舞台・ミュージカル

2018年5月25日 (金)

神話の構造「スター・ウォーズ」と「指輪物語」&「ニーベルングの指環」

1876年に第1回バイロイト音楽祭において初演されたワーグナーの「ニーベルングの指環」4部作は北欧神話に基づいている。J・R・R・トールキンの「指輪物語」(The Lord of the Rings)は1954-5年に出版され、それに先立って「ホビットの冒険」が37年に出版された。そして1977年にジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」が公開される。

以下、この3作品の構造が全く同じであることを証明していくが、そこに宮﨑駿「崖の上のポニョ」も絡めたい。ポニョの父フジモトは彼女のことを”ブリュンヒルデ”と呼ぶ。「ニーベルングの指環」の登場人物である。つまり彼女と妹たちはワルキューレ(北欧神話に登場する半神)なのだ。ポニョが津波の上に立ち宗介のところに現れる場面で久石譲の音楽がワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」にそっくりなのは決して偶然じゃない。「ニーベルングの指環」で【神々の黄昏→人類の台頭】が描かれるのに対し、「ポニョ」は【人間の時代の終焉→新人類(ポニョと宗介の子供= a Star Child)誕生】をテーマにしている。洪水の後に古代デボン紀の水中生物たちが現れるのはそのためである(公式サイトへ)。なお「スター・ウォーズ」で作曲家ジョン・ウィリアムズが採用したライトモティーフ(示導動機)の手法は「ニーベルングの指環」に由来する。

構造分析はフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)の手法に倣った。

「ニーベルングの指環」のあらすじはこちら。人物相関図はこちら。「指輪物語」の概要についてはこちらとか、こちらの年表をご参照あれ。

「ニーベルングの指環」では

  • ヴォータンの支配する天上の神々の世界↔地下のニーベルング族《垂直方向の差異

という二項対立があり、その中間地点=地上の人間世界では

  • ヴェルズング族(ジークムント、ジークリンデ)↔フルンディングの一族

という二項対立がある。ジークムント、ジークリンデはヴォータンが人間に産ませた双子の兄妹なので

  • 神々(その長がヴォータン)↔フルンディング(人間界)

の相克にも置き換えられる。これが最終夜「神々の黄昏」では

  • ジークフリート(ジークムントとジークリンデの間に生まれた息子)↔グンター(ライン河畔ギービッヒ家の当主)+ハーゲン(グンターの異父兄弟、父はニーベルング族のアルベリヒ)

となる。

「指輪物語」では

  • 冥王サウロン+サルマン(白の魔法使い)↔人間+エルフ(自然と豊かさを司る半神)+ガンダルフ(灰色の魔法使い)《水平方向の差異

「スター・ウォーズ」では

  • 銀河共和国(滅亡後はレジスタンス)&ジェダイの騎士(白っぽい服装)↔銀河帝国(シスの暗黒卿、ダース・ベイダー)(黒っぽい服装)《光と闇、明度の差異

変換される。ここで興味深いのが「指輪物語」で魔法使いが両陣営に分かれていること。「スター・ウォーズ」でもジェダイの騎士が light sideとdark side両方に布陣している。これに相当するのが「ニーベルング」では人間である。【神と結合し、子(ジークムントとジークリンデ)を産む女↔地下世界の住人ニーベルング族と結合し、子(ハーゲン)を産む女】

では上述した二項対立を結び、その境界を超え循環する第三項は何か?「ニーベルング」「指輪物語」については言うまでもなく指輪であり、「スター・ウォーズ」ではForce(日本語では〈理力〉〈霊力〉、中国語では〈原力〉と訳された)が該当する。指輪フォースも絶大な力を秘めていることは確かだが、その実態はよく判らない(指輪の場合は欲望のメタファーでもある)。得体が知れない。レヴィ=ストロースはこれをゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)と名付けた。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。そしてゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシア(オセアニア)の原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。ジャック・ラカン(1901-81)の精神分析においてその機能を果たすのは「ファルス」(象徴的な男根)と言える。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)は浮遊する過剰シニフィアンである。意味が無いのではなく、その多義性に特徴がある。なお「ハリー・ポッター」シリーズにおけるゼロ記号は勿論、魔法だ。

「ニーベルングの指環」ではライン川の3人の乙女が守る黄金を地底の住人アルベリヒが奪い、鍛えて指輪を造る。最終的にブリュンヒルデの手で指輪はラインの乙女たちのもとに戻る。その時、ライン川が氾濫し大洪水が発生する。「指輪物語」においてサウロンはモルドールにある滅びの山(火山)の火口で金属を鍛えて指輪を造る。そして最終的にフロドが滅びの山の火口に指輪を葬る。その行為は大噴火というカタストロフィー(破滅的な災害)を起こす《からへの変換》。両者に共通するのは「一体化していたあるものを無理矢理引き剥がし過渡の分離をしたために起こった混乱・無秩序・悲劇を解消するために、仲介者がそれを本来あるべき場所に戻す」という構造(プロット)である。また「指輪物語」では白の魔法使いサルマンの居城があるアイゼンガルドをエント(木に似た巨人)がアイゼン川のを引き入れて水没させる。では「スター・ウォーズ」の場合はどうだろう?フォースという神秘的な力を持つアナキン・スカイウォーカー(=ダース・ベイダー)はダース・シディアス(シスの暗黒卿/パルパティーン)の計略にはまり、妻や子供たちと引き離される。しかし最後に、家族のもとに還る(エピソード6 ジェダイの帰還)。その際に核爆発によるデス・スター内部からの崩壊=カタストロフィーが発生する(初代および第2デス・スター、そしてエピソード7のスターキラー基地は全て同じ運命をたどる)。大洪水火山の噴火核爆発ーこれら「すべてを呑み込む」性質(昔話では山姥、ユング心理学におけるグレートマザー/太母に相当)は不変である。

洪水という主題は「崖の上のポニョ」にも現れる。旧約聖書では言うまでもなく《ノアの方舟》だ。

「スター・ウォーズ」におけるR2-D2とC-3POの役割は傍観者/語り部で、かつコメディリリーフだ。つまり彼らは(二項対立の)境界を超え、行き来するトリックスターである。その直接の影響が黒澤明「隠し砦の三悪人」であることは余りにも有名だが、「指輪物語」の中ではさしずめホビットが該当しよう。”語り部”の役割はビルボ・バギンズ→フロド・バギンズに、”コメディリリーフ”の役割はピピンとメリーが分け合い担っている。シェイクスピア「夏の夜の夢」のトリックスター・妖精パックも語り部であり、劇の最後に口上を述べる。「指輪物語」に於けるトリックスターはの神ローゲ(北欧神話のロキLoki)だろう。ローゲはいたずら好きで狡猾な半神だ。つまり人間と神の境界に潜む。神出鬼没であり、「ワルキューレ」ではヴォータンからの召喚に応じ岩山のブリュンヒルデを魔ので囲む。そして「神々の黄昏」では神々の居城=ヴァルハラ城を焼き尽くす。トリックスターの面目躍如である(ロキは「終わらせる者」という意で、両性具有であるという)。ギリシャ神話のトリックスター・プロメテウスは神の世界から人間界にをもたらす。は【生のもの→調理したもの】という、自然から文化への移行を象徴している。また宮﨑駿「ハウルの動く城」に登場するカルシファー≒ロキと考えてほぼ間違いない。

  • 「ニーベルング」ジークムントとフンディングの戦いのときヴォータンが現れ、自らが与えた剣ノートゥングを打ち砕く。武器を失ったジークムントは、フンディングの槍に刺されて絶命する↔「指輪物語」ゴンドール(都)の執政デネソールは戦で重傷を負った次男ファラミアが死んだと勘違いし、ファラミアもろとも焼身自殺を図る↔「スター・ウォーズ」ダース・ベイダーはルークとライトセーバーで戦い、ルークの腕を切り落とす《親族の過小評価
  • 「ニーベルング」洞窟の中で大蛇に変身したファフナー(巨人族)が財宝を守っている。ジークフリートが退治し、指環と隠れ頭巾を奪う↔「ホビットの冒険」スマウグ(ドラゴン)が財宝を守っている。ビルボが黄金の杯を盗む

隠れ頭巾というガジェット(小道具・仕掛け)は「ホビットの冒険」「指輪物語」において、指輪をはめると姿が消えるという設定に変換されている。また「スター・ウォーズ」ではジェダイの騎士がフォースの力(理力)で自分の気配を消すことが出来る。「ハリー・ポッター」にも隠れマントが登場する。

