深層心理学/構造人類学

2020年2月14日 (金)

岩井俊二監督「ラストレター」と新海誠/大林宣彦

評価:A

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アニメーション映画「秒速5センチメートル」を初めて観た時に感じたのは、新海誠監督は大林宣彦と岩井俊二の映画が大好きなんだなということ。例えば踏切の場面に「転校生」の影響が感じられる。それは後に「君の名は。」の男女入れ替わりに「転校生」が、タイムリープや終盤の男女のすれ違いに「時をかける少女」が反映されることで確信に変わることになる(「天気の子」で陽菜の体がふっと消え失せるのは「さびしんぼう」だ)。

「秒速5センチメートル」はさらに、岩井の劇場用長編映画第1作 「Love Letter」への熱烈なオマージュがしっかりと刻印されている。特に学校の教室の窓が開いていて、カーテンが風に揺れる場面。そして図書室の貸出カードを触媒として、男女がつながるアイディア。正に「失われた時を求めて」(マルセル・プルースト著)である。

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岩井俊二「Love Letter」より

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新海誠「秒速5センチメートル」より

その後、岩井と新海は急接近し、何度も対談する仲となる。そして岩井はアニメーション映画「花とアリス殺人事件」で"Special thanks to"として新海誠をクレジットし、その返礼として新海は「君の名は。」のエンドロールで岩井俊二の名を挙げた。

新海は「ラストレター」に対して次のような賛辞を送っている。

ラブレターのいくつもの誤配や錯綜が、人生を作っていく。その美しさを教えてくれるのは、傘をさした二人の少女だ。岩井俊二ほどロマンティックな作家を、僕は知らない。

「君の名は。」で声優を務めた神木隆之介と「天気の子」の森七菜が「ラストレター」に出演していることも見逃せない。クロスオーバーだ。共犯関係と言い換えても良い。

「ラストレター」は紛うことなき岩井俊二の集大成である。「Love Letter」で主演した中山美穂と豊川悦司が中盤で登場するし(トヨエツがユング心理学で言うところの、主人公の影 Shadowの役割を果たしているのが面白い)、学校の教室の開いた窓、揺れるカーテン、そして図書室の場面もちゃんと用意されている。

さらに岩井の過去作「四月物語」から松たか子が、岩井が主演した映画「式日」からは監督・庵野秀明が今度は役者として出演している。なお庵野は漫画家役なのだが、彼が仕事中に聴いているのが芥川也寸志が作曲した映画「八甲田山」のサントラというのが粋だね(ガイナックス元代表取締役社長の岡田斗司夫が「庵野は『日本沈没』とか『八甲田山』が好き」と証言している)。試聴はこちら

あと小学生の男の子たちの使い方が「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を彷彿とさせる。そして嗚呼、浴衣姿の広瀬すずと森七菜が、廃校のプールで花火をする場面!「打ち上げ花火」の奥菜恵を想い出して胸がキュンとなった。

岩井俊二は少女が輝く最高の瞬間を掴み取り、フィルムの中に永遠に閉じ込める才能に長けた人である。その代表例が「打ち上げ花火」の奥菜恵であり、「Love Letter」の酒井美紀、「花とアリス」の蒼井優(特にバレエのシーン!)も挙げられよう。今回「ラストレター」の森七菜がそのリストに加わった。

予告編でショパン作曲「別れの曲」が使われていたので、「ラストレター」は大林映画「さびしんぼう」へのオマージュなのか?と僕は予想を立てていた。しかし本編で「別れの曲」は使用されず、代わりに驚くべき仕掛けが待ち受けていた。

「ラストレター」の主人公・鏡史郎(福山雅治)は中年の小説家で東京に住んでいる。彼はふとしたことから古里の仙台に帰る。そこで、初恋の相手・未咲とそっくりの少女・鮎美(広瀬すずが一人二役)に出会う。鮎美は亡くなった未咲の娘だった。

このプロット、実は大林映画「はるか、ノスタルジィ」とそっくり同じなのだ!!「はるか、ノスタルジィ」の綾瀬慎介も小説家であり、両者とも帰郷時にカメラをストラップで首から胸に下げている

また姉妹が登場し、ひとりの男と三角関係になり、姉が死ぬという物語構造は大林映画「ふたり」(赤川次郎 原作)を彷彿とさせる。

岩井は最近、大林監督と親しくしており、「フィルムメーカーズ ⑳ 大林宣彦」(宮帯出版社)に寄稿している。「ラストレター」は実質的に岩井版「はるか、ノスタルジィ」だった。

そして「ラストレター」の鏡史郎と、「はるか、ノスタルジィ」の綾瀬慎介の(ある意味狂気を感じさせる)妄執は、更に遡ってアルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい」に接続している。映画は繋がっている。新海誠の言葉を借りるなら〈ムスビ(産霊)〉ということになるだろう

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2020年2月 1日 (土)

【考察】今世紀最大の問題作・怪作!ミュージカル映画「キャッツ」〜クリエイター達の誤算

2019年12月20日に北米で公開されるやいなや、「グロテスクなデザインと慌ただしい編集で、不気味の谷へと転落していく。ほとんどホラー」(Los Angeles Times)「4回吐いた」「悪夢を見ているよう」「あまりの恐怖に涙が出た」「猫の皮を被ったカルト宗教集団から延々と洗脳され続ける体験」などと酷評され続ける映画「キャッツ」。

現在、IMDb(インターネット・ムービー・データベース)での評価は10点満点中2.8点(2万5千人以上の集計)、なんと!史上最低(B級映画をも下回る)Z級映画と誉れ?高い「死霊の盆踊り」Orgy of the Dead の2.9点より低い。

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因みに「アタック・オブ・ザ・キラー・トマト」が4.6点、エド・ウッド監督「プラン9・フロム・アウタースペース」は4.0点だ。つまりZ級映画の殿堂入り確定、文句なしのカルト映画ということ。

続いて【腐ったトマト(Rotten Tomatoes)】を見てみよう。

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評論家の肯定的評価は20%で〈腐った〉、一般人からは53%の支持しか得ていない。なお北米で公開された新海誠監督「天気の子」(英題:Weathering With You)に対する評論家の肯定的評価は92%〈新鮮〉、一般人は95%となっている。

