哲学への道

35年目の奇跡〜「ブレードランナー2049」、あるいは頭脳の映画。

評価:AA (最高評価はAAA

Bladerunner2049

リドリー・スコット監督「ブレードランナー」が日本で公開されたのは1982年。僕は高校生だった。ダグラス・トランブルが手がけた特撮シーンがテレビの映画紹介で放送され、その映像美に魅了された。是非観たいと想ったのだが、何しろ当時は大学受験を控える身。映画に関しては禁欲生活を送っていたので断念した。そして大学に合格し、漸くレンタルビデオで観ることが叶った。本作は北米公開も日本でもコケて、映画館はガラガラだったという話を聞いたが、85年くらいには「カルト映画」として確固たる地位を得て、その後の世界に(敢えて「映画」とは言わない)多大な影響を与えた。

さらにレーザーディスクLDで劇場公開版より2分長い《完全版》を観て、公開10周年を記念し監督の本意ではなかったナレーションやラストの車での逃避行(キューブリック「シャイニング」未使用映像の流用)を省き、ユニコーンのシーンを追加した《ディレクターズ・カット/最終版》DVDを購入。そして現在我が家には公開25周年に再び監督自身の総指揮によって編集された《ファイナル・カット》Blu-rayがある。結局4ヴァージョンを観たことになる。

ヴァンゲリスの音楽も大好きで、特に最後に流れるテーマ曲はクールで最高だった!しかし当初市場に出回っていた「サントラ盤」と称す代物はヴァンゲリスによるシンセサイザーではなく、ニュー・アメリカン・オーケストラという謎の交響楽団によるしょぼい演奏(カヴァー)だった(勇気があったら聴いてみやがれ!→こちら。どうだ!!参ったか)。

New

89年になって漸く「ザ・ベリー・ベスト・オブ・ヴァンゲリス」(Themes)というCDにオリジナル版の”エンド・タイトル”と”愛のテーマ”のみが収録された。シンセサイザーによる全曲が聴けるには、さらに94年まで待つ羽目になる。そんな紆余曲折があった。

「ブレードランナー2049」は第1作公開から実に35年ぶりの続編であり、物語としては30年後の世界を描いている。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は当初、音楽を朋友ヨハン・ヨハンソン(「ボーダーライン」「メッセージ」)に託したが、よりヴァンゲリスの音楽に近づけたいという監督の意図でヨハンソンは途中降板することになり、ハンス・ジマー&ベンジャミン・ウォルフィッシュが代打した。ここで謎なのはヴァンゲリスは未だ健在(74歳)なんだよね。何で本人がやらないんだろう??厄介な人だ。

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はスタンリー・キューブリックの作品を【頭脳の映画】だと評している(対して、ゴダールやカサヴェテスは【身体(からだ)の映画】)。

キューブリックにおいては世界そのものが頭脳であり、『博士の異常な愛情』の輝く円形の大テーブル、『2001年宇宙の旅』の巨大なコンピューター、『シャイニング』のオーヴァールック・ホテルのように、頭脳と世界との同一性が成立している。『2001年』の黒い石は、宇宙の諸状態をつかさどるとともに、頭脳の諸段階をつかさどる。それは地球、太陽、月という三つの天体の魂であり、動物、人間、機械という三つの頭脳の胚珠でもある。キューブリックが秘儀伝授的な旅のテーマを革新したとすれば、それは、世界のあらゆる旅が、頭脳の探求であるからだ。(中略)『2001年』の終わりでは、まさに四次元にそって、胎児の領域と地球の領域は、計り知れない未知の新しい関係の中に入る幸運にめぐまれ、それが死を新たな生へと転換することになる。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

ドゥルーズの理論を応用すると、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品も【頭脳の映画】だと言える。アカデミー外国語映画賞にノミネートされた「灼熱の魂」(2010)に登場する双子の姉弟は、亡くなった母親の脳内(記憶)を探る旅に出る。またジェイク・ギレンホール主演「複製された男」(2014)は、一人の男の頭の中で展開される物語だ。彼はアダムという人格と、アンソニーという人格を分離させる。ドッペルゲンガー/二重身である。アダムは真面目で禁欲的な大学の講師。一方のアンソニーは売れない役者で、欲望のまま生きる(欲動イメージ)。映画の最後に主人公は脳内でアンソニーを殺す。アダムが生き残るが、彼の手元にふたたび誘惑者から鍵が送られてくるのだ(欲動の再起動)。それを監視するのが蜘蛛(主人公を抑圧する母親/妊娠した妻の隠喩)である。しかし結局、蛇(サタン)にそそのかされたアダムはリンゴ(知恵の実)を齧るだろう……。

昨年度アカデミー作品賞/監督賞にノミネートされた「メッセージ(Arrival)」の場合はどうだろう?これも言語学者であるヒロイン(エイミー・アダムス)の頭の中で起こった出来事と解釈可能だ。地球に飛来する”はかうけ”に似た宇宙船は「2001年宇宙の旅」における黒い石(モノリス)と同じ役割を果たす。それは彼女の過去ー現在ー未来を結び、現動化し、円環を成す。物事には始まりもなければ、終わりもない。彼女の生成変化を象徴するのが宇宙船の中にいる地球外生命体(ヘプタポッド)が使用する文字=円環構造だ。

