深層心理学/構造人類学

百人一首から万葉・古今・新古今和歌集へ〜古代日本人の深層心理を探る旅

新元号が〈令和〉に決まった。「万葉集」に書かれた、梅花の宴(序文)に由来する。出典が国書であるのは史上初だという。〈令和〉で「万葉集」に注目が集まるのは大変結構なことだ。今まで全て中国古典出典だったというのが却って不思議な気すらする。

僕が今回、「万葉集」「古今集」「新古今集」に集中的に取り組もうと決意した理由は、これらを読めば古代日本人の心、深層心理が分かるんじゃないだろうかと考えたからである。例えば「古今集」に収録されているのは1,111首。紀貫之ら撰者4人の歌が全体の2割以上を占めるなど沢山選ばれている歌人もいるが、それでも何百人もの〈思い〉〈感情〉が集積している。そこから何らかの集合的無意識が浮かび上がってくる可能性もあるのではないか?

本稿を執筆するに当たり、読んだ本を挙げておく。

  • 最果タヒ「千年後の百人一首」(リトル・モア)
  • 最果タヒ「百人一首という感情」(リトル・モア)
  • 上野誠「はじめて楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)
  • 「万葉集 ビギナーズ・クラシック 日本の古典」(角川ソフィア文庫)
  • 「新版 古今和歌集 現代語訳付き」(角川ソフィア文庫)
  • 「新古今和歌集 ビギナーズ・クラシック 日本の古典」(角川ソフィア文庫)

いずれも解説・現代語訳付きでわかり易い。お勧め!

さて、「万葉集」より前の、最初期の和歌の話から始めよう。〈難波津(なにわづ)の歌〉である。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

末次由紀による漫画「ちはやふる」でも描かれている通り、競技かるたにおいては競技開始時に〈難波津の歌〉を詠むことが通例となっている。百人一首には入っていない。大阪市はこの歌にちなみ〈咲くやこの花館〉や〈咲くやこの花賞〉を設立している。王仁の作とされ、「古今和歌集」の仮名序で、字を習う人が最初に書くものとして紹介されている。仁徳天皇が即位したことを祝ったものと言われており、4世紀末から5世紀初頭の作品と推定される。

和歌は5-7-5-7-7というたった31文字で表現しなければならないのに、そのうち〈咲くやこの花〉という7文字(全体の23%)を繰り返している。何という無駄!「繰り返しのリズムが心地よい」などという戯言は聞きたくない。ハッキリ言う。単純で稚拙である。では、ここから出発した和歌は後にどのような進化を遂げたのだろう?

扱われた素材を見てみよう。4,500首以上ある「万葉集」(759年以降に成立)でが詠まれたのは41首。全体の1%にも満たない。花の中で一番多く詠まれたのがで141首、続いての116首、第3位が橘・花橘の107首。は植物の中で第10位なのだという(群馬県立女子大・北川和秀教授の集計に基づく)。これが905年に成立した「古今和歌集」になると(春歌全133首のうち)が18首に対して、が70首と逆転し、圧倒した(ほぼ4倍)。つまり和歌で「花」といえば「桜」を指すという常識が成立したのは平安時代以降なのである。余談だが現代人が「桜」で真っ先に連想するのはソメイヨシノ(染井吉野)だが、これは江戸時代中期ー末期に園芸品として生み出された交配種である。和歌で詠まれる「桜」は吉野山などに咲く山桜と考えるべきだろう。

「万葉集」は全て漢文で書かれており、中国文化の影響が色濃い。だからが好まれた。そして仮名文字が登場する「古今和歌集」成立まで約150年が経過する間に日本人の美意識は確立され、歌に詠まれる対象(花)も独自の素材としてに移行した(838年を最後に遣唐使が廃止されたことも大きいだろう)。と同時に薫物(たきもの)、(こう)の文化が発展した。奈良時代には主に宗教儀式で用いられたが、平安時代になると貴族たちが家伝の秘法に従って練香を作り、これを披露し合う〈薫物合わせ〉を愉しむようになった。は「古今集」のみならず「源氏物語」でも重要な役割を果たすことになる。また同じ自然現象を〈春ー霞〉〈秋ー霧〉と明確に区別するようになったのも「古今集」からで、「万葉集」では混用されている。ここにも繊細な美意識の萌芽が認められる。

なおは8世紀(飛鳥〜奈良時代)に遣唐使によって中国から持ち込まれた外来種である。「古事記」や「日本書紀」には一切、に関する記述がない。一方、山桜は古来からある自生種である。

奈良時代→平安時代の文化の変遷は1868年の明治維新から、約150年を経た現代までの変化に非常に似た状況であると言えよう。江戸時代の鎖国を経て明治時代は一気に西洋文化が日本に流入した。「欧米諸国に追いつけ追い越せ!」とばかり〈富国強兵〉が叫ばれた。それは〈猿真似の時代〉でもあった。しかし第二次世界大戦後、手塚治虫の出現とともに漫画文化が栄え、スタジオジブリの宮崎駿らが牽引した日本のアニメーションが今や世界を席巻した。プレイステーションやNintendo Switch、ポケットモンスターなどゲームソフトでも他国の追随を許さない。歴史は繰り返すのである。

和歌の話に戻ろう。

「万葉集」の特徴は素朴であること。例えば次の歌だ。

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

身も蓋もない言い方をすれば「見たままやん!」とツッコミを入れたくもなる。何のひねりもない。後者の〈にほふ〉は嗅覚じゃないかという反論があるやも知れぬが、古語でこの言葉は〈美しく咲く/美しく映える/美しさがあふれている〉という意味もある。

〈掛詞(かけことば)〉は「万葉集」にごく少数しか認めない。これが盛んになったのは「古今和歌集」から。〈掛詞〉はダブル・ミーニング(double meaning)であり、僕は「これってダジャレと同じじゃね?」と思った。古代日本人も現代の我々同様、ダジャレが大好きだったのだ。何だか親しみが湧いた。

「万葉集」から「古今和歌集」に移行すると、仮構性が強くなる。想像上の美の世界、ヴァーチャル・リアリティだ。「百人一首」にも選ばれた次の歌が代表例だろう。

心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

「初霜」と「菊」がどちらも真っ白なので、折ろうとしても見分けがつかないというのだ。そんなことってあり得る!?同じ作者(凡河内躬恒)の歌で、月明かりの白さと梅の白さが紛れて見えない(だから匂いで梅の花のある場所を察知するしかない)というのもある。

月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞしるべかりける

「んなあほな!」ツッコミどころ満載である。明治時代になって正岡子規が「歌よみに与ふる書」で「古今集」を徹底批判した気持ちが分からなくもない(「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と子規は記している)。

確かに花も実もある絵空事ではある。しかし一方で、僕はフィクションとしての面白さ、嘘から出たまこともあると思うのだ。凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌は、例えばフランス印象派のドビュッシーが作曲したピアノ曲「月の光」や歌劇「ペレアスとメリザンド」を想起させる。自然ではないが、人間が構築した完全なる美の世界がここにある。

〈本歌取り〉が盛んになるのは鎌倉時代初期、1205年に成立した「新古今和歌集」の時代になってからである。「古今和歌集」からさらに300年が経過している(「万葉集」から約450年)。「新古今」まで行くと、超絶技巧というか、余りにも人工的で僕にはToo much !と感じられる。貴族文化が成熟し、熟れ過ぎて腐りかけた状態。正にデカダンスである。「新古今」を読みながら僕が連想したのは、形式が肥大化し瓦解寸前のグスタフ・マーラーの交響曲や、ルキノ・ヴィスコンティ監督(イタリア貴族の末裔)の映画「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」「家族の肖像」などである。〈本歌取り〉は元の歌を知らないと意味を成さない。つまり高い教養が問われる。また当時は歌会が盛んで「お題」を出されて詠まれた歌が多く、その多くが実体験に基づかない男が女の気持になって詠んだものもある。何だそれ!?ここまで来ると単なるお遊び、ゲームだ。だから武士の台頭とともに和歌や貴族文化が滅びるのは必然だったという気が僕にはするのである。朴訥な「万葉集」と爛熟した「新古今」、その中間の程よい匙加減が「古今集」というのが率直な印象である。

三島由紀夫は「日本文学小史」の中で次のように述べている。

 われわれの文学史は、古今和歌集にいたつて、日本語といふものの完熟を成就した。文化の時計はそのやうにして、 あきらかな亭午(ていご:真昼)を斥す(=指す)のだ。ここにあるのは、すべて白昼、未熟も頽廃(たいはい)も知らぬ完全な均衡の勝利である。 日本語といふ悍馬(かんば:あばれうま)は制せられて、だく足も並足も思ひのままの、自在で優美な馬になつた。調教されつくしたものの美しさが、なほ力としての美しさを内包してゐるとき、それをわれわれは本当の意味の古典美と呼ぶことができる。 制御された力は芸術においては実に稀にしか見られない。

