日記・コラム・つぶやき

2020年5月12日 (火)

「自粛警察」「コロナうつ」の心理学

5月9日のNHKニュース(出典こちら)より一部引用。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出の自粛や休業の要請に応じていないとSNSなどで指摘する行為はインターネット上で、「自粛警察」や「自粛ポリス」などと呼ばれています。専門家は「こうした行為は自分を守ろうという防衛本能のあらわれだが、社会に分断を生み出している」として冷静な行動を呼びかけています。

東京・杉並区では先月26日、営業を休止しているライブバーが無観客で行ったライブをインターネットで配信したところ何者かに通常の営業だと誤解され「自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます」などと書かれた張り紙を貼り付けられました。

また東京都内在住の20代の女性が、感染が判明した後に帰省先の山梨県から高速バスで都内に戻ったケースでは、インターネットの掲示板に女性の名前や住所を特定する動きが加熱し、ネット・リンチ(私刑)だと話題になった。犯人探しというゲーム感覚でもあるのだろう。専門家らは「軽率な行動だったとしても個人情報をさらすのは行き過ぎだ」と警鐘を鳴らしている。

こうした動きの背景には”見えない敵”、新型コロナウィルスに対する不安や恐怖がある。昔の人が暗闇を恐れ、妖怪や幽霊を創造(空想)したのと同じ。「自粛警察」は自警団みたいのもので、恐怖に押しつぶされた彼らはその場にありもしない怪物(モンスター)に怯えている。過剰防衛と言えるだろう。

「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」(バートランド・ラッセル:英国の哲学者。ノーベル文学賞受賞)

不安な日々が続き、自粛疲れもあって僕たちは多大なストレス・心の闇を貯めている。行動を抑制されていることへの不満もある。そうしたモヤモヤした感情のはけ口として、自分の〈影 shadow〉を他者に投影しているという側面もあるだろう。第一次世界大戦後、敗戦国として多額の賠償金を請求され天文学的なインフレーションに苦しんだドイツにおいて、ナチス・ドイツがユダヤ人を憎悪の標的にした構造に似ている。生贄の羊(scapegoat)だ。

「自粛警察」は、いじめの構造を内包している。それは児童虐待にも通じる。なぜいじめるか?彼らにとって、いじめは楽しいのである。その行為の最中に脳内で〈報酬系〉と呼ばれる神経伝達物質ドーパミンが放出され、快感を覚える。本来ドーパミンは困難な目的・課題を達成した時に生じるが、麻薬・飲酒・ギャンブル・いじめでも短絡的放出をもたらす。ただし短絡的な充足は耐性を生じ、更に強い刺激を求めるようになる。飢餓感は癒やされず、際限のない自己刺激行為に陥る。いじめは非常に中毒性が高いのだ。

2019年に千葉県野田市で小学校4年生(当時)の栗原心愛さんが自宅浴室で死亡した虐待事件で、父親である勇一郎被告に対して懲役16年の判決が言い渡された。裁判の過程で娘が号泣する動画を勇一郎被告がデジタルカメラや携帯電話に残していることが明らかになった。つまり彼は後でそのコレクション(報酬)を見て楽しんでいたのである。絶滅収容所でナチスがユダヤ人から掻き集めた金歯・腕時計・指輪・髪の毛(鬘に使った)に相当する。常人には理解できない鬼畜の所業である。

「自粛警察」の匿名性も深く関わっているだろう。素性のばれない安全地帯から他人を非難するのは気持ちが良い。私刑はなんだか自分がアメコミのヒーロー(スーパーマン/バットマン/スパイダーマン)とか、大岡越前みたいな名奉行になって悪党を裁くような錯覚・達成感を与えてくれる。あくまでもそれは幻想に過ぎないのだが。彼らは「正義」の仮面(スパイダーマスク)をかぶり、「公事場(くじば)」と呼ばれる高みから「お白州(しらす)」という砂砂利に敷かれた筵(むしろ)に座る被告人を見下す。その優越感は、まるで酒に酔ったような夢心地だ。これが「正義中毒」である。いじめの構造にも「自分たちは正義を実行している」という感触(思い込み)がある。ユダヤ人絶滅収容所の看守たちも、第二次世界大戦後のパリ開放時に「ドイツ兵と寝た女」たちの頭を公衆の面前で丸刈りにするリンチを実行した者たちも、 中国の文化大革命で文化人に対し自己批判を強要した紅衛兵たちも、連合赤軍(新左翼運動)における総括も、同じ穴の狢である。また「モンスターペアレンツ」の所業にも似ている。彼らは“保護者”という安全地帯から学校や幼稚園の教職員を断罪する。そりゃ快感だろう。“保護者” に対して教師は下手に出るしかないのだから。「自粛警察」 もやはり、新型コロナウィルスへの恐怖が生み出した怪物(モンスター)だ。おぞましい。

「自粛警察」を自認する「社会正義の戦士」たちはロシア革命におけるプロレタリアートである。普段から社会にルサンチマン(恨み)を抱えて生きている(流行語大賞トップ10入り「保育園落ちた日本死ね!!!」)。ルサンチマンとは哲学者ニーチェが好んだ用語で、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。だから他者を断罪することで心理的な価値の転倒、下剋上、一発逆転を狙っているのだ。それが多少の憂さ晴らしにはなるのだろう。なお、上述した栗原勇一郎被告は、観光業の派遣社員だった。

ルサンチマンは劣等感の裏返しであり、妬みでもあるだろう。「自分はしっかり自粛をしていろいろと我慢しているのに、どうしてあいつらだけ勝手気ままに振る舞っているのか!」という怒り、嫉妬心である。ここには日本人的な「私」より「公」を重んじる同調圧力(「武士は食わねど高楊枝」という滅私奉公の精神/清貧の思想)があると同時に、多少「羨ましい」という気分、自由への渇望がないとも言い切れまい。

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は以前書いた。今回の件で改めて思い知ったのは「自然(ウィルス)もりも、もっともっと恐ろしいのは怪物を生む人の心である」ということだ。ぼっけえ、きょうてえ!

