日記・コラム・つぶやき

君たちはどう生きるか?

将来、当ブログを読むであろう息子(現在小学校1年生)に向けてこの文章を書く。僕が今まで生きてきた過程で学び、培ってきたフィロソフィー(哲学/哲理)を語ろう。

① 生成変化しない者に価値はない。

生成変化とは、20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが打ち立てた概念である。2018年、秋元康が作詞した乃木坂46の"Against"(卒業する生駒里奈に贈った楽曲)が生成変化とは何かを教えてくれる(視聴はこちらから)。

僕らは変わらなきゃいけない
永遠なんか信じるな!
昨日の自分とは決別して
生まれ変われ!

このままここに居続けるのは
誰のためにもならない
新しい道を切り拓いて
立ち向かうんだ
アゲインスト (秋元康 詞)

僕は10代の頃から「昔は良かった」と言うような大人には絶対になりたくない!と決意していた。そして幸いなことにならなかった。「今」が一番楽しいし、「今」が一番充実していて、濃密な時間を生きている(現在進行形)と胸を張って言い切れる。20歳の自分より「今」の自分の方が絶対に賢い。昔の映画の方が面白かった?そんなの嘘っぱちだ。ただ感性が衰えただけ。

《生きながら死んでいる、化石のような大人》にはなるな!そのためには本を読み続けること。新しいもの(音楽・映画・演劇など)を貪るように吸収し、感性を磨くこと。生涯が学びの場だ。そのことを肝に銘じるべく、次の詩を紹介しよう。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

(中略)

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

(茨木のり子/詩集「自分の感受性くらい」所収)

② 境界を超えろ。自分の周囲にあるを壊せ!

漫画「進撃の巨人」のを思い出してくれたらいい。

「新世紀エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン新劇場版)」で言えばA.T.フィールドね。境界を超えるとはつまり、生成変化に繋がる。更に言い換えるなら《トリックスター(遊戯的撹乱者)になれ!》ということ。

対立する二つの陣営があったら、どちらにも組みすることなく、両者を仲介し、循環する存在になれ。思いっ切り混ぜっ返せ。それがトリックスター(遊戯的撹乱者)だ。循環をニーチェ哲学の言葉で言い表すなら永劫回帰となる。

③ 欲望に忠実に生きなさい。但し、他人の迷惑にならない範囲で。

「禁欲」は美徳ではない。愚かなだけ。履き違えるな。折角この世に生を得たんだ、チャンスは二度とない。せいぜい限りある人生を楽しまなくちゃ勿体ない。しかし新しい土地を得たいからと戦争して他国を侵略しちゃいけないし、性欲を満たしたいからと強姦するのも駄目。他人の犠牲の上に自分の幸福を築くな。これが最低限のルール(抑止力)だ。

立川談志「現代落語論」の言葉を借りるなら、「人間の業(ごう)」を肯定するということ。彼の著書「あなたも落語家になれる」から以下引用する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。
落語をお聴きなさい。

④ 矛盾を恐れるな。首尾一貫しなくていい。

矛盾していていいんだということはアニメーション作家(引退詐欺師!)・宮崎駿の生き様から学んだ。

将来を見据えた、理路整然とした人生設計なんか要らない。「予定通りいかない。番狂わせが面白い(ミュージカル「エリザベート」より死神トートの台詞)」出たとこ勝負だ!

若い頃僕は、例えば海外旅行に行く時に第1日目はここへ行って、次はあそこ、と時間刻みの綿密な計画を立てていた。でもある日、旅の醍醐味って想定外の出会いにあることに気が付いたんだ。事前の計画は大雑把でいい。後は現地で得る自分の感(臭覚・触覚 etc.)を信じるのみ。

野生の思考
を絶えず研ぎ澄まし、その場にあるありあわせのものでブリコラージュ(器用仕事/寄せ集め細工)すること。為せば成る。なんとかなるさ。

⑤ 行き詰まったらその場で踏ん張らず、直ちに「全力で」逃げなさい。逃げるは恥でも役に立つ。

学校でいじめられて、どうしようもなくなったら転校すればいい。それだけのこと。ジル・ドゥルーズの提唱する概念で語るなら、皆が当たり前と思って歩く道を逸れ、逃走線を描け!ノマド(遊牧民)として生きよ。ということになる。君が今いるそこだけが世界じゃない。失敗したら新天地で何度でもやり直せばいい。もっと視野を広げてごらん。追い詰められて、思い詰めて、自殺するなんて馬鹿げている。徹底的に自分を肯定すること

⑥ 生きる意味を考えるのは構わない。でも答えを求めるな。正解なんかないんだ。

人間というのは自分が生きる意味をどうしても考えてしまう生き物だ。余り思いつめると新興宗教にはまり、地下鉄でサリンをばらまいたりする羽目になる。マルクス思想に絡め取られ、銃を握りしめて浅間山荘に立てこもった若者たちもいたな。でもね、人は誰しも、いつかは必ず死ぬ。金持ちも、貧困層も、頭が良かろうが悪かろうが皆平等だ。そして息を引き取る最後の瞬間まで自分は何故いまここにいるのか、その意味を考え続ける。多分それ自体が「生きる」ということなんだ。つまり答えのない質問(The Unanswered Question)を問い続けること。人生には「目的」も、「神の計画」もない。「過程」が全てだ。

神は死んだ(by ニーチェ)。万物は流転する。

もしも僕の生に何らかの意味があるのだとしたら、それは「つなぐ」ことなのだろう。僕の人生の中で得たものを次世代に伝える。そうすれば君たちはさらに「その先に」進める筈だ。人類の歴史はその繰り返し(経験と知識の集積)だった。だから僕は今、ブログを書いている。君たちもリレーに参加し、つなぎなさい。但しゴールはないんだ。

⑦ 正義とか悪、不変の真理を説く者を信じるな。徹底的に疑え!

