロナウィルスの蔓延により断念し、急遽会場を本拠地フィルハーモニーに移して無観客で実施、全世界に無料中継された。指揮はキリル・ペトレンコ、樫本大進がコンサートマスターを務めた。僕はリアルタイムで鑑賞。前半はアルヴォ・ペルト「フラストレス」、サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」など弦楽合奏曲で、15人の奏者が間隔を2mくらい取り、十分なSocial Distance(社会的距離)を保って演奏した。真摯な祈りの気持ちがこもった、大変美しく感動的なパフォーマンスだった。プログラム後半、マーラーの交響曲第4番はエルヴィン・シュタインによる室内オーケストラ版。なんと独唱者(クリスティアーネ・カルク)を除いてたった14人!第1/第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが1名ずつ、金管なし、木管がオーボエ、フルート、クラリネット各1名、そしてピアノ2名、ハルモニウム、打楽器という編成。〈音楽の力〉の凄みを、まざまざと見せつけられた!ただただ脱帽である。

コロナ禍の影響で倒産するホテル・飲食業・スポーツジム・ライブハウス・ミニシアター(映画館)は少なからずあるだろう。東京や大阪のオーケストラ、劇団で存続が困難になることろも出てくるだろう。仕方がない、あきらめるしかない。しかし、全部潰れるわけではない。気の毒だけれど、僕はダーウィンの進化論が言うところの「自然選択/自然淘汰」だと思う(ウィルス=自然)。優れたものだけが生き残るのだ。ミニシアターがなくなろうが、動画配信サービスがその代わりを担ってくれるだろう。4つある在阪オーケストラは統合して数を減らせば良い。その方が質も向上する。これが「新しい解釈」だ。

僕たちは今、世界恐慌や第二次世界大戦、あるいは「黒死病」と呼ばれるペスト(エボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱という説もあり)が大流行した中世ヨーロッパに匹敵する大きな困難に直面している。出口はなかなか見えてこない。しかし物事には暗い側面と、明るい側面がある。ピンチはチャンスだ。映画「風の谷のナウシカ」のラストシーンで描かれたように、絶望の中からも必ず希望の芽は生えてくる。僕はこの先、どんな新しい世界が広がっていくのか、とても胸を躍らせている。だから、(世界が生まれ変わる)その日が来るまでおとなしく"Stay Home"を守り、なんとか生き延びようではないか!

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新型コロナウィルスとの戦い〜イタリアの医療崩壊と学徒動員、ブロードウェイ閉鎖

2020年3月6日、フランスのマクロン大統領はテレビ演説し、「我々は(ウイルスとの)戦争状態にある」と何度も強調した。

3月16日、ドイツのメルケル首相は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて国民向けにテレビ演説し、「第二次世界大戦以来、最大の試練に直面している」との認識を示した。彼女がテレビ演説を行うのは極めて異例である。

イタリアのコンテ首相は3月21日、テレビ演説で現状を「この国にとって戦後で最も厳しい危機だ」と表明した。そして翌22日、死者数が5476人に達し(感染者は5万9千人)、既に中国の死者数を上回った。イタリアでは人工呼吸器の数が足りず、医師・看護師ら医療スタッフは不眠不休の労働で疲弊し、医療崩壊が起こっている。同国政府は卒業試験を控える医学生約1万人に対し、試験を免除して、即戦力として通常より8~9か月早く医療現場に投入することを決めた。

これって、正に日本における第二次世界大戦末期の学徒動員・学徒出陣(1943- )と同じ状況ではないか!幕末の戊辰戦争で例えるなら会津藩・白虎隊の悲劇。ドイツで言えばやはり1943年以降に実施されたヒトラーユーゲント(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)の出兵に相当するだろう。つまり今、世界は戦時下にある。

アメリカではブロードウェイの劇場や映画館、レストランが閉鎖。ニューヨーク州は外出禁止令を出した。アメリカの場合、第一次・第二次世界大戦でも戦場にならなかった(日本軍が到達出来たのはハワイの真珠湾まで)。つまり本土空襲がなかったわけで、劇場やハリウッドのスタジオが閉鎖されるなんて前代未聞である。そういう意味でこれだけの危機的状況は南北戦争(1861-65)以来と言えるのではないだろうか?

