音楽史探訪

2020年1月 9日 (木)

ネルソンス/ウィーン・フィル「ニューイヤー・コンサート2020」とベートーヴェン交響曲全集

元旦に宿泊中だった群馬県の法師温泉 長寿館でウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート2020」をTV鑑賞した。

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今年の指揮者はアンドリス・ネルソンス。ラトビア出身の41歳。昨年亡くなったマリス・ヤンソンス(ロイヤル・コンセルトヘボウ管及びバイエルン放送交響楽団の首席指揮者を務め、ニューイヤー・コンサートに3回登壇)も同郷だ。

ラトビアはバルト三国のひとつで、バルト海を挟んで向かい側にスウェーデンがある。ラトビアの隣国がエストニアで、その対岸にフィンランドが位置する。エストニアといえばヤルヴィ親子が有名で(父ネーメ、長男パーヴォ、次男クリスチャン)、ネルソンスはパパ・ヤルヴィやヤンソンスから指揮法を学んでいる。なお、パーヴォは現在NHK交響楽団の首席指揮者を務めている。

第二次世界大戦後から1970年代までベルリン・フィルやウィーン・フィルを支配していたのはヘルベルト・フォン・カラヤン(ザルツブルク@オーストリア出身)やカール・ベーム(グラーツ@オーストリア出身)だった。しかしカラヤンの死後ベルリン・フィルのシェフを務めたのはクラウディオ・アバド(イタリア)、サイモン・ラトル(イギリス)であり、昨年からキリル・ペトレンコ(ロシア)が芸術監督に就任した。

最近のベルリン・フィル定期演奏会に登壇した主な指揮者たちを列挙してみよう。クルレンツィス(ギリシャ)、フルシャ(チェコ)、ウルバンスキ(チェコ)、アダム&イヴァンのフィッシャー兄弟(ハンガリー)、パーヴォ・ヤルヴィ(エストニア)、ゲルギエフ(ロシア)、ハーディング(イギリス)、メータ(インド)、ドゥダメル(ベネズエラ)といったところ。ドイツ人はティーレマンくらいしかいない。

ウィーン・フィル「ニューイヤー・コンサート」に目を転じると、近年登壇した戦後生まれのドイツ・オーストリア系指揮者はティーレマンとウェルザー=メスト(リンツ@オーストリア出身)のみ。この地域の人材不足が深刻化している。

どうしてオーストリアやドイツの音楽教育は衰退・地盤沈下を起こしているのか?まず、子供の人権に対する社会の意識変化が挙げられるだろう。現代では子供の意見・自主性を無視して無理矢理、音楽のスパルタ教育を受けさせることが難しくなった。しかし音楽のプロを目指すなら3,4歳くらいからの徹底した幼児教育が必須である。その点で、1989年ベルリンの壁崩壊まで鉄のカーテンに閉ざされていた東欧諸国(バルト三国・ハンガリー・チェコ・ポーランド・ルーマニア)やロシアには未だに古くからの音楽教育の伝統が残っていた(ドゥダメルは言うまでもなくエル・システマの申し子である)。

ドイツ・オーストリア圏では優秀なピアニストも壊滅状態である。現在ドイツの芸術大学でピアノ科教授を務める河村尚子の証言をお読み頂きたい(→こちらの記事 )。自由な気風の西側諸国ではピアノを学ぶ学生が年々減っており、ドイツの音楽大学で勉強しているドイツ人は全体の10%くらいしかいない。代わって東欧の人たちやアジア人が多いという

もう一つ。ナチス・ドイツによるホロコーストの影響も無視できないだろう。アドルフ・ヒトラーが政権を握ると、ユダヤ系の音楽家たちはドイツ・オーストリアから去った。指揮者で言えばブルーノ・ワルター(ドイツ)、オットー・クレンペラー(ドイツ)、ジョージ・セル(ハンガリーに生まれ、ドイツで活躍)らである。いくら戦争が終わったとはいえ、悪夢のような記憶しかない土地へ戻る気にはなれないだろう。

さて、2020年はベートーヴェン生誕250年という記念の年である。それに向けて昨年末、ウィーン・フィルは交響曲全集のCDをドイツ・グラモフォンからリリースした。その大役に抜擢されたのがネルソンスである。日本では音楽之友社から出版されている雑誌「レコード芸術」誌において、レコード・アカデミー大賞銅賞を受賞した。つまり年間ディスクのベスト3に選出されたということ。

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これまで誇り高く頑迷なウィーン・フィルがベートーヴェン交響曲全集の録音で白羽の矢を立てた指揮者を振り返ってみよう。

  • ハンス・シュミット=イッセルシュテット(1965−69)
  • カール・ベーム(1970−72)
  • レナード・バーンスタイン(1977−79)
  • クラウディオ・アバド(1985−88)
  • サイモン・ラトル(2002)
  • クリスティアン・ティーレマン(2008−10)

ベートーヴェンのシンフォニーが彼らにとって「勝負曲」であることが、よくお分かりただけるだろう。ネルソンスに対して全幅の信頼を寄せていることが、うかがい知れる。

古楽器復興運動の最先端で戦っていたアーノンクールがモダン・オーケストラの指揮に進出して以降、世界のオーケストラは分断され、楽員たちは混乱し、大いに悩み続けて来た。

つまりティーレマンを代表とする〈守旧派〉が主張するように、古典派音楽に於いてカラヤンやベームが生きていた20世紀の演奏スタイルをそのまま踏襲しても構わないのか、それともメトロノーム記号を遵守した高速演奏で、弦楽器はノン・ヴィブラートで弾くなどピリオド・アプローチ(古楽器奏法)を学ぶべきか?

ウィーン・フィルはアーノンクールと良好な関係を築きつつ、頑なにピリオド・アプローチを拒み続けて来た。ノン・ヴィブラートで弾いたら彼らの持ち味が損なわれ、オケの個性が失われてしまうからである。

では、今回彼らがタッグを組むことを熱望したネルソンスはどうか?僕は聴いてみて「20世紀の巨匠たちのような、どっしりと重厚なスタイルでもなく、かといって潤いがなく〈タッタカタ!〉と進む古楽器オケの有り様でもない、第三の道」だと感じられた。それは2019年8月23日にキリル・ペトレンコがベルリン・フィルの首席指揮者就任演奏会で振ったベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」で提示した、〈20世紀の演奏様式とピリオド・アプローチの融合・ハイブリッド〉に通じるものがある。時代は成熟し、Next Stageに入ったのだ(2000年頃に録音されたアバド/ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集は発展途上というか迷いがあり、未成熟・中途半端な印象を拭えない)。

ネルソンスのベートーヴェンは弾力があって動的。ゴムボールが跳ねて坂を転がり落ちる感じ。ピリオド・アプローチのような硬さはなく、ふわっと柔らかい響きがする。リズムはサクサクして小気味好い。〈生きる歓び〉が感じられる。

例えば明るく伸びやかな交響曲第3番「英雄」。軽やかに歌う。従来から言われているようなナポレオンの気宇壮大なイメージとは全然違う。第2楽章も重くならず、ゆったりとしているが余り葬送行進曲という感じじゃない。〈透明な哀しみ〉がある。