「正義」を騙(かた)る者の胡散臭さをまざまざと見せつけたのはジョージ・W・ブッシュ元アメリカ大統領である。イラクのフセイン大統領を「悪の枢軸」と決めつけ、大量破壊兵器があると主張して侵略戦争を実行した。しかし結局、大量破壊兵器は影も形も見つからなかった。2001年9月11日に勃発した同時多発テロの直後にブッシュの支持率は92%に達し、「史上最高」を記録した。ブッシュもどうかと思うが、熱狂的に彼を讃え、信じたアメリカ国民も救いようがない。アドルフ・ヒトラーを支持した当時のドイツ国民と大した違いはない(ナチス党は普通選挙で第一党となった)。どうして人はこんなに騙されやすいのだろう?暗澹たる気持ちになった。

大学生の頃、手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」を読んで衝撃を受けた。そこには【戦争に「正義の側」と「悪の側」などというものは存在しない】ことが明確に書かれていたのである。ナチス・ドイツに迫害されイスラエルを建国したユダヤ人は結局、4度にわたる中東戦争を通じてパレスチナ人を虐殺している。そこまで手塚は描いている(後にポール・バーホーベン監督「ブラックブラック」にこのテーマは継承された)。結局「正義」とか「悪」という価値観はあくまで相対的なものであって、絶対的なものではないのだ。時代や場所によって変わるし、戦争では勝った者が「正義」であり、勝者が敗者を一方的に裁くことになる(ジャンヌ・ダルク処刑裁判/ニュルンベルク裁判/東京裁判)。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは言い得て妙だ。故に「永遠に不変(普遍)の真理」など存在しない。そういうものを説く教祖・司祭の言葉は眉唾ものと思い、化かされないようご用心なさい。

⑧ 世の中、言ったもん勝ち。

これは本当に大切なことだ。きっちり自己主張すること。遠慮しては駄目、勿体ない。控えめにして出しゃばらないことが美徳だと考えている日本人は多いが、絶対に間違い。結局自分が損をする。間違っていてもいい、とにかく声に出す勇気を持つこと。それで失敗したら修正して言い直せばいい。それだけ。疑問があったら必ず手を挙げて質問してごらん。きっと世界が広がるから。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。

人間の条件はコミュニケーションを取ること。これに尽きる。そのためにはまず自分の意志を相手に伝えなければ始まらない。勿論言いっぱなしでは駄目で、相手の言葉にも耳を傾けよう。僕が敬愛してやまない大林宣彦監督の言葉を紹介する。「人は傷つきあって、許しあって、愛を覚える」(原文こちら)ーこれこそ数々の映画たちが今まで語ってきたことである。

⑨ くよくよ悩まず、結論を出すのは明日に延ばせ!

アメリカ合衆国の政治家ベンジャミン・フランクリンの格言で「今日できることをあしたにのばすな(Never put off till tomorrow what you can do today.)」がある。これは行動(Act)の話。僕が言っているのは思考(Thinking)のこと。僕が今まで出会った中で、最も影響を受けた(心に響いた)小説はマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」とレフ・トルストイの「戦争と平和」である。どちらも中学生の時に読んだ。以下「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラの名台詞を引用する。

"I'll think about that tomorrow. (中略)Tara! Home. I'll go home. And I'll think of some way to get him back. After all... tomorrow is another day."
「そのことはまた明日考えましょう。タラ!そうよ、我が家。お家に帰ろう。そして彼(=レット・バトラー)を取り戻す方策を練るのよ。だって結局、明日は明日の風が吹くのだもの」

よい考え、ひらめきは、ひょんなことから生まれることがある。例えば秋の虫や鳥の歌声に耳を傾けながら散歩している時、あるいは空に浮かぶ雲をボーッと眺めている時。それは不意にやって来る。だから焦らず、まずはゆっくり睡眠時間を取ろう。懸案事項は一晩寝かせることも大事。すると新たに見えてくるものもある。このブログ記事だって実は毎日少しずつ書き足しながら、1ヶ月ほどじっくり熟成させた成果なんだ。

最後に、フェデリコ・フェリーニ監督の映画「8 1/2」の名台詞を、未来を生きる君たちへの餞の言葉としたい。

⑩ "È una festa la vita, viviamola insieme."
  「人生は祭りだ!一緒に過ごそう」

さあ踊れ、そして騒げーっ!!

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日本人よ、もっと誇りを持て!

