読書の時間

SNSがもたらした〈福音〉と〈罠〉。〜本谷有希子(著)「静かに、ねぇ、静かに」

本谷有希子という名前はつい先日、2018年9月12日(水)まで全く知らなかった。認知するきっかけになったのはその前日にTBSラジオで放送された、ラップグループ・RHYMSTER 宇多丸がパーソナリティを務める「アフター6ジャンクション」(通称:アトロク)である。彼女がゲストとして登場し、最新刊「静かに、ねぇ、静かに」の話をしたのである(アシスタントは宇垣美里アナ)。これを通勤時にラジオクラウド(iPhone)で聴いて、俄然興味が湧いた。

早速Amazon.co.jpKindleで探してみた。すると、なんと!3つの中編からなる「静かに、ねぇ、静かに」のうち、最初の物語『本当の旅』が【刊行記念 無料試し読み】で、まるごとダウンロード出来ることが判明した(最後まで読める)。太っ腹!!

Silent

本谷は1979年生まれで現在39歳。石川県に生まれ高校卒業後上京、ENBUゼミナール演劇科に入学し、松尾スズキに師事した。その後女優となり2000年に「劇団、本谷有希子」を旗揚げ、劇作家・演出家としての活動を開始した。「遭難、」で鶴屋南北戯曲賞を史上最年少で受賞。「幸せ最高ありがとうマジで!」で岸田國士戯曲賞を受賞した。小説の方は「ぬるい毒」で野間文芸新人賞、「嵐のピクニック」で大江健三郎賞、「自分を好きになる方法」で三島由紀夫賞、「異類婚姻譚」で芥川賞を受賞している。純文学新人賞三冠作家は彼女が史上3人目となった。

『本当の旅』の語り部は〈ハネケン〉。彼は友人の〈づっちん〉、〈ヤマコ〉と三人でマレーシア旅行に出発する。テーマはズバリSNS。彼らはグループラインで頻繁にやり取りし、”インスタ映え”に血道を上げる。

むちゃくちゃ面白かった!本谷は底意地が悪い作家である。全編悪意に満ちている。そういう意味で「OUT」「柔らかな頬(直木賞受賞)」の桐生夏生を彷彿とさせた。読んでいてヒリヒリするし、どよんとした読後感が残るので読者を選ぶ作家と言えるかも知れない。好き嫌いがはっきりと分かれるだろう。一部の人にとっては、歪んだ鏡で自分を見るのを強いられているようで、不快な気持ちになる筈だ。

この小説に登場する仲良し三人組は僕に言わせればグロテスクなモンスターである。それも人畜無害な。しかし本人には全くそんな自覚がなく、自分たちはリア充だと錯覚しているのだからイタい。貧しい彼らは、しっかり働いて裕福な暮らしをしている周囲の人々を見下している。価値の転倒。ニーチェが言うところのルサンチマン(強者に対して復讐心を燃やす、弱者の鬱屈した心)だ。つまりローマ帝国に支配されて苦しんでいたユダヤ人(イエス)が、「いや、貧しい自分たちこそ正義だ!」と開き直ったのと同じ構造がここにはある。

〈ハネケン〉たちは生きている実感がない。むしろSNSという仮想空間にこそリアル(本当)を感じる。正にヴァーチャル・リアリティである。彼らに欠如しているのは皮膚感覚だ。指で触って感じること、痛み、匂い、舌で感じる味覚。そして辛い、厳しい現実は写真をトリミング(画像の不必要な部分を切り取ること)したり、動画を編集したりすることで排除出来る、なかったことに出来ると信じている。本谷はそんな彼らを容赦なく狂気の淵へと追い込む。

僕にとってこの小説は「あるある」「わかる!」の連続だった。例えばこんな情景を日常生活でしばしば見かける。喫茶店やファーストフードで友達同士やカップルが向かい合って座っているのだが、各々が俯向いてスマホを弄(いじ)っている。「一緒にいる意味なくね?」というゾワゾワした違和感。

またインスタグラムで「今日はお昼にこれ食べました」といちいち写真付きで報告する人々。「そんなことに興味がある人が一体全体、地球上の何処にいるんだ??」肥大化する自意識承認欲求私が、私が、私が……。なんの価値もない、ちっぽけな自分のことばかり延々と喋り続けていることの滑稽さ。

人間は皆、孤独である。そして寂しい思いを抱えて生きている。インターネットがなかった頃の女子大生は大抵一人で下宿にいることはなく、友達の家に泊まりに行ったり、深夜に長電話するというのが常だった。SNS最大の効用は、誰かと常に「繋がっている」と錯覚出来ることだろう。しかしSNSの登場で、果たして人は孤独から脱出出来たのだろうか?

「静かに、ねぇ、静かに」が炙り出すのは、インターネットやSNSが仕掛けた罠、落とし穴だ。しかし一方で、ネット世界が存在しなければ僕がこの小説に出会うことがなかったのも紛れもない事実である。

SNSが我々にもたらすのは幸福なのだろうか?それとも不幸なのだろうか?結局は切れ味鋭い包丁と同様、使い方次第ということなのだろう。

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【解説】「ペンギン・ハイウェイ」〜〈海〉と〈お姉さん〉に関する考察

森見登美彦の小説は以前から大好きで、今までに「太陽の塔」「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」「【新釈】走れメロス他四篇」「有頂天家族」「宵山万華鏡」「夜行」を読んでいる。しかし日本SF大賞を受賞した「ペンギン・ハイウェイ」は未読であり、映画版が余りにも素晴らしすぎたので、これを機会に一気呵成に読み通した。

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上記事で〈海〉とは〈ワームホール〉みたいなものだろうと僕の考えを書いたのだが、なんのことはない、小説の中で何度もワームホールについて言及されていた。

本作はポーランドの作家スタニスワフ・レムが執筆したSF小説「ソラリス(ソラリスの陽のもとに)」に触発されている。歯科医院で小学校4年生の主人公アオヤマくんがいじめっ子のスズキくんに対し、歯の中にばい菌がいっぱいになって、歯をぜんぶ抜かないと治らない〈スタニスワフ症候群〉という嘘の病気について語るエピソードがある。

「ソラリス」は2度映画化されている。アンドレイ・タルコフスキー監督の1972年「惑星ソラリス」@ソ連と、ジェームズ・キャメロン製作、スティーブン・ソダーバーグ監督の2002年「ソラリス」@アメリカ合衆国である。1965年に出版された原作小説の日本における最初の翻訳「ソラリスの陽のもとに」はロシア語からの重訳であり、さらにソ連に於ける検閲を考慮し四百字詰め原稿用紙四十枚分に及ぶ削除箇所があった。その後、「ソラリスの陽のもとに」を高校生の時に読んで魅了され、ポーランド語を学んだという沼野充義によるポーランド語原典からの完全翻訳版が2015年にハヤカワ文庫SFより刊行された。