日本では2月末にいち早く、安倍総理の大規模イベント中止要請(Request)に対して、演劇・ミュージカルを上演する劇場やコンサート・ホールが自主的に公演を中止した。あくまでリクエストだから強制力はないのに、日本国民は相変わらず御上(おかみ)に対して羊のように従順だなぁと思った。そもそも〈大規模イベント〉の定義が曖昧である。〈忖度した〉とも言えるし、我が国特有の〈同調圧力〉に屈したとも言える。〈出る杭は打たれる〉のである(どこよりもいち早く劇場公演を再開した宝塚歌劇団は徹底的にSNS等で叩かれ、またたく間に再休演に追い込まれた)。そのくせ一ヶ月も立たないうちに音を上げ、政府に対しやれ損害を保証しろだの、「演劇の死」だの、騒がしいことこの上ない。どうも「戦争状態にある」という認識が彼らには欠けているのではないだろうか?

対してブロードウェイの劇場は3月12日にニューヨーク市長が非常事態を宣言するまで、公演を一切止めなかった。〈要請〉と〈強制〉には大きな隔たりがある。さすがアメリカの演劇人は気骨があるなぁと改めて感心した。これぞ"The Show Must Go On"の精神だろう。一度始めてしまったら、何があっても中止出来ないという意味である。野田秀樹さんには是非とも彼らの爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。覚悟が違う。

欧米諸国の演劇のルーツをたどると、古代ギリシャ演劇に行き着く。「オイディプス王」なんか、紀元前427年頃の作品である。エピダヴロスの古代劇場は紀元前4世紀に設計された。なんと今から2400年前に常設劇場があったのである。日本の場合、推古天皇のときに朝鮮半島や中国大陸から伝わったとされる伎楽(ぎがく)はパレード+滑稽味を帯びた無言劇で、奈良時代に伝わった散楽(さんがく)は軽業・曲芸・奇術・踊りなど大衆芸能だった。ちゃんとした舞台で演じられる演劇としては室町時代に成立した猿楽(能)まで待たなければならない。観阿弥・世阿弥親子が登場するのが14世紀だからせいぜい600年程度の歴史である。その差を今回の新型コロナウィルス騒動で見せつけられた気が僕にはした。「演劇の死」なんかじゃない、「日本演劇の敗北」である。

新型コロナウィルスは我々に様々な目を開かせてくれる。

立憲民主党の蓮舫は安倍総理が中国と韓国からの入国制限に踏み切ったことに対して国会で「エビデンスはあるのか?」と食い下がった。

ノーベル生理学・医学賞を受賞した京大の山中伸弥教授はYOSHIKIとの対談で次のように述べている。「今よく言われるのは『エビデンスはあるんですか?』『科学的エビデンスに基づいた対策ですか?』という議論もあると思うんですね、でもこれはエビデンスを待っていたらいつまでも対策は出来ません。人類が初めて経験してるんですから、エビデンスなんかどこにもないんです。じゃあ、その間何もしなかったら手遅れになってしまいます」

ここから学ぶべき教訓。意味も分からずに「エビデンス」を連呼する人間を絶対に信じるな!

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新型コロナウィルスが僕たちに教えてくれること

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は常々思っている。例えば災害時。大地震が起こると発展途上国では暴動に発展し、商店への略奪がしばしば起こる。貧富の格差、貧しい者の富める者に対するルサンチマン(嫉妬・怨嗟)が一気に吹き上がる。その点日本人は阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も救援物資が配給されるのを割り込みもせず列を作って辛抱強く待ち、その姿が世界から称賛された。僕たちは非常時でも品格を失わなかった。

新型コロナウィルスの騒動で、世界は総鎖国状態になっている。ヨーロッパ諸国もこの緊急事態にナショナリズムを剥き出しにし、国境を閉ざした。EUと称するグローバリズム(緩やかな社会主義)の正体・欺瞞が白日の下に晒された。イタリアが医療崩壊しても近隣諸国は自国のことでいっぱいいっぱいで、知らんふりだ。結局、「世界は一家、人類はみな兄弟」じゃなかった。なんと中国から医師300人で構成される専門家チームがイタリアに派遣された。皮肉なことにイギリスのEU離脱は正しかったことが、こんな形で証明された。

アメリカやヨーロッパで、アジア人差別が横行している。彼らは「私は人種差別なんかしていない」という仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨て、本来の顔を覗かせた。