交響曲第5番「運命」も〈苦悩を乗り越えて勝利へ!〉というコンセプトから遠く離れて、明朗で端正な世界が広がってゆく。

あと驚いたのが交響曲第6番「田園」や第7番で、第1楽章(ソナタ形式)提示部の繰り返しをしなかったこと!スコアに書かれた繰り返しを省略するのはカラヤン・ベーム時代は普通のことだったが、1970年代に入り、カルロス・クライバーやクラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティら(当時の)若手指揮者たちがこぞって繰り返しを敢行するようになった(それに対して音楽評論家たちはことごとく苦言を呈した)。そして80年代以降、アーノンクール、ノリントン、ブリュッヘン、ガーディナーら古楽オーケストラの指揮者(=原理主義者)たちがベートーヴェン演奏になだれ込み、楽譜に記載されたリピート記号を遵守することが正しい作法、デフォルトとなった。だから却ってネルソンス/ウィーン・フィルの姿勢は挑発的というか、新鮮に感じられる。

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「ニューイヤー・コンサート2020」で感じ取ったのは、ネルソンスとウィーン・フィルの抜群の相性の良さである。相思相愛。楽員たちが正に〈水を得た魚〉のように、嬉々としてピチピチ飛び跳ねている。ふっくらとウインナ・ワルツを歌い、エレガント。馥郁たる香りが立ち込め、陶然となった。間違いなく、これから何度もネルソンスは再登板することになるだろう。

あと「郵便馬車のギャロップ」でネルソンスがトランペットを吹いたのだが、これが意外にもめちゃくちゃ上手くて呆気にとられた。調べてみると彼は音楽家としてのキャリアをラトビア国立歌劇場管弦楽団の首席トランペット奏者としてスタートさせ、後に指揮者に転向したらしい。どうりで。そもそもニューイヤー・コンサートはその創始者クレメンス・クラウス(ウィーン生まれ)が亡くなり、急遽当時コンサートマスターだったウィリー・ボスコフスキー(ウィーン生まれ)がヴァイオリンを持ったまま指揮台に上がった。ボスコフスキーが病に倒れた後登場したロリン・マゼールもそのスタイルを踏襲し、指揮台でヴァイオリンを奏でた。ネルソンスのトランペットはその伝統を想起させるものだった。Good job !

それと、ボスコフスキーやマゼールの時代、テレビ中継で挿入されるウィーン国立歌劇場バレエ団(当時)のダンスは、いかにも田舎の〈芋にーちゃん〉と〈芋ねーちゃん〉が踊ってます、という体(てい)だったのだが、組織体制の変更でウィーン国立バレエ団となった現在は衣装や振付が洗練され、隔世の感がある。これは2010年にフランスの天才ダンサー、マニュエル・ルグリが当団の芸術監督に就任したことと決して無関係ではあるまい。ルグリ恐るべし!

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2019年7月 9日 (火)

【考察】グルーヴ(groove)って、一体何?

最近、ジャズ・ミュージシャンやヒップホップのアーティストたちの口から〈グルーヴ(groove)〉という言葉を聞く機会が増えてきた(クラシックの音楽家たちは使わない)。2000年頃から広く使われ始めたようだ。しかしどうもその正体が見えてこない。そこでじっくりとこの言葉について考えてみた。

まずウィキペディアの定義を見てみよう。

音楽用語のひとつ。形容詞はグルーヴィー(groovy)。ある種の高揚感を指す言葉であるが、具体的な定義は決まっていない。

デジタル大辞泉では次のようになっている。

ジャズやロックなどの音楽で、「乗り」のことをいう。調子やリズムにうまく合うこと。

何だかわかったようなわからないような……。狐に化かされたような、モヤモヤした気持ちになるのは僕だけではあるまい。では次に語源からアプローチしてみよう。

grooveとは、そもそもアナログレコード盤の音楽を記録した「」を意味する言葉である。

ターンテーブル上で回転するLPレコードに針を落とした状態で、真横から見た光景を想像して頂きたい。針は溝に沿って上がったり下がったりする。それはまるで波乗り=サーフィンの様に見える。この〈サーファー気分=グルーヴィ〉と見做せば、なんとなくイメージが湧くのではないだろうか?

つまり僕は次のような定義を提唱したい。

音楽を聴いたり演奏した時に得られる、サーファーが波に乗れた時の快感、心地よさに相当する感情。(音の)波動律動うねり。それは多幸感をもたらすと同時に、時として畏怖の念を抱かせる存在でもある。

〈グルーヴ(groove)〉はいわば、ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)と言えるだろう。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。そしてゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシア(オセアニア)の原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。映画「スター・ウォーズ」のフォースもそう。ジェダイの騎士がフォースの力で敵を吹き飛ばしたりするが、あれこそ正に空気の波動であろう。つまり〈フォース=グルーヴ(groove)〉だ。ユング心理学においてはヌミノース体験に相当する。

神は細部に宿る

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2019年1月 4日 (金)

ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート今昔物語

旅先の宿・法師温泉でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団恒例のニューイヤーコンサート 2019をNHKの中継で観た。

今年現地の特設スタジオにゲストとして登場したのはウィーン・フィルの元コンサートマスター、ライナー・キュッヘル夫妻と、2018年11月26日に同団のヴィオラ奏者と結婚した中谷美紀。興味深かったのは、NHKのアナウンサーが「女優の」ではなく「俳優の中谷美紀さんです」と紹介したこと。これはきっと中谷のこだわりなのだろう。それから彼女の結婚について一切触れなかったことも反って異様で、可笑しかった。プライベートに関してはアンタッチャブルということなのかな?中谷の口から「シェーンベルク」などといった固有名詞が飛び出したので、感心することしきり。

さて、2019年新春の指揮者として抜擢されたのはドイツ・ベルリン出身のクリスティアン・ティーレマン。

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僕は時代に背を向ける守旧派・ティーレマンのことを〈生きた化石〉と揶揄しており、大嫌いなのだが、お手並み拝見と構えていたら意外にも極上の演奏で驚いた。

ピリオド・アプローチ(古楽奏法)が主流となった現代の演奏の多くはどちらかと言えば感情を排し、Dryである。ところが今年のニューイヤーはWetで、これだけ艶のある音は本当に久しぶりに聴いた気がした。ティーレマンはR.シュトラウスのオペラを得意としており、「ばらの騎士」へ通じる馥郁たる色香を感じた。リズムも軽やか。

僕が初めてニューイヤーコンサートを視聴したのは小学生の頃である。未だボスコフスキーが健在だった。考えてみれば過去40年の変遷を見てきたわけで、中には若い人にとって耳新しいこともあるんじゃないか?そう思い、今昔の違いを語ってみることにした。

1)昔は指揮者が固定制だった。

創始者であるクレメンス・クラウスが1954年に亡くなり、当時ウィーン・フィルのコンサートマスターだったヴィリー・ボスコフスキーが1955年から79年まで25年間、指揮者を務めた。ボスコフスキーの病気で登壇したのがロリン・マゼール。彼は7年連続で登板した。ボスコフスキーはヴァイオリンを弾きながら指揮台に立ち、時折り弓を指揮棒代わりに使った。この「弾き振り」スタイルはピッツバーグ交響楽団でヴァイオリニストとして活躍した経験を持つマゼールも踏襲した。そして87年のカラヤン以降は「弾き振り」がなくなり、毎年指揮者が交代するシステムとなった。因みに2020年に登壇する予定なのはラトビア出身のアンドリス・ネルソンスである。

