読書の時間

百人一首から万葉・古今・新古今和歌集へ〜古代日本人の深層心理を探る旅

新元号が〈令和〉に決まった。「万葉集」に書かれた、梅花の宴(序文)に由来する。出典が国書であるのは史上初だという。〈令和〉で「万葉集」に注目が集まるのは大変結構なことだ。今まで全て中国古典出典だったというのが却って不思議な気すらする。

僕が今回、「万葉集」「古今集」「新古今集」に集中的に取り組もうと決意した理由は、これらを読めば古代日本人の心、深層心理が分かるんじゃないだろうかと考えたからである。例えば「古今集」に収録されているのは1,111首。紀貫之ら撰者4人の歌が全体の2割以上を占めるなど沢山選ばれている歌人もいるが、それでも何百人もの〈思い〉〈感情〉が集積している。そこから何らかの集合的無意識が浮かび上がってくる可能性もあるのではないか?

本稿を執筆するに当たり、読んだ本を挙げておく。

  • 最果タヒ「千年後の百人一首」(リトル・モア)
  • 最果タヒ「百人一首という感情」(リトル・モア)
  • 上野誠「はじめて楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)
  • 「万葉集 ビギナーズ・クラシック 日本の古典」(角川ソフィア文庫)
  • 「新版 古今和歌集 現代語訳付き」(角川ソフィア文庫)
  • 「新古今和歌集 ビギナーズ・クラシック 日本の古典」(角川ソフィア文庫)

いずれも解説・現代語訳付きでわかり易い。お勧め!

さて、「万葉集」より前の、最初期の和歌の話から始めよう。〈難波津(なにわづ)の歌〉である。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

末次由紀による漫画「ちはやふる」でも描かれている通り、競技かるたにおいては競技開始時に〈難波津の歌〉を詠むことが通例となっている。百人一首には入っていない。大阪市はこの歌にちなみ〈咲くやこの花館〉や〈咲くやこの花賞〉を設立している。王仁の作とされ、「古今和歌集」の仮名序で、字を習う人が最初に書くものとして紹介されている。仁徳天皇が即位したことを祝ったものと言われており、4世紀末から5世紀初頭の作品と推定される。

和歌は5-7-5-7-7というたった31文字で表現しなければならないのに、そのうち〈咲くやこの花〉という7文字(全体の23%)を繰り返している。何という無駄!「繰り返しのリズムが心地よい」などという戯言は聞きたくない。ハッキリ言う。単純で稚拙である。では、ここから出発した和歌は後にどのような進化を遂げたのだろう?

扱われた素材を見てみよう。4,500首以上ある「万葉集」(759年以降に成立)でが詠まれたのは41首。全体の1%にも満たない。花の中で一番多く詠まれたのがで141首、続いての116首、第3位が橘・花橘の107首。は植物の中で第10位なのだという(群馬県立女子大・北川和秀教授の集計に基づく)。これが905年に成立した「古今和歌集」になると(春歌全133首のうち)が18首に対して、が70首と逆転し、圧倒した(ほぼ4倍)。つまり和歌で「花」といえば「桜」を指すという常識が成立したのは平安時代以降なのである。余談だが現代人が「桜」で真っ先に連想するのはソメイヨシノ(染井吉野)だが、これは江戸時代中期ー末期に園芸品として生み出された交配種である。和歌で詠まれる「桜」は吉野山などに咲く山桜と考えるべきだろう。

「万葉集」は全て漢文で書かれており、中国文化の影響が色濃い。だからが好まれた。そして仮名文字が登場する「古今和歌集」成立まで約150年が経過する間に日本人の美意識は確立され、歌に詠まれる対象(花)も独自の素材としてに移行した(838年を最後に遣唐使が廃止されたことも大きいだろう)。と同時に薫物(たきもの)、(こう)の文化が発展した。奈良時代には主に宗教儀式で用いられたが、平安時代になると貴族たちが家伝の秘法に従って練香を作り、これを披露し合う〈薫物合わせ〉を愉しむようになった。は「古今集」のみならず「源氏物語」でも重要な役割を果たすことになる。また同じ自然現象を〈春ー霞〉〈秋ー霧〉と明確に区別するようになったのも「古今集」からで、「万葉集」では混用されている。ここにも繊細な美意識の萌芽が認められる。

なおは8世紀(飛鳥〜奈良時代)に遣唐使によって中国から持ち込まれた外来種である。「古事記」や「日本書紀」には一切、に関する記述がない。一方、山桜は古来からある自生種である。

奈良時代→平安時代の文化の変遷は1868年の明治維新から、約150年を経た現代までの変化に非常に似た状況であると言えよう。江戸時代の鎖国を経て明治時代は一気に西洋文化が日本に流入した。「欧米諸国に追いつけ追い越せ!」とばかり〈富国強兵〉が叫ばれた。それは〈猿真似の時代〉でもあった。しかし第二次世界大戦後、手塚治虫の出現とともに漫画文化が栄え、スタジオジブリの宮崎駿らが牽引した日本のアニメーションが今や世界を席巻した。プレイステーションやNintendo Switch、ポケットモンスターなどゲームソフトでも他国の追随を許さない。歴史は繰り返すのである。

和歌の話に戻ろう。

「万葉集」の特徴は素朴であること。例えば次の歌だ。

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

身も蓋もない言い方をすれば「見たままやん!」とツッコミを入れたくもなる。何のひねりもない。後者の〈にほふ〉は嗅覚じゃないかという反論があるやも知れぬが、古語でこの言葉は〈美しく咲く/美しく映える/美しさがあふれている〉という意味もある。

〈掛詞(かけことば)〉は「万葉集」にごく少数しか認めない。これが盛んになったのは「古今和歌集」から。〈掛詞〉はダブル・ミーニング(double meaning)であり、僕は「これってダジャレと同じじゃね?」と思った。古代日本人も現代の我々同様、ダジャレが大好きだったのだ。何だか親しみが湧いた。

「万葉集」から「古今和歌集」に移行すると、仮構性が強くなる。想像上の美の世界、ヴァーチャル・リアリティだ。「百人一首」にも選ばれた次の歌が代表例だろう。

心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

「初霜」と「菊」がどちらも真っ白なので、折ろうとしても見分けがつかないというのだ。そんなことってあり得る!?同じ作者(凡河内躬恒)の歌で、月明かりの白さと梅の白さが紛れて見えない(だから匂いで梅の花のある場所を察知するしかない)というのもある。

月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞしるべかりける

「んなあほな!」ツッコミどころ満載である。明治時代になって正岡子規が「歌よみに与ふる書」で「古今集」を徹底批判した気持ちが分からなくもない(「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と子規は記している)。

確かに花も実もある絵空事ではある。しかし一方で、僕はフィクションとしての面白さ、嘘から出たまこともあると思うのだ。凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌は、例えばフランス印象派のドビュッシーが作曲したピアノ曲「月の光」や歌劇「ペレアスとメリザンド」を想起させる。自然ではないが、人間が構築した完全なる美の世界がここにある。

〈本歌取り〉が盛んになるのは鎌倉時代初期、1205年に成立した「新古今和歌集」の時代になってからである。「古今和歌集」からさらに300年が経過している(「万葉集」から約450年)。「新古今」まで行くと、超絶技巧というか、余りにも人工的で僕にはToo much !と感じられる。貴族文化が成熟し、熟れ過ぎて腐りかけた状態。正にデカダンスである。「新古今」を読みながら僕が連想したのは、形式が肥大化し瓦解寸前のグスタフ・マーラーの交響曲や、ルキノ・ヴィスコンティ監督(イタリア貴族の末裔)の映画「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」「家族の肖像」などである。〈本歌取り〉は元の歌を知らないと意味を成さない。つまり高い教養が問われる。また当時は歌会が盛んで「お題」を出されて詠まれた歌が多く、その多くが実体験に基づかない男が女の気持になって詠んだものもある。何だそれ!?ここまで来ると単なるお遊び、ゲームだ。だから武士の台頭とともに和歌や貴族文化が滅びるのは必然だったという気が僕にはするのである。朴訥な「万葉集」と爛熟した「新古今」、その中間の程よい匙加減が「古今集」というのが率直な印象である。

三島由紀夫は「日本文学小史」の中で次のように述べている。

 われわれの文学史は、古今和歌集にいたつて、日本語といふものの完熟を成就した。文化の時計はそのやうにして、 あきらかな亭午(ていご:真昼)を斥す(=指す)のだ。ここにあるのは、すべて白昼、未熟も頽廃(たいはい)も知らぬ完全な均衡の勝利である。 日本語といふ悍馬(かんば:あばれうま)は制せられて、だく足も並足も思ひのままの、自在で優美な馬になつた。調教されつくしたものの美しさが、なほ力としての美しさを内包してゐるとき、それをわれわれは本当の意味の古典美と呼ぶことができる。 制御された力は芸術においては実に稀にしか見られない。

ここで三島の言う〈未熟〉=「万葉集」であり、〈頽廃〉=「新古今和歌集」であることは論を俟たない。僕は三島の意見に全面的に賛成である。

「万葉集」では鳥の中でホトトギスが最も多く詠まれた。一説では156首、二番目に多い雁が63 首とされる(ホトトギスが153首、雁が67首とする説もある)。ただここで注意すべきは「万葉集」の時代、ホトトギスとカッコウは混同されていた可能性があるのだ。少なくとも平安時代において、カッコウは文学に全く登場しない。現代において「郭公」という漢字はホトトギスとカッコウという二つの読み(意味)があるが、古典ではホトトギスという読みしかなかった。実は生物学上も両者はカッコウ目カッコウ科の鳥に分類されており、案外近い存在なのである。ホトトギスの声は田植えを始める時期を知らせるということで「時鳥」という異名も与えられ、冥界を往来するというイメージまで付与された。