是枝裕和監督「万引き家族」(公式サイトはこちら)がカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した。

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現在までに同賞を勝ち取った日本映画は衣笠貞之助「地獄門」、黒澤明「影武者」、今村昌平「楢山節考」「うなぎ」そして「万引き家族」の5作品である。

大変めでたいことである。しかし「誇りに思う」とか「日本人スゴイ」とか気軽に言えない空気が我が国には蔓延している。未だにマスコミの大勢を占める左翼ジャーナリストたちの(日の丸とか、君が代とか)「愛国心」に対するアレルギー、嫌悪(Hate)がその原因となっている。

自分が生まれた国を自慢したくなるのは自然な気持ちの発露であるし、それを安易に「右翼」とか「国粋主義」「ファシズム」に結びつけようという彼らの思考は余りにも短絡的で愚かだ。お国自慢や家族自慢は「悪」ですか?馬鹿馬鹿しい。日本人はもっと自分たちに自信を持ったほうが良い。謙虚であることと、必要以上に卑下すること・自虐は全く別物である。

例えばある小学生が学校でいじめにあい、汚物扱いされているとしよう。「ああ僕/私って駄目な人間なんだ。消えてしまったほうがいい」と、そう考えてしまったらもうお終い。自殺という最悪の結果が待ち構えている。親が真っ先にすべきこと。まずいじめをやめさせること(しかし大抵の場合は難しい)。それが無理なら逃げ出すこと。転校して環境を変える。いちばん大切なことは駄目じゃないってことを本人に分からせ、自信を持たせることだろう。否定からは何も生まれない。徹底的に肯定し続けること

さて、カンヌで5回パルム・ドールに選ばれたことがどれだけ凄いことなのかを客観的データでお示ししよう。以下、ロシアやアジアなど近隣諸国の過去の成績を列挙する。

ソビエト連邦ーロシアの受賞が「偉大な転換」「鶴は翔んでゆく(戦争と貞操)」の2回、中国がチェン・カイコー「さらば、わが愛/覇王別姫」の1回、台湾・韓国は0。

では次点のグランプリ(審査員特別賞)はどうか?日本は市川崑「鍵」、小林正樹「切腹」「怪談」、勅使河原宏「砂の女」、小栗康平「死の棘」、河瀬直美「殯の森」の6作品。ソビエト連邦ーロシアは「惑星ソラリス」「シベリアーダ」「懺悔」「太陽に灼かれて」の4作品。中国はチャン・イーモウ「活きる」、チアン・ウェン「鬼が来た!」の2作品、韓国はパク・ヌチャク「オールド・ボーイ」(原作は日本の漫画)の1作品、台湾0である。

次に米国アカデミー外国語映画賞を見てみよう。なお1950−55年は「名誉賞」と呼ばれていた。

日本映画は黒澤明「羅生門」、衣笠貞之助「地獄門」、稲垣浩「宮本武蔵」、滝田洋二郎「おくりびと」の4作品。

ソビエト連邦ーロシアは「戦争と平和」「デルス・ウザーラ(但し監督は黒澤明)」「モスクワは涙を信じない」「太陽に灼かれて」の4作品、台湾がアン・リー「グリーン・デスティニー」の1作品、中国と韓国は0(韓国映画はノミネートすら一度もされたことがない)。

あと宮﨑駿「千と千尋の神隠し」がアカデミー長編アニメーション映画賞を受賞していることも忘れてはならないだろう(ベルリン国際映画祭では金熊賞=最高賞)。これもロシアを含むアジア諸国において、唯一の快挙である。

如何です?大したものじゃないですか。日本映画・ジャパニメーションは胸を張って世界に誇れる文化なのです。

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何故土俵は女人禁制なのか?「野生の思考」でその謎を読み解く。

4月4日、京都府舞鶴市で行われた大相撲春巡業で、市長が土俵上で挨拶中にくも膜下出血で倒れた際、救命処置をした看護師の女性が土俵から下りるよう場内放送で促されたことが大問題となっている。また市長が担架で運び出された後、大量の塩が撒かれたことが発覚し、日本相撲協会が大炎上となった。

恐らく、「土俵が女人禁制なのは何故か?」を理解出来ない人々は多いのではないだろうか。

以前は高野山や比叡山の入山も「女人禁制」であった。現在でも兵庫県淡路島の舟木石神座や、奈良県の大峯山など「女人禁制」の地は幾つか残っている。中でも非常に興味深いのが石川県の石仏山。14歳以上の女子は立ち入ることができないという決まりがある。どうして14歳なのか?ここに謎を解く大きなヒントがある。

土俵や霊山は神聖な場所であり、結界が張られている(という設定になっている)。ここからは神話の世界だ。近代科学の常識や理性はひとまず横に置いて、話の続きを聴いてください。

日本における相撲最古の記録は712年に編纂された「古事記」にまで遡る。「力士(ちからひと/すまひひと)」という言葉も登場する。やがて神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼として現在まで続いている。つまり相撲と神道は切っても切れない関係なのだ。

大相撲の歴史は250年くらいであり、江戸時代に産声を上げた。17世紀であり、1300年を超える相撲の歴史から考えればつい最近の話だ。所詮は「ひよっこ」に過ぎない。そして「女人禁制」のルールは大相撲から始まった。

720年に完成した「日本書紀」には雄略天皇が二人の采女(うねめ、女官のこと)に褌(ふんどし)を付けさせ、相撲を取らせたと記載がある。また室町時代には比丘尼(びくに)による女相撲が行われている(「義残後覚」〜比丘尼相撲の事)。

「女人禁制」の理屈はこうだ。女性には月経がある。だから神聖な場所を穢(けが)すことになる。月経時には子宮内膜が脱落するので、こちらは「生体の腐敗」のメタファーとして機能する。石仏山に14歳以上の女子という条件がついているのも初潮以降は「不浄」だから、まかりならないというわけだ。故に日本相撲協会は穢れ清めるために塩を撒いた。

しかしこう考えてはどうだろう?以下フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースの著書「野生の思考」に記載された、北米先住民ヒダツァ族の鷲狩りについてご紹介しよう。