ここで三島の言う〈未熟〉=「万葉集」であり、〈頽廃〉=「新古今和歌集」であることは論を俟たない。僕は三島の意見に全面的に賛成である。

「万葉集」では鳥の中でホトトギスが最も多く詠まれた。一説では156首、二番目に多い雁が63 首とされる(ホトトギスが153首、雁が67首とする説もある)。ただここで注意すべきは「万葉集」の時代、ホトトギスとカッコウは混同されていた可能性があるのだ。少なくとも平安時代において、カッコウは文学に全く登場しない。現代において「郭公」という漢字はホトトギスとカッコウという二つの読み(意味)があるが、古典ではホトトギスという読みしかなかった。実は生物学上も両者はカッコウ目カッコウ科の鳥に分類されており、案外近い存在なのである。ホトトギスの声は田植えを始める時期を知らせるということで「時鳥」という異名も与えられ、冥界を往来するというイメージまで付与された。

中国の故事を紐解くと長江流域に蜀という傾いた国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して君主になった。杜宇が死ぬとその霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため飛んで来て鋭く鳴くようになったという。故に「杜宇」はホトトギスの異名となった。

ホトトギスとカッコウには托卵(ホトトギスは鶯の巣に卵を生む)という共通する生態があり、その他ホトトギスの習性として、夜に鳴くこと、雨の日にも鳴くこと、一ヶ所に留まらず飛び回りながら鳴くこと、そのため姿が見えないことなどが挙げられる。またホトトギスの口中は朱色なので、〈鳴いて血を吐く〉とも言われた。結核を病み、喀血した正岡子規の雅号「子規」もホトトギスの異名であり、「死期」を連想させる。

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おそらく冥界との繋りは、こうした生態に由来する発想なのだろう。常にこの世にいるわけではないので、子育ても他の鳥に委託するわけだ(ホトトギスの托卵は万葉人も知っていた)。

また鶯は谷の古巣で春を待つものとされた。

次に季節を見てみよう。「古今和歌集」で詠まれた内訳は以下の通り。

春:134首、夏:34首、秋:145首、冬:29首

つまり春≒秋、は夏≒冬と比較して約4〜5倍多く詠まれていることが判る。

なぜ秋が最も多いのか?秋は枯れ葉が舞い落ち、〈(夏)〉から〈(冬)〉への〈移行期〉〈境界域〉に立つ季節。だから「寂しい」という気持ちが掻き立てられ、「もののあはれ」にしみじみ感じ入る。例えば冬、雪が降り積もったスキー場やクリスマス商戦で賑わう12月の街角で「寂しさ」は感じないでしょう?既ににどっぷりと〈死の世界〉に足を踏み入れているから完了した状況であって、変化しつつある運動性を欠くのだ。故に心は動かない。逆に春は〈死〉から〈生〉への移行期なのでやはり「もののあはれ」がある。さらに散りゆくの花びらが〈生〉から〈死〉へ移行するメタファーとなる。

詠まれた時刻を見ると、真昼よりも夕刻(黄昏=誰そ彼/アニメ映画「君の名は。」における〈かたわれ時〉)・夜・明方が圧倒的に多い。夕刻や明方は昼(動)↔夜(静)の〈移行期〉〈境界域〉であり、そこに「もののあはれ」「幽玄」が潜む。明方(しののめ)は通い婚だった当時において、男女が一夜を共にした翌朝の別離=〈後朝(きぬぎぬ)の別れ〉を意味しており、より一層切なさを増す。また夜は月の満ち欠けが「無常(生滅変転して片時も同じ状態に留まらないこと)」「哀愁」に結びつく。

最後に。「拾遺和歌集」に収録された、紀貫之の辞世の歌とされるものを見てみよう。

手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ

下の句は、「はかない人生/世の中であった」と解釈されることが多いようだが、僕は寧ろ「手に取ることが出来ない不確かな、夢のような人生であった」と積極的・肯定的に受け止めたい。それはアボリジニ(オーストラリア先住民)の概念〈ドリームタイム〉に繋がってゆく。 

紀貫之には「古今和歌集」に載った、次のような歌もなる。
            あひしれりける人の、身まかりにける時によめる
夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな
(この世は、夢とこそ言うべきであったのだ。私を取り巻く世界には確かな現実があるものだと思っていたのだがなぁ)
夢の時ドリームタイム)とこの世の〈境界域〉に、和歌は息づいている。

今回の体験を通して、僕は次に向かうべきターゲットを絞った。紫式部「源氏物語」である。そして遂に大伽藍に足を踏み入れたところである(角田光代 訳)。いずれ超大作「源氏物語」を言祝(ことほ)ぐ日も来よう。乞うご期待。

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【考察】日本人は何故、CDを買い続けるのか? 〜その深層心理に迫る

外部記事で次のようなものがある。

つまり現在、日本はCDが世界で一番売れている国なのだ。他の国は全て音楽ストリーミング配信を聴くか、iTunesなどダウンロードに完全移行している。

正にガラパゴス化である。どうしてこんな珍妙奇異な現象が我が国だけで起こっているのだろう?

ここで議論の混乱を避けるため、現象を2つに分ける必要がある。①AKB48や坂道グループのCDの売上げ②それ以外 である。①の理由は明白。CD購入は音楽を聴くためではなく、「握手券」や「”総選挙”の投票用紙」としての価値に置き換えられている。いわゆる「AKB商法」だ。ファンは同じCDを大量に買い、封入された「握手券」だけを抜き取って後は捨てる。

僕が注目したいのは②の方。「握手券」「チェキ券」「CDお渡し会参加券引き換えチケット」など付加価値・特典がないCDを日本人が未だに買い続けるのは何故なのか?そこにはどのような心理的要因が働いているのであろう。

クラシック音楽CDを買い続けている人のブログやtwitterの投稿を読むと、どうやらその理由は次の2つに集約されるようだ。①配信よりもCDの方が高音質である。②(空気や振動のように実体がない)音楽を物質(もの)として所有していないと、どうも心もとない。安心出来ない。

そこでまず①について検証してみた。僕が持っているクラシック音楽CDと、同じ音源をデジタル音楽配信サービスSpotifyで聴き比べるブラインド・テストを行った。試聴機はTechnicsのハイレゾ対応一体型ステレオシステムOTTAVA f SC-C70である。被験者は複数人参加してもらった。そしてCDに対してSpotifyの音質に遜色はなく、むしろ音源によってはSpotifyの方が勝っているという結論に達した。これはクラシック音楽専門配信サービスNAXOS Music Libraray(NML)も同様である。

そもそも音質にこだわるならばハイレゾ(High Resolution)音源をダウンロードすれば良いだけのこと。CDを圧倒的に上回る情報量を持っており、その音質は最早新次元である。ピアソラ(バンドネオン)の「ライヴ・イン・ウィーン」をハイレゾで購入したが、目の前で本人が演奏していると錯覚するくらいの〈生音〉に驚愕した。ビル・エヴァンスの音源も、まるで僕自身がヴィレッジ・ヴァンガード(マンハッタンにあるジャズクラブ)でグラス片手に彼のピアノを聴いているような臨場感がある。つまり①は、なんの根拠もない風評・幻想に過ぎない。

②は悪く言えば〈物欲〉、よく言えば〈ものを大切にする心〉なのだが、その根底には付喪(つくも)神〉が無意識のうちに存在しているのではないかと僕は考える。つまり〈(実体のある)CDには音楽の神様が宿っている〉という土着信仰である。

付喪(つくも)神〉とは、日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿ったものである。 荒ぶれば禍をもたらし、和(な)ぎれば幸をもたらすとされる。〈九十九神〉とも書き、「長い時間」「多種多様な万物」という意味合いを含んでいる。

〈つくも〉とは元々〈つつも(次百)〉であったと言われている。古語で、ものの満ち足らないことを意味する〈つつ〉に、百を意味する〈も〉を加えることで、「百に一足りない」という意味になっている。

〈つつも〉から〈つくも〉に転訛(なまった)のは平安初期に成立した「伊勢物語」からとされており、主人公である在五中将(=在原業平)が、老いてもなお色恋を求め自分(業平)の家に来て覗き見する老婆を詠んだ歌に登場する。

百年(もゝとせ)に 一年(ひとゝせ)たらぬ つくも髪 我を恋ふらし 面影にみゆ
(百歳に一年足りない白髪の老婆が私を恋しく思っているらしい。まぼろしになって見える。)

つまり〈九十九(つくも)〉とは白髪のことを指す。この時既に魑魅魍魎・山姥のイメージが重ねられている。余談だが、埼玉県には女性の長い髪を御神体とする「毛長(けなが)神社」がある。詳細はこちら

九十九髪〉という言葉が〈付喪神〉に転じたのは室町時代と言われており、「伊勢物語抄」では百鬼夜行のこととされる。

かの有名な妖刀〈村正〉伝説も付喪神〉である。(映画化・テレビドラマ化・宝塚歌劇で舞台化もされた)藤沢周平の小説「蝉しぐれ」には〈秘剣村雨〉なんて妖刀が出てくるし、ゲーム・アニメ・2.5次元ミュージカルなどで大人気「刀剣乱舞」の刀剣男士は全員付喪神〉である。日本人はこういうのが大好物なのだ。

