深層心理学/構造人類学

百人一首と新海誠「君の名は。」

人生も半ばを過ぎて、最近しばしば〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉について考えるようになった。

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ポール・ゴーギャンがタヒチ島で描いた絵のタイトルである。 

そんな折、清川あさみ(絵)最果タヒ(著)「千年後の百人一首」を読んだ。最果タヒは兵庫県神戸市出身の詩人(32歳)。詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」は何と2017年に映画化され、キネマ旬報ベスト・テンの日本映画第1位に選ばれた。

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彼女が百人一首を現代語訳したというか、現代詩として再創造(re-creation)した書物と言っても良いかも知れない。巻末に簡潔な原文の解説があるのも嬉しい。

これを読むまでは、お恥ずかしながら上方落語に登場する「千早振る」と、「崇徳院」の〈瀬をはやみ……〉くらいしか知らなかった。

本を手にとったきっかけはRHYMSTER宇多丸がパーソナリティを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」 #アトロク に最果タヒが出演したのを聴いたこと。そもそも広瀬すず主演の映画「ちはやふる」三部作が大好きなので、百人一首に興味を惹かれていたのである。

小倉百人一首は平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた公家・藤原定家によって選定された。平安時代に台頭した武士貴族支配の世界を転覆せしめ、権力を掌握して古代を終焉させた時期に合致する。

武士(もののふ)は武装集団=軍人だから、当然ながら知性よりも肉体重視である。戦で勝利したものが「正義」になる。理屈もへったくれもない。つまり鎌倉幕府の成立は軍事国家が生まれたことを意味するわけで、天地がひっくり返ったと理解すべきだろう。マッチョな武家では体力的に劣る女性は男性より当然低く見られるわけで、男尊女卑社会である。だから以後、女流作家や歌詠みも鳴りを潜めた。しかし「源氏物語」や「枕草子」が生まれた平安時代はそうではなかった。

つまり現在では【武士道・侍=日本人の精神】のように言われるが、それは比較的近代の話であり、日本人古来の心のあり方は全く違うものだったのである。

百人一首を読んでまず気がつくのは、やたらめったら恋の歌が多いこと。調べたところ、なんと四十三首もある!恋愛至上主義。まるで新海誠監督のアニメーション映画みたいだと想った。

恋愛至上主義なのは、当時の平均寿命が30歳前後(男性33歳、女性27歳)だったことと無関係ではあるまい。「老境」とか「枯れる」とは無縁の世界だったのだ。

平安時代の男女は、なかなか会うことすら出来なかった。女性は御簾内に籠もり、姿を見せない。美女だと評判を聞いた男は何度も何度も手紙や和歌を交わし、そして漸く対面することが出来た。その形態は夜になると男が女のもとに通い、明け方に帰っていくというものであった。

新海誠が殆ど自分ひとりで創ったデビュー作「ほしのこえ」(2002)は地球と、はるか彼方の宇宙に引き離された男女が、携帯電話(当時のガラケー)のメールを交わす物語である音声ではない。正に和歌の世界ではないか。

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僕が死ぬほど好きな「秒速5センチメートル」(2007)では【東京↔栃木】【種子島↔栃木】に引き離された男女が手紙で文通する。ここでも音声は用いられない

そして爆発的大ヒットとなった「君の名は。」(2016)ではスマートフォンが大活躍するのだが、男女の連絡手段は交換日記であり、瀧が三葉に電話を掛けると通じない

つまり新海誠は話される言葉を信じていない人の心の想いを伝えられるのは書かれた言葉だけなのである。「君の名は。」で瀧が”すきだ”という気持ちを伝えるのも、口頭ではなく文字である。

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「言の葉の庭」(2013)には古文の教師・雪野百香里が登場し、〈雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ〉という万葉集の短歌を言い残して高校生の主人公タカオと別れる。後日雨の日に再会した時にタカオは万葉集の返し歌 〈雷神の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば〉を口ずさむ。また「君の名は。」の発想の原点は古今和歌集に収録された小野小町の歌〈思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを〉であり、ユキちゃん先生(雪野百香里)も再登場する。

百人一首に戻ろう。女性歌人の作品は二十一首。当時は「男女共同参画社会」であった(内閣府のHPへ)。

」が詠まれたのは十二首ある(太陽は皆無)。

季節では、

  • 春:八首
  • 夏:四首
  • 秋:二十首
  • 冬:五首

秋が圧倒的に多い。また春(八首)のうち、桜を詠んだものが六首ある

時刻で見ると、

  • 夕方:四首
  • 夜を詠んだ歌:十五首
  • 明方:十一首

これらの総和は、昼を詠んだと考えられる二十三首を軽く上回っている。

撰者である定家の父・藤原俊成は宮廷歌人であり、第八十三首に選ばれている。そして「幽玄」や「あはれ」「艶」の美意識を提唱した。

もののあはれ」は無常観に立脚した哀愁に通じており、無常とは生滅変転して移り変わり、片時も同じ状態に留まらないことである。

幽玄」は無意識から意識へ、夢から形あるものに移行する時(境界)に立ち現れるものであり、アボリジニ(オーストラリア先住民)の概念〈ドリームタイム〉に近い。

百人一首で詠まれる夕方(「君の名は。」における〈かたわれ時〉)と明方は【昼↔夜】の境界域であり、「幽玄」「あはれ」が立ち現れる瞬間である。そして夜の「」には満ち欠けがあり、無常の象徴となる。

新海誠「君の名は。」のも重要な役割を果たす。【半月=片割れ】であり、相手が欠けた状態を示し、【満月=ふたりの結合】を意味し、三日月は三葉の暗喩である。

百人一首に夕方よりも明方の歌が多いのは、朝が〈男女の別れ〉を意味するからだろう。

秋の歌が多いのは秋が【夏(生)→冬(死)】の境界に位置する季節だからである。【落葉=人が死にゆく時】を意味し、春の桜も開花から一週間ほどで散るので、やはり人が死にゆく時の暗喩となっている。そこに「もののあはれ」がある。

第九十九首の詠手は後鳥羽天皇である。貴族復権を掲げて承久の乱を起こし鎌倉幕府と戦ったが破れ、隠岐に流された。

第百首の順徳天皇は後鳥羽院の息子で、父の倒幕計画に参画したため佐渡に流され、その地で亡くなった。彼の歌、

ももしき(百敷;宮中を意味する)や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり

は王朝時代に終止符を打つ一首となった。

このように百人一首もまた、【貴族社会→武家社会】の境界に位置しているのである。

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愛と憎しみの構造

イギリスの教育家A・S・ニイル(Alexander Sutherland Neil, 1883-1973)はその著書"Summerhill"の中で次のように書いている(一部でマザー・テレサの言葉とされているが、それは誤り)。

Love and hate are not opposites. The opposite of love is indifference.
憎しみは反意語ではありません。と対立する感情は無関心です」

これを初めて聞いた時にハッとした。慧眼である。彼の並外れた人間観察力、洞察力に感じ入った。

はある日突然、憎しみに変わることがある。おそらく憎悪・怨恨による殺人で最も多いのは親子や夫婦、あるいは恋人の別れ話のもつれであろう。家族や近親者以外の赤の他人を「殺したい」というほど憎む機会は滅多にない。交通事故などで家族が死に至り、その加害者を憎むことはあろうが、これも愛が変形した感情である。またストーカー殺人は一方通行の、過剰な、歪んだ愛の成れの果ての姿だ。つまり憎悪はコインの表と裏であり、いつでも変換可能なのだ。〈相手のことを強く想う〉という意味において同じと言える。よって次のような構造が成り立つ。

愛≒憎しみ(変換可能) ↔ 無関心

家族とは、によって一つに結ばれたであると同時に、呪い束縛にもなり得る。後者の具体的姿が児童虐待であり、配偶者暴力(domestic violence)もそう。

ここでシェイクスピアの戯曲を考えてみよう。

「ロミオとジュリエット」はする若い男女が、モンタギュー家とキャピュレット家という二つの血族の憎しみの抗争に巻き込まれる悲劇である。

「オセロー」の主人公は妻デズデモーナを愛しているが、部下イアーゴーの計略により彼女が浮気していると誤解し嫉妬の炎を燃やした挙句に、憎しみ変換され、殺してしまう。

「ハムレット」の主人公は死んだ父親の無念を晴らすため、再婚した叔父と母を憎み、殺す。

「リア王」は年老いた王が自分の三人の娘のうち、誰が自分のことを本当に愛し、誰が疎んじているかを見誤る悲劇である。

「マクベス」はマクベス夫人(配偶者)の口車に乗せられて破滅する男の話。

つまりこれらの作品は全て、呪いとしての家族を描いていると言えるだろう。

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【総括】20世紀の芸術(現代美術・現代音楽)とは一体、何だったのか?

