シャンソン(歌)、ミュゼット(カフェ)、民族音楽

2023年6月 2日 (金)

【考察】空耳力が半端ない!YOASOBI「アイドル」英語版/「推しの子」黒川あかねの覚醒

こちら↓も併せてお読みください。

 ・ 【考察】全世界で話題沸騰!「推しの子」とYOASOBI「アイドル」、45510、「レベッカ」、「ゴドーを待ちながら」、そしてユング心理学

ヒットチャートを爆走中のテレビ・アニメ『推しの子』主題歌・YOASOBI『アイドル』英語版“Idol”を聴きながら、テレビ朝日系列の深夜バラエティ番組『タモリ倶楽部』の名物コーナーだった“空耳アワー”を思い出した。多分多くの人が同じ感覚を味わったのではないだろうか?試聴はこちら

Idol

具体例を挙げよう。“that emotion”の箇所が「誰も」にしか聞こえない。また“Damn it !”というスラングがあり、「ちくしょう!」「くそ!」といった意味。これを短縮すると“dammit”になる。『アイドル』の中で “dammit,dammit” と連呼されるのだが、これが「ダメダメ」に聞こえるといった具合。逆に英語版の後に日本語版を聴くと、「誰も」 が“that emotion” に聞こえるという摩訶不思議な体験が味わえる。訳詞を担当したKonnie Aokiは凄腕だ。

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ネタバレ警告!以下、アニメ第七話の内容について触れます。

番組をご覧になった後にお読みください。

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アニメ『推しの子』第七話【バズ】は視聴者から「第一話に匹敵する神回!」と称賛された。僕も最後に黒川あかねが覚醒する姿を観て鳥肌が立った。

あかねは劇団「ララライ」に所属し女優として活動する高校2年生。子役時代は劇団「あじさい」に所属していた。これは間違いなく劇団ひまわりのパロディで、「ひまわり」が8月、太陽の季節なら「あじさい」は6月の雨。しっとり濡れた感じがあかねのイメージに相応しい。

第七話の最後に、ファンの手で殺された星野アイ(自称“歌い踊り舞う私はマリア”)が黒川あかねを依代(よりしろ)に降臨するわけだが、つまりあかねは巫女(日本の東北地方北部ではイタコと呼ばれる)の役割を果たしていると言えるだろう。

あるいは、あかねが憑依型の女優であるという解釈も可能なわけで、僕は美内すずえの漫画 『ガラスの仮面』で泥まんじゅうを食べた北島マヤのことを真っ先に思い出した。ネットの評判の中にも「黒川あかね、おそろしい子」というのがあり大爆笑。往年の大女優・月影千草が、当時中学生だった北島マヤの才能を見出した時の台詞である。ガラ仮面を連想したのが僕だけではなかったと分かり、嬉しかった。

考えてみればアイドル(偶像)とファンの関係って、宗教に似ている。「神曲」とか「布教活動」「お布施」といったオタク用語もそのままズバリだ。アイを刺殺した男も彼女を愛していた訳で、イエス・キリストとユダの関係に置き換えることが出来るだろう。ユダがイエスを裏切った後、絶望し自殺したのも符合する。

死者が生者を支配する世界。『推しの子』はますますダフニ・デュ・モーリエ(著)『レベッカ』の様相を帯びてきた。また男(アクア)の好みに合わせて死んだ女(アイ)を蘇らせるという意味ではアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『めまい』も彷彿とさせる。そういえば『レベッカ』もヒッチコックが映画化しており、両者が似通った構造を持っていることを『推しの子』を通じて初めて気付かされた次第である。恐れ入りました、感服です。

今まで有馬かな“推し”だったのだが、黒川あかねに“推し変”しそうな自分が怖い。

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2023年5月20日 (土)

【考察】全世界で話題沸騰!「推しの子」とYOASOBI「アイドル」、45510、「レベッカ」、「ゴドーを待ちながら」、そしてユング心理学

赤坂アカ(原作)横槍メンゴ(作画)による『推しの子』がTVアニメになり、世界を席巻している。

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兎に角、初回放送90分というのが前代未聞で凄まじいインパクトをもたらした。またYOASOBIによる主題歌『アイドル』の破壊力が半端ない。この音楽ユニットは元々、小説を音楽にするプロジェクトから誕生したそうで、『アイドル』の歌詞も赤坂アカが書き下ろし、アニメ放送直前に公開された小説『45510』に基づいている。この短編の完成度の高さが超弩級で舌を巻く。

『アイドル』は配信直後から異次元ヒットを飛ばしており、ストリーミング再生数がダントツの首位、週前半3日間の集計で再生数が1000万回を超えるのはBTSの『Butter』以来、史上2曲目となる快挙だそう 。海外のチャートにも既に多数ランクイン。ビルボードのグローバルチャート「Global200」では14位を獲得したという。

『推しの子』を見始めて最初に気付いたのは、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画化でも名高いイギリスのダフニ・デュ・モーリエが書いた小説『レベッカ』と物語の構造が似ているということ。登場人物の多く(アクア、ルビー、有馬かな、斉藤みやこ etc.)が死んだアイ(アイドルグループ「B小町」のセンター)の面影にいつまでも囚われている。『レベッカ』が描くのも死者に支配された世界だ。タイトルロールのレベッカが全く登場しない構成も凄い。全ては人々の記憶で語られる。

『レベッカ』の着想にインスパイアされたと考えられる作品にノーベル文学賞を受賞したアイルランドの作家サミュエル・ベケットによる20世紀を代表する戯曲『ゴドーを待ちながら』と、直木賞作家・朝井リョウの小説『桐島、部活やめるってよ』(小説すばる新人賞受賞、映画も傑作)が挙げられる。

 ・「ゴドーを待ちながら」@京都造形芸術大学 2017.09.12

登場人物たちがしきりにゴドーや桐島のうわさ話をするが、当の本人は最後まで現れない。ゴドー/桐島=イエス・キリスト(神)と解釈することも可能だ。観客/読者が可視出来る人々はその信者というわけ。『アイドル』の歌詞に「歌い踊り舞う私はマリア」とある。つまりアクアもルビーも聖母マリアを信仰している。

しかしアイは平気で嘘をつき、「嘘は私なりの愛だ」と宣言する。彼女は単なる聖女ではなくサタン・魔女としての側面も持つ。だからゴドーや桐島よりも、腹黒いレベッカの方が性格的に近いと言える。アイは聖母マリアであると同時に、マグダラのマリア(罪深い女)でもあるのだ。その二面性にヲタは惹きつけられる。

YOASOBIの『アイドル』は冒頭に合唱が登場した瞬間から禍々しい黒ミサの様相を帯びてくる。

Oh, my Savior, oh, my saving grace

アカデミー作曲賞を受賞したジェリー・ゴールドスミス作曲、映画『オーメン』の主題歌「アヴェ・サタニ(Ave Satani )」に近い雰囲気がある。アヴェ・マリアをサタンに置き換えたもの。

と同時にMIX(AKB48などのライブにおいて、前奏や間奏にファンが叫ぶ掛け声のこと)が入り、アイドル・ソングとしても完璧。大いに盛り上がり、興奮はMAXに。

そしてBパートで、手記『45510』を書いた(主観「私」)と思しきBさんが登場。全力で悪意を噴出し、あたりかまわず撒き散らす。

さらに曲の後半「愛してるって嘘で積むキャリア」と歌う所でボレロのリズムになるのが悪夢のようでまたいい。断頭台への行進みたい。作詞・作曲のAyaseは天才だ!!

ikuraの歌い方がいつもと違い、声の加工も初音ミクを彷彿とさせるボーカロイド風に仕上がっている。本心を表に見せないアイにぴったりだ。AyaseはボカロPとして活躍していた時代もあり、確信犯だろう。

