深層心理学/構造人類学

2020年5月27日 (水)

【考察】噴出する「テラスハウス」問題と、ネットで叩く者たちの心理学

22歳の女子プロレスラー・木村花さんが亡くなったことに関して、出演してた番組「テラスハウス」(ネットフリックス/フジテレビ)における彼女の言動を巡って、SNSに非難が書き込まれたことが原因ではないかと取り沙汰されている。

番組における彼女の役割はヒール(Heel)だったのではないだろうか?プロレス興行のギミック上、悪役として振舞うプロレスラーのことを指す。つまり観客(視聴者)を愉しませるための偽装だ。実際には仲がよいプロレスラーでも、リングの上では憎しみ合っているように振る舞う。あくまでも演技だ。ファンはそのことを承知の上で野次を飛ばし、悪役が繰り広げる反則技にブーイングし、試合会場は興奮の坩堝と化す。彼らは内面のモヤモヤ(ユング心理学では影 shadowと呼ばれる)を吐き出し、ヒールに投影し、叩くことによって日頃の鬱憤を晴らす。そこには暗黙の了解が成立している。プロレスはスポーツと言うよりもあくまで「興行」だから、試合結果がTVニュースで報道されることはない。もっと詳しく内部事情を知りたいのなら、ミッキー・ロークが主演し、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した「レスラー」(2008)をご覧になることをお勧めする。

バラエティ番組に登場する「おバカキャラ」も同じ構造である。知識が欠けているのも事実だろうが、クイズの答えが判っていても、わざと外して番組を盛り上げることも彼らの重要な役割だ。つまりキャラクターを際だたせるために話を「盛る」のだ。漫才のボケと一緒。実際に痴呆なわけではないし、大方の観客だってそのことは知っている。これも暗黙の了解だ。

しかしテレビの視聴者の中にはこの暗黙の了解が通じない人達が少なからずいる。リアル(現実)とフィクション(虚構)の見分けがつかない。彼らはテレビが嘘を付くはずがないと信じ込んでいる。「リアリティー番組」という呼び方や、「台本がない」を売り文句にしている点も誤解を生む原因だろう。

ある海外メディアは「リアリティーTV 」出演者のうち、過去に38人が自ら死を選んだと報じた。アメリカだけでも過去10年で21人が命を絶ったというデータもある。

嘗て山口百恵や小泉今日子といった昭和のアイドルは雲の上の存在だった。しかし21世紀に入り、AKB48など「会いに行けるアイドル」が登場し、手が届く対象になった。その他の芸能人も、SNSの普及に伴い身近な存在になった。ツイッターやインスタグラムにコメントを書き込めば(マネージャーや事務所の検閲なしに)直接本人が読んでくれたり、コメント返しをくれる可能性まで生まれた。しかし便利なコミュニケーション・ツール(accessibility)は諸刃の剣であり、リスクも増大した。芸能人が身体的、精神的に傷つけられる事象もしばしば報道されるようになったのだ。

【集団の形成】「地球上すべての生物は遺伝子(自己複製子)の乗り物に過ぎず、生物の様々な形質や、利他的な行為を含めた行動のすべては、自然選択による遺伝子中心の進化によって説明できる」とリチャード・ドーキンスは著書『利己的な遺伝子』の中で述べている。人は遺伝子を運ぶ舟である。我々の祖先が木から降りてサバンナで生活を始めたとき、集団生活を始めた。その方が種の保存のために好都合だからである。ライオンやジャッカルといった外敵から身を守ることが出来るし、仕事の役割分担することで食料の確保も容易になる。「人間は社会的動物である」と言われる所以だ。やはり外敵から身を守るために群れをなすイワシとか(希釈効果)、V字編隊になって飛ぶ雁の群れに似ている。

Iwashi

【安全欲求/制裁行動】集団の形成で人は安心して暮らせるようになった。家族や仲間を守ろうとするとき、脳の下垂体後葉からオキシトシンと呼ばれるホルモンが分泌され、安らぎに満ちた喜びが湧き起こる。これが愛着の仕組みである。しかし和を乱す者、逸脱する者が現れると安全欲求が脅かされ、邪魔になりそうな人に対して制裁行動 sanctionを起こす。「いじめ」や「自粛警察」「ネットリンチ」の根底にはこの構造が潜んでいる。「同調圧力」あるいは「出る杭は打たれる」とも言う。

【ルサンチマン】有名人に対するバッシングには、彼らの成功に対する嫉妬心も原動力となっている。フランス革命やロシア革命におけるプロレタリアート(労働者階級)の、ブルジョアジー(富裕層)に対する感情に似ている。攻撃する者たちは心理的な価値の転倒、一発逆転を狙っている。哲学者ニーチェが言うところのルサンチマンだ。あるインターネット評論家は誹謗中傷のコメントをするネット民の属性を、(1)20代、(2)ニート・フリーター、(3)独身、(4)童貞だと述べている(出典こちら)。要約すれば「収入が少なく、モテない、寂しいヲタク」ということになるだろう。

【正義中毒】いじめは快感に直結する。制裁行動 sanctionが発動すると、中枢神経に存在するドーパミンという神経伝達物質が放出され、喜びを感じる。承認欲求達成欲求が満たされ、いじめ/バッシングは過激化する。これを「過剰な制裁」という。ドーパミンは本来、困難な目的を達成したときに生じ、「報酬系」と呼ばれる。しかし麻薬・飲酒・賭博・いじめなどでも短絡的放出を引き起こし、快楽をもたらす。バッシングする人は「自分は正義を行っている」という実感(勘違い)があり、やめられない。「正義中毒」である。アルコール中毒や薬物中毒と同じ。ドーパミン分泌という「報酬」を、飽くことなく求め続けるのだ。児童虐待する親の心理もそう。彼らにとっての「正義」は「しつけ」と言い換えられる。2019年に千葉県野田市で小学校4年生(当時)の栗原心愛さんが自宅浴室で死亡した虐待事件で、父親である勇一郎被告は娘が号泣する動画を蒐集(collect)していた。それが彼にとっての「報酬」であった。

【高低差=社会的欲求】「自分は正義を行っている」という感覚は、アメコミのヒーロー(スーパーマン、バットマン)とか、大岡越前といったお奉行さまになったような気分に近い(仮想現実)。高みからお白州に畏まる悪党を見下す快感。それは米アカデミー作品賞・監督賞を受賞した韓国映画「パラサイト」に描かれたように、丘の上の高台に住む富裕層が、半地下に住む貧困層を睥睨する気分に等しい。上から目線ーその高低差により優越感に浸れ、社会的欲求が満たされる。たとえ幻想でしかないとしても。

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【人の心】アドルフ・ヒトラーとナチス・ドイツの悪夢。結局、地球上で一番恐ろしいのは津波とかウィルスではなく、人の心なのである。心がモンスターを生む。マリー・アントワネットをギロチンの刑に処し「共和国万歳!」と叫んだフランス市民の正義、ロマノフ家を全員銃殺したロシア労働者階級の血みどろの正義、日本の市民活動家の正義、そして韓国の元慰安婦支援団体である「正義連」……。もう、うんざりた。自らを「正義」とか「市民」と名乗る者を徹底的に疑え!

 

参考文献:① 河合隼雄(著)「影の現象学」講談社学術文庫
② リチャード・ドーキンス(著) 日高敏隆ほか(訳)「利己的な遺伝子」 紀伊國屋書店
③ 岡田尊司(著)「死に至る病 あなたを蝕む愛着障害」光文社新書 
④ 岡田尊司(著)「あなたの中の異常心理」幻冬舎新書
⑤ フリードリヒ・ニーチェ(著)中山元(訳)「道徳の系譜学」光文社古典新訳文庫
⑥A.H.マズロー(著)小口忠彦(訳)「人間性の心理学」産能大出版部

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2020年5月14日 (木)

わが心の歌 20選 ① 総論 (メニュー)&「いつも何度でも」「エメ Aimer」

新型コロナウィルス感染拡大により、世の中が荒(すさ)んでいる。皆が感染防御にピリピリ神経を尖らせており、うつ病を発症したり、不安や恐怖に圧倒されて凹んでいる人々も少なくない。

そこで気分転換のすゝめ。珈琲とか紅茶でも一杯飲みながら、素敵な歌でも聴いてくつろぎませんか?一息つきましょう。

「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」(バートランド・ラッセル:英国の哲学者。ノーベル文学賞受賞)