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手順は次の通りだ。鷲狩りをする人間は地面に穴を掘り、その中に横たわって身を潜める。上には、事前に仕留めての付いたヘラジカの肉を縛り付けたウサギを罠として置く。ウサギはまるで皮が裂け(内臓が露出し)死んでいるように見える。鷲が騙されてウサギを獲ろうと地上に降りた瞬間、ウサギの下に潜んでいた人間が即座に起き上がり鷲を捕獲する。この鷹狩で不浄期間中の女性が良い影響を及ぼすとされている。

鷲狩は空間的にも、神話中の鳥の等級においても、もっとも「高い」位置にある獲物を捕らえる行為である。レヴィ=ストロースは次のようにその構造を分析する。

鷲狩は猟人と獲物の間にある最大距離を縮めるものと考えられており、その媒介は、技術面では餌によって行われる。餌は肉片か狩猟で得た小動物であるから、にまみれており、また腐敗しやすい。(中略)あまりに距っていて、はじめは如何ともし難く見えた離間を克服して連接に転ずるには、まさに、によるほか手段はないのである。

月経は、および生体の腐敗として餌を象徴し、また餌は体系(system)の一部である。(中略)穢れとは、少くとも北アメリカのインディアンの考え方では、それぞれ「純粋(清浄)」な状態にとどまるべき二項の間に、緊密すぎる連続が生ずることなのである。近くにいる獲物をとる狩猟では、女性の月経はつねに過渡の連接を生じて、余剰のために初期関係を飽和させ、その動的効果を中和してしまうが、離れた獲物を対象とする狩猟ではそれが逆になる。連接が不十分であって、その不足を補なう唯一の手段はそこに穢れを入れてやることである。この穢れは、継起性の軸(通時態)では「周期性」を、同時性の軸(共時態)では「腐敗」を表すものとなる。

これら二軸のうち一方(周期性≒春夏秋冬の繰返し)は農業神話に、他方(腐敗)は狩猟神話に対応するものである。

(「野生の思考」大橋保夫訳、みすず書房)

さて、日本の神話において天照大神(アマテラスオオミカミ)は太陽神である。人間との垂直方向の隔たりは膨大である(鷹を遥かに上回る)。先に書いたように神事相撲は神に近づき、感謝の気持ちを伝えようという儀式なのだから、そこには穢れの導入が必要なのではないだろうか?

また神道では基本的に肉食を禁じておらず、鹿肉や猪肉を神にお供えすることもある(詳しくはこちら)。奈良時代以降に広まった仏教の不殺生という戒律の影響で、獣肉の食用が厭われるようになった。つまりや肉を結界の内に持ち込むことは本来タブーではないのである。

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「愛国心」は悪なのか?〜江川紹子発言を「野生の思考」で読み解く。

平昌オリンピック・フィギュアスケート男子の結果について、ジャーナリストの江川紹子はこうツィートした。

つまり日本という国家を否定し、コスモポリタン(国際人)になれというわけだ。そのくせ彼女のTwitterでは日本人選手ばかり応援している。矛盾だ。「日本人スゴイ!」じゃないのなら、各国の優秀な選手を平等に応援すべきだろう。2014年のこんなツィートも発掘されている。

Shoko

彼女に限らず左翼ジャーナリストたちは日本という「国家」を否定し、「愛国心」を嫌悪する。それはファシズムの台頭や大政翼賛会・治安維持法など悪夢の再現を連想させるからだろう。

週刊朝日が橋下徹氏(当時大阪市長)に対して「ハシシタ 奴の本性」という連載記事を掲載し、大問題となったことがあった(詳しい経緯はこちら)。結局、朝日新聞社は謝罪し、朝日新聞出版社長は引責辞任した。この問題の根っこには大阪府知事時代に橋下氏が主導し、可決された「国旗国歌条例」があった。自治体教職員に対し、学校行事で行う国歌斉唱は起立により斉唱することを求める内容である。左翼の人々は日本の国旗や国歌に対して憎しみの感情を抱いているので、起立や斉唱を強いられることに怒りを爆発させたのである。しかし公務員って公僕、つまり「国家に仕える者」でしょう?あたりまえのことじゃない?

アメリカ人は国内のバレードで星条旗を掲げ、お祭り騒ぎをする。そんな彼らを「この右翼/国粋主義者どもめが!」と罵る者はいない。韓国人だって愛国心はある。自分が生まれた国を愛し、誇りに思うことってそんなに悪いこと、罪なのですか?僕には理解し難い。

そもそもオリンピックはスポーツという手段を用いた国家間競争である。国ごとに代表選手枠が決まっているし、表彰台には国旗が掲揚される。このシステムは愛国心の発露以外の何ものでもない。

ここで20世紀フランスを代表する思想家で、社会(文化)人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースの著書「神話と意味」(元々は1977年にカナダで放送された、ラジオでの講演)から引用しよう(大橋保夫 訳、みすず書房 刊)。レヴィ=ストロースは「野生の思考」で余りにも有名であり、構造主義を打ち立てた。哲学者のミシェル・フーコーやジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズらがポスト構造主義と呼ばれる所以である。

(地域・文化間の)相違とは非常に豊かな力をもつものです。進歩は、相違を通してのみなされてきました。現在私たちを脅かしているものは、"Over-Communication"とでも呼びうるものでしょう。つまり、世界のある一点にいて、世界の他の部分で何が行われているかをすべて正確に知りうるようになる傾向です。ある文化が、真に個性的であり、何かを生み出すためには、その文化とその構成員とが自己の独自性に確信を抱き、さらにある程度までは、他の文化に対して優越感さえ抱かねばなりません。その文化が何かを産み出しうるのはUnder-Communicationの状態においてのみなのです。私達はいま、(中略)独自性をすっかり失ってしまうのではないかという展望に脅かされています。

引用下線部でレヴィ=ストロースは愛国心を肯定している。つまり「日本スゴイ!」「日本人スゴイ!」で良いのだ。それは右翼思想とか全体主義と何ら関係がない。

この講演はいまから40年以上前のものだが、ここで彼が述べる"Over-Communication"とは現在のEU(欧州連合)の姿であり、「グローバリズム(国を超えて地球全体を一共同体としてとらえる考え方)」と言い換えることも出来るだろう。何という先見性だろう!

