子供の情景

再び法師温泉へ!

「また行きたい!」という小学校1年生の息子のたっての希望もあり、年末年始は2年連続、群馬県の法師温泉で4泊5日を過ごした。

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前回も書いたが、僕が法師温泉のことを初めて知ったのは1986年4月26日に公開された角川映画「彼のオートバイ、彼女の島」(大林宣彦監督)を劇場で観た時だった。原田知世の姉・貴和子と竹内力のデビュー作である。

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訪れて初めて知ったのだが、やはり大林監督が演出し高峰三枝子、上原謙が出演した国鉄のCM「フルムーン」(1981年放送)や、映画「テルマエ・ロマエ II」もここでロケされた。

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今冬は全国的に雪不足で、法師温泉も12月28日まで全く積もっていなかったという。しかし寒波の到来で僕らが宿に着いた29日にはすっかり白銀の世界に変貌していた。近くにある赤沢スキー場は翌30日から営業を開始した。

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上写真の法師乃湯だけではなく、野趣あふれる露天風呂の玉城之湯もある。雪が深々と降りしきる中、笠をかぶり入る湯は格別の味わいがある。朝6時頃入浴すると、湯船から有明の月が見えた。

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
(百人一首 より;坂上是則)

ごうごうと森が鳴る音も聴こえた。

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スキー場には2回訪れた。柔らかい新雪が降り積もる30日に息子の乗るソリはあまり滑らなかったが、根雪でアイスバーンとなった元旦には滑走距離がぐんぐん伸びた。

愉しそうにソリで滑る息子を眺めながら、中学生くらいになって彼に映画「市民ケーン」を観せたら、薔薇のつぼみ(Rosebud)の真相が明らかになる場面で「主人公の気持ち、僕よく分かるわぁ」と言うんじゃないかな、と思った。

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スキー場から宿に戻ると、温めのお湯で悴む手足を癒やした。

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(みそぎ)の感覚。僕は日本の神話(古事記)でイザナギが黄泉の国から地上に戻ってきた際の逸話を思い出した。彼が左の目を洗った時に生まれたのが天照大御神(アマテラスオオミカミ)で、右の目からは月読命(ツクヨミノミノミコト)、鼻からは須佐之男命(スサノオノノミコト)が生まれたという。

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【総括】20世紀の芸術(現代美術・現代音楽)とは一体、何だったのか?

僕は20世紀後半(昭和40年代〜平成)を生きてきた。小学校4年生くらいからクラシック音楽を聴くようになったが、当初から不思議に思っていたことがある。

コンサートで演奏されるのは大体19世紀の作曲家(リスト/ワーグナー/ブルックナー/マーラー)までで、20世紀以降の現代音楽は殆ど取り上げられない。強いて言えばストラヴィンスキー「春の祭典」やバルトーク「管弦楽のための協奏曲」など数曲あるが、それでもせいぜい20世紀前半止まりだ。

結局、シェーンベルク/ヴェーベルン/ベルクら新ウィーン楽派、ブーレーズ/ノーノ/シュトックハウゼンらセリー音楽トータル・セリエリズム)といった無調音楽は一般聴衆から拒絶され、コンサートのメイン・プログラムに入れると全く集客出来ず、閑古鳥が鳴くという状況が現在も続いている。

20世紀の聴衆が現代音楽に対して嫌悪感を抱き、そっぽを向いてしまった主な理由として〈シェーンベルクによる十二音技法の発明無調音楽への完全移行〉という流れが挙げられる。はっきり言って、聴いていて心地よくない。不快だ。我々の耳は依然として調性音楽を求めている。では何故、〈作曲家の意志↔聴衆の嗜好〉に埋めようのない乖離が起こってしまったのか?そこにはヨーロッパ人が根強く持つ進歩思想、つまり【芸術は、新しい形式が古いそれに続くという、進歩の状態に絶えずある】と見なす思想が横たわっている。

進歩思想は生物の進化論と深く関わっている。ここで多くの人が持つ誤解を解いておきたいのだが、チャールズ・ダーウィンは進化(evolution)という言葉を使っていない。彼の著書「種の起源」に登場するterm(用語)はmodification(変更・修正・調整)である。種の保存(遺伝)、自然選択(淘汰)、存在し続けるための努力(生存競争)がその理論の根幹を成す。つまりダーウィンは〈遺伝子の突然変異→環境に適応したものが生き残る〉ことを主張しているのであって、その変化は必ずしも進化を意味しない。例えば人間の足の指を考えればいいだろう。使わないから退化している。手指の変化と真逆の関係にあるのだ。

進歩思想の深層にはキリスト教(およびユダヤ教)が潜んでいる。旧約聖書の創世記によると、最初の男アダムは神に似せて造られた。つまり人間は神の似姿であり、成長とともに父親(理想像)に近づかなければならないという強迫観念妄執に彼らは囚われている。これを父性原理という。

1970年代くらいまで欧米人(と西洋かぶれの日本の知識人・エリート大学生)は本気で進歩史観を信じていた。【歴史とは人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程である】と見なす歴史観である。イギリスにおけるホイッグ史観がその代表例で、【歴史とは人類が理性によって現状を克服し、精神の自由を実現させていく過程である】とするドイツのヘーゲル史観や、カール・マルクスによる唯物史観も同様。マルクスにとっての最終形態は共産主義社会の到来であり、その実現(=正義)のためには暴力革命も肯定される。その成れの果ての姿が連合赤軍によるあさま山荘事件であり、(テルアビブ空港乱射やダッカ日航機ハイジャックなど)日本赤軍事件であった。

音楽における進歩思想は【無調音楽という新しい進歩の段階に入ったのだから、いまさら調性音楽という前の段階には逆行出来ない】ということになるだろう。故に20世紀に調性音楽を守ろうとした作曲家たちは「時代遅れ」「ナンセンス!」という烙印を押され、映画音楽やミュージカルなどのジャンルに散っていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、ジョン・ウィリアムズ、ニーノ・ロータ、クルト・ワイル、レナード・バーンスタイン、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド・ウェバー、久石譲らである。

映画音楽に使用したモティーフを流用したコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は1947年に初演されて以降、半世紀に渡って馬鹿にされ、蔑まれ、無視され続けてきた。しかし21世紀に入り漸く調性音楽の復権が進み、日本でもオーケストラの定期演奏会でしばしば取り上げられるようになった。

現代美術においてもは進歩思想が跋扈した。つまり具象を否定し、抽象絵画に走ったのである。そして鑑賞者の共感と支持を完全に失った。このように20世紀における現代音楽と現代美術、そして共産主義国家建設という壮大な実験(と失敗)は完全にリンクしていた

僕に言わせれば芸術における進歩思想は愚の骨頂であり、殆ど狂気の沙汰である。文学や演劇を例に取れば分かり易いだろう。ここで読者に2つ質問をしよう。

  • あなたは紫式部「源氏物語」よりも、村上春樹の小説の方が進歩(進化)していると思いますか?
  • あなたは古代ギリシャ悲劇「オイディプス王」「エレクトラ」やシェイクスピアの作品よりも、現代演劇の方が進歩(進化)していると思いますか?

