日記・コラム・つぶやき

アフォリズムを創造する〈決定版〉

現在小学三年生の息子へ。いつか大きくなったら読んで欲しい。また、新成人のみなさんへの餞(はなむけ)の言葉と受け取ってもらっても良いだろう。

「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語だ」……新海誠監督『天気の子』の一節である。世界の秘密を、あなたにそっと教えよう。以下の記事の集大成だ。

「アフォリズム Aphorism」の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス『アフォリズム』より)。ニーチェの多くの著書(『喜ばしき知恵』『善悪の彼岸』など)はアフォリズム集の形態で書かれている。

〈アフォリズム〉人間性は少なくとも過去2,000年間、全く進歩していない。進化したのは科学技術とシステム(社会制度)だけ。そこを履き違えてはいけない。

1,000年前に書かれた紫式部『源氏物語』を現代人が読んでも、作中人物に共感することが出来る。愛、嫉妬、恨み、悲しみといった感情に変わりはない。それは2,000年以上前に書かれたギリシャ悲劇(『オイディプス王』など)も同じ。

つまり人間性(こころ)に関する限り、人類は何も進歩していない。もし進歩しているというのなら、どうして20世紀にヒトラーやスターリン、ポル・ポトのような人物が現れるのか?説明出来ないだろう。

一方で、人種差別や女性差別は減り、身分制度も多くの国でなくなり、職業選択の自由など基本的人権は尊重されるようになってきた。つまり司法制度や、社会システムは進化し続けている。しかし、それを〈人類の進化〉と勘違いしてはいけない。

〈アフォリズム〉視点をズラす(移動する)ことで、物事の本質が見えてくることがある。

海で夕日を見ている情景を想像してください。〈太陽は下方に移動して水平線に沈む〉。あなたの主観(視点)として、これは正しい。しかし実際は違う。〈地球はあなたの視線とは反対方向(背中側)に自転しているので、見かけ上、太陽が沈むように錯覚している〉。つまり視点(観測地点)を太陽上に移動して、地球ではなく太陽が固定されていると考えれば、真相に近づくことが出来る(さらに太陽は銀河の中心を周回している)。これがコペルニクス的転回である。

高橋みなみがAKB48のメンバーだったとき、総選挙のスピーチで「努力は必ず報われる!」とぶち上げて世間から失笑を買った。確かに彼女の視点から見ると正しい。努力してオーディションに合格し、48グループの総監督にまで上り詰めた。確率100%である。しかし最大限の努力をしてもオーディションに落ちた女の子の視点に立つどどうだろう?「努力は報われなかった」確率0%である。オリンピック選手もよく似たようなことを言うけれど、全ては錯覚に過ぎない。彼らの影には、一生懸命トレーニングを積み重ねたが良い成績が出ず、消えていったアスリートたちがごまんといる。どのポジションから観測するかで話は違ってくる。

〈アフォリズム〉努力しても夢が叶わないことは多々ある。ある程度努力して成果が上げられなかったら、諦めることも肝心だ。

〈アフォリズム〉「人は何故生きるのか」と問うことに意味はない。「この地球に人間(知的生命体)が誕生したことには何か意味があるはずだ、創造主の目的があるはずだ」という考え方は因果論であり、必ずしも正しくない。「全ては偶然、意味なんかない」と考え、淡々と生きた方が楽。

「何故生きるか」と自問するのは人間だけである。それは人が考える動物だからである。猿とかイルカ、カエルが「何故生きるか」と考えたりはしない。故にその問いに意味はない。

〈アフォリズム〉生物は必ずいつか死ぬ。その恐怖心から人は永遠に不変・不滅の存在を設定した。それが神であり、プラトンが説くイデアだ。だが万物は流転する。

〈アフォリズム〉「神は存在するか、否か?」という問いに対して立証責任があるのは「存在する」と主張する側だけである。「悪魔の証明」と同じ。神の不在は証明出来ないが、だからといってそれが神が存在する根拠にはならない。

簡単なことだ。「ツチノコはいない」と証明することは出来ない。AとB、二人の会話に耳を傾けてみよう。

 A「本州や四国、九州をくまなく探したけれどツチノコは見つかりませんでした」
 B「でも無人島に生息しているかも知れない」
 A「地球全土を調べたけどツチノコはいませんでした」
 B「では地中に潜っているのかも知れない」

きりがない。同様に「宇宙人(地球外生命体)はいない」ことを証明することも不可能だ。

 A「銀河系をくまなく探したけれど宇宙人は見つかりませんでした」
 B「ではアンドロメダ星雲にはいるかもしれない」

……果てしなくこの問答は続く。不在の証明は出来ないが、だからといってそれが存在の証明に繋がることもない。

ほとんど不可避的に人々は「それはなぜ起こったのか」という問いを発する。すべての事象がそれに先行する何かによって引き起こされたと想定する。確かにこの種の因果関係が存在することもあるが、そうではないこともある。例えば放射性元素の崩壊は統計学的に予想し、測定できるが、ラジウム原子が崩壊するとき、なぜ他の原子ではなくその特定の原子が崩壊するかという問いに対していかなる因果的な説明もできない。「ただそのようなもの」なのだ。量子力学にも不確定性原理がある。例えばある原子核の周囲に漂う電子(=量子:物質の最小単位)が、ある瞬間にどこの位置に存在するかは不確定であり、確率的にしか予想できない。観測して初めて場所が確定する。つまり電子は確率の雲の中にある。

もし神に意思があるのならば、量子の不確定性原理が説明できない。神がいると仮定すれば、神の意思は揺らいでいることになるからだ。ならば神は人間と同じで、絶対的で全知全能の存在ではなくなる。そんな設定(=神)、必要ですか?いないと考えたほうがすっきりする。

遺伝子の突然変異もそう。突然変異が発生する理由(因果関係)など何もない。単なる偶然だ。コンピューターのバグとか、ダウン症など染色体異常の発生も同じ。確率は計算できるが、理由はない。想像してみてください。貴方にダウン症の子供が生まれたとしよう。果たしてそこに〈神の意志〉はあるだろうか?単に確率のなせる技に過ぎない。

遺伝子の突然変異が発生する。それにより生まれたものが環境に適していれば生き残るし、適さなければ淘汰される。これが〈種の進化〉だ。つまり進化は〈神の意志〉ではなく、〈偶然と自然淘汰(適者生存)〉の繰り返しによる産物なのだ。因果関係など差し挟む余地はない。

「人間(知的生命体)が存在すること自体が奇跡。だから神様はいらっしゃる」という論理も間違い。順番が逆。我々は考える動物である。だから神を想定する。牛や豚は神様のことを知らない。何故ならば彼らは思考しないからである。故に彼らにとって神は存在しない。観測する者がいなければ、観測される者もいない。語られない神は、神たり得ない。神様が先なのではなく、人の存在が先なのだ(コペルニクス的転回)。「人間が神を創造した」が正解。神とはつまるところ、思い入れに過ぎない。

〈アフォリズム〉生きるとは何かが生まれ、成長し、絶えず変化し続けること。idea(着想)然り、skill(訓練によって培われた能力)然り。生成変化しないものに価値はない。

〈生成変化〉とはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが提唱した概念である。フランス語では"devenir"(ドゥヴニール:〜になる、〜に変わる)。ドゥルーズは定住することなく草原を自由に駆けめぐる遊牧民=ノマドのように生きよ、と説く。このことについてもっと深く考えたかったら映画『ノマドランド』(公式サイト)をご覧なさい。

〈アフォリズム〉「いま」しか存在しない。過去を後悔しても仕方がない。過去はあくまで記憶・記録でしかなく、修正出来ない。未来を思い煩うな。未来は予想・推測で、頭の中にしか存在しない。予定通りいかない。番狂わせが面白い。「いま」を楽しめ。

ただし、これは二十歳を過ぎたらという条件がつく。学校を卒業し就職するまでは、十年後の「ありたい自分」「なりたい職業」を想定し、その目標に向かって努力することは必要だろう。学生時代に遊び呆けて大学入試や就活に失敗したら後々生きることに苦労する。学ぶことは怠るな。一生が勉強だ。skillを磨け!!

〈アフォリズム〉矛盾を恐れるな。人間は本来、矛盾した存在である。

このことを僕は宮崎駿の生き様から学んだ。具体的には彼のアニメーション映画『風立ちぬ』を観れば分かる。首尾一貫している必要なんかないんだ。気楽に生きようぜ。

〈アフォリズム〉「個」を大切にする欧米人に対して、日本人は「公」を重んじる。個人の内にある倫理観よりも、その行為が「場」の均衡を乱すか否かが重要視される。「場」ではお互いが監視し合い、秩序を乱す者がいれば「制裁」行動が発令される。

日本は未だ「ムラ」社会であり、「いじめ」の構造を内包している。新型コロナ禍でこれが如実に現れた。「自粛警察」や「マスク警察」が典型例。その背景には不安や恐怖心がある。基本的に日本人は臆病者なのだ。まぁこの「監視社会」「忖度」が良い方向に働けば「気配り」「お・も・て・な・し」に繋がるのだが……。

〈アフォリズム〉人間は均一じゃない。能力に差異はあるし、趣味嗜好も異なる。それが個性。平等であるべきなのは力を発揮する「機会」においてのみ。「差別」はいけないが、「区別」は必要だ。

どんな家庭環境に生まれようが(出自に関わらず)、優秀ならば最高の教育を受けるチャンスが与えられるべきだし(学業の自由)、肌の色や人種で職業選択の自由が奪われるべきではない。しかしその人が持つ能力や仕事量で社会的地位や財産に差が出るのは当然である。「差別」と「区別」は違う。

〈アフォリズム〉社会主義/共産主義の誤謬は「平等」を履き違えたことにある。働き者と怠け者が同じ給料なら誰も働かない。

〈アフォリズム〉「他人より良い暮らしがしたい」という欲望が社会を動かす。それを否定すれば社会は衰退する。

自らの欲望を肯定せよ。但し、他人に迷惑がかからない範囲において。禁欲したって、人生つまらないじゃない?