「ニーベルング」における【父ヴォータン↔娘ブリュンヒルデ】の二項対立は「指輪物語」では【ゴンドール(都)の執政デネソール↔息子(次男)ファラミア】の確執に変換されている。その背景には死んだ長男ボロミアに対するデネソールの偏愛がある。「スター・ウォーズ」では言うまでもなく【父ダース・ベイダー(アナキン)↔息子ルーク・スカイウォーカー】だ。プリクエル(前日譚、エピソード1-3)では【師オビ=ワン・ケノービ(父代わり)↔アナキン・スカイウォーカー】の衝突に置き換えられている。ギリシャ神話《エディプス王》的”父殺し”の主題はエピソード7の【ハン・ソロ↔カイロ・レン】に引き継がれる。

「指輪物語」のファラミアは父に愛してもらいたいと切望している。しかしそれは決して満たされない。これは旧約聖書《カインとアベル》の物語の引用だ。後にスタインベックの小説「エデンの東」になった。カインが弟アベルを殺すのは、神ヤハウェがアベルしか愛さなかったから。つまり嫉妬である。「ニーベルング」ではブリュンヒルデとの結婚の宴を開いたギービッヒ家の当主グンターを異父兄弟ハーゲンが殺し、指輪を奪おうとするという形で現れる(「神々の黄昏」)。「スター・ウォーズ」プリクエルでは女王パドメ・アミダラとオビ=ワンが密通ているのではないかという疑心暗鬼・嫉妬から、アナキン・スカイウォーカーがオビ=ワンとの死闘になだれ込む(「最後のジェダイ」ではレイを巡ってカイロ・レンが叔父ルークに嫉妬する)。

「ニーベルング」のジークムントとジークリンデという双子の主題は「スター・ウォーズ」の双子ルークとレイアに再現される。エピソード4ではルークがレイアに恋心を抱いているようにも描かれる《近親相姦的、親族の過大評価》。「指輪物語」ではアラゴルン(帰郷した人間の王)と結ばれるエルフ族のアルウェンに双子の兄エルラダンとエルロヒアがいるという設定として現れる。双子とは一つの卵子が二つに分化することの暗喩であり、自然(神々の黄昏)→文化(人間の台頭)への移行を象徴している。なお、ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」の撮影時に繰り返し観ていたという黒澤明「七人の侍」もまた、【武士道の終焉→庶民(農民)の時代の到来】を描いている。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はその著書「シネマ」の中で「七人の侍」に触れ、「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在すると語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

ジェダイの騎士(「ニーベルングの指環」では神々)の置かれた立場も正に、侍と同じなのである。

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2018年5月10日 (木)

ソンドハイムのミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」とシェイクスピア「夏の夜の夢」

5月4日(祝)梅田芸術劇場へ。スティーヴン・ソンドハイム作詞・作曲のミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」を観劇した。

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実はこの作品を以前、近鉄劇場でも観ている。1999年7月5-18日の全17公演で演出はジュリア・マッケンジー、音楽監督・指揮は宮川彬良だった。その時のキャストは以下の通り。

デジレ・アームフェルト(女優):麻美れい
フレデリック・エーガーマン(弁護士):細川俊之
シャーロット・マルコム(伯爵夫人):安寿ミラ
カールマグナス・マルコム(伯爵):寺泉 憲
フレデリカ・アームフェルト(デジレの娘):松下 恵
ヘンリック・エーガーマン(フレデリックの息子):岡田真善
アン・エーガーマン(フレデリックの幼妻):高塚恵理子
ペトラ(エーガーマン家のメイド):池田有希子
マダム・アームフェルト(デジレの母):東恵美子

今回の演出は役者として本作に出演した経験もあるマリア・フリードマン。1973年のブロードウェイ初演を演出したのが「屋根の上のヴァイオリン弾き」「キャバレー」「オペラ座の怪人」「スウィーニー・トッド」のハロルド・プリンスで、トニー賞においてミュージカル作品賞、楽曲賞、ミュージカル台本賞ほか計6部門を受賞した(その年に演出賞を制したのは「ピピン」のボブ・フォッシー)。デジレのナンバー"Send in the Clowns"は数多くの大女優が歌っており、僕が聴いたことがあるのはジュディ・デンチ(英国で出演)、グレン・クローズ、そしてキャサリン・ゼタ=ジョーンズ(2010年再演版に出演し、トニー賞でミュージカル主演女優賞を受賞)である。1979年に劇団四季が日本初演した際にデジレを演じたのは越路吹雪!他に久野綾希子、市村正親、鹿賀丈史、島田祐子らが出演した。

イングマール・ベルイマン監督のスウェーデン映画「夏の夜は三たび微笑む」(1955年)に着想を得たこのミュージカルのあらすじはこうだ。

19世紀末のスウェーデン。18歳のアン(蓮佛美沙子)と再婚した弁護士フレデリック(風間杜夫)はなかなか妻に手が出せず、結婚して11ヶ月経てもアンは処女。神学校に通う息子のヘンリック(ウエンツ瑛士)は密かに義母アンに恋心を抱いていた。フレデリックとアンはある日、芝居を観に出かける。主演女優のデジレ(大竹しのぶ)はフレデリックの昔の恋人。舞台に立つデジレを見た瞬間アンはふたりの関係を察し、泣きながら席を立つ。14年ぶりに再会を果たしたデジレとフレデリックは旧交を温めるように寝室に向かうが、デジレの現在の恋人で女房持ちのカールマグナス伯爵(栗原英雄)が突然来訪する。伯爵はふたりの仲を怪しみ、帰宅後妻のシャーロット(安蘭けい)にフレデリックのことを調べるよう命令する。早速アンを尋ねたシャーロットは全てを暴露し、互いの夫をデジレに取られたと慰め合う。一方フレデリックのことが気になるデジレは自分の母親と娘フレデリカが住む田舎の屋敷に、一家を招待することを計画。伯爵夫妻もこの件を嗅ぎつけ、強引に田舎に向かった。遂に顔を合わせることになった三組の家族。それぞれがさまざまな思惑を抱きながら、一夜を共にすることになる。

デジレの母はWikipedia(English ver.)の説明によると"courtesan"、つまり(王侯貴族・金持ちなどを相手にした)高級売春婦である。

5人(女性3+男性2)によるリーベスリーダー(the Liebeslieder Singers)がコーラスを担う。"Liebeslieder"はドイツ語で、英語では"love songs"となる。つまり「恋の歌の歌い手」だ。

音楽の特徴は、ほぼ全てが3拍子=ワルツで作曲されているということ。モーリス・ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」や「ラ・ヴァルス」からひらめきを得ており、大変優雅な作品である。

「夏の夜は三たび微笑む」はシェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」を基にしている。ベルイマンは映画監督としてだけではなく、舞台演出家としても名を馳せた。「夏の夜の夢」も当然演出している→こちら

ベルイマンには”神の沈黙”三部作がある。彼の父親は厳格な牧師で、キリスト教に対する強烈な嫌悪感があり、映画「仮面/ペルソナ」ではイエス・キリストを蜘蛛として描いている(生贄の羊=神への供物)。その気持ちがヘンリックの描写に反映されている。

ではベルイマンがどのように「夏の夜の夢」を換骨奪胎(ブリコラージュ)し、現在の形に練り上げていったかを分析してみよう。A Little Night Musicはドイツ語でEine kleine Nachtmusik(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)、日本語では「小夜曲」となるので、以下そう呼称する。

  • 両者とも夏の夜の森が舞台となる。「夏の夜」月夜↔「小夜曲」白夜
  • 「夏の夜」は貴族社会・職人社会・妖精世界の3つが混じり合う↔「小夜曲」では3つの家族が入り乱れる

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  • 「夏の夜」における妖精たち(豆の花、蜘蛛の巣、蛾の羽根、芥子の種)↔「小夜曲」リーベスリーダー
  • 「夏の夜」妖精の王オーベロンと女王ティターニアはとりかえ子を巡ってけんかをする↔「小夜曲」デジレの娘フレデリカの父親はもしかしたらフレデリック?(最後まで真相は明かされない)
  • 「夏の夜」ヘレナはディミートリアスを追いかけるが、許婚ハーミアに執心する彼は見向きもしない。しかしパックのいたずら(キューピッドの矢の魔法から生まれた媚薬)でディミートリアスはヘレナにゾッコンになる↔「小夜曲」ヘンリックはアンが好きだが見向きもされない。しかし最後に二人はくっつく
  • 「夏の夜」ヘレナはハーミアに嫉妬する↔「小夜曲」アンはデジレに嫉妬する
  • 「夏の夜」ヘレナを巡ってライサンダーとディミートリアスは決闘する↔「小夜曲」デジレを巡ってフレデリックとカールマグナス伯爵は決闘する
  • 「小夜曲」エーガマン家のメイド・ペトラはマダム・アームフェルトの執事フリードと屋外でセックスしようとする。正に「野生の思考」の持ち主であり、「夏の夜」では職人ニック・ボトムに該当する。ボトムはパックのいたずらでロバの頭に変容されてしまう。西洋においてロバというのは頭が足りない馬鹿の象徴であると同時に、精力絶倫を意味する。本能のまま生きる「夏の夜」の職人たちは最も無意識に近接した深層にいる。それは「小夜曲」の使用人たちも同様。その対極(意識の浅層)に位置するのが禁欲=理性で自己を制御しようとするヘンリック。
  • では「夏の夜」のいたずら好きなトリックスター・妖精パックは「小夜曲」では誰か?僕はマダム・アームフェルトだと考える。「夏の夜」はパックの口上で締め括られ、「小夜曲」もマダムの口上で終わる。トリックスターは境界を超え行き来する。マダムは【婚姻↔非婚姻(独身)】の境界に潜む。招待状を出して一同を集結したのも彼女だ。

