音楽史探訪

2012年4月17日 (火)

シリーズ《音楽史探訪》ブラームスとクララ・シューマン

ヨハネス・ブラームス(1833-1897)、ロベルト・シューマン(1810-1856)そしてクララ・シューマン(1819-1896)の関係について考察する。

これはブラームスのクララに対する恋愛感情を描いた映画で、大変出来がいいのでご覧になることを是非お勧めしたい。ロベルトとクララが結婚するまでのクララの父親とのドロドロした確執も上記記事に書いたので、ご一読あれ(クララの肖像画、写真つき)。

クララはブラームスより14歳年長だった。実はなんとブラームスの母も父より17歳も年上だったそうで、そういう女性を好きになるのは遺伝ではなかろうかと推察される。

ブラームスは1854年(31歳の時)に「シューマンの主題による16の変奏曲 作品9」を書いている。当時ロベルト・シューマンはライン河への投身自殺を図り救助されて、既に精神病院に収容されていていた。その死の2年前のことである。そして第10および、第12変奏をブラームスは8月12日聖クララの日にデュッセルドルフで作曲している。楽譜の表紙には「”彼の旋律”にもとづき”彼女”に捧げられた」と書き込まれ、クララに献呈された。実はそれよりも先にクララ・シューマンが作曲した「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲 作品20」もあり、両者は同一の主題を元に作曲されている。何とも意味深ではないか!

またブラームスは交響曲 第1番 第4楽章に登場するアルペン・ホルンのメロディを手書きの五線譜に書き取り、それに詩を添えてクララの誕生日に手紙を送っている。その内容はこうだ。

"Hoch auf'm Berg, tief im Tal, grüß ich dich viel tausendmal!"
(高い山や、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう!)

ここまで証拠を提示しても、まだブラームスのクララに対する恋心を疑う人はいるだろうか?

しかしシューマンの死後クララは再婚することなく、ブラームスも一生独身を貫いた。クララがブラームスに対してどういう感情を抱いていたかは音楽史の大きなミステリーである。

以下僕の仮説である。ロベルトとの交際を猛反対し、妨害工作した父親と裁判をしてまで結婚を勝ち取ったくらいだから、クララが夫を心から愛していたことは間違いない。だからその死後も裏切る気にはなれなかったのかも知れない。またロベルトと子供を8人も儲けているし(長男は1歳で死亡)、著名なピアニストとしての活動もあるから再婚どころではなかっただろう。

もうひとつ考えられることはクララはシューマンが梅毒を罹患し、その病が脳まで侵して死亡したことを知っていた(世間に対してはひたすらにその事実を隠そうとしたが)。だから当然、自分も夫から梅毒をうつされているかも知れないという恐怖が彼女にあったのではないだろうか?19世紀の医学ではそれを確認する術(すべ)はない。となれば才能と未来ある年若い作曲家に感染させてはいけないという気持ちがあったとしてもおかしくはないだろう。そしてブラームスは、そのことを知らなかった可能性がある(余談だが、スメタナの死因も脳梅毒である)。

ブラームスの作品は前期と後期で作風が随分変化している。

  • 交響曲 第1番(1876年 完成)
  • 交響曲 第2番(1877年 完成)
  • ヴァイオリン協奏曲(1878年 完成)
  • 大学祝典序曲、悲劇的序曲(1880年 完成)
  • ピアノ協奏曲 第2番(1881年 完成)
  • 交響曲 第3番(1883年 完成)
  • 交響曲 第4番(1885年 完成)
  • (ヴァイオリンとチェロのための)二重協奏曲(1887年 完成)
  • クラリネット五重奏(1891年 完成)
  • 2つのクラリネット・ソナタ(1894年 完成)

この年譜を見ると、悲劇的序曲を作曲したあたりから様子がガラリと変わっていることに気が付くだろう。

前期は希望に満ちていて、力強い。若草の萌える春、緑の夏の風景が広がる。positive thinkingである。しかし後期になると憂愁や諦念が支配的になる。秋から冬に向かう寂しさ、木枯らしが吹く肌寒さ。実にnegative thinkingである。

僕はこの心境の変化がクララとの関係と密接に結びついているのではないかと考えている。つまり青年ブラームスはまだクララと結婚できるのではないかという夢を抱いていた。そこには希望があった。しかし次第に、彼女にはその意思がないという厳然たる事実に向き合わないといけなくなっていった。希望は潰えたのだ。そんな物語を夢想する、今日この頃である。

ブラームスはクララが亡くなった翌年、その後を追うようにして息を引き取った。

さて皆さんは彼の音楽を聴いて、そこに何を感じられるだろうか?

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2012年4月 7日 (土)

シリーズ《音楽史探訪》その3 交響曲の改革者ハイドン

下記記事も併せてお読み下さい。

一般にフランツ・ヨーゼフ・ハイドンは「交響曲の父」と呼ばれているが、厳密に言うとその表現は正確ではない。以後約150年間続くことになる交響曲の基本形、すなわち第1楽章がソナタ形式で、第3楽章に舞曲(メヌエット)を持ち、全4楽章という構成を最初に打ち立てたのはマンハイム学派の祖、ヨハン・シュターミッツであり、1750年代前期と考えられている(1757年にパリで出版)。ハイドンが同形式を用いる約10年前のことである。

ハイドンの初期交響曲(50番くらいまで)は作曲順に並んでいない。例えば第1番は1759年に作曲されたと推定されるが、交響曲第2番や第4番は1757-1761の間に作曲されたと考えられており、こちらが先の可能性もある。当時は楽譜に番号を書く習慣がなかったので、このような混乱が起きる。モーツァルトも同様で20世紀になって偽作と断定された作品もある。「おもちゃの交響曲」は20世紀半ばまでハイドン作曲と見做されていたが、その後レオポルド・モーツァルト(アマデウスの父)作とされ、1992年になってオーストリア、チロル地方出身でベネディクト会の神父エルムント・アンゲラー作というのが有力になるといった具合に、二転三転するケースもある。

