日記・コラム・つぶやき

2017年5月12日 (金)

ブロク開設10周年!

「エンターテイメント日誌」を開設したのは2007年5月12日(記念すべき最初の投稿がこちら)。つまり今日が丁度、10歳の誕生日である。思えば遠くへ来たもんだ。2,200を超える膨大な数の記事を書いた。

インターネット、SNSの流行り廃りは目まぐるしく、当ブログ開設当初は眞鍋かをりが「ブログの女王」として巷で持て囃されていた。2006年には同名のバラエティ番組がテレビ東京で放送されたりもした。

その後2004年にサービスを開始したコミュニティ・サイト、mixiが一世を風靡したが、今ではすっかり衰退してしまった。ここ数年、mixiの名を聞いたことがない。

mixiに代わって台頭してきたのがアメリカからやって来たFacebookである。その創設者マーク・ザッカーバークを描く映画「ソーシャル・ネットワーク」が北米で公開されたのが2010年秋で、日本で普及し始めたのがその後くらい。僕は本名で登録しないといけないのが気に入らなくて、全く食指が動かなかった。mixiから乗り換えた人が多かったが、現在はそのFacebookも下火と言えるだろう。

またスマートフォンの劇的普及で人気となったのがTwitterである。Twitter社の経営不振が報じられているが、橋下徹・トランプ大統領など有名人の利用率は今でも高く、勢いは衰えていない。昨年ピコ太郎が世界的に大ブレイクしたのもジャスティン・ビーバーのツィートが切っ掛けだった。

さらにGoogle+(ぐぐたす、2011年6月にサービス開始)やInstagramLINEなるものも登場し、最早混沌として何がなんだかわけの分からない状況だ。

僕がブログを始めた頃には、関西におけるクラシック音楽のConcertgoerや上方落語ファン、また映画のレビューアーで、ライバルと目するブロガーが沢山いた。しかし一人、また一人と消えて行き、そして誰もいなくなった。短文で済み簡単なので、ブログを閉鎖しTwitterでお茶を濁している者たちも多い。水は低きに流れ、人は易きに流れる。僕は何とか踏みとどまった。継続は力なり。更新を続けることは面倒だし、相当なエネルギーを要する。しかしその分、充実感・達成感も大きい。何だかんだ言ってもブログは便利な媒体なので、少数精鋭でこれからも生き残っていくだろう。

2016年7月22日に、こんな総括を上梓した。

その後に書いたもので、自信のある記事を最後に挙げておこう。是非お読みください。

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2016年12月28日 (水)

2016年を振り返って

2016年を回顧して、僕が今年を1文字の漢字で表すなら「」以外にないなと想う。

これは「将来の夢」とか、キング牧師の有名な演説"I have a dream"の夢(=希望・願望)ではなく、文字通り夜見るのことである。

何と言っても臨床心理学(ユング派)の権威・河合隼雄と、新海誠監督「君の名は。」の出会いが大きかった。この両者を結びつけるのがであり、言い換えるなら無意識潜在意識/深層心理ということになるだろう。

そもそも河合隼雄の名を知った切っ掛けが今年7月、佐渡裕プロデュースで兵庫県立芸術文化センターで上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の」の予習として読んだ対談本「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)だった。詳しくは下記事に書いた。

漸く人生の師MasterMentorに出会った!という確かな手応え。それから河合の著書を貪るように読んだ。年末までに27冊。過去にこれだけ集中して読んだのは、ちょっと記憶にない。

河合と「君の名は。」の”結び”はだけではない。新海誠監督は第2弾パンフレットの中で僕の質問に答え、村上春樹の短編小説「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」が「君の名は。」の発想の原点となったことを認めており、奥寺先輩の台詞には村上の「ノルウェイの森」からの引用がある。そして河合は数回に渡り村上と対談をしているのである(「こころの声を聴くー河合隼雄対話集」「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」いずれも新潮文庫)。

また河合はイザナギ・イザナミが登場する日本神話(古事記)や平安時代の「とりかへばや物語」について本を書いており、これらは「君の名は。」の土台となっている。

僕が同時期に河合隼雄と「君の名は。」にめぐり逢ったのも、正にユングが言うところのシンクロニシティ意味のある偶然の一致)なのであろう。

つい先日「君の名は。」について川村元気プロデューサーが集合的無意識の話をしている→こちら集合的無意識とはユング心理学の用語である。みんな繋がっている。僕も映画公開直後、9月の時点で集合的無意識という観点から「君の名は。」を論じた。

夢はその人の潜在意識の現れである。意識(その中心に自我+潜在意識=自己(self)。僕は今年から「夢日記」を書き始めた。2016年は人生の大きな転機となった。

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2016年10月21日 (金)

日本人は何故【泣ける映画】を求めるのか?〜「君の名は。」を糸口として

現時点で興行収入が150億円を超えた「君の名は。」は学校やSNSでの評判の拡散が今年度ぶっちぎりの大ヒットとなった要因と分析されているが、キーワードは「泣ける」だった。

例えばこんな記事がある→2016年最も泣けるアニメ映画『君の名は。』大ヒットの要因とは…

因みに僕自身は「君の名は。」を4回観に行ったが、泣いたことは1度もない。僕にとって「君の名は。」は【泣ける映画】でなく、もっと違う次元の感動があった。

雑誌やインターネットでの【泣ける映画】の特集は多く、またテレビの音楽番組ではしばしば【泣ける曲】ランキングで盛り上がる。どうして日本人はこんなに泣きたいんだろう?我々の文化に於いて【泣く】というのは概ね肯定的に捉えられており、特に若い女の子が「泣いた」と呟けば、それは「可愛い」に直結する。だからアイドルたちはSNSで競って「泣きました」を強調するのだ。考えてみればとても不思議な民族である。

