大指揮者列伝

2018年7月20日 (金)

シリーズ【大指揮者列伝】ジョン・バルビローリ「バルビ節とは何か?」

ジョン・バルビローリ(1899-1970)はイギリスの指揮者。ロンドンに生まれた。本名ジョヴァンニ・バッティスタ・バルビロッリから推察される通り、父はイタリア人、母がフランス人である。つまり実際はイギリス人の血が一滴も流れていない

Barbirolli

実は彼が得意とするフレデリック・ディーリアスも「イギリスの作曲家」ということになっているが、両親の生まれはドイツで、オランダ系の血筋であった。父ユリウスがイングランドに移り住んだのは羊毛商人として一旗揚げるためであり、息子が作曲家になることに反対した父は彼に羊毛業を継がせようとし、それが駄目と解ると今度はオレンジのプランテーションを学ばせるためにアメリカのフロリダに送り出した。そこで生まれたのが「フロリダ組曲」である。閑話休題。

さて、サー・ジョンはチェリストとして音楽活動を始め、エルガーのチェロ協奏曲を演奏したりもした。その後指揮者に転向、30歳の若さでニューヨーク・フィルの首席指揮者に就任した。1943年イギリスに戻り、地方都市マンチェスターにあるハレ管弦楽団の音楽監督にとなった。当時は戦争中で、徴兵のために33人まで減っていた楽員の補充を女性中心に始め、手塩にかけて育成した。両者の親密な関係は彼の死まで27年間続いた。70年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団を率いて来日する予定だったが、その直前に心臓発作で急逝した。

サー・ジョンの指揮の最大の特徴は3つ挙げられるだろう。

  1. 慈愛
  2. カンタービレ cantabile
  3. 没入感

1)音楽が慈しむように奏でられる。そこにサー・ジョンの無限の包容力が感じられる。

2)兎に角、よく歌う。それはサー・ジョンに流れるイタリア人と密接に結びついている。つまりカンツォーネのノリだ。彼はヴェルディ「アイーダ」「オテロ」、プッチーニ「蝶々夫人」など、イタリア・オペラを得意とした。巷で言われる「バルビ節」の正体は、ずばりこのカンタービレのことである。

3)問答無用、聴けば分る。

では代表的名盤を挙げよう。全てナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)で聴くことが出来る。

  • エルガー:チェロ協奏曲
    (独奏:ジャクリーヌ・デュ・プレ、ロンドン響)
  • シベリウス:交響曲第2番(ロイヤル・フィル)
  • 「イギリス弦楽合奏作品集」エルガー:序奏とアレグロ ほか
    (シンフォニア・オブ・ロンドン)
  • ディーリアス:管弦楽曲集「夏の歌」「夏の庭で」ほか
    (ロンドン響、ハレ管)
  • マーラー:交響曲第9番(ベルリン・フィル)
  • ブラームス:交響曲第2番、ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲 第6番
    (バイエルン放送交響楽団)

エルガーの協奏曲はジャクリーヌの性格も相まって、正に「一音入魂」とはこの録音のためにある言葉だと確信させられる。没入感が凄まじい。怖いくらいだ。ーみじかくも美しく燃えー 聴く度にタジタジとする、一世一代の名演。

サー・ジョンは手兵のハレ管とシベリウスの交響曲全集を録音している。ただ残念なのはハレ管は所詮、2.5流のオーケストラであり、聴いていてどうも居心地が悪い。だから英国のレーベル・EMIはもっと格上のオーケストラ、例えばニュー・フィルハーモニア管(二流)とか、ロンドン響(一流)と組ませようと、涙ぐましい努力をした形跡がある。ブラームスの交響曲全集では天下のウィーン・フィル(超一流)を用意した。日本で言えばロンドン響=NHK交響楽団/東京交響楽団、ハレ管=関西フィル/大阪フィルと考えてもらえば理解し易いだろう。ニュー・フィルハーモニア管はさだめし、京都市交響楽団あたりかな。