演技者について。再演のニュースを聞いた当初は、風間杜夫や蓮佛美沙子らミュージカル出演経験の乏しい役者が何人かいて、「大丈夫かいな?」と危惧していた。しかし蓋を開けてみると杞憂に終わった。特に大竹しのぶと風間杜夫のコンビは、歌唱力だけ取れば確かに麻実れい&細川俊之に一歩譲るが、その分、演技力で大幅に上回っていた。味わい深く、この洒落た一夜の夢を堪能した。しかし前回の上演から19年も経ってしまったので、次回はもっと間を開けず、再演してもらいたいものだ。待ってます。

最後に。僕が今までに観たソンドハイム作品を好きな順に挙げよう(「ウエストサイド物語」など歌詞担当のみの作品は省く)。

  1. メリリー・ウィー・ロール・アロング
  2. スウィーニー・トッド
  3. 太平洋序曲
  4. リトル・ナイト・ミュージック
  5. イントゥ・ザ・ウッズ
  6. サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ ~日曜日にジョージと公園で~
  7. パッション
  8. カンパニー

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2018年5月 8日 (火)

シリーズ《音楽史探訪》「トリスタンとイゾルデ」から「ペレアスとメリザンド」へ〜その構造変換を読み解く。

ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が初演されたのは1865年であった。その起源はケルトの説話であり、12世紀の中世フランスで韻文の物語にまとめられ、イギリスに於いてアーサー王物語に組み込まれた。そしてトリスタンは円卓の騎士に一人になった。

一方、ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンク(「青い鳥」の作者)が書いた戯曲「ペレアスとメリザンド」がブリュッセルで出版されたのが1892年。翌93年にパリで初演された。

「ペレアスとメリザンド」は多くの作曲家の創作意欲を掻き立てた。フォーレ(フランス)は1898年ロンドン初演のための劇付随音楽を作曲し、これに基づいたオーケストラ組曲を1900年に発表した。ハープの分散和音にフルート独奏が乗るシシリエンヌは余りにも有名である。

1902年にはドビュッシー(フランス)によるオペラが初演された。台詞のカットや移動があるものの、彼はメーテルリンクの戯曲にほぼ忠実な形で台本にしている。

1905年にはシェーンベルク(オーストリア)唯一の交響詩「ペレアスとメリザンド」が初演された。シェーンベルクが無調音楽や12音技法を確立する前の作品であり、ワーグナーの楽劇を彷彿とさせるライトモティーフ(示導動機)が用いられ後期ロマン派の香りが濃厚である。

そして同年、戯曲のヘルシンキ初演のためにシベリウス(フィンランド)が劇付随音楽を作曲し、オーケストラ組曲にまとめ上げた。

ドビュッシーやシェーンベルクがライトモティーフ(示導動機)を導入していることでも分かる通り、「ペレアスとメリザンド」に携わった作曲家たちが「トリスタンとイゾルデ」を意識しているのは明白である。後半生のドビュッシーはワーグナーに批判的だったが、若い頃の彼はワグネリアン(心酔者)だった。1880年代初期にはウィーンで「トリスタン」を観劇し、かつそのスコアを所有して丸ごと暗記していたという逸話があり、85年に留学先ローマのアポロ劇場で「ローエングリン」を鑑賞した記録も残っている。彼が初めてバイロイト詣でするのは1888年。「パルジファル」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に接し、翌89年にはバイロイトでも「トリスタン」を観劇している。

楽劇「トリスタンとイゾルデ」のあらすじはこうだ。

アイルランドの王女イゾルデは敵対するイングランド・コーンウォールのマルケ王との政略結婚のため、王の甥トリスタンに護衛され航海していた。かつての婚約者の仇でもあるトリスタンに密かに心惹かれるイゾルデは船上で服毒心中を図るが、侍女ブランゲーネが毒薬の代わりに愛の媚薬を手渡したため、それを飲んだトリスタンとイゾルデは瞬く間に熱愛に陥る。マルケ王の妻となったイゾルデだが、トリスタンとの逢瀬を重ねる。しかし密会の場に王が現れる。トリスタンは王の家臣メロートの剣によって瀕死の重傷を負うが、自分の城に戻りイゾルデを待つ。ようやくイゾルデが到着するが、トリスタンは愛するイゾルデの腕の中で息絶える。媚薬の仕業と知り2人を許そうと王一行がやってくるが、イゾルデもトリスタンの後を追って果てる。

ワーグナーが参照した大本の物語では、アイルランド王は強暴な竜の存在に悩んでおり、トリスタンが竜を退治するというエピソードがある。また後半の展開も異なり、トリスタンは金髪のイゾルデをマルケ王に返し、自身はコーンウォールを去るという条件で王と和解する。彼はブルターニュへ赴き、ブルターニュ王の娘、白き手のイゾルデと結婚する。その後、国は戦禍に巻き込まれトリスタンは瀕死の重傷を負う。自分の死期を悟ったトリスタンは使者に金髪のイゾルデからもらった金の指輪を託してコーンウォールに行くように頼んだ。そして帰りの船に金髪のイゾルデが乗っているなら白い帆を、乗っていないなら黒い帆を掲げて欲しいと言った。やがて、コーンウォールからの船が向かってきているという知らせが入り、トリスタンは白き手のイゾルデに船の帆の色を尋ねる。嫉妬に狂った彼女が「黒い帆です」と嘘をつくと、落胆したトリスタンは間もなく息を引き取った。

一方、「ペレアスとメリザンド」の物語は以下の通り。

架空の国アルモンドの王子ゴローは迷い込んだ森の奥深く、泉のほとりで見つけたメリザンドと名乗る不思議な女性に魅かれ、彼女の素性も分からないまま結婚する。祖父であるアルモンド国王アルケルの許しを得て帰国したゴローとメリザンドだが、メリザンドはゴローの異父弟ペレアスと城の庭にある「盲の泉」で親交を深める。メリザンドはゴローからもらった結婚指輪をもてあそぶ内にそれを泉の底へ落としてしまう。メリザンドが指輪をしていないことに気づいたゴローは激怒するが、メリザンドは「海辺で落とした」と嘘をつく。2人の親密さに疑念を持ったゴローは密会場面を目撃し嫉妬に狂ってペレアスを殺害してしまう。そのまま寝込んだメリザンドは、娘を産んだ後衰弱していき、ゴローからペレアスとの関係を問われ「愛したけれど、罪は犯していない」と答え絶命する。

両者には以下の対応関係が認められる。

  • トリスタンの【アイルランド↔イングランド】という二項対立がペレアスでは【森↔城】に置き換えられている《空間のコード》。アイルランドは言わずと知れた妖精の国。トリスタンの物語でも竜が棲んでいる。つまりこれは【自然↔文化】の対立であると言える。
  • トリスタンとイゾルデが恋に落ちるのは【アイルランド↔イングランド】の境界域にある海上。一方、ペレアスとメリザンドの場合は森と城の間にある泉だ。両者ともがモチーフになっていることにも注目。トリスタンたちが飲んだ媚薬も液体である。
  • イゾルデは結婚相手(国の最高権力者)の親族であるトリスタンを愛する↔メリザンドは結婚相手(王位継承者)の親族であるペレアスを愛する《婚姻・親族関係のコード》
  • トリスタンは愛する金髪のイゾルデから貰った指輪を後生大切にしている↔メリザンドは愛していないゴローから受け取った指輪をぞんざいに扱う《逆転の変換》《贈与のコード》
  • 白き手のイゾルデ金髪のイゾルデに嫉妬し、トリスタンを死に至らしめる(ワーグナーのオペラには白き手のイゾルデが登場しないので、王の家臣メロートの嫉妬に置き換えられている。メロートが幼馴染であるトリスタンに対して同性愛的感情を抱いていたという解釈も可能)↔ゴローはペレアスに嫉妬し、殺害する

以上の構造分析をお読みになれば、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に意識的/無意識的に影響を受けた作曲家たちが「ペレアスとメリザンド」に殺到した理由がお分かり頂けるだろう。なおフォーレは友人の作曲家ポール・デュカスに宛てた手紙の中で「トリスタン」からの一節を引用している。