Cats

僕がこれだけのショック(電気的啓示 electric revelation)を受けたのは橋本忍(脚本・監督)のトンデモ映画「幻の湖」(1982)以来ではなかろうか!?だから40年に1本の珍作・怪作と断言しよう。小説で言えば「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」「黒死館殺人事件」など三大奇書レベル。

BとかCとか中途半端な評価は本作に似合わない。AかZの二択だ。僕は存分に愉しんだので謹んでAを進呈する。字幕版だけでは飽き足らず、日本語吹き替え版も立て続けに観た。

公式サイトはこちら

舞台ミュージカル「キャッツ」は1981年にロンドンで開幕。ロンドンで21年、ブロードウェでは17年間のロングランを記録。トニー賞ではミュージカル作品・楽曲・台本・演出賞など7部門を制覇した。

役者が猫を演じ、人間役は一切登場しないという当時としては革新的なミュージカルであり、長らく実写映画化は不可能と言われていた。スティーヴン・スピルバーグの製作会社、アンブリン・エンターテイメントがアニメーション化するという話もあったが、結局立ち消えになった。

普段私達が舞台を観る時は、想像力をフルに働かせて足りないものを補っている。そこに猫の着ぐるみを身にまとった役者がいれば、【人間→猫】に〈見立て〉る 。つまり脳内で〈変換〉作業が行われる。絵の具で描かれた舞台背景=書き割りも、本物の風景が広がっていると〈想像力〉で補完する。その究極の姿が落語であり、座布団の上で演者が上下(かみしも)を切る(顔を左右に向けて話す)ことで、観客は二人の登場人物が会話していると脳内で〈見立て〉る 。小道具となる扇子も、広げて盆に〈見立て〉たり、閉じたまま煙管や筆、箸に〈変換〉して使用される。つまり落語は観客の〈想像力〉を借りなければ成り立たない芸能である。年端のいかない幼い子が見たら「あのおっちゃん、なに一人で喋ってんの?アホちゃう」ということになるだろう。これが芝居・寄席小屋における暗黙の了解である。

ところが、映画というメディアではそうはいかない。リアリティが求められ、〈想像力〉を働かせる必要がない。白黒の無声映画時代なら背景が書き割り(絵)でも許された。しかし音声が付き、カラーになり、画面が大きくなってサラウンド・スピーカー・システムが導入され事情が変わった。現在ではフィルムからデジタル時代になり、さらに細密な描写が必須となった。つまり映画は舞台よりも実生活に近いメディアであり、映画館はヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)の場。だから観客は〈見立て〉たり、〈想像力〉を働かせることを止めてしまった。IMAX上映とかアトラクション(体感)型4Dシアターの出現は、その傾向に拍車をかけた。

舞台では日本人がリア王やマクベスを演じても不自然じゃない。ギリシャ悲劇やチェーホフも演る。宝塚歌劇の男役だってそう。しかし映画でそれは許されない。〈見立て〉が成り立たないのだ。つまり「これは花も実もある絵空事ですよ」という約束事が通じる閾値・境界線、仮にそれをReality Lineと呼ぼう、が舞台と映画では明確に違う。

映画「キャッツ」は着ぐるみではなく、最新のCG技術"Digital Fur Technology"を駆使して役者に猫の体毛を生やした。非常にリアルだ。すると観客は【人間→猫】に脳内変換することが不可能になる。人間でもなく、猫でもない化け物(monster)=猫人間の誕生である。「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する猫娘みたいなものだ。しかもおぞましいことに更に小さな、人間の顔をしたゴキブリ、つまりゴキブリ人間も登場し、猫人間がそれを食べてしまう衝撃的な場面が用意されている。ここで大半の人はカニバリズムを連想し、阿鼻叫喚となるだろう。「進撃の巨人」における巨人が人間を喰らう場面に相当、さながら地獄絵図である。

面白いのは映画「キャッツ」批判の中に、〈彼らは性器がついておらず、股間がツルンとしているのは何故?〉というのがあった。舞台版では一度もされたことのない問いである(Catsの着ぐるみに、性器がついていたら気持ち悪くないですか?)。ここでも舞台と映画ではReality Lineが異なることが示されている。映画ではより精密な描写が求められるのだ。この股間問題は、ディズニーの超実写(CG)版「ライオンキング」でも話題になった。アニメ版ではその省略を誰も気にしなかったのに。つまりセル画アニメとCGでも、観客が求めるReality Lineは違う。漫画のアニメ化に成功例は多いが、実写映画化は殆ど失敗しているのもReality Lineの差に原因があるのだろう。

本作を観た多くの人が「不気味だ」「怖い」と感じる。それは危険を察知して回避しようとする動物的な防衛本能である。私達は舞台を観るときにある程度距離をおいて客観視することが出来る。つまり知性で「これは虚構(Fiction)だ」と分かり、現実(Real)と区別している。しかし映画になると知性が吹っ飛び本能が表面に出てきて主観的になる。虚構と現実の境界が曖昧になるのだ。興味深い現象である。だからこそ映画には没入感があり、より一層人の心の深層に潜り込むことが出来る。

結局、「英国王のスピーチ」でアカデミー作品賞・監督賞を受賞したトム・フーパーら「キャッツ」のクリエイターたちは、舞台と映画の本質的違いをよく分かっていなかったのだろう。そこに彼らの大いなる誤算があった。結局、アニメーション化したほうが無難だった。

ミュージカル「キャッツ」は基本的に歌と踊りを主体としたショー=レビューである。一匹ずつ、自分がどういう猫かを語ってゆく。だから基本的に物語らしい物語はない。それを期待するだけ無駄である。過去の映画で一番近いのは「ロッキー・ホラー・ショー」かな?だからこれから映画版を観る人は、一夜のパーティに参加するノリで足を運んだら良いだろう。いずれ「ロッキー・ホラー・ショー」同様に、猫のコスプレしてスクリーンに向かって野次やツッコミを入れる観客参加型上映が定着するのではないだろうか。

映画版のオールド・デュトロノミー役:ジュディ・デンチは1981年のウエスト・エンド公演でグリザベラを演じる予定だったが、稽古中の怪我で止むなくエレイン・ペイジと交代した。粋な配役である。因みに舞台版のオールド・デュトロノミーは男優が演じる。

