哲学への道

初心者のためのミュージカル映画講座〜「巴里のアメリカ人」から「ラ・ラ・ランド」へ

2017年夏の甲子園で大阪桐蔭高等学校吹奏楽部(指揮:梅田隆司 先生)は野球部の応援歌として「ラ・ラ・ランド」(♪Another Day of Sun♪)を初めて演奏し、世間の話題を攫った。また全日本吹奏楽コンクールの自由曲としてガーシュウィン作曲「パリのアメリカ人」を選択した(結果は銀賞)。全国大会で同曲が演奏されたのは2009年の相馬市立向陽中学校以来8年ぶり。因みに桐蔭を含め過去5回全国大会で取り上げているが、金賞を受賞した団体は未だない。

北米で2016に公開されたミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」はアカデミー賞で史上最多の14部門にノミネートされ、監督賞・主演女優賞・撮影賞・美術賞・歌曲賞・作曲賞の6部門を受賞した。監督のデイミアン・チャゼルは32歳、史上最年少の記録となった。

La La LandのLAはハリウッドのあるロサンゼルス(Los Angeles)のことを指し、【あっちの世界/あの世/我を忘れた陶酔境】を意味する。「あの娘はいま、ラ・ラ・ランドにいる」とは、「彼女の心はここにあらずで、空想に耽る不思議ちゃん」と揶揄しているのだ。

映画「ラ・ラ・ランド」の主軸には3つのオマージュがある。

  1. ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン主演マイケル・カーティス監督の映画「カサブランカ」
  2. 往年のハリウッド製ミュージカル映画、特にヴィンセント・ミネリが監督し、フレッド・アステアやジーン・ケリーが歌い踊ったMGM映画「バンド・ワゴン」&「巴里のアメリカ人」
  3. フランス・ヌーベルヴァーグの映画群、特にジャック・ドゥミ監督「ローラ」「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」=港町三部作

ヒロインのミア(エマ・ストーン)は映画「カサブランカ」に憧れを抱いており、自室に巨大なイングリッド・バーグマンのポスターを貼っている。そしてワーナー・ブラザース撮影所の、「カサブランカ」が撮影されたセットの向かいにあるカフェで働いている。彼女がパリにこだわるのも「カサブランカ」の影響だ("We'll always have Paris."「俺達にはパリの想い出がある」ボギーの台詞)。ここからは僕の解釈だが、「ラ・ラ・ランド」のエピローグ(5年後の冬)でキャメラは彼女の(妄想/ifもしもの世界)の中に入ってゆく。そこで彼女はハリウッドの大女優になっており、棄てたはずのバーグマンのポスターが忽然と街角に現れる。そして彼女は人妻ながら、別に好きな男がいるという「カサブランカ」のヒロイン、イルザ(バーグマン)と同じ役柄を演じる

ちなみに「カサブランカ(Casa Blanca)」とは《白い家》という意味であり、ハリウッドのメタファーとも言える。この映画は第二次世界大戦中の1942年に公開された。アメリカはナチス・ドイツと交戦状態にあり、ユダヤ人を中心にヨーロッパで活躍していた沢山の映画人が亡命し、ハリウッドに身を寄せていた。監督のマイケル・カーティス(1888-1962)はハンガリーの首都ブタペスト出身。彼もユダヤ人であり、ハンガリー名はケルテース・ミハーイ。左翼思想を持ち、長編デビュー作は共産党のプロパガンダ映画であった。しかし1919年にハンガリーにおける共産主義革命が失敗したため、ドイツに亡命し、後に渡米した。つまりカサブランカ=ラ・ラ・ランド=ハリウッドという図式が成り立つのである。

戦争を挟み、1930〜50年代はハリウッドの黄金期であった。大手映画会社にはそれぞれ得意分野があった。例えばドラキュラ、フランケンシュタインなど怪奇映画ならユニバーサル・スタジオといった具合に。そしてミュージカルといえばMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の独壇場であった。偉大なプロデューサー、アーサー・フリードの功績が大きい。フリードは元々作詞家で、作曲家ナシオ・ハーブ・ブラウンと組んでたくさんの名曲を生み出した。ジーン・ケリーが主演した名作「雨に唄えば」(1952)に出てくる歌は、表題曲を含め全てフリード&ブラウンの作品である。そしてフリードはブロードウェイで新進気鋭の演出家として名を馳せていたヴィンセント・ミネリをハリウッドに招聘した。ミネリのハリウッド・デビュー作は「キャビン・イン・ザ・スカイ」(1943)。出演者全員が黒人のミュージカル映画であり、プロデューサーは勿論フリードである(日本でもDVDやAmazon等の動画配信で観ることが出来る)。

当時のMGMが如何に豊穣で、どれくらい数多くミュージカルの名作を生み出していたかは是非、豪華絢爛たるアンソロジー映画「ザッツ・エンタテインメント」DVDをご覧頂きたい。パート3まで製作され、「ラ・ラ・ランド」が引用した場面も沢山収録されている。

That

番外編として「ザッツ・ダンシング!」もお薦め。

Dancing

こちらはMGM映画に限定せず、「赤い靴」(←英国映画)「フラッシュダンス」とか、マイケル・ジャクソンまで登場する。

ヴィンセント・ミネリに話を戻そう。彼は1944年にMGMの看板女優だったジュディ・ガーランド主演で「若草の頃」を撮り、翌45年に彼女と結婚した。ふたりの間に生まれたのがライザ・ミネリである(「キャバレー」でアカデミー主演女優賞受賞)。彼はその後もジュディ主演で「踊る海賊」(1948)を撮っている(相手役はジーン・ケリー)。しかし幸福な生活は長く続かなかった。ジュディは子役時代からMGMで仕事をしていたが、太りやすい体質だったためスタジオは13歳の彼女に痩せ薬としてアンフェタミン(覚醒剤)の内服を指示した。17歳で「オズの魔法使い」(1939)の主役に抜擢された時は既に常用者になっていた。その後多忙を極めた彼女はセコナール(睡眠薬)も併用するようになり、次第に薬物中毒の症状が現れ始める。自殺未遂、繰り返す薬物治療のための入退院、そして撮影所への遅刻や欠勤。結局主演が決まっていた「アニーよ銃をとれ」(1949)からは役を降ろされ、翌50年にMGMは彼女を解雇した。そして同じ年、ミネリとジュディは離婚した。なお余談だがジュディはワーナー・ブラザースの「スタア誕生」(1954)で劇的な再起を果たす。この一場面(♪The Man that Got Away♪ )も「ラ・ラ・ランド」に引用されている。