これはソラリスの〈海〉が、その上空にある惑星観測ステーションに勤める研究者の記憶をもとにコピー人間(似姿)を造る、つまり死者を実体化(擬態)する物語である。

海は地球上の生命のすべての起源であり、なるものである。「ペンギン・ハイウェイ」ではそれを〈お姉さん〉のおっぱいが象徴している。そしてペンギンは〈お姉さん〉=が生む子供たちだ。また海は命を与える存在であると同時に、命を奪う者でもある。それは3・11東日本大震災で我々の多くが実感したことだ。

映画「ペンギン・ハイウェイ」には出てこないが、原作小説には〈お姉さん〉が日曜日に教会に通っていることが言及されている。ここで〈お姉さん〉に聖母マリア像が重ねられていることが分かる。キリスト教におけるマリアは古来、海の星の聖母(Stella Maris)と呼ばれていた。希望の印、導きの星であり、船乗りにとってステラ・マリスとは航海の目印となる北極星を指すとか、宵の明星=金星のことだとする説もある。つまり〈海〉=〈お姉さん〉=聖母マリアという三位一体が成り立ち、さらにマリア→海の星→宇宙へと繋がっているのである。

〈お姉さん〉は〈海〉の創造物である。これは間違いない。では〈お姉さん〉の原型(prototype)は何か?つまり〈海〉は何に基づいて似姿を創ったのだろう?小説に次のような記述がある。

 彼女(お姉さん)の顔を観察しているうちに、なぜこの人の顔はこういうかたちにできあがったのだろう、だれが決めたのだろうという疑問がぼくの頭に浮かんだ。(中略)そして、ぼくがうれしく思うお姉さんの顔がなぜ遺伝子によって何もかも完璧に作られて今そこにあるのだろう、ということがぼくは知りたかったのである。

ここで僕が考えたのは、〈海〉はアオヤマくんの心の中にある女性の理想像、ユング心理学で言うところのアニマ(元型 archetype)を実体化したのではないか?という仮説である。ゲーテの言葉で言い換えるなら「永遠に女性的なるもの」。しかしそうするとアオヤマくんが〈お姉さん〉の生まれ故郷、海が見える坂の街の場所を知らなかったという矛盾が生じる。彼はそもそも本物の海を見たことがない。

「もし私が人間でないとして、海辺の街の記憶はなんだろう?」
 お姉さんは路地を歩きながら言った。「私だってお父さんやお母さんのことを憶えているし、自分が今まで生きてきた思い出があるよ。それもぜんぶ作りもの?」
「ぼくにはわかりません」

ということは、彼女は何らかの理由で早逝し、〈海〉が残された両親の記憶から似姿を創ったのかも知れない。

次に〈お姉さん〉の言う海辺の街はどこだろう?と想像してみる。真っ先に連想したのは森見が書いた「夜行」の舞台となった尾道市である。しかし海辺の街の坂の上には教会があるという記述があるので当てはまらない。大林映画でも分かる通り、尾道は寺と神社の町なのだ。ならば海+坂道+教会といえば長崎市や神戸市が候補に挙げられる。もし長崎ならば〈お姉さん〉は原爆投下で命を落としたのかも知れない。その時〈海〉は長崎に出現していて、〈海〉自身が〈お姉さん〉を記憶していたのだろう(両親も同時刻に亡くなった筈なので)。

物語の最後に〈お姉さん〉は消失する。言い換えるなら〈海〉に還る。この場面で僕が想い出したのは、押井守監督のアニメーション映画「攻殻機動隊」である。主人公の草薙素子はインターネットという〈海〉に溶けて〈神〉になる。何だか似ていませんか?未来のアオヤマくんは素子を探し続けるバトーになるわけだ。

そこで僕は森見登美彦が押井守について言及した記事がないか探した。つまり、自分が立てた説の裏を取ろうと考えたのである。そして……あった、あった!

森見は大森望(書評家)との、「夜は短し歩けよ乙女」を巡っての対談で次のように語っている。

大森 つげ義春の『ねじ式』とか、あるいは押井守を連想したんですが。
森見 押井守さんも好きなので、入ってるだろうと思います。ボーッとしてると、押井守と宮崎駿が自動的に出てくるんです。
大森 たしかに、『千と千尋の神隠し』っぽいところもあるし。

             (「本の旅人」2006年12月号より)

また朋友・明石氏(現在は弁護士)との対談で、次のような発言もある。

明石 なぜか、いきなり盛り上がったなあ。夕方になって日が傾いた頃に、突然森見君が「押井守を知ってるか」って言い出して(笑)。「短篇集のレーザーディスクとか一式持ってるから、今から俺の下宿に観に来るか」って。
森見 それはね、高校の時には、誰とも押井守の話とかできなかったんですよ、まったくまわりに通じなくて。そしたら明石君が押井守の名前を知ってたから、「この人なら!」と思ったんでしょうね(笑)。
明石 たまたま『攻殻機動隊』が好きだっただけなんですけどね。後日森見君の家に泊まったら、押井守のレーザーディスクをかたっぱしから見せられた(笑)。

       (「文藝」2011年5月号 【森見登美彦】特集より)

最後に。「ペンギン・ハイウェイ」に登場するジャバウォックとチェスゲームはルイス・キャロル「鏡の国のアリス」からの引用である。そして「ソラリス」もまた、に映る自己(self)についての物語なのだ。

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超難解映画「めぐりあう時間たち」の構造分析

映画「めぐりあう時間たち」(The  Hours)は2002年のアメリカ映画(パラマウント・ピクチャーズ/ミラマックス)。監督は「リトル・ダンサー」のスティーブン・ダルドリー。アカデミー賞では作品/監督/主演女優/助演女優(ジュリアン・ムーア)/助演男優(エド・ハリス)/脚色/編集/作曲/衣装デザインの9部門にノミネートされ、ニコール・キッドマンが主演女優賞を受賞した(この年作品賞を受賞したのは同じミラマックスの「シカゴ」)。

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僕は03年の日本公開時に映画館でこれを観たが、難しいなと思った。実際インターネットで感想を検索すると「難解」という表現が目立つ。分かり辛さの原因の一つとしてヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んでいるかどうかが内容を把握する上で重要な鍵になってくる。僕は本作を観た後で小説を読んだ。そしてこの度レヴィ=ストロースによる神話の構造分析の手法を学び、もう一度この難解映画に取り組んでみようと決意した。幾つかの場面がとても印象深く、心に澱のようにたまっていたのである。

