日記・コラム・つぶやき

【アフォリズムを創造する】その10「哲学について」

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは「哲学とは新しい概念の創造である」と言った。

哲学は生きるヒントを与えてくれる。哲学によって世界の見方が変わる。

僕はユング心理学やニーチェの哲学を学ぶことで、映画や音楽など芸術に対する理解が一層深まったことを実感している。そのことは拙ブログ記事を通して納得して頂けるだろう。「哲学って何かの役に立つの?」と懐疑的な方もおられるだろう。しかし自信を持って言おう。「哲学を知れば、人生がより豊かになる」「よりよく生きるにはどう振舞うべきかを教えてくれる」のだと。

人はみな、多かれ少なかれ存在の不安と死への恐怖を抱いて生きている。霊魂(死後の世界)を信じたり、占いや風水、血液型性格判断に頼る人がいるのも、そういう心情に起因する。「私」に自信がないから、自分の運命を他者に決めてもらいたい。つまり依存心だ。「何故人は生きるのか?」「我々は何処から来て、何処へ行くのか?」……その疑問を解消する一つの手段として宗教があるし、もし貴方が神を信じないのであれば哲学書を読めばいい。

人はラクダ→ライオン→子どもという進化の過程をたどるとニーチェは主張する。最終的に現れるのが超人だ。そして私たちは超人への橋渡しを担っているというわけだ。成る程、それが我々の生きる目的なのだ。つまり未来(子孫)に希望を託す役割と言えるだろう。僕はこの説明がすっと腑に落ちた。例えば人類の歴史を考えてみよう。一進一退はあるけれど、大局的に見れば良い方向に進んでいるのではないだろうか?専制君主制から民主主義の世の中に移行したし、先進国に限って言えば戦争や貧困も確実に減った。日本だって、つい70年ぐらい前には餓死者がいたんだから。そりゃあ世界的に見れば今だって飢えに喘ぐ人たちはいるし、紛争は絶えない。でも彼らも発展の途上にいるのだ。早いか遅いだけの違いだと僕は信じたい。医療の進歩で平均寿命も飛躍的に伸びた。超人の誕生も、そう遠くない将来なのではないだろうか?

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【アフォリズムを創造する】その9「ネット炎上」のメカニズムを読み解く

高校生・大学生らは学校の教室で友達に話すように気軽に「あの娘とヤリたい」とか「今日バイト先でこんな失敗をやらかした」とかtwitterとかフェイスブック、インスタグラムなどSNSに書き込む。

ドストエフスキーの「罪と罰」や島崎藤村の「破戒」でも描かれたように、自己の隠れた欲望や罪の告白は人びとの面前で行われなければならない。それはカトリック教会の懺悔室で行われてきた告解に似ている。告解は逆に、司祭(神父)が信者の心を支配する仕組みでもある。

秘密を自分の胸の内にだけしまっておくことは苦しい。開放し、風通しを良くする必要がある。

社会人もまた、会社の上司にムカついたことや、学校の先生が生徒の悪口をつい漏らしたりもする。ここではSNSがストレス発散の場として機能している。いわばカウンセリングルームでリクライニングチェアにゆったり横たわり、心理療法士/精神科医に語ることの代用品のようなものだ。あるいは居酒屋やバーでの気の置けない仲間との会話、個人的な日記に書き込むような感覚。

不思議な事に彼らはその告白の先に、自分に好意的な善人、信頼出来る相手(Intimate Friends)しかいないという幻想を抱いている。ネット社会が不特定多数の棲む世界に開かれており、悪意に満ちていることを知らない。

しかしネット民(フォロワー)たちは突然、カトリックの司祭に豹変する。自分たちの善悪の基準を押し付け、道徳を説き、お鬼の形相で「悔改めよ!」と迫るのだ。それが炎上(Flaming)である。彼らはSNSの発信者に自己の放棄を求め、死を命じる悪魔的権力となる。ジャンヌ・ダルクを火刑に処すように。彼らの潜在意識には、迷える子羊を導く羊飼いになりたいという、牧人願望がある。言い換えるなら他者の上に立ちたい、王様気分を味わいたいという仮想権力への憧憬(=妄想)だ。

SNSでは自分の幸せを呟くことも許されない。次の記事を読んでみて欲しい。→「マイホーム購入!」という冗談で、ネット民から袋叩きにされてしまった10代のカップル

ネット民は他人の幸福なんか許せない。彼らは血に飢えたオオカミのように生贄贖罪の山羊(scapegoat)を求めている。人は日々、不満や不快を抱えて生きていると無意識のうちにルサンチマン(弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情)を抱く。その標的となりやすいのが芸能人(例えば斉藤由貴)であり、政治家(今井絵理子)だ。特に不倫は絶対に許せない。「あいつだけ美味しい思いをしやがって!」という嫉妬心を沸々と滾らせるのだ。