中国の故事を紐解くと長江流域に蜀という傾いた国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して君主になった。杜宇が死ぬとその霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため飛んで来て鋭く鳴くようになったという。故に「杜宇」はホトトギスの異名となった。

ホトトギスとカッコウには托卵(ホトトギスは鶯の巣に卵を生む)という共通する生態があり、その他ホトトギスの習性として、夜に鳴くこと、雨の日にも鳴くこと、一ヶ所に留まらず飛び回りながら鳴くこと、そのため姿が見えないことなどが挙げられる。またホトトギスの口中は朱色なので、〈鳴いて血を吐く〉とも言われた。結核を病み、喀血した正岡子規の雅号「子規」もホトトギスの異名であり、「死期」を連想させる。

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おそらく冥界との繋りは、こうした生態に由来する発想なのだろう。常にこの世にいるわけではないので、子育ても他の鳥に委託するわけだ(ホトトギスの托卵は万葉人も知っていた)。

また鶯は谷の古巣で春を待つものとされた。

次に季節を見てみよう。「古今和歌集」で詠まれた内訳は以下の通り。

春:134首、夏:34首、秋:145首、冬:29首

つまり春≒秋、は夏≒冬と比較して約4〜5倍多く詠まれていることが判る。

なぜ秋が最も多いのか?秋は枯れ葉が舞い落ち、〈(夏)〉から〈(冬)〉への〈移行期〉〈境界域〉に立つ季節。だから「寂しい」という気持ちが掻き立てられ、「もののあはれ」にしみじみ感じ入る。例えば冬、雪が降り積もったスキー場やクリスマス商戦で賑わう12月の街角で「寂しさ」は感じないでしょう?既ににどっぷりと〈死の世界〉に足を踏み入れているから完了した状況であって、変化しつつある運動性を欠くのだ。故に心は動かない。逆に春は〈死〉から〈生〉への移行期なのでやはり「もののあはれ」がある。さらに散りゆくの花びらが〈生〉から〈死〉へ移行するメタファーとなる。

詠まれた時刻を見ると、真昼よりも夕刻(黄昏=誰そ彼/アニメ映画「君の名は。」における〈かたわれ時〉)・夜・明方が圧倒的に多い。夕刻や明方は昼(動)↔夜(静)の〈移行期〉〈境界域〉であり、そこに「もののあはれ」「幽玄」が潜む。明方(しののめ)は通い婚だった当時において、男女が一夜を共にした翌朝の別離=〈後朝(きぬぎぬ)の別れ〉を意味しており、より一層切なさを増す。また夜は月の満ち欠けが「無常(生滅変転して片時も同じ状態に留まらないこと)」「哀愁」に結びつく。

最後に。「拾遺和歌集」に収録された、紀貫之の辞世の歌とされるものを見てみよう。

手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ

下の句は、「はかない人生/世の中であった」と解釈されることが多いようだが、僕は寧ろ「手に取ることが出来ない不確かな、夢のような人生であった」と積極的・肯定的に受け止めたい。それはアボリジニ(オーストラリア先住民)の概念〈ドリームタイム〉に繋がってゆく。 

紀貫之には「古今和歌集」に載った、次のような歌もなる。
            あひしれりける人の、身まかりにける時によめる
夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな
(この世は、夢とこそ言うべきであったのだ。私を取り巻く世界には確かな現実があるものだと思っていたのだがなぁ)
夢の時ドリームタイム)とこの世の〈境界域〉に、和歌は息づいている。

今回の体験を通して、僕は次に向かうべきターゲットを絞った。紫式部「源氏物語」である。そして遂に大伽藍に足を踏み入れたところである(角田光代 訳)。いずれ超大作「源氏物語」を言祝(ことほ)ぐ日も来よう。乞うご期待。

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【考察】日本人は何故、CDを買い続けるのか? 〜その深層心理に迫る

外部記事で次のようなものがある。

つまり現在、日本はCDが世界で一番売れている国なのだ。他の国は全て音楽ストリーミング配信を聴くか、iTunesなどダウンロードに完全移行している。

正にガラパゴス化である。どうしてこんな珍妙奇異な現象が我が国だけで起こっているのだろう?

ここで議論の混乱を避けるため、現象を2つに分ける必要がある。①AKB48や坂道グループのCDの売上げ②それ以外 である。①の理由は明白。CD購入は音楽を聴くためではなく、「握手券」や「”総選挙”の投票用紙」としての価値に置き換えられている。いわゆる「AKB商法」だ。ファンは同じCDを大量に買い、封入された「握手券」だけを抜き取って後は捨てる。

僕が注目したいのは②の方。「握手券」「チェキ券」「CDお渡し会参加券引き換えチケット」など付加価値・特典がないCDを日本人が未だに買い続けるのは何故なのか?そこにはどのような心理的要因が働いているのであろう。

クラシック音楽CDを買い続けている人のブログやtwitterの投稿を読むと、どうやらその理由は次の2つに集約されるようだ。①配信よりもCDの方が高音質である。②(空気や振動のように実体がない)音楽を物質(もの)として所有していないと、どうも心もとない。安心出来ない。

そこでまず①について検証してみた。僕が持っているクラシック音楽CDと、同じ音源をデジタル音楽配信サービスSpotifyで聴き比べるブラインド・テストを行った。試聴機はTechnicsのハイレゾ対応一体型ステレオシステムOTTAVA f SC-C70である。被験者は複数人参加してもらった。そしてCDに対してSpotifyの音質に遜色はなく、むしろ音源によってはSpotifyの方が勝っているという結論に達した。これはクラシック音楽専門配信サービスNAXOS Music Libraray(NML)も同様である。

そもそも音質にこだわるならばハイレゾ(High Resolution)音源をダウンロードすれば良いだけのこと。CDを圧倒的に上回る情報量を持っており、その音質は最早新次元である。ピアソラ(バンドネオン)の「ライヴ・イン・ウィーン」をハイレゾで購入したが、目の前で本人が演奏していると錯覚するくらいの〈生音〉に驚愕した。ビル・エヴァンスの音源も、まるで僕自身がヴィレッジ・ヴァンガード(マンハッタンにあるジャズクラブ)でグラス片手に彼のピアノを聴いているような臨場感がある。つまり①は、なんの根拠もない風評・幻想に過ぎない。

②は悪く言えば〈物欲〉、よく言えば〈ものを大切にする心〉なのだが、その根底には付喪(つくも)神〉が無意識のうちに存在しているのではないかと僕は考える。つまり〈(実体のある)CDには音楽の神様が宿っている〉という土着信仰である。

付喪(つくも)神〉とは、日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿ったものである。 荒ぶれば禍をもたらし、和(な)ぎれば幸をもたらすとされる。〈九十九神〉とも書き、「長い時間」「多種多様な万物」という意味合いを含んでいる。

〈つくも〉とは元々〈つつも(次百)〉であったと言われている。古語で、ものの満ち足らないことを意味する〈つつ〉に、百を意味する〈も〉を加えることで、「百に一足りない」という意味になっている。

〈つつも〉から〈つくも〉に転訛(なまった)のは平安初期に成立した「伊勢物語」からとされており、主人公である在五中将(=在原業平)が、老いてもなお色恋を求め自分(業平)の家に来て覗き見する老婆を詠んだ歌に登場する。

百年(もゝとせ)に 一年(ひとゝせ)たらぬ つくも髪 我を恋ふらし 面影にみゆ
(百歳に一年足りない白髪の老婆が私を恋しく思っているらしい。まぼろしになって見える。)

つまり〈九十九(つくも)〉とは白髪のことを指す。この時既に魑魅魍魎・山姥のイメージが重ねられている。余談だが、埼玉県には女性の長い髪を御神体とする「毛長(けなが)神社」がある。詳細はこちら

九十九髪〉という言葉が〈付喪神〉に転じたのは室町時代と言われており、「伊勢物語抄」では百鬼夜行のこととされる。

かの有名な妖刀〈村正〉伝説も付喪神〉である。(映画化・テレビドラマ化・宝塚歌劇で舞台化もされた)藤沢周平の小説「蝉しぐれ」には〈秘剣村雨〉なんて妖刀が出てくるし、ゲーム・アニメ・2.5次元ミュージカルなどで大人気「刀剣乱舞」の刀剣男士は全員付喪神〉である。日本人はこういうのが大好物なのだ。

ニニギノミコトが日本を統治するために天から舞い降りるとき、天照大神(アマテラスオオミカミ)から託された鏡・剣・勾玉を〈三種の神器〉という。うち〈草薙剣〉は名古屋にある熱田神社の御神体となっている。

また奈良県にある石上神社の御神体である〈布都御魂(ふつのみたま)〉は日本神話に現れる建御雷命(タケミカヅチノミコト)の所有していた霊剣で、命(ミコト)の分身とされる。

一方、欧米諸国に目を転じると自由意志を持った〈付喪神〉に該当するものはほぼ皆無である。強いて挙げるなら、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場するトネリコの樹に刺さったノートゥング(剣)や、アーサー王伝説に登場するエクスカリバーくらいだろう。エクスカリバーは石に刺さった剣で、それを引く抜くことがアーサー王の血筋の証明となる。ノートゥングの役割も全く同じ。つまり〈剣=神〉ではなく、それを所有する者が英雄(あるいは王位継承者)であることを認証するための道具に過ぎない。「ハリー・ポッター」シリーズでホグワーツ魔法学校入学時に、生徒たちが入る寮を決める〈組分け帽子〉みたいなものだ。