「ブレードランナー2049」の主題となるのは一人のアンドロイド=レプリカント"K"の脳内で起きた生成変化だ。彼はピノキオのように「人間になりたい」と願う。物言うコオロギ、ジミー・クリケットの如く、彼の心の旅のお供をするのはホログラフィーAIのジョイ(Joy:歓び)。そこには【人間とは何か?】という一つの問いがある。そして最後に"K"は知る。人になるとは、まず自分ひとりだけの大切な記憶(秘密)を持つこと。そして誰かのために自分の命を投げ打っても構わないと思うこと。誰かに何かを残すこと。……何だか切ないね。ここで流れるのが何と、前作の音楽"Tears in Rain"。これには、してやられた!ピノキオを夢見るアンドロイドと言えばキューブリックの遺志をスピルバーグが継いだ「A.I.」だが、この回帰も偶然ではないだろう。ちなみに「A.I.」の主人公の少年の名はデヴィッドで、リドリー・スコットが監督した「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」に登場するアンドロイドもデヴィッド。これも意図的な所業だ。

「ブレードランナー2049」がロシアのアンドレイ・タルコフスキー監督の映画(具体的には「惑星ソラリス」「ストーカー」「サクリファイス」)を引用していることは沢山の識者が言及していることなので、ここで繰り返さない。代わりに誰も気がついていないことを指摘しておこう。

ホログラフィーAIジョイちゃんはレプリカントの娼婦(セクサロイド)マリエッティを雇い、同期する(Kと性交するために)。二人の女が立体的に重なる。これは完璧にイングマール・ベルイマン監督「仮面/ペルソナ」へのオマージュである。「仮面/ペルソナ」で二人の女は顔の右半分と左半分がくっついて合体するのだが、21世紀的手法を用いているのが本作のミソ(2D→3Dへ)。因みにヴィルヌーヴは「複製された男」でも「仮面/ペルソナ」を引用している(蜘蛛=世界を支配し、絡め取る者)。

あと2回目の鑑賞(TOHOシネマズ2D、1回目はIMAX 3D)でアッと想った。本作でハリソン・フォードは映画の終盤でしか登場しないのだが、これって「地獄の黙示録」のカーツ大佐みたいだね。主人公が暗殺の密命を帯びているのも共通している。そこで調べてみると案の定、ヴィルヌーヴ監督が「灼熱の魂」で、彼のお気に入りの「地獄の黙示録」オープニング・シーンを意識したというインタビュー記事を発見した→こちら!しかもハリソン・フォードは「地獄の黙示録」に出演している。あとジョイちゃんの巨大広告の場面はやはりコッポラが監督した「ワン・フロム・ザ・ハート」のナスターシャ・キンスキーね。公開年が初代「ブレラン」と同じ82年で、ラスベガスが舞台になっているのも一致する。

レイチェルとは旧約聖書に登場するラケル(Rachel)の英語読みである。前作ではあまり関係なかったのに、本作では旧約聖書の物語が重要な意味を帯びてくる。また新しい王(イエス・キリスト)がエルサレムに生まれたと聞き怯えたユダヤのヘロデ王が2歳以下の男児を皆殺しにするよう命じた新約聖書の物語も絡んでくる。こうして「ブレードランナー2049」は神話になった。

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宮﨑駿とフリードリヒ・ニーチェ 〜 風の谷のナウシカとは何者か?

上記事で宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」にドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想ー永劫回帰超人が深く関わっていることを明らかにした。

僕はその後も宮崎アニメとニーチェの関係について熟考を重ねた。すると、驚くべき事実に思い当たった。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは生の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになる。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

映画「風の谷のナウシカ」は”火の七日間”と呼ばれる最終戦争後、「腐海」が発する猛毒の瘴気に覆われた世界の物語である。人類は、発達し過ぎた文明による罪(自然破壊)を背負わされたラクダの状態にある。それを象徴するのがユパが引き連れているトリウマ(ダチョウに似た鳥類で、人々が馬代わりに利用する)のカイとクイ。彼らもまた重い荷を担いでいる。ユパらは砂漠でナウシカと出会う。彼女こそ笑うライオンだ(劇中に「姫様 笑うとる 助かるんじゃ」という台詞がある)。しかし時には獰猛になり、トルメキア兵を殺戮したりもする(この時彼女の髪は逆立ち、ライオンのたてがみのようになる)。

Anger

映画のクライマックスでナウシカは倒れ、オームの血を浴びて、古い伝承に「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」と歌われた人物として蘇る。つまり超人になるのだ。この時、幼い女の子の声で「ラン、ランララ、ラララン」と歌われる「ナウシカ・レクイエム」が流れる。これは別名「遠い日々」とも呼ばれ、当時4歳だった久石譲の娘、麻衣が歌っている(彼女は現在もプロの歌手として活躍し、先日NHKで放送された久石譲コンサート@パリでもこの曲を歌った)。ナウシカはニーチェの言う子どもに還ったのである。