ニニギノミコトが日本を統治するために天から舞い降りるとき、天照大神(アマテラスオオミカミ)から託された鏡・剣・勾玉を〈三種の神器〉という。うち〈草薙剣〉は名古屋にある熱田神社の御神体となっている。

また奈良県にある石上神社の御神体である〈布都御魂(ふつのみたま)〉は日本神話に現れる建御雷命(タケミカヅチノミコト)の所有していた霊剣で、命(ミコト)の分身とされる。

一方、欧米諸国に目を転じると自由意志を持った〈付喪神〉に該当するものはほぼ皆無である。強いて挙げるなら、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場するトネリコの樹に刺さったノートゥング(剣)や、アーサー王伝説に登場するエクスカリバーくらいだろう。エクスカリバーは石に刺さった剣で、それを引く抜くことがアーサー王の血筋の証明となる。ノートゥングの役割も全く同じ。つまり〈剣=神〉ではなく、それを所有する者が英雄(あるいは王位継承者)であることを認証するための道具に過ぎない。「ハリー・ポッター」シリーズでホグワーツ魔法学校入学時に、生徒たちが入る寮を決める〈組分け帽子〉みたいなものだ。

日本では石や岩も御神体になっている。京都・伏見稲荷の境内社である「御剱社(みつるぎしゃ)」や、群馬県の「榛名(はるな)神社」、三重県の「花の窟(はなのいわや)神社」がそれに該当する。

無機物を神と見做す思想は、オーストラリアの先住民アボリジニの神話にも見られる。彼らの言う〈ドリームタイム〉に登場する先祖は、岩や石に变化(へんげ Metamorphose)する。嘗ては「エアーズロック」と呼ばれた、オーストラリア大陸にある一枚岩「ウルル」も、彼らの先祖(神)そのものである。故に「ウルル」は2019年10月26日から観光客向けの登山が禁止となる。

Uluru

それから、次に語ることは日本人に限ったことではないが、「映画は映画館で観るべきだ」と主張する人々が少なからずいる。スティーヴン・スピルバーグ監督もその一人で、Netflixなど配信サービスの映画がアカデミー賞を受賞するのは相応しくないと強硬に反対の姿勢を貫いている。フィルムで撮っていた時代なら僕も意義を認めるが、現在はデジタル撮影/デジタル上映が殆ど。理性的に判断すれば、映画館で観るメリットは皆無だろう。

結局、上記の人々は潜在意識の中で映画館の暗闇を〈映画の神様が降臨する社(やしろ)/教会〉のような場所として神聖視しているのではないだろうか?こうなると理屈ではなく最早宗教であり、彼らを説得し、翻意を促すことは極めて困難である。実に厄介な話だ。

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虹についての考察(万葉集から能「道成寺」、LGBTまで)

まずは大前提として下記事をご一読ください。

更に出来得ることなら、次も併せて目を通して戴ければありがたい。

アボリジニ(オーストラリア先住民)の神話と、そこにしばしば登場する〈虹蛇〉について書いた。

概要を述べる。アボリジニの概念〈ドリームタイム〉には守り神のような存在〈虹蛇〉が棲み、両性具有水を司る。鎌首をもたげた蛇の姿と虹の足が重ねられたイメージ。蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在である。

古代中国人も虹と蛇を結びつけて思考していた。「虹」という漢字の虫偏(むしへん)は大蛇/龍を意味する。漢文で書かれた「万葉集」が編纂され、漢文学が隆盛を極めた古代日本(7世紀〜8世紀)の人々もその概念を共有していた。平仮名が公的な文書に現れるのは905年に完成した「古今和歌集」からである。

では蛇は男性と考えられたのか?女性なのか?古代人の思考は昔話に顕現する。「蛇女房」と「蛇婿入り」という、どちらも人間と結婚する噺がある。つまり古代日本における蛇のイメージもアボリジニ神話と同様、両性具有と考えられる。一方、「鶴女房(鶴の恩返し)」はあるが、鶴が人間の男として現れる噺は聞かない。鶴は女性原理の象徴なのだ。

「蛇女房」はこんな噺だ。出産時に夫が「見るなのタブー」を破ったため蛇の正体がばれ、夫婦は一緒に暮らせなくなる。女房は別離の際、子供に乳代わりにしゃぶらせるよう自分の眼を与えるが、不思議な玉の評判が広まり、殿様に取り上げられてしまう。ここから2つのパターンの類話に分かれる。①困った夫は池に女房を探しに行き、彼女はもう片方の眼も与えて盲目となってしまう。時と方向が判らなくなると困るからと言い、蛇は夫に朝と晩に鐘を鳴らしてくれるよう頼む。②殿様の横暴に怒った蛇は洪水を起こし、城ごと押し流してしまう。

ここからはっきりと分かるのは【①蛇と寺の鐘の密接な結び付き②蛇は水を司る】ということである。

次に「今昔物語集」に書かれた〈安珍・清姫伝説〉を見てみよう。熊野に参詣に来た美形の僧・安珍を見て清姫は一目惚れし、言い寄る。修行の身ゆえ、困った安珍は清姫を騙して逃げる。清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。道成寺に逃げ込んだ安珍は梵鐘を下ろしてもらい、その中に潜む。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。遂に安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。

ここでも蛇と寺の鐘が結びついている。そして蛇と水の親和性も語られる。〈安珍・清姫伝説〉は後に能「道成寺」に変換された。寺の鐘は形態的に女性の子宮に似ており、そこに閉じこもる〈安珍・清姫伝説〉は胎内回帰願望と読み解くことも可能だろう。アボリジニ神話において、虹蛇に母子が呑み込まれる物語に類似している(レヴィ=ストロース著「野生の思考」に紹介されている)。

安珍・清姫伝説〉には続きがあり、蛇道に転生したふたりはその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。また能「道成寺」では死んだ清姫が白拍子の姿に変化(へんげ Metamorphose)し、再び寺を訪ね舞を舞う。アボリジニ神話の母子もその後、虹蛇に吐き出され生き返る。両者は死と再生というテーマで繋がっている。

こうして見ていくと、オーストラリアのアボリジニ・古代中国・古代日本を結ぶ〈虹=蛇〉という概念は、ユング心理学における元型のひとつ、太母(the Great Mother)に相当すると考えられる。

Jungsmodel

上図はユングによる「心」の構造である。中心に自己(SELF)があり、それを取り巻く円の内側(深層)が集合的無意識Collective unconscious=Cの世界)。A元型(Archetype)で、アニマ(男性の思い描く理想的女性像)、アニムス(女性が思い描く理想的男性像)、太母(the Great Mother)、老賢人(the Wise Old Man)等が該当する。その外側に個人的無意識(Personal unconscious)が存在し、心的複合体=感情複合(Complex)を内包する。その代表例がフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスだ。さらに「心」の表層に意識(Consciousness)があり、自我(EGO)が配置されている。

太母(the Great Mother)とは、子を慈しみ、優しく包み込むのような存在であると同時に、牙を向き人々に襲いかかり、すべてを呑み込む山姥のような姿として立ち現れることもある。安珍に襲いかかり焼き尽くす清姫や、殿様の狼藉に怒り川を氾濫させ、洪水で城下町を呑み込む蛇女房の姿は、正に太母(the Great Mother)そのものである。

虹=蛇〉は母であると同時に父でもある。蛇の頭部は男根を想起させる。両性具有の性質を象徴するのが〈〉だ。フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南北アメリカ先住民の神話を研究した「神話論理」において〈〉を「半音階的なもの」と呼んだ。つまりある音から、別の音に、段階的(微分)変化を経て移行することを意味する。具体的にはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」やラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」に顕著な手法である。

父性原理で思考する欧米の人たち(キリスト教徒)は全てのことを〈2項対立〉に分けて、切断する。正義か悪か、YesかNoか、男か女か。その中間項は一切認めない。いわゆる近代ヨーロッパにおける合理主義である。0か1かの二進法で計算するコンピューターの原理も同じ。だからキリスト教社会において同性愛者は差別され続けてきた。しかし日本など母性社会では違う。

ここでLGBTと虹の関係について述べよう。LGBTとは、「Lesbian」(レズビアン、女性同性愛者)、「Gay」(ゲイ、男性同性愛者)、「Bisexual」(バイセクシュアル、両性愛者)、「Transgender」(トランスジェンダー、性別違和を含む性別越境者)の頭文字をとった言葉で、Sexual Minority(性的少数者)の総称。そのシンボルとなっているのがレインボーフラッグである。1970年代から使用されているという。

Flagsvg

何故〈虹の旗〉なのか?