Spotify, Amazon Musicなど音楽配信(サブスクリプション)サービスで聴ける曲の中から厳選した。

  • いつも何度でも(木村弓)
  • One more time,One more chance(山崎まさよし)
  • なんでもないや -movie ver. (RADWIMPS - 上白石萌音)
  • Alone Again(ギルバート・オサリバン)
  • 水の上で歌う(フランツ・シューベルト)
  • Woman 〜“Wの悲劇”より(薬師丸ひろ子)
  • 聞かせてよ愛の言葉を(リュシエンヌ・ボワイエ)
  • 小さな空(武満徹)
  • ひこうき雲(荒井由実)
  • この空を飛べたら(中島みゆき - 加藤登紀子)
  • 時には昔の話を(加藤登紀子)
  • (They Long To Be) Close To You(カーペンターズ)
  • 打上花火(DAOKO × 米津玄師)
  • 22才の別れ(伊勢正三 - 風)
  • エメ〜ミュージカル“ロミオ&ジュリエット”より(ジェラール・プレスギュルヴィック)
  • Papa Can You Hear Me ? 〜“愛のイェントル”より(バーブラ・ストライザンド)
  • Another Day Of Sun 〜“ラ・ラ・ランド”より(ジャスティン・ハーウィッツ)
  • こどものせかい 〜“マイマイ新子と千年の魔法”より(コトリンゴ)
  • The Man That Got Away 〜“スター誕生”より(ジュディ・ガーランド)
  • Unforgettable(ナット・キング・コール)

括弧内は基本的に歌手名を書いたが、フランツ・シューベルト、武満徹、ジェラール・プレスギュルヴィック、ジャスティン・ハーウィッツは作曲家名である。

19世紀(今から200年前)にシューベルトが作曲したドイツ・リートから、フランスのシャンソン(聞かせてよ愛の言葉を)やミュージカル、さらにハル・デヴィッド&バート・バカラックというコンビによる英語歌(Close To You)、日本のフォークデュオ「風」(22才の別れ)を経て、ニコニコ動画ボカロP出身の米津玄師(打上花火)まで。四つの言語、古今東西、バラエティに富む選曲になったんじゃないかなと自負している。

本当は映画『ふたり』主題歌ー大林宣彦(作詞)久石譲(作曲)「草の想い」も入れたかった。しかし残念なことに現時点ではサブスクで聴けないので断念した。

では推薦文付き各論へ。

「いつも何度でも」についてまず語ろう。言うまでもなく宮崎駿監督による国民的アニメーション映画『千と千尋の神隠し』主題歌である。レコード大賞で金賞を受賞。元々は宮崎監督が構想していた『煙突描きのリン』のために書かれたもので、その企画は結局ボツになった。しかし宮さんはこの曲を気に入り、『千と千尋』で使う事になったそう。

『千と千尋』は劇場公開された2001年夏に、当時住んでいた愛媛県新居浜市の小さな映画館で観た。花火大会の夜で、館内に花火の音が聞こえてきたことを今でも鮮明に覚えている。その後DVDで10回位鑑賞しているが、正直この歌の印象は薄かった。ところが2020年2月21日にスタジオジブリの楽曲が一斉にサブスク解禁になったので久しぶりにじっくり聴いてみると、その歌詞の素晴らしさに初めて気付き、深い感銘を受けた。

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい

かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える

「呼んでいる」のは誰か?それは「あなた」だろう。そして「あなた」とは、〈こころ〉の奥底にある自己SELF)ではないか、と僕は考える。

ここでアンソニー・スティーヴンズがカール・グスタフ・ユングの理論を描いた、〈こころの図〉を用いて説明しよう。〈こころ〉はドイツ語でSeele。〈魂〉とも訳され、英語ではpsycheとなる。

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円の外層にConsciousness(意識)、内層にUnconscious(無意識)があり、さらにPersonal unconscious(個人的無意識)と深層のCollective unconscious(集合的無意識)に分かれる。そして集合的無意識の中心にSELF(自己)がある。一方、表層の意識内にEGO(自我)があって、Ego-Self axis(自我ー自己軸)で自己と繋がっている。また集合的無意識内にA=Archetype(元型)が、個人的無意識の領域にはC=Complex(感情に色付けされた心的複合体)がある。

「いつも何度でも」終盤の歌詞は以下の通り。

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

「海の彼方」とは彼岸であり、日本神話で言うところの常世(とこよ)/隠世(かくりよ)を指す。住人が不老不死の理想郷で、黄泉もそこにあるとされる。キリスト教的には神のおわす天国で、プラトン哲学ではイデアだ。しかし、「わたし」のなかに見つけた「輝くもの」とは自己SELF)であり、つまり神=自己を発見したわけだ。神は「わたし」の外側にいない。この思考はユング心理学に一致する。「いつも何度でも」は自己実現を歌っていた。

プロデューサーの川村元気が『君の名は。』が受けた理由について語った言葉を借りるなら、『千と千尋の神隠し』が日本の歴代興行成績第1位になったのは、〈集合的無意識にヒットした〉ということになるだろう。

やはりサウンドトラック盤の木村弓の歌唱が良い→Spotifyではこちら

「エメ Aimer」はフランス語で「愛」のこと。フランス産ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』のナンバーで、舞台ミュージカルの中で究極の名曲だと想う。途中どんどん転調し、まるで螺旋階段を駆け上っていくような高揚感がたまらない魅力!これはミシェル・ルグランなどフランス歌曲の特徴である。めくるめく陶酔。城田優(ミュージカル・スター)と生田絵梨花(乃木坂46)のデュエット(日本語歌詞)でどうぞ→Spotifyではこちら

次回は「One more time,One more chance(山崎まさよし)」、「なんでもないや -movie ver. (RADWIMPS - 上白石萌音)」について語る予定。

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2020年5月12日 (火)

「自粛警察」「コロナうつ」の心理学

5月9日のNHKニュース(出典こちら)より一部引用。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出の自粛や休業の要請に応じていないとSNSなどで指摘する行為はインターネット上で、「自粛警察」や「自粛ポリス」などと呼ばれています。専門家は「こうした行為は自分を守ろうという防衛本能のあらわれだが、社会に分断を生み出している」として冷静な行動を呼びかけています。

東京・杉並区では先月26日、営業を休止しているライブバーが無観客で行ったライブをインターネットで配信したところ何者かに通常の営業だと誤解され「自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます」などと書かれた張り紙を貼り付けられました。

また東京都内在住の20代の女性が、感染が判明した後に帰省先の山梨県から高速バスで都内に戻ったケースでは、インターネットの掲示板に女性の名前や住所を特定する動きが加熱し、ネット・リンチ(私刑)だと話題になった。犯人探しというゲーム感覚でもあるのだろう。専門家らは「軽率な行動だったとしても個人情報をさらすのは行き過ぎだ」と警鐘を鳴らしている。

こうした動きの背景には”見えない敵”、新型コロナウィルスに対する不安や恐怖がある。昔の人が暗闇を恐れ、妖怪や幽霊を創造(空想)したのと同じ。「自粛警察」は自警団みたいのもので、恐怖に押しつぶされた彼らはその場にありもしない怪物(モンスター)に怯えている。過剰防衛と言えるだろう。

「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」(バートランド・ラッセル:英国の哲学者。ノーベル文学賞受賞)

不安な日々が続き、自粛疲れもあって僕たちは多大なストレス・心の闇を貯めている。行動を抑制されていることへの不満もある。そうしたモヤモヤした感情のはけ口として、自分の〈影 shadow〉を他者に投影しているという側面もあるだろう。第一次世界大戦後、敗戦国として多額の賠償金を請求され天文学的なインフレーションに苦しんだドイツにおいて、ナチス・ドイツがユダヤ人を憎悪の標的にした構造に似ている。生贄の羊(scapegoat)だ。

「自粛警察」は、いじめの構造を内包している。それは児童虐待にも通じる。なぜいじめるか?彼らにとって、いじめは楽しいのである。その行為の最中に脳内で〈報酬系〉と呼ばれる神経伝達物質ドーパミンが放出され、快感を覚える。本来ドーパミンは困難な目的・課題を達成した時に生じるが、麻薬・飲酒・ギャンブル・いじめでも短絡的放出をもたらす。ただし短絡的な充足は耐性を生じ、更に強い刺激を求めるようになる。飢餓感は癒やされず、際限のない自己刺激行為に陥る。いじめは非常に中毒性が高いのだ。