ナウシカの肩にはキツネリスの「テト」が乗っている。これはツァラトゥストラにいつも寄り添っている鷲と蛇の代わりと言えるだろう。

宮﨑駿は「本へのとびらー岩波少年文庫を語る」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。

このニヒリズムの克服こそ「風の谷のナウシカ」のテーマであり、ニーチェに通底する課題である。

腐海は人間により汚染された壌土を清浄なものに変化させている。これは永劫回帰に導くための装置だ。

ツァラトゥストラは「軽やかにダンスし、鳥のように飛べ!」と言う。ナウシカは「鳥の人」だ。鳥の人」はサウンドトラック・アルバムのタイトルにも用いられている。

全般に宮崎アニメは飛ぶ人=正義であり、飛べない人は見下される傾向にある。「紅の豚」のポルコ・ロッソは次のように言う。

飛ばねぇ豚はただの豚だ

正にニーチェ哲学の実践である。

また「ツァラトゥストラはかく語りき」に次のような一節が登場する。

 ーしかし、人間も木も同じようなものだ。
 木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪のなかへ 
(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

これが「天空の城ラピュタ」の構造である。そして「バルス!」という呪文の言葉による崩壊の後、パズーとシータは木の根に助けられる。

「崖の上のポニョ」の嵐の場面ではワーグナーの「ワルキューレの騎行」(もどき)が高鳴る。実は若い頃のニーチェはワーグナーに私淑し、ワグナー論も執筆しているのだ(「悲劇の誕生」など)。

ニーチェを読めば、宮崎アニメをより深く味わうことが出来るだろう。

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夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」のすゝめ

本といえば今まで小説ばかり読んで生きてきた。哲学なんて難解なものは歯が立たない、僕には無縁だと思い込んでいた。ところがある日不意に、転機が訪れた。

ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読もうと決心した切っ掛けは2016年に公開された一本のドキュメンタリー映画だった。

本作は大阪を流れる淀川から道頓堀川に下る船の上で、第1回ドラフト会議で指名されNMBに入った須藤凛々花がニーチェを朗読するシュールな場面から始まる。

須藤といえばつい先日のAKB48総選挙で結婚宣言をぶちかまし、世間を騒然とさせた元メンバーである(既に卒業)。「人生を危険にさらせ!」という哲学本も出版しており、表題はニーチェの著書「悦ばしき知識(楽しい学問)」から採られている。たかだか19歳の小娘がニーチェを理解出来るのだから、僕に読めない筈はないと対抗心が沸々と湧いたのである。因みに秋元康は須藤のために、「ニーチェ先輩」という歌を書いた。その歌詞に《その深淵 覗いたとき 深淵もこちらをのぞいてる》とあるが、これはニーチェ「善悪の彼岸」からの引用である。

ニーチェ(18441900)の著書を実際手にとってみて驚いた。スラスラ読めるのである。難解なところが少しもない。硬い哲学書だという雰囲気が皆無のだ。これなら高校生でも大丈夫。「悦ばしき知識(楽しい学問)」にしろ「善悪の彼岸」にしろ、アフォリズム集になっているので実に読み易い。アフォリズム (Aphorism)の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス「アフォリズム」より)。

「ツァラトゥストラ」は光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳が読み易かった。なお、竹田青嗣「ニーチェ入門」(ちくま新書)と村井則夫「ニーチェ ーツァラトゥストラの謎」(中公新書)がガイドとしてたいへん役に立ったことを付記しておく。

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またフロイトやユングの打ち立てた深層心理学が、ニーチェから出発していることがよく分かった。意識↔無意識の関係や、コンステレーション(布置)についても先にニーチェが語っている。コンステレーションとは一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係もないように見えても、ある時それらが一つのまとまりとして重要な意味を成してくること。めぐり合わせ。

以来、心理学と哲学の関係は深い。20世紀フランスのミシェル・フーコー(1926〜84)は当初、心理学を学び、精神病院に努めていた時に患者がロボトミー手術を受けて廃人同様になったことに衝撃を受け、哲学者に転向した。

またやはりフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925~95)は精神科医フェリックス・ガタリ(1930~92)と組んで「アンチ・オイディプス」を書いた。これはフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスに反旗を翻す本である。ガタリとの共著は6冊に及んだ。なおドゥルーズはフロイトに対して否定的だが、フロイトと袂を分かったユングのことは高く評価している。

ドゥルーズは【哲学とは新しい概念を創造すること】だと定義したが、ニーチェが打ち出した概念の代表的なものは「アポロン的/デュオニソス的」「ルサンチマン」「神は死んだ」「力への意志」「超人」「永劫回帰」がある。

関連記事(上記ニーチェの概念について詳しく解説した)

ニーチェはpositive thinkingの人だ。常に前向きで未来に目を向け、ニヒリズム(この世は虚しいという考え方)を全力で否定する。そしてからだが大事と説き、ダンスして鳥のように飛べ!と活を入れる。そして最後は「笑うライオン」になれと言う。読んでいて元気が出るし、勇気が湧く。

ただ彼が女性蔑視の考えを持っていたことは否定出来ない。まぁ女性に参政権がなかった19世紀半ばの人だし、生涯を独身で過ごしたモテない男なので(ルー・ザロメに求婚するも振られている)、大目に見てあげてくださいな。

なお彼は1889年(44歳)に発狂するが、原因は梅毒 第4期(脳梅毒・神経梅毒)だった。これは作曲家のシューマンやスメタナと同じ病である。シューベルトも梅毒だったが、死因は水銀治療による中毒である。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は後世の芸術に多大な影響を与えた。リヒャルト・シュトラウスは同名の交響詩を作曲。マーラーは交響曲第3番 第4楽章にツァラの一節を引用し、アルト独唱に歌わせている。そしてこの楽曲はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」の最後、主人公の死の場面で流れた。さらにスタンリー・キューブリック監督の傑作「2001年宇宙の旅」との関わりは言うまでもない。