交響曲 第4番(1762年)は3楽章形式。終楽章がメヌエットというのが不思議だ。同じ年に書かれたと推定される第18番も3楽章形式でアンダンテ・モデラートーアレグローメヌエットと変則的。

1760-1762に書かれた交響曲 第5番は4楽章形式だが第1楽章がアダージョで意表を突く。第2楽章アレグロ、第3楽章メヌエット、第4楽章プレストという構成。バロック時代の「教会ソナタ」(緩−急−緩−急)を模したものと思われる。これはハイドンが交響曲 第50番以降、よく用いることとなる第1楽章:アダージョの序奏→主部はアレグロのソナタ形式という方法論へと発展していくことになる。

さらに交響曲 第15番(1761年)は第2楽章にメヌエットを持ってきて第3楽章がアンダンテ。順番が逆転している。この時期のハイドンが実験を繰り返し、試行錯誤していたことが窺われる。だから彼のことは「改革者」と呼ぶべきだろうというのが僕の意見である。

C.P.E.バッハの影響を受けた片鱗が最初に現れるのは交響曲 第12番 第2楽章。このシンフォニーが作曲されたのは1763年。

そして1768年に作曲されたとさせる交響曲 第26番「ラメンタチオーネ」(哀歌)からC.P.E.の特徴でもある疾風怒濤の時代(Strum und Drang)が華々しく始動する。

この度この記事を書くためにハイドンの交響曲を番号順に全曲聴いた。前・中期がフィッシャー/オーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団による演奏、ロンドン・セットはミンコフスキ/ルーブル宮音楽隊のCD。後者は昨年、レコード・アカデミー大賞を受賞したディスクであり、超お勧め!

Hyd

なお交響曲 第88番「V字」から93番以降のロンドン(ザロモン)・セットに至る後期交響曲は傑作揃いなので、それより前の交響曲の中から印象に残った作品を以下、列挙しよう。

6-8番「朝」「昼」「晩」 協奏交響曲(コンチェルト・グロッソ)の趣。ソロが多い。
22番「哲学者」 ホルンが大活躍。
24番 第2楽章にフルート・ソロ。
26番「ラメンタツィオーネ(哀歌)」 疾走する悲しみ。グレゴリオ聖歌を引用した第2楽章の対位法は大バッハ的。疾風怒濤の時代の始まり。
30番「アレルヤ」 快活、明朗。
31番「ホルン信号」 文字通りホルンが八面六臂の大活躍。
35番 快活。
37番 ティンパニが派手で面白い。また第2,3楽章のコントラストが鮮明。
41番 第2楽章のフルートが印象的。
44番「悲しみ」 魅力的な短調交響曲。
46番 複雑で従来のしきたりを破壊する交響曲。主調は長調なのに第2楽章が短調という意外性。第4楽章、突然の休止も驚き。
48番「マリア・テレージア」 ラッパが祝祭的でパンチが効いている。
49番「受難」 劇的な短調。
55番「学校の先生」 聴衆を驚かせる仕掛けあり。
59番「火事」 唐突なアクセントが効果的。
60番「うっかりもの」 激烈な第4楽章がいい。
63番「ラ・ロクサーヌ」 活きがいい。
64番「時の移ろい」 第2楽章の陰影。表情の変化が魅力。
67番 第1楽章は明朗な長調で開始、途中短調に転調。陽陰の対比が鮮やか。第2楽章はよく歌う。第4楽章中間部がアダージョになったのには驚かされた。
69番「ラウドン将軍」 ティンパニや低音楽器の動きが面白い。
73番「狩」 第1楽章、短いモティーフの執拗な繰り返しが印象的。終楽章はホルンが賑やか。
75番 勢いがある。第2楽章は美しい。
78番 短調。押しては引く運命の波。
80番 これも短調。
82番「熊」 猪突猛進。
83番「雌鳥」 短調。
85番「王妃」 均整のとれた美しさ。
86番 威風堂々としてパワフル。素晴らしい!
87番 急き立てられる様な疾走感がいい。 

原則的に短調の交響曲に優れたものが多い。そしてニック・ネームあるものもはずれはない。つまり人気があったからこそ愛称が付いたと考えるべきだろう。ち なみに「時計」「驚愕」「太鼓連打」「ロンドン」などはハイドン自身の命名ではなく後世の人によるもの。「朝」「昼」「晩」だけが例外であり、そもそも当時ハイドンが仕えていたハンガリーの貴族エステルハージ候からお題を与えられ、作曲されたものと推定されている。

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2012年1月20日 (金)

シリーズ《音楽史探訪》その2 モーツァルトとヨハン・クリスティアン・バッハ

シリーズ第1回 過渡期の作曲家たち~C.P.E.バッハと本当の「交響曲の父」 も併せてお読み下さい。

大バッハの第11子としてライプツィヒに生まれたヨハン・クリスティアン・バッハは14歳の時に父親が他界すると、プロイセン(ベルリン)のフリードリッヒ大王に仕える異母兄カール・フィリップ・エマヌエル(C.P.E.)の家に引き取られ、音楽教育を施された。そしてイタリアを経てイギリスに定住し、「ロンドンのバッハ」として名を馳せている時に8歳のモーツァルトと出会った。