日本では音楽家や演劇関係者の頭の中がお花畑であることがはっきりと分かった。

野田秀樹氏の、このまま劇場を閉ざしていたらそれは「演劇の死」を意味するという発言には心底驚かされた。いやいや野田さん、まだ1ヶ月そこらでしょう。1945年の東京大空襲で首都が焼け野原になっても、広島・長崎に原爆が投下されても演劇は死ななかったんですよ。そんなやわなものじゃないでしょう?泣き言言いなさんな、みっともない。貴方はもっと骨のある人だと思っていました。失望しました。

3・11東日本大震災のとき、当時政権与党だった民主党が如何に経験不足で頼りない党かということが露見し、全国民は呆れ返った。その後に行われた総選挙で惨敗、結局民主党という組織そのものが消滅した。3・11がなければ、民主党はもう暫く存続出来たのではないだろうか?亡国の危機を迎えることによってその化けの皮が剥がれたのである。

今回のコロナウィルスによる危機を迎えても、韓国は日本に対する攻撃を緩めない。恨(ハン)は決して変わらない。

また、朝日新聞の鮫島浩氏が次のようにツィートしている。

日本政府による〈陰謀論〉だ。

日本が韓国やイタリアに比べて、検査件数が少ないことは事実だ。しかしそれは対外的に日本の安全性をアピールしたいという〈隠蔽工作〉なんかじゃない。軽症者が病院を占拠して重症者が入院できないといった、医療崩壊を防ぐことに狙いがある。鮫島氏はイタリアみたいに日本も医療崩壊すれば良いと考えているのだろうか?まぁこの人は憎き安倍政権を打倒出来さえすれば、国が滅んでも気にしないのだろう。安倍総理をこき下ろすことだけが目的化している。

どの程度の症状で検査するかによって感染者数は変化する。それを国別に比較することに意味はない。しかし死亡者数は誤魔化せない。重症で人工呼吸機に繋いでいる患者にウィルスのPCR検査をしないなんていうことはあり得ないからである(日本では死亡後に感染が判明した症例もある)。

〈陰謀論者〉たちは保健所が検査させないように策略をめぐらせていると主張するが、日本では2020年3月6日から新型コロナウィルス検査が保険適応となった。つまり保健所を介さず、医師の判断で検査出来るようになったのである。

3月19日現在、日本国内の死亡者は29人。韓国は91人。中国以外で多い順にイタリア2978人、イラン1135人、スペイン598人、フランス264人となっている。「日本は何とか持ちこたえている」というのは紛れもない事実だ。更に言えば日本の人口は約1億2600万人である。韓国が約5100万人でイタリアが6048万人。死亡率(人口10万対比死亡数)を計算すると、さらに格差は広がる。ここで〈陰謀論者〉たちは死亡者数を検査した人の数で割って「日本の死亡率は高い」と主張するのだが、これはインチキである。このやり方だと、症状の全くない人まで沢山検査した国のほうが見かけ上率が減ってしまう。ナンセンスだ。どうして彼らはここまでして、日本を貶めたいのだろう?実に情けない。

さらに朝日新聞の小滝ちひろ編集委員・ソーシャルメディア記者はツイッターに次のような投稿をした。

「(略)戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」

ここでも世界を覆う災厄よりも、憎っくきトランプ大統領が右往左往している姿を見る方が嬉しいという本性が剥き出しになっている。時の権力者へ自らの憎悪をぶつけることが目的化し、他のことが全く見えなくなっているのだ。なんと愚かなことだろう。

 

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新型コロナウィルスと”浮草稼業“

新型コロナウィルス感染症の影響で、どんどんコンサートや各種イベントが中止に追い込まれている。2020年2月26日(水)、Perfumeが予定していた東京ドーム公演の2日目が中止された。開演5時間前の決定だった。新聞記事によると東京ドームのキャンセル料は実損2億円だという。

僕は2月29日(土)に兵庫県立芸術文化センターでフィンランドの俊英サントゥ=マティアス・ロウヴァリが指揮するエーテボリ交響楽団を聴く予定だったが、26日夕方に公演中止がアナウンスされた。なんとオーケストラの楽員は既に、遥々スウェーデンから日本に到着していた。一度も演奏することなく帰国することになった彼らがとても気の毒だ。

また37()8()にびわ湖ホールで上演される予定だったワーグナーのオペラ「神々の黄昏」も中止が決定された。「ニーベルングの指環」4部作を4年間かけて上演する大プロジェクトの最後を飾る筈の作品だった。チケットは既に購入しており、無念で仕方ない。

びわ湖ホールは赤字経営で滋賀県は毎年、11億円という助成金を出している。「神々の黄昏」の制作費は1億6千万円。その収益が0になった。果たして今後も存続出来るのだろうか!?

