哲学への道

映画「アンダー・ザ・シルバーレイク」と〈陰謀論〉について。

大傑作ホラー映画「イット・フォローズ」のデビッド・ロバート・ミッチェル監督最新作ということで劇場に足を運んだ。公式サイトはこちら

評価:B+

魑魅魍魎が跋扈する街ハリウッドを舞台とする、陰謀論の話である。ポスターから既に凝っていて、メッセージ(映画を紐解く鍵)が密やかに忍び込まされている。その一部を切り取った。

Under_the_silver_lake

泡の中にギター、海賊姿の男の顔、ジェームズ・ディーンの顔、風船の女、双眼鏡、JESUSと刻まれた十字架(逆さま)などが隠されている。また髪の毛にはSEXという文字が。

カフェの窓ガラスにスプレーで書かれた落書き"Beware The Dog Killer"(犬殺しに気をつけろ)ではじまる本作の主人公は、夢を抱いて映画の都にやって来たけれど仕事がなく、家賃滞納でコンドミニアムから追い出されそうなヲタク青年(アンドリュー・ガーフィールド;エマ・ストーンと交際していたが2015年に破局した)。「ラ・ラ・ランド」の悪夢版という宣伝文句は言い得て妙で、どちらもグリフィス天文台が登場し、ジェームズ・ディーンが絡んでくる。で、「ラ・ラ・ランド」のふたりはそこから空中浮遊し昇天するのだが、本作の主人公は地底に潜ってゆく。見事に好対照を成している。なお、エマ・ストーンはガーフィールドと別れた後から運に恵まれ、「ラ・ラ・ランド」でアカデミー主演女優賞を受賞した。

本作は完全に映画ヲタク向け仕様であり、普段あまり古典名画を観ない人にはチンプンカンプンかも知れない。前半部はアルフレッド・ヒッチコックに対するオマージュが散りばめられており、双眼鏡での覗きや、美女が登場する瞬間にコマ落としになる演出は「裏窓」、車での追跡や逆ズームは「めまい」、花火は「泥棒成金」といった具合。「イット・フォローズ」のディザスターピース(リッチ・ブリーランド)が作曲した音楽はバーナード・ハーマンを模倣している。映画評論家・町山智浩氏は「めまい」にそっくりだと述べているが、僕はハーマンがオーソン・ウェルズと組んだ「市民ケーン」の方に似ていると想う。で、映画中盤で主人公が古城に住むソングライターを訪ねる場面があるのだが、これ完全に「市民ケーン」の豪邸ザナドゥーね(ここは「オズの魔法使い」だと、町山氏は解説する)。主人公の部屋には「大アマゾンの半魚人」のポスターが貼ってあって、こちらはアカデミー作品賞・監督賞を受賞したギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の元ネタ。フィルム・メーカーに大人気の作品なんだね。後に失踪する美女の部屋で主人公が一緒に観る映画は「百万長者と結婚する方法」で、テレビの横にマリリン・モンロー、ローレン・バコール、ベティ・グレイブルのフィギュアが置いてあるという周到(マニアック)さ。そのブロンドの美女が裸になってプールで泳ぐ場面は、マリリン・モンローの遺作で未完に終わった「女房は生きていた(Something's Got to Give )」の再現。編集されたフィルムは37分しかなく、勿論未公開。いやはや!!あと海賊姿の男は、やはりハリウッドを舞台とするデヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」のカウボーイを変換したものであり、「マルホランド・ドライブ」からも多大な霊感を得ている。だから、自分の部屋に警官と管理人が立ち入るのを別の部屋から主人公が眺める場面で映画は締めくくられるのだが、なんだか幽体離脱みたいで、この語り部は「マルホランド・ドライブ」(さらにその元ネタ、ビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」)同様に、既に死んでいるんじゃないかという仮説も捨てきれない。映画全体を〈腐乱死体が見た夢〉だと解釈すれば、周囲の人々が主人公に対して「臭い!」と嫌な顔をするのも頷ける。まるで迷宮Labyrinth)を彷徨うような映画である。

この監督の前作「イット・フォローズ」で魅了されたのは、なんといっても映像表現である。何だかね、カメラが動いただけで怖いんだ!特にヒロインが廃墟の中で車椅子に拘束されている場面の移動撮影には息を呑んだ。あと360°を超えるパン(撮影技法)とか。つまりキャメラがぐるっと水平方向に一回転して、更に回るなかで劇的な状況変化が起きる。これを観たナイト・シャマランが撮影監督のマイケル・ジオラキスを新作「スプリット」に起用したのも頷ける。そしてジオラキスが続投した「アンダー・ザ・シルバーレイク」の映像も冴えに冴えている。

本作の主人公は妄想性人格障害パラノイヤ(偏執病)と思われる。僕が真っ先に連想したのはスタンリー・キューブリック監督「博士の異常な愛情」でスターリング・ヘイドンが演じたリッパー准将。彼は「水道水フッ化物添加はアメリカ人の体内の〈エッセンス〉を汚染しようとする陰謀だ」と陰謀論を説く。

昔からフリーメーソン陰謀論とか色々あって、子供の頃、日本テレビ「矢追純一UFO現地取材シリーズ」を観ていたら、ケネディ暗殺は「1947年のロズウェル事件で墜落したUFOの生存者グレイ(宇宙人)はアメリカ空軍が管理するエリア51で保護され、そこではUFOの研究が続けられている、と世間に公表しようとしたケネディを邪魔に思った秘密機関MJ-12(マジェスティック・トゥエルヴ)のメンバーたちが首謀者である」という陰謀論を流していた。因みにこのエリア51はスピルバーグの「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」やテレビドラマ「Xファイル」にも登場する。あと、アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」には、ユダヤ人陰謀論が延々と書かれている。正にパラノイヤの産物である。

何故、陰謀論が世間を跋扈するのか?それは結局、人間というものは〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉とか〈我々が生きる目的は何か〉〈我々はどうして死ななければならないのか〉とかを、自らに問わずにはいられない生き物だからだろう。そいう心理過程を経て宗教が誕生した。そして陰謀論は、〈この複雑に糸が絡み合った、混沌とした世界(カオス)を、どうにか単純化して理解したい〉という欲望から生まれたと言える。その根底には存在の不安がある。つまり、

  • 宗教一神教):この世界を創造した人物(=神)を設定(単純化)し、世界の成り立ち(生者必滅の理由など)を理解したい。因果を知りたい。
  • 陰謀論:この世界で起こる全ての問題/事件を、単一の首謀者(人物またはグループ)が計画したことであると単純化し、理解したい。

結局、両者の構造は全く同じなのである。〈全ては偶然の産物に過ぎず、計画者など誰もいない〉という考え方は、どうやら多くの人々にとって我慢ならない、受け入れ難いもののようである。

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欧米的「理性」からの脱却

〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉

Paul_gauguin

ポール・ゴーギャンがタヒチ島で描いた絵のタイトルである。

明治維新以降、日本政府はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を目標として、富国強兵に務めた。幕末期にペリーの黒船や、英仏軍の大砲の威力を目の当たりにし、「このままでは日本は植民地になってしまう!」という危機感がそこにはあった。西洋をお手本とした近代化は急務であった。

第二次世界大戦で焼夷弾による(東京・大阪・神戸などへの)大空襲や原爆投下で日本は焦土と化し、惨憺たる敗戦後に我が国が最大の指標=目指すべきGoalと見做したのはアメリカ合衆国である。それはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)占領政策の成果でもあった。ハリウッド映画や、1950年代から開始されたテレビ放送の中で見る、アメリカ中流家庭の豊かさは日本人の憧れとなった。テレビ・洗濯機・冷蔵庫という電化製品は「三種の神器」と呼ばれ、我々の親世代はがむしゃらに働いた。その結果、昭和40年代(1965年以降)の日本人は"economic animal"と揶揄された。

そして21世紀となり、いつの間にか日本人はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を追い抜かし、豊かな国に暮らしていた。最早規範とすべき国はなく、欧米が築いた近代合理主義・科学技術文明を盲目的に賛美し、追従する時代はとうの昔に終わった。我々は今後、独自の道を模索していかなければならない。

欧米諸国の人々の多くはキリスト教徒である。アメリカ合衆国では国民の78.4%がクリスチャンであり、うち51.3%をプロテスタント、23.9%をカトリック教徒が占めている(2008年ピュー・フォーラムによる調査)。

実際、アメリカ人は教会によく行く。総人口の四割、一億人以上が毎週あるいは定期的に、おのおのの教会に礼拝に行くという国は、先進工業国ではほかにはない。
      (ハロラン芙美子 著「アメリカ精神の源」より)

アメリカでは2009年に正教会、カトリック教会、そしてプロテスタントの福音派指導者が合同で「マンハッタン宣言」を発表し、人工妊娠中絶や同性愛という「罪」を容認する法制度に対して、異議を唱えた。1920年代にはテネシー、オクラホマ、フロリダ、ミシシッピー、アーカンソーの各州において、公立学校でダーウィンの進化論を教えてはならないという州法が存在した(進化論は旧約聖書の記述に合致しないので)。なおケネディはカトリック教徒であり、ジョージ・W・ブッシュを支持したのは反中絶・反同性愛を叫ぶキリスト教原理主義(Christian fundamentalism)の人々であった。つまりアメリカ合衆国は宗教国家であることを見逃してはならない。

ユダヤ教やキリスト教にはアントロポモルフィズム(人間形態主義/人神同形論)つまり、神を人間と同じような姿で想像するという基本理念がある。それは旧約聖書の「創世記」にはっきりと書かれている。神は最初の男アダムを神に似せて創造した。そして最初の女イヴはアダムの肋骨から創られた。つまり人は神の似姿なのである。だからすべての動・植物の中で人間は一番偉く、自然を自由にコントロールしたり、生殺与奪の権利を持っていると彼らは考える。地球上に於いて人は神に最も近い存在であり、万物のリーダーとしての重責を担っているというわけだ。