それは性別を男か女か、2つに分けて切断するのではなく、その移行段階グラデーション)、境界域に位置する人々を(排除せず)認めて欲しいという主張であり、多様性(Diversity)を象徴している。

今年のグラミー賞も、アカデミー賞も多様性(Diversity)が大きなテーマとして掲げられた。これが現在、世界を取り巻く潮流である。いま欧米社会は、失ってしまった〈野生の思考〉を取り戻そうと、必死に藻掻いている。

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

Ouro

蛇は円環を形成し、始まりもなく終わりもない。過去・現在・未来は同時にここにある共時的(対義語は通時的)表象であるウロボロスはアボリジニの概念〈ドリームタイム〉と同義である。

中国では新石器時代の紅山文化(紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)にウロボロスが現れている。

Kure

これぞ正に集合的無意識(Cの世界)・〈野生の思考〉の産物と言えるだろう。

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月夜に冴え渡る奇想〜映画「ファースト・マン」と〈セカイ系〉

評価:A+ 公式サイトはこちら

Man

僕は天才デイミアン・チャゼルが大好きだ。

以前からチャゼルは〈セカイ系〉映画監督と言われていた。〈セカイ系〉とは元々、新海誠監督が2002年にアニメ「ほしのこえ」でデビューした頃に生まれた言葉だ。【主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと】(Wikipediaより引用)であり、「君の名は。」も典型的〈セカイ系〉である。

で「ファースト・マン」を観た率直な感想は、「これって完全に〈セカイ系〉の話じゃん!?」だった。月に立つという「人類の偉業」「英雄譚」が、〈きみとぼくの距離〉という小さな物語に収束していく。言うまでもなく、ぼく=ニール・アームストロング/きみ=妻ジャネットのことだ。映画の最後、ふたりはガラス一枚を隔てて向かい合う。そこで「果たしてふたりの距離は近いのか?遠いのか?」という問いが観客に突きつけられる。映画「ラ・ラ・ランド」も同様の幕切れだった。チャゼルの「セッション」「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」はいずれも〈ふたりの世界〉を描いている。ふたり以外の登場人物は所詮、背景・書き割りに過ぎない。アポロ11号の搭乗員(他2名)も同様。なお、後にニールとジャネットは離婚する。

新海誠の全作品も〈きみとぼくの距離〉がテーマであり(距離=空間と時間)、「君の名は。」のラストシーンもふたりが向かい合っている。

あと「ファースト・マン」の奇想にあっと驚かされたのは、間違いなく本作の中でニール・アームストロングは「月に行けば(小児がんで亡くなった)娘に逢える」と信じているんだよね。いやいや、この際史実がどうだったかなんて問題じゃない。事実、月面着陸した場面で、娘との想い出が8mm(16mm?)フィルムで彼の脳内に再生されるのだ。な、なんてな映画なんだ!ある意味〈電波系〉〈とんでも〉と言える。でもだからこそ僕の大好物。で僕が想起したのが「ラ・ラ・ランド」でミアが歌う"Audition"の歌詞。

A bit of madness is key
to give us new colors to see

ちょっとした狂気が鍵なの
それが私たちに新しい色彩を見せてくれる

いやはや、「ファースト・マン」も十分狂っている。

本作で月は完全にメタファーとして存在している。

【解釈①】月=黄泉の国:ギリシャ神話でオルフェウスが死んだ妻エウリディケを連れ戻すために冥界に下る。日本神話におけるイザナギとイザナミの物語と同じ。つまりここでも「君の名は。」に繋がっている。

【解釈②】月=ユング心理学における集合的無意識(Collective unconscious):アニメ「コードギアス」シリーズではCの世界と呼ばれ、そこでは死者とも再会出来ることになっている。

日本で月はしばしば和歌に詠まれた。だから集合的無意識のシンボルと言える。そういえば「君の名は。」でも、月の満ち欠けが重要な意味を帯びていた。

【解釈③】月=死んだ娘が生前見たの世界:ユング心理学では個人的無意識なので、それは集合的無意識Cの世界)へ繋がっている。

Mu

ここでフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが彼の著書「シネマ」で、ミュージカル映画「巴里のアメリカ人」「恋の手ほどき」を撮ったヴィンセント・ミネリ監督について論じた一節を引用しよう。

ダンスはもはや世界を描く夢の運動ではなく、みずからを深め、ますます激しくなり、別の世界へと入るための唯一の方法となる。その別の世界とは、ある他者の世界、ある他者の夢あるいは過去なのである。(中略)ミネリにおいてミュージカルは、かつてないほど記憶の、夢の、時間の謎に近づいた。現実的なものと想像的なものとの識別不可能な点に近づくようにして。それは夢についての奇妙で魅惑的な着想であり、夢はある他者の夢につねにかかわっていればいるからこそ、あるいは傑作『ボヴァリー夫人』におけるように、夢そのものが、人を貪り食う仮借ない力能を、みずからの現実の主体として構成しているからこそ、折り込まれた夢である。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

つまり、ミネリは〈他者の夢の中に入っていく〉という着想に取り憑かれていた。それはデイミアン・チャゼルの描く世界にもすっぽり当てはまる。「ラ・ラ・ランド」にはミネリが監督した「巴里のアメリカ人」や「バンド・ワゴン」へのオマージュが溢れている。そしてヒロイン・ミアは最後に他者の夢=ハリウッド映画(もっと具体的に言えば「カサブランカ」)の世界(ラ・ラ・ランド)に呑み込まれて、そこから抜け出せなくなってしまうのだ。

「ファースト・マン」の主人公もまた、娘の夢の中に入ってゆく。それを象徴するのがラストシーンでニールとジャネットの間を隔てる一枚のガラスだ。

だからアポロ11号の打ち上げシーンが余りにも哀しく、ニールが不憫で、僕は不覚にも泣いてしまった。

「ファースト・マン」は音響設計が素晴らしい。がたがた揺れるネジの音、宇宙船の軋み。閉所恐怖症の人には耐え難い体験となるだろう。この部門でアカデミー賞をあげて欲しかった!

あと映画ファンには数々のお楽しみが用意されている。まず冒頭、X-15の飛行実験帰還後にニールはチャック・イエーガーに遭遇する。みんな大好き「ライトスタッフ」への目配せだ。また中盤、ジェミニ8号のドッキング・シーンで音楽が優雅なワルツに変わるのは勿論、「2001年宇宙の旅」(ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」)へのオマージュである。

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【考察】何故、虹を詠んだ和歌は希少なのか?

神戸生まれの詩人・最果タヒの著書「千年後の百人一首」「百人一首という感情」に続いて現在、「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」を読み進めているところである。若い頃の僕は完全に理系人間だったので、自分が将来古文に親しむようになろうとは夢にも思わなかった。人生先のことは分からないものである。

そもそも百人一首に興味を持ったのは広瀬すず主演の映画「ちはやふる」三部作のおかげ。だから原作漫画を書いた末次由紀には感謝しなければならない。また「万葉集」や「古今和歌集」を読みたいと思ったのはアニメーション映画「言の葉の庭」「君の名は。」を観たことが切掛なので、ただただ新海誠監督に感謝あるのみ。映画って本当に素晴らしい。

百人一首を一通り読んで激しい違和感を覚えた。〉を詠んだ歌が一首もないのである。

7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた「万葉集」(全部で四千五百首以上ある)で〈〉を詠んだものは、次のたった一首しかない。群馬県の歌である。

伊香保〈いかほ〉ろの 八尺〈やさか〉のゐでに 立つ虹〈のじ〉の あらはろまでも さ寝をさ寝てば
(榛名山麓にある高い堤に立つ虹のように、人目につくほどあなたと共寝さえできれば、なにも悔いることはない)

これ以降は、「玉葉和歌集」に収録された藤原定家(1162-1241)の、

むら雲の 絶え間の空に 虹たちて 時雨過ぎぬる をちの山の端

あたりまで、ほぼ皆無である。なんとこの間、五百年も経過している。

〉は儚く、美しいのに、何故和歌の素材として忌避されるのか?ここにはきっと何か、重大な秘密が隠されている筈である。ぞわぞわした。その理由を探求する過程で、〈古代人の心〉つまり古来日本人の持つ無意識・深層心理が見えてくるのではないか?僕はそう考えた。

最初に立てた仮説は、「古代人はあまり虹を見る機会がなかったんじゃないか?」というものだった。雨があがり、日光が差し込んできた瞬間に虹は生まれる。狩猟民族なら虹を見る機会も多かろう。しかし日本人は農耕民族である。しかも着物だから濡れると厄介なので雨天時に出歩いたりしない。特に平安時代、和歌を読んだのはもっぱら天皇や貴族だったわけで、屋敷にこもった状態で虹に遭遇する機会など殆どなかったのではなかろうか?

