日記・コラム・つぶやき

2020年1月18日 (土)

格差社会は悪なのか?

カンヌ国際映画祭で連続してパルム・ドール(最高賞)を受賞した「万引き家族」(日本)と「パラサイト 半地下の家族」(韓国)、そして「バーニング 劇場版」(韓国)、「アス Us」(アメリカ)、「ジョーカー」(アメリカ)が同時多発的に格差社会を描いているということで話題になっている。

左翼ジャーナリズムや、自らを「市民」と名乗り、デモ行進を実行するプロ市民/活動家たち(現在では「リベラル」という便利な言葉/隠れ蓑がある)はトランプ大統領(共和党)や安倍総理が大嫌いなので、彼らのせいで「格差が広がっている」と煽る(民主党・オバマ大統領政権の頃は好意的だった)。

しかし格差って、そんなに悪いことなのだろうか?

例えば朝日新聞社の言論サイト「論座」に掲載された、〈努力についての不都合な真実〉をお読み頂きたい。自分の給与が勤続12年でたった14万円だと嘆き、〈日本終わってますよね?〉とツイートした人に対して、事業家の堀江貴文氏が〈日本がおわってんじゃなくて「お前」がおわってんだよ 〉とリプライしたことについて次のように論じている(以下引用)。

 経済的成功者に、貧困問題を語らせると、たいていこういう結末になる。彼らが異口同音に言うのは「努力せよ。さすれば、貧困は解決せん」というシンプルなご託宣だ。(中略)
 だが、こういうロジックは、根本的に間違っていると思う。まず、努力すれば、たしかに、当該の人の給料が上がるかもしれない。競争力が増し、他人に勝って、よりよい地位を得て給料も増すからだ。しかし、その人が競争に勝つということは、逆に言えば、あらたに「競争に負ける」人も生み出すことでもある。

まことにもって奇妙な理屈である。勝者が生まれれば、同時に敗者も生まれる。当たり前のことだ。自由競争の基本であろう。例えば短距離走を考えてみよう。「競争に負ける」人を生み出してはいけないのだったら、この著者はどうすればいいというのだろう?みんなで仲良く並んで同時にゴールする?笑止千万である。この理論に従えば、東京オリンピック開催も止めたほうが良いということになる。プロ野球や高校野球、Jリーグも禁止ね。学校のテストで100点とったら「競争に負ける」人も出る。どうする?全員が同点だと意味ないし、いっそのことテストも入試も廃止か。じゃあ選別の方法は?

どうもこの人が言いたいのは、社会全体で経済発展して、みんなで生活水準を上げ、Win-Win(私も勝って、あなたも勝つ)関係になりましょうということのようだ。じゃあ仮に日本全体が底上げされたと仮定しよう。しかしその場合、必然的に「競争に負ける」国を生み出すだろう。果たして地球全体がWin-Winになる経済なんてあり得るの?

フランス革命前のフランスや、江戸時代の日本も格差社会だった。フランスの平民が貴族になることは出来なかったし、高等教育も受けられなかった。長屋に住む熊さん・八っつぁん(上方落語では喜六・清八)が武士になることも出来なかった。まして大坂の豪商・鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)との経済格差は桁外れである。

経済格差があることは今も変わらない。しかしその頃と、21世紀の現代では厳然たる違いがある。それは〈自由〉と〈平等〉があることである。自分の意見を言うことも〈自由〉だし、職業を選ぶことも〈自由〉。たとえ貧乏な家庭に生まれても本人に才能や才覚があり、一生懸命勉強すれば一流大学に入学し、一流企業に就職することが出来る。奨学金制度だってある。学歴がなくても起業が成功し、大金持ちになるIT企業社長もいる。つまり機会(チャンス)は〈平等〉に与えられている。それを生かすも殺すも本人の努力と実力次第だ。

しかし左翼ジャーナリズム(自称リベラル)は今の日本やアメリカは〈平等〉じゃないと言う。貧富の差があるからだと。つまり彼らが主張する〈平等〉は意味が違う。意図的に履き違えている。経済的に、みな〈平等〉で格差のない社会〜それは共産主義国家の実現を意味する。つまりマルクス主義への回帰を未だに彼らは夢見ているのだ。

20世紀は社会主義国家建設という〈実験〉が世界的に幾つか行われ、ことごとく失敗した。ソビエト連邦や中国の文化大革命は理想的な世界、ユートピアを果たして生み出したか?労働党が政権を握った時代、イギリス国民は幸せになれたか?北朝鮮は地上の楽園か?答えは明白であろう。