東京・帝国劇場や大阪・梅田芸術劇場、宝塚大劇場、劇団四季の全国の劇場もこの先2週間前後の公演中止を決定した。

さて、ミュージカル「レ・ミゼラブル」でジャン・バルジャンを演じたこともある某役者が、新型コロナ騒動に関して「文化、芸術だって経済を動かしている。劇場公演を中止するのなら、電車も止めろ」とツィートしている。また映画「蜜蜂と遠雷」でサウンド・トラック制作にも参加した某ピアニストは、「政府の要請を受け音楽業界は大騒ぎ、中止や公演延期が次々発表されていく。その一方、都内のラッシュ時に電車は相変わらず満員で、駅は大混雑。ウィルス拡散防止のバランスはこれでいいの?」という旨をSNSで呟いている。

呆れてしまった。そしてその直後からこみ上げてくる笑い。彼らは自分たちの職業が、”浮草稼業”であるという自覚がないのだろうか?

物事には優先順位がある。生命の危機に晒された緊急事態にまずカットされるのは音楽や芸能活動、娯楽、つまり全てひっくるめてAmusement & Entertainmentであることは仕方がないことだ。人が生きていく上で音楽や芝居がなくても差し障りはない(この際、”心の豊かさ”は二の次。そんな余裕はない)。

しかし首都圏の電車を止めたらどうなる?(職員の通勤に支障をきたし)霞が関や病院が機能しなくなっても構わないのか?電気やガスが止まって良いとでも?食料の流通もままならなくなる。ライフラインと芸能活動を等価で語るのは非常識だろう。

そもそも安倍総理は大規模なイベントの中止・延期を「要望(リクエスト)」しているのであって、これは行政命令ではない。主催者が総理の意向を忖度(そんたく)しているに過ぎない。あるいは日本人の特徴である同調圧力と言い換えることも出来る。強制力はないのだから「右にならえ」せず、したい者は信念を持って公演を続行すればいい。

上方落語界で唯一の人間国宝だった故・桂米朝は弟子入りした折、師匠の米團治から次のように言われたという。

「芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良いの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」

音楽家にしろ役者にしろ「米一粒、釘一本もよう作らん」身の上であり、「ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない」のも全く同じだろう。そういう”浮草稼業”でありながら、噺家と違って彼らに欠けているのは末路哀れという「覚悟」なのではないか?浮世離れしているというか、頭の中がお花畑なのだ。

こうした常識外れな音楽家たちの生態を見事に描き出したのが漫画「のだめカンタービレ」である。登場人物たちは全員、社会性が欠如した奇人・変人ばかり。でも芸術家って、きっとそれでいいのだ。世間は彼らの突出した才能だけすくい取って、消費する。そういう社会システムになっている。

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【考察】今世紀最大の問題作・怪作!ミュージカル映画「キャッツ」〜クリエイター達の誤算

2019年12月20日に北米で公開されるやいなや、「グロテスクなデザインと慌ただしい編集で、不気味の谷へと転落していく。ほとんどホラー」(Los Angeles Times)「4回吐いた」「悪夢を見ているよう」「あまりの恐怖に涙が出た」「猫の皮を被ったカルト宗教集団から延々と洗脳され続ける体験」などと酷評され続ける映画「キャッツ」。

現在、IMDb(インターネット・ムービー・データベース)での評価は10点満点中2.8点(2万5千人以上の集計)、なんと!史上最低(B級映画をも下回る)Z級映画と誉れ?高い「死霊の盆踊り」Orgy of the Dead の2.9点より低い。

Bon

因みに「アタック・オブ・ザ・キラー・トマト」が4.6点、エド・ウッド監督「プラン9・フロム・アウタースペース」は4.0点だ。つまりZ級映画の殿堂入り確定、文句なしのカルト映画ということ。