参考文献:① 岡田尊司(著)「あなたの中の異常心理」幻冬舎新書
② 岡田尊司(著)「死に至る病 あなたを蝕む愛着障害」光文社新書 
③ 河合隼雄(著)「影の現象学」講談社学術文庫
④アドルフ・ヒトラー(著)平野一郎 他(訳)「我が闘争」角川文庫
⑤フリードリヒ・ニーチェ(著)中山元(訳)「道徳の系譜学」光文社古典新訳文庫
⑥岩井志麻子(著)「ぼっけえ、きょうてえ」角川ホラー文庫

| | コメント (0)

2020年5月 2日 (土)

新型コロナウィルスにより、変わりゆく世界の中で

新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、安倍晋三首相が全国すべての小中高校に3月2日から臨時休校することを求めたのが2020年2月27日。この時点で各地コンサートホールでの演奏会や演劇の公演が次々と中止になった。

コンサートを開催できない状況が続く中、僕が生演奏を聴いたこともある(@びわ湖ホール)、ヴァイオリニストの成田達輝が次のようなツィートを投稿した。

ここには記事〈新型コロナウィルスと”浮草稼業"〉に書いた、落語家・桂米團治(先代)が弟子の米朝に諭した言葉 ー好きな芸をやって生きているのだから、末路哀れになっても仕方がないー という覚悟・諦念がある。実に立派だと思う。たかだか劇場が1,2ヶ月閉鎖されただけで「演劇の死」などと大げさなことをほざく野田秀樹には彼の爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。

ベルリン・フィル第1コンサートマスターを務める樫本大進はNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」緊急企画(4月28日放送)の中でこう述べた。

コロナになる前は、音楽なしでは生きていけないと思っていました。本当に。社会的にも、僕自身だけじゃなく、音楽なしでは地球が回らなくなると思っていました。それを信じていましたから。でもそうではないんだなって、この1ヶ月ですごく分かって。自分でもそうじゃないんだなって、それよりもっと大事なものがいくらでもあるんだと。自分の健康から、家族の健康から、周りの人たちの健康から。ここまで自分の存在が使えないもの、必要ないもの、存在がないって感じたのは今回が初めてですし、3月の終わりの方ぐらいにすごく悩んだことでもありますし、「この仕事でいいのかな」とか反対に思っちゃいますし。

しかし一方で、自宅待機の生活が長く続く間にこういう感情も芽生えたという。

自分が弾きたくなったという気持ちがあって。今まで常に弾いているから、練習しなきゃではなく、コンサートしなきゃではなく、本当にただ自分のために弾きたいなっていう気持ちは、そこまで今まで味わったことがなかったので。僕でも必要と思っているということは、もっと必要と思ってくれている人がいっぱい外にはいるんだと考え始めました。(中略)文化を必要としているのは社会だと思う。心を失ったら社会は死んでしまうので、その心を生き残らせるために上からのサポートが必要というのは、ひとりひとりが叫ばなきゃだめだと思います。本当は今一番音楽っていうのが必要なものだと僕は思っています。一番生活に必要なくて、一番生活に必要なものだと、僕は信じています。

そして最後に視聴者へのメッセージ。

コロナっていう手ごわい相手に全員で戦っている状況です。みんなが闘っているということは、全世界がひとつになれるチャンスだと。気持ちを、みんなでひとつになれるような状況を作って、コロナを倒したあともっともっとすごい世界になれるように頑張りたいと思います。

精神科医・医学博士である高橋和巳が著書「人は変われる」(ちくま文庫)で書いたように、新型コロナ禍という絶望を経験することで自分を客観視できるようになり、現実をあきらめることで「新しい解釈」が生まれ、古い自分を乗り越えて新しい行動を取り始める姿がここに写し出されている(記事〈新型コロナウィルスという災厄の中から生まれるもの〉を参照されたし)。

日本では「自粛疲れ」が蔓延し、ウィルスに対する不安や恐怖心に押し潰され、世界中のサッカー選手にうつ病が急増したり、パニック/ヒステリー状態に陥った人々も少なくない。なんだか世間全体がピリピリしている。

  • 2月18日、福岡市の地下鉄でマスクを着用せずにせきをしていた乗客がいたことを理由に隣の乗客と口論となり、非常通報ボタンが押され列車が停止した。
  • 2月25日、横浜市のドラッグストア「マツモトキヨシ」に開店前からマスク買うために並んでいた列に割り込みがあり、殴り合いの喧嘩になった(その動画がマスコミで報道された)。
  • 大阪府警に「飲食店でくしゃみをしたことが発端でもめた」などの通報が相次いでいる。(4月26日サンケイスポーツより)
  • 4月28日、ブラジルのスーパーで男性客が店員にマスクをしていないことをとがめられて激高。店員を殴り倒した。止めに入った警備員にも殴り掛かり、警備員が拳銃を発砲、居合わせた女性店員の首に弾が命中し死亡した(この日州法で、公の場でのマスク着用が義務付けられた)。

しかし、悪いことばかりではない。

  • インド北部のパンジャブ州では新型コロナウイルス対策のロックダウン(都市封鎖)で全土の大気汚染が大幅に改善し、200キロ近く離れたヒマラヤ山脈が数十年ぶりに見晴らせるようになった。
  • 国際エネルギー機関(IEA、本部パリ)は4月30日、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、2020年のエネルギー関連の二酸化炭素(CO2)排出量が前年比約8%減少するとの見通しを公表した。米スタンフォード大学のロブ・ジャクソン教授は、この50年間でこれだけの効果を上げた危機は他にはなかったと語った。もしかしたら、地球温暖化の速度が緩むかも知れない。
  • 日本で各種学校の休校が長期化する中、 全国知事会でこの際9月入学に移行するべきだという意見が多く出された。僕は従来どおり、桜が咲く4月入学の方が情緒的には相応しいと考えるが、世界的標準に合わせた9月入学だと海外留学がしやすくなるなどメリットも見過ごせず、新型コロナ禍なくしてこういった議論も有り得なかったわけで、大変有意義なことだと思う。
  • 今回の騒動がきっかけで、オンライン授業やテレワークなどシステム環境の整備が一気に加速した。この経験は業務や学業が通常通り再開された後も、決して無駄にはならないだろう。

5月1日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は当初イスラエルの都市テル・アヴィヴで予定されていたヨーロッパ・コンサートを新型コロナウィルスの蔓延により断念し、急遽会場を本拠地フィルハーモニーに移して無観客で実施、全世界に無料中継された。指揮はキリル・ペトレンコ、樫本大進がコンサートマスターを務めた。僕はリアルタイムで鑑賞。前半はアルヴォ・ペルト「フラストレス」、サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」など弦楽合奏曲で、15人の奏者が間隔を2mくらい取り、十分なSocial Distance(社会的距離)を保って演奏した。真摯な祈りの気持ちがこもった、大変美しく感動的なパフォーマンスだった。プログラム後半、マーラーの交響曲第4番はエルヴィン・シュタインによる室内オーケストラ版。なんと独唱者(クリスティアーネ・カルク)を除いてたった14人!第1/第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが1名ずつ、金管なし、木管がオーボエ、フルート、クラリネット各1名、そしてピアノ2名、ハルモニウム、打楽器という編成。〈音楽の力〉の凄みを、まざまざと見せつけられた!ただただ脱帽である。