クリスティアン・バッハは、モーツァルトを膝の上に乗せ、一台のチェンバロを連弾して遊んだという。モーツァルトのロンドン滞在は1年4ヶ月に及んだ。その時生み出された交響曲第1番 K.16は正にクリスティアン・バッハの影響を示す三楽章の交響曲で、シンフォニア形式(イタリア式序曲)でありながら、コントラストを もった二つの主題の対立や発展的な旋律法などにクリスティアンが見え隠れする。両者の端的な共通点はドレミファの上昇、あるいは下降音階をベースにメロディを紡ぎだす手法である。また第1シンフォニーの第2楽章は、その後くりかえし用いられる交響曲 第41番 「ジュピター」の第4楽章フーガのモティーフ(ドレファミ)が現れる(ホルンによって奏される)。

クリスティアン・バッハの作品6のうちト短調の交響曲(1770)は後のモーツァルト交響曲 第25番(1773)や40番(いずれもト短調)を予感させる作品である。

またクリスティアンはチェンバロよりも新しい鍵盤楽器フォルテピアノに愛着を示した最初の作曲家であり、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲が生み出される契機となった。モーツァルトはザルツブルクに戻ってからクリスティアンが作曲した作品5のソナタを3つのピアノ協奏曲K.107に編曲している。

モーツァルトの初期交響曲は急-緩-急の3楽章構成で第1楽章がソナタ形式。これはクリスティアンのシンフォニアに倣っている。彼が初めて3楽章にメヌエットを含む4楽章の交響曲を書くのは1767年。この時、一家はウィーンに滞在していた。その際ウィーンのスタイルを吸収したのだろう(ただしこの時点でハイドンはハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたので、モーツァルトとの接点はなかったものと思われる)。

1770年、父とイタリア旅行中だったモーツァルト(当時14歳)はボローニャでマルティーニ神父から対位法やポリフォニーの技法を学んだ。実は若き日のクリスティアン・バッハもイタリアに留学し、マルティーニに対位法を師事している。1754年のことであった。

また1777年にモーツァルト(21歳)はドイツ・マンハイムの地を訪れる。”交響曲の祖”ヨハン・シュターミッツの息子カール・シュターミッツが活躍していた時代である。ここでマンハイム派の作曲家から交響曲にクラリネットを導入することを学んだ。

1778年、モーツァルト(22歳)はパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーに滞在した。この頃に作曲されたのが初めてクラリネットを編成に取り入れた交響曲 第31番「パリ」 K.297である。そして7月3日に同行していた母が亡くなり、その悲しみがピアノソナタ 第8番 イ短調 K.310に反映されていると言われている。そんな彼のもとへロンドンからクリスティアン・バッハがやって来た。同年8月27日、ザルツブルクにいる父レオポルドに送った手紙にはこう書かれている。

ロンドンのバッハさんが当地へ来て、すでに二週間になります。彼はフランス語オペラを書く予定です。(中略)僕らが再会したときの彼の喜びと、僕の喜びがどんなだったか、容易に想像してもらえますよね。

1781年からモーツァルトはウィーンに定住した。1782年よりヴァン・スヴィーテン男爵の館では毎週日曜日に「音楽協会」(後のウィーン楽友協会)という集まりがあり、コンサートが催されていた。そこに彼は招待された。

スヴィーテン男爵はベルリンでフリードリヒ大王と交友関係があった。大王に仕えていたカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(C.P.E.)にも面識があり、その父ヨハン・セバスチャン・バッハの楽譜を購入した。つまりモーツァルトはスヴィーテン男爵の館で大バッハを研究し、フーガの技巧を学んだのである。

ぼくは、毎日曜日、12時にヴァン・スヴィーデン男爵のところに行きます。そこでは、ヘンデルとバッハ以外は何も演奏されません。ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。セバスチャンの作品だけでなく、エマニュエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。それからヘンデルのも。(中略)イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですよね?音楽界にとってなんという損失でしょう!(モーツァルトの手紙、1782年4月10日付、レオポルド宛)

エマニュエル・バッハのフーガ(6曲あると思います)を写譜して、いつか送ってもらえると、とてもありがたいのですが。ザルツブルグでこれをお願いするのを忘れてしまったのです。(モーツァルトの手紙、1783年12月24日付、レオポルド宛)

こうして生まれたのが前奏曲(幻想曲)とフーガ ハ長調 K.394 (82年)や2台のピアノのためのフーガ ハ短調 K.426(83年)である。

また1781年にハイドンが完成させたロシア四重奏曲(弦楽四重奏 第37-42番)の完成度の高さに感銘を受けたモーツァルト(当時25歳)はハイドン・セット(弦楽 四重奏 第14-19番)を作曲し、献呈している。ロシア四重奏初演の翌年、82年にモーツァルトが完成させたのが交響曲 第35番「ハフナー」であり、続く83年に交響曲第36番「リンツ」は生まれた。

こうして見ていくとクリスティアン・バッハが亡くなった1782年を契機にモーツァルトの関心は次第に大バッハC.P.E.バッハハイドンへと移り、(「ハフナー」以降の)後期交響曲に取り組んだ辺りからその影響が徐々に現れてきたと言えるだろう。そして最後の交響曲「ジュピター」第4楽章でフーガの登場に至るわけである。

つまり音楽の内容(個性)自体は幼少期に出会ったヨハン・クリスティアン・バッハに感化され(ザルツブルク時代)、技法・形式は大バッハやハイドンから学ぶことで(ウィーン時代)モーツァルトは作曲家として成熟していったと言えるのではないだろうか?