2019年に千葉県野田市で小学校4年生(当時)の栗原心愛さんが自宅浴室で死亡した虐待事件で、父親である勇一郎被告に対して懲役16年の判決が言い渡された。裁判の過程で娘が号泣する動画を勇一郎被告がデジタルカメラや携帯電話に残していることが明らかになった。つまり彼は後でそのコレクション(報酬)を見て楽しんでいたのである。絶滅収容所でナチスがユダヤ人から掻き集めた金歯・腕時計・指輪・髪の毛(鬘に使った)に相当する。常人には理解できない鬼畜の所業である。

「自粛警察」の匿名性も深く関わっているだろう。素性のばれない安全地帯から他人を非難するのは気持ちが良い。私刑はなんだか自分がアメコミのヒーロー(スーパーマン/バットマン/スパイダーマン)とか、大岡越前みたいな名奉行になって悪党を裁くような錯覚・達成感を与えてくれる。あくまでもそれは幻想に過ぎないのだが。彼らは「正義」の仮面(スパイダーマスク)をかぶり、「公事場(くじば)」と呼ばれる高みから「お白州(しらす)」という砂砂利に敷かれた筵(むしろ)に座る被告人を見下す。その優越感は、まるで酒に酔ったような夢心地だ。これが「正義中毒」である。いじめの構造にも「自分たちは正義を実行している」という感触(思い込み)がある。ユダヤ人絶滅収容所の看守たちも、第二次世界大戦後のパリ開放時に「ドイツ兵と寝た女」たちの頭を公衆の面前で丸刈りにするリンチを実行した者たちも、 中国の文化大革命で文化人に対し自己批判を強要した紅衛兵たちも、連合赤軍(新左翼運動)における総括も、同じ穴の狢である。また「モンスターペアレンツ」の所業にも似ている。彼らは“保護者”という安全地帯から学校や幼稚園の教職員を断罪する。そりゃ快感だろう。“保護者” に対して教師は下手に出るしかないのだから。「自粛警察」 もやはり、新型コロナウィルスへの恐怖が生み出した怪物(モンスター)だ。おぞましい。

「自粛警察」を自認する「社会正義の戦士」たちはロシア革命におけるプロレタリアートである。普段から社会にルサンチマン(恨み)を抱えて生きている(流行語大賞トップ10入り「保育園落ちた日本死ね!!!」)。ルサンチマンとは哲学者ニーチェが好んだ用語で、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。だから他者を断罪することで心理的な価値の転倒、下剋上、一発逆転を狙っているのだ。それが多少の憂さ晴らしにはなるのだろう。なお、上述した栗原勇一郎被告は、観光業の派遣社員だった。

ルサンチマンは劣等感の裏返しであり、妬みでもあるだろう。「自分はしっかり自粛をしていろいろと我慢しているのに、どうしてあいつらだけ勝手気ままに振る舞っているのか!」という怒り、嫉妬心である。ここには日本人的な「私」より「公」を重んじる同調圧力(「武士は食わねど高楊枝」という滅私奉公の精神/清貧の思想)があると同時に、多少「羨ましい」という気分、自由への渇望がないとも言い切れまい。

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は以前書いた。今回の件で改めて思い知ったのは「自然(ウィルス)もりも、もっともっと恐ろしいのは怪物を生む人の心である」ということだ。ぼっけえ、きょうてえ!

参考文献:① 岡田尊司(著)「あなたの中の異常心理」幻冬舎新書
② 岡田尊司(著)「死に至る病 あなたを蝕む愛着障害」光文社新書 
③ 河合隼雄(著)「影の現象学」講談社学術文庫
④アドルフ・ヒトラー(著)平野一郎 他(訳)「我が闘争」角川文庫
⑤フリードリヒ・ニーチェ(著)中山元(訳)「道徳の系譜学」光文社古典新訳文庫
⑥岩井志麻子(著)「ぼっけえ、きょうてえ」角川ホラー文庫

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2020年4月24日 (金)

TBSラジオ「アフター6ジャンクション」presents:さよなら大林監督。追悼特別企画<第1回 大林宣彦映画 総選挙>

(ラップグループ)RHYMSTER 宇多丸がパーソナリティーを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」(通称アトロク)で【さよなら大林監督。追悼特別企画<第1回 大林宣彦映画 総選挙>】という番組があり、有効投票総数148通で以下の順位が発表された。

  1. 時をかける少女
  2. さびしんぼう
  3. 青春デンデケデケデケ
  4. ふたり
  5. 転校生 (1982年版)
  6. この空の花 長岡花火物語
  7. HOUSE ハウス
  8. 異人たちとの夏
  9. はるか、ノスタルジィ
  10. 花筐/HANAGATAMI

僕は「はるか、ノスタルジィ」に1票を投じた。

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以下、アトロクに投稿したメール内容である。

僕のオールタイム・ベストワンは大林宣彦監督「はるか、ノスタルジィ」です。北海道・小樽市には数回ロケ地巡り(今で言う「聖地巡礼」)に行きました。劇中、重要な場面となる「はるかの丘」も発見しました。物語はこうです。

東京で小説家になった中年の主人公・綾瀬慎介(ペンネーム)は数十年ぶりに故郷・小樽を訪ねる。そこで「はるか」という少女と、バンカラ姿の学生・佐藤弘に出会う。それは青年時代の綾瀬自身だった(佐藤弘は本名)。

これはユング心理学でいうところの無意識に存在する子供元型(The Child Archetype)に遭遇する物語であり、最後に自我(意識)と元型(無意識)は融合され、自己実現に至ります。本作にはどんなに年令を重ねても、人は変われるというメッセージが込められています。

大林監督は常々、「僕はベテランの18歳」と仰っており、監督の心の中には純粋無垢な少年時代の自分、つまり子供元型が生きているということなのですね。

画面には50歳の自分と、学生時代の自分が同時に存在しています。つまり本作は時間の流れに即した「通時的」映画ではなく、「共時的」映画です(フェリーニ「8 1/2」、ベルイマン「野いちご」のように)。過去と現在、そして未来が同時に「ここ」にある。他の大林映画、例えば「さびしんぼう」でも認められる特徴です。

ヒロイン「はるか」は、どうやら綾瀬が昔恋していた三好遥子(みよしようこ)の娘ではないかということが次第に明らかにされていきます。

そして綾瀬は「はるか」の髪型を「遥子」に似せようと画策し始めます。これが、宇多丸さんが大林監督との対談で指摘されたようにヒッチコックの「めまい」そっくりなんですね。宇多丸さんの発言でハッと気がついたのですが、オープニング・クレジットで「はるか」がクルクル回転するのも「めまい」へのオマージュになっています。

物語の最後に綾瀬は「はるか」と結ばれますが、彼女が綾瀬の娘であった可能性も残されている。なんと仄暗く、罪深い映画でしょうか!宇多丸さんの仮説、「時をかける少女」における深町くん昏倒レイプ犯説に通じるものがあります。故に「めまい」同様の異常心理を含めて、「はるか、ノスタルジィ」は大林監督の本質に迫る作品だと僕は思うのです。

さらに詳しいことは下記事に書いた。

番組内で宇多丸は「はるか、ノスタルジィ」について〈背徳的な〉〈世間的な良識から言うとなかなかなタブーに触れる〉〈ちょっと妖しい、危うい〉〈結構危険な、ヤバイ話〉とコメントした。全く同感である。ジークムント・フロイトの提唱する〈エディプス・コンプレックス〉とは、身も蓋もない言い方をすれば〈お母ちゃんとセックスをしたい〉願望、潜在意識を指すが(コンプレックス=心的複合体)、本作は〈娘コンプレックス〉を描いていると解釈出来る。危険な誘惑だ。なお、大林監督は手塚治虫について、〈シスター・コンプレックス〉の作家と評している。その典型例が初期作「ロスト・ワールド」だ。

ただ、今僕が考えているのは、「はるか」は綾瀬にとって、ユング心理学における〈アニマ〉なのではないか?という解釈である。それは自分の無意識に存在する元型・魂の一部であり、ゲーテが言うところの〈永遠に女性的なるもの〉を指す。「ファウスト」におけるグレートヒェンであり、ダンテ「神曲」におけるベアトリーチェだ(さらに言えば宮崎駿「風立ちぬ」の菜穂子)。

つまり映画「はるか、ノスタルジィ」の最後に主人公・綾瀬慎介(=大林宣彦)の自我(ego)は、それまで忘却の彼方にあった子供元型(プエル・エテルヌス:永遠の少年)と融合し、さらに「はるか」=アニマ(魂)とも結合を果たし、自己実現を成し遂げた。実に美しい、ハッピー・エンドではないだろうか?