またメリザンドは明らかに水の精として描かれており、メーテルリンクが「トリスタン」だけではなく、を司る精霊ウンディーネの物語にも触発されていることを付け加えておく(1811年に出版されたドイツの作家フーケの「ウンディーネ」や1939年にフランスのジロドゥが執筆した戯曲「オンディーヌ」が有名)。ドビュッシーのオペラでは省略されているが、ゴローがメリザンドを伴って城に帰ってくる日に女中たちはありったけのを使って城門周囲を洗い浄める。またメリザンドが臨終の際に彼女たちは病室の壁ぎわに並び、ひざまづく。どうやらメリザンドをあるじとして密かに見守っていたらしい。

続いてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が後世の作品に与えた音楽的影響について考察しよう。「トリスタン」といえば、何と言っても徹底的な半音階の追求である。調性を無視したかのような半音階の上行・下降は「無限旋律」と名付けられた。

フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースはその著書「神話論理」4部作の中で、神話に登場するのことを「半音階的なもの」と呼んだ。つまり半音階グラデーション(色調・明暗などの段階的変化)に対応している(レヴィ=ストロースは生から死への移行を示す魚獲りの毒、病気も「半音階的なもの」とした)

半音階の駆使はドビュッシーやラヴェルらに引き継がれた。フランス印象派の音楽を聴くと色彩豊かに感じられるのは、そのためである。

またシェーンベルクが発明した「12音技法」は従来のドレミファソラシという7音だけではなく、その間にある半音を含めた12音を平等に扱うという思想である。つまりその発想の原点にワーグナーの半音階がある

こうして見ていくと、20世紀の音楽の礎を築いたのが「トリスタンとイゾルデ」だったのだということがよく理解出来る。

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2018年5月 2日 (水)

大阪桐蔭高等学校吹奏楽部フラワーコンサート 2018と「ノートルダムの鐘」構造分析

はじめに。ここを訪れた方は吹奏楽をこよなく愛している人だと信じている。故に是非、下記事も併せてお読み頂ければ幸いである。僕からの「小さな願い」です。(I say a little prayer for you.)

さて、4月29日(日)大阪ビジネスパーク TWIN21アトリウムへ。新1年生も加わった大阪桐蔭高等学校吹奏楽部のフラワーコンサートを聴く。指揮は梅田隆司先生。僕はこの直前の16時05分までザ・シンフォニーホール@大阪市福島で関西フィルの定期演奏会(ミクロス・ローザの映画音楽やエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲ほか)を聴いていたので、途中からの来場となった。

☆3rd Stage(16:30-17:10) マーチング

  • ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
  • ジョン・ウィリアムズ:「スター・ウォーズ」メドレー
  • ミシェル・ルグラン:「キャラバンの到着(ロシュフォールの恋人たち)」
  • アラン・メンケン:「美女と野獣」メドレー

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Jazzyで躍動感溢れる桐蔭の「キャラバンの到着」は最高だね!胸がスカッとする。至福の時。

続いて座奏で、

  • We Are The World(歌付き)
  • リクエストコーナー:EXILEメドレー

リクエストコーナーは梅田先生がバットで打ったボールを掴んだ観客がスライドに写された50曲の中から選ぶ方式。

☆4th Stage(18:00-18:40)

  • ジャスティン・ハーウィッツ:ミュージカル「ラ・ラ・ランド」ハイライト

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映画の一場面を彷彿とさせるキャンディー・カラーの衣装がとっても素敵。

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Magic Hour(カタワレ時)にエマ・ストーン(アカデミー主演女優賞受賞)とライアン・ゴズリングがハリウッドの都(=ラ・ラ・ランド)を見下ろす丘の上で対峙するダンス・ナンバー"A Lovely Night"はアルト・サックスとユーフォニアムの対話(デュオ)に置き換えられている。

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ステージ前面に設置されたタップ板(タップボード)で男子生徒が華麗にタップ・ダンスを披露。

そしてフィナーレ。音楽がミシェル・ルグランの「シェルブールの雨傘」と完全に一体化するヴォカリーズの合唱は極上の美しさ!天国的というか、ハーモニーに宇宙的広がりを感じた(映画でも無数の煌めく星々の下でふたりがデュエットダンスする場面だ)。僕が今まで聴いてきた桐蔭サウンドの中でも間違いなくベストの瞬間であった。これは是非とも全国の人々にも聴いて貰いたい。

続いてリクエストコーナー。

  • 名探偵コナン
  • アラン・メンケン:「リトル・マーメイド」メドレー
  • 甲子園応援歌〜「グレイテスト・ショーマン」ほか

若い人は知らないと思うけれど「名探偵コナン」の音楽は「太陽にほえろ!」のテーマと瓜二つなんだ→こちらで試聴!作曲はどちらも大野克夫。つまり自己模倣ね。続けて演奏すると→こうなる

舞台ミュージカル「リトル・マーメイド」は2018年10月13日(土)より大阪四季劇場で上演される。でも海中に於けるアリエルの髪型が酷すぎて絶句した→プロモーションVTR。ありえる?否、あり得ない!

「グレイテスト・ショーマン」は映画冒頭の曲。これが野球応援歌にピッタリでびっくりした。

☆5th Stage(19:30-20:10)

  • アラン・メンケン:ミュージカル「ノートルダムの鐘」ハイライト

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ヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」(ノートルダムのせむし男/ノートルダムの鐘)を社会人類学者レヴィ=ストロースの手法を用いて構造分析してみよう。

なおフロローの職業は原作で司祭だが、ディズニー版では最高裁判事に変更されている。

まず本作に認められる二項対立を挙げよう。

  • 鐘つき男カジモド(醜い、非対称)↔ノートルダム寺院(美の殿堂、ステンドグラスを含め全てが対称)/エスメラルダ(美貌)
    *これはミュージカル「オペラ座の怪人」におけるファントム(怪人)とクリスティーヌ(歌姫)の対立に相当する。
  • フロロー(聖職者、禁欲)↔エスメラルダ(ロマ〘ジプシー〙、欲望に従う)
    *ミュージカル「キャッツ」における〈長老オールド・デュトロノミー↔犯罪王マキャヴィティ〉に相当。エスメラルダはフロローの謀略により捕らえられ、魔女裁判で死刑宣告を受ける。一方、オールド・デュトロノミーはマキャヴィティに誘拐される。【逆転の変換】
  • フロロー(年寄り)↔大聖堂警備隊長フィーバス(若い)
    *「オペラ座の怪人」における〈ファントム↔ラウル・シャニュイ子爵〉の対立に相当。「キャッツ」では〈年老いた娼婦猫グリザベラ↔生まれたばかりの子猫シラバブ〉
  • ノートルダム大聖堂の鐘楼↔ジプシーの隠れ家「奇跡の法廷」【垂直方向の差異】
    *「オペラ座の怪人」における〈照明の当たる華やかな舞台(光)↔怪人が棲む地下湖(影)〉、「キャッツ」では〈天上↔地上のゴミ捨て場(夜)〉

では二項対立を結び/還流し、両者を仲介融和しようとする第三項は何か?

  • クロパン(道化でありトリックスター。境界を超え神出鬼没で、価値を転倒する者。きれいはきたない、きたないはきれい)。道化師は世界の反転を象徴するだんだら縞の衣装を着ている。
    *「キャッツ」では魔術師ミスター・ミストフェリーズ。「オペラ座の怪人」では仮面ペルソナ)。仮面を着けたファントムもマジシャンであり、神出鬼没のトリックスターだ。しかし仮面を外すと一転、その素顔は醜い老人に変わる。つまり彼には二重性があり、仮面はスイッチの役割を果たす。
  • トプシー・ターヴィー(愚者の祭り。規則を破って良い日。逆さま、無礼講。異教徒の「デュオニソスの祭り」を彷彿とさせる。デュオニソスとは豊穣と葡萄酒、酩酊の神。フローラン・シュミットが作曲した同名の吹奏楽の名曲がある
    *「オペラ座の怪人」ではマスカレード(仮面舞踏会)が相当。「キャッツ」ではジェリクル舞踏会。
  • 大聖堂の鐘の響き。それは天から地まで貫く。
    *「オペラ座の怪人」では”音楽の天使”クリスティーヌの歌声が相当。「キャッツ」ではグリザベラが歌う"Memory"。途中からシラバブが加わりハーモニーとなる。因みにシラバブはロンドン公演版でジェミマと名付けられており、そのオリジナル・キャストがサラ・ブライトマンだった(サラは後にクリスティーヌに抜擢される)。
  • 陽射し:歌詞に"Out there/Living in the sun"(太陽の光を浴びる あそこへ行きたい)とある。日光も天から地まで貫く。
    *「キャッツ」では冒頭のシラバブ誕生と最後のグリザベラ昇天で、垂直方向の一筋の光が天と地を結ぶ。

こうして分析を進めていくと、「ノートルダム・ド・パリ」「オペラ座の怪人」「キャッツ」の三者は全く同じ構造であることがご理解頂けるだろう。これが神話の構造、神話的思考である。