僕は20世紀後半(昭和40年代〜平成)を生きてきた。小学校4年生くらいからクラシック音楽を聴くようになったが、当初から不思議に思っていたことがある。

コンサートで演奏されるのは大体19世紀の作曲家(リスト/ワーグナー/ブルックナー/マーラー)までで、20世紀以降の現代音楽は殆ど取り上げられない。強いて言えばストラヴィンスキー「春の祭典」やバルトーク「管弦楽のための協奏曲」など数曲あるが、それでもせいぜい20世紀前半止まりだ。

結局、シェーンベルク/ヴェーベルン/ベルクら新ウィーン楽派、ブーレーズ/ノーノ/シュトックハウゼンらセリー音楽トータル・セリエリズム)といった無調音楽は一般聴衆から拒絶され、コンサートのメイン・プログラムに入れると全く集客出来ず、閑古鳥が鳴くという状況が現在も続いている。

20世紀の聴衆が現代音楽に対して嫌悪感を抱き、そっぽを向いてしまった主な理由として〈シェーンベルクによる十二音技法の発明無調音楽への完全移行〉という流れが挙げられる。はっきり言って、聴いていて心地よくない。不快だ。我々の耳は依然として調性音楽を求めている。では何故、〈作曲家の意志↔聴衆の嗜好〉に埋めようのない乖離が起こってしまったのか?そこにはヨーロッパ人が根強く持つ進歩思想、つまり【芸術は、新しい形式が古いそれに続くという、進歩の状態に絶えずある】と見なす思想が横たわっている。

進歩思想は生物の進化論と深く関わっている。ここで多くの人が持つ誤解を解いておきたいのだが、チャールズ・ダーウィンは進化(evolution)という言葉を使っていない。彼の著書「種の起源」に登場するterm(用語)はmodification(変更・修正・調整)である。種の保存(遺伝)、自然選択(淘汰)、存在し続けるための努力(生存競争)がその理論の根幹を成す。つまりダーウィンは〈遺伝子の突然変異→環境に適応したものが生き残る〉ことを主張しているのであって、その変化は必ずしも進化を意味しない。例えば人間の足の指を考えればいいだろう。使わないから退化している。手指の変化と真逆の関係にあるのだ。

進歩思想の深層にはキリスト教(およびユダヤ教)が潜んでいる。旧約聖書の創世記によると、最初の男アダムは神に似せて造られた。つまり人間は神の似姿であり、成長とともに父親(理想像)に近づかなければならないという強迫観念妄執に彼らは囚われている。これを父性原理という。

1970年代くらいまで欧米人(と西洋かぶれの日本の知識人・エリート大学生)は本気で進歩史観を信じていた。【歴史とは人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程である】と見なす歴史観である。イギリスにおけるホイッグ史観がその代表例で、【歴史とは人類が理性によって現状を克服し、精神の自由を実現させていく過程である】とするドイツのヘーゲル史観や、カール・マルクスによる唯物史観も同様。マルクスにとっての最終形態は共産主義社会の到来であり、その実現(=正義)のためには暴力革命も肯定される。その成れの果ての姿が連合赤軍によるあさま山荘事件であり、(テルアビブ空港乱射やダッカ日航機ハイジャックなど)日本赤軍事件であった。

音楽における進歩思想は【無調音楽という新しい進歩の段階に入ったのだから、いまさら調性音楽という前の段階には逆行出来ない】ということになるだろう。故に20世紀に調性音楽を守ろうとした作曲家たちは「時代遅れ」「ナンセンス!」という烙印を押され、映画音楽やミュージカルなどのジャンルに散っていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、ジョン・ウィリアムズ、ニーノ・ロータ、クルト・ワイル、レナード・バーンスタイン、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド・ウェバー、久石譲らである。

映画音楽に使用したモティーフを流用したコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は1947年に初演されて以降、半世紀に渡って馬鹿にされ、蔑まれ、無視され続けてきた。しかし21世紀に入り漸く調性音楽の復権が進み、日本でもオーケストラの定期演奏会でしばしば取り上げられるようになった。

現代美術においてもは進歩思想が跋扈した。つまり具象を否定し、抽象絵画に走ったのである。そして鑑賞者の共感と支持を完全に失った。このように20世紀における現代音楽と現代美術、そして共産主義国家建設という壮大な実験(と失敗)は完全にリンクしていた

僕に言わせれば芸術における進歩思想は愚の骨頂であり、殆ど狂気の沙汰である。文学や演劇を例に取れば分かり易いだろう。ここで読者に2つ質問をしよう。

  • あなたは紫式部「源氏物語」よりも、村上春樹の小説の方が進歩(進化)していると思いますか?
  • あなたは古代ギリシャ悲劇「オイディプス王」「エレクトラ」やシェイクスピアの作品よりも、現代演劇の方が進歩(進化)していると思いますか?

全くナンセンスな問いだ。それぞれの時代に様式(style)の変化はあるだろう。しかしそれは進歩ではない。そしていつの時代にも優れた作品と、そうでないものがある。それだけのことだ。同時代の人間にはその真価を見抜けず、時の洗礼を経なければ判らないこともある(例えばマーラーやコルンゴルトの音楽)。それが自然淘汰である。

また進歩史観の間違い・迷妄も次の2つの問いにより簡単に証明出来る。

  • あなたは19世紀ドイツの首相ビスマルクよりも20世紀に普通選挙で首相に就任したアドルフ・ヒトラーの方が優れた政治家だと思いますか?
  • あなたはエイブラハム・リンカーンよりもジョージ・W・ブッシュの方が優れたアメリカ大統領だと思いますか?

賭けてもいい。少なくとも過去2,000年間、人間性(humanity)は一切進化していない。もし人類が進化していると思うのなら、それは単なる錯覚である。代わって間違いなく進化していると言えるのは科学技術であり、富の再分配など社会(補償)制度、つまりsystemだ。

確かに人類の知識(知恵)は増えている。でもそれは進化じゃない。文字という媒体(現代ではコンピューター)により知識の蓄積が可能となり、それを幼少期から効率よく脳に詰め込むための教育制度(system)が発達したのだ。履き違えてはいけない。

故に人の心(意識+無意識=自己)を表現する芸術に、進化などあろう筈がないのである。

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国立民族学博物館再訪と〈虹蛇〉について。

まずは下記事からお読みください。

ドリームタイム(夢の時)〉のことをもっと知りたくて、万博記念公園(@大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館(みんぱく)を再び訪れた。

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コンビニで前売り券を買えば、入場料はたった350円である。小・中学生は観覧無料。

みんぱくのレストランにはエスニックランチが用意されており、限定の〈ブン・リュウ・クゥア、ベトナム炒飯、デザート付き〉ランチを食べた。

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本館2階の回廊部分=インフォメーション・ゾーンには、28のビデオテークブースがあり、世界のさまざまな地域で暮らす人びとの生活や儀礼、芸能などを紹介する映像を観ることが出来る(無料)。何と番組数は700本を超え、僕はオーストラリア北部アーネムランドに暮らすアボリジニ(ジナン族)の歌と踊り・彼らの雨季の生活・乾季の生活・雨乞い・アボリジニの楽器〈ディジャリドゥ(管楽器)とラーラカイ(拍子木)〉を観た。いずれも興味深い内容だった(各15分程度)。

みんぱくは展示物の写真撮影可ということを知り、今回はしっかり撮った。

まずはイントロダクション(無料)に設置された柱状棺(遺骨を納める容器)から。

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拡大しないと分かり辛いが、オーストラリア北東部(アーネムランド)の樹皮画で特徴的な、並行する斜線が緻密に交差する〈クロスハッチング画法〉で描かれている。一方、中央オーストラリアの砂漠地帯では〈ドット・ペインティング〉と呼ばれる点描画が主流になる。

探求ひろばの「世界にさわる」コーナーでは展示資料を実際に手にとることが出来る。

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これはアボリジニの投槍器(アトラトル)。写真左の突起に槍の中空部を引っ掛ける。そして反対側の端っこをしっかり握りしめ、ふりかぶって投げると、てこの原理で遠くまで速く飛ぶという仕組みだ。なお有史以来、オーストラリアで弓矢は一切導入されなかった

一方、日本で和弓が用いられるようになったのは縄文時代、1万1千年くらい前からだそう。弓矢の代わりにアボリジニが用いたのがブーメランで、やはり最古のものは1万1千年くらい前のものだという。

有料展示室に入り、岩壁画のレプリカに出会う。現地から招かれたボビー・ナイアメラ氏が1週間をかけて、自ら持参した泥絵の具(鉱物質顔料)を使って、合成樹脂製の岩壁の上に絵を描いた。

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虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)の腹の中には飲み込まれた人が描かれている。これはレントゲン画法と呼ばれ、先進国では児童画の特徴の一つと言われ、幼児から小学校低学年にかけて現れる。魚やゴアナ(大トカゲ)、カンガルーもレントゲン画法で描かれており、背骨や内臓が見える。またマッチ棒のように細い棒人間は精霊ミミである。

アボリジニはオーストラリア先住民の総称であり、18世紀後半にイギリス人が入植した頃、彼らが話す言語の数は200を優に超えていた(現在は激減し、50〜100程度と言われる)。オーストラリア大陸は場所によって気候がかなり異なり、例えば北部のアーネムランドでは雨季と乾季が明確に分かれている。雨季(11月から4月)に道路は冠水し、車での交通も不可能になる。一方、オーストラリアの中央部には砂漠地帯が広がっている。また南部やタスマニア島は南極大陸に近く、クジラを見ることが出来る。タスマニア島の最高気温は夏でも22℃くらい。