思えばこれこそが、あなたが永遠に願った真実の恋の勝利というものではなかっただろうか?さびしんぼうよ、いつまでも。
おーい、さびしんぼう。  

(映画「さびしんぼう」より)

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2020年4月 8日 (水)

新型コロナウィルスという災厄の中から生まれるもの

新型コロナウィルスが世界中で蔓延し、遂に日本でも緊急事態宣言が発令されるに至った。

僕が小学生だった頃(昭和)、学校(岡山大学教育学部附属小学校)で「戦争を知らない子供たち」(作詞:北山修/作曲:杉田二郎)を歌わされた。こんな歌詞だ。

戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら

如何にも日教組の教員が好みそうな内容だ。

しかし僕は今思う。2020年に僕らは戦争を体験した。現在世界は戦時下にある。

日々犠牲者が増加し、外出も制限され、多くの人が仕事もままならない。ほぼ戦争状態と変わらない。緊急事態宣言≒戒厳令であり、敵は目に見えないウィルスだ。

演奏会が中止になったオーケストラの楽員が「僕たちは不要不急。要らないって、言われているみたいで悲しい」と発言している様子がテレビで報道された。

ようやく気がついたか。音楽とか演劇がなくても人は生きていける。今回のような生命に関わる非常事態を迎え、扱いが二の次になることは当たり前だ。生演奏の代替品として今はCDやSpotify,Amazon Musicなど定額制音楽配信(サブスクリプション)サービスがあるしね。

芸術は心の豊かさをもたらしてくれる。しかしそれには大前提があって、「生活や心に余裕がある時」に限られる。3・11東日本大震災の際、東北の人々を励ますために芸術家たちが訪れたのも直後ではなかった。落語や漫才で人々が朗らかに笑えるようになるにも時間が掛かる。

上記事で「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は常々思っていると書いた。2020年3月以降、20−30歳代の若者たちの無軌道ぶりが目に余る。1月以降に大学から海外渡航を控えるよう注意喚起されていたにもかかわらず卒業旅行としてヨーロッパに行き、新型コロナウィルスを日本に持ち帰り、症状があったのに卒業式や祝賀会に出席してウィルスをばら撒いた県立広島大学や京都産業大学の4年生たち。小池百合子・東京都知事が緊急会見で外出自粛を要請した翌日の3月26日に約40人が都内のダイニングバーで「お疲れ様会」なる懇親会を開催。会は三次会まで続き、最後はカラオケだったという慶応病院の研修医たち(18人が集団感染した)。同じ3月26日にナイトクラブを訪れて感染した岐阜大学の医師3人(30代2人、20代1人)。おかげで岐阜大学附属病院は4月19日まで約30あるすべての診療科の外来診療を休止することになった。

彼らは心の内にある欲望が外部に溢れ出ることを制御出来ない。遊びたくて仕方がないー本能の命ずるまま生きている。自分さえ良ければ満ち足りるのだ。他者のことは一切考えない。そして「自分は絶対大丈夫」という変な自信、万能感を持っている。これが若さの本質であり、愚かしさ、未熟さなのだ。

僕が思うに新型コロナウィルスとの戦いに勝ち抜いた暁に、世界は大きく変わっているのではないだろうか?今回の事態は間違いなく、1929年の世界大恐慌や、1939年に勃発した第二次世界大戦に匹敵する危機的状況である。第二次世界大戦の前後で、特にドイツと日本は劇的な変化を遂げた。それも良い意味において。ピンチはチャンスだと考えたい。

精神科医・医学博士である高橋和巳はその著書「人は変われる」(ちくま文庫)の中で、心には三つの能力がある、と記している。

第一の能力は、自分から離れることができる(自分を客観視できる)能力。第二の能力は、絶望することができる能力。そして第三は、純粋性を感じることのできる能力。現在の解釈を越えてより深い「新しい解釈」を生み出すことで、人は古い自分を乗り越えていく。

人が絶望的状況に直面した時、対処するためのキーワードは「どうしようもない」と「あきらめました」。この言葉を呟くことで頭の中に配置の転換が起こる。現実をあきらめることで、自分に対する自信を取り戻す。そして新しい行動を取り始めるのだ。

文庫本の解説を書いた女優・中江有里は「あきらめました」を、大きな嵐をやり過ごすための魔法の言葉だ、と述べている。

第三の純粋性を感じる能力とは、思い込みや過去の自分の常識に縛られないで、新しい心の動きを感じることができることを指す。

多くの人々は現在、新型コロナウィルスに対して絶望的な気持ちを抱えている。しかしこの苦境を乗り越えることできっと「新しい解釈」「新しい自分」を見出すだろう。僕らはまだまだやれる。決してへこたれない。

北米では殆どの映画館が閉鎖になっている。そして再開されても以前のように観客は戻ってこないと予想されている。「映画は映画館で観るもの」という固定概念・過去の常識がここで一気に雲散霧消する。日本でもライブハウス同様、多くのミニシアターが閉館に追い込まれるだろう。仕方がない、あきらめた。動画配信時代の到来である。

また、新日本フィルハーモニー交響楽団が新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から演奏会の中止・延期を余儀なくされており、楽団存続の危機に立たされている(緊急支援のお願いページへ)。大阪府にある4つのオーケストラ(大阪フィル、関西フィル、大阪交響楽団、日本センチュリー交響楽団)も似たような状況だろう。どこかが経営難で解散に追い込まれても不思議じゃない。仕方がない、あきらめた。そもそも下手くそなオケが大阪に4つもあるなんて無駄、不経済なのである。1つや2つなくなったって文化の火は消えないし、今こそ発想の転換を図るべき時なのだ。新型コロナウィルスで野田秀樹氏が言うような「演劇の死」は訪れないし、クラシック音楽だって死なない。どっこい生きている。

お荷物になっている在阪オケをどうするかという問題については随分昔から俎上に載せられてきた。2006年に関西経済連合会の秋山喜久会長(当時)が「大阪に4つもあるのはどうか」と語ったことに端を発する。

さらに橋下徹氏が大阪府知事・大阪市長を努めた時代に、大阪センチュリー交響楽団に対して大阪フィルと統合するよう促したが、両楽団が突っぱねて見送られたという経緯がある。そうして大阪センチュリーは日本センチュリー交響楽団に改名した。

しかし悪あがきはもうおしまいだ。 火急の事態が逼迫しており、即座の対応が求められる。あなた達は「不要不急」の存在なのだから、経営の合理化を目指して前向きに統合についての話し合いを進めてもらいたい。今こそ生まれ変われ!

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2020年3月20日 (金)

新型コロナウィルスが僕たちに教えてくれること

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は常々思っている。例えば災害時。大地震が起こると発展途上国では暴動に発展し、商店への略奪がしばしば起こる。貧富の格差、貧しい者の富める者に対するルサンチマン(嫉妬・怨嗟)が一気に吹き上がる。その点日本人は阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も救援物資が配給されるのを割り込みもせず列を作って辛抱強く待ち、その姿が世界から称賛された。僕たちは非常時でも品格を失わなかった。

新型コロナウィルスの騒動で、世界は総鎖国状態になっている。ヨーロッパ諸国もこの緊急事態にナショナリズムを剥き出しにし、国境を閉ざした。EUと称するグローバリズム(緩やかな社会主義)の正体・欺瞞が白日の下に晒された。イタリアが医療崩壊しても近隣諸国は自国のことでいっぱいいっぱいで、知らんふりだ。結局、「世界は一家、人類はみな兄弟」じゃなかった。なんと中国から医師300人で構成される専門家チームがイタリアに派遣された。皮肉なことにイギリスのEU離脱は正しかったことが、こんな形で証明された。

アメリカやヨーロッパで、アジア人差別が横行している。彼らは「私は人種差別なんかしていない」という仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨て、本来の顔を覗かせた。

日本では音楽家や演劇関係者の頭の中がお花畑であることがはっきりと分かった。

野田秀樹氏の、このまま劇場を閉ざしていたらそれは「演劇の死」を意味するという発言には心底驚かされた。いやいや野田さん、まだ1ヶ月そこらでしょう。1945年の東京大空襲で首都が焼け野原になっても、広島・長崎に原爆が投下されても演劇は死ななかったんですよ。そんなやわなものじゃないでしょう?泣き言言いなさんな、みっともない。貴方はもっと骨のある人だと思っていました。失望しました。