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映画「三度目の殺人」の哲学的問い

評価:A

Sand

映画公式サイトはこちら

「そして父になる」の是枝裕和が原案・脚本・編集・監督を担当した「三度目の殺人」には哲学的問いがある。ひとつは【人が人を裁くことは可能なのか?(法廷で真実は明かされるのか?)】、もうひとつは【生まれてこなかった方が良かった人間はいるか?】である。僕は後者に対してYes.と答える。アドルフ・ヒトラー、ポル・ポト、ヨシフ・スターリンらがその代表格であろう。しかし反面、ナチス・ドイツは人類に大きな問いを残した。それは【人はどこまで残酷になり得るのか?】ということ。我々は生涯をかけて、この問いを自問し続けなければならない。

真相は最後まで藪の中。そういう意味で本作は「羅生門」形式と言える。面白いのは加害者(役所広司)も被害者も、そして弁護士(福山雅治)も一人娘がいるという設定である。このことから同情や共感、共犯関係が生まれる。弁護士は当初真実には何の興味もなく、依頼人(被告)の減刑しか考えていない。ところが……予想外の展開が観客を待ち構えている。役所広司が怪演。レクター博士並みの不気味さで秀逸だ。広瀬すずのキャスティングもドンピシャ!

本来、検察官(検事)と弁護士は敵対関係にあり、裁判官は中立の立場の筈。しかし三者には阿吽(あ・うん)の呼吸があり、以心伝心で共謀することもあるという皮肉。裁判制度に一石を投じる奥深い映画だ。

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【アフォリズムを創造する】その9「ネット炎上」のメカニズムを読み解く

高校生・大学生らは学校の教室で友達に話すように気軽に「あの娘とヤリたい」とか「今日バイト先でこんな失敗をやらかした」とかtwitterとかフェイスブック、インスタグラムなどSNSに書き込む。

ドストエフスキーの「罪と罰」や島崎藤村の「破戒」でも描かれたように、自己の隠れた欲望や罪の告白は人びとの面前で行われなければならない。それはカトリック教会の懺悔室で行われてきた告解に似ている。告解は逆に、司祭(神父)が信者の心を支配する仕組みでもある。

秘密を自分の胸の内にだけしまっておくことは苦しい。開放し、風通しを良くする必要がある。

社会人もまた、会社の上司にムカついたことや、学校の先生が生徒の悪口をつい漏らしたりもする。ここではSNSがストレス発散の場として機能している。いわばカウンセリングルームでリクライニングチェアにゆったり横たわり、心理療法士/精神科医に語ることの代用品のようなものだ。あるいは居酒屋やバーでの気の置けない仲間との会話、個人的な日記に書き込むような感覚。

不思議な事に彼らはその告白の先に、自分に好意的な善人、信頼出来る相手(Intimate Friends)しかいないという幻想を抱いている。ネット社会が不特定多数の棲む世界に開かれており、悪意に満ちていることを知らない。

しかしネット民(フォロワー)たちは突然、カトリックの司祭に豹変する。自分たちの善悪の基準を押し付け、道徳を説き、お鬼の形相で「悔改めよ!」と迫るのだ。それが炎上(Flaming)である。彼らはSNSの発信者に自己の放棄を求め、死を命じる悪魔的権力となる。ジャンヌ・ダルクを火刑に処すように。彼らの潜在意識には、迷える子羊を導く羊飼いになりたいという、牧人願望がある。言い換えるなら他者の上に立ちたい、王様気分を味わいたいという仮想権力への憧憬(=妄想)だ。

SNSでは自分の幸せを呟くことも許されない。次の記事を読んでみて欲しい。→「マイホーム購入!」という冗談で、ネット民から袋叩きにされてしまった10代のカップル

ネット民は他人の幸福なんか許せない。彼らは血に飢えたオオカミのように生贄贖罪の山羊(scapegoat)を求めている。人は日々、不満や不快を抱えて生きていると無意識のうちにルサンチマン(弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情)を抱く。その標的となりやすいのが芸能人(例えば斉藤由貴)であり、政治家(今井絵理子)だ。特に不倫は絶対に許せない。「あいつだけ美味しい思いをしやがって!」という嫉妬心を沸々と滾らせるのだ。

芸能人が謝罪会見を開いたり、政治家が辞職することでネット民たちの昏(くら)い欲望は満たされ、彼らは甘い快感に浸ることが出来る。つまり王様気分だ。

芸能人にとってイメージは大切であり、ある程度倫理(アイドルの場合は恋愛禁止の掟)を求められるのは致し方ない。CMに出演している場合、購買者に悪い印象を持たれては商品(アイドルの場合はCD=握手券)が売れなくなってしまう。しかし政治能力と道徳は別だろう。ジョン・F・ケネディはマリリン・モンローと不倫の関係にあったが、今更そのことをとやかく言う者はいない。ケネディは大統領として立派な仕事をした。それで十分だ。

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【アフォリズムを創造する】その8「立証責任について」

「神は存在する」「神はいない」どちらに立証責任があるだろう?地球上を全て探しても神は見つからなかった。でも宇宙の何処かにはいるかも知れない。宇宙は果てしない。隈なく調べ尽くすことは不可能だ。だから不在の証明は出来ない。故に立証責任は常に「いる(存在する)」と主張する側だけにある。