今回挙げたロイヤル・フィルとのシベリウス2番は演奏の質もすこぶる良いし、何よりも米国チェスキー・レーベルによる録音が圧巻である。アナログ時代に於ける最高峰と断じても過言ではない。火の玉のように熱く燃え上がるシベリウスで、未だに同曲のベストだろう。「名曲名盤300 ベスト・ディスクはこれだ!」などを読むと、時々バルビローリ/ハレ管のシベリウスを挙げる批評家は見かけるが、このチェスキー盤に言及する人は皆無である。「貴方たちの耳は節穴か!」と言いたい。

「イギリス弦楽合奏作品集」は豊穣な響き、弦の粘りに魅了される。これはサー・ジョンが元々チェリストであったことと無関係ではあるまい。特にエルガーの序奏とアレグロは超絶的名演。涙が出る。心を鷲掴みにされる体験をどうぞ。

夏といえばディーリアス。そこに異論を差し挟む余地はない。そしてサー・ジョンのディーリアスは慈しむように育まれた音楽の果実であり、たおやかで滋味に富む。彼の優しく、情け深い人格が滲み出ているかのようだ。「夏の歌 A Song of Summer」「夏の庭で In a Summer Garden」ーもう最高。

Song

サー・ジョンはベルリン・フィルとライヴでマーラーの交響曲第1番から6番までを演奏している。1964年、第9番のセッション・レコーディングは彼の客演を体験し、感動した楽員からの熱心な要望で実現したという。カラヤン/ベルリン・フィルのマーラー初録音は1973年の第5番なので、それよりもずっと前のことになる。当時サー・ジョンはEMIと、ベルリン・フィルは独グラモフォンと専属契約を結んでいたので、グラモフォンがオケをEMIに貸し出すという形で実現した。弦の強奏が印象的。

バイエルン放送響との録音は1970年4月10日。サー・ジョンが亡くなるのが同じ年の7月29日である。これほど歌心に満ち溢れたブラームスを僕は他に知らない。時折彼の唸り声が聴こえる。因みにレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第8番はサー・ジョンに献呈され、彼が指揮するハレ管が初演した。

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2018年6月29日 (金)

シリーズ【大指揮者列伝】クリストフ・フォン・ドホナーニを知っていますか?

クリストフ・フォン・ドホナーニは1929年ドイツで生まれた。祖父はハンガリーの著名な作曲家エルンスト・フォン・ドホナーニ。父ハンス・フォン・ドホナーニは1902年ウィーンに生まれ、ドイツで法律家となり、反ナチスのレジスタンス活動に身を投じた。ヒトラー暗殺計画に加担したためキリスト教神学者だった叔父ともども1945年4月8日に強制収容所で処刑された。享年43歳。ドイツが無条件降伏したのは6月5日、たった2ヶ月後のことである。2003年イスラエルは彼の功績を讃え、ヤド・ヴァシェム(ホロコースト)記念館の壁にドホナーニの名を刻んだ。

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(↑ハンス・フォン・ドホナーニ生誕100年を記念したドイツの切手)

父がナチスに殺された時、クリストフは15歳だった。彼の解釈に何か音楽を突き放して見つめているような冷めた視線を感じるのは、恐らくその根底に人間不信があるからではないかと僕は考えている。感情移入した(emotional)とか、情熱的(passionate)といった言葉とは対極にある芸術諦念虚無感が支配する世界と言い換えても良いだろう。なおクリストフの兄クラウスは政治の道に進み、ハンブルク市長を務めた。超エリート一家である。

辰巳渚
辰巳渚

クリストフ・フォン・ドホナーニはウィーン・フィルと英デッカにメンデルスゾーン:交響曲全集、ベルクのオペラ「ヴォツェック」「ルル」など夥しい録音を行ったが、恐らく1995年のブラームス/シェーンベルク編:ピアノ四重奏曲第1番 他のCDが最後だろう。その後両者の関係はプツリと途絶えてしまう。1984-2002年にクリーヴランド管弦楽団の音楽監督、97-08年にフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者を務めた。2004年から北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者となったが、だんだん携わるオケの質が低下していると感じるのは僕だけだろうか?

