哲学への道

君たちはどう生きるか?

将来、当ブログを読むであろう息子(現在小学校1年生)に向けてこの文章を書く。僕が今まで生きてきた過程で学び、培ってきたフィロソフィー(哲学/哲理)を語ろう。

① 生成変化しない者に価値はない。

生成変化とは、20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが打ち立てた概念である。2018年、秋元康が作詞した乃木坂46の"Against"(卒業する生駒里奈に贈った楽曲)が生成変化とは何かを教えてくれる(視聴はこちらから)。

僕らは変わらなきゃいけない
永遠なんか信じるな!
昨日の自分とは決別して
生まれ変われ!

このままここに居続けるのは
誰のためにもならない
新しい道を切り拓いて
立ち向かうんだ
アゲインスト (秋元康 詞)

僕は10代の頃から「昔は良かった」と言うような大人には絶対になりたくない!と決意していた。そして幸いなことにならなかった。「今」が一番楽しいし、「今」が一番充実していて、濃密な時間を生きている(現在進行形)と胸を張って言い切れる。20歳の自分より「今」の自分の方が絶対に賢い。昔の映画の方が面白かった?そんなの嘘っぱちだ。ただ感性が衰えただけ。

《生きながら死んでいる、化石のような大人》にはなるな!そのためには本を読み続けること。新しいもの(音楽・映画・演劇など)を貪るように吸収し、感性を磨くこと。生涯が学びの場だ。そのことを肝に銘じるべく、次の詩を紹介しよう。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

(中略)

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

(茨木のり子/詩集「自分の感受性くらい」所収)

② 境界を超えろ。自分の周囲にあるを壊せ!

漫画「進撃の巨人」のを思い出してくれたらいい。

「新世紀エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン新劇場版)」で言えばA.T.フィールドね。境界を超えるとはつまり、生成変化に繋がる。更に言い換えるなら《トリックスター(遊戯的撹乱者)になれ!》ということ。

対立する二つの陣営があったら、どちらにも組みすることなく、両者を仲介し、循環する存在になれ。思いっ切り混ぜっ返せ。それがトリックスター(遊戯的撹乱者)だ。循環をニーチェ哲学の言葉で言い表すなら永劫回帰となる。

③ 欲望に忠実に生きなさい。但し、他人の迷惑にならない範囲で。

「禁欲」は美徳ではない。愚かなだけ。履き違えるな。折角この世に生を得たんだ、チャンスは二度とない。せいぜい限りある人生を楽しまなくちゃ勿体ない。しかし新しい土地を得たいからと戦争して他国を侵略しちゃいけないし、性欲を満たしたいからと強姦するのも駄目。他人の犠牲の上に自分の幸福を築くな。これが最低限のルール(抑止力)だ。

立川談志「現代落語論」の言葉を借りるなら、「人間の業(ごう)」を肯定するということ。彼の著書「あなたも落語家になれる」から以下引用する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。
落語をお聴きなさい。

④ 矛盾を恐れるな。首尾一貫しなくていい。

矛盾していていいんだということはアニメーション作家(引退詐欺師!)・宮崎駿の生き様から学んだ。

将来を見据えた、理路整然とした人生設計なんか要らない。「予定通りいかない。番狂わせが面白い(ミュージカル「エリザベート」より死神トートの台詞)」出たとこ勝負だ!

若い頃僕は、例えば海外旅行に行く時に第1日目はここへ行って、次はあそこ、と時間刻みの綿密な計画を立てていた。でもある日、旅の醍醐味って想定外の出会いにあることに気が付いたんだ。事前の計画は大雑把でいい。後は現地で得る自分の感(臭覚・触覚 etc.)を信じるのみ。

野生の思考
を絶えず研ぎ澄まし、その場にあるありあわせのものでブリコラージュ(器用仕事/寄せ集め細工)すること。為せば成る。なんとかなるさ。

⑤ 行き詰まったらその場で踏ん張らず、直ちに「全力で」逃げなさい。逃げるは恥でも役に立つ。

学校でいじめられて、どうしようもなくなったら転校すればいい。それだけのこと。ジル・ドゥルーズの提唱する概念で語るなら、皆が当たり前と思って歩く道を逸れ、逃走線を描け!ノマド(遊牧民)として生きよ。ということになる。君が今いるそこだけが世界じゃない。失敗したら新天地で何度でもやり直せばいい。もっと視野を広げてごらん。追い詰められて、思い詰めて、自殺するなんて馬鹿げている。徹底的に自分を肯定すること

⑥ 生きる意味を考えるのは構わない。でも答えを求めるな。正解なんかないんだ。

人間というのは自分が生きる意味をどうしても考えてしまう生き物だ。余り思いつめると新興宗教にはまり、地下鉄でサリンをばらまいたりする羽目になる。マルクス思想に絡め取られ、銃を握りしめて浅間山荘に立てこもった若者たちもいたな。でもね、人は誰しも、いつかは必ず死ぬ。金持ちも、貧困層も、頭が良かろうが悪かろうが皆平等だ。そして息を引き取る最後の瞬間まで自分は何故いまここにいるのか、その意味を考え続ける。多分それ自体が「生きる」ということなんだ。つまり答えのない質問(The Unanswered Question)を問い続けること。人生には「目的」も、「神の計画」もない。「過程」が全てだ。

神は死んだ(by ニーチェ)。万物は流転する。

もしも僕の生に何らかの意味があるのだとしたら、それは「つなぐ」ことなのだろう。僕の人生の中で得たものを次世代に伝える。そうすれば君たちはさらに「その先に」進める筈だ。人類の歴史はその繰り返し(経験と知識の集積)だった。だから僕は今、ブログを書いている。君たちもリレーに参加し、つなぎなさい。但しゴールはないんだ。

⑦ 正義とか悪、不変の真理を説く者を信じるな。徹底的に疑え!

「正義」を騙(かた)る者の胡散臭さをまざまざと見せつけたのはジョージ・W・ブッシュ元アメリカ大統領である。イラクのフセイン大統領を「悪の枢軸」と決めつけ、大量破壊兵器があると主張して侵略戦争を実行した。しかし結局、大量破壊兵器は影も形も見つからなかった。2001年9月11日に勃発した同時多発テロの直後にブッシュの支持率は92%に達し、「史上最高」を記録した。ブッシュもどうかと思うが、熱狂的に彼を讃え、信じたアメリカ国民も救いようがない。アドルフ・ヒトラーを支持した当時のドイツ国民と大した違いはない(ナチス党は普通選挙で第一党となった)。どうして人はこんなに騙されやすいのだろう?暗澹たる気持ちになった。

大学生の頃、手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」を読んで衝撃を受けた。そこには【戦争に「正義の側」と「悪の側」などというものは存在しない】ことが明確に書かれていたのである。ナチス・ドイツに迫害されイスラエルを建国したユダヤ人は結局、4度にわたる中東戦争を通じてパレスチナ人を虐殺している。そこまで手塚は描いている(後にポール・バーホーベン監督「ブラックブラック」にこのテーマは継承された)。結局「正義」とか「悪」という価値観はあくまで相対的なものであって、絶対的なものではないのだ。時代や場所によって変わるし、戦争では勝った者が「正義」であり、勝者が敗者を一方的に裁くことになる(ジャンヌ・ダルク処刑裁判/ニュルンベルク裁判/東京裁判)。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは言い得て妙だ。故に「永遠に不変(普遍)の真理」など存在しない。そういうものを説く教祖・司祭の言葉は眉唾ものと思い、化かされないようご用心なさい。

⑧ 世の中、言ったもん勝ち。

これは本当に大切なことだ。きっちり自己主張すること。遠慮しては駄目、勿体ない。控えめにして出しゃばらないことが美徳だと考えている日本人は多いが、絶対に間違い。結局自分が損をする。間違っていてもいい、とにかく声に出す勇気を持つこと。それで失敗したら修正して言い直せばいい。それだけ。疑問があったら必ず手を挙げて質問してごらん。きっと世界が広がるから。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。

人間の条件はコミュニケーションを取ること。これに尽きる。そのためにはまず自分の意志を相手に伝えなければ始まらない。勿論言いっぱなしでは駄目で、相手の言葉にも耳を傾けよう。僕が敬愛してやまない大林宣彦監督の言葉を紹介する。「人は傷つきあって、許しあって、愛を覚える」(原文こちら)ーこれこそ数々の映画たちが今まで語ってきたことである。

⑨ くよくよ悩まず、結論を出すのは明日に延ばせ!

アメリカ合衆国の政治家ベンジャミン・フランクリンの格言で「今日できることをあしたにのばすな(Never put off till tomorrow what you can do today.)」がある。これは行動(Act)の話。僕が言っているのは思考(Thinking)のこと。僕が今まで出会った中で、最も影響を受けた(心に響いた)小説はマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」とレフ・トルストイの「戦争と平和」である。どちらも中学生の時に読んだ。以下「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラの名台詞を引用する。

"I'll think about that tomorrow. (中略)Tara! Home. I'll go home. And I'll think of some way to get him back. After all... tomorrow is another day."
「そのことはまた明日考えましょう。タラ!そうよ、我が家。お家に帰ろう。そして彼(=レット・バトラー)を取り戻す方策を練るのよ。だって結局、明日は明日の風が吹くのだもの」

よい考え、ひらめきは、ひょんなことから生まれることがある。例えば秋の虫や鳥の歌声に耳を傾けながら散歩している時、あるいは空に浮かぶ雲をボーッと眺めている時。それは不意にやって来る。だから焦らず、まずはゆっくり睡眠時間を取ろう。懸案事項は一晩寝かせることも大事。すると新たに見えてくるものもある。このブログ記事だって実は毎日少しずつ書き足しながら、1ヶ月ほどじっくり熟成させた成果なんだ。

最後に、フェデリコ・フェリーニ監督の映画「8 1/2」の名台詞を、未来を生きる君たちへの餞の言葉としたい。

⑩ "È una festa la vita, viviamola insieme."
  「人生は祭りだ!一緒に過ごそう」

さあ踊れ、そして騒げーっ!!