これは「悪魔の証明」とも言われる。「ツチノコはいるか?」「宇宙人(地球外生命体)は存在するか?」などの議論も同様である。

次のように説く者がいるかもしれない。「瑠璃色の地球があること自体が奇跡です。そして我々人間が存在することも奇跡。だから創造主(神)は必ずいるのです」しかしこうも考えられないだろうか?「地球が誕生したのはたまたま偶然の積み重ね。進化の過程で人間が生き残ったのも自然淘汰でたまたま選別された結果」つまり人間が特別である、奇跡だという主張は詭弁であり、証明出来ない。

「神の存在」は絶対不変の真理ではない。それは概念 consept(思考によって捉えたものの表象、イメージ)だ。宗教とは概念の創造、つまり思想である。

ここで日韓合意後も、韓国がしつこく日本を誹謗中傷するいわゆる「従軍慰安婦」問題と、中国が主張する「南京大虐殺」について考察してみよう。今まで述べてきたようにそういう事実が「あった」と主張する側と「なかった」と主張する側のどちらに立証責任があるかは明白である。日本はただ、静観していればいい。何故なら無かったことは証明出来ないのだから。

いわゆる「従軍慰安婦」問題で最初に認識しておかなければならないのは、争点が第二次世界大戦当時の日本軍に慰安所があったかどうかではないことである。「慰安所はあった」「そこに働いている朝鮮人の女性たちがいた」ことは紛れもない事実。これは双方が認めており、問題にはならない。なぜなら1950年に勃発した朝鮮戦争の時にアメリカ軍にも韓国軍にも慰安所はあったからである。それは1970年の映画「MASH マッシュ」でも描かれている。つまり朝鮮人の女性(当時韓国は存在しなかった)が日本軍によって強制的に連行された事実はあるのか?という一点のみが争点となる。果たして韓国側は立証出来るのだろうか?そういうことを指示した軍の指令書は現時点で発見されていない。元慰安婦の証言も一切証拠にはならない。《ある日家にいたら女衒(ぜげん:人身売買の仲介業者)が突然現れて無理やり連れて行かれた》←これは江戸時代に遊郭に身を沈めた日本の女性たちにも起こった出来事である。果たして彼女の両親は女衒から金を受け取っていなかったのだろうか?貧しさゆえに業者と合意の上で「娘を売った」と、本人には言えない場合も当然あるだろう。そりゃ良心が咎めるだろうし、当人を責めることは出来ない。真相は藪の中だ。

次に南京大虐殺(1937)について。南京に民間人の死体が沢山転がっていた。これは事実だろう。しかしそれだけでは戦争犯罪にならない。日本人も非戦闘員が東京や大阪の大空襲、広島・長崎の原爆投下で多数犠牲になった。このことで誰かが罪に問われたことは未だ嘗てない。つまり争点は日本軍が(アウシュビッツでナチス・ドイツがしたみたいに)意図的に非戦闘員を処刑した事実はあるのか?という一点に絞られる。それが事実ならば軍の指令書がある筈だ。軍隊は縦社会だから、もし上からの命令がなく一兵卒の判断でそれが実行されたのであれば、軍法会議に掛けられた筈。その記録はあるのか?ここで問題となるのは便衣兵の存在である。一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことである。これは国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけられ処刑される。当時中国には便衣兵が多数いた。彼らを日本軍が処刑しても何ら問題はない。しかし、事情を知らない欧米人(ジョン・ラーベら)から見たら、日本人が中国の民間人を虐殺しているように映ったかも知れない。こちらも事実関係は藪の中だ。果たして中国政府は日本軍の戦争犯罪を立証出来るのだろうか?

最後に誤解が無いよう補足しておく。僕は第二次世界大戦において日本が正しく、日本軍は一切悪いことをしなかったなどとは一言も述べていない。当然悪いこともしただろう。しかしそれは蒋介石率いる中華民国軍も、毛沢東率いる中華人民解放軍も、日本に原爆(大量破壊兵器)を落とした連合国軍も同じ穴の狢である。お互いさま、恨みっこなしだ。

戦争において絶対的正義の側(善)と絶対的悪の側など存在しない。過去に拘泥し、恨みを抱いて相手側の罪を糾弾し続けたり、逆に罪悪感を抱いて卑屈になり繰り返し謝罪しても意味がない。目を未来に向け、不幸な過去を今後2度と繰り返さないようお互いに努力を積み重ねようではないか。否定はなしだ。建設的意見を言おう。

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「ゴドーを待ちながら」@京都造形芸術大学

9月10日(日)京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場 春秋座へ。

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サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」を観劇。

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芝居の前に大学キャンパス内にあるお洒落なカフェ・ヴェルディでランチをいただく。すると隣りに座った女子大生の会話が聞こえてきた。

「先日、古墳を見に行ったの」「私は車で神社に立ち寄った」「(天空の城)竹田城跡にひとりで行ったら、ガイドさんから『エッ、ひとりで来たの!?』と驚かれたわ」

といった内容で、ここは異世界だな!と感じ入った。因みにこの大学は、女優・黒木華(ドラマ「重版出来!」、映画「小さいおうち」、「幕が上がる」、「リップヴァンウィンクルの花嫁」)の出身校でもある。