"The  Hours"は異なる時代を生きる3人の女性のある一日を描く。彼女たちを結びつけているのは「ダロウェイ夫人」だ。4つの物語が同じ構造(structure)を持ち、並行して進む。以下あらすじと、①②③……は共通のコード(符号)を示す。フロイトは「性欲」という単一のコードで無意識の全てを解読しようとしたが、レヴィ=ストロースは複数のコードを等価に扱う。コードは必ずしも同一ではなく、【入水自殺(死を選ぶ)↔飛び降り自殺(死を選ぶ)↔生を選ぶ↔小鳥の(自然)死】といった変換を認める。

ヴァージニア・ウルフは1925年に「ダロウェイ夫人」を上梓し、1941年に夫レナードへ感謝と①「今までの私たち以上に幸せな二人は他にはありません」という言葉を残して、②川へ入水自殺した。③彼女は幻聴に悩まされており、統合失調症だと言われているが、うつ病や、両方に似た症状を呈する非定型精神病という説もある(自殺に至るのはうつ病の特徴である)。④ヴァージニアは同性愛者であり、恋人は詩人で作家のヴィタ・サックヴィル=ウェスト。ヴァージニアが28年に発表した小説「オーランドー」はヴィタをモデルにしている。オーランドーは男→女と性を変えながら数世紀に渡り生き続ける。ヴィタは両性愛者であり、外交官の夫との間に2人の子供をもうけた。子育てが一段落した頃(1918年)、幼馴染の女性とフランスに駆け落ちした。その時彼女は男装していたという。しかし結局恋人との関係を精算し、夫のいるロンドンに戻った。その後22年にヴァージニアと出会い、二人の関係は31年まで続いた。

A)ダロウェイ夫人:⑤「花は私が買って来るわ、とダロウェイ夫人が言った」という書き出しで始まる。クラリッサ・ダロウェイが、⑥自宅でパーティを開くことになっている朝から、パーティが終わる夜までの1日の物語。彼女は若い頃のことを回想し、④「若いときのサリー・シートンとの関係。あれは結局、恋愛だったのではないだろうか?」と考える。また彼女は青春時代、頭脳明晰でロマンティックなピーター・ウォルシュではなく、⑦堅実なリチャード・ダロウェイとの人生を選んだことが正しかったのか自問する。これに並行して第一次世界大戦から帰還した元兵士セプティマスの物語が描かれる。③彼は友人が爆死したため神経症で幻影に苦しみ、②アパートの窓から飛び降り自殺をする。クラリッサはパーティに出席した精神科医から彼の話を聞く。

ヴァージニア・ウルフによると小説の第一稿においてセプティマスは存在せず、パーティの終わりにクラリッサが死ぬ予定だったという。つまりクラリッサ+セプティマス=作者の分身であり、クラリッサの身代わりとしてセプティマスは死んだのだ。

B)1923年、英国。過去に二度自殺未遂騒ぎを起こしたヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)が療養していた郊外リッチモンド(ロンドンの中心部から電車で約30分)での1日が描かれる。姉のヴァネッサとその三人の子供たちがロンドンから訪ねて来る。②彼女は子どもたちが庭で死んだ小鳥の葬儀をあげるのを見守る。姉一家が帰る間際、④感情が昂ぶったヴァージニアは姉に激しく口付けする。 一家を送り出した彼女は突然、駅に向かう。慌てて追って来た⑦優しい夫に、「ロンドンが恋しい。この町では死んでしまう」と⑧リッチモンドの静かで隔離された生活に不満を爆発させ、「この郊外の今にも窒息しそうな麻痺を選ぶくらいなら、都会の暴力的なまでの刺激を私は選ぶ」と⑨自分の人生に対する自己決定権を涙ながらに訴える。夫はロンドン行きに同意するが、冷静さを取り戻した⑩ヴァージニアはおとなしく今住む家に帰る。

C)1951年、⑧ロサンゼルス郊外の閑静な住宅地。専業主婦のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は⑦優しい夫と愛する息子に囲まれ、現在第二子を妊娠中である。彼女は「ダロウェイ夫人」を愛読している。夫の誕生日を忘れていて、⑤夫は自分自身で花を買ってくる。⑥彼女がお祝いのケーキ作りをしていると親友のキティが訪れ、子宮の腫瘍の為に入院すると言う。④「子供を産まなければ一人前の女ではない」と泣くキティに、ローラは思わず接吻してしまう。キティが帰ると、⑨生きたいように生きられず絶望している彼女は②自殺をする為に息子を人に預け、一人ホテルへと向かう。その一室で③水が部屋に満ちてくる幻影を見る。しかし結局自殺は思いとどまり、⑩彼女は帰宅する。

D)2001年、ニューヨーク・マンハッタン。⑥編集者のクラリッサ(メリル・ストリープ)は詩人で小説家である友人リチャード(エド・ハリス)の受賞パーティのを開く計画を立て、⑤花を買いに行く。クラリッサは彼と恋仲だった若き日々の思い出を胸に、現在はエイズに侵され、③幻覚に悩まされるなど精神的に混乱しているリチャードの世話を続けている。④彼女は広く快適なNYのアパートで女性のパートナー、サリーと暮らしている。パーティの準備を終えたクラリッサがリチャードを訪ねると、リチャードは「君の為に生きて来た。でももう行かせてくれないか」①「私達ほど幸せな二人はいない」と言い、②クラリッサの目の前で窓から飛び降り自殺をする。 パーティは中止となり、リチャードの死の知らせを受けた母親ローラがトロントから駆け付ける。彼女はリチャードの小説の中で「怪物」と呼ばれ②「殺されて」いた。ローラは第二子を生むと夫と子供たちを捨て家出し、カナダで職を得て暮らしていたのだ。彼女はクラリッサに「後悔してどんな意味があるのでしょう、ああするしかなかった。誰も私を許さないでしょう。でも②私は死ぬより生きることを選んだ」と語った。

映画では具体的に語られないが、【Bパート】でヴァージニア・ウルフが「ロンドンが恋しい」と言うのは、恋人のヴィタ・サックヴィル=ウェストに逢いたいということを示唆している。