一方、欧米で【泣ける映画】が持て囃されることはない。ハリウッド映画に【涙(tears)】は求められず、ヒットするために最も重要なのは【興奮(excitement)】と【笑い(fun, laughter)】である。

キリスト教は父性原理が強い宗教だ。祈りの言葉は「天にまします我らのよ」であり、三位一体とはイエス)、精霊を指す。そこに女性は一切介在しない。カトリック教会の頂点に立つのは法王だが、女性は法王になれない。

父性原理は【切断】し、物事を分類する。光と闇、天と地、善と悪、天使と悪魔。コンピューターも0か1で全てを表現する2進法が根幹をなす。

欧米社会では成人するまでに精神的な【母親殺し】(=自立)が求められ、強力な自我(ego)が形成される。他者とは異なる個(individual)を確立することが最も大切なのである。女性も同様で、その典型例が「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラだろう。

フランス人は赤ちゃんに添い寝をしない(具体的にはこちらのブログをご覧ください)。出来る限り早い段階でひとりで寝かせる。親離れをさせるためである。正に【切断】(divide)している。

ヨーロッパの昔話に多いパターンは精悍な青年(王子様)が困難を克服し、最後にバケモノ(大蛇・ドラゴン・魔女など)を退治して、お姫様と幸福な結婚をする。めでたしめでたし(And they lived happily ever after.)というもの。強い自我形成の大切さを示す寓意が込められている。「スーパーマン」「スパイダーマン」などアメコミも基本的に同じ構図だ。

一方、日本にこういう昔話は稀有であり、むしろ母性原理が支配的である。

日本人は場の平衡を保つことに腐心し、すべてを包み込むように(清濁併せ呑み)、横に繋がって生きてきた。「君の名は。」の言葉で言えば【結び】を大切にしてきたのである。

多分、父性原理に生きる西洋人にとって泣くという行為は相手に【弱みを見せる】ことに等しく、好ましくないのであろう。要するに【男らしくない】、みっともないのだ。それは男性だけに留まらず、ヒラリー・クリントンなど社会の第一線に立って働く女性にも当てはまる。

しかし日本では平安時代の「源氏物語」や、「君の名は。」で新海誠監督が参考にした「とりかへばや物語」など、作中の男たちは優雅に和歌を詠み、しょっちゅう泣く。恥ずかしいことではない。江戸落語の聴衆が好むのも人情噺だ。「君の名は。」の主人公・瀧も度々涙を流す。ハリウッド映画やディズニー/ピクサー・アニメで瀧ほど泣く男性キャラは皆無だろう。

映画を観たり、音楽を聴いて【泣く】という行為は何を意味しているのだろう?それは物語や、登場人物への【共感】【一体感】である。つまり【繋がる】ということであり、【結び】だ。ではアメリカ人が好むジョークとか笑い(古くはマルクス兄弟、現在は「サタデー・ナイト・ライブ」)は?それは【批評精神】と言えるだろう。対象との関係は【切れて】いる。客観的に相手を観察する【醒めた目】がある(その姿勢が欧米における自然科学の驚異的進歩という成果を生み出した)。

「竹取物語」とか「伊勢物語」など日本の古典文学、「万葉集」など和歌で重要な言葉に【かなし】がある。これは「哀し」と共に「愛し(しみじみとかわいい。いとしい。)」の意味を含有する。僕はこの【かなし】という感情が【泣ける】映画・音楽のルーツではないかと考える。

「君の名は。」の新海誠監督は毎日新聞の記事において、「作品には、少女漫画の文法を感じるところがあります。」と聞き手に言われ、次のように答えている(出典はこちら)。

私の作品に父性主義・父権主義はなく、そんな意味では確かに女性作家の小説の方が、好きなものが多いかもしれません。父が権威を大事にする人で、男はこうあるべきだ、人生はこうあるべきだ、と「あるべき」を言う親で、良くも悪くも影響も受けているかと思いますが反発もずっとあり、説教されるのが嫌いです。

「君の名は。」の登場人物たちの運命の鍵を握るのは巫女の超人的能力であるし、上の発言でも判る通り、新海アニメは母性原理を原動力にしている。それが日本人の無意識に訴えた(琴線に触れた)からこそ、これだけのヒット作が生まれたのだろう。

参考文献:河合隼雄「昔話の深層」「昔話と日本人の心」「母性社会日本の病理」

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2016年7月22日 (金)

「エンターテイメント日誌」自選記事 ベスト30

早いもので、このブログを開設してから今年で10年目になる。途中から読者になられた方が殆どだろう。記事数も2100を超えた。つまり年間200以上書いている計算になる。膨大な量だ。そこで「どうしてもこれだけは読んで欲しい」というものを厳選した。

まずはBEST 10から。

続いてNEXT 10。

そしてMORE 10

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2016年5月27日 (金)

日本人とは何者なのか?〜イエスタデイ・ワンス・モア

人生も(平均寿命の)半ばを過ぎ、僕は最近「日本人とは何者なのか?」と考えることが多くなった。ひいては、「自分とは何者か?」というアイデンティティの問いでもある。

【第一章:恥】

米国の文化人類学者ルース・ベネディクトは1946年に出版した著書「菊と刀」の中で、日本を「恥の文化」と定義し、一方で欧米は「罪の文化」とした。西洋の文化はキリスト教を中心として発展してきた。この宗教は「原罪」に重きをおく。アダムとイヴがサタン(悪魔)が化けた蛇に唆されて知恵の実(りんご)を食べたことが事の発端である。日本人は一神教ではなく、八百万の神を信仰してきた。だからこのような「罪」の意識は希薄である。