左翼ジャーナリストたちは「グローバリズム」を賛美する。何故ならそれは緩やかな共産思想だからである。

またレヴィ=ストロースはこうも言っている。

文明が均一になればなるほど、分離しようとする内的な傾向がはっきりしてきます。(中略)これは個人的印象であり、この弁証法的作用についてはっきりした証拠があるわけではありません。しかし人類がほんとになんらかの内的多様性なしに生きうるとは思えないのです。

正に彼は、イギリスのEU離脱を予言していたのである。フランス人すごい!

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【アフォリズムを創造する】その10「哲学について」

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは「哲学とは新しい概念の創造である」と言った。

哲学は生きるヒントを与えてくれる。哲学によって世界の見方が変わる。

僕はユング心理学やニーチェの哲学を学ぶことで、映画や音楽など芸術に対する理解が一層深まったことを実感している。そのことは拙ブログ記事を通して納得して頂けるだろう。「哲学って何かの役に立つの?」と懐疑的な方もおられるだろう。しかし自信を持って言おう。「哲学を知れば、人生がより豊かになる」「よりよく生きるにはどう振舞うべきかを教えてくれる」のだと。

人はみな、多かれ少なかれ存在の不安と死への恐怖を抱いて生きている。霊魂(死後の世界)を信じたり、占いや風水、血液型性格判断に頼る人がいるのも、そういう心情に起因する。「私」に自信がないから、自分の運命を他者に決めてもらいたい。つまり依存心だ。「何故人は生きるのか?」「我々は何処から来て、何処へ行くのか?」……その疑問を解消する一つの手段として宗教があるし、もし貴方が神を信じないのであれば哲学書を読めばいい。

人はラクダ→ライオン→子どもという進化の過程をたどるとニーチェは主張する。最終的に現れるのが超人だ。そして私たちは超人への橋渡しを担っているというわけだ。成る程、それが我々の生きる目的なのだ。つまり未来(子孫)に希望を託す役割と言えるだろう。僕はこの説明がすっと腑に落ちた。例えば人類の歴史を考えてみよう。一進一退はあるけれど、大局的に見れば良い方向に進んでいるのではないだろうか?専制君主制から民主主義の世の中に移行したし、先進国に限って言えば戦争や貧困も確実に減った。日本だって、つい70年ぐらい前には餓死者がいたんだから。そりゃあ世界的に見れば今だって飢えに喘ぐ人たちはいるし、紛争は絶えない。でも彼らも発展の途上にいるのだ。早いか遅いだけの違いだと僕は信じたい。医療の進歩で平均寿命も飛躍的に伸びた。超人の誕生も、そう遠くない将来なのではないだろうか?

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【アフォリズムを創造する】その9「ネット炎上」のメカニズムを読み解く

高校生・大学生らは学校の教室で友達に話すように気軽に「あの娘とヤリたい」とか「今日バイト先でこんな失敗をやらかした」とかtwitterとかフェイスブック、インスタグラムなどSNSに書き込む。

ドストエフスキーの「罪と罰」や島崎藤村の「破戒」でも描かれたように、自己の隠れた欲望や罪の告白は人びとの面前で行われなければならない。それはカトリック教会の懺悔室で行われてきた告解に似ている。告解は逆に、司祭(神父)が信者の心を支配する仕組みでもある。

秘密を自分の胸の内にだけしまっておくことは苦しい。開放し、風通しを良くする必要がある。

社会人もまた、会社の上司にムカついたことや、学校の先生が生徒の悪口をつい漏らしたりもする。ここではSNSがストレス発散の場として機能している。いわばカウンセリングルームでリクライニングチェアにゆったり横たわり、心理療法士/精神科医に語ることの代用品のようなものだ。あるいは居酒屋やバーでの気の置けない仲間との会話、個人的な日記に書き込むような感覚。

不思議な事に彼らはその告白の先に、自分に好意的な善人、信頼出来る相手(Intimate Friends)しかいないという幻想を抱いている。ネット社会が不特定多数の棲む世界に開かれており、悪意に満ちていることを知らない。

しかしネット民(フォロワー)たちは突然、カトリックの司祭に豹変する。自分たちの善悪の基準を押し付け、道徳を説き、お鬼の形相で「悔改めよ!」と迫るのだ。それが炎上(Flaming)である。彼らはSNSの発信者に自己の放棄を求め、死を命じる悪魔的権力となる。ジャンヌ・ダルクを火刑に処すように。彼らの潜在意識には、迷える子羊を導く羊飼いになりたいという、牧人願望がある。言い換えるなら他者の上に立ちたい、王様気分を味わいたいという仮想権力への憧憬(=妄想)だ。