アーサー・フリード製作、ヴィンセント・ミネリ監督、ジーン・ケリー主演及び振付「巴里のアメリカ人」(1951)はアカデミー賞で作品賞・撮影賞・美術賞・衣装デザイン賞など6部門を制覇した(加えてジーン・ケリーに名誉賞が贈られた)。全編がガーシュウィン兄弟の楽曲に彩られている(劇中でピアノ協奏曲 ヘ調を弾くオスカー・レヴァントはガーシュウィンの親しい友人で、伝記映画「アメリカ交響楽」では本人役で出演)。圧巻なのがジョージ・ガーシュウィン作曲「パリのアメリカ人」をバックに踊られる、18分に及ぶクライマックスのダンス・シーン。MGM映画を代表する究極の名場面であり、「ザッツ・エンタテインメント」第1作の最後を飾った。なお本作は舞台化され2015年にブロードウェイで上演、トニー賞に12部門ノミネートされた。日本では2019年に劇団四季が上演することも決まっている→こちら

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はヴィンセント・ミネリについて次のように語っている。

ダンスがイメージに流動的な世界を与えるということだけでなく、イメージの数だけ世界があるということを発見したのは、ミネリであった。(中略)世界の複数性はミネリの第一の発見であり、映画における彼の天文学的な位置はそれに由来している。ではしかし、どのようにして一つの世界から別の世界へと移行するというのか。ここに第二の発見がある。つまりダンスはもはや単なる世界の運動ではなく、一つの世界から別の世界への移行であり、別の世界への入り口、侵入、探検なのである。(中略)色彩は夢であり、それは夢がカラーだからではなく、ミネリにおける色彩が、すべてを吸引するほとんど貪り食うような高い価値を獲得しているからである。したがって、そこに忍び込み、吸い込まれなければならない。(中略)ダンスはもはや世界を描く夢の運動ではなく、みずからを深め、ますます激しくなり、別の世界へと入るための唯一の方法となる。その別の世界とは、ある他者の世界、ある他者の夢あるいは過去なのである。(中略)ミネリにおいてミュージカルは、かつてないほど記憶の、夢の、時間の謎に近づいた。現実的なものと想像的なものとの識別不可能な点に近づくようにして。それは夢についての奇妙で魅惑的な着想であり、夢はある他者の夢につねにかかわっていればいるからこそ、あるいは傑作『ボヴァリー夫人』におけるように、夢そのものが、人を貪り食う仮借ない力能を、みずからの現実の主体として構成しているからこそ、折り込まれた夢である。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

僕はこの度「巴里のアメリカ人」を再見しながら、最後にジーン・ケリーが入って行くのは誰の夢なのかということに思いを馳せた。そして発見した。パリという街がドガやルノワール、ロートレック、ゴッホ、ユトリロら、ここに集まった画家たちに見せた夢の総体なのだと。

これは「ラ・ラ・ランド」に繋がっている。ミアとセブが最後に入っていくのはハリウッド(=ラ・ラ・ランド)という装置(生産工房)が、そこに集まってきた人々に見せる束の間のである。黒服を来たミアはそこに呑み込まれ、脱出不能になる。THE END.

あとドゥルーズも触れていたジェニファー・ジョーンズ主演「ボヴァリー夫人」(1949)も是非一度、ご覧頂きたい。紛うことなきミネリの最高傑作である。特に凄いのは舞踏会と、夫人が若い貴族と駆け落ちしようと深夜に乗合馬車を待っている場面。舞踏会では正に狂気が疾走する。彼女は若い貴公子たちに囲まれた自分の姿を鏡で見てウットリ酔い痴れ、その夢に呑み込まれてしまう。この舞踏会でのカメラワークをチャゼルは「ラ・ラ・ランド」でちゃっかり借用している(セレブ邸のプールにて、♪Someone in the Crowd♪)。

Bovary
↑ジュネス企画から発売されているDVDジャケット。

最後にヌーベルヴァーグについて語ろう。第2次世界大戦で戦場となったヨーロッパは破壊し尽くされた。その廃墟の中から真っ先に起こってきたシネマの運動がイタリアン・リアリズム(ネオレアリズモ)である。ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」'48やロベルト・ロッセリーニ「無防備都市」'45「戦火のかなた」'46がその代表作。ハリウッドで「無防備都市」を観たイングリッド・バーグマンは大感激し、直ちにロッセリーニに手紙を送った。そして彼女は夫や幼い娘を棄て、イタリアに飛んだのである。アメリカ国民は怒り、上院議会も彼女の不倫を激しく非難した(こうしてふたりの間に生まれたイザベラ・ロッセリーニは女優の道を進み、デヴィッド・リンチ監督「ブルーベルベット」や「ワイルド・アット・ハート」に出演することになる)。

やがてネオレアリズモがフランスに飛火し、1950年代後半にヌーヴェルヴァーグ〈新しい波〉が発生した。さらにヌーベルヴァーグに刺激を受けてベトナム戦争最中の1960年代後半にアメリカン・ニューシネマが勃発する。アメリカン・ニューシネマの代表作「俺たちに明日はない」の監督のオファーが最初はヌーベルヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーにあったことは余りにも有名である(トリュフォーは断り、次にジャン=リュック・ゴダールが打診された)。ヌーベルヴァーグ及びアメリカン・ニューシネマとは一体、何だったのか?簡単に言えば従来の映画の常識、既成概念の破壊である。若い映画作家たちは手持ちカメラを携えて撮影所から飛び出し、街頭でロケし始めた。つまりさすらいの映画だった(「イージー・ライダー」がその典型)。編集方法(モンタージュ)も劇的に変わった(ドゥルーズに言わせれば【知覚→情動〘感情〙→行動〘反応〙】という一連の「運動イメージ」の放棄/切断)。