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何故ひとは、二項対立で思考するのか?その根源に迫る。

社会(文化)人類学者レヴィ=ストロースについて色々書いてきた。彼の構造分析に出会い、大いに魅了されたからである。因みに社会人類学 (Social Anthropology)は主にヨーロッパで用いられる名称で、文化人類学 (Cultural Anthropology)はアメリカで用いられる名称である。レヴィ=ストロースはフランス人なので、彼に敬意を表し社会人類学とする。

レヴィ=ストロースは1962年に出版した「野生の思考」で一世風靡し(ブリコラージュという概念も流行った)、構造主義を打ち立てた。後半生は壮大な構想による「神話論理」4部作に専念した。

彼はこう説く。一つの神話だけでそれを解釈することは不可能であり、出来うる限り近隣の類似する神話を集め、各々最小単位(誰が、誰に対し、何をした。という短い文)まで分解し(それを彼は神話素と呼ぶ)、神話群相互関係を熟慮し、共通する神話素を見出す。

神話群間には変換(変奏)を伴う。例えばこうだ。

①A→B→C→D→E
②A'→C'→B'→F→E'
③A''→F'→D'→C''→E''

A,B,C…は神話①を構成する神話素であり、神話②③のA',B',C'…はその変換(変奏)を示す。対応する順番は入れ替わることがあり、通時的だけではなく、共時的に把握する必要がある。これを神話の〈時間統合機能〉と呼ぶ。つまり時間の流れに沿って左から右に読むだけではなく、同時に交響曲の総譜(フルスコア)のように、上から下に眺める必要がある。神話素(細部)は変換されるが、構造は不変である

共時態=〈時間統合機能〉とはフランスの哲学者ベルクソンが説く逆さ円錐モデルで考えると分かりやすいかも知れない。

神話の構造はJ.S.バッハ以降の西洋音楽の形式に似ている。A-A'-A''の関係は主題(A)と変奏(A',A'')だ。私たちは変奏曲に接した時、無意識のうちにそこに主題を重ねて聴いている(共時的)。そうして初めて曲の構造が理解出来る。例えばモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナーらの(任意の)交響曲 第1楽章を見てみよう。全て同じ構造を持っている。第1楽章はソナタ形式と相場が決まっていて、(序奏:ある場合とない場合がある)→提示部(第1主題、第2主題)→展開部(主題の変奏)→再現部(原型主題の再登場)→終結部となっている。構造は同じだが内容(主題の旋律、変奏様式)には変換がある。そこに作曲家の個性が滲み出るのだ。

神話と他の神話との変換関係は幾つかのコード(規則/規定)にそって(手がかりにして)見てゆく。

コード(規則/規定)には【料理のコード(生のもの↔火を通したもの)】【宇宙論のコード(太陽↔月↔地上)】【空間のコード(近すぎる接触↔遠すぎる分離、水平↔垂直)】【婚姻のコード(婚姻的〈夫婦〉↔非婚姻的〈忌避〉】【親族関係のコード(近しい↔疎遠)】【季節のコード(雨季〈湿った〉↔乾季〈乾いた〉)】【植物学のコード(つた植物〈天〉↔樹〈地上〉↔水生植物】【動物学のコード】【心理=身体的(性的)コード】などがある。

構造分析の手法は演劇(オペラ、ミュージカル)や映画にも応用出来る。一番分かりやすい例はシェイクスピア「ロミオとジュリエット」とミュージカル「ウエストサイド物語」だろう。シェイクスピア「マクベス」↔黒澤明「蜘蛛巣城」、シェイクスピア「リア王」↔黒澤明「乱」でも良い。構造は全く同じ、しかし細部に変換を伴う。

ここでマーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」とノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」の共通項/構造的対応関係を見てみよう。

  1. 内戦が勃発する(南北戦争↔ロシア革命)
  2. 家族が引き裂かれる(スカーレット・オハラの母は病死し、父は狂い、妹たちとは対立する↔ジバゴの家族はパリに亡命する)
  3. 神出鬼没、境界を超えて活躍するトリックスターが登場する(レット・バトラー↔弁護士ヴィクトル・コマロフスキー)
  4. スカーレットはレットにチャリティ舞踏会で再会する↔ジバゴはコマロフスキーにクリスマス舞踏会で初めて合う
  5. スカーレットは2人の男(アシュレー、レット)を愛す↔ジバゴは2人の女性(ラーラ、トーニャ)を愛す
  6. アシュレーには妻メラニーがいる↔ラーラには夫パーシャがいる
  7. 物語の最後にスカーレットはひとりぼっちで故郷タラに帰る↔ジバゴはひとりぼっちでモスクワに帰る

こうして分析すると両者は全く同じ構造を持つことがご理解頂けるだろう。

しかし、だからといってパステルナークが意識的にミッチェルを模倣したわけではないだろう。レヴィ=ストロースの構造分析はユングが言うところの普遍的(集合的)無意識の探索である。彼の守備範囲は人類学のみならず、音楽、ソシュールの言語学、深層心理学、哲学的思考にも及ぶ(レヴィ=ストロースは若い頃、哲学の教師だった)。正に彼こそが境界を超えるトリックスターであった。それ故に、フロイトに匹敵する偉業を成し遂げたにも関わらず、多くの人々に理解されているとは言い難い。とても残念だ。

僕は他にも次のような構造分析をした。

コード(規則/規定)の項で示したように、ひとは常に二項対立で思考するとレヴィ=ストロースは主張する。コンピューターの情報処理も二進法だ。0か1か - YesかNoか - その問いを繰り返し、積み重ねることで、ひとの思考を模倣出来る。さらに彼は次のように語る。

人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点はきまってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表しているとすれば、結局のところ、人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう。(「神話と意味」大橋保夫訳、みすず書房)

レヴィ=ストロースの論理に従い、ひとが必ず二項対立で思考するのなら、宇宙にも二項対立があるのではないだろうか?僕はそう考えた。

ここで面白いことに気がついた。地球上の動物はみな左右対称である。対称ということは二分割出来るということだ。

人間には手・足など二つある器官が沢山ある。目は二つないと立体視出来ない。耳は二つないと音の方向が識別出来ない。だから必然性がある。しかし鼻の穴は二つ必要だろうか?また女性の乳房は子供を育てるのに二つないと困る?精巣とか卵巣だって、二つなくても子作りは出来そうだ。腎臓も片方を摘出しても人間は生きていける。どうして二つあるのだろう?考えてみれば不思議である。

豚の乳首は7対=14個ある。猫:5対=10個、犬:4対=8個、熊:3対=6個、牛:2対=4個、つまり産子数が減ると乳首の数も減るが常に左右対称であり、一つにはならなかった

ひとの心臓は一つだが内部は右心と左心に分かれている。魚類には右心と左心の区別がなく、カエルの心室は一つしかない。

Heart_2

こうして見ていくと動物は進化とともに器官を二つに分離しようとする傾向が強いことがお分かり頂けるだろう。そして脳も右脳と左脳に分離している。DNDの立体構造は二重らせんだ。この事実と、人が二項対立で思考することは決して無関係ではないだろう

レヴィ=ストロースは神話変換が周辺に広がっていく様子を教会のステンドグラスの薔薇模様に喩えた。

Rose

これはまるで細胞分裂のようだ。

Dna

1つの細胞が2つになり、4,8,16……と【2のn条個】に増殖していく。 ということは必ず2で割り切れる。だから真核生物はすべて左右対称なのだ。そして人の思考法もこの体細胞分裂を模倣する

では「宇宙の秩序」とは何か?それは「球形」である。星の形を見てごらんなさい。無重力空間の宇宙には上下も左右もない。だから物質は球になる。

これが地上では重力の影響で円、または回転対称になる(粘土で作った球を対側から挟んで押しつぶしたイメージ)。(上空から見た)山や湖の形、木の形、そして植物や花の形が該当する。一輪の花や一本の木を考えた場合、そこに回転対称はあるが左右対称など一対のみの対称はない。ランダム性のあるアメーバ運動をする原生生物にも回転対称が認められる。ところが高等生物になると全てが(限定的)左右対称になる。つまり水平方向の直線運動をするようになり、(無機物・植物)回転対称→(動物)左右対称に移行したと言える。円を一方向に引っ張ったイメージだ。

ユングはチベット仏教の曼荼羅図形こそ自己の象徴であり、普遍的(集合的)無意識の中にある元型であると考えた。

そして教会の薔薇窓も回転対称である。ひとの無意識の源流を遡ると、円に辿り着く。

古事記に記載されているイザナギ・イザナミの日本神話、そして旧約聖書の「創世記」にせよ、神話は必ず天と地の分離から始まる。それは【重力freeの世界↔重力に囚われた世界】の二項対立だ。つまり重力こそが二分割思考の原初なのである

僕の仮説がもし正しければ、無重力空間に知的生命体は生まれないということになる。さて、読者の皆さんはどう思われますか?