アイのモデルは誰だろう?真っ先に思い浮かぶのが九州・福岡県のアイドルグループRev. from DVLの絶対的センターだった橋本環奈。ファンが撮った「奇跡の一枚」と呼ばれる写真が全国的人気に押し上げるが、グループ解散まで彼女が原点を見捨てることはなかった。ハシカンは赤坂アカの『かぐや様は告らせたい』実写映画で主演を努めており、原作者が彼女のことを念頭に置かなかった筈はない。次にAKB48初の東京ドームコンサートで卒業した前田敦子、当時20歳。あっちゃんのボブの髪型は“重曹を舐める天才子役”有馬かなに゙継承されている。そして『欅坂46』孤高のセンター・平手友梨奈。巫女の役割も果たした“てち”には握手会での襲撃未遂事件があった(2017年6月24日@幕張メッセ)。アイドルがファンに襲われた事件としてAKB48川栄李奈と入山杏奈のケースもある(2014年5月25日の握手会@岩手県滝沢市)。

アイは「誰かに愛されたことも誰かのこと愛したこともない」と言う。これは施設で育った彼女の〈愛着障害〉を示している。親に愛されなかった子供は自己肯定感が低く、自分すら愛すことが出来ずリストカットなど自傷行為に及ぶことがある。「痛み」によって初めて「生の実感」を得るのだ。

「嘘=愛」はユング心理学においてペルソナ(仮面)と表現される。人は幾つもの仮面を持っている。家庭で見せる顔と、職場で見せる顔が違うのは当たり前。「どれが本物?」と問われても、誰も答えることは出来ないだろう。嘘はこの過酷な世界を生き抜くための盾・防壁だ。『アイドル』のMVでアイがウサギの着ぐるみを脱ぐ場面がある。あれはペルソナ(仮面)を外すことと同義と言えるだろう。

 ・〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その2〉太母・老賢人・子供・アニマ・アニムス・ペルソナ 2019.06.06

またアニメの第6話『エゴサーチ』において、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの著書『善悪の彼岸』からの引用も深いなと思った。

まだまだ回収されていない伏線は多い。どうして産婦人科医ゴローの死体は発見されていないに彼の葬式は執り行われたのか?そもそも入院患者をほっぽらかして主治医が失踪したら捜索願いが出されるだろうし、警察が病院近くの崖から転落した可能性を考えない筈はない。山狩りは必ず行われるだろう。それにスマホの電源が生きていれば大まかな位置情報を特定出来る。仮に獣が死体を運んだとしても血痕は残る。どう考えても不自然だ。これらの謎が解明される日を楽しみに待とう。

余談だが梅田隆司(総監督)/大阪桐蔭高等学校吹奏楽部の演奏する『アイドル』が素晴らしい(動画はこちら)。特にサイリュームの使い方!!この楽団はYOASOBIの『ラブレター』(オフィシャルMVはこちら)に参加していて、けだし名曲。誰に対する手紙か判明したとき、心打たれない者はいないだろう。梅田先生、今年は甲子園でも『アイドル』を絶対聴かせてくださいね。

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2022年10月20日 (木)

三浦一馬 キンテート 2022 「熱狂のタンゴ」(+空前のピアソラ・ブームはいつ発生したか?)

5月8日ザ・シンフォニーホール@大阪市へ。“タンゴの革命児” アストル・ピアソラ没後30周年記念プロジェクトとして企画された、三浦一馬キンテートを聴く。キンテートとはスペイン語で五重奏団という意味。英語ではクインテット。

Kazuma

バンドネオン奏者・三浦以外のメンバーは、石田泰尚(ヴァイオリン/硬派弦楽アンサンブル“石田組組長!!)、黒木岩寿(コントラバス)、山田武彦(ピアノ)、大坪純平(ギター)。

過去に三浦を聴いた感想は下記。

 ・ネストル・マルコーニ&三浦一馬「バンドネオン・ヒーローズ」 2013.01.07
 ・
三浦一馬クインテット ガーシュウィン&ピアソラ 2015.07.02
 ・
ピアソラのバンドネオン協奏曲〜大阪交響楽団「名曲コンサート」 2016.01.27
 ・
三浦一馬キンテート ピアソラ&マルコーニ 2017.04.18

バンドネオン奏者としても超一流だったアストル・ピアソラ(1921-1992)が初めて日本に来たのは1982年。84年に再来日、さらに86年にゲイリー・バートン(ヴィブラフォン奏者)と、88年には歌手のミルバと日本で共演した。しかし生前、彼の名前は世間に浸透しておらず、コンサート会場は空席が目立ったという(当時を知る人の証言/外部リンク)。

ピアソラの人気に火が点く切掛となったのは名ヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルが1996年に発表したアルバム『ピアソラへのオマージュ』。ちょうどこの頃から僕もピアソラを聴くようになった。この年に音楽好きの僕の親友が急性骨髄性白血病で亡くなったのだが(享年30歳)、彼に「ピアソラって凄いよ!」と紹介出来なかったことが未だに悔やまれて仕方ない。

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現在までにクレーメルはオペラ風タンゴ『ブエノスアイレスのマリア』を含め、6枚のピアソラ・アルバムを世に送り出している。

クレーメルに続き1997年に出たCD『ヨーヨー・マ・プレイズ・ピアソラ』が一大センセーションを巻き起こし、ピアソラ・ブームは最高潮に達した。

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ヨーヨー・マがチェロで弾く『リベルタンゴ』は大ヒット、サントリー・ウィスキーのCMでも使用された。

ピアソラはどの編成が自分の音楽に一番相応しいか、試行錯誤を繰り返した。キャリアの初期には弦楽オーケストラと共演したり、九重奏団、電子八重奏団(オクテート・エレクトロニコ)を結成したりした。エレキギターを導入した時は「タンゴの破壊者」とまで言われた。そして最終的に、彼が最も充実していたのはパブロ・シーグルがピアノを担当していた1978年-1988年のキンテート・タンゴ・ヌエヴォ(Quinteto Tango Nuevo /新タンゴ五重奏団)時代であった。特に『ライヴ・イン・ウィーン』『AA印の悲しみ』という二枚のアルバムは傑出している。

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さて今回はオール・ピアソラ・プログラムで、

 ・デカリシモ
 ・フーガ9
 ・ブエノスアイレスの冬
 ・ブエノスアイレスの夏
 ・ブエノスアイレスの秋
 ・ブエノスアイレスの春
 ・現実との3分間


 ー休憩ー

 ・ルンファルド
 ・レビラード
 ・カリエンテ
 ・ミケランジェロ'70
 ・悪魔のロマンス
 ・ムムキ
 ・アレグロ・タンガービレ(アンコール)
 ・リベルタンゴ(アンコール)

石田組長のヴァイオリンは豪快で快刀乱麻というイメージが強いのだが、『ブエノスアイレスの冬』は意外にも繊細で、叙情的だった。

『ブエノスアイレスの秋』は気怠く、アンニュイな気分。

焦燥に駆られた『現実との3分間』は何かに急き立てられる印象。

『ルンファンド』はヴァイオリンが甘く切ない。

『レビラード』はピアソラとしては珍しい長調の楽曲。

『カリエンテ』は内省的。

『ミケランジェロ'70』は都会的で、高速道路をぶっ飛ばしているような目眩の感覚。

『悪魔のロマンス』はノスタルジックで、“あの夏の日”を思い出すかのよう。

『ムムキ』はギター・ソロで開始され、長いピアノ・ソロが続く。最後はただひたすらに落ちていく。

『アレグロ・タンガービレ』は音楽がうねり、快感。

これからも、三浦と石田組長のスリリングな共演が続くことを期待する。

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2022年1月26日 (水)

武満徹「系図(ファミリー・トゥリー)-若い人たちのための音楽詩-」を初めて生で聴く。(佐渡裕/PACオケ)

僕が大好きな武満徹の「系図(ファミリー・トゥリー)」については何度も触れてきた。

厳選 管弦楽の名曲ベスト40(+α)はこれだ!

