深層心理学/構造人類学

【考察】映画「カメラを止めるな!」の構造分析と三谷幸喜

評価:A+ 公式サイトはこちら

この映画を一言で評すなら、(三谷幸喜&東京サンシャインボーイズ「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」+フランソワ・トリュフォー「映画に愛をこめて アメリカの夜」+「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」)÷3である。

これ以上何を書いてもネタバレになるので、以下ネタバレ全開で語ります。未見の方はご注意ください。

Camera

用意はよろしいか?

Ready,go !

映画の冒頭はB級ホラー仕立てであり、その低予算ぶり、素人臭さから言って「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の雰囲気に近い。ストーリー的にはジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」とか「ゾンビ」なのだけれど、意図的にそのクオリティーに達していない。

すると途中から《ホラー映画を撮影中のクルーを本物のゾンビが襲う、というプロットの映画を撮っているクルーの舞台裏(back stage)を描く》という構造が立ち現れてくる。つまり三重入れ子構造になっているのだ。

Ireko

二重構造なら古くはシェイクスピア「ハムレット」から、映画「Wの悲劇」とか「リズと青い鳥」などの前例があるが、三重というところが本作のユニークなところである。そして彼らが撮っているホラー映画が①生放送で、②全編ワンカットの長回しという条件がつくことにより、ドタバタ(シチュエーション)コメディに転化するという仕掛けだ。それは上演中の芝居(三谷幸喜&東京サンシャインボーイズ「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」)とか、radioの生放送(三谷幸喜&東京サンシャインボーイズ「ラヂオの時間」)における舞台裏のてんやわんやと同じ構造を持つことになる。タイトルの「カメラを止めるな!」は、演劇における(どんなトラブルが起ころうと途中で)「幕を降ろすな」と同義である。

三谷幸喜が小劇団「東京サンシャインボーイズ」時代に指針にしていたのは「がんばれベアーズ」などのバディ・ムービーである。つまり《仲間が一番》ということ。何かの困難に直面し、チームワークで一丸となってそれを切り抜ける。その精神が「カメラを止めるな!」にも受け継がれている。特に最後の組体操=人間ピラミッドで、そのスピリットをしっかり「絵」として見せた技には唸った。こうして綻びかけていた家族の絆もしっかりと修復された。脚本・監督の上田慎一郎、大した才能である。

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【考察】今夏最大の問題作「未来のミライ」(細田守監督)の構造分析と時間イメージ

評価:A

Mirai

公式サイトはこちら

細田守監督の最新作「未来のミライ」はアヌシー国際アニメーション映画祭コンペティション長編部門に出品され、結局無冠に終わった。7月20日に日本で公開されたが、巷での評判はすこぶる悪い。「何が言いたいのか、意味が分からない」「タイムスリップがご都合主義だ」等の否定的意見多数。SNSでの不評を受けて公開第1週の全国週末興行成績ランキングは「ジュラシック・ワールド 炎の王国」(2週目)に次ぐ第2位からの発進となった。最終興収58.5億円を記録した細田の前作「バケモノの子」の興収比60.0%という低調な成績である。

僕は小学校1年生の息子と観に行ったが、彼の感想は「面白かった」。

な映画である。言い換えるなら極めてユニークだ。あんまり類似した作品を想い出せない。これは「バケモノの子」=(「ベスト・キッド」+「千と千尋の神隠し」)÷2だったのに対して対照的だ。宮崎駿のアニメーションのスケールの大きさと比べると、細田守のそれは非常に小さい。製作のきっかけとなったのは細田自身に男の子と女の子の子供が生まれたことである。主題歌の打ち合わせの時に山下達郎から「すごい、また今回も私小説的ですね」と言われたそうだ。

細田は正真正銘ケモナーである。「サマーウォーズ」にはウサギ型アバター・キングカズマが登場し、「おおかみこども」は狼と人間が結婚し子作りをする。「バケモノ」の熊徹も毛がふさふさ。僕は細田の海外での評価が極めて低いのは、ケモナーであることが一因なのではないかと考えている。そして「未来のミライ」にも監督のフェティシズムが迸っている。くんちゃんが犬の尻尾を自分のお尻にくっ付けて、メタモルフォーゼ(変身)する場面があるのだ。やれやれ……。

あと「バケモノの子」で師匠・宮崎駿(=熊徹)に対し、主人公・九太の口を借りて「俺のやることを、そこで黙って見てろ!」と言い放った細田だが、本作でくんちゃんのひいおじいちゃん(曽祖父)は戦闘機のエンジンを作っているという設定であり、それってまんま駿のオヤジの話じゃん!!(宮崎の父は零戦のコックピットを作っていた)。もう大爆笑である。駿に憧れる余りに、遂に自分の記憶の改竄自己同一化)に乗り出したのだ。いやはや、恐れ入りました。

「すごい、また今回も私小説的ですね」
「すごい、また今回も私小説的ですね」

さて、本作の構造をフランスの哲学者アンリ・ベルクソンが著書「物質と記憶」(1896年初版)で論じた逆さ円柱モデルを応用し、説明してみよう。

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図上部の逆さ円錐がベルクソンが提示したモデル。下部の円錐がそれを反転したもの(鏡像)である。逆さ円錐の全体SABが主人公くんちゃんの記憶に蓄えられたイマージュの総て(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり、くんちゃんの「今」の知覚である。Pという平面は現在彼がいる世界・宇宙そのもの。くんちゃんは円錐の中を自由に、生成され続ける過去(A'B'やA''B'')へと螺旋状に飛翔し、またSに戻ってくる。ここまでの構造時間イメージはフェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2」やアラン・レネ「去年マリエンバートで」、イングマール・ベルイマン「野いちご」、大林宣彦「はるか、ノスタルジィ」などの前例がある。しかし「未来のミライ」がユニークなのは下部の円錐。それは未来に広がっている。中学生(15歳くらい)になった妹ミライちゃんは∀,B,あたりからやって来る。

「未来のミライ」はくんちゃんの内面意識個人的無意識自己 self)を描いていると解釈出来るだろう。その深層は過去から未来までの家族史(家族的・集合的無意識ー犬を含む)に接続している。

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しかし、4歳児のくんちゃんが中学生となった妹ミライちゃんを知っている筈がなく、ひいおじいちゃん(曽祖父)の個人史も知らないという矛盾が生じる。ここで多くの観客が困惑してしまうわけだ。しかし15年後のくんちゃんの内面だとしたらどうだろう?曽祖父の生い立ちについても両親から聞いて知っていてもおかしくない。こう仮定すれば全ての整合性がとれるのである。

つまり物語を通時的(時間の流れに沿って)考えるのではなく、共時的に捉える必要がある。過去も未来も今ここ(self)にあるのだ。

フェリーニは次のように語っている。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

これを未来にまで延長したのが本作なのだ。

逆さ円錐(上部)と円錐(下部)の中心を貫いているのが、くんちゃんちの庭に植えられた一本の生命の樹 Tree of Lifeである。それは宮崎駿「となりのトトロ」に繋がっており、トトロ同様、「未来のミライ」でも《迷子》というモティーフが繰り返される。

実は「未来のミライ」の構造が一番近いのは大林宣彦監督「時をかける少女」(1983)かも知れない。深町くん(高柳良一)は未来からやって来るし、主人公・芳山和子(原田知世)は自分の幼少期にタイムスリップしたりもする。細田版アニメーション映画「時をかける少女」(2006)は実質的に大林版の後日談であり、芳山和子(魔女おばさん)の声優として細田は原田知世にオファーしたが、断られている。そして大林監督は細田のことを【映画の血を分けた息子】と呼んだ。

「未来のミライ」は現代の神話である。今度はフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースの手法を用いて、本作を読み直してみよう。

オーケストラの総譜(スコア)を例に説明しよう。

Gotterdammerung

楽譜を(左→右)に読むと通時的流れがある。 ①行目:曽祖父の個人史、②行目:母の個人史、③行目:愛犬ゆっこの個犬史、④行目:くんちゃんの個人史、⑤行目:ミライちゃんの個人史、といった具合だ。音楽用語で言えばモノフォニー単一旋律 melody)である。そして映画に於ける《くんちゃんの冒険》は楽譜を(上↔下)に、螺旋状に行ったり来たりする。そこに家族史というharmonyが響き合う。これが共時的読解である。音楽用語で言えばポリフォニー多声音楽)となる。

「未来のミライ」は作家性(癖)が強く、奇天烈で、決して万人受けするようなウェルメイド・アニメとは言い難い。しかし僕は斬新で愛すべき作品だと想うし、断固支持したい。細田守を「モスラ」に喩えるなら、いま彼は折れた東京タワーに繭を張った幼虫の状態にあるのだ。間もなく殻を破り、成虫が羽を広げ飛翔する時が必ず来るだろう。その日を愉しみに待ちたい。