SNSでは自分の幸せを呟くことも許されない。次の記事を読んでみて欲しい。→「マイホーム購入!」という冗談で、ネット民から袋叩きにされてしまった10代のカップル

ネット民は他人の幸福なんか許せない。彼らは血に飢えたオオカミのように生贄贖罪の山羊(scapegoat)を求めている。人は日々、不満や不快を抱えて生きていると無意識のうちにルサンチマン(弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情)を抱く。その標的となりやすいのが芸能人(例えば斉藤由貴)であり、政治家(今井絵理子)だ。特に不倫は絶対に許せない。「あいつだけ美味しい思いをしやがって!」という嫉妬心を沸々と滾らせるのだ。

芸能人が謝罪会見を開いたり、政治家が辞職することでネット民たちの昏(くら)い欲望は満たされ、彼らは甘い快感に浸ることが出来る。つまり王様気分だ。

芸能人にとってイメージは大切であり、ある程度倫理(アイドルの場合は恋愛禁止の掟)を求められるのは致し方ない。CMに出演している場合、購買者に悪い印象を持たれては商品(アイドルの場合はCD=握手券)が売れなくなってしまう。しかし政治能力と道徳は別だろう。ジョン・F・ケネディはマリリン・モンローと不倫の関係にあったが、今更そのことをとやかく言う者はいない。ケネディは大統領として立派な仕事をした。それで十分だ。

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【アフォリズムを創造する】その8「立証責任について」

「神は存在する」「神はいない」どちらに立証責任があるだろう?地球上を全て探しても神は見つからなかった。でも宇宙の何処かにはいるかも知れない。宇宙は果てしない。隈なく調べ尽くすことは不可能だ。だから不在の証明は出来ない。故に立証責任は常に「いる(存在する)」と主張する側だけにある。

これは「悪魔の証明」とも言われる。「ツチノコはいるか?」「宇宙人(地球外生命体)は存在するか?」などの議論も同様である。

次のように説く者がいるかもしれない。「瑠璃色の地球があること自体が奇跡です。そして我々人間が存在することも奇跡。だから創造主(神)は必ずいるのです」しかしこうも考えられないだろうか?「地球が誕生したのはたまたま偶然の積み重ね。進化の過程で人間が生き残ったのも自然淘汰でたまたま選別された結果」つまり人間が特別である、奇跡だという主張は詭弁であり、証明出来ない。

「神の存在」は絶対不変の真理ではない。それは概念 consept(思考によって捉えたものの表象、イメージ)だ。宗教とは概念の創造、つまり思想である。

ここで日韓合意後も、韓国がしつこく日本を誹謗中傷するいわゆる「従軍慰安婦」問題と、中国が主張する「南京大虐殺」について考察してみよう。今まで述べてきたようにそういう事実が「あった」と主張する側と「なかった」と主張する側のどちらに立証責任があるかは明白である。日本はただ、静観していればいい。何故なら無かったことは証明出来ないのだから。

いわゆる「従軍慰安婦」問題で最初に認識しておかなければならないのは、争点が第二次世界大戦当時の日本軍に慰安所があったかどうかではないことである。「慰安所はあった」「そこに働いている朝鮮人の女性たちがいた」ことは紛れもない事実。これは双方が認めており、問題にはならない。なぜなら1950年に勃発した朝鮮戦争の時にアメリカ軍にも韓国軍にも慰安所はあったからである。それは1970年の映画「MASH マッシュ」でも描かれている。つまり朝鮮人の女性(当時韓国は存在しなかった)が日本軍によって強制的に連行された事実はあるのか?という一点のみが争点となる。果たして韓国側は立証出来るのだろうか?そういうことを指示した軍の指令書は現時点で発見されていない。元慰安婦の証言も一切証拠にはならない。《ある日家にいたら女衒(ぜげん:人身売買の仲介業者)が突然現れて無理やり連れて行かれた》←これは江戸時代に遊郭に身を沈めた日本の女性たちにも起こった出来事である。果たして彼女の両親は女衒から金を受け取っていなかったのだろうか?貧しさゆえに業者と合意の上で「娘を売った」と、本人には言えない場合も当然あるだろう。そりゃ良心が咎めるだろうし、当人を責めることは出来ない。真相は藪の中だ。

次に南京大虐殺(1937)について。南京に民間人の死体が沢山転がっていた。これは事実だろう。しかしそれだけでは戦争犯罪にならない。日本人も非戦闘員が東京や大阪の大空襲、広島・長崎の原爆投下で多数犠牲になった。このことで誰かが罪に問われたことは未だ嘗てない。つまり争点は日本軍が(アウシュビッツでナチス・ドイツがしたみたいに)意図的に非戦闘員を処刑した事実はあるのか?という一点に絞られる。それが事実ならば軍の指令書がある筈だ。軍隊は縦社会だから、もし上からの命令がなく一兵卒の判断でそれが実行されたのであれば、軍法会議に掛けられた筈。その記録はあるのか?ここで問題となるのは便衣兵の存在である。一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことである。これは国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけられ処刑される。当時中国には便衣兵が多数いた。彼らを日本軍が処刑しても何ら問題はない。しかし、事情を知らない欧米人(ジョン・ラーベら)から見たら、日本人が中国の民間人を虐殺しているように映ったかも知れない。こちらも事実関係は藪の中だ。果たして中国政府は日本軍の戦争犯罪を立証出来るのだろうか?

