いつか見た大林映画

2023年12月27日 (水)

KANは「愛は勝つ」の一発屋にあらず。

2023年11月12日にシンガーソングライターのKANが死去した。死因は小腸にできる非常に稀な疾患・メッケル憩室癌(メッケル憩室の発生率が人口の2%でそこにがんができる割合はそのうちのさらに1%前後とされる。日本国内での報告例は数十例程度) 。享年61歳。最近彼の歌を聴いていながったのだが、訃報を聞き少なからず動揺している自分に気が付いた。

僕は数年前Spotifyに加入してから、彼の曲が入っていないか何度か検索したが全くヒットしなかった。松任谷由実、中島みゆきら大物アーティストが次々とサブスクを解禁していく中、残るはKANと山下達郎くらいになっていた。KANの死後、漸く主要な彼の楽曲配信が解禁され始めた。

代表曲『愛は勝つ』のストリーミング配信は2023年12月20日に遂に実現した。1990年9月1日にシングルCDがリリースされオリコンでは8週連続1位にチャートイン、累計売上は201.2万枚を記録した。翌91年に日本レコード大賞を受賞、これでNHK紅白歌合戦出場も果たした。

positive thinkingで能天気な歌詞。今にして思えば『愛は勝つ』はバブル時代(1985年から1991年までの日本で起こった好景気)を象徴する徒花だった。89年の新語・流行語大賞にリゲインのCMのキャッチフレーズ「24時間戦えますか」がランクイン、「お立ち台」で有名なディスコ「ジュリアナ東京」の開業が91年5月15日で、その年末に『愛は勝つ』がレコード大賞を取ったという流れだ。当時の大人たちは浮かれ、のぼせていた。

軽佻浮薄な時代に幼年期を過ごした諫山創(1986年8月29日大分県日田郡大山町生まれ)が、そんなものは「家畜の安寧」「虚偽の繁栄」だ!と叫び、壁を壊して進撃を始めるのが2009年(漫画『進撃の巨人』連載開始)。こうしてバブル期に肩で風を切っていた連中はみな「駆逐」された。今聴いたら『愛は勝つ』の歌詞なんてギャグでしかない。

恐らく、日本人の99%はKANといえば『愛は勝つ』しか知らず、彼のことを“一発屋”だと思っていることだろう。さにあらず。そのことを以下、語っていきたい。

本名は木村 和(きむら かん)、福岡県福岡市生まれ。1987年がレコード・デビューだが、その前年に大林宣彦監督の映画『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の音楽を担当。大林とは87年10月に開催された「大連・尾道友港都市博覧会」で上映された短編映画『夢の花 大連幻視行』のサウンドトラックも請け負った。主演は『彼のオートバイ、彼女の島』の原田貴和子と『漂流教室』の浅野愛子。その撮影時にKANも中国・大連に同行したそう(初めての海外旅行)。さらに88年に開催された瀬戸大橋架橋記念博覧会で上映された大林監督『モモとタローのかくれんぼ』も手がけた。

熱狂的な大林映画ファン(フリーク?)である僕はお蔵入りしていた『おかしなふたり』が劇場公開される前、1987年夏に開催された尾道映画祭で先行映された時に観ている。映画祭では大林監督やゲストの淀川長治(映画評論家)・おすぎ(映画評論家)・永六輔(放送作家/作詞家)・薩谷和夫(美術監督)に混じってKANもトークショーに参加していたし(最早おすぎ以外は皆さん故人になってしまった)、野外ステージで彼のミニライブもあったと記憶している。『夢の花 大連幻視行』も尾道で観た。

瀬戸大橋博の『モモとタローのかくれんぼ』の上映方式は特殊で、途中2回物語の分岐点がある。ここで観客が手元にあるボタンでAかBの2つの選択肢を選び多数決で進む方向が定まる。つまり4パターンあるというわけ。僕は10回ほど繰り返しパビリオンに入り、全パターンを制覇した。選択肢で展開が変わるドラマといえばNetflixの『ブラック・ミラー:バンダースナッチ』(2018)があり、それを30年も先駆ける作品であったと言えるだろう。『夢の花 大連幻視行』も『モモとタローのかくれんぼ』もピアノ主体の美しい楽曲だった。

 ・ 【いつか見た大林映画】第4回 ロケ地巡りと【尾道三部作】外伝

KANの2ndシングル『BRACKET』のミュージック・ビデオも大林が演出した。これがまた、キレッキレの編集でスカッとする傑作なのだが、どうも現在世に出回っていないみたいでとても残念だ。ポリドールとか所属事務所の方、是非もう一度YouTubeとかで観れるようにしてください!

Bracket

またこの頃、大林は『悲劇の季節』という映画を構想しており、そのテーマ曲もKANが作曲し、素晴らしい仕上がりだったと監督がエッセイ本の中で絶賛しているのを読んだ。しかし残念なことにこの企画は実現しなかった。

KANは昔から「フランス人になりたい」という夢を持っていて2002−4年の間、住居をフランス・パリに移し、ピアノを学んだという。さらに九州男児のくせに自身の公式X (Twitter)のプロフィールには「札幌出身・フランス帰り系・英国紳士派」と書いている。えっ、なんで??福岡県出身というのがそんなに恥ずかしいか。西洋かぶれの実に薄っぺらな男である。

ただし、本人の性格と芸術の才能は全く別物だ。音楽の神童モーツァルトが「おなら」とか「うんこ」と言うのが好きな下品な男であったことは良く知られており、映画化もされた戯曲『アマデウス』で描かれた通り。

KANは才能に恵まれた作曲家だったが、作詞のセンスはなかったと僕は思う。恋の歌ばかりでアルバムを一枚通して聴いていると途中で飽きてしまう。つまり金太郎飴。概ね英語交じりで(フランス人になりたかった筈なのになぜ?)、「100カラットの君に/目がくらんだ」とか日本語の表現も陳腐。シンガーソングライターという肩書にこだわらず作詞を他者に委ねていれば、もっとヒット作を生み出せていたのではなかろうか?

ピアノを弾きながら歌うスタイルで、ビリー・ジョエルやエルトン・ジョンのような〈ピアノ・マン〉だった。ただし彼が憧れて歌手になる切っ掛けになったビリー・ジョエルの場合、最初のシングル『ピアノ・マン』にしても『ハートにファイア(We Didn't Start the Fire)』にしても恋の歌ではなく社会性があるわけで、そういう点を見習って欲しかった。

しかし同時にアンビバレントな愛着を彼の音楽に感じるのも確かであり、ここで僕が選ぶKANの歌Best 5を発表する。今は全てサブスクで聴ける(歌に限定しなければ哀しく、心を鷲掴みにする『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 』がトップだ)。

 1.永遠
 2.小学3年生
 3.BRACKET
 4,東京ライフ
 5.ドラ・ドラ・ドライブ大作戦

『永遠』はKANが創作した最も美しい旋律だろう。胸に沁み入る最高傑作。是非一人でも多くの人にこの曲の魅力を知ってもらいたい。

『小学3年生』はイキったガキの口上が最高に可笑しい。ある意味『愛は勝つ』で調子に乗っていた自己に対するセルフ・パロディである。JazzyでGorgeousなオーケストレーションが良い。ビッグバンド形式で1950年代ニューヨークのフランク・シナトラって感じ。間違いなくシナトラと組んだネルソン・リドルのアレンジを意識している(特に最後)。

『BRACKET』は吠えるホーンセクションが気持ちいい!ノリノリだぜ。

『東京ライフ』の哀しみ、sentimentalismはある意味、KANの音楽の本質であるだろう。

ドラ・ドラ・ドライブ大作戦』は愉快な口調で、バンジョーが入ったりして音楽的には20世紀初頭のディキシーランド・ジャズを彷彿とさせる。映画『ペーパー・ムーン』とか、『俺たちに明日はない』が描いたボニー&クライドの時代の雰囲気。 

ランクインしなかったが『50年後も』は「明日の朝もしも僕が死んでいたら君はどうする?」という歌詞で始まるので、ちょっとドキッとする。

それからKANがアルバムで『キセキ』を発表した後、秦基博が『カサナル』をシングルリリース。2つ混ぜて『カサナルキセキ』に仕上がるという合作の試みは実にユニーク。一聴されたし。

KAN、今までありがとう!安らかにお眠りください。そしていつの日にか作曲家として再評価される日が来ますように。

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2020年12月29日 (火)

祝!Netflixから配信〜フランソワ・トリュフォー「恋のエチュード」

2020年11月16日からNetflixでフランスのフランソワ・トリュフォー監督『恋のエチュード』(1971)と『柔らかい肌」(1964)の配信が開始された。Netflixはアメリカの会社であり、ヨーロッパ映画に弱い。今までトリュフォーの映画は1本もなかったし、イタリアのヴィスコンティやフェリーニ、ロッセリーニも皆無。これは一体、どういう風の吹き回し?なお『恋のエチュード』『柔らかい肌』はAmazonプライムとかU-NEXTとかからは配信されておらず、Netflix単独である。