2)昔NHKは第2部からしか生中継をしていなかった。

現在は日本時間の夜7時15分から第1部の演奏が開始され、休憩を挟み8時15分から第2部が始まるというスタイルだが、昔は第2部からしか放送がなかった。第1部も視聴出来るようになったのはNHK-BS放送開始(89年6月1日)以降と記憶している。地上波では従来どおり第2部のみ放送し、「衛星放送なら第1部から見れますよ、だらか専用アンテナを設置してくださいね!」という意向だった。

3)女性楽員問題と〈ザビーネ・マイヤー事件

ボスコフスキー時代、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの楽員は全員男性だった。1982年、ベルリン・フィルの芸術監督兼終身指揮者だったカラヤンが女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤー(当時23歳)をBPOに入団させようとしたが猛反発を受け、楽員全員による投票でマイヤーの仮採用は否決された。「マイヤーの音には、BPOの管楽器奏者にとって不可欠の、厚みと融合性が欠如している」というのが総意だった。この〈ベルリン・フィル入団騒動〉でマイヤーはかえって有名になり、現在では世界屈指のソリストとして認められている。〈ザビーネ・マイヤー事件〉でベルリン・フィルとの関係がすっかり冷え込んだカラヤンは晩年、ウィーン・フィルに客演することが多くなった。チャイコフスキーの後期交響曲やドヴォルザークの交響曲第8番、9番、ブルックナーの交響曲第7番、8番がウィーン・フィルとレコーディングされたのも、87年のニューイヤーコンサートにカラヤンが登場したのも、こういう経緯があった。またこの時にソプラノのキャスリーン・バトルが「春の声」を歌ったが、異例の出来事であり、カラヤン以降にゲスト出演者は全くいない。

カラヤンの死後シェフがクラウディオ・アバドに交代し、ベルリン・フィルは女性奏者をどんどん採用するようになった。しかしウィーン・フィルは頑なに男尊女卑を押し通し、女性の権利団体から国際的な非難を浴び続けた。外圧に耐えかねて漸く女性(ハープ)奏者の入団を認めたのは1997年のことである。現在は全楽員の約1割を女性が占め、初の女性コンサート・マスターも誕生した(アルベナ・ダナイローヴァ)。

4)客席の日本人

DVDで確認することが出来るが、ボスコフスキーが「弾き振り」していた頃のニューイヤーコンサートの客席には殆ど日本人がいない。しかし今年の中継を見ると、カメラが客席のどこを写しても、日本人だらけ。雨後の筍のごとく、うじゃうじゃいる。ここ40年で日本人が豊かになったことの証左であり、国際的に見てもとりわけ我々がニューイヤーコンサートを愛しているということなのだろう(年末に第九を聴く日本独自の習慣に似ている)。

5)ウィーン国立バレエ団

演奏中にウィーン国立バレエ団の踊る映像が挿入されるのは、ボスコフスキー時代から現在まで変わらない伝統である(映像ソフトとして販売される商品にはない)。しかしダンスの質が大きく変貌した。昔は「いもねーちゃんと、いもにーちゃんが田舎の古風な踊りを披露している」という印象だった。

はっきり言ってウィーン国立バレエ団は世界的に見て二流〜三流の団体である。因みに一流と言えるのはパリ・オペラ座バレエ、英国ロイヤル・バレエ、ボリショイ・バレエ、マリインスキー(旧キーロフ)・バレエ、アメリカン・バレエ・シアター(ABT)、ニューヨーク・シティ・バレエ、そしてミラノ・スカラ座バレエ団といったところである。

ところが今年のパフォーマンスを観ると、斬新で洗練された振付が施されており、ダンサーも白人だけではなく、アジア系も混ざり国際的になっている。目が覚めるような鮮烈な印象を受けた。

6)アンコール

アンコールで「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」が演奏されるのは今も昔も変わらぬ光景だ。しかし指揮者が「ラデツキー行進曲」で客席を振り向き、手拍子をコントロールするようになったのはマゼール以降である。ボスコフスキー時代は聴衆任せだったので、中間部の静かなところで手拍子がそれに同調出来ず、全く統制が取れていなかった。

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2018年12月 7日 (金)

【総括】20世紀の芸術(現代美術・現代音楽)とは一体、何だったのか?

僕は20世紀後半(昭和40年代〜平成)を生きてきた。小学校4年生くらいからクラシック音楽を聴くようになったが、当初から不思議に思っていたことがある。

コンサートで演奏されるのは大体19世紀の作曲家(リスト/ワーグナー/ブルックナー/マーラー)までで、20世紀以降の現代音楽は殆ど取り上げられない。強いて言えばストラヴィンスキー「春の祭典」やバルトーク「管弦楽のための協奏曲」など数曲あるが、それでもせいぜい20世紀前半止まりだ。

結局、シェーンベルク/ヴェーベルン/ベルクら新ウィーン楽派、ブーレーズ/ノーノ/シュトックハウゼンらセリー音楽トータル・セリエリズム)といった無調音楽は一般聴衆から拒絶され、コンサートのメイン・プログラムに入れると全く集客出来ず、閑古鳥が鳴くという状況が現在も続いている。

20世紀の聴衆が現代音楽に対して嫌悪感を抱き、そっぽを向いてしまった主な理由として〈シェーンベルクによる十二音技法の発明無調音楽への完全移行〉という流れが挙げられる。はっきり言って、聴いていて心地よくない。不快だ。我々の耳は依然として調性音楽を求めている。では何故、〈作曲家の意志↔聴衆の嗜好〉に埋めようのない乖離が起こってしまったのか?そこにはヨーロッパ人が根強く持つ進歩思想、つまり【芸術は、新しい形式が古いそれに続くという、進歩の状態に絶えずある】と見なす思想が横たわっている。

進歩思想は生物の進化論と深く関わっている。ここで多くの人が持つ誤解を解いておきたいのだが、チャールズ・ダーウィンは進化(evolution)という言葉を使っていない。彼の著書「種の起源」に登場するterm(用語)はmodification(変更・修正・調整)である。種の保存(遺伝)、自然選択(淘汰)、存在し続けるための努力(生存競争)がその理論の根幹を成す。つまりダーウィンは〈遺伝子の突然変異→環境に適応したものが生き残る〉ことを主張しているのであって、その変化は必ずしも進化を意味しない。例えば人間の足の指を考えればいいだろう。使わないから退化している。手指の変化と真逆の関係にあるのだ。

進歩思想の深層にはキリスト教(およびユダヤ教)が潜んでいる。旧約聖書の創世記によると、最初の男アダムは神に似せて造られた。つまり人間は神の似姿であり、成長とともに父親(理想像)に近づかなければならないという強迫観念妄執に彼らは囚われている。これを父性原理という。

1970年代くらいまで欧米人(と西洋かぶれの日本の知識人・エリート大学生)は本気で進歩史観を信じていた。【歴史とは人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程である】と見なす歴史観である。イギリスにおけるホイッグ史観がその代表例で、【歴史とは人類が理性によって現状を克服し、精神の自由を実現させていく過程である】とするドイツのヘーゲル史観や、カール・マルクスによる唯物史観も同様。マルクスにとっての最終形態は共産主義社会の到来であり、その実現(=正義)のためには暴力革命も肯定される。その成れの果ての姿が連合赤軍によるあさま山荘事件であり、(テルアビブ空港乱射やダッカ日航機ハイジャックなど)日本赤軍事件であった。