日本では石や岩も御神体になっている。京都・伏見稲荷の境内社である「御剱社(みつるぎしゃ)」や、群馬県の「榛名(はるな)神社」、三重県の「花の窟(はなのいわや)神社」がそれに該当する。

無機物を神と見做す思想は、オーストラリアの先住民アボリジニの神話にも見られる。彼らの言う〈ドリームタイム〉に登場する先祖は、岩や石に变化(へんげ Metamorphose)する。嘗ては「エアーズロック」と呼ばれた、オーストラリア大陸にある一枚岩「ウルル」も、彼らの先祖(神)そのものである。故に「ウルル」は2019年10月26日から観光客向けの登山が禁止となる。

Uluru

それから、次に語ることは日本人に限ったことではないが、「映画は映画館で観るべきだ」と主張する人々が少なからずいる。スティーヴン・スピルバーグ監督もその一人で、Netflixなど配信サービスの映画がアカデミー賞を受賞するのは相応しくないと強硬に反対の姿勢を貫いている。フィルムで撮っていた時代なら僕も意義を認めるが、現在はデジタル撮影/デジタル上映が殆ど。理性的に判断すれば、映画館で観るメリットは皆無だろう。

結局、上記の人々は潜在意識の中で映画館の暗闇を〈映画の神様が降臨する社(やしろ)/教会〉のような場所として神聖視しているのではないだろうか?こうなると理屈ではなく最早宗教であり、彼らを説得し、翻意を促すことは極めて困難である。実に厄介な話だ。

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虹についての考察(万葉集から能「道成寺」、LGBTまで)

まずは大前提として下記事をご一読ください。

更に出来得ることなら、次も併せて目を通して戴ければありがたい。

アボリジニ(オーストラリア先住民)の神話と、そこにしばしば登場する〈虹蛇〉について書いた。

概要を述べる。アボリジニの概念〈ドリームタイム〉には守り神のような存在〈虹蛇〉が棲み、両性具有水を司る。鎌首をもたげた蛇の姿と虹の足が重ねられたイメージ。蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在である。

古代中国人も虹と蛇を結びつけて思考していた。「虹」という漢字の虫偏(むしへん)は大蛇/龍を意味する。漢文で書かれた「万葉集」が編纂され、漢文学が隆盛を極めた古代日本(7世紀〜8世紀)の人々もその概念を共有していた。平仮名が公的な文書に現れるのは905年に完成した「古今和歌集」からである。

では蛇は男性と考えられたのか?女性なのか?古代人の思考は昔話に顕現する。「蛇女房」と「蛇婿入り」という、どちらも人間と結婚する噺がある。つまり古代日本における蛇のイメージもアボリジニ神話と同様、両性具有と考えられる。一方、「鶴女房(鶴の恩返し)」はあるが、鶴が人間の男として現れる噺は聞かない。鶴は女性原理の象徴なのだ。

「蛇女房」はこんな噺だ。出産時に夫が「見るなのタブー」を破ったため蛇の正体がばれ、夫婦は一緒に暮らせなくなる。女房は別離の際、子供に乳代わりにしゃぶらせるよう自分の眼を与えるが、不思議な玉の評判が広まり、殿様に取り上げられてしまう。ここから2つのパターンの類話に分かれる。①困った夫は池に女房を探しに行き、彼女はもう片方の眼も与えて盲目となってしまう。時と方向が判らなくなると困るからと言い、蛇は夫に朝と晩に鐘を鳴らしてくれるよう頼む。②殿様の横暴に怒った蛇は洪水を起こし、城ごと押し流してしまう。

ここからはっきりと分かるのは【①蛇と寺の鐘の密接な結び付き②蛇は水を司る】ということである。

次に「今昔物語集」に書かれた〈安珍・清姫伝説〉を見てみよう。熊野に参詣に来た美形の僧・安珍を見て清姫は一目惚れし、言い寄る。修行の身ゆえ、困った安珍は清姫を騙して逃げる。清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。道成寺に逃げ込んだ安珍は梵鐘を下ろしてもらい、その中に潜む。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。遂に安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。

ここでも蛇と寺の鐘が結びついている。そして蛇と水の親和性も語られる。〈安珍・清姫伝説〉は後に能「道成寺」に変換された。寺の鐘は形態的に女性の子宮に似ており、そこに閉じこもる〈安珍・清姫伝説〉は胎内回帰願望と読み解くことも可能だろう。アボリジニ神話において、虹蛇に母子が呑み込まれる物語に類似している(レヴィ=ストロース著「野生の思考」に紹介されている)。

安珍・清姫伝説〉には続きがあり、蛇道に転生したふたりはその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。また能「道成寺」では死んだ清姫が白拍子の姿に変化(へんげ Metamorphose)し、再び寺を訪ね舞を舞う。アボリジニ神話の母子もその後、虹蛇に吐き出され生き返る。両者は死と再生というテーマで繋がっている。

こうして見ていくと、オーストラリアのアボリジニ・古代中国・古代日本を結ぶ〈虹=蛇〉という概念は、ユング心理学における元型のひとつ、太母(the Great Mother)に相当すると考えられる。

Jungsmodel

上図はユングによる「心」の構造である。中心に自己(SELF)があり、それを取り巻く円の内側(深層)が集合的無意識Collective unconscious=Cの世界)。A元型(Archetype)で、アニマ(男性の思い描く理想的女性像)、アニムス(女性が思い描く理想的男性像)、太母(the Great Mother)、老賢人(the Wise Old Man)等が該当する。その外側に個人的無意識(Personal unconscious)が存在し、心的複合体=感情複合(Complex)を内包する。その代表例がフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスだ。さらに「心」の表層に意識(Consciousness)があり、自我(EGO)が配置されている。

太母(the Great Mother)とは、子を慈しみ、優しく包み込むのような存在であると同時に、牙を向き人々に襲いかかり、すべてを呑み込む山姥のような姿として立ち現れることもある。安珍に襲いかかり焼き尽くす清姫や、殿様の狼藉に怒り川を氾濫させ、洪水で城下町を呑み込む蛇女房の姿は、正に太母(the Great Mother)そのものである。

虹=蛇〉は母であると同時に父でもある。蛇の頭部は男根を想起させる。両性具有の性質を象徴するのが〈〉だ。フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南北アメリカ先住民の神話を研究した「神話論理」において〈〉を「半音階的なもの」と呼んだ。つまりある音から、別の音に、段階的(微分)変化を経て移行することを意味する。具体的にはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」やラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」に顕著な手法である。

父性原理で思考する欧米の人たち(キリスト教徒)は全てのことを〈2項対立〉に分けて、切断する。正義か悪か、YesかNoか、男か女か。その中間項は一切認めない。いわゆる近代ヨーロッパにおける合理主義である。0か1かの二進法で計算するコンピューターの原理も同じ。だからキリスト教社会において同性愛者は差別され続けてきた。しかし日本など母性社会では違う。

ここでLGBTと虹の関係について述べよう。LGBTとは、「Lesbian」(レズビアン、女性同性愛者)、「Gay」(ゲイ、男性同性愛者)、「Bisexual」(バイセクシュアル、両性愛者)、「Transgender」(トランスジェンダー、性別違和を含む性別越境者)の頭文字をとった言葉で、Sexual Minority(性的少数者)の総称。そのシンボルとなっているのがレインボーフラッグである。1970年代から使用されているという。

Flagsvg

何故〈虹の旗〉なのか?

それは性別を男か女か、2つに分けて切断するのではなく、その移行段階グラデーション)、境界域に位置する人々を(排除せず)認めて欲しいという主張であり、多様性(Diversity)を象徴している。

今年のグラミー賞も、アカデミー賞も多様性(Diversity)が大きなテーマとして掲げられた。これが現在、世界を取り巻く潮流である。いま欧米社会は、失ってしまった〈野生の思考〉を取り戻そうと、必死に藻掻いている。

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

Ouro

蛇は円環を形成し、始まりもなく終わりもない。過去・現在・未来は同時にここにある共時的(対義語は通時的)表象であるウロボロスはアボリジニの概念〈ドリームタイム〉と同義である。

中国では新石器時代の紅山文化(紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)にウロボロスが現れている。

Kure

これぞ正に集合的無意識(Cの世界)・〈野生の思考〉の産物と言えるだろう。

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【考察】何故、虹を詠んだ和歌は希少なのか?