全くナンセンスな問いだ。それぞれの時代に様式(style)の変化はあるだろう。しかしそれは進歩ではない。そしていつの時代にも優れた作品と、そうでないものがある。それだけのことだ。同時代の人間にはその真価を見抜けず、時の洗礼を経なければ判らないこともある(例えばマーラーやコルンゴルトの音楽)。それが自然淘汰である。

また進歩史観の間違い・迷妄も次の2つの問いにより簡単に証明出来る。

  • あなたは19世紀ドイツの首相ビスマルクよりも20世紀に普通選挙で首相に就任したアドルフ・ヒトラーの方が優れた政治家だと思いますか?
  • あなたはエイブラハム・リンカーンよりもジョージ・W・ブッシュの方が優れたアメリカ大統領だと思いますか?

賭けてもいい。少なくとも過去2,000年間、人間性(humanity)は一切進化していない。もし人類が進化していると思うのなら、それは単なる錯覚である。代わって間違いなく進化していると言えるのは科学技術であり、富の再分配など社会(補償)制度、つまりsystemだ。

確かに人類の知識(知恵)は増えている。でもそれは進化じゃない。文字という媒体(現代ではコンピューター)により知識の蓄積が可能となり、それを幼少期から効率よく脳に詰め込むための教育制度(system)が発達したのだ。履き違えてはいけない。

故に人の心(意識+無意識=自己)を表現する芸術に、進化などあろう筈がないのである。

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【解説】「ペンギン・ハイウェイ」〜〈海〉と〈お姉さん〉に関する考察

森見登美彦の小説は以前から大好きで、今までに「太陽の塔」「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」「【新釈】走れメロス他四篇」「有頂天家族」「宵山万華鏡」「夜行」を読んでいる。しかし日本SF大賞を受賞した「ペンギン・ハイウェイ」は未読であり、映画版が余りにも素晴らしすぎたので、これを機会に一気呵成に読み通した。

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上記事で〈海〉とは〈ワームホール〉みたいなものだろうと僕の考えを書いたのだが、なんのことはない、小説の中で何度もワームホールについて言及されていた。

本作はポーランドの作家スタニスワフ・レムが執筆したSF小説「ソラリス(ソラリスの陽のもとに)」に触発されている。歯科医院で小学校4年生の主人公アオヤマくんがいじめっ子のスズキくんに対し、歯の中にばい菌がいっぱいになって、歯をぜんぶ抜かないと治らない〈スタニスワフ症候群〉という嘘の病気について語るエピソードがある。

「ソラリス」は2度映画化されている。アンドレイ・タルコフスキー監督の1972年「惑星ソラリス」@ソ連と、ジェームズ・キャメロン製作、スティーブン・ソダーバーグ監督の2002年「ソラリス」@アメリカ合衆国である。1965年に出版された原作小説の日本における最初の翻訳「ソラリスの陽のもとに」はロシア語からの重訳であり、さらにソ連に於ける検閲を考慮し四百字詰め原稿用紙四十枚分に及ぶ削除箇所があった。その後、「ソラリスの陽のもとに」を高校生の時に読んで魅了され、ポーランド語を学んだという沼野充義によるポーランド語原典からの完全翻訳版が2015年にハヤカワ文庫SFより刊行された。

これはソラリスの〈海〉が、その上空にある惑星観測ステーションに勤める研究者の記憶をもとにコピー人間(似姿)を造る、つまり死者を実体化(擬態)する物語である。

海は地球上の生命のすべての起源であり、なるものである。「ペンギン・ハイウェイ」ではそれを〈お姉さん〉のおっぱいが象徴している。そしてペンギンは〈お姉さん〉=が生む子供たちだ。また海は命を与える存在であると同時に、命を奪う者でもある。それは3・11東日本大震災で我々の多くが実感したことだ。

映画「ペンギン・ハイウェイ」には出てこないが、原作小説には〈お姉さん〉が日曜日に教会に通っていることが言及されている。ここで〈お姉さん〉に聖母マリア像が重ねられていることが分かる。キリスト教におけるマリアは古来、海の星の聖母(Stella Maris)と呼ばれていた。希望の印、導きの星であり、船乗りにとってステラ・マリスとは航海の目印となる北極星を指すとか、宵の明星=金星のことだとする説もある。つまり〈海〉=〈お姉さん〉=聖母マリアという三位一体が成り立ち、さらにマリア→海の星→宇宙へと繋がっているのである。

〈お姉さん〉は〈海〉の創造物である。これは間違いない。では〈お姉さん〉の原型(prototype)は何か?つまり〈海〉は何に基づいて似姿を創ったのだろう?小説に次のような記述がある。

 彼女(お姉さん)の顔を観察しているうちに、なぜこの人の顔はこういうかたちにできあがったのだろう、だれが決めたのだろうという疑問がぼくの頭に浮かんだ。(中略)そして、ぼくがうれしく思うお姉さんの顔がなぜ遺伝子によって何もかも完璧に作られて今そこにあるのだろう、ということがぼくは知りたかったのである。

ここで僕が考えたのは、〈海〉はアオヤマくんの心の中にある女性の理想像、ユング心理学で言うところのアニマ(元型 archetype)を実体化したのではないか?という仮説である。ゲーテの言葉で言い換えるなら「永遠に女性的なるもの」。しかしそうするとアオヤマくんが〈お姉さん〉の生まれ故郷、海が見える坂の街の場所を知らなかったという矛盾が生じる。彼はそもそも本物の海を見たことがない。

「もし私が人間でないとして、海辺の街の記憶はなんだろう?」
 お姉さんは路地を歩きながら言った。「私だってお父さんやお母さんのことを憶えているし、自分が今まで生きてきた思い出があるよ。それもぜんぶ作りもの?」
「ぼくにはわかりません」

ということは、彼女は何らかの理由で早逝し、〈海〉が残された両親の記憶から似姿を創ったのかも知れない。

次に〈お姉さん〉の言う海辺の街はどこだろう?と想像してみる。真っ先に連想したのは森見が書いた「夜行」の舞台となった尾道市である。しかし海辺の街の坂の上には教会があるという記述があるので当てはまらない。大林映画でも分かる通り、尾道は寺と神社の町なのだ。ならば海+坂道+教会といえば長崎市や神戸市が候補に挙げられる。もし長崎ならば〈お姉さん〉は原爆投下で命を落としたのかも知れない。その時〈海〉は長崎に出現していて、〈海〉自身が〈お姉さん〉を記憶していたのだろう(両親も同時刻に亡くなった筈なので)。

物語の最後に〈お姉さん〉は消失する。言い換えるなら〈海〉に還る。この場面で僕が想い出したのは、押井守監督のアニメーション映画「攻殻機動隊」である。主人公の草薙素子はインターネットという〈海〉に溶けて〈神〉になる。何だか似ていませんか?未来のアオヤマくんは素子を探し続けるバトーになるわけだ。

そこで僕は森見登美彦が押井守について言及した記事がないか探した。つまり、自分が立てた説の裏を取ろうと考えたのである。そして……あった、あった!