〈アフォリズム〉衰退した社会主義/共産主義の隠れ蓑としてグローバリズムが流行った。しかしその限界を露呈したのが新型コロナウィルスである。世界各国はナショナリズムに走り、国境を封鎖した。人類は皆兄弟ではなく、地球は均一ではない。地域の特性を大切にし、互いの違いを尊重しよう。

社会主義と共産主義の違いについて日本共産党が公式見解を示している→こちら。つまり同じ意味である。

〈アフォリズム〉世の中、言ったもん勝ち。

なにか言いたいことがあっても、相手に伝えなければ心に不満が募るばかりである。問題は何も解決されない。言った場合、相手は怒るかも知れないし、軋轢が生じて気まずい雰囲気になるかも知れない。しかし問題が改善される可能性はある。少なくとも吐き出すことで鬱憤は晴れ、身が軽くなるだろう。コミュニケーションを図ることが人間の基本である。それを怠るな。自分ひとりで悩みを抱え込んだら心は病む一方である。

〈アフォリズム〉「なぜ生きるのか?」「生きることの意味は?」その価値を創造するのは、あなた自身である。

アメリカの自動車工場で働いている人 ー仮にA氏としようー が健康であろうが死のうが、日本で生活するあなたに関係ない。しかしA氏の家族や友人にとってはそうではない。A氏の生には意味があり、価値がある。それはA氏が彼の人生の中で、周囲の人々と築いた「関係性」に拠るものだ。つまり「関係性」の中にしか、人が生きる意味や価値は存在しない。村上春樹は読者との「関係性」に於いて価値があり、ベートーヴェンは彼の音楽を聴く鑑賞者との「関係性」に於いて価値がある。村上春樹の小説を読まない人にとって彼の名前はなんの意味も、価値も持たない。

ミクロの世界において量子論を基礎づける三つの考え方は粒性・不確定性・相関性関係性)である。これはマクロの世界に生きる人間にもそのまま当てはまる。

〈アフォリズム〉量子論・多元宇宙論(マルチ・バース)など現代物理学を学ぶことが叡智につながる。つまり、世界の秘密にアクセス出来る。

まずはカルロ・ロヴェッリ 著『すごい物理学講義』(栗原俊秀 訳/河出文庫)と、野村泰紀 著『マルチバース 宇宙入門』(星海社新書)からどうぞ。

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2020年、今年抱いた感情を漢字一字で表すと……

毎年恒例となる、今年の世相を表す漢字一字が「密」と京都・清水寺で発表された。

僕の個人的な想いとしては、今年を象徴する漢字一字は「怒」だった。

行く予定だったコンサートや観劇がことごとく中止となり、10件以上の払い戻し手続きをした。一年中翻弄され続けた新型コロナウィルスに対する怒り、そして「自粛警察」「マスク警察」など、同調することを強要しようとする世間への怒りと苛立ち。

2020年は徹底的に「人間の醜さ」を見せつけられた一年だった。しかし逆に言えば恐怖心によって人々の被るペルソナ(仮面)が剥がされ、今まで見えなかったものが顕在化し、またとない貴重な体験を得られた一年でもあった。本質的に今の日本には個人の意見や、他者との違いが尊重される「自由」なんてないことが痛いほどよく分かった。大変勉強になった。

そして今年僕の心に一番刺さった歌は、秋元康が作詞した欅坂46の『不協和音』だ。「僕は嫌だ」と、閉塞社会に対して僕も一緒に叫んだ。ある意味、この曲に救われた。今更だが秋元はやっぱり天才だった。なんてったって香港の民主活動家の胸にまで届いたのだから。

2020年の明るいニュースって、劇場版『鬼滅の刃』無限列車編が19年ぶりに『千と千尋の神隠し』が持つ記録を塗り替え、映画興行収入歴代1位に躍り出たことくらいしかなかったんじゃないだろうか?

しかし12月に入り、ようやく希望の光が見えてきた。アメリカのファイザー社とモデルナ社が開発したワクチン投与がいよいよ世界各地で始まり、2021年1月4日からはイギリスのアストラゼネカ社が開発したワクチン投与も開始されるという。新型コロナウィルスよ、首を洗って待っていろ。「人類の反撃」はこれからだ!

2021年の漢字こそは、「歓」や「笑」でありますように。読者の皆さん、良いお年を!

〈追伸〉大晦日にもブログ記事は更新します。毎年恒例の企画です。乞うご期待。

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「隠れ左翼」の見抜き方

「左翼」はWikipediaで次のように定義されている。

「左翼」という用語は通常、「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」を指し、革命運動、社会主義、共産主義、社会民主主義、アナキズムなどを支持する層を指すことが多い。

社会主義と共産主義の違いについて日本共産党が公式見解を示している→こちら。つまり同じ意味である。

20世紀は社会主義国家建設という壮大な「実験」が行われたが、ことごとく失敗した。1989年にベルリンの壁が取り払われ、91年にソビエト連邦も呆気なく崩壊。浦山桐郎監督の映画『キューポラのある街』(1962)は在日朝鮮人の北朝鮮帰還運動を肯定的に捉えられており、朝日新聞も帰国事業に加担したが、その末路が惨憺たるものだったことはご承知の通りである。エッ、中国はどうかって?今の香港やチベット自治区、ウイグル自治区で何が行われているか、とくとご覧あれ。人民の意志が尊重されているとは到底言い難い。インターネットやSNSは中国政府により検閲され、Netflixの配信サービスも始められない状況である。

日本の左翼運動は1960年代に安保闘争や東大安田講堂事件などで大いに盛り上がったが、1972年、連合赤軍が起こした〈あさま山荘事件〉で一気に世間からの支持を失い、急速に萎んでいった。

故に現在の日本ではおおっぴらに自分たちが社会主義・共産主義を支持していると言いづらい状況になっている。若い人たちから馬鹿にされるのが落ちだ。そこで彼らは自分の本心を隠すこと(カモフラージュ)に奔走するはめになった。

学生運動華やかなりし頃、活動の中心を担ったのは東大生や京大生ら、エリートだった。彼らが大人になり、現在では日本ペンクラブに所属する作家や、弁護士、大学教授(文系)、知識人たちに左翼思想を持つ者が多い。

そこで日本の「隠れ左翼」を可視化/あぶり出すためのバロメーター、診断基準を考案した。

1) 日本学術会議が新会員として推薦した105人中6人を菅首相が任命しなかったことに関して、「学問の自由」を侵害したなどと連日書き立て、世の中を扇動している。また「反教養」「反知性主義」といった表現を好む。
2) モリカケ(森友・加計学園)や桜を見る会の問題について、あたかも重大犯罪であるかのように執拗に書き立てた(しかし結局、起訴されなかった)。
3) ドナルド・トランプや小池百合子が大嫌い。特に「アメリカ・ファースト」とか「都民ファースト」といった発想、ナショナリズムを憎んでいる。そのくせ「ヘイトを許すな!」というフレーズがお気に入り(自己矛盾)。「人類は皆兄弟」だと思っている。
4) 安倍晋三・元総理や菅義偉・総理、橋下徹・元大阪市長をヒトラーに喩えたり、ファシスト/ポピュリスト呼ばわりした。当然、大阪維新の会のことを苦々しく思っているから「大阪都構想」に断固反対。
5) 自称「リベラル」。「格差社会」という言葉に激しいアレルギー反応(アナフィラキシー)を示し、アメリカ民主党に親近感を抱いている。オバマ大統領の頃は良かったと昔を懐かしみ、美化している。
6) 自分たちが気に入らない勢力に対して「ネトウヨ」というレッテルを貼りたがる。
7) グローバリズムを信奉している。故に新型コロナウィルスが世界に蔓延したことの一因がグローバリズムにあることを決して認めない。
8) 「国会前のデモに何万人集まった」とかといったくだらないことを大々的に報道する。
9) あいちトリエンナーレ『表現の不自由展』の騒動について開催継続を主張し、芸術監督・津田大介を擁護した。また今でも津田にコラムを書かせたり、意見を求めたりするなど親しくしている。
10) 嘗て韓国の「いわゆる」従軍慰安婦問題を書き立てて、「反日」感情を煽った。しかし全てはでっち上げ、フェイク・ニュースであり、日本軍が慰安婦を強制的に連行したという証拠は一切見つかっていない。
11) 日本国憲法の改正に反対。「護憲派」を自任する。
12) 自らを「市民」と名乗る。あるいは「市民団体」をヨイショする。

◎この12項目のうち、2項目が当てはまれば極めて濃厚、3項目以上なら確実と言えるだろう。

以下、幾つかの項に関して解説を加える。

1)そもそも日本学術会議の問題は既得権益や、悪しき前例を見直そうという話であり、「学問の自由」とは一切関係がない。ナンセンス!首相が任命しないからといってその人が「学問の自由」を奪われるわけではない。美味しい汁を吸えなくなるというだけ。全く馬鹿げた論点のすり替えである。

2)モリカケや桜を見る会について確かに一部の人が得したり、接待を受けたのかも知れない。しかしそれが国会を止めるほどの重大事か?ロッキードとか贈収賄事件とはわけが違う。細部にとらわれすぎて全体に注意を向けず、物事を疎かにしている。「木を見て森を見ず」は正にこのこと。