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石丸幹二 主演/ミュージカル「ジキル&ハイド」に認める反キリスト(Anti-Christ)思想

3月31日(土)梅田芸術劇場へ。レスリー・ブリッカス作詞・台本、フランク・ワイルドホーン作曲のミュージカル「ジキル&ハイド」を観劇。

Jh

「ジキル博士とハイド氏」と言えば二重人格を描いた小説として余りにも有名である。これぞ正に二項対立の代表例であり、そもそも表題自体が一人の人物を二分割したものである。

このミュージカルに登場する二項対立を挙げてみよう。

ジキル↔ハイド
善↔悪
正気↔狂気
純潔・貞操↔欲望
慈心・徳行↔偽善
建前↔本音
仮面↔素顔
平和(和合・協調)↔戦争(闘争)
天国(聖職者)↔地獄(業火に焼かれる)

エマ(貴族)↔ルーシー(娼婦)
純粋無垢↔汚れ
豊か↔貧しい

ヘンリー・ジキル博士の悲劇は、自分の人格を善と悪に完全分割しようとしたことにある。今回の観劇で初めて理解したのは、この設定が強烈なキリスト教批判(Anti-Christ)になっているということ。キリスト教だけではなく、西洋人の思考方法そのものが批判の対象になっているとも言える。

父性原理」を特徴とするキリスト教は【天使↔悪魔】/【天国↔地獄】/【光↔闇】を完全に分離切断する。そして両者を媒介調停/循環)する第三の項(e.g. トリックスター)を決して認めない。言い換えるなら衝突を緩和する緩衝地帯境界領域を設けない。ここが「母性原理」に生きる我々日本人や、南北アメリカ原住民らが有する「野生の思考」との決定的違いである。

キリスト教では【禁欲↔欲望】も分離されるのでカトリックの聖職者は生涯独身を貫く(その反動で神父による子どもたちへの性的虐待が絶えない。詳しくは映画「ダウト~あるカトリック学校で~ 」や、アカデミー作品賞を受賞した「スポットライト 世紀のスクープ」をご覧あれ)。

性は男と女に二分され、その境界領域に立つLGBTの人々は差別され続けてきた。

またデカルトが主導した17世紀哲学の二元論は心身(精神と肉体)の絶対的断絶を受け入れた。

精神病院を最初に創設したのもヨーロッパ人である。彼らは【正気↔狂気】を識別し、後者を隔離しようとした。1656年フランスではルイ14世の指導により精神障害者、犯罪者、浮浪者を収容する総合施療院が建設された。こうした人々を「監禁」「排除」してきた経緯をフランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926-84)が徹底的に批判したのが、1961年に出版された「狂気の歴史」である。精神病院ではロボトミー手術という非人道的実験も行われた(詳しくはアカデミー作品賞・監督賞を受賞した映画「カッコーの巣の上で」をご覧あれ)。

またナチス・ドイツは遺伝病や精神病などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるとし、彼らを安楽死させるT4作戦を実行した。その犠牲者は15万人から20万人と見積もられている。そもそもヒトラーがユダヤ人=害虫と見なし、ホロコースト政策を実践した発想の根本にもこの分離切断する思考がある。

父性原理」で動く欧米(キリスト教)社会は純粋理性を磨き、自然を客観視し、対象をじっくり観察して近代科学を飛躍的に発展させることに成功した(これが出来たのは彼らだけである)。しかしその反面で上述したような様々な弊害を生み、この思考法も限界に達した。「何かが間違っている」「我々は大切なものを失ってしまった」と彼らも薄々気が付き始めた。その左証が「ジキル&ハイド」である。

「ジキル&ハイド」でベイジングストーク大司教は聖職者でありながら娼婦を買い、その直後にエドワード・ハイドに火をつけられ焼死する。これは正に「地獄の業火に焼かれる」イメージであろう。

本作において、ヘンリー・ジキル=エドワード・ハイドだと知っているのは弁護士のアターソンだけだ。彼は親友をなんとか助けようとするが、悲劇を回避することは出来ない。だから仕方なく最後に拳銃の引き金を引き、ジキル=ハイドを殺す。こうして二項対立問題は解決される。つまりアターソンは境界を超え、活躍するトリックスターなのだ。そもそもジキルを娼館「どん底」に連れて行き、ルーシーに引き合わせたもの彼だしね。いたずら好き(メフィストフェレス的)でもあるトリックスターの面目躍如と言えるだろう。

ルーシーはハイドに嬲(なぶ)られ、痛めつけられるが、実はあんまり嫌そうじゃない。恍惚とした表情も浮かべる。非常にSM的である。多分彼女はジキルとハイドの両面を愛したのだ。そして死の直前にジキル=ハイドと気付く。きっかけはジキルとハイドの指に素肌を触られた時の触覚だ。ここに「野生の思考」がある。

原作を書いたロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850-94)は「宝島」の作者としても知られている。スコットランドのエディンバラで生まれたが、若い頃から結核を患い、各地を転地療養しながら作品を創作した。アメリカ滞在を経て、最終的に彼がたどり着いたのは南太平洋・サモア諸島の中のウポル島。彼は島人から「ツシタラ(語り部)」と呼ばれ、好かれていたという。バエア山@ウポル島の山頂にある墓碑には次のような彼の詩が刻まれている。

"Requiem"
Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die
And I laid me down with a will

This be the verse you grave for me
Here he lies where he longed to be
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill

〈鎮魂歌〉
広々とした星空の下
墓穴を掘り、私の亡骸を葬っておくれ
私は喜びとともに生き、喜びとともに死す
そして従容として身を横たえる

墓にはこう刻んで欲しい
彼は望んだ通りここに眠る
船乗りは故郷へと、海から還った
狩人は猟場の山から家に還った
(注:hillはmountainより低く、英国では通例600m以下の山を指す。バエア山は標高470m)

この詩の中には紛れもなく野生の思考が息づいている。

そしてWikipedia英語版のスティーヴンソンについて書かれた記述の中に、次の一文を発見した。

He had come to reject Christianity and declared himself an atheist.
(彼はキリスト教を否定するに至り、自分は無神論者であると宣言した。)

今回の出演者はジキル&ハイド:石丸幹二、ルーシー:笹本玲奈、エマ:宮沢エマ、アターソン:田代万里生 ほか。

僕は鹿賀丈史時代から観ているが、今回のキャストが一番歌唱力があった。石丸幹二に文句があろう筈もなく、特に人格が分裂して歌う場面は大迫力で、本作の白眉であろう。演歌調に音をすくい上げる鹿賀は聴くに堪えず、本当に酷かった。

笹本玲奈がエマを演じた前回公演にも足を運んだが、彼女は断然ルーシーの方が似合っている。清楚なお嬢様っていう雰囲気じゃないしね。他に笹本は「ピーターパン」「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ、「ミス・サイゴン」のキム、「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ミー&マイガール」「マリー・アントワネット」「プライド」などを観ているのだが、今回が一番露出の多い衣装で、とってもセクシーで美脚だったので驚いた。アフタートーク・ショーで彼女が語ったところによると、大好きなスナック菓子(「きのこの山」ではなく「たけのこの里」派)を食べるのを我慢し、ダイエットに励んだそう。鹿賀の公演を観劇した時からルーシー役を演じたかったのだと。

宮沢エマは歌声に透明感があり、決して音程を外さないので聴いていて心地よい。役にピッタリ。

またアフタートークで田代万里生が語るには、付け髭ではなく地毛を生やしたのだとか。意外だった。

山田和也の演出は大変照明が美しかった。

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【いつか見た大林映画・番外編その3】オールタイム・ベスト・ワン「はるか、ノスタルジィ」と時間イメージ

1993年に大林宣彦監督「はるか、ノスタルジィ」を映画館(大阪での単館上映)で観て以来、ず〜っと僕は本作をオールタイム・ベスト・ワンだと言い続けてきた。

2016年に新海誠監督「君の名は。」が現れて、そろそろ第1位の座を譲り渡しても良いんじゃないかと思い始めた。しかしつい先日、大林宣彦映画祭@シネ・ヌーヴォ(大阪市九条)で実に25年ぶりにスクリーンで「はるか」に再会し、やっぱり正真正銘これこそが僕のベスト・ワンだと確信した。プリントの状態がすこぶるよく、特に青色が美しかった。

実は今まで「はるか」のどこが凄くて何に魅了されたのか、明言を避けてきたという後ろめたさを感じていた。いくら熱く語ったってどうせ観ている人は殆どいないんだしという諦念があり、僕自身秩序立てて述べるskill(腕前・技量)もなかった。しかし今は違う。「はるか」のことを僕以上に愛している人は世界中どこを探したっていないという絶対の自信がある(←大林監督はこういう思考を”好意的誤解”と呼んだ)。「もう逃げないでください」と言うはるか(石田ひかり)の声が聞えてくる。出会ってから25年。遂に彼女と対峙すべき時が来た。覚悟は決めた。僕は「おかしなふたり」の成田(永島敏行)の台詞を自分に言い聞かせる。「自分の人生にだけは乗り遅れちゃいけねぇ。まだ間に合うぜ、まだ間に合うぜ」……

大林映画「野のなななのか」(2014)の劇中にパスカルズ演じる【野の音楽隊】が一列になって演奏しながら練り歩く場面が何度も登場する。因みにパスカルズでパーカッションを担当しているのはバンド「たま」のランニング姿が印象的だった石川浩司。「この空の花ー長岡花火物語」(2012)では画家・山下清を演じている。