悲惨だったのがデッカにクリーヴランド管弦楽団と全曲レコーディングしようとしたワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」4部作だ。序夜「ラインの黄金」は93年12月に、第一夜「ワルキューレ」は92年11月に録られた。デッカとしてもショルティ/ウィーン・フィル(1958-65)以来、久々(2度目)のスタジオ録音になる筈だった。しかし計画は途中で頓挫、第二夜「ジークフリート」以降は実現しなかった。なんと中途半端な!前代未聞の醜聞(スキャンダル)!!

結局デッカとの契約はあと5年残されていたのに、首を切られてしまった。人気がなくCDが全く売れなかったとはいえ、酷い話だ。新譜が出ないから日本でも忘れ去られ、近年では「え、未だ生きてたの?」「引退したんじゃない?」とSNSで囁かれる始末。88歳、バリバリの現役です。ヘルベルト・ブロムシュテットより2歳若い。2018年もパリ管の指揮台に立っている。

どっこい生きている。

ドホナーニの特徴はまず明晰であること。セッション録音の技術も相まってだろうが解像度が高く、オーケストレーションの細部まで隈無く聴こえる。見通しが良く非常に精緻だ。そしてバーンスタインとか大植英次みたいな「オレ流」、つまり主観的表現ではなくあくまで客観的。音楽そのものに語らせる。ドホナーニは作品(楽譜)になにも足さないし、なにも引かない。タメとか外連味とかとは無縁で、大見得を切ったりはしない。でも、神は細部に宿る。だからといって冷え切った(cold)とか、よそよそしいということもない。せいぜい人肌程度の温もりはある。レニーみたいに熱くならないだけだ。日本酒で喩えるなら凍結酒ではなく、「ぬる燗」。

彼の指揮するブラームス:交響曲第1番 第1楽章は「ダ・ダ・ダ・ダン」という「運命」の動機(モティーフ)が、他の指揮者の誰よりも鮮明に聴こえてくる。だからこそこのシンフォニーが「ベートーヴェンの第10交響曲」と呼ばれる理由が了解出来るのだ。因みに調性はハ短調であり、ベートーヴェンの第5番と同一。アーノンクールは「死を意味する調性」だと語っている。

クリーヴランド管とはブルックナーのシンフォニーを3−9番まで録音した。贅肉を削ぎ落としたスリムな響きで、淀むことなく素っ気ないくらいサクサク進む。鈍重でソース焼きそばのようにこってりした朝比奈隆の信者(ブルヲタ←ほぼ全員男性)が多い日本で、決して粘らず、あっさり爽やか透明な彼のブルックナーは「物足りない」「神々しさがない(←そもそもドホナーニはキリスト教の神を信じていない)」「こんなのブルックナーじゃない!」と非難轟々、散々こき下ろされた(ドホナーニは塩焼きそば。或いは朝比奈=豚骨ラーメンに対する、ざるそばと評しても良いかも知れない)。しかしフルトヴェングラー、カラヤン、ベーム、ヴァントなど重厚な大巨匠の時代が終わり、「颯爽とした」「軽い」ピリオド・アプローチ(アーノンクール、ガーディナー、ノリントン、ラトル、ミンコフスキ、パーヴォ・ヤルヴィ、ロト、クルレンツィスら)の洗礼を受けた21世紀のいま見直すと、新鮮な驚きや発見がある。そろそろドホナーニも再評価されて良いのではないだろうか?