では「ラ・ラ・ランド」とヌーベルヴァーグの関係を見ていこう。まず冒頭、地方からロサンゼルスに集まってきた若者たちが歌う♪Another Day of Sun♪はジャック・ドゥミ監督「ロシュフォールの恋人たち」'67(♪キャラバンの到着♪)への高らかな讃歌。楽曲もミシェル・グルランを意識して書いたと作曲家のジャスティン・ハーウィッツがインタビューで明言している。ミアが台本を書いて演じた一人芝居の役名は「シェルブールの雨傘」'64と同じジュヌビエーブ。衣装の色彩も港町三部作を彷彿とさせる。ミアとセブが抱き合ってキスした時にふたりの周囲をカメラがグルグル回る手法はクロード・ルルーシュ監督「男と女」'66。ミアがオーディションで叔母さんのエピソード@パリを語るが(真っ赤な嘘/FAKE)、これはフランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく'62でジャンヌ・モロー演じるヒロインがとった行動(橋からセーヌ川に飛び込む)からの借用である。またこのオーディション・シーンの演出・カメラワークはアニエス・ヴァルダ(ドゥミ夫人)監督「5時から7時までのクレオ」'62とそっくりに仕上げられている(ミシェル・ルグランが役者として現れ、主人公が歌うピアノ伴奏を務める場面)。さらにクライマックスのダンス・シーン(=)ではアルベール・ラモリス監督「赤い風船」'56の少年がマネキン姿で登場する。あとピアノを弾くセブと踊るミアを交互に、カメラが高速でパン(Pan,水平方向に首を振る撮影法)するのもヌーヴェルヴァーグの特徴である。

ヴィンセント・ミネリの後継者デイミアン・チャゼル。次の作品ではどのような夢の力能を我々に見せてくれるのだろうか?とても愉しみである。

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【アフォリズムを創造する】その11「偶然の宇宙・偶然の哲学」

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神教は「人間は何らかの目的があって、神によつて創造された」と考える。そしてこの世界(宇宙全体)も創造物であり、唯一のデザイナー(設計者)がいるというわけだ。

この理論に対抗する哲学とはどのようなものだろうか?

英国の哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711-76)は「我々の精神に現れる全てのものは知覚(perception)である」「知覚は、印象(impressions)と観念(ideas)に区別される」「あらゆる観念は、印象に起源をもつ(観念は、記憶や想像によって印象が再現される時に現れる)」という前提に立ち、必然的な因果関係客観的真理の存在を否定した。従来哲学で語られてきた真理とは人間の経験に基づく因果関係のことであり、主観的である。人間は、物事に法則を考える傾向が強い。「ある事柄Aの後には、必ずある事柄Bが起こる」つまり「地球誕生以来、太陽は毎朝昇って来た(経験に基づく印象)。だから明日も、そして未来永劫、太陽は昇るだろう(観念/推測)」という主張。しかしヒュームは「今日までそれが正しかったからといって、明日もそうなるとは限らない(太陽は燃え尽きてしまうかもしれない)」と考えるのである。「神が存在するから今日の我々(知的生命体)がある」という主張も因果論だ。ヒュームは因果の接続を解除する、切断の哲学を説く。

フランスの哲学者クァンタン(カンタン)・メイヤスー(1967-  )は2006年に出版された著書「有限性の後で」の中で、この世界は、まったくの偶然で成り立っており、或るとき突然、絶対の偶然性で、何の理由もなく、別様の世界に変化しうると説く。つまり彼は因果論を否定し、ヒュームの主張を肯定する。

多元宇宙論マルチバース)という考え方がある。複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学のひとつである。この説は私たちの宇宙誕生が必然なのか、偶然なのかという哲学的な問いに迫ろうとしている。つまり宇宙は無数に存在し(総数10500以上と試算される)、たまたま銀河や太陽系、地球が生まれ得る環境に成長した宇宙に、たまたま生命が生まれ、人にまで進化出来たというわけだ。ビッグバンの時に条件が違えば、灼熱の宇宙だったり、何もない虚無の空間が広がっているだけかも知れない。そんな(我々から見れば)失敗作??が多数ある。宇宙はその誕生以来、膨張を続けている(永久インフレーション)という理論や、大阪大学・橋本幸士教授らが研究している超ひも理論超弦理論)はマルチバースの可能性を示唆している。

Multi

私たちがいるこの宇宙は生命が誕生する条件を満たし、都合良く出来すぎている。どうしてこのような奇跡が起こるのか?それは他の無数にある失敗した宇宙には生命が生まれず、思惟出来ないからだ。単純なことだ。喩え話をしよう。

オリンピックで金メダルを獲った陸上選手がこう考えたとする。「努力は必ず報われる」……これは彼(彼女)にとって100%正しい。しかし世界を見渡せば、一生懸命努力を重ねたけれどオリンピックの代表にすら選ばれなかった選手が無数に、少なく見積もっても数千万人はいる(日本陸上競技連盟の登録者数に限っても40万人に達する)。つまり99.999...%の人にとって「努力は必ず報われる」は真実でないのである。多元宇宙論(マルチバース)に従うなら、私たちが地球の美しさや生命の奇跡について思惟するのは、この金メダリストと同じ立場においてなのである。あるいはジャンボジェット(ボーイング747)の墜落事故で、1人だけ生存者がいたと仮定しよう。彼にとって助かったことは奇跡であり、神の思し召しのように感じられるだろう。では他の死者たちにとってはどうか?そもそも死んでいるのだから、彼らには「神の意志」が作用したかどうかすら思考出来ないのである。このように立つ位置(観測する地点)によって、そこに見える因果関係主観的真理は異なるのである。アインシュタインが導き出した「相対性理論」によると、光の速度に近い超高速で進む宇宙船の中の乗組員が体験する「1秒」は、宇宙船の外から止まって眺めている人にとっては、1秒よりも長くなる。正に浦島効果(解説はこちら)が起こるのである!

ダーウィンの進化論も偶然の宇宙と根っ子が同じである。進化は遺伝子の突然変異で誘発される。突然変異は全くの偶然で起こる。その後に、自然淘汰により環境に適した種(遺伝子)は残り、そうでないものは滅ぶというわけだ。

パスカルの賭け」をご存知だろうか?フランスの哲学者パスカル(1623-62)が提唱したもので、「理性によって神の実在を決定出来ないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生の意味が増す」という主張である。僕は「パスカルの賭け」に対して、真っ向から異議を唱える!