また芝居の幕間に僕が「ゴドーを待ちながら」の台本を読んでいると、隣りに座った70−80歳代の老夫婦から声をかけられた。

「わたしたち学生時代にこれに出演したんですよ。懐かしくてみんなで観に来ました」

これにも心底驚かされた。

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アイルランドに生まれフランスに渡り、ナチス・ドイツ占領下のパリでレジスタンスに身を投じた経験を持つベケットは1969年にノーベル文学賞を受賞。しかしもし彼が、1952年に出版され翌年パリで初演された「ゴドーを待ちながら」を書いていなかったら、受賞はあり得なかっただろう。20世紀演劇界最大の問題作であり、最高傑作と称賛されている。この一作が世界演劇の流れを変えたとさえ言われる。オリジナルはフランス語だが、作者自身による英語版もあり、一部台詞が異なっている。アメリカ初演は惨憺たるもので、初日に最後まで残っていた観客はテネシー・ウィリアムズほか数名だけだったという。フランス語版は初演のままだが、ベケットは英語版を3回(ベルリン公演で2回+ロンドン公演で1回)改訂している。

今回はベケット作品を演るためにアイルランド・ダブリンで結成された演劇集団マウス・オン・ファイヤが、晩年にベケットが残した演出ノートに基づき上演した。演出はカハル・クイン。配役は、

  • エストラゴン:ドンチャ・クロウリー(アイルランド・コーク出身
  • ウラジーミル:デイビッド・オマーラ(ダブリン出身)
  • ポッツォ:マイケル・ジャッド(ダブリン出身)
  • ラッキー:シャダーン・フェルフェリ(インド出身)
  • 少年:下宮真周

日本語字幕は背景のスクリーンに映し出された。

本作は不条理演劇の代表作とされる。浮浪者ふたりが木の下でゴドーを待っているが、最後まで彼は現れない。Godotという名前にはGodが内包されており、「神の不在」がテーマとなっている。

僕が今回本作をどうしても観たいと想ったのは、映画「桐島、部活やめるってよ」がすこぶる面白かったからだ。

内容は哲学的である。デカルトは「方法論序説」の中で《我思う、故に我あり》と説いたが、ベケットは《いま思っている我(われ)って、誰(だれ)?》とその実存に疑問を投げかける。存在の不確かさ、生きるということへの茫漠とした不安(死への誘惑)。我々は何処から来て、何処へ行くのか?そして記憶の曖昧さ、あてにならなさ。押井守のアニメ「機動警察パトレイバー the Movie」とか「迷宮物件」などはゴドーから多大な影響を受けているように想われる。

登場人物たちは《救済》とか《希望》、《夢の実現》を待ち続けている。でも実際のところ何も起こらない。手持ち無沙汰、宙ぶらりんな状態。人生ってこういう日々の繰り返しなんじゃない?とベケットが語りかけてくるように僕には想われた。

かつて「ゴドーを待ちながら」は何を表現しているのか?と問われたベケットは「共生だよ」と答えたという。エストラゴンとウラジーミルの関係は「友愛(腐れ縁)」であり、途中から登場する金持ちのポッツォとその奴隷・ラッキーは「主従」ー抑圧する者とされる者を表現している。またポッツォが何度もゴドーと間違えられる場面があり、イエス・キリストのイメージが重ねられているとも解釈可能だ。今回の演出でも3人が地面に倒れる場面はポッツォが中央、エストラゴンとウラジーミルがその両脇に配され、全員が両手を真横に伸ばし、足を交差する姿勢をとっていた。つまり十字架にかけられたイエスと2人の悪党を象徴させていたのである。舞台にポツンと立つ柳の木も十字架の形だった。

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ベケット自身、本作が刑務所で上演されるのを支援し、囚人たちがこの劇に描かれた「待つこと」や抑圧、無力に共感する姿を目の当たりにしたという。そしてマウス・オン・ファイヤもアイルランドの幾つかの刑務所で上演している。

芝居がはねた後、大学の教室に場所を移し、ポスト・パフォーマンス・トークが開催された。カハル・クインと、東京大学名誉教授でフランス文学者、そして演出家でもある渡邊守章がパネリストを務めた。

渡邉がフランスに留学したのが1956年。船旅で本来なら30−31日でつく筈が、折り悪く10月29日から第二次中東戦争が勃発、スエズ運河が閉鎖になった。よって航路が迂回されたため、53日かかった。だからその時はベケットどころではなく、結局パリで観ることが出来たのは1960年代後半(68年の五月革命前夜)だったという。

またかつて蜷川幸雄が1994年に銀座セゾン劇場で市原悦子・緑魔子らにより《女相撲版》「ゴドーを待ちながら」を上演したことがあり、後に無許可だったことがバレて版権元から大目玉を食らったそう。生前にベケットは女性が演じることを決して認めなかった。

クインはまず本作がtragicomedy(悲喜劇)であり、悲劇と喜劇のどちらか一方に偏るべきではないという見解を述べた。スラップスティック(どたばたギャグ)という側面もあれば、悲しみとか痛みに浸る場面もある。登場人物たちが喋っている場面は沈没するボートの水を一生懸命掻き出している状況であり、繰り返される間・沈黙は悲劇であったり死を意味している。そして彼はベケットが愛読していたというショーペンハウアー(ドイツの哲学者)の著書「意志と表象としての世界」から次のようなアフォリズムを引用した。