それにしてもドホナーニ時代クリーヴランド管の鉄壁のアンサンブルは驚異的だ。ジョージ・セルの死後、ロリン・マゼール統治下の低迷期を抜けて、第2の黄金期を築いたと言っても過言ではなかろう。

最後に推薦ディスクをご紹介しよう。本来ならドホナーニを語る上でオペラは外せない。ベルク「ヴォツェック」「ルル」そしてR.シュトラウス「サロメ」「エレクトラ」といったところが代表的演目だろう。しかしオペラを聴覚のみで鑑賞することは決してお勧めしない。歌詞対訳なしでは十分な理解を得られないし、その条件を満たす(日本語で書かれたテキストが付随する)国内盤CDを入手することは現在、ほぼ不可能だ。というわけで、彼が振るオペラをお愉しみになりたければDVDでご鑑賞ください。

更にクリーヴランド管とレコーディングしたブルックナー交響曲集や、ベートーヴェン&ブラームス交響曲全集のCDは現在極めて入手困難な状況である。そもそも今やCDを買う時代ですらない握手券としてのCDの価値は唯一の例外とする)。それは既に骨董品収集家(マニア)=化石人類の領域だ。世界の趨勢はダウンロードや配信サーヴィスであり、未だにCDが売れているのは日本だけ。(アイドル・ヲタ以外の)日本の高校生の殆どがCDを一度も買ったことがないというのが実情である。故に推薦アルバムはiTunesでダウンロード出来たり、Amazon MusicやNaxos Music Library (NML)で聴けるものに絞った。

  • メンデルスゾーン:交響曲全集 ウィーン・フィル
    (強いて一曲に絞るなら「スコットランド」)
  • ドヴォルザーク:交響曲 第7−9番 クリーヴランド管
    (強いて一曲に絞るなら「新世界より」)
  • ベルリオーズ:幻想交響曲 クリーヴランド管
  • バルトーク/ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲 クリーヴランド管
  • ショスタコーヴィチ:交響曲 第10番 クリーヴランド管
  • マーラー:交響曲 第6番 クリーヴランド管

ショスタコーヴィチはヒリヒリするくらい非情で無機質。スターリン政治の恐怖が浮き彫りにされる。ベルリオーズにファンタジーは皆無で、あちらこちらから研ぎ澄まされた狂気が迸る。また眼前に寂寞として荒涼たる景色が果てしなく広がるマーラーを聴きながら心に浮かぶのは、ダンテ「神曲」地獄篇に登場する《この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ》という銘文である。余談だが、未完に終わったマーラーの交響曲第10番 第3楽章は楽譜に「プルガトリオ(煉獄)」と書かれている。マーラーがダンテを読んでいたことは間違いない。

さて、次回のシリーズ【大指揮者列伝】はイギリスの指揮者ジョン・バルビローリ(Sir John)を取り上げる予定。「バルビ節」とは何か?を紐解いていこう。7月中には記事をupしたい。何しろ夏といえばディーリアスの季節だから。

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2016年3月11日 (金)

シリーズ【大指揮者列伝】帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンの審美眼

まずこの記事を書くに当たり、僕のヘルベルト・フォン・カラヤンに対する立場を明確にしておこう。

僕がクラシック音楽を聴き始めた小学校高学年の頃、当時クラシック音楽ファンはカラヤン派とベーム派に真っ二つに分かれていた。丁度カール・ベームがウィーン・フィルを率いて来日公演していた時期で、FMでベートーヴェンの交響曲第5番、6番を聴いて僕はベームに魅了された。一方でカラヤンがベルリン・フィルと1975年に録音したチャイコフスキー:交響曲第5番のLPレコードを購入したのだが、あまりにも磨きぬかれた人工的な響きに、聴いていて途中で気持ちが悪くなった。ある意味メタリックであり、ゴテゴテと着飾った娼婦のようでもあった。そのレコードは2度と掛けなかった。

カラヤンは楽壇の帝王と呼ばれたが、反面彼ほど《アンチ》がいた指揮者も空前絶後だろう。しかし《アンチ》を生むのは絶対的人気を誇るカリスマだからこそ。これはプロ野球に喩えれば分かりやすいだろう。《アンチ》読売ジャイアンツは桁外れに多いが、《アンチ》横浜ベイスターズなんて聞いたことないでしょ?指揮者だって《アンチ》金聖響とか知らない。実力のない者は話題にもならず、無視されるだけ。《アンチ》=人を嫌いになるには膨大なエネルギーを要するし、その対象となる人物も強大なパワーを持っていることが必須なのである。「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」である。