芸能人が謝罪会見を開いたり、政治家が辞職することでネット民たちの昏(くら)い欲望は満たされ、彼らは甘い快感に浸ることが出来る。つまり王様気分だ。

芸能人にとってイメージは大切であり、ある程度倫理(アイドルの場合は恋愛禁止の掟)を求められるのは致し方ない。CMに出演している場合、購買者に悪い印象を持たれては商品(アイドルの場合はCD=握手券)が売れなくなってしまう。しかし政治能力と道徳は別だろう。ジョン・F・ケネディはマリリン・モンローと不倫の関係にあったが、今更そのことをとやかく言う者はいない。ケネディは大統領として立派な仕事をした。それで十分だ。

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【アフォリズムを創造する】その8「立証責任について」

「神は存在する」「神はいない」どちらに立証責任があるだろう?地球上を全て探しても神は見つからなかった。でも宇宙の何処かにはいるかも知れない。宇宙は果てしない。隈なく調べ尽くすことは不可能だ。だから不在の証明は出来ない。故に立証責任は常に「いる(存在する)」と主張する側だけにある。

これは「悪魔の証明」とも言われる。「ツチノコはいるか?」「宇宙人(地球外生命体)は存在するか?」などの議論も同様である。

次のように説く者がいるかもしれない。「瑠璃色の地球があること自体が奇跡です。そして我々人間が存在することも奇跡。だから創造主(神)は必ずいるのです」しかしこうも考えられないだろうか?「地球が誕生したのはたまたま偶然の積み重ね。進化の過程で人間が生き残ったのも自然淘汰でたまたま選別された結果」つまり人間が特別である、奇跡だという主張は詭弁であり、証明出来ない。

「神の存在」は絶対不変の真理ではない。それは概念 consept(思考によって捉えたものの表象、イメージ)だ。宗教とは概念の創造、つまり思想である。

ここで日韓合意後も、韓国がしつこく日本を誹謗中傷するいわゆる「従軍慰安婦」問題と、中国が主張する「南京大虐殺」について考察してみよう。今まで述べてきたようにそういう事実が「あった」と主張する側と「なかった」と主張する側のどちらに立証責任があるかは明白である。日本はただ、静観していればいい。何故なら無かったことは証明出来ないのだから。

いわゆる「従軍慰安婦」問題で最初に認識しておかなければならないのは、争点が第二次世界大戦当時の日本軍に慰安所があったかどうかではないことである。「慰安所はあった」「そこに働いている朝鮮人の女性たちがいた」ことは紛れもない事実。これは双方が認めており、問題にはならない。なぜなら1950年に勃発した朝鮮戦争の時にアメリカ軍にも韓国軍にも慰安所はあったからである。それは1970年の映画「MASH マッシュ」でも描かれている。つまり朝鮮人の女性(当時韓国は存在しなかった)が日本軍によって強制的に連行された事実はあるのか?という一点のみが争点となる。果たして韓国側は立証出来るのだろうか?そういうことを指示した軍の指令書は現時点で発見されていない。元慰安婦の証言も一切証拠にはならない。《ある日家にいたら女衒(ぜげん:人身売買の仲介業者)が突然現れて無理やり連れて行かれた》←これは江戸時代に遊郭に身を沈めた日本の女性たちにも起こった出来事である。果たして彼女の両親は女衒から金を受け取っていなかったのだろうか?貧しさゆえに業者と合意の上で「娘を売った」と、本人には言えない場合も当然あるだろう。そりゃ良心が咎めるだろうし、当人を責めることは出来ない。真相は藪の中だ。

次に南京大虐殺(1937)について。南京に民間人の死体が沢山転がっていた。これは事実だろう。しかしそれだけでは戦争犯罪にならない。日本人も非戦闘員が東京や大阪の大空襲、広島・長崎の原爆投下で多数犠牲になった。このことで誰かが罪に問われたことは未だ嘗てない。つまり争点は日本軍が(アウシュビッツでナチス・ドイツがしたみたいに)意図的に非戦闘員を処刑した事実はあるのか?という一点に絞られる。それが事実ならば軍の指令書がある筈だ。軍隊は縦社会だから、もし上からの命令がなく一兵卒の判断でそれが実行されたのであれば、軍法会議に掛けられた筈。その記録はあるのか?ここで問題となるのは便衣兵の存在である。一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことである。これは国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけられ処刑される。当時中国には便衣兵が多数いた。彼らを日本軍が処刑しても何ら問題はない。しかし、事情を知らない欧米人(ジョン・ラーベら)から見たら、日本人が中国の民間人を虐殺しているように映ったかも知れない。こちらも事実関係は藪の中だ。果たして中国政府は日本軍の戦争犯罪を立証出来るのだろうか?