音楽における進歩思想は【無調音楽という新しい進歩の段階に入ったのだから、いまさら調性音楽という前の段階には逆行出来ない】ということになるだろう。故に20世紀に調性音楽を守ろうとした作曲家たちは「時代遅れ」「ナンセンス!」という烙印を押され、映画音楽やミュージカルなどのジャンルに散っていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、ジョン・ウィリアムズ、ニーノ・ロータ、クルト・ワイル、レナード・バーンスタイン、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド・ウェバー、久石譲らである。

映画音楽に使用したモティーフを流用したコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は1947年に初演されて以降、半世紀に渡って馬鹿にされ、蔑まれ、無視され続けてきた。しかし21世紀に入り漸く調性音楽の復権が進み、日本でもオーケストラの定期演奏会でしばしば取り上げられるようになった。

現代美術においてもは進歩思想が跋扈した。つまり具象を否定し、抽象絵画に走ったのである。そして鑑賞者の共感と支持を完全に失った。このように20世紀における現代音楽と現代美術、そして共産主義国家建設という壮大な実験(と失敗)は完全にリンクしていた

僕に言わせれば芸術における進歩思想は愚の骨頂であり、殆ど狂気の沙汰である。文学や演劇を例に取れば分かり易いだろう。ここで読者に2つ質問をしよう。

  • あなたは紫式部「源氏物語」よりも、村上春樹の小説の方が進歩(進化)していると思いますか?
  • あなたは古代ギリシャ悲劇「オイディプス王」「エレクトラ」やシェイクスピアの作品よりも、現代演劇の方が進歩(進化)していると思いますか?

全くナンセンスな問いだ。それぞれの時代に様式(style)の変化はあるだろう。しかしそれは進歩ではない。そしていつの時代にも優れた作品と、そうでないものがある。それだけのことだ。同時代の人間にはその真価を見抜けず、時の洗礼を経なければ判らないこともある(例えばマーラーやコルンゴルトの音楽)。それが自然淘汰である。

また進歩史観の間違い・迷妄も次の2つの問いにより簡単に証明出来る。

  • あなたは19世紀ドイツの首相ビスマルクよりも20世紀に普通選挙で首相に就任したアドルフ・ヒトラーの方が優れた政治家だと思いますか?
  • あなたはエイブラハム・リンカーンよりもジョージ・W・ブッシュの方が優れたアメリカ大統領だと思いますか?

賭けてもいい。少なくとも過去2,000年間、人間性(humanity)は一切進化していない。もし人類が進化していると思うのなら、それは単なる錯覚である。代わって間違いなく進化していると言えるのは科学技術であり、富の再分配など社会(補償)制度、つまりsystemだ。

確かに人類の知識(知恵)は増えている。でもそれは進化じゃない。文字という媒体(現代ではコンピューター)により知識の蓄積が可能となり、それを幼少期から効率よく脳に詰め込むための教育制度(system)が発達したのだ。履き違えてはいけない。

故に人の心(意識+無意識=自己)を表現する芸術に、進化などあろう筈がないのである。

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2018年11月11日 (日)

《聖母マリアの夕べの祈り》@いずみホールと、「マリア崇敬」について

11月2日(水)いずみホールへ。

  • モンテヴェルディ:聖母マリアの夕べの祈り
  • カヴァッリ:サルヴェ・レジーナ(アンコール)

を聴く。演奏はジャスティン・ドイル/RIAS合唱団、カペラ・デ・ラ・トーレ(ピリオド楽器アンサンブル)。独唱は、

ソプラノ:ドロテー・ミールズ、マーガレット・ハンター
テノール:トマス・ホッブズ、マシュー・ロング

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今回のシリーズ【古楽最前線!ー躍動するバロック】を企画・監修した礒山雅・国立音楽大学招聘教授は2018年1月に雪で足を滑らせ頭を打ち、外傷性頭蓋内損傷のため死去した(享年71歳)。礒山氏はバッハ研究で名高い音楽学者だが、《聖母マリアの夕べの祈り》について次のように書いている。

私が無人島に持っていきたい曲は、モンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈り Vespro della Beata Vergine》である。《マタイ受難曲》ではないのですか、とよくいわれるが、さすがの《マタイ》も《ヴェスプロ》の前では色褪せる、というのがかねてからの実感である。中世以来連綿と続いてきた、「マリア崇敬」の芸術――その頂点が美術ではラファエロの聖母像にあるとすれば、音楽では、間違いなくこの作品にあると思う。

<講談社学術文庫「バロック音楽名曲鑑賞辞典」より> 

ここで礒山氏の言う「マリア崇敬」について考察してみよう。

(ユダヤ教及び)キリスト教は父性原理の宗教である。旧約聖書の「創世記」において、神はまず自分の姿に似せ最初の男アダムを創り、アダムの肋骨から最初の女イヴを誕生させた。つまり男がで、女はということになる。また、三位一体:〈父と子と精霊〉に女性は含まれない

父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、父性は子供を能力や個性に応じて分類する。

フランス人はまさに父性原理の権化であり、首と胴体を「切断する」ギロチンはフランス人が発明した。21世紀の現在もフランス人は赤ちゃんが生まれると、幼少期から夫婦と別室に寝かせる。子供を早くから自立させることが目的とされるが、つまりは親子の情や絆を「切断」しているわけだ。フランス人の多くが冷淡な性格なのは、ここに原因があるのではないかと僕は勘ぐっている。

そんな父性原理に対して、母性原理を導入して補完しようとした動きが「マリア崇敬」なのではないかというのが僕の考えである。

「マリア崇敬」はイタリアを中心に盛んとなった。世間一般にイタリア人=マザコンと言われることと(→こちらのブログを参照あれ)、母性原理導入とは無関係ではないだろう。スーパーマリオの口癖「マンマ・ミーア!」(ミュージカルの題名にもなった)は「なんてこった!」という意味で用いられるが、直訳すると「僕のお母ちゃん!」である。英語なら"Oh,my God !"なわけで、つまり〈神(父)→母〉に変換されている。「マリア崇敬」がこの慣用句にも潜んでいるのだ。イタリア人がどれくらい母親を大切にし、甘えているかは、フェデリコ・フェリーニ監督作品などイタリア映画を観ればよく分かる。

一方、ドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハの受難曲(Passion)やミサ曲、カンタータは父性原理に貫かれており、非常に厳格である。余りマリアに触れられることはない。この「切断する」厳しい父性原理はベートーヴェンに引き継がれた。

マリアに焦点が当てられた宗教曲「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」の名作を作曲したのは、パレストリーナ、ヴィヴァルディ、ペルゴレージ、ロッシーニなどやはりイタリア人が中心であり(チェコのドヴォルザーク作も素晴らしい)、ドイツ・オーストリア・フランス・イギリスの作品は極めて稀だ。フランス人のプーランクが「スターバト・マーテル」を作曲しているという反論もあろうが、彼はゲイだから。一般にゲイの人に「どうして結婚されないんですか?」と尋ねると「母が素晴らしすぎたから」という答えが帰ってくる。ニーノ・ロータ(作曲家)や木下惠介(映画監督)、淀川長治(映画評論家)がそうだった。閑話休題。