森見は大森望(書評家)との、「夜は短し歩けよ乙女」を巡っての対談で次のように語っている。

大森 つげ義春の『ねじ式』とか、あるいは押井守を連想したんですが。
森見 押井守さんも好きなので、入ってるだろうと思います。ボーッとしてると、押井守と宮崎駿が自動的に出てくるんです。
大森 たしかに、『千と千尋の神隠し』っぽいところもあるし。

             (「本の旅人」2006年12月号より)

また朋友・明石氏(現在は弁護士)との対談で、次のような発言もある。

明石 なぜか、いきなり盛り上がったなあ。夕方になって日が傾いた頃に、突然森見君が「押井守を知ってるか」って言い出して(笑)。「短篇集のレーザーディスクとか一式持ってるから、今から俺の下宿に観に来るか」って。
森見 それはね、高校の時には、誰とも押井守の話とかできなかったんですよ、まったくまわりに通じなくて。そしたら明石君が押井守の名前を知ってたから、「この人なら!」と思ったんでしょうね(笑)。
明石 たまたま『攻殻機動隊』が好きだっただけなんですけどね。後日森見君の家に泊まったら、押井守のレーザーディスクをかたっぱしから見せられた(笑)。

       (「文藝」2011年5月号 【森見登美彦】特集より)

最後に。「ペンギン・ハイウェイ」に登場するジャバウォックとチェスゲームはルイス・キャロル「鏡の国のアリス」からの引用である。そして「ソラリス」もまた、に映る自己(self)についての物語なのだ。

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インクレディブル・ファミリー

評価:A

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公式サイトはこちら。前作「Mr.インクレディブル」も2004年公開時に映画館で観ているのだが、何しろ14年前の話なので当ブログも未だ開設していなかった。更に遡って当時書いた拙レビューを発見した。こちら

ブラッド・バード監督は安定の面白さ。ただ実写への進出作(「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル 」「トゥモローランド」)がイマイチだったので、アニメの世界の戻ってきてくれて本当に嬉しい。ド派手なアクションのてんこ盛りで、息もつかせぬとは正にこのこと。

007シリーズのジョン・バリーを彷彿とさせるマイケル・ジアッキーノのJazzyな音楽も乗りに乗っている。エンド・クレジットでMr.インクレディブル、イラスティガール、フロゾン各々のテーマソングが流れるのがご機嫌だ。

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【考察】映画「ペンギン・ハイウェイ」と宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

評価:AA (最高はAAA)

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大傑作!暫定今年のベスト・ワン(邦画・洋画併せて)。公式サイトはこちら。監督はこれが長編デビュー作となる石田祐康。

森見登美彦の原作は日本SF大賞を受賞している。仕掛けは本格的だ。

森見の小説は「四畳半神話大系」「有頂天家族」「夜は短し歩けよ乙女」が既にアニメ化されており、実にアニメーションとの親和性が高い。

そして脚色を担当した劇団「ヨーロッパ企画」@京都の上田誠と森見が組むのは「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」に続いて今回が3度目。抜群の相性の良さを示している。パーフェクトだ。

この物語のヒロインである〈お姉さん〉の姿に二重写しになって見えた人物が二人いる。松本零士「銀河鉄道999」のメーテルと、岩井俊二監督「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の及川なずな(奥菜恵)である。「銀河鉄道999」は勿論、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を下敷きにしており、岩井が執筆した「打ち上げ花火」の原作小説「少年たちは花火を横から見たかった」もまた、「銀河鉄道の夜」の冒頭部を読み上げる場面から始まる。つまり〈お姉さん〉≒メーテル≒なずな≒カムパネルラであり、「ペンギン・ハイウエイ」における小学校4年生の主人公アオヤマくん≒ジョバンニという図式が成立する。孤独な少年ジョバンニは友人カムパネルラとふたりきりで銀河鉄道に乗り込んで旅をするが、それは「銀河鉄道999」の星野鉄郎とメーテルも同様であり、「打ち上げ花火」の島田典道となずなは”かけおち”するために電車に乗ろうとするが、果たせない(後のアニメ版ではふたりきりで乗り込むことに成功する)。そして「ペンギン・ハイウエイ」のアオヤマくんと〈お姉さん〉も電車に乗って街を離れようと試みる。

「銀河鉄道の夜」「銀河鉄道999」「ペンギン・ハイウエイ」にもう一つ共通するのは死の匂いである。一見関係なさそうな「打ち上げ花火」にも、”かけおち”を持ちかけられた典道が、なずなと次のような会話を交わす場面がある。

典道「二人で・・・死ぬの?」
なずな「それは心中でしょ」

そしてアニメ版でなずなの母と”かけおち”し、サーフショップを開いた父は海で溺死している。

「ペンギン・ハイウエイ」に登場する〈海〉という概念はとても魅力的だ。映画「コンタクト」「インターステラー」における〈ワームホール〉みたいなものだろう(この二作品を監修したキップ・ソーンは2017年ノーベル物理学賞を受賞した)。また僕は〈真空崩壊〉も連想した(詳しくはこちら)。

ここで宮沢賢治が書いた絵をご覧いただこう。

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背景に宇宙が在り、空間の裂け目からいくつもの手が伸びる。「ペンギン・ハイウエイ」の 〈海〉に、どこか似ていませんか?

アオヤマくんは〈お姉さん〉と一緒に体験した冒険を通じて、宇宙とか世界の果てについて思惟する。ジョバンニのように。そして初めて死を身近に意識し、大人への階段を一歩登る。少年期の終わり。哲学的であり、秀逸なジュブナイル映画である。

また〈お姉さん〉の声を当てた蒼井優が素晴らしかったことも特筆に値する。

ー 最後にネタバレでもう一言 ー

Are you ready ?

銀河鉄道に乗ったカムパネルラは生者ではなく、既に死んでいる。メーテルが生身の人間なのか、機械人間なのかは未だに意見が別れており、結論は出ていない(松本零士は「メーテルは”人間”です」と言っているが、それでは説明がつかない点が多々ある。作家とは信頼できない語り手である)。また「打ち上げ花火」のなずなの正体は人魚(セイレーン)なのではないかと僕は考えている。最後は水のきらめきの中に消えてゆくし、岩井俊二は「ウォーレスの人魚」という小説を書いているくらいだからね。そして「ペンギン・ハイウエイ」のアオヤマくんは最後に「お姉さんは人間ではない」という結論に達する。やはりこれら4作品は繋がっているのである。

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宮古島へ!

8月4日から7日にかけて沖縄県宮古島でヴァカンスを満喫した。

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大学生の頃、サークルの先輩から「宮古島はいいよ」と聞かされていた。しかし中々行く機会が訪れなかった。社会人になり、沖縄本島や石垣島では泳いだが、お世辞にも綺麗な海とは言い難かった(藻が多かった)。そして沖縄の食事は不味かった。最悪だったのは石垣島のヤギ汁。オエーッ!!