そして2001年NYの【Dパート】でリチャードが「君の為に生きて来た」と言うのは、クラリッサに自分を捨てて出ていった母ローラの面影を重ねていることを意味している(ローラは「ダロウェイ夫人」を愛読しており、リチャードはクラリッサを「ダロウェイ夫人」と呼ぶ)。【Dパート】のクラリッササリーの関係は小説「ダロウェイ夫人」を踏襲しているが、大きな差異はヴァージニア・ウルフが小説を執筆した当時のイギリスで同性愛は犯罪であり、事実が発覚すれば逮捕されたことにある。実際オスカー・ワイルド(1854-1900)は男色を咎められ収監されたし、「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」を書いたE・M・フォースター(1879-1970)が同性愛をテーマに1913年に執筆した「モーリス」が出版されるは作者の死後、1971年のことである。しかし2001年のNYでは同性愛をカミング・アウトし、堂々と一緒に暮らすことが可能になった。つまり【A/Bパート】↔【Dパート】の関係性を見ると構造(structure)は不変だが、社会のあり方が変化したのだ。しかし、もしかしたらクラリッサは現在、サリーと暮らしているのが本当に正しい選択だったのか?と自問しているのかも知れない(コードの変換)。ローラの身代わりとしてリチャードは死ぬ。同時に彼はクラリッサの身代わりであった可能性もある(リチャードの死で彼女の迷いは断ち切れた)

そして本作の主題が浮かび上がってくる。生き死にや恋愛に関して自己決定権を得ること。だがその自由を獲得した者が必ずしも幸福になれるわけではない。恐らくそこに人間の本質がある。

レヴィ=ストロースは『神話論理』冒頭「序曲」の中で次のように述べている。

音楽作品は、その内的組織ゆえに、過ぎ行く時間を停止させている。音楽は時間を、風に吹き上げられるテーブルクロスのように、捕まえ折り返す。

これはそのまま映画"The  Hours"にも当てはめられるのではないだろうか?

レヴィ=ストロースは神話の読み方を交響曲の総譜(スコア)に喩えた。より分かり易く弦楽四重奏の譜面で説明しよう。

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"The  Hours"ではA〜Dパートがそれぞれの段に分かれていると思ってくれたら良い。楽譜を横に追っていけばそこにメロディが現れる。これが通時的変化。今度は縦に視線を動かすと、そこに重層的なハーモニーが響く。これが共時的なものの味方である。つまり神話は左から右へ読むだけではなく、同時に垂直に、上から下へも読まなければならない。そうして初めて一つのまとまりとして理解でき、神話の意味を引き出すことが出来る。それは"The  Hours"も同様なのである。

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レヴィ=ストロース「野生の思考」と神話の構造分析

最初の切っ掛けは2016年に兵庫芸文で観たベンジャミン・ブリテンのオペラ「夏の夜の夢」だった。

観劇の予習としてシェイクスピアを翻訳した松岡和子とユング派臨床心理学の第一人者・河合隼雄との対談「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)を読み、ユング心理学に興味を持った。ぶっちゃけ「これは物語や映画の読解/分析に使える!」と思ったのである。そして河合隼雄の著書を30冊以上読み漁っているうちに河合と中沢新一(宗教学・人類学者)の対談本「ブッダの夢」に出会った。そこで中沢からフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(著)「野生の思考」の紹介があった。

ユング心理学を習得した後、今度は長年の懸案事項だったニーチェ哲学に取り組んでみようと決意した。食わず嫌いで敬遠していた「ツァラトゥストラはかく語りき」は読んでみるとすこぶる面白く、平易だった。

続いてニーチェの思想を受け継いだ20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズとミシェル・フーコーを勉強してみた。

ドゥルーズの「シネマ」は大いに役立った。そしてドゥルーズやフーコーが「ポスト構造主義」と呼ばれていることを知った。では「構造主義」とは何ぞや??調査したところ、その親玉(Boss)がレヴィ=ストロース(1908-2009)であることが判った。ならば次の標的(Target)は彼しかいないだろう。狙いは定まった。

レヴィ=ストロースでまず魅了されたのが「野生の思考」で言及されるブリコラージュという概念である。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。ブリコルール(器用人)は手持ちのものを調べ直し、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選び、組み立てる。詳しくは下記事で紹介した。

レヴィ=ストロースは南北アメリカ大陸の先住民の神話を詳細に研究した。神話を通して人類の無意識を探ろうという姿勢はユング心理学に共通している。

「神話論理」四部作でレヴィ=ストロースは次のように説く。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である。

自然と文化の対立を語る神話が、様々なコードを用いて様々な二項対立(天と地、生のもとと火にかけたもの、新鮮なものと腐ったもの、裸と着衣、空っぽのものと詰まったもの、容れるものと容れられるもの=能動と受動、内のものと外のものなど)を語るのは、この調停不可能な根源的対立の調停を行う(隔たりを緩和したり、その間を循環する第三の項〘例えば天と地を結ぶ雨など水/つる植物〙を導入する)ためである。

自然から文化への移行は、連続体としての自然に差異を導入して不連続化することによってなされる。この不連続化は言葉と交換(彼の著書『親族の基本構造』で明らかにされたように女性や財の交換)による他者とのコミュニケーションという、人間社会の基本的条件をもたらす。

レヴィ=ストロースがしようとしたことは「人間が神話の中でいかに思考するかではなく、神話が人間の中で、人間に知られることなく、いかに思考するか」であった。

彼は「私の思考」という主体性を棄て、無意識という空虚な場での他者との交差を重視した(「私たちの各自が、ものごとの起こる交差点のようなものです」)。

レヴィ=ストロースによる神話の構造分析は映画に応用することが出来る。

例えば宮﨑駿「風の谷のナウシカ」の二項対立差異)を挙げてみよう。

森・王蟲(オーム)↔都市文明・人間

樹を育てる水↔全てを焼き尽くす火の七日間(巨神兵)

この2極を結びつける(調停する/媒介する)のがナウシカの存在である。

ではアカデミー作品賞・監督賞に輝いたギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の場合はどうか。

アマゾンの半魚人(自然)↔軍人ストリックランド(核戦争危機)

傷口の治癒力↔銃弾・破壊

自由奔放なイライザの女性性↔男根(ファルス)至上主義(phallocracy)

この物語の中で調停役として媒介するのは特定の形はなく間隙を満たす「水(water)」であり、それは「愛」の隠喩(metaphor)でもある(無意識の中では、愛と憎しみは一体である)。そして男根の表徴(symbol)となるのが①ストリックランドの指(半魚人に噛み千切られ、接合しても腐ってゆく)②半魚人を叩きのめす電気棒③キャデラック などである。

宮﨑駿「崖の上のポニョ」にも似た構造(structure)が認められる。

ポニョ(魚=自然)↔宗介(人間=文化)

ポニョが住む海底の家↔宗介が住む崖の上の家

ポニョの家と宗介の家には水平方向(距離)と垂直方向(高低差)の大きな隔たりがある。それを媒介・緩和するのが津波、やはり水なのだ。またナウシカの手助けをするのが、彼女が手厚く葬ったペジテ王女ラステルの兄アスベルであり、一方ポニョを手伝うのが彼女の妹たちであるという対応関係/コードの変換にも注目すべきだろう。そしてポニョは父フジモトから「ブリュンヒルデ」と呼ばれることからも判る通り、神話「ニーベルングの指環」と同じ構造(structure)を持つ。「ニーベルングの指環」が【神々の黄昏→人間の時代の到来】を描くように「崖の上のポニョ」は【人間の黄昏→新人類(ポニョと宗介の子供)の誕生】を示唆している。つまり宗介=ジークフリートという関係式が成り立つ。