続いて【腐ったトマト(Rotten Tomatoes)】を見てみよう。

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評論家の肯定的評価は20%で〈腐った〉、一般人からは53%の支持しか得ていない。なお北米で公開された新海誠監督「天気の子」(英題:Weathering With You)に対する評論家の肯定的評価は92%〈新鮮〉、一般人は95%となっている。

Cats

僕がこれだけのショック(電気的啓示 electric revelation)を受けたのは橋本忍(脚本・監督)のトンデモ映画「幻の湖」(1982)以来ではなかろうか!?だから40年に1本の珍作・怪作と断言しよう。小説で言えば「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」「黒死館殺人事件」など三大奇書レベル。

BとかCとか中途半端な評価は本作に似合わない。AかZの二択だ。僕は存分に愉しんだので謹んでAを進呈する。字幕版だけでは飽き足らず、日本語吹き替え版も立て続けに観た。

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舞台ミュージカル「キャッツ」は1981年にロンドンで開幕。ロンドンで21年、ブロードウェでは17年間のロングランを記録。トニー賞ではミュージカル作品・楽曲・台本・演出賞など7部門を制覇した。

役者が猫を演じ、人間役は一切登場しないという当時としては革新的なミュージカルであり、長らく実写映画化は不可能と言われていた。スティーヴン・スピルバーグの製作会社、アンブリン・エンターテイメントがアニメーション化するという話もあったが、結局立ち消えになった。

普段私達が舞台を観る時は、想像力をフルに働かせて足りないものを補っている。そこに猫の着ぐるみを身にまとった役者がいれば、【人間→猫】に〈見立て〉る 。つまり脳内で〈変換〉作業が行われる。絵の具で描かれた舞台背景=書き割りも、本物の風景が広がっていると〈想像力〉で補完する。その究極の姿が落語であり、座布団の上で演者が上下(かみしも)を切る(顔を左右に向けて話す)ことで、観客は二人の登場人物が会話していると脳内で〈見立て〉る 。小道具となる扇子も、広げて盆に〈見立て〉たり、閉じたまま煙管や筆、箸に〈変換〉して使用される。つまり落語は観客の〈想像力〉を借りなければ成り立たない芸能である。年端のいかない幼い子が見たら「あのおっちゃん、なに一人で喋ってんの?アホちゃう」ということになるだろう。これが芝居・寄席小屋における暗黙の了解である。

ところが、映画というメディアではそうはいかない。リアリティが求められ、〈想像力〉を働かせる必要がない。白黒の無声映画時代なら背景が書き割り(絵)でも許された。しかし音声が付き、カラーになり、画面が大きくなってサラウンド・スピーカー・システムが導入され事情が変わった。現在ではフィルムからデジタル時代になり、さらに細密な描写が必須となった。つまり映画は舞台よりも実生活に近いメディアであり、映画館はヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)の場。だから観客は〈見立て〉たり、〈想像力〉を働かせることを止めてしまった。IMAX上映とかアトラクション(体感)型4Dシアターの出現は、その傾向に拍車をかけた。

舞台では日本人がリア王やマクベスを演じても不自然じゃない。ギリシャ悲劇やチェーホフも演る。宝塚歌劇の男役だってそう。しかし映画でそれは許されない。〈見立て〉が成り立たないのだ。つまり「これは花も実もある絵空事ですよ」という約束事が通じる閾値・境界線、仮にそれをReality Lineと呼ぼう、が舞台と映画では明確に違う。

映画「キャッツ」は着ぐるみではなく、最新のCG技術"Digital Fur Technology"を駆使して役者に猫の体毛を生やした。非常にリアルだ。すると観客は【人間→猫】に脳内変換することが不可能になる。人間でもなく、猫でもない化け物(monster)=猫人間の誕生である。「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する猫娘みたいなものだ。しかもおぞましいことに更に小さな、人間の顔をしたゴキブリ、つまりゴキブリ人間も登場し、猫人間がそれを食べてしまう衝撃的な場面が用意されている。ここで大半の人はカニバリズムを連想し、阿鼻叫喚となるだろう。「進撃の巨人」における巨人が人間を喰らう場面に相当、さながら地獄絵図である。