谷川俊太郎の詩集『はだか』から6篇(むかしむかし/おじいちゃん/おばあちゃん/おとうさん/おかあさん/とおく)が朗読される。語り手は12歳から15歳の少女が望ましい、と武満は語っている。 日本初演の語りは遠野凪子。1997年にシャルル・デュトワ/NHK交響楽団が定期演奏会で取り上げたときも彼女だった(僕はテレビで見た)。また1995年、世界初演を指揮したレナード・スラットキンが2016年のN響定期でこの曲を演奏した時の朗読は山口まゆ(15歳)。他に上白石萌音や、のん(能年玲奈)が語ったバージョンもCDになっている。なんと浜辺美波もステージでやったことがあるらしい!

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面白いのは2006年2月18日に岩城宏之が指揮した京都市交響楽団定期演奏会。吉行和子が朗読を担当した。当時70歳。エッ、それってあり!?

2022年1月16日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

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佐渡裕/兵庫芸術文化センター管弦楽団、御喜美江(アコーディオン)、白鳥玉季(語り)で、

・武満徹:系図(ファミリー・トゥリー)-若い人たちのための音楽詩-
・マーラー:交響曲第4番 (ソプラノ独唱 石橋栄実)
・山田耕筰:この道(アンコール)

白鳥玉季は現在11歳。子役として映画『永い言い訳』、朝ドラ『とと姉ちゃん』、大河ドラマ『麒麟がくる』等で活躍している。

演奏会前に佐渡裕のプレトークがあった。

2011年にベルリン・フィルに招聘された時、楽団から武満をプログラムに入れてほしいと依頼があった。佐渡が取り上げたのは『From Me Flows What You Call Time ~5人の打楽器奏者とオーケストラのための 』。曲の詳しい解説は下記記事に書いた。

静と動~佐渡裕/PACの武満&ホルスト 2010.09.14

佐渡がPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌)のレジデント・コンダクターを務めていた1994年に武満がレジデント・コンポーザーに選ばれ、1ヶ月ほど一緒だった。寡黙な人で話しかけ難かったけれど、勇気を出して「武満さんが一番影響を受けた作曲家は誰ですか?」と訊いてみた。しばらく沈黙した後、返ってきた答えは、ドビュッシーかメシアンじゃないかという予想を覆し、「デューク・エリントン」だったという。また「ハ長調は美しい!」とも言っていたそう。『系図』もハ長調で締め括られる。

佐渡は今回『系図』を演奏するにあたり色々と悩んだが、「むかしむかし」という詩は少女が赤ん坊の時というのに留まらず彼女が生まれる前、例えば100年前も内包しているのではないか?と考えた。そして最後の「とおく」は未来のことだろう、と。

つまり過去も現在も未来も〈いま、ここ〉にある。この共時性はオーストリアの先住民アボリジニの概念〈ドリームタイム〉に近いな、と僕は思った。武満もそのものズバリ『夢の時』というオーケストラ曲を作曲している。

アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽

またマーラーの交響曲第4番 第1楽章 第1主題、冒頭の上昇する3音は交響曲第6番 第1楽章 第2主題、いわゆる「アルマのテーマ」と同じ音型。これは天国を表しているのだろう、と佐渡。そして第6番では次第にその主題が引き裂かれる。第4番もずっと天井の生活が描かれるのではなく、第2楽章には死神が登場する。ここで死神の役割を演じるソロ・ヴァイオリンは長2度高く調弦されている(この楽章のみ楽器持ち替え)。

悪魔や死神はしばしばヴァイオリンと共に現れる。タルティーニ『悪魔のトリル』というヴァイオリン独奏曲があるし、サン=サーンス『死の舞踏』の死神もヴァイオリンを弾く。ゲーテ『ファウスト』のメフィストフェレスしかり。ロシア民話に基づくストラヴィンスキー『兵士の物語』の悪魔も。

ビブラートの悪魔 2007.12.05

僕は昔から「武満はどうして『系図』でアコーディオンを用いたのか?」という問いを抱いていたのだが(他のオーケストラ曲には登場しない)、今回の演奏会で遂にその答えを見出した!

武満自身もこの詩に向かい合いながら、自分の少年時代に立ち返ろうとしていたのだろう。そして作曲家になろうと決意した14歳の夏ー戦争末期の1945年に思いを馳せたのではないか?そこには敵性音楽であるシャンソン『聞かせてよ愛の言葉を』が響いていた。リュシエンヌ・ボワイエがこの歌を録音したのは1930年である。

わが心の歌 25選 ③シャンソン「聞かせてよ愛の言葉を」と武満徹「小さな空」の関係

大衆音楽として20世紀初頭にパリのカフェやバル(踊り場のある酒場)で流行した音楽「ミュゼット」。そこには常にアコーディオンがあった。そうした1930年頃のパリへと時空旅行(ダイヴ)するための装置としてアコーディオンが起用されてのではないだろうか?

今回初めて『系図』を生で聴いて、幻夢の世界にいざなわれ、恍惚とした心地になった。正に〈ドリームタイム〉体験であった。

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2021年2月 2日 (火)

わが心の歌 25選 ⑧フランク・シナトラ「マイ・ウェイ」(多くの日本人が知らない歌詞の意味)と「私を月まで連れてって!」

『マイ・ウェイ』という楽曲に初めて心底感銘を受けたのはジプシー・キングスが1987年にリリースしたカヴァー盤だった。Spotifyでの試聴はこちら

Gipsy

歌詞がスペイン語なので何を歌っているのかさっぱり分からないが、迫力のあるアレンジが圧巻だった。2016年にUCCコーヒーのCMにも使用された。ジプシー・キングスは何しろユニークなバンドだ。『ジョビ・ジョバ』『ベン、ベン、マリア』『ボラーレ』など日本のCMソングとして使用された彼らの楽曲は多い。

一方、大御所のフランク・シナトラが歌ったヴァージョンが琴線に触れることはなかった。ところが不思議なもので、最近シナトラの歌がしみじみ身に沁みるようになった。僕も歳を重ね、彼が『マイ・ウェイ』を歌った年齢に達したこととも無関係ではないのだろう。

『マイ・ウェイ』の原曲はフランスの歌で1967年に発表された。ポール・アンカが新たに英語詞を書き、シナトラがシングルを発売したのが69年。御年54歳だった。ビートルズの『イエスタデイ』に続き、カヴァーされた回数が史上第2位の歌だそう。試聴はこちら

Myway

この度、インターネット上に掲載されている『マイ・ウェイ』の和訳を7,8つほど見てみたのだが、日本語として成り立ってないものばかりで驚いた。特に後半部の詞章が全く意味不明。そこで念の為『マイ・ウェイ』がクライマックスで歌われ劇的に盛り上がる、イルミネーション・エンターテインメント製作のアニメーション映画『SING/シング』(2016)英語版の日本語字幕もチェックしたのだが、訳が英語歌詞に少しも対応していないので面食らった。

もしかしたら日本人の殆どはこの歌の本当の内容を知らないのではないか?そこで僕自身で訳してみることにした。万が一おかしな所があれば、コメント欄でご指摘ください。速やかに対処します。

And now, the end is near
And so I face the final curtain
My friend, I'll say it clear
I'll state my case, of which I'm certain
I've lived a life that's full
I travelled each and every highway
And more, much more than this
I did it my way

そしていま、終りが近い
最終幕を控えカーテン前に私は立つ
友よ、はっきりしておこう
私はこれから自分の経験に基づく信念を述べる
私は充実した人生を送ってきた
私はどんな(州間)高速道路も旅した
そして、そんなことよりもまず
私はわたしの流儀で生きてきた

"the final curtain"とは三幕ものあるいは四幕ものの芝居で、終幕のカーテンがこれから開こうとしているということ。「死期が近い男の歌」という解釈を見かけたが、それは言い過ぎだろう。そもそもシナトラは82歳まで生きたわけで、まだ54歳だから老年期とも言い難い。これから壮年期を迎える、「人生の最終コーナーを回ったところ」といった感じか。因みにポール・アンカがこの歌詞を書いたのは28歳である。