トリュフォーといえばジャン=リュック・ゴダールと並び称されるヌーヴェルヴァーグの旗手である。ヌーヴェルヴァーグは1950年代末に始まったフランスにおける映画運動で、「新しい波」(New Wave)を意味する。血気盛んな若者たちは既成の映画製作システムをぶち壊し、手持ちカメラを担いで外に飛び出し、スタジオではなくパリの街中でゲリラ撮影を敢行した。ロベルト・ロッセリーニ監督『無防備都市』(1945)やヴィットリオ・デ・シーカ監督『自転車泥棒』(1948)に代表されるイタリアのネオレアリズモ→フランス・ヌーヴェルヴァーグ→アメリカン・ニューシネマという風に、その運動は飛び火した。ネオリアリズモの背景には第二次世界大戦の敗戦とイタリア共産党の台頭があり、ヌーヴェルヴァーグにはアルジェリア戦争(1954-62)、ニューシネマにはベトナム戦争(1955-75)や映画業界の斜陽化が暗い影を落とし、学生運動やヒッピー文化(カウンターカルチャー)と連動していた。アメリカン・ニューシネマの先駆的作品『俺たちに明日はない』(1967)は当初、トリュフォーに企画が持ち込まれたが断られ、次にプロデューサーはゴダールに接触したが結局合意には至らなかったという経緯がある。

Twoenglishgirls

『恋のエチュード』という映画があると僕が知ったのは20歳を過ぎた頃だったように思う。大林宣彦監督が何かの雑誌で本作への想いを熱く語っておられて、丁度『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』が尾道映画祭で上映された1987年前後だったと記憶している。他に大林監督が推薦していたのはゴダールの『軽蔑』、ロジェ・ヴァディム『戦士の休息』、アニエス・ヴァルダ『幸福』等だった(ある方が大林監督の選んだオールタイム・ベストをまとめたブログはこちら)。そして漸く発売されたレーザー・ディスク(LD)で観ることが叶った。その後、トリュフォーの映画は殆ど観たが、一番好きなのはやはり『恋のエチュード』だ。なお、大林監督の遺作『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』には鳥鳳助 (とりほうすけ)という人物が登場するが、言うまでもなくトリュフォーのもじりである。

『恋のエチュード』の原題を直訳すると『二人の英国女性と大陸』。原作者のアンリ=ピエール・ロシェはやはりトリュフォーが映画化した『突然炎のごとく』の著者でもある。『突然炎のごとく』は一人の女を愛する二人の男の話で、『恋のエチュード』は二人の姉妹を愛する一人の男の話。両者は表裏一体の関係にある。『恋のエチュード』でジャン・ピエール・レオ演じる主人公クロードは最後に自分の体験を元に『ジェロームとジュリアン』という小説を出版する。これは『突然炎のごとく』の原題『ジュールとジム Jules et Jim』に呼応している。

撮影監督はスペイン・バルセロナ出身のネストール・アルメンドロス。テレンス・マリック監督『天国の日々』でアカデミー撮影賞を受賞した。マジック・アワーにおける撮影があまりにも有名。『恋のエチュード』では緑色の部屋が印象的で、スイスの湖にある小さな島に於ける水上移動撮影も美しい。またこの場面でクラヴサン(チェンバロ)が主旋律を奏でるジョルジュ・ドルリューの音楽"Une Petite Île"(小島)がとっても素敵で、トリュフォーは『アメリカの夜』(1973)でも再使用している(ロウソクで照らされた仮面舞踏会の場面)。ウェス・アンダーソン監督もこの曲がお気に入りらしく『ファンタスティック Mr.FOX』で使っている。

『恋のエチュード』オリジナル版は132分だが映画が不評だったため劇場側の要請で20分ほどカットした118分のパリ公開版や、さらにカットした106分公開版がある。日本での初公開はアメリカ版だったが、僕が最初に観たLD版では既に132分に復元されており、Netflixから配信されているのも完全版である。特に初夜でが流れるシーンに抗議が殺到したため、パリ公開版ではそのシーンがカットされているが、鮮烈な印象があり僕は好きだ。

僕が最も愛する場面はエピローグである。年老いたジャン・ピエール・レオがひとりぼっちでロダン美術館を彷徨する情景には観る度に胸をえぐられる。

ここに僕は『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』ラストシーンの大林宣彦監督によるナレーションをどうしても重ねてしまう。

 ひとは、今日もまた
 恋にはぐれて
 くるほしく ー

 胸、張り裂けながら
 ただ、耐えて耐えて
 生くるのみか ー

 夕子、ー
 君を忘れない

『恋のエチュード』はフランソワ・トリュフォー自らがナレーションしている点でも特筆すべき作品である。僕が知る限りこれが唯一無二だろう。『突然炎のごとく』(1961)はミシェル・シュボール、『二十歳の恋/アントワーヌとコレット』(1962)はアンリ・セール、『恋愛日記』(1977)はブリジット・フォセーがナレーターを務めている。そもそも大林監督は自作における尾美としのりの役回りを、トリュフォー映画『アントワーヌ・ドワネル』シリーズ(『大人は判ってくれない』など)におけるジャン・ピエール・レオに重ねていた節がある。

フランソワは1932年に私生児としてパリに生まれた。翌年に母は建築技師であったロラン・トリュフォーと結婚、父親不明の幼児はこの男に認知され、トリュフォー姓を名乗る。しかし望まれない子供であったフランソワは里子に出された後、一旦祖母に引き取られるが、祖母の死後は再び両親と暮らし始める(この時8歳)。しかし両親からの十分な愛情を受けられず、家出や非行を繰り返しながら不幸な少年時代を過ごした。そんなトリュフォー少年にとって唯一の逃げ場所が映画館であった。1946年(14歳)には早くも学業を放棄、16歳になったトリュフォーは自らシネマクラブを作る。フィルムのレンタル料でかさんだ借金や彼の非行に業を煮やした父親は息子を48年にパリ郊外にある感化院(少年鑑別所)に入れるが、一度も面会に来ない両親の代わりに映画評論家アンドレ・バザン(当時30歳)が身元保証人を引き受け、少年は出所することが出来た。この辺の体験が処女長編『大人は判ってくれない』に投影されている。なお、実の父親は68年に私立探偵の調査により特定された。

ゴダールとトリュフォーはバザンが初代編集長を務めた映画評論紙『カイエ・デュ・シネマ』に執筆する批評家としてキャリアをスタートさせた。トリュフォーの方が1歳若く、彼らは〈若き急進派〉と称された。映画評論家から監督に進出した例として、他にアメリカのピーター・ボグダノヴィッチや原田眞人(『わが母の記』『駆込み女と駆出し男』)がいる。

ふたりは仲が良かった。例えばゴダールの長編映画デビュー作『勝手にしやがれ』(1960)の原案はトリュフォーが担当しており、ゴダールの『女は女である』(1961)の中でトリュフォーの『ピアニストを撃て』に言及される。またゴダール『男と女のいる舗道』(1962)では『突然炎のごとく』が上映されている映画館が映し出される。

1968年にトリュフォーはゴダールと共にカンヌ国際映画祭粉砕を主張して大暴れした。しかしこの五月革命(五月危機)を契機にふたりは袂を分かつことになる。ゴダールは政治に生き、トリュフォーは映画への愛に回帰した。そんなトリュフォーをゴダールは「ブルジョア的で堕落している」と激しく非難した。トリュフォーが脳腫瘍で1984年に52歳で亡くなったときもゴダールは葬儀に参列せず、沈黙を守った。

これらの詳しい顛末をお知りになりたい方はドキュメンタリー映画『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』をご覧になることをお勧めする。

なお、トリュフォーはスティーヴン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』にフランス人UFO学者クロード・ラコーム役で出演している。スピルバーグは『アメリカの夜』に映画監督役で出ていたトリュフォーの演技を見て、彼の起用を決めたという。

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2020年11月19日 (木)

芦田愛菜「星の子」と原田知世「時をかける少女」

評価:B+

映画公式サイトはこちら

僕が芦田愛菜ちゃんを初めて映画で観たのは松たか子主演『告白』(2010)で、その次が『阪急電車 片道15分の奇跡』(2011)だった。彼女は兵庫県西宮市出身なので『阪急電車』は地元の撮影で、当時6歳だった。

そして映画『星の子』撮影時、彼女は15歳。丁度、原田知世が初主演映画、大林宣彦監督『時をかける少女』(1983)に出演した年齢である。

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さて、『星の子』で芦田愛菜ちゃんの母親役を原田知世が演じている。夫役が永瀬正敏で、病弱な娘の命を守るために夫婦で新興宗教を信仰しているという設定だ。娘は両親たちの行為を馬鹿げたことだと心の中では分かっているのだが、入信の原因が自分にあるので、なかなか言い出せない。そういう複雑な心境を愛菜ちゃんは巧みに演じていた。中学生役ということで見始めた当初は「えっ?」と思ったが、身長が低い彼女はしっかりそう見えた。

原作者の今村夏子は『こちらあみ子』(2011)で三島由紀夫賞、『むらさきのスカートの女』(2019)で芥川賞を受賞。『星の子』(2017)も芥川賞候補になった。非常に良く出来たお話である。

映画は親子三人で薄っすらと雪が積もった丘の上で星空を眺めるという場面で終わる。主人公のちひろには流れ星が見えるのに、両親には見えない。

ここで「ハッ!!」としたのが、このラストシーンが大林版『時をかける少女』の冒頭に繋がっているという事実である。『時をかける少女』はスキー場で原田知世・高柳良一・尾美としのりの三人が夜空を眺めている場面から始まる。そしてしっかりと流れ星も見えるのだ。大森立嗣監督の粋な計らいに乾杯!

