哲学への道

2020年5月27日 (水)

【考察】噴出する「テラスハウス」問題と、ネットで叩く者たちの心理学

22歳の女子プロレスラー・木村花さんが亡くなったことに関して、出演してた番組「テラスハウス」(ネットフリックス/フジテレビ)における彼女の言動を巡って、SNSに非難が書き込まれたことが原因ではないかと取り沙汰されている。

番組における彼女の役割はヒール(Heel)だったのではないだろうか?プロレス興行のギミック上、悪役として振舞うプロレスラーのことを指す。つまり観客(視聴者)を愉しませるための偽装だ。実際には仲がよいプロレスラーでも、リングの上では憎しみ合っているように振る舞う。あくまでも演技だ。ファンはそのことを承知の上で野次を飛ばし、悪役が繰り広げる反則技にブーイングし、試合会場は興奮の坩堝と化す。彼らは内面のモヤモヤ(ユング心理学では影 shadowと呼ばれる)を吐き出し、ヒールに投影し、叩くことによって日頃の鬱憤を晴らす。そこには暗黙の了解が成立している。プロレスはスポーツと言うよりもあくまで「興行」だから、試合結果がTVニュースで報道されることはない。もっと詳しく内部事情を知りたいのなら、ミッキー・ロークが主演し、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した「レスラー」(2008)をご覧になることをお勧めする。

バラエティ番組に登場する「おバカキャラ」も同じ構造である。知識が欠けているのも事実だろうが、クイズの答えが判っていても、わざと外して番組を盛り上げることも彼らの重要な役割だ。つまりキャラクターを際だたせるために話を「盛る」のだ。漫才のボケと一緒。実際に痴呆なわけではないし、大方の観客だってそのことは知っている。これも暗黙の了解だ。

しかしテレビの視聴者の中にはこの暗黙の了解が通じない人達が少なからずいる。リアル(現実)とフィクション(虚構)の見分けがつかない。彼らはテレビが嘘を付くはずがないと信じ込んでいる。「リアリティー番組」という呼び方や、「台本がない」を売り文句にしている点も誤解を生む原因だろう。

ある海外メディアは「リアリティーTV 」出演者のうち、過去に38人が自ら死を選んだと報じた。アメリカだけでも過去10年で21人が命を絶ったというデータもある。

嘗て山口百恵や小泉今日子といった昭和のアイドルは雲の上の存在だった。しかし21世紀に入り、AKB48など「会いに行けるアイドル」が登場し、手が届く対象になった。その他の芸能人も、SNSの普及に伴い身近な存在になった。ツイッターやインスタグラムにコメントを書き込めば(マネージャーや事務所の検閲なしに)直接本人が読んでくれたり、コメント返しをくれる可能性まで生まれた。しかし便利なコミュニケーション・ツール(accessibility)は諸刃の剣であり、リスクも増大した。芸能人が身体的、精神的に傷つけられる事象もしばしば報道されるようになったのだ。

【集団の形成】「地球上すべての生物は遺伝子(自己複製子)の乗り物に過ぎず、生物の様々な形質や、利他的な行為を含めた行動のすべては、自然選択による遺伝子中心の進化によって説明できる」とリチャード・ドーキンスは著書『利己的な遺伝子』の中で述べている。人は遺伝子を運ぶ舟である。我々の祖先が木から降りてサバンナで生活を始めたとき、集団生活を始めた。その方が種の保存のために好都合だからである。ライオンやジャッカルといった外敵から身を守ることが出来るし、仕事の役割分担することで食料の確保も容易になる。「人間は社会的動物である」と言われる所以だ。やはり外敵から身を守るために群れをなすイワシとか(希釈効果)、V字編隊になって飛ぶ雁の群れに似ている。

Iwashi

【安全欲求/制裁行動】集団の形成で人は安心して暮らせるようになった。家族や仲間を守ろうとするとき、脳の下垂体後葉からオキシトシンと呼ばれるホルモンが分泌され、安らぎに満ちた喜びが湧き起こる。これが愛着の仕組みである。しかし和を乱す者、逸脱する者が現れると安全欲求が脅かされ、邪魔になりそうな人に対して制裁行動 sanctionを起こす。「いじめ」や「自粛警察」「ネットリンチ」の根底にはこの構造が潜んでいる。「同調圧力」あるいは「出る杭は打たれる」とも言う。

【ルサンチマン】有名人に対するバッシングには、彼らの成功に対する嫉妬心も原動力となっている。フランス革命やロシア革命におけるプロレタリアート(労働者階級)の、ブルジョアジー(富裕層)に対する感情に似ている。攻撃する者たちは心理的な価値の転倒、一発逆転を狙っている。哲学者ニーチェが言うところのルサンチマンだ。あるインターネット評論家は誹謗中傷のコメントをするネット民の属性を、(1)20代、(2)ニート・フリーター、(3)独身、(4)童貞だと述べている(出典こちら)。要約すれば「収入が少なく、モテない、寂しいヲタク」ということになるだろう。

【正義中毒】いじめは快感に直結する。制裁行動 sanctionが発動すると、中枢神経に存在するドーパミンという神経伝達物質が放出され、喜びを感じる。承認欲求達成欲求が満たされ、いじめ/バッシングは過激化する。これを「過剰な制裁」という。ドーパミンは本来、困難な目的を達成したときに生じ、「報酬系」と呼ばれる。しかし麻薬・飲酒・賭博・いじめなどでも短絡的放出を引き起こし、快楽をもたらす。バッシングする人は「自分は正義を行っている」という実感(勘違い)があり、やめられない。「正義中毒」である。アルコール中毒や薬物中毒と同じ。ドーパミン分泌という「報酬」を、飽くことなく求め続けるのだ。児童虐待する親の心理もそう。彼らにとっての「正義」は「しつけ」と言い換えられる。2019年に千葉県野田市で小学校4年生(当時)の栗原心愛さんが自宅浴室で死亡した虐待事件で、父親である勇一郎被告は娘が号泣する動画を蒐集(collect)していた。それが彼にとっての「報酬」であった。

【高低差=社会的欲求】「自分は正義を行っている」という感覚は、アメコミのヒーロー(スーパーマン、バットマン)とか、大岡越前といったお奉行さまになったような気分に近い(仮想現実)。高みからお白州に畏まる悪党を見下す快感。それは米アカデミー作品賞・監督賞を受賞した韓国映画「パラサイト」に描かれたように、丘の上の高台に住む富裕層が、半地下に住む貧困層を睥睨する気分に等しい。上から目線ーその高低差により優越感に浸れ、社会的欲求が満たされる。たとえ幻想でしかないとしても。

Maslow

【人の心】アドルフ・ヒトラーとナチス・ドイツの悪夢。結局、地球上で一番恐ろしいのは津波とかウィルスではなく、人の心なのである。心がモンスターを生む。マリー・アントワネットをギロチンの刑に処し「共和国万歳!」と叫んだフランス市民の正義、ロマノフ家を全員銃殺したロシア労働者階級の血みどろの正義、日本の市民活動家の正義、そして韓国の元慰安婦支援団体である「正義連」……。もう、うんざりた。自らを「正義」とか「市民」と名乗る者を徹底的に疑え!

 

参考文献:① 河合隼雄(著)「影の現象学」講談社学術文庫
② リチャード・ドーキンス(著) 日高敏隆ほか(訳)「利己的な遺伝子」 紀伊國屋書店
③ 岡田尊司(著)「死に至る病 あなたを蝕む愛着障害」光文社新書 
④ 岡田尊司(著)「あなたの中の異常心理」幻冬舎新書
⑤ フリードリヒ・ニーチェ(著)中山元(訳)「道徳の系譜学」光文社古典新訳文庫
⑥A.H.マズロー(著)小口忠彦(訳)「人間性の心理学」産能大出版部

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2020年5月12日 (火)

「自粛警察」「コロナうつ」の心理学

5月9日のNHKニュース(出典こちら)より一部引用。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出の自粛や休業の要請に応じていないとSNSなどで指摘する行為はインターネット上で、「自粛警察」や「自粛ポリス」などと呼ばれています。専門家は「こうした行為は自分を守ろうという防衛本能のあらわれだが、社会に分断を生み出している」として冷静な行動を呼びかけています。

東京・杉並区では先月26日、営業を休止しているライブバーが無観客で行ったライブをインターネットで配信したところ何者かに通常の営業だと誤解され「自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます」などと書かれた張り紙を貼り付けられました。

また東京都内在住の20代の女性が、感染が判明した後に帰省先の山梨県から高速バスで都内に戻ったケースでは、インターネットの掲示板に女性の名前や住所を特定する動きが加熱し、ネット・リンチ(私刑)だと話題になった。犯人探しというゲーム感覚でもあるのだろう。専門家らは「軽率な行動だったとしても個人情報をさらすのは行き過ぎだ」と警鐘を鳴らしている。

こうした動きの背景には”見えない敵”、新型コロナウィルスに対する不安や恐怖がある。昔の人が暗闇を恐れ、妖怪や幽霊を創造(空想)したのと同じ。「自粛警察」は自警団みたいのもので、恐怖に押しつぶされた彼らはその場にありもしない怪物(モンスター)に怯えている。過剰防衛と言えるだろう。

「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」(バートランド・ラッセル:英国の哲学者。ノーベル文学賞受賞)

不安な日々が続き、自粛疲れもあって僕たちは多大なストレス・心の闇を貯めている。行動を抑制されていることへの不満もある。そうしたモヤモヤした感情のはけ口として、自分の〈影 shadow〉を他者に投影しているという側面もあるだろう。第一次世界大戦後、敗戦国として多額の賠償金を請求され天文学的なインフレーションに苦しんだドイツにおいて、ナチス・ドイツがユダヤ人を憎悪の標的にした構造に似ている。生贄の羊(scapegoat)だ。