Nono

これを観て僕が想起したのがフェデリコ・フェリーニ監督の名作「8 1/2」(1963)の大団円である。道化師たちの楽隊がニーノ・ロータ作曲の行進曲を吹きならマーチングするのだ。

812

この場面で映画監督のグイド(マルチェロ・マストロヤンニ)は「人生は祭りだ!一緒に過ごそう。(È una festa la vita, viviamola insieme !)」 という名台詞を吐く。

大林映画はどこかフェリーニの映画に似ている。そのことに初めて気付かされた瞬間だった(「はるか、ノスタルジィ」にも高校生のマーチングバンドと主人公たちがすれ違う場面がある)。

Haru

「はるか、ノスタルジィ」のあらすじはこうだ。

小樽を舞台とした少女小説で人気の作家・綾瀬慎介(勝野洋)は、少年時代の痛ましい記憶を胸の奥深く閉じこめていた。しかし小説の挿絵を描いていた紀宮(ベンガル)の突然の死をきっかけに、久しぶりに古里の小樽を訪ねる。そこで彼は記憶の中の少女・三好遙子(石田ひかり)にそっくりな、「はるか」という名の少女と出会い、封印した筈の記憶が蘇る。そんな時、綾瀬の前に佐藤弘(松田洋治)という少年が現れる。それは彼の本名であった。綾瀬慎介はペンネーム。彼は本名で勝負することを捨てた。

つまり映画の一画面の中に、主人公の現在と、少年時代の彼が同時に存在する。そして「はるか」は突然、三好瑤子に入れ替わったりもする。

これは20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズがその著書「シネマ」で論じた結晶(時間)イメージに該当する。

ベルクソン(同じくフランスの哲学者)の逆さ円錐モデルで説明しよう。

B

円錐の全体SABが綾瀬慎介の記憶に蓄えられたイマージュの総て(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり綾瀬の知覚である。Pは現在彼がいる世界(小樽)そのもの。「はるか」もそこに生きている。A"B"が紀宮と出会った頃の大学生の綾瀬であり、更に遡ったA'B'が少年時代の佐藤弘と三好遙子が存在する場所。過ぎ去り、死に向かう現在(S)と、保存され、生の核を保持する過去(A'B',A"B",A'"B'",……)は絶えず干渉しあい、交差しあう。綾瀬はこの円錐(記憶)の中を自由に過去へと飛翔し、また戻ってくるのである。

この仕組/構造(structure)はフェリーニの「8 1/2」と全く同じであり、フェリーニの次の言葉がその本質を的確に教えてくれる。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

類似した構造(structure)は大林監督の「さびしんぼう」や「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 夕子悲しむ」、イングマール・ベルイマン監督「野いちご」にも認められる。「野いちご」の老いた主人公は自分が生まれ育った家を訪ねて、そこに兄弟や許嫁が昔のままの姿で現れるので「はるか、ノスタルジィ」のプロットに近い。また「さびしんぼう」で主人公のヒロキ(尾美としのり)が紛れ込むのは、母(藤田弓子)の記憶に蓄えられた結晶=逆さ円錐SABである。その過去A'B'から、さびしんぼう(なんだかへんて子)が現れる。そして母の記憶の結晶とヒロキの間で触媒の働きをするのは、風に飛ばされお寺の境内中を舞う1枚の写真である(一方、「はるか、ノスタルジィ」において綾瀬とはるかの間で触媒となるのは壊れた写真機)。

大林映画で流れる時間は神話的時間であり、フランスの言語学者ソシュールの用語を借りるなら、その文法(語り口)は通時的(関連する複数の現象や体系を、時間の流れや歴史的な変化にそって記述するさま)であると同時に、共時的(現象が継時的変化としてではなく、一定時の静止した構造としてあるさま。また、時間的・歴史的な変化の相を考慮に入れずに、ある対象の一時点における構造を体系的に記述しようとするさま)であることを理解しておかなければならない。「野生の思考」を書いたフランスの構造人類学者レヴィ=ストロース神話的時間が「可逆的かつ不可逆的で、共時的でも通時的でもある」と、その二重性を強調した。構造人類学が共時態を重視するのは、地層の断面(≒ベルクソンの逆さ円錐モデル/記憶の結晶)におけるように、〈いま・ここ〉のただなかに過去が共時的に現れていることを重要視しているのである(参考文献:小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書)。

「はるか、ノスタルジィ」の時間は循環し、【三好遥子→はるか→遥子】というサイクルが最後に発生する。ドイツの哲学者ニーチェが言うところの永劫回帰の層に入ってゆくのである。この循環は「さびしんぼう」のエピローグでも認められる(原作はどちらも山中恒)。

ちなみにニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」に基づく音楽が冒頭から流れるスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」ではボーマン船長が最後に赤ん坊(スター・チャイルド)に回帰する。スター・チャイルドとは、ニーチェが語った超人と同義である。また永劫回帰が描かれた作品として押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」やルイス・ブニュエル「皆殺しの天使」も挙げておこう。

大林映画の中で時間は停止し(「廃市」「麗猫伝説」「野のなななのか」に登場する止まった時計)、逆戻りしたりもする(「時をかける少女」)。「時をかける少女」では次のような会話が交わされる。

「だって、もう時間がないわ。どうして時間は過ぎてゆくの?」
「過ぎて行くもんじゃない。時間は、やって来るもんなんだ」

さらに生者と死者が同居する世界が描かれる(「異人たちとの夏」「その日のまえに」「この空の花―長岡花火物語」「野のなななのか」)。そこには生と死の境界線がない現在と過去の間にもないように。

人は常に誰かの代わりに生まれ、ー
誰かの代わりに死んでゆく。
だから、人の生き死には、ー
常に誰か別の人の生き死にに、
繋がっている。
(「野のなななのか」より)

人は循環し、輪廻転生を繰り返す。まるで手塚治虫が漫画「火の鳥」で描いたように。

そしてー

「ものくるほしくも、いつか見た夢、いつか見た映画。わたしは影でございます。スクリーンが燃えてなくなるとき、わたしの命もまた、ともに終わらねばなりません。あれが青春ならば、あれが愛ならば、わたしは単なる思い出。古い思い出に捕らわれて、わたしらはみんな、生きながら死んでいるのでございます。」
(「おかしなふたり」より)

となる。

大林監督がラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」に出演した際、ラッパーでDJの宇多丸が「時をかける少女」に関して、「尾美としのりの役回りはヒッチコック『めまい』のミッジではないですか?」と問い、監督が「おっ、鋭いね」と返す場面があった。これを聴いて僕はハッとした。そうか!堀川吾朗(尾美としのり)は芳山和子(原田知世)の幼馴染で、彼女のことが好きだけれど、和子は未来から来た深町一夫(高柳良一)のことしか見ていない。これはヒッチコック「めまい」に於けるミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)→スコティ(ジェームズ・スチュアート)→マデリン/ジュディ(キム・ノヴァク)の関係と一緒だ。そしてヒッチと撮影監督ロバート・バークスが開発した、床が落ちるような「めまいショット」を大林監督は「逆ズーム」と命名し、「時をかける少女」のラストシーン(大学の薬学部・廊下)で用いている。

さらに驚きべきことに気が付いた!よくよく考えてみれば「はるか、ノスタルジィ」の仕組/構造(structure)は「めまい」にも一致している。「めまい」のスコティは嘗て愛した女マデリンが自分のせいで死んだと信じ落ち込む。そんなある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見し追う。彼女はジュディと名乗った。スコティはジュディにマデリンと同じ服を着せ、髪型も似せようとする。それとそっくりな行為を「はるか、ノスタルジィ」の綾瀬は、はるかに対してするのである。そして本作における尾美としのりは再びミッジの役回りを演じている。また映画のオープニング・クレジットで石田ひかりは回転している(右回転)。これも「めまい」でソール・バスがデザインしたタイトルバック(左回転する渦巻)を彷彿とさせる。ひかりの時計回転は時間イメージでもあるし、回帰する物語であることの宣言でもあるだろう。「この空の花ー長岡花火物語」に登場する、回転運動をする一輪車の少女のように。

大林宣彦ほど豊穣な時間イメージを持つ映画作家は他にいない。僕はそう断言する。

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瀬奈じゅん主演:ブロードウェイ・ミュージカル「ファン・ホーム ある家族の悲喜劇」と時間イメージ

3月4日(日)兵庫県立芸術文化センターで"FUN HOME"を観劇。

アリソン・ベクダルが書いた自伝的漫画(グラフィックノベル)を原作とするミュージカルである。レズビアンの女性を主人公とするミュージカルはこれがブロードウェイ初。2015年のトニー賞ではミュージカル作品賞・台本賞・楽曲賞・主演男優賞・演出賞の5部門を受賞した。

男性の同性愛者を主人公とするミュージカルなら過去に「ラ・カージュ・オ・フォール」(トニー賞でミュージカル作品賞、及び再演&再々演でベスト・リバイバル・ミュージカル作品賞を2回受賞!)とか、「レント」(トニー賞でミュージカル作品賞及びピューリッツァー賞受賞)があった。しかし僕は"FUN HOME"に一番感銘を受けた。ミュージカルを観劇して、こんなに泣いたことは未だ嘗て無い。この衝撃は1998年に宝塚大劇場で宙組「エリザベート」を初観劇して以来と形容しても決して過言ではない。

