音楽史探訪

カズオ・イシグロは日本人?それとも英国人?

今年のノーベル文学賞は、長らく受賞が期待されている村上春樹ではなく、事前に全く取り沙汰されていなかったカズオ・イシグロに白羽の矢が立った。驚天動地、寝耳に水の出来事であった。

僕が彼の名前を初めて知ったのは1994年に劇場で観たアンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン主演のイギリス映画「日の名残り」の原作者としてであった(名作)。その後、「わたしを離さないで」は2006年に日本で出版された年に単行本で読んだ。静謐で哀しく、心に残る小説であった。イシグロがプロデューサーを務めた映画版もすこぶる出来が良かった。

カズオ・イシグロは1954年長崎県長崎市に「石黒一雄」として生まれた。両親は日本人。5歳の時、海洋学者だった父親の仕事の都合でイギリスに移住した。イギリスに帰化するのは28歳である。「日系英国人」受賞に日本のマス・メディアは湧いたが、一方で反日左翼の連中が「彼は歴(れっき)としたイギリス国籍であり、日本人じゃない。はしゃぐな!」と冷や水を浴びせた。

カズオ・イシグロは果たして英国人なのだろうか?それとも日本人か?

僕の答えは「二つの祖国を持つ男」である。もし彼が日本に生まれ育ったならブッカー賞を受賞した「日の名残り」のような小説は絶対に生まれなかったし、逆にイングランド人から「わたしを離さないで」などの小説が生み出されるはずもない。つまり彼の特殊な生い立ちが創造物と密接な関係を帯びているのである。それは日本的なものと英国的なものの複合体結晶である。

例えば同じくノーベル文学賞を受賞したサミュエル・ベケット(「ゴドーを待ちながら」)の場合を考えてみよう。ベケットの国籍はフランスだが、生まれはアイルランド。彼は仏語で作家活動をしたが、同時に自分自身で英語版も執筆した。20世紀演劇の金字塔「ゴドーを待ちながら」は彼が生涯アイルランドに留まっていたとしても、はたまた生粋のフランス人であっても生み出されなかっただろう。やはり両者の複合体結晶と言える。

フレデリック・ショパンといえば誰しもポーランドを思い浮かべる。マズルカやポロネーズはポーランドの民族舞踏音楽だ。しかし彼は20歳の時にポーランドを離れ、二度と祖国の土を踏むことはなかった。その後パリで活躍し、パリで没した。さらに彼の父はフランス人である。ならば彼の作品はフランス音楽なのだろうか?ナンセンス、馬鹿げている。

交響曲 ニ短調で有名なセザール・フランクはベルギーで生まれ、フランスで活躍した。彼の音楽は「フランス音楽」とも「ベルギー音楽」とも明快な判別が不能である。またフランス印象派の作曲家モーリス・ラヴェルの音楽にスペインの色彩が色濃いのも(スペイン狂詩曲、道化師の朝の歌、オペラ「スペインの時」)、彼がスペインとの国境近くのバスク地方に生まれ、母がバスク人だったことと無関係ではない。

彼らのことを「フランス人」と一方的に決めつけるべきではなく、Cosmopolite / Cosmopolitan(国際人)と呼ぶべきだろう。それはカズオ・イシグロにも当てはまることだ。

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シリーズ《音楽史探訪》20世紀末回顧:空前のブルックナー、マーラー・ブーム〜しかしショスタコの時代は遂に来なかった。

1980年頃から2000年にかけての20年間は日本でブルックナー、マーラー・ブームが巻き起こった。録音メディアが丁度アナログからデジタルへの移行期で、CDの普及が大きかったように想う。

LPレコード時代、マーラーの交響曲で1枚に収まるのは第1,4番と「大地の歌」くらいで、その他は大概レコード4面を要した。つまり鑑賞中に3回レコードをひっくり返さないといけなかったわけで、煩わしいことこの上なかった。ブルックナーの交響曲も第5,7,8番はレコード2枚組で、当然値段も高かった。

1980年代はレナード・バーンスタインが2度目のマーラー交響曲全集を制作中で、クラウディオ・アバドもウィーン・フィルやシカゴ交響楽団とマーラーのセッション録音を重ねていた。レニーがイスラエル・フィルを率いて来日し、第9番の超弩級の名演を披露したのは85年である。またジョゼッペ・シノーポリが手兵フィルハーモニア管弦楽団との来日公演(87年)で第2番「復活」と第5番を取り上げた際は一大センセーションを巻き起こした(「復活」はNHK教育テレビ=現Eテレでも放送された)。レニーが亡くなったのが90年、そしてアバド/ベルリン・フィルがサントリーホールで「復活」を演奏している最中に携帯電話が鳴り出し大問題になったのが96年(ホールに電波抑止装置が導入される契機となった)。この頃からブームは下火になっていった(シノーポリは2001年に死去)。

ブルックナーについては朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団が伝説的名演、聖フローリアン修道院での交響曲第7番を録音したのが1975年10月12日。これがLP2枚組でビクターから市販されたのが79年だった。その直後からブームに火が付いた。オイゲン・ヨッフムがバンベルク交響楽団との来日公演で8番を演奏したのが82年、ロイヤル・コンセルトヘボウとの第7が86年。このあたりで最高潮に達したと言えるだろう。そして2001年に朝比奈が亡くなり、熱は次第に冷めていった。

NHK交響楽団の首席指揮者に着任したパーヴォ・ヤルヴィがつい最近、ヒラリー・ハーンとの対談(@フランクフルト)でとても興味深いことを語っている→動画(3分40秒あたりから)。「現在世界で未だにブルックナーの音楽が演奏され、愛されているのはドイツと日本だけ。そして面白いことに日本でブルックナーを演奏すると、会場には男性客しかいないんだ!ラヴェルとかチャイコフスキーとか、もっとロマンティックで美しい曲を演奏したら女性客や子どもたちが来てくれるんだけどね」それに対しヒラリーは「じゃあブルックナーは日本の成人男性のために作曲したのね!」だって。特にアメリカやイギリスでブルックナーは全く人気がなく、演奏される機会も滅多にない。

さて空前のブルックナー、マーラー・ブームに湧いた20世紀後半の日本において、「レコード芸術」誌など音楽雑誌で散々話題になったのが「次にブームになる作曲家は誰だ?」ということ。そして一番名前が挙がったのはショスタコーヴィチだった。しかし僕は「それはいくらなんでもないだろう」と想っていた。

ブルックナーとマーラーの音楽は単純明快である。ブルックナーの基本は教会音楽、オーケストラによるオルガンの響きの追求であり、神とワーグナーへの信仰が根底にある。マーラーは「俺が、俺が」と自分を語りたがる音楽であり、いわば"Watch me !"の駄々っ子だ。両者がポピュラーになるまで時間を要したのは単に規模(編成)が大きすぎ、演奏時間が長すぎるからに他ならない。しかしショスタコは違う。一筋縄ではいかない難物である。

ショスタコの音楽は表層で作曲家の本音を語っていない。共産主義国家・ソビエト連邦においてはいつ「反社会主義的音楽」という意味不明の烙印を押され、逮捕・投獄(あるいは処刑)されるか判らず、彼は入念な偽装工作を自身の作品に施した。幾つもの層を潜り抜けて行かないと、その深層心理真理)には到達出来ない。そしてそこまで辿り着ける者は少ない。(”いちばん大切なことは、目に見えない” サン・テグジュペリ「星の王子さま」より)

ショスタコの音楽はアイロニー(皮肉)諧謔(パロディ)精神に満ち、屈折している。その奥底にあるのは諦念虚無である。聴いていて心地よいとか、心が洗われるといった類ではない。

作曲家であり著名な指揮者でもあったピエール・ブーレーズはショスタコを嫌悪し、生涯に一度も振らなかった。クラウディオ・アバドもそう。小澤征爾や佐渡裕は辛うじて第5番をレコーディングしているが、それ以外の交響曲を指揮したという話は全く耳にしない。朝比奈は第1番と5番のみ。また帝王カラヤンは第10番以外、食指を動かさなかった。

2017年2月17日、18日に井上道義/大阪フィルハーモニー交響楽団は定期演奏会でショスタコの交響曲第11番「1905年」、第12番「1917年」を取り上げる。同じプログラムで、22日に東京公演も予定されている。同オーケストラ初のレパートリーである。とても愉しみだ。

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《音楽史探訪》古典派交響曲の繰返しは実行すべきか?