「自粛警察」は、いじめの構造を内包している。それは児童虐待にも通じる。なぜいじめるか?彼らにとって、いじめは楽しいのである。その行為の最中に脳内で〈報酬系〉と呼ばれる神経伝達物質ドーパミンが放出され、快感を覚える。本来ドーパミンは困難な目的・課題を達成した時に生じるが、麻薬・飲酒・ギャンブル・いじめでも短絡的放出をもたらす。ただし短絡的な充足は耐性を生じ、更に強い刺激を求めるようになる。飢餓感は癒やされず、際限のない自己刺激行為に陥る。いじめは非常に中毒性が高いのだ。

2019年に千葉県野田市で小学校4年生(当時)の栗原心愛さんが自宅浴室で死亡した虐待事件で、父親である勇一郎被告に対して懲役16年の判決が言い渡された。裁判の過程で娘が号泣する動画を勇一郎被告がデジタルカメラや携帯電話に残していることが明らかになった。つまり彼は後でそのコレクション(報酬)を見て楽しんでいたのである。絶滅収容所でナチスがユダヤ人から掻き集めた金歯・腕時計・指輪・髪の毛(鬘に使った)に相当する。常人には理解できない鬼畜の所業である。

「自粛警察」の匿名性も深く関わっているだろう。素性のばれない安全地帯から他人を非難するのは気持ちが良い。私刑はなんだか自分がアメコミのヒーロー(スーパーマン/バットマン/スパイダーマン)とか、大岡越前みたいな名奉行になって悪党を裁くような錯覚・達成感を与えてくれる。あくまでもそれは幻想に過ぎないのだが。彼らは「正義」の仮面(スパイダーマスク)をかぶり、「公事場(くじば)」と呼ばれる高みから「お白州(しらす)」という砂砂利に敷かれた筵(むしろ)に座る被告人を見下す。その優越感は、まるで酒に酔ったような夢心地だ。これが「正義中毒」である。いじめの構造にも「自分たちは正義を実行している」という感触(思い込み)がある。ユダヤ人絶滅収容所の看守たちも、第二次世界大戦後のパリ開放時に「ドイツ兵と寝た女」たちの頭を公衆の面前で丸刈りにするリンチを実行した者たちも、 中国の文化大革命で文化人に対し自己批判を強要した紅衛兵たちも、連合赤軍(新左翼運動)における総括も、同じ穴の狢である。また「モンスターペアレンツ」の所業にも似ている。彼らは“保護者”という安全地帯から学校や幼稚園の教職員を断罪する。そりゃ快感だろう。“保護者” に対して教師は下手に出るしかないのだから。「自粛警察」 もやはり、新型コロナウィルスへの恐怖が生み出した怪物(モンスター)だ。おぞましい。

「自粛警察」を自認する「社会正義の戦士」たちはロシア革命におけるプロレタリアートである。普段から社会にルサンチマン(恨み)を抱えて生きている(流行語大賞トップ10入り「保育園落ちた日本死ね!!!」)。ルサンチマンとは哲学者ニーチェが好んだ用語で、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。だから他者を断罪することで心理的な価値の転倒、下剋上、一発逆転を狙っているのだ。それが多少の憂さ晴らしにはなるのだろう。なお、上述した栗原勇一郎被告は、観光業の派遣社員だった。

ルサンチマンは劣等感の裏返しであり、妬みでもあるだろう。「自分はしっかり自粛をしていろいろと我慢しているのに、どうしてあいつらだけ勝手気ままに振る舞っているのか!」という怒り、嫉妬心である。ここには日本人的な「私」より「公」を重んじる同調圧力(「武士は食わねど高楊枝」という滅私奉公の精神/清貧の思想)があると同時に、多少「羨ましい」という気分、自由への渇望がないとも言い切れまい。

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は以前書いた。今回の件で改めて思い知ったのは「自然(ウィルス)もりも、もっともっと恐ろしいのは怪物を生む人の心である」ということだ。ぼっけえ、きょうてえ!

参考文献:① 岡田尊司(著)「あなたの中の異常心理」幻冬舎新書
② 岡田尊司(著)「死に至る病 あなたを蝕む愛着障害」光文社新書 
③ 河合隼雄(著)「影の現象学」講談社学術文庫
④アドルフ・ヒトラー(著)平野一郎 他(訳)「我が闘争」角川文庫
⑤フリードリヒ・ニーチェ(著)中山元(訳)「道徳の系譜学」光文社古典新訳文庫
⑥岩井志麻子(著)「ぼっけえ、きょうてえ」角川ホラー文庫

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2020年1月24日 (金)

「パラサイト 半地下の家族」と黒澤映画

今から16年前の2004年、僕はポン・ジュノ監督「殺人の追憶」のレビューで、次のように評した。

処女作「ほえる犬は噛まない」についても言及し、褒めそやしている。その後しばしばポン・ジュノは〈韓国の黒澤明〉と呼ばれるようになるが、世界で最初に言い出したのは僕だと確信している(もっと早く言及した人がいれば、ご一報ください)。因みに監督のもとには黒澤映画のリメイクの依頼も来たという(本人談)。

最新作「パラサイト 半地下の家族」は米アカデミー賞で国際長編映画賞(昨年までは外国語映画賞)受賞は500%確実と言われており、他に作品賞(本賞)、監督賞、脚本賞、美術賞、編集賞の6部門にノミネートされている。

Parasite

評価:A+

公式サイトはこちら

2013年にポン・ジュノが英語で撮った「スノーピアサー」は地球が氷に閉ざされた近未来(2031年)に生き残ったわずかの人類が永久機関によって動き続ける列車内部に暮らしているという設定だ。貧困層は最後尾に住み奴隷扱いを受け、少数の富裕層は前方車両で優雅に暮らし別世界を築いている。公開当時僕が書いたレビューはこちら。「スノーピアサー」は水平方向に貧富の差が描かれていたわけだが、これが「パラサイト」では垂直方向に変換されている。実は垂直方向の差異で格差社会を描くという手法は黒澤明監督「天国と地獄」(1963)で既に行われている。

山崎努演じる誘拐犯・竹内は捕まり、三船敏郎演じる大手製靴会社の常務・権藤と刑務所の面会室で対峙する。竹内は言う。「私の住んでいたところは、冬は寒くて眠れない、夏は暑くて眠れない。そんな場所から見上げると、あなたの家は天国みたいに見えましたよ。するとだんだんあなたが憎くなってきて、しまいにはあなたを憎むことが生きがいみたいになったんです」竹内が逮捕される場面の、売春婦や麻薬中毒者がたむろする阿片窟のような横浜市黄金町が〈地獄〉として描かれ、高台にある権藤の家が〈天国〉のメタファーとなっている。

「パラサイト」で半地下に住むキム一家は、裕福なパク一家が住む高台の豪邸に一人ずつ寄生していく。しかしソン・ガンホ演じる家長は次第に弱者が強者に対して感じる憎悪・怨恨、つまりニーチェが言うことろのルサンチマンをパク社長に対して募らせていく。それは朝鮮半島の思考様式、(ハン)にも通じていると言えるだろう(について詳しくは韓国映画「風の丘を越えて/西便制」をご覧あれ)。そして蓄積されたのストレスで火病(ファビョン)に罹る。その切っ掛けとなるのが、映像では直接描くことの出来ない〈臭い〉であることが天才ポン・ジュノの独創性だと思った。

Kaze

高台に住むパク社長一家を韓国併合時代(1910-1945)の日本人(朝鮮総督府)、半地下の家族を当時の朝鮮人民に見立てる(置き換える)ことも可能だろう。支配者に対する被支配者の(≒ルサンチマン)は未だに尾を引き、徴用工や従軍慰安婦問題が燻ぶり続けている。こういった多様な解釈を許すという意味においても、奥深い作品である。

また新海誠監督「天気の子」の主人公も東京で半地下に住み、そこが大雨で浸水するという描写が共通しているという点でシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)を感じた。

参考文献:
1.ニーチェ、中山元(訳)「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)2009 ←ルサンチマンについて。
2.西尾幹二、呉善花「日韓 悲劇の深層」(祥伝社新書)2015 ←恨(ハン)と火病(ファビョン)について。
3.呉善花「韓国を蝕む儒教の怨念 〜反日は永遠に終わらない〜」(小学館新書)2019

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2019年11月18日 (月)

【増補改訂版】時間は存在しない/現実は目に映る姿とは異なる〜現代物理学を読む

SNSで大評判だったので、カルロ・ロヴェッリ(著)富永星(訳)「時間は存在しない」(NHK出版)を読んだら、すこぶる面白かった。タイム誌の「ベスト10ノンフィクション(2018年)」に選出されている。

現代の物理学は、相対性理論と量子論という2大理論を土台にしている。時空の理論である一般相対性理論は、主にマクロ(巨視的)な世界を扱い、量子論は原子や素粒子(原子をさらに分解した最小単位)など、ミクロな世界を支配する法則についての理論である。ミクロな時空では、一般相対性理論が役立たない。そこでこの2大理論を融合し、両立させるために有力な候補とされるのが、「ループ量子重力理論」と「超ひも(超弦)理論」の2つ。ループ理論は時空(時間と空間)にそれ以上の分割不可能な最小単位(量子)が存在することを記述し、時間の消失という概念上の帰結を示す。

カルロ・ロヴェッリはイタリアの物理学者で、「ループ量子重力理論」の第一人者である。

「時間は存在しない」の英題は"The Order of Time"なので、「時間の順序」という意味になる。数式がほとんど出てこないので、文系の人でも十分理解出来るだろう。以下備忘録も兼ねて、どういった内容かご紹介しよう。