人生は、全体を眺め最も重要な特徴のみを強調するなら正しく悲劇だが、仔細に見れば喜劇的性格を帯びている。

またウラジーミルは月とか柳の木とか上を見る動作が多いので声のトーンが高い役者を起用し、エストドラゴンは足元とか地面を見ることが多く、トーンが低い役者にしたと。さらに第1幕最後は背景の空を赤く、満月を青くして「繰り返し」を示し、第2幕最後は空を青、月を赤くして日食や世界の終末を示唆したそう。

いや〜刺激に満ちた貴重な体験だった。

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【アフォリズムを創造する】その7「矛盾について」〜宮﨑駿という男

世の中では首尾一貫した行動が褒められる。「AだからBだ」と筋が通った発言が求められる。原因があって結果がある。それは一般に永遠不変の真理とされる。例えば「神様がいるから、現在の我々が存在する」といった具合だ。旧約聖書によると人(アダム)は神の姿に似せて創造され、女(イヴ)はアダムの肋骨から創られたという。

論理的思考が法体系を整備し、科学を発展させてきた。コンピューターは全て2進法で計算し、情報を処理する。

「辻褄が合う」ことが良いとされる。そういう理屈を考えるのは意識自我(ego)の部分だ。しかし人のからだ・自己(self)はもっと大きな理性で出来ている。そこには無意識が含まれる。無意識混沌としており、という訳の分からないもので出来ている。深層心理学において、それを探る方法が分析である。

宮﨑駿のアニメーション映画「風の谷のナウシカ」を初めて観たのは大学生の時だった。その時から僕は「矛盾に満ちた人だなぁ」と想っていた。

宮さんは「戦争は駄目だ」「《風の谷》のように人は自然とともに生き、自給自足の生活をおくるのが一番幸せだ」と言う。しかし宮崎アニメの醍醐味は戦闘シーンにある。彼は戦車や戦闘機など殺戮兵器が大好きだ。意識が語る言葉と、からだが示すことが分裂している。その極めつけが次の場面だ。

ペジテ市の輸送船に捕えられたナウシカの脱出をアスベルが助ける。メーヴェに乗り飛び立つナウシカをトルメキア帝国の武装航空コルベットが追撃する。万事休すかと思われたその時、ナウシカの救援に駆けつけたミトのガンシップが正面から忽然と現れ、その砲撃でコルベットは大破、撃沈する。ナウシカは当初「ミト!」と満面の笑みを浮かべるが、その直後に炎上し墜落するコルベットを振り返り、「嗚呼、あの船に乗っている人たちは皆死んでしまうんだわ」と哀しみの表情に変わる。「殺さないで!」と叫ぶ一方で、敵を殲滅することで自分が助かったのを喜んでいる(実際別の場面で彼女は怒りに駆られ、トルメキア兵を数名殺戮している)。完全に矛盾している。

平和や自然、調和を愛する(アポロン的である)一方で、根源から湧き上がる破壊衝動(デュオニソス的側面)がある。この矛盾は終始、宮崎アニメに付き纏ってきた。

宮﨑駿は一貫して共産主義者(communist)である。東映動画時代は高畑勲と一緒に労働組合幹部として会社と闘った。《風の谷》も、「もののけ姫」の《たたら場》も、生活共同体(commune)幻影の産物である。しかしその反面、スタジオ・ジブリ時代は日本テレビと組み大ヒットを飛ばし、米国配給では資本主義の権化とも言うべきディズニー・スタジオの協力を得た。もし宮﨑駿がソビエト連邦や中華人民共和国に生まれていたら、今日のような作品は生み出せなかっただろう。これも矛盾だ。

そんなある日、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが彼にこう言った。「宮さん、矛盾に対する自分の答えを、そろそろ出すべきなんじゃないですか。年も年だし」そうして生まれたのが「風立ちぬ」である。

「風立ちぬ」の堀越二郎は悪魔に魂を売った男である。彼は零戦の設計に全精力を注ぐ。それは殺戮兵器=戦闘機である。何故か?「美しいから」……答えは極めてシンプルだ。彼は善悪の彼岸にいる。他人からどんなに誹られようと構わない。糾弾・問責はしっかりと受け止める。それでも夢を信じ、自分がやりたいことを貫き通す。その覚悟についての物語である。つまり本作の肝は、力強い矛盾の肯定だ。真に美しい映画であった。

混沌(chaos)から創造が生まれる。世界は矛盾で満ちている。矛盾した自己(self)、混沌とした世界をまず肯定することから生を始めよう。

また宮﨑駿へのインタビュー記事をまとめた本「風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡」の中で彼は次のように語った。

旧約聖書の中の一書)伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。

引用文中下線部は噺家・立川談志の言う「人間の業」の肯定と全く同じ趣旨である。

そして(「人生なんて所詮こんなものだ、意味なんかない」という)ニヒリズムを突破し、自分自身を克服せよ!という主張はニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じたこと。宮﨑駿はあくまでPositive thinkingの人なのである。

ギリシャ神話において、パンドラの箱を開けると世界に禍々しい災厄がもたらされるが、最後に「希望」が残った。「風の谷のナウシカ」や「崖の上のポニョ」のラストシーンが正にそれである。