最後に。くんちゃんの声をあてた上白石萌歌が、4歳の男の子のようには全く聴こえず、10代の女の子以外の何者でもなかったことについては不問に付す。

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《増補改訂版》「コードギアス 反逆のルルーシュ」の魅力とその構造を徹底分析する。

TBSラジオで65年間続いた野球中継(午後6時からのナイター)が2018年3月末で終了し、代わって4月から月〜金曜日にヒップホップ・グループRHYMESTER(ライムスター)宇多丸(49)がパーソナリティを務めるカルチャー・キュレーション番組「アフター6ジャンクション」 #utamaru #アトロク が開始された。そして1ヶ月経ち、蓋を開けてみるとTBSラジオは聴取率1位を独走する結果となった。これがめっちゃ面白いので、僕も毎日通勤時にラジオクラウドで愛聴している。

5月22日(火)に【宇垣美里アナ&藤津亮太が語る「今からでも間に合うコードギアス一夜漬け入門」】という特集が組まれた。神戸市出身で同志社大学在学中にミスキャンパス同志社のグランプリを獲得、つい先日は「週刊プレイボーイ」のグラビアを飾ったTBSの宇垣アナ(27)が、助っ人・藤津亮太(アニメーション評論家)の力を借りて「コードギアス」を一度も見たことのないライムスター宇多丸に対してその魅力をとことん語り、「全力で」推しまくるという企画であった。宇垣アナは「ルルーシュと結婚したい!」と公言するくらいの熱狂的ファンである(その一方でルルーシュの親友・枢木スザクのことを「ウザク」と呼ぶ)。

僕はCLAMPによる耽美な、そして癖のあるキャラクターデザイン(絵柄)が苦手で今まで敬遠していたのだが、ラジオを聴きその内容にすこぶる興味を惹かれた。調べてみたところNetflixで配信されているのを発見、放送終了後19日間で全50話を一気に見通した。最終回が終了した直後からRe; turnし、2回目の鑑賞に突入。

「コードギアス」シリーズは2006年10月より第1期、2008年4月より第2期がテレビ放送された。現在はその総集編である劇場版3部作が公開中。

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本作最大の魅力は物語の反転にある。敵と味方が目まぐるしく入れ替わる。息もつかせぬ展開とは正にこのこと。そして戦争に《正義の側》と《悪の側》という絶対的な価値は存在せず、あくまで相対的なものだと教えてくれる。宇垣アナも激賞していたが、とにかく大河内一楼の脚本が圧倒的に素晴らしい!

藤津亮太は《全部のせ》と評したが、確かにその通りだった。

ユーフェミア(神聖ブリタニア帝国・第三皇女)は上空から落ちてきて枢木スザクに抱きとめられる。これは宮崎駿「天空の城ラピュタ」冒頭の引用であり、スザクが猫に指を噛まれるのは「風の谷のナウシカ」(ナウシカ↔キツネリス”テト”)。そして日本が神聖ブリタニア帝国に占領され、名前を奪われて「エリア11」と呼ばれる設定には「千と千尋の神隠し」が木霊する。ルルーシュがスザクにかけるギアス「生きろ。」は勿論、「もののけ姫」だ。中華連邦における花嫁略奪は「ルパン三世 カリオストロの城」。天子(てんし)≒クラリスであり、彼女がまだ幼いときに黎 星刻(リー・シンクー)≒ルパンの命を救ったという設定も同じ。

またルルーシュがギアスの力を用いてある登場人物の記憶を消去するのだが、これは筒井康隆のSF小説(ジュブナイル)「時をかける少女」にそっくり。他にも、ピカレスクロマン、軍師もの(頭脳戦)、くノ一(女忍者)、メイドアニメ、学園ラブコメ、ボーイズ・ラブ、「機動戦士ガンダム」をはじめとするロボットアニメ等の要素がてんこ盛り

本作はシェイクスピア「ハムレット」の構造を踏襲している(第1話、サイドカーでルルーシュは「ハムレット」を読んでいる)。ハムレットは殺された父の仇を取るために王に即位した叔父と、その妻になった母を暗殺しようと計略をめぐらせる。一方、ルルーシュは暗殺された母を守らなかった父、ブリタニア皇帝シャルルを討つために着々と準備を整える(父↔母が変換されている)。ハムレットは気が触れたふりをする。(Hamlet pretends to be mad.)「コードギアス」第2期で監視されているルルーシュも記憶を取り戻していないという見せかけの演技をする。

さらに「父殺し」というギリシャ神話「オイディプス王」のテーマが重ねられる(フロイトはこれに基づきエディプス・コンプレックスという概念を提示した)。フランスの人類学者レヴィ=ストロースは彼の著書「構造人類学」の中で「オイディプス王」の構造を分析している。この神話には《オイディプスは父を殺す》《オイディプスの息子エテオクレスはその兄弟ポリュネイケスを殺す》という【親族関係の過小評価/価値を切り下げられた親族関係】と、《オイディプスは母と結婚する》《オイディプスの娘アンティゴネは、反逆者として死んだ兄ポリュネイケスを、禁を破って埋葬する》という【親族関係の過大評価】の二項対立があると述べている。では「コードギアス」はどうか?《父殺し》だけではなく《ルルーシュは兄である第3皇子クロヴィスを暗殺する》という【親族関係の過小評価】があり、一方で《ルルーシュは妹ナナリーを溺愛する(彼が反逆する目的は全てナナリーの安全を守り、彼女を幸せにするためだけにある)》《第2皇女コーネリアは妹(第3皇女)ユーフェミアを溺愛する》という【親族関係の過大評価】が対立する。

またルルーシュとスザクは幼馴染の親友→敵対関係に移行し、以後も揺れ動く。これは永井豪の漫画「デビルマン」に於ける不動明(=デビルマン)と飛鳥了の関係を彷彿とさせる。「デビルマン」におけるデーモン≒ギアスと考えてほぼ間違いないだろう。2018年にNetflixから配信が開始された湯浅政明監督によるアニメ「DEVILMAN crybaby」(全10話 傑作!)の脚本を「コードギアス」の大河内一楼が執筆しているのは決して偶然ではない。さらに「デビルマン」の源流を辿ると、ダンテの「神曲」とミルトンの「失楽園」にたどり着く(永井豪の自作「魔王ダンテ」が原型)。「コードギアス」R2(第2期)TURN1「魔神が目覚める日」のサイドカーでルルーシュが読んでいるのは"La Divina Commedia"つまり「神曲」である。

ルルーシュと魔女C.C.(シーツー)が結ぶ契約は、ゲーテの小説「ファウスト」における主人公とメフィストフェレスの関係の変換である。これは後に「魔法少女まどか☆マギカ」の魔法少女↔キュゥべえに踏襲される。さらに「コードギアス」第2期(R2)冒頭の記憶を失った登場人物たちが、違和感を覚える日常を送っている姿は「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」冒頭部に重なる。

ルルーシュが持つギアス=《絶対遵守》の力が、原作 - 大場つぐみ・作画 - 小畑健による漫画「DEATH NOTE(デスノート)」(2003年12月から2006年5月まで連載)の効力に類似していることも指摘しておこう。

----- 以下ネタバレあります。未見の方はご注意ください。 -----



ルルーシュは仮面で素顔を隠して「ゼロ」と名乗るのだが、これはゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)を示している。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシアの原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)は浮遊する過剰シニフィアンであり、その多義性に特徴がある。「ゼロ」の仮面もルルーシュだけではなく、C.C.(シーツー)、篠崎咲世子(くノ一/女忍者)、スザクらがかぶる。物語の中を漂い、循環するのである。

ゼロ」の仮面同様、本作でゼロ記号として働いているのが言うまでもなくギアスだ。ワーグナー「ニーベルングの指環」やトールキン「指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)」における指輪、「スター・ウォーズ」のフォース、「ハリー・ポッター」シリーズの魔法同様、ギアスという得体の知れない力は二項対立を結び、両極間を循環する第三項である。

ルルーシュ(ゼロ)が純血派の将校ジェレミアに対してハッタリで言う「オレンジ」という言葉もまた、ゼロ記号としてシニフィエ(意味されている対象)が定まることなく浮遊する。

皇帝の騎士としてナイトオブラウンズ(Knights of the Round)が登場するが、これは日本語に訳すと「円卓(roundtable)の騎士」となる。スザクが乗る人型兵器(ロボット)「ランスロット」もまたアーサー王物語に登場する円卓の騎士のひとり。彼はアーサー王と決裂し、円卓の騎士は王の軍勢に加わる者とランスロット派に二分され、戦うことになる。この構造が「コードギアス」に引き継がれている。アーサー王の狙いはブリタニア(現在のイギリス)の平定であったが、「コードギアス」には神聖ブリタニア帝国が登場する。ロイド、セシルらが所属しランスロットを開発した技術部・特派は後に「キャメロット」という組織へと発展解消した。キャメロットはアーサー王の王国であり、キャメロット城が築かれた。また生徒会で飼われている猫の名はずばり、アーサーである。