宮古島の海はエメラルドグリーンで透明度が高く、本当に美しかった。泊まったのは宮古島東急ホテル&リゾーツである。写真は部屋からの眺め。

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与那覇)前浜ビーチは東洋一とも言われ、Marine Diving Web(マリン ダイビング ウェブ)というサイトでは2017年ビーチ部門で世界一に選出された(今年は第二位)。

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少なくとも僕が泳いだことのあるフィリピンのセブ島より断然良かったし、ニューカレドニアのウベア島やイル・デ・パンの海に匹敵すると思った。因みにウベア島は原田知世主演、大林宣彦監督の映画「天国にいちばん近い島」(1984)のロケ地であり、宮古島は大林映画「風の歌が聴きたい」(1998)のロケ地である。

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「風の歌が聴きたい」でヒロインを演じた中江有里は、どうやら今年7-8月に広島県尾道市及び福山市で撮影された大林監督の新作「海辺の映画館ーキネマの玉手箱(仮題)」に出演しているようだ(他に浅野忠信、南原清隆、常盤貴子、稲垣吾郎、渡辺裕之ら)。閑話休題。

宮古島の気温は同時刻の関西よりも大体3℃くらい低く、地元の人によると真夏でも33℃を超えることはないという。湿度も低く、夜風は涼しく、クーラーなしで寝られると想った。今や沖縄は避暑地なのか!?如何せん日本の気候は狂っている。

ビーチではゴーグルで海底まで見通せて、沢山魚が泳いでいるのが見えた。グラスボートで珊瑚礁まで行くと、クマノミ(ニモ)など熱帯魚が観察出来たし、ウミガメにも遭遇した。夜はホテルの屋上から眺める満天の星空に吸い込まれるような気持ちになった。

またホテルのレストランが美味しかったのには驚かされた。特に海藻。もずくとかプチプチの海ブドウが新鮮で、全く臭みがない。意外にも(失礼!)地元の魚で握った寿司もいけた。舐めていた沖縄料理を見直した。

今後、リゾートに行くなら毎回宮古島でいいやと想った。

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真価が分かるまで、一朝一夕にはいかないクラシック音楽について語ろう。

僕がクラシック音楽を本格的に聴き始めたのは小学校4年生の頃である。きっかけとなったのはシモーネ/イ・ソリスティ・ヴェネティが来日し、地元・岡山での公演を聴きに行ったこと。その予習としてわが家にあったアーヨ(ソロ・ヴァイオリン)&イ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ「四季」のLPレコードを繰り返しかけた。

ヴィヴァルディ「四季」が入門として最適だったのは標題音楽だからである。物語があるので分かり易かった。

クラシック音楽を聴く初心者男性は大抵、標題音楽とか派手なオーケストラ曲が入口となる。女性だと幼少期からピアノを習っている場合が多く、ショパンやモーツァルトの器楽曲から入る場合もある。しかしそこから室内楽や、古楽(ルネサンス、バロック音楽)、現代音楽に進む人はごく一握りに過ぎない。

そこで僕がその魅力に開眼するに至るまで、数十年を要した作品を今回はご紹介していきたい。クラシック音楽の奥座敷会員制倶楽部へようこそ。若い人たちにとって、なんらかの参考になれば嬉しい。勿論、僕の意見を押し付けるつもりは毛頭ない。長く生きていると考え方(意識)や感じ方(感覚所与)に生成変化が起きることがある。そういうことを心に留めておいて欲しいのである。

1)J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ、チェロ組曲
2)J.S.バッハ:マタイ受難曲

3)ベートーヴェン:後期弦楽四重奏曲 第13−15番
、大フーガ
4)ベートーヴェン:後期ピアノソナタ 第30−32番

5)シューベルト:後期ピアノ・ソナタ 第19−21番

6)ショスタコーヴィッチ:ヴァイオリン・ソナタ、ヴィオラ・ソナタ

7)ショスタコーヴィチ:交響曲 第15番

8)モンテヴェルディ:聖母マリアの夕べの祈り
9)フランツ・シュミット:交響曲 第4番

ご多分に漏れず、僕も小学生の頃は交響曲や管弦楽曲、協奏曲ばかり聴いていた。中学生でオペラに目覚め、ヴェルディやプッチーニ、ワーグナーに夢中になった。大編成で派手に鳴る音楽ばかりである。それらに比べ室内楽は地味で、特にJ.S.バッハの無伴奏の楽曲なんて、「一体、これの何が面白いんだ?」とサッパリ解らなかった。結局、目覚めるまでに30年以上もの歳月を費やしてしまった。

バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ無伴奏チェロ組曲を一言で評すなら、故スティーブ・ジョブズの座右の銘が最も相応しいであろう。

洗練を極めると簡素(シンプル)になる
( Simplicity is the ultimate sophistication. )

これはiPhoneのデザインにも通じるし、日本の茶道や、枯山水にも当てはまるだろう。ジョブズは京都を愛し、俵屋旅館に泊まり、西芳寺(苔寺)などを訪ねた。またの思想に多大な影響を受けた。中・高校生が竜安寺の方丈庭園(石庭)を見学しても、その良さってなかなか理解出来ないでしょう?バッハの音楽も然り。わび(侘び)・さび(寂)幽玄は日本人の専売特許ではない。

マタイ受難曲は宗教曲ということで初心者には敷居が高い。僕も「キリスト教徒じゃないと関係ないんじゃないの?」と若い頃は思っていた。しかし作曲家・武満徹が死ぬ直前に病床で、ラジオから流れてきたこの曲を熱心に聴いていたというエピソードを知ってから俄然興味が湧いた。彼の心に去来したものは何だったのか?そのことについて考えたことを下の記事に書いた。

「マタイ」は人類にとって究極の音楽遺産である。〜すべての道はバッハに通ずことを、貴方も何時かきっと解る日が来るだろう。

Bach

2018年1月に雪で足を滑らせ頭を打ち、外傷性頭蓋内損傷のため死去した礒山雅・国立音楽大学招聘教授(享年71歳)はバッハ研究で名高い音楽学者だが、「聖母マリアの夕べの祈り」について次のようなことを書いている。

私が無人島に持っていきたい曲は、モンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈り Vespro della Beata Vergine》である。《マタイ受難曲》ではないのですか、とよくいわれるが、さすがの《マタイ》も《ヴェスプロ》の前では色褪せる、というのがかねてからの実感である。中世以来連綿と続いてきた、「マリア崇敬」の芸術――その頂点が美術ではラファエロの聖母像にあるとすれば、音楽では、間違いなくこの作品にあると思う。