欧米人と日本人との思考の違いは「庭」のあり方に典型的に現れている。野趣あふれる日本庭園は野山(自然)の中に在り、自然と一体化しようと欲する。一方、初期イギリス式庭園やフランス式庭園、イタリア式庭園は幾何学模様や生け垣による迷路など人工的産物であり、自然を型にはめ人の意思で徹底的に管理しようとする。アメリカ合衆国郊外の建売住宅地に見られる広い芝生の庭も然り(その起源は英国貴族の庭園にある)。

旧ソビエト連邦の社会主義リアリズムとは人類の進歩と発展を信じると同時に、人間の理性の普遍性を信じる芸術(美術・音楽・文学)だった。人類は進歩の結果、やがて理想の共産主義を建設するのであり、共産主義が最高の発展段階である以上、それを設計した人間の理性もまた最高のものでなければならない、というわけである。共産主義は唯物論だ。唯物論とは宇宙の根本は物質であり、「神はいない」という思想である。だから社会主義リアリズムの最終目標は人類(共産党員)=神になればいい、ということになる。ここにキリスト教思想の残滓がある。余談だが唯物論の根本的誤りはエネルギーを無視していること。世界は確固たる物質で構成されているのではなく、突き詰めれば全てはエネルギーであるというのが量子力学の考え方だ。

欧米の白人は有色人種に対して差別意識を持っている。これは衆目の一致するところだろう。しかし彼らの①アフリカ大陸の黒人や南北アメリカ先住民、オーストリア先住民(アボリジニ)に対する扱いと、②インド人やアジア人に対する扱いに明らかな違いがあることにお気づきだろうか?①アフリカの黒人たちは奴隷としてアメリカ大陸に売り飛ばされた。南北アメリカの先住民やアボリジニたちは無慈悲に大量虐殺され、「居住区」という名の不毛の地に強制的に移住させられた。そして豊穣で住心地の良い場所は白人が独占した。一方、②インド人が奴隷売買の対象になることはなかったし、居住地に関してアジア人が南北アメリカ先住民のような扱いを受けることもなかった。一体全体この差異は何なのか?

アフリカの民族、南北アメリカ先住民、アボリジニに共通する特徴は無文字社会であるということだ。だから欧米人は彼らのことを「未開 primitive」と見做した。未開人は知能が獣レベルであり、家畜同様に扱ってもいいという発想が根本にある。文字による記録=歴史がないが故に、アフリカは「暗黒大陸」と嘲笑された。だからアラビア語を使用するアラビア半島や北アフリカの人々は、中〜南部アフリカの無文字社会の人々よりは遥かにマシな扱いを受けた。彼らの肌が白いということとも無関係ではないだろう。つまり欧米人は肌の色と、文字を持つかどうかという2つの観点から他文明を差別(階層)化していたのである。彼らがいくら屠殺しても構わないと考える牛や豚と、「知性があるから捕鯨を絶対認めない」と主張するクジラやイルカの扱いに差を設けるのも、同じ理屈である。

19世紀末のオーストラリアではスポーツハンティングという名の虐殺が日常のように行われていた。詩人メアリー・ギルモアは幼少期の思い出を「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙(1938年3月4日)に次のように書いている。

水飲み場の周辺に何百人ものアボリジニが死んでいた。大人たちが集まり、アボリジニの狩りに出かけるところを何度も見た。欧州から獰猛な狩猟犬が輸入された。アボリジニたちを狩りだし、食い殺させるためだった。ある時は小さな子供たちが、野犬のように撃ち殺された両親の遺体のかたわらで死んでいるのも見た。

そもそもオーストラリア政府はアボリジニを国民とみなしていなかったので、人口動態国勢調査対象からも外し続け、アボリジニを人口統計に入れたのは1973年の憲法改正以降であった。現在、アボリジニの人口はイギリス人の入植前と比較し、10分の1以下に減少した。またタスマニア島にいた3万7千人の原住民は根絶やしにされた(Black War)。これが白豪主義の実態である。

しかし1962年人類学者レヴィ=ストロースにより、無文字社会も高度に知的で豊かな文化を育んでいたことが立証された。

欧米人は何よりも理性を重要視する。古代ギリシャのプラトン哲学が典型的だが、イデアこそ最高のものだと彼らは考える。我々の肉眼で見えるものではなく、「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に至ることが人類の最終目標なのだ。つまりイデア=真理であり、キリスト教がヨーロッパに広まるにつれ、それは神の国(天国)と言い換えられるようになった。

17世紀の数学者デカルトは、心と体は明確に分離したものだと主張した。西洋科学は20世紀半ばまで、この心身分離モデルを疑うことなく用いてきた。彼らは肉体を軽視し、意識 consciousness自我 ego自制心 self controlを重んじた。ここから派生してきたのが徹底的な個人主義 individualismである。

肉体・欲望の軽視はキリスト教の禁欲主義に如実に現れている。聖職者が神に近づくためには性欲は禁忌とされ、信徒が夫婦生活の営みとして性交する場合も、快感を求めてはいけないとされた。19世紀ヴィクトリア朝時代の英国紳士はマスターベーション(自慰)がタブーであり、自慰によってオルガスムが得られることを覚えた女子は医学的に問題のある子と見做され、陰核(クリトリス)を切り取られたり焼灼されたりといった「治療」が施された。そして1976年にカトリック教会は自慰行為を「重大な道徳的退廃」とした。つまり彼らが目指しているのは肉体を否定し、精神世界=理性でのみ生きることなのだ(極端な例が鞭身派・去勢派)。その背景に、アダムがエデンの園に生えた知恵の木から=リンゴをもぎ取って、食べてしまった(欲望に抗えなかった)という原罪がある。

こうしたキリスト教の迷妄に対して、最初に異を唱えたのはドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェだろう(19世紀末)。彼は「神は死んだ」と宣言し、「からだが大事」と説いた。これは精神至上主義から離脱し、身体性・皮膚感覚をもっと大切にしようという姿勢であり、欲望の肯定であった。

ニーチェの思想を継承したのがジークムント・フロイトカール・グスタフ・ユングである(20世紀初頭)。フロイトが提唱したエディプス・コンプレックスの真の目的はキリスト教(禁欲)の否定性欲の肯定にあった。ユングの〈意識 consciousness無意識 unconsciousness自己 self 〉という考え方も、理性だけに目を向けるのではなく、身体性を取り戻すという意図がある。深層心理学の誕生である。そして20世紀中頃に、この身体性・皮膚感覚はレヴィ=ストロースにより「野生の思考」と名付けられた。

従来より八百万の神を信じるアニミズムが浸透し、「野生の思考」を持つ日本人はブリコラージュが得意である。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。クリスマスや聖バレンタイン(←ローマ帝国の迫害で殉教した聖職者)デーを祝い、七五三や正月にはお宮参りをし、葬式は仏式といった宗教的出鱈目さや、中国伝来の漢字と日本特有の平仮名を組み合わせた複雑な言語体系など、ブリコラージュの典型例であろう。

父性原理で何でもかんでも切断・分離し、精製する(純度を高める:その度を越した姿がナチス・ドイツのアーリア人種純血主義)ことを得意とした欧米の手法が行き詰まり、音を立てて瓦解している今こそ、理性と身体(からだ)や、意識と無意識の統合、すべてを包み込む母性原理野生の思考が求められている。そう、僕は確信する。

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SNSがもたらした〈福音〉と〈罠〉。〜本谷有希子(著)「静かに、ねぇ、静かに」

本谷有希子という名前はつい先日、2018年9月12日(水)まで全く知らなかった。認知するきっかけになったのはその前日にTBSラジオで放送された、ラップグループ・RHYMSTER 宇多丸がパーソナリティを務める「アフター6ジャンクション」(通称:アトロク)である。彼女がゲストとして登場し、最新刊「静かに、ねぇ、静かに」の話をしたのである(パートナーは宇垣美里アナ)。これを通勤時にラジオクラウド(iPhone)で聴いて、俄然興味が湧いた。

早速Amazon.co.jpKindleで探してみた。すると、なんと!3つの中編からなる「静かに、ねぇ、静かに」のうち、最初の物語『本当の旅』が【刊行記念 無料試し読み】で、まるごとダウンロード出来ることが判明した(最後まで読める)。太っ腹!!

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本谷は1979年生まれで現在39歳。石川県に生まれ高校卒業後上京、ENBUゼミナール演劇科に入学し、松尾スズキに師事した。その後女優となり2000年に「劇団、本谷有希子」を旗揚げ、劇作家・演出家としての活動を開始した。「遭難、」で鶴屋南北戯曲賞を史上最年少で受賞。「幸せ最高ありがとうマジで!」で岸田國士戯曲賞を受賞した。小説の方は「ぬるい毒」で野間文芸新人賞、「嵐のピクニック」で大江健三郎賞、「自分を好きになる方法」で三島由紀夫賞、「異類婚姻譚」で芥川賞を受賞している。純文学新人賞三冠作家は彼女が史上3人目となった。

『本当の旅』の語り部は〈ハネケン〉。彼は友人の〈づっちん〉、〈ヤマコ〉と三人でマレーシア旅行に出発する。テーマはズバリSNS。彼らはグループラインで頻繁にやり取りし、”インスタ映え”に血道を上げる。

むちゃくちゃ面白かった!本谷は底意地が悪い作家である。全編悪意に満ちている。そういう意味で「OUT」「柔らかな頬(直木賞受賞)」の桐生夏生を彷彿とさせた。読んでいてヒリヒリするし、どよんとした読後感が残るので読者を選ぶ作家と言えるかも知れない。好き嫌いがはっきりと分かれるだろう。一部の人にとっては、歪んだ鏡で自分を見るのを強いられているようで、不快な気持ちになる筈だ。

この小説に登場する仲良し三人組は僕に言わせればグロテスクなモンスターである。それも人畜無害な。しかし本人には全くそんな自覚がなく、自分たちはリア充だと錯覚しているのだからイタい。貧しい彼らは、しっかり働いて裕福な暮らしをしている周囲の人々を見下している。価値の転倒。ニーチェが言うところのルサンチマン(強者に対して復讐心を燃やす、弱者の鬱屈した心)だ。つまりローマ帝国に支配されて苦しんでいたユダヤ人(イエス)が、「いや、貧しい自分たちこそ正義だ!」と開き直ったのと同じ構造がここにはある。