ナイトオブラウンズのNo.3(ナイト・オブ・スリー)が乗る人型兵器の名は「トリスタン」。これはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の主人公。元々はケルトの説話であり、後にアーサー王物語に取り込まれた。円卓の騎士のひとりとしてランスロットに次ぐ強さの持ち主だったという。

また機動兵器「ジークフリート」が登場するが、これはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場する英雄。元は北欧神話である。

生死に関係なく、人の心と記憶が集まる「Cの世界(集合無意識/Collective unconscious)」という概念はユング心理学に由来する。それはシャルルやV.V.(ヴイツー)から「神」と呼ばれている。

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シャルルが読んでいる本に登場する、ユングによる「心」の構造である。中心に自己(SELF)があり、それを取り巻く円の内側(深層)が集合的無意識(Collective unconscious=Cの世界)。A元型(Archetype)で、アニマ(男性の思い描く理想的女性像)、アニムス(女性が思い描く理想的男性像)、太母(the Great Mother)、老賢人(the Wise Old Man)等が該当する。その外側に個人的無意識(Personal unconscious)が存在し、心的複合体=感情複合(Complex)を内包する。その代表例がフロイトが提唱したエディプス・コンプレックス。さらに「心」の表層に意識(Consciousness)があり、自我(EGO)が配置されている。

シャルルがいる神殿のような仮想空間は「アーカーシャの剣」。アーカーシャとは古代インド・サンスクリット語で「虚空」を意味し、存在の一切を統括する法則を指す。「剣」と命名されているのはアーサー王が持つ剣「エクスカリバー」を意識してのことだろう。これには魔法の力が宿るとされ、ブリテン島の正当な統治者の象徴である。石に刺さったエクスカリバーを引く抜くことがアーサーの血筋を証明することになる。一方、ジークフリートは「ノートゥング」という剣を鍛え直すのだが、そちらは神々の長ヴォータンが人間の女に産ませた息子ジークムントに与えたもので、木に刺さって誰も抜けなかったノートゥングを彼が引き抜く。2つの剣は見事に対称を成している。

シャルルとV.V.(ヴィツー)の悲願は《嘘のない世界》を創生する計画=「ラグナレクの接続」である。Cの世界に干渉し、不老不死のコードの力を使って全人類を集合無意識へと回帰させるというもの。つまり、個々人の意識間にある壁(新世紀エヴァンゲリオンでいうところのATフィールド)を取り払い、全人類の意識を強制的に共有状態にすること。ラグナレク(ラグナロク)とは北欧神話の世界において神々と巨人族が争う世界終末戦争のことであり「神々の黄昏」ともいう。ここでも「ニーベルングの指環」に接続している。

シャルルとV.V.は《嘘のない世界》を志向するが、その一方でルルーシュとスザクは《秘密と嘘に塗(まみ)れた世界》に生きている。この二項対立の根底には【個々人の思考に差異がなく、コミュニケーションが必要ない世界が仮に実現したとして、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか?】【競争や対立、諍いのない暮らしは果たして人に幸福をもたらすか?】【人が本心を隠し仮面(ペルソナ)を被るのは善きことか、否か?】という哲学的問いがある。そして更に《限りある生命↔永遠の命》の相克に思いを馳せることになる。

またラグナレクの接続の場面で"Lasciate ogni speranza, voi ch'entrate."(この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ)というダンテ「神曲」の一節が登場することも付け加えておく。

最後に、最終話 TURN 25「Re;」について考察する。果たしてルルーシュは本当に死んだのだろうか?ここでまず、ナナリーが血まみれのルルーシュの手を触れた時に、ルルーシュの記憶が彼女に流れ込む場面に注目したい。これはルルーシュがC.C.と出会い、彼女からギアスを授けられた第1話 = STAGE 1「魔神が生まれた日」の再現になっている。そしてラストシーン、C.C.が荷馬車に積まれた藁の上から語りかけている相手は誰なのか?彼女の額には未だコードが浮かんでいるか?御者の顔はどうして見えない?これらを考えれば、答えは自ずから解るだろう。こうして物語は振り出しに戻り(Re;turn)、循環する。STAGE 1「魔神が生まれた日」の冒頭。暗闇の中でドックンドックンと心臓の鼓動が聞こえ、やがて瞳が開かれて最初に視界に浮かぶのがC.C.の姿である。さて、この瞳は誰のもの?

大河内一楼、恐るべし!!「コードギアス 復活のルルーシュ」を待て。

Next

TO BE CONTINUED...

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藤岡幸夫/関西フィルのシベリウス第1番と、《大島ミチルーヘッセーユングー仏教》complex(複合体)

6月21日(木)ザ・シンフォニーホールへ。藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

Kan

  • 大島ミチル:オーケストラと合唱のための組曲《アウグストゥス》
    ~ヘルマン・ヘッセの短編集『メルヒェン』より~ (世界初演)
  • 大島ミチル:《塵JIN》&《輪RIN》  ~クラリネット、マリンバ、
    オーケストラのための2つのラプソディ~ (世界初演)
  • シベリウス:交響曲第1番

合唱は大阪府立夕陽丘高等学校音楽科、クラリネットはリチャード・ストルツマン、マリンバはミカ・ストルツマン(旧姓:吉田ミカ、熊本県天草市出身、ニューヨーク在住)。

大島ミチルは子供の頃読んで大好きだったというヘルマン・ヘッセの短編集「メルヒェン」の中から「アウグストゥス」という小説を元に、自ら詞を作り上げた。こんな物語だ。

アウグストゥスという名の少年が生まれた時、未亡人となった母は隣人の不思議なおじいさんビンスヴァンゲンから「望みを一つだけ叶えてあげよう」と言われ、息子が「誰からも愛される人に」と願う(天使の笛の音が聴こえる)。その通り少年は誰からも愛され、チヤホヤされるのが当たり前の生活を送った挙げ句の果てに彼は故郷を捨て、ひとり旅立つ。天使の音楽は聴こえなくなり、母は孤独に死ぬ。凛々しい青年に成長した彼は社交界で放蕩の限りを尽くし、友を騙し、貴婦人と愛欲生活に浸るが、やがて虚しさを感じて自殺を図る。そこにドアがノックされ、ビンスヴァンゲンが現れる。「君の母の願いを叶えたが、愚かなことだった。いまの君に欠けているものを与えたい。望みを一つだけ叶えてあげよう」と言う。アウグストゥスは「これからは僕が人を愛することが出来ますように」と願う。周囲の態度は一変した。「お前は詐欺師だ!」「悪魔だ!」「金を返せ!」と罵倒され、ついに投獄される。牢獄を出た時には既に老いていた。もう誰も彼を知らない。しかし彼は幸福を感じる。みんなを愛しているし、何もかもが美しく愛おしい。冬が来てアウグストゥスは故郷に帰る。ビンスヴァンゲンに「素晴らしい旅だった。だけど僕は少し疲れてしまった」と告げ、眠りに就く。彼は天に向かう扉へ少しずつ近づく。そこに子供の頃のように天使の音楽が聴こえてくる。「おやすみアウグストゥス」愛してる。「アーメン」

小説の存在すら今まで全く知らなかったが、僕はこの合唱曲を聴きながら円環構造があることに気が付いた。少年が生まれ(天使の音楽+)、旅立ち(天使の音楽ー)、回帰して死ぬ(天使の音楽+)。そして頭に浮かんだ映像のイメージはチベット仏教の曼荼羅図であり、禅宗における円相だった(映画「メッセージ」"Arrival"を参考にされたし)。

En

スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは1912年頃より自分の無意識の世界と対決をはじめ、凄まじいヴィジョンと夢に悩まされる。そして1916年に最初の曼荼羅図形を書いた。

Mandala

後に彼は中国研究の権威リヒャルト・ヴィルヘルムからチベット仏教の曼荼羅を紹介され、自分が書いたものと余りにも似ていることに驚いた。これこそ集合的無意識(Collective unconscious=Cの世界)の産物であると言えるだろう。

ヘルマン・ヘッセは仏陀の本名を冠した「シッダールタ」という小説を書いている。彼は第一次世界大戦の影響で、深い精神的危機を経験した(父の死や妻の精神病悪化が重なった)。彼は小さな村で静養をしながら、ユングの弟子である精神分析医ヨーゼフ・ベルンハルト・ラング博士の診察を72回受けた(博士は彼に絵を描くことを勧めたという)。そうして完成したのが「デミアン」である。その後ヘッセはユング本人とも親交を深め、ユングが設立した「心理学クラブ」を訪れた記録も残っている。