コロナ禍の影響で倒産するホテル・飲食業・スポーツジム・ライブハウス・ミニシアター(映画館)は少なからずあるだろう。東京や大阪のオーケストラ、劇団で存続が困難になることろも出てくるだろう。仕方がない、あきらめるしかない。しかし、全部潰れるわけではない。気の毒だけれど、僕はダーウィンの進化論が言うところの「自然選択/自然淘汰」だと思う(ウィルス=自然)。優れたものだけが生き残るのだ。ミニシアターがなくなろうが、動画配信サービスがその代わりを担ってくれるだろう。4つある在阪オーケストラは統合して数を減らせば良い。その方が質も向上する。これが「新しい解釈」だ。

僕たちは今、世界恐慌や第二次世界大戦、あるいは「黒死病」と呼ばれるペスト(エボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱という説もあり)が大流行した中世ヨーロッパに匹敵する大きな困難に直面している。出口はなかなか見えてこない。しかし物事には暗い側面と、明るい側面がある。ピンチはチャンスだ。映画「風の谷のナウシカ」のラストシーンで描かれたように、絶望の中からも必ず希望の芽は生えてくる。僕はこの先、どんな新しい世界が広がっていくのか、とても胸を躍らせている。だから、(世界が生まれ変わる)その日が来るまでおとなしく"Stay Home"を守り、なんとか生き延びようではないか!

| | コメント (0)

2020年4月 8日 (水)

新型コロナウィルスという災厄の中から生まれるもの

新型コロナウィルスが世界中で蔓延し、遂に日本でも緊急事態宣言が発令されるに至った。

僕が小学生だった頃(昭和)、学校(岡山大学教育学部附属小学校)で「戦争を知らない子供たち」(作詞:北山修/作曲:杉田二郎)を歌わされた。こんな歌詞だ。

戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら

如何にも日教組の教員が好みそうな内容だ。

しかし僕は今思う。2020年に僕らは戦争を体験した。現在世界は戦時下にある。

日々犠牲者が増加し、外出も制限され、多くの人が仕事もままならない。ほぼ戦争状態と変わらない。緊急事態宣言≒戒厳令であり、敵は目に見えないウィルスだ。

演奏会が中止になったオーケストラの楽員が「僕たちは不要不急。要らないって、言われているみたいで悲しい」と発言している様子がテレビで報道された。

ようやく気がついたか。音楽とか演劇がなくても人は生きていける。今回のような生命に関わる非常事態を迎え、扱いが二の次になることは当たり前だ。生演奏の代替品として今はCDやSpotify,Amazon Musicなど定額制音楽配信(サブスクリプション)サービスがあるしね。

芸術は心の豊かさをもたらしてくれる。しかしそれには大前提があって、「生活や心に余裕がある時」に限られる。3・11東日本大震災の際、東北の人々を励ますために芸術家たちが訪れたのも直後ではなかった。落語や漫才で人々が朗らかに笑えるようになるにも時間が掛かる。

上記事で「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は常々思っていると書いた。2020年3月以降、20−30歳代の若者たちの無軌道ぶりが目に余る。1月以降に大学から海外渡航を控えるよう注意喚起されていたにもかかわらず卒業旅行としてヨーロッパに行き、新型コロナウィルスを日本に持ち帰り、症状があったのに卒業式や祝賀会に出席してウィルスをばら撒いた県立広島大学や京都産業大学の4年生たち。小池百合子・東京都知事が緊急会見で外出自粛を要請した翌日の3月26日に約40人が都内のダイニングバーで「お疲れ様会」なる懇親会を開催。会は三次会まで続き、最後はカラオケだったという慶応病院の研修医たち(18人が集団感染した)。同じ3月26日にナイトクラブを訪れて感染した岐阜大学の医師3人(30代2人、20代1人)。おかげで岐阜大学附属病院は4月19日まで約30あるすべての診療科の外来診療を休止することになった。

彼らは心の内にある欲望が外部に溢れ出ることを制御出来ない。遊びたくて仕方がないー本能の命ずるまま生きている。自分さえ良ければ満ち足りるのだ。他者のことは一切考えない。そして「自分は絶対大丈夫」という変な自信、万能感を持っている。これが若さの本質であり、愚かしさ、未熟さなのだ。

僕が思うに新型コロナウィルスとの戦いに勝ち抜いた暁に、世界は大きく変わっているのではないだろうか?今回の事態は間違いなく、1929年の世界大恐慌や、1939年に勃発した第二次世界大戦に匹敵する危機的状況である。第二次世界大戦の前後で、特にドイツと日本は劇的な変化を遂げた。それも良い意味において。ピンチはチャンスだと考えたい。

精神科医・医学博士である高橋和巳はその著書「人は変われる」(ちくま文庫)の中で、心には三つの能力がある、と記している。

第一の能力は、自分から離れることができる(自分を客観視できる)能力。第二の能力は、絶望することができる能力。そして第三は、純粋性を感じることのできる能力。現在の解釈を越えてより深い「新しい解釈」を生み出すことで、人は古い自分を乗り越えていく。

人が絶望的状況に直面した時、対処するためのキーワードは「どうしようもない」と「あきらめました」。この言葉を呟くことで頭の中に配置の転換が起こる。現実をあきらめることで、自分に対する自信を取り戻す。そして新しい行動を取り始めるのだ。

文庫本の解説を書いた女優・中江有里は「あきらめました」を、大きな嵐をやり過ごすための魔法の言葉だ、と述べている。

第三の純粋性を感じる能力とは、思い込みや過去の自分の常識に縛られないで、新しい心の動きを感じることができることを指す。

多くの人々は現在、新型コロナウィルスに対して絶望的な気持ちを抱えている。しかしこの苦境を乗り越えることできっと「新しい解釈」「新しい自分」を見出すだろう。僕らはまだまだやれる。決してへこたれない。

北米では殆どの映画館が閉鎖になっている。そして再開されても以前のように観客は戻ってこないと予想されている。「映画は映画館で観るもの」という固定概念・過去の常識がここで一気に雲散霧消する。日本でもライブハウス同様、多くのミニシアターが閉館に追い込まれるだろう。仕方がない、あきらめた。動画配信時代の到来である。