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作詞・台本:リサ・クロン、作曲:ジニーン・テソーリはふたりとも女性であり、日本版も翻訳:浦辺千鶴、訳詞:高橋亜子、演出:小川絵梨子となっている。

主人公アリソンを3人の女優が演じる(瀬奈じゅん、大原櫻子、笠井日向)。単なる回想形式ではなく、彼女らは同時に舞台に存在する

この手法は20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズがその著書「シネマ」で論じた結晶(時間)イメージだなと想った。

ベルクソンの逆さ円錐モデルで説明しよう。

B

円錐の全体SABがアリソンの記憶に蓄えられたイマージュ全体(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり瀬奈じゅんの知覚である。Pが現在彼女がいる世界(宇宙)そのもの。A"B"が大学生のアリソンであり、更に遡ったA'B'が小学生のアリソン。過ぎ去り、死に向かう現在(S)と、保存され、生の核を保持する過去(A'B',A"B",A'"B'",……)は絶えず干渉しあい、交差しあう。アリソンはこの円錐(記憶)の中を自由に過去へと飛翔し、また戻ってくるのである。

この仕組/構造(structure)はフェデリコ・フェリーニの映画「8 1/2」(1963)と同じであり、フェリーニの次の言葉がその本質を的確に教えてくれる。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

なお「8 1/2」はアーサー・コピット(脚本)、モーリー・イェストン(作詞・作曲)の手でブロードウェイ・ミュージカル「ナイン」になっており、「シカゴ」「メリー・ポピンズ・リターンズ」のロブ・マーシャル監督で映画化もされた。

結晶(時間)イメージは他にアラン・レネ監督の映画「去年マリエンバートで」であるとか、大林宣彦監督「さびしんぼう」「はるか、ノスタルジィ」「野のなななのか」等で顕著なのだが、これを舞台に応用した作品は極めて珍しい。そういう意味で"FUN HOME"は革新的な作品であると言える。

ゲイだった(しかしカミングアウトは出来なかった)父親の想い出を娘が語るわけだが、アリソンは身体が女で心が男。これは正真正銘、父と息子の物語である。だから普遍性があるのだ。アリソンは自分が父親と似た者同士なのだということを彼に伝えたい。しかしどうしても言葉に出せないもどかしさ。決定的な時はいつの間にか過ぎ去ってしまい、人はあまりにも遅くそれに気付く。何とも切ない。

FUN HOMEとは「たのしい我が家」でもあり、同時に葬儀屋を営んでいるのでFuneral Homeの意味も含まれる。イメージが真逆であり、奥深い。

驚異的だったのは小学生時代のアリソンを演じた笠井日向(さかいひなた)。歌唱力が抜群で圧倒的存在感を放っていた。天才少女発見!!ほかクリスチャン:楢原嵩琉、ジョン:阿部稜平ら、子役のレベルの高さにはほとほと感心した。

大学生のアリソン役・大原櫻子は喉の調子が今ひとつ。

瀬奈じゅんは宝塚歌劇時代に「エリザベート」(タイトルロール&トート閣下)や「ME AND MY GIRL」を観ている。中性的で淡白な男役だったので印象は冴えないものだったが、今回の役は彼女の持ち味にピッタリ!今までのベスト・アクトであった。元々余り歌が上手くないが、本作はそんなに歌唱が多くなく、気にならない。

アリソンの父ブルースを演じた吉原光夫は朗々と完璧に歌いこなし文句なし。さすがMr.ジャン・バルジャン。劇団四季時代「ジーザス・クライスト・スーパースター」のユダ役も素晴らしかった。

母役の紺野まひるは久しぶりに見た。年をとり、やつれた感じがしたが役作りなのかも知れない。兎に角、似合っていた。

僕はこの音楽もすごく好き。非常にスティーヴン・ソンドハイムを彷彿とさせる。ニューヨークを舞台にしたソンドハイムの「カンパニー」(1970年初演)をペンシルベニア州の片田舎にそのまま移した感じ。「カンパニー」の主人公ロバートは35歳で独身なんだけれど、ゲイなんじゃないかと僕は睨んでいる。初演当時(今から48年前)、あからさまにそういうことを描くのは難しかったろう。

また高橋亜子による訳詞は熟れていて、この人は岩谷時子(レ・ミゼラブル、ミス・サイゴン)の立派な後継者だなと想った。

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「愛国心」は悪なのか?〜江川紹子発言を「野生の思考」で読み解く。

平昌オリンピック・フィギュアスケート男子の結果について、ジャーナリストの江川紹子はこうツィートした。

つまり日本という国家を否定し、コスモポリタン(国際人)になれというわけだ。そのくせ彼女のTwitterでは日本人選手ばかり応援している。矛盾だ。「日本人スゴイ!」じゃないのなら、各国の優秀な選手を平等に応援すべきだろう。2014年のこんなツィートも発掘されている。

Shoko

彼女に限らず左翼ジャーナリストたちは日本という「国家」を否定し、「愛国心」を嫌悪する。それはファシズムの台頭や大政翼賛会・治安維持法など悪夢の再現を連想させるからだろう。

週刊朝日が橋下徹氏(当時大阪市長)に対して「ハシシタ 奴の本性」という連載記事を掲載し、大問題となったことがあった(詳しい経緯はこちら)。結局、朝日新聞社は謝罪し、朝日新聞出版社長は引責辞任した。この問題の根っこには大阪府知事時代に橋下氏が主導し、可決された「国旗国歌条例」があった。自治体教職員に対し、学校行事で行う国歌斉唱は起立により斉唱することを求める内容である。左翼の人々は日本の国旗や国歌に対して憎しみの感情を抱いているので、起立や斉唱を強いられることに怒りを爆発させたのである。しかし公務員って公僕、つまり「国家に仕える者」でしょう?あたりまえのことじゃない?

アメリカ人は国内のバレードで星条旗を掲げ、お祭り騒ぎをする。そんな彼らを「この右翼/国粋主義者どもめが!」と罵る者はいない。韓国人だって愛国心はある。自分が生まれた国を愛し、誇りに思うことってそんなに悪いこと、罪なのですか?僕には理解し難い。

そもそもオリンピックはスポーツという手段を用いた国家間競争である。国ごとに代表選手枠が決まっているし、表彰台には国旗が掲揚される。このシステムは愛国心の発露以外の何ものでもない。

ここで20世紀フランスを代表する思想家で、社会(文化)人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースの著書「神話と意味」(元々は1977年にカナダで放送された、ラジオでの講演)から引用しよう(大橋保夫 訳、みすず書房 刊)。レヴィ=ストロースは「野生の思考」で余りにも有名であり、構造主義を打ち立てた。哲学者のミシェル・フーコーやジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズらがポスト構造主義と呼ばれる所以である。

(地域・文化間の)相違とは非常に豊かな力をもつものです。進歩は、相違を通してのみなされてきました。現在私たちを脅かしているものは、"Over-Communication"とでも呼びうるものでしょう。つまり、世界のある一点にいて、世界の他の部分で何が行われているかをすべて正確に知りうるようになる傾向です。ある文化が、真に個性的であり、何かを生み出すためには、その文化とその構成員とが自己の独自性に確信を抱き、さらにある程度までは、他の文化に対して優越感さえ抱かねばなりません。その文化が何かを産み出しうるのはUnder-Communicationの状態においてのみなのです。私達はいま、(中略)独自性をすっかり失ってしまうのではないかという展望に脅かされています。

引用下線部でレヴィ=ストロースは愛国心を肯定している。つまり「日本スゴイ!」「日本人スゴイ!」で良いのだ。それは右翼思想とか全体主義と何ら関係がない。

この講演はいまから40年以上前のものだが、ここで彼が述べる"Over-Communication"とは現在のEU(欧州連合)の姿であり、「グローバリズム(国を超えて地球全体を一共同体としてとらえる考え方)」と言い換えることも出来るだろう。何という先見性だろう!

左翼ジャーナリストたちは「グローバリズム」を賛美する。何故ならそれは緩やかな共産思想だからである。

またレヴィ=ストロースはこうも言っている。

文明が均一になればなるほど、分離しようとする内的な傾向がはっきりしてきます。(中略)これは個人的印象であり、この弁証法的作用についてはっきりした証拠があるわけではありません。しかし人類がほんとになんらかの内的多様性なしに生きうるとは思えないのです。

正に彼は、イギリスのEU離脱を予言していたのである。フランス人すごい!