なお、原田と高柳はいまでも家族ぐるみで親しくしていて、年に数回会っているという(出典はこちらの記事)。

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2020年10月31日 (土)

【いつか見た大林映画】第9回〜未発表短編「海外特派員 ある映像作家の場合」と、ボードレールの詩「人と海と」

2020年4月10日に亡くなった、大林宣彦監督の未発表白黒短編『海外特派員 ある映像作家の場合』が事務所倉庫の棚にあった謎の段ボール箱から発見され、京都国際映画祭でオンライン上映されたのを鑑賞した。公式サイトはこちら

大林監督が30歳頃(1968年前後)に製作した作品(16mmフィルム)だと思われるとのこと。上映時間13分。監督本人や妻でプロデューサーの恭子さん、娘の千茱萸さん、監督の仲間らが登場する。憧れを持って来日した北欧のデザイナーの青年が日本の現状に一度は失望するが、海でCM撮影中の大林監督らと出会い、希望を取り戻すという物語。

「大林映画はピアノ映画だ!」と看破したのは映画評論家の故・石上三登志だった(『彼のオートバイ、彼女の島』や『野ゆき山ゆき海べゆき』でナレーション担当)。僕はそれに「大林映画は海の映画だ!」を付け加えたい。自主映画時代の『EMOTION=伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(1967)の頃から、尾道三部作・新三部作は言うに及ばず、遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』まで終始一貫して認められる特徴である。

『海外特派員 ある映像作家の場合』では、ボードレールの『悪の華』から詩『人と海と』が引用される。

自由な人よ、常に君は海を愛するだろう!
海は君の鏡、逆巻き返す怒涛のうちに
君が眺めるもの、あれは君の魂 

この朗読に続き、ナレーションが「私は心の疲れを感じる時、海に来ます。海はそんな人達でいっぱいでした」と語る。

そして最後「私がこの夏、海で知り合った大林宣彦とその愉快な仲間たち。彼らが教えてくれたこと。それは、どんなときでも人は自分の自由な心を捨てない勇気を持つことだということです。もし心が疲れたら、あなたも海に行かれるといい。あなたはそこで、あなた自身の大林宣彦に出会うことでしょう」というナレーションで締め括られる。

本作を観て僕がはっきりと理解したのは、大林監督は海を〈自由な心〉の象徴と見做していたのだな、ということ。

このボードレールの詩を福永武彦の訳(『悪の華』初版)でも見てみよう。大林は福永の小説『草の花』映画化をライフワークとしていたが、実現には至らなかった。恭子プロデューサーは監督の死後、「できることならあと2作撮らせてあげたかった。思い入れのあった福永武彦の『草の花』と檀一雄の『リツ子その愛・その死』。それができなくなってしまったのは残念です」と語った。『草の花』もまた、船で海を渡る場面がある。

『人と海と』

自由人よ、君は常に海を愛するだろう!
海は君の鏡、波の無限に揺れやまない
繰返しに、君は自分の魂を映すだろう、
そして君の精神も、そのにがさは深淵に劣ることはない。

君は自分の面影に進んで身を沈めよう、
君はこの面影を瞳に腕に抱きしめる、そして胸に
苦しげに燃え上がる想いさえ、ふと紛れよう、
野獣のように人馴れぬ波の哀歌に。

暗い心の持主で、君等の口は共にかたい。
人よ、誰が君の深淵の奥底までを知るだろう、(再版:奥底までを測っただろう、)
海よ、君のひそかに隠す財産を知る者はない、
それほど一途(いちず)に、君等は自分の秘密を守るだろう!

しかも君等は悔(くい)も感じず、憐れみもなく、
力の限り闘い合った、劫初(ごうしょ)の遠い昔から、
死と殺戮とにそれほど君等の血は乾く、
おお永遠の闘争者、憎しみとけぬこの同胞(はらから)!

【出典:福永武彦編集「ボードレール全集 I」1963年 人文書院刊】

大林監督の遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』では中原中也の詩が沢山引用され、ランボーの詩『永遠』も登場する。中原中也の訳では以下の通り。

『永遠』

また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。

【出典:「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫】

有名な小林秀雄の訳は、

また見つかった、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。

【出典:ランボオ「地獄の季節」岩波文庫】

このランボーの詩は、ジャン=リュック・ゴダールの映画『気狂いピエロ』でも引用されている。

ここでランボーが言う「永遠」とは、「神」とかプラトンが説いた「イデア」とかいった不変不動のものじゃない。太陽は水平線の彼方にゆっくりと沈み、波も絶えず詩人の方に押し寄せる。つまり「永遠」とは永久機関のように動き続けるものなのだ。

命は海からやってきた。胎児は羊水の中で時を過ごす。羊水の塩分濃度はほぼ海水に等しく、人間の子供は母の内なる海から生まれてくると言える。人が海に向き合う時、彼は原初の自分をそこに見るのだろう。

物質の最小単位は「素粒子」であり、「量子(quantum)」ともいう。「量子」は粒子の両方の性質を持っている。光は光子という(素粒子)で出来ている。同時にの性質も持つ。波長の違いで我々は「色」を認識する。波長が短ければ「青色」に見え、波長が長ければ「赤色」に見える。 音もであり、波長が長い(周波数が低い)と低音に、短い(周波数が高い)と高音に聞こえる。なお、周波数とは単位時間あたりの振動数である。つまり海を見つめることは、根源的な量子論に思いを馳せることでもある。そこには生の本質がある。大林監督はそれを〈自由な心〉と表現した。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが言うところの〈生成変化〉である。

『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の登場人物、山倉(竹内力)と室田(三浦友和)が初めて出会うのは広島県福山市鞆の浦にある港で、次のような会話を交わす。

山倉「初めて見る海はいいもんだ」
室田「毎日眺めてもいいもんだ」
山倉「……ということは、あなたはこの街の方で」
室田「……ということは、お前さん旅の人だね」

また映画の最後に、大林監督のナレーションが入る。

確かに僕は海を見た。
ひとりぼっちで見た。
あのさびしい海は
本当に海だったのだろうか?
しかし、たとえそれが嘘の海であり
この物語が空想の物語であったにしろ
それはそれで良いのだろう。
たとえ物語が絵空事であるにせよ
この恋の想いだけは
確かに僕のものなのだから。

海は心の鏡であり、人はそこに恋の想いを映し出す。

また今年の京都国際映画祭で久しぶりに大林映画『四月の魚』に再会した。主演&音楽は元YMOの高橋幸宏。高橋は『海辺の映画館 キネマの玉手箱』にも“ファンタ爺”役で出演している。四月の魚ーポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)とはサバのことである。やはり海が関わっている。

『四月の魚』の主人公は「汚れっちまった悲しみに」と口ずさみ、中原中也の詩『一つのメルヘン』を暗唱する。

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄(いままで)流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

光子は水滴に変換され、「さらさら」とになって流動する。ここに大林映画の真髄がある。

僕の現在の職場からは瀬戸内の海が見える。多分、無意識のうちに導かれて、ここに辿り着いたのだろう。そして毎朝、海辺に来ての音に耳を傾ける。それは正に、大林宣彦とのひそかなる対話なのである。

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2020年8月21日 (金)

大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」

評価:A+

Umibe

公式サイトはこちら。2019年11月24日(日)に広島国際映画祭で観た時のレビューはこちら。このとき僕は大林監督に握手をして頂いた。車椅子姿だった。

本作を一言で評するならカオス、混沌である。いきなり宇宙船から見た青い地球の姿が画面に現れ、やがて2019年尾道の映画館をワームホール(抜け道)として、武士の時代へとタイムリープ(時間跳躍)する。このぶっ飛び方は橋本忍(脚本・監督)のカルト作『幻の湖』を彷彿とさせる。