お勧めディスクを紹介しよう。まずジンマン/オランダ(ネーデルランド)室内管弦楽団によるクリスティアン・バッハのシンフォニア集である。

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モダン楽器による演奏だが、歯切れよく颯爽としている。さすがオランダは古楽の本場だなぁという印象(有田正広、鈴木秀美などデン・ハーグ王立音楽院に留学した日本の古楽器奏者は多い)。

次にご紹介したいのがノリス、ソネリーによる世界で最初期のピアノ協奏曲集である。オンライン視聴は→こちら

Norris

クリスティアンの作品が2曲。さらに収録されているモーツァルトのコンチェルト K.107は前述した通り、クリスティアンのソナタをアレンジしたもの。

ここで使用されている楽器はスクエア・ピアノ(square piano)。ドイツの製作者ゴットフリート・ジルバーマン(1683-1753)によってその原型が生み出された。しかしジルバーマンの死後プロイセンとオーストリアの間に七年戦争が勃発したため、その弟子たちは1760年に集団でイギリスへ渡った(写真は→こちら)。これが素朴で鄙びた、いい音がするのである。現代のピアノよりはむしろ、ハンガリーの打弦楽器「ツィンバロム」に近い感じ(詳しくは→こちら)。音が出る原理は同じだから、むべなるかな。

またソネリーも古楽器で、1パート1人で弾いている。こじんまりとした古(いにしえ)の響きがなんとも魅力的だ。

もし何の予備知識もなくクリスティアンの楽曲を聴かされたら、十人中十人が異口同音に「これ、モーツァルトが作曲したんでしょ?」と言うことだろう。それくらいふたりは近い。

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2012年1月14日 (土)

シリーズ《音楽史探訪》 過渡期の作曲家たち~C.P.E.バッハと本当の「交響曲の父」

ルネサンス期を経て、1600年頃から興ったバロック音楽は大バッハことヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)によって完成された。そしてそれに続くのがハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらによる古典派の音楽である。しかし大バッハとハイドンの音楽には連続性が感じられない。両者の間には大きな溝がある。それを埋めるのが過渡期(前古典派)の作曲家たちである。

大バッハには最初の結婚によって7人、2度目の結婚によって13人の子供が生まれた。しかし半数は生まれて間もなく亡くなり、成人したのは10人だけ。そのうち4人が音楽家になった。長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-1784)と次男のカール・フィリップ・エマヌエル・(以下C.P.E.と略す)バッハ(1714-1788)、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(1732-1795)、そして末男ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)である。

C.P.E.バッハから遅れること18年後に生まれたハイドン(1732-1809)は、貧乏だった10代後半の1750年頃、C.P.E.が作曲した6つのソナタ(恐らくヴュルテンベルク・ソナタとプロイセン・ソナタと推定される)を入手し、「私はこのソナタを全部習得し彼の偉大な手法を獲得するまで、ぼろ(鍵盤)楽器を手放さないだろう」と語ったと文献に残っている。また「私のことを知っている人なら誰でも、私がエマニュエル・バッハに多くを負っており、彼の音楽を理解し勤勉に学んだことに気づくに違いない」とまで言い切っている。だからハイドンが1763年に作曲した交響曲第12番がC.P.E.に似ているのは決して偶然ではない。そして若き日にハイドンの弦楽四重奏曲を筆写して勉強したベートーヴェン(1770-1827)もしかり。

一方、国際的に活躍していたヨハン・クリスティアン・バッハはロンドンで8歳のモーツァルト(1756-1791)に会い、この神童に多大な影響を及ぼした。モーツァルトはロンドン滞在中の1764年に交響曲第1番を作曲、両者の相似はその音楽を聴けば明らかである。この「ロンドンのバッハ」はフォルテピアノに愛着を示した最初の作曲家であり、それはモーツァルトのピアノ協奏曲に結びついてゆく。

つまり音楽史的に、

  • C.P.E.バッハ→ハイドン→ベートーヴェン
  • ヨハン・クリスティアン・バッハ→モーツァルト

という2つの大きな流れがあったことを理解しておく必要があるだろう。

17世紀、チェンバロのために書かれたスカルラッティのソナタは単一楽章だった。

鍵盤ソナタを3楽章形式に整え、急-緩-急としたのはC.P.E.である。これをハイドンがピアノ・ソナタで踏襲した。

なお急-緩ー急で構成されるイタリア式序曲シンフォニア)の第3楽章に舞曲であるメヌエットを加わえて交響曲を4楽章に整え、さらにソナタ形式を導入した源流はボヘミア生まれでマンハイム(ドイツ)の宮廷楽長だったヨハン・シュターミッツ(1717~1757)と考えられる(マンハイム楽派の祖)。例えば1750-54頃に作曲されたシュターミッツの交響曲 ニ長調 Op. 3, No. 2の第1楽章プレスト(急速に)を聴いてみて欲しい→試聴。冒頭に第1主題、53秒から第2主題が登場する「提示部」、1分17秒から「展開部」、2分06秒から「再現部」(第2主題→第1主題)というのが明確にお分かり頂けるだろう。第2楽章アンダンティーノ、第3楽章メヌエット、第4楽章プレスティッシモ(きわめて速く)となっている。

それから10年後、1761年頃に作曲された交響曲 第6-8番「朝」「昼」「晩」でハイドンもソナタ形式を用いている。

ちなみに「ソナタ形式」という言葉を定義したのは(音楽形式学)学者のアドルフ・ベルンハルト・マルクスで「楽曲構成論」においてベートーヴェンのピアノ・ソナタを範例として論じた。ベートーヴェンの死後、1850年頃のことである。

さて、C.P.E.バッハの話に戻ろう。まずお勧めしたいディスクは中野振一郎(チェンバロ)による「C.P.E.バッハ作品集」(若林工房)である。ヴュルテンベルク・ソナタ、プロイセン・ソナタ、「優しい恋わずらい」等が収められている。