アリストテレスは「時間とはなんぞや」という問いに対し、時間とは変化を計測した数であるという結論に達した。何も変わらなければ、時間は存在しない。なぜなら時間は、わたしたちが事物の変化に対して己を位置づけるための方法なのだから。目を閉じていても時間が存在するのは、わたしたちの思考に変化があるからである。

アインシュタインは空間と時間が時空間の持つ二つの様相であり、エネルギーと質量もまた同じ実体がもつ二つの面にすぎないと考えた。だからエネルギーが質量に変わったり、質量がエネルギーに変わったりする過程が、かならず存在するはずである。そこからE=mc2という有名な公式が導き出された(E:エネルギー、m:質量、c:光速度)。そして質量をエネルギーに変換することで、核兵器や原子力発電の開発に繋がった。

世界は何からできているか?ニュートンは〈空間/時間/粒子〉と考えた。電磁場の基礎理論を確立したファラデーとマクスウェルはさらに〈粒子〉を〈場/粒子〉に分けた。アインシュタインは1905年の特殊相対性理論で〈時空間/場/粒子〉とし、1915年の一般相対性理論で〈場/粒子〉にまとめた。時空間と重力場は、同じものである

時空間は曲がる」。これが、一般相対性理論を支えている発想である。地球が太陽の周りを回るのは、太陽の周りの時空間が太陽の質量により屈曲しているからである。地球は傾いた空間を真っ直ぐに進んでいるのであって、その姿は漏斗(ろうと)の内側で回転する小さな玉によく似ている。

Nasa

上図はNASAの人工衛星が観測した、地球の質量による時空間(=重力場の歪み。この周囲(蟻地獄・すり鉢状になった内側部分)を、慣性の法則に従い月が直進している

ある場所に存在する物質の量が多ければ多いほど、その場所における時空間の歪みは大きくなる。

曲がるのは空間だけではなく、時間もまた重力の影響を受けて屈曲する(映画「インターステラー」で描かれた)。アインシュタインは地球上で標高が高い場所(地球の中心部から遠い位置)では時間が速く過ぎ、低い場所では遅く過ぎると予見した。それは後に精度の高い時計を用いて証明される。

例えば超大質量を持つブラックホール近くまで宇宙船で旅をして、そこに数日留まり、地球に戻ったら地上の人たちが自分よりも早く年老い、顔見知りが誰もいなくなっている、なんて浦島太郎みたいなことが実際に起こり得るのである。

また特殊相対性理論によると、光速に近いスピードで移動する乗り物の中にいる人は地球上で静止している人と比較し、ゆっくりと時間が過ぎる(ウラシマ効果という)。この仮説も後に高精度な時計で実証された。

私たちはゼリー状の時空間に浸かっている、と想像してみて欲しい(アインシュタインはクラゲなど無脊椎動物をイメージした)。時空間は押し潰されたり、引き伸ばされたり、折り曲げられたりする。時間は相対的なものであり、絶対的に流れる時間は存在しない。

一般相対性理論はさらに、空間が海の波のように振動することを予見した。そして2015年に初めてブラックホールから放出された重力波が地球上の検出器で直接に観測され、その功績が讃えられ2017年にキップ・ソーン(映画「コンタクト」「インターステラー」でアドバイザーを務めた)ら3人がノーベル物理学賞を受賞した。

時間の最小単位はプランク時間であり、これ以上分割出来ない。その値に満たないところでは、時間の概念は存在しない。ミクロな世界で時間は「量子化」される。「量子」とは基本的な粒のことであって、あらゆる現象に「最小の規模」が存在する。時間は連続的ではなく、粒状である。一様に流れるのではなく、いわばカンガルーのようにぴょんぴょんと、一つの値から別の値に飛ぶものとして捉えるべきなのだ。なお余談だが、音を量子化したもの(最小単位の粒)を「フォノン(音響量子・音子)」という。

この世界は「物」(物質、存在する何か、ずっと続くもの)ではなく、「出来事」(絶えず変化するもの、恒久ではないもの)によって構成されている。出来事、過程の集まりと見れば、世界をよりよく把握し、理解し、記述することが可能になる。「物」と「出来事」の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。世界は硬い石ではなく、束の間の音や海面を進む波でできている。私たちは「出来事」が織りなすネットワークの只中で暮らしている、と考えればうまくいく。

とても分り易かったので、さらに量子論のことを知りたくてロヴェッリ が「時間は存在しない」より前に書いた「すごい物理学講義」(原題は『現実は目に映る姿とは異なる』/英題"Reality Is Not What It Seems")を続けて一気に読破した(栗原俊秀 訳/河出書房新社)。彼は本書で「メルク・セローノ文学賞」「ガリレオ文学賞」を受賞している。僕はオーストラリアの先住民・アボリジニの神話〈ドリームタイム〉について色々勉強しているうちに、〈ドリームタイム〉が量子論に極めて類似することに気が付き、以前から興味を持っていたのだ。

「すごい物理学講義」はデモクリトスの原子論にはじまり、アルキメデス『砂粒を数えるもの』や、地球が球体であることを明確に指摘した現存する最古の文章、プラトンの『パイドン』について言及され、さらにアインシュタインの「三次元球面」がダンテ『神曲』の描く宇宙像に一致しているという議論に発展し、ワクワクした。

量子論を基礎づける三つの考え方は粒性・不確定性・相関性(関係性)である。エネルギーは有限な寸法をもつ「小箱」から成り立っている。量子とはエネルギーの入った「小箱」のことであり、それが持つエネルギーはE=hvで表せる(E:エネルギー、h:プランク定数、v:振動数)。

自然の奥底には「粒性」という性質があり、物質と光の「粒性」が、量子力学の核心を成す。その粒子は急に消えたり現れたりする(不確定性)。情報(=ある現象の中で生じうる、たがいに区別可能な状態)の総量には「限界」がある。

粒状の量子が間断なく引き起こす事象(相互作用)は散発的であり、それぞれたがいに独立している。量子たちは、いつ、どこに現れるのか?未来は誰にも予見できない。そこには根源的な不確定性がある。事物の運動は絶えず偶然に左右され、あらゆる変数はつねに「振動」している。極小のスケールにあっては、すべてがつねに震えており、世界には「ゆらぎ」が偏在する。静止した石も原子は絶え間なく振動している。世界とは絶え間ない「ゆらぎ」である。しかし我々人間は、その余りにも小さ過ぎる「ゆらぎ」を知覚出来ない。自然の根底には、確率の法則が潜んでいる。ひとたび相互作用を終えるなり、粒子は「確率の雲」のなかへ溶け込んでゆく。(本には書かれていない喩え話をしよう。量子は”モグラたたき”のモグラみたいなものと言えるのではないだろうか。次にどこに現れるか予想がつかない。ただし、モグラは常に一匹しか出てこない。出没する範囲は決まっていて、出現頻度=確率が高い場所もある。)

自然界のあらゆる事象は相互作用である。ある系における全事象は、別の系との関係のもとに発生する(相関性)。速度とは「ほかの物体と比較したときの」ある物体の運動の性質である。わたしたちに知覚できるのは「相対的な」速度だけであり、速度とは、一個の物体が単独で所有できる性質ではない。量子力学が記述する世界では、複数の物理的な「系」のあいだの関係を抜きにしては、現実は存在しない。関係が「事物」という概念に根拠を与えている。事物が存在するのは、ある相互作用から別の相互作用跳躍するときだけである(量子跳躍)。現実とは相互作用でしかない。(”モグラたたき”の喩えで言えば、ボード上以外にモグラは現れない。ボードという場がなければ、モグラは存在しない。ボードとモグラには相関性がある。)

原子や光をはじめ、宇宙に存在するあらゆる事物は、量子場によって形づくられている。量子場は、電子や光子(←何れも素粒子)のように、粒状の形態をとって現れる。または、電磁波のように、の形で現れることもある。テレビの映像や、太陽の光や、星の輝きをわたしたちに伝えているのは、電磁波である。

光は光子という粒(素粒子)で出来ている。同時に波の性質も持つ。波長の違いで我々は「色」を認識する。波長が短ければ「青色」に見え、波長が長ければ「赤色」に見える。更に波長が長くなると「赤外線」に、もっともっと長くなるとラジオやテレビの電波になる。逆に波長が短くなると、「紫外線」→「X線(レントゲン)」→「γ(ガンマ)線」となる。これらは全て電磁波の仲間である。音も波であり、波長が長い(周波数が低い)と低音に、短い(周波数が高い)と高音に聞こえる。なお、周波数とは単位時間あたりの振動数である。詳しくは下のリンク先をご参照あれ。図もあって分かり易い。

素粒子」と「量子(quantum)」は同じものを指し示している。「素粒子」は粒子的な側面が強調されており、「量子」は粒子の両方の性質を言い表している。

ループ理論によると空間もまた粒状である。この世には最小の体積が存在し、それより小さな空間は、存在しない。つまりプランク時間と同様に、体積を形づくる最小の「量子」が存在する。それは最小の長さ=プランク長で表される。

最小の「量子」は密接にくっついて「時空間の泡(スピンフォーム)」を形成する。石鹸の泡に似た構造だ。

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Quantrum

上図 b のように、1)空間の最小単位(図 a )をで表す。2)多面体(最小の量子)の面を、それを垂直方向に貫くで表す。3)空間の最小単位が集まった構造を点と線のネットワーク(スピンネットワーク)として表す。すると下図のようになる。

Spin

空間とはスピンの網である。そこでは「節(結び目)」が基礎的な粒子を、「リンク(結び目と結び目をつなぐ線)」が近接に存在する粒子たちの関係性を表している。スピンの網が、ある状態から別の状態へと変化する過程(量子跳躍)によって、時空間が形成される。スピンの網の結び目は、ほどけたり合わさったりして、刻々と姿を変える。