恥の感覚は武士道とともに定着したと思われる。切腹という行為は正に「生き恥をさらすくらいなら死んだほうがましだ」という価値観から生じている。自殺と決定的に違うのは切腹が儀式だということ。つまり周囲に観客がいるわけだ。西洋で言えば、名誉を守るために行われる決闘に近い。相手は自分自身。この切腹の観念が、太平洋戦争における神風(かみかぜ)特攻隊に繋がってゆく。帰りの燃料はない。つまり「生き恥をさらすくらいなら、戻ってくるな」ということ。退却など端から念頭にないのだ。神風特攻隊をイスラム教徒の自爆テロと同一視する人がいるが、自爆テロの犯人は「死んだらアラーの神のもとに行ける」という宗教に裏打ちされた信念がある。幸福は死後に実現する。一方、日本人には明確な死後のvision(未来像)がない。朧月夜のように曖昧模糊、漠然としている。

この恥という観念が例えば1868年の会津戦争における白虎隊士及び武家の妻子一族の自刃(NHK大河ドラマ「八重の桜」参照のこと)や、1945年沖縄戦におけるひめゆり学徒隊(看護要員として従軍していた師範学校女子部生徒ら)の集団自決(映画「ひめゆりの塔」参照のこと)など、悲劇を産んだ。

以下、ビロウな話で恐縮です。恥ということが現代人において強く感じられるのはトイレにおいてである。日本女性は用を達する時、自らが発する音を消すために水洗を流す。この「音を他人に聞かれるのが恥ずかしい」という観念は日本人独特で、外国人女性にはない。僕は資源の無駄、エコロジーの敵だと想うのだが、おしとやかな大和撫子にそんなことを説いても馬耳東風だろう。「音姫」なる、けったいなものがあるのも日本だけだ。

なお恥じらいがあることが悪いことばかりではない。国際的に日本人は礼儀正しいことで知られるが、これも「恥をかかない」努力を常日頃怠らない成果だろう。

【第二章:イエスタデイ・ワンス・モア】

"Yesterday Once More"はカーペンターズが1973年に発表した楽曲である。当時日本の大学は学生運動で荒れ、連合赤軍による浅間山荘事件があったのが72年だった。また「なごり雪」「22才の別れ」「神田川」などフォーク・ソングが流行ったのもこの頃だ。「イエスタデイ・ワンス・モア」は昔ラジオで聴いていたオールディーズを懐かしむという内容で、本国アメリカではビルボード・トップ100で2位止まり。しかし日本のオリコン洋楽チャートでは26週連続1位を記録した。つまり半年間、トップの座に君臨し続けたのである。ここに日本人の嗜好が窺い知れる。

原恵一 脚本・監督「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国」(2001)は日本オタク大賞や雑誌「映画秘宝」の映画ベスト1(すべての洋・邦画を含めた枠)を勝ち取った大傑作アニメーションである。これは1970年に開催された大阪万博時代を懐かしむ大人たちが集団的に退行現象(幼児化)を起こすプロットである。その陰謀の首謀者がケンとチャコであり、彼らが率いる組織がイエスタデイ・ワンスモアなのである。このアニメ、海外のファンには一体どこが面白いのだがサッパリ解らず不評だそうだ。そりゃそうだろう。

「22才の別れ」「神田川」とかフォークソングは過去を振り返る後ろ向きの歌詞が圧倒的に多い。現在でも桜ソングがひとつのジャンルをなすくらいだが、桜というのは日本人の心情にピッタリと寄り添っている。

日本人が愛でるのは満開状態の桜ではない。桜吹雪にこそ、その真髄がある。散りゆく桜を眺めながら、散る前の姿に思いを馳せ諸行無常もののあはれに感じ入るのである。

桜ソングとリンクするのが卒業ソングである。この2者は同一の扱いを受けているが、じつはここに巧妙な欺瞞が仕掛けられている。だって卒業式に桜は咲いていないでしょ?桜なら入学式の筈。でも入学ソングなんて聞いたことがない。僕たちは後ろ向き思考だから。未来の方向を全く見ていないのだ。日本人はBoy Meets Girlの物語に興味を持たない。漫画「ちはやふる」で描かれる恋愛も、過去(幼少期の思い出)に囚われている。

今年5月22日にテレビ朝日で放送された「題名のない音楽会」は【平成vs昭和 いま歌いたい合唱曲の音楽会】がテーマだった。番組公式ツイッターと現役合唱団のメンバーへのアンケートにより「いま歌いたい合唱曲」を選曲し、昭和生まれと平成生まれと世代別に分けてランキングした。平成生まれが選んだのは、

  1. 旅立ちの日に
  2. 桜ノ雨
  3. 虹(森山直太朗)

であった。なんと、うち2曲が桜ソング卒業ソングだったのだ!因みにボーカロイド:初音ミクが歌う「桜ノ雨」は桜ソング且つ卒業ソングである。驚くべきことに平成生まれの若い人たちにも後ろ向き思考イエスタデイ・ワンス・モア)は浸透していたのである。

これがどれほど特異なことかは、「英語で歌われた卒業ソングを貴方は何曲挙げられますか?」という問いをすれば明白であろう。花にまつわる歌も外国では少ないよね。「野ばら」や「百万本のバラ」等いくつか散見されるけれど、日本の桜ソングは他国を圧倒している。

シェイクスピア戯曲の個人翻訳全集で有名な松岡和子は臨床心理学者・河合隼雄との対談本「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)の中で次のようなことを語っている。