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前述したようにヴュルテンベルク・ソナタやプロイセン・ソナタではまだ、ソナタ形式は用いられていない。

C.P.E.の特徴は「突然の休止」「気まぐれ」「感情過多様式」「疾風怒濤」に集約される。そしてそれらはハイドンやベートーヴェンに受け継がれた。

ちなみにハイドンが暗く激しく劇的な音楽を書き「疾風怒濤期」と呼ばれるのは1765~75年ごろ。交響曲で言えば第26番「哀歌(ラメンタチオーネ)」あたりから第65番くらいまで。第44番「悲しみ」45番「告別」49番「受難」などが有名である。

鈴木秀美/オーケストラ・リベラ・クラシカによるC.P.E.バッハ/チェロ協奏曲のディスクもお勧めしたい。まさに「疾風怒濤」の激しいコンチェルトである。C.P.E.のシンフォニアや、それに影響を受けたハイドンの交響曲も収録されている。

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またベルリンフィル首席奏者エマニュエル・パユのアルバム「ザ・フルート・キング~フリードリヒ大王の無憂宮の音楽」(EMI)もいい。

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C.P.E.のフルート・ソナタ2曲とフルート協奏曲が収録され、C.P.E.が仕えたプロイセンの国王、フリードリヒ2世の楽曲も聴ける。

大バッハの音楽は基本的に教会音楽であり、神のためのものだった。それは厳格であり、規則正しく、数学的である(現代の数学者や物理学者らの多くが大バッハを好むのはこれが理由と考えられる)。その「天上の音楽」を地上に引き戻し、人間的感情を描いたのがC.P.E.であり、後の古典派を導く役割を果たした。

そしてシュターミッツが「発明」したソナタ形式および(メヌエットを含む)4楽章形式の交響曲と、彼と同時代に生きたC.P.E.バッハ音楽表現を結びつけ、発展させたのがハイドンだったと言えるのではないだろうか?

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2011年2月18日 (金)

ブラームスの交響曲は何故4曲なのか?(シューマンからモーツァルトへの旅)

ブラームスは生涯に4つの交響曲を書いた。

しかし面白いことに交響曲 第4番が初演されたのは1985年。ブラームスが亡くなるのは1897年である。つまり彼は晩年の12年間、一切シンフォニーに手を付けなかったことになる。クラリネット・ソナタが94年、「4つの厳粛な歌」が96年に発表されているので、作曲は続けていたことになるが……。

ブラームスがベートーヴェンを深く尊敬していたのは有名な話。しかし、ベートーヴェンのシンフォニーは9曲。では何故、ブラームスは4番で止めてしまったのか?

その謎を紐解く、面白い本がある。

作曲家・池辺晋一郎さんが書かれた「モーツァルトの音符たち」(音楽之友社、2002)である。

M02

その第3章《「ジュピター」の偉大さ》(32ページ)に次のようなことが書かれている。

ブラームスの交響曲第1番はハ短調、第2番ニ長調、第3番ヘ長調、第4番がホ短調である。この4曲の調性の主音を順に並べるとド・レ・ファ・ミとなる。

これはなんとモーツァルト/交響曲 第41番「ジュピター」第4楽章の主題になるではないか!

さらに、ブラームスの先輩だったシューマンも4曲の交響曲を書いているが、その主音は第1番変ロ長調、第2番ハ短調、第3番変ホ長調、第4番ニ短調。これはド・レ・ファ・ミのちょうど1音(長2度)下になる。

ブラームスがシューマンの世話になり、その未亡人クララを生涯愛したことは有名な話。

これは決して、単なる偶然ではあるまい。

音楽史に秘められたミステリー。なんともスリリングで、魅力的な仮説ではないだろうか?

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2008年12月 3日 (水)

《20世紀》映画音楽の台頭、そして名門オーケストラの受容史

これは記事「夢のミュージカル映画」、「ニーノ・ロータの想い出」の続きである。

20世紀は色々な意味で《実験の世紀》であった。

政治の面では《社会主義国家建設》という壮大な実験が行われた。そして絵画の領域ではセザンヌからピカソ、ブラックらのキュビズム(立体派)、マティスらのフォービスム(野獣派)を経て、抽象絵画の時代に突入した。

ではクラシック音楽はどうだったかと言えば、ラヴェル、ドビュッシーら印象派による半音階の多用から発展し、シェーンベルクが12音技法を編み出した。そしてその後、怒涛の如く無調音楽全盛期へ雪崩れ込んだのである。従来の調性音楽は"古臭い手法"、"退廃音楽"と断罪され、放逐された。こうして現代音楽は急速に一般聴衆の支持を失っていくことになる(この辺りの詳しい話は1973年にレナード・バーンスタインがハーバード大学で行った歴史的レクチャー「答えのない質問」を聴講されることをお勧めしたい。大変分かりやすく、かつ面白い名講義である。現在日本語字幕つきDVDが発売されている→こちら)。

調性音楽を守ろうとした作曲家たちはヨーロッパ楽壇での自分たちの居場所を失った。これと時期を同じくして、第1次世界大戦で多額の賠償金を負わされたドイツのインフレ、政治不安、ナチスの台頭が起こる。身の危険を感じた彼らの多くはアメリカに亡命し、ある者はハリウッドの映画音楽を書くことで生計を立て、また「三文オペラ」のクルト・ワイル(ドイツ)はブロードウェイ・ミュージカルの作曲家となった。