演奏について。色彩豊かな合唱が素晴らしく、ソリストも特に透明感のあるドロテー・ミールズ、たおやかで美しいトマス・ホッブズの歌声が絶品だった。

僕は予習としてヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂で収録されたジョン・エリオット・ガーディナー/モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツのDVDを繰り返し鑑賞して臨んだのだが、指揮に関してはガーディナーの方が躍動感で勝っていると思った。

あと楽器編成が両者で相当異なっていたので面食らった。カペラ・デ・ラ・トーレは18人の編成で、いささか音が薄っぺらく感られた。

今回の上演では途中、サラモーネ・ロッシ、ビアージョ・マリーニ、ガスパロ・ザネッティが作曲した当時の器楽曲や、グレゴリオ聖歌「私を見てはならない」が挿入された。またガーディナーの映像同様に、要所要所でソリストと合唱が場所を移動して歌った。

《聖母マリアの夕べの祈り》について、モンテヴェルディ研究者のジルケ・レオポルト博士は「それは、さまざまな機会に応じて配置を入れ替え、編成を変えて上演することのできる、小品のゆるやかな連合体なのです」と書いている。

言い換えるならば、J.S.バッハ以降の音楽とは違って、【古楽とは、ジャズのジャムセッション(Jam session)・即興演奏( Improvisation)の如く、自由度が高くて変換可能な音楽である】と、僕は理解した。

礒山さんがもし生きておられたら、さぞかし今回の演奏を歓び、心から愉しんで聴かれたことだろうと、しみじみ思った。

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2018年5月 8日 (火)

シリーズ《音楽史探訪》「トリスタンとイゾルデ」から「ペレアスとメリザンド」へ〜その構造変換を読み解く。

ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が初演されたのは1865年であった。その起源はケルトの説話であり、12世紀の中世フランスで韻文の物語にまとめられ、イギリスに於いてアーサー王物語に組み込まれた。そしてトリスタンは円卓の騎士に一人になった。

一方、ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンク(「青い鳥」の作者)が書いた戯曲「ペレアスとメリザンド」がブリュッセルで出版されたのが1892年。翌93年にパリで初演された。

「ペレアスとメリザンド」は多くの作曲家の創作意欲を掻き立てた。フォーレ(フランス)は1898年ロンドン初演のための劇付随音楽を作曲し、これに基づいたオーケストラ組曲を1900年に発表した。ハープの分散和音にフルート独奏が乗るシシリエンヌは余りにも有名である。

1902年にはドビュッシー(フランス)によるオペラが初演された。台詞のカットや移動があるものの、彼はメーテルリンクの戯曲にほぼ忠実な形で台本にしている。

1905年にはシェーンベルク(オーストリア)唯一の交響詩「ペレアスとメリザンド」が初演された。シェーンベルクが無調音楽や12音技法を確立する前の作品であり、ワーグナーの楽劇を彷彿とさせるライトモティーフ(示導動機)が用いられ後期ロマン派の香りが濃厚である。

そして同年、戯曲のヘルシンキ初演のためにシベリウス(フィンランド)が劇付随音楽を作曲し、オーケストラ組曲にまとめ上げた。

ドビュッシーやシェーンベルクがライトモティーフ(示導動機)を導入していることでも分かる通り、「ペレアスとメリザンド」に携わった作曲家たちが「トリスタンとイゾルデ」を意識しているのは明白である。後半生のドビュッシーはワーグナーに批判的だったが、若い頃の彼はワグネリアン(心酔者)だった。1880年代初期にはウィーンで「トリスタン」を観劇し、かつそのスコアを所有して丸ごと暗記していたという逸話があり、85年に留学先ローマのアポロ劇場で「ローエングリン」を鑑賞した記録も残っている。彼が初めてバイロイト詣でするのは1888年。「パルジファル」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に接し、翌89年にはバイロイトでも「トリスタン」を観劇している。

楽劇「トリスタンとイゾルデ」のあらすじはこうだ。

アイルランドの王女イゾルデは敵対するイングランド・コーンウォールのマルケ王との政略結婚のため、王の甥トリスタンに護衛され航海していた。かつての婚約者の仇でもあるトリスタンに密かに心惹かれるイゾルデは船上で服毒心中を図るが、侍女ブランゲーネが毒薬の代わりに愛の媚薬を手渡したため、それを飲んだトリスタンとイゾルデは瞬く間に熱愛に陥る。マルケ王の妻となったイゾルデだが、トリスタンとの逢瀬を重ねる。しかし密会の場に王が現れる。トリスタンは王の家臣メロートの剣によって瀕死の重傷を負うが、自分の城に戻りイゾルデを待つ。ようやくイゾルデが到着するが、トリスタンは愛するイゾルデの腕の中で息絶える。媚薬の仕業と知り2人を許そうと王一行がやってくるが、イゾルデもトリスタンの後を追って果てる。

ワーグナーが参照した大本の物語では、アイルランド王は強暴な竜の存在に悩んでおり、トリスタンが竜を退治するというエピソードがある。また後半の展開も異なり、トリスタンは金髪のイゾルデをマルケ王に返し、自身はコーンウォールを去るという条件で王と和解する。彼はブルターニュへ赴き、ブルターニュ王の娘、白き手のイゾルデと結婚する。その後、国は戦禍に巻き込まれトリスタンは瀕死の重傷を負う。自分の死期を悟ったトリスタンは使者に金髪のイゾルデからもらった金の指輪を託してコーンウォールに行くように頼んだ。そして帰りの船に金髪のイゾルデが乗っているなら白い帆を、乗っていないなら黒い帆を掲げて欲しいと言った。やがて、コーンウォールからの船が向かってきているという知らせが入り、トリスタンは白き手のイゾルデに船の帆の色を尋ねる。嫉妬に狂った彼女が「黒い帆です」と嘘をつくと、落胆したトリスタンは間もなく息を引き取った。

一方、「ペレアスとメリザンド」の物語は以下の通り。

架空の国アルモンドの王子ゴローは迷い込んだ森の奥深く、泉のほとりで見つけたメリザンドと名乗る不思議な女性に魅かれ、彼女の素性も分からないまま結婚する。祖父であるアルモンド国王アルケルの許しを得て帰国したゴローとメリザンドだが、メリザンドはゴローの異父弟ペレアスと城の庭にある「盲の泉」で親交を深める。メリザンドはゴローからもらった結婚指輪をもてあそぶ内にそれを泉の底へ落としてしまう。メリザンドが指輪をしていないことに気づいたゴローは激怒するが、メリザンドは「海辺で落とした」と嘘をつく。2人の親密さに疑念を持ったゴローは密会場面を目撃し嫉妬に狂ってペレアスを殺害してしまう。そのまま寝込んだメリザンドは、娘を産んだ後衰弱していき、ゴローからペレアスとの関係を問われ「愛したけれど、罪は犯していない」と答え絶命する。