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初心者のためのミュージカル映画講座〜「巴里のアメリカ人」から「ラ・ラ・ランド」へ

2017年夏の甲子園で大阪桐蔭高等学校吹奏楽部(指揮:梅田隆司 先生)は野球部の応援歌として「ラ・ラ・ランド」(♪Another Day of Sun♪)を初めて演奏し、世間の話題を攫った。また全日本吹奏楽コンクールの自由曲としてガーシュウィン作曲「パリのアメリカ人」を選択した(結果は銀賞)。全国大会で同曲が演奏されたのは2009年の相馬市立向陽中学校以来8年ぶり。因みに桐蔭を含め過去5回全国大会で取り上げているが、金賞を受賞した団体は未だない。

北米で2016に公開されたミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」はアカデミー賞で史上最多の14部門にノミネートされ、監督賞・主演女優賞・撮影賞・美術賞・歌曲賞・作曲賞の6部門を受賞した。監督のデイミアン・チャゼルは32歳、史上最年少の記録となった。

La La LandのLAはハリウッドのあるロサンゼルス(Los Angeles)のことを指し、【あっちの世界/あの世/我を忘れた陶酔境】を意味する。「あの娘はいま、ラ・ラ・ランドにいる」とは、「彼女の心はここにあらずで、空想に耽る不思議ちゃん」と揶揄しているのだ。

映画「ラ・ラ・ランド」の主軸には3つのオマージュがある。

  1. ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン主演マイケル・カーティス監督の映画「カサブランカ」
  2. 往年のハリウッド製ミュージカル映画、特にヴィンセント・ミネリが監督し、フレッド・アステアやジーン・ケリーが歌い踊ったMGM映画「バンド・ワゴン」&「巴里のアメリカ人」
  3. フランス・ヌーベルヴァーグの映画群、特にジャック・ドゥミ監督「ローラ」「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」=港町三部作

ヒロインのミア(エマ・ストーン)は映画「カサブランカ」に憧れを抱いており、自室に巨大なイングリッド・バーグマンのポスターを貼っている。そしてワーナー・ブラザース撮影所の、「カサブランカ」が撮影されたセットの向かいにあるカフェで働いている。彼女がパリにこだわるのも「カサブランカ」の影響だ("We'll always have Paris."「俺達にはパリの想い出がある」ボギーの台詞)。ここからは僕の解釈だが、「ラ・ラ・ランド」のエピローグ(5年後の冬)でキャメラは彼女の(妄想/ifもしもの世界)の中に入ってゆく。そこで彼女はハリウッドの大女優になっており、棄てたはずのバーグマンのポスターが忽然と街角に現れる。そして彼女は人妻ながら、別に好きな男がいるという「カサブランカ」のヒロイン、イルザ(バーグマン)と同じ役柄を演じる

ちなみに「カサブランカ(Casa Blanca)」とは《白い家》という意味であり、ハリウッドのメタファーとも言える。この映画は第二次世界大戦中の1942年に公開された。アメリカはナチス・ドイツと交戦状態にあり、ユダヤ人を中心にヨーロッパで活躍していた沢山の映画人が亡命し、ハリウッドに身を寄せていた。監督のマイケル・カーティス(1888-1962)はハンガリーの首都ブタペスト出身。彼もユダヤ人であり、ハンガリー名はケルテース・ミハーイ。左翼思想を持ち、長編デビュー作は共産党のプロパガンダ映画であった。しかし1919年にハンガリーにおける共産主義革命が失敗したため、ドイツに亡命し、後に渡米した。つまりカサブランカ=ラ・ラ・ランド=ハリウッドという図式が成り立つのである。

戦争を挟み、1930〜50年代はハリウッドの黄金期であった。大手映画会社にはそれぞれ得意分野があった。例えばドラキュラ、フランケンシュタインなど怪奇映画ならユニバーサル・スタジオといった具合に。そしてミュージカルといえばMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の独壇場であった。偉大なプロデューサー、アーサー・フリードの功績が大きい。フリードは元々作詞家で、作曲家ナシオ・ハーブ・ブラウンと組んでたくさんの名曲を生み出した。ジーン・ケリーが主演した名作「雨に唄えば」(1952)に出てくる歌は、表題曲を含め全てフリード&ブラウンの作品である。そしてフリードはブロードウェイで新進気鋭の演出家として名を馳せていたヴィンセント・ミネリをハリウッドに招聘した。ミネリのハリウッド・デビュー作は「キャビン・イン・ザ・スカイ」(1943)。出演者全員が黒人のミュージカル映画であり、プロデューサーは勿論フリードである(日本でもDVDやAmazon等の動画配信で観ることが出来る)。

当時のMGMが如何に豊穣で、どれくらい数多くミュージカルの名作を生み出していたかは是非、豪華絢爛たるアンソロジー映画「ザッツ・エンタテインメント」DVDをご覧頂きたい。パート3まで製作され、「ラ・ラ・ランド」が引用した場面も沢山収録されている。

That

番外編として「ザッツ・ダンシング!」もお薦め。

Dancing

こちらはMGM映画に限定せず、「赤い靴」(←英国映画)「フラッシュダンス」とか、マイケル・ジャクソンまで登場する。

ヴィンセント・ミネリに話を戻そう。彼は1944年にMGMの看板女優だったジュディ・ガーランド主演で「若草の頃」を撮り、翌45年に彼女と結婚した。ふたりの間に生まれたのがライザ・ミネリである(「キャバレー」でアカデミー主演女優賞受賞)。彼はその後もジュディ主演で「踊る海賊」(1948)を撮っている(相手役はジーン・ケリー)。しかし幸福な生活は長く続かなかった。ジュディは子役時代からMGMで仕事をしていたが、太りやすい体質だったためスタジオは13歳の彼女に痩せ薬としてアンフェタミン(覚醒剤)の内服を指示した。17歳で「オズの魔法使い」(1939)の主役に抜擢された時は既に常用者になっていた。その後多忙を極めた彼女はセコナール(睡眠薬)も併用するようになり、次第に薬物中毒の症状が現れ始める。自殺未遂、繰り返す薬物治療のための入退院、そして撮影所への遅刻や欠勤。結局主演が決まっていた「アニーよ銃をとれ」(1949)からは役を降ろされ、翌50年にMGMは彼女を解雇した。そして同じ年、ミネリとジュディは離婚した。なお余談だがジュディはワーナー・ブラザースの「スタア誕生」(1954)で劇的な再起を果たす。この一場面(♪The Man that Got Away♪ )も「ラ・ラ・ランド」に引用されている。

アーサー・フリード製作、ヴィンセント・ミネリ監督、ジーン・ケリー主演及び振付「巴里のアメリカ人」(1951)はアカデミー賞で作品賞・撮影賞・美術賞・衣装デザイン賞など6部門を制覇した(加えてジーン・ケリーに名誉賞が贈られた)。全編がガーシュウィン兄弟の楽曲に彩られている(劇中でピアノ協奏曲 ヘ調を弾くオスカー・レヴァントはガーシュウィンの親しい友人で、伝記映画「アメリカ交響楽」では本人役で出演)。圧巻なのがジョージ・ガーシュウィン作曲「パリのアメリカ人」をバックに踊られる、18分に及ぶクライマックスのダンス・シーン。MGM映画を代表する究極の名場面であり、「ザッツ・エンタテインメント」第1作の最後を飾った。なお本作は舞台化され2015年にブロードウェイで上演、トニー賞に12部門ノミネートされた。日本では2019年に劇団四季が上演することも決まっている→こちら

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はヴィンセント・ミネリについて次のように語っている。

ダンスがイメージに流動的な世界を与えるということだけでなく、イメージの数だけ世界があるということを発見したのは、ミネリであった。(中略)世界の複数性はミネリの第一の発見であり、映画における彼の天文学的な位置はそれに由来している。ではしかし、どのようにして一つの世界から別の世界へと移行するというのか。ここに第二の発見がある。つまりダンスはもはや単なる世界の運動ではなく、一つの世界から別の世界への移行であり、別の世界への入り口、侵入、探検なのである。(中略)色彩は夢であり、それは夢がカラーだからではなく、ミネリにおける色彩が、すべてを吸引するほとんど貪り食うような高い価値を獲得しているからである。したがって、そこに忍び込み、吸い込まれなければならない。(中略)ダンスはもはや世界を描く夢の運動ではなく、みずからを深め、ますます激しくなり、別の世界へと入るための唯一の方法となる。その別の世界とは、ある他者の世界、ある他者の夢あるいは過去なのである。(中略)ミネリにおいてミュージカルは、かつてないほど記憶の、夢の、時間の謎に近づいた。現実的なものと想像的なものとの識別不可能な点に近づくようにして。それは夢についての奇妙で魅惑的な着想であり、夢はある他者の夢につねにかかわっていればいるからこそ、あるいは傑作『ボヴァリー夫人』におけるように、夢そのものが、人を貪り食う仮借ない力能を、みずからの現実の主体として構成しているからこそ、折り込まれた夢である。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

僕はこの度「巴里のアメリカ人」を再見しながら、最後にジーン・ケリーが入って行くのは誰の夢なのかということに思いを馳せた。そして発見した。パリという街がドガやルノワール、ロートレック、ゴッホ、ユトリロら、ここに集まった画家たちに見せた夢の総体なのだと。

これは「ラ・ラ・ランド」に繋がっている。ミアとセブが最後に入っていくのはハリウッド(=ラ・ラ・ランド)という装置(生産工房)が、そこに集まってきた人々に見せる束の間のである。黒服を来たミアはそこに呑み込まれ、脱出不能になる。THE END.