アメリカに渡り映画音楽作曲家に転身した人々の具体例を上げよう。ドイツのフランツ・ワックスマン(レベッカ、サンセット大通り、陽のあたる場所)、オーストリアのマックス・スタイナー(キングコング、風と共に去りぬ、カサブランカ)、ハンガリーのミクロス・ローザ(白い恐怖、ベン・ハー、エル・シド)らである。ワックスマン同様にユダヤ人で、かつてはオペラ「死の都」「ヘリアーネの奇蹟」などをウィーンで発表し時代の寵児となったエーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトもハリウッドに渡り、ワーグナーが編み出したライトモティーフの手法を映画に持ち込んだ。そして彼は「風雲児アドヴァース」「ロビン・フッドの冒険」で2度、アカデミー作曲賞を受賞する。

第二次世界大戦が終結し、コルンゴルトは新作を携えウィーンを訪問したが、「映画に魂を売った下等な作曲家」と侮辱され、失意のうちにハリウッドに戻ることになる。

リゲティ、ベリオ、ブーレーズ、シュトックハウゼンなど無調・前衛音楽が席巻する20世紀クラシック界において、見下され続けていた映画音楽が初めて注目を集めたのが1977年のことである。そう、あの「スター・ウォーズ」が公開された年だ。ジョン・ウィリアムズが作曲した音楽はオーケストラのために書かれた20世紀の最高傑作である。

Star_wars

このサウンド・トラックを演奏したのは名門・ロンドン交響楽団(LSO)だった。そして最終的にLSOはシリーズ全6作に参加した。1977年当時、ロンドン交響楽団の音楽監督はアンドレ・プレヴィンだった。ジャズ・ピアニストでもあるプレヴィンは1950年代からハリウッドの映画会社MGM専属となり、映画音楽を作曲したりミュージカルの音楽監督を務めた。例えば、映画「マイ・フェア・レディ」(1964)で彼はアレンジと指揮を担当している。

だからプレヴィンジョン・ウィリアムズは古くからの友人であり、「スター・ウォーズ」のスコアを書き上げたジョンプレヴィンが手兵LSOの提供を快く申し出たというのが真相である。そしてジョンコルンゴルトが得意としたライトモティーフの手法を「スター・ウォーズ」に応用し、見事にその精神を引き継いだ。

後にプレヴィンコルンゴルトの再評価にも尽力し、2003年には妻のアンネ=ゾフィー・ムターの伴奏指揮をしてコルンゴルト/ヴァイオリン協奏曲をレコーディングしている(5人目の妻だったムターとは2006年に離婚)。なお、これはプレビンが同曲を指揮した3回目の録音となった。コルンゴルト/ヴァイオリン協奏曲は自作の映画音楽で使用されたテーマが多数取り入れられた、まことに甘美な名曲である。

「スター・ウォーズ」の公開直後、ズービン・メータ/ロサンゼルス・フィルは「スター・ウォーズ」組曲と「未知との遭遇」組曲をレコーディングし、そのレコードはクラシック業界で異例の大ヒットとなった。1973年からボストン交響楽団の音楽監督だった小澤征爾ジョンウィリアムズの才能に着目し、ボストン・ポップス・オーケストラの音楽監督を依頼。1980-1993の間、ジョンはその任についた。

そして今やシカゴ交響楽団ニューヨ-ク・フィルなど名門オケもジョン・ウィリアムズを客演指揮者として招き、映画音楽のコンサートを開催する時代となったのである。

ベルリン・フィルに雪解けが始まったのは2002年9月、イギリスのサイモン・ラトルが芸術監督に就任して以降のことである。2005年イギリスBBC製作のドキュメンタリー映画「ディープ・ブルー」でジョージ・フェントンが作曲した音楽を作曲者自身の指揮でベルリン・フィルが演奏、サントラを担当するのはこれが彼らにとって初体験となった。続く2006年、今度はNHKとBBCの共同制作によるドキュメンタリー「プラネットアース」(映画「アース」はその短縮版)にも彼らは参加し、2006年のドイツ映画「パフューム -ある人殺しの物語-」ではサントラをラトル/ベルリン・フィルが担当した。

そして遂に2004年、ザルツブルグ音楽祭で小澤征爾/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団コルンゴルト/ヴァイオリン協奏曲を演奏し(独奏:ベンヤミン・シュミット)、それは同時にライヴ・レコーディングされた。

2008年9月、イタリア人指揮者リッカルド・ムーティに率いられたウィーン・フィルの来日公演でアッと驚く出来事があった。サントリーホールでのプログラムに以下の曲が含まれていたのである。

  • ニーノ・ロータ/トロンボーン協奏曲
  • ニーノ・ロータ/交響的管弦楽組曲「山猫」

Leopard

天下のウィーン・フィルが映画音楽を演奏する!!このような事態は20世紀では絶対にあり得なかった事である。コンサート当日配布された冊子に掲載された楽団長のコメントにも「初めて演奏する曲」「取り上げたことのない作曲家(ロータ)」とあったそうだ。ムーティロータをイタリアの3大作曲家の一人と称するほど尊敬していて、彼の曲を紹介するのを使命と考えているとか。

21世紀に入り、世界のオーケストラは大きく変貌を遂げようとしている。ウィーン・フィルベルリン・フィルが演奏する「スター・ウォーズ」が聴ける日も、そんなに遠い未来ではないかも知れない、と僕は今期待に胸を膨らませている。

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2008年3月 5日 (水)

21世紀に蘇るハイドン(あるいは、「ピリオド奏法とは何ぞや?」)

小学校の時にハイドンは「交響曲の父」であると音楽の授業で習った。しかし、クラシック音楽を聴くようになってからモーツァルトやベートーヴェンは沢山聴いたが、ハイドンの交響曲を好んで聴くことはなかった。四角四面で実に退屈だからである。コンサートでハイドンが取り上げられる機会も極めて少ない。演奏されても「告別」「軍隊」「時計」「ロンドン」「太鼓連打」など標題のあるものばかり(日本人は標題が大好き。ベートーヴェン/交響曲第5番を「運命」と呼んでいるのは日本だけである)。