しかし、どうも説得力に乏しい。もやもやした気持ちが残る。貴族だって〈野駆け〉(花見やもみじ狩りなど、山野を歩き回って遊ぶこと)をしたわけだし、天皇も〈行幸〉(外出)中に雨に降られることもあっただろう。滝にだって虹は出るし……

というわけで僕は答えを求めて、さらに調査を続けた。そして〈〉の語源を調べていて、衝撃的な事実を知った。

岩波書店の「広辞苑」ではについて次のように説明されている。

形声。「虫」(=へび)+音符「工」(=つらぬく)。にじを、空にかかる大蛇に見たててできた文字。

またWikipediaのの項には次のような説明がある。
「虹」を意味する漢字(虹、蜺、蝃、蝀)に虫偏が多く存在する点を見ても解る通り、中国語では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習が多い。

エエッ、これってアボリジニ(オーストラリアの先住民)神話にしばしば登場する虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)と全く同じ発想じゃないか!!青天の霹靂だった。

つまり古代中国人も、遠く離れたアボリジニも虹と蛇を同一視していた。正にフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースが言うところの〈野生の思考〉であり、ユング心理学における集合的無意識Collective unconscious:アニメ「コードギアス」シリーズではCの世界と呼ばれる)の産物以外の何物でもない。

「万葉集」は全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。この時代は中国文化の影響が大きく、天智(てんじ)天皇の近江朝(おうみちょう)には漢文学が隆盛をきわめた。

つまり古代日本人は、〈〉を結びつけて考える中国の概念を共有していたということになる。

古代において、蛇は禍福に強く関わっている存在だった。以下「民族大辞典」より日本各地での伝承をご紹介しよう。

「蛇が道を横切ると悪いことが起きる」(宮城県)
「蛇に道切りをされると、なにか持ち物を落とすから、蛇に道を横切られた時は歩退け」(奈良県吉野郡)
「蛇の夢を見れば験が悪い」(三重県四日市)
「蛇の夢を見れば、よくないことが起こるから、氏神様にお参りしなければならない」(長野県)

僕が住む兵庫県宝塚市には蛇神社がある。宝塚で幼少期を過ごした手塚治虫の漫画「モンモン山が泣いているよ」にこの蛇神社が登場する。

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蛇は水を司る。全国で信仰されている水神さまは大抵、蛇や龍(または河童)を祀っている。

つまり〈虹=蛇〉は干ばつ時にという恵みをもたらすが、時には人々に牙を向き、川の氾濫など洪水を引き起こす怖ろしい神(災厄)にもなり得る。

中国の神話に登場する四神(しじん)とは四方の神、すなわち

  • 東ー青龍(せいりゅう)
  • 西ー白虎(びゃっこ)
  • 南ー朱雀(すざく):火の象徴。鳳凰。
  • 北ー玄武(げんぶ):水神。カメの甲にが巻きついた形に表す。

を指す。やはり蛇が水神を表象している。江戸時代の祭りには「四神旗」が必ずといってよいほど使われ、落語「百川」でも言及される。

だから雅(みやび)で「もののあはれ」を表現する短歌の世界に、畏れ多い存在である〈虹=蛇〉が登場しないのは当たり前なのではないだろうか?こうして僕の疑問は氷解した。

ところが明治維新以降、突如として〉は和歌の世界に立ち現れる。

明治・大正・昭和を生きた与謝野晶子(1878-1942)の歌に次のようなものがある。

小百合さく 小草がなかに 君まてば 野末にほひて 虹あらはれぬ
とき髪を 若枝にからむ 風の西よ 二尺に足らぬ うつくしき虹
わが恋は 虹にもまして 美しき いなづまとこそ 似むと願ひぬ

晶子はこの他にも多数、を詠んでいる。

また昭和生まれの俵万智には幼子を見つめる母の想いを詠んだ、次のような美しい歌がある。

一生を見とどけられぬ寂しさに振り向きながらゆく虹の橋

つまり「万葉集」から千年以上経過し、虹=蛇〉という結びつきがすっかり忘却の彼方へ追いやられてしまった。そこへ明治以降、〈虹は美しい〉という新しい概念が欧米から輸入され、人々の意識に定着し、和歌の世界にも取り込まれた。そういうことなのではないだろうか?

映画「オズの魔法使い」でジュディ・ガーランドが歌った〈虹の彼方に(Over the Rainbow)〉こそ、欧米人の虹に対する見方を代表するものである。

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【考察】魔女とは何者か?〜リメイク版「サスペリア」を観る前に絶対知っておくべき2,3の事項(ユング心理学など)

評価:A 公式サイトはこちら

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ダリオ・アルジェント版「サスペリア」(1977)が公開された時、僕は小学生だった。だから当然映画館に行っていないが、「決して、ひとりでは見ないでください」というキャッチコピーが流行り、子どもたちの間でも大いに話題になった。ループするゴブリンの音楽も心底怖かった。

アカデミー作品賞にノミネートされた「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督による41年ぶりのリメイク版も同じコピーが用いられている。

アルジェント版は、上品に評すなら〈鮮血の美学〉ということになろう。しかし身も蓋もない言い方をすれば、可憐な処女たちが真っ赤な血に染まる光景を見て楽しむ〈悪趣味な見世物小屋映画〉である。現代では余り使われなくなった言葉だが、スプラッター映画の代表作と言える。そのルーツを辿ると19世紀末から20世紀半ばまでフランス・パリに存在した見世物小屋「グラン・ギニョール劇場」にたどり着く。日本だと江戸末期から明治時代にかけ流行った無惨絵が相当するだろう。

上映時間99分のアルジェント版に対し、リメイク版は152分。何と53分も長くなっている!実に1.5倍。凝りに凝った再創造で、高尚な、全くの別物(別ジャンル)に仕上がっている。レイヤー(層)が幾重にも重ねられ、一筋縄ではいかない。はっきり言って原典を超えたね。

舞台となるのはオリジナルと同じ1977年のベルリン。しかしアルジェントが無視した当時の西ドイツを取り巻く政治的状況ードイツ赤軍が引き起こした一連のテロ事件「ドイツの秋」ーが今回は丹念に描かれる。またバレエ学校で教えるのもトウシューズを履くクラシック・バレエから、裸足で踊るモダン・ダンスに変換されている。これは実在したドイツの振付師マリー・ヴィグマン(1886-1973)によるNEUE TANZ(ノイエ・タンツ)をベースにしている。彼女の代表作はズバリ〈魔女の踊り〉だ。

クラシック・バレエが目論むのは究極的に〈重力からの開放〉である。それは天空を目指し、一歩でも〈神=天国〉に近付こうとする。つまり背景にキリスト教がある。一方、新版「サスペリア」の舞踏はあくまでも大地に根ざし、地面に這いつくばろうと志す。ベクトルが間逆なのだ。僕は〈デュオニュソスの饗宴〉のイメージなのではないか?と感じた。キリスト教にとってデュオニソスは排斥すべき異教の神であり、哲学者ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中でディオニュソスを陶酔的・激情的芸術を象徴する神として、アポロンと対照的な存在と考えた。つまり次のような関係性がある。

  • クラシック・バレエ=アポロン的 ←対立→ NEUE TANZ〈魔女の踊り〉=ディオニュソス的

また大地に根ざしたディオニュソス的舞踏として、ストラヴィンスキーが作曲したバレエ音楽「春の祭典」が挙げられよう。ニジンスキー振付による1913年パリのシャンゼリゼ劇場での初演は阿鼻叫喚の大混乱に陥り、一大センセーションを巻き起こしたことは余りにも有名である(映画「シャネル&ストラヴィンスキー」で描かれた)。それは反キリスト的だったからだ。新版「サスペリア」の舞踏は「春の祭典」を彷彿とさせる。

オリジナル版「サスペリア」ではバレエ学校(=魔女の館)の校長エレナ・マルコスが〈嘆きの母 Mater Suspiriorum〉であることが明らかになり、やはりアルジェントが監督した映画「インフェルノ」には〈暗闇の母 Mater Tenebrarum〉、「サスペリア・テルザ 最後の魔女」には〈涙の母 Mater Lachrymarum〉が登場する。この三人の母は魔女の総元締め、ラスボスであり、シェイクスピア「マクベス」に登場する三人の魔女が原型だろう。彼女たちはキリスト教における三位一体=〈父(神)〉〈子(イエス)〉〈精霊〉と対になっている。またリメイク版「サスペリア」ではパトリシア、サラ、オルガという三位一体もある。

オリジナル版で「魔女」は邪悪な者、つまりキリスト教における悪魔(脱天使)として描かれていた。しかしリメイク版は違う。

リメイク版にはオリジナル・キャラクターとして心理学者ジョセフ・クレンペラー博士が登場する。言語学者でユダヤ系ドイツ人のヴィクトール・クレンペラー(1881-1960)がモデルである。彼は第二次世界大戦下をドイツ国内で生き抜き、「私は証言するーナチ時代の日記」を書いている。戦後は東ドイツの大学で教鞭をとった。有名な指揮者オットー・クレンペラーは従兄弟にあたる。因みにオットーはナチス政権が樹立された1933年にスイス経由でアメリカに亡命した。

ジョセフ・クレンペラー博士の部屋にカール・グスタフ・ユングの著書「転移の心理学」が置かれている。これ、非常に重要。書名を日本語字幕にちゃんと書き起こした松浦美奈の翻訳を称賛したい。彼女は作品の本質を深く理解している。