さて本題に入ろう。カラヤンはスタジオ(セッション)・レコーディングにこだわり、膨大な数の音源を残した。そのライブラリーはオーケストラの《名曲大全》になっていると言っても過言ではない。スッペの「軽騎兵」序曲とかウェーバー「舞踏への勧誘」、ワルトトイフェル「スケーターズ・ワルツ」、マスネ「タイスの瞑想曲」などの小曲から、「双頭の鷲の旗の下に」などドイツ・オーストリア行進曲集(吹奏楽!)、レオンタイン・プライスを独唱に迎えた「きよしこの夜」などクリスマス・アルバムまで。珍曲としては大砲や銃声の効果音付きでベートーヴェンの「ウエリントンの勝利(戦争交響曲)」とかもある。

録音技術の進歩に伴い、カラヤンは繰り返し自分の得意とするレパートリーを録り直した。ベートーベンとブラームスの交響曲全集は4回、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」に至っては計7回もセッション録音を残している(さらに映像が2回)。

コンパクトディスク(CD)はソニーとフィリップスにより共同開発された。CD初期の最大収録時間(74分42秒)を決めるに際し、当時ソニーの副社長だった大賀典雄は親交のあったカラヤンに相談した。彼の答えは「ベートーヴェンの第九が1枚に収まったほうがいい」だった。デジタル時代になってからも一通り再録音している。もの凄い執念だ。

カラヤンはオーストリアのザルツブルクで生まれた。モーツァルトと同郷である。しかしモーツァルトの交響曲は第29番以降しか録音しなかった。これは彼が契約していたドイツ・グラモフォンがカール・ベーム/ベルリン・フィルの組み合わせて既に全集を出していたことと関係があるのかも知れない。そんなに収益が見込める企画ではないからね。

彼はまた、シューベルトやシューマン、チャイコフスキー、ブルックナーの交響曲全集をレコーディングしている。

ところが面白いことにマーラーについては交響曲第4、5、6、9番と「大地の歌」しか録音していない。彼がナチスに入党していたというのは歴史的事実であり、ユダヤ人のマーラーに対して偏見があったのでは?という憶測もあるが、同じユダヤ人作曲家メンデルスゾーンは交響曲全集を出しているので蓋然性を欠く。上記した以外のマーラーの交響曲は冗長で、取り上げるのに値しないと判断したと考えるべきだろう。

ラフマニノフはピアノ協奏曲 第2番しか録音していない。第3番もパガニーニの主題による狂詩曲も交響曲も全て無視である。ラフマニノフの交響曲は散漫で構成に問題があるので、カラヤンのお眼鏡に適(かな)わなかったのだと思われる。

カラヤンはシベリウスの交響曲、特に後期の第4-7番を得意とした。作曲家の吉松隆がシベリウスに私淑しているのは有名だが、彼が高校1年生の時に聴いて作曲家を志す契機になったのはカラヤン/ベルリン・フィルが1967年に録音した交響曲第6番だった。カラヤンは後期交響曲を複数回レコーディングしている。しかし第3番だけは一度もタクトを振らなかった。サイモン・ラトルは先日ベルリン・フィルとのシベリウス交響曲全集をリリースしたが、なんと2010年2月9日の演奏がベルリン・フィルにとっての第3番初演だったそうである。シベリウスの第1、2番はチャイコフスキーからの影響があり、第4番以降はソナタ形式や4楽章形式を捨てて音楽はフィンランドの自然と同化してゆく。丁度第3番はその過渡期にあり、作品としての魅力が乏しい。

