舞台・ミュージカル

2020年5月14日 (木)

わが心の歌 20選 ① 総論 (メニュー)&「いつも何度でも」「エメ Aimer」

新型コロナウィルス感染拡大により、世の中が荒(すさ)んでいる。皆が感染防御にピリピリ神経を尖らせており、うつ病を発症したり、不安や恐怖に圧倒されて凹んでいる人々も少なくない。

そこで気分転換のすゝめ。珈琲とか紅茶でも一杯飲みながら、素敵な歌でも聴いてくつろぎませんか?一息つきましょう。

「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」(バートランド・ラッセル:英国の哲学者。ノーベル文学賞受賞)

Spotify, Amazon Musicなど音楽配信(サブスクリプション)サービスで聴ける曲の中から厳選した。

  • いつも何度でも(木村弓)
  • One more time,One more chance(山崎まさよし)
  • なんでもないや -movie ver. (RADWIMPS - 上白石萌音)
  • Alone Again(ギルバート・オサリバン)
  • 水の上で歌う(フランツ・シューベルト)
  • Woman 〜“Wの悲劇”より(薬師丸ひろ子)
  • 聞かせてよ愛の言葉を(リュシエンヌ・ボワイエ)
  • 小さな空(武満徹)
  • ひこうき雲(荒井由実)
  • この空を飛べたら(中島みゆき - 加藤登紀子)
  • 時には昔の話を(加藤登紀子)
  • (They Long To Be) Close To You(カーペンターズ)
  • 打上花火(DAOKO × 米津玄師)
  • 22才の別れ(伊勢正三 - 風)
  • エメ〜ミュージカル“ロミオ&ジュリエット”より(ジェラール・プレスギュルヴィック)
  • Papa Can You Hear Me ? 〜“愛のイェントル”より(バーブラ・ストライザンド)
  • Another Day Of Sun 〜“ラ・ラ・ランド”より(ジャスティン・ハーウィッツ)
  • こどものせかい 〜“マイマイ新子と千年の魔法”より(コトリンゴ)
  • The Man That Got Away 〜“スター誕生”より(ジュディ・ガーランド)
  • Unforgettable(ナット・キング・コール)

括弧内は基本的に歌手名を書いたが、フランツ・シューベルト、武満徹、ジェラール・プレスギュルヴィック、ジャスティン・ハーウィッツは作曲家名である。

19世紀(今から200年前)にシューベルトが作曲したドイツ・リートから、フランスのシャンソン(聞かせてよ愛の言葉を)やミュージカル、さらにハル・デヴィッド&バート・バカラックというコンビによる英語歌(Close To You)、日本のフォークデュオ「風」(22才の別れ)を経て、ニコニコ動画ボカロP出身の米津玄師(打上花火)まで。四つの言語、古今東西、バラエティに富む選曲になったんじゃないかなと自負している。

本当は映画『ふたり』主題歌ー大林宣彦(作詞)久石譲(作曲)「草の想い」も入れたかった。しかし残念なことに現時点ではサブスクで聴けないので断念した。

では推薦文付き各論へ。

「いつも何度でも」についてまず語ろう。言うまでもなく宮崎駿監督による国民的アニメーション映画『千と千尋の神隠し』主題歌である。レコード大賞で金賞を受賞。元々は宮崎監督が構想していた『煙突描きのリン』のために書かれたもので、その企画は結局ボツになった。しかし宮さんはこの曲を気に入り、『千と千尋』で使う事になったそう。

『千と千尋』は劇場公開された2001年夏に、当時住んでいた愛媛県新居浜市の小さな映画館で観た。花火大会の夜で、館内に花火の音が聞こえてきたことを今でも鮮明に覚えている。その後DVDで10回位鑑賞しているが、正直この歌の印象は薄かった。ところが2020年2月21日にスタジオジブリの楽曲が一斉にサブスク解禁になったので久しぶりにじっくり聴いてみると、その歌詞の素晴らしさに初めて気付き、深い感銘を受けた。

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい

かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える

「呼んでいる」のは誰か?それは「あなた」だろう。そして「あなた」とは、〈こころ〉の奥底にある自己SELF)ではないか、と僕は考える。

ここでアンソニー・スティーヴンズがカール・グスタフ・ユングの理論を描いた、〈こころの図〉を用いて説明しよう。〈こころ〉はドイツ語でSeele。〈魂〉とも訳され、英語ではpsycheとなる。

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円の外層にConsciousness(意識)、内層にUnconscious(無意識)があり、さらにPersonal unconscious(個人的無意識)と深層のCollective unconscious(集合的無意識)に分かれる。そして集合的無意識の中心にSELF(自己)がある。一方、表層の意識内にEGO(自我)があって、Ego-Self axis(自我ー自己軸)で自己と繋がっている。また集合的無意識内にA=Archetype(元型)が、個人的無意識の領域にはC=Complex(感情に色付けされた心的複合体)がある。

「いつも何度でも」終盤の歌詞は以下の通り。

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

「海の彼方」とは彼岸であり、日本神話で言うところの常世(とこよ)/隠世(かくりよ)を指す。住人が不老不死の理想郷で、黄泉もそこにあるとされる。キリスト教的には神のおわす天国で、プラトン哲学ではイデアだ。しかし、「わたし」のなかに見つけた「輝くもの」とは自己SELF)であり、つまり神=自己を発見したわけだ。神は「わたし」の外側にいない。この思考はユング心理学に一致する。「いつも何度でも」は自己実現を歌っていた。

プロデューサーの川村元気が『君の名は。』が受けた理由について語った言葉を借りるなら、『千と千尋の神隠し』が日本の歴代興行成績第1位になったのは、〈集合的無意識にヒットした〉ということになるだろう。

やはりサウンドトラック盤の木村弓の歌唱が良い→Spotifyではこちら

「エメ Aimer」はフランス語で「愛」のこと。フランス産ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』のナンバーで、舞台ミュージカルの中で究極の名曲だと想う。途中どんどん転調し、まるで螺旋階段を駆け上っていくような高揚感がたまらない魅力!これはミシェル・ルグランなどフランス歌曲の特徴である。めくるめく陶酔。城田優(ミュージカル・スター)と生田絵梨花(乃木坂46)のデュエット(日本語歌詞)でどうぞ→Spotifyではこちら

次回は「One more time,One more chance(山崎まさよし)」、「なんでもないや -movie ver. (RADWIMPS - 上白石萌音)」について語る予定。

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2020年5月 2日 (土)

新型コロナウィルスにより、変わりゆく世界の中で

新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、安倍晋三首相が全国すべての小中高校に3月2日から臨時休校することを求めたのが2020年2月27日。この時点で各地コンサートホールでの演奏会や演劇の公演が次々と中止になった。

コンサートを開催できない状況が続く中、僕が生演奏を聴いたこともある(@びわ湖ホール)、ヴァイオリニストの成田達輝が次のようなツィートを投稿した。

ここには記事〈新型コロナウィルスと”浮草稼業"〉に書いた、落語家・桂米團治(先代)が弟子の米朝に諭した言葉 ー好きな芸をやって生きているのだから、末路哀れになっても仕方がないー という覚悟・諦念がある。実に立派だと思う。たかだか劇場が1,2ヶ月閉鎖されただけで「演劇の死」などと大げさなことをほざく野田秀樹には彼の爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。

