KANは「愛は勝つ」の一発屋にあらず。
2023年11月12日にシンガーソングライターのKANが死去した。死因は小腸にできる非常に稀な疾患・メッケル憩室癌(メッケル憩室の発生率が人口の2%でそこにがんができる割合はそのうちのさらに1%前後とされる。日本国内での報告例は数十例程度) 。享年61歳。最近彼の歌を聴いていながったのだが、訃報を聞き少なからず動揺している自分に気が付いた。
僕は数年前Spotifyに加入してから、彼の曲が入っていないか何度か検索したが全くヒットしなかった。松任谷由実、中島みゆきら大物アーティストが次々とサブスクを解禁していく中、残るはKANと山下達郎くらいになっていた。KANの死後、漸く主要な彼の楽曲配信が解禁され始めた。
代表曲『愛は勝つ』のストリーミング配信は2023年12月20日に遂に実現した。1990年9月1日にシングルCDがリリースされオリコンでは8週連続1位にチャートイン、累計売上は201.2万枚を記録した。翌91年に日本レコード大賞を受賞、これでNHK紅白歌合戦出場も果たした。
positive thinkingで能天気な歌詞。今にして思えば『愛は勝つ』はバブル時代(1985年から1991年までの日本で起こった好景気)を象徴する徒花だった。89年の新語・流行語大賞にリゲインのCMのキャッチフレーズ「24時間戦えますか」がランクイン、「お立ち台」で有名なディスコ「ジュリアナ東京」の開業が91年5月15日で、その年末に『愛は勝つ』がレコード大賞を取ったという流れだ。当時の大人たちは浮かれ、のぼせていた。
軽佻浮薄な時代に幼年期を過ごした諫山創(1986年8月29日大分県日田郡大山町生まれ)が、そんなものは「家畜の安寧」「虚偽の繁栄」だ!と叫び、壁を壊して進撃を始めるのが2009年(漫画『進撃の巨人』連載開始)。こうしてバブル期に肩で風を切っていた連中はみな「駆逐」された。今聴いたら『愛は勝つ』の歌詞なんてギャグでしかない。
恐らく、日本人の99%はKANといえば『愛は勝つ』しか知らず、彼のことを“一発屋”だと思っていることだろう。さにあらず。そのことを以下、語っていきたい。
本名は木村 和(きむら かん)、福岡県福岡市生まれ。1987年がレコード・デビューだが、その前年に大林宣彦監督の映画『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の音楽を担当。大林とは87年10月に開催された「大連・尾道友港都市博覧会」で上映された短編映画『夢の花 大連幻視行』のサウンドトラックも請け負った。主演は『彼のオートバイ、彼女の島』の原田貴和子と『漂流教室』の浅野愛子。その撮影時にKANも中国・大連に同行したそう(初めての海外旅行)。さらに88年に開催された瀬戸大橋架橋記念博覧会で上映された大林監督『モモとタローのかくれんぼ』も手がけた。
熱狂的な大林映画ファン(フリーク?)である僕はお蔵入りしていた『おかしなふたり』が劇場公開される前、1987年夏に開催された尾道映画祭で先行映された時に観ている。映画祭では大林監督やゲストの淀川長治(映画評論家)・おすぎ(映画評論家)・永六輔(放送作家/作詞家)・薩谷和夫(美術監督)に混じってKANもトークショーに参加していたし(最早おすぎ以外は皆さん故人になってしまった)、野外ステージで彼のミニライブもあったと記憶している。『夢の花 大連幻視行』も尾道で観た。
瀬戸大橋博の『モモとタローのかくれんぼ』の上映方式は特殊で、途中2回物語の分岐点がある。ここで観客が手元にあるボタンでAかBの2つの選択肢を選び多数決で進む方向が定まる。つまり4パターンあるというわけ。僕は10回ほど繰り返しパビリオンに入り、全パターンを制覇した。選択肢で展開が変わるドラマといえばNetflixの『ブラック・ミラー:バンダースナッチ』(2018)があり、それを30年も先駆ける作品であったと言えるだろう。『夢の花 大連幻視行』も『モモとタローのかくれんぼ』もピアノ主体の美しい楽曲だった。
・ 【いつか見た大林映画】第4回 ロケ地巡りと【尾道三部作】外伝
KANの2ndシングル『BRACKET』のミュージック・ビデオも大林が演出した。これがまた、キレッキレの編集でスカッとする傑作なのだが、どうも現在世に出回っていないみたいでとても残念だ。ポリドールとか所属事務所の方、是非もう一度YouTubeとかで観れるようにしてください!