あと映画版のグリザベラ(ジェニファー・ハドソン)はシャンデリアに乗って上昇し、天上界へと向かう(舞台版ではタイヤが浮き上がる)。これは同じロイド・ウェバーのミュージカル「オペラ座の怪人」第1幕のクライマックスでシャンデリアが落下することと、きれいに対称を成している。このあたり、トム・フーパーの演出は冴えに冴えている。

ブロードウェイ・ミュージカル「ハミルトン」「イン・ザ・ハイツ」 などでトニー賞の振付賞を3度受賞しているアンディ・ブランケンビューラーによる振付がヒップホップを取り入れるなど斬新でダイナミック。

また日本語吹き替え版は山崎育三郎、大竹しのぶ、山寺宏一、宝田明らが素晴らしく、聴き応えあり。

映画という概念を変える、画期的・革新的エンターテイメントの出現である。四の五の言わず、直ちに劇場で体感せよ!!

〈追伸〉本作にガッカリしたという貴方、トム・フーパー監督を見限らないであげて。2月にAmazon Prime Video他から配信される「ダーク・マテリアルズ/黄金の羅針盤」は絶対に面白いから!なんと、「ゲーム・オブ・スローンズ」の米HBOと「シャーロック」の英BBC共同制作による超大作だ。こちらからどうぞ。

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2020年1月30日 (木)

サロネン/フィルハーモニア管×庄司紗矢香 【構造人類学で読み解く「春の祭典」】

1月25日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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フィンランドの指揮者エサ=ペッカ・サロネン/フィルハーモニア管弦楽団、独奏:庄司紗矢香で、

  • シベリウス:交響詩「太陽の女神(波の娘)」
  • ショスタコーヴィッチ:ヴァイオリン協奏曲 第1番
  • パガニーニ:「うつろな心」による序奏と変奏曲〜主題
    (ソリスト・アンコール)
  • ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

ホールの入りは7割程度。

シベリウス「波の娘」は弦楽器の刻むリズムが明晰。

ショスタコのコンチェルト、第1楽章「ノクターン」は地獄からうめき声が聞こえてくる。ドミートリイ・ショスタコーヴィチの署名D-S(Es)-C-H(レ-ミ♭-ド-シ)音型が登場する第2楽章「スケルツォ」はネズミがちょこまか動き回るよう。第3楽章「パッサカリア」はレクイエム。そして研ぎ澄まされたヴァイオリン・ソロを経て一気呵成に狂騒的な第4楽章「ブルレスク」になだれ込む。

なお、D-S(Es)-C-H(レ-ミ♭-ド-シ)音型は交響曲第10番や弦楽四重奏曲第8番にも登場する。

バレエ「春の祭典」には生贄(選ばれた乙女)が登場するが、これは古代日本で水害など天災を鎮めるために捧げられた人柱と同じようなものだと解釈出来るだろう。新海誠監督「天気の子」に登場する天気の巫女も同様。つまり【地上の人間(文化/不連続)↔大地(祖先のいる場所/自然/連続)】という二項対立を結び、還流し、調停する役割を担っている(「天気の子」の場合は【地上の人間↔雲の上の神様】)。

また地下(大地)=祖先という考え方はオーストラリアの先住民族アボリジニの〈ドリームタイム〉と全く同じである。

そういえば武満徹は〈ドリームタイム(夢の時)〉というオーケストラ曲を作曲しているわけで、武満が初めて世界で認められる切っ掛けを作ったのがストラヴィンスキーだったという事実は正にシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)と言える

反キリスト的内容だったために、ハルサイの初演が悲鳴と怒号が渦巻く大スキャンダルのは有名な話だ(映画「シャネル&ストラヴィンスキー」で詳しく描かれた)。ここには【知性↔野生の思考】の相克があった。ニーチェの著書「悲劇の誕生」の概念を借りるなら、【アポロン的↔デュオニュソス的】二項対立ということになる。そういう意味で「春の祭典は」フローラン・シュミットが作曲した吹奏楽曲「ディオニソスの祭り」に直接繋がっている。

サロネンの指揮は大鉈を振るい、バッサバッサと目の前の障害物を上から下へ切り倒してゆく。先鋭でスタイリッシュ、オーケストラを畳み掛け駆る。一方、弱音部分は繊細。外科医が腑分けするよう。そして強烈な会心の一撃で最後を締めくくり、ホールは熱狂的興奮に包まれた。

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2020年1月24日 (金)

「パラサイト 半地下の家族」と黒澤映画

今から16年前の2004年、僕はポン・ジュノ監督「殺人の追憶」のレビューで、次のように評した。

処女作「ほえる犬は噛まない」についても言及し、褒めそやしている。その後しばしばポン・ジュノは〈韓国の黒澤明〉と呼ばれるようになるが、世界で最初に言い出したのは僕だと確信している(もっと早く言及した人がいれば、ご一報ください)。因みに監督のもとには黒澤映画のリメイクの依頼も来たという(本人談)。

最新作「パラサイト 半地下の家族」は米アカデミー賞で国際長編映画賞(昨年までは外国語映画賞)受賞は500%確実と言われており、他に作品賞(本賞)、監督賞、脚本賞、美術賞、編集賞の6部門にノミネートされている。

Parasite

評価:A+

公式サイトはこちら

2013年にポン・ジュノが英語で撮った「スノーピアサー」は地球が氷に閉ざされた近未来(2031年)に生き残ったわずかの人類が永久機関によって動き続ける列車内部に暮らしているという設定だ。貧困層は最後尾に住み奴隷扱いを受け、少数の富裕層は前方車両で優雅に暮らし別世界を築いている。公開当時僕が書いたレビューはこちら。「スノーピアサー」は水平方向に貧富の差が描かれていたわけだが、これが「パラサイト」では垂直方向に変換されている。実は垂直方向の差異で格差社会を描くという手法は黒澤明監督「天国と地獄」(1963)で既に行われている。