ベルリン・フィル第1コンサートマスターを務める樫本大進はNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」緊急企画(4月28日放送)の中でこう述べた。

コロナになる前は、音楽なしでは生きていけないと思っていました。本当に。社会的にも、僕自身だけじゃなく、音楽なしでは地球が回らなくなると思っていました。それを信じていましたから。でもそうではないんだなって、この1ヶ月ですごく分かって。自分でもそうじゃないんだなって、それよりもっと大事なものがいくらでもあるんだと。自分の健康から、家族の健康から、周りの人たちの健康から。ここまで自分の存在が使えないもの、必要ないもの、存在がないって感じたのは今回が初めてですし、3月の終わりの方ぐらいにすごく悩んだことでもありますし、「この仕事でいいのかな」とか反対に思っちゃいますし。

しかし一方で、自宅待機の生活が長く続く間にこういう感情も芽生えたという。

自分が弾きたくなったという気持ちがあって。今まで常に弾いているから、練習しなきゃではなく、コンサートしなきゃではなく、本当にただ自分のために弾きたいなっていう気持ちは、そこまで今まで味わったことがなかったので。僕でも必要と思っているということは、もっと必要と思ってくれている人がいっぱい外にはいるんだと考え始めました。(中略)文化を必要としているのは社会だと思う。心を失ったら社会は死んでしまうので、その心を生き残らせるために上からのサポートが必要というのは、ひとりひとりが叫ばなきゃだめだと思います。本当は今一番音楽っていうのが必要なものだと僕は思っています。一番生活に必要なくて、一番生活に必要なものだと、僕は信じています。

そして最後に視聴者へのメッセージ。

コロナっていう手ごわい相手に全員で戦っている状況です。みんなが闘っているということは、全世界がひとつになれるチャンスだと。気持ちを、みんなでひとつになれるような状況を作って、コロナを倒したあともっともっとすごい世界になれるように頑張りたいと思います。

精神科医・医学博士である高橋和巳が著書「人は変われる」(ちくま文庫)で書いたように、新型コロナ禍という絶望を経験することで自分を客観視できるようになり、現実をあきらめることで「新しい解釈」が生まれ、古い自分を乗り越えて新しい行動を取り始める姿がここに写し出されている(記事〈新型コロナウィルスという災厄の中から生まれるもの〉を参照されたし)。

日本では「自粛疲れ」が蔓延し、ウィルスに対する不安や恐怖心に押し潰され、世界中のサッカー選手にうつ病が急増したり、パニック/ヒステリー状態に陥った人々も少なくない。なんだか世間全体がピリピリしている。

  • 2月18日、福岡市の地下鉄でマスクを着用せずにせきをしていた乗客がいたことを理由に隣の乗客と口論となり、非常通報ボタンが押され列車が停止した。
  • 2月25日、横浜市のドラッグストア「マツモトキヨシ」に開店前からマスク買うために並んでいた列に割り込みがあり、殴り合いの喧嘩になった(その動画がマスコミで報道された)。
  • 大阪府警に「飲食店でくしゃみをしたことが発端でもめた」などの通報が相次いでいる。(4月26日サンケイスポーツより)
  • 4月28日、ブラジルのスーパーで男性客が店員にマスクをしていないことをとがめられて激高。店員を殴り倒した。止めに入った警備員にも殴り掛かり、警備員が拳銃を発砲、居合わせた女性店員の首に弾が命中し死亡した(この日州法で、公の場でのマスク着用が義務付けられた)。

しかし、悪いことばかりではない。

  • インド北部のパンジャブ州では新型コロナウイルス対策のロックダウン(都市封鎖)で全土の大気汚染が大幅に改善し、200キロ近く離れたヒマラヤ山脈が数十年ぶりに見晴らせるようになった。
  • 国際エネルギー機関(IEA、本部パリ)は4月30日、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、2020年のエネルギー関連の二酸化炭素(CO2)排出量が前年比約8%減少するとの見通しを公表した。米スタンフォード大学のロブ・ジャクソン教授は、この50年間でこれだけの効果を上げた危機は他にはなかったと語った。もしかしたら、地球温暖化の速度が緩むかも知れない。
  • 日本で各種学校の休校が長期化する中、 全国知事会でこの際9月入学に移行するべきだという意見が多く出された。僕は従来どおり、桜が咲く4月入学の方が情緒的には相応しいと考えるが、世界的標準に合わせた9月入学だと海外留学がしやすくなるなどメリットも見過ごせず、新型コロナ禍なくしてこういった議論も有り得なかったわけで、大変有意義なことだと思う。
  • 今回の騒動がきっかけで、オンライン授業やテレワークなどシステム環境の整備が一気に加速した。この経験は業務や学業が通常通り再開された後も、決して無駄にはならないだろう。

5月1日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は当初イスラエルの都市テル・アヴィヴで予定されていたヨーロッパ・コンサートを新型コロナウィルスの蔓延により断念し、急遽会場を本拠地フィルハーモニーに移して無観客で実施、全世界に無料中継された。指揮はキリル・ペトレンコ、樫本大進がコンサートマスターを務めた。僕はリアルタイムで鑑賞。前半はアルヴォ・ペルト「フラストレス」、サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」など弦楽合奏曲で、15人の奏者が間隔を2mくらい取り、十分なSocial Distance(社会的距離)を保って演奏した。真摯な祈りの気持ちがこもった、大変美しく感動的なパフォーマンスだった。プログラム後半、マーラーの交響曲第4番はエルヴィン・シュタインによる室内オーケストラ版。なんと独唱者(クリスティアーネ・カルク)を除いてたった14人!第1/第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが1名ずつ、金管なし、木管がオーボエ、フルート、クラリネット各1名、そしてピアノ2名、ハルモニウム、打楽器という編成。〈音楽の力〉の凄みを、まざまざと見せつけられた!ただただ脱帽である。

コロナ禍の影響で倒産するホテル・飲食業・スポーツジム・ライブハウス・ミニシアター(映画館)は少なからずあるだろう。東京や大阪のオーケストラ、劇団で存続が困難になることろも出てくるだろう。仕方がない、あきらめるしかない。しかし、全部潰れるわけではない。気の毒だけれど、僕はダーウィンの進化論が言うところの「自然選択/自然淘汰」だと思う(ウィルス=自然)。優れたものだけが生き残るのだ。ミニシアターがなくなろうが、動画配信サービスがその代わりを担ってくれるだろう。4つある在阪オーケストラは統合して数を減らせば良い。その方が質も向上する。これが「新しい解釈」だ。

僕たちは今、世界恐慌や第二次世界大戦、あるいは「黒死病」と呼ばれるペスト(エボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱という説もあり)が大流行した中世ヨーロッパに匹敵する大きな困難に直面している。出口はなかなか見えてこない。しかし物事には暗い側面と、明るい側面がある。ピンチはチャンスだ。映画「風の谷のナウシカ」のラストシーンで描かれたように、絶望の中からも必ず希望の芽は生えてくる。僕はこの先、どんな新しい世界が広がっていくのか、とても胸を躍らせている。だから、(世界が生まれ変わる)その日が来るまでおとなしく"Stay Home"を守り、なんとか生き延びようではないか!