4)日本学術会議のメンバーとして任命を拒否された立命館大学院・松宮孝明教授は「菅総理大臣は現行憲法を読み替えて自分がヒトラーのような独裁者になろうとしているのか」と批判した。僕は「またか!」と爆笑した。安倍元総理も何度となく「ヒトラー」呼ばわりされた。左翼のいつもの手口だ。しかし不思議と彼らはスターリンとかポル・ポト、中国の文化大革命を指導した四人組など共産主義国家の独裁者に喩えたりしない。では松宮教授に尋ねるが、一体菅首相が誰を殺したというのか?共産党を禁止にしたり、共産党員を強制収容所送りにしたか?あなたがヒトラーやナチス・ドイツが行った残虐行為を正しく理解しているとは到底言えない。学者の風上にも置けない。承認されなくて大正解だ。

ポピュリズムとは大衆に迎合して人気をあおる政治姿勢のこと。左翼知識人がポピュリズムという言葉を好むのは、基本的に「大衆は愚かだ」と決めつけているから。自分たちはエリートであり、少数精鋭の自分たちこそ正しく、知性の欠けた大衆を啓蒙し、導かなければならないと考えている(諸説あります)。

上の立憲民主党のツィートが「大阪のオバチャンを馬鹿にしている」と物議を醸した。「わからないなら反対を」とか、完全に大阪府民を舐めている。ここに左翼の特徴がよく表れている。

アメリカ大統領選でドナルド・トランプが勝ったときも、反トランプのマス・メディア(ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNなど)やハリウッドのセレブたちの主な反応はトランプを支持するブルー・カラーの労働者たちを馬鹿にしたものだった。つまり彼らの論調は「大衆は物事の本質を分かっていない」。民主党を支持する自分たちこそ賢く正しいというわけである。一方的にトランプは悪だと決めつけているので、どうして彼を支持する層が多いいのかについて冷静に分析出来ない。「トランプ支持者はアホだ」で思考停止している。

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6)朝日新聞・東京新聞など左翼ジャーナリズムが「ネトウヨ」という用語を好むことは5年前に一度論じた。

7)グローバリズムとは、地球を一つの共同体と見なして、世界の一体化(globalization)を進める思想である。 これって実はジョン・レノンが『イマジン』で歌った、アナーキズム無政府主義)の変形に過ぎない。アナーキズムとは国家を望ましくなく不必要で有害なものであると考える思想であり、国家の廃止を呼びかけるもの。マルクスが唱えた国家社会主義と対立する思想ではあるが、共産主義の分派である。

グローバリズムを信奉するマス・メディアはイギリスのEU離脱に異議を唱えた。何故ならば、EUも国境を取り払いヨーロッパを緩やかな共同体(commune)にしようとする意図を持っているからである。

9)『あいちトリエンナーレ』問題については下記事で詳細に分析した。

この問題と「表現の自由」は一切関係がない。論点のすり替えである。そういう点で日本学術会議の会員任命問題について「学問の自由」を持ち出してくる手口と全く同じ。ワンパターン。

10)東京新聞や朝日新聞は「国会前デモ」の記事が大好き(こちらこちら)。しかし、たとえ国会前に10万人集まろうが、それが民意を反映しているとは言えない。現政権が気に入らなければ選挙で落とせばいいだけのことである。日本は民主主義の国なんだから。革新派の人たちは自己主張が激しいから、声が大きく目立つだけ。一方、大勢を占める保守派は必死に意見を述べる必要がないので黙っている。それをサイレント・マジョリティーという。

Silentmajority

しかし左翼の人々は「大衆はアホだ」と見下しているので、選挙結果(多数決)を冷静に受け入れることが出来ない。「少数派(オレたち)の意見に耳を傾けろ」と声高に主張する。じゃあ、どうやって意思決定するの??

結局彼らの本音としては一部のエリート(オレたち)が愚衆を手取り足取り導く国家が望ましく、普通選挙という制度(=愚衆政治)そのものが気に入らないのだろう(諸説あります)。

また〈デモ参加者=正義〉という幻想・錯覚は1960年代の安保闘争の時、自分たちが国会前で暴れたことへの郷愁(ノスタルジア)でもあるだろう。

忘れてならないこと。デモとは対象に心理的圧力を加えることにより自分たちの主張や要求を実現しようとする示威運動であり、国家に対するデモ(対企業は別)が有効なのは帝政時代のロシアとか現在の中国など、普通選挙が実施されていない地域においてのみである。アメリカ合衆国ではキング牧師らの公民権運動(1963年ワシントン大行進など)のおかげで、1965年に投票時の人種差別を禁じた投票権法が漸く成立した。

11)本来、革新派である筈の左翼が「護憲派」というのは世界にも類がないだろう。完全に矛盾しており、ねじれ現象が起こっている。僕が「奇形左翼」と呼ぶ所以である。そもそも現行の日本国憲法はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が英語の草案を作り、それを翻訳したものだから、左翼が大嫌いなアメリカから押し付けられたものである。1946年11月3日に公布されて以降、一度も国民投票にかけられたこともなく、総意を得ていると言い難い。しかし左翼ジャーナリズムは国民投票にまで持っていかないように必死でキャンペーンを張っている。何が民主主義・主権在民だ。滑稽としか言いようがない。どうしてこんなねじれが起こったか?それは大日本帝国憲法時代、1925年に制定された治安維持法などにより、日本の左翼が辛酸を嘗めたことに起因している。例えば『蟹工船』を書いた小林多喜二は1933年に特高警察により逮捕、拷問され獄中死している。だから悪夢の大日本帝国憲法よりは、戦勝国のアメリカさまから屈辱的に押し付けられた新憲法の方がマシというわけ。左翼は憲法改正=9条改正という短絡的思考しか出来ず、すぐに新聞紙上で「軍国主義の足音が聞こえる」とかいった表現が踊ることとなる。彼らは悪夢の再現に怯えている。

これは1950年代に共和党のジョセフ・マッカーシー議員によって行われた赤狩り(マッカーシズム)で痛い目に遭ったハリウッドの映画人たちが共和党を憎み、民主党を熱狂的に支持している構造に似ている(共和党を支持するクリント・イーストウッドやアーノルド・シュワルツェネッガーなど例外はあるが少数派)。

12)大方「市民団体」「平和団体」と名乗るものは怪しい(例外もあります)。常に疑いの目で見ることを心がけよう。

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岡本喜八(監督)「激動の昭和史 沖縄決戦」と、佐木隆三(著)「証言記録 沖縄住民虐殺」

大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』を観ていると、1945年の沖縄戦における日本軍による沖縄住民虐殺のエピソードが出てきて、寝耳に水だった。「これは果たして史実なのだろうか?」と疑問を抱いたので、調べてみることにした。

こういう時に当たる資料で重要なのは信憑性である。イデオロギー的に偏った人が書いたものは信頼できない。プロパガンダ的色彩が強くなるからである。その典型例が朝日新聞社による韓国のいわゆる従軍慰安婦に関する一連の捏造記事であろう。最初の報道から32年も経って漸く新聞社が全面的に誤報を認め、謝罪した。また系列会社が出版する週刊朝日が掲載した橋下徹大阪市長(当時)に関する記事『ハシシタ 奴の本性』も酷かった。こうした左翼ジャーナリズムは自分たちの主張を通すために何をしでかすか分かったもんじゃない。目的のためには手段を選ばない。クワバラ、クワバラ。虚偽報道(フェイクニュース)の罠に掛からないよう十分注意が必要である。

調査を開始すると早速、沖縄県の公式ホームベージに日本軍による「住民虐殺」についての県の見解が公表されているのを発見した。こちら。また『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞した佐木隆三(著)『証言記録 沖縄住民虐殺―日兵逆殺と米軍犯罪』(新人物往来社/後に徳間文庫)も図書館から借りて読んだ。

『復讐するは我にあり』は今村昌平監督で映画化され、キネマ旬報ベストテンで第1位に輝いたが、他に黒木和雄、深作欣二、藤田敏八が映画化を申し入れていたという。

また僕は8月15日の終戦(敗戦)記念日の前後に岡本喜八監督による東宝映画『激動の昭和史 沖縄決戦』と、玉音放送をめぐる攻防・クーデター未遂を描く『日本のいちばん長い日』もAmazonプライムで観た。

Okinawa

『ヱヴァンゲリヲン』の庵野秀明は岡本喜八監督の大ファンで、両者の対談において「『沖縄決戦』は、僕が生涯で一番何度も観た映画なんです。のべ100回以上観てますね」と発言している。『沖縄決戦』と『日本のいちばん長い日』は『シン・ゴジラ』に多大な影響を与え、岡本喜八の遺影が使用されている(株式会社カラーのコメント)。

佐木隆三は1971年から73年まで2年間沖縄のコザ市(現在の沖縄市)に住み、多数の証言を採集し『沖縄住民虐殺』を執筆、初出は『週刊アサヒ芸能』である。引用される文献も沖縄タイムス社刊『沖縄の証言』『鉄の暴風』、読売新聞社刊『秘録・沖縄戦記』、『琉球新報』社説・投稿欄など多岐にわたる。信じるに足る、しっかりしたルポルタージュである。

県外疎開で沖縄本島から九州に移った人々を除き、沖縄決戦のとき戦場に残っていた住民は49万人と推定される。そして人口の三分の一以上になる、約18万人が死んだ。日本軍(沖縄出身者を除く)の死者は約6万6千人、捕虜になったのが約7,400人だから生き残ったものはわずか1割に過ぎない。まさに玉砕戦である。そして軍人よりも一般住民の犠牲者の方が遥かに多かった。未成年者も師範学校および中学上級生は学徒隊を編成し、“鉄血勤皇隊”として戦線に投入され、師範学校女子部と第一高女は“ひめゆり看護隊”、第二高女は“白菊看護隊”として衛生兵同様に扱われた。