あとドゥルーズも触れていたジェニファー・ジョーンズ主演「ボヴァリー夫人」(1949)も是非一度、ご覧頂きたい。紛うことなきミネリの最高傑作である。特に凄いのは舞踏会と、夫人が若い貴族と駆け落ちしようと深夜に乗合馬車を待っている場面。舞踏会では正に狂気が疾走する。彼女は若い貴公子たちに囲まれた自分の姿を鏡で見てウットリ酔い痴れ、その夢に呑み込まれてしまう。この舞踏会でのカメラワークをチャゼルは「ラ・ラ・ランド」でちゃっかり借用している(セレブ邸のプールにて、♪Someone in the Crowd♪)。

Bovary
↑ジュネス企画から発売されているDVDジャケット。

最後にヌーベルヴァーグについて語ろう。第2次世界大戦で戦場となったヨーロッパは破壊し尽くされた。その廃墟の中から真っ先に起こってきたシネマの運動がイタリアン・リアリズム(ネオレアリズモ)である。ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」'48やロベルト・ロッセリーニ「無防備都市」'45「戦火のかなた」'46がその代表作。ハリウッドで「無防備都市」を観たイングリッド・バーグマンは大感激し、直ちにロッセリーニに手紙を送った。そして彼女は夫や幼い娘を棄て、イタリアに飛んだのである。アメリカ国民は怒り、上院議会も彼女の不倫を激しく非難した(こうしてふたりの間に生まれたイザベラ・ロッセリーニは女優の道を進み、デヴィッド・リンチ監督「ブルーベルベット」や「ワイルド・アット・ハート」に出演することになる)。

やがてネオレアリズモがフランスに飛火し、1950年代後半にヌーヴェルヴァーグ〈新しい波〉が発生した。さらにヌーベルヴァーグに刺激を受けてベトナム戦争最中の1960年代後半にアメリカン・ニューシネマが勃発する。アメリカン・ニューシネマの代表作「俺たちに明日はない」の監督のオファーが最初はヌーベルヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーにあったことは余りにも有名である(トリュフォーは断り、次にジャン=リュック・ゴダールが打診された)。ヌーベルヴァーグ及びアメリカン・ニューシネマとは一体、何だったのか?簡単に言えば従来の映画の常識、既成概念の破壊である。若い映画作家たちは手持ちカメラを携えて撮影所から飛び出し、街頭でロケし始めた。つまりさすらいの映画だった(「イージー・ライダー」がその典型)。編集方法(モンタージュ)も劇的に変わった(ドゥルーズに言わせれば【知覚→情動〘感情〙→行動〘反応〙】という一連の「運動イメージ」の放棄/切断)。

では「ラ・ラ・ランド」とヌーベルヴァーグの関係を見ていこう。まず冒頭、地方からロサンゼルスに集まってきた若者たちが歌う♪Another Day of Sun♪はジャック・ドゥミ監督「ロシュフォールの恋人たち」'67(♪キャラバンの到着♪)への高らかな讃歌。楽曲もミシェル・グルランを意識して書いたと作曲家のジャスティン・ハーウィッツがインタビューで明言している。ミアが台本を書いて演じた一人芝居の役名は「シェルブールの雨傘」'64と同じジュヌビエーブ。衣装の色彩も港町三部作を彷彿とさせる。ミアとセブが抱き合ってキスした時にふたりの周囲をカメラがグルグル回る手法はクロード・ルルーシュ監督「男と女」'66。ミアがオーディションで叔母さんのエピソード@パリを語るが(真っ赤な嘘/FAKE)、これはフランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく'62でジャンヌ・モロー演じるヒロインがとった行動(橋からセーヌ川に飛び込む)からの借用である。またこのオーディション・シーンの演出・カメラワークはアニエス・ヴァルダ(ドゥミ夫人)監督「5時から7時までのクレオ」'62とそっくりに仕上げられている(ミシェル・ルグランが役者として現れ、主人公が歌うピアノ伴奏を務める場面)。さらにクライマックスのダンス・シーン(=)ではアルベール・ラモリス監督「赤い風船」'56の少年がマネキン姿で登場する。あとピアノを弾くセブと踊るミアを交互に、カメラが高速でパン(Pan,水平方向に首を振る撮影法)するのもヌーヴェルヴァーグの特徴である。

ヴィンセント・ミネリの後継者デイミアン・チャゼル。次の作品ではどのような夢の力能を我々に見せてくれるのだろうか?とても愉しみである。

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【アフォリズムを創造する】その11「偶然の宇宙・偶然の哲学」

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神教は「人間は何らかの目的があって、神によつて創造された」と考える。そしてこの世界(宇宙全体)も創造物であり、唯一のデザイナー(設計者)がいるというわけだ。

この理論に対抗する哲学とはどのようなものだろうか?

英国の哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711-76)は「我々の精神に現れる全てのものは知覚(perception)である」「知覚は、印象(impressions)と観念(ideas)に区別される」「あらゆる観念は、印象に起源をもつ(観念は、記憶や想像によって印象が再現される時に現れる)」という前提に立ち、必然的な因果関係客観的真理の存在を否定した。従来哲学で語られてきた真理とは人間の経験に基づく因果関係のことであり、主観的である。人間は、物事に法則を考える傾向が強い。「ある事柄Aの後には、必ずある事柄Bが起こる」つまり「地球誕生以来、太陽は毎朝昇って来た(経験に基づく印象)。だから明日も、そして未来永劫、太陽は昇るだろう(観念/推測)」という主張。しかしヒュームは「今日までそれが正しかったからといって、明日もそうなるとは限らない(太陽は燃え尽きてしまうかもしれない)」と考えるのである。「神が存在するから今日の我々(知的生命体)がある」という主張も因果論だ。ヒュームは因果の接続を解除する、切断の哲学を説く。

フランスの哲学者クァンタン(カンタン)・メイヤスー(1967-  )は2006年に出版された著書「有限性の後で」の中で、この世界は、まったくの偶然で成り立っており、或るとき突然、絶対の偶然性で、何の理由もなく、別様の世界に変化しうると説く。つまり彼は因果論を否定し、ヒュームの主張を肯定する。

多元宇宙論マルチバース)という考え方がある。複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学のひとつである。この説は私たちの宇宙誕生が必然なのか、偶然なのかという哲学的な問いに迫ろうとしている。つまり宇宙は無数に存在し(総数10500以上と試算される)、たまたま銀河や太陽系、地球が生まれ得る環境に成長した宇宙に、たまたま生命が生まれ、人にまで進化出来たというわけだ。ビッグバンの時に条件が違えば、灼熱の宇宙だったり、何もない虚無の空間が広がっているだけかも知れない。そんな(我々から見れば)失敗作??が多数ある。宇宙はその誕生以来、膨張を続けている(永久インフレーション)という理論や、大阪大学・橋本幸士教授らが研究している超ひも理論超弦理論)はマルチバースの可能性を示唆している。

Multi

私たちがいるこの宇宙は生命が誕生する条件を満たし、都合良く出来すぎている。どうしてこのような奇跡が起こるのか?それは他の無数にある失敗した宇宙には生命が生まれず、思惟出来ないからだ。単純なことだ。喩え話をしよう。

オリンピックで金メダルを獲った陸上選手がこう考えたとする。「努力は必ず報われる」……これは彼(彼女)にとって100%正しい。しかし世界を見渡せば、一生懸命努力を重ねたけれどオリンピックの代表にすら選ばれなかった選手が無数に、少なく見積もっても数千万人はいる(日本陸上競技連盟の登録者数に限っても40万人に達する)。つまり99.999...%の人にとって「努力は必ず報われる」は真実でないのである。多元宇宙論(マルチバース)に従うなら、私たちが地球の美しさや生命の奇跡について思惟するのは、この金メダリストと同じ立場においてなのである。あるいはジャンボジェット(ボーイング747)の墜落事故で、1人だけ生存者がいたと仮定しよう。彼にとって助かったことは奇跡であり、神の思し召しのように感じられるだろう。では他の死者たちにとってはどうか?そもそも死んでいるのだから、彼らには「神の意志」が作用したかどうかすら思考出来ないのである。このように立つ位置(観測する地点)によって、そこに見える因果関係主観的真理は異なるのである。アインシュタインが導き出した「相対性理論」によると、光の速度に近い超高速で進む宇宙船の中の乗組員が体験する「1秒」は、宇宙船の外から止まって眺めている人にとっては、1秒よりも長くなる。正に浦島効果(解説はこちら)が起こるのである!

ダーウィンの進化論も偶然の宇宙と根っ子が同じである。進化は遺伝子の突然変異で誘発される。突然変異は全くの偶然で起こる。その後に、自然淘汰により環境に適した種(遺伝子)は残り、そうでないものは滅ぶというわけだ。

パスカルの賭け」をご存知だろうか?フランスの哲学者パスカル(1623-62)が提唱したもので、「理性によって神の実在を決定出来ないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生の意味が増す」という主張である。僕は「パスカルの賭け」に対して、真っ向から異議を唱える!

例えば自分の家族が難病で亡くなったとしよう。あるいは交通事故で脊髄損傷を起こし、首から下が麻痺したという場合も想定される。もし貴方が神を信じていた場合、どう考えるか。「全ては神の思し召し」と納得出来るだろうか?大概の人は「どうして神は私にこんな試練をお与えになるのか?」(旧約聖書「ヨブ記」)と疑問や怒りを感じ、「神よ、どうして貴方は沈黙されるのですか?」(遠藤周作「沈黙」)と嘆くのではないだろうか。では全てが偶然と考えた場合はどうか?「難病になったのはたまたま」「交通事故に遭遇したのは単なる偶然、運が悪かった」その方が諦めが付くのではないだろうか。つまり偶然の哲学諦念の哲学と言い換えることも出来るだろう。

生きるとは賭けることである。それは偶然(運命のいたずら)に作用される。しかし、だからといって「人生なんてこんなものだ」とニヒリズムに陥るのは間違いだ。勉強しなければ名門校に合格出来ないし、日々練習を積み重ねなければオリンピックで金メダルを獲ることは不可能だ。つまり、力への意志(by ニーチェ)を持ち生成変化(by ドゥルーズ)することで、勝率を上げることが出来る。最初から勝負を捨てるな、積極的に挑め!