最後に誤解が無いよう補足しておく。僕は第二次世界大戦において日本が正しく、日本軍は一切悪いことをしなかったなどとは一言も述べていない。当然悪いこともしただろう。しかしそれは蒋介石率いる中華民国軍も、毛沢東率いる中華人民解放軍も、日本に原爆(大量破壊兵器)を落とした連合国軍も同じ穴の狢である。お互いさま、恨みっこなしだ。

戦争において絶対的正義の側(善)と絶対的悪の側など存在しない。過去に拘泥し、恨みを抱いて相手側の罪を糾弾し続けたり、逆に罪悪感を抱いて卑屈になり繰り返し謝罪しても意味がない。目を未来に向け、不幸な過去を今後2度と繰り返さないようお互いに努力を積み重ねようではないか。否定はなしだ。建設的意見を言おう。

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【アフォリズムを創造する】その7「矛盾について」〜宮﨑駿という男

世の中では首尾一貫した行動が褒められる。「AだからBだ」と筋が通った発言が求められる。原因があって結果がある。それは一般に永遠不変の真理とされる。例えば「神様がいるから、現在の我々が存在する」といった具合だ。旧約聖書によると人(アダム)は神の姿に似せて創造され、女(イヴ)はアダムの肋骨から創られたという。

論理的思考が法体系を整備し、科学を発展させてきた。コンピューターは全て2進法で計算し、情報を処理する。

「辻褄が合う」ことが良いとされる。そういう理屈を考えるのは意識自我(ego)の部分だ。しかし人のからだ・自己(self)はもっと大きな理性で出来ている。そこには無意識が含まれる。無意識混沌としており、という訳の分からないもので出来ている。深層心理学において、それを探る方法が分析である。

宮﨑駿のアニメーション映画「風の谷のナウシカ」を初めて観たのは大学生の時だった。その時から僕は「矛盾に満ちた人だなぁ」と想っていた。

宮さんは「戦争は駄目だ」「《風の谷》のように人は自然とともに生き、自給自足の生活をおくるのが一番幸せだ」と言う。しかし宮崎アニメの醍醐味は戦闘シーンにある。彼は戦車や戦闘機など殺戮兵器が大好きだ。意識が語る言葉と、からだが示すことが分裂している。その極めつけが次の場面だ。

ペジテ市の輸送船に捕えられたナウシカの脱出をアスベルが助ける。メーヴェに乗り飛び立つナウシカをトルメキア帝国の武装航空コルベットが追撃する。万事休すかと思われたその時、ナウシカの救援に駆けつけたミトのガンシップが正面から忽然と現れ、その砲撃でコルベットは大破、撃沈する。ナウシカは当初「ミト!」と満面の笑みを浮かべるが、その直後に炎上し墜落するコルベットを振り返り、「嗚呼、あの船に乗っている人たちは皆死んでしまうんだわ」と哀しみの表情に変わる。「殺さないで!」と叫ぶ一方で、敵を殲滅することで自分が助かったのを喜んでいる(実際別の場面で彼女は怒りに駆られ、トルメキア兵を数名殺戮している)。完全に矛盾している。

平和や自然、調和を愛する(アポロン的である)一方で、根源から湧き上がる破壊衝動(デュオニソス的側面)がある。この矛盾は終始、宮崎アニメに付き纏ってきた。

宮﨑駿は一貫して共産主義者(communist)である。東映動画時代は高畑勲と一緒に労働組合幹部として会社と闘った。《風の谷》も、「もののけ姫」の《たたら場》も、生活共同体(commune)幻影の産物である。しかしその反面、スタジオ・ジブリ時代は日本テレビと組み大ヒットを飛ばし、米国配給では資本主義の権化とも言うべきディズニー・スタジオの協力を得た。もし宮﨑駿がソビエト連邦や中華人民共和国に生まれていたら、今日のような作品は生み出せなかっただろう。これも矛盾だ。

そんなある日、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが彼にこう言った。「宮さん、矛盾に対する自分の答えを、そろそろ出すべきなんじゃないですか。年も年だし」そうして生まれたのが「風立ちぬ」である。