久米島における海軍兵曹長・鹿山正による久米島の敗戦後住民虐殺は衝撃的だ。犠牲者は二十人に及ぶ。1972年に「サンデー毎日」が大々的に報じ、ウィキペディアにも掲載されている。こちら。恐ろしいことにスパイ容疑で妻子(乳児含む)まで一家を皆殺しにするという犯行は1945年8月15日の玉音放送(ポツダム宣言受託発表)後の8月20日まで続けられた。スパイ容疑といっても米軍の捕虜になり、久米島攻略に際して軍に同行し、山中でうろたえている住民に「米軍は良民に危害を加えないから、抵抗せずに、安心して山を下りるように」と呼びかけた島出身の青年(25歳)を妻子ともども斬殺したり、朝鮮人だから怪しいとか、行商の品物が米軍の供与ではないかといった、確かな証拠もない噂レベルのはなしばかりである。当然軍事裁判もなく、問答無用の斬り捨て御免。鹿山兵曹長は「スパイの罪は六親等に及ぶ」と言い放った。彼は住民に対して「退山するものは、米軍に通ずる者として殺害する」と布告した。そして鹿島が戦後、このことに関して罪を問われることはなかった。

渡嘉敷島では329人、座間味島では53人の島民が日本軍の命令で集団自決を強要された。方法は手榴弾。隊長だった海軍の赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は食料を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」と主張した。そして住民は死に、大尉とその部下たちは生き残った。

また本島では天皇陛下の「御真影」を抱いて逃げまどっていた国民学校長がスパイ容疑で日本兵に銃殺される出来事があった。このエピソードは映画『激動の昭和史 沖縄決戦』にも登場する。

  • 軍人の証言から当時の日本軍は沖縄を植民地と考え、住民を見下していたことがわかる。沖縄人は朝鮮人と同様に差別されていた。
  • 「今後、沖縄語で会話する者は、すべてスパイとみなし、厳重処分に処す」という軍回報が発布された。
  • 村長など集落の有力者を狙ってスパイの嫌疑をかけ処刑し、食料を奪うこともあった。
  • 戦火を逃れ住民が壕や亀甲墓(中が家のようになっている)に隠れていると友軍(日本軍)が来て「出て行け」と命令し、彼らが代わりに入る。一緒に身を潜めた場合も、ひもじくて泣いている赤ん坊を「敵に見つかる、静かにしろ!」と兵士が殺すこともしばしばあったという。また便意を催し壕の外に出て用を達して帰ってきたら、艦砲が近くなる。すると「おまえ便所するふりしてスパイしたな」と兵隊に怒鳴られたという。

これらの心理的背景には極限状態にまで追い詰められた者の恐怖心と、保身(安全欲求)があった。住民が何を会話しているのか分からない恐怖。情報が敵に漏れて、自分たちの潜伏先を特定されるのではないかという恐怖。アメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)はこう言った。「恐怖は常に無知から生まれる (Fear always springs from ignorance. )」。またイギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」と述べている。

総攻撃が失敗し第三十二軍は司令部のあった首里から本島南部に撤退を余儀なくされる。南端に追い詰められ牛島司令官(映画では小林桂樹が演じた)と長参謀長(丹波哲郎)は1945年6月23日に切腹して果てた。しかしここからが問題で、牛島は各部隊に次のような命令を出した。

「いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」

つまり私は武士道に則りお先に死ぬが、お前たちは直属の上官に従い最後まで戦え。決して降伏することなく玉砕せよ、というのである。人命を尊重しない、全く無責任な話である。結果的にこれが8月15日の終戦(敗戦)まで、しっかりした指揮系統もないまま多くの日本兵や沖縄県民を縛り、悲劇を増幅させた。

〈生きて虜囚の辱めを受くることなく〉という箇所に、恥の文化にがんじがらめになった当時の日本人の問題点、というか欠陥が浮き彫りにされる。個よりも公(他人の目)が優先される。死を前提にした特攻という行為が許されたのも、この価値観が支配的だったからだ。そもそも切腹は決して美しい行為ではない。内臓は飛び出すし、介錯で頸動脈を斬ればあたり一面血の海だ。醜い死である。

神風特別攻撃隊に似た行為で沖縄で実行されたのが爆雷による肉弾攻撃。重箱くらいの大きさの箱に、火薬を詰める。タコツボに隠れて、敵戦車が来るとこの爆雷を抱いて飛び込む捨て身の戦法。やらされたのは兵隊ではなく、現地で動員された義勇隊だった。義勇隊と言っても名ばかりで半ば強制、疎開を許されなかった17歳から45歳までの男子が掻き集められた。この〈一人十殺一戦車〉の自殺戦法も『激動の昭和史 沖縄決戦』で描かれている。

日本兵は住民に鬼畜米英と教え込み、アメリカ兵につかまったら女は片っ端から強姦される、クロンボは赤ん坊を食いたがっている、などと言って脅した。だから怯えた住民は米軍に投降することが出来ず、青酸カリを飲んだり崖から投身自殺したりした。このあたりの詳しい事情は『沖縄決戦』や今井正監督の『ひめゆりの塔』をご覧あれ。

沖縄戦の実態は想像を絶する、悲惨な姿だった。これを学ぶ切っ掛けを作ってくれた故・大林宣彦監督に心から感謝したい。本当にありがとうございました。

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【考察】日本人と比較して、なぜ欧米人はマスクを嫌がるのか?〜文化的側面からその謎に迫る!

世界を席巻した新型コロナウィルス禍ではっきりしたことがある。日本人はなんの抵抗もなく自主的にマスクをするが(2020年7月末現在、通勤電車での装着率ほぼ100%)、ヨーロッパやアメリカ合衆国の人々はマスクをとても嫌がる。

2020年6月20日トランプ大統領がオクラホマ州で行った6,000人を超える大規模集会において、会場ではマスクが入場者に配布されたものの、実際に着用している人はほとんどいなかった。こちらの記事の動画をご覧頂きたい。この時、スタッフの数名がコロナに感染していたことが後に判明し、同規模の集会を開くことは二度と不可能になった。

感染が拡大する一方のフランスでは中々国民がマスクをしようとしないので、5月11日から国内全土で11歳以上の乗客に対し,公共交通機関利用時のマスク着用が義務付けられた。同義務違反は135ユーロ、日本円でおよそ1万6600円の罰金対象となっている。

イギリスでは7月24日からロンドンなどの都市でマスク着用を義務化する対象を公共交通機関に加え、店舗やスーパーを利用する際にも拡大する方針を明らかにした。着用しなかった場合は最大で100ポンド、日本円でおよそ1万3500円の罰金を支払わなければならない。あちらでは法律で取り締まり、多額の罰金を科さなければ埒が明かないのだ。彼らにとってコロナが流行る前は、マスクをするのは病人か医療従事者に限られると考えられていた。市中感染を予防するためにするという発想は皆無だったのである。次のような記事が参考になるだろう。

しかし日本では以前より、花粉が飛散する時期にマスクをする人は多かった。昔の暴走族やヤンキーも〈ファッションとして〉マスクをしていた

お隣の韓国でも日本と同様の風習があり、KPOPアイドルたちが〈ファッションとして〉マスクをしていた(詳細こちら)。

西洋と東洋のこの文化的価値観の違いは一体、何に由来するのであろうか?

日本のことわざ、慣用句には次のようなものがある。

以心伝心(元々は禅宗の語)

目は口ほどに物を言う

口は災いの元

いずれもコミュニケーションにおける目の優位性(>口)を表現している。

これに対して新約聖書「ヨハネによる福音書」の冒頭はこう記されている。

はじめに言葉ありき

欧米人にとって言葉によるコミュニケーションは何よりも重要で、契約書を重視する。旧約聖書に記されたモーセの十戒も石版に書かれた神との契約書(取り決め)である。一方、「日本人は契約という概念がない」「態度がはっきりしない」「何を考えているかわからない」と彼らから非難されることになる。

欧米人は幼少期から論理的に相手を言い負かすことを学ぶ。その典型例がアメリカ合衆国では高校の授業でも行われるディスカッションやディベート(Debate)である(詳細こちら)。兎に角、自分の意見を主張することが重要。ところが日本はそうじゃない。言外のニュアンスを大切にする。

日本独自の文化、和歌や俳句にもその特徴がよく出ている。31文字(和歌)や17文字(俳句)という短い言葉に凝縮して、気持ち・心を伝えようとする。一方、ヨーロッパの定型詩ソネットは14行から成り、長い。

日本の少女漫画の主人公は、やたらと瞳が大きい。極端な場合、顔の長径の1/4くらいあったりする(例えばこちら)。アメコミ(アメリカン・コミックス)や、フランスの漫画〈バンド・デシネ〉と比べれば、その違いは歴然としている。日本人にとって目は感情を表現する武器なのである。だから欧米と比較すると、日本ではサングラスが普及しない。サングラスをすると「人相が悪くなる」(ヤクザとか悪徳警官みたい)というイメージを持たれるから。目がコミュニケーションをとる主な手段となっている。

Jin
映画『仁義なき戦い』より

Alita

上の写真はジェームズ・キャメロンが製作・脚本を担当したした映画『アリータ:バトル・エンジェル』の一場面である。原作は木城ゆきとの漫画『銃夢』。原作に敬意を払い目が大きいままにしたため、リアルなCG映像だとどうしても違和感がつきまとうことになった。

欧米人は相手の口元を見てコミュニケーションを図るので、マスクが邪魔になる。しかし日本人は相手の目を見るのでマスクが妨げとならないという根本的な違いがあるのだ。

"Watch your mouth !"という慣用句がある。「言葉遣いに注意しろ、口のきき方に気をつけろ!」という意味である。しかしマスクをしていたら口をwatch出来ない。

Jul Ann

上の写真はジュリア・ロバーツとアン・ハサウェイである。ギョッとするくらい口が大きい。キャメロン・ディアスもそう。つまりアメリカでは口が大きいことが美人の条件になっている。では日本で、これだけ大口の女優が果たしているだろうか?僕は全く思いつかない。強いて言えば今井美樹だが、彼女は歌手活動が中心であり、映画女優として出演したのは『犬死にせしもの』など3作品しかない。