面白いのは映画「キャッツ」批判の中に、〈彼らは性器がついておらず、股間がツルンとしているのは何故?〉というのがあった。舞台版では一度もされたことのない問いである(Catsの着ぐるみに、性器がついていたら気持ち悪くないですか?)。ここでも舞台と映画ではReality Lineが異なることが示されている。映画ではより精密な描写が求められるのだ。この股間問題は、ディズニーの超実写(CG)版「ライオンキング」でも話題になった。アニメ版ではその省略を誰も気にしなかったのに。つまりセル画アニメとCGでも、観客が求めるReality Lineは違う。漫画のアニメ化に成功例は多いが、実写映画化は殆ど失敗しているのもReality Lineの差に原因があるのだろう。

本作を観た多くの人が「不気味だ」「怖い」と感じる。それは危険を察知して回避しようとする動物的な防衛本能である。私達は舞台を観るときにある程度距離をおいて客観視することが出来る。つまり知性で「これは虚構(Fiction)だ」と分かり、現実(Real)と区別している。しかし映画になると知性が吹っ飛び本能が表面に出てきて主観的になる。虚構と現実の境界が曖昧になるのだ。興味深い現象である。だからこそ映画には没入感があり、より一層人の心の深層に潜り込むことが出来る。

結局、「英国王のスピーチ」でアカデミー作品賞・監督賞を受賞したトム・フーパーら「キャッツ」のクリエイターたちは、舞台と映画の本質的違いをよく分かっていなかったのだろう。そこに彼らの大いなる誤算があった。結局、アニメーション化したほうが無難だった。

ミュージカル「キャッツ」は基本的に歌と踊りを主体としたショー=レビューである。一匹ずつ、自分がどういう猫かを語ってゆく。だから基本的に物語らしい物語はない。それを期待するだけ無駄である。過去の映画で一番近いのは「ロッキー・ホラー・ショー」かな?だからこれから映画版を観る人は、一夜のパーティに参加するノリで足を運んだら良いだろう。いずれ「ロッキー・ホラー・ショー」同様に、猫のコスプレしてスクリーンに向かって野次やツッコミを入れる観客参加型上映が定着するのではないだろうか。

映画版のオールド・デュトロノミー役:ジュディ・デンチは1981年のウエスト・エンド公演でグリザベラを演じる予定だったが、稽古中の怪我で止むなくエレイン・ペイジと交代した。粋な配役である。因みに舞台版のオールド・デュトロノミーは男優が演じる。

あと映画版のグリザベラ(ジェニファー・ハドソン)はシャンデリアに乗って上昇し、天上界へと向かう(舞台版ではタイヤが浮き上がる)。これは同じロイド・ウェバーのミュージカル「オペラ座の怪人」第1幕のクライマックスでシャンデリアが落下することと、きれいに対称を成している。このあたり、トム・フーパーの演出は冴えに冴えている。

ブロードウェイ・ミュージカル「ハミルトン」「イン・ザ・ハイツ」 などでトニー賞の振付賞を3度受賞しているアンディ・ブランケンビューラーによる振付がヒップホップを取り入れるなど斬新でダイナミック。

また日本語吹き替え版は山崎育三郎、大竹しのぶ、山寺宏一、宝田明らが素晴らしく、聴き応えあり。

映画という概念を変える、画期的・革新的エンターテイメントの出現である。四の五の言わず、直ちに劇場で体感せよ!!

〈追伸〉本作にガッカリしたという貴方、トム・フーパー監督を見限らないであげて。2月にAmazon Prime Video他から配信される「ダーク・マテリアルズ/黄金の羅針盤」は絶対に面白いから!なんと、「ゲーム・オブ・スローンズ」の米HBOと「シャーロック」の英BBC共同制作による超大作だ。こちらからどうぞ。

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望海風斗(主演)宝塚雪組「ONCE UPON A TIME IN AMERICA (ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ)」

故セルジオ・レオーネ監督には次のようなタイトルの映画がある。

  • Once Upon a Time in the West(ウエスタン)
  • Once Upon a Time in America 遺作

そして2019年にクエンティン・タランティーノ監督の、

  • Once Upon a Time in Hollywood

が公開され、これで3部作が完結した。タランティーノは心からレオーネを敬愛しており、"Once Upon a Time in the West"について「この映画を観て映画監督になろうと思った」と熱く語っている(詳細はこちら)。タラちゃんがエンニオ・モリコーネの音楽を偏愛するのもレオーネの影響だろう。だから自作「ヘイトフル・エイト」でモリコーネを起用し、彼にとって初めてのアカデミー作曲賞をもたらした。これもある意味、レオーネとモリコーネへの感謝の気持ちの表明、恩返しであると言えるだろう。

