舞台・ミュージカル

【増補改訂版】近・現代芸術を理解するための必読書 その2

これは、過去に書いた記事

の続編となる。今回まず、お薦めしたいのは臨床心理学者・河合隼雄による一連の著作である。

そもそも河合の名前を初めて知ったのは2016年夏に兵庫芸文で上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の夢」について勉強している時だった。ことの詳細は下記に書いた。

河合と翻訳家・松岡和子との対談、「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)は目から鱗の連続だった。特に「夏の夜の夢」が意識↔無意識の4層構造になっているという解釈はまるでクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」みたいで新鮮だった。調べてみると河合は、村上春樹や小川洋子、遠藤周作、安部公房ら小説家、ノンフィクション作家・柳田邦男、詩人・谷川俊太郎、宗教学者・中沢新一、脳科学者・茂木健一郎ら錚々たるメンツと対談本を上梓していることが判明した。その後夢中になって彼の著作を読み漁った。

僕は生まれてこの方、2,700本以上の映画を観てきた。膨大な数だ。どうしてこれほどまでにフィクションに魅了されるのか、自分でも不思議だった。過去には次のような記事も書いた。

「博士の愛した数式」で有名な小説家・小川洋子は二十代半ばでデビューした当時、「なぜ小説を書くのですか」とインタビューで問われる度に明確な回答が出来ず、その質問が苦痛でならなかったという。しかし河合隼雄の著作を読み、物語というものの解釈に出会って彼女の目の前に立ち込めていた霧が晴れた。河合と小川の共著「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)に小川が書いたあとがきから引用する。

物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。(中略)内面の深いところにある混沌は理論的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

まさにこれこそが、河合隼雄から僕が学んだことである。

現在までに彼の著書を30冊読んだが、お勧めのベスト5を挙げておく。

  • 無意識の構造(中公新書)
  • 母性社会日本の病理(講談社+@文庫)
  • 昔話と日本人の心(岩波現代文庫)
  • 快読シェイクスピア 増補版(ちくま文庫)
  • 神話と日本人の心(岩波現代文庫)

「母性社会日本の病理」や「昔話と日本人の心」を読み、如何に自分がイザナギ・イザナミ・アマテラス・ツクヨミ・スサノオなど日本の神話のことを知らないかを思い知らされた。理由のひとつには学校教育で教わらないということもあるだろう。第2次世界大戦において、日本の神話は軍部に利用された。それへの反省もあり、また日本神話は天皇制に結びつくということもあって、日教組から徹底的に嫌悪され教育現場から排除された。河合がスイスのユング研究所での留学を終えて帰国してからも暫くの間、神話の話など持ち出そうものなら「この右翼め!」と袋叩きに合いそうな雰囲気だったので、口を閉ざしていたという(1960年代は安保闘争や学生運動が花盛りだった)。

しかしキリスト教を知らなければ欧米人のものの考え方を理解出来ないように、日本の神話や昔話を知らずして、日本人の深層心理、無意識の在り方に到達することなど到底不可能なのではないだろうか?「君の名は。」の新海誠監督も日本の昔話や神話、万葉集、古今和歌集などを読み、創作の参考にしていると語っている→こちら

ユング心理学を応用すれば、こんな解釈も可能だということを示したのが以下の記事である。

深層心理学は自然科学とは異なり、客観性よりも主観が大切である(故に「科学じゃない」という批判もある)。それは自己(self)の問題であり、物語の読解に実に役立つのである。

もう一つ挙げたいのはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」だ。

フロイトやユングの打ち立てた心理学はニーチェ哲学を土台にしているし、「ツァラトゥストラ」を通して、映画「2001年宇宙の旅」「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」「攻殻機動隊」「魔法少女まどか☆マギカ」「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」などが何を物語ろうとしているのか、一層深く読み取れるだろう。

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「ゴドーを待ちながら」@京都造形芸術大学

9月10日(日)京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場 春秋座へ。

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サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」を観劇。

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芝居の前に大学キャンパス内にあるお洒落なカフェ・ヴェルディでランチをいただく。すると隣りに座った女子大生の会話が聞こえてきた。

「先日、古墳を見に行ったの」「私は車で神社に立ち寄った」「(天空の城)竹田城跡にひとりで行ったら、ガイドさんから『エッ、ひとりで来たの!?』と驚かれたわ」

といった内容で、ここは異世界だな!と感じ入った。因みにこの大学は、女優・黒木華(ドラマ「重版出来!」、映画「小さいおうち」、「幕が上がる」、「リップヴァンウィンクルの花嫁」)の出身校でもある。