山崎努演じる誘拐犯・竹内は捕まり、三船敏郎演じる大手製靴会社の常務・権藤と刑務所の面会室で対峙する。竹内は言う。「私の住んでいたところは、冬は寒くて眠れない、夏は暑くて眠れない。そんな場所から見上げると、あなたの家は天国みたいに見えましたよ。するとだんだんあなたが憎くなってきて、しまいにはあなたを憎むことが生きがいみたいになったんです」竹内が逮捕される場面の、売春婦や麻薬中毒者がたむろする阿片窟のような横浜市黄金町が〈地獄〉として描かれ、高台にある権藤の家が〈天国〉のメタファーとなっている。

「パラサイト」で半地下に住むキム一家は、裕福なパク一家が住む高台の豪邸に一人ずつ寄生していく。しかしソン・ガンホ演じる家長は次第に弱者が強者に対して感じる憎悪・怨恨、つまりニーチェが言うことろのルサンチマンをパク社長に対して募らせていく。それは朝鮮半島の思考様式、(ハン)にも通じていると言えるだろう(について詳しくは韓国映画「風の丘を越えて/西便制」をご覧あれ)。そして蓄積されたのストレスで火病(ファビョン)に罹る。その切っ掛けとなるのが、映像では直接描くことの出来ない〈臭い〉であることが天才ポン・ジュノの独創性だと思った。

Kaze

高台に住むパク社長一家を韓国併合時代(1910-1945)の日本人(朝鮮総督府)、半地下の家族を当時の朝鮮人民に見立てる(置き換える)ことも可能だろう。支配者に対する被支配者の(≒ルサンチマン)は未だに尾を引き、徴用工や従軍慰安婦問題が燻ぶり続けている。こういった多様な解釈を許すという意味においても、奥深い作品である。

また新海誠監督「天気の子」の主人公も東京で半地下に住み、そこが大雨で浸水するという描写が共通しているという点でシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)を感じた。

参考文献:
1.ニーチェ、中山元(訳)「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)2009 ←ルサンチマンについて。
2.西尾幹二、呉善花「日韓 悲劇の深層」(祥伝社新書)2015 ←恨(ハン)と火病(ファビョン)について。
3.呉善花「韓国を蝕む儒教の怨念 〜反日は永遠に終わらない〜」(小学館新書)2019

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2019年11月26日 (火)

「IT/イット THE END”それ”が見えたら、終わり。」と、スティーヴン・キングのトラウマ

評価:B+

Chapter Twoである。映画公式サイトはこちら

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ITー”それ”とは何か?ズバリ、幼少期のトラウマ(精神的外傷)である。主人公ビルは幼い弟をひとりで外に遊びに行かせたために死なせてしまった。自分に責任があると思い詰めている。ベバリーは父親が彼女のことを〈女〉=性欲の対象として見ているのが耐えられない。だから月経(=子供を産める体に成長したこと)の象徴である血や、〈女〉らしさの象徴である長い髪の毛が彼女を襲う。マイクは火事で両親を失い、自分だけ生き残ったことに罪悪感を感じている。エディは喘息持ちで、不潔なもの・腐ったものに対する激しい恐怖がある(発作が誘発されるので)。ベンは太った転校生で、いじめっ子グループのターゲットとなる。

だからペニーワイズ(ピエロ)はそういった彼らの恐怖心・罪悪感の象徴として登場する。心理学的には、トリックスター=ほとんど影(シャドウ)と等価である。

ペニーワイズは井戸の底に生息しているわけだが、正に深層心理の奥底に潜む元型(Archetype)に相応しい場所と言えるだろう。

ただ、同じくスティーヴン・キング原作の「スタンド・バイ・ミー」 を彷彿とさせるChapter Oneはリリカルな青春譚で大好きなのだが、子どもたちが大人になった27年後を舞台にしたChapter Twoは、結局彼らが抱えているトラウマが子供時代と変わらないわけで、そこが二番煎じというか、全般的に既視感(デジャヴ)が強かったのが残念。むしろ寂しがり屋のペニーちゃんがちょっと可哀想になり、ITー”それ” に感情移入してしまった。ティム・カリーの演技がお茶目だしね。

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スティーヴン・キングが2歳の時、彼の父親は「ちょっとタバコを買いに行く」と言い残して出かけたきり、戻ってこなかった。その後所在が不明なまま現在に至る(キングも「藪蛇になるから」と調査していないそう)。「父は私を愛していないから出ていったんだ」という思いがトラウマとなり、彼の作品に濃い影を落としている。その一方で、12-13歳のときに屋根裏部屋で父の蔵書を発見した。その大半はSFやホラー小説だった。H.P.ラヴクラフト(「狂気の山脈にて」など)の短編集も含まれていた。母に訊ねると、父が雑誌にそういったジャンルの小説を投稿していたという事実も発覚した(しかし活字にはならなかった)。これが後に、キングが作家になる動機となった。精神分析学における〈親の理想像(イマーゴ)〉が大いに関わっている。

「シャイニング」の終盤、小説家志望の元教師ジャックは一冬の管理人として滞在しているホテル(とそこに生息している幽霊たち)に魂を乗っ取られ、木槌を振りかざし妻のウェンディを襲い、その後息子のダニーを殺そうと追う。しかし、一瞬正気に帰り、次のように言う。

「ここから逃げるんだ。急いで。そして忘れるな。パパがどれだけおまえを愛しているかを」 (深町眞理子・訳/文春文庫)

母子が逃げ出した後、ジャックはボイラーの大爆発で瓦解するホテルと運命を共にする。つまり「シャイニング」の心臓(=車のエンジン)はここにあり、父親からの「承認欲求」を満たすために("I love you."という一言を聞きたかったから)キングはこの小説を書いた、と断言しても決して的外れではないだろう。

しかしスタンリー・キューブリック監督は「シャイニング」映画化に際し、無慈悲にもこのエピソードをばっさりカットした。だからキングはキューブリック版が大嫌いで、「エンジンのないキャデラックみたいなものだ」などと繰り返し繰り返し執拗に非難するのである。自ら製作総指揮にあたり、満足行くようTV版も創ったが、世間からは駄作と烙印を押されている。