また、新日本フィルハーモニー交響楽団が新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から演奏会の中止・延期を余儀なくされており、楽団存続の危機に立たされている(緊急支援のお願いページへ)。大阪府にある4つのオーケストラ(大阪フィル、関西フィル、大阪交響楽団、日本センチュリー交響楽団)も似たような状況だろう。どこかが経営難で解散に追い込まれても不思議じゃない。仕方がない、あきらめた。そもそも下手くそなオケが大阪に4つもあるなんて無駄、不経済なのである。1つや2つなくなったって文化の火は消えないし、今こそ発想の転換を図るべき時なのだ。新型コロナウィルスで野田秀樹氏が言うような「演劇の死」は訪れないし、クラシック音楽だって死なない。どっこい生きている。

お荷物になっている在阪オケをどうするかという問題については随分昔から俎上に載せられてきた。2006年に関西経済連合会の秋山喜久会長(当時)が「大阪に4つもあるのはどうか」と語ったことに端を発する。

さらに橋下徹氏が大阪府知事・大阪市長を努めた時代に、大阪センチュリー交響楽団に対して大阪フィルと統合するよう促したが、両楽団が突っぱねて見送られたという経緯がある。そうして大阪センチュリーは日本センチュリー交響楽団に改名した。

しかし悪あがきはもうおしまいだ。 火急の事態が逼迫しており、即座の対応が求められる。あなた達は「不要不急」の存在なのだから、経営の合理化を目指して前向きに統合についての話し合いを進めてもらいたい。今こそ生まれ変われ!

| | コメント (0)

2020年3月23日 (月)

新型コロナウィルスとの戦い〜イタリアの医療崩壊と学徒動員、ブロードウェイ閉鎖

2020年3月6日、フランスのマクロン大統領はテレビ演説し、「我々は(ウイルスとの)戦争状態にある」と何度も強調した。

3月16日、ドイツのメルケル首相は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて国民向けにテレビ演説し、「第二次世界大戦以来、最大の試練に直面している」との認識を示した。彼女がテレビ演説を行うのは極めて異例である。

イタリアのコンテ首相は3月21日、テレビ演説で現状を「この国にとって戦後で最も厳しい危機だ」と表明した。そして翌22日、死者数が5476人に達し(感染者は5万9千人)、既に中国の死者数を上回った。イタリアでは人工呼吸器の数が足りず、医師・看護師ら医療スタッフは不眠不休の労働で疲弊し、医療崩壊が起こっている。同国政府は卒業試験を控える医学生約1万人に対し、試験を免除して、即戦力として通常より8~9か月早く医療現場に投入することを決めた。

これって、正に日本における第二次世界大戦末期の学徒動員・学徒出陣(1943- )と同じ状況ではないか!幕末の戊辰戦争で例えるなら会津藩・白虎隊の悲劇。ドイツで言えばやはり1943年以降に実施されたヒトラーユーゲント(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)の出兵に相当するだろう。つまり今、世界は戦時下にある。

アメリカではブロードウェイの劇場や映画館、レストランが閉鎖。ニューヨーク州は外出禁止令を出した。アメリカの場合、第一次・第二次世界大戦でも戦場にならなかった(日本軍が到達出来たのはハワイの真珠湾まで)。つまり本土空襲がなかったわけで、劇場やハリウッドのスタジオが閉鎖されるなんて前代未聞である。そういう意味でこれだけの危機的状況は南北戦争(1861-65)以来と言えるのではないだろうか?

日本では2月末にいち早く、安倍総理の大規模イベント中止要請(Request)に対して、演劇・ミュージカルを上演する劇場やコンサート・ホールが自主的に公演を中止した。あくまでリクエストだから強制力はないのに、日本国民は相変わらず御上(おかみ)に対して羊のように従順だなぁと思った。そもそも〈大規模イベント〉の定義が曖昧である。〈忖度した〉とも言えるし、我が国特有の〈同調圧力〉に屈したとも言える。〈出る杭は打たれる〉のである(どこよりもいち早く劇場公演を再開した宝塚歌劇団は徹底的にSNS等で叩かれ、またたく間に再休演に追い込まれた)。そのくせ一ヶ月も立たないうちに音を上げ、政府に対しやれ損害を保証しろだの、「演劇の死」だの、騒がしいことこの上ない。どうも「戦争状態にある」という認識が彼らには欠けているのではないだろうか?

対してブロードウェイの劇場は3月12日にニューヨーク市長が非常事態を宣言するまで、公演を一切止めなかった。〈要請〉と〈強制〉には大きな隔たりがある。さすがアメリカの演劇人は気骨があるなぁと改めて感心した。これぞ"The Show Must Go On"の精神だろう。一度始めてしまったら、何があっても中止出来ないという意味である。野田秀樹さんには是非とも彼らの爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。覚悟が違う。

欧米諸国の演劇のルーツをたどると、古代ギリシャ演劇に行き着く。「オイディプス王」なんか、紀元前427年頃の作品である。エピダヴロスの古代劇場は紀元前4世紀に設計された。なんと今から2400年前に常設劇場があったのである。日本の場合、推古天皇のときに朝鮮半島や中国大陸から伝わったとされる伎楽(ぎがく)はパレード+滑稽味を帯びた無言劇で、奈良時代に伝わった散楽(さんがく)は軽業・曲芸・奇術・踊りなど大衆芸能だった。ちゃんとした舞台で演じられる演劇としては室町時代に成立した猿楽(能)まで待たなければならない。観阿弥・世阿弥親子が登場するのが14世紀だからせいぜい600年程度の歴史である。その差を今回の新型コロナウィルス騒動で見せつけられた気が僕にはした。「演劇の死」なんかじゃない、「日本演劇の敗北」である。

新型コロナウィルスは我々に様々な目を開かせてくれる。

立憲民主党の蓮舫は安倍総理が中国と韓国からの入国制限に踏み切ったことに対して国会で「エビデンスはあるのか?」と食い下がった。

ノーベル生理学・医学賞を受賞した京大の山中伸弥教授はYOSHIKIとの対談で次のように述べている。「今よく言われるのは『エビデンスはあるんですか?』『科学的エビデンスに基づいた対策ですか?』という議論もあると思うんですね、でもこれはエビデンスを待っていたらいつまでも対策は出来ません。人類が初めて経験してるんですから、エビデンスなんかどこにもないんです。じゃあ、その間何もしなかったら手遅れになってしまいます」