両者には以下の対応関係が認められる。

  • トリスタンの【アイルランド↔イングランド】という二項対立がペレアスでは【森↔城】に置き換えられている《空間のコード》。アイルランドは言わずと知れた妖精の国。トリスタンの物語でも竜が棲んでいる。つまりこれは【自然↔文化】の対立であると言える。
  • トリスタンとイゾルデが恋に落ちるのは【アイルランド↔イングランド】の境界域にある海上。一方、ペレアスとメリザンドの場合は森と城の間にある泉だ。両者ともがモチーフになっていることにも注目。トリスタンたちが飲んだ媚薬も液体である。
  • イゾルデは結婚相手(国の最高権力者)の親族であるトリスタンを愛する↔メリザンドは結婚相手(王位継承者)の親族であるペレアスを愛する《婚姻・親族関係のコード》
  • トリスタンは愛する金髪のイゾルデから貰った指輪を後生大切にしている↔メリザンドは愛していないゴローから受け取った指輪をぞんざいに扱う《逆転の変換》《贈与のコード》
  • 白き手のイゾルデ金髪のイゾルデに嫉妬し、トリスタンを死に至らしめる(ワーグナーのオペラには白き手のイゾルデが登場しないので、王の家臣メロートの嫉妬に置き換えられている。メロートが幼馴染であるトリスタンに対して同性愛的感情を抱いていたという解釈も可能)↔ゴローはペレアスに嫉妬し、殺害する

以上の構造分析をお読みになれば、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に意識的/無意識的に影響を受けた作曲家たちが「ペレアスとメリザンド」に殺到した理由がお分かり頂けるだろう。なおフォーレは友人の作曲家ポール・デュカスに宛てた手紙の中で「トリスタン」からの一節を引用している。

またメリザンドは明らかに水の精として描かれており、メーテルリンクが「トリスタン」だけではなく、を司る精霊ウンディーネの物語にも触発されていることを付け加えておく(1811年に出版されたドイツの作家フーケの「ウンディーネ」や1939年にフランスのジロドゥが執筆した戯曲「オンディーヌ」が有名)。ドビュッシーのオペラでは省略されているが、ゴローがメリザンドを伴って城に帰ってくる日に女中たちはありったけのを使って城門周囲を洗い浄める。またメリザンドが臨終の際に彼女たちは病室の壁ぎわに並び、ひざまづく。どうやらメリザンドをあるじとして密かに見守っていたらしい。

続いてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が後世の作品に与えた音楽的影響について考察しよう。「トリスタン」といえば、何と言っても徹底的な半音階の追求である。調性を無視したかのような半音階の上行・下降は「無限旋律」と名付けられた。

フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースはその著書「神話論理」4部作の中で、神話に登場するのことを「半音階的なもの」と呼んだ。つまり半音階グラデーション(色調・明暗などの段階的変化)に対応している(レヴィ=ストロースは生から死への移行を示す魚獲りの毒、病気も「半音階的なもの」とした)

半音階の駆使はドビュッシーやラヴェルらに引き継がれた。フランス印象派の音楽を聴くと色彩豊かに感じられるのは、そのためである。

またシェーンベルクが発明した「12音技法」は従来のドレミファソラシという7音だけではなく、その間にある半音を含めた12音を平等に扱うという思想である。つまりその発想の原点にワーグナーの半音階がある

こうして見ていくと、20世紀の音楽の礎を築いたのが「トリスタンとイゾルデ」だったのだということがよく理解出来る。

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2017年11月 8日 (水)

カズオ・イシグロは日本人?それとも英国人?

今年のノーベル文学賞は、長らく受賞が期待されている村上春樹ではなく、事前に全く取り沙汰されていなかったカズオ・イシグロに白羽の矢が立った。驚天動地、寝耳に水の出来事であった。

僕が彼の名前を初めて知ったのは1994年に劇場で観たアンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン主演のイギリス映画「日の名残り」の原作者としてであった(名作)。その後、「わたしを離さないで」は2006年に日本で出版された年に単行本で読んだ。静謐で哀しく、心に残る小説であった。イシグロがプロデューサーを務めた映画版もすこぶる出来が良かった。

カズオ・イシグロは1954年長崎県長崎市に「石黒一雄」として生まれた。両親は日本人。5歳の時、海洋学者だった父親の仕事の都合でイギリスに移住した。イギリスに帰化するのは28歳である。「日系英国人」受賞に日本のマス・メディアは湧いたが、一方で反日左翼の連中が「彼は歴(れっき)としたイギリス国籍であり、日本人じゃない。はしゃぐな!」と冷や水を浴びせた。

カズオ・イシグロは果たして英国人なのだろうか?それとも日本人か?

僕の答えは「二つの祖国を持つ男」である。もし彼が日本に生まれ育ったならブッカー賞を受賞した「日の名残り」のような小説は絶対に生まれなかったし、逆にイングランド人から「わたしを離さないで」などの小説が生み出されるはずもない。つまり彼の特殊な生い立ちが創造物と密接な関係を帯びているのである。それは日本的なものと英国的なものの複合体結晶である。

例えば同じくノーベル文学賞を受賞したサミュエル・ベケット(「ゴドーを待ちながら」)の場合を考えてみよう。ベケットの国籍はフランスだが、生まれはアイルランド。彼は仏語で作家活動をしたが、同時に自分自身で英語版も執筆した。20世紀演劇の金字塔「ゴドーを待ちながら」は彼が生涯アイルランドに留まっていたとしても、はたまた生粋のフランス人であっても生み出されなかっただろう。やはり両者の複合体結晶と言える。

フレデリック・ショパンといえば誰しもポーランドを思い浮かべる。マズルカやポロネーズはポーランドの民族舞踏音楽だ。しかし彼は20歳の時にポーランドを離れ、二度と祖国の土を踏むことはなかった。その後パリで活躍し、パリで没した。さらに彼の父はフランス人である。ならば彼の作品はフランス音楽なのだろうか?ナンセンス、馬鹿げている。

交響曲 ニ短調で有名なセザール・フランクはベルギーで生まれ、フランスで活躍した。彼の音楽は「フランス音楽」とも「ベルギー音楽」とも明快な判別が不能である。またフランス印象派の作曲家モーリス・ラヴェルの音楽にスペインの色彩が色濃いのも(スペイン狂詩曲、道化師の朝の歌、オペラ「スペインの時」)、彼がスペインとの国境近くのバスク地方に生まれ、母がバスク人だったことと無関係ではない。

彼らのことを「フランス人」と一方的に決めつけるべきではなく、Cosmopolite / Cosmopolitan(国際人)と呼ぶべきだろう。それはカズオ・イシグロにも当てはまることだ。

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2017年2月15日 (水)

シリーズ《音楽史探訪》20世紀末回顧:空前のブルックナー、マーラー・ブーム〜しかしショスタコの時代は遂に来なかった。

1980年頃から2000年にかけての20年間は日本でブルックナー、マーラー・ブームが巻き起こった。録音メディアが丁度アナログからデジタルへの移行期で、CDの普及が大きかったように想う。

LPレコード時代、マーラーの交響曲で1枚に収まるのは第1,4番と「大地の歌」くらいで、その他は大概レコード4面を要した。つまり鑑賞中に3回レコードをひっくり返さないといけなかったわけで、煩わしいことこの上なかった。ブルックナーの交響曲も第5,7,8番はレコード2枚組で、当然値段も高かった。