例えば自分の家族が難病で亡くなったとしよう。あるいは交通事故で脊髄損傷を起こし、首から下が麻痺したという場合も想定される。もし貴方が神を信じていた場合、どう考えるか。「全ては神の思し召し」と納得出来るだろうか?大概の人は「どうして神は私にこんな試練をお与えになるのか?」(旧約聖書「ヨブ記」)と疑問や怒りを感じ、「神よ、どうして貴方は沈黙されるのですか?」(遠藤周作「沈黙」)と嘆くのではないだろうか。では全てが偶然と考えた場合はどうか?「難病になったのはたまたま」「交通事故に遭遇したのは単なる偶然、運が悪かった」その方が諦めが付くのではないだろうか。つまり偶然の哲学諦念の哲学と言い換えることも出来るだろう。

生きるとは賭けることである。それは偶然(運命のいたずら)に作用される。しかし、だからといって「人生なんてこんなものだ」とニヒリズムに陥るのは間違いだ。勉強しなければ名門校に合格出来ないし、日々練習を積み重ねなければオリンピックで金メダルを獲ることは不可能だ。つまり、力への意志(by ニーチェ)を持ち生成変化(by ドゥルーズ)することで、勝率を上げることが出来る。最初から勝負を捨てるな、積極的に挑め!

偶然の宇宙偶然の哲学」がもしも正しかったら、唯一の神は存在しないということになる。人類は数千年に渡る根源的な問いの答えを間もなく手に入れるだろう。

ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、彼が否定したのはユダヤ教、キリスト教など一神教であって、多神教ではない。ここを勘違いしてはいけない。ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中でデュオニソス的アポロン的という概念を打ち立てた。デュオニソスとアポロンはギリシャ神話に登場する神々である。彼は多神教であるギリシャ神話を愛でた。

最後にフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)の言葉で締めくくろう。

真理は到達されたり、発見されたり、作り直されたりするものではなく、創造されなければならない。〈新しいもの〉の創造以外に真理はない」

参考文献:

  • 野村泰紀(カリフォルニア大学バークレー校教授、バークレー理論物理学センター所長)著「マルチバース宇宙論入門」星海社新書(2017.7.25.発行)
  • 橋本幸士(大阪大学教授)監修×ニュートン編集部「超ひも理論」Newtonライト(2017.10.5.発行)
  • 千葉雅也 著「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」河出文庫
  • ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局

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ジル・ドゥルーズ「シネマ」〜哲学者が映画を思考する。

20世紀フランスを代表する哲学者、ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 」全2巻(法政大学出版局)を読んだ。「シネマ1*運動イメージ」と「シネマ2*時間イメージ」は併せて800ページに及ぶ大作である。

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ドゥルーズ(1925-1995)の名前を初めて目にしたのはニーチェの著作/解説書を読んでいる時であった。

哲学史的にスピノザ - ニーチェ - ドゥルーズという一本の堅固な線があることを知った。そしてドゥルーズが映画について本を出していることに驚かされた。哲学者が映画を思考すると、どのような言葉が紡がれるのだろう?大いに興味が湧いた。

通読するには難儀した。2ヶ月掛かった。まず翻訳が良くない。大学で哲学を教えている教授らが訳しているので日本語としてこなれていない。原文は同じ単語なのに「シネマ1」と「シネマ2」で異なる日本語に置き換わっていたりもする。またドゥルーズ自身、簡単な概念をわざと難しく書く癖があるので厄介だ。そして長い。対してニーチェの著作はページ数が少ないし、非常に分かり易くスラスラ読める。しかし「シネマ」から得たものは多かった。努力は決して無駄でなかった。

ドゥルーズは巻頭で「これは映画史ではなく、映画に現れるかぎりでのイメージと記号の分類の試みである」と宣言している。だが実際には「シネマ1」で主に第二次世界大戦前の映画、具体的にはチャップリン、キートンらの喜劇、D・W・グリフィスらアメリカの作家、エイゼンシュタイン、ヴェルトフらソ連の作家、ラング、ムルナウらドイツ表現主義、そしてクレール、ルノワール、ガンス、エプシュタインらフランスの作家(主に無声映画)が話題の中心となり、「シネマ2」では戦後の映画、ロッセリーニ、デ・シーカらイタリアン・リアリズム(ネオリアリスモ)、ゴダール、レネらフランス・ヌーヴェルヴァーグ、他にもウェルズ、アントニオーニ、パゾリーニ、デュラス、キューブリックらの作品が取り上げられている。つまり映画史に沿った記述になっている。また嬉しいことに我が国からも小津安二郎、黒澤明、溝口健二らの作品が言及され(市川崑についても少し)、褒められている。

黒澤明「七人の侍」に関しては「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在するとドゥルーズは語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

見事な解読である。

本書はベルクソンの著書「物質と記憶」の注釈に始まり、カント、ライプニッツ、ニーチェなどの数々の哲学者についても言及される。

どういうことが書かれているか、「シネマ」から学んだことを具体的に幾つかご紹介しよう。まず映画における運動イメージの三つの水準について。①総体 ensemble=閉じられたシステム。映画においてはフレーミングで規定される。②移動としての運動。フレームの中で成立する運動=ショット。動く切断面であり変調。③全体 tout=ショットとショットを繋いで(モンタージュ)規定される。それ自身の諸関係に即して絶えず変化する(=絶対的運動あるいは宇宙的変動)。

主観性の三つの物質的アスペクトについて。①ある主体が外的刺激(光、音)を知覚する。主観性は、おのれの関心を引かないものを、物〔=イメージ〕から差し引く。②知覚から行動への移行。③困惑させる知覚と、逡巡する行動とのあいだで、主体(不確定性の中心)のなかに出現する情動 intervalleを占めるもの。作用と反作用の間に現れる隔たり。

そして映画においては知覚イメージがロング・ショット(遠景)、行動イメージがフル・ショット(人物の全身像)、感情イメージがクロースアップ(顔またはその等価物で表現される情動)に相当する。

しかし状況ー行動、作用ー反作用、刺激ー反応という連鎖、感覚ー運動系の帯紐はアドルフ・ヒトラーのファシズム、ハリウッドのプロパガンダ(戦意高揚映画)に利用された。国家による大衆操作。運動イメージの到達点はレニ・リーフェンシュタール(ナチス党大会を記録した「意志の勝利」、ベルリン・オリンピックを記録した「民族の祭典」「美の祭典」の監督)である。