また芝居の幕間に僕が「ゴドーを待ちながら」の台本を読んでいると、隣りに座った70−80歳代の老夫婦から声をかけられた。

「わたしたち学生時代にこれに出演したんですよ。懐かしくてみんなで観に来ました」

これにも心底驚かされた。

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アイルランドに生まれフランスに渡り、ナチス・ドイツ占領下のパリでレジスタンスに身を投じた経験を持つベケットは1969年にノーベル文学賞を受賞。しかしもし彼が、1952年に出版され翌年パリで初演された「ゴドーを待ちながら」を書いていなかったら、受賞はあり得なかっただろう。20世紀演劇界最大の問題作であり、最高傑作と称賛されている。この一作が世界演劇の流れを変えたとさえ言われる。オリジナルはフランス語だが、作者自身による英語版もあり、一部台詞が異なっている。アメリカ初演は惨憺たるもので、初日に最後まで残っていた観客はテネシー・ウィリアムズほか数名だけだったという。フランス語版は初演のままだが、ベケットは英語版を3回(ベルリン公演で2回+ロンドン公演で1回)改訂している。

今回はベケット作品を演るためにアイルランド・ダブリンで結成された演劇集団マウス・オン・ファイヤが、晩年にベケットが残した演出ノートに基づき上演した。演出はカハル・クイン。配役は、

  • エストラゴン:ドンチャ・クロウリー(アイルランド・コーク出身
  • ウラジーミル:デイビッド・オマーラ(ダブリン出身)
  • ポッツォ:マイケル・ジャッド(ダブリン出身)
  • ラッキー:シャダーン・フェルフェリ(インド出身)
  • 少年:下宮真周

日本語字幕は背景のスクリーンに映し出された。

本作は不条理演劇の代表作とされる。浮浪者ふたりが木の下でゴドーを待っているが、最後まで彼は現れない。Godotという名前にはGodが内包されており、「神の不在」がテーマとなっている。

僕が今回本作をどうしても観たいと想ったのは、映画「桐島、部活やめるってよ」がすこぶる面白かったからだ。

内容は哲学的である。デカルトは「方法論序説」の中で《我思う、故に我あり》と説いたが、ベケットは《いま思っている我(われ)って、誰(だれ)?》とその実存に疑問を投げかける。存在の不確かさ、生きるということへの茫漠とした不安(死への誘惑)。我々は何処から来て、何処へ行くのか?そして記憶の曖昧さ、あてにならなさ。押井守のアニメ「機動警察パトレイバー the Movie」とか「迷宮物件」などはゴドーから多大な影響を受けているように想われる。

登場人物たちは《救済》とか《希望》、《夢の実現》を待ち続けている。でも実際のところ何も起こらない。手持ち無沙汰、宙ぶらりんな状態。人生ってこういう日々の繰り返しなんじゃない?とベケットが語りかけてくるように僕には想われた。

かつて「ゴドーを待ちながら」は何を表現しているのか?と問われたベケットは「共生だよ」と答えたという。エストラゴンとウラジーミルの関係は「友愛(腐れ縁)」であり、途中から登場する金持ちのポッツォとその奴隷・ラッキーは「主従」ー抑圧する者とされる者を表現している。またポッツォが何度もゴドーと間違えられる場面があり、イエス・キリストのイメージが重ねられているとも解釈可能だ。今回の演出でも3人が地面に倒れる場面はポッツォが中央、エストラゴンとウラジーミルがその両脇に配され、全員が両手を真横に伸ばし、足を交差する姿勢をとっていた。つまり十字架にかけられたイエスと2人の悪党を象徴させていたのである。舞台にポツンと立つ柳の木も十字架の形だった。

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ベケット自身、本作が刑務所で上演されるのを支援し、囚人たちがこの劇に描かれた「待つこと」や抑圧、無力に共感する姿を目の当たりにしたという。そしてマウス・オン・ファイヤもアイルランドの幾つかの刑務所で上演している。

芝居がはねた後、大学の教室に場所を移し、ポスト・パフォーマンス・トークが開催された。カハル・クインと、東京大学名誉教授でフランス文学者、そして演出家でもある渡邊守章がパネリストを務めた。

渡邉がフランスに留学したのが1956年。船旅で本来なら30−31日でつく筈が、折り悪く10月29日から第二次中東戦争が勃発、スエズ運河が閉鎖になった。よって航路が迂回されたため、53日かかった。だからその時はベケットどころではなく、結局パリで観ることが出来たのは1960年代後半(68年の五月革命前夜)だったという。

またかつて蜷川幸雄が1994年に銀座セゾン劇場で市原悦子・緑魔子らにより《女相撲版》「ゴドーを待ちながら」を上演したことがあり、後に無許可だったことがバレて版権元から大目玉を食らったそう。生前にベケットは女性が演じることを決して認めなかった。