「風の谷のナウシカ」では最後に腐海から木の芽が生えてくる。地球は再生される。「崖の上のポニョ」の最後は古代魚が泳ぐデボン紀に戻り(公式サイトの解説)、車椅子のお婆ちゃんたちは立ち上がり駆けまわる(若返る)。「シェイプ・オブ・ウォーター」で半魚人が画家ジャイルズの禿頭に手を当てると、そこから髪の毛が生えてくる(再生)。

レヴィ=ストロースが確立した構造主義は大変ためになるのだが、いきなり「野生の思考」を読むのはハードルが高すぎるだろう。定価が税込みで5千円強なので値段も高いしね。そこでお勧めしたい入門書を幾つかご紹介しよう。

  1. 中沢新一:100分 de 名著「野生の思考」(NHKテキスト)
  2. 小田亮:レヴィ=ストロース入門(ちくま新書)Kindle版あり
  3. 鷲田清一・山極寿一:都市と野生の思考(インターナショナル新書)Kindleあり

1.はNHK Eテレで放送された番組のテキストで、番組をYouTubeで視聴も可能。
2.は
「神話論理」四部作の要旨までバッチリ判る優れもの。
3.は「野生の思考」を日本人に応用するとどうなるかが語られる
、哲学者にして京都市立芸大学長・鷲田清一と、ゴリラ研究の世界的権威にして京都大学総長・山極寿一との対談。実に愉しき知の冒険である。

最後に、今までレヴィ=ストロースの構造分析を応用して書いた記事をご紹介しておく。

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音楽を愛するすべての人へ!〜【本屋大賞】宮下奈都「羊と鋼の森」と大林映画「ふりむけば愛」

 森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。

最初の一文から一気に心を鷲掴みにされた。そしてこれは僕のために書かれた小説なのだという強い確信を持った。

宮下奈都(みやしたなつ)著「羊と鋼の森」は2016年に本屋大賞に選ばれた。また紀伊國屋書店のスタッフが全力で推すキノベス!でも堂々第1位に輝いた。現在東宝で映画化が進行中で、公開日は2018年6月8日を予定している。主演は山崎賢人。

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本屋大賞を受賞した時からずっと読みたいと思っていたのだが、1,620円もする単行本にはおいそれと手を出せなかった。漸く図書館で予約した順番が回ってきたので、いそいそと借りに行ったという次第。本を開くやいなやページをめくる手が止まらなくなった。なお文庫本(702円)は2018年2月9日に発売予定。

調律師の物語である。「羊と鋼の森」とは言うまでなくピアノの暗喩だ。「鋼」は弦(ピアノ線)のことであり、「羊」はハンマーヘッドを包む羊毛で出来たフェルトを指す。ハンマーが弦を叩くことで音が鳴る。つまりピアノは弦楽器であり、かつ打楽器なのだ。

主人公は高校の体育館で板鳥という調律師の仕事を間近に見て、そこに「森」を感じる。僕は頻繁にクラシック音楽の演奏会に足を運んでいるが、正直今までピアノの響きに「森」の気配を察知したことはない。しかしコンサートでしばしば「森」の中で彷徨している気分に浸る体験はあって、それは特にバロック・ヴァイオリンやバロック・チェロの音色に対してである。これら古楽器に張られているガット弦には羊の腸が使われている。また胴体(函)は木製だ。過去に僕が「森」について言及した記事を下に挙げておく。

音楽とは「森」である。臨床心理学者・河合隼雄はグリム童話などに登場する森は無意識のメタファーだと論じている。音楽もまた、無意識を表現する芸術だ。

調律師が主人公の小説ってすごく珍しい。他に思い浮かばない。よくよく考えて、一本の映画を想い出した。ジェームズ三木(脚本)、大林宣彦(監督)の「ふりむけば愛」(1978、東宝)だ。主演は山口百恵と三浦友和のゴールデンコンビ。

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「大林作品はピアノ映画だ!」と看破したのは映画評論家・石上三登志だが、本作で百恵はピアノ調律師を演じた。実は百恵・友和の出会いそのものが大林が演出したグリコCMだった。映画の題名は大林が「このふたりは、僕と5年近くコマーシャルをやっているうちに、幼なじみだったのがいつの間にか気がついたら恋人になっていたんだよな、フッと振り向いたらそこに恋人がいたんだよ」と言ったら、三木が「ああ、ふりむけば愛ですね、それで行きましょう」という会話から生まれた。サンフランシスコ・ロケの際に大林は早々と必要なカットを撮り終え、ふたりが自由に過ごせる日を丸一日設けてあげた。百恵が大阪厚生年金会館でのリサイタル中に「私が好きな人は、三浦友和さんです」とファンの前で恋人宣言するのは翌1979年である。

そしてな、な、何と、東宝映画「羊と鋼の森」で調律師・板鳥を演じるのは三浦友和なのである!!こんな偶然ってあり得る!?いやいや、これは必然に違いない。

予告編は公式サイトの"trailer"からどうぞ→こちら!大変美しい映像に仕上がっている。

物語の舞台となるのは北海道で、映画は旭川市でロケされた。小説執筆当時、宮下は家族と大雪山国立公園内にある富村牛(トムラウシ)集落@十勝管内新得町で1年間暮らしていたという(山村留学)。だから主人公の名前が外村(とむら)なのだ。

外村は仕事先の家庭でふたごの高校生姉妹と出会う。彼女たちの名前は「和音(かずね)」と「由仁(ゆに)」。和音(わおん)は言うまでもなくハーモニーであり、由仁はユニゾンだ。ハーモニーもユニゾンも一人で奏でることが出来ないところがミソ。ふたりでひとり。このふたごを映画では上白石萌音・萌歌の姉妹が演じる。萌音も萌歌も音楽に纏わる名前。何だか出来過ぎている。

小説の中で原民喜(はらたみき)が、こんな文体に憧れていると書いた一節が引用される。

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体

板鳥はそんな音をつくり出すことを目指している。その想いは作者本人にも繋がっているだろう。

僕はこのブログで沢山のコンサートレビューを書いてきたが、つくづく音楽を文章で表現することの難しさを感じている。困難というよりも、殆ど不可能な作業である。そもそも作曲家というのは言葉に出来ない自分の想いを音符に託しているわけだから、土台無理なのだ。時には絶望的な気持ちにすらなる。宮下は本書でその不可能性に果敢に挑み、格闘し(藻掻い)ている。それが堪らなく愛おしい。