そして第二次世界大戦後、ヨーロッパの破壊し尽くされた廃墟など圧倒的状況が、感覚ー運動図式を断ち切り、登場人物は殆ど無力に陥った。彼は反応するよりも記録する。彼はひとつの視覚 visionに委ねられ、行動の中に巻き込まれるよりもむしろ視覚に追いかけられ、視覚を追いかける。純然たる見者となる。純粋に光学的な状況→直接的時間イメージという位置付けられない関係が現れるのだ。

ここで登場するのが結晶イメージであり、ベルクソンの逆さ円錐モデルで説明される。

B

円錐の全体SABが記憶に蓄えられたイマージュ全体。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。ABは純粋回想=保存された過去。Pは宇宙。意識は螺旋を描きながら絶えず内部を反復し、新たな過去A'B'、A''B''を生成し続ける。

この結晶(時間)イメージの典型例がアラン・レネの「去年マリエンバートで」'61であり、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」'63だ。フェリーニは語る。「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」過ぎ去り、死に向かう現在と、保存され、生の核を保持する過去は絶えず干渉しあい、交差しあう。もし保存された過去の領域へ飛翔しても求めている回想が応じず、イメージが顕在化しなければ現在に戻って来て、もう一度飛翔しなおせばいい。

僕が「8 1/2」を初めて観たのは高校生ぐらいの時だった。当時は何が面白いんだかさっぱり理解出来ず、ただただ退屈だった。しかし今回ドゥルーズを読み、フェリーニが言わんとしたことの輪郭が漸くはっきりして来た気がする。

また「シネマ」で紹介され、初めて知る機会を得た映画も沢山ある。ドライヤー「裁かるゝジャンヌ」'28、エプシュタイン「アッシャー家の末裔」'29、エイゼンシュテイン「全線」'29、ヴェルトフ「これがロシアだ」'29、イヴェンス「橋」'28、「雨」'29、ブニュエル「ビリディアナ」'61、「皆殺しの天使」'62、バスター・キートン×サミュエル・ベケット「フィルム」'65……。大変勉強になった。

ただ些か不満なのは、ヌーヴェルヴァーグに関して僕はトリュフォー派なので(「シネマ」では殆ど触れられない)、ドゥルーズはゴダールのことを実力以上に買いかぶっているのではないか、ということである。

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【アフォリズムを創造する】その10「哲学について」

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは「哲学とは新しい概念の創造である」と言った。

哲学は生きるヒントを与えてくれる。哲学によって世界の見方が変わる。

僕はユング心理学やニーチェの哲学を学ぶことで、映画や音楽など芸術に対する理解が一層深まったことを実感している。そのことは拙ブログ記事を通して納得して頂けるだろう。「哲学って何かの役に立つの?」と懐疑的な方もおられるだろう。しかし自信を持って言おう。「哲学を知れば、人生がより豊かになる」「よりよく生きるにはどう振舞うべきかを教えてくれる」のだと。

人はみな、多かれ少なかれ存在の不安と死への恐怖を抱いて生きている。霊魂(死後の世界)を信じたり、占いや風水、血液型性格判断に頼る人がいるのも、そういう心情に起因する。「私」に自信がないから、自分の運命を他者に決めてもらいたい。つまり依存心だ。「何故人は生きるのか?」「我々は何処から来て、何処へ行くのか?」……その疑問を解消する一つの手段として宗教があるし、もし貴方が神を信じないのであれば哲学書を読めばいい。

人はラクダ→ライオン→子どもという進化の過程をたどるとニーチェは主張する。最終的に現れるのが超人だ。そして私たちは超人への橋渡しを担っているというわけだ。成る程、それが我々の生きる目的なのだ。つまり未来(子孫)に希望を託す役割と言えるだろう。僕はこの説明がすっと腑に落ちた。例えば人類の歴史を考えてみよう。一進一退はあるけれど、大局的に見れば良い方向に進んでいるのではないだろうか?専制君主制から民主主義の世の中に移行したし、先進国に限って言えば戦争や貧困も確実に減った。日本だって、つい70年ぐらい前には餓死者がいたんだから。そりゃあ世界的に見れば今だって飢えに喘ぐ人たちはいるし、紛争は絶えない。でも彼らも発展の途上にいるのだ。早いか遅いだけの違いだと僕は信じたい。医療の進歩で平均寿命も飛躍的に伸びた。超人の誕生も、そう遠くない将来なのではないだろうか?

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35年目の奇跡〜「ブレードランナー2049」、あるいは頭脳の映画。

評価:AA (最高評価はAAA

Bladerunner2049

リドリー・スコット監督「ブレードランナー」が日本で公開されたのは1982年。僕は高校生だった。ダグラス・トランブルが手がけた特撮シーンがテレビの映画紹介で放送され、その映像美に魅了された。是非観たいと想ったのだが、何しろ当時は大学受験を控える身。映画に関しては禁欲生活を送っていたので断念した。そして大学に合格し、漸くレンタルビデオで観ることが叶った。本作は北米公開も日本でもコケて、映画館はガラガラだったという話を聞いたが、85年くらいには「カルト映画」として確固たる地位を得て、その後の世界に(敢えて「映画」とは言わない)多大な影響を与えた。

さらにレーザーディスクLDで劇場公開版より2分長い《完全版》を観て、公開10周年を記念し監督の本意ではなかったナレーションやラストの車での逃避行(キューブリック「シャイニング」未使用映像の流用)を省き、ユニコーンのシーンを追加した《ディレクターズ・カット/最終版》DVDを購入。そして現在我が家には公開25周年に再び監督自身の総指揮によって編集された《ファイナル・カット》Blu-rayがある。結局4ヴァージョンを観たことになる。

ヴァンゲリスの音楽も大好きで、特に最後に流れるテーマ曲はクールで最高だった!しかし当初市場に出回っていた「サントラ盤」と称す代物はヴァンゲリスによるシンセサイザーではなく、ニュー・アメリカン・オーケストラという謎の交響楽団によるしょぼい演奏(カヴァー)だった(勇気があったら聴いてみやがれ!→こちら。どうだ!!参ったか)。

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89年になって漸く「ザ・ベリー・ベスト・オブ・ヴァンゲリス」(Themes)というCDにオリジナル版の”エンド・タイトル”と”愛のテーマ”のみが収録された。シンセサイザーによる全曲が聴けるには、さらに94年まで待つ羽目になる。そんな紆余曲折があった。