シナトラは歌手として全米巡業を行った。"I travelled each and every highway "はそのことを指しているのだろう。また、この後に登場するbyway(わき道)と対になっているので、highwayを「主だった道」「幹線道路」と訳すことも可能だろう。

Regrets, I've had a few
But then again, too few to mention
I did what I had to do
And saw it through without exemption
I planned each charted course
Each careful step along the byway
And more, much more than this
I did it my way

後悔なら、いくつかあるさ
しかし改めて言及すべきことは殆どない
私はすべきことをした
過去の行いを振り返り、言い訳することなどない
地図に書かれた道をひとつひとつ行こうとした
脇道に沿って注意深く歩んだ
そして、そんなことよりもまず
私はわたしの流儀でそれを実行したんだ

後悔は"a few"(いくつか)あるが、言及することは"few"(ほとんど〜ない)と訳し分けることが大切。ニュアンスが違う。

"And saw it through without exemption"は直訳すると「免除なしで見通す」なので、「言い訳することなく私がしたことを振り返る」ということだろう。「過去を振り返ってみて、隠し立てすることはなにもない」でも良いかも知れない。

Yes, there were times
I'm sure you knew
When I bit off
More than I could chew
But through it all
When there was doubt
I ate it up and spit it out
I faced it all and I stood tall
And did it my way

そうさ、時には
君も知っての通り
身の程知らずなことをして
持て余したことはあった
しかし、いついかなる時でも
疑問に思うことがあれば
それを食い尽くした上で吐き出した
全てに正面から立ち向かい、堂々と振る舞った
私なりのやり方で

"When I bit off/More than I could chew"は直訳すると「噛める以上のものを噛み切った時」だから、「適応能力の限界を超えて挑んだ」ということ。

I've loved, I've laughed and cried
I've had my fill, my share of losing
And now, as tears subside
I find it all so amusing
To think I did all that
And may I say, not in a shy way
Oh, no, oh, no, not me, I did it my way

私は愛し、笑い、泣いた
満ち足りたこともあったし、それなりに失ったものもある
そして今、涙が収まると
それら全てのことが面白く感じられる
私がいままでしてきたことを考えると
尻込みしたことなど一度もないと言わせてもらおう
いやいや、ない。断じて怖気づいたりしなかった。私の流儀でやったんだ。

have one's share of は「その人なりの~がある」「それなりに」といった意味。

For what is a man, what has he got?
If not himself, then he has naught
To say the things he truly feels
And not the words of one who kneels
The record shows I took the blows
And did it my way

Yes, it was my way

人は何のために生きるか、彼が今まで得たものは?
もし自分自身のために生きていなければ、得たものは無だ
心底感じたままに言うんだ
祈りの文句じゃなく
そりゃあ打撃を受けたこともあるさ
そして私なりのやり方で受け流した

そうさ、それが私の流儀だった

1行目"For what is a man"が曲者だが、元の肯定文は"A man is for 〜"だから「人は〜のために存在する」「人は〜のために生きる」となる。

続く2行目"If not himself"は"If a man is not for himself"を省略したものなので「もし自分自身のために生きるのでなければ」"he has naught"は"he has got naught"の省略なので、「彼が今までに得たものはゼロだ」。つまり最終章の1行目と2行目に対応関係があることに気が付かなければ、わけのわからない日本語になってしまう。

"the words of one who kneels"は「ひざまずく人の言葉」、つまり「祈りの言葉」「聖書の言葉」。「既成概念」「倫理」「道徳」と言い換えても良いだろう。自己犠牲や禁欲を説く社会(教会)からの抑圧、同調圧力には屈しないと歌っている。

Fly

フランク・シナトラの魅力は、なんと言ってもその重低音の歌声にあるのだが、その良さを際立たせているのが伴奏するビッグバンドであることを忘れてはならない。キャリア初期のトミー・ドーシーは言うに及ばず、その頂点を極めたのが1953年にキャピトル・レコードと契約した時期に組んだ、ネルソン・リドルのアレンジに負うことが大きい。実に優雅で洗練されたスウィング・ジャズであった。クルーナー歌手(Croon:低い声で、そっとつぶやく)として彼とナット・キング・コールが双璧であろう。

"Fly Me to the Moon"でシナトラが組んだのはカウント・ベイシー・オーケストラだが、このアレンジも卓越している。これぞ〈粋の極み〉。試聴はこちら。僕が大好きなナット・キング・コールも同曲を歌っているが、これはシナトラに敵わない。伴奏で負けた。

竹宮恵子の漫画『私を月まで連れてって!』(1977-1986)は"Fly Me to the Moon"から着想された。また『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズのエンディングテーマ曲として庵野秀明の希望でこの曲が採用されたことでも有名。全部で14のバージョンが使われた。綾波レイ役の林原めぐみ、惣流・アスカ・ラングレー役の宮村優子、葛城ミサト役の三石琴乃らそれぞれのソロ・バージョン、3人で歌うバージョン、CLAIRE(クレア・リトリー)や高橋洋子が歌うバージョン、歌なしのインストゥルメンタル・バージョンなど多彩に楽しめる。

ところが!『新世紀エヴァンゲリオン』TV版がNetflixで世界配信された際、Netflixは"Fly Me to the Moon"の米国におけるライセンス使用料を高すぎると判断したらしく、この曲をカット、別のピアノ曲に置き換えた。北米のエヴァ・ファンはこれに激怒、大騒動となった(日本での配信は"Fly Me to the Moon"がそのまま流れる)。まぁ逆に、本来は"Fly Me to the Moon"が流れることを知っているということは、北米のヲタクたちがそもそもDVD/Blu-rayを所有しているということを意味するので、そこまで目くじら立てなくても……という気もするのだが。きっとそれが〈愛〉なんだね。

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2021年1月29日 (金)

わが心の歌 25選 ⑦ ビートルズ「ノルウェイの森」と村上春樹/ジュ・トゥ・ヴ

今回取り上げるビートルズ『ノルウェイの森』はなんと言っても村上春樹が書いたベストセラー小説のタイトルになったことで有名だ。トラン・アン・ユン監督による映画版でも最後にビートルズの歌が流れる。実はこの小説に関して僕は、村上氏本人とメールを交わしたことがある。1997年のことだ。

Soul

Spotifyでの試聴はこちら

楽曲の静謐さ、喪失感と言ってもいい物悲しさに僕は心を打たれるのだが、特筆すべきはジョージ・ハリスンが演奏するシタールの響き。レコード化されたポップ・ミュージックでシタールが使用されたのはこの曲が初めてだそう。ハリスンは1965年頃に友人の勧めで聴いたラヴィ・シャンカールのレコードでシタールに興味を持ち、ロンドンの店で楽器を購入した。1966年秋にはハリスン自らインドに赴いてシャンカールから直接レッスンを受けている。これがきっかけでハリスンはインドの瞑想に傾倒、他のメンバーも彼から感化され、1968年2月ビートルズの4人は超越瞑想の開祖マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーから直接メディテーションの修行を受けるためインドに滞在した。

では冒頭の歌詞から見ていこう。

I once had a girl
Or should I say she once had me
She showed me her room
Isn't it good, Norwegian wood

ある時、女の子をひっかけた
いや、彼女が僕をひっかけたと言うべきか
彼女は自分の部屋に誘ってくれた
素敵じゃないか、ノルウェイの森だ

ここで最大の問題は"Norwegian wood"とは一体何か?ということ。1966年に日本でアルバム『ラバー・ソウル』が発売されたときから「ノルウェーの森」と訳された。村上春樹の小説が出版された後でも、この邦題はおかしいのではないか?という意見がつきまとった。