外村はドイツから来日した巨匠とも魔術師とも称されるピアニストを聴くために町のコンサートホールに行く。そのピアニストは板鳥に全幅の信頼を寄せている。板鳥が調律するのを眺めながら、彼は次のように述懐する。

 自分が迷子で、神様を求めてさまよっていたのだとわかる。迷子だったことにも気づかなかった。神様というのか、目印というのか。この音を求めていたのだ、と思う。この音があれば生きていける、とさえ思う。

僕もコンサートを聴いている最中に「音楽の神様がホールに舞い降りた」と直感する瞬間がある。しかしそれは数年に一度であり、滅多にあることではない。

コンサートの帰り道、外村は勤め先の楽器店の社長と次のような会話を交わす。

「こんな小さな町にいるよりも、もっと大きな場所で、たくさんの人の耳に触れるピアノを調律したほうが板鳥さんの腕を活かせるんじゃないでしょうか」
「ほんとにそう思うのかい。(中略)ここに素晴らしい音楽がある。辺鄙な町の人間にも、それを楽しむことはできるんだよ。むしろ、都会の人間が飛行機に乗って板鳥くんのピアノを聴きに来ればいい、くらいに私は思っているんだがね」

ここには地方に住む人間の挟持、気概がある。僕は確信した。宮下は東京に住んでいないと。調べてみると案の定、彼女は福井県福井市在住だった。

日本は今やクラシック音楽大国である。世界中の著名な音楽家が我が国に殺到し、飽食状態である。しかしそれは東京一極集中型であり、美味しい想いをしているのは関東の人々だけというのが実情だ。例えば昨年のベルリン・フィル来日公演もそうだったけれど、関東にだけ来てそのまま帰国する音楽家たちのなんと多いことか!大阪にすら来てくれない。東京都には9つのプロ・オーケストラがあるが、大阪府は4つ、京都府・兵庫県が1つ、滋賀県・奈良県・和歌山県は0である。日本の文化的「豊かさ」って一体、何なんだろう?とつくづく考えさせられる今日このごろである。

そんなこんなで共感することの多い小説だった。音楽を愛する全ての人々にお勧めしたい。特にピアノを習っていたり、吹奏楽部に所属する中学・高校生は是非読んでみて!

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ジル・ドゥルーズ「シネマ」〜哲学者が映画を思考する。

20世紀フランスを代表する哲学者、ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 」全2巻(法政大学出版局)を読んだ。「シネマ1*運動イメージ」と「シネマ2*時間イメージ」は併せて800ページに及ぶ大作である。

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ドゥルーズ(1925-1995)の名前を初めて目にしたのはニーチェの著作/解説書を読んでいる時であった。

哲学史的にスピノザ - ニーチェ - ドゥルーズという一本の堅固な線があることを知った。そしてドゥルーズが映画について本を出していることに驚かされた。哲学者が映画を思考すると、どのような言葉が紡がれるのだろう?大いに興味が湧いた。

通読するには難儀した。2ヶ月掛かった。まず翻訳が良くない。大学で哲学を教えている教授らが訳しているので日本語としてこなれていない。原文は同じ単語なのに「シネマ1」と「シネマ2」で異なる日本語に置き換わっていたりもする。またドゥルーズ自身、簡単な概念をわざと難しく書く癖があるので厄介だ。そして長い。対してニーチェの著作はページ数が少ないし、非常に分かり易くスラスラ読める。しかし「シネマ」から得たものは多かった。努力は決して無駄でなかった。

ドゥルーズは巻頭で「これは映画史ではなく、映画に現れるかぎりでのイメージと記号の分類の試みである」と宣言している。だが実際には「シネマ1」で主に第二次世界大戦前の映画、具体的にはチャップリン、キートンらの喜劇、D・W・グリフィスらアメリカの作家、エイゼンシュタイン、ヴェルトフらソ連の作家、ラング、ムルナウらドイツ表現主義、そしてクレール、ルノワール、ガンス、エプシュタインらフランスの作家(主に無声映画)が話題の中心となり、「シネマ2」では戦後の映画、ロッセリーニ、デ・シーカらイタリアン・リアリズム(ネオリアリスモ)、ゴダール、レネらフランス・ヌーヴェルヴァーグ、他にもウェルズ、アントニオーニ、パゾリーニ、デュラス、キューブリックらの作品が取り上げられている。つまり映画史に沿った記述になっている。また嬉しいことに我が国からも小津安二郎、黒澤明、溝口健二らの作品が言及され(市川崑についても少し)、褒められている。

黒澤明「七人の侍」に関しては「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在するとドゥルーズは語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

見事な解読である。

本書はベルクソンの著書「物質と記憶」の注釈に始まり、カント、ライプニッツ、ニーチェなどの数々の哲学者についても言及される。

どういうことが書かれているか、「シネマ」から学んだことを具体的に幾つかご紹介しよう。まず映画における運動イメージの三つの水準について。①総体 ensemble=閉じられたシステム。映画においてはフレーミングで規定される。②移動としての運動。フレームの中で成立する運動=ショット。動く切断面であり変調。③全体 tout=ショットとショットを繋いで(モンタージュ)規定される。それ自身の諸関係に即して絶えず変化する(=絶対的運動あるいは宇宙的変動)。

主観性の三つの物質的アスペクトについて。①ある主体が外的刺激(光、音)を知覚する。主観性は、おのれの関心を引かないものを、物〔=イメージ〕から差し引く。②知覚から行動への移行。③困惑させる知覚と、逡巡する行動とのあいだで、主体(不確定性の中心)のなかに出現する情動 intervalleを占めるもの。作用と反作用の間に現れる隔たり。

そして映画においては知覚イメージがロング・ショット(遠景)、行動イメージがフル・ショット(人物の全身像)、感情イメージがクロースアップ(顔またはその等価物で表現される情動)に相当する。

しかし状況ー行動、作用ー反作用、刺激ー反応という連鎖、感覚ー運動系の帯紐はアドルフ・ヒトラーのファシズム、ハリウッドのプロパガンダ(戦意高揚映画)に利用された。国家による大衆操作。運動イメージの到達点はレニ・リーフェンシュタール(ナチス党大会を記録した「意志の勝利」、ベルリン・オリンピックを記録した「民族の祭典」「美の祭典」の監督)である。