ユングは「元型」という集合的無意識内に住む住人(アーキタイプ)の概念を提示した。「太母(the Great Mother)」「アニマ(女性像)」「アニムス(男性像)」に並び、「老賢人(the Wise Old Man)」がいる。「アウグストゥス」に登場するビンスヴァンゲンこそ、正に「老賢者」なのである。つまりこの小説は「アーメン」など表層はキリスト教の偽装をしているが、その深層には仏教の思想が根を張っていると言えるだろう。

20世紀フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースは著書「親族の基本構造」の中で、オーストラリアの原住民らを研究し、近親相姦の禁忌と、母方交叉イトコ婚が推奨されるのは何故かを解明した。そこには「女性の交換」という原理があった。人間社会の基本はコミュニケーションであり、それは言葉や物(お金を含む)を交換することにある。ではアウグストゥスの場合はどうか?若い頃の彼は一方的に愛された(贈与の一方通行)。だから幸福になれなかった。しかし年老いた彼は愛す(お返しをする)ことで交換が成立し、初めて「人間」になれたのである。

第1幕はメルヒェン、第2幕で子供の無邪気さが描かれ、第3幕は円舞曲。そして第4幕で激情が走り、魂の救済で幕が閉じられる。大変美しい音楽で深く感銘を受けた。老賢者ビンスヴァンゲンとアウグストゥスが会話する場面で何だかミクロス・ローザ(ロージャ・ミクローシュ)作曲「ベン・ハー」風になるのが可笑しかった(イエス・キリスト登場シーン)。

続く珍しい楽器の組み合わせ(吹奏楽器クラリネットと打楽器マリンバ)によるコンチェルトは第1曲が「塵」。仏教用語で煩悩や感覚の対象だそう。第2曲が「輪(わ)」。円環の理(ことわり)でヘッセに繋がっている。登壇した大島ミチルは「音色を楽しんで欲しい」と語ったが、冒頭は独奏者のみの演奏で、スロー・テンポで開始される。「節回しがコープランドを彷彿とさせるな」と想いながら聴いていると次第に速くなり、Jazzyに。第2曲は西部劇調(「ロデオ」「ビリー・ザ・キッド」)の音楽にミニマル・ミュージック(パターン化された短い音型が反復される=永劫回帰)の要素が加味され、これぞアメリカン!引き出しの多い作曲家だなとほとほと感心した。いやー、スリリングで面白かった!

プログラム後半は藤岡幸夫渾身のシベリウス。関西フィルとこのシンフォニーを演奏するのは6回目であり、自家薬籠中の物としている。藤岡はイギリスのハレ管弦楽団定期にデビューした時もこのシベリウス1番を取り上げたという(なんと豪胆な)!ハレ管はジョン・バルビローリが手塩にかけて育てたオーケストラであり、シベリウス自身も指揮台に立った。藤岡によるとハレの楽員から色々教えてもらい、第1楽章冒頭クラリネット・ソロのあと弦楽器のトレモロが続く箇所で作曲家は「ここは吹雪だ」と言ったそう。第3楽章はPirate(海賊)。

藤岡の解釈はゆったりとして雄大。そして熱い。ギラギラしていてマグマが噴き出すかのよう。第2楽章中間部は激情が走る!第3楽章スケルツォは狂騒。そして第4楽章は堂々たる横綱相撲。圧巻だった。ライヴレコーディングによるCDの全集が楽しみだ。

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平原綾香、柿澤勇人(主演)ミュージカル「メリー・ポピンズ」と、その構造分析

19世紀後半ヨーロッパで発展したクラシック・バレエの究極の目標は「重力からの開放」なのだと最近僕は考えるようになった。ダンサーはトウシューズで爪先立ち、あたかも重力が存在しないかのように片足でポーズ(アラベスクなど)をとったり、高速回転する。そしてより高い跳躍を競う。その精神(ある意味、「人間を家畜のように飼い馴らそうとする神への反逆」)はフィギュアスケートに受け継がれている。

ギリシャ神話に登場する王、オイディプス(Oidipūs)は「oidi(腫れた)」と「足(pus、pos)」を合わせた言葉で、「腫れた足」を意味している(この神話を基にフロイトは「エディプス・コンプレックス」という概念を打ち立てた)。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグ(1939- )は彼の著書「闇の歴史」の中でオイディプス王の神話群を分析し、そこに片足の不自由という主題が潜んでいると指摘した。オイディプスは大地に縛られている存在であり、故に彼は跛行しなければならない。なお、人間を大地に縛り付けているのは言うまでもなく重力である。

クラシック・バレエのみならず、「重力からの開放」を虎視眈々と狙っているのはパメラ・トラバースが執筆した児童文学「メアリー・ポピンズ」も同様である。さらにその意志は宮崎駿監督のアニメーション映画に繋がっている。故にこれら作品群は神話の構造を持っている。

6月3日(日)梅田芸術劇場へ。ミュージカル「メリー・ポピンズ」を観劇。

「キャッツ」「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」で知られる大プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュが手がけ、ディズニー映画版でアカデミー作曲賞及び歌曲賞(チム・チム・チェリー)を受賞したシャーマン兄弟の音楽がそのまま流用されている。振付は「くるみ割り人形」やアダム・クーパーが出演した「白鳥の湖」で名高いマシュー・ボーン。

Marypoppins

出演者は、

メリー・ポピンズ:平原綾香、バート:柿澤勇人、バンクス氏:山路和弘、バンクス夫人:木村花代、バード・ウーマン/ミス・アンドリュー:島田歌穂ほか。

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映画「メリー・ポピンズ」はなんといってもこれでアカデミー主演女優賞を勝ち取ったジュリー・アンドリュースの印象が強い。

そして平原綾香はジュリーが主演した映画「サウンド・オブ・ミュージック」製作50周年記念版DVD/Blu-rayで彼女の吹き替えを担当している。これがとっても良かったので「メリー・ポピンズ」も期待していた。そして文句なしに素晴らしかった!これだけ歌える人だと、聴いていて本当に気持ちがいい。僕が舞台ミュージカル女優の歌に心底魅了されたのは純名里沙(宝塚時代〜東宝「レ・ミゼラブル」まで)、平野 綾(「モーツァルト!」「レディ・ベス」)そして「ミス・サイゴン」の本田美奈子くらいかな?平原もその仲間入りを果たした。

カッキー(柿澤)は軽妙なバートがぴったり!彼の舞台は色々観てきたが、劇団四季時代「春のめざめ」以来のはまり役ではないだろうか?

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舞台版は映画版とかなり異なっていたので驚いた。まず映画に登場した、笑うと空中に浮き上がってしまうアルバートおじさんのエピソードが丸々カットされている。逆に映画で出てこなかったミス・アンドリュー(バンクス氏幼少期の乳母。メリーが去った後、バンクス家にやって来る)が舞台版で復活。また楽曲「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」や「凧をあげよう」が歌われる位置(状況)が違う。そして映画版より舞台版の方が断然気に入った!

特に僕が感動したのが、バートが重力に逆らい劇場の壁・天井をタップダンスしながら360度ぐるっと回る場面。これは明らかにフレッド・アステアが主演したMGMミュージカル映画「恋愛準決勝戦」(1951)へのオマージュである(視聴はこちら)。スタンリー・ドーネン監督が編み出したこの特別な撮影方法は後に映画「2001年宇宙の旅」「ザ・フライ」「ポルターガイスト」等で再利用されたが、まさか舞台で再現されようとは想像だにしなかった。度肝を抜かれた。

以下、作品の構造分析をするが、フランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)の手法に倣った。

「メリー・ポピンズ」にはいくつかの二項対立がある。まず重要なのが、

  • 天空↔地上

であり、空から舞い降りるメリー・ポピンズは両者間を循環する第三項だ。シェイクスピア「夏の夜の夢」の妖精パック同様、神出鬼没で気まぐれなトリックスターだとも言える。バートと彼の仲間である煙突掃除人たちは地上と空の中間地点である屋根の上に棲息する。彼らも境界に潜み、自由に行き来するトリックスターである。だからメリーとバートは旧知の仲なのだ。因みに平原は演出家から、「メリーの正体は宇宙人なんだ」と言われたそう。

他に(二項対立仲介する)第三項として、

  • 天と地を結ぶ雨
  • 地上から天空に向かって揚げる凧
    (第二幕で凧と共にメリーは降りてくる)
  • 垂直方向に伸びる煙突から上空に立ち昇る煙
が挙げられる。また次のような二項対立もある。
  • 男↔女(1910年に時代設定した映画版でバンクス夫人は女性参政権運動に血道を上げている。舞台版では元女優で現在主婦という設定に)
  • 大人↔子供
  • 厳(いかめ)しい職場;銀行(建前)↔家庭(本音)
  • 富裕層(バンクス一家)↔召使い、鳩の餌売りをする老婆
  • メリー・ポピンズ(一匙の砂糖)↔ミス・アンドリュー(苦い毒消しの薬)
バンクス氏と婦人の喧嘩や、子供たちとバンクス氏の対立を仲介し、摩擦を緩和調停する役割を果たすのがメリー・ポピンズとバートである。これがトリックスターの本分だ。そして両極の項を結びあわせ、両者が混じり合うことを望むなら、その手段であり条件となるのが「穢れ」である。それ故にメリーとバートは煙突の筒を通って煤だらけになる。
抜群の面白さだったので、間違いなく再演されるだろう。今から待ち遠しくて仕方がない!