<講談社学術文庫「バロック音楽名曲鑑賞辞典」より> 

聖母マリアの夕べの祈り」は1610年にヴェネツィア共和国で出版された。今から400年も前のことである。シェイクスピアの「マクベス」が上演されたという最古の記録が残っているのが1611年グローブ座なので、丁度同時代だ。日本では1603年に江戸幕府が開かれたばかり。気宇壮大で宇宙的広がりが感じられる音楽である。礒山氏も書いているが、モンテヴェルディが楽長も務めたヴェネツィアのサン・マルコ教会で1989年に収録されたジョン・エリオット・ガーディナー指揮/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団による演奏を収録した映像(DVD)をまず第一に推したい。また礒山氏が音楽ディレクターを務めた、いずみホール@大阪市で今年11月7日に《ヴェスプロ》が演奏される。詳しくはこちら。僕も聴きに行きます。そういえば礒山さんを最後にお見かけしたのは、イザベル・ファウストによるJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータの2夜連続全曲演奏会@いずみホールだった。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲だと、入門編として聴き易いのはラズモフスキー第1-3番(通し番号で第7−9番)だろう。そして第11番「セリオーソ」。しかし後期の第13番以降は掴みどころがなく、敷居が高い。まず4楽章形式ではなくなるし、〈第1楽章がソナタ形式で第2楽章が緩徐楽章……〉という「定形」から逸脱して、どんどん自由になってゆく。初心者には到底歯が立たない。しかし作品に何度も拒絶されながらも挑み続け、作曲家の孤高の境地(魂)に少しでも触れることが出来た時、高い山の山頂に立ったような得も知れぬ達成感が貴方を待ち受けている。それは無意識の深層に在り、における悟りの境地と言っても良いかも知れない。

同じことが後期ピアノ・ソナタにも言える。最初は表題のついた「悲愴」「月光」「熱情」「ワルトシュタイン」「告別」「テンペスト」あたりがとっつき易いだろう。しかしその更に奥に、深淵な世界が広がっているのだ。後期のソナタやカルテットの特徴はスケールが大きい変奏曲とフーガ。ベートーヴェンは明らかにJ.S.バッハに回帰しようと欲している。ゴルトベルク変奏曲や、数々のオルガン曲(「幻想曲とフーガ」「パッサカリアとフーガ」等)が彼の目指す先にある。

なお、高校の音楽科に通う学生たちを描く青春小説「船に乗れ!」の中で、作者の藤谷治は「ベートヴェンのピアノソナタ第28番、イ長調がこの世のすべてのピアノソナタの中で、一番好きだ」と書いている。この気持も共感出来る。

オーストリアのピアニスト、アルフレート・ブレンデルはベートーヴェンピアノ・ソナタ 第30-32番や、シューベルト後期ピアノ・ソナタ 第19−21番は、3曲まとめて1セットで考えるべきだと述べている。シューベルトの3曲は1828年9月、彼が死を迎える2ヶ月前に一気に書き上げられた。

シューベルトのピアノ・ソナタは冗長で退屈だとず〜っと思っていた。その深みに気が付いたのは、ほんのつい最近のことである。切掛はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したトルコ映画「雪の轍」に第20番の第2楽章が使用されていたこと。また第21番の第1楽章はアカデミー視覚効果賞を受賞したSF映画「エクス・マキナ」で流れた。

シューベルトは31歳の若さで没したが、自分自身の死期を悟っていた。梅毒感染を宣告され、その治療を受けていたのである。死を意識しながら後期ソナタを作曲したという点を抑えておくことが鑑賞する上でとても大切だ。第21番の第1楽章は左手が迫り来る死神を表現し、右手が美しく儚い白鳥の歌を歌う。詳しくは下記事に書いた。

ショスタコーヴィチの音楽は謎に満ちている。幾重にも屈折し、一筋縄ではいかない。彼のオペラ「ムツェンクス郡のマクベス夫人」はスターリンを激怒させ、1936年にソ連政府の機関紙「プラウダ」から痛烈な批判を浴びた。さらに1948年から58年まではジダーノフ批判に晒された。彼は国家から「革命に奉仕する芸術」、つまり社会主義リアリズムの精神に則ることを強制された。無茶苦茶な話だ。これに抵抗したショスタコは、如何にして政府高官を騙すかを徹底的に考え抜き、入念な偽装工作を自作に施した。つまり彼の本心を見抜くには覆われたベールを次から次へと剥いでいかなければならない。厄介だ。ことについては下記事で論じた。

最後の交響曲 第15番は1971年に書き上げられた。この頃作曲家は右手の麻痺と2度目の心臓発作に苦しんでいた。第1楽章についてショスタコは「玩具屋で起こるようなこと」と語ったことがある。拍子抜けするくらい軽い諧謔皮肉パロディ精神に満ち溢れ、《ウィリアム・テル》序曲からの引用もあり、サーカス小屋の雰囲気を感じるのは僕だけではないだろう。【笑い】は庶民が公権力に牙を剥き、"No."を突き付けるための方便だ。道化師の哀しみ。第2楽章は苦渋に満ちている。そして第4楽章はワーグナーの楽劇《ニーベルングの指環》から「運命の動機」が重要なモティーフとして引用される。続いて登場する旋律はグリンカの《故なく私を誘うな(悲歌)》。歌詞はこちら。「過ぎ去った日々を蒸し返すな/私の微睡みを妨げるな/寝させておいてくれ」はある意味、語り部の死を暗示させる。さらに、この3音はワーグナー《トリスタンとイゾルデ》前奏曲の冒頭部にも共通している。つまり終楽章は告別の歌なのだ。クルト・ザンデルリンク/クリーヴランド管弦楽団のCDでどうぞ。

1968年に作曲されたヴァイオリン・ソナタと75年に完成し、ショスタコ最後の作品となったヴィオラ・ソナタ諦念虚無に支配されている。スターリンやソビエト共産党との間で展開された死闘の果に、燃え尽きて真っ白な灰になった自画像が淡々と描かれる(漫画「あしたのジョー」の最後を想い出して欲しい)空恐ろしい音楽だ。

1934年に初演されたフランツ・シュミット交響曲 第4番については下記事で述べた。

日本では未だ知られていない作曲家の生涯、このシンフォニーが書かれた時の状況、ナチス・ドイツとの関係など詳しく書いたので参照されたい。お勧めのCDはメータ/ウィーン・フィルの演奏。また《デジタル・コンサートホール》に加入すれば、キリル・ペトレンコ/ベルリン・フィルの演奏で愉しむことも出来る。

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ウルフギャング・ステーキハウス 大阪店へ

7月20日(金)ウルフギャング・ステーキハウス 大阪店(Wolfgang's Steakhouse Osaka)で食事をした。

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ここはブルックリン@NYにある名門ステーキハウス「ピーター・ルーガー」で40年以上活躍したウルフギャング・ズウィナーが独立し、2004年にマンハッタンで創業した。その後ワイキキ、マイアミ、ビバリーヒルズに支店が出来、日本国内の第1号店である六本木店はアメリカ国外初出店となった。

僕は2001年8月末に1週間ニューヨークのマンハッタンに滞在し、数多くのブロードウェイ・ミュージカルを観た。9・11同時多発テロの2週間前のことである。具体的には「オペラ座の怪人」、「プロデューサーズ」(ネイサン・レイン、マシュー・ブロデリック主演、スーザン・ストローマン演出)、「ザ・ミュージック・マン」(スーザン・ストローマン演出)、「キャバレー」(ブルック・シールズ主演、映画「007 スカイフォール/スペクター」を監督したサム・メンデスと映画「シカゴ」「メリー・ポピンズ・リターンズ」を監督したロブ・マーシャルが共同演出)、「42nd Street」を観劇した。実はワールドトレードセンター( WTC )ビル最上階にあったレストランにディナーの予約をしていたのだが、その当日マチネで観た「キャバレー」の劇場(キット・カット・クラブ)の空調がとても寒く、ホテルに戻ると発熱し寝込んでしまったので電話でキャンセルした。結局9・11でWTC自体が消滅してしまったので、訪れる機会は2度となかった。