〈ハネケン〉たちは生きている実感がない。むしろSNSという仮想空間にこそリアル(本当)を感じる。正にヴァーチャル・リアリティである。彼らに欠如しているのは皮膚感覚だ。指で触って感じること、痛み、匂い、舌で感じる味覚。そして辛い、厳しい現実は写真をトリミング(画像の不必要な部分を切り取ること)したり、動画を編集したりすることで排除出来る、なかったことに出来ると信じている。本谷はそんな彼らを容赦なく狂気の淵へと追い込む。

僕にとってこの小説は「あるある」「わかる!」の連続だった。例えばこんな情景を日常生活でしばしば見かける。喫茶店やファーストフードで友達同士やカップルが向かい合って座っているのだが、各々が俯向いてスマホを弄(いじ)っている。「一緒にいる意味なくね?」というゾワゾワした違和感。

またインスタグラムで「今日はお昼にこれ食べました」といちいち写真付きで報告する人々。「そんなことに興味がある人が一体全体、地球上の何処にいるんだ??」肥大化する自意識承認欲求私が、私が、私が……。なんの価値もない、ちっぽけな自分のことばかり延々と喋り続けていることの滑稽さ。

人間は皆、孤独である。そして寂しい思いを抱えて生きている。インターネットがなかった頃の女子大生は大抵一人で下宿にいることはなく、友達の家に泊まりに行ったり、深夜に長電話するというのが常だった。SNS最大の効用は、誰かと常に「繋がっている」と錯覚出来ることだろう。しかしSNSの登場で、果たして人は孤独から脱出出来たのだろうか?

「静かに、ねぇ、静かに」が炙り出すのは、インターネットやSNSが仕掛けた罠、落とし穴だ。しかし一方で、ネット世界が存在しなければ僕がこの小説に出会うことがなかったのも紛れもない事実である。

SNSが我々にもたらすのは幸福なのだろうか?それとも不幸なのだろうか?結局は切れ味鋭い包丁と同様、使い方次第ということなのだろう。

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續・君たちはどう生きるか?

息子へ。そして未来を生きる若い人へ。

記事「君たちはどう生きるか?」をupした後、どうしても書き足らないという思いに駆られ、追記することにした。もうしばらくお付き合い願いたい。人生の先輩からの、ささやかな言葉の贈り物として受け取ってもらえたら嬉しい。

⑪想像力を働かせよ!

道を歩いていて、ゴミのポイ捨てを見ると、悲しくなる。そういう行為を平気で出来る人間に何が欠けているかといえば「想像力」だろう。つまり自分が捨てたゴミを他者が見てどういう気持になるのか、誰がそれを拾ってゴミ箱に捨てるのか、そこまで考えなさい。言い換えるなら物事を主観的に捉えるだけではなく、他者の目で自分を見ることが出来るかどうか=客観性が問われている。それが公共心道徳だ。気配りとも言う。未来を見据える力を養い、想像力を働かせるためには高度な知性を要する。

⑫よく生きるとは「問いを立てる」こと。

ニーチェとかドゥルーズら哲学者の書いた本をいくつか読んで学んだことは、「問いを立てる」ことの大切さである。

誰にでも当てはまる根本的な問いは「自分とは何者なのか?」ということだろう。分かっているようで実は誰も知らない。一生懸命考えても、答えは日々変化してゆく。それが面白い。また僕がしばしば問うのは「日本人とは一体何者なのか?」や、「どうして自分はこんなに次から次へと映画を観続けるのか?(もうすぐ三千本に達する)」「どうして人は、物語を必要とするのか?」等である。これらについて既にいくつか考察を書いた。

書かれたことは既に抜け殻である。いま同じお題を与えられたら、内容はまた違ったものになるだろう。思考は絶え間なく変貌を遂げる(生成変化)。

⑬「白か黒か」「Yes.かNo.か」ではなく、その中間を狙え。

よく「日本人は曖昧で、Yes.かNo.かはっきりしない」と外国人から非難される。確かに国際社会において態度を明確に示さないのは相手の理解を得られないし、損だ。ただ余り両極端に偏るよりも、その間を進むことが大切な場合もある。例えばある二国間関係を考えた場合、「敵か味方か」の二項対立でぶった切ることは極めて危険。敵→戦争だ!と短絡的思考に繋がるかも知れない。現在、アメリカと日本は同盟関係にあるが、だからといってアメリカの主張の言いなりになるわけにもいかない。良いことを良いとして賛成し、悪いことは悪いとして反対する、是々非々の対応が望まれる。

コンピュータの計算処理は2進法、「0か1か」だ。つまりデジタルは二項対立の世界である。よって「デジタルではなく、アナログ人間になれ!」全か無かではなく、グラデーション(段階的変化)で思考する能力を身に着けなさい。

例えば人間を「男らしい」と「女らしい」の二分法で切断するのではなく、その境界域にいるゲイなどLGBTの人々、つまり価値観の多様性を認めることが肝心だ。

朝日新聞や東京新聞など、日本の左翼ジャーナリズムは安易に「ネトウヨ」という言葉を使いたがる。

世の中を単純に右と左に分けたほうが分かり易い。だから彼奴らはそういう図式に持ち込みたい。しかし実際は、真の右翼と真の左翼は極めて少数派であり、大半の人々は中道である。そのことは忘れられがちだ。そもそも現在、日本の有権者の50%強は「無党派層」である。選挙ごとに投票先を変えている。二項対立で思考する時代はとっくの昔に終わったと言えるだろう。

⑭高貴な人間になれ!

この項目はニーチェ著「ツァラトゥストラはかく語りき」に深く関連している。

人は自分より不幸な人間に慰めを見出すというしたたかな劣弱さを持ち、自分の良く知る身近な人間が、自分よりも多少の幸福を得た時、なんとも許しがたい感情に囚われる。すなわち嫉妬である。そして自分の欲望を満たそうと復讐心に燃える。ニーチェはこれをルサンチマン(怨恨)と呼んだ。弱者、被支配者が「自分たちこそ善き者、正義だ」と強者、支配者に対して開き直る価値の転倒。朝鮮文化における「恨(ハン)」も同根である。慰安婦問題日韓合意に基づき日本政府が10億円を拠出したにも関わらず、韓国政府が合意を踏みにじり慰安婦問題を相変わらず言い立ててくる根底にはこのルサンチマン/恨(ハン)がある。そこには嘗ての【ユダヤ人(キリスト教)↔ローマ帝国】の対立構造が二重写しになる。韓国人は「神に選ばれた善なる民」ユダヤ人の受難に自分自身の境遇を、また自らの民族の境遇を重ねて見ており、韓国人にクリスチャンが多い理由の一つがそこにある(2005年韓国統計庁の発表に拠ると総人口のうち、プロテスタントとカトリック信者を合わせると29.2%。対して日本は1%程度である)。古くから中国にある「華夷思想(かいしそう)」は、中央の文明なる「」に対する周辺の野蛮なる「」という世界観であり、韓国は、我々はに属しているけれど、日本はではないかと考えている(参考文献:西尾幹二、呉善花「日韓 悲劇の深層」祥伝社新書/西尾幹二「ニーチェとの対話」講談社現代新書)。なお、恨(ハン)」について詳しく知りたければ、1993年の韓国映画「風の丘を越えて/西便制」を御覧あれ。

ここで卑近な例を挙げよう。あおり運転」でバイクと車が衝突し、バイクを運転していた人が死亡するという事件がしばしば報道される。その主な原因は追い越しである。後ろから走って来たバイクに抜かれた。頭にきたので猛スピードを出して急接近し、パッシングしたり煽ったために事故を引き起こした。多分犯人もあとから振り返って「どうしてあんなバカなことをしたのだろう?」と途方に暮れていることだろう。発端は些細なことだ。冷静に考えれば人の命を奪うほどの案件ではない。頭に血が上り、常軌を逸していたとしか考えられない。

 行動とは ーたとえいかように些細な行動であろうともー およそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることに外ならない。事前に済ませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより、人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われるものなのだ。(西尾幹二「人生について」新潮社)

あおり運転をした被疑者の心理を分析するなら、自分が徒競走(かけっこ)をしているような錯覚に囚われたのであろう。カーレースと言い換えても良い。後ろから来た者=自分より劣った者に抜かされた。敗北した、馬鹿にされたような気がする。許しがたいという嫉妬が芽生え、復讐心がメラメラと燃える。そして行為に及んだというわけだ。ルサンチマン/恨(ハン)と同じ構造である。車という密室のために相手とコミュニケーションを取る事が出来ない状況も事態を悪化させたと言える。会話を交わせば「馬鹿にされた」というのが単なる誤解、妄想であったと気付けたかも知れないのだが……。

運転中にクラクションを鳴らされることによる怒りと、それによるトラブルも同様の心理メカニズムである。公衆の面前で叱られ、恥をかかされた。自尊心を傷つけられた。上から目線に対する復讐

ではどうすればこうした衝突を回避出来るだろう?それは「高貴な人間」になることである。ニーチェの言葉を借りるなら、

孤独のなかへ、友よ、逃げろ。(中略)ハエたたきになるのは君の運命じゃない。

となる。くだらぬ相手と諍いを起こすくらいなら、一歩退き、自分を大切にしなさい。黙って通り過ぎるに越したことはない。

被害者側(追い越した方)で考えるなら、相手のちっぽけな虚栄心を傷つけないよう、恨まれないよう細心の注意をはらうべきだということに尽きるだろう。

高貴な人間」は羞恥心を持っている。行動を起こす前に、ちょっと待ってみようか?一呼吸おいて、今まさに為そうとすることが恥ずかしい行為ではないかよく考えよう。そして、

高貴な人間は、他人に恥ずかしい思いをさせないようにする。(ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」)

羞恥心は非常に高度で、奥深い感情である。生まれたばかりの赤ん坊はまず最初に泣く。暫くして笑い怒るようになる(早い子の場合、生後1ヶ月半頃からと言われている)。一般に、喜怒哀楽は生後4ヶ月頃にはっきりしてくる。これらは原始的な感情だ。しかし子供が恥ずかしさを感じ始めるのは2〜3歳ごろからと考えられている。Lewisらによる次のような研究がある(1989)。平均生後22ヶ月の子供の鼻にこっそりと口紅を塗る。そして子供たちに鏡を見せ、鼻についた口紅を拭き取ろうとするかどうかを観察するのである。