Uki

江戸時代の口紅は、主に紅花(べにばな)から作られていた。最も有名だったのは〈小町紅〉。 紅は大変高価なものだったので、唇いっぱいに塗るのではなく、小さく塗るのが一般的だった。口を小さく見せたいという意図もあっただろう。当時は〈おちょぼ口〉が美人の必須条件だった。

日本人は口を重視しない。だからマスクで覆い隠しても問題ないのである。

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新型コロナ禍と、「日本人とは何者か?」part 2

の続きである。

6月29日、読売新聞に〈「コロナ感染は自業自得」日本は11%、米英の10倍…阪大教授など調査〉という記事が掲載された。

三浦麻子・大阪大教授ら心理学者の研究グループがまとめたデータで、「新型コロナウィルスに感染する人は自業自得だと思うか」という質問に対してYesと回答をした人が米国、英国、イタリアと比較して日本は10倍多かった。中国と比較しても2倍以上だ。非常に興味深い研究結果だ。自己責任を強く問う(責めたてる)日本人の特徴がよく表れている。

やはり日本は昔も今も〈ムラ社会〉なのだ。個よりも公を優先する。和を以て貴しとなし(聖徳太子「十七条憲法」第一条)、和を乱し目立った振舞いをする者に対して、しかとするなど制裁行動(sanction)に出る。村八分、陰湿ないじめの構造。自粛要請に応じない者を許せず(自粛警察)、公共の場でマスクをしない者を声を荒げて糾弾する(マスク警察)。居丈高なのだが、その仮面(ペルソナ)を剥がすと内面は極めて臆病、小心者。見えない敵=ウィルスに怯え、ぶるぶる震えている。

息苦しい世の中だ。嫌になる。最近読んだ紫式部『源氏物語』の表現を借りるなら〈浮世=憂き世〉(対義語は〈常世 とこよ〉)。まぁしかし反面、阪神・淡路大震災や東日本大震災など、いざという時に一致団結し、力を発揮する肯定的側面もあるのだが。

感情を表に出さず、礼儀正しく、秩序を重んじる日本人。だが仮面(ペルソナ)の裏には影(シャドウ)の部分も隠れている。

下記事で「パニックになった時、人の本性は現れる」と書いた。

今回のコロナ禍でも、様々な人々の本性が炙り出された。見ていて非常に不愉快ではある。しかし、またとない機会であり(多分、百年に一度)、色々学ぶことも多かったなという気もするのである。

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【考察】我が国の新型コロナウィルス感染予防対策は果たして正しいか(日本人とは何者か)?

本記事はNHKスペシャルの新型コロナ特集や、ノーベル医学賞を受賞した山中伸弥による新型コロナウィルス情報発信サイトに掲載された論文を参照した上で、執筆したものである。

【国別死亡率に大きな差異がある理由は?】わが国の新型コロナ感染症(COVID-19)の感染率・死亡率が低い理由として、

  • 日本人特有の生活習慣(挨拶で握手とかハグをしたりせず、距離を取る)
  • 日本人は清潔好きで家庭内では靴を脱ぐ
  • マスク率の高さ
  • 医療体制の充実

などが挙げられている。しかし果たして本当だろうか?

こちらの日経メディカルの記事をご覧いただきたい。COVID-19について人口100万人当たりの死者数が国別に表になっている。抜粋しよう。

  • スペイン:580
  • 英国:558
  • イタリア:557
  • スウェーデン:452
  • フランス:445
  • アメリカ合衆国:333
  • ポルトガル:143
  • ドイツ:104
  • イラン:96
  • 中国(湖北省):78
  • イラク:7
  • 日本:7
  • 韓国:5
  • マレーシア:4
  • オーストラリア:4
  • 台湾:0.3
  • タイ:0.2

ここで僕が「感染者数」を指標としなかったのには理由がある。韓国のように徹底的にPCR検査をした国と、我が国のようにPCR検査数が極端に少ない国の感染者数を単純比較することは出来ない。日本のやり方では無症状の(不顕性)感染者の拾い上げが出来ないからである。菅官房長官は6月24日の記者会見で、その日東京都で新型コロナウイルスの感染者が新たに55人報告されたことに関し「同一のホストクラブ関係者などに積極的に検査をした結果」と述べた。つまり検査を積極的にするか消極的にするかで感染者数は恣意的に操作出来るということだ。しかし死者に対しては嘘をつけない。死亡率は真の感染率を反映していると見なせる。

こうしてみると日本だけではなく、中国以外のアジア諸国の感染率がおしなべて低いことがわかるだろう。またオーストラリアの感染予防対策は日本より優秀だ。

さて、日本とイラクの死亡率(≒感染率)はほぼ同等。ではイラク人のマスク装着率は日本人に匹敵するのだろうか?あるいはイラクの医療水準が日本と同等なのか?ナンセンスである。台湾やタイの死亡率が日本の20分の1以下なのも上述した説明では全く納得がいかない。

つまり国別の死亡率(≒感染率)の差異の理由は必ず他にある筈だ。BCG接種の有無と、BCG株の違いは間違いなくその有力候補だろう。特に隣同士の国、スペイン vs. ポルトガルや、フランス vs. ドイツの死亡率に、どうしてこんなに差(4対1)があるのかは注目すべきポイントである。

【疫学調査の手法】結局、マスク着用が感染予防に有効なのか?とか、手洗いなど衛生面が有効なのかといった評価は〈多変量解析〉(解説こちら)をしなければ分からない。複数の独立変数(説明変数)があるからである。喫煙率とかGDP(国内総生産)、大気汚染(PM2.5)、肥満度(BMI)なども加味する必要がある。ちなみに中国やイランはPM2.5の濃度が高く、米国国内では低所得者である黒人の死亡率が高く、ブラジルでは富裕層より貧困層の死亡率が高い。〈多変量解析〉により死亡率が高い群(スペイン、イタリア、フランス、米国)と低い群(日本、韓国、台湾、タイ)の二群間で、明らかに統計学的有意差(P値が0.05以下)がある変数が見つかれば、その対策が効果的だったと評価出来る。これが公衆衛生学における疫学調査の基本である。

【マスクは新型コロナ感染予防に有効か?】ドイツ・マインツ大学などの研究チームは、同国でのマスクの義務化が新型コロナウイルスの感染者を「大幅に減少させた」とする研究結果を発表した(記事はこちら)。結論に異議はない。ただこの研究の問題点は〈感染者がマスクをした場合、拡大防止に有効か?〉と、〈非感染者がマスクをした場合、感染を予防出来るか?〉という問いを分けていないことである。一緒くたにしてしまっている。All or Nothingでは問題の本質を見失ってしまう。特にドイツの死亡率(≒感染率)は日本の十数倍である。(北海道と東京以外で)新規感染者が殆どなくなった日本で、健常者がマスクをすることに果たして意味があるのだろうか?

【感染者がマスクをする意義】感染者がマスクをすればウィルスの飛散を予防出来る。鼻や口からしぶきとして飛び出し、空中を漂う〈マイクロ飛沫〉の拡散を防止することが重要。これは間違いない。多数の実験がされており、論文発表もある。確かなエビデンスがあると僕も認める。

【非感染者がマスクをすることで予防出来るか?】この問いに対しては僕の知る限りエビデンスがない。もし明らかな反証があれば後学のために是非ご一報頂きたい。そもそも日本でも多数の医療機関でクラスターが発生し、医療従事者が感染している。彼らは当然マスクをしている筈であり、つまり感染予防に効果がないことを示唆している。いちばん重要なのは感染者と濃厚接触をしないことだ。SARS騒動のときも用いられたN95マスクをしていた救急隊員も感染したと報道されている。つまり僕は症状のない健常者がマスクをしても全く意味がないと考える。EBS(Evidence-Based Safety:根拠に基づく安全理論)と言えない。過剰反応だろう。

【クラスターが発生する条件】今までの経験で、どういう場所がクラスター(新型コロナ感染が異常に高い発生率である集団)になり易いかが判明している。

  • ライブハウス
  • ナイトクラブ、ホストクラブ、ゲイバーなど接待を伴う飲食店
  • カラオケ店(特に最近は北海道の昼カラオケ)
  • コールセンター(電話オペレーター)
  • スポーツジム
  • プロ野球、テニスなどスポーツ選手(特にロッカールームは閉鎖空間で危険)
  • 病院、デイサービス、ショートステイ、福祉事務所(医療/介護従事者、入院患者)
  • 合唱団の練習場
  • 中国から来た旅行者を乗せた観光バスや、クルーズ船乗客を乗せたタクシー

共通する特徴は明白である。「換気の悪い密閉空間で感染者と濃厚接触すること(3密)」「特に2m以内に近接し、感染者が発声することがハイリスク」「喋らなくても運動をしてハァハァ激しく呼吸をすることも危険」。

しかし僕が知る限りミュージカル・演劇を上演する劇場や、クラシック音楽のコンサート・ホールでクラスターが発生したという報告はない。これは日本だけでなく欧米諸国など世界に目を向けても同じだ。ではライブハウスとコンサート・ホールの違いは何か?