僕がクラシック音楽を聴き始めたのは小学校高学年からだが、その頃は未だLPレコードの時代だった。月間売上ランキングは常にイ・ムジチの「四季」(独奏:ミケルッチ)がトップで、また定番としてカラヤン/ベルリン・フィルのベートーヴェン「運命」とシューベルト「未完成」をカップリングしたアルバムが良く売れていた。

ハイドン、モーツァルト、ベートーベンら古典派の交響曲や(ピアノ/ヴァイオリン)ソナタは基本的に第1楽章がソナタ形式である(ほぼ総てと言ってもいい)。ソナタ形式はまず第1主題・第2主題が登場する【提示部】があり、それを変奏する【展開部】、元の主題に戻る【再現部】と続き、【終結部】(コーダ)で締め括られる。そして基本的に【提示部】の最後には繰り返し記号があり、頭に戻るよう指示されている。後の作曲家シューベルトやブラームス、ドヴォルザークも同様の仕様である。

しかしトスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、ベームの時代、大抵はこの【提示部】繰返しが省略されていた。つまり後戻りせず【展開部】に突入したのである。僕はそういうものだと思っていた。

ところが、カルロス・クライバー/ウィーン・フィルが録音したベートーヴェンの5番(1974年録音)や7番(76年)を聴いて驚いた。耳慣れない繰返しがあったのだ。その後アバドやムーティが指揮したベートーヴェンやベルリオーズ「幻想交響曲」、バーンスタイン/ウィーン・フィルのベートーヴェン(1977-79)&ブラームス交響曲全集(1981-82)でも全て繰返しが実行されるようになった。

ではどうしてクライバー以前の【巨匠】たちは省略していたのか?一つの可能性としてレコードの容量の問題が挙げられるだろう。LPレコードの基本的収録時間は片面20-25分程度だった。録音時間が長くなれば溝の幅が狭くなり、音質が低下する。だから極力短くしたかったわけだ。もしカラヤンが「運命」「未完成」の繰り返し指示を総て忠実に実行していたら、レコード1枚に収まらなかったであろう。実際、クライバーのベートーヴェン5番と7番のLPはそれぞれカップリングなしの単独で発売された(現在は両者が1枚のCDに収まっている)。消費者としても同じ値段で「運命」しか収録されていないレコードよりは、「未完成」もあるお得な方を当然選ぶだろう。

現在沢山CDが発売されている古いライヴ録音も繰り返しが省略されているが、その多くはラジオ放送用音源であり、やはり番組には時間制限があるからカットは当然である。

ここでそもそも何故、【提示部】に繰り返しは必要だったのか?ということを突き詰めて考えてみよう。ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの交響曲の主な聴衆は貴族たちであった。彼らが生きた時代は当然、録音機なんかないわけだから交響曲を聴くのはそれが初めてであり、その後一生聴く機会もなかっただろう。一期一会。作曲家としては【展開部】以降を愉しんでもらうために、どうしても第1主題・第2主題を覚えて貰う必要があった。だから【提示部】を繰り返し、耳に馴染んでもらうことは必須だったのだ。

では現代においてはどうだろう?まずCDは全体を繰り返し聴くことが前提なので【提示部】繰り返しは不要だろう。かえって曲の流れが停滞するデメリットが有る。演奏会の場合も今更ベートーヴェンの5番やシューベルトの「未完成」をその場で初めて聴く人なんて皆無なわけで、省略する方法論もあり、というのが僕の意見である。ただし、あまり演奏される機会のない曲の場合はやはり【提示部】を繰り返すほうが親切だろう。

カルロス・クライバー以降の時代の潮流はニコラウス・アーノンクールが興したピリオド・アプローチ(時代奏法)と決して無縁ではない。つまり出来うる限り作曲家の意図に忠実に、(メトロノームや繰り返し記号など)スコアに手を加えずに再現しようという姿勢である。その考え方にも一理ある。

繰返しは実行すべきか?否か?……結局、正解なんてない。「時と場合による(It depends)」というのが現時点で最も相応しい結論ではないだろうか。

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シリーズ【大指揮者列伝】帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンの審美眼

まずこの記事を書くに当たり、僕のヘルベルト・フォン・カラヤンに対する立場を明確にしておこう。

僕がクラシック音楽を聴き始めた小学校高学年の頃、当時クラシック音楽ファンはカラヤン派とベーム派に真っ二つに分かれていた。丁度カール・ベームがウィーン・フィルを率いて来日公演していた時期で、FMでベートーヴェンの交響曲第5番、6番を聴いて僕はベームに魅了された。一方でカラヤンがベルリン・フィルと1975年に録音したチャイコフスキー:交響曲第5番のLPレコードを購入したのだが、あまりにも磨きぬかれた人工的な響きに、聴いていて途中で気持ちが悪くなった。ある意味メタリックであり、ゴテゴテと着飾った娼婦のようでもあった。そのレコードは2度と掛けなかった。

カラヤンは楽壇の帝王と呼ばれたが、反面彼ほど《アンチ》がいた指揮者も空前絶後だろう。しかし《アンチ》を生むのは絶対的人気を誇るカリスマだからこそ。これはプロ野球に喩えれば分かりやすいだろう。《アンチ》読売ジャイアンツは桁外れに多いが、《アンチ》横浜ベイスターズなんて聞いたことないでしょ?指揮者だって《アンチ》金聖響とか知らない。実力のない者は話題にもならず、無視されるだけ。《アンチ》=人を嫌いになるには膨大なエネルギーを要するし、その対象となる人物も強大なパワーを持っていることが必須なのである。「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」である。

さて本題に入ろう。カラヤンはスタジオ(セッション)・レコーディングにこだわり、膨大な数の音源を残した。そのライブラリーはオーケストラの《名曲大全》になっていると言っても過言ではない。スッペの「軽騎兵」序曲とかウェーバー「舞踏への勧誘」、ワルトトイフェル「スケーターズ・ワルツ」、マスネ「タイスの瞑想曲」などの小曲から、「双頭の鷲の旗の下に」などドイツ・オーストリア行進曲集(吹奏楽!)、レオンタイン・プライスを独唱に迎えた「きよしこの夜」などクリスマス・アルバムまで。珍曲としては大砲や銃声の効果音付きでベートーヴェンの「ウエリントンの勝利(戦争交響曲)」とかもある。