「ブレードランナー2049」は第1作公開から実に35年ぶりの続編であり、物語としては30年後の世界を描いている。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は当初、音楽を朋友ヨハン・ヨハンソン(「ボーダーライン」「メッセージ」)に託したが、よりヴァンゲリスの音楽に近づけたいという監督の意図でヨハンソンは途中降板することになり、ハンス・ジマー&ベンジャミン・ウォルフィッシュが代打した。ここで謎なのはヴァンゲリスは未だ健在(74歳)なんだよね。何で本人がやらないんだろう??厄介な人だ。

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はスタンリー・キューブリックの作品を【頭脳の映画】だと評している(対して、ゴダールやカサヴェテスは【身体(からだ)の映画】)。

キューブリックにおいては世界そのものが頭脳であり、『博士の異常な愛情』の輝く円形の大テーブル、『2001年宇宙の旅』の巨大なコンピューター、『シャイニング』のオーヴァールック・ホテルのように、頭脳と世界との同一性が成立している。『2001年』の黒い石は、宇宙の諸状態をつかさどるとともに、頭脳の諸段階をつかさどる。それは地球、太陽、月という三つの天体の魂であり、動物、人間、機械という三つの頭脳の胚珠でもある。キューブリックが秘儀伝授的な旅のテーマを革新したとすれば、それは、世界のあらゆる旅が、頭脳の探求であるからだ。(中略)『2001年』の終わりでは、まさに四次元にそって、胎児の領域と地球の領域は、計り知れない未知の新しい関係の中に入る幸運にめぐまれ、それが死を新たな生へと転換することになる。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

ドゥルーズの理論を応用すると、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品も【頭脳の映画】だと言える。アカデミー外国語映画賞にノミネートされた「灼熱の魂」(2010)に登場する双子の姉弟は、亡くなった母親の脳内(記憶)を探る旅に出る。またジェイク・ギレンホール主演「複製された男」(2014)は、一人の男の頭の中で展開される物語だ。彼はアダムという人格と、アンソニーという人格を分離させる。ドッペルゲンガー/二重身である。アダムは真面目で禁欲的な大学の講師。一方のアンソニーは売れない役者で、欲望のまま生きる(欲動イメージ)。映画の最後に主人公は脳内でアンソニーを殺す。アダムが生き残るが、彼の手元にふたたび誘惑者から鍵が送られてくるのだ(欲動の再起動)。それを監視するのが蜘蛛(主人公を抑圧する母親/妊娠した妻の隠喩)である。しかし結局、蛇(サタン)にそそのかされたアダムはリンゴ(知恵の実)を齧るだろう……。

昨年度アカデミー作品賞/監督賞にノミネートされた「メッセージ(Arrival)」の場合はどうだろう?これも言語学者であるヒロイン(エイミー・アダムス)の頭の中で起こった出来事と解釈可能だ。地球に飛来する”はかうけ”に似た宇宙船は「2001年宇宙の旅」における黒い石(モノリス)と同じ役割を果たす。それは彼女の過去ー現在ー未来を結び、現動化し、円環を成す。物事には始まりもなければ、終わりもない。彼女の生成変化を象徴するのが宇宙船の中にいる地球外生命体(ヘプタポッド)が使用する文字=円環構造だ。

「ブレードランナー2049」の主題となるのは一人のアンドロイド=レプリカント"K"の脳内で起きた生成変化だ。彼はピノキオのように「人間になりたい」と願う。物言うコオロギ、ジミー・クリケットの如く、彼の心の旅のお供をするのはホログラフィーAIのジョイ(Joy:歓び)。そこには【人間とは何か?】という一つの問いがある。そして最後に"K"は知る。人になるとは、まず自分ひとりだけの大切な記憶(秘密)を持つこと。そして誰かのために自分の命を投げ打っても構わないと思うこと。誰かに何かを残すこと。……何だか切ないね。ここで流れるのが何と、前作の音楽"Tears in Rain"。これには、してやられた!ピノキオを夢見るアンドロイドと言えばキューブリックの遺志をスピルバーグが継いだ「A.I.」だが、この回帰も偶然ではないだろう。ちなみに「A.I.」の主人公の少年の名はデヴィッドで、リドリー・スコットが監督した「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」に登場するアンドロイドもデヴィッド。これも意図的な所業だ。

「ブレードランナー2049」がロシアのアンドレイ・タルコフスキー監督の映画(具体的には「惑星ソラリス」「ストーカー」「サクリファイス」)を引用していることは沢山の識者が言及していることなので、ここで繰り返さない。代わりに誰も気がついていないことを指摘しておこう。

ホログラフィーAIジョイちゃんはレプリカントの娼婦(セクサロイド)マリエッティを雇い、同期する(Kと性交するために)。二人の女が立体的に重なる。これは完璧にイングマール・ベルイマン監督「仮面/ペルソナ」へのオマージュである。「仮面/ペルソナ」で二人の女は顔の右半分と左半分がくっついて合体するのだが、21世紀的手法を用いているのが本作のミソ(2D→3Dへ)。因みにヴィルヌーヴは「複製された男」でも「仮面/ペルソナ」を引用している(蜘蛛=世界を支配し、絡め取る者)。

あと2回目の鑑賞(TOHOシネマズ2D、1回目はIMAX 3D)でアッと想った。本作でハリソン・フォードは映画の終盤でしか登場しないのだが、これって「地獄の黙示録」のカーツ大佐みたいだね。主人公が暗殺の密命を帯びているのも共通している。そこで調べてみると案の定、ヴィルヌーヴ監督が「灼熱の魂」で、彼のお気に入りの「地獄の黙示録」オープニング・シーンを意識したというインタビュー記事を発見した→こちら!しかもハリソン・フォードは「地獄の黙示録」に出演している。あとジョイちゃんの巨大広告の場面はやはりコッポラが監督した「ワン・フロム・ザ・ハート」のナスターシャ・キンスキーね。公開年が初代「ブレラン」と同じ82年で、ラスベガスが舞台になっているのも一致する。

レイチェルとは旧約聖書に登場するラケル(Rachel)の英語読みである。前作ではあまり関係なかったのに、本作では旧約聖書の物語が重要な意味を帯びてくる。また新しい王(イエス・キリスト)がエルサレムに生まれたと聞き怯えたユダヤのヘロデ王が2歳以下の男児を皆殺しにするよう命じた新約聖書の物語も絡んでくる。こうして「ブレードランナー2049」は神話になった。

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宮﨑駿とフリードリヒ・ニーチェ 〜 風の谷のナウシカとは何者か?