マルクス主義が愚かで、致命的に間違えているのは〈人間の欲望〉を無視していることである。「他人より儲けて、いい暮らしがしたい」「社会的に高い地位に就いて、人々から尊敬されたい」という、格差を生み出そうとする欲望〉が社会を活性化し、経済を動かす。〈欲望〉という言葉が嫌だったら〈意欲〉や〈向上心〉でもいい。勉強して良い大学に行かなくても、仕事をサボるばっかりしても同じ給料がもらえるのならば、誰も勉強しないし働かない。そういう社会は衰退し、いずれ滅ぶだろう。格差のない社会は人をダメにする。努力が報われない世界を〈平等〉とは言えない。

現代日本には〈自由〉と〈平等〉がある。それに加え江戸時代と比較すると、社会福祉社会保障制度システム)が進化した。経済格差はあるが最低限の生活が保証されているということである。敗者(loser)でも生きていける。

1756年の飢饉では岩手と宮城の両県で合計約5万人の死者を出している。1784年東北地方を中心に発生した天明の大飢饉では津軽藩だけで10万人以上の餓死者を出した。人口動態統計によると1950年(昭和25年)の餓死者数は9,119人。 これが2017年「食糧の不足」による死亡者数は22人である。この中には一人暮らしの老人も含まれるわけで、生活保護制度のある現在は貧困による死者は事実上いないと言っていいだろう。

読者にいま一度問う。格差社会ですか?

追伸:ポン・ジュノ監督の大傑作「パラサイト 半地下の家族」のレビューは近々掲載予定です。

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2019年9月27日 (金)

〈知識〉と〈教養〉の間(はざま)で

当ブログを10年以上書いていると、「知識量がすごいですね」と言われることが時折ある。

多分、そう声を掛けてくださる方に他意はないのだろうが、どうも素直に受け取れない自分がいる。何かしら〈含むところがある〉ように感じてしまうのだ。「単に知識をひけらかしているだけでしょ?」とか、「衒学的な人ですね」と暗に非難されているような。「博識ですね」とか「教養がありますね」なら手放しで嬉しいのだが……。考え過ぎだということは分かっている。面倒くさい奴でごめんなさい。

僕の認識として〈知識〉があるとはクイズ王決定戦で優勝するとか、教科書や辞書を丸暗記するとか、そういった類のことである。つまり記憶力の問題ね。

一方、〈教養〉を辞書(三省堂 大辞林 第三版)で調べると次のようにある。

  1. 社会人として必要な広い文化的な知識。また、それによって養われた品位。
  2. 単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために、学び養われる学問や芸術など。

だから映画やミュージカルが大好きでたくさん観て、音楽をたくさん聴いて、本を読んで、その過程で自然に身についた知識なら、〈教養〉と呼ばれてしかるべきではないだろうか?

マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」に次のようなエピソードがある。

日曜学校で聖書を二節暗唱すると、青い札を一枚貰える。青い札が十枚貯まると、赤い札に交換してもらえる。赤い札十枚が黄色い札一枚。黄色い札十枚と引換えに、日曜学校の先生がごく質素な装幀の聖書をくれる。つまり聖書の文句を二千節覚える必要がある。トムはリコリス菓子とかビー玉、ちょっとした小物などで他の子供達を買収し、交換した札を集めてまんまとその栄誉を手に入れる。そしてその場にいた判事から次のように褒められる。

「実に大したものだよ。それだけ頑張って覚えたことを、君は今後も絶対に後悔しないだろうよ。知識はこの世で何より価値あるものだ。知識があってこそ偉人も善人も生まれる。トマス、君もいつの日か偉人にして善人となることだろう。そのとき、昔をふり返って、みんなあの日曜学校のおかげだ、と思うことだろう。先生がたが教えてくださったおかげだ、校長先生が励ましてくださり見守ってくださり美しい聖書をくださったおかげだ、(中略)そう思うことだろう。きっと思うとも、トマスーそして君は、この二千節はどんな金より大事と思うだろうーそうとも、絶対に」

    マーク・トウェイン(柴田元幸 訳)「トム・ソーヤーの冒険」新潮社

丸暗記した〈知識〉なるものの胡散臭さ、馬鹿馬鹿しさを見事に暴き出した文章である。意地悪だけど、ユーモアがある。

知識(knowledge)〉と〈教養(culture)〉は違う。「教養がありますね」と言われるような、そういうものに わたしはなりたい。そのために今後も切磋琢磨して、雨ニモマケズ〈エンターテイメント日誌〉を書いてゆく所存である。

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2019年8月29日 (木)

ミュージカル映画「ロケットマン」とハグ問題について。

評価:A  公式サイトはこちら

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映画「ボヘミアン・ラプソディ」のレビューで僕は次のように書いた。

主演のラミ・マレックと衝突していたブライアン・シンガー監督が感謝祭の休暇後に現場に戻らなかったことで、撮影終了2週間前にシンガーは解雇された。後任のデクスター・フレッチャーが監督を引き継ぐまでの間、撮影監督ニュートン・トーマス・サイジェルが監督代行を務めたという。(中略)しかし出来上がった作品はそんな混迷を微塵も感じさせない、極めて高い完成度に到達しており、心底驚いた。奇跡と言ってもいい。