1980年代はレナード・バーンスタインが2度目のマーラー交響曲全集を制作中で、クラウディオ・アバドもウィーン・フィルやシカゴ交響楽団とマーラーのセッション録音を重ねていた。レニーがイスラエル・フィルを率いて来日し、第9番の超弩級の名演を披露したのは85年である。またジョゼッペ・シノーポリが手兵フィルハーモニア管弦楽団との来日公演(87年)で第2番「復活」と第5番を取り上げた際は一大センセーションを巻き起こした(「復活」はNHK教育テレビ=現Eテレでも放送された)。レニーが亡くなったのが90年、そしてアバド/ベルリン・フィルがサントリーホールで「復活」を演奏している最中に携帯電話が鳴り出し大問題になったのが96年(ホールに電波抑止装置が導入される契機となった)。この頃からブームは下火になっていった(シノーポリは2001年に死去)。

ブルックナーについては朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団が伝説的名演、聖フローリアン修道院での交響曲第7番を録音したのが1975年10月12日。これがLP2枚組でビクターから市販されたのが79年だった。その直後からブームに火が付いた。オイゲン・ヨッフムがバンベルク交響楽団との来日公演で8番を演奏したのが82年、ロイヤル・コンセルトヘボウとの第7が86年。このあたりで最高潮に達したと言えるだろう。そして2001年に朝比奈が亡くなり、熱は次第に冷めていった。

NHK交響楽団の首席指揮者に着任したパーヴォ・ヤルヴィがつい最近、ヒラリー・ハーンとの対談(@フランクフルト)でとても興味深いことを語っている→動画(3分40秒あたりから)。「現在世界で未だにブルックナーの音楽が演奏され、愛されているのはドイツと日本だけ。そして面白いことに日本でブルックナーを演奏すると、会場には男性客しかいないんだ!ラヴェルとかチャイコフスキーとか、もっとロマンティックで美しい曲を演奏したら女性客や子どもたちが来てくれるんだけどね」それに対しヒラリーは「じゃあブルックナーは日本の成人男性のために作曲したのね!」だって。特にアメリカやイギリスでブルックナーは全く人気がなく、演奏される機会も滅多にない。

さて空前のブルックナー、マーラー・ブームに湧いた20世紀後半の日本において、「レコード芸術」誌など音楽雑誌で散々話題になったのが「次にブームになる作曲家は誰だ?」ということ。そして一番名前が挙がったのはショスタコーヴィチだった。しかし僕は「それはいくらなんでもないだろう」と想っていた。

ブルックナーとマーラーの音楽は単純明快である。ブルックナーの基本は教会音楽、オーケストラによるオルガンの響きの追求であり、神とワーグナーへの信仰が根底にある。マーラーは「俺が、俺が」と自分を語りたがる音楽であり、いわば"Watch me !"の駄々っ子だ。両者がポピュラーになるまで時間を要したのは単に規模(編成)が大きすぎ、演奏時間が長すぎるからに他ならない。しかしショスタコは違う。一筋縄ではいかない難物である。

ショスタコの音楽は表層で作曲家の本音を語っていない。共産主義国家・ソビエト連邦においてはいつ「反社会主義的音楽」という意味不明の烙印を押され、逮捕・投獄(あるいは処刑)されるか判らず、彼は入念な偽装工作を自身の作品に施した。幾つもの層を潜り抜けて行かないと、その深層心理真理)には到達出来ない。そしてそこまで辿り着ける者は少ない。(”いちばん大切なことは、目に見えない” サン・テグジュペリ「星の王子さま」より)

ショスタコの音楽はアイロニー(皮肉)諧謔(パロディ)精神に満ち、屈折している。その奥底にあるのは諦念虚無である。聴いていて心地よいとか、心が洗われるといった類ではない。

作曲家であり著名な指揮者でもあったピエール・ブーレーズはショスタコを嫌悪し、生涯に一度も振らなかった。クラウディオ・アバドもそう。小澤征爾や佐渡裕は辛うじて第5番をレコーディングしているが、それ以外の交響曲を指揮したという話は全く耳にしない。朝比奈は第1番と5番のみ。また帝王カラヤンは第10番以外、食指を動かさなかった。

2017年2月17日、18日に井上道義/大阪フィルハーモニー交響楽団は定期演奏会でショスタコの交響曲第11番「1905年」、第12番「1917年」を取り上げる。同じプログラムで、22日に東京公演も予定されている。同オーケストラ初のレパートリーである。とても愉しみだ。

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2016年5月 4日 (水)

《音楽史探訪》古典派交響曲の繰返しは実行すべきか?

僕がクラシック音楽を聴き始めたのは小学校高学年からだが、その頃は未だLPレコードの時代だった。月間売上ランキングは常にイ・ムジチの「四季」(独奏:ミケルッチ)がトップで、また定番としてカラヤン/ベルリン・フィルのベートーヴェン「運命」とシューベルト「未完成」をカップリングしたアルバムが良く売れていた。

ハイドン、モーツァルト、ベートーベンら古典派の交響曲や(ピアノ/ヴァイオリン)ソナタは基本的に第1楽章がソナタ形式である(ほぼ総てと言ってもいい)。ソナタ形式はまず第1主題・第2主題が登場する【提示部】があり、それを変奏する【展開部】、元の主題に戻る【再現部】と続き、【終結部】(コーダ)で締め括られる。そして基本的に【提示部】の最後には繰り返し記号があり、頭に戻るよう指示されている。後の作曲家シューベルトやブラームス、ドヴォルザークも同様の仕様である。

しかしトスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、ベームの時代、大抵はこの【提示部】繰返しが省略されていた。つまり後戻りせず【展開部】に突入したのである。僕はそういうものだと思っていた。

ところが、カルロス・クライバー/ウィーン・フィルが録音したベートーヴェンの5番(1974年録音)や7番(76年)を聴いて驚いた。耳慣れない繰返しがあったのだ。その後アバドやムーティが指揮したベートーヴェンやベルリオーズ「幻想交響曲」、バーンスタイン/ウィーン・フィルのベートーヴェン(1977-79)&ブラームス交響曲全集(1981-82)でも全て繰返しが実行されるようになった。

ではどうしてクライバー以前の【巨匠】たちは省略していたのか?一つの可能性としてレコードの容量の問題が挙げられるだろう。LPレコードの基本的収録時間は片面20-25分程度だった。録音時間が長くなれば溝の幅が狭くなり、音質が低下する。だから極力短くしたかったわけだ。もしカラヤンが「運命」「未完成」の繰り返し指示を総て忠実に実行していたら、レコード1枚に収まらなかったであろう。実際、クライバーのベートーヴェン5番と7番のLPはそれぞれカップリングなしの単独で発売された(現在は両者が1枚のCDに収まっている)。消費者としても同じ値段で「運命」しか収録されていないレコードよりは、「未完成」もあるお得な方を当然選ぶだろう。

現在沢山CDが発売されている古いライヴ録音も繰り返しが省略されているが、その多くはラジオ放送用音源であり、やはり番組には時間制限があるからカットは当然である。

ここでそもそも何故、【提示部】に繰り返しは必要だったのか?ということを突き詰めて考えてみよう。ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの交響曲の主な聴衆は貴族たちであった。彼らが生きた時代は当然、録音機なんかないわけだから交響曲を聴くのはそれが初めてであり、その後一生聴く機会もなかっただろう。一期一会。作曲家としては【展開部】以降を愉しんでもらうために、どうしても第1主題・第2主題を覚えて貰う必要があった。だから【提示部】を繰り返し、耳に馴染んでもらうことは必須だったのだ。