上記事で宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」にドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想ー永劫回帰超人が深く関わっていることを明らかにした。

僕はその後も宮崎アニメとニーチェの関係について熟考を重ねた。すると、驚くべき事実に思い当たった。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは生の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになる。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

映画「風の谷のナウシカ」は”火の七日間”と呼ばれる最終戦争後、「腐海」が発する猛毒の瘴気に覆われた世界の物語である。人類は、発達し過ぎた文明による罪(自然破壊)を背負わされたラクダの状態にある。それを象徴するのがユパが引き連れているトリウマ(ダチョウに似た鳥類で、人々が馬代わりに利用する)のカイとクイ。彼らもまた重い荷を担いでいる。ユパらは砂漠でナウシカと出会う。彼女こそ笑うライオンだ(劇中に「姫様 笑うとる 助かるんじゃ」という台詞がある)。しかし時には獰猛になり、トルメキア兵を殺戮したりもする(この時彼女の髪は逆立ち、ライオンのたてがみのようになる)。

Anger

映画のクライマックスでナウシカは倒れ、オームの血を浴びて、古い伝承に「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」と歌われた人物として蘇る。つまり超人になるのだ。この時、幼い女の子の声で「ラン、ランララ、ラララン」と歌われる「ナウシカ・レクイエム」が流れる。これは別名「遠い日々」とも呼ばれ、当時4歳だった久石譲の娘、麻衣が歌っている(彼女は現在もプロの歌手として活躍し、先日NHKで放送された久石譲コンサート@パリでもこの曲を歌った)。ナウシカはニーチェの言う子どもに還ったのである。

ナウシカの肩にはキツネリスの「テト」が乗っている。これはツァラトゥストラにいつも寄り添っている鷲と蛇の代わりと言えるだろう。

宮﨑駿は「本へのとびらー岩波少年文庫を語る」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。

このニヒリズムの克服こそ「風の谷のナウシカ」のテーマであり、ニーチェに通底する課題である。

腐海は人間により汚染された壌土を清浄なものに変化させている。これは永劫回帰に導くための装置だ。

ツァラトゥストラは「軽やかにダンスし、鳥のように飛べ!」と言う。ナウシカは「鳥の人」だ。鳥の人」はサウンドトラック・アルバムのタイトルにも用いられている。

全般に宮崎アニメは飛ぶ人=正義であり、飛べない人は見下される傾向にある。「紅の豚」のポルコ・ロッソは次のように言う。

飛ばねぇ豚はただの豚だ

正にニーチェ哲学の実践である。

また「ツァラトゥストラはかく語りき」に次のような一節が登場する。

 ーしかし、人間も木も同じようなものだ。
 木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪のなかへ 
(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

これが「天空の城ラピュタ」の構造である。そして「バルス!」という呪文の言葉による崩壊の後、パズーとシータは木の根に助けられる。

「崖の上のポニョ」の嵐の場面ではワーグナーの「ワルキューレの騎行」(もどき)が高鳴る。実は若い頃のニーチェはワーグナーに私淑し、ワグナー論も執筆しているのだ(「悲劇の誕生」など)。

ニーチェを読めば、宮崎アニメをより深く味わうことが出来るだろう。

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夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」のすゝめ

本といえば今まで小説ばかり読んで生きてきた。哲学なんて難解なものは歯が立たない、僕には無縁だと思い込んでいた。ところがある日不意に、転機が訪れた。

ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読もうと決心した切っ掛けは2016年に公開された一本のドキュメンタリー映画だった。

本作は大阪を流れる淀川から道頓堀川に下る船の上で、第1回ドラフト会議で指名されNMBに入った須藤凛々花がニーチェを朗読するシュールな場面から始まる。

須藤といえばつい先日のAKB48総選挙で結婚宣言をぶちかまし、世間を騒然とさせた元メンバーである(既に卒業)。「人生を危険にさらせ!」という哲学本も出版しており、表題はニーチェの著書「悦ばしき知識(楽しい学問)」から採られている。たかだか19歳の小娘がニーチェを理解出来るのだから、僕に読めない筈はないと対抗心が沸々と湧いたのである。因みに秋元康は須藤のために、「ニーチェ先輩」という歌を書いた。その歌詞に《その深淵 覗いたとき 深淵もこちらをのぞいてる》とあるが、これはニーチェ「善悪の彼岸」からの引用である。

ニーチェ(18441900)の著書を実際手にとってみて驚いた。スラスラ読めるのである。難解なところが少しもない。硬い哲学書だという雰囲気が皆無のだ。これなら高校生でも大丈夫。「悦ばしき知識(楽しい学問)」にしろ「善悪の彼岸」にしろ、アフォリズム集になっているので実に読み易い。アフォリズム (Aphorism)の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス「アフォリズム」より)。

「ツァラトゥストラ」は光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳が読み易かった。なお、竹田青嗣「ニーチェ入門」(ちくま新書)と村井則夫「ニーチェ ーツァラトゥストラの謎」(中公新書)がガイドとしてたいへん役に立ったことを付記しておく。

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またフロイトやユングの打ち立てた深層心理学が、ニーチェから出発していることがよく分かった。意識↔無意識の関係や、コンステレーション(布置)についても先にニーチェが語っている。コンステレーションとは一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係もないように見えても、ある時それらが一つのまとまりとして重要な意味を成してくること。めぐり合わせ。

以来、心理学と哲学の関係は深い。20世紀フランスのミシェル・フーコー(1926〜84)は当初、心理学を学び、精神病院に努めていた時に患者がロボトミー手術を受けて廃人同様になったことに衝撃を受け、哲学者に転向した。

またやはりフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925~95)は精神科医フェリックス・ガタリ(1930~92)と組んで「アンチ・オイディプス」を書いた。これはフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスに反旗を翻す本である。ガタリとの共著は6冊に及んだ。なおドゥルーズはフロイトに対して否定的だが、フロイトと袂を分かったユングのことは高く評価している。

ドゥルーズは【哲学とは新しい概念を創造すること】だと定義したが、ニーチェが打ち出した概念の代表的なものは「アポロン的/デュオニソス的」「ルサンチマン」「神は死んだ」「力への意志」「超人」「永劫回帰」がある。