エルトン・ジョンの半生を描く「ロケットマン」を観て、漸く「ボヘミアン・ラプソディ」が傑作に仕上がった理由が了解出来た。あとを継いだデクスター・フレッチャーが極めて優秀だったのである。

「ボヘミアン」でクイーンの曲が流れるのは主にコンサートとレコーディング・シーンである。しかしフレッチャーは「ロケットマン」でやり方をごろっと変えた。エルトン・ジョンだけではなく彼を取り巻く人々も歌い、踊る。本格的ミュージカル映画仕立てとなっている。エルトンは(その内面はともかく、見かけ上)ド派手な人なので、イリュージョンに満ちた演出法がピタッとはまった。タロン・エガートンの歌唱もパーフェクト!

上記事で映画のクライマックスで歌われる「黄昏のレンガ道」(Goodbye Yellow Brick Road,1973) について極めて重要なことを書いた。併せてお読み頂きたい。

劇中、繰り返し少年期のエルトンが登場する。「ハグして」と父親に求めてもそれに応えてくれなかったという悲しみが、癒やされることのない心の傷としてずっと尾を引く。本作を観ながら真っ先に想い出したのがエリア・カザン監督ジェームズ・ディーン主演「エデンの東」(原作者はノーベル文学賞を受賞したジョン・スタインベック)である。主人公キャルは「父に愛されていないのではないか」と苦悩する。一方、兄アロンは父から期待され祝福されており、アロンに対するキャルの嫉妬心が物語を転がす原動力となる。これは旧約聖書の「創世記」に書かれたカインとアベルという兄弟の確執がベースになっている。神ヤハウェに愛されたアベルを恨んだカインは弟を殺してしまう。人類最初の殺人である。ヤハウェはカインをエデンの東に追放する。

あと映画「フィールド・オブ・ドリームス」と、山田太一原作・大林宣彦監督の「異人たちとの夏」を観て、父親というものは息子と絶対にキャッチボールをしておくべきだということを学んだ。確かあれは「パンダコパンダ」DVDの特典映像だったと記憶しているが、宮崎駿の息子・吾朗がインタビューに答えて、少年時代に父の仕事が忙しくて彼が起きている間に帰宅することが全くなく、「キャッチボールも一度もしてもらえなかった」と恨みつらみを滔々と並び立てていたのがとても可笑しかった。いやいや吾朗くん、父親があの偉大な宮崎駿じゃなかったら、君がアニメーション映画を監督するチャンスを与えられるなんて一生なかったろうよ。感謝なさい。

というわけで全国のお父さんたち。息子が幼いうちにしっかりハグして、キャッチボールをしてあげておこう。そうじゃないと30年経っても恨まれ続けるハメになるから。

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2019年8月 9日 (金)

「あいちトリエンナーレ」の騒動と〈表現の自由〉について。

愛知芸術文化センターで開催されている「あいちトリエンナーレ」の企画展『表現の不自由展・その後』が物議を醸し、3日間で中止に追い込まれた。特に問題になった展示物は以下の通り。

  • 韓国の、いわゆる「従軍慰安婦像」
  • 「焼かれるべき絵 / 焼いたもの」と題された昭和天皇の写真
  • 時代ときの肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」

― idiot JAPONICA ―とは「間抜けな日本人」という意味であり、墓の上には特攻隊の青年たちが寄せ書きした日の丸の旗が置かれている。

特攻隊員を美化/英雄視するつもりは毛頭ない。しかし、気の毒な戦争の犠牲者であることは確かだ。そんな彼らを「間抜けな」と侮辱する行為は決して許せないし、その展示を認めた輩を僕は人として軽蔑する。

「あいちトリエンナーレ 2019」の芸術監督を務める津田大介(早稲田大学教授)の父親は日本社会党(現:社民党)の副委員長・高沢寅男の議員秘書を務め、大介は中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったとしんぶん赤旗で述べている(出典はこちら)。バリバリの左翼である。どうしてこの人が芸術監督に選ばれた?Twitterで弁明した企画アドバイザーを務める東浩紀(批評家、哲学者)も実に情けない。

昭和天皇の写真を焼く「作品」も対象が天皇だから「不敬」だと言うつもりはない。例えばアドルフ・ヒトラーの写真であろうが、焼いて踏みにじる行為は「不快」だし、それを芸術作品だと僕は決して認めない。単なる「ヘイト」である。ナチス・ドイツの犯罪を憎むのなら、まずはヒトラーの著書「わが闘争」を読み、彼のスピーチを詳細に検討する必要があるだろう。敵を知らなければ彼の主張する理屈を論破出来ないし、当時の民衆がどうしてカリスマに熱狂し、間違った方向に進んだのかを分析出来る筈がない。写真や肖像画を焼く行為は何も問題を解決しない。それこそ間抜けな人間のすることだ。