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2020年3月23日 (月)

新型コロナウィルスとの戦い〜イタリアの医療崩壊と学徒動員、ブロードウェイ閉鎖

2020年3月6日、フランスのマクロン大統領はテレビ演説し、「我々は(ウイルスとの)戦争状態にある」と何度も強調した。

3月16日、ドイツのメルケル首相は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて国民向けにテレビ演説し、「第二次世界大戦以来、最大の試練に直面している」との認識を示した。彼女がテレビ演説を行うのは極めて異例である。

イタリアのコンテ首相は3月21日、テレビ演説で現状を「この国にとって戦後で最も厳しい危機だ」と表明した。そして翌22日、死者数が5476人に達し(感染者は5万9千人)、既に中国の死者数を上回った。イタリアでは人工呼吸器の数が足りず、医師・看護師ら医療スタッフは不眠不休の労働で疲弊し、医療崩壊が起こっている。同国政府は卒業試験を控える医学生約1万人に対し、試験を免除して、即戦力として通常より8~9か月早く医療現場に投入することを決めた。

これって、正に日本における第二次世界大戦末期の学徒動員・学徒出陣(1943- )と同じ状況ではないか!幕末の戊辰戦争で例えるなら会津藩・白虎隊の悲劇。ドイツで言えばやはり1943年以降に実施されたヒトラーユーゲント(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)の出兵に相当するだろう。つまり今、世界は戦時下にある。

アメリカではブロードウェイの劇場や映画館、レストランが閉鎖。ニューヨーク州は外出禁止令を出した。アメリカの場合、第一次・第二次世界大戦でも戦場にならなかった(日本軍が到達出来たのはハワイの真珠湾まで)。つまり本土空襲がなかったわけで、劇場やハリウッドのスタジオが閉鎖されるなんて前代未聞である。そういう意味でこれだけの危機的状況は南北戦争(1861-65)以来と言えるのではないだろうか?

日本では2月末にいち早く、安倍総理の大規模イベント中止要請(Request)に対して、演劇・ミュージカルを上演する劇場やコンサート・ホールが自主的に公演を中止した。あくまでリクエストだから強制力はないのに、日本国民は相変わらず御上(おかみ)に対して羊のように従順だなぁと思った。そもそも〈大規模イベント〉の定義が曖昧である。〈忖度した〉とも言えるし、我が国特有の〈同調圧力〉に屈したとも言える。〈出る杭は打たれる〉のである(どこよりもいち早く劇場公演を再開した宝塚歌劇団は徹底的にSNS等で叩かれ、またたく間に再休演に追い込まれた)。そのくせ一ヶ月も立たないうちに音を上げ、政府に対しやれ損害を保証しろだの、「演劇の死」だの、騒がしいことこの上ない。どうも「戦争状態にある」という認識が彼らには欠けているのではないだろうか?

対してブロードウェイの劇場は3月12日にニューヨーク市長が非常事態を宣言するまで、公演を一切止めなかった。〈要請〉と〈強制〉には大きな隔たりがある。さすがアメリカの演劇人は気骨があるなぁと改めて感心した。これぞ"The Show Must Go On"の精神だろう。一度始めてしまったら、何があっても中止出来ないという意味である。野田秀樹さんには是非とも彼らの爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。覚悟が違う。

欧米諸国の演劇のルーツをたどると、古代ギリシャ演劇に行き着く。「オイディプス王」なんか、紀元前427年頃の作品である。エピダヴロスの古代劇場は紀元前4世紀に設計された。なんと今から2400年前に常設劇場があったのである。日本の場合、推古天皇のときに朝鮮半島や中国大陸から伝わったとされる伎楽(ぎがく)はパレード+滑稽味を帯びた無言劇で、奈良時代に伝わった散楽(さんがく)は軽業・曲芸・奇術・踊りなど大衆芸能だった。ちゃんとした舞台で演じられる演劇としては室町時代に成立した猿楽(能)まで待たなければならない。観阿弥・世阿弥親子が登場するのが14世紀だからせいぜい600年程度の歴史である。その差を今回の新型コロナウィルス騒動で見せつけられた気が僕にはした。「演劇の死」なんかじゃない、「日本演劇の敗北」である。

新型コロナウィルスは我々に様々な目を開かせてくれる。

立憲民主党の蓮舫は安倍総理が中国と韓国からの入国制限に踏み切ったことに対して国会で「エビデンスはあるのか?」と食い下がった。

ノーベル生理学・医学賞を受賞した京大の山中伸弥教授はYOSHIKIとの対談で次のように述べている。「今よく言われるのは『エビデンスはあるんですか?』『科学的エビデンスに基づいた対策ですか?』という議論もあると思うんですね、でもこれはエビデンスを待っていたらいつまでも対策は出来ません。人類が初めて経験してるんですから、エビデンスなんかどこにもないんです。じゃあ、その間何もしなかったら手遅れになってしまいます」

ここから学ぶべき教訓。意味も分からずに「エビデンス」を連呼する人間を絶対に信じるな!

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2020年3月20日 (金)

新型コロナウィルスが僕たちに教えてくれること

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は常々思っている。例えば災害時。大地震が起こると発展途上国では暴動に発展し、商店への略奪がしばしば起こる。貧富の格差、貧しい者の富める者に対するルサンチマン(嫉妬・怨嗟)が一気に吹き上がる。その点日本人は阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も救援物資が配給されるのを割り込みもせず列を作って辛抱強く待ち、その姿が世界から称賛された。僕たちは非常時でも品格を失わなかった。

新型コロナウィルスの騒動で、世界は総鎖国状態になっている。ヨーロッパ諸国もこの緊急事態にナショナリズムを剥き出しにし、国境を閉ざした。EUと称するグローバリズム(緩やかな社会主義)の正体・欺瞞が白日の下に晒された。イタリアが医療崩壊しても近隣諸国は自国のことでいっぱいいっぱいで、知らんふりだ。結局、「世界は一家、人類はみな兄弟」じゃなかった。なんと中国から医師300人で構成される専門家チームがイタリアに派遣された。皮肉なことにイギリスのEU離脱は正しかったことが、こんな形で証明された。

アメリカやヨーロッパで、アジア人差別が横行している。彼らは「私は人種差別なんかしていない」という仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨て、本来の顔を覗かせた。

日本では音楽家や演劇関係者の頭の中がお花畑であることがはっきりと分かった。

野田秀樹氏の、このまま劇場を閉ざしていたらそれは「演劇の死」を意味するという発言には心底驚かされた。いやいや野田さん、まだ1ヶ月そこらでしょう。1945年の東京大空襲で首都が焼け野原になっても、広島・長崎に原爆が投下されても演劇は死ななかったんですよ。そんなやわなものじゃないでしょう?泣き言言いなさんな、みっともない。貴方はもっと骨のある人だと思っていました。失望しました。

3・11東日本大震災のとき、当時政権与党だった民主党が如何に経験不足で頼りない党かということが露見し、全国民は呆れ返った。その後に行われた総選挙で惨敗、結局民主党という組織そのものが消滅した。3・11がなければ、民主党はもう暫く存続出来たのではないだろうか?亡国の危機を迎えることによってその化けの皮が剥がれたのである。