ニューヨーク滞在中に「ピーター・ルーガー」に行った。18年間(当時)ザガット・サーベイのステーキハウス部門でトップの座に君臨し続けていた店である。宿泊していたマリオット・マーキスからタクシーに乗ろうとすると、5台連続で乗車拒否された。マンハッタン島より外に位置するブルックリンの治安が悪く、運転手に尻込みされたのである。因みにバーブラ・ストライサンドはこの街に生まれ育った。

「ピーター・ルーガー」で食べたミディアムレアの肉は表面がカリカリ、中がジューシーで絶品だった。生涯食べたステーキの中で文句なし、ぶっちぎりNo.1。正直、神戸牛とかはサシ(脂肪)が多すぎて、食べている途中に気分が悪くなる。そんなことが一切なかった。

だから「ウルフギャング・ステーキハウス」には大いに期待して行った。肉の味は「ピーター・ルーガー」を上回るとは言わないが、ほぼ互角。日本国内でこれだけのものが食べられるのなら何の文句もない。それに加え、ここ独自の魅力はロブスターにある(「ピーター・ルーガー」のメニューにはない)。直前まで生きていた海老をスチームするので新鮮、全く臭みがない。極上!故に総合評価で「ウルフギャング」に軍配を上げる。オリジナル・カクテルもみな美味しかった。

近い内に是非、再訪したい。

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【考察】今夏最大の問題作「未来のミライ」(細田守監督)の構造分析と時間イメージ

評価:A

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公式サイトはこちら

細田守監督の最新作「未来のミライ」はアヌシー国際アニメーション映画祭コンペティション長編部門に出品され、結局無冠に終わった。7月20日に日本で公開されたが、巷での評判はすこぶる悪い。「何が言いたいのか、意味が分からない」「タイムスリップがご都合主義だ」等の否定的意見多数。SNSでの不評を受けて公開第1週の全国週末興行成績ランキングは「ジュラシック・ワールド 炎の王国」(2週目)に次ぐ第2位からの発進となった。最終興収58.5億円を記録した細田の前作「バケモノの子」の興収比60.0%という低調な成績である。

僕は小学校1年生の息子と観に行ったが、彼の感想は「面白かった」。

な映画である。言い換えるなら極めてユニークだ。あんまり類似した作品を想い出せない。これは「バケモノの子」=(「ベスト・キッド」+「千と千尋の神隠し」)÷2だったのに対して対照的だ。宮崎駿のアニメーションのスケールの大きさと比べると、細田守のそれは非常に小さい。製作のきっかけとなったのは細田自身に男の子と女の子の子供が生まれたことである。主題歌の打ち合わせの時に山下達郎から「すごい、また今回も私小説的ですね」と言われたそうだ。

細田は正真正銘ケモナーである。「サマーウォーズ」にはウサギ型アバター・キングカズマが登場し、「おおかみこども」は狼と人間が結婚し子作りをする。「バケモノ」の熊徹も毛がふさふさ。僕は細田の海外での評価が極めて低いのは、ケモナーであることが一因なのではないかと考えている。そして「未来のミライ」にも監督のフェティシズムが迸っている。くんちゃんが犬の尻尾を自分のお尻にくっ付けて、メタモルフォーゼ(変身)する場面があるのだ。やれやれ……。

あと「バケモノの子」で師匠・宮崎駿(=熊徹)に対し、主人公・九太の口を借りて「俺のやることを、そこで黙って見てろ!」と言い放った細田だが、本作でくんちゃんのひいおじいちゃん(曽祖父)は戦闘機のエンジンを作っているという設定であり、それってまんま駿のオヤジの話じゃん!!(宮崎の父は零戦のコックピットを作っていた)。もう大爆笑である。駿に憧れる余りに、遂に自分の記憶の改竄自己同一化)に乗り出したのだ。いやはや、恐れ入りました。

「すごい、また今回も私小説的ですね」
「すごい、また今回も私小説的ですね」

さて、本作の構造をフランスの哲学者アンリ・ベルクソンが著書「物質と記憶」(1896年初版)で論じた逆さ円柱モデルを応用し、説明してみよう。

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図上部の逆さ円錐がベルクソンが提示したモデル。下部の円錐がそれを反転したもの(鏡像)である。逆さ円錐の全体SABが主人公くんちゃんの記憶に蓄えられたイマージュの総て(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり、くんちゃんの「今」の知覚である。Pという平面は現在彼がいる世界・宇宙そのもの。くんちゃんは円錐の中を自由に、生成され続ける過去(A'B'やA''B'')へと螺旋状に飛翔し、またSに戻ってくる。ここまでの構造時間イメージはフェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2」やアラン・レネ「去年マリエンバートで」、イングマール・ベルイマン「野いちご」、大林宣彦「はるか、ノスタルジィ」などの前例がある。しかし「未来のミライ」がユニークなのは下部の円錐。それは未来に広がっている。中学生(15歳くらい)になった妹ミライちゃんは∀,B,あたりからやって来る。

「未来のミライ」はくんちゃんの内面意識個人的無意識自己 self)を描いていると解釈出来るだろう。その深層は過去から未来までの家族史(家族的・集合的無意識ー犬を含む)に接続している。

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しかし、4歳児のくんちゃんが中学生となった妹ミライちゃんを知っている筈がなく、ひいおじいちゃん(曽祖父)の個人史も知らないという矛盾が生じる。ここで多くの観客が困惑してしまうわけだ。しかし15年後のくんちゃんの内面だとしたらどうだろう?曽祖父の生い立ちについても両親から聞いて知っていてもおかしくない。こう仮定すれば全ての整合性がとれるのである。

つまり物語を通時的(時間の流れに沿って)考えるのではなく、共時的に捉える必要がある。過去も未来も今ここ(self)にあるのだ。

フェリーニは次のように語っている。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

これを未来にまで延長したのが本作なのだ。

逆さ円錐(上部)と円錐(下部)の中心を貫いているのが、くんちゃんちの庭に植えられた一本の生命の樹 Tree of Lifeである。それは宮崎駿「となりのトトロ」に繋がっており、トトロ同様、「未来のミライ」でも《迷子》というモティーフが繰り返される。

実は「未来のミライ」の構造が一番近いのは大林宣彦監督「時をかける少女」(1983)かも知れない。深町くん(高柳良一)は未来からやって来るし、主人公・芳山和子(原田知世)は自分の幼少期にタイムスリップしたりもする。細田版アニメーション映画「時をかける少女」(2006)は実質的に大林版の後日談であり、芳山和子(魔女おばさん)の声優として細田は原田知世にオファーしたが、断られている。そして大林監督は細田のことを【映画の血を分けた息子】と呼んだ。