クインはまず本作がtragicomedy(悲喜劇)であり、悲劇と喜劇のどちらか一方に偏るべきではないという見解を述べた。スラップスティック(どたばたギャグ)という側面もあれば、悲しみとか痛みに浸る場面もある。登場人物たちが喋っている場面は沈没するボートの水を一生懸命掻き出している状況であり、繰り返される間・沈黙は悲劇であったり死を意味している。そして彼はベケットが愛読していたというショーペンハウアー(ドイツの哲学者)の著書「意志と表象としての世界」から次のようなアフォリズムを引用した。

人生は、全体を眺め最も重要な特徴のみを強調するなら正しく悲劇だが、仔細に見れば喜劇的性格を帯びている。

またウラジーミルは月とか柳の木とか上を見る動作が多いので声のトーンが高い役者を起用し、エストドラゴンは足元とか地面を見ることが多く、トーンが低い役者にしたと。さらに第1幕最後は背景の空を赤く、満月を青くして「繰り返し」を示し、第2幕最後は空を青、月を赤くして日食や世界の終末を示唆したそう。

いや〜刺激に満ちた貴重な体験だった。

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朝夏まなと主演/宝塚宙組「神々の土地 〜ロマノフたちの黄昏〜」「クラシカル ビジュー」

9月2日(土)宝塚大劇場へ。

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「神々の土地 〜ロマノフたちの黄昏〜」の作・演出は上田久美子。

主人公のドミトリー大公(朝夏まなと)は実在の人物でロシア最後の皇帝ニコライ2世の従弟。ラスプーチン暗殺後、皇后の怒りを買い、ペルシャ戦線に派遣されたというのも史実。この処置のお陰で、却って命拾いしたのだから数奇な運命だ。

伶美うららが演じた大公妃イリナは創作だが、皇后アレクサンドラの姉エリザヴェータ・フョードロヴナ(エラ)がモデルになっている。ドミトリーとの年齢差は27歳あるのでそれでは恋愛の対象にならないから調整したのだろう(皇后の妹に変更されている)。夫が暗殺された後、エラは修道院を創立し奉仕活動に没頭するが、イリナは戦争が始まると従軍看護婦として戦地に赴く。この改変は恐らく「ドクトル・ジバゴ」のヒロイン・ラーラを参考にしたに違いない。上手い脚色である。また年上の未亡人に対する叶わない恋慕は「翼ある人びと ーブラームスとクララ・シューマン」の延長上にあるテーマである。キャストも朝夏&伶美のコンビで共通しているしね。

美貌に恵まれた伶美は結局、トップ娘役になれずに気の毒だったが、まぁ、あの歌唱力では仕方がない。しかし最後にいい役を貰った。「神々の土地」では一切歌う場面がなく、ウエクミの優しい配慮だろう。伶美池田泉州銀行のイメージガールを務めたが、ここ最近は月影瞳→陽月華→野々すみ花と3代連続でトップ娘役に就任しているので、久しぶりのハズレとなった。

ドミトリーの旧友フェリックス・ユスポフを演じるのは真風涼帆。格好いいが、レヴューのダンスを観ると、些か身体(からだ)が硬んじゃないか?と想った(朝夏のダンスが上手いだけに、一層目立った)。

次期トップ娘役が決まっている星風まどかは皇女オリガを演じたが、余り存在感がなかった。何かね、地味で華がないんだ。レヴューでは初エトワールを務めたが、歌唱力はまあまあかな。

ウエクミは女性の劇作家・演出家として、日本でNo.1だと確信している。「翼ある人びと」と「星逢一夜」(読売演劇大賞 優秀演出家賞受賞)の完成度の高さは凄まじかった。唖然とした。しかし「金色の砂漠」は頂けなかった。完全な失敗作。「ウエクミ、大丈夫か!?」と心配したのだが、今回は見事に復調した。冒頭が嵐の場面で始まるのもいいし、特に感心したのはロマ(ジプシー)がたむろする居酒屋。ロシア貴族たちをテーブルの上に乗せ、その周囲をロマたちがグルグルと周る。やがて革命へと繋がる民衆の途轍もないパワー・怒り・不満がそこに満ち溢れ、渦巻いていた。また最後の最後に登場人物全員を舞台に上げ、彼・彼女らが走馬灯のように過ぎ去っていく情景もなんだか哀感があって、グッと来た。パーフェクト!