録音技術の進歩に伴い、カラヤンは繰り返し自分の得意とするレパートリーを録り直した。ベートーベンとブラームスの交響曲全集は4回、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」に至っては計7回もセッション録音を残している(さらに映像が2回)。

コンパクトディスク(CD)はソニーとフィリップスにより共同開発された。CD初期の最大収録時間(74分42秒)を決めるに際し、当時ソニーの副社長だった大賀典雄は親交のあったカラヤンに相談した。彼の答えは「ベートーヴェンの第九が1枚に収まったほうがいい」だった。デジタル時代になってからも一通り再録音している。もの凄い執念だ。

カラヤンはオーストリアのザルツブルクで生まれた。モーツァルトと同郷である。しかしモーツァルトの交響曲は第29番以降しか録音しなかった。これは彼が契約していたドイツ・グラモフォンがカール・ベーム/ベルリン・フィルの組み合わせて既に全集を出していたことと関係があるのかも知れない。そんなに収益が見込める企画ではないからね。

彼はまた、シューベルトやシューマン、チャイコフスキー、ブルックナーの交響曲全集をレコーディングしている。

ところが面白いことにマーラーについては交響曲第4、5、6、9番と「大地の歌」しか録音していない。彼がナチスに入党していたというのは歴史的事実であり、ユダヤ人のマーラーに対して偏見があったのでは?という憶測もあるが、同じユダヤ人作曲家メンデルスゾーンは交響曲全集を出しているので蓋然性を欠く。上記した以外のマーラーの交響曲は冗長で、取り上げるのに値しないと判断したと考えるべきだろう。

ラフマニノフはピアノ協奏曲 第2番しか録音していない。第3番もパガニーニの主題による狂詩曲も交響曲も全て無視である。ラフマニノフの交響曲は散漫で構成に問題があるので、カラヤンのお眼鏡に適(かな)わなかったのだと思われる。

カラヤンはシベリウスの交響曲、特に後期の第4-7番を得意とした。作曲家の吉松隆がシベリウスに私淑しているのは有名だが、彼が高校1年生の時に聴いて作曲家を志す契機になったのはカラヤン/ベルリン・フィルが1967年に録音した交響曲第6番だった。カラヤンは後期交響曲を複数回レコーディングしている。しかし第3番だけは一度もタクトを振らなかった。サイモン・ラトルは先日ベルリン・フィルとのシベリウス交響曲全集をリリースしたが、なんと2010年2月9日の演奏がベルリン・フィルにとっての第3番初演だったそうである。シベリウスの第1、2番はチャイコフスキーからの影響があり、第4番以降はソナタ形式や4楽章形式を捨てて音楽はフィンランドの自然と同化してゆく。丁度第3番はその過渡期にあり、作品としての魅力が乏しい。

レスピーギは「ローマの松」「ローマの噴水」を録音しているが、「ローマの祭り」は取り上げず。恐らく終曲「主顕祭」の馬鹿騒ぎが耐え難かったのであろう。

また非常に興味深いのがショスタコーヴィチとの関係である。カラヤンは生涯に2度、交響曲 第10番をスタジオ・レコーディングしている。しかし彼がショスタコーヴィチの他の交響曲を録音したことは一切ない

Kara

上の写真は1969年5月29日、モスクワ音楽院大ホールにおけるカラヤンとショスタコ。この日のプログラムも第10番だった。つまりこのシンフォニーのみが、彼が価値を認めた作品ということになる。

一般にショスタコで一番知られているのは第5番(俗称「革命」)だろう。売上のみを考えるなら10番より5番の方がレコード会社は喜ぶ。しかしカラヤンは信念を曲げなかった。僕も第5番は軽薄で安っぽい曲だと思う。断然10番の方がいい。この点で彼を支持する。

カラヤンが生涯取り上げなかった曲を探っていくことで、彼のこだわりや美意識が見えて来るのである。

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シリーズ【大指揮者列伝】音楽の革命家ニコラウス・アーノンクールの偉業を讃えて

2016年3月5日に指揮者のニコラウス・アーノンクールが亡くなった。享年86歳だった。彼が引退を表明したのは昨年12月5日。直筆で「聴衆のみなさまへ。私の身体の力が及ばないため、今後の計画を断念いたします」「舞台に立つ私たちと会場のお客様の間には特別の深い関係が生まれました。私たちは共に幸せな発見をして来ました」とメッセージが綴られていた。それから丁度3ヶ月。僕は宮﨑駿(脚本・監督)映画「風立ちぬ」のヒロイン・菜穂子のことを想い出した。菜穂子は自分の死期が近いと悟ると堀越二郎の元を離れ、サナトリウム(富士見高原療養所@長野県)にひとりで戻り、ひっそりと息を引き取る。真に美しい最後であった。

アーノンクールってどんな人?と尋ねられたとしよう。一言で言うなら「古楽器演奏のパイオニアのひとり」であり、「モダン・オーケストラによるピリオド・アプローチ(ピリオド奏法)の創始者」である。彼はクラシック音楽界に革命をもたらした。

アーノンクールはドイツのベルリンで生まれ、オーストリア南部グラーツで育った。ウィーン交響楽団のチェロ奏者として活躍し、53年にウィーン交響楽団のメンバーで「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を結成(ヴァイオリン奏者の妻アリスも参加)、初の公開コンサートは1957年に行われた。

彼は第21回京都賞の受賞スピーチで次のように回想している。「1954年にパウル・ヒンデミットがウィーンでモンテヴェルディの『オルフェオ』を上演しました。コンツェントゥス・ムジクスの弦楽器奏者は全員、楽器を総動員して参加しました。これが私とモンテヴェルディとの最初の出会いでした」ピリオド楽器による世界初録音であり、現在はCDで入手出来る。

ベルギーでレオンハルトとクイケン兄弟がラ・プティット・バンドを創設したのは1972年である。イギリスでデヴィッド・マンロウとクリストファー・ホグウッドがロンドン古楽コンソートを創設したのが1967年(マンロウが33歳の若さで急逝した76年に解散)、ホグウッドがエンシェント室内管弦楽団を創設したのが1973年、ピノックがイングリッシュ・コンソートを創設したのも同年。ノリントンがロンドン・クラシカル・プレイヤーズを、ガーディナーがイングリッシュ・バロック・ソロイツを創設したのが1978年である。またオランダに目を転じると、トン・コープマンがアムステルダム・バロック管弦楽団を創設したのが1979年、ブリュッヘンが18世紀オーケストラを創設したのが1981年だった。

つまりウィーン・コンツェントゥス・ムジクスは世界最古の古楽器オーケストラであると言っても過言ではない。

それまでどこかの貴族の家に眠っていたピリオド(古)楽器をひとつひとつ譲ってもらい、これらの楽器の演奏方法(当時は誰も知らなかった)を研究していく、という途方もない作業を繰り返した。オークションに出品された楽器を競り落とすこともあったという。

アーノンクールは1969年までウィーン交響楽団のチェリストとして務めた。つまりウィーン・コンツェントゥス・ムジクス創設から16年間、二足の草鞋を履いていたわけだ。

1962年に録音されたヘンデル/リコーダー・ソナタ集ではアンナー・ビルスマ(チェロ)も、フランソワ・ブリュッヘン(リコーダー)もモダン楽器を使用している。ブリュッヘンはフツーにヴィブラートを掛けており、この時代には未だ古楽器奏法は手探り状態だったようだ(ビルスマは1962-68年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者だった)。これが69年に録音されたトリオ・ソナタになるとブリュッヘンにアリス・アーノンクール(ヴァイオリン)、ニコラウス・アーノンクール(チェロ)が加わり、全員古楽器になっているので60年代に奏法がほぼ確立されたと考えて間違いない。