USJなどテーマパークや、ホテルのロビーにたむろしているアジアから来た外国人旅行者の団体客が大声で騒いだり、傍若無人に通路を塞いだりして閉口することがある。また近隣諸国を旅すると、バスや電車に乗るときに列に並ばなかったり、駅構内や電車内で排泄行為をするといった信じられない光景を目にすることもある(こちらの記事)。彼らに決定的に欠けているものは何か?それは公共心(他人の目で自分を見る能力)及び羞恥心である。「人の振り見て我が振り直せ」という故事があるが、彼らを反面教師として、そういう人間に成り下がらないよう心がけたいものだ。

⑮「考える」ことを人任せにするな。

2018年7月8日(日)に放送されたNHKスペシャル「オウム 獄中の告白 〜死刑囚たちが明かした真相〜」を観た。その中で坂本弁護士一家殺害について、元オウム真理教幹部・早川紀代秀(7月6日死刑執行)の次のような手記が紹介された。

私の誤りは、グル(麻原彰晃)は間違うことがないと信じていたことです。悪行をなす前に殺害するという慈悲殺人の理論は、その手段が誤りであったことは明らかです。

これを読み僕が強く感じたのは、「あゝこの人は、自分で考えることを放棄して、他者に思考の全てを委ねてしまったんだな」ということ。つまり思考停止に陥っていた。これが洗脳(mind control)の正体であり、新興宗教の信者にありがちなことである。

若松孝二監督による映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」などを観ると、オウム真理教による一連のテロ事件と、連合赤軍の若者たちによる「あさま山荘事件」の類似点の多さに驚かされる。首謀者に一流大学出身者が多いことも共通している。

結局、マルクス主義も一種の宗教なのだ。【ブルジョアジー(資本家、支配階級)=悪で、プロレタリアート(労働者階級)=善】という幻想。オウムの場合は【坂本弁護士や霞が関(日本政府)=悪で、信者=善】という妄想。その原理は抑圧された人々の、恵まれた人々に対する嫉妬・怨嗟ルサンチマンである。そしてマルクスの「資本論」がバイブルという構造。マルクス主義者にとってはマルクスの言葉が絶対であり、そこに疑義を挟む余地はない。

マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」に中で次のように書いた。

共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する。

こうしてブルジョアジーに対する殺人は正当化された。下剋上という階級闘争により実権を握ったソビエト共産党は絶対悪=ロシア皇帝ニコライ2世一家を皆殺しにした。彼らにとっては「善行を施した(慈悲殺人)」と言ってもいい。フランス革命の再現である。そして革命の成果といえば、権力を握り、贅沢三昧をする人間が交代しただけであった。

普通選挙でナチ党を第一党に選び、アドルフ・ヒトラーを首相にした当時のドイツ国民の心情もこれによく似ている。第一次世界大戦に敗北し、ドイツは膨大な賠償金を背負わされた。インフレは天文学的数字に膨れ上がり、物価水準は25,000倍を超えた。10兆マルク紙幣という代物まで発行されたという。「どうして自分たちだけ、こんな苦しい生活を強いられなければならないのか?何も悪いことをしていないのに。不公平だ」「それに引き換えユダヤ人は新聞などマス・メディアや、(ロスチャイルド家など)銀行を牛耳り、自分たちだけ美味しい思いを独占している。絶対に許せない!」こうして嫉妬・恨み=ルサンチマンを募らせ、ヒトラーの言葉に盲目的に付き従うことになる。

故にこの第⑮項は【⑦正義とか悪、不変の真理を説くものを信じるな。徹底的に疑え!】に接続している。

ツイッターをしていると、有名人の発言をリツィートばかりして悦に入っている人を時に見かける。自分は空っぽなのに、他人の言葉で「ひとかどの人物」になったような勘違いをしている輩、虎の威を借る狐だ。どうして自身で思惟し、言葉を紡ぐ努力をしないのだろう?

また以前、某社会人吹奏楽団の掲示板に拙ブログへのリンクが貼られ、「この人は僕が言いたかったことを全て代弁してくれている」と書かれていて無性に腹が立った。「自分が言いたいこと」を言語化する能力・技量すらないくせに、人の褌(ふんどし)で相撲を取るな!こうした依存心はその辺にうっちゃって、君たちは自分自身の足でしっかりと大地を踏みしめ、自立した人間になりなさい。

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君たちはどう生きるか?

将来、当ブログを読むであろう息子(現在小学校1年生)に向けてこの文章を書く。僕が今まで生きてきた過程で学び、培ってきたフィロソフィー(哲学/哲理)を語ろう。

① 生成変化しない者に価値はない。

生成変化とは、20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが打ち立てた概念である。2018年、秋元康が作詞した乃木坂46の"Against"(卒業する生駒里奈に贈った楽曲)が生成変化とは何かを教えてくれる(視聴はこちらから)。

僕らは変わらなきゃいけない
永遠なんか信じるな!
昨日の自分とは決別して
生まれ変われ!

このままここに居続けるのは
誰のためにもならない
新しい道を切り拓いて
立ち向かうんだ
アゲインスト (秋元康 詞)

僕は10代の頃から「昔は良かった」と言うような大人には絶対になりたくない!と決意していた。そして幸いなことにならなかった。「今」が一番楽しいし、「今」が一番充実していて、濃密な時間を生きている(現在進行形)と胸を張って言い切れる。20歳の自分より「今」の自分の方が絶対に賢い。昔の映画の方が面白かった?そんなの嘘っぱちだ。ただ感性が衰えただけ。

《生きながら死んでいる、化石のような大人》にはなるな!そのためには本を読み続けること。新しいもの(音楽・映画・演劇など)を貪るように吸収し、感性を磨くこと。生涯が学びの場だ。そのことを肝に銘じるべく、次の詩を紹介しよう。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

(中略)

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

(茨木のり子/詩集「自分の感受性くらい」所収)

② 境界を超えろ。自分の周囲にあるを壊せ!

漫画「進撃の巨人」のを思い出してくれたらいい。

「新世紀エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン新劇場版)」で言えばA.T.フィールドね。境界を超えるとはつまり、生成変化に繋がる。更に言い換えるなら《トリックスター(遊戯的撹乱者)になれ!》ということ。

対立する二つの陣営があったら、どちらにも組みすることなく、両者を仲介し、循環する存在になれ。思いっ切り混ぜっ返せ。それがトリックスター(遊戯的撹乱者)だ。循環をニーチェ哲学の言葉で言い表すなら永劫回帰となる。

行動せよ。考えるだけではなく体を動かせ。

③ 欲望に忠実に生きなさい。但し、他人の迷惑にならない範囲で。

「禁欲」は美徳ではない。愚かなだけ。履き違えるな。折角この世に生を得たんだ、チャンスは二度とない。せいぜい限りある人生を楽しまなくちゃ勿体ない。しかし新しい土地を得たいからと戦争して他国を侵略しちゃいけないし、性欲を満たしたいからと強姦するのも駄目。他人の犠牲の上に自分の幸福を築くな。これが最低限のルール(抑止力)だ。

立川談志「現代落語論」の言葉を借りるなら、「人間の業(ごう)」を肯定するということ。彼の著書「あなたも落語家になれる」から以下引用する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。
落語をお聴きなさい。

④ 矛盾を恐れるな。首尾一貫しなくていい。

矛盾していていいんだということはアニメーション作家(引退詐欺師!)・宮崎駿の生き様から学んだ。

将来を見据えた、理路整然とした人生設計なんか要らない。「予定通りいかない。番狂わせが面白い(ミュージカル「エリザベート」より死神トートの台詞)」出たとこ勝負だ!

若い頃僕は、例えば海外旅行に行く時に第1日目はここへ行って、次はあそこ、と時間刻みの綿密な計画を立てていた。でもある日、旅の醍醐味って想定外の出会いにあることに気が付いたんだ。事前の計画は大雑把でいい。後は現地で得る自分の感(臭覚・触覚 etc.)を信じるのみ。

野生の思考
を絶えず研ぎ澄まし、その場にあるありあわせのものでブリコラージュ(器用仕事/寄せ集め細工)すること。為せば成る。なんとかなるさ。

⑤ 行き詰まったらその場で踏ん張らず、直ちに「全力で」逃げなさい。逃げるは恥でも役に立つ。

学校でいじめられて、どうしようもなくなったら転校すればいい。それだけのこと。ジル・ドゥルーズの提唱する概念で語るなら、皆が当たり前と思って歩く道を逸れ、逃走線を描け!ノマド(遊牧民)として生きよ。ということになる。君が今いるそこだけが世界じゃない。失敗したら新天地で何度でもやり直せばいい。もっと視野を広げてごらん。追い詰められて、思い詰めて、自殺するなんて馬鹿げている。徹底的に自分を肯定すること

⑥ 生きる意味を考えるのは構わない。でも答えを求めるな。正解なんかないんだ。

人間というのは自分が生きる意味をどうしても考えてしまう生き物だ。余り思いつめると新興宗教にはまり、地下鉄でサリンをばらまいたりする羽目になる。マルクス思想に絡め取られ、銃を握りしめて浅間山荘に立てこもった若者たちもいたな。でもね、人は誰しも、いつかは必ず死ぬ。金持ちも、貧困層も、頭が良かろうが悪かろうが皆平等だ。そして息を引き取る最後の瞬間まで自分は何故いまここにいるのか、その意味を考え続ける。多分それ自体が「生きる」ということなんだ。つまり答えのない質問(The Unanswered Question)を問い続けること。人生には「目的」も、「神の計画」もない。「過程」が全てだ。

神は死んだ(by ニーチェ)。万物は流転する。

もしも僕の生に何らかの意味があるのだとしたら、それは「つなぐ」ことなのだろう。僕の人生の中で得たものを次世代に伝える。そうすれば君たちはさらに「その先に」進める筈だ。人類の歴史はその繰り返し(経験と知識の集積)だった。だから僕は今、ブログを書いている。君たちもリレーに参加し、つなぎなさい。但しゴールはないんだ。

⑦ 正義とか悪、不変の真理を説く者を信じるな。徹底的に疑え!