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嘘つき野郎 ダニエル・デイ=ルイスの「ファントム・スレッド」とヒッチコック映画

評価:A

「ファントム・スレッド」の公式サイトはこちら。アカデミー賞で衣装デザイン賞を受賞。ほか作品賞・監督賞・主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)・助演女優賞(レスリー・マンヴィル)・作曲賞の計6部門にノミネートされた。マーク・ブリッジスが衣装デザイン賞を受賞するのは「アーティスト」に続いて2度目である。彼の受賞スピーチが一番短かったということで、ご褒美にKawasakiのジェットスキーを獲得した。

Mark

上の写真、後ろに座っているのはプレゼンターのヘレン・ミレン。

Phantomthread

ダニエル・デイ=ルイスの引退作ということになっているが、声を大にして言いたい。彼奴(きゃつ)は大嘘つきである!僕は全く信じない。そもそも彼は1998年に突然、「役者を廃業して靴職人になる!」と宣言し、イタリアで修行を始めた。そこへマーティン・スコセッシ監督が足を運び、口説き落として「ギャング・オブ・ニューヨーク」で俳優復帰したという経緯がある。「リンカーン」で史上最多3度目のアカデミー主演男優賞を受賞した後もしばらく休業していた。今度はファッションデザイナーとして活動を始めると、ほざいているそうな……。アホか!彼奴(きゃつ)は宮崎駿や「トラフィック」のスティーブン・ソダーバーグ監督(引退宣言を撤回し「ローガン・ラッキー」で復帰)と同類(引退詐欺師)である。ほとんどビョーキだね。まぁ見ててみな、絶対戻ってくるから。そもそも靴職人とかファッションデザイナーとか、言うことが浮き世離れしているよな。支離滅裂だ。もう61歳だぜ!?

ポール・トーマス・アンダーソン監督は「マグノリア」とか「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」とか、ちっとも面白くなかったが、「ザ・マスター」(2012)で見直した。

「ファントム・スレッド」もスリリングでワクワクした!また言うまでもないが数々の衣装が素敵。ため息が出た。デイ=ルイスも文句なしに素晴らしい。男の色気がある。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の山師とか、リンカーン大統領を演じた男と同一人物だなんて全く信じられない。気難しい役柄だが、見ていて微笑ましい。

本作は明らかにアルフレッド・ヒッチコック監督「レベッカ」(1940)の構造を踏襲している。【
デイ=ルイス演じるデザイナー(「ファントム・スレッド」)↔イギリスに大邸宅マンダレイを所有するマキシム(ローレンス・オリヴィエ「レベッカ」)】、【デザイナーの姉(「ファントム・スレッド」)↔マンダレイ家の家政婦長ダンヴァース夫人(「レベッカ」)】、【ウェイトレスからデザイナー夫人となるアルマ(「ファントム・スレッド」)↔上流階級婦人の付き人( lady's companion)としてモンテカルロでマキシムと出会い、結婚する「わたし」(ジョーン・フォンテイン「レベッカ」)】【デザイナーが見る母の幽霊(「ファントム・スレッド」)↔レベッカ(死者)】という変換がある。

そして物語後半、デイ=ルイス演じるデザイナーが毒キノコを食べさせられるのかどうか、というサスペンス演出はやはりヒッチコックが監督しジョーン・フォンテインが主演した「断崖」(1941)を彷彿とさせる展開になっている(ヒロインは果たして、夫から保険金目当てで毒入りミルクを飲まされるのか、否か?)。

最後に、ロックバンド「レディオヘッド」のメンバーでもあるジョニー・グリーンウッドが作曲した匂い立つような音楽がシックでこよなく美しかったことを力説しておきたい。彼は「ノルウェイの森」も良かった。

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神話の構造「スター・ウォーズ」と「指輪物語」&「ニーベルングの指環」

1876年に第1回バイロイト音楽祭において初演されたワーグナーの「ニーベルングの指環」4部作は北欧神話に基づいている。J・R・R・トールキンの「指輪物語」(The Lord of the Rings)は1954-5年に出版され、それに先立って「ホビットの冒険」が37年に出版された。そして1977年にジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」が公開される。

以下、この3作品の構造が全く同じであることを証明していくが、そこに宮﨑駿「崖の上のポニョ」も絡めたい。ポニョの父フジモトは彼女のことを”ブリュンヒルデ”と呼ぶ。「ニーベルングの指環」の登場人物である。つまり彼女と妹たちはワルキューレ(北欧神話に登場する半神)なのだ。ポニョが津波の上に立ち宗介のところに現れる場面で久石譲の音楽がワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」にそっくりなのは決して偶然じゃない。「ニーベルングの指環」で【神々の黄昏→人類の台頭】が描かれるのに対し、「ポニョ」は【人間の時代の終焉→新人類(ポニョと宗介の子供= a Star Child)誕生】をテーマにしている。洪水の後に古代デボン紀の水中生物たちが現れるのはそのためである(公式サイトへ)。なお「スター・ウォーズ」で作曲家ジョン・ウィリアムズが採用したライトモティーフ(示導動機)の手法は「ニーベルングの指環」に由来する。

構造分析はフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)の手法に倣った。

「ニーベルングの指環」のあらすじはこちら。人物相関図はこちら。「指輪物語」の概要についてはこちらとか、こちらの年表をご参照あれ。

「ニーベルングの指環」では

  • ヴォータンの支配する天上の神々の世界↔地下のニーベルング族《垂直方向の差異

という二項対立があり、その中間地点=地上の人間世界では

  • ヴェルズング族(ジークムント、ジークリンデ)↔フルンディングの一族

という二項対立がある。ジークムント、ジークリンデはヴォータンが人間に産ませた双子の兄妹なので

  • 神々(その長がヴォータン)↔フルンディング(人間界)

の相克にも置き換えられる。これが最終夜「神々の黄昏」では

  • ジークフリート(ジークムントとジークリンデの間に生まれた息子)↔グンター(ライン河畔ギービッヒ家の当主)+ハーゲン(グンターの異父兄弟、父はニーベルング族のアルベリヒ)

となる。

「指輪物語」では

  • 冥王サウロン+サルマン(白の魔法使い)↔人間+エルフ(自然と豊かさを司る半神)+ガンダルフ(灰色の魔法使い)《水平方向の差異

「スター・ウォーズ」では

  • 銀河共和国(滅亡後はレジスタンス)&ジェダイの騎士(白っぽい服装)↔銀河帝国(シスの暗黒卿、ダース・ベイダー)(黒っぽい服装)《光と闇、明度の差異

変換される。ここで興味深いのが「指輪物語」で魔法使いが両陣営に分かれていること。「スター・ウォーズ」でもジェダイの騎士が light sideとdark side両方に布陣している。これに相当するのが「ニーベルング」では人間である。【神と結合し、子(ジークムントとジークリンデ)を産む女↔地下世界の住人ニーベルング族と結合し、子(ハーゲン)を産む女】

では上述した二項対立を結び、その境界を超え循環する第三項は何か?「ニーベルング」「指輪物語」については言うまでもなく指輪であり、「スター・ウォーズ」ではForce(日本語では〈理力〉〈霊力〉、中国語では〈原力〉と訳された)が該当する。指輪フォースも絶大な力を秘めていることは確かだが、その実態はよく判らない(指輪の場合は欲望のメタファーでもある)。得体が知れない。レヴィ=ストロースはこれをゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)と名付けた。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。そしてゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシア(オセアニア)の原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。ジャック・ラカン(1901-81)の精神分析においてその機能を果たすのは「ファルス」(象徴的な男根)と言える。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)は浮遊する過剰シニフィアンである。意味が無いのではなく、その多義性に特徴がある。なお「ハリー・ポッター」シリーズにおけるゼロ記号は勿論、魔法だ。