クレンペラー自身、戦争の混乱の中、生き別れになった妻アンケ(オリジナル版のヒロイン、ジェシカ・パーカーが演じる)に対して抱いている罪悪感を、無意識のうちに行方不明になった少女パトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)に投影している転移。またヒロイン・スージー(ダコタ・ジョンソン)は幼少期に母に虐待された記憶があり、彼女が抱く〈理想の母親像〉をマルコス・ダンス・カンパニーの振付師マダム・ブランに投影する転移。ラスボスのエレナ・マルコスが〈マザー〉と呼ばれるのも転移だ。マルコスは腐敗しつつある自らの肉体を捨て、若い娘の体を「器」として、魂を転移しようと画策する。

ここでユング心理学における〈(シャドウ)〉について述べたい。詳しくは河合隼雄(著)「の現象学」(講談社学術文庫)を読まれることをお勧めする。平易な文でサクサク読める。

ユングは〈(シャドウ)〉を「自分がなりたくないと思うもの」「苦手なものや生き方」と定義した。自分が自分の要素としては受け入れられなくて、無意識の中に抑え込み蓋をしたは消えてなくなってしまったわけではなく、しっかりと〈無意識〉の中に存在する。そしてある時、ひょんなことから〈〉が他者に投影される(転移)。河合隼雄は以下のように述べている。

 集団のの肩代わり現象として、いわゆる、いけにえの羊(scapegoat)の問題が生じてくる。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。つまり、集団内のをすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。(中略)

 ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる民衆の攻撃を避けようとして、外部のどこかにの肩代わりをさせることがよくある。ここでもすでに述べたような普遍的な影の投影が始まり、ある国民や、ある文化が悪そのものであるかのような錯覚を抱くようなことになってくる。 
    〈河合隼雄「影の現象学」より〉

9・11同時多発テロの翌年、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)がイラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」と決めつけたのも影の投影である。イラク戦争でアメリカは勝利したが、ブッシュ政権が主張した「大量破壊兵器」は結局、見つからなかった。所詮はまぼろし、イリュージョン影の投影)に過ぎなかったのだ。

魔女」とは何者か?それは一神教であるキリスト教がヨーロッパ大陸に浸透する前からあった土着の民間信仰である。しかしキリスト教は彼女たちを敵と見做し、「邪悪な者」として迫害した(魔女狩り)。すなわち影の投影である。いけにえの羊(scapegoat)ーナチス・ドイツがユダヤ人に対してした行為と同じ構造があり、リメイク版「サスペリア」はこの見地に立脚している。もの凄く高度なことを成し遂げている。

アメリカから来たヒロイン・スージーがキリスト教の一派、メイナイト教会からの逸脱者(異端)であるということも見逃せない。メノナイトから分派したのがアーミッシュで、アーミッシュについては映画「刑事ジョン・ブック 目撃者」をご覧あれ。メノナイトの人々はドイツからアメリカに渡った移民であり、ここにドイツ→北米→ベルリンという循環構造がある。

ルカ・グァダニーノ監督はゲイであることを公表している。カトリック教会において、ゲイは異端であり、排斥の対象である。だから自分の身の上をスージーに重ねている側面もあるのではないか?と感じた。

つまり本作には次のような等式が成立する。

ダンスカンパニー(魔女の巣窟)≒キリスト教団の反転/陰画(ネガ)≒ドイツ赤軍≒第三帝国(ナチス・ドイツ)≒フリーメイソン(大きな「目」や、上向き三角形と下向き三角形の結合がシンボル)

そして「組織は必ず教条主義に陥り、腐敗する」という信念が映画全体を貫いている。恐るべき作品である。

スージーの実家には次のような警句が額縁に入れられ、飾られている。

「母はあらゆる者の代わりにはなれるが、何者も母の代わりにはなれない」(A mother is a woman who can take the place of all others, but whose place no one else can take.)

つまり「母は影の投影転移)の対象にはならない」ということだ。最後まで観れば本作が「そして母になる」がテーマの映画であったことが判明するだろう。

オルガが鏡の間に閉じ込められ、拷問(?)を受ける場面は江戸川乱歩の怪奇小説「鏡地獄」を想い出した。なお、江戸川乱歩もゲイである。またホラー映画と見せかけて、最後は〈愛の物語〉に収束するという手法は、大林宣彦監督の「HOUSE ハウス」や「麗猫伝説」を彷彿とさせる。「HOUSE ハウス」は北米版Blu-ray,DVDが発売されており、イタリアでも上映された。ルカ・グァダニーノが観ている可能性は充分ある。そして驚くべきことに「HOUSE ハウス」の公開年はオリジナル版「サスペリア」と同じ1977年なのである!

俳優ではティルダ・スウィントンが圧倒的に素晴らしい。彼女を観るためだけにでも映画館に足を運ぶ価値がある。マダム・ブラン、クレンペラー博士(ルッツ・エバースドルフという偽名で)、そしてラスボスのマルコス(=嘆きの母??)の一人三役をこなしている。

イギリスの役者には「変装の名人」というカテゴリーがあり、その代表格がアレック・ギネス(初代オビ=ワン・ケノービ)、ピーター・セラーズ(クルーゾー警部)、そして現在はティルダ・スウィントンである。ギネスは日本人に化けたこともあり( "A Majority of One" )、彼がセラーズと共演した「マダムと泥棒」(1955)は両者が火花を散らし、実にスリリングだった(「名探偵登場」でも共演)。ティルダが男に変装するのはこれが初めてではなく、ヴァージニア・ウルフの小説を映画化した「オルランド」(1992)では男女の区別なく、転生を繰り返す主人公を演じた。

Suspiria

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百人一首と新海誠「君の名は。」

人生も半ばを過ぎて、最近しばしば〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉について考えるようになった。

 

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ポール・ゴーギャンがタヒチ島で描いた絵のタイトルである。 

 

そんな折、清川あさみ(絵)最果タヒ(著)「千年後の百人一首」を読んだ。最果タヒは兵庫県神戸市出身の詩人(32歳)。詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」は何と2017年に映画化され、キネマ旬報ベスト・テンの日本映画第1位に選ばれた。

 

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彼女が百人一首を現代語訳したというか、現代詩として再創造(re-creation)した書物と言っても良いかも知れない。巻末に簡潔な原文の解説があるのも嬉しい。

 

これを読むまでは、お恥ずかしながら上方落語に登場する「千早振る」と、「崇徳院」の〈瀬をはやみ……〉くらいしか知らなかった。

 

本を手にとったきっかけはRHYMSTER宇多丸がパーソナリティを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」 #アトロク に最果タヒが出演したのを聴いたこと。そもそも広瀬すず主演の映画「ちはやふる」三部作が大好きなので、百人一首に興味を惹かれていたのである。

 

 

 

小倉百人一首は平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた公家・藤原定家によって選定された。平安時代に台頭した武士貴族支配の世界を転覆せしめ、権力を掌握して古代を終焉させた時期に合致する。

 

武士(もののふ)は武装集団=軍人だから、当然ながら知性よりも肉体重視である。戦で勝利したものが「正義」になる。理屈もへったくれもない。つまり鎌倉幕府の成立は軍事国家が生まれたことを意味するわけで、天地がひっくり返ったと理解すべきだろう。マッチョな武家では体力的に劣る女性は男性より当然低く見られるわけで、男尊女卑社会である。だから以後、女流作家や歌詠みも鳴りを潜めた。しかし「源氏物語」や「枕草子」が生まれた平安時代はそうではなかった。

 

つまり現在では【武士道・侍=日本人の精神】のように言われるが、それは比較的近代の話であり、日本人古来の心のあり方は全く違うものだったのである。

 

 

 

百人一首を読んでまず気がつくのは、やたらめったら恋の歌が多いこと。調べたところ、なんと四十三首もある!恋愛至上主義。まるで新海誠監督のアニメーション映画みたいだと想った。

 

恋愛至上主義なのは、当時の平均寿命が30歳前後(男性33歳、女性27歳)だったことと無関係ではあるまい。「老境」とか「枯れる」とは無縁の世界だったのだ。

 

平安時代の男女は、なかなか会うことすら出来なかった。女性は御簾内に籠もり、姿を見せない。美女だと評判を聞いた男は何度も何度も手紙や和歌を交わし、そして漸く対面することが出来た。その形態は夜になると男が女のもとに通い、明け方に帰っていくというものであった。

 

 

 

新海誠が殆ど自分ひとりで創ったデビュー作「ほしのこえ」(2002)は地球と、はるか彼方の宇宙に引き離された男女が、携帯電話(当時のガラケー)のメールを交わす物語である音声ではない。正に和歌の世界ではないか。

 

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僕が死ぬほど好きな「秒速5センチメートル」(2007)では【東京↔栃木】【種子島↔栃木】に引き離された男女が手紙で文通する。ここでも音声は用いられない

 

そして爆発的大ヒットとなった「君の名は。」(2016)ではスマートフォンが大活躍するのだが、男女の連絡手段は交換日記であり、瀧が三葉に電話を掛けると通じない

 