神戸生まれの詩人・最果タヒの著書「千年後の百人一首」「百人一首という感情」に続いて現在、「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」を読み進めているところである。若い頃の僕は完全に理系人間だったので、自分が将来古文に親しむようになろうとは夢にも思わなかった。人生先のことは分からないものである。

そもそも百人一首に興味を持ったのは広瀬すず主演の映画「ちはやふる」三部作のおかげ。だから原作漫画を書いた末次由紀には感謝しなければならない。また「万葉集」や「古今和歌集」を読みたいと思ったのはアニメーション映画「言の葉の庭」「君の名は。」を観たことが切掛なので、ただただ新海誠監督に感謝あるのみ。映画って本当に素晴らしい。

百人一首を一通り読んで激しい違和感を覚えた。〉を詠んだ歌が一首もないのである。

7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた「万葉集」(全部で四千五百首以上ある)で〈〉を詠んだものは、次のたった一首しかない。群馬県の歌である。

伊香保〈いかほ〉ろの 八尺〈やさか〉のゐでに 立つ虹〈のじ〉の あらはろまでも さ寝をさ寝てば
(榛名山麓にある高い堤に立つ虹のように、人目につくほどあなたと共寝さえできれば、なにも悔いることはない)

これ以降は、「玉葉和歌集」に収録された藤原定家(1162-1241)の、

むら雲の 絶え間の空に 虹たちて 時雨過ぎぬる をちの山の端

あたりまで、ほぼ皆無である。なんとこの間、五百年も経過している。

〉は儚く、美しいのに、何故和歌の素材として忌避されるのか?ここにはきっと何か、重大な秘密が隠されている筈である。ぞわぞわした。その理由を探求する過程で、〈古代人の心〉つまり古来日本人の持つ無意識・深層心理が見えてくるのではないか?僕はそう考えた。

最初に立てた仮説は、「古代人はあまり虹を見る機会がなかったんじゃないか?」というものだった。雨があがり、日光が差し込んできた瞬間に虹は生まれる。狩猟民族なら虹を見る機会も多かろう。しかし日本人は農耕民族である。しかも着物だから濡れると厄介なので雨天時に出歩いたりしない。特に平安時代、和歌を読んだのはもっぱら天皇や貴族だったわけで、屋敷にこもった状態で虹に遭遇する機会など殆どなかったのではなかろうか?

しかし、どうも説得力に乏しい。もやもやした気持ちが残る。貴族だって〈野駆け〉(花見やもみじ狩りなど、山野を歩き回って遊ぶこと)をしたわけだし、天皇も〈行幸〉(外出)中に雨に降られることもあっただろう。滝にだって虹は出るし……

というわけで僕は答えを求めて、さらに調査を続けた。そして〈〉の語源を調べていて、衝撃的な事実を知った。

岩波書店の「広辞苑」ではについて次のように説明されている。

形声。「虫」(=へび)+音符「工」(=つらぬく)。にじを、空にかかる大蛇に見たててできた文字。

またWikipediaのの項には次のような説明がある。
「虹」を意味する漢字(虹、蜺、蝃、蝀)に虫偏が多く存在する点を見ても解る通り、中国語では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習が多い。

エエッ、これってアボリジニ(オーストラリアの先住民)神話にしばしば登場する虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)と全く同じ発想じゃないか!!青天の霹靂だった。

つまり古代中国人も、遠く離れたアボリジニも虹と蛇を同一視していた。正にフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースが言うところの〈野生の思考〉であり、ユング心理学における集合的無意識Collective unconscious:アニメ「コードギアス」シリーズではCの世界と呼ばれる)の産物以外の何物でもない。

「万葉集」は全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。この時代は中国文化の影響が大きく、天智(てんじ)天皇の近江朝(おうみちょう)には漢文学が隆盛をきわめた。

つまり古代日本人は、〈〉を結びつけて考える中国の概念を共有していたということになる。

古代において、蛇は禍福に強く関わっている存在だった。以下「民族大辞典」より日本各地での伝承をご紹介しよう。

「蛇が道を横切ると悪いことが起きる」(宮城県)
「蛇に道切りをされると、なにか持ち物を落とすから、蛇に道を横切られた時は歩退け」(奈良県吉野郡)
「蛇の夢を見れば験が悪い」(三重県四日市)
「蛇の夢を見れば、よくないことが起こるから、氏神様にお参りしなければならない」(長野県)

僕が住む兵庫県宝塚市には蛇神社がある。宝塚で幼少期を過ごした手塚治虫の漫画「モンモン山が泣いているよ」にこの蛇神社が登場する。

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蛇は水を司る。全国で信仰されている水神さまは大抵、蛇や龍(または河童)を祀っている。

つまり〈虹=蛇〉は干ばつ時にという恵みをもたらすが、時には人々に牙を向き、川の氾濫など洪水を引き起こす怖ろしい神(災厄)にもなり得る。

中国の神話に登場する四神(しじん)とは四方の神、すなわち

  • 東ー青龍(せいりゅう)
  • 西ー白虎(びゃっこ)
  • 南ー朱雀(すざく):火の象徴。鳳凰。
  • 北ー玄武(げんぶ):水神。カメの甲にが巻きついた形に表す。

を指す。やはり蛇が水神を表象している。江戸時代の祭りには「四神旗」が必ずといってよいほど使われ、落語「百川」でも言及される。

だから雅(みやび)で「もののあはれ」を表現する短歌の世界に、畏れ多い存在である〈虹=蛇〉が登場しないのは当たり前なのではないだろうか?こうして僕の疑問は氷解した。

ところが明治維新以降、突如として〉は和歌の世界に立ち現れる。

明治・大正・昭和を生きた与謝野晶子(1878-1942)の歌に次のようなものがある。

小百合さく 小草がなかに 君まてば 野末にほひて 虹あらはれぬ
とき髪を 若枝にからむ 風の西よ 二尺に足らぬ うつくしき虹
わが恋は 虹にもまして 美しき いなづまとこそ 似むと願ひぬ

晶子はこの他にも多数、を詠んでいる。

また昭和生まれの俵万智には幼子を見つめる母の想いを詠んだ、次のような美しい歌がある。

一生を見とどけられぬ寂しさに振り向きながらゆく虹の橋

つまり「万葉集」から千年以上経過し、虹=蛇〉という結びつきがすっかり忘却の彼方へ追いやられてしまった。そこへ明治以降、〈虹は美しい〉という新しい概念が欧米から輸入され、人々の意識に定着し、和歌の世界にも取り込まれた。そういうことなのではないだろうか?

映画「オズの魔法使い」でジュディ・ガーランドが歌った〈虹の彼方に(Over the Rainbow)〉こそ、欧米人の虹に対する見方を代表するものである。

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百人一首と新海誠「君の名は。」

人生も半ばを過ぎて、最近しばしば〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉について考えるようになった。

 

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ポール・ゴーギャンがタヒチ島で描いた絵のタイトルである。 

 

そんな折、清川あさみ(絵)最果タヒ(著)「千年後の百人一首」を読んだ。最果タヒは兵庫県神戸市出身の詩人(32歳)。詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」は何と2017年に映画化され、キネマ旬報ベスト・テンの日本映画第1位に選ばれた。

 

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彼女が百人一首を現代語訳したというか、現代詩として再創造(re-creation)した書物と言っても良いかも知れない。巻末に簡潔な原文の解説があるのも嬉しい。

 

これを読むまでは、お恥ずかしながら上方落語に登場する「千早振る」と、「崇徳院」の〈瀬をはやみ……〉くらいしか知らなかった。

 

本を手にとったきっかけはRHYMSTER宇多丸がパーソナリティを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」 #アトロク に最果タヒが出演したのを聴いたこと。そもそも広瀬すず主演の映画「ちはやふる」三部作が大好きなので、百人一首に興味を惹かれていたのである。

 

 

 

小倉百人一首は平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた公家・藤原定家によって選定された。平安時代に台頭した武士貴族支配の世界を転覆せしめ、権力を掌握して古代を終焉させた時期に合致する。

 

武士(もののふ)は武装集団=軍人だから、当然ながら知性よりも肉体重視である。戦で勝利したものが「正義」になる。理屈もへったくれもない。つまり鎌倉幕府の成立は軍事国家が生まれたことを意味するわけで、天地がひっくり返ったと理解すべきだろう。マッチョな武家では体力的に劣る女性は男性より当然低く見られるわけで、男尊女卑社会である。だから以後、女流作家や歌詠みも鳴りを潜めた。しかし「源氏物語」や「枕草子」が生まれた平安時代はそうではなかった。

 

つまり現在では【武士道・侍=日本人の精神】のように言われるが、それは比較的近代の話であり、日本人古来の心のあり方は全く違うものだったのである。

 

 

 

百人一首を読んでまず気がつくのは、やたらめったら恋の歌が多いこと。調べたところ、なんと四十三首もある!恋愛至上主義。まるで新海誠監督のアニメーション映画みたいだと想った。

 

恋愛至上主義なのは、当時の平均寿命が30歳前後(男性33歳、女性27歳)だったことと無関係ではあるまい。「老境」とか「枯れる」とは無縁の世界だったのだ。

 

平安時代の男女は、なかなか会うことすら出来なかった。女性は御簾内に籠もり、姿を見せない。美女だと評判を聞いた男は何度も何度も手紙や和歌を交わし、そして漸く対面することが出来た。その形態は夜になると男が女のもとに通い、明け方に帰っていくというものであった。

 

 

 

新海誠が殆ど自分ひとりで創ったデビュー作「ほしのこえ」(2002)は地球と、はるか彼方の宇宙に引き離された男女が、携帯電話(当時のガラケー)のメールを交わす物語である音声ではない。正に和歌の世界ではないか。

 

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僕が死ぬほど好きな「秒速5センチメートル」(2007)では【東京↔栃木】【種子島↔栃木】に引き離された男女が手紙で文通する。ここでも音声は用いられない

 

そして爆発的大ヒットとなった「君の名は。」(2016)ではスマートフォンが大活躍するのだが、男女の連絡手段は交換日記であり、瀧が三葉に電話を掛けると通じない

 

つまり新海誠は話される言葉を信じていない人の心の想いを伝えられるのは書かれた言葉だけなのである。「君の名は。」で瀧が”すきだ”という気持ちを伝えるのも、口頭ではなく文字である。

 

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「言の葉の庭」(2013)には古文の教師・雪野百香里が登場し、〈雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ〉という万葉集の短歌を言い残して高校生の主人公タカオと別れる。後日雨の日に再会した時にタカオは万葉集の返し歌 〈雷神の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば〉を口ずさむ。また「君の名は。」の発想の原点は古今和歌集に収録された小野小町の歌〈思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを〉であり、ユキちゃん先生(雪野百香里)も再登場する。