  • コンサート・ホールの方が空間が広い。
  • ライブハウスでは観客が歓声を上げたり、コール&レスポンス(演奏者の呼びかけに対して観客が応えること)したり、踊って息をハァハァしたりする。テーブルが設置され飲食可能な場合もある。一方、コンサートホールで観客は黙って音楽を聴くだけであり、同じ方向を向いている(感染者と向かい合わない)。またライブハウスは基本スタンディングなので、着席して大人しく聴くコンサート・ホールより密になる。

満員電車でクラスターが発生していないのも同じ理屈である。窓を開けて換気し、会話さえしなければ危険じゃない。それに対して観光バスでは長時間乗り、隣どうしてペチャクチャお喋りをする。補助席のない大型バスでは窓が開かない場合も多い。

映画館でのクラスターも皆無だが、法令により換気がしっかりしていること、観客が黙って同じ方向を向いていることにその理由があるだろう。

合唱団やロックバンド(グループ魂の宮藤官九郎ら)でクラスターが発生しているのに、オーケストラや吹奏楽団など楽器演奏家に事例が見当たらないのも発声の有無に問題の核心があることを示している。

【映画館・劇場対策に意味はあるのか?】2020年6月末現在、映画館や一部劇場が再開されたが、座席は前後左右1席ずつ開けるとか、マスク着用が必須とか条件付きである。ほとんどの商業演劇・ミュージカルでは客席数を半分以下に減らされると採算が取れない。オーケストラの演奏会だってそう。無茶な話である。ブロードウェイでは9月6日まで劇場閉鎖が決まっており、さらに延長される可能性も高い。「キャッツ」や「レ・ミゼラブル」、「オペラ座の怪人」といったミュージカル作品を手がけてきた著名な演劇プロデューサーで劇場オーナーでもあるサー・キャメロン・マッキントッシュは、ソーシャル・ディスタンシング措置のため来年までロンドンの劇場を再開出来ないと明言している。また経営難に陥った劇団四季はクラウドファンディングを開始した(こちら)。世界中のエンターテイメント業界は危機的状況にある。

ここで大いに疑問に思うのは、劇場に今までどおり客を入れた場合よりも、前後左右1席ずつ開けた方が感染リスクを統計学的有意差をもって低減出来るというエビデンス(根拠となるデータ)は本当にあるのだろうか?そういう実験をどこかでしたという話を僕は一切聞いたことがない。〈相手と2mの距離を取る〉というのは向かい合って、会話するという条件から生まれてきた指針である。喋らず、同方向を向いている状況で、ソーシャル・ディスタンシングを保つべき距離は自ずと変わってくる筈だ。発声を控えればマスクだって不要だろう。

京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸准教授は次のように述べている(出典こちら)。

「緊急事態宣言の発令後、映画館やパチンコ店など、ほとんど話をしない場所への自粛も呼びかけられ、駅の利用状況も問題視されましたが、唾液が飛ばないところで自粛しても意味がありません」

【恐怖心】アメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)はこう言った。「恐怖は常に無知から生まれる (Fear always springs from ignorance. )」知識を得ることは恐怖の解毒剤である。妖怪とか幽霊といった類は正にこれであろう。特に電気のない時代、蝋燭とか灯台(火皿に油を注ぎ灯芯を浸したもの)で照らす夜は暗く、見えないことの恐怖が彼らを生んだ。ウィルスも目に見えない。見えない敵と戦うことは恐怖心や不安感を増幅させる。

20世紀で最も著名なイギリスの論理学者で哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」と述べている。新型コロナウィルス流行で脚光を浴びたのがアマビエという妖怪である。僕は今まで全く知らなかった。

Ama

疫病除けでこういうのが流行るのも迷信のひとつだろう。そもそも宗教そのものが死の恐怖、人の命が有限であることの恐怖から生まれたと言える(↔永遠の命を有する神)。

また新型コロナに対する恐怖心から生まれた残虐が〈自粛警察〉であり、マスクをしていない人を公衆の面前で怒鳴りつける〈マスク警察〉だ。欧米では「コロナが感染拡大したのはおまえらのせいだ」とアジア人に対する差別や暴行事件が蔓延している。被害に遭っているのは中国系だけではなく、インドネシア人、ビルマ人、シンガポール人、韓国人、日本人と多岐にわたる(新聞記事こちら)。

ラッセルは「人間は信じやすい動物だから、何かを信じたくなる。信ずるに足る何かを見出だせない場合は、信ずるに足らないことでも満足してしまう」とも言っている。今回の場合は〈マスクによる感染予防効果〉がそれに当たるだろう。神社のお守り・お札みたいなものだ。

【新型コロナ恐るるに足らず】2020年6月26日現在、新型コロナウィルスによる日本の死者数は総計970人である。一方厚労省によると、通常の季節性インフルエンザによる年間死亡者数は日本で約1万人と推計されている(資料こちら)。世間の人々は神経質になり過ぎではないだろうか。

【アメリカ人はマスクをしない】2020年6月20日トランプ大統領が行った6,000人を超える大規模集会において、会場ではマスクが入場者に配布されたものの、実際に着用している人はほとんどいなかった。こちらの記事の動画をご覧頂きたい。ソーシャル・ディスタンシングなんか全く考慮しない、密の状態だということがお分かり頂けるだろう。

【日本人の生真面目さ】2020年4月7日に「緊急事態宣言」が発令され、5月25日に解除されるまで僕は無意味だと思いつつ、政府の方針に従って電車の中ではマスクを着用して通勤した。解除後も更に1ヶ月、我慢した。僕が住む兵庫県では1ヶ月以上、新型コロナウィルスの新規感染者は0だった。しかし6月末現在、阪急電車におけるマスク着用率は未だに100%である。どうして皆、そんなにお上に対して素直に従うんだ!?何故自分自身の頭で考えて、何が正しいかを判断しない?これはもう、一種の思考停止だ。感心を通り越して呆れてしまう。結局、軍国主義に走って暴走した政府に誰も異を唱えなかった第2次世界大戦時と日本人のあり方は少しも変わっていない。「欲しがりません勝つまでは」今も昔も羊のように従順な国民性だったのである。悪く言えば未だに〈個が確立されていない〉。しかし一方で、アメリカ人やフランス人みたいに個人主義が徹底しすぎても、良いことばかりではないのも確かだ。アメリカ人の離婚率の高さは悲惨だし、フランス人が一般に冷淡なのは、赤ちゃんのときから親が別室で寝る習慣が災いしているのではないかと僕は考える。つまり国民全体が〈愛着障害〉なのだ。

言い換えよう。日本人は昔から〈個よりも公を重んじる〉国民性なのだろう。出る杭は打たれ、和を以て貴しとなす(聖徳太子「十七条憲法」第一条)。それが良い場合もあれば、悪い場合もある。個か公か?何事も極端に走らず、程々が肝要である。

【同調圧力】そもそも外出時にマスクを付けなさいとかいうのは政府の〈要請〉であり〈強制〉ではない。罰則規定はないし、従わないからといって罪に問われるわけではない。米ニューヨーク州では行政命令でマスク着用が義務化された。アメリカ人は全然、人の言うことを聞かないからだ。パリでもメトロでマスクが義務化され、違反者には罰金1万6千円(135€ )が課せられる。じゃあ日本でも罰則規定を設ければいいじゃないかって?感染率がぜんぜん違う。フランスは日本の50倍以上だ。あちらでの義務化は感染者からの拡散を防ぐことに狙いがある。なお厚労省の調査で、東京都民の新型コロナウィルス抗体保有率は0.1%と判明した。一方、ニューヨーク州が実施した検査の抗体保有率は12.3%、スウェーデンのストックホルムは7.3%に達している。桁が違う。

しかし日本でマスクを着用せず街を歩いているとひしひしと同調圧力を感じる。汚物でも見るように、あからさまに嫌な顔をされ避けられたりする。ムラの発想だ。マスクをしない者は村八分。息苦しく、住みにくい世の中になったものだ。しかし僕はへこたれない。今の風潮は明らかに間違っている。誰になんと非難されようが「王様は裸だ!」とこれからも言い続ける。

【新しい生活様式のあるべき姿】以上述べてきた根拠に基づき、僕が考える〈新しい生活様式〉を提案したい。日本人は従順な国民だから、政府がしっかりとメッセージを発信すれば、きちんと実践出来る筈。

①以下のどれかに当てはまる人は必ず外出時、あるいは対面で会話をするときは必ずマスクを着用することとする。

  • 過去に新型コロナウィルスに感染した既往歴がある。
  • 直近2週間以内に新型コロナウィルスに感染した人と接触した可能性がある。
  • 37.5℃以上の発熱がある。
  • 咽頭痛や違和感・咳・頭痛・味覚/臭覚異常(味や臭いが分からない)・倦怠感などの症状がある。

これらに当てはまらない人はマスクは不要。勿論、不安があれば着用すればいいが熱中症に十分注意して適宜水分補給をする。

②映画館や劇場(ライブハウスを除く)で客席のソーシャル・ディスタンシングは不要。マスクも義務化しないが着席後の発声は慎む。また入場時の検温は実施する。

③舞台に立つ役者や演奏家には全員、新型コロナウィルスのPCR検査、またはLAMP法、抗原検査を実施する。感染初期には陽性化しない抗体検査はダメ。6月5日、 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が3ヶ月ぶりに公演を再開した際、楽員全員がPCR検査を受けた。

【最後に】読者の皆さんに切に訴えたい。「マスクを捨てよ、町へ出よう」

本物の日常を取り戻そう。

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「自粛警察」「コロナうつ」の心理学

5月9日のNHKニュース(出典こちら)より一部引用。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出の自粛や休業の要請に応じていないとSNSなどで指摘する行為はインターネット上で、「自粛警察」や「自粛ポリス」などと呼ばれています。専門家は「こうした行為は自分を守ろうという防衛本能のあらわれだが、社会に分断を生み出している」として冷静な行動を呼びかけています。

東京・杉並区では先月26日、営業を休止しているライブバーが無観客で行ったライブをインターネットで配信したところ何者かに通常の営業だと誤解され「自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます」などと書かれた張り紙を貼り付けられました。

また東京都内在住の20代の女性が、感染が判明した後に帰省先の山梨県から高速バスで都内に戻ったケースでは、インターネットの掲示板に女性の名前や住所を特定する動きが加熱し、ネット・リンチ(私刑)だと話題になった。犯人探しというゲーム感覚でもあるのだろう。専門家らは「軽率な行動だったとしても個人情報をさらすのは行き過ぎだ」と警鐘を鳴らしている。