偶然の宇宙偶然の哲学」がもしも正しかったら、唯一の神は存在しないということになる。人類は数千年に渡る根源的な問いの答えを間もなく手に入れるだろう。

ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、彼が否定したのはユダヤ教、キリスト教など一神教であって、多神教ではない。ここを勘違いしてはいけない。ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中でデュオニソス的アポロン的という概念を打ち立てた。デュオニソスとアポロンはギリシャ神話に登場する神々である。彼は多神教であるギリシャ神話を愛でた。

最後にフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)の言葉で締めくくろう。

真理は到達されたり、発見されたり、作り直されたりするものではなく、創造されなければならない。〈新しいもの〉の創造以外に真理はない」

参考文献:

  • 野村泰紀(カリフォルニア大学バークレー校教授、バークレー理論物理学センター所長)著「マルチバース宇宙論入門」星海社新書(2017.7.25.発行)
  • 橋本幸士(大阪大学教授)監修×ニュートン編集部「超ひも理論」Newtonライト(2017.10.5.発行)
  • 千葉雅也 著「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」河出文庫
  • ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局

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ジル・ドゥルーズ「シネマ」〜哲学者が映画を思考する。

20世紀フランスを代表する哲学者、ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 」全2巻(法政大学出版局)を読んだ。「シネマ1*運動イメージ」と「シネマ2*時間イメージ」は併せて800ページに及ぶ大作である。

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ドゥルーズ(1925-1995)の名前を初めて目にしたのはニーチェの著作/解説書を読んでいる時であった。

哲学史的にスピノザ - ニーチェ - ドゥルーズという一本の堅固な線があることを知った。そしてドゥルーズが映画について本を出していることに驚かされた。哲学者が映画を思考すると、どのような言葉が紡がれるのだろう?大いに興味が湧いた。

通読するには難儀した。2ヶ月掛かった。まず翻訳が良くない。大学で哲学を教えている教授らが訳しているので日本語としてこなれていない。原文は同じ単語なのに「シネマ1」と「シネマ2」で異なる日本語に置き換わっていたりもする。またドゥルーズ自身、簡単な概念をわざと難しく書く癖があるので厄介だ。そして長い。対してニーチェの著作はページ数が少ないし、非常に分かり易くスラスラ読める。しかし「シネマ」から得たものは多かった。努力は決して無駄でなかった。

ドゥルーズは巻頭で「これは映画史ではなく、映画に現れるかぎりでのイメージと記号の分類の試みである」と宣言している。だが実際には「シネマ1」で主に第二次世界大戦前の映画、具体的にはチャップリン、キートンらの喜劇、D・W・グリフィスらアメリカの作家、エイゼンシュタイン、ヴェルトフらソ連の作家、ラング、ムルナウらドイツ表現主義、そしてクレール、ルノワール、ガンス、エプシュタインらフランスの作家(主に無声映画)が話題の中心となり、「シネマ2」では戦後の映画、ロッセリーニ、デ・シーカらイタリアン・リアリズム(ネオリアリスモ)、ゴダール、レネらフランス・ヌーヴェルヴァーグ、他にもウェルズ、アントニオーニ、パゾリーニ、デュラス、キューブリックらの作品が取り上げられている。つまり映画史に沿った記述になっている。また嬉しいことに我が国からも小津安二郎、黒澤明、溝口健二らの作品が言及され(市川崑についても少し)、褒められている。

黒澤明「七人の侍」に関しては「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在するとドゥルーズは語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

見事な解読である。

本書はベルクソンの著書「物質と記憶」の注釈に始まり、カント、ライプニッツ、ニーチェなどの数々の哲学者についても言及される。

どういうことが書かれているか、「シネマ」から学んだことを具体的に幾つかご紹介しよう。まず映画における運動イメージの三つの水準について。①総体 ensemble=閉じられたシステム。映画においてはフレーミングで規定される。②移動としての運動。フレームの中で成立する運動=ショット。動く切断面であり変調。③全体 tout=ショットとショットを繋いで(モンタージュ)規定される。それ自身の諸関係に即して絶えず変化する(=絶対的運動あるいは宇宙的変動)。

主観性の三つの物質的アスペクトについて。①ある主体が外的刺激(光、音)を知覚する。主観性は、おのれの関心を引かないものを、物〔=イメージ〕から差し引く。②知覚から行動への移行。③困惑させる知覚と、逡巡する行動とのあいだで、主体(不確定性の中心)のなかに出現する情動 intervalleを占めるもの。作用と反作用の間に現れる隔たり。

そして映画においては知覚イメージがロング・ショット(遠景)、行動イメージがフル・ショット(人物の全身像)、感情イメージがクロースアップ(顔またはその等価物で表現される情動)に相当する。

しかし状況ー行動、作用ー反作用、刺激ー反応という連鎖、感覚ー運動系の帯紐はアドルフ・ヒトラーのファシズム、ハリウッドのプロパガンダ(戦意高揚映画)に利用された。国家による大衆操作。運動イメージの到達点はレニ・リーフェンシュタール(ナチス党大会を記録した「意志の勝利」、ベルリン・オリンピックを記録した「民族の祭典」「美の祭典」の監督)である。

そして第二次世界大戦後、ヨーロッパの破壊し尽くされた廃墟など圧倒的状況が、感覚ー運動図式を断ち切り、登場人物は殆ど無力に陥った。彼は反応するよりも記録する。彼はひとつの視覚 visionに委ねられ、行動の中に巻き込まれるよりもむしろ視覚に追いかけられ、視覚を追いかける。純然たる見者となる。純粋に光学的な状況→直接的時間イメージという位置付けられない関係が現れるのだ。

ここで登場するのが結晶イメージであり、ベルクソンの逆さ円錐モデルで説明される。

B

円錐の全体SABが記憶に蓄えられたイマージュ全体。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。ABは純粋回想=保存された過去。Pは宇宙。意識は螺旋を描きながら絶えず内部を反復し、新たな過去A'B'、A''B''を生成し続ける。

この結晶時間イメージの代表例がアラン・レネの「去年マリエンバートで」'61であり、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」'63だ。フェリーニは語る。「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」過ぎ去り、死に向かう現在と、保存され、生の核を保持する過去は絶えず干渉しあい、交差しあう。もし保存された過去の領域へ飛翔しても求めている回想が応じず、イメージが顕在化しなければ現在に戻って来て、もう一度飛翔しなおせばいい。

僕が「8 1/2」を初めて観たのは高校生ぐらいの時だった。当時は何が面白いんだかさっぱり理解出来ず、ただただ退屈だった。しかし今回ドゥルーズを読み、フェリーニが言わんとしたことの輪郭が漸くはっきりして来た気がする。

また「シネマ」で紹介され、初めて知る機会を得た映画も沢山ある。ドライヤー「裁かるゝジャンヌ」'28、エプシュタイン「アッシャー家の末裔」'29、エイゼンシュテイン「全線」'29、ヴェルトフ「これがロシアだ」'29、イヴェンス「橋」'28、「雨」'29、ブニュエル「ビリディアナ」'61、「皆殺しの天使」'62、バスター・キートン×サミュエル・ベケット「フィルム」'65……。大変勉強になった。

ただ些か不満なのは、ヌーヴェルヴァーグに関して僕はトリュフォー派なので(「シネマ」では殆ど触れられない)、ドゥルーズはゴダールのことを実力以上に買いかぶっているのではないか、ということである。

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【アフォリズムを創造する】その10「哲学について」

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは「哲学とは新しい概念の創造である」と言った。

哲学は生きるヒントを与えてくれる。哲学によって世界の見方が変わる。

僕はユング心理学やニーチェの哲学を学ぶことで、映画や音楽など芸術に対する理解が一層深まったことを実感している。そのことは拙ブログ記事を通して納得して頂けるだろう。「哲学って何かの役に立つの?」と懐疑的な方もおられるだろう。しかし自信を持って言おう。「哲学を知れば、人生がより豊かになる」「よりよく生きるにはどう振舞うべきかを教えてくれる」のだと。

人はみな、多かれ少なかれ存在の不安と死への恐怖を抱いて生きている。霊魂(死後の世界)を信じたり、占いや風水、血液型性格判断に頼る人がいるのも、そういう心情に起因する。「私」に自信がないから、自分の運命を他者に決めてもらいたい。つまり依存心だ。「何故人は生きるのか?」「我々は何処から来て、何処へ行くのか?」……その疑問を解消する一つの手段として宗教があるし、もし貴方が神を信じないのであれば哲学書を読めばいい。

人はラクダ→ライオン→子どもという進化の過程をたどるとニーチェは主張する。最終的に現れるのが超人だ。そして私たちは超人への橋渡しを担っているというわけだ。成る程、それが我々の生きる目的なのだ。つまり未来(子孫)に希望を託す役割と言えるだろう。僕はこの説明がすっと腑に落ちた。例えば人類の歴史を考えてみよう。一進一退はあるけれど、大局的に見れば良い方向に進んでいるのではないだろうか?専制君主制から民主主義の世の中に移行したし、先進国に限って言えば戦争や貧困も確実に減った。日本だって、つい70年ぐらい前には餓死者がいたんだから。そりゃあ世界的に見れば今だって飢えに喘ぐ人たちはいるし、紛争は絶えない。でも彼らも発展の途上にいるのだ。早いか遅いだけの違いだと僕は信じたい。医療の進歩で平均寿命も飛躍的に伸びた。超人の誕生も、そう遠くない将来なのではないだろうか?

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