 

 

 

百人一首に戻ろう。女性歌人の作品は二十一首。当時は「男女共同参画社会」であった(内閣府のHPへ)。

 

」が詠まれたのは十二首ある(太陽は皆無)。

 

季節では、

 

    • 春:八首

 

    • 夏:四首

 

    • 秋:二十首

 

  • 冬:五首

 

秋が圧倒的に多い。また春(八首)のうち、桜を詠んだものが六首ある

 

時刻で見ると、

 

    • 夕方:四首

 

    • 夜を詠んだ歌:十五首

 

    • 明方:十一首

 

 

これらの総和は、昼を詠んだと考えられる二十三首を軽く上回っている。

 

 

 

撰者である定家の父・藤原俊成は宮廷歌人であり、第八十三首に選ばれている。そして「幽玄」や「あはれ」「艶」の美意識を提唱した。

 

もののあはれ」は無常観に立脚した哀愁に通じており、無常とは生滅変転して移り変わり、片時も同じ状態に留まらないことである。

 

幽玄」は無意識から意識へ、夢から形あるものに移行する時(境界)に立ち現れるものであり、アボリジニ(オーストラリア先住民)の概念〈ドリームタイム〉に近い。

 

 

 

百人一首で詠まれる夕方(「君の名は。」における〈かたわれ時〉)と明方は【昼↔夜】の境界域であり、「幽玄」「あはれ」が立ち現れる瞬間である。そして夜の「」には満ち欠けがあり、無常の象徴となる。

 

新海誠「君の名は。」のも重要な役割を果たす。【半月=片割れ】であり、相手が欠けた状態を示し、【満月=ふたりの結合】を意味し、三日月は三葉の暗喩である。

 

百人一首に夕方よりも明方の歌が多いのは、朝が〈男女の別れ〉を意味するからだろう。

 

秋の歌が多いのは秋が【夏(生)→冬(死)】の境界に位置する季節だからである。【落葉=人が死にゆく時】を意味し、春の桜も開花から一週間ほどで散るので、やはり人が死にゆく時の暗喩となっている。そこに「もののあはれ」がある。

 

 

第九十九首の詠手は後鳥羽天皇である。貴族復権を掲げて承久の乱を起こし鎌倉幕府と戦ったが破れ、隠岐に流された。

 

第百首の順徳天皇は後鳥羽院の息子で、父の倒幕計画に参画したため佐渡に流され、その地で亡くなった。彼の歌、

ももしき(百敷;宮中を意味する)や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり

は王朝時代に終止符を打つ一首となった。

 

このように百人一首もまた、【貴族社会→武家社会】の境界に位置しているのである。

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SNSがもたらした〈福音〉と〈罠〉。〜本谷有希子(著)「静かに、ねぇ、静かに」

本谷有希子という名前はつい先日、2018年9月12日(水)まで全く知らなかった。認知するきっかけになったのはその前日にTBSラジオで放送された、ラップグループ・RHYMSTER 宇多丸がパーソナリティを務める「アフター6ジャンクション」(通称:アトロク)である。彼女がゲストとして登場し、最新刊「静かに、ねぇ、静かに」の話をしたのである(パートナーは宇垣美里アナ)。これを通勤時にラジオクラウド(iPhone)で聴いて、俄然興味が湧いた。

早速Amazon.co.jpKindleで探してみた。すると、なんと!3つの中編からなる「静かに、ねぇ、静かに」のうち、最初の物語『本当の旅』が【刊行記念 無料試し読み】で、まるごとダウンロード出来ることが判明した(最後まで読める)。太っ腹!!

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本谷は1979年生まれで現在39歳。石川県に生まれ高校卒業後上京、ENBUゼミナール演劇科に入学し、松尾スズキに師事した。その後女優となり2000年に「劇団、本谷有希子」を旗揚げ、劇作家・演出家としての活動を開始した。「遭難、」で鶴屋南北戯曲賞を史上最年少で受賞。「幸せ最高ありがとうマジで!」で岸田國士戯曲賞を受賞した。小説の方は「ぬるい毒」で野間文芸新人賞、「嵐のピクニック」で大江健三郎賞、「自分を好きになる方法」で三島由紀夫賞、「異類婚姻譚」で芥川賞を受賞している。純文学新人賞三冠作家は彼女が史上3人目となった。

『本当の旅』の語り部は〈ハネケン〉。彼は友人の〈づっちん〉、〈ヤマコ〉と三人でマレーシア旅行に出発する。テーマはズバリSNS。彼らはグループラインで頻繁にやり取りし、”インスタ映え”に血道を上げる。

むちゃくちゃ面白かった!本谷は底意地が悪い作家である。全編悪意に満ちている。そういう意味で「OUT」「柔らかな頬(直木賞受賞)」の桐生夏生を彷彿とさせた。読んでいてヒリヒリするし、どよんとした読後感が残るので読者を選ぶ作家と言えるかも知れない。好き嫌いがはっきりと分かれるだろう。一部の人にとっては、歪んだ鏡で自分を見るのを強いられているようで、不快な気持ちになる筈だ。

この小説に登場する仲良し三人組は僕に言わせればグロテスクなモンスターである。それも人畜無害な。しかし本人には全くそんな自覚がなく、自分たちはリア充だと錯覚しているのだからイタい。貧しい彼らは、しっかり働いて裕福な暮らしをしている周囲の人々を見下している。価値の転倒。ニーチェが言うところのルサンチマン(強者に対して復讐心を燃やす、弱者の鬱屈した心)だ。つまりローマ帝国に支配されて苦しんでいたユダヤ人(イエス)が、「いや、貧しい自分たちこそ正義だ!」と開き直ったのと同じ構造がここにはある。

〈ハネケン〉たちは生きている実感がない。むしろSNSという仮想空間にこそリアル(本当)を感じる。正にヴァーチャル・リアリティである。彼らに欠如しているのは皮膚感覚だ。指で触って感じること、痛み、匂い、舌で感じる味覚。そして辛い、厳しい現実は写真をトリミング(画像の不必要な部分を切り取ること)したり、動画を編集したりすることで排除出来る、なかったことに出来ると信じている。本谷はそんな彼らを容赦なく狂気の淵へと追い込む。

僕にとってこの小説は「あるある」「わかる!」の連続だった。例えばこんな情景を日常生活でしばしば見かける。喫茶店やファーストフードで友達同士やカップルが向かい合って座っているのだが、各々が俯向いてスマホを弄(いじ)っている。「一緒にいる意味なくね?」というゾワゾワした違和感。

またインスタグラムで「今日はお昼にこれ食べました」といちいち写真付きで報告する人々。「そんなことに興味がある人が一体全体、地球上の何処にいるんだ??」肥大化する自意識承認欲求私が、私が、私が……。なんの価値もない、ちっぽけな自分のことばかり延々と喋り続けていることの滑稽さ。

人間は皆、孤独である。そして寂しい思いを抱えて生きている。インターネットがなかった頃の女子大生は大抵一人で下宿にいることはなく、友達の家に泊まりに行ったり、深夜に長電話するというのが常だった。SNS最大の効用は、誰かと常に「繋がっている」と錯覚出来ることだろう。しかしSNSの登場で、果たして人は孤独から脱出出来たのだろうか?

「静かに、ねぇ、静かに」が炙り出すのは、インターネットやSNSが仕掛けた罠、落とし穴だ。しかし一方で、ネット世界が存在しなければ僕がこの小説に出会うことがなかったのも紛れもない事実である。

SNSが我々にもたらすのは幸福なのだろうか?それとも不幸なのだろうか?結局は切れ味鋭い包丁と同様、使い方次第ということなのだろう。

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【解説】「ペンギン・ハイウェイ」〜〈海〉と〈お姉さん〉に関する考察

森見登美彦の小説は以前から大好きで、今までに「太陽の塔」「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」「【新釈】走れメロス他四篇」「有頂天家族」「宵山万華鏡」「夜行」を読んでいる。しかし日本SF大賞を受賞した「ペンギン・ハイウェイ」は未読であり、映画版が余りにも素晴らしすぎたので、これを機会に一気呵成に読み通した。

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上記事で〈海〉とは〈ワームホール〉みたいなものだろうと僕の考えを書いたのだが、なんのことはない、小説の中で何度もワームホールについて言及されていた。

本作はポーランドの作家スタニスワフ・レムが執筆したSF小説「ソラリス(ソラリスの陽のもとに)」に触発されている。歯科医院で小学校4年生の主人公アオヤマくんがいじめっ子のスズキくんに対し、歯の中にばい菌がいっぱいになって、歯をぜんぶ抜かないと治らない〈スタニスワフ症候群〉という嘘の病気について語るエピソードがある。

「ソラリス」は2度映画化されている。アンドレイ・タルコフスキー監督の1972年「惑星ソラリス」@ソ連と、ジェームズ・キャメロン製作、スティーブン・ソダーバーグ監督の2002年「ソラリス」@アメリカ合衆国である。1965年に出版された原作小説の日本における最初の翻訳「ソラリスの陽のもとに」はロシア語からの重訳であり、さらにソ連に於ける検閲を考慮し四百字詰め原稿用紙四十枚分に及ぶ削除箇所があった。その後、「ソラリスの陽のもとに」を高校生の時に読んで魅了され、ポーランド語を学んだという沼野充義によるポーランド語原典からの完全翻訳版が2015年にハヤカワ文庫SFより刊行された。