彼女があるアメリカの画家の個展のカタログ翻訳をしていた時、Melting Snowというタイトルを見て、「なんじゃ,これは?」と途方に暮れた。しかし絵の複製コピーを見て得心が行った。それは「残雪」「名残り雪」のことだった。彼女は面白いなと思った。melting「解けつつある」と表現すると、その先に見えてくるのは、雪が解けきった枯れ草の丘。この雪はすっかり解けてなくなるということが前提となっている。「未来」に目が向いた表現。一方、「残雪」は雪に覆われていた丘の風景がある「過去」に思いを馳せた表現である。大学時代の彼女のフランス語の恩師は言っていた。「日本語には未来形はないのよ。英文和訳とか仏文和訳で未来形を『…でしょう』って訳すけど、『…でしょう』が日本語として定着しているのは天気予報だけ」 ー関東地方は晴れるでしょうー

イエスタデイ・ワンス・モアの思想は日本語自体も侵食していたのである。

このことが必ずしも悪いことだとは想わない。僕自身、桜をテーマにした、めっちゃ後ろ向き思考のアニメーション、新海誠監督「秒速5センチメートル」が死ぬほど好きなのだから。

一方、欧米人の思考が未来を向いている(positive thinking)ということは、「風と共に去りぬ」の主人公スカーレット・オハラの有名な台詞(未来形)が雄弁に物語っている。

I'll think about that tomorrow. (中略)Tara! Home. I'll go home. And I'll think of some way to get him back. After all... tomorrow is another day.

(そのことはまた明日考えましょう。タラ!そうよ、我が家。お家に帰りましょう。そしてレットを取り戻す方策を考えるのよ。だって結局、明日は明日の風が吹くのですもの)

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2016年4月11日 (月)

吉野の桜 2016

4月10日(日)奈良県吉野郡吉野町へ。岡山県から関西に引っ越してきてから、春に吉野を訪ねるのは12年連続の恒例行事となった。

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4歳になる息子も0歳の時から連れて来ているので、今回が5回目である。最初の頃は当然、花なんかに興味がなかったが、最近では「綺麗ねぇ」と言うようになった。シートを敷いてゴロゴロ転がり、コガネムシやアリを見ては騒ぎ「愉しかった!また来たい」と。

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日本人は不思議な民族である。桜が満開の時期はせいぜい2−3日で、雨が降り強風が吹けば呆気なく散ってしまう儚い存在である。花見を愉しめる期間は1年のうち僅か1週間程度。しかし束の間の歓びのために惜しみない情熱を注ぎ、木を次々に植え、丹精込めて育てる。外国人には理解し難い独特の美意識(もののあはれ/無常観)がそこにはある。それが長所/利点かどうかは別問題として。

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2016年3月18日 (金)

何故人はフィクション(物語)を求めるのか?

2011年3月11日に発生した東日本大震災、あなたはいつの時点で福島原発がメルトダウンしていると気が付きましたか?

東京電力が正式に公表したのは5月24日だった。事故から70日以上が経過していた。

2016年2月25日、NHKニュースは次のように報道した。

東京電力は、福島第一原子力発電所の事故発生から2か月たって、核燃料が溶け落ちる、メルトダウンが起きたことをようやく認め大きな批判を浴びましたが、当時の社内のマニュアルでは事故発生から3日後にはメルトダウンと判断できたことを明らかにし、事故時の広報の在り方が改めて問われそうです。

福島第一原発の事故では1号機から3号機までの3基で原子炉の核燃料が溶け落ちるメルトダウン=炉心溶融が起きましたが、東京電力はメルトダウンとは明言せず、正式に認めたのは発生から2か月後の5月でした。

つまり東電と日本政府は事故発生から3日後(3月14日)に事態を正確に認識していたにもかかわらず、2ヶ月以上公表を控えていたことになる。「パニックを避ける」ためという、実にくだらない理由で。

でももしあなたが5月24日の公表を聞いて「ええっ、本当はメルトダウンしていたの!?」と驚いたのだとしたら、余りにも世間知らずと言えるだろう。【政府が国民を騙る筈はない/テレビで報道されていることは全て真実だ】と信じている者はお子様である。ありもしない【大量破壊兵器】を口実にイラクを侵略したアメリカ合衆国(共和党政権)も同じ穴の狢(ムジナ)と言えるだろう。

震災から4日後、僕はこうツイートした。

緊急事態宣言が発令された非常時に為政者は本当のことを語らない。それは当然のことである。だから自国の政府は信用出来ないと判っていたので、僕は首相官邸が情報をコントロール出来ない、海外メディアからの報道を収集することに専念した。

今振り返るとこういう未曾有の危機に直面して、沢山の映画を観ていたことが正しい判断を下す役に立ったなとつくづく想う。

人間が持つ、他の動物にない特性として「物語(フィクション)を欲する」ということが挙げられる。どうして我々は小説を読み、芝居や映画を観に行くのか?その行為は何かの役に立つのだろうか?

小説を読んだり、映画や芝居を観ることは愉しい。時を忘れさせてくれる。それは多分、「もうひとつの人生」を生きることなのだ。「風と共に去りぬ」のおかげで僕はアメリカの南北戦争の実態を知り、奴隷制度とか、土地の大切さとか色々なことを学んだ。「シンドラーのリスト」や「サウルの息子」を観れば、ユダヤ人強制収容所がどんな場所だったのか、ナチスがそこで何をしたのかを目撃することになる。シェイクスピアの「リチャード三世」や「オセロ」に登場するイアーゴーを通して人の悪意を、映画「エリザベス」や「エリザベス:ゴールデン・エイジ」によりエリザベス1世(The Virgin Queen)の人となり、イギリスの歴史を知る。「十二人の怒れる男」で陪審員制度の仕組みや、その理念が判る。ミュージカル「RENT」や「ラ・カージュ・オ・フォール」(あるいはその元となった映画「Mr.レディ Mr.マダム」やハリウッド・リメイク「バードゲージ」)を観ればゲイの人達の生態やものの考え方が理解出来るようになる。そう、物語は人間の多様性や、共通する行動パターン(=人間科学/行動科学)を学ぶための扉なのである。自分が一生かけても遭遇出来る筈のないことを擬似体験出来る。何度も生まれ変わってくる輪廻転生や、パラレル・ワールドを同時並行で生きるように。