「風立ちぬ」の堀越二郎は悪魔に魂を売った男である。彼は零戦の設計に全精力を注ぐ。それは殺戮兵器=戦闘機である。何故か?「美しいから」……答えは極めてシンプルだ。彼は善悪の彼岸にいる。他人からどんなに誹られようと構わない。糾弾・問責はしっかりと受け止める。それでも夢を信じ、自分がやりたいことを貫き通す。その覚悟についての物語である。つまり本作の肝は、力強い矛盾の肯定だ。真に美しい映画であった。

混沌(chaos)から創造が生まれる。世界は矛盾で満ちている。矛盾した自己(self)、混沌とした世界をまず肯定することから生を始めよう。

また宮﨑駿へのインタビュー記事をまとめた本「風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡」の中で彼は次のように語った。

旧約聖書の中の一書)伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。

引用文中下線部は噺家・立川談志の言う「人間の業」の肯定と全く同じ趣旨である。

そして(「人生なんて所詮こんなものだ、意味なんかない」という)ニヒリズムを突破し、自分自身を克服せよ!という主張はニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じたこと。宮﨑駿はあくまでPositive thinkingの人なのである。

ギリシャ神話において、パンドラの箱を開けると世界に禍々しい災厄がもたらされるが、最後に「希望」が残った。「風の谷のナウシカ」や「崖の上のポニョ」のラストシーンが正にそれである。

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【アフォリズムを創造する】その6「芸術について」

音楽は言葉で表現できないことを語る。つまり夢=無意識に関わる芸術である。一方、文学は言葉で語る。それは意識・自我(ego)に属している。では映画(アニメ含む)はどうか?映画のはじめに言葉ありきーシナリオは言葉で綴られる。しかし同時に映像はイメージであり、音楽も加わりそこに無意識が忍び込む。故に映画は意識+無意識=自己(self)を表現する。

上の式を図で示すと次のようになる。

Mu

図全体が自己(self)だ。これはユング心理学からの引用であるが、ニーチェは次のように語っている。《兄弟よ、君が「精神」と呼んでいる、君の小さな理性も、君のからだの道具なのだ。君の大きな理性の、小さな道具であり、おもちゃなのだ。「私は」と、君は言って、その言葉を自慢に思う。「私は」より大きなものを、君は信じようとしないがー「私は」より大きなものが、君のからだであり、その大きな理性なのだ。大きな理性は、「私は」と言わず、「私は」を実行する。(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)》つまり「精神」(小さな理性)=自我であり、からだ(大きな理性)=自己と解釈出来る。

以前のアフォリズムで紹介したように、例えばイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」冒頭に登場するタランチュラはイエス・キリストの、「2001年宇宙の旅」の太陽はツァラトゥストラ=ニーチェのメタファーであり、イメージの世界だ。新海誠監督「君の名は。」も三日月(三葉)、半月(かたわれ)、満月(三葉と瀧の結合)といった具合でイメージの洪水である。

映画は運動を描く。英語でもmotion picture(動く絵)と書く。つまりからだと同義だ。そしてそのイメージは観客の心の深層(魂)に働きかける。

イメージは無意識を探るため、心理学でも利用されている。その代表例がロールシャッハ・テストである。

Rorschach

また心理学者・河合隼雄が日本に紹介した箱庭療法も言語化出来ないイメージを活用している。

Hako

J.S.バッハから古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)を経て、ロマン派(ブラームス、ワーグナー、マーラー)に至るまで、作曲家たちは夢=無意識を描く音楽を、小さな理性でコントロールしようとしてきた。その手段が、旋律・調性・和声・拍子・形式である。ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、リゲティら20世紀の作曲家たちが挑戦したのは、その枷(かせ)を取り払い、音楽を混沌(Chaos)に引きずり戻す作業であった。それは「アポロン的」表現から「デュオニュソス的」表現への変換を意味していた。

調性とは長調とか短調のこと。形式とはソナタ形式(主題提示部-展開部-再現部-終結部)・ロンド形式(A-B-A-C-A-D-A)・三部形式(A-B-A')・変奏曲などを指す。ハイドンからマーラーの時代まで約150年間、交響曲やソナタといえば第1楽章がソナタ形式で、中間に緩徐楽章や舞曲(メヌエットまたはスケルツォ、三部形式)を挟み、終楽章は再びソナタ形式かロンド形式とほぼ型(フォーマット)が決まっていたのだから驚くべきことだ。それは音楽という暴れ馬に馬具を装着し、制御するシステムであった。この工夫により聴衆は頭(意識)で全体像を把握し、理解することが出来た。