これはソラリスの〈海〉が、その上空にある惑星観測ステーションに勤める研究者の記憶をもとにコピー人間(似姿)を造る、つまり死者を実体化(擬態)する物語である。

海は地球上の生命のすべての起源であり、なるものである。「ペンギン・ハイウェイ」ではそれを〈お姉さん〉のおっぱいが象徴している。そしてペンギンは〈お姉さん〉=が生む子供たちだ。また海は命を与える存在であると同時に、命を奪う者でもある。それは3・11東日本大震災で我々の多くが実感したことだ。

映画「ペンギン・ハイウェイ」には出てこないが、原作小説には〈お姉さん〉が日曜日に教会に通っていることが言及されている。ここで〈お姉さん〉に聖母マリア像が重ねられていることが分かる。キリスト教におけるマリアは古来、海の星の聖母(Stella Maris)と呼ばれていた。希望の印、導きの星であり、船乗りにとってステラ・マリスとは航海の目印となる北極星を指すとか、宵の明星=金星のことだとする説もある。つまり〈海〉=〈お姉さん〉=聖母マリアという三位一体が成り立ち、さらにマリア→海の星→宇宙へと繋がっているのである。

〈お姉さん〉は〈海〉の創造物である。これは間違いない。では〈お姉さん〉の原型(prototype)は何か?つまり〈海〉は何に基づいて似姿を創ったのだろう?小説に次のような記述がある。

 彼女(お姉さん)の顔を観察しているうちに、なぜこの人の顔はこういうかたちにできあがったのだろう、だれが決めたのだろうという疑問がぼくの頭に浮かんだ。(中略)そして、ぼくがうれしく思うお姉さんの顔がなぜ遺伝子によって何もかも完璧に作られて今そこにあるのだろう、ということがぼくは知りたかったのである。

ここで僕が考えたのは、〈海〉はアオヤマくんの心の中にある女性の理想像、ユング心理学で言うところのアニマ(元型 archetype)を実体化したのではないか?という仮説である。ゲーテの言葉で言い換えるなら「永遠に女性的なるもの」。しかしそうするとアオヤマくんが〈お姉さん〉の生まれ故郷、海が見える坂の街の場所を知らなかったという矛盾が生じる。彼はそもそも本物の海を見たことがない。

「もし私が人間でないとして、海辺の街の記憶はなんだろう?」
 お姉さんは路地を歩きながら言った。「私だってお父さんやお母さんのことを憶えているし、自分が今まで生きてきた思い出があるよ。それもぜんぶ作りもの?」
「ぼくにはわかりません」

ということは、彼女は何らかの理由で早逝し、〈海〉が残された両親の記憶から似姿を創ったのかも知れない。

次に〈お姉さん〉の言う海辺の街はどこだろう?と想像してみる。真っ先に連想したのは森見が書いた「夜行」の舞台となった尾道市である。しかし海辺の街の坂の上には教会があるという記述があるので当てはまらない。大林映画でも分かる通り、尾道は寺と神社の町なのだ。ならば海+坂道+教会といえば長崎市や神戸市が候補に挙げられる。もし長崎ならば〈お姉さん〉は原爆投下で命を落としたのかも知れない。その時〈海〉は長崎に出現していて、〈海〉自身が〈お姉さん〉を記憶していたのだろう(両親も同時刻に亡くなった筈なので)。

物語の最後に〈お姉さん〉は消失する。言い換えるなら〈海〉に還る。この場面で僕が想い出したのは、押井守監督のアニメーション映画「攻殻機動隊」である。主人公の草薙素子はインターネットという〈海〉に溶けて〈神〉になる。何だか似ていませんか?未来のアオヤマくんは素子を探し続けるバトーになるわけだ。

そこで僕は森見登美彦が押井守について言及した記事がないか探した。つまり、自分が立てた説の裏を取ろうと考えたのである。そして……あった、あった!

森見は大森望(書評家)との、「夜は短し歩けよ乙女」を巡っての対談で次のように語っている。

大森 つげ義春の『ねじ式』とか、あるいは押井守を連想したんですが。
森見 押井守さんも好きなので、入ってるだろうと思います。ボーッとしてると、押井守と宮崎駿が自動的に出てくるんです。
大森 たしかに、『千と千尋の神隠し』っぽいところもあるし。

             (「本の旅人」2006年12月号より)

また朋友・明石氏(現在は弁護士)との対談で、次のような発言もある。

明石 なぜか、いきなり盛り上がったなあ。夕方になって日が傾いた頃に、突然森見君が「押井守を知ってるか」って言い出して(笑)。「短篇集のレーザーディスクとか一式持ってるから、今から俺の下宿に観に来るか」って。
森見 それはね、高校の時には、誰とも押井守の話とかできなかったんですよ、まったくまわりに通じなくて。そしたら明石君が押井守の名前を知ってたから、「この人なら!」と思ったんでしょうね(笑)。
明石 たまたま『攻殻機動隊』が好きだっただけなんですけどね。後日森見君の家に泊まったら、押井守のレーザーディスクをかたっぱしから見せられた(笑)。

       (「文藝」2011年5月号 【森見登美彦】特集より)

最後に。「ペンギン・ハイウェイ」に登場するジャバウォックとチェスゲームはルイス・キャロル「鏡の国のアリス」からの引用である。そして「ソラリス」もまた、に映る自己(self)についての物語なのだ。

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超難解映画「めぐりあう時間たち」の構造分析

映画「めぐりあう時間たち」(The  Hours)は2002年のアメリカ映画(パラマウント・ピクチャーズ/ミラマックス)。監督は「リトル・ダンサー」のスティーブン・ダルドリー。アカデミー賞では作品/監督/主演女優/助演女優(ジュリアン・ムーア)/助演男優(エド・ハリス)/脚色/編集/作曲/衣装デザインの9部門にノミネートされ、ニコール・キッドマンが主演女優賞を受賞した(この年作品賞を受賞したのは同じミラマックスの「シカゴ」)。

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僕は03年の日本公開時に映画館でこれを観たが、難しいなと思った。実際インターネットで感想を検索すると「難解」という表現が目立つ。分かり辛さの原因の一つとしてヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んでいるかどうかが内容を把握する上で重要な鍵になってくる。僕は本作を観た後で小説を読んだ。そしてこの度レヴィ=ストロースによる神話の構造分析の手法を学び、もう一度この難解映画に取り組んでみようと決意した。幾つかの場面がとても印象深く、心に澱のようにたまっていたのである。

"The  Hours"は異なる時代を生きる3人の女性のある一日を描く。彼女たちを結びつけているのは「ダロウェイ夫人」だ。4つの物語が同じ構造(structure)を持ち、並行して進む。以下あらすじと、①②③……は共通のコード(符号)を示す。フロイトは「性欲」という単一のコードで無意識の全てを解読しようとしたが、レヴィ=ストロースは複数のコードを等価に扱う。コードは必ずしも同一ではなく、【入水自殺(死を選ぶ)↔飛び降り自殺(死を選ぶ)↔生を選ぶ↔小鳥の(自然)死】といった変換を認める。

ヴァージニア・ウルフは1925年に「ダロウェイ夫人」を上梓し、1941年に夫レナードへ感謝と①「今までの私たち以上に幸せな二人は他にはありません」という言葉を残して、②川へ入水自殺した。③彼女は幻聴に悩まされており、統合失調症だと言われているが、うつ病や、両方に似た症状を呈する非定型精神病という説もある(自殺に至るのはうつ病の特徴である)。④ヴァージニアは同性愛者であり、恋人は詩人で作家のヴィタ・サックヴィル=ウェスト。ヴァージニアが28年に発表した小説「オーランドー」はヴィタをモデルにしている。オーランドーは男→女と性を変えながら数世紀に渡り生き続ける。ヴィタは両性愛者であり、外交官の夫との間に2人の子供をもうけた。子育てが一段落した頃(1918年)、幼馴染の女性とフランスに駆け落ちした。その時彼女は男装していたという。しかし結局恋人との関係を精算し、夫のいるロンドンに戻った。その後22年にヴァージニアと出会い、二人の関係は31年まで続いた。

A)ダロウェイ夫人:⑤「花は私が買って来るわ、とダロウェイ夫人が言った」という書き出しで始まる。クラリッサ・ダロウェイが、⑥自宅でパーティを開くことになっている朝から、パーティが終わる夜までの1日の物語。彼女は若い頃のことを回想し、④「若いときのサリー・シートンとの関係。あれは結局、恋愛だったのではないだろうか?」と考える。また彼女は青春時代、頭脳明晰でロマンティックなピーター・ウォルシュではなく、⑦堅実なリチャード・ダロウェイとの人生を選んだことが正しかったのか自問する。これに並行して第一次世界大戦から帰還した元兵士セプティマスの物語が描かれる。③彼は友人が爆死したため神経症で幻影に苦しみ、②アパートの窓から飛び降り自殺をする。クラリッサはパーティに出席した精神科医から彼の話を聞く。

ヴァージニア・ウルフによると小説の第一稿においてセプティマスは存在せず、パーティの終わりにクラリッサが死ぬ予定だったという。つまりクラリッサ+セプティマス=作者の分身であり、クラリッサの身代わりとしてセプティマスは死んだのだ。