英紙が選ぶ「スティーヴン・キング原作映画ベスト20」でキューブリック版「シャイニング」は堂々第2位に選出され、米タイム誌が選ぶ「スティーヴン・キング原作映画ベスト10」でも余裕でランクインした。そしてスティーヴン・スピルバーグ監督「レディ・プレイヤー1」では主人公がゲームの中で、2つ目の鍵を探しに映画「シャイニング」の世界に入っていく。原作者の評価と、読者・観客のそれが齟齬をきたしている代表例であろう。

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2019年10月11日 (金)

映画「ジョーカー」とチャップリン、ソンドハイムのミュージカル、トリックスター

評価:A-

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ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞。2017年に同賞に輝いた「シェイプ・オブ・ウォーター」はアカデミー作品賞も攫っている。公式サイトはこちら

映画の中で2回流れる曲が2つある。ひとつはチャールズ・チャップリンが作曲した"Smile"(初出は映画「モダン・タイムズ」)。〈デカッ鼻〉のコメディアンでミュージカル映画にも出演したジミー・デュランテが歌う。

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もうひとつはスティーヴン・ソンドハイムのミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック(ドイツ語だとアイネ・クライネ・ナハトムジーク)」にある名曲中の名曲、"Send in the Clowns"。このタイトルは、日本語に訳すのがとても難しい。「悲しみのクラウン」と呼ばれたりするけれど、どうもピンとこない。エリザベス・テイラー、グレン・クローズ、ジュディ・デンチ(動画はこちら)、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ(動画はこちら)、越路吹雪、大竹しのぶら大女優が歌い継いで来た。さらに韓国のフィギュアスケート選手キム・ヨナはショートプログラムでこの曲を採用したことがある(動画はこちら)。「ジョーカー」のエンド・クレジットで流れるのはフランク・シナトラが歌うバージョン。

ここでいう"clowns"とはサーカスのピエロではなく、お笑い芸人(fools)のことを指す。"send in"は〈出場させる〉。ソンドハイムはこの曲について、「サーカスは想定していない。演劇でよく言われる〈ショーが上手く進行しなくなったら、道化者を出せ〉 (If the show isn't going well, let's send in the clowns)、つまり〈ジョークにして誤魔化せ〉(Let's do the jokes.)に因んでいる」「要するにデジレ(ミュージカルの主人公で舞台女優)はフレデリック(元夫で中年弁護士、18歳の新妻がいる)に対して『私たちって愚かね』(Aren't we fools?)と歌っているんだ」と後年インタビュー記事で語っている。結局のところこんな説明が必要になるくらいだから、英語のネイティブ・スピーカーたちも歌詞の意味がよく判っていなかったということだ。余談だが、演劇用語で極めつけに判り辛いのはメル・ブルックスのブロードウェイ・ミュージカル「プロデューサーズ」に登場する"Break a leg !"ー説明はこちら。これはおったまげたね。

で「ジョーカー」では酔っ払ったサラリーマン3人組が地下鉄で、この美しい"Send in the Clowns"を歌いながら主人公である大道芸人アーサーに殴る蹴るの暴行を加える。めっちゃ恐ろしい場面だ。映画館から帰宅して想い出したのだが、これって間違いなくスタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」(1971)へのオマージュだね。ほら、アレックスと愉快な仲間たちがジーン・ケリーの「雨に唄えば」を歌いながら作家をボコボコにし、彼の妻を輪姦する有名な場面。更に辿れば黒澤明監督「野良犬」(1949)に行き着く。つまり描かれている映像と、そこに流れる音楽の激しいギャップ=対位法だ。

さて、では次にどうして「モダン・タイムズ」の"Smile"なのかについて説明しよう。喜劇王チャップリンには次のような名言がある。

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である。
( Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot. )

これと全く同じ意味の台詞を「ジョーカー」のアーサーは言うのだ。そしてイタリア・オペラ、ヴェルディ「リゴレット」やレオンカヴァッロ「道化師(Pagliacci) 」の主人公についてもすっぽり当てはまる。

あと面白いのはマーティン・スコセッシが当初、プロデューサーとして「ジョーカー」(DCコミックス原作)に参加する話があったのだそうだ。スコセッシはつい最近、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)作品に対して「あれは映画ではない。最も近いと感じるのはテーマパークだ」と発言し、物議を醸している。で、「ジョーカー」にロバート・デ・ニーロが出演している。彼の役はテレビのトークショーの司会者なのだけれど、これって明らかにスコセッシが監督し、デ・ニーロが主演した「キング・オブ・コメディ」の立場を逆転(変換)しているんだよね。そしてやはりデ・ニーロ×スコセッシがタッグを組んだ「タクシー・ドライバー」を彷彿とさせる場面も多々ある。

心理学的に見てジョーカーは正真正銘トリックスターだ。

トリックスターは人間の劣等な性格特徴を集約した、集合的なの形姿である。悪賢い冗談や、ひどい悪戯を好み、姿を変える力がある。二重の性質(半獣、半神)や、困難や責め苦に身を晒す絶え間ない衝動を持っている。負の英雄だが、その愚かさによって他の者が一生懸命努力しても達成出来なかったことを軽々と成し遂げてしまう。

チャップリンが言うように、アーサーが悲劇の渦中に巻き込まれながら、喜劇を演じる二重の性格トリックスターそのものだ。彼は笑いながら(Smile)、人を殺す。スティーヴン・キングの小説「IT」に登場するピエロや、「時計じかけのオレンジ」のアレックスと同じ。道化師が着る、だんだら縞の衣装は反転の換喩である。トリックスターは価値を転倒させる

錬金術において、互いに似ていない物質の結合コニウンクチオという。これを人格化したのがメルクリウス(マーキュリー)で、トリックスターメルクリウスによく似ている(喜劇×悲劇)。

ジョーカー役のホアキン・フェニックスの演技は確かに凄くて、アカデミー主演男優賞に値する。ただねぇ、駆け出しの芸人としては年を取り過ぎじゃない?だってもう44歳だぜ!?普通そこまで売れなかったら、芸能プロダクションからとっくに契約を打ち切られているだろう。そこが引っかかった。

映画全編が悪夢の中を彷徨っているような雰囲気なのだが、もうアーサーは最初から頭がおかしくて、余り劇的な変化を感じなかった。つまり物語に起伏がない。僕はどちらかと言えばクリストファー・ノーラン監督「ダークナイト」でヒース・レジャーが演じたジョーカーの方が好き(死後にアカデミー助演男優賞を受賞)。あちらはトリックスターというよりは混沌(カオス)虚無の象徴として描かれており、何考えているか全く判らないからより一層不気味だった。

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2019年10月10日 (木)

音楽映画の金字塔現わる!!「蜜蜂と遠雷」

評価:AA

Honey

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映画化に際し「前編後編はやめてほしい」という原作者・恩田陸からの要望に応え、文庫本にして900ページを超える小説を見事2時間以内に収め、しかもモノローグを一切使わないという潔さは大したものだ。監督・脚本・編集を担った石川慶の手腕が冴えに冴えている。

  1. 天才とは何か(ギフトか、災厄か)?
  2. なぜ我々は音楽を聴くのか?