しかしシェーンベルクは十二音技法を生み出すことで調性を破壊し、音楽は協和音から不協和音が支配する世界に突入した。旋律や形式も木っ端微塵に打ち砕かれた。

「アポロン的」と「デュオニュソス的」対立軸はニーチェがその著書「悲劇の誕生」(1872年出版)でギリシャ悲劇を引き合いに出して創造した概念である。ギリシャ神話に於けるアポロン神は理知的で、情念(混沌)に形(フォルム)を与え、高尚な芸術へと昇華させる力を象徴している。一方、デュオニュソス神はバッカスとも呼ばれ、豊穣とブドウ酒、酩酊の神である。祝祭における我を忘れた狂騒や陶酔を象徴する。つまり秩序化された世界を、もう一度根源的なカオスに解体する力を司るのだ。アポロンは英知と理性であり、デュオニュソスは泥臭い人間の業(ごう)、欲深い本性であるとも言える。

確かにダンス・ミュージックであるベートーヴェンの交響曲第7番はある意味ディオニュソス的である。しかし知性(旋律・調性・和声・拍子・形式)でコントロールされている。手綱はしっかりアポロンが握っているのだ。

こうして見ると、1913年にパリで初演され、大騒動となったバレエ音楽「春の祭典」が果たした役割が理解出来るだろう(パニックの顛末は映画「シャネル&ストラヴィンスキー 」に描かれている)。それまでの音楽は知的で上品であり、調和に満ちていた。ストラヴィンスキーはそこにデュオニュソス的な、原始的で荒々しいどんちゃん騒ぎを持ち込んで建築物をぶっ潰し、混沌(土)に戻したのである。ベルクやバルトーク、リゲティ、武満徹らが成し遂げたことも、同じ方向性であった(武満の音楽は流動的な「水」や「夢」をテーマにしたものが多い)。

20世紀美術も音楽と同様な流れを辿った。ピカソが「私の唯一の師」と讃えるセザンヌを経てキュビズム(立体派)が完成され、やがてフォルムが解体されて抽象絵画に突き進んだ。人物/静物の輪郭=実際に目に見えるもの(意識)であり、それが失われるとイメージや無意識(魂)が残った。

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スパイダーマン:ホームカミング

評価:C

Spider_man

映画公式サイトはこちら

ダメだ。余りにも評判が高いから期待して観に行ったのだが、やっぱり僕はアメコミを受け入れられない。全く性に合わない。アメコミものは沢山観たが、傑作だと想うのはクリストファー・ノーランによる「バットマン」三部作とギレルモ・デル・トロの「ヘルボーイ」二部作だけだな。「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー 」も実にくだらなかった。

チャラい主人公には全く共感できないし、ウザい。ジョン・ヒューズ風学園ドラマのノリも退屈なだけ。勝手にやってろ。どうでもいい。こんな映画ばかり観ていると、どんどん頭が悪くなりそうだ。

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【アフォリズムを創造する】その5「善悪の基準」

この世に絶対的な正義/善とか絶対的な悪など存在しない。真理などないのと同じこと。善悪はあくまで相対的価値観であり、時と共に移ろう。

例えばモーセの十戒に書かれた「汝、殺すなかれ」が絶対的な善かどうか検証してみよう。

体を刺す蚊を叩き殺すのは悪ではないだろう。熊が人間を襲ったら自衛のために射殺するのはやむを得まい。しかし蚊に刺されても殺生せず、為されるがままの坊さんも世の中にはいるだろう。

また生きていくための食肉として家畜を屠殺したり、魚を食べるのは悪ではなかろう。一方、菜食主義者というのもいる。しかしベジタリアンも植物は食べるわけで、植物も生き物だ。ということは彼らは動物の殺生は罪悪だが、植物なら構わないと考える差別主義者ということになる。

ここで「汝、殺すなかれ」の対象は人間に限定されるという解釈が登場する。では何故他の動物を殺すのは許され、人間だけ駄目なのか?その線引の根拠は?と問われたら、貴方は明確に答えられますか?

シーシェパードなど海洋環境保護団体は「鯨やイルカは知性が高い動物だから殺してはいけない」と言う。殺人が絶対的悪であるという根拠もここにあるのだろうか。ならば知的障害者や植物人間なら抹殺することも許される?この理屈を突き詰めて行くと、ナチス・ドイツが実行した犯罪と同じ穴の狢になってしまう→安楽死政策「T4作戦」に関する詳細はこちら

戦争で敵を殺すのは悪か?それは罪に問われない。つまり「汝、殺すなかれ」が正しいかどうかは時と場合による。あくまで相対的なものだ。

第二次世界大戦を見てみよう。日本の軍人たちは「東京裁判」(極東国際軍事裁判)で裁かれ、7名が絞首刑となり、16名が終身刑を言い渡された。連合国側は1人も裁かれなかった。何故か?連合国側が勝ったからである。勝てば官軍だ。

戦争終結後、勝者が敗者を一方的に裁く。ここに「正義」はあるのだろうか?

