読書の時間

近・現代芸術を理解するための必読書 その2

これは、過去に書いた記事

の続編となる。今回おすすめしたいのは臨床心理学者・河合隼雄による一連の著作である。

そもそも河合の名前を初めて知ったのは今年になってからで、この夏に兵庫芸文で上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の夢」について勉強している時だった。ことの詳細は下記に書いた。

河合と翻訳家・松岡和子との対談、「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)は目から鱗の連続だった。特に「夏の夜の夢」が意識↔無意識の4層構造になっているという解釈はまるでクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」みたいで新鮮だった。調べてみると河合は、村上春樹や小川洋子、遠藤周作、安部公房ら小説家、ノンフィクション作家・柳田邦男、詩人・谷川俊太郎、宗教学者・中沢新一、脳科学者・茂木健一郎ら錚々たるメンツと対談本を上梓していることが判明した。その後夢中になって彼の著作を読み漁った。

僕は生まれてこの方、2,500本以上の映画を観てきた。膨大な数だ。どうしてこれほどまでにフィクションに魅了されるのか、自分でも不思議だった。だから過去に次のような記事も書いた。

「博士の愛した数式」で有名な小説家・小川洋子は二十代半ばでデビューした当時、「なぜ小説を書くのですか」とインタビューで問われる度に明確な回答が出来ず、その質問が苦痛でならなかったという。しかし河合隼雄の著作を読み、物語というものの解釈に出会って彼女の目の前に立ち込めていた霧が晴れた。河合と小川の共著「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)に小川が書いたあとがきから引用する。

物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。(中略)内面の深いところにある混沌は理論的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

まさにこれこそが、河合隼雄の著書から僕が学んだことである。

現在までに20冊読んだが、お勧めのベスト5を挙げておく。

  • 無意識の構造(中公新書)
  • 母性社会日本の病理(講談社+@文庫)
  • 昔話と日本人の心(岩波現代文庫)
  • 快読シェイクスピア 増補版(ちくま文庫)
  • 神話と日本人の心(岩波現代文庫)

「母性社会日本の病理」や「昔話と日本人の心」を読み、如何に自分がイザナギ・イザナミ・アマテラス・ツクヨミ・スサノオなど日本の神話のことを知らないかを思い知らされた。理由のひとつには学校教育で教わらないということもあるだろう。第2次世界大戦において、日本の神話は軍部に利用された。それへの反省もあり、また日本神話は天皇制に結びつくということもあって、日教組から徹底的に嫌悪され教育現場から排除された。河合がスイスのユング研究所での留学を終えて帰国してからも暫くの間、神話の話など持ち出そうものなら「この右翼め!」と袋叩きに合いそうな雰囲気だったので、口を閉ざしていたという(1960年代は安保闘争や学生運動が花盛りだった)。

しかしキリスト教を知らなければ欧米人のものの考え方を理解出来ないように、日本の神話や昔話を知らずして、日本人の深層心理、無意識の在り方に到達することなど到底不可能なのではないだろうか?「君の名は。」の新海誠監督も日本の昔話や神話、万葉集、古今和歌集などを読み、創作の参考にしていると語っている→こちら

ユング心理学を応用すれば、こんな解釈も可能だということを示したのが以下の記事である。

深層心理学は自然科学とは異なり、客観性よりも主観が大切である(故に「科学じゃない」という批判もある)。それは自己(self)の問題であり、物語の読解に実に役立つのである。

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大林宣彦監督とその【映画の血を分けた息子たち】

檀一雄原作、大林宣彦監督の映画「花筐(はなかたみ)」が佐賀県唐津市で現在、撮影中である。

Hanakatami

これは監督のライフワークであり、桂千穂と共同執筆したシナリオは既に40年前に完成していた。当初出演者は全員ファッションモデル、台詞は声優による吹替、という企画だった。16mm自主映画(アンダーグラウンド・ムービー)の旗手、CMディレクターとして華々しく活躍していた監督が劇場映画デビュー作として考えていたものだった。しかし純文学の映画化という地味な企画は中々進捗せず、結局「HOUSE ハウス」(1977)が第1作となる。