「ニーベルングの指環」ではライン川の3人の乙女が守る黄金を地底の住人アルベリヒが奪い、鍛えて指輪を造る。最終的にブリュンヒルデの手で指輪はラインの乙女たちのもとに戻る。その時、ライン川が氾濫し大洪水が発生する。「指輪物語」においてサウロンはモルドールにある滅びの山(火山)の火口で金属を鍛えて指輪を造る。そして最終的にフロドが滅びの山の火口に指輪を葬る。その行為は大噴火というカタストロフィー(破滅的な災害)を起こす《からへの変換》。両者に共通するのは「一体化していたあるものを無理矢理引き剥がし過渡の分離をしたために起こった混乱・無秩序・悲劇を解消するために、仲介者がそれを本来あるべき場所に戻す」という構造(プロット)である。また「指輪物語」では白の魔法使いサルマンの居城があるアイゼンガルドをエント(木に似た巨人)がアイゼン川のを引き入れて水没させる。では「スター・ウォーズ」の場合はどうだろう?フォースという神秘的な力を持つアナキン・スカイウォーカー(=ダース・ベイダー)はダース・シディアス(シスの暗黒卿/パルパティーン)の計略にはまり、妻や子供たちと引き離される。しかし最後に、家族のもとに還る(エピソード6 ジェダイの帰還)。その際に核爆発によるデス・スター内部からの崩壊=カタストロフィーが発生する(初代および第2デス・スター、そしてエピソード7のスターキラー基地は全て同じ運命をたどる)。大洪水火山の噴火核爆発ーこれら「すべてを呑み込む」性質(昔話では山姥、ユング心理学におけるグレートマザー/太母に相当)は不変である。

洪水という主題は「崖の上のポニョ」にも現れる。旧約聖書では言うまでもなく《ノアの方舟》だ。

「スター・ウォーズ」におけるR2-D2とC-3POの役割は傍観者/語り部で、かつコメディリリーフだ。つまり彼らは(二項対立の)境界を超え、行き来するトリックスターである。その直接の影響が黒澤明「隠し砦の三悪人」であることは余りにも有名だが、「指輪物語」の中ではさしずめホビットが該当しよう。”語り部”の役割はビルボ・バギンズ→フロド・バギンズに、”コメディリリーフ”の役割はピピンとメリーが分け合い担っている。シェイクスピア「夏の夜の夢」のトリックスター・妖精パックも語り部であり、劇の最後に口上を述べる。「指輪物語」に於けるトリックスターはの神ローゲ(北欧神話のロキLoki)だろう。ローゲはいたずら好きで狡猾な半神だ。つまり人間と神の境界に潜む。神出鬼没であり、「ワルキューレ」ではヴォータンからの召喚に応じ岩山のブリュンヒルデを魔ので囲む。そして「神々の黄昏」では神々の居城=ヴァルハラ城を焼き尽くす。トリックスターの面目躍如である(ロキは「終わらせる者」という意で、両性具有であるという)。ギリシャ神話のトリックスター・プロメテウスは神の世界から人間界にをもたらす。は【生のもの→調理したもの】という、自然から文化への移行を象徴している。また宮﨑駿「ハウルの動く城」に登場するカルシファー≒ロキと考えてほぼ間違いない。

  • 「ニーベルング」ジークムントとフンディングの戦いのときヴォータンが現れ、自らが与えた剣ノートゥングを打ち砕く。武器を失ったジークムントは、フンディングの槍に刺されて絶命する↔「指輪物語」ゴンドール(都)の執政デネソールは戦で重傷を負った次男ファラミアが死んだと勘違いし、ファラミアもろとも焼身自殺を図る↔「スター・ウォーズ」ダース・ベイダーはルークとライトセーバーで戦い、ルークの腕を切り落とす《親族の過小評価
  • 「ニーベルング」洞窟の中で大蛇に変身したファフナー(巨人族)が財宝を守っている。ジークフリートが退治し、指環と隠れ頭巾を奪う↔「ホビットの冒険」スマウグ(ドラゴン)が財宝を守っている。ビルボが黄金の杯を盗む

隠れ頭巾というガジェット(小道具・仕掛け)は「ホビットの冒険」「指輪物語」において、指輪をはめると姿が消えるという設定に変換されている。また「スター・ウォーズ」ではジェダイの騎士がフォースの力(理力)で自分の気配を消すことが出来る。「ハリー・ポッター」にも隠れマントが登場する。

「ニーベルング」における【父ヴォータン↔娘ブリュンヒルデ】の二項対立は「指輪物語」では【ゴンドール(都)の執政デネソール↔息子(次男)ファラミア】の確執に変換されている。その背景には死んだ長男ボロミアに対するデネソールの偏愛がある。「スター・ウォーズ」では言うまでもなく【父ダース・ベイダー(アナキン)↔息子ルーク・スカイウォーカー】だ。プリクエル(前日譚、エピソード1-3)では【師オビ=ワン・ケノービ(父代わり)↔アナキン・スカイウォーカー】の衝突に置き換えられている。ギリシャ神話《エディプス王》的”父殺し”の主題はエピソード7の【ハン・ソロ↔カイロ・レン】に引き継がれる。

「指輪物語」のファラミアは父に愛してもらいたいと切望している。しかしそれは決して満たされない。これは旧約聖書《カインとアベル》の物語の引用だ。後にスタインベックの小説「エデンの東」になった。カインが弟アベルを殺すのは、神ヤハウェがアベルしか愛さなかったから。つまり嫉妬である。「ニーベルング」ではブリュンヒルデとの結婚の宴を開いたギービッヒ家の当主グンターを異父兄弟ハーゲンが殺し、指輪を奪おうとするという形で現れる(「神々の黄昏」)。「スター・ウォーズ」プリクエルでは女王パドメ・アミダラとオビ=ワンが密通ているのではないかという疑心暗鬼・嫉妬から、アナキン・スカイウォーカーがオビ=ワンとの死闘になだれ込む(「最後のジェダイ」ではレイを巡ってカイロ・レンが叔父ルークに嫉妬する)。

「ニーベルング」のジークムントとジークリンデという双子の主題は「スター・ウォーズ」の双子ルークとレイアに再現される。エピソード4ではルークがレイアに恋心を抱いているようにも描かれる《近親相姦的、親族の過大評価》。「指輪物語」ではアラゴルン(帰郷した人間の王)と結ばれるエルフ族のアルウェンに双子の兄エルラダンとエルロヒアがいるという設定として現れる。双子とは一つの卵子が二つに分化することの暗喩であり、自然(神々の黄昏)→文化(人間の台頭)への移行を象徴している。

ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」の撮影時に繰り返し観ていたという黒澤明「七人の侍」もまた、【武士道の終焉→庶民(農民)の時代の到来】を描いている。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はその著書「シネマ」の中で「七人の侍」に触れ、「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在すると語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

ジェダイの騎士(「ニーベルングの指環」では神々)の置かれた立場も正に、侍と同じなのである。

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ソンドハイムのミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」とシェイクスピア「夏の夜の夢」

5月4日(祝)梅田芸術劇場へ。スティーヴン・ソンドハイム作詞・作曲のミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」を観劇した。

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実はこの作品を以前、近鉄劇場でも観ている。1999年7月5-18日の全17公演で演出はジュリア・マッケンジー、音楽監督・指揮は宮川彬良だった。その時のキャストは以下の通り。

デジレ・アームフェルト(女優):麻美れい
フレデリック・エーガーマン(弁護士):細川俊之
シャーロット・マルコム(伯爵夫人):安寿ミラ
カールマグナス・マルコム(伯爵):寺泉 憲
フレデリカ・アームフェルト(デジレの娘):松下 恵
ヘンリック・エーガーマン(フレデリックの息子):岡田真善
アン・エーガーマン(フレデリックの幼妻):高塚恵理子
ペトラ(エーガーマン家のメイド):池田有希子
マダム・アームフェルト(デジレの母):東恵美子

今回の演出は役者として本作に出演した経験もあるマリア・フリードマン。1973年のブロードウェイ初演を演出したのが「屋根の上のヴァイオリン弾き」「キャバレー」「オペラ座の怪人」「スウィーニー・トッド」のハロルド・プリンスで、トニー賞においてミュージカル作品賞、楽曲賞、ミュージカル台本賞ほか計6部門を受賞した(その年に演出賞を制したのは「ピピン」のボブ・フォッシー)。デジレのナンバー"Send in the Clowns"は数多くの大女優が歌っており、僕が聴いたことがあるのはジュディ・デンチ(英国で出演)、グレン・クローズ、そしてキャサリン・ゼタ=ジョーンズ(2010年再演版に出演し、トニー賞でミュージカル主演女優賞を受賞)である。1979年に劇団四季が日本初演した際にデジレを演じたのは越路吹雪!他に久野綾希子、市村正親、鹿賀丈史、島田祐子らが出演した。