ここから学ぶべき教訓。意味も分からずに「エビデンス」を連呼する人間を絶対に信じるな!

| | コメント (0)

2020年3月20日 (金)

新型コロナウィルスが僕たちに教えてくれること

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は常々思っている。例えば災害時。大地震が起こると発展途上国では暴動に発展し、商店への略奪がしばしば起こる。貧富の格差、貧しい者の富める者に対するルサンチマン(嫉妬・怨嗟)が一気に吹き上がる。その点日本人は阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も救援物資が配給されるのを割り込みもせず列を作って辛抱強く待ち、その姿が世界から称賛された。僕たちは非常時でも品格を失わなかった。

新型コロナウィルスの騒動で、世界は総鎖国状態になっている。ヨーロッパ諸国もこの緊急事態にナショナリズムを剥き出しにし、国境を閉ざした。EUと称するグローバリズム(緩やかな社会主義)の正体・欺瞞が白日の下に晒された。イタリアが医療崩壊しても近隣諸国は自国のことでいっぱいいっぱいで、知らんふりだ。結局、「世界は一家、人類はみな兄弟」じゃなかった。なんと中国から医師300人で構成される専門家チームがイタリアに派遣された。皮肉なことにイギリスのEU離脱は正しかったことが、こんな形で証明された。

アメリカやヨーロッパで、アジア人差別が横行している。彼らは「私は人種差別なんかしていない」という仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨て、本来の顔を覗かせた。

日本では音楽家や演劇関係者の頭の中がお花畑であることがはっきりと分かった。

野田秀樹氏の、このまま劇場を閉ざしていたらそれは「演劇の死」を意味するという発言には心底驚かされた。いやいや野田さん、まだ1ヶ月そこらでしょう。1945年の東京大空襲で首都が焼け野原になっても、広島・長崎に原爆が投下されても演劇は死ななかったんですよ。そんなやわなものじゃないでしょう?泣き言言いなさんな、みっともない。貴方はもっと骨のある人だと思っていました。失望しました。

3・11東日本大震災のとき、当時政権与党だった民主党が如何に経験不足で頼りない党かということが露見し、全国民は呆れ返った。その後に行われた総選挙で惨敗、結局民主党という組織そのものが消滅した。3・11がなければ、民主党はもう暫く存続出来たのではないだろうか?亡国の危機を迎えることによってその化けの皮が剥がれたのである。

今回のコロナウィルスによる危機を迎えても、韓国は日本に対する攻撃を緩めない。恨(ハン)は決して変わらない。

また、朝日新聞の鮫島浩氏が次のようにツィートしている。

日本政府による〈陰謀論〉だ。

日本が韓国やイタリアに比べて、検査件数が少ないことは事実だ。しかしそれは対外的に日本の安全性をアピールしたいという〈隠蔽工作〉なんかじゃない。軽症者が病院を占拠して重症者が入院できないといった、医療崩壊を防ぐことに狙いがある。鮫島氏はイタリアみたいに日本も医療崩壊すれば良いと考えているのだろうか?まぁこの人は憎き安倍政権を打倒出来さえすれば、国が滅んでも気にしないのだろう。安倍総理をこき下ろすことだけが目的化している。

どの程度の症状で検査するかによって感染者数は変化する。それを国別に比較することに意味はない。しかし死亡者数は誤魔化せない。重症で人工呼吸機に繋いでいる患者にウィルスのPCR検査をしないなんていうことはあり得ないからである(日本では死亡後に感染が判明した症例もある)。

〈陰謀論者〉たちは保健所が検査させないように策略をめぐらせていると主張するが、日本では2020年3月6日から新型コロナウィルス検査が保険適応となった。つまり保健所を介さず、医師の判断で検査出来るようになったのである。

3月19日現在、日本国内の死亡者は29人。韓国は91人。中国以外で多い順にイタリア2978人、イラン1135人、スペイン598人、フランス264人となっている。「日本は何とか持ちこたえている」というのは紛れもない事実だ。更に言えば日本の人口は約1億2600万人である。韓国が約5100万人でイタリアが6048万人。死亡率(人口10万対比死亡数)を計算すると、さらに格差は広がる。ここで〈陰謀論者〉たちは死亡者数を検査した人の数で割って「日本の死亡率は高い」と主張するのだが、これはインチキである。このやり方だと、症状の全くない人まで沢山検査した国のほうが見かけ上率が減ってしまう。ナンセンスだ。どうして彼らはここまでして、日本を貶めたいのだろう?実に情けない。

さらに朝日新聞の小滝ちひろ編集委員・ソーシャルメディア記者はツイッターに次のような投稿をした。

「(略)戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」

ここでも世界を覆う災厄よりも、憎っくきトランプ大統領が右往左往している姿を見る方が嬉しいという本性が剥き出しになっている。時の権力者へ自らの憎悪をぶつけることが目的化し、他のことが全く見えなくなっているのだ。なんと愚かなことだろう。

 

| | コメント (0)

2020年2月28日 (金)

新型コロナウィルスと”浮草稼業“

新型コロナウィルス感染症の影響で、どんどんコンサートや各種イベントが中止に追い込まれている。2020年2月26日(水)、Perfumeが予定していた東京ドーム公演の2日目が中止された。開演5時間前の決定だった。新聞記事によると東京ドームのキャンセル料は実損2億円だという。

僕は2月29日(土)に兵庫県立芸術文化センターでフィンランドの俊英サントゥ=マティアス・ロウヴァリが指揮するエーテボリ交響楽団を聴く予定だったが、26日夕方に公演中止がアナウンスされた。なんとオーケストラの楽員は既に、遥々スウェーデンから日本に到着していた。一度も演奏することなく帰国することになった彼らがとても気の毒だ。

また37()8()にびわ湖ホールで上演される予定だったワーグナーのオペラ「神々の黄昏」も中止が決定された。「ニーベルングの指環」4部作を4年間かけて上演する大プロジェクトの最後を飾る筈の作品だった。チケットは既に購入しており、無念で仕方ない。

びわ湖ホールは赤字経営で滋賀県は毎年、11億円という助成金を出している。「神々の黄昏」の制作費は1億6千万円。その収益が0になった。果たして今後も存続出来るのだろうか!?