戦争は軍人と軍人の殺し合いである。武器を持たない非戦闘員を殺してはならない。これが一応のルール、建前だ。現代においてもスカッド(弾道ミサイル)の誤爆が国際的非難を受けるのもこのルールに基づいている。

日本の真珠湾攻撃はアメリカ軍の太平洋艦隊と基地を対象にした攻撃であった。非戦闘員は狙っていない。ではアメリカ側はどうか?広島と長崎に投下された原子力爆弾は多くの一般市民の命を奪った。また東京大空襲は軍事施設以外も含む絨毯爆撃(無差別攻撃)で約11万7千人の死者が出た。大阪などでも大空襲があり、全国で被害者の総数は55万9千人に及んだ。果たしてこれらは大量虐殺(Massacre)・戦争犯罪ではないのだろうか?

「東京裁判」において、インド人のパール判事は国際法に照らして被告全員無罪であることを終始主張した。

戦後70年以上経過し、今は21世紀である。しかし未だに「日本軍はこんな酷いことをした」と言い募り、日本人に謝罪させ罪悪感を植え付けようとする者たちが後を絶たない。中国や韓国はもとより、我が国にも朝日新聞・東京新聞など自虐史観を強要するマスメディアがある。しかし不思議なことに彼らは、連合国の罪には一切触れない。何故なんだろう?戦争に一方(絶対)的な正義の側と悪の側なんてあるのだろうか?彼らはまるで、原罪を主張し「悔改めよ!」と狂ったように叫ぶキリスト教の司祭のようだ。実際に戦場で何があったかは知らない。しかし裁判において、祖父母の罪を孫が問われる判例などあるだろうか?あまりにも愚かしい。過去のことはどうでも良い。もっと建設的な、未来に向けての話をしようではないか。

2003年アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは「大量破壊兵器」を保持しているということを理由に、イラクを「の枢軸」と決めつけ、イラク戦争を起こした。2006年独裁者サッダーム・フセインは処刑された。しかし結局「大量破壊兵器」は見つからなかった。一体、とは誰のことだろう?

人間が社会という集団生活を営むにあたり、守らなければならないルールがある。それが道徳だ。自分は他人から殺されたくない。故に「汝、殺すなかれ」。つまりこれは真理ではなく道徳なのだ。町で困っているお婆さんを見かけたら親切にしてあげる。これは彼/彼女が善人だからではない。自分が年を取ったときには他者から助けてもらいたい。つまり情けは人のためならず。親切は持ち回り、相互扶助だ。「自分にしてもらいたいことを相手にせよ」という黄金律、道徳が根底にあるのである。

Q.E.D.

真理と呼ばれているものを徹底的に疑え。そして「正義」を振りかざす者を絶対に信じるな!

「正義」を振りかざすとは、例えば自分自身が被害者でもないのに、いわゆる「従軍慰安婦問題」につけ込んで(日韓合意調印後も)永遠に日本を攻撃し続ける卑しい者たちのことを指す。

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【アフォリズムを創造する】その4「立川談志とニーチェ」

ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で初めて語られた【力への意志】とは弱い(仕える)者が強い者(主人)になりたいという意志のことである。永遠の善悪など存在しない。善悪は、自分で自分を繰り返し克服していくしかない。権力者(神/社会)が定めた道徳、善悪の基準に縛られて、自分の欲求・願いを我慢するのは愚かなことだ。自分自身で善悪を創造せよ。そのためにはまず既存の価値観を破壊しなければならない。

【力への意志】Wille zur machtという言葉はナチス・ドイツにより曲解され、悪用された。レニ・リーフェンシュタール監督が国家社会主義ドイツ労働者党の第6回全国党大会の様子を撮った余りにも有名な記録映画「意志の勝利」Triumph des Willensのタイトルも明らかに【力への意志】を意識したものだ。ツァラトゥストラは語る「俺が待っているのは、もっと高い者、もっと強い者、もっと勝利を確信した者、もっと快活な者だ」(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)。「わが闘争」を読めば判るがヒトラーは自分こそが超人だと考えていた。しかしその実態はゲルマン民族至上主義の差別者であり、戦争を引き起こし国民に犠牲を強いる単なる独裁者でしかなかった。

ナチの思想はニーチェの考えとかけ離れているが、その哲学の危うい(誤解されやすい)側面を示していることも否定出来ない。

落語とは「人間の業」を肯定する芸能だと噺家・立川談志は語った。その思想はニーチェが説く【力への意志】とほぼ同じことを言っている。落語を聴き、朗らかに笑え。それが超人への第一歩となる。笑うライオンになれ!