あと舞踏会の場面ではチャイコフスキー「くるみ割り人形」の花のワルツや「白鳥の湖」のワルツが使用され、その選曲もニクいね。          

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さて休憩を挟み、宝石をモチーフにしたレヴューロマン「クラシカル ビジュー」の作・演出は稲葉太地。華やかでセンスがあるなと想った。特にリムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」をアレンジした場面や、ホルストの組曲「惑星」のメドレーがシンフォニックなサウンドで矢継ぎ早に出て来る場面(ここでは生演奏が中断され、大編成オーケストラによる録音が使用される)は鮮烈だった。銀河……そして二十億光年の孤独。

お芝居も○、ショーも○。宝塚でこういう組み合わせは滅多にないことなので、是非ご覧になることをお勧めしたい。ゆめゆめ見逃すな!

それから最後に歌劇団に切実なお願いがあります。ウエクミの演出家デビュー作、月組バウホール公演「月雲の皇子」のDVDを是非是非発売してください。後生ですから。

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劇団四季×ディズニー・ミュージカル「ノートルダムの鐘」〜ヴィクトル・ユーゴーの深層に迫る!

8月19日(土)京都劇場へ。劇団四季「ノートルダムの鐘」を観劇。

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1996年に公開されたディズニー・アニメーション「ノートルダムの鐘」の音楽はアラン・メンケンの最高傑作だと今でも信じて疑わない。

上記事で僕が書いたコメントを再録しておく。

アラン・メンケンには名曲が多い。「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」「魔法にかけられて」…。何れの作品と置き換えても構わない。しかし「ノートルダムの鐘」こそ最も荘厳で、劇的な音楽だと想う。

ヴィクトル・ユーゴーの原作は日本で「ノートルダムのせむし男」として親しまれてきた。しかし近年、「傴僂(せむし)」が差別用語に当たるとして、この名称は使われなくなった。ディズニー・アニメの原題は"The Hunchback of Notre Dame"で、直訳すれば「ノートルダムのせむし男」になる。それではまずいので日本で配給したブエナ・ビスタ・ピクチャーズは「ノートルダムの鐘」に邦題を決定、ご丁寧なことに英語のタイトルもわざわざ"The Bells of Notre Dame"に変更した。これは日本国内で発売されているDVD/Blu-rayも同様である。

アニメの日本語吹き替え版は全面的に劇団四季が担当した(DVD/Blu-rayに収録されている)。

  • カジモド:石丸幹二
  • エスメラルダ:保坂知寿
  • フィーバス:芥川英司(現:鈴木綜馬)
  • クロパン:光枝明彦
  • フロロー:村俊英

この中で現在も四季に残っているのは村俊英だけである。

今回のキャストは、

  • カジモド:田中彰孝
  • エスメラルダ:岡村美南
  • フィーバス:清水大星
  • クロパン:阿部よしつぐ
  • フロロー:芝 清道

劇団四季が上演するのは2014年に米国カリフォルニア州サンディエゴのラ・ホイヤ劇場で初演されたプロダクションで、作詞・作曲は映画と同じくスティーヴン・シュワルツ(「ウィキッド」)&アラン・メンケン(「美女と野獣」「アラジン」)のコンビ。演出はスコット・シュワルツ。

実はディズニーによる舞台ミュージカル「ノートルダムの鐘」にはもうひとつ、1999年6月5日にドイツのベルリンで初演を迎えたバージョンがあった。演出はジェイムズ・レパイン(「イントゥ・ザ・ウッズ」「パッション」「日曜日にジョージと公園で」)。劇団四季もそのプレミア上演に幹部や役者たち数名が出席したのだが、どうも不出来だったのか日本での上演には至らなかった。その後内容がさらに練られ、満を持しての日本お披露目に至ったわけである。ただし現時点でブロードウェイでの上演は実現していない。

僕は今回、余りの完成度の高さに息を呑んだ。凄い、凄すぎる!「オペラ座の怪人」や「ミス・サイゴン」を初めて観た時の感銘に匹敵する。

アニメ版で不満だったのは、アンデルセンの「人魚姫」を「リトル・マーメイド」にした時と同様、ヴィクトル・ユーゴーの原作を無理やりハッピー・エンドに変更したことである。カジモドはフロローを殺さないし、最後にカジモドもエスメラルダも死なない。子供向けとは言え、いくら何でもあんまりだ。しかし舞台版はほぼ原作に忠実で、一層残酷でダークになった。