最後に誤解が無いよう補足しておく。僕は第二次世界大戦において日本が正しく、日本軍は一切悪いことをしなかったなどとは一言も述べていない。当然悪いこともしただろう。しかしそれは蒋介石率いる中華民国軍も、毛沢東率いる中華人民解放軍も、日本に原爆(大量破壊兵器)を落とした連合国軍も同じ穴の狢である。お互いさま、恨みっこなしだ。

戦争において絶対的正義の側(善)と絶対的悪の側など存在しない。過去に拘泥し、恨みを抱いて相手側の罪を糾弾し続けたり、逆に罪悪感を抱いて卑屈になり繰り返し謝罪しても意味がない。目を未来に向け、不幸な過去を今後2度と繰り返さないようお互いに努力を積み重ねようではないか。否定はなしだ。建設的意見を言おう。

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【アフォリズムを創造する】その7「矛盾について」〜宮﨑駿という男

世の中では首尾一貫した行動が褒められる。「AだからBだ」と筋が通った発言が求められる。原因があって結果がある。それは一般に永遠不変の真理とされる。例えば「神様がいるから、現在の我々が存在する」といった具合だ。旧約聖書によると人(アダム)は神の姿に似せて創造され、女(イヴ)はアダムの肋骨から創られたという。

論理的思考が法体系を整備し、科学を発展させてきた。コンピューターは全て2進法で計算し、情報を処理する。

「辻褄が合う」ことが良いとされる。そういう理屈を考えるのは意識自我(ego)の部分だ。しかし人のからだ・自己(self)はもっと大きな理性で出来ている。そこには無意識が含まれる。無意識混沌としており、という訳の分からないもので出来ている。深層心理学において、それを探る方法が分析である。

宮﨑駿のアニメーション映画「風の谷のナウシカ」を初めて観たのは大学生の時だった。その時から僕は「矛盾に満ちた人だなぁ」と想っていた。

宮さんは「戦争は駄目だ」「《風の谷》のように人は自然とともに生き、自給自足の生活をおくるのが一番幸せだ」と言う。しかし宮崎アニメの醍醐味は戦闘シーンにある。彼は戦車や戦闘機など殺戮兵器が大好きだ。意識が語る言葉と、からだが示すことが分裂している。その極めつけが次の場面だ。

ペジテ市の輸送船に捕えられたナウシカの脱出をアスベルが助ける。メーヴェに乗り飛び立つナウシカをトルメキア帝国の武装航空コルベットが追撃する。万事休すかと思われたその時、ナウシカの救援に駆けつけたミトのガンシップが正面から忽然と現れ、その砲撃でコルベットは大破、撃沈する。ナウシカは当初「ミト!」と満面の笑みを浮かべるが、その直後に炎上し墜落するコルベットを振り返り、「嗚呼、あの船に乗っている人たちは皆死んでしまうんだわ」と哀しみの表情に変わる。「殺さないで!」と叫ぶ一方で、敵を殲滅することで自分が助かったのを喜んでいる(実際別の場面で彼女は怒りに駆られ、トルメキア兵を数名殺戮している)。完全に矛盾している。

平和や自然、調和を愛する(アポロン的である)一方で、根源から湧き上がる破壊衝動(デュオニソス的側面)がある。この矛盾は終始、宮崎アニメに付き纏ってきた。

宮﨑駿は一貫して共産主義者(communist)である。東映動画時代は高畑勲と一緒に労働組合幹部として会社と闘った。《風の谷》も、「もののけ姫」の《たたら場》も、生活共同体(commune)幻影の産物である。しかしその反面、スタジオ・ジブリ時代は日本テレビと組み大ヒットを飛ばし、米国配給では資本主義の権化とも言うべきディズニー・スタジオの協力を得た。もし宮﨑駿がソビエト連邦や中華人民共和国に生まれていたら、今日のような作品は生み出せなかっただろう。これも矛盾だ。

そんなある日、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが彼にこう言った。「宮さん、矛盾に対する自分の答えを、そろそろ出すべきなんじゃないですか。年も年だし」そうして生まれたのが「風立ちぬ」である。

「風立ちぬ」の堀越二郎は悪魔に魂を売った男である。彼は零戦の設計に全精力を注ぐ。それは殺戮兵器=戦闘機である。何故か?「美しいから」……答えは極めてシンプルだ。彼は善悪の彼岸にいる。他人からどんなに誹られようと構わない。糾弾・問責はしっかりと受け止める。それでも夢を信じ、自分がやりたいことを貫き通す。その覚悟についての物語である。つまり本作の肝は、力強い矛盾の肯定だ。真に美しい映画であった。

混沌(chaos)から創造が生まれる。世界は矛盾で満ちている。矛盾した自己(self)、混沌とした世界をまず肯定することから生を始めよう。

また宮﨑駿へのインタビュー記事をまとめた本「風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡」の中で彼は次のように語った。

旧約聖書の中の一書)伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。

引用文中下線部は噺家・立川談志の言う「人間の業」の肯定と全く同じ趣旨である。

そして(「人生なんて所詮こんなものだ、意味なんかない」という)ニヒリズムを突破し、自分自身を克服せよ!という主張はニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じたこと。宮﨑駿はあくまでPositive thinkingの人なのである。

ギリシャ神話において、パンドラの箱を開けると世界に禍々しい災厄がもたらされるが、最後に「希望」が残った。「風の谷のナウシカ」や「崖の上のポニョ」のラストシーンが正にそれである。

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【アフォリズムを創造する】その6「芸術について」

音楽は言葉で表現できないことを語る。つまり夢=無意識に関わる芸術である。一方、文学は言葉で語る。それは意識・自我(ego)に属している。では映画(アニメ含む)はどうか?映画のはじめに言葉ありきーシナリオは言葉で綴られる。しかし同時に映像はイメージであり、音楽も加わりそこに無意識が忍び込む。故に映画は意識+無意識=自己(self)を表現する。