世界は何からできているのか?答えは単純である。粒子とは量子場量子である。空間とは場のことにほかならず、空間もまた量子的な存在である。この場が展開する過程によって、時間が生まれる。要約するなら、世界はすべて、量子場からできている。時空間が生み出される場のことを「共変的量子場」と呼ぶ。この世界を構成するすべてのもの、つまり、粒子も、エネルギーも、空間も時間も、たった一種類の実態(=共変的量子場)が表出した結果に過ぎない。

量子力学の世界には静止している事物は存在せず、そこでは「すべて」が震えている。いかなるものも、ひとつの場所に、完全かつ継続的に静止していることはできない。これが、量子力学の核心である。

情報とは「起こりうる選択肢の数」である。サイコロを投げてある目が出た場合、「起こりうる選択肢」の数は六であるから「N=6」の情報を得たことになる。友達から誕生日を教えてもらえば、三百六十五通りの答えがあるから「N=365」の情報を得たことになる。そして「情報はひとりでに増えない」。熱い紅茶は冷める。熱とは、分子による微視的かつ偶発的な運動である。紅茶が熱ければ熱いほど、紅茶を構成している分子は速く動いている。つまり「情報が多い」。では、紅茶はなぜ冷めるのか?それは「熱い紅茶と(それに接する)冷たい空気」に一致する分子の並び方の総数(=情報)が、「冷たい紅茶と少しだけ温められた空気」に一致する分子の並び方の総数(=情報)より多いからである。速く動く分子は周囲のゆっくり動く分子を押しのけて混ざり、拡散する。紅茶がひとりでに温まることがないのは、情報がひとりでに増大することが決してないからである。熱力学におけるエントロピー(物体や熱の混合度合いのこと。「乱雑さ」とも呼ばれる)とは「欠けている情報」であり、ボルツマンの原理によるとエントロピーの総量は増大することしかしない(熱力学第二法則)。なぜなら情報の総量は減少することしかないからである。エントロピーは「ぼやけの量」(わたしたちに関わるもの)を測っている。

量子力学を形づくる全体の枠組みは次の公理で示される。

公理1 あらゆる物理的な系において、有意な情報の量は有限である。
公理2 ある物理的な系からは、つねに新しい情報を得ることが可能である。

公理1は、量子力学の「粒性」を特徴づけている。これは、実現する可能性がある選択の総数は有限であるという公理である。公理2は、量子力学の「不確定性」を特徴づけている。量子の世界では、つねに予見不可能な事態が発生するため、わたしたちはそこから新たな情報を引き出すことができる。

ビッグバンを起点に膨張し続ける宇宙は有限であり、逆に空間の最小単位も有限である。本当に「無限」なものなど存在しない。自分には理解できないものを、ひとは「無限」と呼ぶ。もし「無限」なものがあるとしたら、それはわたしたちの「無知」だけである。

この2冊の本を通じて、20世紀以降の現代物理学を知ることは、間違いなく哲学的思考に繋がっていると思った。「世界は何で成り立っているのか」「神は存在するか」「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」……物理学と哲学は不可分である。

なお、すべては「ひも」でできている!とする「超ひも(超弦)理論」を学びたい方は、Newtonライト『超ひも理論』(ニュートンムック)をお勧めしたい。ページ数が少なく(たった64ページ)、イラストが多く、たいそう簡便な本である。

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日本人の物理学者の大半は「超ひも理論」を支持している。2008年にノーベル物理学賞を受賞した故・南部陽一郎博士のアイディアに端を発するからだろう。しかし今回「ループ量子重力理論」のことを初めて知り、明らかに後者の方に分があるなと僕は直感した。理由は以下の通り。

1)ひも理論は「固定された背景(時空間)の中を動くもの」であること。つまり時間や空間は、素粒子(=ひも)が運動するためのバックグラウンドとしてあらかじめ前提される。しかし、「万物は流転する」のではないだろうか?それに、もし連続した時間があるのだとしたら、量子の「不確定性」をどう説明する?むしろ時間を、パラパラ漫画やアニメーション、映画のフィルムのように断続的なものとして捉えた、ループ理論の方が理に適っている。つまり時間が連続的に流れていると私たちが知覚しているのは錯覚であると。

2)ひも理論を成り立たせるには、ひも状の素粒子が振動する「9次元空間」を想定しなければならない。しかし9次元の存在って証明出来るの??コンパクト化され、かくれた「6個の余剰次元」とか、無理があるでしょう。荒唐無稽だ。

3)ひも理論を証明するためには超対称性粒子の存在を見つけなければならない。しかし、すべての素粒子が未発見であり、ヨーロッパ原子核研究機構(セルン CERN)の加速器「LHC」による観測でも、多くの科学者の期待にもかかわらず、CERNは超対称性粒子を捕捉しなかった。素粒子に質量を与えるヒッグス粒子は1964年に予言されたとおり発見されたのだが(それによりピーター・ヒッグスは2013年にノーベル物理学賞を受賞した)。

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2019年6月22日 (土)

大切なことは言葉にならない〜【考察】映画「海獣の子供」をどう読むか?

評価:A+

Kaiju

度肝を抜かれた。日本のアニメーション映画界に新たな地平を開く、途轍もないマイルストーン彗星の如く現れた。公式サイトはこちら

大切なことは言葉にならない

だからこそ、漫画やアニメーション映画という手法があるのだということが、有無を言わさぬ説得力で迫ってくる凄みがある。

20世紀のアニメーションは「セル」と呼ばれる透明シートに描かれる動画(セル画)と、絵画のように描かれる背景画を組み合わせて撮影される方法が用いられていた。だからカメラは横移動(パン)や縦移動(ティルト)が出来るが、基本的に背景画そのものは動かない。ウォルト・ディズニーはこの平板な画面に奥行きを与えるためにマルチプレーン・カメラを開発し、「白雪姫」(1937)の撮影に使用した(詳しい技術解説はこちら)。

「海獣の子」の冒頭で圧倒されるのは、主人公・琉花が画面奥から真っ直ぐ正面方向に向かって駆けてくる場面である。 当然背景画も動く。20世紀には表現出来なかった手法であり、CGIを使っているわけだ。この手書きによる人物・キャラクターの絵と、CGIの融合が何の違和感もなく空前絶後の高いレベルで達成されており、舌を巻く。CGI監督:秋本賢一郎と、手書きの迫力がビシバシ伝わってくるキャラクターデザイン・総作画監督:小西賢一(「かぐや姫の物語」も圧巻だった)の卓越した仕事ぶりに対して、惜しみない賞賛の拍手を送りたい。実はこの手法、宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」(2001)の極一部で試されていたが、レベルが違う。隔世の感がある。

映画が終了し劇場内が明るくなると、周囲に微妙な空気が流れていた。自分たちが観たものは、一体何だったのだ!?という戸惑い。「難解だ」という声もちらほら聞こえて来るが、僕はそう思わなかった。

まず抑えておくべきことは、「海獣の子供」は現代の神話であるという点だ。フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースは「神話通時的であると同時に、共時的に読める」と述べている。共時的とは、〈過去・現在・未来は同時にここにある〉とする考え方である。

著書〈神話論理〉四部作でレヴィ=ストロースは「神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である」と説く。

劇中に登場する海洋学者アングラードとデデはRWA BHINEDAと船体に書かれた船に乗っている。「ルワ・ビネダ(rwa=2つ、bhineda=相反する) 」とはバリ語(インドネシア)で、「世界は対極する2つが存在し、その対極する2つがあるからこそ世界は成り立っている」という思想である。つまり二項対立だ。

「海獣の子供」には次のような二項対立がある。

  • 天(空・宇宙・永遠・連続)↔地(限りある生命・不連続
  • 海(自然)↔陸(人間が築いた文化

〈天↔地〉の二項対立を結び、調停する役割を担うのが〈隕石〉や〈海から来た少年〉だ。また〈海(自然)↔陸(文化)〉を調停するのは主人公・琉花 であり、 〈母なるもの〉と言えるだろう。胎児が浮かぶ羊水は海水と同じ成分を持ち、魚類の体液に近い0.85%の塩水である。つまり人間の子供は、母の内なる海から生まれてくるのだ。そして〈母なるもの〉を象徴するのが琉花 が幼い頃聞いた子守唄であり、クジラが歌うソングだ。

本作を貫くテーマは明快である。ポール・ゴーギャンの絵のタイトルでもある〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉、そして〈我々の魂(こころ)の中には宇宙が広がっている〉。これは、ここ最近僕自身も考えていたことである。

非常に哲学的命題であり、小学生には到底歯がたたないだろう。僕は3つの映画を思い出した。スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」、テレンス・マリック「ツリー・オブ・ライフ」、そして新海誠「君の名は。」である。

「海獣の子供」は、地球の生命の起源は地球ではなく、他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものとする〈パンスペルミア説〉に基づいている。ギリシャ語でパン=汎(すべて)+スペールノ(種をまく)を意味する言葉に由来し、〈胚種広布説〉とも邦訳される。紀元前5世紀に活躍した古代ギリシャの自然哲学者アナクサゴラスの提唱した概念、スペルマタ(種子:最も微小な物質の構成要素)にその起源を辿ることが出来る。本編で描かれる事項には次のような意味合いがある。

〈海=母、子宮〉〈隕石=精子〉〈海の子供たち=卵子〉〈ザトウクジラの体内=産道〉〈誕生祭=受精・銀河の誕生・産み直し〉〈琉花(主人公)=巫女・触媒〉〈食べること=命を引き継ぐこと circle of life〉