では現代においてはどうだろう?まずCDは全体を繰り返し聴くことが前提なので【提示部】繰り返しは不要だろう。かえって曲の流れが停滞するデメリットが有る。演奏会の場合も今更ベートーヴェンの5番やシューベルトの「未完成」をその場で初めて聴く人なんて皆無なわけで、省略する方法論もあり、というのが僕の意見である。ただし、あまり演奏される機会のない曲の場合はやはり【提示部】を繰り返すほうが親切だろう。

カルロス・クライバー以降の時代の潮流はニコラウス・アーノンクールが興したピリオド・アプローチ(時代奏法)と決して無縁ではない。つまり出来うる限り作曲家の意図に忠実に、(メトロノームや繰り返し記号など)スコアに手を加えずに再現しようという姿勢である。その考え方にも一理ある。

繰返しは実行すべきか?否か?……結局、正解なんてない。「時と場合による(It depends)」というのが現時点で最も相応しい結論ではないだろうか。

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2016年3月11日 (金)

シリーズ【大指揮者列伝】帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンの審美眼

まずこの記事を書くに当たり、僕のヘルベルト・フォン・カラヤンに対する立場を明確にしておこう。

僕がクラシック音楽を聴き始めた小学校高学年の頃、当時クラシック音楽ファンはカラヤン派とベーム派に真っ二つに分かれていた。丁度カール・ベームがウィーン・フィルを率いて来日公演していた時期で、FMでベートーヴェンの交響曲第5番、6番を聴いて僕はベームに魅了された。一方でカラヤンがベルリン・フィルと1975年に録音したチャイコフスキー:交響曲第5番のLPレコードを購入したのだが、あまりにも磨きぬかれた人工的な響きに、聴いていて途中で気持ちが悪くなった。ある意味メタリックであり、ゴテゴテと着飾った娼婦のようでもあった。そのレコードは2度と掛けなかった。

カラヤンは楽壇の帝王と呼ばれたが、反面彼ほど《アンチ》がいた指揮者も空前絶後だろう。しかし《アンチ》を生むのは絶対的人気を誇るカリスマだからこそ。これはプロ野球に喩えれば分かりやすいだろう。《アンチ》読売ジャイアンツは桁外れに多いが、《アンチ》横浜ベイスターズなんて聞いたことないでしょ?指揮者だって《アンチ》金聖響とか知らない。実力のない者は話題にもならず、無視されるだけ。《アンチ》=人を嫌いになるには膨大なエネルギーを要するし、その対象となる人物も強大なパワーを持っていることが必須なのである。「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」である。

さて本題に入ろう。カラヤンはスタジオ(セッション)・レコーディングにこだわり、膨大な数の音源を残した。そのライブラリーはオーケストラの《名曲大全》になっていると言っても過言ではない。スッペの「軽騎兵」序曲とかウェーバー「舞踏への勧誘」、ワルトトイフェル「スケーターズ・ワルツ」、マスネ「タイスの瞑想曲」などの小曲から、「双頭の鷲の旗の下に」などドイツ・オーストリア行進曲集(吹奏楽!)、レオンタイン・プライスを独唱に迎えた「きよしこの夜」などクリスマス・アルバムまで。珍曲としては大砲や銃声の効果音付きでベートーヴェンの「ウエリントンの勝利(戦争交響曲)」とかもある。

録音技術の進歩に伴い、カラヤンは繰り返し自分の得意とするレパートリーを録り直した。ベートーベンとブラームスの交響曲全集は4回、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」に至っては計7回もセッション録音を残している(さらに映像が2回)。

コンパクトディスク(CD)はソニーとフィリップスにより共同開発された。CD初期の最大収録時間(74分42秒)を決めるに際し、当時ソニーの副社長だった大賀典雄は親交のあったカラヤンに相談した。彼の答えは「ベートーヴェンの第九が1枚に収まったほうがいい」だった。デジタル時代になってからも一通り再録音している。もの凄い執念だ。

カラヤンはオーストリアのザルツブルクで生まれた。モーツァルトと同郷である。しかしモーツァルトの交響曲は第29番以降しか録音しなかった。これは彼が契約していたドイツ・グラモフォンがカール・ベーム/ベルリン・フィルの組み合わせて既に全集を出していたことと関係があるのかも知れない。そんなに収益が見込める企画ではないからね。

彼はまた、シューベルトやシューマン、チャイコフスキー、ブルックナーの交響曲全集をレコーディングしている。

ところが面白いことにマーラーについては交響曲第4、5、6、9番と「大地の歌」しか録音していない。彼がナチスに入党していたというのは歴史的事実であり、ユダヤ人のマーラーに対して偏見があったのでは?という憶測もあるが、同じユダヤ人作曲家メンデルスゾーンは交響曲全集を出しているので蓋然性を欠く。上記した以外のマーラーの交響曲は冗長で、取り上げるのに値しないと判断したと考えるべきだろう。

ラフマニノフはピアノ協奏曲 第2番しか録音していない。第3番もパガニーニの主題による狂詩曲も交響曲も全て無視である。ラフマニノフの交響曲は散漫で構成に問題があるので、カラヤンのお眼鏡に適(かな)わなかったのだと思われる。

カラヤンはシベリウスの交響曲、特に後期の第4-7番を得意とした。作曲家の吉松隆がシベリウスに私淑しているのは有名だが、彼が高校1年生の時に聴いて作曲家を志す契機になったのはカラヤン/ベルリン・フィルが1967年に録音した交響曲第6番だった。カラヤンは後期交響曲を複数回レコーディングしている。しかし第3番だけは一度もタクトを振らなかった。サイモン・ラトルは先日ベルリン・フィルとのシベリウス交響曲全集をリリースしたが、なんと2010年2月9日の演奏がベルリン・フィルにとっての第3番初演だったそうである。シベリウスの第1、2番はチャイコフスキーからの影響があり、第4番以降はソナタ形式や4楽章形式を捨てて音楽はフィンランドの自然と同化してゆく。丁度第3番はその過渡期にあり、作品としての魅力が乏しい。

レスピーギは「ローマの松」「ローマの噴水」を録音しているが、「ローマの祭り」は取り上げず。恐らく終曲「主顕祭」の馬鹿騒ぎが耐え難かったのであろう。

ブラームスの場合、悲劇的序曲やハイドンの主題による変奏曲を繰り返し録音したが、大学祝典序曲は皆無。面白いことにカール・ベームも大学祝典序曲を無視しているんだよね。

また非常に興味深いのがショスタコーヴィチとの関係である。カラヤンは生涯に2度、交響曲 第10番をスタジオ・レコーディングしている。しかし彼がショスタコーヴィチの他の交響曲を録音したことは一切ない

Kara

上の写真は1969年5月29日、モスクワ音楽院大ホールにおけるカラヤンとショスタコ。この日のプログラムも第10番だった。つまりこのシンフォニーのみが、彼が価値を認めた作品ということになる。

一般にショスタコで一番知られているのは第5番(俗称「革命」)だろう。売上のみを考えるなら10番より5番の方がレコード会社は喜ぶ。しかしカラヤンは信念を曲げなかった。僕も第5番は軽薄で安っぽい曲だと思う。断然10番の方がいい。この点で彼を支持する。

カラヤンが生涯取り上げなかった曲を探っていくことで、彼のこだわりや美意識が見えて来るのである。

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