立川談志の著書に「現代落語論」がある。そしてその続編「あなたも落語家になれる」に、かの有名な一節が登場する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。

「人間の業」の肯定とは自分自身の欲望に素直になり、それを無理矢理抑えつけるなということである。つまり【力への意志】だ。

「ツァラトゥストラはかく語りき」でニーチェはイエス・キリストが笑わないことを非難する。よく笑い、踊り、鳥のように軽やかに飛べ!がニーチェの主張だ。

ニーチェは「神は死んだ」と言い、キリスト教を徹底批判した。彼の両親は共にプロテスタントの牧師の家系であった。フロイトに師事して精神分析家となり、後に考え方の違いから袂を分かつたユングもプロテスタント牧師の家に生まれた。さらに「神の沈黙」三部作と呼ばれる映画を撮ったスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの父もまた、牧師だった。彼らがその思想を深化させた根源には父親に対する承認欲求反発があり、それが拗(こじ)れ、暴走したものと考えられる。

ウディ・アレンも私淑するベルイマンの映画「仮面/ペルソナ」はユング心理学に基づいており、また映画冒頭にキリストのメタファーであるタランチュラが登場するが、これはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」から拝借したアイディアである(第2部「タランチュラについて」)。

息子の父親に対する承認欲求がいかに強いかは、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の映画「エデンの東」が見事に描いている。

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【アフォリズムを創造する】その3「超人」とは何か?そして「永劫回帰」とは?

存在の不安から、また生きる意味を見出したくて人間は神や天国という超越的な価値、理想郷をでっち上げた。しかし神は死んだ。フリードリヒ・ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じた超人とは「この世に神様が存在しないんだったら、人間がその代わりを務めればいいんじゃね?」という発想に集約される。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは精神(=生)の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。「汝なすべし」と義務を課す大きな龍(=神)がライオンの行く手を阻む。しかしライオンは「われ欲す」と答える。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになるのだ。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

超人の秘密を知りたかったら映画「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督)を観よ。あるいはアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」(新房昭之)や「攻殻機動隊」(押井守)でもいいだろう。

「2001年宇宙の旅」の最後に木星探査船ディスカバリー号のボーマン船長はスターチャイルドへと進化を遂げる。このスターチャイルドこそ、ニーチェの言う子ども超人だ。だから映画の冒頭と最後にR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」が高鳴るのである。この時地球の向こう側から太陽が登って来るのだが、太陽とはツァラトゥストラの象徴である。ツァラトゥストラはゾロアスター(モーツァルトのオペラ「魔笛」に登場するザラストロも同じ)のドイツ語読み。ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーは太陽神であった。

「魔法少女まどか☆マギカ」の最後に鹿目まどかは「アルティメットまどか」に変身する。この「アルティメットまどか」も超人である。そして「アルティメットまどか」は全ての魔法少女たちを円環の理(えんかんのことわり)へ導く。円環の理とは何を隠そう、「ツァラトゥストラはかく語りき」で言及される永劫回帰(えいごうかいき)のことである。

また「マトリックス」にも多大な影響を与えた「攻殻機動隊」の最後に、主人公・草薙素子はネットの海に溶け込み同化する。これは彼女が神(超人)になったことを意味している。「2001年宇宙の旅」で人類に進化を促すモノリス(石版)を創った宇宙人は映画終盤にベッドルームで笑い声を発するが、姿は見えない。つまり彼らも草薙素子同様に肉体(「攻殻機動隊」における義体)を失い、魂が海(宇宙)に漂っている存在であると推定される。

また原作:大場つぐみ、作画:小畑健による少年漫画「DEATH NOTE デスノート」もまた、神になろうとした男の物語である。しかしその野望は死神リューク(ゲーテ「ファウスト」に登場するメフィストフェレスの役回り)の気まぐれで打ち砕かれる。金子修介監督による映画版も、舞台ミュージカル版も完成度が高い(Netflix版には絶対手を出さないように!!)。

永劫回帰とは超人的な意思により、ある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことである。

永劫回帰はウロボロスのイメージで表せる。己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。あるいは禅宗における書画「円相」にも喩えられるだろう。始まりもなく終わりもない。音楽で言えば短い音型やリズム・パターンを反復する)ミニマル・ミュージックがこれに該当する。