つまり新海誠は話される言葉を信じていない人の心の想いを伝えられるのは書かれた言葉だけなのである。「君の名は。」で瀧が”すきだ”という気持ちを伝えるのも、口頭ではなく文字である。

 

Suki

 

「言の葉の庭」(2013)には古文の教師・雪野百香里が登場し、〈雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ〉という万葉集の短歌を言い残して高校生の主人公タカオと別れる。後日雨の日に再会した時にタカオは万葉集の返し歌 〈雷神の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば〉を口ずさむ。また「君の名は。」の発想の原点は古今和歌集に収録された小野小町の歌〈思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを〉であり、ユキちゃん先生(雪野百香里)も再登場する。

 

 

 

百人一首に戻ろう。女性歌人の作品は二十一首。当時は「男女共同参画社会」であった(内閣府のHPへ)。

 

」が詠まれたのは十二首ある(太陽は皆無)。

 

季節では、

 

    • 春:八首

 

    • 夏:四首

 

    • 秋:二十首

 

  • 冬:五首

 

秋が圧倒的に多い。また春(八首)のうち、桜を詠んだものが六首ある

 

時刻で見ると、

 

    • 夕方:四首

 

    • 夜を詠んだ歌:十五首

 

    • 明方:十一首

 

 

これらの総和は、昼を詠んだと考えられる二十三首を軽く上回っている。

 

 

 

撰者である定家の父・藤原俊成は宮廷歌人であり、第八十三首に選ばれている。そして「幽玄」や「あはれ」「艶」の美意識を提唱した。

 

もののあはれ」は無常観に立脚した哀愁に通じており、無常とは生滅変転して移り変わり、片時も同じ状態に留まらないことである。

 

幽玄」は無意識から意識へ、夢から形あるものに移行する時(境界)に立ち現れるものであり、アボリジニ(オーストラリア先住民)の概念〈ドリームタイム〉に近い。

 

 

 

百人一首で詠まれる夕方(「君の名は。」における〈かたわれ時〉)と明方は【昼↔夜】の境界域であり、「幽玄」「あはれ」が立ち現れる瞬間である。そして夜の「」には満ち欠けがあり、無常の象徴となる。

 

新海誠「君の名は。」のも重要な役割を果たす。【半月=片割れ】であり、相手が欠けた状態を示し、【満月=ふたりの結合】を意味し、三日月は三葉の暗喩である。

 

百人一首に夕方よりも明方の歌が多いのは、朝が〈男女の別れ〉を意味するからだろう。

 

秋の歌が多いのは秋が【夏(生)→冬(死)】の境界に位置する季節だからである。【落葉=人が死にゆく時】を意味し、春の桜も開花から一週間ほどで散るので、やはり人が死にゆく時の暗喩となっている。そこに「もののあはれ」がある。

 

 

第九十九首の詠手は後鳥羽天皇である。貴族復権を掲げて承久の乱を起こし鎌倉幕府と戦ったが破れ、隠岐に流された。

 

第百首の順徳天皇は後鳥羽院の息子で、父の倒幕計画に参画したため佐渡に流され、その地で亡くなった。彼の歌、

ももしき(百敷;宮中を意味する)や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり

は王朝時代に終止符を打つ一首となった。

 

このように百人一首もまた、【貴族社会→武家社会】の境界に位置しているのである。

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愛と憎しみの構造

イギリスの教育家A・S・ニイル(Alexander Sutherland Neil, 1883-1973)はその著書"Summerhill"の中で次のように書いている(一部でマザー・テレサの言葉とされているが、それは誤り)。

Love and hate are not opposites. The opposite of love is indifference.
憎しみは反意語ではありません。と対立する感情は無関心です」

これを初めて聞いた時にハッとした。慧眼である。彼の並外れた人間観察力、洞察力に感じ入った。

はある日突然、憎しみに変わることがある。おそらく憎悪・怨恨による殺人で最も多いのは親子や夫婦、あるいは恋人の別れ話のもつれであろう。家族や近親者以外の赤の他人を「殺したい」というほど憎む機会は滅多にない。交通事故などで家族が死に至り、その加害者を憎むことはあろうが、これも愛が変形した感情である。またストーカー殺人は一方通行の、過剰な、歪んだ愛の成れの果ての姿だ。つまり憎悪はコインの表と裏であり、いつでも変換可能なのだ。〈相手のことを強く想う〉という意味において同じと言える。よって次のような構造が成り立つ。

愛≒憎しみ(変換可能) ↔ 無関心

家族とは、によって一つに結ばれたであると同時に、呪い束縛にもなり得る。後者の具体的姿が児童虐待であり、配偶者暴力(domestic violence)もそう。

ここでシェイクスピアの戯曲を考えてみよう。

「ロミオとジュリエット」はする若い男女が、モンタギュー家とキャピュレット家という二つの血族の憎しみの抗争に巻き込まれる悲劇である。

「オセロー」の主人公は妻デズデモーナを愛しているが、部下イアーゴーの計略により彼女が浮気していると誤解し嫉妬の炎を燃やした挙句に、憎しみ変換され、殺してしまう。

「ハムレット」の主人公は死んだ父親の無念を晴らすため、再婚した叔父と母を憎み、殺す。

「リア王」は年老いた王が自分の三人の娘のうち、誰が自分のことを本当に愛し、誰が疎んじているかを見誤る悲劇である。

「マクベス」はマクベス夫人(配偶者)の口車に乗せられて破滅する男の話。

つまりこれらの作品は全て、呪いとしての家族を描いていると言えるだろう。

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【総括】20世紀の芸術(現代美術・現代音楽)とは一体、何だったのか?

僕は20世紀後半(昭和40年代〜平成)を生きてきた。小学校4年生くらいからクラシック音楽を聴くようになったが、当初から不思議に思っていたことがある。

コンサートで演奏されるのは大体19世紀の作曲家(リスト/ワーグナー/ブルックナー/マーラー)までで、20世紀以降の現代音楽は殆ど取り上げられない。強いて言えばストラヴィンスキー「春の祭典」やバルトーク「管弦楽のための協奏曲」など数曲あるが、それでもせいぜい20世紀前半止まりだ。

結局、シェーンベルク/ヴェーベルン/ベルクら新ウィーン楽派、ブーレーズ/ノーノ/シュトックハウゼンらセリー音楽トータル・セリエリズム)といった無調音楽は一般聴衆から拒絶され、コンサートのメイン・プログラムに入れると全く集客出来ず、閑古鳥が鳴くという状況が現在も続いている。

20世紀の聴衆が現代音楽に対して嫌悪感を抱き、そっぽを向いてしまった主な理由として〈シェーンベルクによる十二音技法の発明無調音楽への完全移行〉という流れが挙げられる。はっきり言って、聴いていて心地よくない。不快だ。我々の耳は依然として調性音楽を求めている。では何故、〈作曲家の意志↔聴衆の嗜好〉に埋めようのない乖離が起こってしまったのか?そこにはヨーロッパ人が根強く持つ進歩思想、つまり【芸術は、新しい形式が古いそれに続くという、進歩の状態に絶えずある】と見なす思想が横たわっている。

進歩思想は生物の進化論と深く関わっている。ここで多くの人が持つ誤解を解いておきたいのだが、チャールズ・ダーウィンは進化(evolution)という言葉を使っていない。彼の著書「種の起源」に登場するterm(用語)はmodification(変更・修正・調整)である。種の保存(遺伝)、自然選択(淘汰)、存在し続けるための努力(生存競争)がその理論の根幹を成す。つまりダーウィンは〈遺伝子の突然変異→環境に適応したものが生き残る〉ことを主張しているのであって、その変化は必ずしも進化を意味しない。例えば人間の足の指を考えればいいだろう。使わないから退化している。手指の変化と真逆の関係にあるのだ。

進歩思想の深層にはキリスト教(およびユダヤ教)が潜んでいる。旧約聖書の創世記によると、最初の男アダムは神に似せて造られた。つまり人間は神の似姿であり、成長とともに父親(理想像)に近づかなければならないという強迫観念妄執に彼らは囚われている。これを父性原理という。

1970年代くらいまで欧米人(と西洋かぶれの日本の知識人・エリート大学生)は本気で進歩史観を信じていた。【歴史とは人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程である】と見なす歴史観である。イギリスにおけるホイッグ史観がその代表例で、【歴史とは人類が理性によって現状を克服し、精神の自由を実現させていく過程である】とするドイツのヘーゲル史観や、カール・マルクスによる唯物史観も同様。マルクスにとっての最終形態は共産主義社会の到来であり、その実現(=正義)のためには暴力革命も肯定される。その成れの果ての姿が連合赤軍によるあさま山荘事件であり、(テルアビブ空港乱射やダッカ日航機ハイジャックなど)日本赤軍事件であった。

音楽における進歩思想は【無調音楽という新しい進歩の段階に入ったのだから、いまさら調性音楽という前の段階には逆行出来ない】ということになるだろう。故に20世紀に調性音楽を守ろうとした作曲家たちは「時代遅れ」「ナンセンス!」という烙印を押され、映画音楽やミュージカルなどのジャンルに散っていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、ジョン・ウィリアムズ、ニーノ・ロータ、クルト・ワイル、レナード・バーンスタイン、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド・ウェバー、久石譲らである。

映画音楽に使用したモティーフを流用したコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は1947年に初演されて以降、半世紀に渡って馬鹿にされ、蔑まれ、無視され続けてきた。しかし21世紀に入り漸く調性音楽の復権が進み、日本でもオーケストラの定期演奏会でしばしば取り上げられるようになった。

現代美術においてもは進歩思想が跋扈した。つまり具象を否定し、抽象絵画に走ったのである。そして鑑賞者の共感と支持を完全に失った。このように20世紀における現代音楽と現代美術、そして共産主義国家建設という壮大な実験(と失敗)は完全にリンクしていた

僕に言わせれば芸術における進歩思想は愚の骨頂であり、殆ど狂気の沙汰である。文学や演劇を例に取れば分かり易いだろう。ここで読者に2つ質問をしよう。

  • あなたは紫式部「源氏物語」よりも、村上春樹の小説の方が進歩(進化)していると思いますか?
  • あなたは古代ギリシャ悲劇「オイディプス王」「エレクトラ」やシェイクスピアの作品よりも、現代演劇の方が進歩(進化)していると思いますか?