だから一概にアボリジニ神話と言っても、地域により差異があり、サバナ気候の北部で太陽は恵みをもたらす創造主として描かれるが、中央部の砂漠地帯では忌避される存在であり、崇拝の対象になり得ない。しかしオーストラリア全土の神話に例外なく登場する〈ドリームタイム〉の祖先がいて、それが虹蛇なのである。つまりスイスの心理学者ユングが言うところの、集合的無意識に存在する元型(archetype)だ。

フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南米の神話に登場するのことを「半音階的なもの」と呼んだ(半音階を駆使した楽曲で一番有名なのはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」である)。の段階的色調変化(グラデーション)や半音階は、A→Z(例えば、ド→ソ)への大きな変化の間隙を、短い間隔の変化で埋めていくものであり、一種の中間状態をつくり、流動的に揺れ動く状況を生み出す。または雨が上がり、晴れ間が広がり始める時ー雨季と乾季の境界に現れる。つまり虹蛇は、【自然→文化】へ、あるいは【無意識→意識】へ、さらに言えば【夢の時ドリームタイム我々が知覚出来るこの世界〈yuti;ユティ〉】への移行段階を象徴しているのである。

アボリジニは時間を【過去→現在→未来】という不可逆(一方通行)の、通時(経時)捉え方をしない。彼らは共時的に思考する。〈ドリームタイム〉という概念が正にそれだ。つまり過去・現在・未来は同時にここにある。レヴィ=ストロースは、神話は通時的に読むと同時に、共時的に読めると述べている(そもそも通時的・共時的という用語は言語学者ソシュールの著書から来ている)。

レントゲン画法もまた、共時的手法である。アボリジニは(彼らにとって食料でもある)カンガルーやゴアナを描く時、同時にそれを屠殺・剥皮し、解体した時の内臓や骨格を見ているのだ。

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泉から鎌首をもたげた蛇の姿は、虹の足(写真はこちら)のイメージに重ねられる。そして蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。つまり虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在なのである。

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

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円環を形成することで始まりも終わりもない完全なもの、永遠性、永劫回帰を表象する。つまりウロボロスドリームタイムと同義なのだ。

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下の写真は管楽器ディジュリドゥ。

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自然の状態で内空をシロアリに食べられたユーカリの幹から作られる。音の高さを変えるための指穴(tone hole)すらない。つまり表層の彩色以外、楽器(発音機構)としての加工が皆無なのである。

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写真上がクーラモン(木製・樹皮製の容器)で、下のバスケットにも虹蛇が描かれている。

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ブーメランにはゴアナがレントゲン画法で描かれている。

オセアニアにとどまらず、みんぱくはアイヌや日本を含め膨大な展示物があり、1日では到底全てを見て廻れない。エスニックなレストランも愉しいし、通い詰めたくなるワンダーランドである。アボリジニ関連以外では特にパプアニューギニアの仮面に強く惹かれた(例えばこちらこちら)。

また行こう。

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《聖母マリアの夕べの祈り》@いずみホールと、「マリア崇敬」について

11月2日(水)いずみホールへ。

  • モンテヴェルディ:聖母マリアの夕べの祈り
  • カヴァッリ:サルヴェ・レジーナ(アンコール)

を聴く。演奏はジャスティン・ドイル/RIAS合唱団、カペラ・デ・ラ・トーレ(ピリオド楽器アンサンブル)。独唱は、

ソプラノ:ドロテー・ミールズ、マーガレット・ハンター
テノール:トマス・ホッブズ、マシュー・ロング

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今回のシリーズ【古楽最前線!ー躍動するバロック】を企画・監修した礒山雅・国立音楽大学招聘教授は2018年1月に雪で足を滑らせ頭を打ち、外傷性頭蓋内損傷のため死去した(享年71歳)。礒山氏はバッハ研究で名高い音楽学者だが、《聖母マリアの夕べの祈り》について次のように書いている。

私が無人島に持っていきたい曲は、モンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈り Vespro della Beata Vergine》である。《マタイ受難曲》ではないのですか、とよくいわれるが、さすがの《マタイ》も《ヴェスプロ》の前では色褪せる、というのがかねてからの実感である。中世以来連綿と続いてきた、「マリア崇敬」の芸術――その頂点が美術ではラファエロの聖母像にあるとすれば、音楽では、間違いなくこの作品にあると思う。

<講談社学術文庫「バロック音楽名曲鑑賞辞典」より> 

ここで礒山氏の言う「マリア崇敬」について考察してみよう。

(ユダヤ教及び)キリスト教は父性原理の宗教である。旧約聖書の「創世記」において、神はまず自分の姿に似せ最初の男アダムを創り、アダムの肋骨から最初の女イヴを誕生させた。つまり男がで、女はということになる。また、三位一体:〈父と子と精霊〉に女性は含まれない

父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、父性は子供を能力や個性に応じて分類する。

フランス人はまさに父性原理の権化であり、首と胴体を「切断する」ギロチンはフランス人が発明した。21世紀の現在もフランス人は赤ちゃんが生まれると、幼少期から夫婦と別室に寝かせる。子供を早くから自立させることが目的とされるが、つまりは親子の情や絆を「切断」しているわけだ。フランス人の多くが冷淡な性格なのは、ここに原因があるのではないかと僕は勘ぐっている。

そんな父性原理に対して、母性原理を導入して補完しようとした動きが「マリア崇敬」なのではないかというのが僕の考えである。

「マリア崇敬」はイタリアを中心に盛んとなった。世間一般にイタリア人=マザコンと言われることと(→こちらのブログを参照あれ)、母性原理導入とは無関係ではないだろう。スーパーマリオの口癖「マンマ・ミーア!」(ミュージカルの題名にもなった)は「なんてこった!」という意味で用いられるが、直訳すると「僕のお母ちゃん!」である。英語なら"Oh,my God !"なわけで、つまり〈神(父)→母〉に変換されている。「マリア崇敬」がこの慣用句にも潜んでいるのだ。イタリア人がどれくらい母親を大切にし、甘えているかは、フェデリコ・フェリーニ監督作品などイタリア映画を観ればよく分かる。

一方、ドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハの受難曲(Passion)やミサ曲、カンタータは父性原理に貫かれており、非常に厳格である。余りマリアに触れられることはない。この「切断する」厳しい父性原理はベートーヴェンに引き継がれた。

マリアに焦点が当てられた宗教曲「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」の名作を作曲したのは、パレストリーナ、ヴィヴァルディ、ペルゴレージ、ロッシーニなどやはりイタリア人が中心であり(チェコのドヴォルザーク作も素晴らしい)、ドイツ・オーストリア・フランス・イギリスの作品は極めて稀だ。フランス人のプーランクが「スターバト・マーテル」を作曲しているという反論もあろうが、彼はゲイだから。一般にゲイの人に「どうして結婚されないんですか?」と尋ねると「母が素晴らしすぎたから」という答えが帰ってくる。ニーノ・ロータ(作曲家)や木下惠介(映画監督)、淀川長治(映画評論家)がそうだった。閑話休題。

演奏について。色彩豊かな合唱が素晴らしく、ソリストも特に透明感のあるドロテー・ミールズ、たおやかで美しいトマス・ホッブズの歌声が絶品だった。

僕は予習としてヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂で収録されたジョン・エリオット・ガーディナー/モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツのDVDを繰り返し鑑賞して臨んだのだが、指揮に関してはガーディナーの方が躍動感で勝っていると思った。

あと楽器編成が両者で相当異なっていたので面食らった。カペラ・デ・ラ・トーレは18人の編成で、いささか音が薄っぺらく感られた。

今回の上演では途中、サラモーネ・ロッシ、ビアージョ・マリーニ、ガスパロ・ザネッティが作曲した当時の器楽曲や、グレゴリオ聖歌「私を見てはならない」が挿入された。またガーディナーの映像同様に、要所要所でソリストと合唱が場所を移動して歌った。

《聖母マリアの夕べの祈り》について、モンテヴェルディ研究者のジルケ・レオポルト博士は「それは、さまざまな機会に応じて配置を入れ替え、編成を変えて上演することのできる、小品のゆるやかな連合体なのです」と書いている。

言い換えるならば、J.S.バッハ以降の音楽とは違って、【古楽とは、ジャズのジャムセッション(Jam session)・即興演奏( Improvisation)の如く、自由度が高くて変換可能な音楽である】と、僕は理解した。

礒山さんがもし生きておられたら、さぞかし今回の演奏を歓び、心から愉しんで聴かれたことだろうと、しみじみ思った。

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四元素でたどる音楽史〜古楽最前線!ー躍動するバロック@いずみホール

古代ギリシャ時代には万物全てが「水」「気(風)」「火」「地」の四つの元素で構成されていると信じられ、近代科学が成立するまで大きな影響力を持っていた。ここには、【人間は二項対立で思考するものだ】という基本構造が隠されている。