東京・帝国劇場や大阪・梅田芸術劇場、宝塚大劇場、劇団四季の全国の劇場もこの先2週間前後の公演中止を決定した。

さて、ミュージカル「レ・ミゼラブル」でジャン・バルジャンを演じたこともある某役者が、新型コロナ騒動に関して「文化、芸術だって経済を動かしている。劇場公演を中止するのなら、電車も止めろ」とツィートしている。また映画「蜜蜂と遠雷」でサウンド・トラック制作にも参加した某ピアニストは、「政府の要請を受け音楽業界は大騒ぎ、中止や公演延期が次々発表されていく。その一方、都内のラッシュ時に電車は相変わらず満員で、駅は大混雑。ウィルス拡散防止のバランスはこれでいいの?」という旨をSNSで呟いている。

呆れてしまった。そしてその直後からこみ上げてくる笑い。彼らは自分たちの職業が、”浮草稼業”であるという自覚がないのだろうか?

物事には優先順位がある。生命の危機に晒された緊急事態にまずカットされるのは音楽や芸能活動、娯楽、つまり全てひっくるめてAmusement & Entertainmentであることは仕方がないことだ。人が生きていく上で音楽や芝居がなくても差し障りはない(この際、”心の豊かさ”は二の次。そんな余裕はない)。

しかし首都圏の電車を止めたらどうなる?(職員の通勤に支障をきたし)霞が関や病院が機能しなくなっても構わないのか?電気やガスが止まって良いとでも?食料の流通もままならなくなる。ライフラインと芸能活動を等価で語るのは非常識だろう。

そもそも安倍総理は大規模なイベントの中止・延期を「要望(リクエスト)」しているのであって、これは行政命令ではない。主催者が総理の意向を忖度(そんたく)しているに過ぎない。あるいは日本人の特徴である同調圧力と言い換えることも出来る。強制力はないのだから「右にならえ」せず、したい者は信念を持って公演を続行すればいい。

上方落語界で唯一の人間国宝だった故・桂米朝は弟子入りした折、師匠の米團治から次のように言われたという。

「芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良いの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」

音楽家にしろ役者にしろ「米一粒、釘一本もよう作らん」身の上であり、「ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない」のも全く同じだろう。そういう”浮草稼業”でありながら、噺家と違って彼らに欠けているのは末路哀れという「覚悟」なのではないか?浮世離れしているというか、頭の中がお花畑なのだ。

こうした常識外れな音楽家たちの生態を見事に描き出したのが漫画「のだめカンタービレ」である。登場人物たちは全員、社会性が欠如した奇人・変人ばかり。でも芸術家って、きっとそれでいいのだ。世間は彼らの突出した才能だけすくい取って、消費する。そういう社会システムになっている。

| | コメント (0)

2020年1月18日 (土)

格差社会は悪なのか?

カンヌ国際映画祭で連続してパルム・ドール(最高賞)を受賞した「万引き家族」(日本)と「パラサイト 半地下の家族」(韓国)、そして「バーニング 劇場版」(韓国)、「アス Us」(アメリカ)、「ジョーカー」(アメリカ)が同時多発的に格差社会を描いているということで話題になっている。

左翼ジャーナリズムや、自らを「市民」と名乗り、デモ行進を実行するプロ市民/活動家たち(現在では「リベラル」という便利な言葉/隠れ蓑がある)はトランプ大統領(共和党)や安倍総理が大嫌いなので、彼らのせいで「格差が広がっている」と煽る(民主党・オバマ大統領政権の頃は好意的だった)。

しかし格差って、そんなに悪いことなのだろうか?

例えば朝日新聞社の言論サイト「論座」に掲載された、〈努力についての不都合な真実〉をお読み頂きたい。自分の給与が勤続12年でたった14万円だと嘆き、〈日本終わってますよね?〉とツイートした人に対して、事業家の堀江貴文氏が〈日本がおわってんじゃなくて「お前」がおわってんだよ 〉とリプライしたことについて次のように論じている(以下引用)。

 経済的成功者に、貧困問題を語らせると、たいていこういう結末になる。彼らが異口同音に言うのは「努力せよ。さすれば、貧困は解決せん」というシンプルなご託宣だ。(中略)
 だが、こういうロジックは、根本的に間違っていると思う。まず、努力すれば、たしかに、当該の人の給料が上がるかもしれない。競争力が増し、他人に勝って、よりよい地位を得て給料も増すからだ。しかし、その人が競争に勝つということは、逆に言えば、あらたに「競争に負ける」人も生み出すことでもある。

まことにもって奇妙な理屈である。勝者が生まれれば、同時に敗者も生まれる。当たり前のことだ。自由競争の基本であろう。例えば短距離走を考えてみよう。「競争に負ける」人を生み出してはいけないのだったら、この著者はどうすればいいというのだろう?みんなで仲良く並んで同時にゴールする?笑止千万である。この理論に従えば、東京オリンピック開催も止めたほうが良いということになる。プロ野球や高校野球、Jリーグも禁止ね。学校のテストで100点とったら「競争に負ける」人も出る。どうする?全員が同点だと意味ないし、いっそのことテストも入試も廃止か。じゃあ選別の方法は?

どうもこの人が言いたいのは、社会全体で経済発展して、みんなで生活水準を上げ、Win-Win(私も勝って、あなたも勝つ)関係になりましょうということのようだ。じゃあ仮に日本全体が底上げされたと仮定しよう。しかしその場合、必然的に「競争に負ける」国を生み出すだろう。果たして地球全体がWin-Winになる経済なんてあり得るの?

フランス革命前のフランスや、江戸時代の日本も格差社会だった。フランスの平民が貴族になることは出来なかったし、高等教育も受けられなかった。長屋に住む熊さん・八っつぁん(上方落語では喜六・清八)が武士になることも出来なかった。まして大坂の豪商・鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)との経済格差は桁外れである。

経済格差があることは今も変わらない。しかしその頃と、21世紀の現代では厳然たる違いがある。それは〈自由〉と〈平等〉があることである。自分の意見を言うことも〈自由〉だし、職業を選ぶことも〈自由〉。たとえ貧乏な家庭に生まれても本人に才能や才覚があり、一生懸命勉強すれば一流大学に入学し、一流企業に就職することが出来る。奨学金制度だってある。学歴がなくても起業が成功し、大金持ちになるIT企業社長もいる。つまり機会(チャンス)は〈平等〉に与えられている。それを生かすも殺すも本人の努力と実力次第だ。

しかし左翼ジャーナリズム(自称リベラル)は今の日本やアメリカは〈平等〉じゃないと言う。貧富の差があるからだと。つまり彼らが主張する〈平等〉は意味が違う。意図的に履き違えている。経済的に、みな〈平等〉で格差のない社会〜それは共産主義国家の実現を意味する。つまりマルクス主義への回帰を未だに彼らは夢見ているのだ。