全くナンセンスな問いだ。それぞれの時代に様式(style)の変化はあるだろう。しかしそれは進歩ではない。そしていつの時代にも優れた作品と、そうでないものがある。それだけのことだ。同時代の人間にはその真価を見抜けず、時の洗礼を経なければ判らないこともある(例えばマーラーやコルンゴルトの音楽)。それが自然淘汰である。

また進歩史観の間違い・迷妄も次の2つの問いにより簡単に証明出来る。

  • あなたは19世紀ドイツの首相ビスマルクよりも20世紀に普通選挙で首相に就任したアドルフ・ヒトラーの方が優れた政治家だと思いますか?
  • あなたはエイブラハム・リンカーンよりもジョージ・W・ブッシュの方が優れたアメリカ大統領だと思いますか?

賭けてもいい。少なくとも過去2,000年間、人間性(humanity)は一切進化していない。もし人類が進化していると思うのなら、それは単なる錯覚である。代わって間違いなく進化していると言えるのは科学技術であり、富の再分配など社会(補償)制度、つまりsystemだ。

確かに人類の知識(知恵)は増えている。でもそれは進化じゃない。文字という媒体(現代ではコンピューター)により知識の蓄積が可能となり、それを幼少期から効率よく脳に詰め込むための教育制度(system)が発達したのだ。履き違えてはいけない。

故に人の心(意識+無意識=自己)を表現する芸術に、進化などあろう筈がないのである。

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国立民族学博物館再訪と〈虹蛇〉について。

まずは下記事からお読みください。

ドリームタイム(夢の時)〉のことをもっと知りたくて、万博記念公園(@大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館(みんぱく)を再び訪れた。

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コンビニで前売り券を買えば、入場料はたった350円である。小・中学生は観覧無料。

みんぱくのレストランにはエスニックランチが用意されており、限定の〈ブン・リュウ・クゥア、ベトナム炒飯、デザート付き〉ランチを食べた。

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本館2階の回廊部分=インフォメーション・ゾーンには、28のビデオテークブースがあり、世界のさまざまな地域で暮らす人びとの生活や儀礼、芸能などを紹介する映像を観ることが出来る(無料)。何と番組数は700本を超え、僕はオーストラリア北部アーネムランドに暮らすアボリジニ(ジナン族)の歌と踊り・彼らの雨季の生活・乾季の生活・雨乞い・アボリジニの楽器〈ディジャリドゥ(管楽器)とラーラカイ(拍子木)〉を観た。いずれも興味深い内容だった(各15分程度)。

みんぱくは展示物の写真撮影可ということを知り、今回はしっかり撮った。

まずはイントロダクション(無料)に設置された柱状棺(遺骨を納める容器)から。

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拡大しないと分かり辛いが、オーストラリア北東部(アーネムランド)の樹皮画で特徴的な、並行する斜線が緻密に交差する〈クロスハッチング画法〉で描かれている。一方、中央オーストラリアの砂漠地帯では〈ドット・ペインティング〉と呼ばれる点描画が主流になる。

探求ひろばの「世界にさわる」コーナーでは展示資料を実際に手にとることが出来る。

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これはアボリジニの投槍器(アトラトル)。写真左の突起に槍の中空部を引っ掛ける。そして反対側の端っこをしっかり握りしめ、ふりかぶって投げると、てこの原理で遠くまで速く飛ぶという仕組みだ。なお有史以来、オーストラリアで弓矢は一切導入されなかった

一方、日本で和弓が用いられるようになったのは縄文時代、1万1千年くらい前からだそう。弓矢の代わりにアボリジニが用いたのがブーメランで、やはり最古のものは1万1千年くらい前のものだという。

有料展示室に入り、岩壁画のレプリカに出会う。現地から招かれたボビー・ナイアメラ氏が1週間をかけて、自ら持参した泥絵の具(鉱物質顔料)を使って、合成樹脂製の岩壁の上に絵を描いた。

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虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)の腹の中には飲み込まれた人が描かれている。これはレントゲン画法と呼ばれ、先進国では児童画の特徴の一つと言われ、幼児から小学校低学年にかけて現れる。魚やゴアナ(大トカゲ)、カンガルーもレントゲン画法で描かれており、背骨や内臓が見える。またマッチ棒のように細い棒人間は精霊ミミである。

アボリジニはオーストラリア先住民の総称であり、18世紀後半にイギリス人が入植した頃、彼らが話す言語の数は200を優に超えていた(現在は激減し、50〜100程度と言われる)。オーストラリア大陸は場所によって気候がかなり異なり、例えば北部のアーネムランドでは雨季と乾季が明確に分かれている。雨季(11月から4月)に道路は冠水し、車での交通も不可能になる。一方、オーストラリアの中央部には砂漠地帯が広がっている。また南部やタスマニア島は南極大陸に近く、クジラを見ることが出来る。タスマニア島の最高気温は夏でも22℃くらい。

だから一概にアボリジニ神話と言っても、地域により差異があり、サバナ気候の北部で太陽は恵みをもたらす創造主として描かれるが、中央部の砂漠地帯では忌避される存在であり、崇拝の対象になり得ない。しかしオーストラリア全土の神話に例外なく登場する〈ドリームタイム〉の祖先がいて、それが虹蛇なのである。つまりスイスの心理学者ユングが言うところの、集合的無意識に存在する元型(archetype)だ。

フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南米の神話に登場するのことを「半音階的なもの」と呼んだ(半音階を駆使した楽曲で一番有名なのはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」である)。の段階的色調変化(グラデーション)や半音階は、A→Z(例えば、ド→ソ)への大きな変化の間隙を、短い間隔の変化で埋めていくものであり、一種の中間状態をつくり、流動的に揺れ動く状況を生み出す。または雨が上がり、晴れ間が広がり始める時ー雨季と乾季の境界に現れる。つまり虹蛇は、【自然→文化】へ、あるいは【無意識→意識】へ、さらに言えば【夢の時ドリームタイム我々が知覚出来るこの世界〈yuti;ユティ〉】への移行段階を象徴しているのである。

アボリジニは時間を【過去→現在→未来】という不可逆(一方通行)の、通時(経時)捉え方をしない。彼らは共時的に思考する。〈ドリームタイム〉という概念が正にそれだ。つまり過去・現在・未来は同時にここにある。レヴィ=ストロースは、神話は通時的に読むと同時に、共時的に読めると述べている(そもそも通時的・共時的という用語は言語学者ソシュールの著書から来ている)。

レントゲン画法もまた、共時的手法である。アボリジニは(彼らにとって食料でもある)カンガルーやゴアナを描く時、同時にそれを屠殺・剥皮し、解体した時の内臓や骨格を見ているのだ。

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泉から鎌首をもたげた蛇の姿は、虹の足(写真はこちら)のイメージに重ねられる。そして蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。つまり虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在なのである。

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

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円環を形成することで始まりも終わりもない完全なもの、永遠性、永劫回帰を表象する。つまりウロボロスドリームタイムと同義なのだ。

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下の写真は管楽器ディジュリドゥ。

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自然の状態で内空をシロアリに食べられたユーカリの幹から作られる。音の高さを変えるための指穴(tone hole)すらない。つまり表層の彩色以外、楽器(発音機構)としての加工が皆無なのである。

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写真上がクーラモン(木製・樹皮製の容器)で、下のバスケットにも虹蛇が描かれている。

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ブーメランにはゴアナがレントゲン画法で描かれている。

オセアニアにとどまらず、みんぱくはアイヌや日本を含め膨大な展示物があり、1日では到底全てを見て廻れない。エスニックなレストランも愉しいし、通い詰めたくなるワンダーランドである。アボリジニ関連以外では特にパプアニューギニアの仮面に強く惹かれた(例えばこちらこちら)。

また行こう。

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