そもそも中国や韓国のことを悪く言うと、朝日新聞、東京新聞など左翼ジャーナリズム日本ペンクラブは直ちに「ヘイト・スピーチ」と断罪し、「ヘイト・スピーチを許すな!」と声高に騒ぎ立てる癖に、特攻隊や天皇制、トランプ大統領への「ヘイト」に対しては、ころっと言うことが変わり「表現の自由を守れ!」と擁護するのはどういう了見か?完全に矛盾しており、ご都合主義にも程がある。天皇制がそんなに憎いのならば堂々と紙面でそう主張し、憲法を改正すればいいだろう。しかし摩訶不思議なことに朝日新聞、東京新聞日本ペンクラブは強硬に日本国憲法改正に反対している。矛盾だ。

また、いわゆる「慰安婦像」はそもそも芸術と言えるのか、それともプロパガンダ(政治的主張)に過ぎないのか?まずそこから議論を始める必要がある。つまり芸術文化センターに飾る価値基準を満たしているのだろうか?果たして韓国以外で100年後にも美術館で鑑賞する人はいるか?時の洗礼を受けて生き残れる筈もなかろう。

ドラクロアの絵画「民衆を導く女神」が素晴らしいのはその政治的主張ではなく、1830年に起きたフランス7月革命を主題としていることを鑑賞者が知らなくても胸を打つ作品だからである。

Democracy

そもそもいわゆる「従軍慰安婦」が、強制的に日本軍に連行されたという証拠すら一切見つかっていない。この件に関して朝日新聞社は根拠のない自社記事の過ちを認め、謝罪したではないか。それなのにどうして〈表現の自由〉を振りかざし「あいちトリエンナーレ」を擁護する?謝罪は口先だけってこと?事実とは異なる政治的主張(反日感情)を日本の公的施設で表明させる必要はない。

「あいちトリエンナーレ」は愛知県が7億8,600万円、名古屋市が2億1,000万円を負担し、文化庁から受ける予定の交付金は約8,000万円。つまり税金が10億円も投入されていることを忘れてはならない。

表現の自由〉はある。しかし節度と礼節をわきまえた上でというのは最低限の条件だろう。品位のあるレストランで騒げば追い出されるのは当たり前。そういう場において、〈表現の自由〉は伝家の宝刀になり得ない。つまり時と場合による。

それでも朝日新聞社日本ペンクラブがあくまで〈表現の自由〉を求めるのなら、自分たちで出資し、持ち前の施設で展覧会を開催すれば誰も文句は言わないだろう。名古屋市長や日本政府から干渉される心配もない。ご自由にどうぞ。

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2019年5月11日 (土)

シアター一期一会 《私家版ナショナル・ストーリー・プロジェクト》

あれは忘れもしない1999年の春、地元の映画館「テアトル岡山」にトニー・スコット監督、ウィル・スミス主演の「エネミー・オブ・アメリカ」を観に行った時のことである。館内の客はまばらで、数人しかいなかった。そして映画の上映中、僕の席の前に座っていた男の携帯電話が鳴り始めた。「迷惑だなぁ」と思っていると、何とその男は電話に出て大声で喋り始めたのだ!我が目を疑った。

この頃は全国的にこうしたトラブルが絶えず、1996年10月20日にサントリーホールでクラウディオ・アバド/ベルリン・フィルによるマーラー「復活」交響曲の演奏中に(それも静かなところ)携帯電話が突如けたたましく鳴り響き、2005年には来日したキース・ジャレットのソロ・コンサートでも客席から着信音が流れ、それに切れたキースが演奏を中断し、「ここは禅の国だろう?日本には昔から瞑想(meditation)という習慣があるはずだ」と聴衆に諄々(じゅんじゅん)と説教して、そのまま帰ってしまうという事件が報道されたりもした。

その後コンサートホールには電波遮断装置が設置され、映画館はシネコンが普及し、必ず上映前にマナー講座が上映されるようになった。映画館で携帯に出る男を見たのは「エネミー・オブ・アメリカ」が最初で最後である。啓蒙活動は効果抜群、決して馬鹿に出来ない。

「テアトル岡山」は非常に音響が悪く、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」や「タイタニック」の大音響でスピーカーがビリビリ鳴るような、時代に取り残された映画館だった。2003年に閉館し、その跡地は駐車場になっている。映画「ニュー・シネマ・パラダイス」を観ると、いつも「テアトル岡山」のことを想い出す。

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2019年4月30日 (火)