伊勢神宮では神様は常に新しい神殿でお迎えしなければならないという発想から常に新しく造営する式年遷宮が行われているが、これは「常若(とこわか)」という考え方を表すとされる。古くなったものを作り替えて常に若々しくして永遠性を保つという発想だ。つまり〈誕生祭=常若〉である。

隕石が地球に落ちて受精し、細胞分裂が始まるという描写は「君の名は。」に共通している。おまけに両者共にへその緒を切断する場面もある。五十嵐大介 による原作漫画が発表されたのは2006年ー2011年であり、おそらく新海誠がこれに影響を受けたのであろう。

次に本作とユング心理学における元型(Archetype)との対応を見てみよう。〈ザトウクジラ=太母(The Great Mother)〉→琉花を呑み込む。 〈海の子供たち=トリックスター・影(Shadow)〉→トリックスターは境界を超える。〈デデ=老賢人(The Wise Old Woman〉、そして隕石を琉花に渡した後、光の粒子になって雲散霧消した「空」はヌミノース(汎神)化したと解釈出来るだろう。押井守監督「攻殻機動隊」の最後に草薙素子がインターネットの海に溶けて神になったように。

誕生祭の描写は「2001年宇宙の旅」のクライマックスでスターゲイト(ワームホール)を抜ける場面(スリット・スキャンと呼ばれる手法が用いられた)を彷彿とさせる。そして「ツリー・オブ・ライフ」でこの映像を再現するためにテレンス・マリック監督は「2001年」のダグラス・トランブルをVFX(特殊視覚効果)コンサルタントとして招聘した。「ツリー・オブ・ライフ」は、ある家族の歴史が地球の創世記にリンクする壮大な物語であり、ミクロからマクロへという構造が「海獣の子供」に一致している。

アングラードは次のように言う。「この世界に在るもののうち、僕ら人間に見えているものなんてほんの僅かしかないんだ。宇宙を観測する技術が進んでわかったのは、どんな方法でも観測できない“暗黒物質”があるという事。(中略)つまり、宇宙の総質量の90%以上は正体不明の暗黒物質が占めている事になる」

人間の中には、たくさんの記憶の小さな断片がバラバラに漂っていて、何かのキッカケで、いくつかの記憶が結びつく。それが思考。それは宇宙における星々・銀河の誕生に似ている。つまり、広大な無意識の中から意識・思考が芽生えるのは宇宙の構造を模倣しているというわけだ。実は僕も同じような発想をしていた。

琉花の瞳の中には海がある。つまり〈人=海=宇宙〉なのだ。

宮崎アニメを担当するときはメロディアスな久石譲の音楽は今回、ミニマル・ミュージックの手法が主体で非常に攻めの姿勢である。さらに米津玄師の主題歌が加わるという豪華布陣。聞くところによると米津は10代の頃から原作漫画の大ファンで、今回の映画化を知り自ら手を上げたのだそう。

 

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2019年5月24日 (金)

我々は何者か?〜映画「アメリカン・アニマルズ」

評価:A+

Animals

暫定、今年上半期のベスト・ワン!!公式サイトはこちら

観に行こうと思った切っ掛けはTBSラジオ「アフター6ジャンクション」でパーソナリティのRHYMESTER 宇多丸と、スクリプトドクターの三宅隆太が絶賛していたからである。

バート・レイトン監督は元々ドキュメンタリー畑の人で、本作が劇場用映画第一作となる。

2004年にアメリカ合衆国ケンタッキー州トランシルヴァニア大学の図書館で起こった窃盗事件を描く実話である。大変ユニークなのは、主人公たちがチームを組んで強盗・強奪を行うケイパーもの(Caper Film)であると同時に、現在の当事者たち(本人)がインタビューに答えるドキュメンタリー・パートがバランスよく織り込まれる構成になっていること。

犯人の大学生たちが参考にしているのがスタンリー・キューブリック監督の映画「現金に体を張れ」(1956)でスターリング・ヘイドンが仲間たちに犯罪計画のプレゼンテーションをしている場面だったり、そのテレビを鑑賞している部屋に「オーシャンズ11」(2001)のDVDケースがあったり、タランティーノの「レザボア・ドッグス」(1992)を真似たりといった具合。あと、計画を実行に移す場面でスプリットスクリーン(分割画面)になるのは、スティーブ・マックィーン主演ノーマン・ジェイソン監督「華麗なる賭け」(1968)へのオマージュね。

映画の冒頭、大学入学のための面接試験で面接官は絵描き志望の主人公にこう問う。“Tell us about yourself as an artist.”=「芸術家としての君自身のことを教えてほしい」。言い換えるなら「君の魂について語ってくれ」「お前は誰だ?」ということになろう。

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主人公は口ごもる。これは非常に哲学的問いであり、我々観客の心にも突き刺さる。

つまり本作のプロットを端的に表するならば、【「何者」でもない青年が「何者」かになろうとして、結局自分は「何者」でもなかったと知る】物語であると言えるだろう。この場合「何者」とはSomethingを持った人であり、「ひとかどの人物」と言い換えることも出来る。そういう意味で、本作のテーマは映画化もされた朝井リョウの小説「何者」(直木賞受賞)に通底するものがある。我々は一体、何者か?

主人公は自己愛性パーソナリティ障害と思われる。その特徴は、「自分は特別で重要な存在である」と誇大な感覚を持っていること。常に自分の能力を過大評価し、自慢げで見栄を張っているように見える。幼児の持つ誇大感全能感という正常な錯覚を、青年期まで持ち続けた状態。映画「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」に登場した、元謀報員を自称する(トーニャ・ハーディングの)ボディガード・ショーンも同様。しかしそういう気持ちは、多かれ少なかれ、誰もが心に抱いているのではないだろうか?結局人間は「他人とは違う何かSomething)を自分は持っている」という錯覚・イリュージョン(=自尊心)なしには生きられない動物(Animals)なのだろう。

それを象徴するのが北米版ポスターに掲げられたキャッチコピー【誰も自分が「普通の人」だと思いたくない】である。

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ポール・ゴーギャン〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉

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2019年1月30日 (水)

【考察】魔女とは何者か?〜リメイク版「サスペリア」を観る前に絶対知っておくべき2,3の事項(ユング心理学など)

評価:A 公式サイトはこちら

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ダリオ・アルジェント版「サスペリア」(1977)が公開された時、僕は小学生だった。だから当然映画館に行っていないが、「決して、ひとりでは見ないでください」というキャッチコピーが流行り、子どもたちの間でも大いに話題になった。ループするゴブリンの音楽も心底怖かった。

アカデミー作品賞にノミネートされた「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督による41年ぶりのリメイク版も同じコピーが用いられている。

アルジェント版は、上品に評すなら〈鮮血の美学〉ということになろう。しかし身も蓋もない言い方をすれば、可憐な処女たちが真っ赤な血に染まる光景を見て楽しむ〈悪趣味な見世物小屋映画〉である。現代では余り使われなくなった言葉だが、スプラッター映画の代表作と言える。そのルーツを辿ると19世紀末から20世紀半ばまでフランス・パリに存在した見世物小屋「グラン・ギニョール劇場」にたどり着く。日本だと江戸末期から明治時代にかけ流行った無惨絵が相当するだろう。

上映時間99分のアルジェント版に対し、リメイク版は152分。何と53分も長くなっている!実に1.5倍。凝りに凝った再創造で、高尚な、全くの別物(別ジャンル)に仕上がっている。レイヤー(層)が幾重にも重ねられ、一筋縄ではいかない。はっきり言って原典を超えたね。

舞台となるのはオリジナルと同じ1977年のベルリン。しかしアルジェントが無視した当時の西ドイツを取り巻く政治的状況ードイツ赤軍が引き起こした一連のテロ事件「ドイツの秋」ーが今回は丹念に描かれる。またバレエ学校で教えるのもトウシューズを履くクラシック・バレエから、裸足で踊るモダン・ダンスに変換されている。これは実在したドイツの振付師マリー・ヴィグマン(1886-1973)によるNEUE TANZ(ノイエ・タンツ)をベースにしている。彼女の代表作はズバリ〈魔女の踊り〉だ。

クラシック・バレエが目論むのは究極的に〈重力からの開放〉である。それは天空を目指し、一歩でも〈神=天国〉に近付こうとする。つまり背景にキリスト教がある。一方、新版「サスペリア」の舞踏はあくまでも大地に根ざし、地面に這いつくばろうと志す。ベクトルが間逆なのだ。僕は〈デュオニュソスの饗宴〉のイメージなのではないか?と感じた。キリスト教にとってデュオニソスは排斥すべき異教の神であり、哲学者ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中でディオニュソスを陶酔的・激情的芸術を象徴する神として、アポロンと対照的な存在と考えた。つまり次のような関係性がある。

  • クラシック・バレエ=アポロン的 ←対立→ NEUE TANZ〈魔女の踊り〉=ディオニュソス的

また大地に根ざしたディオニュソス的舞踏として、ストラヴィンスキーが作曲したバレエ音楽「春の祭典」が挙げられよう。ニジンスキー振付による1913年パリのシャンゼリゼ劇場での初演は阿鼻叫喚の大混乱に陥り、一大センセーションを巻き起こしたことは余りにも有名である(映画「シャネル&ストラヴィンスキー」で描かれた)。それは反キリスト的だったからだ。新版「サスペリア」の舞踏は「春の祭典」を彷彿とさせる。

オリジナル版「サスペリア」ではバレエ学校(=魔女の館)の校長エレナ・マルコスが〈嘆きの母 Mater Suspiriorum〉であることが明らかになり、やはりアルジェントが監督した映画「インフェルノ」には〈暗闇の母 Mater Tenebrarum〉、「サスペリア・テルザ 最後の魔女」には〈涙の母 Mater Lachrymarum〉が登場する。この三人の母は魔女の総元締め、ラスボスであり、シェイクスピア「マクベス」に登場する三人の魔女が原型だろう。彼女たちはキリスト教における三位一体=〈父(神)〉〈子(イエス)〉〈精霊〉と対になっている。またリメイク版「サスペリア」ではパトリシア、サラ、オルガという三位一体もある。