20世紀は社会主義国家建設という〈実験〉が世界的に幾つか行われ、ことごとく失敗した。ソビエト連邦や中国の文化大革命は理想的な世界、ユートピアを果たして生み出したか?労働党が政権を握った時代、イギリス国民は幸せになれたか?北朝鮮は地上の楽園か?答えは明白であろう。

マルクス主義が愚かで、致命的に間違えているのは〈人間の欲望〉を無視していることである。「他人より儲けて、いい暮らしがしたい」「社会的に高い地位に就いて、人々から尊敬されたい」という、格差を生み出そうとする欲望〉が社会を活性化し、経済を動かす。〈欲望〉という言葉が嫌だったら〈意欲〉や〈向上心〉でもいい。勉強して良い大学に行かなくても、仕事をサボるばっかりしても同じ給料がもらえるのならば、誰も勉強しないし働かない。そういう社会は衰退し、いずれ滅ぶだろう。格差のない社会は人をダメにする。努力が報われない世界を〈平等〉とは言えない。

現代日本には〈自由〉と〈平等〉がある。それに加え江戸時代と比較すると、社会福祉社会保障制度システム)が進化した。経済格差はあるが最低限の生活が保証されているということである。敗者(loser)でも生きていける。

1756年の飢饉では岩手と宮城の両県で合計約5万人の死者を出している。1784年東北地方を中心に発生した天明の大飢饉では津軽藩だけで10万人以上の餓死者を出した。人口動態統計によると1950年(昭和25年)の餓死者数は9,119人。 これが2017年「食糧の不足」による死亡者数は22人である。この中には一人暮らしの老人も含まれるわけで、生活保護制度のある現在は貧困による死者は事実上いないと言っていいだろう。

読者にいま一度問う。格差社会ですか?

追伸:ポン・ジュノ監督の大傑作「パラサイト 半地下の家族」のレビューは近々掲載予定です。

| | コメント (0)

2019年9月27日 (金)

〈知識〉と〈教養〉の間(はざま)で

当ブログを10年以上書いていると、「知識量がすごいですね」と言われることが時折ある。

多分、そう声を掛けてくださる方に他意はないのだろうが、どうも素直に受け取れない自分がいる。何かしら〈含むところがある〉ように感じてしまうのだ。「単に知識をひけらかしているだけでしょ?」とか、「衒学的な人ですね」と暗に非難されているような。「博識ですね」とか「教養がありますね」なら手放しで嬉しいのだが……。考え過ぎだということは分かっている。面倒くさい奴でごめんなさい。

僕の認識として〈知識〉があるとはクイズ王決定戦で優勝するとか、教科書や辞書を丸暗記するとか、そういった類のことである。つまり記憶力の問題ね。

一方、〈教養〉を辞書(三省堂 大辞林 第三版)で調べると次のようにある。

  1. 社会人として必要な広い文化的な知識。また、それによって養われた品位。
  2. 単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために、学び養われる学問や芸術など。

だから映画やミュージカルが大好きでたくさん観て、音楽をたくさん聴いて、本を読んで、その過程で自然に身についた知識なら、〈教養〉と呼ばれてしかるべきではないだろうか?

マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」に次のようなエピソードがある。

日曜学校で聖書を二節暗唱すると、青い札を一枚貰える。青い札が十枚貯まると、赤い札に交換してもらえる。赤い札十枚が黄色い札一枚。黄色い札十枚と引換えに、日曜学校の先生がごく質素な装幀の聖書をくれる。つまり聖書の文句を二千節覚える必要がある。トムはリコリス菓子とかビー玉、ちょっとした小物などで他の子供達を買収し、交換した札を集めてまんまとその栄誉を手に入れる。そしてその場にいた判事から次のように褒められる。

「実に大したものだよ。それだけ頑張って覚えたことを、君は今後も絶対に後悔しないだろうよ。知識はこの世で何より価値あるものだ。知識があってこそ偉人も善人も生まれる。トマス、君もいつの日か偉人にして善人となることだろう。そのとき、昔をふり返って、みんなあの日曜学校のおかげだ、と思うことだろう。先生がたが教えてくださったおかげだ、校長先生が励ましてくださり見守ってくださり美しい聖書をくださったおかげだ、(中略)そう思うことだろう。きっと思うとも、トマスーそして君は、この二千節はどんな金より大事と思うだろうーそうとも、絶対に」

    マーク・トウェイン(柴田元幸 訳)「トム・ソーヤーの冒険」新潮社

丸暗記した〈知識〉なるものの胡散臭さ、馬鹿馬鹿しさを見事に暴き出した文章である。意地悪だけど、ユーモアがある。

知識(knowledge)〉と〈教養(culture)〉は違う。「教養がありますね」と言われるような、そういうものに わたしはなりたい。そのために今後も切磋琢磨して、雨ニモマケズ〈エンターテイメント日誌〉を書いてゆく所存である。

| | コメント (0)

2019年8月29日 (木)

ミュージカル映画「ロケットマン」とハグ問題について。

評価:A  公式サイトはこちら

Rocketman2

映画「ボヘミアン・ラプソディ」のレビューで僕は次のように書いた。

主演のラミ・マレックと衝突していたブライアン・シンガー監督が感謝祭の休暇後に現場に戻らなかったことで、撮影終了2週間前にシンガーは解雇された。後任のデクスター・フレッチャーが監督を引き継ぐまでの間、撮影監督ニュートン・トーマス・サイジェルが監督代行を務めたという。(中略)しかし出来上がった作品はそんな混迷を微塵も感じさせない、極めて高い完成度に到達しており、心底驚いた。奇跡と言ってもいい。

エルトン・ジョンの半生を描く「ロケットマン」を観て、漸く「ボヘミアン・ラプソディ」が傑作に仕上がった理由が了解出来た。あとを継いだデクスター・フレッチャーが極めて優秀だったのである。

「ボヘミアン」でクイーンの曲が流れるのは主にコンサートとレコーディング・シーンである。しかしフレッチャーは「ロケットマン」でやり方をごろっと変えた。エルトン・ジョンだけではなく彼を取り巻く人々も歌い、踊る。本格的ミュージカル映画仕立てとなっている。エルトンは(その内面はともかく、見かけ上)ド派手な人なので、イリュージョンに満ちた演出法がピタッとはまった。タロン・エガートンの歌唱もパーフェクト!