まず〈気⇔地〉〈火⇔水〉という2組の基本的な二項対立があり、〈気⇔地〉は垂直方向の差異〈上(天)⇔下(地)〉、〈火⇔水(雨・川)〉は〈上昇⇔下降〉として示される。「気(風)」は生者、「地」は死者のメタファーでもある。また「火」は愛(情熱)、「水」は無関心(つれない)と言い換えることも出来るだろう。

次に〈火・気⇔水・地〉という組み合わせは〈温かい⇔冷たい〉であり、〈火・地⇔水・気〉は〈乾いた⇔湿った〉という二項対立を表している。これらを図にすると次のようになる。

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日本人の感覚でこの分類はピンとこないかもしれないが、乾燥した地中海の気候をイメージしていただきたい。オリーブが育つ土壌で、春の訪れを告げる豊穣の西風ゼピュロスや、暖気と雨を運んでくる東風エウロスが吹く場所。

11月2日(金)いずみホールへ。

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今年亡くなった礒山雅 招聘教授〈企画・監修〉による、【古楽最前線!】シリーズ第1回目はレクチャー&コンサート「四元素でたどる音楽史〜中世からモンテヴェルディまで」と題された。

演奏はカペラ・デ・ラ・トーレ(ピリオド楽器管楽アンサンブル)初来日とマーガレット・ハンター(ソプラノ)。お話は市川克明(音楽学)。

曲目は、

作曲者不詳:ファンファーレ(16世紀)
ランディーニ:さあ、春が来た

~WATER~「水」の巻
ビクトリア:めでたし、海の星
作曲者不詳/即興:バスダンス《新アリオト》(15世紀)
ギッツォーロ:セイレーンの歌/ネプチューンの応答
アルカデルト:真白で優しい白鳥は
アレグリ:セーヌのニンフたちの第5バッロ

~AIR~「気」の巻
フレスコバルディ:そよ風吹けば
(伝承曲):パッサメッゾ
モンテヴェルディ:いとも優しいナイチンゲールよ
プレトリウス:カナリー(カナリア)
モンテヴェルディ:西風が戻り

~FIRE~「火」の巻
作曲者不詳/カヴァリエーリ:おお、なんと新たな奇蹟よ
作曲者不詳:愛の神よ、与えてください(16世紀)
フォリアーノ:甘い愛の炎
トロンボンチーノ:あくまで従ってまいります
作曲者不詳:戦いの道をたどろうとする者は(17世紀)

~EARTH~「地」の巻
ビクトリア:レクイエム入祭唱
ホルボーン:パヴァーヌ:葬送
      アルマンド:愛の果実
ピッファロ:あなたの神々しい姿を
ランディ:生のパッサカリア~「死なねばならぬ」

An

カペラ・デ・ラ・トーレは2005年にミュンヘン生まれのショーム奏者カタリーナ・ボイムルによって創設された。今回使用された楽器は、

  • ショーム(シャルマイ・ポンマー):オーボエの前身
  • ドゥルツィアン:ファゴットの前身
  • サックバット:トロンボーンの前身
  • ツィンク(ルネサンス・コルネット):発音機構上金管楽器に属すが、木製
  • リュート、テオルボ:撥弦楽器
  • ポジティフオルガン
  • 打楽器

伝承曲「パッサメッゾ」は変奏曲になっており、途中からまるでジャズの即興演奏(インプロヴィゼーション)風になり、ノリノリだった。

モンテヴェルディ「西風が戻り」は奏者が一人ずつ演奏をやめ、舞台を立ち去り、最後はテオルボとオルガン奏者のふたりだけに。ハイドンの交響曲 第45番「告別」を彷彿とさせるな演出。

ヨーロッパの洗練を感じさせる、愉快な演奏会だった。

市川克明氏から、「1600年を境にオペラが生まれ(ヤコポ・ペーリ「ダフネ」「エウリディーチェ」)、長調と短調が明確に別れたのもこの頃」というお話があり、大変興味深かった。なお、モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」が初演されるのが1607年である。

またトロンボンチーノは奔放な人だったと触れられたので、興味を持って帰宅後調べてみた。

ルネサンス期に活躍した作曲家バルトロメオ・トロンボンチーノはその名の通りトロンボーン奏者でもあった。メディチ家のために演奏していたこともあるという。しかし素行に問題があり、マントヴァで宮廷音楽家となるもその悪行ゆえヴェネチアに逃亡。またマントヴァに戻ったと思ったら、今度は妻が愛人と密会しているのを目撃して殺害した。これは当時の慣例で許されたが、さらに別の悪行に及んで再びマントヴァを去り、フェラーラの宮廷に仕えるようになった。

!!

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アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽

に続く、三部作完結編をお届けする。この記事を執筆するに際し、参考にした書籍は最後に列記する。

オーストラリア映画の金字塔「ピクニック at ハンギング・ロック」との出会いを契機に、アボリジニの創造神話ーそれは思想といっていいー〈ドリームタイム〉に心を奪われた。〈ドリームタイム〉は現地の言葉でtjukurpa(チュクルパ)、あるいはalcheringa(アルチェリンガ)という。

アボリジニとはオーストラリア先住民の総称であり、17世紀にオランダ人が初めて大陸に到来した時に、言語は250種類、部族の数は700以上存在したと言われている(現在は激減)。彼らは文字を持たず、農耕も家畜もしない。

アボリジニには「時間」という概念がない。彼らにとって「創造」は過去→現在→未来へと連続する運動ではなく、主観的状態から客観的状態への移行を意味する(通時的ではなく、共時的な思考の構造)。「夢見(ドリーミング)から実在が生じる」のである。

つまり先祖(原初)の夢見(ドリーミング)が実相であり、我々が触知出来るこの世界(yuti;ユティ)はその内的ヴィジョンの外界への投影=仮相ということになる。現代に生きる我々は原初の夢見の中で、さらに夢見ているのだ。アボリジニは二つの世界を並行して生きている。

偉大なる彼らの祖先はエネルギー場のような、触知出来ない振動する身体を備えていた。振動するエネルギー=気息から音、言葉、歌が生み出された。〈ドリームタイム〉における創造とは、この世に歌いだされた世界のことを意味している。その足跡は〈ソングライン〉と呼ばれ、オーストラリア全土を縦横に走っている。隔たれた場所で暮らす各部族は〈ソングライン〉をコミュニケーション・ネットワークにすることで、お互いの文化を交換しあっている。

アボリジニの言葉を借りれば「森羅万象には、夢見(ドリーミング)がある」。植物とは、種子が見た夢である。

ある長老はこんな言葉を残している。

ほうぼうの土地や動植物を何らかの目的で利用したり、食べたりする場合にはまず、土地や動植物の夢見に入り込む術を身につけなければならないんじゃ。白人たちは、そんなことはいっさいしない。だから、病気になったり、気がふれたりして、身を滅ぼしてしまうのじゃよ。

【ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界」より】

建築物の場合、資材となる石やレンガそれ自体の内に可能性(potential)が秘められていると彼らは考える。建築家だけではなく石の方でも夢見があり、そこから建物が生み出されてゆくというわけだ。

人類は当初、意識の主観的なエネルギー状態として存在する。夢、直感、そして思考は、振子のように揺れながら、外界を対象化(外在化)してゆく。物質の創造や活動に参加するようになると、意識の振子は一転して、客観的実在から主観的状態へと振り戻され、内的記憶となる(〈ドリームタイム〉への魂の再吸収)。ここに円環構造がある。ニーチェが言うところの永劫回帰だ。

アボリジニの先祖はみな、人間と(他の)動物の特徴を併せ持っており、そのどちらにも姿を変えることが出来た。夢見(ドリーミング)が完了すると、先祖は大地の中へと姿を消し、「潜勢力(potentiality)」となった。そして動物とヒトは再び結び合わされ氏族トーテムとなった(これが父系半族と母系半族に分かれる)。

人類の内的心理状態と情緒が、外的には、動物の体や行動に象徴されることにより、「ライオンのように勇敢な」「チョウのように繊細な」「ハチのように忙しい」「鳥のように自由な」といった言い回しが、世界中の言語に溢れている。そこには人間の本性と動物との密接な関係が如実に現れている。生態学者ポール・シェパードによれば、ノアの箱舟は、人類の集合的無意識の象徴だという。

アボリジニは空間を距離とは考えない。空間内にある知覚可能な実在はちょうど「意識」に相当し、対象間に存在する肉眼では見えない空間は、「無意識」に当たる。「意識」と「無意識」は常に同じものであり、「無意識」とは、夢見(ドリーミング)という連続体の一部なのだ。〈意識+無意識=森羅万象〉は覚醒と睡眠、生と死のあいだで出現と消滅を繰り返している。

夢見という観点から見れば、昼と夜とは同時に存在している。アボリジニにとってとは無意識の象徴の最たるものであり、不可視のものが姿を現し始める夢見(ドリーミング)にほかならない。は大地と、生きとし生けるものを豊かにする神秘のエネルギー源であり、鎌首をもたげる虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)は大地と天空を結ぶ立法者である(水を司り、洪水をもたらす)。両性具有である虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)の腹の中には森羅万象が内包さている。虚空をゆく鳥は、無意識の使者であり、稲妻が放つ閃光は、無意識の内奥から溢れ出たエネルギーの荒々しい放電である。