そして第二次世界大戦後、ヨーロッパの破壊し尽くされた廃墟など圧倒的状況が、感覚ー運動図式を断ち切り、登場人物は殆ど無力に陥った。彼は反応するよりも記録する。彼はひとつの視覚 visionに委ねられ、行動の中に巻き込まれるよりもむしろ視覚に追いかけられ、視覚を追いかける。純然たる見者となる。純粋に光学的な状況→直接的時間イメージという位置付けられない関係が現れるのだ。

ここで登場するのが結晶イメージであり、ベルクソンの逆さ円錐モデルで説明される。

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円錐の全体SABが記憶に蓄えられたイマージュ全体。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。ABは純粋回想=保存された過去。Pは宇宙。意識は螺旋を描きながら絶えず内部を反復し、新たな過去A'B'、A''B''を生成し続ける。

この結晶時間イメージの代表例がアラン・レネの「去年マリエンバートで」'61であり、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」'63だ。フェリーニは語る。「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」過ぎ去り、死に向かう現在と、保存され、生の核を保持する過去は絶えず干渉しあい、交差しあう。もし保存された過去の領域へ飛翔しても求めている回想が応じず、イメージが顕在化しなければ現在に戻って来て、もう一度飛翔しなおせばいい。

僕が「8 1/2」を初めて観たのは高校生ぐらいの時だった。当時は何が面白いんだかさっぱり理解出来ず、ただただ退屈だった。しかし今回ドゥルーズを読み、フェリーニが言わんとしたことの輪郭が漸くはっきりして来た気がする。

また「シネマ」で紹介され、初めて知る機会を得た映画も沢山ある。ドライヤー「裁かるゝジャンヌ」'28、エプシュタイン「アッシャー家の末裔」'29、エイゼンシュテイン「全線」'29、ヴェルトフ「これがロシアだ」'29、イヴェンス「橋」'28、「雨」'29、ブニュエル「ビリディアナ」'61、「皆殺しの天使」'62、バスター・キートン×サミュエル・ベケット「フィルム」'65……。大変勉強になった。

ただ些か不満なのは、ヌーヴェルヴァーグに関して僕はトリュフォー派なので(「シネマ」では殆ど触れられない)、ドゥルーズはゴダールのことを実力以上に買いかぶっているのではないか、ということである。

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カズオ・イシグロは日本人?それとも英国人?

今年のノーベル文学賞は、長らく受賞が期待されている村上春樹ではなく、事前に全く取り沙汰されていなかったカズオ・イシグロに白羽の矢が立った。驚天動地、寝耳に水の出来事であった。

僕が彼の名前を初めて知ったのは1994年に劇場で観たアンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン主演のイギリス映画「日の名残り」の原作者としてであった(名作)。その後、「わたしを離さないで」は2006年に日本で出版された年に単行本で読んだ。静謐で哀しく、心に残る小説であった。イシグロがプロデューサーを務めた映画版もすこぶる出来が良かった。

カズオ・イシグロは1954年長崎県長崎市に「石黒一雄」として生まれた。両親は日本人。5歳の時、海洋学者だった父親の仕事の都合でイギリスに移住した。イギリスに帰化するのは28歳である。「日系英国人」受賞に日本のマス・メディアは湧いたが、一方で反日左翼の連中が「彼は歴(れっき)としたイギリス国籍であり、日本人じゃない。はしゃぐな!」と冷や水を浴びせた。

カズオ・イシグロは果たして英国人なのだろうか?それとも日本人か?

僕の答えは「二つの祖国を持つ男」である。もし彼が日本に生まれ育ったならブッカー賞を受賞した「日の名残り」のような小説は絶対に生まれなかったし、逆にイングランド人から「わたしを離さないで」などの小説が生み出されるはずもない。つまり彼の特殊な生い立ちが創造物と密接な関係を帯びているのである。それは日本的なものと英国的なものの複合体結晶である。

例えば同じくノーベル文学賞を受賞したサミュエル・ベケット(「ゴドーを待ちながら」)の場合を考えてみよう。ベケットの国籍はフランスだが、生まれはアイルランド。彼は仏語で作家活動をしたが、同時に自分自身で英語版も執筆した。20世紀演劇の金字塔「ゴドーを待ちながら」は彼が生涯アイルランドに留まっていたとしても、はたまた生粋のフランス人であっても生み出されなかっただろう。やはり両者の複合体結晶と言える。

フレデリック・ショパンといえば誰しもポーランドを思い浮かべる。マズルカやポロネーズはポーランドの民族舞踏音楽だ。しかし彼は20歳の時にポーランドを離れ、二度と祖国の土を踏むことはなかった。その後パリで活躍し、パリで没した。さらに彼の父はフランス人である。ならば彼の作品はフランス音楽なのだろうか?ナンセンス、馬鹿げている。

交響曲 ニ短調で有名なセザール・フランクはベルギーで生まれ、フランスで活躍した。彼の音楽は「フランス音楽」とも「ベルギー音楽」とも明快な判別が不能である。またフランス印象派の作曲家モーリス・ラヴェルの音楽にスペインの色彩が色濃いのも(スペイン狂詩曲、道化師の朝の歌、オペラ「スペインの時」)、彼がスペインとの国境近くのバスク地方に生まれ、母がバスク人だったことと無関係ではない。

彼らのことを「フランス人」と一方的に決めつけるべきではなく、Cosmopolite / Cosmopolitan(国際人)と呼ぶべきだろう。それはカズオ・イシグロにも当てはまることだ。

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【増補改訂版】近・現代芸術を理解するための必読書 その2

これは、過去に書いた記事

の続編となる。今回まず、お薦めしたいのは臨床心理学者・河合隼雄による一連の著作である。

そもそも河合の名前を初めて知ったのは2016年夏に兵庫芸文で上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の夢」について勉強している時だった。ことの詳細は下記に書いた。

河合と翻訳家・松岡和子との対談、「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)は目から鱗の連続だった。特に「夏の夜の夢」が意識↔無意識の4層構造になっているという解釈はまるでクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」みたいで新鮮だった。調べてみると河合は、村上春樹や小川洋子、遠藤周作、安部公房ら小説家、ノンフィクション作家・柳田邦男、詩人・谷川俊太郎、宗教学者・中沢新一、脳科学者・茂木健一郎ら錚々たるメンツと対談本を上梓していることが判明した。その後夢中になって彼の著作を読み漁った。

僕は生まれてこの方、2,700本以上の映画を観てきた。膨大な数だ。どうしてこれほどまでにフィクションに魅了されるのか、自分でも不思議だった。過去には次のような記事も書いた。

「博士の愛した数式」で有名な小説家・小川洋子は二十代半ばでデビューした当時、「なぜ小説を書くのですか」とインタビューで問われる度に明確な回答が出来ず、その質問が苦痛でならなかったという。しかし河合隼雄の著作を読み、物語というものの解釈に出会って彼女の目の前に立ち込めていた霧が晴れた。河合と小川の共著「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)に小川が書いたあとがきから引用する。