イングマール・ベルイマン監督のスウェーデン映画「夏の夜は三たび微笑む」(1955年)に着想を得たこのミュージカルのあらすじはこうだ。

19世紀末のスウェーデン。18歳のアン(蓮佛美沙子)と再婚した弁護士フレデリック(風間杜夫)はなかなか妻に手が出せず、結婚して11ヶ月経てもアンは処女。神学校に通う息子のヘンリック(ウエンツ瑛士)は密かに義母アンに恋心を抱いていた。フレデリックとアンはある日、芝居を観に出かける。主演女優のデジレ(大竹しのぶ)はフレデリックの昔の恋人。舞台に立つデジレを見た瞬間アンはふたりの関係を察し、泣きながら席を立つ。14年ぶりに再会を果たしたデジレとフレデリックは旧交を温めるように寝室に向かうが、デジレの現在の恋人で女房持ちのカールマグナス伯爵(栗原英雄)が突然来訪する。伯爵はふたりの仲を怪しみ、帰宅後妻のシャーロット(安蘭けい)にフレデリックのことを調べるよう命令する。早速アンを尋ねたシャーロットは全てを暴露し、互いの夫をデジレに取られたと慰め合う。一方フレデリックのことが気になるデジレは自分の母親と娘フレデリカが住む田舎の屋敷に、一家を招待することを計画。伯爵夫妻もこの件を嗅ぎつけ、強引に田舎に向かった。遂に顔を合わせることになった三組の家族。それぞれがさまざまな思惑を抱きながら、一夜を共にすることになる。

デジレの母はWikipedia(English ver.)の説明によると"courtesan"、つまり(王侯貴族・金持ちなどを相手にした)高級売春婦である。

5人(女性3+男性2)によるリーベスリーダー(the Liebeslieder Singers)がコーラスを担う。"Liebeslieder"はドイツ語で、英語では"love songs"となる。つまり「恋の歌の歌い手」だ。

音楽の特徴は、ほぼ全てが3拍子=ワルツで作曲されているということ。モーリス・ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」や「ラ・ヴァルス」からひらめきを得ており、大変優雅な作品である。

「夏の夜は三たび微笑む」はシェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」を基にしている。ベルイマンは映画監督としてだけではなく、舞台演出家としても名を馳せた。「夏の夜の夢」も当然演出している→こちら

ベルイマンには”神の沈黙”三部作がある。彼の父親は厳格な牧師で、キリスト教に対する強烈な嫌悪感があり、映画「仮面/ペルソナ」ではイエス・キリストを蜘蛛として描いている(生贄の羊=神への供物)。その気持ちがヘンリックの描写に反映されている。

ではベルイマンがどのように「夏の夜の夢」を換骨奪胎(ブリコラージュ)し、現在の形に練り上げていったかを分析してみよう。A Little Night Musicはドイツ語でEine kleine Nachtmusik(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)、日本語では「小夜曲」となるので、以下そう呼称する。

  • 両者とも夏の夜の森が舞台となる。「夏の夜」月夜↔「小夜曲」白夜
  • 「夏の夜」は貴族社会・職人社会・妖精世界の3つが混じり合う↔「小夜曲」では3つの家族が入り乱れる

Night

  • 「夏の夜」における妖精たち(豆の花、蜘蛛の巣、蛾の羽根、芥子の種)↔「小夜曲」リーベスリーダー
  • 「夏の夜」妖精の王オーベロンと女王ティターニアはとりかえ子を巡ってけんかをする↔「小夜曲」デジレの娘フレデリカの父親はもしかしたらフレデリック?(最後まで真相は明かされない)
  • 「夏の夜」ヘレナはディミートリアスを追いかけるが、許婚ハーミアに執心する彼は見向きもしない。しかしパックのいたずら(キューピッドの矢の魔法から生まれた媚薬)でディミートリアスはヘレナにゾッコンになる↔「小夜曲」ヘンリックはアンが好きだが見向きもされない。しかし最後に二人はくっつく
  • 「夏の夜」ヘレナはハーミアに嫉妬する↔「小夜曲」アンはデジレに嫉妬する
  • 「夏の夜」ヘレナを巡ってライサンダーとディミートリアスは決闘する↔「小夜曲」デジレを巡ってフレデリックとカールマグナス伯爵は決闘する
  • 「小夜曲」エーガマン家のメイド・ペトラはマダム・アームフェルトの執事フリードと屋外でセックスしようとする。正に「野生の思考」の持ち主であり、「夏の夜」では職人ニック・ボトムに該当する。ボトムはパックのいたずらでロバの頭に変容されてしまう。西洋においてロバというのは頭が足りない馬鹿の象徴であると同時に、精力絶倫を意味する。本能のまま生きる「夏の夜」の職人たちは最も無意識に近接した深層にいる。それは「小夜曲」の使用人たちも同様。その対極(意識の浅層)に位置するのが禁欲=理性で自己を制御しようとするヘンリック。
  • では「夏の夜」のいたずら好きなトリックスター・妖精パックは「小夜曲」では誰か?僕はマダム・アームフェルトだと考える。「夏の夜」はパックの口上で締め括られ、「小夜曲」もマダムの口上で終わる。トリックスターは境界を超え行き来する。マダムは【婚姻↔非婚姻(独身)】の境界に潜む。招待状を出して一同を集結したのも彼女だ。

演技者について。再演のニュースを聞いた当初は、風間杜夫や蓮佛美沙子らミュージカル出演経験の乏しい役者が何人かいて、「大丈夫かいな?」と危惧していた。しかし蓋を開けてみると杞憂に終わった。特に大竹しのぶと風間杜夫のコンビは、歌唱力だけ取れば確かに麻実れい&細川俊之に一歩譲るが、その分、演技力で大幅に上回っていた。味わい深く、この洒落た一夜の夢を堪能した。しかし前回の上演から19年も経ってしまったので、次回はもっと間を開けず、再演してもらいたいものだ。待ってます。

最後に。僕が今までに観たソンドハイム作品を好きな順に挙げよう(「ウエストサイド物語」など歌詞担当のみの作品は省く)。

  1. メリリー・ウィー・ロール・アロング
  2. スウィーニー・トッド
  3. 太平洋序曲
  4. リトル・ナイト・ミュージック
  5. イントゥ・ザ・ウッズ
  6. サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ ~日曜日にジョージと公園で~
  7. パッション
  8. カンパニー

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シリーズ《音楽史探訪》「トリスタンとイゾルデ」から「ペレアスとメリザンド」へ〜その構造変換を読み解く。

ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が初演されたのは1865年であった。その起源はケルトの説話であり、12世紀の中世フランスで韻文の物語にまとめられ、イギリスに於いてアーサー王物語に組み込まれた。そしてトリスタンは円卓の騎士に一人になった。

一方、ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンク(「青い鳥」の作者)が書いた戯曲「ペレアスとメリザンド」がブリュッセルで出版されたのが1892年。翌93年にパリで初演された。

「ペレアスとメリザンド」は多くの作曲家の創作意欲を掻き立てた。フォーレ(フランス)は1898年ロンドン初演のための劇付随音楽を作曲し、これに基づいたオーケストラ組曲を1900年に発表した。ハープの分散和音にフルート独奏が乗るシシリエンヌは余りにも有名である。

1902年にはドビュッシー(フランス)によるオペラが初演された。台詞のカットや移動があるものの、彼はメーテルリンクの戯曲にほぼ忠実な形で台本にしている。

1905年にはシェーンベルク(オーストリア)唯一の交響詩「ペレアスとメリザンド」が初演された。シェーンベルクが無調音楽や12音技法を確立する前の作品であり、ワーグナーの楽劇を彷彿とさせるライトモティーフ(示導動機)が用いられ後期ロマン派の香りが濃厚である。

そして同年、戯曲のヘルシンキ初演のためにシベリウス(フィンランド)が劇付随音楽を作曲し、オーケストラ組曲にまとめ上げた。

ドビュッシーやシェーンベルクがライトモティーフ(示導動機)を導入していることでも分かる通り、「ペレアスとメリザンド」に携わった作曲家たちが「トリスタンとイゾルデ」を意識しているのは明白である。後半生のドビュッシーはワーグナーに批判的だったが、若い頃の彼はワグネリアン(心酔者)だった。1880年代初期にはウィーンで「トリスタン」を観劇し、かつそのスコアを所有して丸ごと暗記していたという逸話があり、85年に留学先ローマのアポロ劇場で「ローエングリン」を鑑賞した記録も残っている。彼が初めてバイロイト詣でするのは1888年。「パルジファル」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に接し、翌89年にはバイロイトでも「トリスタン」を観劇している。

楽劇「トリスタンとイゾルデ」のあらすじはこうだ。

アイルランドの王女イゾルデは敵対するイングランド・コーンウォールのマルケ王との政略結婚のため、王の甥トリスタンに護衛され航海していた。かつての婚約者の仇でもあるトリスタンに密かに心惹かれるイゾルデは船上で服毒心中を図るが、侍女ブランゲーネが毒薬の代わりに愛の媚薬を手渡したため、それを飲んだトリスタンとイゾルデは瞬く間に熱愛に陥る。マルケ王の妻となったイゾルデだが、トリスタンとの逢瀬を重ねる。しかし密会の場に王が現れる。トリスタンは王の家臣メロートの剣によって瀕死の重傷を負うが、自分の城に戻りイゾルデを待つ。ようやくイゾルデが到着するが、トリスタンは愛するイゾルデの腕の中で息絶える。媚薬の仕業と知り2人を許そうと王一行がやってくるが、イゾルデもトリスタンの後を追って果てる。