「正義」を騙(かた)る者の胡散臭さをまざまざと見せつけたのはジョージ・W・ブッシュ元アメリカ大統領である。イラクのフセイン大統領を「悪の枢軸」と決めつけ、大量破壊兵器があると主張して侵略戦争を実行した。しかし結局、大量破壊兵器は影も形も見つからなかった。2001年9月11日に勃発した同時多発テロの直後にブッシュの支持率は92%に達し、「史上最高」を記録した。ブッシュもどうかと思うが、熱狂的に彼を讃え、信じたアメリカ国民も救いようがない。アドルフ・ヒトラーを支持した当時のドイツ国民と大した違いはない(ナチス党は普通選挙で第一党となった)。どうして人はこんなに騙されやすいのだろう?暗澹たる気持ちになった。

大学生の頃、手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」を読んで衝撃を受けた。そこには【戦争に「正義の側」と「悪の側」などというものは存在しない】ことが明確に書かれていたのである。ナチス・ドイツに迫害されイスラエルを建国したユダヤ人は結局、4度にわたる中東戦争を通じてパレスチナ人を虐殺している。そこまで手塚は描いている(後にポール・バーホーベン監督「ブラックブラック」にこのテーマは継承された)。結局「正義」とか「悪」という価値観はあくまで相対的なものであって、絶対的なものではないのだ。時代や場所によって変わるし、戦争では勝った者が「正義」であり、勝者が敗者を一方的に裁くことになる(ジャンヌ・ダルク処刑裁判/ニュルンベルク裁判/東京裁判)。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは言い得て妙だ。故に「永遠に不変(普遍)の真理」など存在しない。そういうものを説く教祖・司祭の言葉は眉唾ものと思い、化かされないようご用心なさい。

⑧ 世の中、言ったもん勝ち。

これは本当に大切なことだ。きっちり自己主張すること。遠慮しては駄目、勿体ない。控えめにして出しゃばらないことが美徳だと考えている日本人は多いが、絶対に間違い。結局自分が損をする。間違っていてもいい、とにかく声に出す勇気を持つこと。それで失敗したら修正して言い直せばいい。それだけ。疑問があったら必ず手を挙げて質問してごらん。きっと世界が広がるから。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。

人間の条件はコミュニケーションを取ること。これに尽きる。そのためにはまず自分の意志を相手に伝えなければ始まらない。勿論言いっぱなしでは駄目で、相手の言葉にも耳を傾けよう。僕が敬愛してやまない大林宣彦監督の言葉を紹介する。「人は傷つきあって、許しあって、愛を覚える」(原文こちら)ーこれこそ数々の映画たちが今まで語ってきたことである。

⑨ くよくよ悩まず、結論を出すのは明日に延ばせ!

アメリカ合衆国の政治家ベンジャミン・フランクリンの格言で「今日できることをあしたにのばすな(Never put off till tomorrow what you can do today.)」がある。これは行動(Act)の話。僕が言っているのは思考(Thinking)のこと。僕が今まで出会った中で、最も影響を受けた(心に響いた)小説はマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」とレフ・トルストイの「戦争と平和」である。どちらも中学生の時に読んだ。以下「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラの名台詞を引用する。

"I'll think about that tomorrow. (中略)Tara! Home. I'll go home. And I'll think of some way to get him back. After all... tomorrow is another day."
「そのことはまた明日考えましょう。タラ!そうよ、我が家。お家に帰ろう。そして彼(=レット・バトラー)を取り戻す方策を練るのよ。だって結局、明日は明日の風が吹くのだもの」

よい考え、ひらめきは、ひょんなことから生まれることがある。例えば秋の虫や鳥の歌声に耳を傾けながら散歩している時、あるいは空に浮かぶ雲をボーッと眺めている時。それは不意にやって来る。だから焦らず、まずはゆっくり睡眠時間を取ろう。懸案事項は一晩寝かせることも大事。すると新たに見えてくるものもある。このブログ記事だって実は毎日少しずつ書き足しながら、1ヶ月ほどじっくり熟成させた成果なんだ。

最後に、フェデリコ・フェリーニ監督の映画「8 1/2」の名台詞を、未来を生きる君たちへの餞の言葉としたい。

⑩ "È una festa la vita, viviamola insieme."
  「人生は祭りだ!一緒に過ごそう」

さあ踊れ、そして騒げーっ!!

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何故ひとは、二項対立で思考するのか?その根源に迫る。

社会(文化)人類学者レヴィ=ストロースについて色々書いてきた。彼の構造分析に出会い、大いに魅了されたからである。因みに社会人類学 (Social Anthropology)は主にヨーロッパで用いられる名称で、文化人類学 (Cultural Anthropology)はアメリカで用いられる名称である。レヴィ=ストロースはフランス人なので、彼に敬意を表し社会人類学とする。

レヴィ=ストロースは1962年に出版した「野生の思考」で一世風靡し(ブリコラージュという概念も流行った)、構造主義を打ち立てた。後半生は壮大な構想による「神話論理」4部作に専念した。

彼はこう説く。一つの神話だけでそれを解釈することは不可能であり、出来うる限り近隣の類似する神話を集め、各々最小単位(誰が、誰に対し、何をした。という短い文)まで分解し(それを彼は神話素と呼ぶ)、神話群相互関係を熟慮し、共通する神話素を見出す。

神話群間には変換(変奏)を伴う。例えばこうだ。

①A→B→C→D→E
②A'→C'→B'→F→E'
③A''→F'→D'→C''→E''

A,B,C…は神話①を構成する神話素であり、神話②③のA',B',C'…はその変換(変奏)を示す。対応する順番は入れ替わることがあり、通時的だけではなく、共時的に把握する必要がある。これを神話の〈時間統合機能〉と呼ぶ。つまり時間の流れに沿って左から右に読むだけではなく、同時に交響曲の総譜(フルスコア)のように、上から下に眺める必要がある。神話素(細部)は変換されるが、構造は不変である

共時態=〈時間統合機能〉とはフランスの哲学者ベルクソンが説く逆さ円錐モデルで考えると分かりやすいかも知れない。

神話の構造はJ.S.バッハ以降の西洋音楽の形式に似ている。A-A'-A''の関係は主題(A)と変奏(A',A'')だ。私たちは変奏曲に接した時、無意識のうちにそこに主題を重ねて聴いている(共時的)。そうして初めて曲の構造が理解出来る。例えばモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナーらの(任意の)交響曲 第1楽章を見てみよう。全て同じ構造を持っている。第1楽章はソナタ形式と相場が決まっていて、(序奏:ある場合とない場合がある)→提示部(第1主題、第2主題)→展開部(主題の変奏)→再現部(原型主題の再登場)→終結部となっている。構造は同じだが内容(主題の旋律、変奏様式)には変換がある。そこに作曲家の個性が滲み出るのだ。

神話と他の神話との変換関係は幾つかのコード(規則/規定)にそって(手がかりにして)見てゆく。

コード(規則/規定)には【料理のコード(生のもの↔火を通したもの)】【宇宙論のコード(太陽↔月↔地上)】【空間のコード(近すぎる接触↔遠すぎる分離、水平↔垂直)】【婚姻のコード(婚姻的〈夫婦〉↔非婚姻的〈忌避〉】【親族関係のコード(近しい↔疎遠)】【季節のコード(雨季〈湿った〉↔乾季〈乾いた〉)】【植物学のコード(つた植物〈天〉↔樹〈地上〉↔水生植物】【動物学のコード】【心理=身体的(性的)コード】などがある。

構造分析の手法は演劇(オペラ、ミュージカル)や映画にも応用出来る。一番分かりやすい例はシェイクスピア「ロミオとジュリエット」とミュージカル「ウエストサイド物語」だろう。シェイクスピア「マクベス」↔黒澤明「蜘蛛巣城」、シェイクスピア「リア王」↔黒澤明「乱」でも良い。構造は全く同じ、しかし細部に変換を伴う。

ここでマーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」とノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」の共通項/構造的対応関係を見てみよう。

  1. 内戦が勃発する(南北戦争↔ロシア革命)
  2. 家族が引き裂かれる(スカーレット・オハラの母は病死し、父は狂い、妹たちとは対立する↔ジバゴの家族はパリに亡命する)
  3. 神出鬼没、境界を超えて活躍するトリックスターが登場する(レット・バトラー↔弁護士ヴィクトル・コマロフスキー)
  4. スカーレットはレットにチャリティ舞踏会で再会する↔ジバゴはコマロフスキーにクリスマス舞踏会で初めて合う
  5. スカーレットは2人の男(アシュレー、レット)を愛す↔ジバゴは2人の女性(ラーラ、トーニャ)を愛す
  6. アシュレーには妻メラニーがいる↔ラーラには夫パーシャがいる
  7. 物語の最後にスカーレットはひとりぼっちで故郷タラに帰る↔ジバゴはひとりぼっちでモスクワに帰る

こうして分析すると両者は全く同じ構造を持つことがご理解頂けるだろう。

しかし、だからといってパステルナークが意識的にミッチェルを模倣したわけではないだろう。レヴィ=ストロースの構造分析はユングが言うところの普遍的(集合的)無意識の探索である。彼の守備範囲は人類学のみならず、音楽、ソシュールの言語学、深層心理学、哲学的思考にも及ぶ(レヴィ=ストロースは若い頃、哲学の教師だった)。正に彼こそが境界を超えるトリックスターであった。それ故に、フロイトに匹敵する偉業を成し遂げたにも関わらず、多くの人々に理解されているとは言い難い。とても残念だ。

僕は他にも次のような構造分析をした。

コード(規則/規定)の項で示したように、ひとは常に二項対立で思考するとレヴィ=ストロースは主張する。コンピューターの情報処理も二進法だ。0か1か - YesかNoか - その問いを繰り返し、積み重ねることで、ひとの思考を模倣出来る。さらに彼は次のように語る。

人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点はきまってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表しているとすれば、結局のところ、人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう。(「神話と意味」大橋保夫訳、みすず書房)