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続いてリクエストコーナー。

  • 美空ひばりメドレー(愛燦燦〜川の流れのように)

アンコールはご存知の定番、

  • 銀河鉄道999
  • 星に願いを

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「スリーナイン」のない桐蔭のコンサートなんて、星のない夜空のようなものだ。今回も音楽の愉しさを堪能させてもらった。

次回はそろそろ「メリー・ポピンズ」メドレーが聴けるんじゃないかと期待している。因みにロブ・マーシャル監督、エミリー・ブラント主演の映画「メリー・ポピンズ・リターンズ」北米公開は2018年12月25日。予告編はこちら

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2018年4月14日 (土)

何故ひとは、二項対立で思考するのか?その根源に迫る。

社会(文化)人類学者レヴィ=ストロースについて色々書いてきた。彼の構造分析に出会い、大いに魅了されたからである。因みに社会人類学 (Social Anthropology)は主にヨーロッパで用いられる名称で、文化人類学 (Cultural Anthropology)はアメリカで用いられる名称である。レヴィ=ストロースはフランス人なので、彼に敬意を表し社会人類学とする。

レヴィ=ストロースは1962年に出版した「野生の思考」で一世風靡し(ブリコラージュという概念も流行った)、構造主義を打ち立てた。後半生は壮大な構想による「神話論理」4部作に専念した。

彼はこう説く。一つの神話だけでそれを解釈することは不可能であり、出来うる限り近隣の類似する神話を集め、各々最小単位(誰が、誰に対し、何をした。という短い文)まで分解し(それを彼は神話素と呼ぶ)、神話群相互関係を熟慮し、共通する神話素を見出す。

神話群間には変換(変奏)を伴う。例えばこうだ。

①A→B→C→D→E
②A'→C'→B'→F→E'
③A''→F'→D'→C''→E''

A,B,C…は神話①を構成する神話素であり、神話②③のA',B',C'…はその変換(変奏)を示す。対応する順番は入れ替わることがあり、通時的だけではなく、共時的に把握する必要がある。これを神話の〈時間統合機能〉と呼ぶ。つまり時間の流れに沿って左から右に読むだけではなく、同時に交響曲の総譜(フルスコア)のように、上から下に眺める必要がある。神話素(細部)は変換されるが、構造は不変である

共時態=〈時間統合機能〉とはフランスの哲学者ベルクソンが説く逆さ円錐モデルで考えると分かりやすいかも知れない。

神話の構造はJ.S.バッハ以降の西洋音楽の形式に似ている。A-A'-A''の関係は主題(A)と変奏(A',A'')だ。私たちは変奏曲に接した時、無意識のうちにそこに主題を重ねて聴いている(共時的)。そうして初めて曲の構造が理解出来る。例えばモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナーらの(任意の)交響曲 第1楽章を見てみよう。全て同じ構造を持っている。第1楽章はソナタ形式と相場が決まっていて、(序奏:ある場合とない場合がある)→提示部(第1主題、第2主題)→展開部(主題の変奏)→再現部(原型主題の再登場)→終結部となっている。構造は同じだが内容(主題の旋律、変奏様式)には変換がある。そこに作曲家の個性が滲み出るのだ。

神話と他の神話との変換関係は幾つかのコード(規則/規定)にそって(手がかりにして)見てゆく。

コード(規則/規定)には【料理のコード(生のもの↔火を通したもの)】【宇宙論のコード(太陽↔月↔地上)】【空間のコード(近すぎる接触↔遠すぎる分離、水平↔垂直)】【婚姻のコード(婚姻的〈夫婦〉↔非婚姻的〈忌避〉】【親族関係のコード(近しい↔疎遠)】【季節のコード(雨季〈湿った〉↔乾季〈乾いた〉)】【植物学のコード(つた植物〈天〉↔樹〈地上〉↔水生植物】【動物学のコード】【心理=身体的(性的)コード】などがある。

構造分析の手法は演劇(オペラ、ミュージカル)や映画にも応用出来る。一番分かりやすい例はシェイクスピア「ロミオとジュリエット」とミュージカル「ウエストサイド物語」だろう。シェイクスピア「マクベス」↔黒澤明「蜘蛛巣城」、シェイクスピア「リア王」↔黒澤明「乱」でも良い。構造は全く同じ、しかし細部に変換を伴う。

ここでマーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」とノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」の共通項/構造的対応関係を見てみよう。

  1. 内戦が勃発する(南北戦争↔ロシア革命)
  2. 家族が引き裂かれる(スカーレット・オハラの母は病死し、父は狂い、妹たちとは対立する↔ジバゴの家族はパリに亡命する)
  3. 神出鬼没、境界を超えて活躍するトリックスターが登場する(レット・バトラー↔弁護士ヴィクトル・コマロフスキー)
  4. スカーレットはレットにチャリティ舞踏会で再会する↔ジバゴはコマロフスキーにクリスマス舞踏会で初めて合う
  5. スカーレットは2人の男(アシュレー、レット)を愛す↔ジバゴは2人の女性(ラーラ、トーニャ)を愛す
  6. アシュレーには妻メラニーがいる↔ラーラには夫パーシャがいる
  7. 物語の最後にスカーレットはひとりぼっちで故郷タラに帰る↔ジバゴはひとりぼっちでモスクワに帰る

こうして分析すると両者は全く同じ構造を持つことがご理解頂けるだろう。

しかし、だからといってパステルナークが意識的にミッチェルを模倣したわけではないだろう。レヴィ=ストロースの構造分析はユングが言うところの普遍的(集合的)無意識の探索である。彼の守備範囲は人類学のみならず、音楽、ソシュールの言語学、深層心理学、哲学的思考にも及ぶ(レヴィ=ストロースは若い頃、哲学の教師だった)。正に彼こそが境界を超えるトリックスターであった。それ故に、フロイトに匹敵する偉業を成し遂げたにも関わらず、多くの人々に理解されているとは言い難い。とても残念だ。

僕は他にも次のような構造分析をした。

コード(規則/規定)の項で示したように、ひとは常に二項対立で思考するとレヴィ=ストロースは主張する。コンピューターの情報処理も二進法だ。0か1か - YesかNoか - その問いを繰り返し、積み重ねることで、ひとの思考を模倣出来る。さらに彼は次のように語る。

人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点はきまってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表しているとすれば、結局のところ、人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう。(「神話と意味」大橋保夫訳、みすず書房)

レヴィ=ストロースの論理に従い、ひとが必ず二項対立で思考するのなら、宇宙にも二項対立があるのではないだろうか?僕はそう考えた。

ここで面白いことに気がついた。地球上の動物はみな左右対称である。対称ということは二分割出来るということだ。

人間には手・足など二つある器官が沢山ある。目は二つないと立体視出来ない。耳は二つないと音の方向が識別出来ない。だから必然性がある。しかし鼻の穴は二つ必要だろうか?また女性の乳房は子供を育てるのに二つないと困る?精巣とか卵巣だって、二つなくても子作りは出来そうだ。腎臓も片方を摘出しても人間は生きていける。どうして二つあるのだろう?考えてみれば不思議である。

豚の乳首は7対=14個ある。猫:5対=10個、犬:4対=8個、熊:3対=6個、牛:2対=4個、つまり産子数が減ると乳首の数も減るが常に左右対称であり、一つにはならなかった

ひとの心臓は一つだが内部は右心と左心に分かれている。魚類には右心と左心の区別がなく、カエルの心室は一つしかない。

Heart_2

こうして見ていくと動物は進化とともに器官を二つに分離しようとする傾向が強いことがお分かり頂けるだろう。そして脳も右脳と左脳に分離している。DNDの立体構造は二重らせんだ。この事実と、人が二項対立で思考することは決して無関係ではないだろう

レヴィ=ストロースは神話変換が周辺に広がっていく様子を教会のステンドグラスの薔薇模様に喩えた。

Rose

これはまるで細胞分裂のようだ。

Dna

1つの細胞が2つになり、4,8,16……と【2のn条個】に増殖していく。 ということは必ず2で割り切れる。だから真核生物はすべて左右対称なのだ。そして人の思考法もこの体細胞分裂を模倣する

では「宇宙の秩序」とは何か?それは「球形」である。星の形を見てごらんなさい。無重力空間の宇宙には上下も左右もない。だから物質は球になる。

これが地上では重力の影響で円、または回転対称になる(粘土で作った球を対側から挟んで押しつぶしたイメージ)。(上空から見た)山や湖の形、木の形、そして植物や花の形が該当する。一輪の花や一本の木を考えた場合、そこに回転対称はあるが左右対称など一対のみの対称はない。ランダム性のあるアメーバ運動をする原生生物にも回転対称が認められる。ところが高等生物になると全てが(限定的)左右対称になる。つまり水平方向の直線運動をするようになり、(無機物・植物)回転対称→(動物)左右対称に移行したと言える。円を一方向に引っ張ったイメージだ。

ユングはチベット仏教の曼荼羅図形こそ自己の象徴であり、普遍的(集合的)無意識の中にある元型であると考えた。

そして教会の薔薇窓も回転対称である。ひとの無意識の源流を遡ると、円に辿り着く。

古事記に記載されているイザナギ・イザナミの日本神話、そして旧約聖書の「創世記」にせよ、神話は必ず天と地の分離から始まる。それは【重力freeの世界↔重力に囚われた世界】の二項対立だ。つまり重力こそが二分割思考の原初なのである

僕の仮説がもし正しければ、無重力空間に知的生命体は生まれないということになる。さて、読者の皆さんはどう思われますか?