レスピーギは「ローマの松」「ローマの噴水」を録音しているが、「ローマの祭り」は取り上げず。恐らく終曲「主顕祭」の馬鹿騒ぎが耐え難かったのであろう。

また非常に興味深いのがショスタコーヴィチとの関係である。カラヤンは生涯に2度、交響曲 第10番をスタジオ・レコーディングしている。しかし彼がショスタコーヴィチの他の交響曲を録音したことは一切ない

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上の写真は1969年5月29日、モスクワ音楽院大ホールにおけるカラヤンとショスタコ。この日のプログラムも第10番だった。つまりこのシンフォニーのみが、彼が価値を認めた作品ということになる。

一般にショスタコで一番知られているのは第5番(俗称「革命」)だろう。売上のみを考えるなら10番より5番の方がレコード会社は喜ぶ。しかしカラヤンは信念を曲げなかった。僕も第5番は軽薄で安っぽい曲だと思う。断然10番の方がいい。この点で彼を支持する。

カラヤンが生涯取り上げなかった曲を探っていくことで、彼のこだわりや美意識が見えて来るのである。

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2016年3月 9日 (水)

シリーズ【大指揮者列伝】音楽の革命家ニコラウス・アーノンクールの偉業を讃えて

2016年3月5日に指揮者のニコラウス・アーノンクールが亡くなった。享年86歳だった。彼が引退を表明したのは昨年12月5日。直筆で「聴衆のみなさまへ。私の身体の力が及ばないため、今後の計画を断念いたします」「舞台に立つ私たちと会場のお客様の間には特別の深い関係が生まれました。私たちは共に幸せな発見をして来ました」とメッセージが綴られていた。それから丁度3ヶ月。僕は宮﨑駿(脚本・監督)映画「風立ちぬ」のヒロイン・菜穂子のことを想い出した。菜穂子は自分の死期が近いと悟ると堀越二郎の元を離れ、サナトリウム(富士見高原療養所@長野県)にひとりで戻り、ひっそりと息を引き取る。真に美しい最後であった。

アーノンクールってどんな人?と尋ねられたとしよう。一言で言うなら「古楽器演奏のパイオニアのひとり」であり、「モダン・オーケストラによるピリオド・アプローチ(ピリオド奏法)の創始者」である。彼はクラシック音楽界に革命をもたらした。

アーノンクールはドイツのベルリンで生まれ、オーストリア南部グラーツで育った。ウィーン交響楽団のチェロ奏者として活躍し、53年にウィーン交響楽団のメンバーで「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を結成(ヴァイオリン奏者の妻アリスも参加)、初の公開コンサートは1957年に行われた。

彼は第21回京都賞の受賞スピーチで次のように回想している。「1954年にパウル・ヒンデミットがウィーンでモンテヴェルディの『オルフェオ』を上演しました。コンツェントゥス・ムジクスの弦楽器奏者は全員、楽器を総動員して参加しました。これが私とモンテヴェルディとの最初の出会いでした」ピリオド楽器による世界初録音であり、現在はCDで入手出来る。

ベルギーでレオンハルトとクイケン兄弟がラ・プティット・バンドを創設したのは1972年である。イギリスでデヴィッド・マンロウとクリストファー・ホグウッドがロンドン古楽コンソートを創設したのが1967年(マンロウが33歳の若さで急逝した76年に解散)、ホグウッドがエンシェント室内管弦楽団を創設したのが1973年、ピノックがイングリッシュ・コンソートを創設したのも同年。ノリントンがロンドン・クラシカル・プレイヤーズを、ガーディナーがイングリッシュ・バロック・ソロイツを創設したのが1978年である。またオランダに目を転じると、トン・コープマンがアムステルダム・バロック管弦楽団を創設したのが1979年、ブリュッヘンが18世紀オーケストラを創設したのが1981年だった。

つまりウィーン・コンツェントゥス・ムジクスは世界最古の古楽器オーケストラであると言っても過言ではない。

それまでどこかの貴族の家に眠っていたピリオド(古)楽器をひとつひとつ譲ってもらい、これらの楽器の演奏方法(当時は誰も知らなかった)を研究していく、という途方もない作業を繰り返した。オークションに出品された楽器を競り落とすこともあったという。