レヴィ=ストロースの論理に従い、ひとが必ず二項対立で思考するのなら、宇宙にも二項対立があるのではないだろうか?僕はそう考えた。

ここで面白いことに気がついた。地球上の動物はみな左右対称である。対称ということは二分割出来るということだ。

人間には手・足など二つある器官が沢山ある。目は二つないと立体視出来ない。耳は二つないと音の方向が識別出来ない。だから必然性がある。しかし鼻の穴は二つ必要だろうか?また女性の乳房は子供を育てるのに二つないと困る?精巣とか卵巣だって、二つなくても子作りは出来そうだ。腎臓も片方を摘出しても人間は生きていける。どうして二つあるのだろう?考えてみれば不思議である。

豚の乳首は7対=14個ある。猫:5対=10個、犬:4対=8個、熊:3対=6個、牛:2対=4個、つまり産子数が減ると乳首の数も減るが常に左右対称であり、一つにはならなかった

ひとの心臓は一つだが内部は右心と左心に分かれている。魚類には右心と左心の区別がなく、カエルの心室は一つしかない。

Heart_2

こうして見ていくと動物は進化とともに器官を二つに分離しようとする傾向が強いことがお分かり頂けるだろう。そして脳も右脳と左脳に分離している。DNDの立体構造は二重らせんだ。この事実と、人が二項対立で思考することは決して無関係ではないだろう

レヴィ=ストロースは神話変換が周辺に広がっていく様子を教会のステンドグラスの薔薇模様に喩えた。

Rose

これはまるで細胞分裂のようだ。

Dna

1つの細胞が2つになり、4,8,16……と【2のn条個】に増殖していく。 ということは必ず2で割り切れる。だから真核生物はすべて左右対称なのだ。そして人の思考法もこの体細胞分裂を模倣する

では「宇宙の秩序」とは何か?それは「球形」である。星の形を見てごらんなさい。無重力空間の宇宙には上下も左右もない。だから物質は球になる。

これが地上では重力の影響で円、または回転対称になる(粘土で作った球を対側から挟んで押しつぶしたイメージ)。(上空から見た)山や湖の形、木の形、そして植物や花の形が該当する。一輪の花や一本の木を考えた場合、そこに回転対称はあるが左右対称など一対のみの対称はない。ランダム性のあるアメーバ運動をする原生生物にも回転対称が認められる。ところが高等生物になると全てが(限定的)左右対称になる。つまり水平方向の直線運動をするようになり、(無機物・植物)回転対称→(動物)左右対称に移行したと言える。円を一方向に引っ張ったイメージだ。

ユングはチベット仏教の曼荼羅図形こそ自己の象徴であり、普遍的(集合的)無意識の中にある元型であると考えた。

そして教会の薔薇窓も回転対称である。ひとの無意識の源流を遡ると、円に辿り着く。

古事記に記載されているイザナギ・イザナミの日本神話、そして旧約聖書の「創世記」にせよ、神話は必ず天と地の分離から始まる。それは【重力freeの世界↔重力に囚われた世界】の二項対立だ。つまり重力こそが二分割思考の原初なのである

僕の仮説がもし正しければ、無重力空間に知的生命体は生まれないということになる。さて、読者の皆さんはどう思われますか?

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石丸幹二 主演/ミュージカル「ジキル&ハイド」に認める反キリスト(Anti-Christ)思想

3月31日(土)梅田芸術劇場へ。レスリー・ブリッカス作詞・台本、フランク・ワイルドホーン作曲のミュージカル「ジキル&ハイド」を観劇。

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「ジキル博士とハイド氏」と言えば二重人格を描いた小説として余りにも有名である。これぞ正に二項対立の代表例であり、そもそも表題自体が一人の人物を二分割したものである。

このミュージカルに登場する二項対立を挙げてみよう。

ジキル↔ハイド
善↔悪
正気↔狂気
純潔・貞操↔欲望
慈心・徳行↔偽善
建前↔本音
仮面↔素顔
平和(和合・協調)↔戦争(闘争)
天国(聖職者)↔地獄(業火に焼かれる)

エマ(貴族)↔ルーシー(娼婦)
純粋無垢↔汚れ
豊か↔貧しい

ヘンリー・ジキル博士の悲劇は、自分の人格を善と悪に完全分割しようとしたことにある。今回の観劇で初めて理解したのは、この設定が強烈なキリスト教批判(Anti-Christ)になっているということ。キリスト教だけではなく、西洋人の思考方法そのものが批判の対象になっているとも言える。

父性原理」を特徴とするキリスト教は【天使↔悪魔】/【天国↔地獄】/【光↔闇】を完全に分離切断する。そして両者を媒介調停/循環)する第三の項(e.g. トリックスター)を決して認めない。言い換えるなら衝突を緩和する緩衝地帯境界領域を設けない。ここが「母性原理」に生きる我々日本人や、南北アメリカ原住民らが有する「野生の思考」との決定的違いである。

キリスト教では【禁欲↔欲望】も分離されるのでカトリックの聖職者は生涯独身を貫く(その反動で神父による子どもたちへの性的虐待が絶えない。詳しくは映画「ダウト~あるカトリック学校で~ 」や、アカデミー作品賞を受賞した「スポットライト 世紀のスクープ」をご覧あれ)。

性は男と女に二分され、その境界領域に立つLGBTの人々は差別され続けてきた。

またデカルトが主導した17世紀哲学の二元論は心身(精神と肉体)の絶対的断絶を受け入れた。

精神病院を最初に創設したのもヨーロッパ人である。彼らは【正気↔狂気】を識別し、後者を隔離しようとした。1656年フランスではルイ14世の指導により精神障害者、犯罪者、浮浪者を収容する総合施療院が建設された。こうした人々を「監禁」「排除」してきた経緯をフランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926-84)が徹底的に批判したのが、1961年に出版された「狂気の歴史」である。精神病院ではロボトミー手術という非人道的実験も行われた(詳しくはアカデミー作品賞・監督賞を受賞した映画「カッコーの巣の上で」をご覧あれ)。

またナチス・ドイツは遺伝病や精神病などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるとし、彼らを安楽死させるT4作戦を実行した。その犠牲者は15万人から20万人と見積もられている。そもそもヒトラーがユダヤ人=害虫と見なし、ホロコースト政策を実践した発想の根本にもこの分離切断する思考がある。

父性原理」で動く欧米(キリスト教)社会は純粋理性を磨き、自然を客観視し、対象をじっくり観察して近代科学を飛躍的に発展させることに成功した(これが出来たのは彼らだけである)。しかしその反面で上述したような様々な弊害を生み、この思考法も限界に達した。「何かが間違っている」「我々は大切なものを失ってしまった」と彼らも薄々気が付き始めた。その左証が「ジキル&ハイド」である。

「ジキル&ハイド」でベイジングストーク大司教は聖職者でありながら娼婦を買い、その直後にエドワード・ハイドに火をつけられ焼死する。これは正に「地獄の業火に焼かれる」イメージであろう。

本作において、ヘンリー・ジキル=エドワード・ハイドだと知っているのは弁護士のアターソンだけだ。彼は親友をなんとか助けようとするが、悲劇を回避することは出来ない。だから仕方なく最後に拳銃の引き金を引き、ジキル=ハイドを殺す。こうして二項対立問題は解決される。つまりアターソンは境界を超え、活躍するトリックスターなのだ。そもそもジキルを娼館「どん底」に連れて行き、ルーシーに引き合わせたもの彼だしね。いたずら好き(メフィストフェレス的)でもあるトリックスターの面目躍如と言えるだろう。

ルーシーはハイドに嬲(なぶ)られ、痛めつけられるが、実はあんまり嫌そうじゃない。恍惚とした表情も浮かべる。非常にSM的である。多分彼女はジキルとハイドの両面を愛したのだ。そして死の直前にジキル=ハイドと気付く。きっかけはジキルとハイドの指に素肌を触られた時の触覚だ。ここに「野生の思考」がある。

原作を書いたロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850-94)は「宝島」の作者としても知られている。スコットランドのエディンバラで生まれたが、若い頃から結核を患い、各地を転地療養しながら作品を創作した。アメリカ滞在を経て、最終的に彼がたどり着いたのは南太平洋・サモア諸島の中のウポル島。彼は島人から「ツシタラ(語り部)」と呼ばれ、好かれていたという。バエア山@ウポル島の山頂にある墓碑には次のような彼の詩が刻まれている。

"Requiem"
Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die
And I laid me down with a will

This be the verse you grave for me
Here he lies where he longed to be
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill

〈鎮魂歌〉
広々とした星空の下
墓穴を掘り、私の亡骸を葬っておくれ
私は喜びとともに生き、喜びとともに死す
そして従容として身を横たえる

墓にはこう刻んで欲しい
彼は望んだ通りここに眠る
船乗りは故郷へと、海から還った
狩人は猟場の山から家に還った
(注:hillはmountainより低く、英国では通例600m以下の山を指す。バエア山は標高470m)

この詩の中には紛れもなく野生の思考が息づいている。

そしてWikipedia英語版のスティーヴンソンについて書かれた記述の中に、次の一文を発見した。

He had come to reject Christianity and declared himself an atheist.
(彼はキリスト教を否定するに至り、自分は無神論者であると宣言した。)

今回の出演者はジキル&ハイド:石丸幹二、ルーシー:笹本玲奈、エマ:宮沢エマ、アターソン:田代万里生 ほか。

僕は鹿賀丈史時代から観ているが、今回のキャストが一番歌唱力があった。石丸幹二に文句があろう筈もなく、特に人格が分裂して歌う場面は大迫力で、本作の白眉であろう。演歌調に音をすくい上げる鹿賀は聴くに堪えず、本当に酷かった。

笹本玲奈がエマを演じた前回公演にも足を運んだが、彼女は断然ルーシーの方が似合っている。清楚なお嬢様っていう雰囲気じゃないしね。他に笹本は「ピーターパン」「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ、「ミス・サイゴン」のキム、「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ミー&マイガール」「マリー・アントワネット」「プライド」などを観ているのだが、今回が一番露出の多い衣装で、とってもセクシーで美脚だったので驚いた。アフタートーク・ショーで彼女が語ったところによると、大好きなスナック菓子(「きのこの山」ではなく「たけのこの里」派)を食べるのを我慢し、ダイエットに励んだそう。鹿賀の公演を観劇した時からルーシー役を演じたかったのだと。