Mimisnake
↑虹蛇の横に立つのは精霊ミミ。背が高くマッチ棒のような身体で、岩の裂け目に住み、人々から恐れられている。

夢の論理によれば、人類とその他の生物との間には垣根など一切存在しない。だからアボリジニはどんな生物にも変身出来るし、どんな生物の意識をも味わえる。夢の中では、主体と客体は相互に入れ替わることが出来る。

ここで20世紀以降に得られた科学的知見から検討してみよう。宇宙に存在する「形あるもの」は、究極的に素粒子(電子+クオーク)で構成される。素粒子は「物質」ではなく、「状態」である。ここで粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を併せ持つ存在として「量子」(quantum)が定義された。「量子」は微小なエネルギー量の単位であり、素粒子=量子である。つまり世界を構成するのは、突き詰めればすべてエネルギーということになる。また「場の量子論」では、時空間を満たす「場」という存在を考え、場の一部が振動してエネルギー量子のように振る舞うのだとされる。つまりアボリジニの思想と現代物理学は次のような対応関係が成立する。

  • 大地/先祖→夢見(ドリーミング)→我々が知覚する世界(ユティ)
  • 宇宙/時空間→それを満たす場の振動/エネルギー→物質/生命

さらに〈ドリームタイム〉は、ユング心理学における集合的(普遍的)無意識に相当すると考えられる。

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ユングは集合的無意識の中に存在する元型(archetype)という概念を提唱した。アニマ(男性が持つ内なる女性性)・アニムス(女性が持つ内なる男性性)・老賢者(The Wise Old Man)・太母(The Great Mother)・永遠の少年/少女(幼児元型)がその代表例だ。アボリジニが言う、〈ドリームタイム〉における先祖とか精霊はこの元型(archetype)に合致する。例えば彼らの神話に登場するウィーリーヌンは字義的に「賢い男」を意味し、魔法使いや学識者を指す。正に老賢者(The Wise Old Man)そのものである。またムリー・ムリーという、ウィーリーヌンが指示を与える夢の精霊(使い魔)が活躍するのも面白い。

絶え間ない変化と適応を繰り返すユティ(知覚可能な世界)から〈ドリームタイム〉に移行するための手段として、睡眠・儀礼(イニシエーションなど)・祭儀(踊り→トランス状態)・音楽(歌謡/ディジュリドゥ)・美術(岩絵/ボディ・ペインティングなど)・うなり板(ブルロアラー bullroarer)・神話・水晶や石などのトーテム(象徴)がある。

Bullroarer
↑うなり板:紐の一端を持ち、空中で回旋させることで音を発す。精霊の声とされる。宮崎駿「風の谷のナウシカ」では〈蟲笛〉として登場した。

ピクニックatハンギング・ロック」の岩場(モノリス)もトーテムであり、〈ドリームタイム〉への入口となった。アボリジニの聖地エアーズロック(ピチャンチャチャラ/アナング族の言葉ではウルル)や、スピルバーグ監督「未知との遭遇」に登場するデビルズ・タワー(アラパホ族などアメリカ先住民族が熊信仰の対象とした)も同様の役割を果たしている。水晶内にクラック(ひび割れ)を持つものはそのクラック面が光を反射する際に虹色に輝く。つまり虹蛇に結びつき、原初のエネルギーと共鳴する。ウルルの泉にも虹蛇が住むとされる。

夢見へのステップは①感覚が異常に研ぎ澄まされる知覚過敏②五感が渾然一体化する「共感覚」がある。例えばある色を見ると特定の音が現実に聞こえてしまう。ある種の味を味わうと、ある色が見えたりするなど。1960年代〜70年代前半に欧米のヒッピーたちの間で流行った、LSDなどの幻覚剤によるサイケデリック体験がそれに近い。

 その昔、大地が真っ暗で深いしじまに包まれていたころ、不毛な地表を動く物陰は何一つなかった。ヌッラボル平原に穿たれていた深い洞窟には、美女の「太陽」が眠っていた。偉大なる父の精霊は、太陽をやさしく目覚めさせると、彼女に「洞窟から出てきなさい。宇宙をかき回して生命を生み出すのですよ」と言った。母なる太陽が目を覚ますと、彼女から放射される光線が、大地の上に広がって、暗闇はすっかり消え失せてしまった。太陽が息を吸い込むと、大気の様子は一変してしまった。かすかなそよ風が吹くと、大気はやさしくうち震えた。
 母なる太陽はそれから、長旅に出かけることにした。北から南へ、そして東から西へと不毛の大地を横切っていったのだ。大地には、森羅万象を生み出す種子の潜勢力が備わっていた。太陽が放つやさしい光が大地に降り注ぐ所にはどこにでも、草や低木や木々が生え、やがてその土地は、あたり一面、植物に覆われてしまった。

【ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界」〜カッラウル族の神話】

上記アボリジニ神話って、「古事記」に書かれた「天の岩戸」開きに凄く似ていませんか?天照大御神=太陽神=女神であり、アボリジニの太陽も女神イェだ。月は男神バールー。一方、ヨーロッパのギリシャ神話では、太陽神ヘリオス(≒アポロン)は男。月は女神で、セレネやアルテミスが該当する。日本の月詠(ツクヨミ)は男神とされるが、詳しい記載はない。アボリジニ神話はヨーロッパよりも、断然日本神話に近い。

オーストラリア最北端の島、メルビル島に暮らすティウィ族の神話に登場する太陽神はプキという名の女神で、空からやってきて大地と海と島を創造した。また動物や木々や川もつくりだした。海はまだ淡水だったが、ツルのイリチに頭を殴られた衝撃でプキはおしっこを漏らし、海を塩からくしたという。

次にニューサウスウェールズ州のンゲアンバ族の神話を紹介しよう。

 この世の最初のころにはまだ男はいず、人間は姉妹だけだった。ある日の夕方、妹は一人で平原にでかけていき、花を一つ摘み、樹皮をはぐと、その中に花をそっとおいた。それからその樹皮を丸太の陰においた。つぎの日も、そのつぎの日も彼女が様子を見に来ると、花は男の子の赤ん坊になっていた。
 大きく成長したその子は、やがて呪術師になり、ムレイアンと名づけられた。彼はワシタカだった。彼は空にのぼると赤く輝く星になった。それはいまも天空に瞬いている。

松山利夫(著)「精霊たちのメッセージ ー 現代アボリジニの神話世界」より】

これは正しく〈母性原理〉の物語であり、最初の男アダムの肋骨から最初の女イヴが創られたとする〈父性原理〉の「旧約聖書:創世記」とは対極をなす。

オーストリア先住民は狩猟採集社会に生き、日本人は農耕民族である。この違いはしっかり認識しておく必要がある。しかし重要なのは、天照大御神の神話が生まれた時代に日本で農耕は未だ始まっていなかったという事実だ。水稲農耕が開始されたのは紀元前5世紀、弥生時代と推定される。つまりアボリジニの神話は狩猟採集生活を送っていた頃の日本人の心のあり方に近いと言えるだろう。余談だが「天の岩戸」神話には矛盾がある。天照大神が鏡に写る自分の姿を、別人の〈貴い神〉だと勘違いする場面があるのだが、中国から日本に銅鏡が伝来したのは弥生時代の紀元1世紀頃と言われており、神々の時代に合致しない。「古事記」に編纂されるまでは口伝だったわけで、恐らく鏡の逸話は後年付け加えられたものではないだろうか?歴代演者の工夫が積み重ねられた古典落語のように。つまり神話は共時的に読解する必要がある。

また「こぶとりじいさん」によく似た、「踊るカンガルー」というアーネムランド(オーストラリア北部)に伝わるアボリジニ神話もある。

さて、20世紀を代表する作曲家・武満徹は1980年9月にオーストラリア北端のグルート島を旅し、オーストラリア全域からこの島に24の異なる部族(トライブ)の原住民が集まり、一週間に渡り彼らの祭祀、うたや踊りによる交歓が行われるを目の当たりにした。

 グルート島への旅で思い返されるのは、踊りや祭祀を含めた原住民(アボリジニ)の生活だが、その未分化の名づけようもない巨大な自然空間が、わたしたちとおなじこの惑星のうえに存在しているということが、いまは異様にさえ感じられる。今日、わたしたちは、自然を失ったと口にするが、わたしがみたグルート島の自然は、わたしたちが相対概念として拵(こしら)えあげた「自然」などではなく、大地そのものであり、そこでは生命(いのち)は相争うものではなく相互に生かし合い、自然は動いてやまない。(中略)
 グルート島には、自然が与えてくれるディッジャリデュー(中空にした木で、息をふきこむ)のようなものはあっても、そのほかに、人為的な楽器というものはまったく無い。白アリがその髄を喰って空洞にしたマングローブやユーカリ樹の幹を、管を吹くように息を吹きいれて音をたてる。それは、ちょうど、ディ・ジャ・リ・デュー、というように響くのだが、直接、大地から聴こえてくるような、低く唸るような音である。