僕がアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏を初めて聴いたのはヴィヴァルディの「四季」である。独奏はアリス・アーノンクール。76-77年の録音で、《衝撃の四季!》のキャッチコピーとともに「レコード芸術」誌で広告を見かけたのが小学校6年生の頃だった。あまりにも革新的だったので、当然推薦盤にはならなかった(今では信じられないだろうが、カルロス・クライバー/ウィーンpo.のベートーベン:交響曲第7番も無印だった。時代が彼らに追いつくためには時間を要したのである)。

僕が初めてクラシック音楽を好きになったのは小学校4年生の時、母が所有していた「四季」のLPレコードを聴いたのが切っ掛けだった。演奏はフェリックス・アーヨ/イ・ムジチ合奏団。59年のステレオ録音である。当時は「四季」といえばイ・ムジチで、クラシック・レコードの月間売上げランキングでも常にロベルト・ミケルッチ/イ・ムジチ(69年録音)のLPがトップを独走していた。そもそも現代ではヒットチャート・トップテンに「四季」が入ることもないよね。70年代は空前のブルックナー/マーラー・ブームが到来する前夜であった。閑話休題。

アーノンクールの「四季」を聴いて、天地がひっくり返った。特に激烈なインパクトだったのが雨の降る情景を描いた「冬」第2楽章である。アーノンクールの演奏時間は1分14秒。僕が慣れ親しんできたイ・ムジチの演奏は2分40秒。なんと倍以上の速さだったのである!とても同じ曲だとは信じられなかった。通奏低音もイ・ムジチがチェンバロであったのに対し、アーノンクール盤はポジティフ・オルガン。「こんなのあり!?」の驚きから、「音楽って自由なんだ!」という開眼へ。それは正にElectric Liberation =電気的啓示であった。僕は声を出して笑った。

今日ではイ・ムジチの「四季」を聴くクラヲタなんかいない。彼らの存在は最早、冗談のネタでしかない。その後に登場したビオンディ/エウローパ・ガランテやカルミニョーラ/ヴェニス・バロック・オーケストラ、アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコといった古楽器による新鮮な「四季」もアーノンクールなくしてはあり得なかったと断言出来る。全ては彼から始まったのである。

しかし晩年の成熟し落ち着いた解釈と比べると、70年代の「四季」は攻撃的で硬い演奏という印象が拭えない。肩に力が入っているのだ。あの時代のアーノンクールは古楽器演奏に対する世間の偏見と戦い、目の前に立ちはだかる壁を何としても突破してやる!という激しい闘争心に燃え、完全武装していたということなのだろう。彼がこの曲を再録音しなかったことが惜しまれる。

1980年代に入るとアーノンクールの新たな挑戦が始まった。モダン・オーケストラに古楽器奏法を取り入れるピリオド・アプローチの試みである。まずは名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を起用してモーツァルトやハイドンの交響曲をレコーディングした。弦楽器はノン・ヴィブラートで弾き、トランペットはピストン/バルブのないナチュラル管を用いるという方法論が確立された。

1990年にヨーロッパ室内管弦楽団と録音したベートーヴェンの交響曲全集にアーノンクールは次のようなコメントを残している。

私たちの録音の中で、ナチュラル・トランペットだけが歴史的な響きを持っています。理由は、トランペットは単なる楽器であるだけでなく、ある種のシンボルでもあって、全てのファンファーレ動機音型があるひとつの響きを要求するものであるからです。もし仮にモダン・トランペットで「高らかに鳴り響く」音を要求された場合、それは大きすぎる音量で演奏されることになります。それを正しい音量で演奏すると今度はファンファーレとしての性格が失われてしまいます。 ナチュラル・トランペットを使えばこうした問題は起きないのです。

ピリオド・アプローチ革命をオランダから開始したということには非常に意味がある。彼の国は古楽のメッカであり、アンナー・ビルスマがいてアムステルダム・バロック管弦楽団や18世紀オーケストラがあった。ハーグ王立音楽院には古楽科があった(日本からは寺神戸亮、若松夏美、鈴木秀美、有田正広らが留学)。つまりピリオド・アプローチを受け入れ易い土壌があったのである。

アーノンクールが初めてウィーン・フィルを指揮したのが1993年、ベルリン・フィルとの初顔合わせは1995年であった。ベルリン・フィルと良好な関係が持てたのは帝王カラヤンが89年に亡くなり、90年からシェフがクラウディオ・アバドに交代したことが大きい。また93年から98年までコンサートマスターを務めたライナー・クスマウル(現ベルリン・バロック・ゾリステン芸術監督)の指導下にベルリン・フィルはバロック・ボウ(弓)を揃え、オーケストラぐるみでそれがもたらす演奏効果を学んだ。

アーノンクールの手法をいち早く取り入れた指揮者たちがいた。チャールズ・マッケラス、デイヴィッド・ジンマン、クラウディオ・アバド、サイモン・ラトルらである。バーヴォ・ヤルヴィ、ダニエル・ハーディング、フランソワ=グザヴィエ・ロトらが後に続いた。またブリュッヘン、ホグウッド、ノリントンら古楽の世界の住人たちもモダン・オーケストラに進出していった。

アーノンクールがヨーロッパ室内管弦楽団とベートーヴェン・チクルスに取り組んでいる時、アバドはコンサート会場に足を運んで熱心に研究した。アバドがウィーン・フィルとレコーディングしたベートーヴェン交響曲全集(85-88)とベルリン・フィルとの全集(99−00)とを聴き比べてみて欲しい。あるいはロンドン交響楽団と録音したペルゴレージ:スターバト・マーテル(84)と、モーツァルト管弦楽団との再録音(07)でもいい。演奏スタイルの豹変に誰もが驚くであろう。つまりピリオド・アプローチを取り入れ、オケが小編成になっているのである。

アーノンクールは2001年と03年の2回、ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートに登壇した。遂に彼は世界を手中に収めたのである。レパートリーもシューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、スメタナ、ドヴォルザーク、ブルックナー、そしてガーシュウィン(!!)と広げていった。どうやらマーラーはお気に召さなかったようだ。

アーノンクールの実演を聴いたのは2006年11月、大阪・いずみホールでのモーツァルト:レクイエム。手兵ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを率いての公演だった。これが最初で最後である。しかしあろうことか演奏中に携帯電話がホールに鳴り響いた!本当に申し訳ない気持ちになった(もちろん僕が発信源じゃないよ、念のため)。

僕が今、一番聴きたい音源は2000年にウィーン・フィルとレコーディングしたフランツ・シュミット:オラトリオ「7つの封印の書」(1938年初演)。WARNER TELDECからCDが発売されたが、現在は廃盤。ナクソス・ミュージック・ライブラリー NMLなどの音楽配信もされていない。関係者各位、何とか状況を改善してください。お願いします。

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《音楽史探訪》ヴォーン・ウィリアムズの田園交響曲あるいは、バターワースへの音の手紙〜藤岡幸夫/関西フィル 定期