オリジナル版で「魔女」は邪悪な者、つまりキリスト教における悪魔(脱天使)として描かれていた。しかしリメイク版は違う。

リメイク版にはオリジナル・キャラクターとして心理学者ジョセフ・クレンペラー博士が登場する。言語学者でユダヤ系ドイツ人のヴィクトール・クレンペラー(1881-1960)がモデルである。彼は第二次世界大戦下をドイツ国内で生き抜き、「私は証言するーナチ時代の日記」を書いている。戦後は東ドイツの大学で教鞭をとった。有名な指揮者オットー・クレンペラーは従兄弟にあたる。因みにオットーはナチス政権が樹立された1933年にスイス経由でアメリカに亡命した。

ジョセフ・クレンペラー博士の部屋にカール・グスタフ・ユングの著書「転移の心理学」が置かれている。これ、非常に重要。書名を日本語字幕にちゃんと書き起こした松浦美奈の翻訳を称賛したい。彼女は作品の本質を深く理解している。

クレンペラー自身、戦争の混乱の中、生き別れになった妻アンケ(オリジナル版のヒロイン、ジェシカ・パーカーが演じる)に対して抱いている罪悪感を、無意識のうちに行方不明になった少女パトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)に投影している転移。またヒロイン・スージー(ダコタ・ジョンソン)は幼少期に母に虐待された記憶があり、彼女が抱く〈理想の母親像〉をマルコス・ダンス・カンパニーの振付師マダム・ブランに投影する転移。ラスボスのエレナ・マルコスが〈マザー〉と呼ばれるのも転移だ。マルコスは腐敗しつつある自らの肉体を捨て、若い娘の体を「器」として、魂を転移しようと画策する。

ここでユング心理学における〈(シャドウ)〉について述べたい。詳しくは河合隼雄(著)「の現象学」(講談社学術文庫)を読まれることをお勧めする。平易な文でサクサク読める。

ユングは〈(シャドウ)〉を「自分がなりたくないと思うもの」「苦手なものや生き方」と定義した。自分が自分の要素としては受け入れられなくて、無意識の中に抑え込み蓋をしたは消えてなくなってしまったわけではなく、しっかりと〈無意識〉の中に存在する。そしてある時、ひょんなことから〈〉が他者に投影される(転移)。河合隼雄は以下のように述べている。

 集団のの肩代わり現象として、いわゆる、いけにえの羊(scapegoat)の問題が生じてくる。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。つまり、集団内のをすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。(中略)

 ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる民衆の攻撃を避けようとして、外部のどこかにの肩代わりをさせることがよくある。ここでもすでに述べたような普遍的な影の投影が始まり、ある国民や、ある文化が悪そのものであるかのような錯覚を抱くようなことになってくる。 
    〈河合隼雄「影の現象学」より〉

9・11同時多発テロの翌年、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)がイラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」と決めつけたのも影の投影である。イラク戦争でアメリカは勝利したが、ブッシュ政権が主張した「大量破壊兵器」は結局、見つからなかった。所詮はまぼろし、イリュージョン影の投影)に過ぎなかったのだ。

魔女」とは何者か?それは一神教であるキリスト教がヨーロッパ大陸に浸透する前からあった土着の民間信仰である。しかしキリスト教は彼女たちを敵と見做し、「邪悪な者」として迫害した(魔女狩り)。すなわち影の投影である。いけにえの羊(scapegoat)ーナチス・ドイツがユダヤ人に対してした行為と同じ構造があり、リメイク版「サスペリア」はこの見地に立脚している。もの凄く高度なことを成し遂げている。

アメリカから来たヒロイン・スージーがキリスト教の一派、メイナイト教会からの逸脱者(異端)であるということも見逃せない。メノナイトから分派したのがアーミッシュで、アーミッシュについては映画「刑事ジョン・ブック 目撃者」をご覧あれ。メノナイトの人々はドイツからアメリカに渡った移民であり、ここにドイツ→北米→ベルリンという循環構造がある。

ルカ・グァダニーノ監督はゲイであることを公表している。カトリック教会において、ゲイは異端であり、排斥の対象である。だから自分の身の上をスージーに重ねている側面もあるのではないか?と感じた。

つまり本作には次のような等式が成立する。

ダンスカンパニー(魔女の巣窟)≒キリスト教団の反転/陰画(ネガ)≒ドイツ赤軍≒第三帝国(ナチス・ドイツ)≒フリーメイソン(大きな「目」や、上向き三角形と下向き三角形の結合がシンボル)

そして「組織は必ず教条主義に陥り、腐敗する」という信念が映画全体を貫いている。恐るべき作品である。

スージーの実家には次のような警句が額縁に入れられ、飾られている。

「母はあらゆる者の代わりにはなれるが、何者も母の代わりにはなれない」(A mother is a woman who can take the place of all others, but whose place no one else can take.)

つまり「母は影の投影転移)の対象にはならない」ということだ。最後まで観れば本作が「そして母になる」がテーマの映画であったことが判明するだろう。

オルガが鏡の間に閉じ込められ、拷問(?)を受ける場面は江戸川乱歩の怪奇小説「鏡地獄」を想い出した。なお、江戸川乱歩もゲイである。またホラー映画と見せかけて、最後は〈愛の物語〉に収束するという手法は、大林宣彦監督の「HOUSE ハウス」や「麗猫伝説」を彷彿とさせる。「HOUSE ハウス」は北米版Blu-ray,DVDが発売されており、イタリアでも上映された。ルカ・グァダニーノが観ている可能性は充分ある。そして驚くべきことに「HOUSE ハウス」の公開年はオリジナル版「サスペリア」と同じ1977年なのである!

俳優ではティルダ・スウィントンが圧倒的に素晴らしい。彼女を観るためだけにでも映画館に足を運ぶ価値がある。マダム・ブラン、クレンペラー博士(ルッツ・エバースドルフという偽名で)、そしてラスボスのマルコス(=嘆きの母??)の一人三役をこなしている。

イギリスの役者には「変装の名人」というカテゴリーがあり、その代表格がアレック・ギネス(初代オビ=ワン・ケノービ)、ピーター・セラーズ(クルーゾー警部)、そして現在はティルダ・スウィントンである。ギネスは日本人に化けたこともあり( "A Majority of One" )、彼がセラーズと共演した「マダムと泥棒」(1955)は両者が火花を散らし、実にスリリングだった(「名探偵登場」でも共演)。ティルダが男に変装するのはこれが初めてではなく、ヴァージニア・ウルフの小説を映画化した「オルランド」(1992)では男女の区別なく、転生を繰り返す主人公を演じた。

Suspiria

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2018年10月30日 (火)

映画「アンダー・ザ・シルバーレイク」と〈陰謀論〉について。

大傑作ホラー映画「イット・フォローズ」のデビッド・ロバート・ミッチェル監督最新作ということで劇場に足を運んだ。公式サイトはこちら

評価:B+

魑魅魍魎が跋扈する街ハリウッドを舞台とする、陰謀論の話である。ポスターから既に凝っていて、メッセージ(映画を紐解く鍵)が密やかに忍び込まされている。その一部を切り取った。

Under_the_silver_lake

泡の中にギター、海賊姿の男の顔、ジェームズ・ディーンの顔、風船の女、双眼鏡、JESUSと刻まれた十字架(逆さま)などが隠されている。また髪の毛にはSEXという文字が。

カフェの窓ガラスにスプレーで書かれた落書き"Beware The Dog Killer"(犬殺しに気をつけろ)ではじまる本作の主人公は、夢を抱いて映画の都にやって来たけれど仕事がなく、家賃滞納でコンドミニアムから追い出されそうなヲタク青年(アンドリュー・ガーフィールド;エマ・ストーンと交際していたが2015年に破局した)。「ラ・ラ・ランド」の悪夢版という宣伝文句は言い得て妙で、どちらもグリフィス天文台が登場し、ジェームズ・ディーンが絡んでくる。で、「ラ・ラ・ランド」のふたりはそこから空中浮遊し昇天するのだが、本作の主人公は地底に潜ってゆく。見事に好対照を成している。なお、エマ・ストーンはガーフィールドと別れた後から運に恵まれ、「ラ・ラ・ランド」でアカデミー主演女優賞を受賞した。

本作は完全に映画ヲタク向け仕様であり、普段あまり古典名画を観ない人にはチンプンカンプンかも知れない。前半部はアルフレッド・ヒッチコックに対するオマージュが散りばめられており、双眼鏡での覗きや、美女が登場する瞬間にコマ落としになる演出は「裏窓」、車での追跡や逆ズームは「めまい」、花火は「泥棒成金」といった具合。「イット・フォローズ」のディザスターピース(リッチ・ブリーランド)が作曲した音楽はバーナード・ハーマンを模倣している。映画評論家・町山智浩氏は「めまい」にそっくりだと述べているが、僕はハーマンがオーソン・ウェルズと組んだ「市民ケーン」の方に似ていると想う。で、映画中盤で主人公が古城に住むソングライターを訪ねる場面があるのだが、これ完全に「市民ケーン」の豪邸ザナドゥーね(ここは「オズの魔法使い」だと、町山氏は解説する)。主人公の部屋には「大アマゾンの半魚人」のポスターが貼ってあって、こちらはアカデミー作品賞・監督賞を受賞したギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の元ネタ。フィルム・メーカーに大人気の作品なんだね。後に失踪する美女の部屋で主人公が一緒に観る映画は「百万長者と結婚する方法」で、テレビの横にマリリン・モンロー、ローレン・バコール、ベティ・グレイブルのフィギュアが置いてあるという周到(マニアック)さ。そのブロンドの美女が裸になってプールで泳ぐ場面は、マリリン・モンローの遺作で未完に終わった「女房は生きていた(Something's Got to Give )」の再現。編集されたフィルムは37分しかなく、勿論未公開。いやはや!!あと海賊姿の男は、やはりハリウッドを舞台とするデヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」のカウボーイを変換したものであり、「マルホランド・ドライブ」からも多大な霊感を得ている。だから、自分の部屋に警官と管理人が立ち入るのを別の部屋から主人公が眺める場面で映画は締めくくられるのだが、なんだか幽体離脱みたいで、この語り部は「マルホランド・ドライブ」(さらにその元ネタ、ビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」)同様に、既に死んでいるんじゃないかという仮説も捨てきれない。映画全体を〈腐乱死体が見た夢〉だと解釈すれば、周囲の人々が主人公に対して「臭い!」と嫌な顔をするのも頷ける。まるで迷宮Labyrinth)を彷徨うような映画である。