宮沢エマは歌声に透明感があり、決して音程を外さないので聴いていて心地よい。役にピッタリ。

またアフタートークで田代万里生が語るには、付け髭ではなく地毛を生やしたのだとか。意外だった。

山田和也の演出は大変照明が美しかった。

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【いつか見た大林映画・番外編その3】オールタイム・ベスト・ワン「はるか、ノスタルジィ」と時間イメージ

1993年に大林宣彦監督「はるか、ノスタルジィ」を映画館(大阪での単館上映)で観て以来、ず〜っと僕は本作をオールタイム・ベスト・ワンだと言い続けてきた。

2016年に新海誠監督「君の名は。」が現れて、そろそろ第1位の座を譲り渡しても良いんじゃないかと思い始めた。しかしつい先日、大林宣彦映画祭@シネ・ヌーヴォ(大阪市九条)で実に25年ぶりにスクリーンで「はるか」に再会し、やっぱり正真正銘これこそが僕のベスト・ワンだと確信した。プリントの状態がすこぶるよく、特に青色が美しかった。

実は今まで「はるか」のどこが凄くて何に魅了されたのか、明言を避けてきたという後ろめたさを感じていた。いくら熱く語ったってどうせ観ている人は殆どいないんだしという諦念があり、僕自身秩序立てて述べるskill(腕前・技量)もなかった。しかし今は違う。「はるか」のことを僕以上に愛している人は世界中どこを探したっていないという絶対の自信がある(←大林監督はこういう思考を”好意的誤解”と呼んだ)。「もう逃げないでください」と言うはるか(石田ひかり)の声が聞えてくる。出会ってから25年。遂に彼女と対峙すべき時が来た。覚悟は決めた。僕は「おかしなふたり」の成田(永島敏行)の台詞を自分に言い聞かせる。「自分の人生にだけは乗り遅れちゃいけねぇ。まだ間に合うぜ、まだ間に合うぜ」……

大林映画「野のなななのか」(2014)の劇中にパスカルズ演じる【野の音楽隊】が一列になって演奏しながら練り歩く場面が何度も登場する。因みにパスカルズでパーカッションを担当しているのはバンド「たま」のランニング姿が印象的だった石川浩司。「この空の花ー長岡花火物語」(2012)では画家・山下清を演じている。

Nono

これを観て僕が想起したのがフェデリコ・フェリーニ監督の名作「8 1/2」(1963)の大団円である。道化師たちの楽隊がニーノ・ロータ作曲の行進曲を吹きならマーチングするのだ。

812

この場面で映画監督のグイド(マルチェロ・マストロヤンニ)は「人生は祭りだ!一緒に過ごそう。(È una festa la vita, viviamola insieme !)」 という名台詞を吐く。

大林映画はどこかフェリーニの映画に似ている。そのことに初めて気付かされた瞬間だった(「はるか、ノスタルジィ」にも高校生のマーチングバンドと主人公たちがすれ違う場面がある)。

Haru

「はるか、ノスタルジィ」のあらすじはこうだ。

小樽を舞台とした少女小説で人気の作家・綾瀬慎介(勝野洋)は、少年時代の痛ましい記憶を胸の奥深く閉じこめていた。しかし小説の挿絵を描いていた紀宮(ベンガル)の突然の死をきっかけに、久しぶりに古里の小樽を訪ねる。そこで彼は記憶の中の少女・三好遙子(石田ひかり)にそっくりな、「はるか」という名の少女と出会い、封印した筈の記憶が蘇る。そんな時、綾瀬の前に佐藤弘(松田洋治)という少年が現れる。それは彼の本名であった。綾瀬慎介はペンネーム。彼は本名で勝負することを捨てた。

つまり映画の一画面の中に、主人公の現在と、少年時代の彼が同時に存在する。そして「はるか」は突然、三好瑤子に入れ替わったりもする。

これは20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズがその著書「シネマ」で論じた結晶(時間)イメージに該当する。

ベルクソン(同じくフランスの哲学者)の逆さ円錐モデルで説明しよう。

B

円錐の全体SABが綾瀬慎介の記憶に蓄えられたイマージュの総て(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり綾瀬の知覚である。Pは現在彼がいる世界(小樽)そのもの。「はるか」もそこに生きている。A"B"が紀宮と出会った頃の大学生の綾瀬であり、更に遡ったA'B'が少年時代の佐藤弘と三好遙子が存在する場所。過ぎ去り、死に向かう現在(S)と、保存され、生の核を保持する過去(A'B',A"B",A'"B'",……)は絶えず干渉しあい、交差しあう。綾瀬はこの円錐(記憶)の中を自由に過去へと飛翔し、また戻ってくるのである。

この仕組/構造(structure)はフェリーニの「8 1/2」と全く同じであり、フェリーニの次の言葉がその本質を的確に教えてくれる。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

類似した構造(structure)は大林監督の「さびしんぼう」や「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 夕子悲しむ」、イングマール・ベルイマン監督「野いちご」にも認められる。「野いちご」の老いた主人公は自分が生まれ育った家を訪ねて、そこに兄弟や許嫁が昔のままの姿で現れるので「はるか、ノスタルジィ」のプロットに近い。また「さびしんぼう」で主人公のヒロキ(尾美としのり)が紛れ込むのは、母(藤田弓子)の記憶に蓄えられた結晶=逆さ円錐SABである。その過去A'B'から、さびしんぼう(なんだかへんて子)が現れる。そして母の記憶の結晶とヒロキの間で触媒の働きをするのは、風に飛ばされお寺の境内中を舞う1枚の写真である(一方、「はるか、ノスタルジィ」において綾瀬とはるかの間で触媒となるのは壊れた写真機)。

大林映画で流れる時間は神話的時間であり、フランスの言語学者ソシュールの用語を借りるなら、その文法(語り口)は通時的(関連する複数の現象や体系を、時間の流れや歴史的な変化にそって記述するさま)であると同時に、共時的(現象が継時的変化としてではなく、一定時の静止した構造としてあるさま。また、時間的・歴史的な変化の相を考慮に入れずに、ある対象の一時点における構造を体系的に記述しようとするさま)であることを理解しておかなければならない。「野生の思考」を書いたフランスの構造人類学者レヴィ=ストロース神話的時間が「可逆的かつ不可逆的で、共時的でも通時的でもある」と、その二重性を強調した。構造人類学が共時態を重視するのは、地層の断面(≒ベルクソンの逆さ円錐モデル/記憶の結晶)におけるように、〈いま・ここ〉のただなかに過去が共時的に現れていることを重要視しているのである(参考文献:小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書)。

「はるか、ノスタルジィ」の時間は循環し、【三好遥子→はるか→遥子】というサイクルが最後に発生する。ドイツの哲学者ニーチェが言うところの永劫回帰の層に入ってゆくのである。この循環は「さびしんぼう」のエピローグでも認められる(原作はどちらも山中恒)。

ちなみにニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」に基づく音楽が冒頭から流れるスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」ではボーマン船長が最後に赤ん坊(スター・チャイルド)に回帰する。スター・チャイルドとは、ニーチェが語った超人と同義である。また永劫回帰が描かれた作品として押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」やルイス・ブニュエル「皆殺しの天使」も挙げておこう。

大林映画の中で時間は停止し(「廃市」「麗猫伝説」「野のなななのか」に登場する止まった時計)、逆戻りしたりもする(「時をかける少女」)。「時をかける少女」では次のような会話が交わされる。

「だって、もう時間がないわ。どうして時間は過ぎてゆくの?」
「過ぎて行くもんじゃない。時間は、やって来るもんなんだ」

さらに生者と死者が同居する世界が描かれる(「異人たちとの夏」「その日のまえに」「この空の花―長岡花火物語」「野のなななのか」)。そこには生と死の境界線がない現在と過去の間にもないように。

人は常に誰かの代わりに生まれ、ー
誰かの代わりに死んでゆく。
だから、人の生き死には、ー
常に誰か別の人の生き死にに、
繋がっている。
(「野のなななのか」より)

人は循環し、輪廻転生を繰り返す。まるで手塚治虫が漫画「火の鳥」で描いたように。

そしてー

「ものくるほしくも、いつか見た夢、いつか見た映画。わたしは影でございます。スクリーンが燃えてなくなるとき、わたしの命もまた、ともに終わらねばなりません。あれが青春ならば、あれが愛ならば、わたしは単なる思い出。古い思い出に捕らわれて、わたしらはみんな、生きながら死んでいるのでございます。」
(「おかしなふたり」より)

となる。

大林監督がラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」に出演した際、ラッパーでDJの宇多丸が「時をかける少女」に関して、「尾美としのりの役回りはヒッチコック『めまい』のミッジではないですか?」と問い、監督が「おっ、鋭いね」と返す場面があった。これを聴いて僕はハッとした。そうか!堀川吾朗(尾美としのり)は芳山和子(原田知世)の幼馴染で、彼女のことが好きだけれど、和子は未来から来た深町一夫(高柳良一)のことしか見ていない。これはヒッチコック「めまい」に於けるミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)→スコティ(ジェームズ・スチュアート)→マデリン/ジュディ(キム・ノヴァク)の関係と一緒だ。そしてヒッチと撮影監督ロバート・バークスが開発した、床が落ちるような「めまいショット」を大林監督は「逆ズーム」と命名し、「時をかける少女」のラストシーン(大学の薬学部・廊下)で用いている。