第一次世界大戦が始まった1914年、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズは41歳になっていた。兵役を逃れることが出来たにもかかわらず義勇兵として入隊。王立砲兵守備隊の少尉に任命された。砲火の爆音に長期間晒されたことが後の難聴の原因となった。田園交響曲(交響曲第3番)は大戦が終結した1918年から21年にかけて作曲された。軍隊で聴いたラッパ手の吹く音型が、ナチュラルトランペットにより第2楽章に登場する。またこの楽章最後には(可能なら)ナチュラルホルンを使用するよう指示も書かれている。

彼には13歳年下の友人がいた。作曲家のジョージ・バターワースである。ふたりは度々イングランドの田園地帯に民謡の採譜に出かけた。バターワースはヴォーン・ウィリアムズがロンドン交響曲(交響曲第2番)を仕上げる際にも協力している。

第一次世界大戦が勃発するとバタワースは志願して従軍し、フランスのソンムの戦いで狙撃され戦死した。享年31歳だった。

バターワースの代表作に「シロップシャーの若者 A Shropshire Lad」という管弦楽曲がある。これは元々イギリスの詩人A・E・ハウスマン(1859-1936)が1896年に出版した抒情詩集「シロップシャーの若者」を歌曲集として出版したもので、その一曲"Loveliest of trees(世界で最も〚うっとりするほど〛美しい花)"の旋律が引用されている。次のような歌詞だ。

Loveliest of trees,the cherry now
Is hung with bloom along the bough,
And stands about the woodland ride
Wearing white for Eastertide.

Now,of my threescore years and ten,
Twenty will not come again,
And take from seventy springs a score,
It only leaves me fifty more.

And since to look at things in bloom
Fifty springs are little room,
About the woodlands I will go
To see the cherry hung with snow.

世界で最も美しい花 桜は今
枝いっぱいに花で飾られている
そして森の馬車道の脇に立ち並ぶ
復活祭の季節の白い服を身に纏って

僕の人生が70年として
20歳の時はもう二度と戻らない
70回訪れる春から20を差し引くと
あと50回かそこらくらいしか残っていない

この花の盛りを見るには
50回分の春なんてあっという間だ
森へゆこう
雪のような花に彩られた桜を見るために

この詩が言わんとすることは、カルペ・ディエムCarpe Diem(その日を摘め)/メメント・モリMemento Mori(死を想え)ということだ。詳しくは下記記事に書いた。

つまり「今」という時は二度と訪れないのだから、その日その日を悔いが残らないよう精一杯生きろということである。

夭逝したバターワースの生涯を想うと、この詩は切実に響く。そして間違いなくヴォーン・ウィリアムズの田園交響曲にはバターワースへの哀悼の気持ちが込められている。

田園交響曲といえば誰もがベートーヴェンの第6番を思い浮かべるだろう。しかし両者には決定的違いがある。ベートーヴェンのシンフォニーからは田舎の人々の息遣いが聴こえ、賑やかな踊りが活写される。ところが一方、ヴォーン・ウィリアムズの描く田園風景には誰もいない。目の前にはフランス古戦場の風景が静かに広がっているだけだ。第4楽章にはソプラノによる(歌詞のない)ヴォカリーズが登場するが、僕にはそれが無人の野に吹く寂しい風の音のように聞こえる。あるいは死者を弔うレクイエムと言い換えても良いだろう。作曲家が「スロー・ダンス」と形容した、全篇の中では比較的活気がある第3楽章はまるで死んだ兵士たち(亡霊)の踊りだ。戦車の姿もそこに幻視出来る。

なお余談だが、天才指揮者カルロス・クライバーはコンサートで好んでバターワースイギリス田園詩曲 第1番を取り上げた。恐らくカルロスが生涯で振った唯一のイギリス音楽である。この曲はバイエルン州立(国立)歌劇場におけるカルロスの追悼コンサートでも指揮者なしで演奏された。閑話休題。

シベリウスに献呈されたヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番は第二次世界大戦中の1943年6月24日、ロンドン市民がドイツの空爆を恐れる日々を過ごす最中に作曲者自身の指揮で初演された(プロムスで有名なロイヤル・アルバート・ホール)。暴力的な不協和音と緊張感に包まれた第4番とは全く性格が異なり、第3番同様に(一見)穏やかな作風である。二つの大戦に跨がる第3番と第5番はある意味、姉妹のようなシンフォニーと言えるだろう。読者の皆さんはそこに、作曲家のどういう想いを見出すのだろうか?

さて、6月12日(金)、ザ・シンフォニーホールで藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴いた。曲目は、

  • ブラームス:ピアノ協奏曲第2番
    (独奏 横山幸雄)
  • シューベルト:即興曲 変ト長調 Op.90-3(ソリスト・アンコール
  • ヴォーン=ウィリアムズ:田園交響曲(交響曲第3番)
    (ソプラノ独唱 岩下晶子)

コンチェルトは力強く剛気、毅然としたブラームス。また爽やかな第1楽章を聴きながら、僕はブラームスが交響曲第2番などを作曲した避暑地、ヴェルター湖畔ペルチャッハの風景が脳裏に浮かんだ。写真はこちら。そして終楽章のロンドは実に軽やかで、花が舞い落ちていくようなイメージ。

さて、お待ちかねの田園交響曲である。ソプラノのヴォカリーズはクラリネットで代用されることもあるそうだ。またナチュラルトランペットとナチュラルホルンのパートも現代楽器が使用される場合が多いのだが、藤岡は徹底して作曲家の願いに寄り添った。あっぱれである。

プレトークで藤岡は「僕は若い頃、『ヴォーン・ウィリアムズなんてつまんねーなー』と思っていました。年をとって最近漸く良さが判ってきた。今ではこの田園交響曲とシベリウスの第5番のふたつが一番好きなシンフォニーです」と。「田園交響曲は暗いです。でも優しくて誠実。芝居がかったところが全くない。ヴォーン・ウィリアムズの音楽には(ショスタコーヴィチのような)皮肉とか怒りがないのです」そして第1楽章は「曇り空」、第2楽章は「挽歌」、第3楽章は「モンスター」、第4楽章は「慰めと祈り」と評した。

藤岡の指揮は丁寧に、慈しむように音を紡いでいく。第1楽章は静謐で透明感があり、心が洗われるようだった。第3楽章スケルツォは空恐ろしい音楽のように響いた。そして終楽章、ソプラノはまずステージより一段高いオルガン席に立って歌う。それはまるで美しい子守唄のようで、何だか懐かしかった。そして終盤、弦楽器群がつかの間ユニゾンで奏でる部分に、僕は作曲家の悲痛な心の叫びを聴いた。最後のヴォカリーズは舞台裏から歌われ、音楽は静かに虚空へと消えていった。魂が震えるような演奏だった。

藤岡さん、次は是非(東京シティ・フィルだけではなく)関西フィルでもヴォーン・ウィリアムズの5番を振ってください。切にお願いします。そして出来うることなら藤岡さんのバターワースも聴いてみたいなぁ。

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シリーズ《音楽史探訪》パブロ・カザルスと鳥の歌

チェロの名曲「鳥の歌」といえば20世紀を代表するチェリスト=パブロ・カザルス(1876-1973)と不可分である。しばしばカザルス作曲と記載されるが、元は彼の故郷スペイン・カタロニア(カタルーニャ)の民謡である。トレモロの序奏(弦楽アンサンブル版ではそれにハーモニクス=倍音奏法が加わる)と終結部のみカザルスの創作と言える。有名な演奏としては1961年にジョン・F・ケネディの前で弾いたホワイトハウスコンサートCD(モノラル)がある。