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2018年4月 5日 (木)

石丸幹二 主演/ミュージカル「ジキル&ハイド」に認める反キリスト(Anti-Christ)思想

3月31日(土)梅田芸術劇場へ。レスリー・ブリッカス作詞・台本、フランク・ワイルドホーン作曲のミュージカル「ジキル&ハイド」を観劇。

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「ジキル博士とハイド氏」と言えば二重人格を描いた小説として余りにも有名である。これぞ正に二項対立の代表例であり、そもそも表題自体が一人の人物を二分割したものである。

このミュージカルに登場する二項対立を挙げてみよう。

ジキル↔ハイド
善↔悪
正気↔狂気
純潔・貞操↔欲望
慈心・徳行↔偽善
建前↔本音
仮面↔素顔
平和(和合・協調)↔戦争(闘争)
天国(聖職者)↔地獄(業火に焼かれる)

エマ(貴族)↔ルーシー(娼婦)
純粋無垢↔汚れ
豊か↔貧しい

ヘンリー・ジキル博士の悲劇は、自分の人格を善と悪に完全分割しようとしたことにある。今回の観劇で初めて理解したのは、この設定が強烈なキリスト教批判(Anti-Christ)になっているということ。キリスト教だけではなく、西洋人の思考方法そのものが批判の対象になっているとも言える。

父性原理」を特徴とするキリスト教は【天使↔悪魔】/【天国↔地獄】/【光↔闇】を完全に分離切断する。そして両者を媒介調停/循環)する第三の項(e.g. トリックスター)を決して認めない。言い換えるなら衝突を緩和する緩衝地帯境界領域を設けない。ここが「母性原理」に生きる我々日本人や、南北アメリカ原住民らが有する「野生の思考」との決定的違いである。

キリスト教では【禁欲↔欲望】も分離されるのでカトリックの聖職者は生涯独身を貫く(その反動で神父による子どもたちへの性的虐待が絶えない。詳しくは映画「ダウト~あるカトリック学校で~ 」や、アカデミー作品賞を受賞した「スポットライト 世紀のスクープ」をご覧あれ)。

性は男と女に二分され、その境界領域に立つLGBTの人々は差別され続けてきた。

またデカルトが主導した17世紀哲学の二元論は心身(精神と肉体)の絶対的断絶を受け入れた。

精神病院を最初に創設したのもヨーロッパ人である。彼らは【正気↔狂気】を識別し、後者を隔離しようとした。1656年フランスではルイ14世の指導により精神障害者、犯罪者、浮浪者を収容する総合施療院が建設された。こうした人々を「監禁」「排除」してきた経緯をフランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926-84)が徹底的に批判したのが、1961年に出版された「狂気の歴史」である。精神病院ではロボトミー手術という非人道的実験も行われた(詳しくはアカデミー作品賞・監督賞を受賞した映画「カッコーの巣の上で」をご覧あれ)。

またナチス・ドイツは遺伝病や精神病などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるとし、彼らを安楽死させるT4作戦を実行した。その犠牲者は15万人から20万人と見積もられている。そもそもヒトラーがユダヤ人=害虫と見なし、ホロコースト政策を実践した発想の根本にもこの分離切断する思考がある。

父性原理」で動く欧米(キリスト教)社会は純粋理性を磨き、自然を客観視し、対象をじっくり観察して近代科学を飛躍的に発展させることに成功した(これが出来たのは彼らだけである)。しかしその反面で上述したような様々な弊害を生み、この思考法も限界に達した。「何かが間違っている」「我々は大切なものを失ってしまった」と彼らも薄々気が付き始めた。その左証が「ジキル&ハイド」である。

「ジキル&ハイド」でベイジングストーク大司教は聖職者でありながら娼婦を買い、その直後にエドワード・ハイドに火をつけられ焼死する。これは正に「地獄の業火に焼かれる」イメージであろう。

本作において、ヘンリー・ジキル=エドワード・ハイドだと知っているのは弁護士のアターソンだけだ。彼は親友をなんとか助けようとするが、悲劇を回避することは出来ない。だから仕方なく最後に拳銃の引き金を引き、ジキル=ハイドを殺す。こうして二項対立問題は解決される。つまりアターソンは境界を超え、活躍するトリックスターなのだ。そもそもジキルを娼館「どん底」に連れて行き、ルーシーに引き合わせたもの彼だしね。いたずら好き(メフィストフェレス的)でもあるトリックスターの面目躍如と言えるだろう。

ルーシーはハイドに嬲(なぶ)られ、痛めつけられるが、実はあんまり嫌そうじゃない。恍惚とした表情も浮かべる。非常にSM的である。多分彼女はジキルとハイドの両面を愛したのだ。そして死の直前にジキル=ハイドと気付く。きっかけはジキルとハイドの指に素肌を触られた時の触覚だ。ここに「野生の思考」がある。

原作を書いたロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850-94)は「宝島」の作者としても知られている。スコットランドのエディンバラで生まれたが、若い頃から結核を患い、各地を転地療養しながら作品を創作した。アメリカ滞在を経て、最終的に彼がたどり着いたのは南太平洋・サモア諸島の中のウポル島。彼は島人から「ツシタラ(語り部)」と呼ばれ、好かれていたという。バエア山@ウポル島の山頂にある墓碑には次のような彼の詩が刻まれている。

"Requiem"
Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die
And I laid me down with a will

This be the verse you grave for me
Here he lies where he longed to be
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill

〈鎮魂歌〉
広々とした星空の下
墓穴を掘り、私の亡骸を葬っておくれ
私は喜びとともに生き、喜びとともに死す
そして従容として身を横たえる

墓にはこう刻んで欲しい
彼は望んだ通りここに眠る
船乗りは故郷へと、海から還った
狩人は猟場の山から家に還った
(注:hillはmountainより低く、英国では通例600m以下の山を指す。バエア山は標高470m)

この詩の中には紛れもなく野生の思考が息づいている。

そしてWikipedia英語版のスティーヴンソンについて書かれた記述の中に、次の一文を発見した。

He had come to reject Christianity and declared himself an atheist.
(彼はキリスト教を否定するに至り、自分は無神論者であると宣言した。)

今回の出演者はジキル&ハイド:石丸幹二、ルーシー:笹本玲奈、エマ:宮沢エマ、アターソン:田代万里生 ほか。

僕は鹿賀丈史時代から観ているが、今回のキャストが一番歌唱力があった。石丸幹二に文句があろう筈もなく、特に人格が分裂して歌う場面は大迫力で、本作の白眉であろう。演歌調に音をすくい上げる鹿賀は聴くに堪えず、本当に酷かった。

笹本玲奈がエマを演じた前回公演にも足を運んだが、彼女は断然ルーシーの方が似合っている。清楚なお嬢様っていう雰囲気じゃないしね。他に笹本は「ピーターパン」「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ、「ミス・サイゴン」のキム、「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ミー&マイガール」「マリー・アントワネット」「プライド」などを観ているのだが、今回が一番露出の多い衣装で、とってもセクシーで美脚だったので驚いた。アフタートーク・ショーで彼女が語ったところによると、大好きなスナック菓子(「きのこの山」ではなく「たけのこの里」派)を食べるのを我慢し、ダイエットに励んだそう。鹿賀の公演を観劇した時からルーシー役を演じたかったのだと。

宮沢エマは歌声に透明感があり、決して音程を外さないので聴いていて心地よい。役にピッタリ。

またアフタートークで田代万里生が語るには、付け髭ではなく地毛を生やしたのだとか。意外だった。

山田和也の演出は大変照明が美しかった。

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2018年4月 2日 (月)

吸血鬼伝説=神話としての宝塚歌劇「ポーの一族」考(原作:萩尾望都)

小池修一郎 作・演出のミュージカル「ポーの一族」は宝塚歌劇100年の経験と知識、ノウハウを結集した集大成・最高傑作である(「エリザベート」など海外ミュージカルは除く)。現在DVD,Blu-rayが発売中。

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これはある意味、神話であるとも言える。以下、社会人類学者レヴィ=ストロースの「神話論理」に基づき、構造を分析していこう。

神話は、解決出来ないパラドックス(矛盾)を解決しようとする、執念とも呼べる欲求によって駆り立てられている。

「ポーの一族」の主題は、次の2つの問いに集約されるだろう。

  1. ひとはみな、限りある人生なのに(遅かれ早かれ必ず死ぬのに)、何故一生懸命生きるのか?その意味は?
  2. では逆に永遠の命を得たとして、それは、ひとにとって、幸福なのだろうか?不幸なのだろうか?