本作は歌って踊るミュージカルであり、無声映画、トーキー、アクション、チャンバラ(剣劇)、ターザンなどの要素がごった煮になっている。正におもちゃ箱をひっくり返したようなハチャメチャぶり。闇鍋をつつく感覚で次に何が飛び出すか判らない。初めて大林映画を観る人なら目を大きく見開き、戸惑い、頭が混乱するだろう。アヴァンギャルド(前衛)だ。そういう意味において、大林監督の16mm自主映画『EMOTION=伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(1967)への回帰とみなすことも可能だろう。

あまりにも投入された情報量が多すぎて、一回観ただけでは脳内で処理しきれない。僕も二回目で漸く全体像を把握することが出来た。

登場する時代・歴史的人物を順不同で挙げよう。

  • 秀吉に切腹を命じられた千利休
  • 宮本武蔵 対 佐々木小次郎「巌流島の決闘」
  • 新選組による芹沢鴨暗殺
  • 近江屋での竜馬暗殺
  • 戊辰戦争(白虎隊/娘子隊の悲劇)
  • 長岡藩の藩士小林虎三郎による米百俵
  • 西郷隆盛と西南戦争
  • 大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)
  • 満州事変と川島芳子・李香蘭(山口淑子)
  • 日中戦争
  • 沖縄戦
  • 広島への原爆投下

登場する映画監督は、

  • マリオ・バーヴァ『白い肌に狂う鞭』(馬場鞠男:主人公)
  • フランソワ・トリュフォー『恋のエチュード』(鳥鳳介)
  • ドン・シーゲル『ダーティハリー』(団茂)
  • 小津安二郎(『東京物語』『晩春』演じるのは手塚眞)
  • 山中貞雄(『人情紙風船』演じるのは犬童一心)
  • ジョン・フォード(『駅馬車』『捜索者』演じるのは大林宣彦)

明らかにオマージュを捧げている映画たち

  • 稲垣浩監督『無法松の一生』(園井恵子が出演)
  • アルフレッド・ヒッチコック『見知らぬ乗客』(割れた眼鏡に映る映像)
  • ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』(ランボーの詩『永遠』の引用)
     また見付かつた。 
     何がだ? 永遠。
  • スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(スターチャイルド)
  • 新藤兼人『さくら隊散る』『ヒロシマ』(遺稿シナリオ)

そして自作からの引用ー登場人物の名前(『転校生』斉藤一美、『時をかける少女』芳山和子、『さびしんぼう』橘百合子、『HOUSE ハウス』ファンタ)、映像(『マヌケ先生』『その日のまえに』)。

因みに本作の舞台となる映画館〈瀬戸内キネマ〉は過去の大林映画『麗猫伝説』『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群れ』にも登場する。但し『麗猫伝説』では撮影所の名称として。

また一人の俳優が何役も演じるという手法は手塚漫画におけるスターシステム(詳細は手塚治虫公式サイトのこちら)を彷彿とさせる。大林監督は以前ブラック・ジャックを映画化(『瞳の中の訪問者』)しているし、息子の手塚眞が本作に出演しているのも決して偶然ではない。

〈過去→現在→未来〉という通時的流れ、順を追った直線的時間の概念は本作で通用しない。『海辺の映画館』は共時的(元々はフランスの言語学者ソシュールの用語)だ。過去・現在・未来は同時にここにある。死者も生者も共存する世界。それが混沌の正体だ。共時性は過去作『さびしんぼう』や『はるか、ノスタルジィ』『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群れ』『異人たちとの夏』『この空の花 長岡花火物語』でも認められる特徴である。

映画で過去は変えられないが、未来は変えられるかも知れない。大林監督の願いーそれは執念と言い換えても良いーが本作にはこめられている。観客は単なる傍観者であることを許されない。「映画の中に入っておいで。そしてあなたも行動しなさい、立ち止まっていては駄目だ。いいかい?よーい、スタート!」という掛け声が聞こえる。そして永遠に「カット」の声は掛からない。恐ろしい作品である。

〈追記〉『海辺の映画館』を観てびっくりしたのは、沖縄戦における日本軍による沖縄住民虐殺が描かれていたこと。寝耳に水で、これは果たしで史実なのだろうか?と疑問に思った。そこで調べてみると、ちゃんと沖縄県の公式ホームベージに「住民虐殺」についての県の見解が公表されているのを発見した。こちら。また『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞した佐木隆三(著)『証言記録 沖縄住民虐殺―日兵逆殺と米軍犯罪』も読み、『海辺の映画館』で描かれたことがちゃんと事実に基づいていることを確信した。

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2020年6月 6日 (土)

祝サブスク解禁!!山口百恵の魅力について語り尽くそう。〈後編〉

本記事は、

の続きである。

【プレイバック】1978年5月にリリースされプレイバック Part2」は作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童の夫婦コンビ作。元々はディレクターの発案で「プレイバック」というタイトルが先に決められ、やはり阿木燿子の作詞で馬飼野康二が作曲した「プレイバック Part1」と宇崎が競作し、宇崎の方が採用された。「Part1」は翌月に発売されたベストアルバムに収録されたが、シングルカットはされていない。両者を聴き比べれば優劣は歴然としている。

【秋元康】秋元康が放送作家を経て、作詞家としてデビューしたのは1981年だった。しかしその1年前に山口百恵は引退していた。

作詞家・秋元康は小泉今日子(「なんてったってアイドル」)や美空ひばり(「川の流れのように」)に間に合ったが、山口百恵には間に合わなかった。彼にはずっと「山口百恵に詞を提供したかった」という、くやしい気持ちが付きまとっているような気がして仕方がない。

秋元がAKB48グループを作り、東京、名古屋、大阪、博多、新潟、瀬戸内、海外へと組織を拡大していったのも、「公式ライバル」として乃木坂46や欅坂46など坂道シリーズをプロデュースしたのも、その原動力として「第二の山口百恵を発見し、育て、世に送り出したい」という強烈な欲望があったのではないだろうか?

山口百恵の才能は日本テレビ系列で放送されていたオーディション番組「スター誕生!」で見い出された。しかし「スター誕生!」は1983年9月に幕を閉じ、平成に入ると単体としてのアイドル歌手が全く売れない時代となった。つまり「スター誕生!」の代替として考案されたオーディションおよびアイドル育成システムがAKB48であり、坂道シリーズだったのではないか、と僕は考える。

【「黒い天使」ー山口百恵と前田敦子を結ぶ点と線】AKB48の一期生・前田敦子が東京ドーム公演(の翌日に開催されるAKB48劇場での公演)をもってグループを卒業したのが2012年8月、そのとき彼女は山口百恵が引退した年齢と同じ、21歳だった。シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)である。

AKB48 チームAの劇場公演5th Stage「恋愛禁止条例」において秋元康は「黒い天使」(Spotifyではこちら)という曲を作詞した。3人のユニット曲で、前田敦子がセンターで歌った。

山口百恵のプレイバック Part2」は、真紅(まっか)なポルシェを飛ばしている女が、カーステレオを掛けると、ラジオから「勝手にしやがれ 出ていくんだろ」と流れてくるのでPlay Back (巻き戻して!)と叫ぶ。これは沢田研二が前年(1977)に歌った「勝手にしやがれ」(作詞:阿久悠)に呼応している。その歌詞の中で「やっぱりお前は出ていくんだな」とある。つまり状況として「プレイバック Part2」は男と喧嘩した女が夜中に家を飛び出し、運転する車上で心情を歌っている。一方、「黒い天使」は夜の渋滞する高速道路で男と喧嘩をした女が助手席のドアを開けて車を降り、ヒールを脱いでトボトボと車道を歩いている時のやけっぱちな心情を歌っている。構造が似ていると思いませんか?

今回のサブスク一斉解禁で初めて知り、心底驚いたことがある。1975年8月28日から31日まで開催された新宿コマ劇場における「第1回百恵ちゃん祭り」で、山口百恵はロック・ミュージカル「黒い天使」に取り組んでいたのである(音源はこちら)。このとき彼女はダウン・タウン・ブギウギ・バンドのヒット曲「スモーキン・ブギ」と「カッコマン・ブギ」を歌い、これが切っ掛けで今後歌いたい作曲家として宇崎竜童の名を挙げた。そして翌年に名曲「横須賀ストーリー」が誕生したのである。遂に山口百恵と前田敦子が繋がった!