1939年スペイン内乱でフランコ独裁政権が樹立されるとカザルスは故国を捨てフランスに亡命、さらにプエルトリコへ拠点を移す。そしてフランコ政権を認める国では一切演奏しないと宣言した。1971年、94歳になったカザルスは「私の生まれ故郷カタロニアの鳥たちは、空に舞い上がるとピース(peace)、ピース、ピースと鳴くのです」と国連でスピーチをし、14年ぶりに一般聴衆の前で「鳥の歌」を披露した。その肉声と演奏はこちらで聴くことが出来る→You Tubeへ。今にも止まるんじゃないかという位ゆっくりしたテンポで奏でられ、魂を絞り出すように全身全霊を傾けた熱い演奏。正に慟哭・絶唱とも言うべき白鳥の歌となっている。この曲を弾く時彼は鳥となり、望郷の想いを胸に遥か上空から古里を見守っていたのだろう。そして2年後、カザルスは亡くなった。内戦後祖国で使用を禁じられていたカタルーニャ語が公用語として認められるのはフランコの死後、1978年のことである。

ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)で聴けるカザルスの録音は1936年、1950年、1956年のものがある。

1936年7月、ナチス・ドイツ主導のベルリン・オリンピックに対抗してスペインの(カタルーニャ州都)バルセロナで平和と民主主義を標榜した人民オリンピックが企画され、各国から多くの選手団が市内に集まった(バルセロナはオリンピック開催予定地として立候補したがベルリンに敗れた)。開会式でカザルスはベートーヴェンの「第九交響曲」を指揮することになっていたが、その前日のリハーサル中にフランコ将軍が反乱を起こし、人民オリンピックは中止になった。そして月日は流れて1992年、バルセロナ・オリンピックが遂に実現し、その閉会式でヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスが「鳥の歌」を歌った。なお彼女の「鳥の歌」はナクソス・ミュージック・ライブラリーで聴くことが出来る→こちら

今回、「鳥の歌」について色々調べていて驚愕の事実を知った。何と原曲はクリスマス・キャロルだったのだ!物哀しい曲調やカザルスのエピソードから考えて、まさかそんな明るい歌だとは想像だにしなかった。次のような歌詞である。

こよなく喜ばしい夜
至高の光が
輝く様子を見て
鳥たちは歌いながら
祝いに集う
甘やかな声をたずさえて

(スペイン)カタシロワシが
空高く舞う
調べもよく歌いながら
こう告げるー「イエス様がお生まれだ
我らを罪から救い
喜びを与え給うために」

この後、これに答えてスズメ、ムネアカヒワ、ナイチンゲール、ツグミなど鳥たちが救世主の誕生を祝福し歌う。NMLではクリスマス・キャロル(合唱)版も聴くことが出来る。こちらや、こちら。カタロニアの人たちにとって「鳥の歌」は平和を願う祈りの曲だったのだ。

スペイン内戦の悲劇はピカソの「ゲルニカ」を産み、映画ではビクトル・エリセ監督の名作「ミツバチのささやき」ギレルモ・デル・トロ監督のダーク・ファンタジー「パンズ・ラビリンス」 として結実した。またアーネスト・ヘミングウェイは通信社の特派員として内戦を取材し、その経験を基に小説「誰がために鐘は鳴る」を執筆、1943年にゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマン主演で映画化された。イングリッドが「鼻は邪魔にならないの?」と言うキス・シーンは余りにも有名。「鳥の歌」を聴く時、僕の脳裏にはそんなことどもが走馬灯のように駆け巡るのである。

Hikari

さて読者の皆さん、「鳥の歌」をめぐる冒険は如何でした?

メリー・クリスマス!

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シリーズ《音楽史探訪》没後100年・マニャールを知っていますか?

この記事はシリーズ《音楽史探訪》音楽家の死様と併せてお読み下さい。

僕はある日、通勤中にナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)でヴィア・ノヴァ四重奏団の演奏するショーソンやルーセルの弦楽四重奏曲を聴いていた。すると突如として激しく情熱的な音楽が始まったのでびっくりした。電撃的啓示を受けたと言ってもいい。収録リストを見てみるとマニャールと書いてある。全く知らない作曲家だ。名前の語感からしてスペイン人??興味を持ったので調べてみた。

アルベリク・マニャール(1865-1914)はフランスの作曲家。今年没後100年だが非常にマイナーな人なので演奏会で取り上げられるという話はとんと聞かない。コラールが用いられていることから「フランスのブルックナー」と呼ばれることもあるが、作風は全く異なり見当違いも甚だしい。

兵役を経験し法学校で学んだ後、ヴァンサン・ダンディに師事する。ダンディはセザール・フランクの弟子であり(フランクのことを「お父さん」と呼び、評伝も書いた)、マニャールはフランクの門下生と考えて良いだろう。

第一次世界大戦が勃発するとマニャールは妻と2人の娘を疎開地に避難させ、自分自身はバロンにある邸宅を守るため居残った。そこへドイツ兵が侵入、彼は銃を持って抵抗し、発砲してひとりを射殺。ドイツ兵は反撃し、マニャール邸に火を放った。後日屋敷の焼け跡から黒焦げの遺体が発見された。またこの際、歌劇「ゲルクール」の総譜や新作の歌曲が焼失した。しかし友人のロパルツが記憶を頼りに「ゲルクール」のスコアを再現し、1931年に蘇演された。

鮮烈かつ壮絶な最後である。その内的な攻撃本能(衝動)が彼の音楽の中にも垣間見られる。

4曲ある交響曲のうち第1番はフランクが得意とした循環主題の手法が用いられているが、後期の作品ではすっかり影を潜め、独自の路線を打ち出している。傑出しているのは第4番。第1楽章は激しく、第2楽章スケルツォで民族音楽風の箇所が登場するのが面白い。第3楽章レントは祈りのように清浄で、第4楽章のフーガも格好いい。トーマス・ザンデルリンク/マルメ交響楽団のCDでどうぞ。

マニャールのヴァイオリン・ソナタは名ヴァイオリニストで作曲家のウジェーヌ・イザイに献呈されており、1902年にイザイの手で初演された。ちなみにフランス系ヴァイオリン・ソナタの最高傑作と呼ばれるフランクのソナタもイザイの結婚祝いとして贈られている。チェロ・ソナタと共にメラメラと燃える激情を有した傑作。またピアノが単なる伴奏にとどまらず、ヴァイオリン(あるいはチェロ)と対等に主張するのも特徴的。デュメイ&コラールのCDを推す。また半音階的にたゆたうように始まるチェロ・ソナタは第1楽章からいきなりフーガが登場するので意表を突かれる。

叙情的に歌うフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットとピアノのための五重奏曲もいい。

ピアノ三重奏曲も魅力的な楽曲らしく、これからマニャールを知ったという方がいらっしゃるのだが、残念ながら現在NMLには登録されていないようだ。近いうちに聴ける機会が巡ってくることを心から願っている。

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シリーズ《音楽史探訪》音楽家の死様(しにざま)

ドイツのドレスデンに生まれたヘルベルト・ケーゲル(1920-90)はライプツィヒ放送交響楽団やドレスデン・フィルの指揮者として冷戦下の東ドイツで活躍したが、ベルリンの壁が崩れドイツが再統一された直後に拳銃自殺した。共産主義国家の瓦解に絶望したのだろうか?統一後に自分の仕事の場がなったことが原因とも言われているが、確かなことは分からない。ケーゲルの残したCDでは「展覧会の絵」が激しく個性的で強烈だ。「アルビノーニのアダージョ」も面白い。