こうした動きの背景には”見えない敵”、新型コロナウィルスに対する不安や恐怖がある。昔の人が暗闇を恐れ、妖怪や幽霊を創造(空想)したのと同じ。「自粛警察」は自警団みたいのもので、恐怖に押しつぶされた彼らはその場にありもしない怪物(モンスター)に怯えている。過剰防衛と言えるだろう。

「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」(バートランド・ラッセル:英国の哲学者。ノーベル文学賞受賞)

不安な日々が続き、自粛疲れもあって僕たちは多大なストレス・心の闇を貯めている。行動を抑制されていることへの不満もある。そうしたモヤモヤした感情のはけ口として、自分の〈影 shadow〉を他者に投影しているという側面もあるだろう。第一次世界大戦後、敗戦国として多額の賠償金を請求され天文学的なインフレーションに苦しんだドイツにおいて、ナチス・ドイツがユダヤ人を憎悪の標的にした構造に似ている。生贄の羊(scapegoat)だ。

「自粛警察」は、いじめの構造を内包している。それは児童虐待にも通じる。なぜいじめるか?彼らにとって、いじめは楽しいのである。その行為の最中に脳内で〈報酬系〉と呼ばれる神経伝達物質ドーパミンが放出され、快感を覚える。本来ドーパミンは困難な目的・課題を達成した時に生じるが、麻薬・飲酒・ギャンブル・いじめでも短絡的放出をもたらす。ただし短絡的な充足は耐性を生じ、更に強い刺激を求めるようになる。飢餓感は癒やされず、際限のない自己刺激行為に陥る。いじめは非常に中毒性が高いのだ。

2019年に千葉県野田市で小学校4年生(当時)の栗原心愛さんが自宅浴室で死亡した虐待事件で、父親である勇一郎被告に対して懲役16年の判決が言い渡された。裁判の過程で娘が号泣する動画を勇一郎被告がデジタルカメラや携帯電話に残していることが明らかになった。つまり彼は後でそのコレクション(報酬)を見て楽しんでいたのである。絶滅収容所でナチスがユダヤ人から掻き集めた金歯・腕時計・指輪・髪の毛(鬘に使った)に相当する。常人には理解できない鬼畜の所業である。

「自粛警察」の匿名性も深く関わっているだろう。素性のばれない安全地帯から他人を非難するのは気持ちが良い。私刑はなんだか自分がアメコミのヒーロー(スーパーマン/バットマン/スパイダーマン)とか、大岡越前みたいな名奉行になって悪党を裁くような錯覚・達成感を与えてくれる。あくまでもそれは幻想に過ぎないのだが。彼らは「正義」の仮面(スパイダーマスク)をかぶり、「公事場(くじば)」と呼ばれる高みから「お白州(しらす)」という砂砂利に敷かれた筵(むしろ)に座る被告人を見下す。その優越感は、まるで酒に酔ったような夢心地だ。これが「正義中毒」である。いじめの構造にも「自分たちは正義を実行している」という感触(思い込み)がある。ユダヤ人絶滅収容所の看守たちも、第二次世界大戦後のパリ開放時に「ドイツ兵と寝た女」たちの頭を公衆の面前で丸刈りにするリンチを実行した者たちも、 中国の文化大革命で文化人に対し自己批判を強要した紅衛兵たちも、連合赤軍(新左翼運動)における総括も、同じ穴の狢である。また「モンスターペアレンツ」の所業にも似ている。彼らは“保護者”という安全地帯から学校や幼稚園の教職員を断罪する。そりゃ快感だろう。“保護者” に対して教師は下手に出るしかないのだから。「自粛警察」 もやはり、新型コロナウィルスへの恐怖が生み出した怪物(モンスター)だ。おぞましい。

「自粛警察」を自認する「社会正義の戦士」たちはロシア革命におけるプロレタリアートである。普段から社会にルサンチマン(恨み)を抱えて生きている(流行語大賞トップ10入り「保育園落ちた日本死ね!!!」)。ルサンチマンとは哲学者ニーチェが好んだ用語で、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。だから他者を断罪することで心理的な価値の転倒、下剋上、一発逆転を狙っているのだ。それが多少の憂さ晴らしにはなるのだろう。なお、上述した栗原勇一郎被告は、観光業の派遣社員だった。

ルサンチマンは劣等感の裏返しであり、妬みでもあるだろう。「自分はしっかり自粛をしていろいろと我慢しているのに、どうしてあいつらだけ勝手気ままに振る舞っているのか!」という怒り、嫉妬心である。ここには日本人的な「私」より「公」を重んじる同調圧力(「武士は食わねど高楊枝」という滅私奉公の精神/清貧の思想)があると同時に、多少「羨ましい」という気分、自由への渇望がないとも言い切れまい。

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は以前書いた。今回の件で改めて思い知ったのは「自然(ウィルス)もりも、もっともっと恐ろしいのは怪物を生む人の心である」ということだ。ぼっけえ、きょうてえ!

参考文献:① 岡田尊司(著)「あなたの中の異常心理」幻冬舎新書
② 岡田尊司(著)「死に至る病 あなたを蝕む愛着障害」光文社新書 
③ 河合隼雄(著)「影の現象学」講談社学術文庫
④アドルフ・ヒトラー(著)平野一郎 他(訳)「我が闘争」角川文庫
⑤フリードリヒ・ニーチェ(著)中山元(訳)「道徳の系譜学」光文社古典新訳文庫
⑥岩井志麻子(著)「ぼっけえ、きょうてえ」角川ホラー文庫

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新型コロナウィルスにより、変わりゆく世界の中で

新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、安倍晋三首相が全国すべての小中高校に3月2日から臨時休校することを求めたのが2020年2月27日。この時点で各地コンサートホールでの演奏会や演劇の公演が次々と中止になった。

コンサートを開催できない状況が続く中、僕が生演奏を聴いたこともある(@びわ湖ホール)、ヴァイオリニストの成田達輝が次のようなツィートを投稿した。

ここには記事〈新型コロナウィルスと”浮草稼業"〉に書いた、落語家・桂米團治(先代)が弟子の米朝に諭した言葉 ー好きな芸をやって生きているのだから、末路哀れになっても仕方がないー という覚悟・諦念がある。実に立派だと思う。たかだか劇場が1,2ヶ月閉鎖されただけで「演劇の死」などと大げさなことをほざく野田秀樹には彼の爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。

ベルリン・フィル第1コンサートマスターを務める樫本大進はNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」緊急企画(4月28日放送)の中でこう述べた。

コロナになる前は、音楽なしでは生きていけないと思っていました。本当に。社会的にも、僕自身だけじゃなく、音楽なしでは地球が回らなくなると思っていました。それを信じていましたから。でもそうではないんだなって、この1ヶ月ですごく分かって。自分でもそうじゃないんだなって、それよりもっと大事なものがいくらでもあるんだと。自分の健康から、家族の健康から、周りの人たちの健康から。ここまで自分の存在が使えないもの、必要ないもの、存在がないって感じたのは今回が初めてですし、3月の終わりの方ぐらいにすごく悩んだことでもありますし、「この仕事でいいのかな」とか反対に思っちゃいますし。

しかし一方で、自宅待機の生活が長く続く間にこういう感情も芽生えたという。

自分が弾きたくなったという気持ちがあって。今まで常に弾いているから、練習しなきゃではなく、コンサートしなきゃではなく、本当にただ自分のために弾きたいなっていう気持ちは、そこまで今まで味わったことがなかったので。僕でも必要と思っているということは、もっと必要と思ってくれている人がいっぱい外にはいるんだと考え始めました。(中略)文化を必要としているのは社会だと思う。心を失ったら社会は死んでしまうので、その心を生き残らせるために上からのサポートが必要というのは、ひとりひとりが叫ばなきゃだめだと思います。本当は今一番音楽っていうのが必要なものだと僕は思っています。一番生活に必要なくて、一番生活に必要なものだと、僕は信じています。

そして最後に視聴者へのメッセージ。

コロナっていう手ごわい相手に全員で戦っている状況です。みんなが闘っているということは、全世界がひとつになれるチャンスだと。気持ちを、みんなでひとつになれるような状況を作って、コロナを倒したあともっともっとすごい世界になれるように頑張りたいと思います。

精神科医・医学博士である高橋和巳が著書「人は変われる」(ちくま文庫)で書いたように、新型コロナ禍という絶望を経験することで自分を客観視できるようになり、現実をあきらめることで「新しい解釈」が生まれ、古い自分を乗り越えて新しい行動を取り始める姿がここに写し出されている(記事〈新型コロナウィルスという災厄の中から生まれるもの〉を参照されたし)。

日本では「自粛疲れ」が蔓延し、ウィルスに対する不安や恐怖心に押し潰され、世界中のサッカー選手にうつ病が急増したり、パニック/ヒステリー状態に陥った人々も少なくない。なんだか世間全体がピリピリしている。

  • 2月18日、福岡市の地下鉄でマスクを着用せずにせきをしていた乗客がいたことを理由に隣の乗客と口論となり、非常通報ボタンが押され列車が停止した。
  • 2月25日、横浜市のドラッグストア「マツモトキヨシ」に開店前からマスク買うために並んでいた列に割り込みがあり、殴り合いの喧嘩になった(その動画がマスコミで報道された)。
  • 大阪府警に「飲食店でくしゃみをしたことが発端でもめた」などの通報が相次いでいる。(4月26日サンケイスポーツより)
  • 4月28日、ブラジルのスーパーで男性客が店員にマスクをしていないことをとがめられて激高。店員を殴り倒した。止めに入った警備員にも殴り掛かり、警備員が拳銃を発砲、居合わせた女性店員の首に弾が命中し死亡した(この日州法で、公の場でのマスク着用が義務付けられた)。