「未来のミライ」は現代の神話である。今度はフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースの手法を用いて、本作を読み直してみよう。

オーケストラの総譜(スコア)を例に説明しよう。

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楽譜を(左→右)に読むと通時的流れがある。 ①行目:曽祖父の個人史、②行目:母の個人史、③行目:愛犬ゆっこの個犬史、④行目:くんちゃんの個人史、⑤行目:ミライちゃんの個人史、といった具合だ。音楽用語で言えばモノフォニー単一旋律 melody)である。そして映画に於ける《くんちゃんの冒険》は楽譜を(上↔下)に、螺旋状に行ったり来たりする。そこに家族史というharmonyが響き合う。これが共時的読解である。音楽用語で言えばポリフォニー多声音楽)となる。

「未来のミライ」は作家性(癖)が強く、奇天烈で、決して万人受けするようなウェルメイド・アニメとは言い難い。しかし僕は斬新で愛すべき作品だと想うし、断固支持したい。細田守を「モスラ」に喩えるなら、いま彼は折れた東京タワーに繭を張った幼虫の状態にあるのだ。間もなく殻を破り、成虫が羽を広げ飛翔する時が必ず来るだろう。その日を愉しみに待ちたい。

最後に。くんちゃんの声をあてた上白石萌歌が、4歳の男の子のようには全く聴こえず、10代の女の子以外の何者でもなかったことについては不問に付す。

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續・君たちはどう生きるか?

息子へ。そして未来を生きる若い人へ。

記事「君たちはどう生きるか?」をupした後、どうしても書き足らないという思いに駆られ、追記することにした。もうしばらくお付き合い願いたい。人生の先輩からの、ささやかな言葉の贈り物として受け取ってもらえたら嬉しい。

⑪想像力を働かせよ!

道を歩いていて、ゴミのポイ捨てを見ると、悲しくなる。そういう行為を平気で出来る人間に何が欠けているかといえば「想像力」だろう。つまり自分が捨てたゴミを他者が見てどういう気持になるのか、誰がそれを拾ってゴミ箱に捨てるのか、そこまで考えなさい。言い換えるなら物事を主観的に捉えるだけではなく、他者の目で自分を見ることが出来るかどうか=客観性が問われている。それが公共心道徳だ。気配りとも言う。未来を見据える力を養い、想像力を働かせるためには高度な知性を要する。

⑫よく生きるとは「問いを立てる」こと。

ニーチェとかドゥルーズら哲学者の書いた本をいくつか読んで学んだことは、「問いを立てる」ことの大切さである。

誰にでも当てはまる根本的な問いは「自分とは何者なのか?」ということだろう。分かっているようで実は誰も知らない。一生懸命考えても、答えは日々変化してゆく。それが面白い。また僕がしばしば問うのは「日本人とは一体何者なのか?」や、「どうして自分はこんなに次から次へと映画を観続けるのか?(もうすぐ三千本に達する)」「どうして人は、物語を必要とするのか?」等である。これらについて既にいくつか考察を書いた。

書かれたことは既に抜け殻である。いま同じお題を与えられたら、内容はまた違ったものになるだろう。思考は絶え間なく変貌を遂げる(生成変化)。

⑬「白か黒か」「Yes.かNo.か」ではなく、その中間を狙え。

よく「日本人は曖昧で、Yes.かNo.かはっきりしない」と外国人から非難される。確かに国際社会において態度を明確に示さないのは相手の理解を得られないし、損だ。ただ余り両極端に偏るよりも、その間を進むことが大切な場合もある。例えばある二国間関係を考えた場合、「敵か味方か」の二項対立でぶった切ることは極めて危険。敵→戦争だ!と短絡的思考に繋がるかも知れない。現在、アメリカと日本は同盟関係にあるが、だからといってアメリカの主張の言いなりになるわけにもいかない。良いことを良いとして賛成し、悪いことは悪いとして反対する、是々非々の対応が望まれる。

コンピュータの計算処理は2進法、「0か1か」だ。つまりデジタルは二項対立の世界である。よって「デジタルではなく、アナログ人間になれ!」全か無かではなく、グラデーション(段階的変化)で思考する能力を身に着けなさい。

例えば人間を「男らしい」と「女らしい」の二分法で切断するのではなく、その境界域にいるゲイなどLGBTの人々、つまり価値観の多様性を認めることが肝心だ。

朝日新聞や東京新聞など、日本の左翼ジャーナリズムは安易に「ネトウヨ」という言葉を使いたがる。

世の中を単純に右と左に分けたほうが分かり易い。だから彼奴らはそういう図式に持ち込みたい。しかし実際は、真の右翼と真の左翼は極めて少数派であり、大半の人々は中道である。そのことは忘れられがちだ。そもそも現在、日本の有権者の50%強は「無党派層」である。選挙ごとに投票先を変えている。二項対立で思考する時代はとっくの昔に終わったと言えるだろう。

⑭高貴な人間になれ!

この項目はニーチェ著「ツァラトゥストラはかく語りき」に深く関連している。

人は自分より不幸な人間に慰めを見出すというしたたかな劣弱さを持ち、自分の良く知る身近な人間が、自分よりも多少の幸福を得た時、なんとも許しがたい感情に囚われる。すなわち嫉妬である。そして自分の欲望を満たそうと復讐心に燃える。ニーチェはこれをルサンチマン(怨恨)と呼んだ。弱者、被支配者が「自分たちこそ善き者、正義だ」と強者、支配者に対して開き直る価値の転倒。朝鮮文化における「恨(ハン)」も同根である。慰安婦問題日韓合意に基づき日本政府が10億円を拠出したにも関わらず、韓国政府が合意を踏みにじり慰安婦問題を相変わらず言い立ててくる根底にはこのルサンチマン/恨(ハン)がある。そこには嘗ての【ユダヤ人(キリスト教)↔ローマ帝国】の対立構造が二重写しになる。韓国人は「神に選ばれた善なる民」ユダヤ人の受難に自分自身の境遇を、また自らの民族の境遇を重ねて見ており、韓国人にクリスチャンが多い理由の一つがそこにある(2005年韓国統計庁の発表に拠ると総人口のうち、プロテスタントとカトリック信者を合わせると29.2%。対して日本は1%程度である)。古くから中国にある「華夷思想(かいしそう)」は、中央の文明なる「」に対する周辺の野蛮なる「」という世界観であり、韓国は、我々はに属しているけれど、日本はではないかと考えている(参考文献:西尾幹二、呉善花「日韓 悲劇の深層」祥伝社新書/西尾幹二「ニーチェとの対話」講談社現代新書)。なお、恨(ハン)」について詳しく知りたければ、1993年の韓国映画「風の丘を越えて/西便制」を御覧あれ。

ここで卑近な例を挙げよう。あおり運転」でバイクと車が衝突し、バイクを運転していた人が死亡するという事件がしばしば報道される。その主な原因は追い越しである。後ろから走って来たバイクに抜かれた。頭にきたので猛スピードを出して急接近し、パッシングしたり煽ったために事故を引き起こした。多分犯人もあとから振り返って「どうしてあんなバカなことをしたのだろう?」と途方に暮れていることだろう。発端は些細なことだ。冷静に考えれば人の命を奪うほどの案件ではない。頭に血が上り、常軌を逸していたとしか考えられない。