キリスト教は父性が強い宗教である。三位一体とは父と子(イエス)と精霊を指し、そこに女性は一切関わらない。父性の特徴は「切断」にあり、世界を二分する。天国と地獄、天使と悪魔(善と悪)、光と闇。そして人間と「怪物」。「神」とか「天国」といった仮想の超越的な価値、理想郷を設定したために、キリスト教徒は現世や自分自身の生を一段低いものとして貶める価値観を見出した。それが「原罪」であり「最後の審判」である。ローマ帝国に対するルサンチマン(強者=支配者への怨恨、嫉妬)から育まれた攻撃性が自分自身に向かい、禁欲自己犠牲を美徳とする考え方が生まれた。この世は仮の住まいであり、欲望を抑えて隣人愛に徹すれば来世で幸福になれると信じたのである(以上の考察はニーチェの哲学とユング心理学に基づいている)。

聖職者のフロローは禁欲に生きている。一方、エスメラルダや流浪の民ジプシー(ロマ)たちはキリスト教の神を信じず、(善と悪の)境界に生きる者たちである。二分法の世界に生きるキリスト者には彼らのことが理解出来ない。得体の知れない「怪物」だ。自分たちはあらゆる欲望を我慢して生きているのにジプシー(ロマ)は歌って踊り、自由恋愛を愉しみ、生を謳歌している。彼らに対する嫉妬の感情もある。故にエスメラルダは「魔女」と断罪され、火あぶりの刑に処されるのだ。フロローも禁欲の末、歪んだ妄想・倒錯した欲情をエスメラルダに抱く。フロローはカジモドのことを「怪物」と呼ぶが、本当の「怪物」はどちらなのか?そして「怪物」を産んだのはキリストの教えなのではないか?ユーゴーが本作で語りたかったのは、そのことではなかったのかと僕は想った。

「ノートルダムの鐘」でユニークな存在はクロパンである。彼は道化であり、道化はトリックスターだ。トリックスターとは神話や伝説の中で活躍するいたずら者で、 その狡猾さと行動力において比類ない。善であり悪であり、壊すものであり作り出すものだ(scrap and build)。変幻自在で神出鬼没、全くとらえどころがない。単なるいたずら好きの破壊者で終始することもあれば、時として英雄にも成り得る(例えば人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウス)。境界を超えて出没するところに特徴がある。トリックスターは既存の秩序を解体し、(本作ではキリスト教の)価値観を転倒する。シェイクスピアの「マクベス」に登場する魔女3人の台詞「きれいはきたない、きたないはきれい」に呼応する。正に「ノートルダムの鐘」のラストでフロローとカジモドの立場は逆転するのである。

演出に関しては天井から降りてくる7つの鐘が強烈な印象を与えた。またクワイヤ(聖歌隊)の存在が、古代ギリシャ劇におけるコロス(合唱隊)を連想させ、鮮やかだなと舌を巻いた。

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デスノート THE MUSICAL

8月20日(日)梅田芸術劇場へ。「デスノート THE MUSICAL」を観劇。

今回のキャストは、

  • 夜神 月:柿澤勇人
  • L:小池徹平
  • 弥 海砂:唯月ふうか
  • 月の妹:髙橋果鈴
  • レム:濱田めぐみ
  • リューク:石井一孝→(体調不良により代演)俵和也
  • 夜神総一郎:別所哲也 

2015年の公演は浦井健治主演で観た。その時もダブルキャストだったのだが、柿澤は東京公演のみの出演だったのだ。歌唱力では浦井に軍配が上がる。一方、イケメンの柿澤には色気があるので、甲乙付け難い。特に冒頭、高校生の制服を着た彼を観て劇団四季時代に圧倒的パフォーマンスを見せた「春のめざめ」のことを懐かしく想い出した。

前回、夜神 月の父親役は鹿賀丈史だったが、鹿賀の演歌調の歌い回しにはほとほと閉口していたので、別所の方が断然良かった。

石井の死神には期待していたので、降板はとても残念である。しかしUnder study(代役)の俵和也はよく健闘した。不満はない。悪魔的な押しの強さが些か足りない気がしたが、こと歌唱に関しては前回の吉田鋼太郎より上じゃないかな?

それにしても演出(栗山民也)を含めよく出来た作品である。和製ミュージカルとしては最高峰だろう。本場ブロードウェイでも勝負できるのではないかと僕は想う。

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ブロードウェイ・ミュージカル「ピーターパン」(+昨年の大事故について)

8月12日(土)梅田芸術劇場へ。ブロードウェイ・ミュージカル「ピーターパン」を6歳の息子と一緒に観劇。

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配役は、

  • ピーターパン:吉柳咲良(10代目)
  • ウェンディ:神田沙也加
  • タイガー・リリー:宮澤佐江
  • ダーリング夫人:入絵加奈子
  • フック船長/ダーリング氏:鶴見辰吾
    ほか