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【アフォリズムを創造する】その6「芸術について」

音楽は言葉で表現できないことを語る。つまり夢=無意識に関わる芸術である。一方、文学は言葉で語る。それは意識・自我(ego)に属している。では映画(アニメ含む)はどうか?映画のはじめに言葉ありきーシナリオは言葉で綴られる。しかし同時に映像はイメージであり、音楽も加わりそこに無意識が忍び込む。故に映画は意識+無意識=自己(self)を表現する。

上の式を図で示すと次のようになる。

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図全体が自己(self)だ。これはユング心理学からの引用であるが、ニーチェは次のように語っている。《兄弟よ、君が「精神」と呼んでいる、君の小さな理性も、君のからだの道具なのだ。君の大きな理性の、小さな道具であり、おもちゃなのだ。「私は」と、君は言って、その言葉を自慢に思う。「私は」より大きなものを、君は信じようとしないがー「私は」より大きなものが、君のからだであり、その大きな理性なのだ。大きな理性は、「私は」と言わず、「私は」を実行する。(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)》つまり「精神」(小さな理性)=自我であり、からだ(大きな理性)=自己と解釈出来る。

以前のアフォリズムで紹介したように、例えばイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」冒頭に登場するタランチュラはイエス・キリストの、「2001年宇宙の旅」の太陽はツァラトゥストラ=ニーチェのメタファーであり、イメージの世界だ。新海誠監督「君の名は。」も三日月(三葉)、半月(かたわれ)、満月(三葉と瀧の結合)といった具合でイメージの洪水である。

映画は運動を描く。英語でもmotion picture(動く絵)と書く。つまりからだと同義だ。そしてそのイメージは観客の心の深層(魂)に働きかける。

イメージは無意識を探るため、心理学でも利用されている。その代表例がロールシャッハ・テストである。

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また心理学者・河合隼雄が日本に紹介した箱庭療法も言語化出来ないイメージを活用している。

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J.S.バッハから古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)を経て、ロマン派(ブラームス、ワーグナー、マーラー)に至るまで、作曲家たちは夢=無意識を描く音楽を、小さな理性でコントロールしようとしてきた。その手段が、旋律・調性・和声・拍子・形式である。ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、リゲティら20世紀の作曲家たちが挑戦したのは、その枷(かせ)を取り払い、音楽を混沌(Chaos)に引きずり戻す作業であった。それは「アポロン的」表現から「デュオニュソス的」表現への変換を意味していた。

調性とは長調とか短調のこと。形式とはソナタ形式(主題提示部-展開部-再現部-終結部)・ロンド形式(A-B-A-C-A-D-A)・三部形式(A-B-A')・変奏曲などを指す。ハイドンからマーラーの時代まで約150年間、交響曲やソナタといえば第1楽章がソナタ形式で、中間に緩徐楽章や舞曲(メヌエットまたはスケルツォ、三部形式)を挟み、終楽章は再びソナタ形式かロンド形式とほぼ型(フォーマット)が決まっていたのだから驚くべきことだ。それは音楽という暴れ馬に馬具を装着し、制御するシステムであった。この工夫により聴衆は頭(意識)で全体像を把握し、理解することが出来た。

しかしシェーンベルクは十二音技法を生み出すことで調性を破壊し、音楽は協和音から不協和音が支配する世界に突入した。旋律や形式も木っ端微塵に打ち砕かれた。

「アポロン的」と「デュオニュソス的」対立軸はニーチェがその著書「悲劇の誕生」(1872年出版)でギリシャ悲劇を引き合いに出して創造した概念である。ギリシャ神話に於けるアポロン神は理知的で、情念(混沌)に形(フォルム)を与え、高尚な芸術へと昇華させる力を象徴している。一方、デュオニュソス神はバッカスとも呼ばれ、豊穣とブドウ酒、酩酊の神である。祝祭における我を忘れた狂騒や陶酔を象徴する。つまり秩序化された世界を、もう一度根源的なカオスに解体する力を司るのだ。アポロンは英知と理性であり、デュオニュソスは泥臭い人間の業(ごう)、欲深い本性であるとも言える。

確かにダンス・ミュージックであるベートーヴェンの交響曲第7番はある意味ディオニュソス的である。しかし知性(旋律・調性・和声・拍子・形式)でコントロールされている。手綱はしっかりアポロンが握っているのだ。

こうして見ると、1913年にパリで初演され、大騒動となったバレエ音楽「春の祭典」が果たした役割が理解出来るだろう(パニックの顛末は映画「シャネル&ストラヴィンスキー 」に描かれている)。それまでの音楽は知的で上品であり、調和に満ちていた。ストラヴィンスキーはそこにデュオニュソス的な、原始的で荒々しいどんちゃん騒ぎを持ち込んで建築物をぶっ潰し、混沌(土)に戻したのである。ベルクやバルトーク、リゲティ、武満徹らが成し遂げたことも、同じ方向性であった(武満の音楽は流動的な「水」や「夢」をテーマにしたものが多い)。

20世紀美術も音楽と同様な流れを辿った。ピカソが「私の唯一の師」と讃えるセザンヌを経てキュビズム(立体派)が完成され、やがてフォルムが解体されて抽象絵画に突き進んだ。人物/静物の輪郭=実際に目に見えるもの(意識)であり、それが失われるとイメージや無意識(魂)が残った。

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