今回のコロナウィルスによる危機を迎えても、韓国は日本に対する攻撃を緩めない。恨(ハン)は決して変わらない。

また、朝日新聞の鮫島浩氏が次のようにツィートしている。

日本政府による〈陰謀論〉だ。

日本が韓国やイタリアに比べて、検査件数が少ないことは事実だ。しかしそれは対外的に日本の安全性をアピールしたいという〈隠蔽工作〉なんかじゃない。軽症者が病院を占拠して重症者が入院できないといった、医療崩壊を防ぐことに狙いがある。鮫島氏はイタリアみたいに日本も医療崩壊すれば良いと考えているのだろうか?まぁこの人は憎き安倍政権を打倒出来さえすれば、国が滅んでも気にしないのだろう。安倍総理をこき下ろすことだけが目的化している。

どの程度の症状で検査するかによって感染者数は変化する。それを国別に比較することに意味はない。しかし死亡者数は誤魔化せない。重症で人工呼吸機に繋いでいる患者にウィルスのPCR検査をしないなんていうことはあり得ないからである(日本では死亡後に感染が判明した症例もある)。

〈陰謀論者〉たちは保健所が検査させないように策略をめぐらせていると主張するが、日本では2020年3月6日から新型コロナウィルス検査が保険適応となった。つまり保健所を介さず、医師の判断で検査出来るようになったのである。

3月19日現在、日本国内の死亡者は29人。韓国は91人。中国以外で多い順にイタリア2978人、イラン1135人、スペイン598人、フランス264人となっている。「日本は何とか持ちこたえている」というのは紛れもない事実だ。更に言えば日本の人口は約1億2600万人である。韓国が約5100万人でイタリアが6048万人。死亡率(人口10万対比死亡数)を計算すると、さらに格差は広がる。ここで〈陰謀論者〉たちは死亡者数を検査した人の数で割って「日本の死亡率は高い」と主張するのだが、これはインチキである。このやり方だと、症状の全くない人まで沢山検査した国のほうが見かけ上率が減ってしまう。ナンセンスだ。どうして彼らはここまでして、日本を貶めたいのだろう?実に情けない。

さらに朝日新聞の小滝ちひろ編集委員・ソーシャルメディア記者はツイッターに次のような投稿をした。

「(略)戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」

ここでも世界を覆う災厄よりも、憎っくきトランプ大統領が右往左往している姿を見る方が嬉しいという本性が剥き出しになっている。時の権力者へ自らの憎悪をぶつけることが目的化し、他のことが全く見えなくなっているのだ。なんと愚かなことだろう。

 

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2020年2月28日 (金)

新型コロナウィルスと”浮草稼業“

新型コロナウィルス感染症の影響で、どんどんコンサートや各種イベントが中止に追い込まれている。2020年2月26日(水)、Perfumeが予定していた東京ドーム公演の2日目が中止された。開演5時間前の決定だった。新聞記事によると東京ドームのキャンセル料は実損2億円だという。

僕は2月29日(土)に兵庫県立芸術文化センターでフィンランドの俊英サントゥ=マティアス・ロウヴァリが指揮するエーテボリ交響楽団を聴く予定だったが、26日夕方に公演中止がアナウンスされた。なんとオーケストラの楽員は既に、遥々スウェーデンから日本に到着していた。一度も演奏することなく帰国することになった彼らがとても気の毒だ。

また37()8()にびわ湖ホールで上演される予定だったワーグナーのオペラ「神々の黄昏」も中止が決定された。「ニーベルングの指環」4部作を4年間かけて上演する大プロジェクトの最後を飾る筈の作品だった。チケットは既に購入しており、無念で仕方ない。

びわ湖ホールは赤字経営で滋賀県は毎年、11億円という助成金を出している。「神々の黄昏」の制作費は1億6千万円。その収益が0になった。果たして今後も存続出来るのだろうか!?

東京・帝国劇場や大阪・梅田芸術劇場、宝塚大劇場、劇団四季の全国の劇場もこの先2週間前後の公演中止を決定した。

さて、ミュージカル「レ・ミゼラブル」でジャン・バルジャンを演じたこともある某役者が、新型コロナ騒動に関して「文化、芸術だって経済を動かしている。劇場公演を中止するのなら、電車も止めろ」とツィートしている。また映画「蜜蜂と遠雷」でサウンド・トラック制作にも参加した某ピアニストは、「政府の要請を受け音楽業界は大騒ぎ、中止や公演延期が次々発表されていく。その一方、都内のラッシュ時に電車は相変わらず満員で、駅は大混雑。ウィルス拡散防止のバランスはこれでいいの?」という旨をSNSで呟いている。

呆れてしまった。そしてその直後からこみ上げてくる笑い。彼らは自分たちの職業が、”浮草稼業”であるという自覚がないのだろうか?

物事には優先順位がある。生命の危機に晒された緊急事態にまずカットされるのは音楽や芸能活動、娯楽、つまり全てひっくるめてAmusement & Entertainmentであることは仕方がないことだ。人が生きていく上で音楽や芝居がなくても差し障りはない(この際、”心の豊かさ”は二の次。そんな余裕はない)。

しかし首都圏の電車を止めたらどうなる?(職員の通勤に支障をきたし)霞が関や病院が機能しなくなっても構わないのか?電気やガスが止まって良いとでも?食料の流通もままならなくなる。ライフラインと芸能活動を等価で語るのは非常識だろう。

そもそも安倍総理は大規模なイベントの中止・延期を「要望(リクエスト)」しているのであって、これは行政命令ではない。主催者が総理の意向を忖度(そんたく)しているに過ぎない。あるいは日本人の特徴である同調圧力と言い換えることも出来る。強制力はないのだから「右にならえ」せず、したい者は信念を持って公演を続行すればいい。

上方落語界で唯一の人間国宝だった故・桂米朝は弟子入りした折、師匠の米團治から次のように言われたという。

「芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良いの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」

音楽家にしろ役者にしろ「米一粒、釘一本もよう作らん」身の上であり、「ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない」のも全く同じだろう。そういう”浮草稼業”でありながら、噺家と違って彼らに欠けているのは末路哀れという「覚悟」なのではないか?浮世離れしているというか、頭の中がお花畑なのだ。

こうした常識外れな音楽家たちの生態を見事に描き出したのが漫画「のだめカンタービレ」である。登場人物たちは全員、社会性が欠如した奇人・変人ばかり。でも芸術家って、きっとそれでいいのだ。世間は彼らの突出した才能だけすくい取って、消費する。そういう社会システムになっている。

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2020年2月 1日 (土)

【考察】今世紀最大の問題作・怪作!ミュージカル映画「キャッツ」〜クリエイター達の誤算

2019年12月20日に北米で公開されるやいなや、「グロテスクなデザインと慌ただしい編集で、不気味の谷へと転落していく。ほとんどホラー」(Los Angeles Times)「4回吐いた」「悪夢を見ているよう」「あまりの恐怖に涙が出た」「猫の皮を被ったカルト宗教集団から延々と洗脳され続ける体験」などと酷評され続ける映画「キャッツ」。