朝日新聞御用達のズレてる評論家・内田樹も『ノルウェイの森』というタイトルは誤訳だと、得意げに断言している(こちら)。

一方、村上春樹の『ノルウェイの木をみて森を見ず』というエッセイ(新潮文庫『雑文集』収録)には次のようにある。

 翻訳者のはしくれとして一言いわせてもらえるなら、Norwegian Woodということばの正しい解釈はあくまでも〈Norwegian Wood〉であって、それ以外の解釈はみんな多かれ少なかれ間違っているのではないか。歌詞のコンテクストを検証してみれば、Norwegian Woodということばのアンビギュアスな(規定不能な)響きがこの曲と詞を支配していることは明白だし、それをなにかひとつにはっきりと規定するという行為はいささか無理があるからだ。それは日本語においても英語においても、変わりはない。捕まえようとすれば、逃げてしまう。もちろんそのことばがことば自体として含むイメージのひとつとして、ノルウェイ製の家具=北欧家具、という可能性はある。でもそれがすべてではない。もしそれがすべてだと主張する人がいたら、そういう狭義な決めつけ方は、この曲のアンビギュイティーがリスナーに与えている不思議な奥の深さ(その深さこそがこの曲の生命なのだ)を致命的に損なってしまうのではないだろうか。それこそ「木を見て森を見ず」ではないか。Norwegian Woodは正確には「ノルウェイの森」ではないかもしれない。しかし同様に「ノルウェイ製の家具」でもないというのが僕の個人的見解である。

 この、Norwegian Woodというタイトルに関してはもうひとつ興味深い説がある。ジョージ・ハリスンのマネージメントをしているオフィスに勤めているあるアメリカ人女性から「本人から聞いた話」として、ニューヨークのパーティーで教えてもらった話だ。「Norwegian Woodというのは本当のタイトルじゃなかったの。最初のタイトルは"Knowing She Would"というものだったの。歌詞の前後を考えたら、その意味はわかるわよね?(つまり、"Isn't it good, knowing she would?" 彼女がやらせてくれるってわかっているのは素敵だよな、ということだ)でもね、レコード会社はそんなアンモラルな文句は録音できないってクレームをつけたわけ。ほら、当時はまだそういう規制が厳しかったから。そこでジョン・レノンは即席で、Knowing She Wouldを語呂合わせでNorwegian Woodに変えちゃったわけ。そうしたら何がなんだかかわかんないじゃない。タイトル自体、一種の冗談みたいなものだったわけ」。

なんと、実に面白いではないか!

また、歌詞の最後はこうだ。

And when I awoke I was alone
This bird had flown
So I lit a fire
Isn't it good Norwegian wood?
僕が目を覚ますと、ひとりぼっちだった
小鳥は飛び去った(女の子は消えていた)
だから僕は火を付けた
素敵じゃないか、ノルウェイの森

ここで再び大きな謎が仕組まれている。「僕が火を付けた(I lit a fire)」ものは何か?次のような説がある。

1)煙草 2)ハッパ(大麻) 3)暖炉の薪 4)ノルウェイ産木材で建てられた、女の子が住むログハウス(丸太小屋)

4)丸太小屋(または北欧家具)に火を付けた、というは猟奇的でトンデモ説のように思うでしょ?ところが、これを採用すると村上春樹の初期短編小説『納屋を焼く』に繋がるのだ!女の子が消失するという筋立てもジョン・レノンの歌詞に一致している。

なお、『納屋を焼く』は後に韓国映画『バーニング 劇場版』の原作になっており、これが収められた短編集の一篇『螢』は『ノルウェイの森』の原型となった小説である。

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さて、『ジュ・トゥ・ヴ (Je te veux)』はエリック・サティが1900年に作曲したシャンソン。フランス語で〈je=一人称「私」〉〈tu=親しい人に対する二人称。「あんた」とか「君」といったニュアンス〉〈veux=「〜を欲する」「〜を求める」という意味。原形はvouloir〉。だから日本語では「お前が欲しい」「あなたが大好き」などと訳される。愛らしく、とても美しい歌で、しばしばピアノ独奏曲としても演奏される。パトリシア・プティボンの歌唱がおすすめ。こちら

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2020年12月30日 (水)

2020年、今年抱いた感情を漢字一字で表すと……

毎年恒例となる、今年の世相を表す漢字一字が「密」と京都・清水寺で発表された。

僕の個人的な想いとしては、今年を象徴する漢字一字は「怒」だった。

行く予定だったコンサートや観劇がことごとく中止となり、10件以上の払い戻し手続きをした。一年中翻弄され続けた新型コロナウィルスに対する怒り、そして「自粛警察」「マスク警察」など、同調することを強要しようとする世間への怒りと苛立ち。

2020年は徹底的に「人間の醜さ」を見せつけられた一年だった。しかし逆に言えば恐怖心によって人々の被るペルソナ(仮面)が剥がされ、今まで見えなかったものが顕在化し、またとない貴重な体験を得られた一年でもあった。本質的に今の日本には個人の意見や、他者との違いが尊重される「自由」なんてないことが痛いほどよく分かった。大変勉強になった。

そして今年僕の心に一番刺さった歌は、秋元康が作詞した欅坂46の『不協和音』だ。「僕は嫌だ」と、閉塞社会に対して僕も一緒に叫んだ。ある意味、この曲に救われた。今更だが秋元はやっぱり天才だった。なんてったって香港の民主活動家の胸にまで届いたのだから。

2020年の明るいニュースって、劇場版『鬼滅の刃』無限列車編が19年ぶりに『千と千尋の神隠し』が持つ記録を塗り替え、映画興行収入歴代1位に躍り出たことくらいしかなかったんじゃないだろうか?

しかし12月に入り、ようやく希望の光が見えてきた。アメリカのファイザー社とモデルナ社が開発したワクチン投与がいよいよ世界各地で始まり、2021年1月4日からはイギリスのアストラゼネカ社が開発したワクチン投与も開始されるという。新型コロナウィルスよ、首を洗って待っていろ。「人類の反撃」はこれからだ!

2021年の漢字こそは、「歓」や「笑」でありますように。読者の皆さん、良いお年を!

〈追伸〉大晦日にもブログ記事は更新します。毎年恒例の企画です。乞うご期待。

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2020年7月17日 (金)

わが心の歌 25選 ⑥ ミュージカル「回転木馬」と、サッカーとの摩訶不思議な関係/メグ・ライアンの想い出

作詞:オスカー・ハマースタイン2世、作曲:リチャード・ロジャースという、『オクラホマ!』や『王様と私』で知られるコンビによるミュージカル『回転木馬 Carousel 』は1945年にブロードウェイで初演された。1993年にはキャメロン・マッキントッシュ製作、『ミス・サイゴン』のニコラス・ハイトナー演出で再演され、トニー賞を5部門受賞(ミュージカル・リバイバル作品賞/ミュージカル演出賞/振付賞/装置デザイン賞/ミュージカル助演女優賞:オードラ・マクドナルド)。因みに初演時はトニー賞創設前であった(初回授賞式は1947年)。56年には20世紀フォックスで映画化された。主演はシャーリー・ジョーンズとゴードン・マクレー。また2006年ごろにヒュー・ジャックマン主演で映画のリメイク企画があったのだが、立ち消えになっている(記事こちら)。

日本では69年に宝塚雪組が初演した(宝塚大劇場)。84年に宝塚星組が宝塚バウホールで再演し、95年に東宝が帝国劇場他で上演。僕は1996年7月9日~8月27日 大阪・劇場飛天(現在の梅田芸術劇場)における上演を観た。演出:ニコラス・ハイトナー、振付:サー・ケネス・マクミラン、訳詞は『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』の岩谷時子。涼風真世、石川禅、吉岡小鼓音、市村正親らが出演した。このプロダクションはこれっきりで、2009年に東京の銀河劇場でロバート・マックイーン演出、笹本玲奈・浦井健治 主演で再演されたようだが、関西には来なかった。

一番好きなナンバーは、なんといっても"You'll Never Walk Alone"である。映画版ではオペラ歌手(コントラルト)クララメイ・ターナーが歌った。

これは現在サッカーのサポーター・ソングとして、英国のリヴァプールFCやJリーグのFC東京のファンの間で愛唱されている。

 

L

 