House

「HOUSE ハウス」に檀一雄の娘・檀ふみが友情出演しているのは「花筐」の縁である。

大林監督にはもうひとつライフワークがある。福永武彦の小説「草の花」の映画化である。「さびしんぼう」の後、尾美としのりと富田靖子の主演で企画されたが、こちらも頓挫した。

僕は18歳の時に大林映画「廃市」(1983)を観て、その原作者・福永武彦を知った。20代は福永の小説を読んで過ごした(全小説を読破した)。そして「草の花」の舞台となった東京都大森駅近くの暗闇坂、清瀬市にある国立療養所東京病院、信濃追分、伊豆西海岸の戸田などを訪ね歩いた。正に新海監督「君の名は。」でいうところの聖地巡礼である。その詳細は「福永文学と草の花」としてWebに上げている。

Hi

映画「ふたり」のラスト、原稿を書いている石田ひかりの部屋の本棚にはひそやかに「花筐」と「草の花」が置かれていた。その主題歌「草の想い」(作詞:大林宣彦、作曲:久石譲)の歌詞には「花の形見」という言葉があって、「草の想い」と併せると「くさのはな」「はなかたみ」という言葉が全て隠されている。それから記憶が定かではないが、確か「異人たちの夏」の風間杜夫の部屋にも「花筐」と「草の花」があった筈。

大林監督は現在78歳。果たして映画「草の花」は実現するだろうか?第二次世界大戦中の東京が舞台となるので、もし忠実に再現するならオープンセットに膨大なお金が掛かるだろう。大ヒットも期待出来ない。なかなか難しいところである。

さて、「バケモノの子」の細田守監督は大学生の時に学園祭で「大林宣彦ピアノ・コンサート」を企画したという過去があり、大林監督は彼のことを【映画の血を分けた息子】と言っている。細田版「時をかける少女」(アニメ)は事実上、大林版「時をかける少女」の後日談であり、大林版のヒロイン芳山和子は細田版で「魔女おばさん」として登場する。細田はその声優として大林版と同じ原田知世を希望したが、断られたそう。

新海誠監督のアニメに大林映画「転校生」「時をかける少女」が与えた影響については既に書いた。

高橋栄樹監督が撮ったAKB48のミュージック・ビデオ(MV)「永遠プレッシャー」(島崎遥香センター)は「HOUSE ハウス」へのラブ・レターである。また大林監督がAKB48「So long !」MVを撮った時、高橋監督は手弁当で撮影現場に馳せ参じ、手伝ったという。

「踊る大捜査線」「サマータイムマシン・ブルース」の本広克行監督はももいろクローバーZ主演の映画「幕が上がる」を撮るにあたり、大林宣彦と山田洋次が若手の監督を呼んで語り合う「渋谷シネマ会」に参加し、アイドル映画を撮る極意について指南を仰いだ(詳細はこちら)。大林監督からの助言は「(被写体を)愛すればいいんだよ」だったという。そして「幕が上がる」のミュージカル仕立てのカーテンコールは「時をかける少女」へのオマージュになっている。

現在映画「青空エール」が公開中の三木孝浩監督も熱狂的な大林映画ファンだ。高校生の時に大林監督の「ふたり」をどうしても観たくて修学旅行先の東京で集団行動から抜けだし映画館に行ったそう。また尾道三部作への愛も告白している→こちら。三木監督の「陽だまりの彼女」は「HOUSE ハウス」にインスパイアされているし(化け猫映画)、「ホットロード」は三木版「彼のオートバイ、彼女の島」であり、「くちびるに歌を」には「ふたり」「はるか、ノスタルジィ」の石田ひかりが登場し、オルガンを弾く。また彼は「敬愛する大林宣彦監督のように、いずれ古里(徳島)を舞台にした映画を撮影したい」と語っている→徳島新聞の記事へ。