作曲家フランツ・シュミットの教え子でありシュミットのオラトリオ「7つの封印の書」の初演(1938)を振ったオーストリアの指揮者オズヴァルト・カバスタ(1896-1946)はナチスの熱心な賛美者で、ミュンヘン・フィル主席指揮者就任の際にナチに入党した。このことが終戦後問題視され、占領軍から一切の演奏活動を禁止され、彼は妻と共に教会で服毒自殺を遂げた。

自殺した指揮者といえばカルロス・クライバーの評伝を読んでいて、父エーリヒが自殺したとを仄めかすような記載があったので驚いた。エーリヒ・クライバーは1956年1月27日にチューリヒのホテル浴槽で亡くなっていた。失血死だったようだ。丁度、モーツァルト生誕200年の日であった。偶然の病死とは考え難い。期待していたウイーン国立歌劇場総監督の地位をめぐる争いに敗れ、失意の底にあったとも言われている(1954年からカール・ベーム、56年からヘルベルト・フォン・カラヤンが就任した)。恐らくこれが「自殺」と公表されなかったのは宗教的理由があると考えられる。カトリック教徒は自殺が禁じられており、自殺者は教会で葬儀をあげることも教会墓地に埋葬されることも拒絶されて来たのだ(現在ではこの不寛容も変わりつつあるらしい)。

息子のカルロスにも自殺説が根強くある。彼の死の前年に妻スタンカ(元バレエ・ダンサー)が亡くなり、カルロスは落胆していた。彼は自ら愛車のアウディ・A8を運転し、スタンカの故郷スロベニアに向かった。その数日後、彼の遺体がスロベニアの別荘で発見された。使用人などはおらず、カルロスひとりきりだった。父子2代にわたる不審死である。

また、現在までにワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を指揮している最中に死亡した指揮者はふたりいる。1911年のフェリックス・モットルと1968年のヨーゼフ・カイルベルトである。カイルベルトは生前、口癖のようにこう言っていたという。

「モットルのように『トリスタン』を指揮しながら死にたい」

そして、その甘美な夢は実現した。

「トリスタン」は全3幕で上演時間は総計約4時間。指揮者はその間、暑い燕尾服を着てタクトを振る(運動する)。当然脱水状態になり易く、心筋梗塞を誘発するというわけだ。サウナでよくある心臓発作や、腹上死などと同じ理屈である。

次に作曲家に目を向けてみよう。

オーストリアのウィーンに生まれたアントン・ヴェーベルン(1883-1945)は第二次世界大戦直後の45年9月15日、ザルツブルク近郊のミッタージルで夜間、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところ、闇取引の合図と勘違いされアメリカ兵にその場で射殺された。なんとも気の毒な話である。

壮絶な最後で想い出すのがフランス、バロック期の作曲家ジャン=マリー・ルクレール(1697-1764)だ。彼はルイ15世より王室付き音楽教師に任命されるが、宮廷楽団の監督権をめぐりライバルと対立し辞任。晩年はなぜか人目を避けて貧民街に隠れ住むようになり、そのあばら屋で惨殺死体となって発見された。犯人は未だに特定されていない。何ともミステリアスではないか。ルクレールの作品は特にヴァイオリン・ソナタが素晴らしい。

フランスの作曲家ではあと今年没後100年を迎えるアルベリク・マニャールの死様が凄まじいのだが、それはまた別の話。彼については改めて記事を書きたいと想う。

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シリーズ《音楽史探訪》Between Two Worlds ~コルンゴルトとその時代(「スター・ウォーズ」誕生までの軌跡)

「Between Two Worlds」は第二次世界大戦中の1944年にワーナー・ブラザースが製作したハリウッド映画のタイトルである。この音楽を作曲したのがエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトであった。コルンゴルトは正にBetween Two Worldsー二つの世界の間(はざま)で翻弄された生涯を送った。

僕がコルンゴルトと出会ったのは高校生の時だった。スタンリー・ブラック/ロンドン・フェスティバル管弦楽団による「フィルム・スペクタキュラー」シリーズのLPレコードにエロール・フィリン主演の海賊映画「シーホーク」の音楽が収録されていたのだ。聴いた瞬間、「最高に格好いい!トランペットのファンファーレがまるでスター・ウォーズじゃないか!?」と思った。「シー・ホーク」が1940年公開で「スター・ウォーズ」が1977年だから当然、ジョン・ウィリアムズが影響を受けたことになる。後に聴いたコルンゴルトの「嵐の青春(Kings Row)」(1942)なんか、「スター・ウォーズ」メインテーマそっくりだった。

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957)はモラヴィア地方のブリュン(現在チェコのブルノ)に生まれた。ヤナーチェクと同郷である。そして4歳の時に父ユリウスに連れられてウィーンへ移り住んだ(地図はこちらの記事を参照あれ)。ユダヤ系のユリウスは地元ブリュンで弁護士をしていたが、ウィーンでは高名な音楽評論家として活躍した。エーリヒは8歳からウィーン楽友協会音楽院教授ロベルト・フックスに対位法を学び、9歳で作曲したカンタータをマーラーが賞賛したというエピソードが残っている。

その後エーリヒはマーラーからの紹介でツェムリンスキーに数年間師事する。11歳の時に作曲したバレエ=パントマイム「雪だるま」はツェムリンスキーがオーケストレーションを手伝い、ウィーン宮廷歌劇場(現・ウィーン国立歌劇場)で初演された。皇帝フランツ=ヨーゼフ1世も臨席したという。

父親が熱心で幼少時から英才教育を受け、神童として名を馳せたという点においてヴォルフガングという名前の由来であるモーツァルトと似ていると言えるだろう。

コルンゴルトが住んでいたアパートの上階には名指揮者ブルーノ・ワルターが住んでいた。ワルターは「コルンゴルトのピアノの音がものすごいので、仕事に集中できない」と書き残している。彼は後にコルンゴルトのオペラ「ポリュクラテスの指環」Op.7と「ヴィオランタ」Op.8初演を指揮することになる。

12歳で作曲したピアノ三重奏曲には満を持してOp.1(作品番号1)が付けられた(「雪だるま」は作品番号なし)。若書きではあるが、既にコルンゴルトの特徴が刻印されている。これを初演したのはピアノ:ブルーノ・ワルター、ヴァイオリン:アルノルト・ロゼ(ウィーン・フィルのコンサートマスターを57年間務めた)、チェロ:フリードリヒ・ブクスバウム(ウィーン・フィル首席奏者)という錚々たるメンバーであった。

アルノルト・ロゼはヴィブラートを抑えた奏法が特徴で、同僚がヴィブラートをたっぷりかけて歌わせた時、「そんなにヴァイオリンを啼かせるものではない」と嗜めたという。また恒常的ヴィブラートで弾くフリッツ・クライスラーがウィーン・フィルの入団試験を受けた際、審査員だったロゼは「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という理由で落としている。彼はマーラーの妹と結婚した。

1938年ナチス・ドイツがオーストリアを併合するとユダヤ系のワルターはスイスを経てアメリカに亡命した。ルーマニア出身のユダヤ人ロゼは国外追放処分となりロンドンに逃れ、そこで46年に客死。娘のアルマはゲシュタポに捕らえられ、アウシュビッツで悲劇的な死を遂げた。ブクスバウムもロンドンに亡命した。彼らがバラバラに旅立つ直前にレコーディングしたのが、今でも名盤の誉れ高いマーラー/交響曲第9番(1938)である。ほぼノン・ヴィブラートで演奏するウィーン・フィル最後の記録となった(「ピュア・トーン」を主張する指揮者ロジャー・ノリントンがしばしば言及している)。そのサウンドは戦後、失われてしまう。