我々は勉強のために小説を読んだり芝居・映画を観るわけではない。しかし沢山吸収すれば、必ず得るものはある。人生はより豊かになり、見聞を広めて賢くなれる。その見返りは大きい。

ー映画は人生の教科書ですー  (映画評論家/解説者 淀川長治)

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2016年3月 3日 (木)

Macと私〜映画「スティーブ・ジョブズ」

社会人となり、個人で初めて購入したパーソナル・コンピューターはAppleのMacintosh LC-475だった(セパレート型)。恐らく1994年ごろと思われる(発売は93年10月)。

Lc475

カラー対応のMacとしては、当時最も廉価でコンパクトな機種だった。CD-ROMすら搭載されておらず、フロッピーディスクだった。この頃インターネットは影も形もなく、パソコン通信を介して出会う男女を描く森田芳光監督の映画「(ハル)」が公開されたのは1996年3月である。

次に購入したのが一体型Performa 54X0シリーズ。函(はこ)が黒く塗らてており「黒Mac」と呼ばれた。1996年のことだった。

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ここからCD-ROMが搭載され、僕はインターネットを始めた。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の黎明期で、僕は劇団四季や映画などのメーリングリストに参加した。チャットが流行っていた時期でもあり、巨大電子掲示板「2ちゃんねる」が開設されるのは1999年である(「電車男」が出版されるのが2004年、映画化・テレビドラマ化が2005年)。

また1996年からサービスが開始されたISDNテレホーダイに加入。深夜23時から翌朝8時までに限り、予め指定した電話番号に対し、通話時間に関わらず料金が月極の一定料金となるもの。どうしてもインターネットの接続が深夜に及ぶため、寝不足の日々が続いた。2-3分の映画予告編を観るために8時間くらいかけてダウンロードし(そうしなければ視聴出来なかった)、しかし途中で止まって結局無駄骨に終わるなんて日常茶飯事だった。当時のMacはよくフリーズした。爆弾マーク(システムエラー)もしょっちゅう見た。

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そして1998年にiMac G3が登場、新しく5色のカラーが導入された1999年にタンジェリンを購入した。

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この頃、僕はジオシティーズ(GeoCities、1997年に日本でサービス開始)にホームページを開設した(2000年3月に日本のジオシティーズ株式会社はYahoo !JAPANと合併し解散、僕はniftyにHPを移行した)。

インターネットで知り合い、電子メールのやり取りで関係を深めていく男女(トム・ハンクス、メグ・ライアン)を描くノーラ・エフロン脚本・監督の映画 「ユー・ガット・メール」が日本で公開されたのは1999年2月のこと。因みに原題"You've Got Mail"はAOLのメール到着を知らせる着信音である。これはエルンスト・ルビッチ監督「街角 桃色の店」(1940)のリメイクであり、オリジナルの通信手段は文通だった。 

2002年には白色に統一され、外観がテーブルランプそっくりのiMac G4に買い替えた。

Imacg3

2005年に発売されたiMac G5はフラットパネル一体型で、それまで白色を貫いてきたiPod(2001年10月発表)に近いものになった。

G5

2007年にはインテルベースの新iMacを購入。素材にアルミニウムとガラスを使用し、iPhone(2007年6月発売)に似た黒とグレーの色彩設計を採用したものだった。

Imac

2007年5月12日から僕はこのブログを開始、Twitterに登録したのは2010年6月である。その翌年に東日本大震災が勃発した。

そして昨年購入したiMacが7代目ということになる。

初代から22年間、Windowsに浮気したことは一度もない。Mac一筋。喜びも悲しみも幾歳月、苦楽を共にして来た。今ではMacBook AirとiPad、iPhoneも我が家の一員である。

ジョブズがアップルコンピューターを解任されたのは1985年5月24日の取締役会である。彼は新しい会社NeXTを立ち上げ、それと平行して1986年にルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、ピクサーと名付け、そのCEOの座に就いた(ピクサー初の長編「トイ・ストーリー」が完成するのは1995年)。

つまり僕が初めてMacを買った時、ジョブズは不在だった。その後自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げ、Appleは深刻な営業不振に陥った。ジョブズが非常勤顧問という形でアップルに復帰するのが1996年12月、暫定CEOになるのが1997年からで正式なCEO就任が2001年である。1998年に発表されたiMacからジョブズの肝いりということになる。そして2003年に膵臓癌(神経内分泌腫瘍)が見つかり、2011年10月5日に彼は亡くなった。

さて、映画「スティーブ・ジョブズ」の評価はA。公式サイトはこちら

脚色はアーロン・ソーキン。Facebookの創始者マーク・ザッカーバーグを描く映画「ソーシャル・ネットワーク」(2010)でアカデミー脚色賞を受賞した。「スティーブ・ジョブズ」も「ソーシャル・ネットワーク」のデヴィッド・フィンチャー監督で企画が進み、クリスチャン・ベイルがジョブズを演じる筈だったのだが、フィンチャーとベイルが降板、結局「スラムドッグ$ミリオネア」のダニー・ボイル監督、マイケル・ファスベンダー主演(当役でアカデミー主演男優賞ノミネート)で完成した。映画会社もソニー・ピクチャーズが手を引き、ユニバーサル・ピクチャーズが権利を買い取った。それにしてもデヴィッド・フィンチャーは才能はあるが気難しい男だ。「ドラゴン・タトゥーの女」(2001)を撮った後、ミレニアム三部作の残り2つには全く興味を示さず、このシリーズの企画は止まったまま。主演のルーニー・マーラはやる気満々なのだが……。閑話休題。