B)1923年、英国。過去に二度自殺未遂騒ぎを起こしたヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)が療養していた郊外リッチモンド(ロンドンの中心部から電車で約30分)での1日が描かれる。姉のヴァネッサとその三人の子供たちがロンドンから訪ねて来る。②彼女は子どもたちが庭で死んだ小鳥の葬儀をあげるのを見守る。姉一家が帰る間際、④感情が昂ぶったヴァージニアは姉に激しく口付けする。 一家を送り出した彼女は突然、駅に向かう。慌てて追って来た⑦優しい夫に、「ロンドンが恋しい。この町では死んでしまう」と⑧リッチモンドの静かで隔離された生活に不満を爆発させ、「この郊外の今にも窒息しそうな麻痺を選ぶくらいなら、都会の暴力的なまでの刺激を私は選ぶ」と⑨自分の人生に対する自己決定権を涙ながらに訴える。夫はロンドン行きに同意するが、冷静さを取り戻した⑩ヴァージニアはおとなしく今住む家に帰る。

C)1951年、⑧ロサンゼルス郊外の閑静な住宅地。専業主婦のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は⑦優しい夫と愛する息子に囲まれ、現在第二子を妊娠中である。彼女は「ダロウェイ夫人」を愛読している。夫の誕生日を忘れていて、⑤夫は自分自身で花を買ってくる。⑥彼女がお祝いのケーキ作りをしていると親友のキティが訪れ、子宮の腫瘍の為に入院すると言う。④「子供を産まなければ一人前の女ではない」と泣くキティに、ローラは思わず接吻してしまう。キティが帰ると、⑨生きたいように生きられず絶望している彼女は②自殺をする為に息子を人に預け、一人ホテルへと向かう。その一室で③水が部屋に満ちてくる幻影を見る。しかし結局自殺は思いとどまり、⑩彼女は帰宅する。

D)2001年、ニューヨーク・マンハッタン。⑥編集者のクラリッサ(メリル・ストリープ)は詩人で小説家である友人リチャード(エド・ハリス)の受賞パーティのを開く計画を立て、⑤花を買いに行く。クラリッサは彼と恋仲だった若き日々の思い出を胸に、現在はエイズに侵され、③幻覚に悩まされるなど精神的に混乱しているリチャードの世話を続けている。④彼女は広く快適なNYのアパートで女性のパートナー、サリーと暮らしている。パーティの準備を終えたクラリッサがリチャードを訪ねると、リチャードは「君の為に生きて来た。でももう行かせてくれないか」①「私達ほど幸せな二人はいない」と言い、②クラリッサの目の前で窓から飛び降り自殺をする。 パーティは中止となり、リチャードの死の知らせを受けた母親ローラがトロントから駆け付ける。彼女はリチャードの小説の中で「怪物」と呼ばれ②「殺されて」いた。ローラは第二子を生むと夫と子供たちを捨て家出し、カナダで職を得て暮らしていたのだ。彼女はクラリッサに「後悔してどんな意味があるのでしょう、ああするしかなかった。誰も私を許さないでしょう。でも②私は死ぬより生きることを選んだ」と語った。

映画では具体的に語られないが、【Bパート】でヴァージニア・ウルフが「ロンドンが恋しい」と言うのは、恋人のヴィタ・サックヴィル=ウェストに逢いたいということを示唆している。

そして2001年NYの【Dパート】でリチャードが「君の為に生きて来た」と言うのは、クラリッサに自分を捨てて出ていった母ローラの面影を重ねていることを意味している(ローラは「ダロウェイ夫人」を愛読しており、リチャードはクラリッサを「ダロウェイ夫人」と呼ぶ)。【Dパート】のクラリッササリーの関係は小説「ダロウェイ夫人」を踏襲しているが、大きな差異はヴァージニア・ウルフが小説を執筆した当時のイギリスで同性愛は犯罪であり、事実が発覚すれば逮捕されたことにある。実際オスカー・ワイルド(1854-1900)は男色を咎められ収監されたし、「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」を書いたE・M・フォースター(1879-1970)が同性愛をテーマに1913年に執筆した「モーリス」が出版されるは作者の死後、1971年のことである。しかし2001年のNYでは同性愛をカミング・アウトし、堂々と一緒に暮らすことが可能になった。つまり【A/Bパート】↔【Dパート】の関係性を見ると構造(structure)は不変だが、社会のあり方が変化したのだ。しかし、もしかしたらクラリッサは現在、サリーと暮らしているのが本当に正しい選択だったのか?と自問しているのかも知れない(コードの変換)。ローラの身代わりとしてリチャードは死ぬ。同時に彼はクラリッサの身代わりであった可能性もある(リチャードの死で彼女の迷いは断ち切れた)

そして本作の主題が浮かび上がってくる。生き死にや恋愛に関して自己決定権を得ること。だがその自由を獲得した者が必ずしも幸福になれるわけではない。恐らくそこに人間の本質がある。

レヴィ=ストロースは『神話論理』冒頭「序曲」の中で次のように述べている。

音楽作品は、その内的組織ゆえに、過ぎ行く時間を停止させている。音楽は時間を、風に吹き上げられるテーブルクロスのように、捕まえ折り返す。

これはそのまま映画"The  Hours"にも当てはめられるのではないだろうか?

レヴィ=ストロースは神話の読み方を交響曲の総譜(スコア)に喩えた。より分かり易く弦楽四重奏の譜面で説明しよう。

B

"The  Hours"ではA〜Dパートがそれぞれの段に分かれていると思ってくれたら良い。楽譜を横に追っていけばそこにメロディが現れる。これが通時的変化。今度は縦に視線を動かすと、そこに重層的なハーモニーが響く。これが共時的なものの味方である。つまり神話は左から右へ読むだけではなく、同時に垂直に、上から下へも読まなければならない。そうして初めて一つのまとまりとして理解でき、神話の意味を引き出すことが出来る。それは"The  Hours"も同様なのである。

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レヴィ=ストロース「野生の思考」と神話の構造分析

最初の切っ掛けは2016年に兵庫芸文で観たベンジャミン・ブリテンのオペラ「夏の夜の夢」だった。

観劇の予習としてシェイクスピアを翻訳した松岡和子とユング派臨床心理学の第一人者・河合隼雄との対談「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)を読み、ユング心理学に興味を持った。ぶっちゃけ「これは物語や映画の読解/分析に使える!」と思ったのである。そして河合隼雄の著書を30冊以上読み漁っているうちに河合と中沢新一(宗教学・人類学者)の対談本「ブッダの夢」に出会った。そこで中沢からフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(著)「野生の思考」の紹介があった。

ユング心理学を習得した後、今度は長年の懸案事項だったニーチェ哲学に取り組んでみようと決意した。食わず嫌いで敬遠していた「ツァラトゥストラはかく語りき」は読んでみるとすこぶる面白く、平易だった。

続いてニーチェの思想を受け継いだ20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズとミシェル・フーコーを勉強してみた。

ドゥルーズの「シネマ」は大いに役立った。そしてドゥルーズやフーコーが「ポスト構造主義」と呼ばれていることを知った。では「構造主義」とは何ぞや??調査したところ、その親玉(Boss)がレヴィ=ストロース(1908-2009)であることが判った。ならば次の標的(Target)は彼しかいないだろう。狙いは定まった。

レヴィ=ストロースでまず魅了されたのが「野生の思考」で言及されるブリコラージュという概念である。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。ブリコルール(器用人)は手持ちのものを調べ直し、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選び、組み立てる。詳しくは下記事で紹介した。

レヴィ=ストロースは南北アメリカ大陸の先住民の神話を詳細に研究した。神話を通して人類の無意識を探ろうという姿勢はユング心理学に共通している。

「神話論理」四部作でレヴィ=ストロースは次のように説く。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である。

自然と文化の対立を語る神話が、様々なコードを用いて様々な二項対立(天と地、生のもとと火にかけたもの、新鮮なものと腐ったもの、裸と着衣、空っぽのものと詰まったもの、容れるものと容れられるもの=能動と受動、内のものと外のものなど)を語るのは、この調停不可能な根源的対立の調停を行う(隔たりを緩和したり、その間を循環する第三の項〘例えば天と地を結ぶ雨など水/つる植物〙を導入する)ためである。

自然から文化への移行は、連続体としての自然に差異を導入して不連続化することによってなされる。この不連続化は言葉と交換(彼の著書『親族の基本構造』で明らかにされたように女性や財の交換)による他者とのコミュニケーションという、人間社会の基本的条件をもたらす。

レヴィ=ストロースがしようとしたことは「人間が神話の中でいかに思考するかではなく、神話が人間の中で、人間に知られることなく、いかに思考するか」であった。

彼は「私の思考」という主体性を棄て、無意識という空虚な場での他者との交差を重視した(「私たちの各自が、ものごとの起こる交差点のようなものです」)。

レヴィ=ストロースによる神話の構造分析は映画に応用することが出来る。

例えば宮﨑駿「風の谷のナウシカ」の二項対立差異)を挙げてみよう。

森・王蟲(オーム)↔都市文明・人間

樹を育てる水↔全てを焼き尽くす火の七日間(巨神兵)

この2極を結びつける(調停する/媒介する)のがナウシカの存在である。

ではアカデミー作品賞・監督賞に輝いたギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の場合はどうか。

アマゾンの半魚人(自然)↔軍人ストリックランド(核戦争危機)

傷口の治癒力↔銃弾・破壊

自由奔放なイライザの女性性↔男根(ファルス)至上主義(phallocracy)

この物語の中で調停役として媒介するのは特定の形はなく間隙を満たす「水(water)」であり、それは「愛」の隠喩(metaphor)でもある(無意識の中では、愛と憎しみは一体である)。そして男根の表徴(symbol)となるのが①ストリックランドの指(半魚人に噛み千切られ、接合しても腐ってゆく)②半魚人を叩きのめす電気棒③キャデラック などである。