3・11東日本大震災のとき、当時政権与党だった民主党が如何に経験不足で頼りない党かということが露見し、全国民は呆れ返った。その後に行われた総選挙で惨敗、結局民主党という組織そのものが消滅した。3・11がなければ、民主党はもう暫く存続出来たのではないだろうか?亡国の危機を迎えることによってその化けの皮が剥がれたのである。

今回のコロナウィルスによる危機を迎えても、韓国は日本に対する攻撃を緩めない。恨(ハン)は決して変わらない。

また、朝日新聞の鮫島浩氏が次のようにツィートしている。

日本政府による〈陰謀論〉だ。

日本が韓国やイタリアに比べて、検査件数が少ないことは事実だ。しかしそれは対外的に日本の安全性をアピールしたいという〈隠蔽工作〉なんかじゃない。軽症者が病院を占拠して重症者が入院できないといった、医療崩壊を防ぐことに狙いがある。鮫島氏はイタリアみたいに日本も医療崩壊すれば良いと考えているのだろうか?まぁこの人は憎き安倍政権を打倒出来さえすれば、国が滅んでも気にしないのだろう。安倍総理をこき下ろすことだけが目的化している。

どの程度の症状で検査するかによって感染者数は変化する。それを国別に比較することに意味はない。しかし死亡者数は誤魔化せない。重症で人工呼吸機に繋いでいる患者にウィルスのPCR検査をしないなんていうことはあり得ないからである(日本では死亡後に感染が判明した症例もある)。

〈陰謀論者〉たちは保健所が検査させないように策略をめぐらせていると主張するが、日本では2020年3月6日から新型コロナウィルス検査が保険適応となった。つまり保健所を介さず、医師の判断で検査出来るようになったのである。

3月19日現在、日本国内の死亡者は29人。韓国は91人。中国以外で多い順にイタリア2978人、イラン1135人、スペイン598人、フランス264人となっている。「日本は何とか持ちこたえている」というのは紛れもない事実だ。更に言えば日本の人口は約1億2600万人である。韓国が約5100万人でイタリアが6048万人。死亡率(人口10万対比死亡数)を計算すると、さらに格差は広がる。ここで〈陰謀論者〉たちは死亡者数を検査した人の数で割って「日本の死亡率は高い」と主張するのだが、これはインチキである。このやり方だと、症状の全くない人まで沢山検査した国のほうが見かけ上率が減ってしまう。ナンセンスだ。どうして彼らはここまでして、日本を貶めたいのだろう?実に情けない。

さらに朝日新聞の小滝ちひろ編集委員・ソーシャルメディア記者はツイッターに次のような投稿をした。

「(略)戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」

ここでも世界を覆う災厄よりも、憎っくきトランプ大統領が右往左往している姿を見る方が嬉しいという本性が剥き出しになっている。時の権力者へ自らの憎悪をぶつけることが目的化し、他のことが全く見えなくなっているのだ。なんと愚かなことだろう。

 

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2020年3月18日 (水)

あなたは共感出来ますか?〜映画「名もなき生涯」

評価:A-

Ahiddenlife

映画公式サイトはこちら

第二次世界大戦時にヒトラーへの忠誠宣誓を拒否したオーストリアの農夫フランツ・イェーガーシュテッターの物語。いわゆる「良心的兵役拒否者」だ。巨匠テレンス・マリック監督にとって、初の実話となる。

「ツリー・オブ・ライフ」(2011)以降、マリックの脚本はまるで詩のようだ。そこがマリック節に慣れていない、一般客にとって敷居が高くなっている原因でもある。本作も会話というよりは夫婦の往復書簡が中心になっている。

自然光で撮られた映像が極めて美しい。優れた作品であることは間違いない。しかし、僕は次の一点でどうしても引っ掛かった。

大義もないのに戦場で人を殺したくない。その気持は良く理解出来る。しかし兵役を拒むことで家族にも害が及ぶ。それは果たして〈正しい〉ことなのか?

主人公のみならず妻や子供も投獄されるリスクはあった(実際にはそんなことにならなかったが)。相手はナチス・ドイツだ。何をするかわからない。

フランツがオーストリア人(アーリア人種)というだけで幸運だった。弁護士が付き、裁判も行われた。ちゃんと人間として扱われたのだ。ユダヤ人だったら有無を言わさず一家全員、絶滅収容所送りだったろう。さらに主人公には「兵役に就かず、病院で働く」という選択肢まで与えられた。至れり尽くせりである。しかし彼はヒトラーに忠誠を誓うという一文の書かれた書類にサインすることを拒む。頑固にも程がある。「こんな紙切れ一枚、形だけのものじゃないか」と弁護士は彼を説得しようとするが失敗に終わる。

はっきり言ってアホである。人間には本音と建前というものがある。それを使い分けるのが大人の態度だろう。「嘘も方便」という諺もある。バカ正直を貫くよりも、周りの人・家族を守ることこそ、優先すべきだろう。僕は決してフランツに共感出来ない。こんなの美談じゃない。

シェイクスピア(作)「リア王」の主人公は年老いたため、領地を分配しようと、三人の娘に自分をどれくらい愛しているかを尋ねる。長女と次女は歯の浮くような綺麗ごとを並び立てるが、末娘のコーデリアは何も言うことはないと答えたため、リア王は激怒して彼女に何も与えず、その場で親子の縁を切ってしまう。

精神科医・岡田尊司は著書「あなたの中の異常心理」(幻冬舎新書)の中で、「リア王」について次のように書いている。

 ある意味、コーデリアもリア王も、人間の二面性を理解し、上手に扱うことに失敗しているという点では似ていると言える。(中略)
 どちらも気性が真っ直ぐで、誠実だが、その一方で強情で、我の強い面をもち、一面的な見方にとらわれてしまいやすいのである。物事には、相反する側面があるということを受け入れることができず、どちらか一方の見方に立つと、自分の立ち位置でしか物事が考えられない。(中略)
 コーデリアにしても、自分では自分の気持に誠実に振る舞っているつもりになっているが、それによって、リア王の気持ちに何が起こり、結果的に双方にとって不幸を招くということが見えていない。つまり、この一瞬の意地を貫くことが、双方にとっての長期的な利益や幸福を守ることよりも優先されてしまうのである。
 真っ正直でウソがつけず、誠実な性格というものは、その意味で面倒を引き起こしやすい一面をもつと言えるだろう。それは、心に二面性を抱えられないという内面構造の単純さに由来する問題であり、語弊を恐れずに言えば、ある種の未熟さを示していると考えられる。

フランツについても全く同じことが言える。

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2020年3月13日 (金)

クラシック音楽をどう聴くか?〜初心者のための鑑賞の手引き

クラシック音楽に興味があるけれど、どう聴いたら良いのサッパリかわからない、途方に暮れるという若い方、特に中学生・高校生に向けてこれを書いてみようと思う。勿論、大人の初心者の方も大歓迎だ。出来る限りわかり易く、奥深い森への道案内をしたい。

記事全体の構成をご紹介しよう。①「まず、何から手を付けたら良いの?」……取っ掛かりに最適の曲をご紹介する。②映画を大いに活用しよう!……ぼんやり観ているだけで良いので即効性があり、とっても効果的だ。③「演奏時間が30分以上もある交響曲とかソナタを、どう受け止めれば理解出来るの?」……そのコツを伝授する。意外と簡単。

では早速始めよう。

①「まず、何から手を付けたら良いの?」

僕の経験からお話しよう。最初にクラシック音楽って楽しい!と開眼したのは小学校4,5年生の頃。切っ掛けはヴィヴァルディの「四季」だった。

初心者にとって長大なクラシック音楽は雲を掴むようで覚束なく、聴いていると眠くなってしまう。抽象的で、具体的な絵とか形(目に見えるもの-vision)や物語がないからである。しかしヴィヴァルディの「四季」は標題音楽であり、物語がある。それを読みながら聴けば、情景が目に浮かんでくる。CDの解説書を読めば良いのだが、最近はSpotify,Amazon Musicなど定額制音楽配信(サブスクリプション)サービスを利用している方も多いだろう。そういう場合に便利なのがWikipediaである。「四季」の解説はこちら。【ヴィヴァルディ】【四季】でgoogle検索すれば、直ぐ見つけられる(キーワードに【wiki】 を加えても、加えなくても良い)。おすすめの演奏は◎ビオンディ/エウローパ・ガランテ、◯スタンデイジ/ピノック/ イングリッシュ・コンサート、◯カルミニョーラ/ヴェニス・バロック・オーケストラといったところ。