映画は1984年のMacintosh、Appleから放逐された後の1988年のNeXT Cube、Apple復帰後の1998年のiMacという3つの新作発表会にスポットを当てる。僕は原作ウォルター・アイザックソン「スティーブ・ジョブズ」を読んでいるのだが、こういう切り口で来るとは全く予想外だった。やっぱり才人の考えることは凡人の予断を遥かに超越している。ジョブズの生い立ちもiMac以降の大躍進ーiPod,iPad,iPhoneの登場も、ジョブズの死に至る経緯もばっさりカット。それでもポイントはしっかり抑えている。その傑出したセンスに改めて舌を巻いた。

3つのイベントには共通する登場人物がいる。ジョブズがApple社長として引き抜いたジョン・スカリー(元ペプシコーラの事業担当社長)、創業当時からジョブズの片腕だったコンピューター・エンジニアのスティーブ・ウォズニアック、マーケティング担当のジョアンナ・ホフマン(ケイト・ウィンスレット)、そしてジョブズの娘リサである。彼らの関係性が時代と共に次第に変化していくのが非常にスリリングだ。

ジョブズは天才であったが、人間(父親)としては最低のクズだった。(映画「アマデウス」でも判る通り)下品な言葉を好んだモーツァルトと同様、その人の才能と人間性・人格は無関係である。そのことがよく描かれている。

はっきり言ってマイケル・ファスベンダーは顔が全くジョブズに似ていない(そういう意味ではクリスチャン・ベイルの方が相応しかった)。しかし映画を観ているうちに次第に本物に見えてくるのだから大した演技力である。

ジョブズはユーザーによるマシンの改造・拡張性を拒否し、函(はこ)を開けられない構造にした。そしてOS(オペレーティング・システム)とマシンは一体のものと考え、互換性を持たせなかった。だから一旦、MacはMicrosoft Windowsに完敗し、ジョブズは失脚した。しかし今はどうだろう?Apple社は携帯音楽プレーヤーや、タブレットPC,そしてスマートフォンでも世界を席巻している。これはソフトとハードは不可分という信念を貫いたジョブズの最終勝利であり、ハード開発に力を注がなかったマイクロソフト社は明らかに失速した。ジョブズは世界を変え、今ある21世紀を創ったのだ。

最後に、僕が大好きなジョブズの座右の銘をご紹介しよう。

洗練を極めれば簡素になる
(Simplicity is the ultimate sophistication.)

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2015年2月 8日 (日)

ネトウヨって何?

東京新聞は2014年11月27日に「首相はネトウヨだった!?」という記事を掲載した。「ヘイトに加担」という副題も。大学生が小4になりすましたサイトを安倍首相がフェイスブックで「最も卑劣な行為」と批判した件に関する記事である。また12月には衆議院議員選挙の結果を受け、同紙に「ネトウヨの星 次世代なぜ激減」という記事も載った(→こちら)。 ところで、「ネトウヨ(ネット右翼)」って、その実態は何?

右翼の定義として、辞書には「《フランス革命当時、議会で議長席から見て右方に穏和派のジロンド派が席を占めていたところから》保守的または国粋的な思想、立場の一派。また、その者」とある。

一方、左翼は「《フランス革命当時、議会で議長席から見て左方に急進派のジャコバン派がいたことから》社会主義・共産主義・無政府主義などの革新的な思想。また、そのような立場の人・団体」とある。

日本においては大雑把に次のように分類出来るだろう。

  • 右翼-天皇を崇拝し、天皇制を是とする人々(詳しくは産経新聞「国民の憲法」を参照のこと→こちら)。外国を排斥したい、日本は日本らしく(クール・ジャパン万歳!)という考え方。家父長主義、父権主義。憲法9条を改正し、日本は強い軍隊を持つべきだと主張。原発推進派。
  • 左翼ー社会主義・共産主義革命に共感する人々。当然、天皇制に対しては否定的。ゆえに「日の丸」「君が代」を憎む。憲法改正には断固反対。平和主義者。自らを「市民」と語りたがる(プロ市民)。反原発派。

奇妙なのは、本来「右」「左」とは無関係な筈の価値観、日本国憲法改正の是非とか原子力エネルギーの是非で両者の思想が真っ二つに分かれていることである。ここが世界から観た日本の右翼/左翼の特殊性である。つまり奇形・異端なのだ。

そもそも右翼は保守派であり、左翼は改革・革命を志しているのだから前者が憲法堅持、後者が改正論者であるべきだろう。この齟齬の原因は日本国憲法の成り立ちに端を発する。我が国の憲法はGHQ支配下のもと、連合国にとって都合のいい内容として書かれた。マッカーサー草案(GHQ草案)の原文は英語であり、それが日本語に翻訳されている。だから右の人たちは自主憲法制定を目指し、左派は軍国主義(治安維持法、特高警察)再現の悪夢を恐れ(当時共産党員は弾圧され、多くが命を落とした。例えば「蟹工船」の著者・小林多喜二)、憲法9条改正阻止に必死になっているわけだ。しかし考えてみれば彼らが大嫌いな筈のアメリカが草案を書いた我が国の憲法を、左翼が守ろうとしている姿は滑稽ですらある。正に日本独自の特殊事情、「ねじれ現象」である。