という原作の大きな問いは、しっかり映画のコア)として残った。

撮影監督はピオトル・ニエミイスキ。石川がポーランド国立映画大学で共に学んだ盟友である。映画冒頭、スローモションで雨が地面に跳ね返る情景を駆け抜ける黒い馬のイメージから魅了された。また物語の終盤でホールの地下搬入口に置かれたピアノに天井から水が滴り落ちる幻影を主人公・亜夜は見るが、まるでタルコフスキー映画のようだった。

音楽映画において、演奏シーンはともすると退屈なものになりがちだ。しかし本作では俯瞰でピアノの鍵盤上を走る指を捉えるショット、ステージの床ぎりぎりから仰角(あおり)で演奏者の表情を捉えるショット、カメラがピアノをぐるっと一周する移動撮影など、様々な工夫を重ね、巧みな編集で繋ぎ、飽きさせない。モンタージュそのものが音楽的である。

また波音が聞こえ、月明かりが差し込むピアノ工房で亜夜と塵がドビュッシー「月の光」〜It's Only a Paper Moon〜ベートーヴェン「月光ソナタ」をメドレーで連弾する場面は幻想的で素敵だった。

あと、「これだけは聴いておきたいピアノの名曲・名盤30選」に書いたように僕はドビュッシーのピアノ独奏曲「夢」が大好きなのだが、なんとコンクール審査員である元夫婦がバーで語り合う場面でこの曲が(自動ピアノ演奏で)流れていたので感動した!!

クラシック音楽をメインに据えた日本映画で、過去最も優れた作品は今井正監督の「ここに泉あり」(1955年)である。「蜜蜂と遠雷」は実に64年ぶりにそれを凌駕した。

小説から栄伝亜夜が飛び出して来たんじゃないかと錯覚するくらい、松岡茉優がはまり役。このフィット感は「風と共に去りぬ」でスカーレット・オハラを演じたヴィヴィアン・リー以来と評しても過言ではないだろう。寡黙だけれどその表情から、彼女の気持ちがしっかり伝わってくる。

幼い日の記憶の彼方から「あなたが世界を鳴らすのよ」と亡くなった亜夜の母が囁く。世界は音楽に溢れている。そして一瞬で消えていく音が永遠に繋がっていることを、我々観客は本作を通じて理解する。

以下余談。

音楽を聴くという行為は、「ヌミノース体験」そのものだと最近思うようになった。詳しくは下記事で論じた。

非合理的で言葉で説明し難い体験。それは海辺で波の音に耳を傾けたり、森の中で木々のざわめきを聴いた時に感じる、自然との一体感にどこか似ている。〈何か〉に包まれ、守られているような印象。〈何か〉とは〈音楽の神様〉と言い換えても良い。

音楽は時間の経過とともに変化し、やがて消える通時的芸術であるが、悠久の時の流れに身を任せているような体験を味わわせてくれるので、共時的でもある。つまり〈過去ー現在ー未来〉は同時にここにある。通時的かつ共時的であるという意味において、優れた音楽は社会人類学者レヴィ=ストロースが論じるように神話的構造を持っている。それでも通時的/共時的の意味が分からないという方は、下記事も参考になさってください。

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2019年10月 4日 (金)

〈20世紀の黙示録〉メシアンの最高傑作「世の終わりのための四重奏曲」をめぐって

フランスの作曲家オリヴィエ・ メシアン(1908-1992)の最も大切な要素として次のことが挙げられる。

  • カトリックの信仰ーオルガン作品全集はCD6枚に及ぶ。メシアンは22歳の時にパリのサントトリニテ(聖三位一体の意味)教会のオルガニストに就任、亡くなる直前までこの職を務めた。そういう意味でJ.S.バッハ、サン=サーンス、セザール・フランクらと似た境遇である。
  • メシアンの音楽はある意味、霊的な瞑想のために生み出された。「聖なる三位一体の神秘への瞑想」という作品もある。
  • 彼はフランスの地方をあちこち廻り、の声を克明に採譜した。その集大成と言えるのがピアノ独奏曲「鳥のカタログ」。全7巻13曲で構成される。他に「ニワムシクイ」 や 、全6曲から成る「鳥の小スケッチ」もある。またピアノと小規模編成オーケストラのための 「異国の鳥たち」には47種類の鳥の声が登場する。

「世の終わりのための四重奏曲」はメシアンが第二次世界大戦に参戦し、ドイツ軍の捕虜 となり、1940年にドイツとポーランドの国境にある捕虜収容所で初演された。 ヴァイオリン・チェロ・クラリネット・ピアノという珍しい編成は、そういう特殊な状況に置かれたために否応なく生じた。内容は新約聖書の最後に配された聖典「ヨハネの黙示録」に準拠し、8つの楽章で構成される。

  1. 水晶の典礼
  2. 世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ
  3. 鳥たちの深淵
  4. 間奏曲
  5. イエスの永遠性への賛歌
  6. 7つのトランペットのための狂乱の踊り(初演時「ファンファーレ」)
  7. 世の終わりを告げる天使のための虹の混乱
  8. イエスの不滅性への賛歌(初演時「イエスの永遠性への第二賛歌」)

キリスト教において「7」は聖書的完全数とされる。旧約聖書の「創世記」で神が天地創造の7日目に休暇(安息日)をとったことに由来する。更にメシアンは、消えることのない光と永続する平安の8日目まで引き延ばされたこと(=イエスの不滅性)の象徴として第8楽章を構想した。