関連記事(上記ニーチェの概念について詳しく解説した)

ニーチェはpositive thinkingの人だ。常に前向きで未来に目を向け、ニヒリズム(この世は虚しいという考え方)を全力で否定する。そしてからだが大事と説き、ダンスして鳥のように飛べ!と活を入れる。そして最後は「笑うライオン」になれと言う。読んでいて元気が出るし、勇気が湧く。

ただ彼が女性蔑視の考えを持っていたことは否定出来ない。まぁ女性に参政権がなかった19世紀半ばの人だし、生涯を独身で過ごしたモテない男なので(ルー・ザロメに求婚するも振られている)、大目に見てあげてくださいな。

なお彼は1889年(44歳)に発狂するが、原因は梅毒 第4期(脳梅毒・神経梅毒)だった。これは作曲家のシューマンやスメタナと同じ病である。シューベルトも梅毒だったが、死因は水銀治療による中毒である。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は後世の芸術に多大な影響を与えた。リヒャルト・シュトラウスは同名の交響詩を作曲。マーラーは交響曲第3番 第4楽章にツァラの一節を引用し、アルト独唱に歌わせている。そしてこの楽曲はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」の最後、主人公の死の場面で流れた。さらにスタンリー・キューブリック監督の傑作「2001年宇宙の旅」との関わりは言うまでもない。

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映画「三度目の殺人」の哲学的問い

評価:A

Sand

映画公式サイトはこちら

「そして父になる」の是枝裕和が原案・脚本・編集・監督を担当した「三度目の殺人」には哲学的問いがある。ひとつは【人が人を裁くことは可能なのか?(法廷で真実は明かされるのか?)】、もうひとつは【生まれてこなかった方が良かった人間はいるか?】である。僕は後者に対してYes.と答える。アドルフ・ヒトラー、ポル・ポト、ヨシフ・スターリンらがその代表格であろう。しかし反面、ナチス・ドイツは人類に大きな問いを残した。それは【人はどこまで残酷になり得るのか?】ということ。我々は生涯をかけて、この問いを自問し続けなければならない。

真相は最後まで藪の中。そういう意味で本作は「羅生門」形式と言える。面白いのは加害者(役所広司)も被害者も、そして弁護士(福山雅治)も一人娘がいるという設定である。このことから同情や共感、共犯関係が生まれる。弁護士は当初真実には何の興味もなく、依頼人(被告)の減刑しか考えていない。ところが……予想外の展開が観客を待ち構えている。役所広司が怪演。レクター博士並みの不気味さで秀逸だ。広瀬すずのキャスティングもドンピシャ!

本来、検察官(検事)と弁護士は敵対関係にあり、裁判官は中立の立場の筈。しかし三者には阿吽(あ・うん)の呼吸があり、以心伝心で共謀することもあるという皮肉。裁判制度に一石を投じる奥深い映画だ。

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【アフォリズムを創造する】その9「ネット炎上」のメカニズムを読み解く

高校生・大学生らは学校の教室で友達に話すように気軽に「あの娘とヤリたい」とか「今日バイト先でこんな失敗をやらかした」とかtwitterとかフェイスブック、インスタグラムなどSNSに書き込む。

ドストエフスキーの「罪と罰」や島崎藤村の「破戒」でも描かれたように、自己の隠れた欲望や罪の告白は人びとの面前で行われなければならない。それはカトリック教会の懺悔室で行われてきた告解に似ている。告解は逆に、司祭(神父)が信者の心を支配する仕組みでもある。

秘密を自分の胸の内にだけしまっておくことは苦しい。開放し、風通しを良くする必要がある。

社会人もまた、会社の上司にムカついたことや、学校の先生が生徒の悪口をつい漏らしたりもする。ここではSNSがストレス発散の場として機能している。いわばカウンセリングルームでリクライニングチェアにゆったり横たわり、心理療法士/精神科医に語ることの代用品のようなものだ。あるいは居酒屋やバーでの気の置けない仲間との会話、個人的な日記に書き込むような感覚。

不思議な事に彼らはその告白の先に、自分に好意的な善人、信頼出来る相手(Intimate Friends)しかいないという幻想を抱いている。ネット社会が不特定多数の棲む世界に開かれており、悪意に満ちていることを知らない。

しかしネット民(フォロワー)たちは突然、カトリックの司祭に豹変する。自分たちの善悪の基準を押し付け、道徳を説き、お鬼の形相で「悔改めよ!」と迫るのだ。それが炎上(Flaming)である。彼らはSNSの発信者に自己の放棄を求め、死を命じる悪魔的権力となる。ジャンヌ・ダルクを火刑に処すように。彼らの潜在意識には、迷える子羊を導く羊飼いになりたいという、牧人願望がある。言い換えるなら他者の上に立ちたい、王様気分を味わいたいという仮想権力への憧憬(=妄想)だ。

SNSでは自分の幸せを呟くことも許されない。次の記事を読んでみて欲しい。→「マイホーム購入!」という冗談で、ネット民から袋叩きにされてしまった10代のカップル

ネット民は他人の幸福なんか許せない。彼らは血に飢えたオオカミのように生贄贖罪の山羊(scapegoat)を求めている。人は日々、不満や不快を抱えて生きていると無意識のうちにルサンチマン(弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情)を抱く。その標的となりやすいのが芸能人(例えば斉藤由貴)であり、政治家(今井絵理子)だ。特に不倫は絶対に許せない。「あいつだけ美味しい思いをしやがって!」という嫉妬心を沸々と滾らせるのだ。

芸能人が謝罪会見を開いたり、政治家が辞職することでネット民たちの昏(くら)い欲望は満たされ、彼らは甘い快感に浸ることが出来る。つまり王様気分だ。

芸能人にとってイメージは大切であり、ある程度倫理(アイドルの場合は恋愛禁止の掟)を求められるのは致し方ない。CMに出演している場合、購買者に悪い印象を持たれては商品(アイドルの場合はCD=握手券)が売れなくなってしまう。しかし政治能力と道徳は別だろう。ジョン・F・ケネディはマリリン・モンローと不倫の関係にあったが、今更そのことをとやかく言う者はいない。ケネディは大統領として立派な仕事をした。それで十分だ。

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