秋元康は前田敦子に、山口百恵の面影をなんとか重ねようとしていた。しかし、あっちゃんは結局、百恵ちゃんにはならなかった。

また三期生の渡辺麻友が卒業する時に秋元が提供した楽曲「11月のアンクレット」の振付で、渡辺は最後にマイクをステージ中央に置き、後方に去る。言うまでもなく山口百恵さよならコンサート@武道館の再現である。しかし、まゆゆも百恵ちゃんではなかった。

こうして秋元は、まるで玩具に飽きた子供のように、急速にAKB48グループへの関心を喪失していった。

【大林宣彦再登場】AKB48のシングル「So long !」(センターはまゆゆ)ミュージック・ビデオの監督として秋元康は大林宣彦を起用した。ここで大林は自身の映画「この空の花 -長岡花火物語」の続編としてこのMVを仕上がっていたのだからぶっ飛んだ!なんと上映時間64分、破格の長さである。AKBファンは呆れ果てた。しかし秋元は大林の身勝手・大暴走を容認した。多分そこには「山口百恵を育て、見守った監督だから」という畏敬の念があったからではないだろうか?

【平手友梨奈】そんな状況下に、突如として救済の天使が現れた。平手友梨奈である。彼女を見て、誰しも目を見張った。醸し出す雰囲気が山口百恵そっくりだったからである。「山口百恵の再来」「平成の山口百恵」と世間で騒がれた。

Silent

僕は彼女なら、大林監督のライフワーク、福永武彦原作『草の花』のヒロイン、藤木千枝子を演じられるのではないかと思った(以前、尾美としのりと富田靖子主演で企画されていた)。しかし大林監督は既に病魔に侵され、結局『草の花』映画化は実現に至らなかった。

平手をセンターに据えた欅坂46のデビュー曲「サイレントマジョリティー」(動画はこちら)は気合が入っていた。秋元康の最高傑作と評しても過言ではない。またTAKAHIRO(上野隆博)の振付が凄かった。曲の途中で平手を旧約聖書のモーセに見立て、紅海を2つに割り、民を約束の地へ導く場面を描くのである(出エジプト記)。この解釈はTAKAHIROの発言もあり、間違いない。モーセは預言者であり、預言者とは神の言葉を人に伝える仲介者。日本で言えば巫女に相当する。つまり、秋元は平手=巫女と見立てていた。言うまでもなく彼女が仲介する女神とは山口百恵のことである。

実際に平手は巫女みたいな少女で、楽曲に没入するあまりトランス状態となり、ステージから転倒落下することもあった。2017年12月31日のNHK紅白歌合戦で「不協和音」をパフォーマンスしたときも過呼吸で倒れ、照明が暗くなってから他のメンバーに運ばれる事態となった。

平手がソロで歌った「渋谷からPARCOが消えた日」に、山口百恵「横須賀ストーリー」 「プレイバック Part2」「絶体絶命」のイメージが投影されていると感じるのは僕だけではあるまい。

秋元の平手に対する偏愛っぷりは常軌を逸していた。いくら平手以外のメンバーのファンたちから非難を浴びても、決して平手=絶対センターを譲らなかった。共犯者TAKAHIROは「二人セゾン」(動画こちら)の振り付けの最後に、平手以外のメンバー全員を欅の木=オブジェに変えてしまった。最早このグループは〈平手友梨奈と愉快な仲間たち〉状態であった。ファンが怒るのも無理はない。アルフレッド・ヒッチコック映画『めまい』でジェームズ・スチュワートが演じた主人公の狂気を、僕は秋元康の中に見た。彼は山口百恵の亡霊に取り憑かれていた(『めまい』のスコティはある事件がきっかけで高所恐怖症になり、警察を辞めて私立探偵となった。そこへ友人からの依頼で彼の妻マデリンを尾行するが、彼女は鐘楼の頂上から飛び降り自殺する。それからしばらく経ち、自責の念から神経衰弱に陥っていたスコティは街角でマデリンに瓜二つの女性ジュディを見かけ、彼女を追う。やがてふたりは親しくなるが、スコティは次第に正気を失い彼女の洋服、髪型、髪の色をマデリンと同じにしようと画策し始める……)。

2017年6月24日に幕張メッセで行われていた全国握手会ではナイフを持った男による襲撃未遂事件が発生、逮捕された犯人は「殺そうと思った」と供述した(容疑者が挙げた名前について警察は「言えない」としたが、平手が参加したレーンに並んでいた)。

「どうしていつも、てち(平手の愛称)ばかり優遇されて、私はセンターになれないの?」と運営に涙ながら訴えて、辞めていくメンバーもいた。

センターに立つ平手の背中を、他のメンバーの嫉妬に満ちた鋭い視線が射抜く。また前方客席からは「どうしてお前なんだ?」という怒気を帯びた圧が彼女を襲い、四方八方からズタズタに引き裂く。AKB48の絶対センター=前田敦子の心臓は意外と強かったが、満身創痍の平手友梨奈は次第に壊れていった。

それでも秋元康はその執着を緩めることなく、どんどん彼女を追い詰めた。次第にグループ内で孤立していく平手の心情を「不協和音」の歌詞に託し、「僕は嫌だ!」と絶叫させた。劇場版『さよなら銀河鉄道999』に登場したキャプテン・ハーロックならさしずめこう呟くだろう。「鬼だな…」

2018年の平手は体調が優れず、コンサートの休演が続き、その年末の紅白歌合戦も不参加。なんとか19年末の紅白には出演したがやはり過呼吸となり、パフォーマンス直後に倒れた。そして2020年1月23日、グループを(卒業ではなく)「脱退」することが電撃的に発表された。もう限界だった。しかし平手がやっぱり何かを「持っているな」と感じたのは、彼女が脱退した直後に新型コロナウィルスが日本を直撃し、「会いに行けるアイドル」というビジネス自体が崩壊してしまったこと。絶妙なタイミングだった。

こうして紫式部『源氏物語』の宇治十帖で、薫から亡くなった大君(おおいきみ)の人形(ひとがた;身代わりの人)として、その面影を重ねられた浮舟が入水自殺を図ったように、アイドル歌手・平手友梨奈は消え去った。しかし2020年秋に映画『さんかく窓の外側は夜』への出演が発表され、彼女は女優・平手友梨奈として再生しようとしている。果たして現代の薫=秋元康は、それでも浮舟=平手を追い求め続けるのか?今後のふたりの行く末を、しっかりと見届けたい。You ain't heard nothin' yet. (お楽しみはこれからだ。)

さて、ここまで書いてきたことを、読者の皆さんはひとりの男の単なる妄想だと失笑されるだろうか?

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2020年6月 2日 (火)

わが心の歌〈番外編〉祝サブスク解禁!!山口百恵の魅力について語り尽くそう。

Spotify, Apple Music, Amazon Music Unlimitedなど定額制音楽配信(サブスクリプション)サービスで聴けないアーティストたちが何人(組)かいる。

しかし2018年9月1日に井上陽水が、続いて同年9月24日に松任谷由実(ユーミン)、2019年8月31日に星野源、同年9月18日にPerfume、12月20日からサザン・オールスターズの全楽曲がサブスク解禁になった。僕は「もう残る大物アーティストは中島みゆき、米津玄師、山下達郎、RADWIMPS、そして山口百恵くらいだな」と思った。

ところが新型コロナウィルス蔓延により、多くの人々が自宅待機の生活を余儀なくされたことをきっかけに、まずRADWIMPSが2020年5月15日からサブスクを解禁した。漸く『君の名は。』や『天気の子』のサウンドトラック盤もサブスクで聴けるようになったのである。

そして5月29日に突如、山口百恵の全楽曲600曲以上がサブスクで一斉配信となった!!僕は狂喜乱舞した。彼女の引退から40年、待ちに待ったこの日が遂に来た。こうして今後の懸案事項は米津玄師、中島みゆき、山下達郎だけとなった。

Momo

僕は小学生の頃、百恵ちゃんが大好きだった。彼女一筋だったと言ってもいい。百恵ちゃんの引退とともにすっかり芸能界に興味を失い、代わってクラシック音楽や映画に夢中になるようになった。そして高校生の時、劇場で観た原田知世主演、大林宣彦監督の『時をかける少女』に衝撃を受けたわけだが、後に大林監督と山口百恵が浅からぬ縁だったことを知ることになる。

今の若い人は山口百恵のことなんか全く分からないだろうから、これを機会に彼女の魅力、そして後世にどれだけ甚大な影響を与えたかについて語り尽くそうと思う。彼女の強烈な輝きは、秋元康とか、元・欅坂46の平手友梨奈にまで波及することになる。

【来歴】山口百恵は1959年東京都渋谷区に生まれ、幼少期を神奈川県横須賀市で過ごした。だからホリプロのイメージ戦略上、「横須賀出身」ということになっている。彼女の歌う楽曲に「横須賀ストーリー」「横須賀サンセット・サンライズ」など横須賀を強調しているのはそのためである。また三浦友和との結婚式当日にリリースした32枚めのシングル「一恵」の作詞は横須賀恵となっており、百恵のペンネームである。作曲は「いい日旅立ち」の谷村新司。