現在、IMDb(インターネット・ムービー・データベース)での評価は10点満点中2.8点(2万5千人以上の集計)、なんと!史上最低(B級映画をも下回る)Z級映画と誉れ?高い「死霊の盆踊り」Orgy of the Dead の2.9点より低い。

Bon

因みに「アタック・オブ・ザ・キラー・トマト」が4.6点、エド・ウッド監督「プラン9・フロム・アウタースペース」は4.0点だ。つまりZ級映画の殿堂入り確定、文句なしのカルト映画ということ。

続いて【腐ったトマト(Rotten Tomatoes)】を見てみよう。

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評論家の肯定的評価は20%で〈腐った〉、一般人からは53%の支持しか得ていない。なお北米で公開された新海誠監督「天気の子」(英題:Weathering With You)に対する評論家の肯定的評価は92%〈新鮮〉、一般人は95%となっている。

Cats

僕がこれだけのショック(電気的啓示 electric revelation)を受けたのは橋本忍(脚本・監督)のトンデモ映画「幻の湖」(1982)以来ではなかろうか!?だから40年に1本の珍作・怪作と断言しよう。小説で言えば「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」「黒死館殺人事件」など三大奇書レベル。

BとかCとか中途半端な評価は本作に似合わない。AかZの二択だ。僕は存分に愉しんだので謹んでAを進呈する。字幕版だけでは飽き足らず、日本語吹き替え版も立て続けに観た。

公式サイトはこちら

舞台ミュージカル「キャッツ」は1981年にロンドンで開幕。ロンドンで21年、ブロードウェでは17年間のロングランを記録。トニー賞ではミュージカル作品・楽曲・台本・演出賞など7部門を制覇した。

役者が猫を演じ、人間役は一切登場しないという当時としては革新的なミュージカルであり、長らく実写映画化は不可能と言われていた。スティーヴン・スピルバーグの製作会社、アンブリン・エンターテイメントがアニメーション化するという話もあったが、結局立ち消えになった。

普段私達が舞台を観る時は、想像力をフルに働かせて足りないものを補っている。そこに猫の着ぐるみを身にまとった役者がいれば、【人間→猫】に〈見立て〉る 。つまり脳内で〈変換〉作業が行われる。絵の具で描かれた舞台背景=書き割りも、本物の風景が広がっていると〈想像力〉で補完する。その究極の姿が落語であり、座布団の上で演者が上下(かみしも)を切る(顔を左右に向けて話す)ことで、観客は二人の登場人物が会話していると脳内で〈見立て〉る 。小道具となる扇子も、広げて盆に〈見立て〉たり、閉じたまま煙管や筆、箸に〈変換〉して使用される。つまり落語は観客の〈想像力〉を借りなければ成り立たない芸能である。年端のいかない幼い子が見たら「あのおっちゃん、なに一人で喋ってんの?アホちゃう」ということになるだろう。これが芝居・寄席小屋における暗黙の了解である。

ところが、映画というメディアではそうはいかない。リアリティが求められ、〈想像力〉を働かせる必要がない。白黒の無声映画時代なら背景が書き割り(絵)でも許された。しかし音声が付き、カラーになり、画面が大きくなってサラウンド・スピーカー・システムが導入され事情が変わった。現在ではフィルムからデジタル時代になり、さらに細密な描写が必須となった。つまり映画は舞台よりも実生活に近いメディアであり、映画館はヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)の場。だから観客は〈見立て〉たり、〈想像力〉を働かせることを止めてしまった。IMAX上映とかアトラクション(体感)型4Dシアターの出現は、その傾向に拍車をかけた。

舞台では日本人がリア王やマクベスを演じても不自然じゃない。ギリシャ悲劇やチェーホフも演る。宝塚歌劇の男役だってそう。しかし映画でそれは許されない。〈見立て〉が成り立たないのだ。つまり「これは花も実もある絵空事ですよ」という約束事が通じる閾値・境界線、仮にそれをReality Lineと呼ぼう、が舞台と映画では明確に違う。

映画「キャッツ」は着ぐるみではなく、最新のCG技術"Digital Fur Technology"を駆使して役者に猫の体毛を生やした。非常にリアルだ。すると観客は【人間→猫】に脳内変換することが不可能になる。人間でもなく、猫でもない化け物(monster)=猫人間の誕生である。「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する猫娘みたいなものだ。しかもおぞましいことに更に小さな、人間の顔をしたゴキブリ、つまりゴキブリ人間も登場し、猫人間がそれを食べてしまう衝撃的な場面が用意されている。ここで大半の人はカニバリズムを連想し、阿鼻叫喚となるだろう。「進撃の巨人」における巨人が人間を喰らう場面に相当、さながら地獄絵図である。

面白いのは映画「キャッツ」批判の中に、〈彼らは性器がついておらず、股間がツルンとしているのは何故?〉というのがあった。舞台版では一度もされたことのない問いである(Catsの着ぐるみに、性器がついていたら気持ち悪くないですか?)。ここでも舞台と映画ではReality Lineが異なることが示されている。映画ではより精密な描写が求められるのだ。この股間問題は、ディズニーの超実写(CG)版「ライオンキング」でも話題になった。アニメ版ではその省略を誰も気にしなかったのに。つまりセル画アニメとCGでも、観客が求めるReality Lineは違う。漫画のアニメ化に成功例は多いが、実写映画化は殆ど失敗しているのもReality Lineの差に原因があるのだろう。

本作を観た多くの人が「不気味だ」「怖い」と感じる。それは危険を察知して回避しようとする動物的な防衛本能である。私達は舞台を観るときにある程度距離をおいて客観視することが出来る。つまり知性で「これは虚構(Fiction)だ」と分かり、現実(Real)と区別している。しかし映画になると知性が吹っ飛び本能が表面に出てきて主観的になる。虚構と現実の境界が曖昧になるのだ。興味深い現象である。だからこそ映画には没入感があり、より一層人の心の深層に潜り込むことが出来る。

結局、「英国王のスピーチ」でアカデミー作品賞・監督賞を受賞したトム・フーパーら「キャッツ」のクリエイターたちは、舞台と映画の本質的違いをよく分かっていなかったのだろう。そこに彼らの大いなる誤算があった。結局、アニメーション化したほうが無難だった。

ミュージカル「キャッツ」は基本的に歌と踊りを主体としたショー=レビューである。一匹ずつ、自分がどういう猫かを語ってゆく。だから基本的に物語らしい物語はない。それを期待するだけ無駄である。過去の映画で一番近いのは「ロッキー・ホラー・ショー」かな?だからこれから映画版を観る人は、一夜のパーティに参加するノリで足を運んだら良いだろう。いずれ「ロッキー・ホラー・ショー」同様に、猫のコスプレしてスクリーンに向かって野次やツッコミを入れる観客参加型上映が定着するのではないだろうか。

映画版のオールド・デュトロノミー役:ジュディ・デンチは1981年のウエスト・エンド公演でグリザベラを演じる予定だったが、稽古中の怪我で止むなくエレイン・ペイジと交代した。粋な配役である。因みに舞台版のオールド・デュトロノミーは男優が演じる。

あと映画版のグリザベラ(ジェニファー・ハドソン)はシャンデリアに乗って上昇し、天上界へと向かう(舞台版ではタイヤが浮き上がる)。これは同じロイド・ウェバーのミュージカル「オペラ座の怪人」第1幕のクライマックスでシャンデリアが落下することと、きれいに対称を成している。このあたり、トム・フーパーの演出は冴えに冴えている。

ブロードウェイ・ミュージカル「ハミルトン」「イン・ザ・ハイツ」 などでトニー賞の振付賞を3度受賞しているアンディ・ブランケンビューラーによる振付がヒップホップを取り入れるなど斬新でダイナミック。

また日本語吹き替え版は山崎育三郎、大竹しのぶ、山寺宏一、宝田明らが素晴らしく、聴き応えあり。

映画という概念を変える、画期的・革新的エンターテイメントの出現である。四の五の言わず、直ちに劇場で体感せよ!!