平成を振り返って

平成という時代が今日、終わろうとしている。

僕は昭和に生まれ、大学生の時に平成を迎えた。どんな時代だったのか、振り返ってみよう。

個人史はさて置き、歴史的側面から平成の10大ニュース/トピックスを選んでみた。基本的に年代順に並べている。

  • バブル景気の終焉(平成3年)
  • ベルリンの壁崩壊(平成3年)
  • 地下鉄サリン事件(平成7年)
  • インターネットの普及(平成10年)からSNSの全盛期へ
  • アメリカ同時多発テロ事件(平成13年)
  • 「千と千尋の神隠し」アカデミー長編アニメ映画賞を受賞(平成15年)
  • 会いに行けるアイドルの時代(平成17年)
  • 東日本大震災(平成23年)
  • 佐村河内守とゴーストライター(平成26年)
  • 厄介な隣人・韓国との関係悪化(平成27年)

〈バブル景気〉時代の日本人は妙に浮かれていた。しかし実体はなかった。その姿を象徴するのがディスコ「ジュリアナ東京」の〈お立ち台〉だろう。キーワードは〈虚ろ〉〈軽薄〉。

〈ベルリンの壁〉は米ソ冷戦の象徴的存在だった。この崩壊はマルクス主義の決定的敗北を意味していた。思えば〈社会主義国家建設〉という野望は20世紀という1世紀をまるまるかけた壮大な実験だった。終焉を迎えた時、実験台の上に載せられた人々の思いはどうだったろう?

オウム真理教事件は日本人に様々な爪痕を残した。村上春樹の「アンダーグラウンド」という作品も生まれた。サリンを撒いた実行犯たちが辿った心理的状況を追っていくと、不思議と〈あさま山荘事件〉を起こした連合赤軍の学生たちにどこか似ている(高学歴とか内輪揉めによるリンチ殺人という点を含めて)。つまり新興宗教とマルクス主義には共通点があるということだ。

僕にとってインターネットの普及を象徴する映画は平成10年に公開された「ユー・ガット・メール」である。パソコンのメールを媒体として男女(メグ・ライアンとトム・ハンクス)が出会う。未だ〈出会い系サイト〉などという言葉が生まれる前だった。更に遡ると、平成8年に森田芳光監督の映画「(ハル)」が公開された。これはniftyパソコン通信の映画フォーラムでめぐり逢う男女の物語である。

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インターネットのおかげで今日、このブログもある。ありがたいことである。インターネットは僕たちの生活に劇的変化をもたらした。その最大の効能は①情報伝達の即時性②検索能力 だと僕は思っている。何が疑問があれば図書館に行かずとも、パソコンやスマホでたちどころに調べられる便利な時代が到来した。僕らの脳味噌における〈知識の蓄積〉も圧倒的に加速した。

SNSの素晴らしさは〈つなぐ〉力だ。SNS登場前だったら絶対に出会うことがなかった人々と繋がり、コミュニケーションをとり、情報交換が出来る。

明治維新以降、日本人は欧米文化の影響を多大に受け、徐々に個人主義に移行した。親と別居し核家族化し、町内の祭りとか寄り合いに参加することも稀となり、近所付き合いがなくなってマンションの隣の住人の名前も知らないなんてことが当たり前になった。しかし、近代的自我の最大の病は孤独である。自立したと思っているうちに、実際は孤独だと気付くことになる。それを補完し、孤独な魂と魂を〈つなぐ〉ことで癒やしてくれるのがSNSなのだ。

アメリカの同時多発テロと、それに続くイラクへの侵略戦争は、〈アメリカの正義〉の胡散臭さを白日の下に晒すことになった。詳しいことを知りたかったら映画「バイス」を観てください。さらに9・11は米ソ冷戦からテロリズムとの戦いへの移行を象徴する出来事でもあった。

「千と千尋の神隠し」オスカー受賞(並びにベルリン国際映画祭で金熊賞受賞)は日本のアニメーションが漸く世界で認められたことの証左であった。アメリカ公開に尽力してくれたジョン・ラセターさん、ありがとう!そして今では日本の漫画やゲーム・ソフトがハリウッドで実写映画化されることもちっとも珍しくなくなった(「アリータ:バトル・エンジェル」「進撃の巨人」「バイオハザード」「名探偵ピカチュウ」)。

Miya

平成17年12月8日はAKB48の劇場公演初日である。CDが売れない時代に〈握手券〉〈総選挙の投票用紙〉としてCDの価値を変換するAKB商法は画期的発明だった。そして〈ご当地アイドル〉が隆盛を極めた。それは〈ゆるキャラ〉ブームと相まって〈地方の時代〉の到来でもあった。

しかし、山口真帆に対する暴行事件を巡るNGT48のゴタゴタがAKB商法の限界を指し示し、暗い影を落としている。今年は〈総選挙〉も中止になった。そろそろ賞味期限切れかもね。

僕は完全にCD収集を止め、配信サービス(ナクソス・ミュージック・ライブラリー、Spotify)で音楽を聴くことに移行した。

阪神・淡路大震災が発生した平成7年に僕は仕事の関係で広島に住んでいた。その時の震度は4で早朝に揺れで目が覚めた。5時46分だった。

東日本大震災の時は大阪府堺市にあるホテルの11階にいた。揺れは中々収まらなかった。テレビで見た津波の規模にも唖然としたが、やはりなんと言っても衝撃的だったのは福島原発事故である。