彼女が生んだ長男がシンガーソングライターの三浦祐太朗(36)。全曲、山口百恵の楽曲をカヴァーしたアルバム「I'm HOME」をリリースし、レコード大賞企画賞を受賞した。次男は俳優の三浦貴大(34)で、大河ドラマ『いだてん』や、NHK連続テレビ小説『エール』に出演している。

【伝説のアイドル】山口百恵を伝説化している一つの要因として、純愛を貫き一人の男だけを愛し、21歳という若さで華やかなスポットライトから遠ざかって、その後一切老いた自分の姿をマスコミに見せないということもあるだろう(現在61歳)。こうした生き様の前例は女優のグレタ・ガルボと、小津安二郎の死去直後に引退した原節子くらいしかない。みじくも美しく燃え。桜の散り際のような潔さは、日本人の琴線に触れるのだ。

【大林宣彦】1973年5月21日に「としごろ」で歌手デビューしたが、実はその前に彼女はCMディレクターとして活躍していた大林宣彦監督と面会している。14歳だった。同年9月1日に発売された2枚目のシングル「青い果実」はかなりきわどい、アブナイ歌詞になっている。ドキッとする。後に〈青い性路線〉と呼ばれた。それは翌74年6月1日に発売された5枚目のシングル「ひと夏の経験」で頂点に達し、レコード大賞・大衆賞および日本歌謡大賞・放送音楽賞に輝き、その年末に「NHK紅白歌合戦」の紅組トップバッターとして初出場を果たした。なお大林監督が百恵に会ったのは、その当時から構想を練っていた映画『さびしんぼう』のヒロインを探していたのである(12年後に富田靖子主演で実現する)。

74年夏に放送されたグリコプリッツのCMで百恵は三浦友和と初めて出会った。演出したのは大林宣彦であった。ふたりが共演するグリコCMはその後長年続き(動画はこちらこちら)、同時に『伊豆の踊子』『潮騒』『春琴抄』『風立ちぬ』など名作文学の映画化でも百恵・友和は共演し(計12作)、「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。ふたりの共演作『泥だらけの純情』で併映されたのが大林監督劇場デビュー作『HOUSE ハウス』(1977)。そして大林が監督した映画『ふりむけば愛』(1978)がリメイクでも原作付きでもない、ふたりにとって初めてのオリジナル作品となった。

ふたりが恋をしていることにはじめて気がついたのは大林監督であり、それはCMの撮影を通してだった(詳細は監督の著書を参照されたい)。そして『ふりむけば愛』のサンフランシスコ・ロケに際して監督は一日だけ撮影のない休暇日を設けて、ふたりに自由な時間を与えた。つまり大林監督こそが恋のキューピットだったのである。そして1979年10月20日、大阪厚生年金会館のコンサートで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と百恵は恋人宣言を突如発表し(20歳)、80年10月5日に日本武道館で開催されたファイナルコンサートをもって引退した。歌唱終了後、彼女はマイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩み去った。この仕草がさらなる伝説を作った。さよならコンサートは現在、Blu-rayで鑑賞出来る。

【赤いシリーズ】百恵はTBSのテレビドラマ『赤い疑惑』『赤い運命』『赤い衝撃』『赤い絆』と4作品〈赤いシリーズ〉に主演した。父親役は大方が宇津井健で、『赤い疑惑』『赤い衝撃』では三浦友和と共演した。物語展開が奇想天外(『赤い運命』は伊勢湾台風で家族が生き別れになり、検事の娘と元殺人犯の娘が赤ん坊の時に入れ替わりとなって育てられる。『赤い衝撃』はスプリンターが銃撃により半身不随となる)で、演技が大仰な、いわゆる大映ドラマであり、後に堀ちえみの『スチュワーデス物語』が一世を風靡した(「教官!」「ドジでのろまなカメ」が流行語となった)。特に『赤い衝撃』は演出家として大映映画の増村保造(『妻は告白する』『黒の試走車』『赤い天使』『陸軍中野学校』)が関わっており、大映ドラマの礎を築いたと言えるだろう(『スチュワーデス物語』も増村が演出している)。僕はこの〈赤いシリーズ〉が大好きで、毎週見ていた。また1978年に百恵が主演し、TBSで放送されたテレビドラマ『人はそれをスキャンダルという』は三國連太郎や永島敏行が共演し、大林宣彦が演出を担当した。

【阿木燿子/宇崎竜童】歌手として山口百恵が全盛期を築いたのは間違いなく作詞家・阿木燿子、作曲家・宇崎竜童(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)という夫婦によるコンビとの出会いから始まる。1976年の「横須賀ストーリー」を皮切りに、78年「プレイバック Part 2」ではNHK紅白歌合戦で史上最年少となるトリを務めた(日本レコード大賞にノミネートされたが、受賞したのはピンク・レディーの「UFO」)。この頃の百恵の歌唱は、とにかく艶っぽい。しかしマリリン・モンローを代表とするセックス・アピールとは全然方向性が違っていて、強いて言えば〈健康的な色香〉がある。「プレイバック Part 2」でも未だ19歳なのだから恐るべし。こんなに大人びた10代のアイドルを僕は他に知らない。77年リリースの「夢先案内人」はアラビアン・ナイトの世界に迷い込んだような綺羅びやかな色彩感がある。これは原田知世によるカヴァーも良い(こちら)。そして僕がイチオシの歌は「夜へ…」。1979年4月1日に発売されたアルバム「A Face in a Vision」に収録されている。元々はNHK特集『山口百恵 激写/篠山紀信』のために制作されたもので、これはDVDで観ることが出来る。こちらもお勧め!

Gekisha

夜へ…」を愛聴するきっかけになったのは相米慎二監督の映画『ラブホテル』(1985)。公開された年にヨコハマ映画祭で第一位に輝いた。劇画作家・石井隆が脚本を書き、村木と名美という名の男女が登場する一連の作品群の一本。相米作品としては『台風クラブ』や『光る女』の方が優れていると思うが、『ラブホテル』で「夜へ…」が静かに流れる場面はゾクゾクした。Jazzyでノワール。

夜へ…」で阿木燿子の詞は連想ゲームを彷彿とさせる単語の羅列で始まる。まるで呪文のような妖しさが漂う。なんて素敵なんだろう!

【さだまさし/谷村新司】さだまさし作詞・作曲「秋桜」は1977年、谷村新司 作詞・作曲「いい日旅立ち」は78年にリリースされた。いずれも、さだや谷村にとっての最高傑作と言える。そういう曲を贈りたくなる魅力、オーラが山口百恵にはあるのだろう。「いい日旅立ち」は国鉄(現在のJR)の旅行誘致キャンペーン・ソングとしてCMなどに使われた(動画はこちら)。やはり大林監督が手掛けている。「秋桜」も「いい日旅立ち」も陰りのある曲調だ。こういうのが百恵にはよく似合う。しかし決して暗くなり過ぎない。これが中森明菜とか華原朋美だと、病的になる。薬漬けとか自殺未遂まで行くと、洒落にならない。引いてしまう。一方、百恵の場合は〈程よい健康的な陰り〉なのだ。

【菩薩】1979年に評論家の平岡正明は『山口百恵は菩薩である』を著した。後に広末涼子主演の映画『20世紀ノスタルジア』を撮った原将人監督は「広末涼子は女優菩薩である」と絶賛したが、これは平岡の著書を意識したものだろう。また写真家・篠山紀信が1970年代に最も多く撮った女性は百恵であり、彼女を「時代と寝た女」と称した。

【その後の友和】三浦友和は大林監督の劇場デビュー作『HOUSE ハウス』に友情出演し、百恵と結婚後も『彼のオートバイ、彼女の島』『野ゆき山ゆき海べゆき』『日本純情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』『なごり雪』『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』など大林映画の常連として活躍した。また大林監督の自伝的映画『マヌケ先生』では本人役(馬場鞠男)を演じた。

【わが心の歌】ここで僕が考える山口百恵の歌、ベスト12を選出しておこう。

長くなったので続きは後編へ。To Be Continued ...