そもそも憲法改正=9条改正ではないし、仮に日本が正式な防衛軍を持ったとして、それは果たして「右翼化」なのだろうか?軍隊を有する国が右翼国家ならば、世界の99%がそうなってしまう。北朝鮮も中国も、そして韓国も。無茶苦茶な話だ。「軍隊を有すること」=「侵略戦争を再び起こすこと」を意味しない。スイスみたいに永世中立国として生きる道もある。

日本のマスメディアに関しては、全国紙(読売・朝日・毎日・産経・日経)のうち、最も右なのが産経新聞でその次が読売、逆に最も左なのが朝日新聞である(地方紙では東京新聞など)。朝日が左翼である根拠は以下のとおり。

  • 事実とは異なるいわるゆる「従軍慰安婦問題」を1991年以降繰り返し記事にし、その誤報について32年間訂正も謝罪もせず、日本の国益を損ない続けた。
  • 「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」(いわゆる「国旗国歌条例」)に反対する立場をとった。つまり「日の丸」「君が代」が大嫌い。条例案を推進した橋下徹知事憎しのあまり、系列会社の週刊朝日は暴走し「ハシシタ・奴の本性」という知事の出自に関する差別的記事を掲載。後に謝罪、社長は引責辞任に追い込まれた。
  • 日本国憲法改正に反対の立場を取る。
  • 原子力発電所の再稼働には反対である。

「国旗国歌条例」や憲法改正、原発再稼働に反対という点で、毎日新聞社も左寄りだと言えるだろう。

では右翼はどうして原発推進派なのか?その理由は福島原発事故で白日の下に晒された。3・11の後、読売新聞は社説で原発をなくしてはいけない理由として「プルトニウム保持」の必要性を掲げた。万が一他国に戦争を仕掛けられた場合、速やかに核兵器を作れるようプルトニウムを我が国は持っていないといけない。だから安全保障のために原発は必要であり、「プルトニウムは潜在的な核抑止力」だというのだ。しかし考えてみれば全く非現実的な話である。非核三原則・憲法9条を無視して、そんなに直ぐに原爆・水爆を作れる筈がないではないか?ナンセンスとしか言いようがない。

では朝日新聞グループが目の敵にしている橋下徹・大阪府知事は果たして右翼なのだろうか?僕は全く違うと考えている。橋下氏が左翼や日教組が嫌いなのはその言動から明らかだ。しかし、だからといってアンチ左翼=右翼ではない。「国旗国歌条例」は教育現場から日教組を排除するための、いわば踏絵として導入されたというのが僕の見解である。橋下氏にとって天皇制は関心事ではなく、彼が天皇について語っているのは聞いたこともない。それに彼は”原発フェード・アウト”を唱える脱原発派である。右であろう筈がない。その点を多くの人々は誤解している。そもそも公務員は公僕である。国旗や国歌に対して敬意を払うのはあたりまえのこと。それをしなくていいと考える人がいること自体が異常だ。嫌なら公務員を辞めて民間で働きなさい。

現在の日本では「愛国心」を語ると、即座に「右翼」のレッテルを貼られてしまう。ある意味タブーになっていると言ってもいい。それは左翼ジャーナリズムが国旗と国歌(そしてそれらが象徴するもの)を憎んでいるからだ(ネガティヴ・キャンペーン)。しかし故郷を、祖国を愛するというのは人間性の基本中の基本ではないだろうか?例えば貴方はアメリカ合衆国のパレードで星条旗を振っている人たちを指さして「この右翼めが!」と罵りますか?馬鹿げている。

2015年1月現在、日本共産党と社会民主党(社民党)の政党支持率は合わせて3.6%である。つまり日本の左翼支持者は4%程度と考えられる。では左翼運動が最も華やかだった日米安保闘争から学生運動の最盛期に至る1960年-1970年代前半はどうだったかというと、日本共産党と社会党の支持率は 合わせて20-30%で推移していた(資料は→こちら)。その後、連合赤軍による浅間山荘事件が1972年にあり、それを契機に日本人の左翼に対する幻影・夢想が一気に冷めた。さらに1991年にソビエト連邦が崩壊、2002年に北朝鮮が日本人拉致を公式に認め被害者たちが帰国。こうして日本の左翼支持者は急速に減っていった。

左翼が4%しかいないマイナーな存在、絶滅危惧種となった今、右翼も多く見積もって10%未満に収まるよう定義付けするべきだろう。もし非左翼=右翼とするなら、日本国民の90%以上が右翼になってしまい、バランスが取れない。そんな乱暴な分け方は無意味である。つまり右翼も左翼もごく少数であり、大半は中道、穏健派であるというのが僕の考えだ。米ソ冷戦時代ならともかく、右か左で世界を語れる時代はとうの昔に終わったのである。

さて、「ネトウヨ」「ネット右翼」とはなんだろう?Wikipediaには「インターネットの電子掲示板上などで、右翼的、保守的、国粋主義的な意見を発表する人たちを意味する」とある。しかし論者によって意味するところが異なり、定義は極めて曖昧である

大阪大学准教授の辻大介がネットユーザー998人を対象におこなった調査では、以下の項目全てに該当する者を「ネット右翼」と定義した。

  • 「韓国」「中国」いずれにも親しみを感じない
  • 靖国公式参拝・憲法改正等に賛成
  • 政治・社会問題についてネット上で書きこみや議論をした

国粋・排他主義者を「右翼」とするのは分かる。中国は共産主義国家だから当然親しみを感じないだろう。しかし韓国を名指しするのは何故?だって同じ民主主義国家じゃないか。「韓国」を入れるのなら当然「アメリカ」や他のアジア諸国も含まれるべきであろう。ここにも日本の特殊事情が垣間見られる。