この監督の前作「イット・フォローズ」で魅了されたのは、なんといっても映像表現である。何だかね、カメラが動いただけで怖いんだ!特にヒロインが廃墟の中で車椅子に拘束されている場面の移動撮影には息を呑んだ。あと360°を超えるパン(撮影技法)とか。つまりキャメラがぐるっと水平方向に一回転して、更に回るなかで劇的な状況変化が起きる。これを観たナイト・シャマランが撮影監督のマイケル・ジオラキスを新作「スプリット」に起用したのも頷ける。そしてジオラキスが続投した「アンダー・ザ・シルバーレイク」の映像も冴えに冴えている。

本作の主人公は妄想性人格障害パラノイヤ(偏執病)と思われる。僕が真っ先に連想したのはスタンリー・キューブリック監督「博士の異常な愛情」でスターリング・ヘイドンが演じたリッパー准将。彼は「水道水フッ化物添加はアメリカ人の体内の〈エッセンス〉を汚染しようとする陰謀だ」と陰謀論を説く。

昔からフリーメーソン陰謀論とか色々あって、子供の頃、日本テレビ「矢追純一UFO現地取材シリーズ」を観ていたら、ケネディ暗殺は「1947年のロズウェル事件で墜落したUFOの生存者グレイ(宇宙人)はアメリカ空軍が管理するエリア51で保護され、そこではUFOの研究が続けられている、と世間に公表しようとしたケネディを邪魔に思った秘密機関MJ-12(マジェスティック・トゥエルヴ)のメンバーたちが首謀者である」という陰謀論を流していた。因みにこのエリア51はスピルバーグの「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」やテレビドラマ「Xファイル」にも登場する。あと、アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」には、ユダヤ人陰謀論が延々と書かれている。正にパラノイヤの産物である。

何故、陰謀論が世間を跋扈するのか?それは結局、人間というものは〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉とか〈我々が生きる目的は何か〉〈我々はどうして死ななければならないのか〉とかを、自らに問わずにはいられない生き物だからだろう。そいう心理過程を経て宗教が誕生した。そして陰謀論は、〈この複雑に糸が絡み合った、混沌とした世界(カオス)を、どうにか単純化して理解したい〉という欲望から生まれたと言える。その根底には存在の不安がある。つまり、

  • 宗教一神教):この世界を創造した人物(=神)を設定(単純化)し、世界の成り立ち(生者必滅の理由など)を理解したい。因果を知りたい。
  • 陰謀論:この世界で起こる全ての問題/事件を、単一の首謀者(人物またはグループ)が計画したことであると単純化し、理解したい。

結局、両者の構造は全く同じなのである。〈全ては偶然の産物に過ぎず、計画者など誰もいない〉という考え方は、どうやら多くの人々にとって我慢ならない、受け入れ難いもののようである。

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2018年10月15日 (月)

欧米的「理性」からの脱却

〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉

Paul_gauguin

ポール・ゴーギャンがタヒチ島で描いた絵のタイトルである。

明治維新以降、日本政府はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を目標として、富国強兵に務めた。幕末期にペリーの黒船や、英仏軍の大砲の威力を目の当たりにし、「このままでは日本は植民地になってしまう!」という危機感がそこにはあった。西洋をお手本とした近代化は急務であった。

第二次世界大戦で焼夷弾による(東京・大阪・神戸などへの)大空襲や原爆投下で日本は焦土と化し、惨憺たる敗戦後に我が国が最大の指標=目指すべきGoalと見做したのはアメリカ合衆国である。それはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)占領政策の成果でもあった。ハリウッド映画や、1950年代から開始されたテレビ放送の中で見る、アメリカ中流家庭の豊かさは日本人の憧れとなった。テレビ・洗濯機・冷蔵庫という電化製品は「三種の神器」と呼ばれ、我々の親世代はがむしゃらに働いた。その結果、昭和40年代(1965年以降)の日本人は"economic animal"と揶揄された。

そして21世紀となり、いつの間にか日本人はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を追い抜かし、豊かな国に暮らしていた。最早規範とすべき国はなく、欧米が築いた近代合理主義・科学技術文明を盲目的に賛美し、追従する時代はとうの昔に終わった。我々は今後、独自の道を模索していかなければならない。

欧米諸国の人々の多くはキリスト教徒である。アメリカ合衆国では国民の78.4%がクリスチャンであり、うち51.3%をプロテスタント、23.9%をカトリック教徒が占めている(2008年ピュー・フォーラムによる調査)。

実際、アメリカ人は教会によく行く。総人口の四割、一億人以上が毎週あるいは定期的に、おのおのの教会に礼拝に行くという国は、先進工業国ではほかにはない。
      (ハロラン芙美子 著「アメリカ精神の源」より)

アメリカでは2009年に正教会、カトリック教会、そしてプロテスタントの福音派指導者が合同で「マンハッタン宣言」を発表し、人工妊娠中絶や同性愛という「罪」を容認する法制度に対して、異議を唱えた。1920年代にはテネシー、オクラホマ、フロリダ、ミシシッピー、アーカンソーの各州において、公立学校でダーウィンの進化論を教えてはならないという州法が存在した(進化論は旧約聖書の記述に合致しないので)。なおケネディはカトリック教徒であり、ジョージ・W・ブッシュを支持したのは反中絶・反同性愛を叫ぶキリスト教原理主義(Christian fundamentalism)の人々であった。つまりアメリカ合衆国は宗教国家であることを見逃してはならない。

ユダヤ教やキリスト教にはアントロポモルフィズム(人間形態主義/人神同形論)つまり、神を人間と同じような姿で想像するという基本理念がある。それは旧約聖書の「創世記」にはっきりと書かれている。神は最初の男アダムを神に似せて創造した。そして最初の女イヴはアダムの肋骨から創られた。つまり人は神の似姿なのである。だからすべての動・植物の中で人間は一番偉く、自然を自由にコントロールしたり、生殺与奪の権利を持っていると彼らは考える。地球上に於いて人は神に最も近い存在であり、万物のリーダーとしての重責を担っているというわけだ。

欧米人と日本人との思考の違いは「庭」のあり方に典型的に現れている。野趣あふれる日本庭園は野山(自然)の中に在り、自然と一体化しようと欲する。一方、初期イギリス式庭園やフランス式庭園、イタリア式庭園は幾何学模様や生け垣による迷路など人工的産物であり、自然を型にはめ人の意思で徹底的に管理しようとする。アメリカ合衆国郊外の建売住宅地に見られる広い芝生の庭も然り(その起源は英国貴族の庭園にある)。

旧ソビエト連邦の社会主義リアリズムとは人類の進歩と発展を信じると同時に、人間の理性の普遍性を信じる芸術(美術・音楽・文学)だった。人類は進歩の結果、やがて理想の共産主義を建設するのであり、共産主義が最高の発展段階である以上、それを設計した人間の理性もまた最高のものでなければならない、というわけである。共産主義は唯物論だ。唯物論とは宇宙の根本は物質であり、「神はいない」という思想である。だから社会主義リアリズムの最終目標は人類(共産党員)=神になればいい、ということになる。ここにキリスト教思想の残滓がある。余談だが唯物論の根本的誤りはエネルギーを無視していること。世界は確固たる物質で構成されているのではなく、突き詰めれば全てはエネルギーであるというのが量子力学の考え方だ。

欧米の白人は有色人種に対して差別意識を持っている。これは衆目の一致するところだろう。しかし彼らの①アフリカ大陸の黒人や南北アメリカ先住民、オーストリア先住民(アボリジニ)に対する扱いと、②インド人やアジア人に対する扱いに明らかな違いがあることにお気づきだろうか?①アフリカの黒人たちは奴隷としてアメリカ大陸に売り飛ばされた。南北アメリカの先住民やアボリジニたちは無慈悲に大量虐殺され、「居住区」という名の不毛の地に強制的に移住させられた。そして豊穣で住心地の良い場所は白人が独占した。一方、②インド人が奴隷売買の対象になることはなかったし、居住地に関してアジア人が南北アメリカ先住民のような扱いを受けることもなかった。一体全体この差異は何なのか?