スタッフは今年から一新され、演出を担当するのは「ジャージー・ボーイズ」で読売演劇大賞 優秀賞を受賞した藤田俊太郎。

僕自身は「ピーターパン」を観るのが3回目である。

実は2016年8月17日もチケットを購入し、息子と梅芸に足を運んだのだが、舞台稽古のワイヤーアクション中にスタッフの操作ミスで9代目・唯月ふうかが高さ3メートルの宙吊りから逆さまの状態で床面に落下、眼窩底吹き抜け骨折で入院するという大事故があり、公演は中止・払い戻しとなった(新聞記事はこちら)。結局その日はキッズプラザ大阪に行った。幸いなことに唯月はその後舞台復帰し、「デス・ノート」「レ・ミゼラブル」などで元気な姿を見せている。あの時はもう2度と上演されないのではないか?と危惧していたのだが、本当に良かった。

今回の主演は昨年のホリプロスカウトキャラバンでグランプリに輝いた吉柳咲良(きりゅうさやか)。13歳、中学1年生だそう。ボーイッシュな可愛い娘で、ピーターパンにピッタリ!8代目・ピーターパンを演じた高畑充希とどこか似た雰囲気があり、もしかしたら将来ブレイクするかも!?

元AKB48の佐江ちゃんは初めて生で観た。フツーに上手だった。これならミュージカル界で生き残れるだろう。

本作の魅力は何といってもフライングだ。特にカーテンコールでピーターパンが客席側に飛び、上空から魔法の粉をふりかける場面は何度観てもジーンとする。息子も気に入った様子で、帰ってからもしきりにピーターパンの話をしていた。

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ブロードウェイ・ミュージカル「アニー」

8月11日(祝)シアター・ドラマシティへ。

6歳の息子とブロードウェイ・ミュージカル「アニー」を観劇。

Annie

キャストは

  • アニー:野村里桜
  • モリー:小金花奈
  • ウォーバックス:藤本隆宏
  • ハニガン:マルシア
  • グレース:彩乃かなみ
  • ルーズベルト大統領:園岡新太郎
    ほか

演出は山田和也。

「アニー」の起源は1924年に新聞「ニューヨーク・デイリー・ニューズ」に連載された漫画"Little Orphan Annie"である。ミュージカル版は1977年にブロードウェイで初演され、作品賞など7部門を受賞した。僕はジョン・ヒューストン監督による82年の映画版を封切り当時映画館で観ている。高校生だった。またディズニーによる99年テレビ映画版(「シカゴ」「イントゥ・ザ・ウッド」のロブ・マーシャル監督)は北米版DVDで所有している。オリジナル・キャストとしてアニーを演じたアンドレア・マッカードルはミュージカル「キャバレー」(ツアー・カンパニー)のサリー役で2度来日した(僕はどちらも観ている)。またロブ・マーシャル版「アニー」の"NYC"の場面で、特別ゲストとして歌っている。

舞台版を観るのは今回が初めて。興味深かったのは大富豪ウォーバックス氏がスキンヘッドじゃなかったこと。何故なら漫画がそういう設定なんだよね。

Warbucks

ジョン・ヒューストン版(アルバート・フィニー)もロブ・マーシャル版(ヴィクター・ガーバー)も原作を踏襲していた。ただ、日本人には馴染みのない漫画なので、拘る必要は全く無いだろう。寧ろカツラだと不自然だし。

驚いたのは生オーケストラの演奏だったこと。子供向けだから当然、カラオケだと思っていた(ホリプロ「ピーターパン」はカラオケ)。子役を含めキャストのレベルも高く、製作者の本気を感じた。

あと映画やTV版でカットされた楽曲がいくつか歌われるのだが、省かれるのも宜なるかなと想った。

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珠城りょう主演 宝塚月組「All for One 〜ダルタニアンと太陽王〜」

7月17日(祝)宝塚大劇場へ。月組公演「All for One 〜ダルタニアンと太陽王〜」を観劇。

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台本・演出は小池修一郎。アレクサンドル・デュマの小説「三銃士」はルイ13世時代の物語だが、小池版は「太陽王」ルイ14世の時代に置き換え、そこに〈双子の男女の取替〉という、シェイクスピア「十二夜」の設定を取り込んでいる。なおダルタニアンは同名の実在の貴族をモデルにしているという。また敵役マザラン枢機卿も実在の人物で、彼の死の翌日に摂政の廃止が宣言され、ルイ14世の親政が始まった。

主な配役はダルタニアン:珠城りょう、ルイ14世:愛希れいか、アラミス(三銃士のひとり):美弥るりか、ベルナルド(マザラン枢機卿の甥):月城かなと    ほか。

上記事にも書いたが、月城かなとは長身で美形の男役なので、今回も目立っていた。男役がダメダメだった月組も組替えで漸く充実してきた印象。

美貌の娘役・愛希れいかのことは昔から大好きなのだが、嘗て男役だった彼女のキャリアを活かして、男から女へのメタモルフォーゼ(変身)が愉しめる。さすが「当て書き」の妙である。

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子どもの取替などアホっぽいミュージカルだが、すこぶる面白かった!特に「壁ドン」ギャグには爆笑。小池作品の系譜としては1998年宙組「エクスカリバー」に近いかな?かなり出来がいい方。

小池作「薔薇の封印 -ヴァンパイア・レクイエム-」(2003年月組)にもルイ14世が出てくるが、アレは酷かった。アレに比べると今回は本が相当練られている。お勧め!