「作曲家」佐村河内守が明らかにしたのは、世の中には音楽の本質(itself)が全く耳に入らず、余剰・おまけに過ぎない(作者が語る)「物語」しか理解が出来ない聴衆が沢山いることだ。天下の NHKはまんまと騙され、慶応義塾大学教授/音楽評論家の許光俊赤っ恥をかいた。

慰安婦問題日韓合意が成されたのは平成27年12月28日である。この時、「慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した 」筈だったのに、平成28年12月に朴槿恵(パク・クネ)大統領が罷免・逮捕され、文在寅(ムン・ジェイン)が大統領になると、〈合意〉はなかったことにされ、日本からの〈拠出金〉10億円は〈使途不明金〉になってしまった。〈合意〉とは一体何だったんだ!?

条約に調印しても政権が変わると平気で約束を反故にしてしまい、一方的に恨(ハン)を募らせてくる国とは外交が成立しないし、今後一切話し合いに応じることは出来ない。全く困ったものである。

NHKで韓国ドラマ「冬のソナタ」が放送されたのは平成15年から16年にかけて。空前の〈冬ソナ現象〉〈韓流ブーム)を巻き起こしたが、今はすっかり冷え込んで「冬の時代」に成り果ててしまった。

それにしても、いわゆる〈従軍慰安婦問題〉の発端は朝日新聞社による捏造記事(詳細はこちら)なわけで、随分と罪作りな話である。

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2019年4月17日 (水)

平成最後の吉野の桜

4月13日(土)奈良県の吉野山を訪ねた。十数年前に関西に引っ越してきてから毎年春に吉野に行くことが我が家の恒例となっているが、昨年は日程が合わず二年ぶりの再会となった。見事に満開であった。

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桜といえばまず現代人はソメイヨシノ(染井吉野)を思い浮かべるが、あれは江戸時代に園芸用に品種改良されたクローン植物であり、吉野とも一切関係がない(お江戸の植木屋が憧れからつけた名称である)。和歌に登場する「桜」は山桜を指す。

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「古今和歌集」から桜が詠まれた歌を紹介しよう。

桜花咲きにけらしなあしひきの山のかいより見ゆる白雲  貫之
(桜がどうやら咲いたらしいよ。山の谷間から見える白雲は)

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み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける  友則
(吉野の山辺に咲く桜は雪ではないかとつい見違えてしまった)

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ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ  友則
(陽の光がおだやかな春の日に、どうして花はあわただしく散るのだろう)

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吉野を愛した西行の歌に、

願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃
(願うことなら、旧暦2月15日-満月の頃、満開の桜の下で死のう)

とある。旧暦2月15日は釈迦入滅の日で、現在の4月初旬頃と考えられる。

武士を捨てた西行は法師となり、吉野の奥千本に今もある西行庵で3年間侘び住まいをしたと伝わる。

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西行にはまた、次のような歌もある。

吉野山昨年(こぞ)の枝折(しをり)の道かへてまだ見ぬ方の花をたづねむ

しをり:木の枝を折って道しるべとすること。

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さらに、

世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ
(この世の中について考えると、全ては散る花のように無常で儚い。ならばさて、我が身を一体どこへ向かわせたらよいものか)

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吉野の桜は見る人それぞれに死生観に立ち返らせ、物思いに耽らせる。そんな春の日の、穏やかなひとときであった。

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2019年1月 8日 (火)

再び法師温泉へ!

「また行きたい!」という小学校1年生の息子のたっての希望もあり、年末年始は2年連続、群馬県の法師温泉で4泊5日を過ごした。

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前回も書いたが、僕が法師温泉のことを初めて知ったのは1986年4月26日に公開された角川映画「彼のオートバイ、彼女の島」(大林宣彦監督)を劇場で観た時だった。原田知世の姉・貴和子と竹内力のデビュー作である。

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訪れて初めて知ったのだが、やはり大林監督が演出し高峰三枝子、上原謙が出演した国鉄のCM「フルムーン」(1981年放送)や、映画「テルマエ・ロマエ II」もここでロケされた。

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今冬は全国的に雪不足で、法師温泉も12月28日まで全く積もっていなかったという。しかし寒波の到来で僕らが宿に着いた29日にはすっかり白銀の世界に変貌していた。近くにある赤沢スキー場は翌30日から営業を開始した。

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上写真の法師乃湯だけではなく、野趣あふれる露天風呂の玉城之湯もある。雪が深々と降りしきる中、笠をかぶり入る湯は格別の味わいがある。朝6時頃入浴すると、湯船から有明の月が見えた。

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
(百人一首 より;坂上是則)