アフリカの民族、南北アメリカ先住民、アボリジニに共通する特徴は無文字社会であるということだ。だから欧米人は彼らのことを「未開 primitive」と見做した。未開人は知能が獣レベルであり、家畜同様に扱ってもいいという発想が根本にある。文字による記録=歴史がないが故に、アフリカは「暗黒大陸」と嘲笑された。だからアラビア語を使用するアラビア半島や北アフリカの人々は、中〜南部アフリカの無文字社会の人々よりは遥かにマシな扱いを受けた。彼らの肌が白いということとも無関係ではないだろう。つまり欧米人は肌の色と、文字を持つかどうかという2つの観点から他文明を差別(階層)化していたのである。彼らがいくら屠殺しても構わないと考える牛や豚と、「知性があるから捕鯨を絶対認めない」と主張するクジラやイルカの扱いに差を設けるのも、同じ理屈である。

19世紀末のオーストラリアではスポーツハンティングという名の虐殺が日常のように行われていた。詩人メアリー・ギルモアは幼少期の思い出を「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙(1938年3月4日)に次のように書いている。

水飲み場の周辺に何百人ものアボリジニが死んでいた。大人たちが集まり、アボリジニの狩りに出かけるところを何度も見た。欧州から獰猛な狩猟犬が輸入された。アボリジニたちを狩りだし、食い殺させるためだった。ある時は小さな子供たちが、野犬のように撃ち殺された両親の遺体のかたわらで死んでいるのも見た。

そもそもオーストラリア政府はアボリジニを国民とみなしていなかったので、人口動態国勢調査対象からも外し続け、アボリジニを人口統計に入れたのは1973年の憲法改正以降であった。現在、アボリジニの人口はイギリス人の入植前と比較し、10分の1以下に減少した。またタスマニア島にいた3万7千人の原住民は根絶やしにされた(Black War)。これが白豪主義の実態である。

しかし1962年人類学者レヴィ=ストロースにより、無文字社会も高度に知的で豊かな文化を育んでいたことが立証された。

欧米人は何よりも理性を重要視する。古代ギリシャのプラトン哲学が典型的だが、イデアこそ最高のものだと彼らは考える。我々の肉眼で見えるものではなく、「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に至ることが人類の最終目標なのだ。つまりイデア=真理であり、キリスト教がヨーロッパに広まるにつれ、それは神の国(天国)と言い換えられるようになった。

17世紀の数学者デカルトは、心と体は明確に分離したものだと主張した。西洋科学は20世紀半ばまで、この心身分離モデルを疑うことなく用いてきた。彼らは肉体を軽視し、意識 consciousness自我 ego自制心 self controlを重んじた。ここから派生してきたのが徹底的な個人主義 individualismである。

肉体・欲望の軽視はキリスト教の禁欲主義に如実に現れている。聖職者が神に近づくためには性欲は禁忌とされ、信徒が夫婦生活の営みとして性交する場合も、快感を求めてはいけないとされた。19世紀ヴィクトリア朝時代の英国紳士はマスターベーション(自慰)がタブーであり、自慰によってオルガスムが得られることを覚えた女子は医学的に問題のある子と見做され、陰核(クリトリス)を切り取られたり焼灼されたりといった「治療」が施された。そして1976年にカトリック教会は自慰行為を「重大な道徳的退廃」とした。つまり彼らが目指しているのは肉体を否定し、精神世界=理性でのみ生きることなのだ(極端な例が鞭身派・去勢派)。その背景に、アダムがエデンの園に生えた知恵の木から=リンゴをもぎ取って、食べてしまった(欲望に抗えなかった)という原罪がある。

こうしたキリスト教の迷妄に対して、最初に異を唱えたのはドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェだろう(19世紀末)。彼は「神は死んだ」と宣言し、「からだが大事」と説いた。これは精神至上主義から離脱し、身体性・皮膚感覚をもっと大切にしようという姿勢であり、欲望の肯定であった。

ニーチェの思想を継承したのがジークムント・フロイトカール・グスタフ・ユングである(20世紀初頭)。フロイトが提唱したエディプス・コンプレックスの真の目的はキリスト教(禁欲)の否定性欲の肯定にあった。ユングの〈意識 consciousness無意識 unconsciousness自己 self 〉という考え方も、理性だけに目を向けるのではなく、身体性を取り戻すという意図がある。深層心理学の誕生である。そして20世紀中頃に、この身体性・皮膚感覚はレヴィ=ストロースにより「野生の思考」と名付けられた。

従来より八百万の神を信じるアニミズムが浸透し、「野生の思考」を持つ日本人はブリコラージュが得意である。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。クリスマスや聖バレンタイン(←ローマ帝国の迫害で殉教した聖職者)デーを祝い、七五三や正月にはお宮参りをし、葬式は仏式といった宗教的出鱈目さや、中国伝来の漢字と日本特有の平仮名を組み合わせた複雑な言語体系など、ブリコラージュの典型例であろう。

父性原理で何でもかんでも切断・分離し、精製する(純度を高める:その度を越した姿がナチス・ドイツのアーリア人種純血主義)ことを得意とした欧米の手法が行き詰まり、音を立てて瓦解している今こそ、理性と身体(からだ)や、意識と無意識の統合、すべてを包み込む母性原理野生の思考が求められている。そう、僕は確信する。

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2018年9月14日 (金)

SNSがもたらした〈福音〉と〈罠〉。〜本谷有希子(著)「静かに、ねぇ、静かに」

本谷有希子という名前はつい先日、2018年9月12日(水)まで全く知らなかった。認知するきっかけになったのはその前日にTBSラジオで放送された、ラップグループ・RHYMSTER 宇多丸がパーソナリティを務める「アフター6ジャンクション」(通称:アトロク)である。彼女がゲストとして登場し、最新刊「静かに、ねぇ、静かに」の話をしたのである(パートナーは宇垣美里アナ)。これを通勤時にラジオクラウド(iPhone)で聴いて、俄然興味が湧いた。

早速Amazon.co.jpKindleで探してみた。すると、なんと!3つの中編からなる「静かに、ねぇ、静かに」のうち、最初の物語『本当の旅』が【刊行記念 無料試し読み】で、まるごとダウンロード出来ることが判明した(最後まで読める)。太っ腹!!

Silent

本谷は1979年生まれで現在39歳。石川県に生まれ高校卒業後上京、ENBUゼミナール演劇科に入学し、松尾スズキに師事した。その後女優となり2000年に「劇団、本谷有希子」を旗揚げ、劇作家・演出家としての活動を開始した。「遭難、」で鶴屋南北戯曲賞を史上最年少で受賞。「幸せ最高ありがとうマジで!」で岸田國士戯曲賞を受賞した。小説の方は「ぬるい毒」で野間文芸新人賞、「嵐のピクニック」で大江健三郎賞、「自分を好きになる方法」で三島由紀夫賞、「異類婚姻譚」で芥川賞を受賞している。純文学新人賞三冠作家は彼女が史上3人目となった。

『本当の旅』の語り部は〈ハネケン〉。彼は友人の〈づっちん〉、〈ヤマコ〉と三人でマレーシア旅行に出発する。テーマはズバリSNS。彼らはグループラインで頻繁にやり取りし、”インスタ映え”に血道を上げる。

むちゃくちゃ面白かった!本谷は底意地が悪い作家である。全編悪意に満ちている。そういう意味で「OUT」「柔らかな頬(直木賞受賞)」の桐生夏生を彷彿とさせた。読んでいてヒリヒリするし、どよんとした読後感が残るので読者を選ぶ作家と言えるかも知れない。好き嫌いがはっきりと分かれるだろう。一部の人にとっては、歪んだ鏡で自分を見るのを強いられているようで、不快な気持ちになる筈だ。

この小説に登場する仲良し三人組は僕に言わせればグロテスクなモンスターである。それも人畜無害な。しかし本人には全くそんな自覚がなく、自分たちはリア充だと錯覚しているのだからイタい。貧しい彼らは、しっかり働いて裕福な暮らしをしている周囲の人々を見下している。価値の転倒。ニーチェが言うところのルサンチマン(強者に対して復讐心を燃やす、弱者の鬱屈した心)だ。つまりローマ帝国に支配されて苦しんでいたユダヤ人(イエス)が、「いや、貧しい自分たちこそ正義だ!」と開き直ったのと同じ構造がここにはある。

〈ハネケン〉たちは生きている実感がない。むしろSNSという仮想空間にこそリアル(本当)を感じる。正にヴァーチャル・リアリティである。彼らに欠如しているのは皮膚感覚だ。指で触って感じること、痛み、匂い、舌で感じる味覚。そして辛い、厳しい現実は写真をトリミング(画像の不必要な部分を切り取ること)したり、動画を編集したりすることで排除出来る、なかったことに出来ると信じている。本谷はそんな彼らを容赦なく狂気の淵へと追い込む。

僕にとってこの小説は「あるある」「わかる!」の連続だった。例えばこんな情景を日常生活でしばしば見かける。喫茶店やファーストフードで友達同士やカップルが向かい合って座っているのだが、各々が俯向いてスマホを弄(いじ)っている。「一緒にいる意味なくね?」というゾワゾワした違和感。

またインスタグラムで「今日はお昼にこれ食べました」といちいち写真付きで報告する人々。「そんなことに興味がある人が一体全体、地球上の何処にいるんだ??」肥大化する自意識承認欲求私が、私が、私が……。なんの価値もない、ちっぽけな自分のことばかり延々と喋り続けていることの滑稽さ。

人間は皆、孤独である。そして寂しい思いを抱えて生きている。インターネットがなかった頃の女子大生は大抵一人で下宿にいることはなく、友達の家に泊まりに行ったり、深夜に長電話するというのが常だった。SNS最大の効用は、誰かと常に「繋がっている」と錯覚出来ることだろう。しかしSNSの登場で、果たして人は孤独から脱出出来たのだろうか?

「静かに、ねぇ、静かに」が炙り出すのは、インターネットやSNSが仕掛けた罠、落とし穴だ。しかし一方で、ネット世界が存在しなければ僕がこの小説に出会うことがなかったのも紛れもない事実である。

SNSが我々にもたらすのは幸福なのだろうか?それとも不幸なのだろうか?結局は切れ味鋭い包丁と同様、使い方次第ということなのだろう。

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