僕は長年、大林監督が映画「草の花」を撮る日を待ち続けてきた。でも、もし監督がその想いを果たせなかっとしても、今では沢山の立派な【映画の血を分けた息子たち】が第一線で活躍しているので、彼等のうちの誰かがきっと実現してくれるだろうと信じる。アニメーションによる「草の花」も観てみたい気がするな。

たとえ肉体が滅んでも、人はいつまでも誰かの心の中に、その人への想いと共に生き続けている。だから、愛の物語はいつまでも語り継がれていかなければならない。 愛する人の命を永久に生きながらえさせるために。永久の命、失われることのない人の想い、たったひとつの約束、それは愛。(映画「HOUSE ハウス」より)

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シェイクスピア「夏の夜の夢」とブリテンのオペラ、その深層心理に迫る

間もなく兵庫県立芸術文化センターで佐渡裕プロデュースによるベンジャミン・ブリテンのオペラ「夏の夜の夢」が上演される。

僕の幼少期、この作品は「真夏の夜の夢」と呼ばれていた。原題が"A Midsummer Night's Dream"だからである。しかしmidsummerとは夏至のことで、聖ヨハネ祭(Midsummer Day)が祝われる6月24日の前夜を指す。全然真夏じゃない。

シェイクスピアの「夏の夜の夢」と共に、結婚行進曲を含むメンデルスゾーンの付随音楽がよく知られている。これが1935年にハリウッドで映画化された時、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトがメンデルスゾーンの音楽を卓越した手腕で編曲した。マックス・ラインハルトとウィリアム・ディターレが共同監督したのだが、マックス・ラインハルトは、オーストリア生まれの著名な舞台演出家。彼の要請でコルンゴルトはウィーンからハリウッドに招かれた(ディターレが1937年に監督した「ゾラの生涯」はアカデミー作品賞を受賞した)。

ユダヤ人だったコルンゴルトは結局、ナチスの弾圧を逃れてアメリカに亡命する。そして「風雲児アドヴァース」と「ロビン・フッドの冒険」で2度アカデミー作曲賞を受賞することになる。

映画「真夏の夜の夢」(←正式な邦題)にはオリヴィア・デ・ハヴィランド、ジェームズ・キャグニー、ミッキー・ルーニーらが出演している。なかなか出来がよく、現在は500円DVDが手に入るのでお勧めする。画質も悪く無い。

ブリテンのオペラは1960年に初演された。台本はブリテンと、テノール歌手ピーター・ピアーズの手による。ピアーズは「ピーター・グライムズ」のタイトルロール、「ねじの回転」のクイント、「ベニスに死す」のアッシェンバッハ、「カーリュー・リヴァー」の狂女などブリテンの多数のオペラで初演キャストを務めている。「夏の夜の夢」では職人フルート(オルガンのふいご修理屋)を演じた。オペラ台本は戯曲の第2幕第1場から始まる。終幕に戯曲の第1幕冒頭部が挿入されるなど、大胆なカットや順序の入れ替えはあるが基本的に台詞はオリジナルそのままである。

僕が持っているこのオペラのDVDはイギリスの大御所ピーター・ホールが演出したグラインドボーン音楽祭のプロダクション。ベルナルド・ハイティンクが指揮してイレアナ・コトルバシュがティターニアを演じた。ホールが最も得意とする演目であり、1981年の初演以来大評判となり1984、1989、2001、2006年と再演を重ねてきた。非常に幻想的で美しい舞台である。

また宝塚歌劇では演出家の小池修一郎がこの戯曲を翻案してミュージカル「PUCK」を創っている。初演では涼風真世が妖精パックを演じた。実に愉しく是非観ていただきたい作品である。2014年再演のレビューはこちら