最後に。劇中【0ne for All, All for One(一人は皆のために、皆は一人のために)】が出て来るが、本作はフランスが舞台でありデュマの「三銃士」もフランスの小説。何で英語なの!?

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バーンスタイン「ミサ曲」と「ジーザス・クライスト・スーパースター」

7月14日(金)フェスティバルホールへ。レナード・バーンスタインのミサを聴く。

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総監督/指揮/演出:井上道義(ミッキー)、ミュージック・パートナー:佐渡 裕、大阪フィルハーモニー交響楽団&合唱団(合唱指揮:福島章恭)、公募による児童合唱、歌手18人、ロックバンド、ダンサーら総勢200人が出演、それに舞台美術も加わる劇場用作品である。1970年に作曲が開始され、翌71年にジョン・F・ケネディ・センター@ワシントンのこけら落とし公演として初演された。ミッキーは1994年に京都市交響楽団を率いてオーチャードホールでこの作品を上演。日本での再演は実に23年ぶりとなる。

一目瞭然なのはアンドリュー・ロイド・ウェバーのロック・ミュージカルジーザス・クライスト・スーパースター」からの影響である。題材も編成も類似している。「ジーザス」のブロードウェイ初演は71年。しかし69年に楽曲"Superstar"がシングルで発売、70年には"Jesus Christ Superstar"と題した2枚組LPレコードがリリースされている(当時ロイド・ウェバー22歳)。間違いなくレニーはこれを聴いている筈。またこの頃の音楽の潮流にも深く関わりがある。それはロックとオーケストラを融合したプログレッシブ・ロックだ。その代表格ピンク・フロイドがアルバム「原子心母」を発表したのは1970年。23分に渡るロック・シンフォニーが展開される。またロックバンド「イエス」も同年に発表した2ndアルバム「時間と言葉」でオーケストラと共演しシンフォニック・ロックを実現している。さらに源流まで遡ると「世界初のコンセプト・アルバム」と呼ばれるビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1967)に辿り着く。プロデューサー:ジョージ・マーティンの功績が大きい。

ユダヤ人であるレニーはキリスト教に懐疑的・批判的だった。そういう姿勢も「ジーザス」に共通している。彼の祖父は高名なラビ(ユダヤ教聖職者)で、父も信仰心に篤いユダヤ教徒だった。しかしレニーが指揮する音楽の作曲家は殆どキリスト教徒だったわけで(モーツァルトのレクイエム=死者のためのミサとか、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスとか)、大いなる矛盾があった。それはウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長になるためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗したグスタフ・マーラーの苦渋に重なる。因みにレニーの交響曲第3番「カディッシュ」の意味はユダヤ教徒が唱える「死者のための祈り」である。一方、ミサの定義は「カトリック教会において(キリストの体と血である)パンとぶどう酒を聖別して聖体の秘跡が行われる典礼、祭儀」である。

僕はレニーが指揮し71年に録音されたCDで予習して今回の公演に臨んだのだが、初めて生のパフォーマンスに接し、やはり劇場というのは古代ギリシャの時代から「祝祭空間」だったのだなぁと実感した。ロックありブルースあり、バレエあり、マーチング・バンドありと正にカオスである(冒頭にはジュークボックスが登場)。オーケストラはパンチが効いた演奏でエネルギッシュ、文句なし。ミッキーはMaster of Ceremony(M.C.)としての才能を遺憾なく発揮した。ただミッキーの誤算はソリストの選択にあった。全員が音楽大学出身のクラシック音楽畑の人々で、どうもロックとかブルース、ゴスペルの雰囲気=グルーヴ(groove:高揚感、音楽に乗った状態)が醸し出せていない。レニーのCDにはそれがあった。何人かはロック歌手やミュージカルの役者を起用すべきだったのではないだろうか?具体例を挙げよう。ミュージカル「キャンディード」に出演経験のある中川晃教、「デスノート」の浦井健治、石井一孝、「レ・ミゼラブル」や「天使にラブソングを」に出演した森公美子らである。