オペラ作曲家としてコルンゴルトが頂点を極めたのは1920年にハンブルクとケルンで同時初演された「死の都」Op.12である。23歳のことだった。オットー・クレンペラーハンス・クナッパーツブッシュジョージ・セルら錚々たる指揮者がこのオペラを振った。台本を書いた「パウル・ショット」とは作曲家と父ユリウスの筆名。「パウル」はこの物語の主人公の名前であり、「ショット」は楽譜が出版されたショット社から採られた。この事実はコルンゴルトの死後18年経過した1975年にニューヨーク・シティ・オペラで再演されるまで公にされなかった。ユリウスは音楽評論家として高名な自分の名前が、作品の評価に影響を与えないよう配慮したのだと考えられる。馥郁たる芳香。爛熟する世紀末ウィーンの響き(オペラの舞台は死都ブルージュだが)。ある幸福な時代の終焉。何と上品で、エレガントな音楽だろう。

オペラ「ヘリアーネの奇跡」Op.20は1927年にハンブルクで初演された。抽象的で難解な内容から聴衆の受けは芳しくなかったが、作曲家は自身の最高傑作と考えていたようだ。僕は「死の都」を3つの異なるプロダクションで観ているが(レーザーディスクおよびDVD)、「ヘリアーネの奇跡」は残念ながら映像ソフトがない。ただCDで聴く限りライトモティーフ(示導動機)を駆使した非常に魅力的楽曲であり、コルンゴルドの自信も頷ける。ワーグナー→リヒャルト・シュトラウスと継承されたライトモティーフの手法はコルンゴルドにおいて結実した。そしてそれは後年、彼の手でハリウッド映画音楽に持ち込まれ、ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」を生むことになる。

ベイビー・セレナーデOp.24は1928年の作品。コルンゴルトは24年に結婚、ほどなく息子が生まれ、二人目の息子ゲオルク誕生の際に作曲されたのがこの快活で愛らしい楽曲。いわば彼の「ジークフリート牧歌」である。

  1. 序曲 「赤ん坊が誕生!」
  2. 歌 「今日は佳き日」
  3. スケルツィーノ 「なんて素敵なおもちゃ!」
  4. ジャズ 「坊やが喋るよ」
  5. エピローグ 「そして坊やは自分に語りかけるように寝てしまう」

編成が実にユニークで、サキソフォン3本やバンジョー、ハープが加わった室内オーケストラ仕様となっている。ジャズの要素がふんだんに盛り込まれており、後の彼の映画音楽を予告する内容と言えるだろう。

室内楽の傑作、弦楽四重奏曲第2番Op.26(1934年)は、コルンゴルトが友人の演出家マックス・ラインハルトからの要請で初めてアメリカへ渡り、映画「真夏の夜の夢」の仕事(メンデルスゾーンの編曲)に携わった年の作品。ラインハルトはその前年に成立したナチス政権から追われ亡命していた。そして4年後の1938年には、ナチス・ドイツのオーストリア併合によって、自らもアメリカへの亡命を余儀なくされる。第4楽章は優雅なワルツになっており、古き良きウィーンの匂いがする。かくしてコルンゴルトはハリウッドで映画音楽に本格的に携わることとなった。

今やコルンゴルトの代表作として誉れ高いヴァイオリン協奏曲Op.35は1945年に作曲され、47年にヤッシャ・ハイフェッツにより初演された。日本での初演はそれから42年も経過した1989年。官能と陶酔。何とも美しいメロディに溢れ、濃密なロマンティシズムに彩られたコンチェルトである。各楽章のテーマは「砂漠の朝」「革命児ファレス」「風雲児アドヴァース」(アカデミー作曲賞受賞)「ロビン・フッドの冒険」(アカデミー作曲賞受賞)といった過去にコルンゴルドが作曲した映画音楽から採られている。しかしこれが仇となった。映画を「大衆の娯楽」と馬鹿にし、芸術とは決して認めないクラシック音楽の聴衆や批評家にこの名曲が受容されるにはさらに長い年月を要すことになる

チェロ協奏曲Op.37はベティ・デイビス主演の映画「愛憎の曲」(Deception,1946)のために作曲されたものを改稿したもの。ヴァイオリン協奏曲同様に浪漫的で芳醇な味わいがある。演奏時間12分と短め。映画の物語はこうだ。アメリカの女流ピアニストである主人公はウィーンで知り合ったチェコ出身のチェロ奏者と恋に落ちる。しかしヨーロッパが戦火に包まれ、ナチスの魔の手が伸びでふたりは別れ別れになり、彼女はニューヨークに戻る……。コルンゴルトの人生と重なる部分がある。映画のサウンドトラックでこのチェロ協奏曲を弾き、コンサート版の初演も務めたのがハリウッド弦楽四重奏団のメンバー、エレノア・アラー。指揮者レナード・スラットキンの母である。ちなみに父フェリックス・スラットキンは同四重奏団のヴァイオリニストだった。レナード・スラットキン自身もこの曲をレコーディングしている。

第二次世界大戦後、コルンゴルトはワーナー・ブラザースとの契約を更新せず、ウィーン楽壇への復帰に意欲を燃やす。しかし「時代錯誤」「映画に魂を売った男」と蔑まれ、評論家から袋叩きにあって失意のうちにアメリカに戻ることになる。その時期に作曲されたのが交響曲 嬰ヘ調Op.40であり1954年にウィーン交響楽団が初演した。「スター・ウォーズ」のように宇宙的壮大さを感じさせる傑作である。日本初演はそれから45年が経過した1999年、グリーン・ユース・オーケストラ '99。何とアマチュアの団体である。舐められたものだ。

「忘れられた作曲家」コルンゴルトは1957年脳溢血で死去、ハリウッドの墓地にひっそりと埋葬された。

僕がコルンゴルト/ヴァイオリン協奏曲を初めて聴いたのが1980年代後半だった。その時は日本初演も未だで、国内盤CDは皆無であった。そこで輸入盤専門店でパールマン、プレヴィン/ピッツバーグ交響楽団のCDを買い求めた。その後ハイフェッツ盤が日本でも再発売され、シャハム、ムターなど次々と新録音が登場する時代になった(ヒラリー・ハーンのDVDも)。現在では天下のウィーン・フィルが伴奏を務めるディスクも2種類ある(Vn.:B.シュミット×指揮:小澤征爾 / Vn.:スナイダー×指揮:ゲルギエフ)。正に隔世の感がある。漸く時代がコルンゴルトに追い付き、正当な評価が下されるようになったのだ。

僕は時々夢想する。もしナチス・ドイツの暴虐や第二次世界大戦がなければ、コルンゴルトはそのままウィーンに留まり、次々とオペラの名作を書いて人々から忘れ去られるような事態にはならなかったのではないか?しかし一方で、こう確信もする。コルンゴルトがハリウッドに渡らなければ、「スター・ウォーズ」の音楽が今日のような形で存在することは絶対にあり得なかったと。コルンゴルトの晩年は不幸だったが、人類にとってはこれで良かったのだ。ありがとう、エーリヒ。安らかに眠ってください。

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