 行動とは ーたとえいかように些細な行動であろうともー およそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることに外ならない。事前に済ませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより、人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われるものなのだ。(西尾幹二「人生について」新潮社)

あおり運転をした被疑者の心理を分析するなら、自分が徒競走(かけっこ)をしているような錯覚に囚われたのであろう。カーレースと言い換えても良い。後ろから来た者=自分より劣った者に抜かされた。敗北した、馬鹿にされたような気がする。許しがたいという嫉妬が芽生え、復讐心がメラメラと燃える。そして行為に及んだというわけだ。ルサンチマン/恨(ハン)と同じ構造である。車という密室のために相手とコミュニケーションを取る事が出来ない状況も事態を悪化させたと言える。会話を交わせば「馬鹿にされた」というのが単なる誤解、妄想であったと気付けたかも知れないのだが……。

運転中にクラクションを鳴らされることによる怒りと、それによるトラブルも同様の心理メカニズムである。公衆の面前で叱られ、恥をかかされた。自尊心を傷つけられた。上から目線に対する復讐

ではどうすればこうした衝突を回避出来るだろう?それは「高貴な人間」になることである。ニーチェの言葉を借りるなら、

孤独のなかへ、友よ、逃げろ。(中略)ハエたたきになるのは君の運命じゃない。

となる。くだらぬ相手と諍いを起こすくらいなら、一歩退き、自分を大切にしなさい。黙って通り過ぎるに越したことはない。

被害者側(追い越した方)で考えるなら、相手のちっぽけな虚栄心を傷つけないよう、恨まれないよう細心の注意をはらうべきだということに尽きるだろう。

高貴な人間」は羞恥心を持っている。行動を起こす前に、ちょっと待ってみようか?一呼吸おいて、今まさに為そうとすることが恥ずかしい行為ではないかよく考えよう。そして、

高貴な人間は、他人に恥ずかしい思いをさせないようにする。(ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」)

羞恥心は非常に高度で、奥深い感情である。生まれたばかりの赤ん坊はまず最初に泣く。暫くして笑い怒るようになる(早い子の場合、生後1ヶ月半頃からと言われている)。一般に、喜怒哀楽は生後4ヶ月頃にはっきりしてくる。これらは原始的な感情だ。しかし子供が恥ずかしさを感じ始めるのは2〜3歳ごろからと考えられている。Lewisらによる次のような研究がある(1989)。平均生後22ヶ月の子供の鼻にこっそりと口紅を塗る。そして子供たちに鏡を見せ、鼻についた口紅を拭き取ろうとするかどうかを観察するのである。

USJなどテーマパークや、ホテルのロビーにたむろしているアジアから来た外国人旅行者の団体客が大声で騒いだり、傍若無人に通路を塞いだりして閉口することがある。また近隣諸国を旅すると、バスや電車に乗るときに列に並ばなかったり、駅構内や電車内で排泄行為をするといった信じられない光景を目にすることもある(こちらの記事)。彼らに決定的に欠けているものは何か?それは公共心(他人の目で自分を見る能力)及び羞恥心である。「人の振り見て我が振り直せ」という故事があるが、彼らを反面教師として、そういう人間に成り下がらないよう心がけたいものだ。

⑮「考える」ことを人任せにするな。

2018年7月8日(日)に放送されたNHKスペシャル「オウム 獄中の告白 〜死刑囚たちが明かした真相〜」を観た。その中で坂本弁護士一家殺害について、元オウム真理教幹部・早川紀代秀(7月6日死刑執行)の次のような手記が紹介された。

私の誤りは、グル(麻原彰晃)は間違うことがないと信じていたことです。悪行をなす前に殺害するという慈悲殺人の理論は、その手段が誤りであったことは明らかです。

これを読み僕が強く感じたのは、「あゝこの人は、自分で考えることを放棄して、他者に思考の全てを委ねてしまったんだな」ということ。つまり思考停止に陥っていた。これが洗脳(mind control)の正体であり、新興宗教の信者にありがちなことである。

若松孝二監督による映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」などを観ると、オウム真理教による一連のテロ事件と、連合赤軍の若者たちによる「あさま山荘事件」の類似点の多さに驚かされる。首謀者に一流大学出身者が多いことも共通している。

結局、マルクス主義も一種の宗教なのだ。【ブルジョアジー(資本家、支配階級)=悪で、プロレタリアート(労働者階級)=善】という幻想。オウムの場合は【坂本弁護士や霞が関(日本政府)=悪で、信者=善】という妄想。その原理は抑圧された人々の、恵まれた人々に対する嫉妬・怨嗟ルサンチマンである。そしてマルクスの「資本論」がバイブルという構造。マルクス主義者にとってはマルクスの言葉が絶対であり、そこに疑義を挟む余地はない。

マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」に中で次のように書いた。

共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する。

こうしてブルジョアジーに対する殺人は正当化された。下剋上という階級闘争により実権を握ったソビエト共産党は絶対悪=ロシア皇帝ニコライ2世一家を皆殺しにした。彼らにとっては「善行を施した(慈悲殺人)」と言ってもいい。フランス革命の再現である。そして革命の成果といえば、権力を握り、贅沢三昧をする人間が交代しただけであった。

普通選挙でナチ党を第一党に選び、アドルフ・ヒトラーを首相にした当時のドイツ国民の心情もこれによく似ている。第一次世界大戦に敗北し、ドイツは膨大な賠償金を背負わされた。インフレは天文学的数字に膨れ上がり、物価水準は25,000倍を超えた。10兆マルク紙幣という代物まで発行されたという。「どうして自分たちだけ、こんな苦しい生活を強いられなければならないのか?何も悪いことをしていないのに。不公平だ」「それに引き換えユダヤ人は新聞などマス・メディアや、(ロスチャイルド家など)銀行を牛耳り、自分たちだけ美味しい思いを独占している。絶対に許せない!」こうして嫉妬・恨み=ルサンチマンを募らせ、ヒトラーの言葉に盲目的に付き従うことになる。

故にこの第⑮項は【⑦正義とか悪、不変の真理を説くものを信じるな。徹底的に疑え!】に接続している。

ツイッターをしていると、有名人の発言をリツィートばかりして悦に入っている人を時に見かける。自分は空っぽなのに、他人の言葉で「ひとかどの人物」になったような勘違いをしている輩、虎の威を借る狐だ。どうして自身で思惟し、言葉を紡ぐ努力をしないのだろう?

また以前、某社会人吹奏楽団の掲示板に拙ブログへのリンクが貼られ、「この人は僕が言いたかったことを全て代弁してくれている」と書かれていて無性に腹が立った。「自分が言いたいこと」を言語化する能力・技量すらないくせに、人の褌(ふんどし)で相撲を取るな!こうした依存心はその辺にうっちゃって、君たちは自分自身の足でしっかりと大地を踏みしめ、自立した人間になりなさい。

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