ごうごうと森が鳴る音も聴こえた。

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スキー場には2回訪れた。柔らかい新雪が降り積もる30日に息子の乗るソリはあまり滑らなかったが、根雪でアイスバーンとなった元旦には滑走距離がぐんぐん伸びた。

愉しそうにソリで滑る息子を眺めながら、中学生くらいになって彼に映画「市民ケーン」を観せたら、薔薇のつぼみ(Rosebud)の真相が明らかになる場面で「主人公の気持ち、僕よく分かるわぁ」と言うんじゃないかな、と思った。

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スキー場から宿に戻ると、温めのお湯で悴む手足を癒やした。

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(みそぎ)の感覚。僕は日本の神話(古事記)でイザナギが黄泉の国から地上に戻ってきた際の逸話を思い出した。彼が左の目を洗った時に生まれたのが天照大御神(アマテラスオオミカミ)で、右の目からは月読命(ツクヨミノミノミコト)、鼻からは須佐之男命(スサノオノノミコト)が生まれたという。

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2018年12月10日 (月)

愛と憎しみの構造

イギリスの教育家A・S・ニイル(Alexander Sutherland Neil, 1883-1973)はその著書"Summerhill"の中で次のように書いている(一部でマザー・テレサの言葉とされているが、それは誤り)。

Love and hate are not opposites. The opposite of love is indifference.
憎しみは反意語ではありません。と対立する感情は無関心です」

これを初めて聞いた時にハッとした。慧眼である。彼の並外れた人間観察力、洞察力に感じ入った。

はある日突然、憎しみに変わることがある。おそらく憎悪・怨恨による殺人で最も多いのは親子や夫婦、あるいは恋人の別れ話のもつれであろう。家族や近親者以外の赤の他人を「殺したい」というほど憎む機会は滅多にない。交通事故などで家族が死に至り、その加害者を憎むことはあろうが、これも愛が変形した感情である。またストーカー殺人は一方通行の、過剰な、歪んだ愛の成れの果ての姿だ。つまり憎悪はコインの表と裏であり、いつでも変換可能なのだ。〈相手のことを強く想う〉という意味において同じと言える。よって次のような構造が成り立つ。

愛≒憎しみ(変換可能) ↔ 無関心

家族とは、によって一つに結ばれたであると同時に、呪い束縛にもなり得る。後者の具体的姿が児童虐待であり、配偶者暴力(domestic violence)もそう。

ここでシェイクスピアの戯曲を考えてみよう。

「ロミオとジュリエット」はする若い男女が、モンタギュー家とキャピュレット家という二つの血族の憎しみの抗争に巻き込まれる悲劇である。

「オセロー」の主人公は妻デズデモーナを愛しているが、部下イアーゴーの計略により彼女が浮気していると誤解し嫉妬の炎を燃やした挙句に、憎しみ変換され、殺してしまう。

「ハムレット」の主人公は死んだ父親の無念を晴らすため、再婚した叔父と母を憎み、殺す。

「リア王」は年老いた王が自分の三人の娘のうち、誰が自分のことを本当に愛し、誰が疎んじているかを見誤る悲劇である。

「マクベス」はマクベス夫人(配偶者)の口車に乗せられて破滅する男の話。

つまりこれらの作品は全て、呪いとしての家族を描いていると言えるだろう。

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2018年11月28日 (水)

国立民族学博物館再訪と〈虹蛇〉について。

まずは下記事からお読みください。

ドリームタイム(夢の時)〉のことをもっと知りたくて、万博記念公園(@大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館(みんぱく)を再び訪れた。

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コンビニで前売り券を買えば、入場料はたった350円である。小・中学生は観覧無料。

みんぱくのレストランにはエスニックランチが用意されており、限定の〈ブン・リュウ・クゥア、ベトナム炒飯、デザート付き〉ランチを食べた。

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本館2階の回廊部分=インフォメーション・ゾーンには、28のビデオテークブースがあり、世界のさまざまな地域で暮らす人びとの生活や儀礼、芸能などを紹介する映像を観ることが出来る(無料)。何と番組数は700本を超え、僕はオーストラリア北部アーネムランドに暮らすアボリジニ(ジナン族)の歌と踊り・彼らの雨季の生活・乾季の生活・雨乞い・アボリジニの楽器〈ディジャリドゥ(管楽器)とラーラカイ(拍子木)〉を観た。いずれも興味深い内容だった(各15分程度)。

みんぱくは展示物の写真撮影可ということを知り、今回はしっかり撮った。

まずはイントロダクション(無料)に設置された柱状棺(遺骨を納める容器)から。

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拡大しないと分かり辛いが、オーストラリア北東部(アーネムランド)の樹皮画で特徴的な、並行する斜線が緻密に交差する〈クロスハッチング画法〉で描かれている。一方、中央オーストラリアの砂漠地帯では〈ドット・ペインティング〉と呼ばれる点描画が主流になる。