【武満徹(著)「音楽を呼びさますもの」〜グルート島素描】

Barton

 言語が発達して、ことばの指示機能が先鋭になることで、(私たちが)失ってしまったものは大きいように思う。(中略)音楽は知的に理解されるだけのものではない。音楽言語ということが言われるが、これは一般的な文字や言語と同じではないだろう。音楽には、ことばのように名指ししたり選別したりする機能は無い。音楽は、人間個々の内部に浸透していって、全体(宇宙)を感じさせるもので、個人的な体験でありながら、人間(ひと)を分け隔てるものではない。(中略)
 かれら原住民(アボリジニ)にとって、すべては自然と大地が齎(もたら)すものであり、かれらの生は自然に支配され、かれらはけっして自然を支配しようなどと思わず、かれらのうたや踊りは、だから、かれらの肉体(からだ)を通して表象される自然そのものなのである。

【武満徹(著)「音楽を呼びさますもの」〜グルート島紀行】

この体験を通して生まれた武満の楽曲が「夢の時」"Dreamtime"(for orchestra)である。

ディジュリドゥの音は動物の鳴き声(特にカエル)に近い。また時に僧侶による読経のようにも聞こえる。音階が存在せず、西洋音楽の平均律とは全く概念が異なる。ムルンギン族の神話では虹蛇がディジュリドゥを所有しており、それが歌い出すと、虹蛇に呑み込まれて死んだ筈の姉妹と彼女らの赤ん坊は生き返った(死と再生)。

武満徹は「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」で初代監修を務め、その最後の年ー1998年の委嘱作品がオーストラリアの作曲家、ピーター・スカルソープ(1929-2014)の「グレート・サンディ・アイランド」だった(武満は96年に死去したが、人選は98年までなされていた)。初演時には武満の「夢の時"Dreamtime"も演奏された

スカルソープはタスマニア島で生まれた白人である(3万7千人いたタスマニアン・アボリジニはイギリス植民者に一掃され、19世紀末に絶滅した)。彼の作品中、何と言っても一番の聞きものは「アース・クライ(大地の叫び)」だろう(→NMLで試聴)。ディジュリドゥ(無調)とオーケストラ(調性)が競演する。摩訶不思議で、とてもスリリングな音楽だ。動画視聴はこちらからどうぞ。スカルソープにはディジュリドゥを伴う弦楽四重奏曲という、けったいな作品群もある(→NMLで試聴)。またS.オボイル/W.バートン:ディジュリドゥ協奏曲も一聴をお勧めしたい(→NMLで試聴)。

今回〈ドリームタイム〉を体感するために、万博記念公園(@大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館に足を運んだ。大変充実したコレクションがあり、虹蛇や精霊ミミの絵とか、ディジュリドゥ、ブーメラン、柱状棺(遺骨の容器)などが展示されていた。わざわざ行った甲斐があった。

最後に、アボリジニへの理解を深めるために役に立つ映画をいくつかご紹介しよう。

美しき冒険旅行WALKABOUT (1971)

Walkabout

「赤い影」で知られるニコラス・ローグ監督作品。ローグは「赤死病の仮面」「華氏451」などの撮影監督としても名高く、本作でも撮影を兼任している。大変映像が美しい。

アメリカで最も著名で信頼された映画評論家ロジャー・エバート(1942-2013)が"The Great Movies"と題し、過去100年の中から選りすぐった映画リストの中に「ピクニック at ハンギング・ロック」と並んで本作も入選している。

原題のwalkaboutとはビンダブー族(bindaboo Tribe)に属するアボリジニの少年が大人になるための通過儀礼のこと。そこに、ひょんなことからオーストリアの砂漠を放浪するはめになった白人の姉弟との出会いと、別れを描く。弟(6歳)を演じているのが、ニコラス・ローグの息子である。

これは二度と戻ることが叶わない、「エデンの園」での日々(失楽園)の物語である。胸がかきむしられるくらい痛ましく、しかしそれ故に輝かしい、忘れ得ぬ傑作。一押し!

007シリーズや「ある日どこかで」で知られるジョン・バリーの音楽が素晴らしい。途中児童合唱が登場するのだが、歌詞は「マザー・グース」の1篇<クックロビン(だれがコマドリを殺したの?)〉から採られている。また映画冒頭にはディジュリドゥの音も聴こえる。

裸足の1500マイルRabbit-Proof Fence (2002)

Rabbit Rabbitproof_fence

1931年のオーストラリアを舞台に、アボリジニと白人の親を持つ混血(ハーフ・カースト half-caste)の子どもたちに対する隔離・同化政策を描く。強制収容所の理不尽さ、白人どもの傲慢さに、怒り心頭に発することは必定。ディズニー実写版「シンデレラ」や「オリエント急行殺人事件」リメイク版の監督としても知られるケネス・ブラナーが名演技を披露。原題は〈ウサギよけの囲い〉のこと。本作で描かれる児童隔離政策の犠牲者たちのことを〈盗まれた世代 (Stolen Generation)〉と言う。

「サムソンとデリラ」 Samson and Delilah (2009)

Samson

現代のアボリジニが置かれた、厳しい現実を描く。ワーウィック・ソーントン監督はアボリジニ出身で、第62回カンヌ国際映画祭でカメラドール(新人監督賞)を受賞した。セシル・B・デミル監督の同名作品と混同しないよう要注意。

本作に登場する、アボリジニの間で社会問題になっているという、ガソリンを吸引し酩酊を楽しむ〈ペトロールスニッフィング petrol-sniffing〉という習慣にはカルチャーショックを受けた。

また、ワーウィック・ソーントン監督の新作で、2017年ベネチア国際映画祭に於いて審査員特別賞を受賞した"Sweet Country" は、日本公開が決まれば是非観たいと思っている。予告編は→こちら

参考文献:①ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界 ー ドリームタイムと始まりの日の声」青土社 
K・ラングロー・パーカー(著)松田幸雄(訳)「アボリジニー神話」青土社 
③松山利夫(著)「精霊たちのメッセージ ー 現代アボリジニの神話世界」角川書店 
④ジーン・A・エリス(著)国分寺翻訳研究会(訳)「オーストラリア・アボリジニの伝説 ー ドリームタイム」大修館書店
⑤武満徹著作集 2より「音楽を呼びさますもの」新潮社
⑥ハワード・モーフィ(著)
松山利夫(訳)「アボリジニ美術」岩波書店
⑦ジェームズ・ヴァンス・マーシャル(再話)百々佑利子(訳)「カンガルーには、なぜふくろがあるのか」岩波書店

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映画「アンダー・ザ・シルバーレイク」と〈陰謀論〉について。

大傑作ホラー映画「イット・フォローズ」のデビッド・ロバート・ミッチェル監督最新作ということで劇場に足を運んだ。公式サイトはこちら

評価:B+

魑魅魍魎が跋扈する街ハリウッドを舞台とする、陰謀論の話である。ポスターから既に凝っていて、メッセージ(映画を紐解く鍵)が密やかに忍び込まされている。その一部を切り取った。

Under_the_silver_lake

泡の中にギター、海賊姿の男の顔、ジェームズ・ディーンの顔、風船の女、双眼鏡、JESUSと刻まれた十字架(逆さま)などが隠されている。また髪の毛にはSEXという文字が。

カフェの窓ガラスにスプレーで書かれた落書き"Beware The Dog Killer"(犬殺しに気をつけろ)ではじまる本作の主人公は、夢を抱いて映画の都にやって来たけれど仕事がなく、家賃滞納でコンドミニアムから追い出されそうなヲタク青年(アンドリュー・ガーフィールド;エマ・ストーンと交際していたが2015年に破局した)。「ラ・ラ・ランド」の悪夢版という宣伝文句は言い得て妙で、どちらもグリフィス天文台が登場し、ジェームズ・ディーンが絡んでくる。で、「ラ・ラ・ランド」のふたりはそこから空中浮遊し昇天するのだが、本作の主人公は地底に潜ってゆく。見事に好対照を成している。なお、エマ・ストーンはガーフィールドと別れた後から運に恵まれ、「ラ・ラ・ランド」でアカデミー主演女優賞を受賞した。