アーノンクールは1969年までウィーン交響楽団のチェリストとして務めた。つまりウィーン・コンツェントゥス・ムジクス創設から16年間、二足の草鞋を履いていたわけだ。

1962年に録音されたヘンデル/リコーダー・ソナタ集ではアンナー・ビルスマ(チェロ)も、フランソワ・ブリュッヘン(リコーダー)もモダン楽器を使用している。ブリュッヘンはフツーにヴィブラートを掛けており、この時代には未だ古楽器奏法は手探り状態だったようだ(ビルスマは1962-68年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者だった)。これが69年に録音されたトリオ・ソナタになるとブリュッヘンにアリス・アーノンクール(ヴァイオリン)、ニコラウス・アーノンクール(チェロ)が加わり、全員古楽器になっているので60年代に奏法がほぼ確立されたと考えて間違いない。

僕がアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏を初めて聴いたのはヴィヴァルディの「四季」である。独奏はアリス・アーノンクール。76-77年の録音で、《衝撃の四季!》のキャッチコピーとともに「レコード芸術」誌で広告を見かけたのが小学校6年生の頃だった。あまりにも革新的だったので、当然推薦盤にはならなかった(今では信じられないだろうが、カルロス・クライバー/ウィーンpo.のベートーベン:交響曲第7番も無印だった。時代が彼らに追いつくためには時間を要したのである)。

僕が初めてクラシック音楽を好きになったのは小学校4年生の時、母が所有していた「四季」のLPレコードを聴いたのが切っ掛けだった。演奏はフェリックス・アーヨ/イ・ムジチ合奏団。59年のステレオ録音である。当時は「四季」といえばイ・ムジチで、クラシック・レコードの月間売上げランキングでも常にロベルト・ミケルッチ/イ・ムジチ(69年録音)のLPがトップを独走していた。そもそも現代ではヒットチャート・トップテンに「四季」が入ることもないよね。70年代は空前のブルックナー/マーラー・ブームが到来する前夜であった。閑話休題。

アーノンクールの「四季」を聴いて、天地がひっくり返った。特に激烈なインパクトだったのが雨の降る情景を描いた「冬」第2楽章である。アーノンクールの演奏時間は1分14秒。僕が慣れ親しんできたイ・ムジチの演奏は2分40秒。なんと倍以上の速さだったのである!とても同じ曲だとは信じられなかった。通奏低音もイ・ムジチがチェンバロであったのに対し、アーノンクール盤はポジティフ・オルガン。「こんなのあり!?」の驚きから、「音楽って自由なんだ!」という開眼へ。それは正にElectric Liberation =電気的啓示であった。僕は声を出して笑った。

今日ではイ・ムジチの「四季」を聴くクラヲタなんかいない。彼らの存在は最早、冗談のネタでしかない。その後に登場したビオンディ/エウローパ・ガランテやカルミニョーラ/ヴェニス・バロック・オーケストラ、アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコといった古楽器による新鮮な「四季」もアーノンクールなくしてはあり得なかったと断言出来る。全ては彼から始まったのである。

しかし晩年の成熟し落ち着いた解釈と比べると、70年代の「四季」は攻撃的で硬い演奏という印象が拭えない。肩に力が入っているのだ。あの時代のアーノンクールは古楽器演奏に対する世間の偏見と戦い、目の前に立ちはだかる壁を何としても突破してやる!という激しい闘争心に燃え、完全武装していたということなのだろう。彼がこの曲を再録音しなかったことが惜しまれる。

1980年代に入るとアーノンクールの新たな挑戦が始まった。モダン・オーケストラに古楽器奏法を取り入れるピリオド・アプローチの試みである。まずは名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を起用してモーツァルトやハイドンの交響曲をレコーディングした。弦楽器はノン・ヴィブラートで弾き、トランペットはピストン/バルブのないナチュラル管を用いるという方法論が確立された。