上記事で映画のクライマックスで歌われる「黄昏のレンガ道」(Goodbye Yellow Brick Road,1973) について極めて重要なことを書いた。併せてお読み頂きたい。

劇中、繰り返し少年期のエルトンが登場する。「ハグして」と父親に求めてもそれに応えてくれなかったという悲しみが、癒やされることのない心の傷としてずっと尾を引く。本作を観ながら真っ先に想い出したのがエリア・カザン監督ジェームズ・ディーン主演「エデンの東」(原作者はノーベル文学賞を受賞したジョン・スタインベック)である。主人公キャルは「父に愛されていないのではないか」と苦悩する。一方、兄アロンは父から期待され祝福されており、アロンに対するキャルの嫉妬心が物語を転がす原動力となる。これは旧約聖書の「創世記」に書かれたカインとアベルという兄弟の確執がベースになっている。神ヤハウェに愛されたアベルを恨んだカインは弟を殺してしまう。人類最初の殺人である。ヤハウェはカインをエデンの東に追放する。

あと映画「フィールド・オブ・ドリームス」と、山田太一原作・大林宣彦監督の「異人たちとの夏」を観て、父親というものは息子と絶対にキャッチボールをしておくべきだということを学んだ。確かあれは「パンダコパンダ」DVDの特典映像だったと記憶しているが、宮崎駿の息子・吾朗がインタビューに答えて、少年時代に父の仕事が忙しくて彼が起きている間に帰宅することが全くなく、「キャッチボールも一度もしてもらえなかった」と恨みつらみを滔々と並び立てていたのがとても可笑しかった。いやいや吾朗くん、父親があの偉大な宮崎駿じゃなかったら、君がアニメーション映画を監督するチャンスを与えられるなんて一生なかったろうよ。感謝なさい。

というわけで全国のお父さんたち。息子が幼いうちにしっかりハグして、キャッチボールをしてあげておこう。そうじゃないと30年経っても恨まれ続けるハメになるから。

| | コメント (0)

2019年8月 9日 (金)

「あいちトリエンナーレ」の騒動と〈表現の自由〉について。

愛知芸術文化センターで開催されている「あいちトリエンナーレ」の企画展『表現の不自由展・その後』が物議を醸し、3日間で中止に追い込まれた。特に問題になった展示物は以下の通り。

  • 韓国の、いわゆる「従軍慰安婦像」
  • 「焼かれるべき絵 / 焼いたもの」と題された昭和天皇の写真
  • 時代ときの肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」

― idiot JAPONICA ―とは「間抜けな日本人」という意味であり、墓の上には特攻隊の青年たちが寄せ書きした日の丸の旗が置かれている。

特攻隊員を美化/英雄視するつもりは毛頭ない。しかし、気の毒な戦争の犠牲者であることは確かだ。そんな彼らを「間抜けな」と侮辱する行為は決して許せないし、その展示を認めた輩を僕は人として軽蔑する。

「あいちトリエンナーレ 2019」の芸術監督を務める津田大介(早稲田大学教授)の父親は日本社会党(現:社民党)の副委員長・高沢寅男の議員秘書を務め、大介は中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったとしんぶん赤旗で述べている(出典はこちら)。バリバリの左翼である。どうしてこの人が芸術監督に選ばれた?Twitterで弁明した企画アドバイザーを務める東浩紀(批評家、哲学者)も実に情けない。

昭和天皇の写真を焼く「作品」も対象が天皇だから「不敬」だと言うつもりはない。例えばアドルフ・ヒトラーの写真であろうが、焼いて踏みにじる行為は「不快」だし、それを芸術作品だと僕は決して認めない。単なる「ヘイト」である。ナチス・ドイツの犯罪を憎むのなら、まずはヒトラーの著書「わが闘争」を読み、彼のスピーチを詳細に検討する必要があるだろう。敵を知らなければ彼の主張する理屈を論破出来ないし、当時の民衆がどうしてカリスマに熱狂し、間違った方向に進んだのかを分析出来る筈がない。写真や肖像画を焼く行為は何も問題を解決しない。それこそ間抜けな人間のすることだ。

そもそも中国や韓国のことを悪く言うと、朝日新聞、東京新聞など左翼ジャーナリズム日本ペンクラブは直ちに「ヘイト・スピーチ」と断罪し、「ヘイト・スピーチを許すな!」と声高に騒ぎ立てる癖に、特攻隊や天皇制、トランプ大統領への「ヘイト」に対しては、ころっと言うことが変わり「表現の自由を守れ!」と擁護するのはどういう了見か?完全に矛盾しており、ご都合主義にも程がある。天皇制がそんなに憎いのならば堂々と紙面でそう主張し、憲法を改正すればいいだろう。しかし摩訶不思議なことに朝日新聞、東京新聞日本ペンクラブは強硬に日本国憲法改正に反対している。矛盾だ。

また、いわゆる「慰安婦像」はそもそも芸術と言えるのか、それともプロパガンダ(政治的主張)に過ぎないのか?まずそこから議論を始める必要がある。つまり芸術文化センターに飾る価値基準を満たしているのだろうか?果たして韓国以外で100年後にも美術館で鑑賞する人はいるか?時の洗礼を受けて生き残れる筈もなかろう。

ドラクロアの絵画「民衆を導く女神」が素晴らしいのはその政治的主張ではなく、1830年に起きたフランス7月革命を主題としていることを鑑賞者が知らなくても胸を打つ作品だからである。

Democracy

そもそもいわゆる「従軍慰安婦」が、強制的に日本軍に連行されたという証拠すら一切見つかっていない。この件に関して朝日新聞社は根拠のない自社記事の過ちを認め、謝罪したではないか。それなのにどうして〈表現の自由〉を振りかざし「あいちトリエンナーレ」を擁護する?謝罪は口先だけってこと?事実とは異なる政治的主張(反日感情)を日本の公的施設で表明させる必要はない。

「あいちトリエンナーレ」は愛知県が7億8,600万円、名古屋市が2億1,000万円を負担し、文化庁から受ける予定の交付金は約8,000万円。つまり税金が10億円も投入されていることを忘れてはならない。

表現の自由〉はある。しかし節度と礼節をわきまえた上でというのは最低限の条件だろう。品位のあるレストランで騒げば追い出されるのは当たり前。そういう場において、〈表現の自由〉は伝家の宝刀になり得ない。つまり時と場合による。

それでも朝日新聞社日本ペンクラブがあくまで〈表現の自由〉を求めるのなら、自分たちで出資し、持ち前の施設で展覧会を開催すれば誰も文句は言わないだろう。名古屋市長や日本政府から干渉される心配もない。ご自由にどうぞ。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