〈追伸〉本作にガッカリしたという貴方、トム・フーパー監督を見限らないであげて。2月にAmazon Prime Video他から配信される「ダーク・マテリアルズ/黄金の羅針盤」は絶対に面白いから!なんと、「ゲーム・オブ・スローンズ」の米HBOと「シャーロック」の英BBC共同制作による超大作だ。こちらからどうぞ。

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2020年1月31日 (金)

望海風斗(主演)宝塚雪組「ONCE UPON A TIME IN AMERICA (ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ)」

故セルジオ・レオーネ監督には次のようなタイトルの映画がある。

  • Once Upon a Time in the West(ウエスタン)
  • Once Upon a Time in America 遺作

そして2019年にクエンティン・タランティーノ監督の、

  • Once Upon a Time in Hollywood

が公開され、これで3部作が完結した。タランティーノは心からレオーネを敬愛しており、"Once Upon a Time in the West"について「この映画を観て映画監督になろうと思った」と熱く語っている(詳細はこちら)。タラちゃんがエンニオ・モリコーネの音楽を偏愛するのもレオーネの影響だろう。だから自作「ヘイトフル・エイト」でモリコーネを起用し、彼にとって初めてのアカデミー作曲賞をもたらした。これもある意味、レオーネとモリコーネへの感謝の気持ちの表明、恩返しであると言えるだろう。

ここで僕が考えるエンニオ・モリコーネのベスト5を挙げておこう。

  1. ニュー・シネマ・パラダイス
  2. Once Upon a Time in the West(ウエスタン)
  3. ミッション
  4. The Good, the Bad and the Ugly(続・夕陽のガンマン)
  5. Once Upon a Time in America

次点は「死刑台のメロディ」(Sacco e Vanzetti:サッコとヴァンゼッティ)かな?「天国の日々」もいいしな……。

"Once Upon a Time in America"はなんと言っても〈デボラのテーマ〉が素晴らしい!胸に染み入る美しさを湛える。

その"Once Upon a Time in America"を小池修一郎の作・演出で宝塚歌劇が上映すると聞いたときには心底驚いた。そして「大丈夫かな……」と不安になった。

華やかさとは程遠いノワール(マフィアもの)だし、宝塚に向いていると思えない。特に主人公のヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)がキャデラックの車内で幼馴染のデボラ(エリザベス・マクガヴァン)をレイプする場面(衝撃的だった)とか、チャイニーズ・タウンの阿片窟でヌードルスがヘロヘロになり、虚ろな目でニヤッとする(そこでストップモーションがかかる)あの絶望的なラストシーンを一体全体どう処理するんだ!?と気が気じゃなかった。「清く正しく美しく」という、すみれコードに明らかに抵触する。

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1月12日(日)宝塚大劇場で観劇。結局、僕の心配は杞憂に終わった。さすが歌劇団のエース・小池修一郎、手練れである。小池が書いた台本の最高傑作は文句なしに「ポーの一族」だが、「ONCE UPON A TIME IN AMERICA 」はその次に挙げてもいいんじゃないかな?そう思った。

因みに僕が過去に観たことがある小池のオリジナル作品(海外ミュージカルを除く)は他に「ヴァレンチノ」「PUCK」「ロスト・エンジェル」「失われた楽園」「ブルースワン」「JFK」「イコンの誘惑」「エクスカリバー」「タンゴ・アルゼンチーノ」「LUNA -月の遺言-」「カステル・ミラージュ-消えない蜃気楼-」「薔薇の封印 -ヴァンパイア・レクイエム- 」「NEVER SAY GOODBYE -ある愛の軌跡- 」「アデュー・マルセイユ」 「グレート・ギャツビー」「オーシャンズ11」「カサブランカ」「銀河英雄伝説」「眠らない男・ナポレオン」「るろうに剣心」「ALL FOR ONE 〜ダルタニアンと太陽王〜」といったところ。

さて本題に入ろう。幕が開くと早速、ギャングに扮した黒燕尾の男役達による群舞から始まるのに胸が高鳴った。カッケー、最高!

デボラに対するレイプは未遂に終わり、深紅のバラの花でいっぱいの宝塚らしい場面に差し替えられていたし、阿片窟は出てくるけれど新たに別のラストシーンが用意されていて、納得の幕切れだった。

デボラがブロードウェイで成功するエピソードでは華やかなレビューが展開され、まるで「ジーグフェルド ・フォリーズ」だったし、それとは対照的に、禁酒法時代に“スピークイージー”と呼ばれたもぐり酒場でのいかがわしい退廃的ショーはボブ・フォッシー振付の「シカゴ」とか「キャバレー」を彷彿とさせた(以前小池は「キャバレー」を演出している)。「三文オペラ」のクルト・ヴァイル的とも言える。

また仲間の一人ジミーの人物造形が、全米トラック運転手組合の委員長を務めたジミー・ホッファをモデルにしていることに今回初めて気が付いた。マーティン・スコセッシが監督した映画「アイリッシュマン」(2019)ではジミー・ホッファをアル・パチーノが演じ、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」に出演したデ・ニーロやジョー・ペシも「アイリッシュマン」で共演している。

あとデボラが将来、ハリウッド・スターになってヨーロッパの王族に見初められ、王妃になるんだと夢見ている設定は、モナコ公国の公妃になったグレース・ケリーの人生を踏まえているのだろうなと思った。

モリコーネの音楽は一切使用されず、太田健の作曲した楽曲も悪くなかった。あと望海風斗と真彩希帆が歌えるトップ二人なので、安心して作品世界に浸ることが出来た。お勧め!