探求ひろばの「世界にさわる」コーナーでは展示資料を実際に手にとることが出来る。

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これはアボリジニの投槍器(アトラトル)。写真左の突起に槍の中空部を引っ掛ける。そして反対側の端っこをしっかり握りしめ、ふりかぶって投げると、てこの原理で遠くまで速く飛ぶという仕組みだ。なお有史以来、オーストラリアで弓矢は一切導入されなかった

一方、日本で和弓が用いられるようになったのは縄文時代、1万1千年くらい前からだそう。弓矢の代わりにアボリジニが用いたのがブーメランで、やはり最古のものは1万1千年くらい前のものだという。

有料展示室に入り、岩壁画のレプリカに出会う。現地から招かれたボビー・ナイアメラ氏が1週間をかけて、自ら持参した泥絵の具(鉱物質顔料)を使って、合成樹脂製の岩壁の上に絵を描いた。

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虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)の腹の中には飲み込まれた人が描かれている。これはレントゲン画法と呼ばれ、先進国では児童画の特徴の一つと言われ、幼児から小学校低学年にかけて現れる。魚やゴアナ(大トカゲ)、カンガルーもレントゲン画法で描かれており、背骨や内臓が見える。またマッチ棒のように細い棒人間は精霊ミミである。

アボリジニはオーストラリア先住民の総称であり、18世紀後半にイギリス人が入植した頃、彼らが話す言語の数は200を優に超えていた(現在は激減し、50〜100程度と言われる)。オーストラリア大陸は場所によって気候がかなり異なり、例えば北部のアーネムランドでは雨季と乾季が明確に分かれている。雨季(11月から4月)に道路は冠水し、車での交通も不可能になる。一方、オーストラリアの中央部には砂漠地帯が広がっている。また南部やタスマニア島は南極大陸に近く、クジラを見ることが出来る。タスマニア島の最高気温は夏でも22℃くらい。

だから一概にアボリジニ神話と言っても、地域により差異があり、サバナ気候の北部で太陽は恵みをもたらす創造主として描かれるが、中央部の砂漠地帯では忌避される存在であり、崇拝の対象になり得ない。しかしオーストラリア全土の神話に例外なく登場する〈ドリームタイム〉の祖先がいて、それが虹蛇なのである。つまりスイスの心理学者ユングが言うところの、集合的無意識に存在する元型(archetype)だ。

フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南米の神話に登場するのことを「半音階的なもの」と呼んだ(半音階を駆使した楽曲で一番有名なのはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」である)。の段階的色調変化(グラデーション)や半音階は、A→Z(例えば、ド→ソ)への大きな変化の間隙を、短い間隔の変化で埋めていくものであり、一種の中間状態をつくり、流動的に揺れ動く状況を生み出す。または雨が上がり、晴れ間が広がり始める時ー雨季と乾季の境界に現れる。つまり虹蛇は、【自然→文化】へ、あるいは【無意識→意識】へ、さらに言えば【夢の時ドリームタイム我々が知覚出来るこの世界〈yuti;ユティ〉】への移行段階を象徴しているのである。

アボリジニは時間を【過去→現在→未来】という不可逆(一方通行)の、通時(経時)捉え方をしない。彼らは共時的に思考する。〈ドリームタイム〉という概念が正にそれだ。つまり過去・現在・未来は同時にここにある。レヴィ=ストロースは、神話は通時的に読むと同時に、共時的に読めると述べている(そもそも通時的・共時的という用語は言語学者ソシュールの著書から来ている)。

レントゲン画法もまた、共時的手法である。アボリジニは(彼らにとって食料でもある)カンガルーやゴアナを描く時、同時にそれを屠殺・剥皮し、解体した時の内臓や骨格を見ているのだ。

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泉から鎌首をもたげた蛇の姿は、虹の足(写真はこちら)のイメージに重ねられる。そして蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。つまり虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在なのである。

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

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円環を形成することで始まりも終わりもない完全なもの、永遠性、永劫回帰を表象する。つまりウロボロスドリームタイムと同義なのだ。

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下の写真は管楽器ディジュリドゥ。

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自然の状態で内空をシロアリに食べられたユーカリの幹から作られる。音の高さを変えるための指穴(tone hole)すらない。つまり表層の彩色以外、楽器(発音機構)としての加工が皆無なのである。

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写真上がクーラモン(木製・樹皮製の容器)で、下のバスケットにも虹蛇が描かれている。

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ブーメランにはゴアナがレントゲン画法で描かれている。

オセアニアにとどまらず、みんぱくはアイヌや日本を含め膨大な展示物があり、1日では到底全てを見て廻れない。エスニックなレストランも愉しいし、通い詰めたくなるワンダーランドである。アボリジニ関連以外では特にパプアニューギニアの仮面に強く惹かれた(例えばこちらこちら)。

また行こう。

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