Siki

ヴィヴァルディ「四季」に似た趣向の作品としてベートーヴェン:交響曲第6番「田園」が挙げられる(【ベートーヴェン】【田園】でググる=google検索)。お勧めの演奏は◎ベーム/ウィーン・フィルか、◯ネルソンス/ウィーン・フィル、◯パーヴォ・ヤルヴィ/ドイツ・カンマーフィル。同じベートーヴェン:交響曲第5番「運命」は苦難(第1楽章 ハ短調)を乗り越えて歓喜(第4楽章 ハ長調)へ!という明快なコンセプトがあるのでこれも判り易い。◎クライバー/ウィーン・フィルか、◯アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 、◯クルレンツィス/ムジカエテルナあたりで。この「運命」のコンセプトに追随したのがチャイコフスキー/交響曲第5番、マーラー/交響曲第5番、ショスタコーヴィッチ/交響曲第5番。ただしショスタコの場合は屈折しており、一筋縄ではいかない。

本題に戻ろう。他に標題音楽としてホルスト:組曲「惑星」(カラヤン/ベルリン・フィル)、リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」(デュトワ/モントリオール交響楽団)、ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲「展覧会の絵」(ショルティ/シカゴ交響楽団)、チャイコフスキー:組曲「くるみ割り人形」(カラヤン/ベルリン・フィル)、サン=サーンス:組曲「動物の謝肉祭」(アルゲリッチ、マイスキー、クレーメルほか)、プロコフィエフ:交響的物語「ピーターと狼」、グリーグ:劇付随音楽「ペール・ギュント」組曲(カラヤン/ベルリン・フィル)、メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(プレヴィン/ウィーン・フィル)、ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲、交響詩「海」(ブーレーズ/クリーヴランド管)、レスピーギ:交響詩「ローマの松/祭り/噴水」(ローマ三部作) などが挙げられる。ローマ三部作は◎ムーティ/フィラデルフィア管か、◯バッティストーニ指揮/東京フィルハーモニー交響楽団で。

ロックが好きな人にはストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」がピッタリ。ピンク・フロイドの「原子心母」とか、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの「タルカス」、イエス(バンド)などプログレッシブ・ロックに近い。◎クルレンツィス/ムジカエテルナか、◎ロト/レ・シエクル、◯ブーレーズ/クリーヴランド管で。

標題音楽じゃないけれど、ジャズ好きにはガーシュウィン:「ラプソディ・イン・ブルー」や「パリのアメリカ人」がお勧め。指揮&ピアノはバーンスタインかプレヴィン、レヴァインで。

またベルリオーズ:幻想交響曲は失恋のショックで悶々とし、アヘンを吸いながら作曲された狂気の音楽(サイケデリック・ミュージック)だ。すこぶる面白い!◎アバド/シカゴ交響楽団や◯ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊、◯ロト/レ・シエクルの演奏でどうぞ。

小品ではデュカス:交響詩「魔法使いの弟子」、スメタナ:交響詩「モルダウ」、ムソルグスキー(リムスキー=コルサコフ編):交響詩「禿山の一夜」、ボロディン:交響詩「中央アジアの草原にて」、シベリウス:交響詩「フィンランディア」「トゥオネラの白鳥」、ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」「春の声」「ウィーンの森の物語」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」、イヴァノヴィッチ:ワルツ「ドナウ川のさざなみ」、ワルトトイフェル:スケーターズ・ワルツ、メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」、マスネ:タイスの瞑想曲、ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲、スッペ:オペレッタ「軽騎兵」序曲、ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」序曲、ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、歌劇「ローエングリン」第三幕への前奏曲、マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲あたり。シュトラウス一家のワルツ・ポルカならウィーン・フィルの演奏で。指揮者はカルロス・クライバー、ボスコフスキー、ティーレマン、ネルソンスあたり。その他の小品は◯カラヤン/ベルリン・フィルか、◯ロビン・ステープルトン/ロイヤル・フィルで。Spotifyで【ステープルトン】と入力し、検索すれば僕が作成したプレイリストが出てくる。

女性の場合はオーケストラ曲よりもピアノ曲のほうが馴染みやすいかも知れない。モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番「月光」、第17番「テンペスト」、第23番「熱情」、エリーゼのために、ドビュッシー:月の光(ベルガマスク組曲)、夢、アラベスク第1番、亜麻色の髪の乙女、ショパン:革命、雨だれ、エオリアン・ハープ、英雄ポロネーズ、子犬のワルツ、シューマン:トロイメライ(子供の情景)、ノヴェレッテ第1番、リスト:愛の夢第3番、ため息(3つの演奏会用練習曲)、ラ・カンパネッラ(パガニーニ大練習曲)、グリーグ:ノクターン(抒情小曲集)といったところか。ピアニストとしてはピリス(モーツァルト)、内田光子(モーツァルト)、河村尚子(ベートーヴェン、ショパン)、ポリーニ(ベートーヴェン、ショパン)、アルゲリッチ(ショパン、シューマン)、フランソワ(ドビュッシー)、メジューエワ(ベートーヴェン、シューマン、ショパン)、ボレット(リスト)、アムラン(リスト)、ギレリス(ベートーヴェン、グリーグ)なら間違いなし。

②映画を大いに活用しよう!

映画は得体の知れないクラシック音楽を、明確なvision(視覚)に結びつける力がある。一番のお勧めはディズニーの「ファンタジア」(1940)。「ファンタジア 2000」もある。①でご紹介した小品がいくつも登場する。次に恩田陸原作の日本映画「蜜蜂と遠雷」。浜松国際ピアノコンクールがモデルになっている。またウディ・アレンの「マンハッタン」を観ればガーシュウィンの曲が大好きになるだろう。そしてMGMミュージカルの最高傑作「巴里のアメリカ人」。劇団四季が上演している舞台版を観てもいいい。あとクロード・ルルーシュ監督「愛と哀しみのボレロ」、アカデミー作品賞・監督賞に輝いた「アマデウス」。〈春の祭典〉初演時に於ける阿鼻叫喚の大混乱を活写した「シャネル&ストラヴィンスキー」や、ブラームスとクララの関係を描く「クララ・シューマン 愛の協奏曲」も面白い。また古い白黒映画だが今井正監督「ここに泉あり」と、大指揮者ストコフスキーも出演するディアナ・ダービン主演「オーケストラの少女」は名作中の名作。ジェニファー・ジョーンズ主演の美しい幻想映画「ジェニーの肖像」は全編にドビュッシーの名曲が散りばめられている。

あと大林宣彦監督「さびしんぼう」ではショパンの〈別れの曲〉、「ふたり」ではシューマンの〈ノヴェレッテ第1番〉とベートーヴェンの第九、「転校生」では〈トロイメライ〉〈タイスの瞑想曲〉〈アンダンテ・カンタービレ〉、細田守監督のアニメ版「時をかける少女」ではJ.S.バッハの〈ゴルトベルク変奏曲〉、ルキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」ではマーラーの交響曲第5番が好きになるだろう。おっと、ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」も忘れちゃいけない。〈ジークフリート牧歌〉〈子供の情景〉が印象的。タイムトラベルもの「ある日どこかで」はラフマニノフの〈パガニーニの主題による狂詩曲〉、中国映画「太陽の少年」は〈カヴァレリア・ルスティカーナ〉間奏曲がフィーチャーされている。またスタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」を観る前には是非、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読んでおきたい。貴方がさらにディープな世界を体験したければ、ケン・ラッセル監督「マーラー」、「エルガー 〜ある作曲家の肖像〜 Elgar : Portrait of a Composer」、そしてディーリアスの晩年を描く「夏の歌 Song of Summer」をご覧あれ。

③「演奏時間が30分以上もある交響曲とかソナタを、どう受け止めれば理解出来るの?」

長大な交響曲や、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルートなど独奏楽器のためのソナタは、基本的に同じ構造を持っている。その共通項さえ把握しておけば、比較的聴き易くなるだろう。