ハイドンの面白さに気付いたのはブリュッヘン/18世紀オーケストラ鈴木秀美/オーケストラ・リベラ・クラシカらの演奏するCDを聴いてからである。つまり古楽器(オリジナル楽器)で演奏されて初めて、その真価が明らかになったと言えるだろう。延原武春/テレマン室内管弦楽団・合唱団によるオラトリオ「四季」「天地創造」の演奏会もオリジナル楽器によるもので、これもとても愉しかった。

こうして僕は「モダン・オーケストラでハイドンを演奏する意義はない」という結論に達した。しかし、古楽器オーケストラというのは地球上に絶対的に数が少ない。オーケストラ・リベラ・クラシカ(OLC)だって、そのメンバーの多くはバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)と重複しており常設オケではない。関西にはテレマン室内管弦楽団があるくらいで、ここはモダン楽器と兼用だし定期演奏会を開いているわけでもない。

桐朋学園大学音楽部に古楽器科が創設されたのが1978年。たった30年前である(バロック・ヴァイオリン専攻が新設されたのが2007年)。そして東京藝術大学音楽部に古楽科が設置されたのがなんと2000年!古楽器演奏の歴史は浅く、自在に弾きこなせる音楽家は日本にまだまだ少ない。ちなみにこちらをご覧頂きたい。東京芸大・古楽科の講師11名の写真がある。このうち、僕が知っているだけでも少なくとも8名がBCJの関係者である。

そういったお家の事情(人材不足)から登場したいわば折衷案がモダン・オーケストラで「古楽器風に」演奏するピリオド・アプローチというわけだ。

ピリオド・アプローチの世界的な先駆者は恐らくニコラウス・アーノンクールであろう。1953年に古楽器オーケストラ「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を結成し(旗揚げ公演は1957年)そのノウハウを1980年代以降、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルなどのモダン・オケに持ち込んだ。

イギリス生まれの指揮者サー・サイモン・ラトルはバーミンガム市交響楽団の音楽監督を務める傍ら、古楽オーケストラであるエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団にもしばしば客演し、アーノンクールに教えを請うてモダン・オーケストラにおけるピリオド・アプローチの方法論を伝授された(その時、アーノンクールは代わりにガーシュウィンを演奏する時の指揮法を教えてくれとラトルに言って、「マエストロ、ご冗談でしょう」と一笑に付されたという微笑ましいエピソードがある)。ラトルは後にベルリン・フィルの首席指揮者兼芸術監督に就任し、このふたりの努力で今やウィーンとベルリンではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを演奏するときはピリオド奏法が当たり前という時代に突入した。

そしてここに登場するのがイギリス生まれの若き俊英、ダニエル・ハーディングである。現在32歳、イケメンである。15歳でサイモン・ラトルのアシスタントとなり、18歳でバーミンガム市交響楽団を指揮してデビュー。21歳でベルリン・フィルを指揮し、29歳でマーラー/交響曲第10番(クック補筆版)を指揮しウィーン・フィル・デビューも果たした。

Brahms

僕の手元に1枚のCDがある。曲目はブラームス/交響曲第3、4番。これはハーディングが25歳、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンの芸術監督時代にレコーディングしたもので、驚くべきことにブラームスをノン・ビブラートピリオド奏法で演奏したもの。オーケストラは対向(古典)配置の小編成。この驚天動地のCDは、その手法だけが突出したものではなく、音楽的に新鮮かつ極めて充実したもので、この天才指揮者の面目躍如といったところであろう。彼が21世紀の新たな地平を切り開いていくことは間違いない。

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さて、ハイドンの話に戻ろう。ハイドンは古楽器演奏でなければ意味がないと考え始めていた僕の認識を改めさせる画期的なCDが2007年に登場した。ラトル/ベルリン・フィルによる交響曲集(2枚組)である。モダン・オーケストラでどのように演奏すれば、生き生きとしたハイドン像が描けるか、示唆に富んだ21世紀のマイルストーンと言い切っても過言ではない。では何処がそれほどまでに魅力的なのか?その秘訣を僕なりに分析してみた。

  • 小編成であること。大植英次/大フィルのベートーヴェン・チクルスのように80人くらいの大編成ですると、機動力を欠いた重たい演奏になってしまう。
  • テンポは速めで、アタックやアクセントを強調した弾むような演奏。音はタメず、すっと減衰させる。これによりハイドンの特性である疾風怒濤(Sturm und Drang)の雰囲気が醸し出せる。
  • 弦は当然ノン・ビブラートハイドンやベートーベンの時代にはビブラートを掛ける習慣はなかったオプションとしてドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンはスチール弦ではなく、昔ながらのガット弦(羊の腸から作る)を張っているらしい。しかしガット弦は湿度に弱いので、高温多湿の日本では難しいのかも知れない(鈴木秀美さんのエッセイによると1950年代前半までは日本のオケも概ねガット弦だったそうである)。スチール弦が登場した当初は「他の弦と異質な音で裏返りやすい」と評価され、それを緩和するためにビブラートを多用することが推奨されるようになったらしい。
  • バロック・ティンパニを用いる。これは必須。バロック・ティンパニ用の堅い木のマレット(バチ)を用いなければ、ハイドンの爽快さは表現出来ない。モダン・ティンパニでは鈍重すぎる。ハーディングのブラームス、そして彼の後任としてドイツ・カンマーフィルの芸術監督になったパーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェンもバロック・ティンパニを採用している。これは日本でピリオド奏法に積極的に取り組んでいらっしゃる飯森範親さんや金 聖響さんも実践されている(聖響さんは1993年にサイモン・ラトルの指導を4日間受けたそうである)。
  • さらにオプションとしてドイツ・カンマーフィルのようにトランペットはオリジナル楽器のナチュラル管を用いるとか、ホルンはゲシュトップ奏法をする等の選択肢もある。