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2020年4月25日 (土)

TBSラジオ「アフター6ジャンクション」追悼特別企画への投稿:大林宣彦監督の思い出

僕と大林映画の出会いは、高校二年生だった1983年5月4日、日本テレビ「水曜ロードショー」で放送された「転校生 」でした。大林宣彦自ら再編集したもので、当時の大林映画では冒頭部に必ず「A MOVIE」と表示されていましたが、本作の冒頭は「A TELEVISION」と銘打たれていました。劇場版にはない音楽(臨海学校にバスで向かう場面でシベリウス「カレリア」組曲〜行進曲)が追加されたりもしました。「この監督の映画はすごく面白い」と思い、同年7月16日から上映された「時をかける少女」を満員の映画館に観に行って、打ちのめされました。白黒で始まり、次第に画面中央から色づき始め、タイトルが登場する場面でフルカラーに。この時点で僕は滂沱の涙を流しており、「この監督を信じて生きていこう」と決意していました。

「さびしんぼう」が公開された年に大学に入学し、ロケ地巡りをするために尾道に何度も行きました。今考えれば「聖地巡礼」の走りですね。当時、大林組の拠点になっていたジャズ喫茶TOMで大林監督ご本人にお会いして「いつか見た映画、いつか見た夢。」と走り書きされたサインを頂いたり、TOMのマスターから連絡を貰い、福山市・鞆の浦で撮影中だった「日本純情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群れ」のロケを見学する機会を得たりもしました。

また大林監督の「廃市」を観て、原作者・福永武彦の大ファンになり、20代は福永文学を読み耽りました。福永の息子が芥川賞作家・池澤夏樹で、そのお嬢さんが声優の池澤春菜さん、最近何度もアトロクに出演されていますね。

その後、公式ファンクラブ「OBs Club」が組織され入会、大林監督の自伝的映画「マヌケ先生」では尾道でエキストラとして出演したりもしました(まもなく解散)。宇多丸さんも御存知の通り、「マヌケ先生」の映像は遺作「海辺の映画館 キネマの玉手箱 」に引用されています。

大林監督に最後にお会いしたのは昨年11月24日、広島国際映画祭2019で「海辺の映画館」が上映された時でした。車椅子姿でかなり体力が衰えていらっしゃいましたが、しっかり握手をしてくださいました。

「時をかける少女」から37年。大林映画と出会っていなかったら僕の人生は随分と色あせたものになっていたでしょう。大林監督、本当にありがとうございました。ただ心底残念に思うのは、監督のライフワークだった檀一雄の小説「花筐」の映画化は実現しましたが、もうひとつの念願だった福永武彦の小説「草の花」映画化が叶わなかったことです(一時期、尾美としのり・富田靖子主演で企画されました)。しかし大林チルドレンと呼ばれる監督たち(細田守・岩井俊二・手塚眞・犬童一心ら)の誰かが、その想いを継いでくれるのではないだろうか、と秘かに期待しています。

なぜなら、大林監督の劇場映画デビュー作「HOUSE ハウス」最後のモノローグにこうあるのです。

ーたとえ肉体が滅んでも、人はいつまでも誰かの心の中に、その人への想いとともに生き続けている。だから愛の物語はいつまでも語り継がれていかなければいけない。愛する人の命を永遠に生きながらえさせるために。ー

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以上、(ラップグループ)RHYMSTER 宇多丸がパーソナリティーを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」(通称:アトロク)、【さよなら大林監督。追悼特別企画<第1回 大林宣彦映画 総選挙>】へ僕が投稿したメールの内容である。

総選挙の順位は上記事に書いた通り。僕個人の密やかなベストテンも挙げておこう。

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  1. はるか、ノスタルジィ
  2. 日本純情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群れ
  3. 時をかける少女
  4. 廃市
  5. 野のなななのか
  6. なごり雪
  7. EMOTION 伝説の午後=いつか見たドラキュラ(1967年 16mmフィルム)
  8. HOUSE ハウス
  9. 麗猫伝説(1983年 TV用映画)
  10. 彼のオートバイ、彼女の島

断腸の想いで次点を新・尾道三部作の第1作「ふたり」とする。同じ赤川次郎原作「あした」も是非観てください。

「転校生」(1982年版)と「さびしんぼう」を入れなかったのは、追悼記事で旧・尾道三部作のことばかり取り上げられるから。その後も沢山の傑作を撮っておられるのです。TV用映画「可愛い悪魔」「恋人よわれに帰れ LOVER COMEBACK TO ME」も忘れ難い。

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2020年4月24日 (金)

TBSラジオ「アフター6ジャンクション」presents:さよなら大林監督。追悼特別企画<第1回 大林宣彦映画 総選挙>

(ラップグループ)RHYMSTER 宇多丸がパーソナリティーを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」(通称アトロク)で【さよなら大林監督。追悼特別企画<第1回 大林宣彦映画 総選挙>】という番組があり、有効投票総数148通で以下の順位が発表された。

  1. 時をかける少女
  2. さびしんぼう
  3. 青春デンデケデケデケ
  4. ふたり
  5. 転校生 (1982年版)
  6. この空の花 長岡花火物語
  7. HOUSE ハウス
  8. 異人たちとの夏
  9. はるか、ノスタルジィ
  10. 花筐/HANAGATAMI

僕は「はるか、ノスタルジィ」に1票を投じた。

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以下、アトロクに投稿したメール内容である。

僕のオールタイム・ベストワンは大林宣彦監督「はるか、ノスタルジィ」です。北海道・小樽市には数回ロケ地巡り(今で言う「聖地巡礼」)に行きました。劇中、重要な場面となる「はるかの丘」も発見しました。物語はこうです。

東京で小説家になった中年の主人公・綾瀬慎介(ペンネーム)は数十年ぶりに故郷・小樽を訪ねる。そこで「はるか」という少女と、バンカラ姿の学生・佐藤弘に出会う。それは青年時代の綾瀬自身だった(佐藤弘は本名)。

これはユング心理学でいうところの無意識に存在する子供元型(The Child Archetype)に遭遇する物語であり、最後に自我(意識)と元型(無意識)は融合され、自己実現に至ります。本作にはどんなに年令を重ねても、人は変われるというメッセージが込められています。

大林監督は常々、「僕はベテランの18歳」と仰っており、監督の心の中には純粋無垢な少年時代の自分、つまり子供元型が生きているということなのですね。

画面には50歳の自分と、学生時代の自分が同時に存在しています。つまり本作は時間の流れに即した「通時的」映画ではなく、「共時的」映画です(フェリーニ「8 1/2」、ベルイマン「野いちご」のように)。過去と現在、そして未来が同時に「ここ」にある。他の大林映画、例えば「さびしんぼう」でも認められる特徴です。

ヒロイン「はるか」は、どうやら綾瀬が昔恋していた三好遥子(みよしようこ)の娘ではないかということが次第に明らかにされていきます。

そして綾瀬は「はるか」の髪型を「遥子」に似せようと画策し始めます。これが、宇多丸さんが大林監督との対談で指摘されたようにヒッチコックの「めまい」そっくりなんですね。宇多丸さんの発言でハッと気がついたのですが、オープニング・クレジットで「はるか」がクルクル回転するのも「めまい」へのオマージュになっています。

物語の最後に綾瀬は「はるか」と結ばれますが、彼女が綾瀬の娘であった可能性も残されている。なんと仄暗く、罪深い映画でしょうか!宇多丸さんの仮説、「時をかける少女」における深町くん昏倒レイプ犯説に通じるものがあります。故に「めまい」同様の異常心理を含めて、「はるか、ノスタルジィ」は大林監督の本質に迫る作品だと僕は思うのです。

さらに詳しいことは下記事に書いた。

番組内で宇多丸は「はるか、ノスタルジィ」について〈背徳的な〉〈世間的な良識から言うとなかなかなタブーに触れる〉〈ちょっと妖しい、危うい〉〈結構危険な、ヤバイ話〉とコメントした。全く同感である。ジークムント・フロイトの提唱する〈エディプス・コンプレックス〉とは、身も蓋もない言い方をすれば〈お母ちゃんとセックスをしたい〉願望、潜在意識を指すが(コンプレックス=心的複合体)、本作は〈娘コンプレックス〉を描いていると解釈出来る。危険な誘惑だ。なお、大林監督は手塚治虫について、〈シスター・コンプレックス〉の作家と評している。その典型例が初期作「ロスト・ワールド」だ。

ただ、今僕が考えているのは、「はるか」は綾瀬にとって、ユング心理学における〈アニマ〉なのではないか?という解釈である。それは自分の無意識に存在する元型・魂の一部であり、ゲーテが言うところの〈永遠に女性的なるもの〉を指す。「ファウスト」におけるグレートヒェンであり、ダンテ「神曲」におけるベアトリーチェだ(さらに言えば宮崎駿「風立ちぬ」の菜穂子)。

つまり映画「はるか、ノスタルジィ」の最後に主人公・綾瀬慎介(=大林宣彦)の自我(ego)は、それまで忘却の彼方にあった子供元型(プエル・エテルヌス:永遠の少年)と融合し、さらに「はるか」=アニマ(魂)とも結合を果たし、自己実現を成し遂げた。実に美しい、ハッピー・エンドではないだろうか?