上はリバプールFCのエンブレムだが、ここにも "You'll Never Walk Alone"の文字が刻まれている。

世界でなんと、20以上のサッカー・チームのサポーター達がこれを歌い継いでいるのである!次のような歌詞だ。

When you walk through a storm
Hold your head up high
And don't be afraid of the dark

嵐の中を歩くとき
顔を上げ、しっかり前を向きなさい
暗闇を恐れないで

At the end of the storm
There's a golden sky
And the sweet silver song of a lark

嵐の向こうには
光り輝く空が広がっている
そして雲雀の優しく澄んだ歌声が聴こえる

Walk on through the wind
Walk on through the rain
Though your dreams be tossed and blown

風の中を歩きなさい
雨の中を歩きなさい
たとえ夢が吹き飛ばされたとしても

Walk on, walk on
With hope in your heart
And you'll never walk alone

歩いて、歩き続けなさい
希望を胸に抱いて
独りぼっちじゃないよ

And you'll never walk alone

あなたは独りぼっちじゃない

まずフランク・シナトラの歌唱で聴いてみてください。こちら!あと歌なしのフランク・チャックスフィールド&オーケストラの演奏もどうぞ。こちら

同じハマースタイン2世&ロジャースのコンビ作『サウンド・オブ・ミュージック』で修道院長が歌う「すべての山に登れ(Climb Every Mountain)」は内容的にこの歌に非常に近い(映画版の動画はこちら)。僕は中学生の時に初めて「すべての山に登れ」を聴いて、心を打たれた。からだの奥底からじわじわと勇気が湧いてくる気がした。

ミュージカル『回転木馬 (Carousel)』の主人公ビリーはすぐに妻や娘に手を上げる暴力夫であり、#MeToo 運動が盛んな現代には受け入れ難いかも知れない。しかしどの楽曲も極上の出来であり、オーケストラだけで演奏されるカルーセル・ワルツも僕は大好き。こちら!物語後半のビリーは悔い改めているので、どうか許してやってください。

原作は1909年にハンガリー・ブタペストで初演された戯曲『リリオム』。1934年にフリッツ・ラングが監督したフランス映画『リリオム』も傑作。ユダヤ人のラングはこの時ちょうどアドルフ・ヒトラー政権を逃れてドイツからフランスに亡命していたのだが、ドイツ軍がフランスに侵攻したため、さらにアメリカ合衆国に渡ることになる。

『回転木馬』を鑑賞するには映画版を観るのも良し、もっとお勧めなのがリンカーンセンターで開催された公演を収録したDVD。

Carousel

ただし、北米のリージョン1対応DVDなので、日本国内の(リージョン2)プレイヤーでは観ることが出来ない。

ところが!コロナ禍のおかげ(?)で2020年7月10日よりミュージカル全編がYouTubeで無料配信されているのを発見した!!!こちら画面右下あたりのスイッチをクリックすれば、英語字幕を呼び出す機能も。

ヒロイン=ジュリーを演じるのはケリー・オハラ。渡辺謙と『王様と私』で共演し、トニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞した。その友人キャリー役は『ビューティフル − キャロル・キング・ミュージカル』でトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞したジェシー・ミューラー。ビリー役はメトロポリタン・オペラにしばしば出演しているバリトンのネイサン・ガン。また「6月は一斉に花開く(June Is Bustin' Out All Over)」や、"You'll Never Walk Alone"を歌うステファニー・ブライスもメトで活躍するメゾ・ソプラノ。これ以上望みようのない超豪華キャストである。オーケストラはニューヨーク・フィル。至れり尽くせりだ。

劇中clambakeという言葉が出てくるのだが、これは海浜で焼け石を使ってハマグリなどを焼いて食べるピクニックのことを指す。日本人には馴染みがない習慣なのでピンとこない。あと「6月は一斉に花開く」は名曲だが、日本で6月といえば梅雨の季節なので、やはりどうもイメージが湧かない。余談だがこの歌詞中に"March went out like a lion"(3月はライオンのように過ぎ去っていった)とあり、な、なんと羽海野チカの漫画『3月のライオン』に繋がっている!

Whenharrymetsally

「It Had To Be You」(ハリー・コニック Jr.) はメグ・ライアン主演、ロブ・ライナー監督『恋人たちの予感』(When Harry Met Sally...)で使用された楽曲。試聴はこちら。脚本を書いたノーラ・エフロン(1941-2012)は後に監督業に進出し、メグ・ライアン主演で『めぐり逢えたら』『ユー・ガット・メール』とロマンティック・コメディ三部作を仕上げた。なおノーラはウォーターゲート事件の真相を暴いた記者、ワシントン・ポスト紙のカール・バーンスタインと結婚していた時期があり、映画『大統領の陰謀』シナリオの手直しにも関わっていたらしい(アカデミー脚色賞受賞)。だからスティーヴン・スピルバーグが監督し、ワシントン・ポスト社が舞台となる『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』のエンドロールに「ノーラ・エフロンに捧ぐ」とクレジットされている(ラストシーンは『大統領の陰謀』冒頭部に直接繋がっている)。

「もしあなただったら」と訳されたりもする "It Had to Be You"は1924年に発表された。アイシャム・ジョーンズが作曲し、カス・カーンが作詞した。ハリー・コニック Jr.のパフォーマンスはフランク・シナトラを彷彿とさせ、「ビッグ・バンド・スタイル」の再来と評された。マーク・シャイマンによるゴージャスなアレンジの功績が大きい。シャイマンは後にブロードウェイ・ミュージカル『ヘアスプレー』や『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『チャーリーとチョコレート工場』を作曲した。

"It Had to Be You"はメグのお相手役だったビリー・クリスタルのテーマ曲となり、彼がアカデミー賞授賞式司会者に起用された際、登場場面で必ずこの曲が演奏された(計9回担当)。

『恋人たちの予感』はメグ・ライアン絶頂期の作品で彼女が最高にキュート、掛け値なしに名作なのだが、公開当時劇場で観たときから僕にはどうしても納得がいかないことがあった。映画冒頭で〈セックス抜きで男女の友情は成立するのか?〉と問題提起されるのだが、最後にハリーとサリーは性交してしまう。つまり〈セックス抜きで男女の友情は成立しない〉と結論を下しているのである。そんなのあり??僕は憤った。許し難い背信行為である。

結局この問題に決着をつけてくれたのがアイルランド出身ジョン・カーニー監督の『ONCE ダブリンの片隅で』(2007)と『はじまりのうた』(2013)。漸く我が意を得たりと溜飲を下げることが出来た。またジョン・カーニーが監督したAmazon プライム・ビデオのドラマシリーズ『モダン・ラブ ~今日もNYの街角で~』第1話“私の特別なドアマン”も同趣旨の大傑作である。こちらからどうぞ。

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2020年7月15日 (水)

わが心の歌 25選 ⑤ 本当は恐ろしい「Alone Again」/Woman 〜“Wの悲劇”より

Alone Again」(ギルバート・オサリバン)

今年の2月頃、まだ新型コロナウィルスが蔓延する前、スポーツ・ジムに行ったときに館内の有線放送で"Alone Again"がかかっていたので懐かしく思った。1986年に公開された高橋留美子原作、石原真理子主演、澤井信一郎監督の映画『めぞん一刻』実写版(駄作だった)の主題歌としてエンドロールで流れた歌である。映画の公開に合わせて、同時期に放送されていたテレビアニメ版のテーマソングとしても起用されたという。

"Alone Again"はアイルランド出身のシンガーソングライター、ギルバート・オサリバンが1972年にリリースした楽曲である。アメリカ合衆国のBillboardシングルチャートで6週連続1位、日本でもオリコン洋楽シングルチャートで5週1位を獲得した。Spotifyではこちら

どういうことを歌っているのだろう、とふと気になったので調べてみた。そしたら朴訥な歌い方でのんびりした曲調とは似ても似つかない内容だったので、驚愕した!