さらに驚きべきことに気が付いた!よくよく考えてみれば「はるか、ノスタルジィ」の仕組/構造(structure)は「めまい」にも一致している。「めまい」のスコティは嘗て愛した女マデリンが自分のせいで死んだと信じ落ち込む。そんなある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見し追う。彼女はジュディと名乗った。スコティはジュディにマデリンと同じ服を着せ、髪型も似せようとする。それとそっくりな行為を「はるか、ノスタルジィ」の綾瀬は、はるかに対してするのである。そして本作における尾美としのりは再びミッジの役回りを演じている。また映画のオープニング・クレジットで石田ひかりは回転している(右回転)。これも「めまい」でソール・バスがデザインしたタイトルバック(左回転する渦巻)を彷彿とさせる。ひかりの時計回転は時間イメージでもあるし、回帰する物語であることの宣言でもあるだろう。「この空の花ー長岡花火物語」に登場する、回転運動をする一輪車の少女のように。

大林宣彦ほど豊穣な時間イメージを持つ映画作家は他にいない。僕はそう断言する。

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瀬奈じゅん主演:ブロードウェイ・ミュージカル「ファン・ホーム ある家族の悲喜劇」と時間イメージ

3月4日(日)兵庫県立芸術文化センターで"FUN HOME"を観劇。

アリソン・ベクダルが書いた自伝的漫画(グラフィックノベル)を原作とするミュージカルである。レズビアンの女性を主人公とするミュージカルはこれがブロードウェイ初。2015年のトニー賞ではミュージカル作品賞・台本賞・楽曲賞・主演男優賞・演出賞の5部門を受賞した。

男性の同性愛者を主人公とするミュージカルなら過去に「ラ・カージュ・オ・フォール」(トニー賞でミュージカル作品賞、及び再演&再々演でベスト・リバイバル・ミュージカル作品賞を2回受賞!)とか、「レント」(トニー賞でミュージカル作品賞及びピューリッツァー賞受賞)があった。しかし僕は"FUN HOME"に一番感銘を受けた。ミュージカルを観劇して、こんなに泣いたことは未だ嘗て無い。この衝撃は1998年に宝塚大劇場で宙組「エリザベート」を初観劇して以来と形容しても決して過言ではない。

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作詞・台本:リサ・クロン、作曲:ジニーン・テソーリはふたりとも女性であり、日本版も翻訳:浦辺千鶴、訳詞:高橋亜子、演出:小川絵梨子となっている。

主人公アリソンを3人の女優が演じる(瀬奈じゅん、大原櫻子、笠井日向)。単なる回想形式ではなく、彼女らは同時に舞台に存在する

この手法は20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズがその著書「シネマ」で論じた結晶(時間)イメージだなと想った。

ベルクソンの逆さ円錐モデルで説明しよう。

B

円錐の全体SABがアリソンの記憶に蓄えられたイマージュ全体(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり瀬奈じゅんの知覚である。Pが現在彼女がいる世界(宇宙)そのもの。A"B"が大学生のアリソンであり、更に遡ったA'B'が小学生のアリソン。過ぎ去り、死に向かう現在(S)と、保存され、生の核を保持する過去(A'B',A"B",A'"B'",……)は絶えず干渉しあい、交差しあう。アリソンはこの円錐(記憶)の中を自由に過去へと飛翔し、また戻ってくるのである。

この仕組/構造(structure)はフェデリコ・フェリーニの映画「8 1/2」(1963)と同じであり、フェリーニの次の言葉がその本質を的確に教えてくれる。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

なお「8 1/2」はアーサー・コピット(脚本)、モーリー・イェストン(作詞・作曲)の手でブロードウェイ・ミュージカル「ナイン」になっており、「シカゴ」「メリー・ポピンズ・リターンズ」のロブ・マーシャル監督で映画化もされた。

結晶(時間)イメージは他にアラン・レネ監督の映画「去年マリエンバートで」であるとか、大林宣彦監督「さびしんぼう」「はるか、ノスタルジィ」「野のなななのか」等で顕著なのだが、これを舞台に応用した作品は極めて珍しい。そういう意味で"FUN HOME"は革新的な作品であると言える。

ゲイだった(しかしカミングアウトは出来なかった)父親の想い出を娘が語るわけだが、アリソンは身体が女で心が男。これは正真正銘、父と息子の物語である。だから普遍性があるのだ。アリソンは自分が父親と似た者同士なのだということを彼に伝えたい。しかしどうしても言葉に出せないもどかしさ。決定的な時はいつの間にか過ぎ去ってしまい、人はあまりにも遅くそれに気付く。何とも切ない。

FUN HOMEとは「たのしい我が家」でもあり、同時に葬儀屋を営んでいるのでFuneral Homeの意味も含まれる。イメージが真逆であり、奥深い。

驚異的だったのは小学生時代のアリソンを演じた笠井日向(さかいひなた)。歌唱力が抜群で圧倒的存在感を放っていた。天才少女発見!!ほかクリスチャン:楢原嵩琉、ジョン:阿部稜平ら、子役のレベルの高さにはほとほと感心した。

大学生のアリソン役・大原櫻子は喉の調子が今ひとつ。

瀬奈じゅんは宝塚歌劇時代に「エリザベート」(タイトルロール&トート閣下)や「ME AND MY GIRL」を観ている。中性的で淡白な男役だったので印象は冴えないものだったが、今回の役は彼女の持ち味にピッタリ!今までのベスト・アクトであった。元々余り歌が上手くないが、本作はそんなに歌唱が多くなく、気にならない。

アリソンの父ブルースを演じた吉原光夫は朗々と完璧に歌いこなし文句なし。さすがMr.ジャン・バルジャン。劇団四季時代「ジーザス・クライスト・スーパースター」のユダ役も素晴らしかった。

母役の紺野まひるは久しぶりに見た。年をとり、やつれた感じがしたが役作りなのかも知れない。兎に角、似合っていた。

僕はこの音楽もすごく好き。非常にスティーヴン・ソンドハイムを彷彿とさせる。ニューヨークを舞台にしたソンドハイムの「カンパニー」(1970年初演)をペンシルベニア州の片田舎にそのまま移した感じ。「カンパニー」の主人公ロバートは35歳で独身なんだけれど、ゲイなんじゃないかと僕は睨んでいる。初演当時(今から48年前)、あからさまにそういうことを描くのは難しかったろう。

また高橋亜子による訳詞は熟れていて、この人は岩谷時子(レ・ミゼラブル、ミス・サイゴン)の立派な後継者だなと想った。

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「愛国心」は悪なのか?〜江川紹子発言を「野生の思考」で読み解く。

平昌オリンピック・フィギュアスケート男子の結果について、ジャーナリストの江川紹子はこうツィートした。

つまり日本という国家を否定し、コスモポリタン(国際人)になれというわけだ。そのくせ彼女のTwitterでは日本人選手ばかり応援している。矛盾だ。「日本人スゴイ!」じゃないのなら、各国の優秀な選手を平等に応援すべきだろう。2014年のこんなツィートも発掘されている。

Shoko

彼女に限らず左翼ジャーナリストたちは日本という「国家」を否定し、「愛国心」を嫌悪する。それはファシズムの台頭や大政翼賛会・治安維持法など悪夢の再現を連想させるからだろう。

週刊朝日が橋下徹氏(当時大阪市長)に対して「ハシシタ 奴の本性」という連載記事を掲載し、大問題となったことがあった(詳しい経緯はこちら)。結局、朝日新聞社は謝罪し、朝日新聞出版社長は引責辞任した。この問題の根っこには大阪府知事時代に橋下氏が主導し、可決された「国旗国歌条例」があった。自治体教職員に対し、学校行事で行う国歌斉唱は起立により斉唱することを求める内容である。左翼の人々は日本の国旗や国歌に対して憎しみの感情を抱いているので、起立や斉唱を強いられることに怒りを爆発させたのである。しかし公務員って公僕、つまり「国家に仕える者」でしょう?あたりまえのことじゃない?

アメリカ人は国内のバレードで星条旗を掲げ、お祭り騒ぎをする。そんな彼らを「この右翼/国粋主義者どもめが!」と罵る者はいない。韓国人だって愛国心はある。自分が生まれた国を愛し、誇りに思うことってそんなに悪いこと、罪なのですか?僕には理解し難い。

そもそもオリンピックはスポーツという手段を用いた国家間競争である。国ごとに代表選手枠が決まっているし、表彰台には国旗が掲揚される。このシステムは愛国心の発露以外の何ものでもない。

ここで20世紀フランスを代表する思想家で、社会(文化)人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースの著書「神話と意味」(元々は1977年にカナダで放送された、ラジオでの講演)から引用しよう(大橋保夫 訳、みすず書房 刊)。レヴィ=ストロースは「野生の思考」で余りにも有名であり、構造主義を打ち立てた。哲学者のミシェル・フーコーやジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズらがポスト構造主義と呼ばれる所以である。

(地域・文化間の)相違とは非常に豊かな力をもつものです。進歩は、相違を通してのみなされてきました。現在私たちを脅かしているものは、"Over-Communication"とでも呼びうるものでしょう。つまり、世界のある一点にいて、世界の他の部分で何が行われているかをすべて正確に知りうるようになる傾向です。ある文化が、真に個性的であり、何かを生み出すためには、その文化とその構成員とが自己の独自性に確信を抱き、さらにある程度までは、他の文化に対して優越感さえ抱かねばなりません。その文化が何かを産み出しうるのはUnder-Communicationの状態においてのみなのです。私達はいま、(中略)独自性をすっかり失ってしまうのではないかという展望に脅かされています。

引用下線部でレヴィ=ストロースは愛国心を肯定している。つまり「日本スゴイ!」「日本人スゴイ!」で良いのだ。それは右翼思想とか全体主義と何ら関係がない。

この講演はいまから40年以上前のものだが、ここで彼が述べる"Over-Communication"とは現在のEU(欧州連合)の姿であり、「グローバリズム(国を超えて地球全体を一共同体としてとらえる考え方)」と言い換えることも出来るだろう。何という先見性だろう!

左翼ジャーナリストたちは「グローバリズム」を賛美する。何故ならそれは緩やかな共産思想だからである。

またレヴィ=ストロースはこうも言っている。

文明が均一になればなるほど、分離しようとする内的な傾向がはっきりしてきます。(中略)これは個人的印象であり、この弁証法的作用についてはっきりした証拠があるわけではありません。しかし人類がほんとになんらかの内的多様性なしに生きうるとは思えないのです。

正に彼は、イギリスのEU離脱を予言していたのである。フランス人すごい!

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