戦後70年が経過した。しかし未だに中国は「南京大虐殺」を、韓国は「従軍慰安婦」を言い募り、延々と日本に対して謝罪を求めてくる。彼らは決して許さない。これは外交で常に優位に立とうとする政治的駆け引きであり、ナショナリズムの発露である。日本の左翼ジャーナリズムもそれに同調し、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」で日本は反省するべきだと主張し続けてきた(自虐史観)。いや、むしろ外国を煽ってきた彼らこそ元凶であるとも言える。そういったやり口に日本人の多くは嫌悪感を抱いている。でもその感情って右翼なの??変だと思いませんか。つまり中国や韓国に対して悪いイメージを持つことに対し、「右翼」「ヘイト・スピーチ」という負のレッテルを貼るのは左翼ジャーナリズムの常套手段、プロパガンダなのである。そんな手口に安易に乗るべきではない。

ネトウヨとは定義が曖昧で実態のない、左翼ジャーナリズムが創りだした幻影である。本物の「右翼」は「左翼」同様、ごく少数派なのである。

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2014年11月 3日 (月)

批評/reviewとどう向き合うか? (映画・音楽・演劇など)

基本的に当ブログは批評/レビュー・サイトであると自認している。では僕にとって他者の批評文・評価は何を意味してきたかということについて今回は語ってみたい。いずれ将来、これを読むであろう息子(現在3歳)に対するメッセージとでもいうか、いわば「人生の先輩」からの助言である。

僕は小学校5,6年生の頃から「レコード芸術」誌を購読し始めた。そして「推薦盤」(現在は複数の評価となり「特選盤」となった)のレコード(CD)を中心にクラシック音楽を聴いてきた。

中学生の頃から映画に夢中になり、何から手を付けていいのか分からないので、歴代の「キネマ旬報」ベストテンにランクインした作品や米アカデミー作品賞受賞作(第1回から全作制覇)、カンヌ・ヴェネツィア・ベルリンなど代表的国際映画祭で最高賞を受賞した映画などを手当たり次第観てきた。

すると次第に分かってきたことは、確かに「名作」とか「名演」などと呼ばれるものに当たりは多いが、ハズレも少なからずあるということである。世間の評価が必ずしも自分の嗜好と一致はしないーという当たり前の結論に到達した(でもそれが分かるまで15年位かかった)。そこで大切なことは自分の意見に自信を失っては駄目だということ。他人と違っていていい。真っ直ぐがいい。世間体など気にせず「王様は裸だ!」と言える勇気を持とう。

アカデミー賞とか映画のベストテン、音楽コンクールなどは集計による多数決で決まる。しかし最大公約数の意見が正しいとは限らない。例えば現在では名作の誉れ高い「市民ケーン」も「2001年宇宙の旅」もアカデミー作品賞や監督賞を受賞していない。ヒッチコックの「めまい」なんかノミネートすらされていない。逆に過去の受賞作で忘れ去られたものも沢山ある。名ピアニスト;イーヴォ・ポゴレリッチはショパン国際ピアノ・コンクール本選で落選し、審査員のひとりだったマルタ・アルゲリッチは「彼こそ天才よ!」と怒り辞任した。ウラディーミル・アシュケナージはショパン国際コンクールで第2位だった。その時の第1位はアダム・ハラシェヴィチ。聞いたことある?アシュケナージが優勝しなかったことに納得しなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリは審査員を下りた。

時の洗礼を受けないと見えてこない真実は確かにある。ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」が初演時に大ブーイングでスキャンダラスな混乱を招いたことは余りにも有名だが、他にも初演時に評論家から不評で現在では名曲と認知されているものは沢山ある。ブルックナーやマーラーの交響曲もそう。現在ではベートーヴェン/交響曲第7番の決定的名演とされるカルロス・クライバー/ウィーン・フィルの録音は発売当初、「レコード芸術」の推薦盤にならなかった。時代を先取りし過ぎたのだ。

これは政治にも言えることだ。アドルフ・ヒトラーは「独裁者」と呼ばれるが、ナチスは普通選挙により正式な手続きでドイツの第一党となり、ヒトラーが首相に任命された。ドイツ国民が彼を選んだのだ。ロシア革命にしても帝政(ロマノフ朝)に反旗を翻し「民衆」が勝ち取った成果だが、その末路はどうだったか?

人は判断を誤ることがある。それは不可避だ。しかし一番大切なのは間違ったことに気付いた瞬間に立ち止まり、軌道修正することである。歴史はそうやって積み重ねられてきたし、その結果人類は良き方向に向かっている……そう信じたい。

芸術の話に戻ろう。では世間の評判を無視していいのか?と問われると答えは「否」である。自分の判断、殻に閉じこもっていれば世界は広がらないし、映画/CDとかは毎年無数に公開/発売されるわけだからその全てを観る/聴くことなど不可能なわけで、途方に暮れるだろう。指針(ナビゲーター)は必要だ。心の門を開き、他人の意見に素直に耳を傾け身を委ねてみよう。その上で取捨選択をすればいい。そのうちに自分と気の合う同士、感性が似たNavigator(Reviewer)と出会うだろう。要はバランス感覚だ。

息子へー

まずは先人の意見、賢者の知恵に耳を傾けなさい。ただそれを鵜呑みするのではなく、常に疑いの目で見てごらん。お父さんが言っていることだって正しいとは限らない。そのためにはブレない軸=自分の感性を磨きなさい。沢山観る/聴くこと。そして直感を信じなさい。他人と違う意見を言うことは勇気がいる。でもそれが出来る人は美しい。

読者へー

これが僕の人生哲学である。だから当ブログに書いていることが正しいなんて全く想っていない。違った意見があっていい。ただ、これから貴方が観る映画や聴く音楽を選ぶ参考になれば嬉しい。そういうスタンスでこれからもお付き合い頂ければ幸いである。

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