本作は完全に映画ヲタク向け仕様であり、普段あまり古典名画を観ない人にはチンプンカンプンかも知れない。前半部はアルフレッド・ヒッチコックに対するオマージュが散りばめられており、双眼鏡での覗きや、美女が登場する瞬間にコマ落としになる演出は「裏窓」、車での追跡や逆ズームは「めまい」、花火は「泥棒成金」といった具合。「イット・フォローズ」のディザスターピース(リッチ・ブリーランド)が作曲した音楽はバーナード・ハーマンを模倣している。映画評論家・町山智浩氏は「めまい」にそっくりだと述べているが、僕はハーマンがオーソン・ウェルズと組んだ「市民ケーン」の方に似ていると想う。で、映画中盤で主人公が古城に住むソングライターを訪ねる場面があるのだが、これ完全に「市民ケーン」の豪邸ザナドゥーね(ここは「オズの魔法使い」だと、町山氏は解説する)。主人公の部屋には「大アマゾンの半魚人」のポスターが貼ってあって、こちらはアカデミー作品賞・監督賞を受賞したギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の元ネタ。フィルム・メーカーに大人気の作品なんだね。後に失踪する美女の部屋で主人公が一緒に観る映画は「百万長者と結婚する方法」で、テレビの横にマリリン・モンロー、ローレン・バコール、ベティ・グレイブルのフィギュアが置いてあるという周到(マニアック)さ。そのブロンドの美女が裸になってプールで泳ぐ場面は、マリリン・モンローの遺作で未完に終わった「女房は生きていた(Something's Got to Give )」の再現。編集されたフィルムは37分しかなく、勿論未公開。いやはや!!あと海賊姿の男は、やはりハリウッドを舞台とするデヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」のカウボーイを変換したものであり、「マルホランド・ドライブ」からも多大な霊感を得ている。だから、自分の部屋に警官と管理人が立ち入るのを別の部屋から主人公が眺める場面で映画は締めくくられるのだが、なんだか幽体離脱みたいで、この語り部は「マルホランド・ドライブ」(さらにその元ネタ、ビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」)同様に、既に死んでいるんじゃないかという仮説も捨てきれない。映画全体を〈腐乱死体が見た夢〉だと解釈すれば、周囲の人々が主人公に対して「臭い!」と嫌な顔をするのも頷ける。まるで迷宮Labyrinth)を彷徨うような映画である。

この監督の前作「イット・フォローズ」で魅了されたのは、なんといっても映像表現である。何だかね、カメラが動いただけで怖いんだ!特にヒロインが廃墟の中で車椅子に拘束されている場面の移動撮影には息を呑んだ。あと360°を超えるパン(撮影技法)とか。つまりキャメラがぐるっと水平方向に一回転して、更に回るなかで劇的な状況変化が起きる。これを観たナイト・シャマランが撮影監督のマイケル・ジオラキスを新作「スプリット」に起用したのも頷ける。そしてジオラキスが続投した「アンダー・ザ・シルバーレイク」の映像も冴えに冴えている。

本作の主人公は妄想性人格障害パラノイヤ(偏執病)と思われる。僕が真っ先に連想したのはスタンリー・キューブリック監督「博士の異常な愛情」でスターリング・ヘイドンが演じたリッパー准将。彼は「水道水フッ化物添加はアメリカ人の体内の〈エッセンス〉を汚染しようとする陰謀だ」と陰謀論を説く。

昔からフリーメーソン陰謀論とか色々あって、子供の頃、日本テレビ「矢追純一UFO現地取材シリーズ」を観ていたら、ケネディ暗殺は「1947年のロズウェル事件で墜落したUFOの生存者グレイ(宇宙人)はアメリカ空軍が管理するエリア51で保護され、そこではUFOの研究が続けられている、と世間に公表しようとしたケネディを邪魔に思った秘密機関MJ-12(マジェスティック・トゥエルヴ)のメンバーたちが首謀者である」という陰謀論を流していた。因みにこのエリア51はスピルバーグの「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」やテレビドラマ「Xファイル」にも登場する。あと、アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」には、ユダヤ人陰謀論が延々と書かれている。正にパラノイヤの産物である。

何故、陰謀論が世間を跋扈するのか?それは結局、人間というものは〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉とか〈我々が生きる目的は何か〉〈我々はどうして死ななければならないのか〉とかを、自らに問わずにはいられない生き物だからだろう。そいう心理過程を経て宗教が誕生した。そして陰謀論は、〈この複雑に糸が絡み合った、混沌とした世界(カオス)を、どうにか単純化して理解したい〉という欲望から生まれたと言える。その根底には存在の不安がある。つまり、

  • 宗教一神教):この世界を創造した人物(=神)を設定(単純化)し、世界の成り立ち(生者必滅の理由など)を理解したい。因果を知りたい。
  • 陰謀論:この世界で起こる全ての問題/事件を、単一の首謀者(人物またはグループ)が計画したことであると単純化し、理解したい。

結局、両者の構造は全く同じなのである。〈全ては偶然の産物に過ぎず、計画者など誰もいない〉という考え方は、どうやら多くの人々にとって我慢ならない、受け入れ難いもののようである。

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神話としての「タイタニック」〜トム・サザーランド演出ブロードウェイ・ミュージカル再演

10月17日(水)梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティへ。ミュージカル「タイタニック」大阪公演初日を観劇。

Titanic

トム・サザーランド演出版・初演のレビューは下記。

今回の配役は、アンドリュース(設計士):加藤和樹、イスメイ(オーナー):石川禅、機関士:藤岡正明、一等客の客室係:戸井勝海、ジム・ファレル(三等客):古渡辺大輔、通信士:上口耕平、アリス・ビーン(二等客):霧矢大夢、アイダ・ストラウス(一等客):安寿ミラ、イシドール・ストラウス:佐山陽規、ケイト・マーフィー(三等客):屋比久知奈、船長:鈴木壮麻ほか。

それにしても芥川英司(劇団四季時代)→鈴木綜馬→鈴木壮麻と芸名をよく変える人だなぁ(本名は鈴木孝次)。でも初演の船長役:光枝明彦より良かった。傲慢で身勝手なオーナーを演じた石川禅もはまり役。概して役者陣のアンサンブルはお見事!

3年前のレビューにも書いたが、トム・サザーランドの演出は舞台装置が余りにも簡素で、不満が残る。例えば、タイタニックが氷山に衝突し、沈没しかかった場面で装置が傾くわけでもなく、救命ボートを海面に降ろす場面でもボートそのものが存在しないので、「あとは観客の皆さんの想像力で補ってください」と言われても限界があるだろう。抽象的描写で、状況が分かり辛い場面が多々あった。

だからといってブロードウェイのオリジナル・プロダクションのように大掛かりな装置を組むとツアーのための運搬が困難になり、大阪公演は実現不可能だったろう(演出変更になる前の「ミス・サイゴン」のように)。痛し痒しである。

モーリー・イェストンの音楽は文句なしに素晴らしい。特に第一幕 終盤(氷山にぶつかるまで)。ワルツが続き、優雅でありながら何処か物悲しさが漂う。

初演の感想で「グランド・ホテル形式の台本が古臭くてイマイチ」と書いたのだが、今回考えを改めた。

1912年に発生したタイタニックの悲劇は最早、20世紀の神話と言えるだろう。1931年頃に書かれたと推定される宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に於いて既にタイタニック号の乗客が登場する。

南北アメリカ大陸の先住民の神話を詳細に研究したフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは「神話論理」四部作で次のように説く。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である。

本作の場合、調停不可能根源的(二項)対立とは、言うまでもなく生と死である。どうして人は死ななければならないのか?納得出来る答えはない。だから我々は普段、そのことを忘れて(忘れようと努力して)生きている。しかし「タイタニック」の物語は、遅かれ早かれ誰にでも(一等客であろうと三等客であろうと)分け隔てなく、死が訪れるのだ(生者必滅)ということを思い出させてくれる。だったら、残された人生を一日一日、精一杯生きるしかない。メメント・モリ(自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな)、カルペ・ディエムseize the day:その日の果実を摘め/その日をつかめ)。そう僕は得心がいった。正に神話による調停作用、カタルシス(精神の浄化作用)である。そして勿論、小説「銀河鉄道の夜」にもこのカタルシスがある。

またミュージカル「タイタニック」には欧米が築いた近代合理主義・科学技術文明の終焉レクイエム)が描かれているのだ、と感じられた。オーナーのイスメイが「タイタニックは不沈。この船そのものが救命ボートだ(だからボートが足りなくても大丈夫)」と豪語する場面があるのだが、この万能感は正に「人間は神になり代われる存在なのだ」という幻影を示している。彼の発言の根底にはキリスト教徒が持つアントロポモルフィズム(人間形態主義/人神同形論)つまり、神を人間と同じような姿で想像するという基本理念がある(神は最初の男アダムを、神に似せて創造したー「創世記」)。また「ノアの箱舟」のイメージを重ねてもいるのだろう。しかしイスメイの誇大妄想野望は、氷山という自然との遭遇で呆気なく打ち砕かれるのである(文化⇔自然の二項対立)。

〈時間というのは過去→現在→未来という不可逆的・一方通行の流れであり、その中で人類は着実に「進歩」して来た。そしていつの日にか神に近づくことが出来るであろう〉これが欧米人が一般的に抱いて来た歴史観である。しかし、それは果たして本当だろうか?だったらどうして20世紀にアドルフ・ヒトラーやポル・ポトのような為政者が誕生したのだろう?「進歩」の果てに中国の文化大革命が成立したのか?アメリカ大統領について言えば、イラク戦争を引き起こしたジョージ・W・ブッシュはエイブラハム・リンカーンよりも「進歩」しているのだろうか?疑問符ばかりである。

〈人類の歴史は「進歩」の歴史〉という、通時的歴史観は崩壊した。これからはもっと共時的に思考する姿勢が求められている。そう、20世紀の神話「タイタニック」は我々に語りかけているように僕には思われるのである。

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究極のカルト映画「ピクニック at ハンギング・ロック」の衝撃と、ドリームタイム