またこの頃、大林は『悲劇の季節』という映画を構想しており、そのテーマ曲もKANが作曲し、素晴らしい仕上がりだったと監督がエッセイ本の中で絶賛しているのを読んだ。しかし残念なことにこの企画は実現しなかった。
KANは昔から「フランス人になりたい」という夢を持っていて2002−4年の間、住居をフランス・パリに移し、ピアノを学んだという。さらに九州男児のくせに自身の公式X (Twitter)のプロフィールには「札幌出身・フランス帰り系・英国紳士派」と書いている。えっ、なんで??福岡県出身というのがそんなに恥ずかしいか。西洋かぶれの実に薄っぺらな男である。
ただし、本人の性格と芸術の才能は全く別物だ。音楽の神童モーツァルトが「おなら」とか「うんこ」と言うのが好きな下品な男であったことは良く知られており、映画化もされた戯曲『アマデウス』で描かれた通り。
KANは才能に恵まれた作曲家だったが、作詞のセンスはなかったと僕は思う。恋の歌ばかりでアルバムを一枚通して聴いていると途中で飽きてしまう。つまり金太郎飴。概ね英語交じりで(フランス人になりたかった筈なのになぜ?)、「100カラットの君に/目がくらんだ」とか日本語の表現も陳腐。シンガーソングライターという肩書にこだわらず作詞を他者に委ねていれば、もっとヒット作を生み出せていたのではなかろうか?
ピアノを弾きながら歌うスタイルで、ビリー・ジョエルやエルトン・ジョンのような〈ピアノ・マン〉だった。ただし彼が憧れて歌手になる切っ掛けになったビリー・ジョエルの場合、最初のシングル『ピアノ・マン』にしても『ハートにファイア(We Didn't Start the Fire)』にしても恋の歌ではなく社会性があるわけで、そういう点を見習って欲しかった。
しかし同時にアンビバレントな愛着を彼の音楽に感じるのも確かであり、ここで僕が選ぶKANの歌Best 5を発表する。今は全てサブスクで聴ける(歌に限定しなければ哀しく、心を鷲掴みにする『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 』がトップだ)。
1.永遠
2.小学3年生
3.BRACKET
4,東京ライフ
5.ドラ・ドラ・ドライブ大作戦
『永遠』はKANが創作した最も美しい旋律だろう。胸に沁み入る最高傑作。是非一人でも多くの人にこの曲の魅力を知ってもらいたい。
『小学3年生』はイキったガキの口上が最高に可笑しい。ある意味『愛は勝つ』で調子に乗っていた自己に対するセルフ・パロディである。JazzyでGorgeousなオーケストレーションが良い。ビッグバンド形式で1950年代ニューヨークのフランク・シナトラって感じ。間違いなくシナトラと組んだネルソン・リドルのアレンジを意識している(特に最後)。
『BRACKET』は吠えるホーンセクションが気持ちいい!ノリノリだぜ。
『東京ライフ』の哀しみ、sentimentalismはある意味、KANの音楽の本質であるだろう。
『ドラ・ドラ・ドライブ大作戦』は愉快な口調で、バンジョーが入ったりして音楽的には20世紀初頭のディキシーランド・ジャズを彷彿とさせる。映画『ペーパー・ムーン』とか、『俺たちに明日はない』が描いたボニー&クライドの時代の雰囲気。
ランクインしなかったが『50年後も』は「明日の朝もしも僕が死んでいたら君はどうする?」という歌詞で始まるので、ちょっとドキッとする。
それからKANがアルバムで『キセキ』を発表した後、秦基博が『カサナル』をシングルリリース。2つ混ぜて『カサナルキセキ』に仕上がるという合作の試みは実にユニーク。一聴されたし。
KAN、今までありがとう!安らかにお眠りください。そしていつの日にか作曲家として再評価される日が来ますように。
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