思えばこれこそが、あなたが永遠に願った真実の恋の勝利というものではなかっただろうか?さびしんぼうよ、いつまでも。
おーい、さびしんぼう。  

(映画「さびしんぼう」より)

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2019年12月27日 (金)

大林宣彦監督「海辺の映画館ーキネマの玉手箱 Labyrinth of Cinema」

11月24日(日)広島国際映画祭2019で大林宣彦監督「海辺の映画館 キネマの玉手箱」を鑑賞。

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評価:A-

上映時間179分、ほぼ3時間。途中、休憩(Intermission)が挟まれる仕様になっているのだが、映画祭では一気に上映された。

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英題は"Labyrinth of Cinema"。

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元々、英題は"Arabesque"にしようと監督は考えておられたようだが、〈アラベスク〉だとイスラム文化を連想させるので、現在の米国と中東諸国のギクシャクした関係を考慮するなら望ましくないと渉外担当者から意見されたそう(赤川次郎×大林宣彦  対談「三十年後の“ふたり”」小説新潮11月号より)。

尾道の映画館〈瀬戸内キネマ〉 で戦争映画のオールナイト興行を観ていた若者3人が銀幕の中にさまよい込み、戊辰戦争・日中戦争・沖縄戦・広島への原爆投下を体験するという物語。

〈瀬戸内キネマ〉が登場するのは大林監督がテレビ〈火曜サスペンス劇場〉枠で撮った「麗猫伝説」(1983)、「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」(1988)に続き、3作目である。 「麗猫伝説」では撮影所の名称だったが、「おかしなふたり」から映画館の名前になった。映画は通常1巻が10−15分程度のフィルムを2台の映写機で切り替えながら上映する。しかし〈瀬戸内キネマ〉には1台の映写機しかなく、「流し込み上映」をする。詳しくはこちら。これはアカデミー外国語映画賞を受賞したイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」も同様である。

〈大林映画はピアノ映画である〉と看破したのは映画評論家の故・石上三登志氏である(「野ゆき山ゆき海べゆき」「彼のオートバイ、彼女の島」でナレーションを担当)。僕はそれに〈大林映画は海の映画である〉を加えたい。監督の古里・尾道でロケされた一連の作品は勿論のこと、京都で撮られた「姉妹坂」にも、九州で撮られた「なごり雪」「22才の別れ」「花筐/HANAGATAMI」にも海は登場する。

若者3人の名前は馬場鞠男、鳥井鳳助 、団茂 。馬場毬男(ばばまりお)は大林監督が大好きなイタリア映画ホラー界の巨匠マリオ・バーヴァ(血塗られた墓標、白い肌に狂う鞭、モデル殺人事件!)のもじりであり、鳥鳳助 (とりほうすけ)↔フランス・ヌーベルバーグのフランソワ・トリュフォー(大人は判ってくれない、恋のエチュード)、団茂(だんしげる)↔アメリカのドン・シーゲル(ダーティハリー、ラスト・シューティスト)といった具合。「HOUSE ハウス」(1977)で劇場用映画デビューする際に、「ホラー映画を撮る時は馬場鞠男、恋愛映画なら鳥井鳳助 、アクション映画なら団茂というペンネームを用いよう」という計画が当初あったそうだ。大林宣彦少年をモデルにした内藤忠司監督の映画「マヌケ先生」(2001)で厚木拓郎くんが演じた役名が馬場毬男で、今回も厚木くんが同役で出演している。

「海辺の映画館 キネマの玉手箱」の回想シーンとしてふんだんに「マヌケ先生」の映像が引用されていたので驚いた。毬男少年は尾道でジョン・フォード(駅馬車、黄色いリボン)によく似た映画監督に出会うのだが、その謎めいたアメリカ人を大林監督が怪演している。また「海辺の映画館」でも怪しいピアニストとして即興的にショパン「別れの曲」などを弾く。大林監督がヒッチコックみたいに自身の映画に出演するのはYMOの高橋幸宏主演「四月の魚(Poisson d'avril /ポアソン・ダブリル)」(1986)以来かな?高橋幸宏も久しぶりに「海辺の映画館」に登場。「異人たちとの夏」(1988)の友情出演が最後だから、もう30年以上経っている。

とにかくぶっ飛んでる。クレイジーだ。そういう意味で劇場デビュー作「HOUSE ハウス」や、16mmの自主映画「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ 」(1966)への原点回帰を感じさせる。 「海辺の映画館」には中原中也の詩が多数引用されるのだが、

お太鼓叩(たた)いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます

という詩「六月の雨」は「いつか見たドラキュラ」にも登場する。

主人公が武士の時代にタイムスリップしたり、はたまた最後は宇宙船まで登場するという奇想天外な構成は、橋本忍(原作・脚本・監督)の「幻の湖」(1982)を彷彿とさせる。

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東宝創立50周年記念作品でありながら、主人公がトルコ嬢(現在のソープランド嬢)だったり、戦国時代に飛んで織田信長に会ったり、最後はスペースシャトルが出てきたりといった内容に観客が全くついて行けず、公開から2週間と5日(東京地区)で打ち切られることとなり長い間本当に「幻の作品」になった曰く付きのトンデモ映画である。しかし1996年にニッチな雑誌「映画秘宝」(2020年に休刊が決まった)で取り上げられてからはむしろカルトになり、今では容易に観ることが出来る(Amazon Prime Videoでも有料配信中)。「海辺の映画館」は間違いなく「幻の湖」に似ている。ただし誤解のないよう強調しておきたいのだが、僕は「幻の湖」が嫌いじゃない。ゲラゲラ笑いながら愉しく鑑賞した。

大林映画は〈共時的〉である。過去も現在も未来も、〈いま・ここ〉にある。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」(by フェデリコ・フェリーニ)

詳しくは下記事で論じた。

映画鑑賞前に、せっかく広島に来たのだからと映画にも登場する〈桜隊〉慰霊碑にお参りした。

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広島で被爆したこの移動劇団に所属していたのが園井恵子。岩手県出身で宝塚歌劇団では男役として活躍した。退団後に映画「無法松の一生」で吉岡夫人を演じた。その後東京で苦楽座に参加、苦楽座は解散後〈桜隊〉に再編された。新藤兼人監督(広島市出身)「さくら隊散る」という映画もある。関係者の証言と劇映画パートが渾然一体となっており、どちらかというとドキュメンタリー・パートの方に比重が大きい(2:1くらい)。「海辺の映画館」の前に「さくら隊散る」を観ておけば、より立体的に作品を味わうことが出来るだろう。「海辺の映画館」で園井を演じた常盤貴子も同じ日の朝、この慰霊碑を訪ねたそう(トークショーの模様はこちらをご覧ください)。

そもそも「海辺の映画館」の出発点に新藤兼人の遺稿シナリオ「ヒロシマ」がある。「(原爆投下の瞬間)一秒、二秒、三秒の間に何がおこったかをわたしは描きたい。五分後、十分後に何がおこったか描きたい。それを二時間の長さで描きたい。一個の原爆でどんなことがおこるか」と新藤は書き残している。「ピカ、ドンの二秒間に人々の物語がある」と大林監督。

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上の写真は平和記念公園にて。真ん中に原爆ドームが写っているの、分かりますか?

「僕たちは歴史の過去を変えることは決して出来ないが、映画で歴史の未来を変えることは出来るかも知れない。映画を見た人、一人一人が一人一人の努力でもって平和を導いてけば、きっと世界の平和をたぐり寄せることが出来る。きっと平和な世の中を実現することが出来る。これが僕の考えるハッピーエンド」大林監督の言葉である。その信念と執念が、異常なほどの熱量を孕み、「海辺の映画館」に満ち溢れ、煮えたぎっている。

ただ映画の中で描かれる、沖縄戦で日本軍の兵隊が沖縄の住民を虐殺するエピソードが引っ掛った。初めて耳にする話だが、これは果たして根拠のある事実なのだろうか?大林監督「この空の花 長岡花火物語」での、韓国のいわゆる従軍慰安婦に対する言及同様の違和感を覚えた(彼女たちについて気の毒だとは思うが、日本軍が強制連行したという証拠は一切見つかっていないわけで、日本人が謝罪する必要はないだろうというのが僕の意見である。朝鮮戦争やベトナム戦争において韓国軍も慰安所を公認していたわけだし)。歴史的見解の相違だ。

上映当日、大林監督に「ヒロシマ平和映画賞」が授与されたのだが、「ハウス HOUSE」で映画デビューした女優の松原愛さんが花束を手渡した。後で松原さんのお話を伺うことが出来たのだが、彼女は「ハウス HOUSE」映画版で(7人の少女のうち)ガリ役だったが、その前にプロモーション(メディアミックス)として放送されたラジオドラマ版ではマック役だったと。詳しくはこちら

「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」はアスミック・エースの配給で2020年4月に劇場公開が予定されている。

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