しかし、悪いことばかりではない。

  • インド北部のパンジャブ州では新型コロナウイルス対策のロックダウン(都市封鎖)で全土の大気汚染が大幅に改善し、200キロ近く離れたヒマラヤ山脈が数十年ぶりに見晴らせるようになった。
  • 国際エネルギー機関(IEA、本部パリ)は4月30日、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、2020年のエネルギー関連の二酸化炭素(CO2)排出量が前年比約8%減少するとの見通しを公表した。米スタンフォード大学のロブ・ジャクソン教授は、この50年間でこれだけの効果を上げた危機は他にはなかったと語った。もしかしたら、地球温暖化の速度が緩むかも知れない。
  • 日本で各種学校の休校が長期化する中、 全国知事会でこの際9月入学に移行するべきだという意見が多く出された。僕は従来どおり、桜が咲く4月入学の方が情緒的には相応しいと考えるが、世界的標準に合わせた9月入学だと海外留学がしやすくなるなどメリットも見過ごせず、新型コロナ禍なくしてこういった議論も有り得なかったわけで、大変有意義なことだと思う。
  • 今回の騒動がきっかけで、オンライン授業やテレワークなどシステム環境の整備が一気に加速した。この経験は業務や学業が通常通り再開された後も、決して無駄にはならないだろう。

5月1日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は当初イスラエルの都市テル・アヴィヴで予定されていたヨーロッパ・コンサートを新型コロナウィルスの蔓延により断念し、急遽会場を本拠地フィルハーモニーに移して無観客で実施、全世界に無料中継された。指揮はキリル・ペトレンコ、樫本大進がコンサートマスターを務めた。僕はリアルタイムで鑑賞。前半はアルヴォ・ペルト「フラストレス」、サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」など弦楽合奏曲で、15人の奏者が間隔を2mくらい取り、十分なSocial Distance(社会的距離)を保って演奏した。真摯な祈りの気持ちがこもった、大変美しく感動的なパフォーマンスだった。プログラム後半、マーラーの交響曲第4番はエルヴィン・シュタインによる室内オーケストラ版。なんと独唱者(クリスティアーネ・カルク)を除いてたった14人!第1/第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが1名ずつ、金管なし、木管がオーボエ、フルート、クラリネット各1名、そしてピアノ2名、ハルモニウム、打楽器という編成。〈音楽の力〉の凄みを、まざまざと見せつけられた!ただただ脱帽である。

コロナ禍の影響で倒産するホテル・飲食業・スポーツジム・ライブハウス・ミニシアター(映画館)は少なからずあるだろう。東京や大阪のオーケストラ、劇団で存続が困難になることろも出てくるだろう。仕方がない、あきらめるしかない。しかし、全部潰れるわけではない。気の毒だけれど、僕はダーウィンの進化論が言うところの「自然選択/自然淘汰」だと思う(ウィルス=自然)。優れたものだけが生き残るのだ。ミニシアターがなくなろうが、動画配信サービスがその代わりを担ってくれるだろう。4つある在阪オーケストラは統合して数を減らせば良い。その方が質も向上する。これが「新しい解釈」だ。

僕たちは今、世界恐慌や第二次世界大戦、あるいは「黒死病」と呼ばれるペスト(エボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱という説もあり)が大流行した中世ヨーロッパに匹敵する大きな困難に直面している。出口はなかなか見えてこない。しかし物事には暗い側面と、明るい側面がある。ピンチはチャンスだ。映画「風の谷のナウシカ」のラストシーンで描かれたように、絶望の中からも必ず希望の芽は生えてくる。僕はこの先、どんな新しい世界が広がっていくのか、とても胸を躍らせている。だから、(世界が生まれ変わる)その日が来るまでおとなしく"Stay Home"を守り、なんとか生き延びようではないか!

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新型コロナウィルスという災厄の中から生まれるもの

新型コロナウィルスが世界中で蔓延し、遂に日本でも緊急事態宣言が発令されるに至った。

僕が小学生だった頃(昭和)、学校(岡山大学教育学部附属小学校)で「戦争を知らない子供たち」(作詞:北山修/作曲:杉田二郎)を歌わされた。こんな歌詞だ。

戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら

如何にも日教組の教員が好みそうな内容だ。

しかし僕は今思う。2020年に僕らは戦争を体験した。現在世界は戦時下にある。

日々犠牲者が増加し、外出も制限され、多くの人が仕事もままならない。ほぼ戦争状態と変わらない。緊急事態宣言≒戒厳令であり、敵は目に見えないウィルスだ。

演奏会が中止になったオーケストラの楽員が「僕たちは不要不急。要らないって、言われているみたいで悲しい」と発言している様子がテレビで報道された。

ようやく気がついたか。音楽とか演劇がなくても人は生きていける。今回のような生命に関わる非常事態を迎え、扱いが二の次になることは当たり前だ。生演奏の代替品として今はCDやSpotify,Amazon Musicなど定額制音楽配信(サブスクリプション)サービスがあるしね。

芸術は心の豊かさをもたらしてくれる。しかしそれには大前提があって、「生活や心に余裕がある時」に限られる。3・11東日本大震災の際、東北の人々を励ますために芸術家たちが訪れたのも直後ではなかった。落語や漫才で人々が朗らかに笑えるようになるにも時間が掛かる。

上記事で「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は常々思っていると書いた。2020年3月以降、20−30歳代の若者たちの無軌道ぶりが目に余る。1月以降に大学から海外渡航を控えるよう注意喚起されていたにもかかわらず卒業旅行としてヨーロッパに行き、新型コロナウィルスを日本に持ち帰り、症状があったのに卒業式や祝賀会に出席してウィルスをばら撒いた県立広島大学や京都産業大学の4年生たち。小池百合子・東京都知事が緊急会見で外出自粛を要請した翌日の3月26日に約40人が都内のダイニングバーで「お疲れ様会」なる懇親会を開催。会は三次会まで続き、最後はカラオケだったという慶応病院の研修医たち(18人が集団感染した)。同じ3月26日にナイトクラブを訪れて感染した岐阜大学の医師3人(30代2人、20代1人)。おかげで岐阜大学附属病院は4月19日まで約30あるすべての診療科の外来診療を休止することになった。

彼らは心の内にある欲望が外部に溢れ出ることを制御出来ない。遊びたくて仕方がないー本能の命ずるまま生きている。自分さえ良ければ満ち足りるのだ。他者のことは一切考えない。そして「自分は絶対大丈夫」という変な自信、万能感を持っている。これが若さの本質であり、愚かしさ、未熟さなのだ。

僕が思うに新型コロナウィルスとの戦いに勝ち抜いた暁に、世界は大きく変わっているのではないだろうか?今回の事態は間違いなく、1929年の世界大恐慌や、1939年に勃発した第二次世界大戦に匹敵する危機的状況である。第二次世界大戦の前後で、特にドイツと日本は劇的な変化を遂げた。それも良い意味において。ピンチはチャンスだと考えたい。

精神科医・医学博士である高橋和巳はその著書「人は変われる」(ちくま文庫)の中で、心には三つの能力がある、と記している。

第一の能力は、自分から離れることができる(自分を客観視できる)能力。第二の能力は、絶望することができる能力。そして第三は、純粋性を感じることのできる能力。現在の解釈を越えてより深い「新しい解釈」を生み出すことで、人は古い自分を乗り越えていく。

人が絶望的状況に直面した時、対処するためのキーワードは「どうしようもない」と「あきらめました」。この言葉を呟くことで頭の中に配置の転換が起こる。現実をあきらめることで、自分に対する自信を取り戻す。そして新しい行動を取り始めるのだ。

文庫本の解説を書いた女優・中江有里は「あきらめました」を、大きな嵐をやり過ごすための魔法の言葉だ、と述べている。

第三の純粋性を感じる能力とは、思い込みや過去の自分の常識に縛られないで、新しい心の動きを感じることができることを指す。

多くの人々は現在、新型コロナウィルスに対して絶望的な気持ちを抱えている。しかしこの苦境を乗り越えることできっと「新しい解釈」「新しい自分」を見出すだろう。僕らはまだまだやれる。決してへこたれない。

北米では殆どの映画館が閉鎖になっている。そして再開されても以前のように観客は戻ってこないと予想されている。「映画は映画館で観るもの」という固定概念・過去の常識がここで一気に雲散霧消する。日本でもライブハウス同様、多くのミニシアターが閉館に追い込まれるだろう。仕方がない、あきらめた。動画配信時代の到来である。

また、新日本フィルハーモニー交響楽団が新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から演奏会の中止・延期を余儀なくされており、楽団存続の危機に立たされている(緊急支援のお願いページへ)。大阪府にある4つのオーケストラ(大阪フィル、関西フィル、大阪交響楽団、日本センチュリー交響楽団)も似たような状況だろう。どこかが経営難で解散に追い込まれても不思議じゃない。仕方がない、あきらめた。そもそも下手くそなオケが大阪に4つもあるなんて無駄、不経済なのである。1つや2つなくなったって文化の火は消えないし、今こそ発想の転換を図るべき時なのだ。新型コロナウィルスで野田秀樹氏が言うような「演劇の死」は訪れないし、クラシック音楽だって死なない。どっこい生きている。

お荷物になっている在阪オケをどうするかという問題については随分昔から俎上に載せられてきた。2006年に関西経済連合会の秋山喜久会長(当時)が「大阪に4つもあるのはどうか」と語ったことに端を発する。

さらに橋下徹氏が大阪府知事・大阪市長を努めた時代に、大阪センチュリー交響楽団に対して大阪フィルと統合するよう促したが、両楽団が突っぱねて見送られたという経緯がある。そうして大阪センチュリーは日本センチュリー交響楽団に改名した。

しかし悪あがきはもうおしまいだ。 火急の事態が逼迫しており、即座の対応が求められる。あなた達は「不要不急」の存在なのだから、経営の合理化を目指して前向きに統合についての話し合いを進めてもらいたい。今こそ生まれ変われ!

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