1990年にヨーロッパ室内管弦楽団と録音したベートーヴェンの交響曲全集にアーノンクールは次のようなコメントを残している。

私たちの録音の中で、ナチュラル・トランペットだけが歴史的な響きを持っています。理由は、トランペットは単なる楽器であるだけでなく、ある種のシンボルでもあって、全てのファンファーレ動機音型があるひとつの響きを要求するものであるからです。もし仮にモダン・トランペットで「高らかに鳴り響く」音を要求された場合、それは大きすぎる音量で演奏されることになります。それを正しい音量で演奏すると今度はファンファーレとしての性格が失われてしまいます。 ナチュラル・トランペットを使えばこうした問題は起きないのです。

ピリオド・アプローチ革命をオランダから開始したということには非常に意味がある。彼の国は古楽のメッカであり、アンナー・ビルスマがいてアムステルダム・バロック管弦楽団や18世紀オーケストラがあった。ハーグ王立音楽院には古楽科があった(日本からは寺神戸亮、若松夏美、鈴木秀美、有田正広らが留学)。つまりピリオド・アプローチを受け入れ易い土壌があったのである。

アーノンクールが初めてウィーン・フィルを指揮したのが1993年、ベルリン・フィルとの初顔合わせは1995年であった。ベルリン・フィルと良好な関係が持てたのは帝王カラヤンが89年に亡くなり、90年からシェフがクラウディオ・アバドに交代したことが大きい。また93年から98年までコンサートマスターを務めたライナー・クスマウル(現ベルリン・バロック・ゾリステン芸術監督)の指導下にベルリン・フィルはバロック・ボウ(弓)を揃え、オーケストラぐるみでそれがもたらす演奏効果を学んだ。

アーノンクールの手法をいち早く取り入れた指揮者たちがいた。チャールズ・マッケラス、デイヴィッド・ジンマン、クラウディオ・アバド、サイモン・ラトルらである。バーヴォ・ヤルヴィ、ダニエル・ハーディング、フランソワ=グザヴィエ・ロトらが後に続いた。またブリュッヘン、ホグウッド、ノリントンら古楽の世界の住人たちもモダン・オーケストラに進出していった。

アーノンクールがヨーロッパ室内管弦楽団とベートーヴェン・チクルスに取り組んでいる時、アバドはコンサート会場に足を運んで熱心に研究した。アバドがウィーン・フィルとレコーディングしたベートーヴェン交響曲全集(85-88)とベルリン・フィルとの全集(99−00)とを聴き比べてみて欲しい。あるいはロンドン交響楽団と録音したペルゴレージ:スターバト・マーテル(84)と、モーツァルト管弦楽団との再録音(07)でもいい。演奏スタイルの豹変に誰もが驚くであろう。つまりピリオド・アプローチを取り入れ、オケが小編成になっているのである。

アーノンクールは2001年と03年の2回、ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートに登壇した。遂に彼は世界を手中に収めたのである。レパートリーもシューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、スメタナ、ドヴォルザーク、ブルックナー、そしてガーシュウィン(!!)と広げていった。どうやらマーラーはお気に召さなかったようだ。

アーノンクールの実演を聴いたのは2006年11月、大阪・いずみホールでのモーツァルト:レクイエム。手兵ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを率いての公演だった。これが最初で最後である。しかしあろうことか演奏中に携帯電話がホールに鳴り響いた!本当に申し訳ない気持ちになった(もちろん僕が発信源じゃないよ、念のため)。

僕が今、一番聴きたい音源は2000年にウィーン・フィルとレコーディングしたフランツ・シュミット:オラトリオ「7つの封印の書」(1938年初演)。WARNER TELDECからCDが発売されたが、現在は廃盤。ナクソス・ミュージック・ライブラリー NMLなどの音楽配信もされていない。関係者各位、何とか状況を改善してください。お願いします。

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