物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。(中略)内面の深いところにある混沌は理論的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

まさにこれこそが、河合隼雄から僕が学んだことである。

現在までに彼の著書を30冊読んだが、お勧めのベスト5を挙げておく。

  • 無意識の構造(中公新書)
  • 母性社会日本の病理(講談社+@文庫)
  • 昔話と日本人の心(岩波現代文庫)
  • 快読シェイクスピア 増補版(ちくま文庫)
  • 神話と日本人の心(岩波現代文庫)

「母性社会日本の病理」や「昔話と日本人の心」を読み、如何に自分がイザナギ・イザナミ・アマテラス・ツクヨミ・スサノオなど日本の神話のことを知らないかを思い知らされた。理由のひとつには学校教育で教わらないということもあるだろう。第2次世界大戦において、日本の神話は軍部に利用された。それへの反省もあり、また日本神話は天皇制に結びつくということもあって、日教組から徹底的に嫌悪され教育現場から排除された。河合がスイスのユング研究所での留学を終えて帰国してからも暫くの間、神話の話など持ち出そうものなら「この右翼め!」と袋叩きに合いそうな雰囲気だったので、口を閉ざしていたという(1960年代は安保闘争や学生運動が花盛りだった)。

しかしキリスト教を知らなければ欧米人のものの考え方を理解出来ないように、日本の神話や昔話を知らずして、日本人の深層心理、無意識の在り方に到達することなど到底不可能なのではないだろうか?「君の名は。」の新海誠監督も日本の昔話や神話、万葉集、古今和歌集などを読み、創作の参考にしていると語っている→こちら

ユング心理学を応用すれば、こんな解釈も可能だということを示したのが以下の記事である。

深層心理学は自然科学とは異なり、客観性よりも主観が大切である(故に「科学じゃない」という批判もある)。それは自己(self)の問題であり、物語の読解に実に役立つのである。

もう一つ挙げたいのはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」だ。

フロイトやユングの打ち立てた心理学はニーチェ哲学を土台にしているし、「ツァラトゥストラ」を通して、映画「2001年宇宙の旅」「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」「攻殻機動隊」「魔法少女まどか☆マギカ」「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」などが何を物語ろうとしているのか、一層深く読み取れるだろう。

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夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」のすゝめ

本といえば今まで小説ばかり読んで生きてきた。哲学なんて難解なものは歯が立たない、僕には無縁だと思い込んでいた。ところがある日不意に、転機が訪れた。

ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読もうと決心した切っ掛けは2016年に公開された一本のドキュメンタリー映画だった。

本作は大阪を流れる淀川から道頓堀川に下る船の上で、第1回ドラフト会議で指名されNMBに入った須藤凛々花がニーチェを朗読するシュールな場面から始まる。

須藤といえばつい先日のAKB48総選挙で結婚宣言をぶちかまし、世間を騒然とさせた元メンバーである(既に卒業)。「人生を危険にさらせ!」という哲学本も出版しており、表題はニーチェの著書「悦ばしき知識(楽しい学問)」から採られている。たかだか19歳の小娘がニーチェを理解出来るのだから、僕に読めない筈はないと対抗心が沸々と湧いたのである。因みに秋元康は須藤のために、「ニーチェ先輩」という歌を書いた。その歌詞に《その深淵 覗いたとき 深淵もこちらをのぞいてる》とあるが、これはニーチェ「善悪の彼岸」からの引用である。

ニーチェ(18441900)の著書を実際手にとってみて驚いた。スラスラ読めるのである。難解なところが少しもない。硬い哲学書だという雰囲気が皆無のだ。これなら高校生でも大丈夫。「悦ばしき知識(楽しい学問)」にしろ「善悪の彼岸」にしろ、アフォリズム集になっているので実に読み易い。アフォリズム (Aphorism)の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス「アフォリズム」より)。

「ツァラトゥストラ」は光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳が読み易かった。なお、竹田青嗣「ニーチェ入門」(ちくま新書)と村井則夫「ニーチェ ーツァラトゥストラの謎」(中公新書)がガイドとしてたいへん役に立ったことを付記しておく。

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またフロイトやユングの打ち立てた深層心理学が、ニーチェから出発していることがよく分かった。意識↔無意識の関係や、コンステレーション(布置)についても先にニーチェが語っている。コンステレーションとは一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係もないように見えても、ある時それらが一つのまとまりとして重要な意味を成してくること。めぐり合わせ。

以来、心理学と哲学の関係は深い。20世紀フランスのミシェル・フーコー(1926〜84)は当初、心理学を学び、精神病院に努めていた時に患者がロボトミー手術を受けて廃人同様になったことに衝撃を受け、哲学者に転向した。

またやはりフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925~95)は精神科医フェリックス・ガタリ(1930~92)と組んで「アンチ・オイディプス」を書いた。これはフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスに反旗を翻す本である。ガタリとの共著は6冊に及んだ。なおドゥルーズはフロイトに対して否定的だが、フロイトと袂を分かったユングのことは高く評価している。

ドゥルーズは【哲学とは新しい概念を創造すること】だと定義したが、ニーチェが打ち出した概念の代表的なものは「アポロン的/デュオニソス的」「ルサンチマン」「神は死んだ」「力への意志」「超人」「永劫回帰」がある。

関連記事(上記ニーチェの概念について詳しく解説した)

ニーチェはpositive thinkingの人だ。常に前向きで未来に目を向け、ニヒリズム(この世は虚しいという考え方)を全力で否定する。そしてからだが大事と説き、ダンスして鳥のように飛べ!と活を入れる。そして最後は「笑うライオン」になれと言う。読んでいて元気が出るし、勇気が湧く。

ただ彼が女性蔑視の考えを持っていたことは否定出来ない。まぁ女性に参政権がなかった19世紀半ばの人だし、生涯を独身で過ごしたモテない男なので(ルー・ザロメに求婚するも振られている)、大目に見てあげてくださいな。

なお彼は1889年(44歳)に発狂するが、原因は梅毒 第4期(脳梅毒・神経梅毒)だった。これは作曲家のシューマンやスメタナと同じ病である。シューベルトも梅毒だったが、死因は水銀治療による中毒である。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は後世の芸術に多大な影響を与えた。リヒャルト・シュトラウスは同名の交響詩を作曲。マーラーは交響曲第3番 第4楽章にツァラの一節を引用し、アルト独唱に歌わせている。そしてこの楽曲はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」の最後、主人公の死の場面で流れた。さらにスタンリー・キューブリック監督の傑作「2001年宇宙の旅」との関わりは言うまでもない。

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