作品の中心には時の終わりを告げる天使の姿がある。天使は雲の衣に身を包み虹の冠を戴いて、右足は海に、左足は大地に置いている(第2、及び第7楽章)。天使が右足を置く海は、遥かに遠い神と忘却の地を象徴している。

第1楽章冒頭から鳥の鳴き声が聞こえてくる。第3楽章「鳥たちの深淵」はクラリネット・ソロ。メシアンにとって鳥とは、神の国(天国)と我々の世界(地上)を橋渡しする存在だったのではないだろうか?日本でも奈良・平安時代にはホトトギス(時鳥/黄昏鳥/夕影鳥)が冥界(彼岸)と現世(此岸)を往来する鳥と考えられていた。紫式部「源氏物語」では光源氏の息子・夕霧が次のような歌を詠む。

ほととぎす君につてなむふるさとの花橘は今ぞ盛りと
(ほととぎすよ、あの世に行ったら紫の上に伝えて欲しい。あなたが住んでいらっしゃった里の花橘は今が盛りに咲いていますと)

またメシアンの意識の中には、に向かって説教したとされるカトリック修道士、アッシジのフランチェスコのイメージもあったろう。実際に彼は「アッシジの聖フランチェスコ」というオペラを作曲している。

第6楽章で7人の天使がラッパを吹く。第1のラッパで血の混じった雹と火が地上に降り注ぎ、地上の三分の一と木々の三分の一と、すべての青草が焼けてしまう(ソドムとゴモラを想起させる)。 第2のラッパで巨大な山のような火の固まりが海の中に落ち、海の三分の一が血に変わり、海の生き物の三分の一が死に、すべての船の三分の一が壊される。第3のラッパで巨大な彗星がすべての川の三分の一とその水源の上に落ち、水の三分の一が苦くなって多くの人が死ぬ 。第5のラッパで奈落の王アバドン(滅ぼす者)が招聘され、イナゴの群れを率いて人間に襲いかかり、五ヶ月間苦しめる ……。これらは例えば庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」のセカンド・インパクトとか、宮崎駿「崖の上のポニョ」などで描かれている。またイナゴの大群はテレンス・マリック監督「天国の日々」(マジック・アワーと呼ばれる時間帯の撮影で有名)に登場した。

「怒りの日」=この世の終わり。そしてそれに続く神の国(千年王国)の成就(死と再生)。

穏やかな第8楽章はヴァイオリンとピアノの二重奏。ピアノの響きは天国から聴こえてくる鐘の音のようだ。ヴァイオリンの音程は次第に上昇し、最後は昇天する。

お勧めのCDはタッシの演奏。

初演者のうち、ピアノを弾いたメシアンとチェロ奏者パスキエは間もなく釈放されパリに戻るが、クラリネット奏者アンリ・アコカはユダヤ人だったため他の収容所送りとなる。そして護送中に列車から飛び降り、逃げ切った。長らく極寒の収容所で過ごしたヴァイオリン奏者ジャン・ル・ブレールは音楽家としての道を諦め俳優に転身し、ジャン・ラニエという名前で映画「天井桟敷の人々(劇中劇『オセロー』イアーゴー役)」や「去年マリエンバートで」「柔らかい肌」などに出演した。

同じく「ヨハネの黙示録」のテキストに基づく音楽として、フランツ・シュミットが作曲したオラトリオ「7つの封印の書」がある。1938年にウィーンで初演されたが、当時既にオーストリアはナチス・ドイツに併合さていた

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さて、9月30日ザ・フェニックスホール@大阪市で、「時の終わりのための音楽」と題されたコンサートを聴いた。シュトゥットガルト放送交響楽団首席クラリネット奏者のディルク・アルトマンと、白井圭(ヴァイオリン)、横坂源(チェロ)、岡本麻子(ピアノ)で、

  • ラヴェル:ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
  • マーラー:アンサンブルのための4つの歌(ウッキ編曲)
    1.ラインの伝説(「少年の魔法の角笛」より)
    2.私はよく思う、子どもたちはちょっと出かけただけなのだと(「亡き子をしのぶ歌」より)
    3.無駄な骨折り(「少年の魔法の角笛」より)
    4.高き知性への賛歌(「少年の魔法の角笛」より)
  • メシアン:世の終わりのための四重奏曲
  • マーラー:アンサンブルのための”私はこの世に捨てられて”(「リュッケットの詩による5つの歌曲」より)

「世の終わりのための四重奏曲」の第1楽章はクラリネットが左端、ヴァイオリンが右端の配置だったが、第3楽章のクラリネット・ソロを経て第4楽章からは左右が入れ替わった。またステージ両脇に衝立があり、チェロとピアノの2重奏になる第5楽章では演奏しないクラリネットとヴァイオリンと奏者が、終楽章では出番のないクラリネットとチェロ奏者が衝立の後ろに引っ込んだ。また第3楽章は谷間の深淵からクラリネットの音が立ち上ってくるようだった。最弱音ppから最強音ffまでダイナミクスの幅が広く、聴こえない高周波音(不可聴域)をカットしたCDでは味わえない、生音の迫力を堪能した。

ラヴェルの作品は1918年に亡くなったドビュッシーのための追悼企画として作曲された。激しいピチカートの使い方などがバルトークを彷彿とさせる。調べてみるとバルトークはラヴェルより6歳年下。このドビュッシー追悼企画にはバルトークも参加しており、フランスへの演奏旅行の際にラヴェルに会ったという記録もある。両者が互いに影響を受けていても不思議ではないだろう。またラヴェルはガーシュウィンに会ったこともあり、「のだめカンタービレ」で人気となった彼のピアノ協奏曲ト長調(1931年完成)にはジャズのイディオムが用いられ、明らかにガーシュウィンからの影響が見受けられる。

最後に演奏された”私はこの世に捨てられて”は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」で人気となったマーラー/交響曲第5番 第4楽章 アダージェットの原型である。天国の日々。

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2019年10月 2日 (水)