ここで僕が考えるエンニオ・モリコーネのベスト5を挙げておこう。

  1. ニュー・シネマ・パラダイス
  2. Once Upon a Time in the West(ウエスタン)
  3. ミッション
  4. The Good, the Bad and the Ugly(続・夕陽のガンマン)
  5. Once Upon a Time in America

次点は「死刑台のメロディ」(Sacco e Vanzetti:サッコとヴァンゼッティ)かな?「天国の日々」もいいしな……。

"Once Upon a Time in America"はなんと言っても〈デボラのテーマ〉が素晴らしい!胸に染み入る美しさを湛える。

その"Once Upon a Time in America"を小池修一郎の作・演出で宝塚歌劇が上映すると聞いたときには心底驚いた。そして「大丈夫かな……」と不安になった。

華やかさとは程遠いノワール(マフィアもの)だし、宝塚に向いていると思えない。特に主人公のヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)がキャデラックの車内で幼馴染のデボラ(エリザベス・マクガヴァン)をレイプする場面(衝撃的だった)とか、チャイニーズ・タウンの阿片窟でヌードルスがヘロヘロになり、虚ろな目でニヤッとする(そこでストップモーションがかかる)あの絶望的なラストシーンを一体全体どう処理するんだ!?と気が気じゃなかった。「清く正しく美しく」という、すみれコードに明らかに抵触する。

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1月12日(日)宝塚大劇場で観劇。結局、僕の心配は杞憂に終わった。さすが歌劇団のエース・小池修一郎、手練れである。小池が書いた台本の最高傑作は文句なしに「ポーの一族」だが、「ONCE UPON A TIME IN AMERICA 」はその次に挙げてもいいんじゃないかな?そう思った。

因みに僕が過去に観たことがある小池のオリジナル作品(海外ミュージカルを除く)は他に「ヴァレンチノ」「PUCK」「ロスト・エンジェル」「失われた楽園」「ブルースワン」「JFK」「イコンの誘惑」「エクスカリバー」「タンゴ・アルゼンチーノ」「LUNA -月の遺言-」「カステル・ミラージュ-消えない蜃気楼-」「薔薇の封印 -ヴァンパイア・レクイエム- 」「NEVER SAY GOODBYE -ある愛の軌跡- 」「アデュー・マルセイユ」 「グレート・ギャツビー」「オーシャンズ11」「カサブランカ」「銀河英雄伝説」「眠らない男・ナポレオン」「るろうに剣心」「ALL FOR ONE 〜ダルタニアンと太陽王〜」といったところ。

さて本題に入ろう。幕が開くと早速、ギャングに扮した黒燕尾の男役達による群舞から始まるのに胸が高鳴った。カッケー、最高!

デボラに対するレイプは未遂に終わり、深紅のバラの花でいっぱいの宝塚らしい場面に差し替えられていたし、阿片窟は出てくるけれど新たに別のラストシーンが用意されていて、納得の幕切れだった。

デボラがブロードウェイで成功するエピソードでは華やかなレビューが展開され、まるで「ジーグフェルド ・フォリーズ」だったし、それとは対照的に、禁酒法時代に“スピークイージー”と呼ばれたもぐり酒場でのいかがわしい退廃的ショーはボブ・フォッシー振付の「シカゴ」とか「キャバレー」を彷彿とさせた(以前小池は「キャバレー」を演出している)。「三文オペラ」のクルト・ヴァイル的とも言える。

また仲間の一人ジミーの人物造形が、全米トラック運転手組合の委員長を務めたジミー・ホッファをモデルにしていることに今回初めて気が付いた。マーティン・スコセッシが監督した映画「アイリッシュマン」(2019)ではジミー・ホッファをアル・パチーノが演じ、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」に出演したデ・ニーロやジョー・ペシも「アイリッシュマン」で共演している。

あとデボラが将来、ハリウッド・スターになってヨーロッパの王族に見初められ、王妃になるんだと夢見ている設定は、モナコ公国の公妃になったグレース・ケリーの人生を踏まえているのだろうなと思った。

モリコーネの音楽は一切使用されず、太田健の作曲した楽曲も悪くなかった。あと望海風斗と真彩希帆が歌えるトップ二人なので、安心して作品世界に浸ることが出来た。お勧め!

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