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ラミン・カリムルー、サマンサ・バークス in "CHESS THE MUSICAL" @梅芸

1月26日(日)梅田芸術劇場へ。CHESS THE MUSICALを観劇。

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出演はラミン・カリムルー、サマンサ・バークス、ルーク・ウォルシュ、佐藤隆紀(LE VELVETS)、エリアンナほか。演出・振付はニック・ウィンストン。公式サイトはこちら

ラミンの生歌を聴くのはこれが5回目、チェス盤上での米ソ冷戦を描く風変わりなミュージカル「チェス」は4回目になる。

ロンドンの「レ・ミゼラブル 25周年記念コンサート」でアンジョルラスを、「オペラ座の怪人 25周年記念コンサート」でファントムを演じたラミンの素晴らしさを今更ここで力説する必要もないだろう。ブロードウェイではジャン・バルジャンを演じ、トニー賞にノミネートされた。なお、佐藤隆紀も2019年からバルジャン役に抜擢されている。

第1幕フィナーレでラミンの歌う〈アンセム〉は万感の思いが込められており、圧巻。彼は1978年9月にイランのテヘランに生まれたが、当時はイラン革命(1978年1月ー1979年2月)の最中であり、国に留まっていては殺されるということで家族でカナダに移住、そしてさらに現在はイギリスに拠点を移しており、「それでも僕の心はイランにある」とアフタートークで語った。ラミンの半生が彼の演じるロシア人アナトリーに重なる。初めてミュージカルのオーディションを受けたときも〈アンセム〉しか知らず、これを歌ったという。

今回が初来日のサマンサ・バークスは「レ・ミゼラブル 25周年記念コンサート」でエポニーヌを歌い、それが高く評価されトム・フーパー監督による映画版「レ・ミゼラブル」も同役に抜擢された。僕は正直彼女のエポをそんなに好きじゃないのだけれど、生歌を聴いて度肝を抜かれた。いや、ハートを射抜かれた。ぜんぜん違う!とんでもない歌唱力で全身に鳥肌が立った。ウエスト・エンドの役者の実力、恐るべし。

ルーク・ウォルシュは高音がどこまでも伸び、魅了された。

大変充実した公演だったのだが、全編英語で字幕スーパー付き。アンサンブルが歌って踊る時も字幕を見ると踊りに集中出来ず、せめて日本人アンサンブルだけでも日本語で歌って欲しかったな。

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2019年12月19日 (木)

アカデミー作品賞、主演女優賞、助演女優賞、主演男優賞、脚本賞ノミネート確実!Netflix映画「マリッジ・ストーリー」を観る前に知っておくべきこと。

評価:A

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公式サイトはこちら

本作のアカデミー作品賞/主演女優賞(スカーレット・ヨハンソン)/助演女優賞(ローラ・ダーン)/主演男優賞(アダム・ドライヴァー)/脚本賞ノミネートはほぼ確実。ただしノア・バームバックの監督賞はビミョ〜。以下に挙げる有力候補がいるからである。

  1. マーティン・スコセッシ「アイリッシュマン」
  2. クエンティン・タランティーノ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」
  3. ポン・ジュノ「パラサイト」
  4. サム・メンデス「1917 命をかけた伝令」
  5. グレタ・ガーウィグ「ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語」
  6. タイカ・ワイティティ「ジョジョ・ラビット」

1−4は当確で、残るひとつの席を巡って三つ巴のつばぜり合いといったところか。

「マリッジ・ストーリー」はノア・バームバックのオリジナル脚本で、彼自身が2005年に女優のジェニファー・ジェイソン・リーと結婚し、長男をもうけ、8年後の2013年に離婚した経験をもとに書かれている。

バームバックはニューヨーク市のブルックリン生まれで、それがそのままアダム・ドライヴァー演じる舞台演出家チャーリーに生かされている。スカーレット・ヨハンソン演じる妻のニコールは元ハリウッド女優であり(結婚後NYの舞台に立つ)、こちらの設定も実生活のまんまだ。

ニューヨークとロサンゼルスを行き来してお話は進むので、「二都物語」と言ってもいいだろう。アメリカの東海岸と西海岸を代表する大都会の違いが浮かび上がってくる(NYは地下鉄を駆使して歩く街、LAは車なしで移動出来ない街)。

本作の前に是非観ておきたい映画がある。アカデミー作品賞/監督賞/脚色賞/主演男優賞(ダスティン・ホフマン)/助演女優賞(メリル・ストリープ)を受賞した「クレイマー、クレイマー」(1979)である。こちらも現在、Netflixで配信中。

夫婦が離婚し、長男の養育権を巡って裁判沙汰になるという構造が同じ。「クレイマー、クレイマー」の舞台はニューヨーク・マンハッタンで、一旦子供を置いて出ていった妻ジョアンナは不在の1年半の間カリフォルニア州で働いていたと夫テッドに語る。ロサンゼルスもカリフォルニア州である。そしてジョアンナはニューヨークでの裁判に勝つために、NYに家を借りる。これは「マリッジ・ストーリー」でNYを拠点に活躍するチャーリーがLAでの裁判に勝つために、現地の家を購入することと対になっている。

両者を見比べると、この40年間でアメリカ社会がどう変わってきたかが手に取るようによく分かる。「クレイマー、クレイマー」を踏まえておけば、「マリッジ・ストーリー」が少なく見積もっても5倍は面白くなるだろう。

「マリッジ・ストーリー」の終盤、ニコールはLAのホーム・パーティにおいて母と姉の三人組でブロードウェイ・ミュージカル「カンパニー」の楽曲"You Could Drive a Person Crazy"を楽しげに歌う。その直後に、今度はNYのバーでテッドが悲壮感を漂わせながら同じく「カンパニー」フィナーレの楽曲"Being Alive"を歌う。観客の涙を誘う場面である(ここのテッドが愛おしい)。

「カンパニー」はスティーヴン・ソンドハイムが作詞・作曲し、1970年に初演された。演出は「キャバレー」「オペラ座の怪人」「スウィーニー・トッド」のハロルド・プリンス。その後繰り返しリバイバル上演されている。僕は1999年の日本初演をシアター・ドラマシティで観劇している。訳詞・演出が小池修一郎。出演は山口祐一郎、鳳蘭、シルビア・クラブ、石川禅ほか。多分、僕が知る限り日本では再演されていない筈。

「カンパニー」の舞台はニューヨーク。35歳の誕生日を迎えた独身の主人公ロバートと、彼を取り巻く知人たちとの交流が描かれる。詳しい物語はこちらをご参照あれ。

"You Could Drive a Person Crazy"は(独身生活を謳歌するロバートが現在付き合っている)女たち三人が歌う。うち一人は航空会社のCA:客室乗務員。タイトルを逐語訳すれば「あなたは人を夢中にさせる」だが、「彼は本当に困った人。まともじゃないの(クレイジーよ)」と歌われる。

一方、ロバートのソロ・ナンバー"Being Alive"の内容はこうだ。誰かと親密になり一緒に暮らし始めると、傷つけられたり、眠りを妨げられたりする。時には地獄に突き落とされるような経験もする。でも、そうやって他者から干渉されることが「生きている(Being Alive ) 」ってことなんだ。一人でいること(alone) は生きていると言えない(not alive)。

今回改めてアダム・ドライヴァーの歌唱で聴いて、この曲が言いたいことは、〈ヤマアラシのジレンマ〉に繋がっているなと思った。ヤマアラシのオスとメスが愛し合うために互いに寄り添おうとすると、自分の針毛で相手を傷つけてしまうため近づけないことを指す。庵野秀明がアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で引用し、有名になった(庵野は「タッチ」の浅倉南役で知られる声優の日高のりこにプロポーズし、にべもなく断られて痛い目にあっている)。英語ではHedgehog's dilemma〈ハリネズミのジレンマ〉と言い、動物が変わる。哲学者ショーペンハウアーが創作した寓話に由来する。 つまり夫婦を続けるという営みは互いを傷付け合うことに等しいのだが、でもその痛みにこそ〈生の実感〉があるというわけだーけだし名曲である。