古典派のハイドンからロマン派のシューマン、ブラームスあたりまで、交響曲や協奏曲、ソナタの大半は3楽章か4楽章で構成される(5楽章の「田園」など例外はあるが、ごく僅か)。全3楽章の場合は第2楽章、全4楽章の場合は第2,3楽章のことを【中間楽章】と呼ぶ。そして速度(tempo)は【開始楽章ー中間楽章ー終楽章】が、【急(fast)ー緩(slow)ー急(fast)】となっている。全4楽章の場合、【中間楽章】は【緩徐(slow)楽章】と【舞踏(dance)楽章】で構成される。ハイドンとモーツァルトの時代、【舞踏楽章】は基本にメヌエットだったが、ベートーヴェンがそれをスケルツォに変えた。イタリア語で「冗談」を意味し、語源的にはふざけた、諧謔(かいぎゃく)的音楽を指す。道化的と言い換えても良い。チャイコフスキーの場合、スケルツォの代わりにワルツを置いた。またブルックナーのスケルツォはホルンが活躍する「狩り」の音楽だ。【緩徐楽章】と【舞踏楽章】の順番はまちまち。マーラー:交響曲第6番みたいに、指揮者の解釈によって入れ替わる場合もある。

【開始(第1)楽章】は大半がソナタ形式である。【提示部ー展開部ー再現部ー結尾部(Coda)】で構成される。時に冒頭に【序奏】が置かれることがある。開始楽章は前述したようにテンポが速いが、【序奏】は対照的にゆったりしている。代表的なものにモーツァルト:交響曲第39番、ベートーヴェン:交響曲第7番、ブラームス:交響曲第1番がある。

【提示部】では主題(テーマ)が提示される。ハイドン、モーツァルトからブラームスあたりまで基本的に第二主題まで。ブルックナーの交響曲は第三主題がある。肥大化したマーラーの交響曲はもっと複雑で、第3番なんか第四主題まである。第一主題が長調の場合、第二主題は属調、第一主題が短調なら第二主題は平行調となる。例えば第一主題がハ長調(ドレミファソラシ)なら第二主題はト長調(ソラシドレミファ#)、半音階で七つ上(完全五度)。第一主題がイ短調(ラシドレミファソ)なら第二主題はハ長調(ドレミファソラシ)となる。つまり転調することで第二主題の開始が分かる。交響曲の場合、第一主題(動)は弦楽器、第二主題(静)は木管楽器が主体となる。基本的に【提示部】の終わりには繰り返し記号がある(最初に戻る)。聴衆に主題を覚えてもらうためだ。しかし指揮者によっては繰り返しを無視してサッサと次に移る人もいる。古楽器系オーケストラを振る指揮者は大抵、律儀に繰り返しを実行する(アーノンクール、ブリュッヘン、ノリントン、コープマン、ホグウッド、延原武春、鈴木秀美、ガーディナー、インマゼール、ラトル、パーヴォ・ヤルヴィ、ミンコフスキ、ロト、クルレンツィスら)。

【展開部】提示部で示された主題を様々に変奏、料理する。第一主題だけ扱われることが多い。

【再現部】提示部の主題が元の形で再現される。第二主題→第一主題の順番になることがしばしば。

【終楽章】はソナタ形式か、ロンド形式。特に協奏曲はロンド形式が圧倒的に多い。ロンド形式とは異なる主題をはさみながら、同じ旋律(ロンド主題)を何度も繰り返す。図式化すると、

A-B-A-C-A-D-...-A

つまり、常にAに戻ってくる。フランス語でrond(ロン)/ronde(ロンド)は「丸い」という意味で、英語ではround(ラウンド)となる。日本語で輪舞曲というのはそのため。

【舞踏楽章(メヌエット/スケルツォ/ワルツ)】は、ほぼ三部形式(A-B-A)だと考えて間違いない。Aを主部、Bを中間部(トリオ)という。トリオが2回登場するA-B-A-B-Aという特殊形もある(ベートーヴェン:交響曲第7番)。また複合三部形式というのもあり、主部や中間部がさらに細かくa-b-a/c-d-cで構成される。

【緩徐楽章】は一番バラエティに富む。ソナタ形式だったり、展開部を欠くソナタ形式(A-B-A-B)だったり(ベートーヴェン:交響曲第4番)、 ロンド形式だったり(ベートーヴェン「英雄」)、主題と変奏曲だったり(ベートーヴェン「運命」)する。

今まで述べてきた形式が基本形だが、時にフーガが登場することもある。代表例がモーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」やベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番、サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」、ブルックナー:交響曲第5番の終楽章。ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番は終楽章が後に独立し「大フーガ」となり、続く弦楽四重奏曲第14番は第1楽章がフーガ。

ブラームス:交響曲第4番は特殊で、第4楽章がシャコンヌ(またはパッサカリアとも言う)。たった8小節のシャコンヌ主題に、30もの変奏及びコーダが続く。これはJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の終曲シャコンヌと併せて聴きたい。バッハのシャコンヌはストコフスキーや斎藤秀雄の編曲による管弦楽版もある。

いかがでしたか?例外もあるが、概ね基本構造はどれも同じ。何も難しいことはない。だから「ここまでが提示部(第一主題/第二主題)、この先が展開部…」といった具合に構造を意識して聴こう。これから聴く曲がどういう形式になっているか、予め解説書かWikipediaに目を通せば良い。Wikiには大抵の曲が載っているから。便利な時代になったものである。

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2020年3月 9日 (月)

アメコミ・ヒーローの病理

アカデミー作品賞・監督賞などに10部門ノミネートされた 「アイリッシュマン」のマーティン・スコセッシ監督が、マーベル映画は「テーマパークのようなもので、映画とは呼べない」と発言したことで物議を醸している。

僕はアメリカン・コミックスを原作とする映画をこれまで沢山観てきた。スパイダーマンはサム・ライミ監督三部作、マーク・ウェブ監督による「アメージング・スパイダーマン」二部作、そしてトム・ホランド主演でリブートされた「スパイダーマン:ホームカミング」などに付き合った(計七作品)。「アイアンマン」は全三部作観たし、評判が良かった「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」上映館にも足を運んだ(途中であくびばかり出て、激しい睡魔に襲われた)。「もういいや。好みじゃない」とウンザリした僕にとどめを刺したのが「アベンジャーズ」だった。そして次のようなレビューを書いた。

マーベル映画は〈正義 Hero〉が〈悪党 Villain〉を退治する単純なプロレス映画に過ぎない、というのが最終的に僕の導き出した結論である。

日本のウルトラマンも〈怪獣プロレス〉と揶揄されることがあるが、内容はもっと屈折していて深い。初代ウルトラマンで佐々木守がシナリオを書いた「故郷は地球」のジャミラは元宇宙飛行士で、宇宙開発競争の犠牲者として描かれる。「恐怖の宇宙線」のガヴァドンは子供たちの書いた絵から生まれ、それを退治しようとするウルトラマンは寧ろ彼らの想像力を奪う敵となる。つまり善悪が逆転するのだ。また脚本家チームの金城哲夫や上原正三は沖縄出身であり、侵略を受けた被征服民(琉球民族)の怒りを作品に投影している(金城は6歳のときに沖縄戦を体験している)。

ここでオーストリア・ウィーン生まれの、児童を専門とする精神分析家メラニー・クライン(1882-1960)の打ち立てた「対象関係論」をご紹介しよう。

一歳半から三歳くらいまでの期間によちよち歩きを始めた子供は母親からの分離を達成する。この分離 - 個体化の過程で、同時に「対象恒常性」の発達が成し遂げられる。空腹を満たしてくれるのは「良い母親」であり、満たしてくれないのは「悪い母親」。一人の同じ母親としては、まだつながらずに「分裂」している。こうした関係をクラインは「部分対象関係」と呼んだ。そうした関係が、一人の同じ母親とのトータルな関係として受け止められるようになったのが「全体対象関係」であり、その移行が生じるのが、この時期である。

ところが重症のパーソナリティ障害では、「全体対象関係」の発達が不十分で、容易に「部分対象関係」に後退しやすい。自分の思い通りになれば「良い」人で、「味方」だが、思い通りにならなければ「悪い」人や「敵」に容易に変わってしまう。「すべて良い」「すべて悪い」、「全か無か(all or none)の二分法で両極端な思考や感情の動きを示す。

クラインはこうした状態を、「妄想・分裂ポジション」と呼び、一方で「全体対象関係」が発達し、相手とのトータルなつながりが生まれて自らの非を認めることが出来る状態を「抑うつポジション」と呼んだ。

Personality
引用文献:岡田尊司「パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか 」( PHP研究所)

結局、正義(ヒーロー)か悪(ヴィラン)かの二分法で物事を判断するアメコミ・ファンは、未熟な「部分対象関係」で思考しているのではないだろうか?