Uroboros Ensou

上図左がウロボロス、右が円相である。

永劫回帰のことをもっとよく知るためには、押井守監督の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」も参考になるだろう。「ビューティフル・ドリーマー」で意思する者はラムであり、「まどマギ」では「アルティメットまどか」。そしてになったまどかを取り戻すために悪魔になることを決意する暁美ほむらもそう。この悪魔の対決は、ミルトンの小説「失楽園」に基いている。さらに永劫回帰「ループもの」映画の代表として、他にビル・マーレイ主演「恋はデジャ・ブ Groundhog Day」(1993)を推薦しておこう。小説ならケン・グリムウッドの「リプレイ」や北村薫の「ターン」ね。

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はその著書「シネマ1 運動イメージ」「シネマ2 時間イメージ」で映画を素材に哲学を語った。現代において哲学を体感し、思考する力を育むには、優れた映画やアニメーションを沢山観ることが格好の教材となるだろう。

特にお勧めしたい作品は上述した6作品に加え、「仮面/ペルソナ」、「未知との遭遇」、「ブレードランナー」、「いまを生きる」「インセプション」、「風立ちぬ」、「君の名は。」、そしてドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「メッセージ (Arrival)」などが挙げられる。

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【アフォリズムを創造する】その2「EU及びグローバリズムという病」

上記事も併せてお読みください。

EUやグローバリズム(世界の一体化を進める思想)は、国家や地域などの境界を超えて繋がろうという動きである。そこには挫折したアナーキズム(無政府主義)の亡霊が彷徨っている。アナキストたちはジョン・レノンの夢を見る。

ジョン・レノン"Imagine"の歌詞は次の通り。

Imagine there's no countries 国なんかないって想像してごらん
It isn't hard to do       そんなに難しくはないだろう? 
Nothing to kill or die for   殺す理由も死ぬ理由もなく
And no religion too      宗教だってない
Imagine all the people    想像してごらん みんなが
Living life in peace       平和に暮らしている姿を

You may say I'm a dreamer   君は僕のことを夢想家って言うかもね
But I'm not the only one          でも僕一人だけじゃないよ
I hope someday you'll join us   何時か君も僕らの仲間になって欲しい
And the world will be as one  そして世界は一つになるんだ

この思想の根底にはキリスト教の説く隣人愛人間の平等がある。しかしニーチェは「それは弱者を甘やかし、人間から生命力を奪う教えである」と真っ向から否定した。ここでよく言われるのが、「ニーチェは民主主義を否定した」という誤解である。「わが闘争」を読めば判るが、ヒトラーもニーチェの思想を自分の都合のいいように曲解している。

ニーチェはファシズムに利用されたが、それは彼の意図したことではない。ニーチェは貴族・平民といった身分制度(社会階級)を肯定していないし、ましてや議会制民主主義を否定していない。

ニーチェが主張する「人間は平等ではない」という思想は能力生命力の差異の話である。優秀な人間もいればそうでないのもいる。働き者もいれば怠け者もいる。彼らを対等に扱うのは間違いだ。その誤謬に気が付かなかったために共産主義国家は失敗した。

例えばアインシュタインのような天才と、凡人は対等だろうか?毎日8時間働く真面目な人と、週2日のアルバイターの稼ぎ/生活水準は同じでいいのか?

人間が平等であるべきなのは力を発揮する「機会」においてのみである。どんな家庭環境に生まれようが、優秀ならば最高の教育を受けるチャンスが与えられるべきだし(学業の自由)、肌の色や人種で職業選択の自由が奪われるべきではない。しかし能力や仕事量で社会的地位や財産に差が出るのは当然である。それは差別ではなく、本人が有する力の差異だ。

努力は必ずしも報われない。人は(能力や容姿において)平等じゃないからだ。時には夢を諦めることも肝心である。

EUが抱える問題は「財政破綻した怠け者のギリシャ人を勤勉なドイツ人が助ける必要があるのか?」ということに集約されるだろう。故にイギリスは脱退を決めた。隣人愛なんかクソ喰らえ。またアメリカ合衆国でトランプ大統領(共和党)を支持したブルーカラーの人たちの叫びは「アメリカに生まれ真面目に働く俺達を蔑ろにして、不法移民を大切に扱う民主党なんか許せねぇ!」ということに尽きる。欧米は深く病み、分断されている。その根底にキリスト教の思想がある。

シリア難民をどれだけ受け入れるのか?というヨーロッパ各国の苦悩も隣人愛博愛に関連している。特にドイツはナチスという負の遺産・罪悪感があるだけに断り切れないのだ。僕がここで不思議に思うのは、サウジアラビア・エジプト・イランなどシリア周辺諸国での難民受け入れはどうなってるの??ということ。イスラム圏の問題はイスラム諸国で解決すべきだろう。ヨーロッパが貧乏くじを引く道理はない。

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