ピーター・ウィアーが監督したオーストラリア映画「ピクニック at ハンギング・ロック」は豪州で1975年に封切られ、日本公開は11年後の1986年4月だった。有名な役者が出ているわけではないし、そもそも本邦で上映される予定はなかった。

Picnicathangingrock

状況に変化が生じたのはウィアーがハリウッドに渡り、ハリソン・フォード主演で「刑事ジョン・ブック 目撃者」を撮ったことに端を発する。日本公開が1985年6月22日。アカデミー賞では作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞・作曲賞・撮影賞・美術賞・編集賞の8部門でノミネートされ、脚本賞・編集賞の2部門を受賞した。つまり「目撃者」が高く評価され、有名になったおかげで過去の出世作が発掘されたというわけだ。

僕は「目撃者」を映画館で観て甚く感銘を受けた。「ピクニック at ハンギング・ロック」については日本公開当時にキネマ旬報の特集記事を読んだ。そこに書かれていたのは〈1900年の聖バレンタインデー。オーストラリアにある寄宿学校の女生徒たちが山にピクニックに出かけ、失踪するという実際に起った事件に基づいている。しかし最後まで真相は明かされない難解な映画〉といった内容だった。この紹介文に尻込みし、結局鑑賞するのを見合わせた。

30年以上の時を経て、「ピクニック at ハンギング・ロック」はすっかりカルト映画の仲間入りをした。そしてつい先日、WOWOWで放送されたのを機会に初めて観て、雷に打たれたような衝撃を受けた。打ちのめされた。なんて素晴らしい作品なんだ!巷の評判を信じた僕が大馬鹿だった。間髪入れず充実した特典ディスクが付いたBlu-rayを購入した。

ピーター・ウィアーの作品はこれまでに「危険な年」「目撃者」「モスキート・コースト」「いまを生きる」「トゥルーマン・ショー」「マスター・アンド・コマンダー」と観てきたけれど、紛れもなく「ピクニック at ハンギング・ロック」こそが彼の最高傑作であり、それだけに留まらずオーストラリア映画史上のベスト・ワンだと断言出来る。「マッドマックス」なんか目じゃない。

Directors

インターネット上で検索すると、未だに本作が実話だと信じている人が少なくないのだが、明らかに間違いである。特典ディスクに原作者ジョーン・リンジーのインタビューが収録されているが、彼女はTrue storyだなんて一言も言っていない。また映画の最後にも〈この作品はフィクションです。もし実在の人物・団体と類似していたしても、全くの偶然です。〉とクレジットされる。

1998年、本作がクライテリオン・コレクションとしてDVDで発売された時、映像も音もブラッシュアップされディレクターズ・カット版として生まれ変わった。非常に高画質だ。そして驚くべきことに、再編集によりオジリナル版よりも7分短くなったのである(大抵は長くなる)。Blu-rayにはオリジナル版も収録されているのだが、正直カットされたシーンは確かに蛇足であり、再編集版の方が引き締まって更に良くなっている。特典映像にはヒロイン・ミランダ役:アン・ランバートのコメントが入っていて、「公開されたら映画は観客みんなの共有財産よ。たとえ監督といえども手を加える権利なんか無いわ。短くするなんて!!」と激怒しているので、笑ってしまった。逆に同級生イルマ役のカレン・ロブソンは監督から手紙を貰い、彼女の出演場面を新たにカットした理由が述べられ、「決して君の演技が拙かったわけじゃないんだ」と書き添えられていたそうで、まんざら嫌でもなさそうだった。

神隠し(Spirited Away)に遭った女学生ミランダは、言わば美の化身として描かれている。劇中、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に喩えられるし、彼女の姿と白鳥が二重写しになったりもする。ルッキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」(1971)の少年タッジオみたいなものだ。

究極の美は手が届かない存在だ。「ベニスに死す」の主人公・作曲家アッシェンバッハは最後にタッジオに向けて手を伸ばすが、触れることは叶わない。また「ピクニック at ハンギング・ロック」の校長室に飾られた、英国のフレデリック・レイトン男爵が1895年に描いた絵画「燃え上がる6月(Flaming June)」がとても印象的だ。

Flaming_june

右奥に配置されたキョウチクトウには毒性があり、微睡みから死への移ろいの可能性を示唆している。また遠景に見えるのはエーゲ海に浮かぶロードス島である。

映画に於いてこの絵は、イギリスからの植民者の末裔である女学生たちの、19世紀ヴィクトリア朝時代の堅苦しい宗教的・道徳的拘束(手袋、コルセットなど)からの開放を象徴している。

彼女たちは何処に消えたのか?「町山智浩の映画ムダ話」を聴いて、そのヒントが後年ピーター・ウィアーが撮った豪州映画「ザ・ラスト・ウェーブ」(1977、日本未公開)にあることを知り、早速Amazon.co.jpからDVDを取り寄せて観た。

Thelastwave

〈黒い雨や大粒の雹(ひょう)が降るなど異常気象が続くオーストラリア。先住民・アボリジニ同士の殺人事件を担当することになった白人弁護士(リチャード・チェンバレン)は、大陸が津波に襲われ水没する予知夢に連夜悩まされていた……。〉

主人公がアボリジニ文化を研究するウィットバーン博士を訪ねる場面があるのだが、その博士を演じるのは「ピクニック at ハンギング・ロック」で女生徒たちと共に蒸発したマクロウ先生役ヴィヴィアン・グレイである。彼女はアボリジニ独特の考え方「ドリームタイム(夢の時)」について解説する。アボリジニは(我々が知覚出来る)現世と、ドリームタイムという、並行する二つの世界を同時に生きている。彼らにとってはむしろドリームタイムの方が本物(real)なのだ。ドリームタイムは無限の、精霊(Spirit)の周期であり、彼らには”時間”(過去→現在→未来という不可逆的流れ)という概念がない……。

つまり「ピクニック at ハンギング・ロック」の失踪した女生徒とマクロウ先生は、ドリームタイムの世界に移行した、と解釈すれば全ての謎が氷解する。ハンギング・ロックで時計が止まった理由や(ドリームタイムには過去→現在→未来という流れがない)、巨大な石がトーテム(象徴)としてドリームタイムへの入口となったこと、等々。

「ピクニック at ハンギング・ロック」にアボリジニは一切、登場しない。しかしハンギング・ロック(岩)そのものと、そこに登場するトカゲや鳥など動物たちがアボリジニのメタファーなのである(ドリームタイムの中で彼らは他の動物に変容・転生する能力を持つと神話は語る)。それは白人文化とアボリジニ文化との衝突を意味している。劇中で繰り返し、「少女たちは誰かにレイプされて殺されたのではないか?」という問いが発せられるが、そこに白人たちの、「我々が蹂躙・虐殺したアボリジニの人々から、いつか復讐されるのではないか?」という恐怖心・潜在意識が反映されている。〈異文化との遭遇〉という主題は後にウィアーが監督した「刑事ジョン・ブック 目撃者」で再び取り上げられることになる。

こうして考察していくと、2年後に公開されたスティーヴン・スピルバーグ脚本・監督の「未知との遭遇」(1977)が、「ピクニック at ハンギング・ロック」から多大な影響を受けていることが判る。岩山がトーテム(象徴)の役割を果たしていること(異次元との接触点)、失踪した人々のうち帰還する者もいるが、主人公ロイ(リチャード・ドレイファス)は家族を捨て、あっちの世界に行ったきりになってしまうなど、はっきり言って、物語の構造は全く同じである

「ピクニック at ハンギング・ロック」で、イギリスから叔父の家に遊びに来ていた青年マイケルはミランダに一目惚れし、捜索にも参加する。彼が湖畔でミランダの幻を見る場面には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章が静かに流れる。実は映画「いまを生きる」にも「皇帝」第2楽章が登場する。アメリカ・バーモント州にある全寮制学院ウェルトン・アカデミーに就任した英語教師(ロビン・ウィリアムス)がロンドンに残してきた妻の写真を見ながら、彼女に手紙を書くシーンだ。つまり男性が遠く離れた女性を想う時、「皇帝」が流れるという法則がウィアーにはあるようだ(全寮制の学校が舞台となり、生徒のひとりが自殺するという状況も両者に共通している)。ちなみに彼が監督した「フィアレス」では「皇帝」の第3楽章が使用されているらしい。どんだけ好きなんだよ!!

また寄宿学校の校長室には英国の画家ハーバート・トーマス・ディックシーが1900年に描いた"The Watcher on the Hill"も飾られている。

Watcheronthehill

この虎はまるで、ドリームタイムに無断で侵入しようとする余所者を入り口で見張っている番人のようだ。校長先生はこれに拒絶され、崖から突き落とされたのだろう。

町山氏からドリームタイムという言葉が飛び出した時、武満徹(1930-1996)が「夢の時(Dreamtime)」というオーケストラ曲を書いていることを直ちに思い出した。調べてみると案の定、アボリジニの概念を題材にした作品だった。

俄然興味が湧いた。もっともっと詳しく知りたい!こうなったら徹底的にドリームタイムについて勉強してみよう。そう僕は決意したのだった。

続く To Be Continued...

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