今年、「のだめカンタービレ 新春スペシャルinヨーロッパ」が放送された。この中で千秋(玉木 宏)がコンクールでハイドン/交響曲第104番「ロンドン」を指揮する場面が登場する。これで呆れたのが、なんとも野暮ったい演奏だったからである。まずテンポが遅くて歯切れが悪い。そしてcontinuous vibrato(のべつまくなしビブラート)による古色蒼然たるスタイルだった。

以前の記事「のだめカンタービレと飯森範親さん」でも書いたのだが、このドラマで指揮・オーケストラ指導をされているのが飯森さんである。しかし、この凡庸な「ロンドン」の演奏は飯森さんが指揮をされている筈はない。飯森さんなら必ずピリオド奏法を選択されるからである。そこで調べてみると案の定、演奏していたのはウラディーミル・ヴァーレク/プラハ放送交響楽団だった。

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2007年12月 5日 (水)

ビブラートの悪魔

小説や映画で悪魔が登場するとき、彼はしばしばヴァイオリンを弾いている。「悪魔のトリル」というヴァイオリン独奏曲があるし、ストラヴィンスキーが作曲した「兵士の物語」でも悪魔はヴァイオリンと共に現れる。

何故悪魔はヴァイオリンを弾くのか?その理由のひとつはあのギーギー擦る音が耳障りであるということと、もう一つはそのビブラートが気色悪いということが関係しているのではないかと僕は推察する(「悪魔のトリル」では音を上下に揺らすダブルストップのトリルが多用されている)。

世の中には絶対音感を持っている人が少数ながらいる。彼らは「バイオリンの音を聴いていると気分が悪くなる」と言う。ビブラートは音の波である。単音をビブラートで延ばすとその周波数には一定の振幅が出来る。そのゆらぎが絶対音感を持つ人にとっては我慢ならないのだろう。チェンバロ/オルガン奏者でバッハ・コレギウム・ジャパンの指揮者、鈴木雅明さんは「終始ビブラートを掛けっぱなしの弦楽四重奏の演奏は頭が痛くなって聴くに堪えない」という趣旨の発言をされている。恐らく雅明さんも絶対音感を持っていらっしゃるのではないだろうか?

こうして考えてみるとビブラートというのは一種の誤魔化しの行為ともいえるだろう。合奏前のチューニングで多少ピッチがズレていても、ビブラートを掛け続ければあたかも合っているように聴こえるのだ。

音楽の先生はビブラートのことを「音色を豊かにする手段」だと生徒に教える。でも、果たしてそれは本当だろうか?

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの時代、弦楽奏者はビブラートを掛けずに演奏した。現代フルートはビブラートを掛けるが、バロック・フルートであるフラウト・トラヴェルソはノンビブラートで吹く。ではいつ頃からオーケストラはビブラート演奏を始めたのだろう?指揮者のロジャー・ノリントンはそれは20世紀初頭だと言う。ロマ(流浪の民。最近では「ジプシー」という呼称は差別用語とされている)のヴァイオリン奏法を取り入れ、それが急速に広まったのだと主張している。彼の説が正しいかどうか僕には分からない。しかし、リストの「ハンガリー狂詩曲」が出版されたのが1853年、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」が出版されたのが1869年。彼のピアノ協奏曲第2番、第4楽章にもロマの旋律が登場する。さらにドヴォルザークには「ロマの歌」という歌曲集がある。このように19世紀半ばよりロマの音楽に対する関心が高まり、そのヴァイオリン奏法も次第に取り入れられるようになってきたのではないかと想像する。

今、僕の手元にラフマニノフが自作自演したピアノ協奏曲のCDがある。録音されたのは1929-41年。驚くのはそのテンポの速さである。現代では、この疾走するテンポでラフマニノフが演奏されることはない。考えるに、そのロマンティックな文脈を強調するために、時代と共に次第にテンポが落ちて溜めて弾くスタイルへと変化してきたのではないだろうか?テンポが遅くなると、ひとつの音を延ばす時間も長くなる。ノンビブラートだと間が持たない。これこそがビブラートで弾くのが好まれるようになった真の理由なのではなかろうか?「テンポの遅延とビブラートの多用(乱用)は相関する」というのが僕の提唱する仮説である。

ベートーヴェンの交響曲のスコアには詳細なメトロノームの指示が明記されている。しかし、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、朝比奈ら20世紀の巨匠達はこれを無視し、はるかに遅いテンポで振ってきた。その理由は、驚くべきことに20世紀にはベートーヴェンが指示したメトロノーム速度は間違っていると信じられて来たからである。

その考えに異を唱えたのが20世紀後半に台頭して来た古楽器オーケストラの指揮者アーノンクール、ブリュッヘン、ガーディナー、ノリントン、そして延原武春たちである。彼らはベートーヴェンの指示通り演奏可能であり、それこそが作曲家の頭の中に響いた音楽なのだということを示した。そしてその速いテンポで演奏するとき、ビブラートの存在意義は消滅したのである。その潮流は現在、モダン・オーケストラにも押し寄せて来ている。これこそがピリオド・アプローチであり、21世紀の古典派音楽ルネッサンスなのだ(参考までにベートーベンのメトロノーム指示に対するノリントンの考察をご紹介しておく。こちらからどうぞ)。

20世紀の音楽教育のあり方は正しかったのか?ということが今、問われようとしている。

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