歌詞対訳を掲載しよう(小生訳、無断転載禁止)。

In a little while from now
If I'm not feeling any less sour
I promise myself to treat myself
And visit a nearby tower
And climbing to the top
Will throw myself off
In an effort to make clear to whoever
What it's like when you're shattered
Left standing in the lurch
At a church where people saying
My God, that's tough, she stood him up
No point in us remaining
We may as well go home
As I did on my own
Alone again, naturally

今からしばらく経って
もしこの酸っぱい気持ちが収まらなかったら
こうしてやろうと誓いを立てているんだ
近くの高いビルまで行き
屋上に登って
身を投げようって
みんなにはっきり分からせてやるのさ
心を粉々にされたら、どんな感じかって
教会の結婚式でひとり置き去りにされ
タキシード姿で立ったまま人々が口々に言い合うのを聞いた
「これはキツイな!」「花嫁さんにすっぽかされたのね」
「これ以上ここにいても仕方ないね」
「もう帰りましょうか」
僕自身もそうするしかなかった
またひとりぼっちだ。自然にね

To think that only yesterday
I was cheerful, bright and gay
Looking forward to, well, who wouldn't do
The role I was about to play
But as if to knock me down
Reality came around
And without so much as a mere touch
Cut me into little pieces
Leaving me to doubt
Talk about God and His mercy
Oh, if he really does exist
Why did He desert me
In my hour of need?
I truly am, indeed
Alone again, naturally

たった昨日まで僕は
朗らかで、元気よく、陽気だった
明るい未来を期待していた、でもまさか
こんな道化役を演じるなんて考えてもみなかった
ところが僕を叩きのめすように
現実が襲いかかってきた
そして指一本触れられることなく
僕はズタズタに引き裂かれた
放っておかれた僕は疑問を抱いた
神の慈悲についての話さ
ああ、もし神が本当に存在するのなら
彼はどうして僕を見捨てたのか?
一番必要としているときに
僕は真実、本当に
またひとりぼっちだ。自然にね

It seems to me that there are more hearts
Broken in the world that can't be mended
Left unattended
What do we do?
What do we do?

心が折れて癒やされずにいる人たちが
世界にはもっとたくさんいるように思う
誰にも寄り添ってもらえずに
僕らはどうしたらいい?
どうしたら?

Alone again naturally

またひとりぼっちだ。自然にね

Now, looking back over the years
And whatever else that appears
I remember I cried when my father died
Never wishing to hide the tears
And at sixty-five years old
My mother, God rest her soul
Couldn't understand why the only man
She had ever loved had been taken
Leaving her to start
With a heart so badly broken
Despite encouragement from me
No words were ever spoken
And when she passed away
I cried and cried all day
Alone again, naturally
Alone again, naturally

何年も前のことを振り返り
立ち現れる光景のあれこれに向き合うと
父さんが死んだとき泣いたことを思い出した
僕は溢れ出る涙を拭おうともしなかった
当時母さんは65歳だった
(神様、どうか彼女の魂に安寧を)
母さんは理解出来なかった
彼女が生涯ただ一人愛した男が
どうして天に召されなかればならないのか
そして、心がめちゃめちゃにされたまま
これからの生活を始めなければならないか
僕がいくら励ましても
一言も返答はなかった
そして母さんが逝去したとき
僕は一日中泣いて、泣いた
またひとりぼっちだ。自然にね
またひとりぼっち……

いやはや。Oh,my God ! Jesus Christ!である。

つまりダスティン・ホフマン主演、マイク・ニコルズ監督、アメリカン・ニューシネマを代表する映画『卒業』のラストシーン、結婚式当日に教会で花嫁を略奪され、ひとり取り残された新郎の心情を歌っているとも解釈出来る。『卒業』の公開が1967年なので時期としても合っている。いわゆるアンサーソングと言って良いのではないだろうか?

そして彼は、まるでイングマル・ベルイマンの映画みたいに、〈神の不在〉を確信し、絶望して死にたいと思う。もの凄い歌詞だ。

これだけ曲調と歌詞が乖離していても良いんだな、ということを学んだ。究極のギャップ萌えだ。

「Woman」薬師丸ひろ子主演の角川映画『Wの悲劇』(1984)主題歌。併映は大林宣彦監督、原田知世主演『天国にいちばん近い島』だった。

映画自体、澤井信一郎監督の最高傑作である。夏樹静子の原作小説を舞台劇に封じ込めた〈入れ子構造〉が最大の勝因であろう。薬師丸ひろ子が劇団の研究性を演じ、ベテラン女優役の三田佳子が圧巻の貫禄だった。映画の中で三田は女優として生きるために〈妻〉や〈母〉としての自分を捨てるが、実生活の彼女はそれらに執着したたため、後に〈悲劇〉に見舞われることになる(詳しくはこちら)。人生とは皮肉なものである。

主題歌は松本隆の歌詞が秀逸で、

ああ時の河を渡る船に
オールはない 流されていく

ここが特に素晴らしい!「百人一首」に採用された、曽禰好忠の和歌(新古今集)を踏まえている。

由良(ゆら)の門(と)を 渡る舟人(ふなびと) 
かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな

(由良の流れが激しい河口を漕ぎ渡る船頭が、流れに櫂を取られて失くしてしまい当て所なく漂うように、 この先どうなるか分からず途方に暮れる私の恋の道行きだなぁ)

これを〈時の河〉と表現したのが発明である。時空を超えた茫漠たる果てしなさ、悠久の時を感じさせる。

淡々とした薬師丸ひろ子の歌唱も悪くないが(試聴こちら)、情感のこもった上白石萌音のカヴァーが更に上回っている(こちら)。ストリングスのアレンジが美しく、心に沁みる。

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2020年6月 6日 (土)

祝サブスク解禁!!山口百恵の魅力について語り尽くそう。〈後編〉

本記事は、

の続きである。

【プレイバック】1978年5月にリリースされプレイバック Part2」は作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童の夫婦コンビ作。元々はディレクターの発案で「プレイバック」というタイトルが先に決められ、やはり阿木燿子の作詞で馬飼野康二が作曲した「プレイバック Part1」と宇崎が競作し、宇崎の方が採用された。「Part1」は翌月に発売されたベストアルバムに収録されたが、シングルカットはされていない。両者を聴き比べれば優劣は歴然としている。

【秋元康】秋元康が放送作家を経て、作詞家としてデビューしたのは1981年だった。しかしその1年前に山口百恵は引退していた。

作詞家・秋元康は小泉今日子(「なんてったってアイドル」)や美空ひばり(「川の流れのように」)に間に合ったが、山口百恵には間に合わなかった。彼にはずっと「山口百恵に詞を提供したかった」という、くやしい気持ちが付きまとっているような気がして仕方がない。

秋元がAKB48グループを作り、東京、名古屋、大阪、博多、新潟、瀬戸内、海外へと組織を拡大していったのも、「公式ライバル」として乃木坂46や欅坂46など坂道シリーズをプロデュースしたのも、その原動力として「第二の山口百恵を発見し、育て、世に送り出したい」という強烈な欲望があったのではないだろうか?

山口百恵の才能は日本テレビ系列で放送されていたオーディション番組「スター誕生!」で見い出された。しかし「スター誕生!」は1983年9月に幕を閉じ、平成に入ると単体としてのアイドル歌手が全く売れない時代となった。つまり「スター誕生!」の代替として考案されたオーディションおよびアイドル育成システムがAKB48であり、坂道シリーズだったのではないか、と僕は考える。

【「黒い天使」ー山口百恵と前田敦子を結ぶ点と線】AKB48の一期生・前田敦子が東京ドーム公演(の翌日に開催されるAKB48劇場での公演)をもってグループを卒業したのが2012年8月、そのとき彼女は山口百恵が引退した年齢と同じ、21歳だった。シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)である。

AKB48 チームAの劇場公演5th Stage「恋愛禁止条例」において秋元康は「黒い天使」(Spotifyではこちら)という曲を作詞した。3人のユニット曲で、前田敦子がセンターで歌った。

山口百恵のプレイバック Part2」は、真紅(まっか)なポルシェを飛ばしている女が、カーステレオを掛けると、ラジオから「勝手にしやがれ 出ていくんだろ」と流れてくるのでPlay Back (巻き戻して!)と叫ぶ。これは沢田研二が前年(1977)に歌った「勝手にしやがれ」(作詞:阿久悠)に呼応している。その歌詞の中で「やっぱりお前は出ていくんだな」とある。つまり状況として「プレイバック Part2」は男と喧嘩した女が夜中に家を飛び出し、運転する車上で心情を歌っている。一方、「黒い天使」は夜の渋滞する高速道路で男と喧嘩をした女が助手席のドアを開けて車を降り、ヒールを脱いでトボトボと車道を歩いている時のやけっぱちな心情を歌っている。構造が似ていると思いませんか?