正に解決出来ない矛盾である。本作はそれを調停仲介/矛盾を緩和)し、妥協点を見つけようとする試みである。

萩尾望都の原作漫画を対象にすると物語が広がり過ぎるので、宝塚版に絞って本作に潜む二項対立を列挙してみよう。

バンパネラ(吸血鬼)、エドガー↔人間、アラン

人間のエナジー(生気)を吸う(注①)↔食物を摂取する

吸血鬼の血液を注入する(注②)↔射精・性交する
〈咬むことで仲間を増やす↔子供を生み、育てる〉

永遠の命(immortal)↔寿命が尽きる(mortal)
〈年を取らない(時が止まる)↔老いる(時が過ぎる)〉

脈がない   ↔ 脈がある
(静、連続)↔(動、存在と不在の規則的交換=不連続)

皮膚が冷たい↔温かい(エネルギーが熱変換される)

傷がすぐ治る(治癒力)↔中々治らない

Anti-Christ(反キリスト、異端)↔信仰(祈りの言葉)

棺桶に入り地下室で眠る↔死後天国へ昇る 【垂直方向の差異】

夜活動する(闇)↔昼活動する(光)

鏡に映らない(注③)↔映る

心臓に杭を打たれると塵になる(注④)↔死体は腐乱する
(または銀の銃弾を撃ち込まれると…)

湿気に弱い↔子供は70%、大人は60%が水分でできている
(乾いたもの)↔(湿ったもの)(注⑤)

ポーの館は村人が焼き払う()↔アランは港町に住む(
(焼いたもの)↔(湿ったもの)

エドガーは終盤窓から現れる↔人は重力で大地に縛られている
(バンパネラは重力に抗うもの。宝塚版ではエドガーと、一族に加わったアランが一緒に飛ぶ場面も用意されている。またポーの館は焼かれ、煙となって上昇する

注①②で分かる通り、バンパネラが人の首筋に噛み付く行為には2つの行程がある。純粋な栄養補給行為として①のみ実行する場合と、仲間を増やすための②と。そこにはエナジー(血)の交換がある。

レヴィ=ストロースはこう書いている。

どの社会もすべて性的関係と食物摂取とを結びつけて考える。しかし、場合により、また思考のレベルに従って、食べるものと食べられるものに男と女をどう割り振るかはまちまちである。
(「野生の思考」大橋保夫訳、みすず書房)

しかし考えてみればゾンビに襲われると無条件でゾンビ化するのだから(ウィルス的増殖)、バンパネラの何と奥ゆかしいことか!だから彼らのイメージは弱々しく儚いのだ。宗教の布教活動と言うよりは寧ろ、「フリーメーソン」「薔薇十字団」など秘密結社に近い存在である。

注③:どうして吸血鬼は鏡に映らないのか?まず民間伝承として「鏡は魂を写すもの」と考えられている事が挙げられる。またキリスト教(旧約聖書の創世記)において人間(アダム)は神の似姿として創られたとされており、つまり人間=神の〈鏡〉でもあるのだ(鏡を見つめ、思惟することによって間接的に神を認識し得る)。バンパネラはAnti-Christ(異端)だから、鏡に映ろう筈がない。

注④:【心臓に杭を打たれると塵になる↔死体は腐乱する】の対立は【新鮮なもの↔腐ったもの】と言い換えてもいいだろう。また【杭を打つ】=【人間の行為】=【文化による変形】であり、【腐乱する】=【自然による変形】なので、ここに「文化(不連続)↔自然(連続)」という二項対立が現れる。

注⑤:霊能者のブラヴァツキーはポーの一族に接して「乾いた血の匂い」がすると言う。

また上述した【バンパネラ↔人間】という二項対立以外に次のようなコード(符号)もある。

エドガーの澄んだ青い瞳、ポーの館を包む青い霧(反自然)
赤い薔薇、(自然)

では物語の最後にエドガーとアランの二項対立を媒介するもの(第三の項)は何か?「ひとりぼっちで寂しい」という孤独感の共有・共鳴だろう。それは「愛」と言い換えても良いかも知れない。妹メリーベルが兄エドガーに言う「一緒にいることが幸せなの!」という台詞が肝(きも)である。こうして対立してきた二原理は統合に至る(最終的解決)。

「人生は祭りだ!一緒に過ごそう。」
(È una festa la vita, viviamola insieme ! )
  〜フェデリコ・フェリーニ監督/映画「8 1/2」より

ポーの一族に加われば「永遠の命」という恒常性を得るが、その代償として地上を(水平方向に)永遠に彷徨い続けなければならないという「不規則な運動」(random motion)を強いられることになる(一時性、仮初)。それは呪いだ。「選ばれし者」という台詞もあり、2,000年以上流浪の民だったユダヤ民族を彷彿とさせる。

ところでこの記事を書きながら初めてある事実に気がついた。エドガーとアランとポーの一族でエドガー・アラン・ポーだったんだね!今更ですみません。お粗末な話でした。考えてみればポーが書いたゴシック風の幻想小説「アッシャー家の崩壊」の雰囲気とか、兄と妹の関係性とかは「ポーの一族」に通底するものがある。

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2018年3月30日 (金)

神話としてのミュージカル「キャッツ」&「オペラ座の怪人」〜野生の思考による構造分析の試み

6歳の息子が「もう一度観たい!」と言うので3月24日(土)「キャッツ」を上演中の大阪四季劇場に足を運んだ。僕は多分5回目かな。初回は黒いテントに猫の黄色い一対の目が浮かぶ仮設劇場「キャッツ・シアター」で上演された1985-86年の(第1回)大阪公演だった。

今回の出演者はグリザベラ:木村智秋、シラバブ:五所真理子、オールドデュトロノミー:正木棟馬、マンカストラップ:加藤迪、ラム・タム・タガー:田邊真也、ミストフェリーズ:松出直也 ほか。

ミュージカル「キャッツ」は1981年にロンドンで幕を開け、2002年まで21年間に及ぶロングランとなった(最長ロングラン公演記録は現在も上演中の「レ・ミゼラブル」)。ブロードウェイ@NYでは82年に開幕し、2000年に閉幕。2006年1月に「オペラ座の怪人」に抜かれるまでロングラン記録を保持していた(オフ・ブロードウェイを含めると史上最長はミュージカル「ファンタスティックス」の42年間-17,162回)。トニー賞では作品(製作:キャメロン・マッキントッシュ)・演出(トレヴァー・ナン)・台本(T・S・エリオット)・楽曲(作詞:T・S・エリオット、作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー)・助演女優(ベティ・バックリー)・衣装デザイン・照明デザインの7部門を受賞した。日本では83年に東京新宿の「キャッツ・シアター」で幕を開け、2013年に「ライオンキング」に抜かれるまで日本演劇史上最多の上演回数を誇っていた(東京・大阪・名古屋・福岡だけではなく札幌・静岡・広島・仙台でも上演)。

原作はノーベル文学賞を受賞した詩人T・S・エリオットの「キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法」。可笑しいのはエリオットは1965年に亡くなっており、死後18年経ってトニー賞を2部門(台本、作詞)受賞したことになる。

どうして「キャッツ」はこれ程までのメガヒット・ミュージカルとなったのか?当然、(当時は)天才作曲家(だった←今は昔)ロイド=ウェバーの功績も大きいだろう。当初「サンセット大通り」のために作曲された♪メモリー♪は世界的大ヒットを飛ばしたし、時には賛美歌風・ゴスペル調になったり、(ミック・ジャガーをイメージした)ラム・タム・タガーはロックンロールを歌い、マキャヴィティが登場するとジャズになり(ヘンリー・マンシーニ「ピンク・パンサー」「ピーター・ガン」を彷彿とさせる)、海賊猫グロールタイガーとシャム猫軍の戦いに於ける歌は中国風で、明らかにプッチーニのオペラ「トゥーランドット」を意識した仕上がりとなっている。つまり多様性に満ち、才気煥発の極みなのだ。

もう一つの要因として挙げられるのは、今回の観劇で初めて気が付いたのだが、「キャッツ」が明らかに神話の構造を持っているということ。それが観客の無意識に作用したと言えるだろう。

以下、社会人類学者レヴィ=ストロースの「神話論理」に基づき、「キャッツ」の構造分析を試みよう。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的は連続不連続のあいだの調停である。神話は二項対立を用いて自然と文化の対立を語る。「キャッツ」のあらすじはこうだ。