佐用姫(さよひめ)伝説とドリームタイム

ベルリン・フィル首席奏者で、ソリストとしても名高い〈フルートの貴公子〉エマニュエル・パユの最新アルバムは「Dreamtime/ドリームタイム」と名付けられた。

Dreamtime

ペンデレツキ、ライネッケ、モーツァルトらの楽曲に加え、武満徹の「ウォーター・ドリーミング」で締め括られる。

〈ドリームタイム〉とは、オーストラリアの先住民アボリジニの概念である。武満徹はオーストラリアのグルート島を訪れ、アボリジニのうたや踊りを見聞きし、その体験に基づきオーケストラ曲「夢の時(Dreamtime)」を作曲した。

パユも当然、そのことを踏まえた上で今回のアルバムを創っているわけだ。作曲者によるプログラム・ノートには次のように書かれている。

《ウォーター・ドリーミング》は、オーストラリア西部砂漠地帯 Papunya の画家によって描かれた 「Water Dreaming」という絵画に触発されて作曲された。オーストラリア原住民に伝わる神話「ドリームタイム」に基づいて描かれたその絵画の、簡素ながら、神話的記号と象徴に満ちたユニークなイメージは、私の心を強く捉えた。

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Water2

絵の同心円は泉を表象している。そこから水が周囲に溢れ、干渉する。

Waterdreaming

ところで僕はつい最近、佐用姫伝説のことを初めてラジオ(TBS「アフター6ジャンクション」)で聞き知った。松浦佐用姫(まつらさよひめ)は現在の佐賀県唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘である。次のような伝承が残っている。

(日本書紀にも記載のある)武将・大伴狭手彦(おおとものさてひこ)が朝廷の命を受け537年新羅に遠征するためにこの地を訪れ、佐用姫と恋仲になる。ついに出征の日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら見送っていたが、こらえきれなくなり舟を追って海辺の呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった。それは今でも佐用姫岩として残っている。

「万葉集」にはこの伝説に因んで詠まれた山上憶良の和歌がいくつか収録されている。

  • 山の名と言ひ継(つ)げとかも佐用比売(さよひめ)が、この山の上(へ)に領巾を振りけむ
  • 万代(よろづよ)に語り継げとしこの嶽(たけ)に、領巾振りけらし松浦佐用比売(まつらさよひめ)
  • 行く船を振り留(とど)みかね如何(いか)ばかり、恋しくありけむ松浦佐用比売

人(有機物)が自らの意思で石(無機物)に変化(へんげ)する神話・伝説・昔話というのは世界的に珍しい。ヨーロッパでは皆無だろう(ギリシャ神話のメドゥーサのエピソードは人の形のままの石化・石像化 freeze であり、変化 metamorphose ではない)。あちらでは「かえるの王さま」とか「美女と野獣」とか、魔法の力で人が他の動物に変えられる話が多い。そして大抵は元の姿に戻り、めでたしめでたし(and they lived happily ever after.)となる(そのアンチテーゼがアカデミー作品賞を受賞したギレルモ・デル・トロ監督「シェイプ・オブ・ウォーター」)。多分これはキリスト教と深い関わりがある。旧約聖書の「創世記」によると人は神に似せて造られた。だから人は万物の中で最も偉く、獣と結婚する(鶴女房/狐女房)とか、無機物に変化(へんげ)するなんてあってはならないのだ。そしてそれはイスラム世界にも当てはまる。

ところが、アボリジニ神話〈ドリームタイム〉にはこの手の話がいくつもみられる。例えば小説「世界の中心で、愛をさけぶ」にも登場した巨大な一枚岩ウルル(エアーズロック)にまつわるもの。大地を造った彼らの偉大なる祖先がここに眠り、岩に変化したというのである。

アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽」で紹介したように、「古事記」に記述された〈天の岩戸〉開きによく似たアボリジニ神話もある。人と自然の融和、自然の中の人間ー日本人とアボリジニの人々は間違いなく集合的無意識で繋がっている。

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2019年9月13日 (金)

映画「アス Us」とドッペルゲンガー

評価:A

Us

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いわゆるドッペルゲンガー(二重身)ものである。簡単に言えば可視化された〈もう一人の自分〉。まずユング心理学に於ける影(シャドウ) の概念を知っておく必要がある。人の深層心理に存在する元型(archetype)のひとつで、ユングは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」と定義した。人格の否定的側面、隠したいと思う不愉快な性質、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の〈他者〉、自分自身の暗い側面などである。影(シャドウ) はしばしば他者に投影される。ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害、いけにえの羊(scapegoat)が代表例。影(シャドウ)が(他者への投影ではなく)独立して実体化した姿がドッペルゲンガーだ。一つの肉体の中で影(シャドウ)が主体と入れ替われば多重人格(解離性同一性障害)となる。「ジキルとハイド」が有名。

さらに本作では、ポスターでも分かる通り社会的元型ペルソナ(仮面)も加味されている。詳しくは下記事をお読み頂きたい。

ドッペルゲンガーものの最初がイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」(1966)であり、デヴィッド・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」(1999)、ダーレン・アロノフスキー監督「ブラック・スワン」(2010)ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 「複製された男」(2013)などが後に続いた。舞台作品ではミヒャエル・クンツェが台本を書いたウィーン・ミュージカル「モーツァルト!」がドッペルゲンガーものだ。

デヴィッド・リンチ監督「マルホランド・ドライブ」(2001)もこのジャンルに含めて良いかも知れない。いわば親戚筋にあたる。

「ゲット・アウト」でアカデミー脚本賞を受賞したジョーダン・ピール監督が「アス Us」で成し遂げた新基軸は、ゾンビ映画の構造をそのまま用いてドッペルゲンガーものに変換したことにある。アイディアが実に秀逸。〈自分自身が襲ってくる〉これは怖い。さらに貧富の格差が広がる一方の、アメリカ合衆国の社会問題にも切り込んでいる。地下トンネルに蠢く人々=Usは貧困層のメタファーでもある。

あとヒッチコック映画へのオマージュを強烈に感じた。ハサミで襲ってくる場面は「サイコ」(多重人格もの)だし、Usに押し倒され格闘するルピタ・ニョンゴが画面手前(観客側)にある凶器に手を伸ばす場面は明らかに「ダイヤルMを廻せ!」のグレース・ケリーそっくり。そしてUs に占拠された町から車で家族が脱出しようとするのは「鳥」のラストシーンといった具合。

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