よく言われることだが、付き合っていた男女が別れたら、女の方は元カレをけろっと忘れてしまい、思い出の品とかを一切合切処分しても平気で新たな一歩を踏み出せるのだが、男の方は未練たっぷりで、元カノの想い出を捨て切れずにウジウジと引き摺ってしまう。それが病的になるとストーカーに変貌する(一方、女のストーカーは有名人の熱狂的ファンが多い)。そうした男と女の決定的違いを"You Could Drive a Person Crazy"と"Being Alive"の二曲で鮮やかに描き分ける演出は冴えに冴えている。

驚くべきことに2018年にロンドン、2019年にブロードウェイでリバイバル上演された「カンパニー」は男女逆転バージョン!"Being Alive" を女性の主人公が歌い、"You Could Drive a Person Crazy" は男性三人が歌う。演出は「戦争の馬」と「夜の犬の奇妙な事件」でトニー賞を受賞したマリアンヌ・エリオット。正に #MeToo 運動を経た今の時代に相応しいものになっている。

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というわけでミュージカル「カンパニー」を抑えておけば、「マリッジ・ストーリー」を更に5倍面白く観ることが出来るだろう。

ソンドハイムのミュージカルは今やアメリカの知識層にとって、知っていて当たり前の教養になっている。イギリス人にとってのシェイクスピア劇みたいなものだ。映画「ジョーカー」でもホアキン・フェニックスが地下鉄でボコボコにされる場面で、加害者の酔っ払った会社員たちはソンドハイムの「リトル・ナイト・ミュージック」より、"Send in the Clowns"を歌う。

またグレタ・ガーウィグが脚本・監督した「レディ・バード」ではシアーシャ・ローナン演じる高校生が、学校でミュージカルを上演する場面があるのだが、これがスティーヴン・ソンドハイム作詞・作曲の「メリリー・ウィー・ロール・アロング」といった具合。

なおノア・バームバックは現在グレタ・ガーウィグと交際し、2019年に二人の間に子どもが生まれたばかり。何度か一緒に共同脚本も執筆している。

余談だが、「メリリー・ウィー・ロール・アロング」をリチャード・リンクレイター監督が映画化することが既に決まっており、なんと20年を費やして撮影するらしい!!報道資料はこちら。最後まで関係者が誰も死なないことを祈る。

話をもとに戻そう。「マリッジ・ストーリー」はスカヨハとアダム・ドライヴァーの演技が文句なしに素晴らしいのだが、更に強烈なインパクトを与えるのが弁護士役のローラ・ダーン。クソビッチ(Fucking bitch)で最高!ビロウな表現で恐縮です。

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2019年12月13日 (金)

三谷幸喜「愛と哀しみのシャーロック・ホームズ」と「虹のかけら〜もうひとりのジュディ」

三谷幸喜作品で、僕が今まで生の舞台を観たものを以下列挙してみよう。「君となら(再演・再々演)」「笑の大学(初演・再演)」「ヴァンプショウ」「アパッチ砦の攻防」「温水夫妻」「オケピ!(初演・再演)」「竜馬の妻とその夫と愛人」「彦馬がゆく」「You Are The Top/今宵の君」「なにわバタフライ」「12人の優しい日本人」「コンフィダント・絆」「グッドナイト スリイプタイト」「ろくでなし啄木」「国民の映画」「90ミニッツ」「ホロヴィッツとの対話」「酒と涙とジキルとハイド」「其礼成心中」「紫式部ダイヤリー」「日本の歴史」の21作品。

テレビ放送、DVDなどで観たものは「天国から北へ3キロ」「ショー・マスト・ゴー・オン」「巌流島」「バイ・マイセルフ」「マトリョーシカ」「バッド・ニュース☆グッド・タイミング」「東京サンシャインボーイズ returns」「ベッジ・パードン」の8作。合わせて29作品。これが僕の観劇歴である。

10月3日(木)森ノ宮ピロティホールへ。

Aito

「愛と哀しみのシャーロック・ホームズ」の主な出演者は柿澤勇人、佐藤二朗、広瀬アリス。

正直言って、もう三谷の舞台作品は観なくていいかな、と思った。映画の方は(「清須会議」以降)とっくに見限っている。

最近の三谷は語るべきテーマを完全に見失っている。東京サンシャインボーイズ時代は良かった。ひとりひとりだと、ちょっと足りない人物たちが集まり、チームとして一丸となれば何かを達成出来るという明確なビジョンがあった。その頂点に立つのがテレビドラマ「王様のレストラン」である。つまり〈仲間が一番〉〜バディものとしての特性がピクサー・アニメーション・スタジオ的で、だから三谷のお気に入りの映画が「トイ・ストーリー(第一作)」や「がんばれ!ベアーズ」なわけだ。しかしその路線は既に語り尽くされてしまい、もはや三谷の引き出しは空っぽになってしまった。何を描きたいのか、さっぱり分からない。多分、本人も同様なのだろう。

細部でのくすぐり、クスクス笑いはあるが、それが全体のドッカンに繋がらない。あくまで刹那的だ。コメディの質としては吉本新喜劇レベル。

三谷幸喜はコメディの名手ビリー・ワイルダーに憧れて、彼に会うために渡米もしている。しかし結局〈日本のビリー・ワイルダー〉にはなれなかった。ユダヤ人だったワイルダーはベルリンで新聞記者をしていたが、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツの台頭を目の当たりにしてフランスを経由してアメリカに亡命した。オーストリア・ウィーンに残してきた母親や祖母は強制収容所送りになり、殺された。だからワイルダーのコメディ映画の根底には人間に対する〈不信〉と〈絶望〉があり、それが作品に深みをもたらしている。コメディじゃないが「サンセット大通り」なんて、ゾッとするほど恐ろしい映画だ。一方、おぼっちゃんとして大切に育てられた三谷は日本大学藝術学部在学中に劇団「東京サンシャインボーイズ」を旗揚げし、順風満帆な演劇人生を歩んできた。だから彼の作品にはワイルダーの持つ〈影〉や〈闇〉、〈業の深さ〉が欠けている。薄っぺらいのだ。

12月3日(火)サンケイホールブリーゼへ。「虹のかけら〜もうひとりのジュディ」を観劇。

Niji

「なにわバタフライ」同様、戸田恵子の一人芝居。他に女性ミュージシャン3名が舞台上で生演奏する。

こちらも三谷幸喜が何を描きたいんだかさっぱり理解出来なかった。しかも上映時間80分ー短っ!稀代のミュージカル女優ジュディ・ガーランドの人生を描く作品として物足りない。

そもそも、彼女の付き人として、専属の代役として、長年に渡って影のように寄り添った一人の女性、ジュディ・シルバーマンという架空の人物を設定する意図が不明。第三者の視点が全く効果を上げていない。はっきり言う。作劇術として完全に失敗している。がっかりした。仕方ないから来年公開されるレネー・ゼルウィガー主演の映画「ジュディ」(アカデミー主演女優賞確実!)に期待する。

Judy

ただ芝居としてはお粗末だったけれど、ジュディ・ガーランドが歌った名曲の数々を聴けたので「愛と哀しみのシャーロック・ホームズ」ほどは腹が立たなかった。

さようなら、三谷幸喜。これで終わりだ。

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