満月が青白く輝く夜、街の片隅のゴミ捨て場。ジェリクルキャッツたちが年に一度開かれる"ジェリクル舞踏会"に参加するため集まってくる。今宵は長老猫が天上に昇るジェリクルキャッツを選ぶ特別な舞踏会。再生を許され新しい命を得るただ一匹の猫は誰か。夜を徹して歌い踊る猫たち。やがて夜明けが近づき、グリザベラの名前が宣言される。

劇の冒頭、舞台中央の円盤型の照明がグングン上昇する。その下に現れるのがシラバブ(英国版ではジェミマ)。生まれたばかりの子猫で真っ白。つまりこれは彼女の誕生を意味している。そして物語の最後に娼婦猫グリザベラは昇天する。その先にあるのは死と再生だ。ここにまず二項対立コード符号)が複数ある。

誕生↔死
純粋無垢(innocent)↔汚れ(dirty)
大地(重力の拘束)↔天上(重力からの解放)

垂直方法への分離、重力のある地平と無重力の場との往還、つまり「天と地のコミュニケーション」により神話の駆動力は生み出される。

そしてもう一つの二項対立がある。

長老オールド・デュトロノミー↔犯罪王マキャヴィティ

第二幕でオールド・デュトロノミーはマキャヴィティに誘拐される。ここで二項対立(聖人↔罪人)は「近すぎる接近」をし、交わる。

長老の誘拐という問題を解決するのは魔術師ミスター・ミストフェリーズ。彼は二項対立に加わる第三の項媒介者)、つまりトリックスターだ。彼の体は白と黒の斑(まだら)である。

Mist

それは白↔黒反転の換喩になっている。つまり道化師が着る、だんだら縞の衣装と同じ。シェイクスピア「マクベス」に登場する3人の魔女の台詞で言い表すなら「きれいは汚い、汚いはきれい」となる。気まぐれなトリックスターは境界を超え出没することに特徴がある。そして価値を転倒させる

トリックスターの活躍でジェリクルキャッツたちは長老を取り戻すことが出来た(近すぎる接近→適正な距離への再配置)。故にその直後、対称的な位置にあるグリザベラとシラバブは一緒に「メモリー」を歌い(調和調停)、他の猫達もそれまで忌み嫌っていたグリザベラ(汚い)の昇天(きれいへの反転)を承認するのである。こうして大地と天(垂直方向二項対立)を熱狂的な歌と踊り(媒介する第三の項)で結ぶ「ジェリクル舞踏会」はデュオニソスギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒/酩酊の神)の祭りとなった。

また鉄道猫スキンブルシャンクスの場面で僕は思わず「アッ!」と声を出しそうになった。猫達は集めたゴミを組み立ててSL機関車にする。これってレヴィ=ストロースが言うところのブリコラージュに他ならないではないか。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。正にここに「野生の思考」が息づいている。

神話構造(structure)はロイド=ウェバーのミュージカル「オペラ座の怪人」にも認められる。二項対立は、

華やかなオペラ座の舞台(光)↔地下湖(闇)

この垂直方向の差異(掛け離れた距離)は「キャッツ」の天上↔地上と同等である。そして、

クリスティーヌ(無垢)↔オペラ座の怪人(殺人者)
娘↔父(クリスティーヌはファントムに亡き父の姿を重ねている)
生徒(受動)↔教師(能動)
歌手↔作曲家

といった複数のコードが有り、さらに別の二項対立が絡む。

ラウル・シャニュイ子爵↔オペラ座の怪人(恋仇)
Young↔Old
きれい↔醜い

では、【華やかなオペラ座の舞台(光)↔地下湖(闇)】という垂直方向二項対立媒介するもの(第三の項)は何か?言うまでもないだろう、音楽である。何しろオペラ座の怪人はクリスティーヌのことを「音楽の天使(Angel of Music)」と呼んでいるのだから。重力に拘束され大地に足を引きずる我々と、重力から開放された天使の差異も垂直方向に形成されるのである。

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2018年3月29日 (木)

涼風真世・山口祐一郎 主演/ミュージカル「マディソン郡の橋」

3月28日(水)梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティへ。「マディソン郡の橋」大阪公演初日を観劇。

Bridge

ミュージカル「マディソン郡の橋」は2014年にブロードウェイで初演された。つまり「ブロードウェイと銃弾」と同じ年だ。作詞・作曲はジェイソン・ロバート・ブラウン。本作で彼はトニー賞のオリジナル楽曲賞・編曲賞を受賞した。因みにこの年、ミュージカル作品賞・演出賞を受賞したのは「紳士のための愛と殺人の手引き」。

ロバート・ジェームズ・ウォラーの原作小説は1992年にアメリカで出版され、日本語訳は翌93年に登場し、売れに売れた。多分僕は93-4年頃、図書館から借りて読んだ。NHK-BSの「週刊ブックレビュー」で取り上げられて、興味を持ったのだと記憶している。

因みに「マディソン郡の橋」はトーハン調べ1993年の年間ベストセラーで【単行本・文芸】第1位、【総合】第2位、94年も【単行本・文芸】第1位、【総合】第3位となっている。95年にはクリント・イーストウッド主演・監督で映画化され、僕は日本公開時に映画館で観た。撮影時クリントは64歳で「年寄り過ぎやしないか?」と感じたことを今でも憶えている。

今回この記事を書くにあたり調べて初めて知ったのだが、後に第二部「マディソン郡の橋 終楽章」と、第三部(未翻訳)まで書かれたんだね。びっくりした。

ジェイソン・ロバート・ブラウンの楽曲は映画化された「ラスト・ファイブ・イヤーズ」とか、やはりトニー賞で楽曲賞を受賞した「パレード」とか好きなので、是非観た(聴きた)かった。

しかしミュージカルとして再会して、相変わらず陳腐な「昼メロ」みたいな話だなと思った。上戸彩とか、斎藤工が出てきそう。英語で言えば"soap opera"ね。不倫を美化するのは如何なものか?余りにも綺麗事過ぎて鼻持ちならない。カントリー風の音楽は文句なしに素晴らしかった。

山口祐一郎は「金太郎飴」みたいな男優なので、いつも通り。涼風真世が良かった!ちょっと甘えたような台詞回しがキュート。はっきり言って映画版のメリル・ストリープより、はまり役だと思った。彼女をこれだけ魅力的に感じたのは「シー・ラヴズ・ミー」(95-98年)以来かも!?しかし、ミュージカル「貴婦人の訪問」は酷かったなぁ。

荻田浩一(オギー)の演出には疑問を感じた。舞台上に四角い枠が傾斜をつけて3つ横並びにぶら下がっていて、そのひとつひとつが場面転換に合わせて上下するのだが全く意味不明。一体、何を表現したいの?写真のフレーム??

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ミュージカル「ブロードウェイと銃弾」

3月6日(火)梅田芸術劇場へ。

Bro

ウディ・アレンの映画「ブロードウェイと銃弾」は1994年10月に北米で公開され、僕は翌95年の日本公開時に映画館で観ている。正直それほど好きじゃなかった。後にアレン自身が台本を書き、ブロードウェイ・ミュージカルとして上演されたのが2014年。振付・演出は「コンタクト」「プロデューサーズ」のスーザン・ストローマン。当初音楽は「コーラスライン」のマーヴィン・ハムリッシュが担当したが、アレンが気に入らず、最終的に1920-30年代のジャズや流行歌から採用された。

福田雄一の演出は今回初体験。テンポが良くて華やかさもあり、中々良かった。浦井健治と城田優はコメディ・タッチの演技も上手く、とりわけ秀逸だったのがギャングの愛人オリーヴを演じた平野綾。おつむが足りない「アニメ声」の役だが、平野は何しろ「涼宮ハルヒの憂鬱」でハルヒの声を担当している。自家薬籠中の物だった。他に出演は前田美波里、ブラザー・トム、保坂知寿、愛加あゆ など。

映画より断然舞台版の方が面白かった。劇場こそ相応しい題材だったんだね。ウディ・アレンは「僕が考える最も優れたブロードウェイ・ミュージカルは 『マイ・フェア・レディ』『ザ・ミュージック・マン』そして 『ガイズ・アンド・ドールズ(野郎どもと女たち)』さ」と語っているが、NYを舞台にヤクザ稼業の面々が登場するという意味で「ガイズ・アンド・ドールズ」に非常に近い作品だなと思った。

また、当初敵対していた二人がいつの間にか共同作業で台本を仕上げる関係になるという点で、三谷幸喜の芝居「笑の大学」にそっくりだなと気が付いた。調べてみると
「笑の大学」が最初ラジオドラマとしてNHK-FMで放送されたのが1994年(舞台初演は96年)。両者の発表はほぼ同時期であり、どちらがどちらを真似たということもなさそうだ。正にシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)である。

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