宮﨑駿「崖の上のポニョ」にも似た構造(structure)が認められる。

ポニョ(魚=自然)↔宗介(人間=文化)

ポニョが住む海底の家↔宗介が住む崖の上の家

ポニョの家と宗介の家には水平方向(距離)と垂直方向(高低差)の大きな隔たりがある。それを媒介・緩和するのが津波、やはり水なのだ。またナウシカの手助けをするのが、彼女が手厚く葬ったペジテ王女ラステルの兄アスベルであり、一方ポニョを手伝うのが彼女の妹たちであるという対応関係/コードの変換にも注目すべきだろう。そしてポニョは父フジモトから「ブリュンヒルデ」と呼ばれることからも判る通り、神話「ニーベルングの指環」と同じ構造(structure)を持つ。「ニーベルングの指環」が【神々の黄昏→人間の時代の到来】を描くように「崖の上のポニョ」は【人間の黄昏→新人類(ポニョと宗介の子供)の誕生】を示唆している。つまり宗介=ジークフリートという関係式が成り立つ。

「風の谷のナウシカ」では最後に腐海から木の芽が生えてくる。地球は再生される。「崖の上のポニョ」の最後は古代魚が泳ぐデボン紀に戻り(公式サイトの解説)、車椅子のお婆ちゃんたちは立ち上がり駆けまわる(若返る)。「シェイプ・オブ・ウォーター」で半魚人が画家ジャイルズの禿頭に手を当てると、そこから髪の毛が生えてくる(再生)。

レヴィ=ストロースが確立した構造主義は大変ためになるのだが、いきなり「野生の思考」を読むのはハードルが高すぎるだろう。定価が税込みで5千円強なので値段も高いしね。そこでお勧めしたい入門書を幾つかご紹介しよう。

  1. 中沢新一:100分 de 名著「野生の思考」(NHKテキスト)
  2. 小田亮:レヴィ=ストロース入門(ちくま新書)Kindle版あり
  3. 鷲田清一・山極寿一:都市と野生の思考(インターナショナル新書)Kindleあり

1.はNHK Eテレで放送された番組のテキストで、番組をYouTubeで視聴も可能。
2.は
「神話論理」四部作の要旨までバッチリ判る優れもの。
3.は「野生の思考」を日本人に応用するとどうなるかが語られる
、哲学者にして京都市立芸大学長・鷲田清一と、ゴリラ研究の世界的権威にして京都大学総長・山極寿一との対談。実に愉しき知の冒険である。

最後に、今までレヴィ=ストロースの構造分析を応用して書いた記事をご紹介しておく。

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音楽を愛するすべての人へ!〜【本屋大賞】宮下奈都「羊と鋼の森」と大林映画「ふりむけば愛」

 森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。

最初の一文から一気に心を鷲掴みにされた。そしてこれは僕のために書かれた小説なのだという強い確信を持った。

宮下奈都(みやしたなつ)著「羊と鋼の森」は2016年に本屋大賞に選ばれた。また紀伊國屋書店のスタッフが全力で推すキノベス!でも堂々第1位に輝いた。現在東宝で映画化が進行中で、公開日は2018年6月8日を予定している。主演は山崎賢人。

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本屋大賞を受賞した時からずっと読みたいと思っていたのだが、1,620円もする単行本にはおいそれと手を出せなかった。漸く図書館で予約した順番が回ってきたので、いそいそと借りに行ったという次第。本を開くやいなやページをめくる手が止まらなくなった。なお文庫本(702円)は2018年2月9日に発売予定。

調律師の物語である。「羊と鋼の森」とは言うまでなくピアノの暗喩だ。「鋼」は弦(ピアノ線)のことであり、「羊」はハンマーヘッドを包む羊毛で出来たフェルトを指す。ハンマーが弦を叩くことで音が鳴る。つまりピアノは弦楽器であり、かつ打楽器なのだ。

主人公は高校の体育館で板鳥という調律師の仕事を間近に見て、そこに「森」を感じる。僕は頻繁にクラシック音楽の演奏会に足を運んでいるが、正直今までピアノの響きに「森」の気配を察知したことはない。しかしコンサートでしばしば「森」の中で彷徨している気分に浸る体験はあって、それは特にバロック・ヴァイオリンやバロック・チェロの音色に対してである。これら古楽器に張られているガット弦には羊の腸が使われている。また胴体(函)は木製だ。過去に僕が「森」について言及した記事を下に挙げておく。

音楽とは「森」である。臨床心理学者・河合隼雄はグリム童話などに登場する森は無意識のメタファーだと論じている。音楽もまた、無意識を表現する芸術だ。

調律師が主人公の小説ってすごく珍しい。他に思い浮かばない。よくよく考えて、一本の映画を想い出した。ジェームズ三木(脚本)、大林宣彦(監督)の「ふりむけば愛」(1978、東宝)だ。主演は山口百恵と三浦友和のゴールデンコンビ。

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「大林作品はピアノ映画だ!」と看破したのは映画評論家・石上三登志だが、本作で百恵はピアノ調律師を演じた。実は百恵・友和の出会いそのものが大林が演出したグリコCMだった。映画の題名は大林が「このふたりは、僕と5年近くコマーシャルをやっているうちに、幼なじみだったのがいつの間にか気がついたら恋人になっていたんだよな、フッと振り向いたらそこに恋人がいたんだよ」と言ったら、三木が「ああ、ふりむけば愛ですね、それで行きましょう」という会話から生まれた。サンフランシスコ・ロケの際に大林は早々と必要なカットを撮り終え、ふたりが自由に過ごせる日を丸一日設けてあげた。百恵が大阪厚生年金会館でのリサイタル中に「私が好きな人は、三浦友和さんです」とファンの前で恋人宣言するのは翌1979年である。

そしてな、な、何と、東宝映画「羊と鋼の森」で調律師・板鳥を演じるのは三浦友和なのである!!こんな偶然ってあり得る!?いやいや、これは必然に違いない。

予告編は公式サイトの"trailer"からどうぞ→こちら!大変美しい映像に仕上がっている。

物語の舞台となるのは北海道で、映画は旭川市でロケされた。小説執筆当時、宮下は家族と大雪山国立公園内にある富村牛(トムラウシ)集落@十勝管内新得町で1年間暮らしていたという(山村留学)。だから主人公の名前が外村(とむら)なのだ。

外村は仕事先の家庭でふたごの高校生姉妹と出会う。彼女たちの名前は「和音(かずね)」と「由仁(ゆに)」。和音(わおん)は言うまでもなくハーモニーであり、由仁はユニゾンだ。ハーモニーもユニゾンも一人で奏でることが出来ないところがミソ。ふたりでひとり。このふたごを映画では上白石萌音・萌歌の姉妹が演じる。萌音も萌歌も音楽に纏わる名前。何だか出来過ぎている。

小説の中で原民喜(はらたみき)が、こんな文体に憧れていると書いた一節が引用される。

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体

板鳥はそんな音をつくり出すことを目指している。その想いは作者本人にも繋がっているだろう。

僕はこのブログで沢山のコンサートレビューを書いてきたが、つくづく音楽を文章で表現することの難しさを感じている。困難というよりも、殆ど不可能な作業である。そもそも作曲家というのは言葉に出来ない自分の想いを音符に託しているわけだから、土台無理なのだ。時には絶望的な気持ちにすらなる。宮下は本書でその不可能性に果敢に挑み、格闘し(藻掻い)ている。それが堪らなく愛おしい。

外村はドイツから来日した巨匠とも魔術師とも称されるピアニストを聴くために町のコンサートホールに行く。そのピアニストは板鳥に全幅の信頼を寄せている。板鳥が調律するのを眺めながら、彼は次のように述懐する。

 自分が迷子で、神様を求めてさまよっていたのだとわかる。迷子だったことにも気づかなかった。神様というのか、目印というのか。この音を求めていたのだ、と思う。この音があれば生きていける、とさえ思う。

僕もコンサートを聴いている最中に「音楽の神様がホールに舞い降りた」と直感する瞬間がある。しかしそれは数年に一度であり、滅多にあることではない。

コンサートの帰り道、外村は勤め先の楽器店の社長と次のような会話を交わす。

「こんな小さな町にいるよりも、もっと大きな場所で、たくさんの人の耳に触れるピアノを調律したほうが板鳥さんの腕を活かせるんじゃないでしょうか」
「ほんとにそう思うのかい。(中略)ここに素晴らしい音楽がある。辺鄙な町の人間にも、それを楽しむことはできるんだよ。むしろ、都会の人間が飛行機に乗って板鳥くんのピアノを聴きに来ればいい、くらいに私は思っているんだがね」

ここには地方に住む人間の挟持、気概がある。僕は確信した。宮下は東京に住んでいないと。調べてみると案の定、彼女は福井県福井市在住だった。

日本は今やクラシック音楽大国である。世界中の著名な音楽家が我が国に殺到し、飽食状態である。しかしそれは東京一極集中型であり、美味しい想いをしているのは関東の人々だけというのが実情だ。例えば昨年のベルリン・フィル来日公演もそうだったけれど、関東にだけ来てそのまま帰国する音楽家たちのなんと多いことか!大阪にすら来てくれない。東京都には9つのプロ・オーケストラがあるが、大阪府は4つ、京都府・兵庫県が1つ、滋賀県・奈良県・和歌山県は0である。日本の文化的「豊かさ」って一体、何なんだろう?とつくづく考えさせられる今日このごろである。

そんなこんなで共感することの多い小説だった。音楽を愛する全ての人々にお勧めしたい。特にピアノを習っていたり、吹奏楽部に所属する中学・高校生は是非読んでみて!

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