というわけで不満もあったが、日本でこの作品に直に接せられるチャンスはもう2度とないかも知れないので、ミッキーには大いに感謝したい。

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井上芳雄 主演/ミュージカル「グレート・ギャツビー」

7月4日、梅田芸術劇場へ。台本・演出:小池修一郎、井上芳雄主演のミュージカル「グレート・ギャツビー」を観劇。他に出演者は夢咲ねね、田代万里生、広瀬友祐、畠中 洋、蒼乃夕妃、AKANE LIV ら。

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小池修一郎には2つのライフワークがある。ひとつは言うまでもなく萩尾望都の漫画「ポーの一族」である。

もうひとつがF・スコット・フィッツジェラルドの書いた小説「グレート・ギャツビー」だ。今から26年前の1991年に杜けあき、鮎ゆうき主演で宝塚雪組が「華麗なるギャツビー」を上演した。世界初のミュージカル化であり、これで高い評価を得た小池は菊田一夫演劇賞を受賞。2008年には瀬奈じゅん主演で月組が再演している。今回は台本・演出・音楽のすべてを完全リニューアルした公演となった。

僕が原作小説とどう関わってきたかは下記事に詳しく述べた。

最初はさっぱり面白くなかったのだが、小説を繰り返し読み、また村上春樹のエッセイなどを踏まえて漸く分かってきたことは、主人公ジェイ・ギャツビーは薄っぺら見栄っ張りということである。そして彼は絶対に手が届かないもの……デイジー、教養(culture/education)、社会的地位・身分(status)、世間からの賞賛・敬意(applause/respect)といったもの……に憧れ続けている。それを象徴するのがウエスト・エッグに自分が建てた豪邸の桟橋から対岸(イースト・エッグ)にある「緑色の灯火」を宵の口から明け方までじっと見つめている場面である。そして最も美しい文章、この小説の肝(きも)は最後のセンテンスに集約されている。

Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that’s no matter ― tomorrow we will run faster, stretch out our arms farther. . . . And one fine morning ――

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.

 ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――
 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(村上春樹訳)

何とも切なく、虚しい。狂騒のJazz Age、「失われた世代(Lost Generation)」の真骨頂である。しかしこれをミュージカルの中で活かすことが叶わない(歌にならない)のが辛いところだ。バズ・ラーマン監督はよく分かっていて、ちゃんと映画の中に入れていた。

ヒロイン・デイジーの人物像を把握するのにも長い時間を要した。彼女は周囲の意向に流される女である。しっかりした自分の意志というものを持っていない。若い頃には母親の言うことに逆らえず、現在は高圧的で浮気性の夫トム・ブキャナンの言いなりだ。依存心が強く、誰かの庇護のもとでしか生きられない。身体の中に一本通った芯=骨が欠落したクラゲのような女なのだ。ただ波間に漂っているだけ。掴もうとすると、指の間隙からスルリと抜け出してしまう。宝塚版&東宝版を観て感じたのは、小池はそのところが分かっていないんじゃないか?ということである。夢咲ねねは宝塚時代から大好きな娘役だが、どうも彼女のデイジーは健康的でしっかりしていそうなのだ。僕の抱くイメージとかけ離れている。以前、小池が演出したミュージカル「キャバレー」にも同様の違和感を覚えた。サリー・ボウルズ(藤原紀香)が自堕落じゃない。作品の持つ退廃・デカダンスが描けていない。嘗てジュリー・アンドリュースのファンクラブ会長を努めていたこともある小池の精神は余りにも健全で(清く正しく)、デイジーという女の何たるかを掴めていないように僕には想われる。その点、バズ・ラーマン版の映画に出演したキャリー・マリガンはデイジーそのものだった。

ただヒロイン像以外については申し分のない出来であった。井上芳雄は"That's Gatsby !"だったし、ギャツビーが自宅のプールサイドで撃ち殺される場面を冒頭に持ってきた工夫は良かった。ロイド=ウェバーが舞台ミュージカル化したビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」との類似性が浮き彫りにされた。

また特筆すべきは作曲家のリチャード・オベラッカーである。"BANDSTAND"というミュージカルで2017年3月にブロードウェイ・デビューを果たした。スウィング・ジャズあり、ブルース、チャールストン、タンゴなど多彩な音楽に彩られている。しっとりと歌われる「夜明けの約束」も美しい。なお、歌の中に「アイス・キャッスル」という言葉が出てくるが、これはフィッツジェラルドの短編小説「氷の宮殿(Ice Palace)」を意識しているのだろう。

不満も述べたが、総体としては満足度が高く、再演があれば是非また観たい作品である。

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