上の式を図で示すと次のようになる。

Mu

図全体が自己(self)だ。これはユング心理学からの引用であるが、ニーチェは次のように語っている。《兄弟よ、君が「精神」と呼んでいる、君の小さな理性も、君のからだの道具なのだ。君の大きな理性の、小さな道具であり、おもちゃなのだ。「私は」と、君は言って、その言葉を自慢に思う。「私は」より大きなものを、君は信じようとしないがー「私は」より大きなものが、君のからだであり、その大きな理性なのだ。大きな理性は、「私は」と言わず、「私は」を実行する。(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)》つまり「精神」(小さな理性)=自我であり、からだ(大きな理性)=自己と解釈出来る。

以前のアフォリズムで紹介したように、例えばイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」冒頭に登場するタランチュラはイエス・キリストの、「2001年宇宙の旅」の太陽はツァラトゥストラ=ニーチェのメタファーであり、イメージの世界だ。新海誠監督「君の名は。」も三日月(三葉)、半月(かたわれ)、満月(三葉と瀧の結合)といった具合でイメージの洪水である。

映画は運動を描く。英語でもmotion picture(動く絵)と書く。つまりからだと同義だ。そしてそのイメージは観客の心の深層(魂)に働きかける。

イメージは無意識を探るため、心理学でも利用されている。その代表例がロールシャッハ・テストである。

Rorschach

また心理学者・河合隼雄が日本に紹介した箱庭療法も言語化出来ないイメージを活用している。

Hako

J.S.バッハから古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)を経て、ロマン派(ブラームス、ワーグナー、マーラー)に至るまで、作曲家たちは夢=無意識を描く音楽を、小さな理性でコントロールしようとしてきた。その手段が、旋律・調性・和声・拍子・形式である。ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、リゲティら20世紀の作曲家たちが挑戦したのは、その枷(かせ)を取り払い、音楽を混沌(Chaos)に引きずり戻す作業であった。それは「アポロン的」表現から「デュオニュソス的」表現への変換を意味していた。

調性とは長調とか短調のこと。形式とはソナタ形式(主題提示部-展開部-再現部-終結部)・ロンド形式(A-B-A-C-A-D-A)・三部形式(A-B-A')・変奏曲などを指す。ハイドンからマーラーの時代まで約150年間、交響曲やソナタといえば第1楽章がソナタ形式で、中間に緩徐楽章や舞曲(メヌエットまたはスケルツォ、三部形式)を挟み、終楽章は再びソナタ形式かロンド形式とほぼ型(フォーマット)が決まっていたのだから驚くべきことだ。それは音楽という暴れ馬に馬具を装着し、制御するシステムであった。この工夫により聴衆は頭(意識)で全体像を把握し、理解することが出来た。

しかしシェーンベルクは十二音技法を生み出すことで調性を破壊し、音楽は協和音から不協和音が支配する世界に突入した。旋律や形式も木っ端微塵に打ち砕かれた。

「アポロン的」と「デュオニュソス的」対立軸はニーチェがその著書「悲劇の誕生」(1872年出版)でギリシャ悲劇を引き合いに出して創造した概念である。ギリシャ神話に於けるアポロン神は理知的で、情念(混沌)に形(フォルム)を与え、高尚な芸術へと昇華させる力を象徴している。一方、デュオニュソス神はバッカスとも呼ばれ、豊穣とブドウ酒、酩酊の神である。祝祭における我を忘れた狂騒や陶酔を象徴する。つまり秩序化された世界を、もう一度根源的なカオスに解体する力を司るのだ。アポロンは英知と理性であり、デュオニュソスは泥臭い人間の業(ごう)、欲深い本性であるとも言える。

確かにダンス・ミュージックであるベートーヴェンの交響曲第7番はある意味ディオニュソス的である。しかし知性(旋律・調性・和声・拍子・形式)でコントロールされている。手綱はしっかりアポロンが握っているのだ。

こうして見ると、1913年にパリで初演され、大騒動となったバレエ音楽「春の祭典」が果たした役割が理解出来るだろう(パニックの顛末は映画「シャネル&ストラヴィンスキー 」に描かれている)。それまでの音楽は知的で上品であり、調和に満ちていた。ストラヴィンスキーはそこにデュオニュソス的な、原始的で荒々しいどんちゃん騒ぎを持ち込んで建築物をぶっ潰し、混沌(土)に戻したのである。ベルクやバルトーク、リゲティ、武満徹らが成し遂げたことも、同じ方向性であった(武満の音楽は流動的な「水」や「夢」をテーマにしたものが多い)。

20世紀美術も音楽と同様な流れを辿った。ピカソが「私の唯一の師」と讃えるセザンヌを経てキュビズム(立体派)が完成され、やがてフォルムが解体されて抽象絵画に突き進んだ。人物/静物の輪郭=実際に目に見えるもの(意識)であり、それが失われるとイメージや無意識(魂)が残った。

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スパイダーマン:ホームカミング

評価:C

Spider_man

映画公式サイトはこちら

ダメだ。余りにも評判が高いから期待して観に行ったのだが、やっぱり僕はアメコミを受け入れられない。全く性に合わない。アメコミものは沢山観たが、傑作だと想うのはクリストファー・ノーランによる「バットマン」三部作とギレルモ・デル・トロの「ヘルボーイ」二部作だけだな。「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー 」も実にくだらなかった。

チャラい主人公には全く共感できないし、ウザい。ジョン・ヒューズ風学園ドラマのノリも退屈なだけ。勝手にやってろ。どうでもいい。こんな映画ばかり観ていると、どんどん頭が悪くなりそうだ。

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