但し例外もあって、DCコミックスの「バットマン」シリーズに登場するジョーカーは複雑なキャラクターだ。善・悪に分類出来ない二重性があり、トリックスターと言えるだろう。

だから僕はクリストファー・ノーランが監督した「ダークナイト」を大傑作だと思うし、ホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞に輝いた「ジョーカー」は余り好きではないけれど、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、キネマ旬報ベストテンで外国語映画第1位に選出されるなど、高い評価を受けたことは納得出来る。

実はスコセッシの発言も、非難しているのはマーベルだけでDCコミックスは含まれていないんだよね(「ジョーカー」は「タクシー・ドライバー」「キング・オブ・コメディ」などスコセッシ映画へのオマージュに溢れている)。僕は彼の意見に全面的に賛成する。

世界を単純に正義と悪で二分する思考法(妄想・分裂ポジション)はマーベル映画だけではなく、アメリカ人全般(特に共和党支持者)に当てはまる特徴である。その典型例が9・11後のイラク戦争であり、ジョージ・W・ブッシュ大統領 (当時)はイラクが大量破壊兵器を所有していると言いがかりをつけ、フセイン大統領を「悪の枢軸」と決めつけて侵略戦争を開始した。しかし結局大量破壊兵器なんか存在しなかったことはご承知の通りである(詳しい事情を知りたい方は映画「バイス」をご覧あれ)。そもそも9・11とイラクは何の関係もないわけで、結局は石油の利権が欲しかっただけ。そんなブッシュを熱狂的に支持したアメリカ国民は相当イカれている(nuts)としか言いようがないではないか(2001年同時多発テロ直後の大統領支持率は史上最高の90%に達した)。

アメコミのような文化はヨーロッパになく、また〈マッチョ信仰〉もアメリカ人固有の宗教であり、アメコミと大いに関係がある。スーパーマンだってキャプテン・アメリカだって、マイティ・ソーも、みなマッチョだ。シルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガー、スティーヴン・セガールら強靭な肉体を持つ俳優がスターになれるのもアメリカならでは。遡れば西部劇のジョン・ウェインだってそう。つまりアメリカ人の〈マッチョ信仰〉は建国史(西部開拓史)と密接に結びついている。このあたりのことは下記事で詳しく論じた。

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2020年2月27日 (木)

【考察】音楽とは何か?〜J.S.バッハ・オルガン作品演奏会:小糸 恵

いずみホールとバッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ共同企画、今回登場したオルガニストはローザンヌ高等音楽院のオルガン科教授を務める小糸 恵である。いずみホール音楽ディレクターだった礒山 雅が不慮の事故(雪で足を滑らせ転倒、頭部を強打)で亡くなったのが2018年2月22日。その2年後の命日に同ホールで演奏会が行われた。

Koito

オール・J.S.バッハ・プログラムで、

  • プレリュードとフーガ ハ長調 BWV 545
  • “いざ来ませ、異邦人の救い主” BWV 659
  • “われらが神は堅き砦” BWV 720
  • “心よりわれこがれ望む” BWV 727
  • “われはいずこにか逃れゆくべき” BWV 646
  • “来ませ、造り主なる聖霊の神よ” BWV 667
  • トリオ ト短調 BWV 584
  • プレリュードとフーガ ト短調 BWV 535
    (休憩)
  • “おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け” BWV 622
  • プレリュード ハ短調 BWV 546/1
  • Vn.とチェンバロのためのソナタ第3番 第1楽章(小糸恵編)
  • “バビロンの流れのほとりに” BWV 653
  • トッカータとフーガ ニ短調 BWV 538(ドリア調)

アンコールは、

  • カンタータ「神の時こそ良き時」 BWV 106から
    第1曲 ソナティーナ

「神の時こそ良き時」は別名「哀悼行事」と呼ばれ、葬儀の時に演奏するものと推測されている。つまり礒山への追悼としてわざわざ選ばれた楽曲だった。

2013年3月に小糸や礒山がステージに立った、次のような講演を僕は聴いている。

小糸のオルガン演奏は色彩豊かで(音色の選択が洗練されている。特に葦笛のようなコラール!)、力強く、動的(powerful & dynamic)。腹にこたえる、ずっしりした響きがある。

バッハの音楽、特にカンタータや受難曲、オルガン曲は神への捧げ物、供物であった。貴方がキリスト教徒であるかどうかに関わらず、生で演奏されるバッハのオルガン曲は間違いなく聴衆に神秘的な「ヌミノース体験」をもたらす。それはベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタ(第30,31,32番)や、後期弦楽四重奏曲(「大フーガ」,第14,15番)も同様である。

ヌミノースとは、「宗教体験における非合理的なもの」を指し、もともとはドイツの宗教学者であるルドルフ・オットーが提唱した宗教学の用語である。スイスの精神科医/心理学者カール・グスタフ・ユングはヌミノースについて「意志という恣意的な働きによって引き起こし得ない力動的な作用もしくは効果である。逆にヌミノースは、人間という主体を捉え、コントロールする。(中略)ヌミノースは、目に見える対象に帰属する性質でもあれば、目に見えない何ものかの現前がもたらす影響でもあり、意識の特異な変容を引き起こす」と述べている。「ヌミノース体験」に関して詳しくは、京都文教大学 松田真理子 准教授の解説をお読み頂きたい→こちら

早い話がヌミノース=「スター・ウォーズ」におけるフォースである。「ヌミノース体験」は瞑想や祈り、LSDなどのドラッグによるトリップでも獲得出来る。ザ・ビートルズの名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に収録された"ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ(Lucy In The Sky With Diamonds) "はこの「ヌミノース体験」を歌っている。タイトルの頭文字を繋げたらLSDになるでしょ?正にサイケデリック・ミュージックである。

僕が中学生の時に読んだトルストイの「戦争と平和」で、今でも鮮烈に覚えている場面がある(以降、再読はしていない)。ロシア貴族で青年士官のアンドレイは、ロシア軍とナポレオン率いるフランス軍との〈アウステルリッツの戦い〉に臨み、敵弾に撃たれ仰向けに倒れる。そこで彼が見たのは高い空だった。そして次のように思う。

なんて静かで、落ち着いていて、おごそかなんだろう。おれが走っていたのとはまるで違う。

おれたちが走り、わめき、取っ組み合っていたのとはまるで違う。憎しみのこもった、怯えた顔で、フランス兵と砲兵が砲身清掃棒を奪い合っていたのとはまるで違うーまるで違って、この高い果てしない空を雲が流れている。どうしておれは今までこの高い空が見えなかったのだろう?そして、おれはなんて幸せなんだろう、やっとこれに気づいて、そうだ!すべて空虚だ、すべて偽りだ、この果てしない空以外は。何も、何もないんだ、この空以外は。いや、それさえもない、何もないんだ、静寂、平安以外は。ありがたいことに!、、

藤沼貴 訳/岩波文庫)

つまりアンドレイにとって空は神に等しい存在となった。これも「ヌミノース体験」と言えるだろう。

万葉集研究の第一人者で、新元号「令和」の考案者だと目される中西進は著書「万葉の秀歌」(ちくま学術文庫)において、御神酒(神前に供える。新海誠「君の名は。」の口噛み酒)を次のように説明する。

酒を飲むと、不思議な精神状態、すなわち「アソ」(ぼんやりした)なる状態になるので、神と人間との交流を可能にする陶酔と恍惚をつくりだすものとして、人々は酒を供えた。また音楽を奏してもアソになるので、これを神前に奏した。琴や鼓笛などの楽器は「あそぶ」もので、あそぶはアソなる状態になることであった。

つまり酒を飲んで「アソ」になるのはヌミノース体験そのものである。そして今回、小糸の演奏で聴いたバッハのオルガン音楽も「アソ」な気分に誘(いざな)ってくれた。特に「トッカータとフーガ ニ短調(ドリア調)」のクライマックスでは、閉じた瞳の中に眩い光のシャワーが放射状に降り注ぐのが見えたような錯覚に囚われた。僕はスティーブン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」で巨大なマザーシップ(≒曼荼羅)が降臨してくる場面を思い出した。

この演奏会はNHKによりテレビ収録されており、2020年3月13日(金)5:00よりBSプレミアム「クラシック倶楽部」で放送される予定。

遊びをせむとや生まれけむ
戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ


(梁塵秘抄:りょうじんひしょうー平安時代の流行歌)

 

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