ワーグナーが参照した大本の物語では、アイルランド王は強暴な竜の存在に悩んでおり、トリスタンが竜を退治するというエピソードがある。また後半の展開も異なり、トリスタンは金髪のイゾルデをマルケ王に返し、自身はコーンウォールを去るという条件で王と和解する。彼はブルターニュへ赴き、ブルターニュ王の娘、白き手のイゾルデと結婚する。その後、国は戦禍に巻き込まれトリスタンは瀕死の重傷を負う。自分の死期を悟ったトリスタンは使者に金髪のイゾルデからもらった金の指輪を託してコーンウォールに行くように頼んだ。そして帰りの船に金髪のイゾルデが乗っているなら白い帆を、乗っていないなら黒い帆を掲げて欲しいと言った。やがて、コーンウォールからの船が向かってきているという知らせが入り、トリスタンは白き手のイゾルデに船の帆の色を尋ねる。嫉妬に狂った彼女が「黒い帆です」と嘘をつくと、落胆したトリスタンは間もなく息を引き取った。

一方、「ペレアスとメリザンド」の物語は以下の通り。

架空の国アルモンドの王子ゴローは迷い込んだ森の奥深く、泉のほとりで見つけたメリザンドと名乗る不思議な女性に魅かれ、彼女の素性も分からないまま結婚する。祖父であるアルモンド国王アルケルの許しを得て帰国したゴローとメリザンドだが、メリザンドはゴローの異父弟ペレアスと城の庭にある「盲の泉」で親交を深める。メリザンドはゴローからもらった結婚指輪をもてあそぶ内にそれを泉の底へ落としてしまう。メリザンドが指輪をしていないことに気づいたゴローは激怒するが、メリザンドは「海辺で落とした」と嘘をつく。2人の親密さに疑念を持ったゴローは密会場面を目撃し嫉妬に狂ってペレアスを殺害してしまう。そのまま寝込んだメリザンドは、娘を産んだ後衰弱していき、ゴローからペレアスとの関係を問われ「愛したけれど、罪は犯していない」と答え絶命する。

両者には以下の対応関係が認められる。

  • トリスタンの【アイルランド↔イングランド】という二項対立がペレアスでは【森↔城】に置き換えられている《空間のコード》。アイルランドは言わずと知れた妖精の国。トリスタンの物語でも竜が棲んでいる。つまりこれは【自然↔文化】の対立であると言える。
  • トリスタンとイゾルデが恋に落ちるのは【アイルランド↔イングランド】の境界域にある海上。一方、ペレアスとメリザンドの場合は森と城の間にある泉だ。両者ともがモチーフになっていることにも注目。トリスタンたちが飲んだ媚薬も液体である。
  • イゾルデは結婚相手(国の最高権力者)の親族であるトリスタンを愛する↔メリザンドは結婚相手(王位継承者)の親族であるペレアスを愛する《婚姻・親族関係のコード》
  • トリスタンは愛する金髪のイゾルデから貰った指輪を後生大切にしている↔メリザンドは愛していないゴローから受け取った指輪をぞんざいに扱う《逆転の変換》《贈与のコード》
  • 白き手のイゾルデ金髪のイゾルデに嫉妬し、トリスタンを死に至らしめる(ワーグナーのオペラには白き手のイゾルデが登場しないので、王の家臣メロートの嫉妬に置き換えられている。メロートが幼馴染であるトリスタンに対して同性愛的感情を抱いていたという解釈も可能)↔ゴローはペレアスに嫉妬し、殺害する

以上の構造分析をお読みになれば、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に意識的/無意識的に影響を受けた作曲家たちが「ペレアスとメリザンド」に殺到した理由がお分かり頂けるだろう。なおフォーレは友人の作曲家ポール・デュカスに宛てた手紙の中で「トリスタン」からの一節を引用している。

またメリザンドは明らかに水の精として描かれており、メーテルリンクが「トリスタン」だけではなく、を司る精霊ウンディーネの物語にも触発されていることを付け加えておく(1811年に出版されたドイツの作家フーケの「ウンディーネ」や1939年にフランスのジロドゥが執筆した戯曲「オンディーヌ」が有名)。ドビュッシーのオペラでは省略されているが、ゴローがメリザンドを伴って城に帰ってくる日に女中たちはありったけのを使って城門周囲を洗い浄める。またメリザンドが臨終の際に彼女たちは病室の壁ぎわに並び、ひざまづく。どうやらメリザンドをあるじとして密かに見守っていたらしい。

続いてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が後世の作品に与えた音楽的影響について考察しよう。「トリスタン」といえば、何と言っても徹底的な半音階の追求である。調性を無視したかのような半音階の上行・下降は「無限旋律」と名付けられた。

フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースはその著書「神話論理」4部作の中で、神話に登場するのことを「半音階的なもの」と呼んだ。つまり半音階グラデーション(色調・明暗などの段階的変化)に対応している(レヴィ=ストロースは生から死への移行を示す魚獲りの毒、病気も「半音階的なもの」とした)

半音階の駆使はドビュッシーやラヴェルらに引き継がれた。フランス印象派の音楽を聴くと色彩豊かに感じられるのは、そのためである。

またシェーンベルクが発明した「12音技法」は従来のドレミファソラシという7音だけではなく、その間にある半音を含めた12音を平等に扱うという思想である。つまりその発想の原点にワーグナーの半音階がある

こうして見ていくと、20世紀の音楽の礎を築いたのが「トリスタンとイゾルデ」だったのだということがよく理解出来る。

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夜鷹は何故、そう呼ばれたか?

江戸を描いた時代小説や落語などにしばしば登場する「夜鷹」とは夜、道ばたで客を引いた、下等の売春婦のことを指す。

江戸落語「時そば」で言及される「夜鷹そば」の由来は諸説あるが、最も有力な説は夜鷹を相手に商売したからだという。夜鷹には「二十四文」の異名があり、二十四文が相場だった。蕎麦の相場は十六文(天ぷらそばが三十二文)。天保二年(1831)の川柳に次のようなものがある。

客二つ つぶして夜鷹 三つ食い

つまり夜鷹が客を2人相手すれば稼ぎが24文×2=48文なので、蕎麦が3杯食べられたという意味である(16×3=48)。これはしばしば「時そば」のマクラで紹介される。因みに江戸時代の一文の価値は現代の貨幣に換算すると25-30円程度なので、夜鷹の相場は700円前後!?正に最下層と言える。

「夜鷹」は江戸固有の呼び方、土着の言葉で、京都では「辻君」、大坂(大阪と表記されるようになったのは明治以降)では「惣嫁(そうか)」と呼ばれた。

ではどうして彼女たちは「夜鷹」に喩えられたのか?辞書などの説明では夜行性だからとしか書かれていない。しかし考えてみれば夜行性の動物なんて、ニシキヘビとかミミズク、フクロウ、アマガエル、サンショウウオ、タヌキなど沢山いる。何故ヨタカが選ばれたのだろう?そこに必然性があったことを僕は今になって初めて知り、衝撃を受けたのでご紹介したい。

フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースはその著書「やきもち焼きの土器つくり」(みすず書房)に於いて、南アメリカ・アンデス山脈に暮らすヒバロ族の神話を発端に、ヨタカについての考察を展開している。この鳥は目の後ろ耳元まで裂けた口や夜行性の習性を特徴に持つ。

Yotaka

彼らは巣を作らず、地面あるいは石の上に直に卵を二つ産み付ける。

それと対照的なのが、立派な巣作りをするカマドドリである。

Kamado

神話に登場するヨタカは三つの欲望ないしは感情、すなわち吝嗇嫉妬恨みがましさに結び付けられる。これらは口唇的欲望を共示している。口唇は肛門に対立し、身体の開口に関わっている。そして肛門/膣による欲望と変換による対応関係にある。ギニアのカリブ族は夜だけ活動するヨタカを、孤独と放蕩の象徴としており、ブラジルの先住民はしばしばヨタカの大口を女陰になぞらえる。

つまり江戸固有の土着の言葉「夜鷹」は鳥の開口を陰唇に見立て、その貪欲さを淫乱の隠喩としているのだ。

それだけではない。

Yotaka2

夜鷹の絵である。彼女はござを抱えている。なんとこれが商売道具なのだそうだ。つまり部屋を借りるとお金が掛かるので、ことは全て野外で済ませた。そして鳥のヨタカも巣(=家)を作らない。正にこれぞ「野生の思考」と言えるだろう。

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