今回のサブスク一斉解禁で初めて知り、心底驚いたことがある。1975年8月28日から31日まで開催された新宿コマ劇場における「第1回百恵ちゃん祭り」で、山口百恵はロック・ミュージカル「黒い天使」に取り組んでいたのである(音源はこちら)。このとき彼女はダウン・タウン・ブギウギ・バンドのヒット曲「スモーキン・ブギ」と「カッコマン・ブギ」を歌い、これが切っ掛けで今後歌いたい作曲家として宇崎竜童の名を挙げた。そして翌年に名曲「横須賀ストーリー」が誕生したのである。遂に山口百恵と前田敦子が繋がった!

秋元康は前田敦子に、山口百恵の面影をなんとか重ねようとしていた。しかし、あっちゃんは結局、百恵ちゃんにはならなかった。

また三期生の渡辺麻友が卒業する時に秋元が提供した楽曲「11月のアンクレット」の振付で、渡辺は最後にマイクをステージ中央に置き、後方に去る。言うまでもなく山口百恵さよならコンサート@武道館の再現である。しかし、まゆゆも百恵ちゃんではなかった。

こうして秋元は、まるで玩具に飽きた子供のように、急速にAKB48グループへの関心を喪失していった。

【大林宣彦再登場】AKB48のシングル「So long !」(センターはまゆゆ)ミュージック・ビデオの監督として秋元康は大林宣彦を起用した。ここで大林は自身の映画「この空の花 -長岡花火物語」の続編としてこのMVを仕上がっていたのだからぶっ飛んだ!なんと上映時間64分、破格の長さである。AKBファンは呆れ果てた。しかし秋元は大林の身勝手・大暴走を容認した。多分そこには「山口百恵を育て、見守った監督だから」という畏敬の念があったからではないだろうか?

【平手友梨奈】そんな状況下に、突如として救済の天使が現れた。平手友梨奈である。彼女を見て、誰しも目を見張った。醸し出す雰囲気が山口百恵そっくりだったからである。「山口百恵の再来」「平成の山口百恵」と世間で騒がれた。

Silent

僕は彼女なら、大林監督のライフワーク、福永武彦原作『草の花』のヒロイン、藤木千枝子を演じられるのではないかと思った(以前、尾美としのりと富田靖子主演で企画されていた)。しかし大林監督は既に病魔に侵され、結局『草の花』映画化は実現に至らなかった。

平手をセンターに据えた欅坂46のデビュー曲「サイレントマジョリティー」(動画はこちら)は気合が入っていた。秋元康の最高傑作と評しても過言ではない。またTAKAHIRO(上野隆博)の振付が凄かった。曲の途中で平手を旧約聖書のモーセに見立て、紅海を2つに割り、民を約束の地へ導く場面を描くのである(出エジプト記)。この解釈はTAKAHIROの発言もあり、間違いない。モーセは預言者であり、預言者とは神の言葉を人に伝える仲介者。日本で言えば巫女に相当する。つまり、秋元は平手=巫女と見立てていた。言うまでもなく彼女が仲介する女神とは山口百恵のことである。

実際に平手は巫女みたいな少女で、楽曲に没入するあまりトランス状態となり、ステージから転倒落下することもあった。2017年12月31日のNHK紅白歌合戦で「不協和音」をパフォーマンスしたときも過呼吸で倒れ、照明が暗くなってから他のメンバーに運ばれる事態となった。

平手がソロで歌った「渋谷からPARCOが消えた日」に、山口百恵「横須賀ストーリー」 「プレイバック Part2」「絶体絶命」のイメージが投影されていると感じるのは僕だけではあるまい。

秋元の平手に対する偏愛っぷりは常軌を逸していた。いくら平手以外のメンバーのファンたちから非難を浴びても、決して平手=絶対センターを譲らなかった。共犯者TAKAHIROは「二人セゾン」(動画こちら)の振り付けの最後に、平手以外のメンバー全員を欅の木=オブジェに変えてしまった。最早このグループは〈平手友梨奈と愉快な仲間たち〉状態であった。ファンが怒るのも無理はない。アルフレッド・ヒッチコック映画『めまい』でジェームズ・スチュワートが演じた主人公の狂気を、僕は秋元康の中に見た。彼は山口百恵の亡霊に取り憑かれていた(『めまい』のスコティはある事件がきっかけで高所恐怖症になり、警察を辞めて私立探偵となった。そこへ友人からの依頼で彼の妻マデリンを尾行するが、彼女は鐘楼の頂上から飛び降り自殺する。それからしばらく経ち、自責の念から神経衰弱に陥っていたスコティは街角でマデリンに瓜二つの女性ジュディを見かけ、彼女を追う。やがてふたりは親しくなるが、スコティは次第に正気を失い彼女の洋服、髪型、髪の色をマデリンと同じにしようと画策し始める……)。

2017年6月24日に幕張メッセで行われていた全国握手会ではナイフを持った男による襲撃未遂事件が発生、逮捕された犯人は「殺そうと思った」と供述した(容疑者が挙げた名前について警察は「言えない」としたが、平手が参加したレーンに並んでいた)。

「どうしていつも、てち(平手の愛称)ばかり優遇されて、私はセンターになれないの?」と運営に涙ながら訴えて、辞めていくメンバーもいた。

センターに立つ平手の背中を、他のメンバーの嫉妬に満ちた鋭い視線が射抜く。また前方客席からは「どうしてお前なんだ?」という怒気を帯びた圧が彼女を襲い、四方八方からズタズタに引き裂く。AKB48の絶対センター=前田敦子の心臓は意外と強かったが、満身創痍の平手友梨奈は次第に壊れていった。

それでも秋元康はその執着を緩めることなく、どんどん彼女を追い詰めた。次第にグループ内で孤立していく平手の心情を「不協和音」の歌詞に託し、「僕は嫌だ!」と絶叫させた。劇場版『さよなら銀河鉄道999』に登場したキャプテン・ハーロックならさしずめこう呟くだろう。「鬼だな…」

2018年の平手は体調が優れず、コンサートの休演が続き、その年末の紅白歌合戦も不参加。なんとか19年末の紅白には出演したがやはり過呼吸となり、パフォーマンス直後に倒れた。そして2020年1月23日、グループを(卒業ではなく)「脱退」することが電撃的に発表された。もう限界だった。しかし平手がやっぱり何かを「持っているな」と感じたのは、彼女が脱退した直後に新型コロナウィルスが日本を直撃し、「会いに行けるアイドル」というビジネス自体が崩壊してしまったこと。絶妙なタイミングだった。

こうして紫式部『源氏物語』の宇治十帖で、薫から亡くなった大君(おおいきみ)の人形(ひとがた;身代わりの人)として、その面影を重ねられた浮舟が入水自殺を図ったように、アイドル歌手・平手友梨奈は消え去った。しかし2020年秋に映画『さんかく窓の外側は夜』への出演が発表され、彼女は女優・平手友梨奈として再生しようとしている。果たして現代の薫=秋元康は、それでも浮舟=平手を追い求め続けるのか?今後のふたりの行く末を、しっかりと見届けたい。You ain't heard nothin' yet. (お楽しみはこれからだ。)

さて、ここまで書いてきたことを、読者の皆さんはひとりの男の単なる妄想だと失笑されるだろうか?

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