さてこの度、オペラ観劇の予習としてシェイクスピアの戯曲を読んでみようと想った。村上春樹は「小説の古典は古びることがないけれど、翻訳には賞味期限があり、どんな名訳でも時間が経てば古びる」という旨のことを書いている。アップデートが必要不可欠なのだ。僕が中学生時代に読んだシェイクスピアは新潮文庫の福田恆存によるものだった。文語調で硬く、読み辛い。その後小田島雄志の読み易い口語訳が出て、大評判となったことは記憶に新しい。さらに調べてみると小田島訳の後に松岡和子による個人翻訳全集が出て、評価がすこぶる高い。蜷川幸雄が晩年手がけたシェイクスピアの舞台は全て、松岡訳だった。よって松岡訳に決めた。彼女が偉いのは、芝居の本読みや舞台稽古にも参加して演出家や役者の意見を聞き、改訂を重ねていることである。つまり徹底的な現場主義なのだ。台詞は熟れているし、本文の下に豊富な訳注が書かれているのも嬉しい(訳注が巻末だといちいち探すのが面倒くさい)。

興味が湧いたので、松岡のエッセイも読んでみた。「深読みシェイクスピア」(新潮選書)やユング派臨床心理学の第一人者・河合隼雄との対談「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)などである。この対談本がすこぶる面白かった。

河合によると、日本人はまだ無意識的一体感というのをひきずっていて、日本人の男の友情というのは、外国人に同性愛だと思われるものがものすごく多いのだそうである。そこで松岡が「夏の夜の夢」に登場する職人たちは、ほとんど同性愛的なものだと思うと水を向けると、河合は力強く同意する。「非常に無意識に近い世界に生きているんです。その中のボトムなんていったら、ぼそーっと妖精の世界に入り込んでしまう。(中略)あの集団は確かに同性愛集団ですね」

ここで僕はハッとした。ベンジャミン・ブリテンもゲイだった。生涯のパートナーはピーター・ピアーズ。ふたりは同棲生活を送り、現在彼らの墓はオールドバラの教会墓地に仲良く並んで置かれている。そう考えていくとブリテンが数あるシェイクスピア作品の中から「夏の夜の夢」を選んでオペラ化したことの意味と、ピアーズがフルートを演じた理由が見えてくる。因みに「ピーター・グライムズ」も「ベニスに死す」もゲイの物語である。

「ヘンゼルとグレーテル」などの童話もそうだが、西洋の物語に登場する森は無意識のメタファーである。「夏の夜の夢」は観客が見ている夢(無意識)という風に考えることが出来る。河合は語る。「作品全体が四つの層からできている。アテネの公爵シーシアスと婚約者ヒポリタ、四人の若い恋人たち、それから芝居しようとする職人たち、更に妖精の王と女王を中心とした妖精たち、という風に。これは考えたら、意識構造がだんだんだんだん深くなっていくようなものです。シーシアスとヒポリタの方はわりに意識の世界に近いですね。それに対して妖精の世界は、一番奥の無意識の世界。だから妖精の世界のことは意識の世界の人間には誰も見えないんです。面白いことには、この無意識の世界に一人だけ突入するのが職人のボトム。彼だけがポンと入れるわけですよ。それからこの層の間を自由に行き来しているのはパックです。(中略)恋人たちの見ている夢なんていうのは、恋というものがそもそも夢だと言えるんだけど、(中略)本当は、プロモートしているのは、妖精たちなんですね」この意識↔無意識の四層構造という考え方で想い出したのがクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」である。全く同じだ。「夏の夜の夢」と「インセプション」は繋がっている。

妖精パックはトリックスターとしての役割を果たす。トリックスターとは神話や伝説の中で活躍するいたずら者で、 その狡猾さと行動力において比類ない。善であり悪であり、壊すものであり作り出すものであり(scrap and build)、変幻自在で神出鬼没、全くとらえどころがない。単なるいたずら好きの破壊者で終始することもあれば、時として英雄にも成り得る(例えば人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウス)。境界を超えて出没するところにトリックスターの特徴がある。

「夏の夜の夢」は女同士の親密な結びつきを男が危機に陥れるという、そういう読み方もできると松岡は指摘する。ヒポリタはアマゾンの女王、つまり女だけの国の女王だった。それをシーシアスが力ずくで征服し、略奪した。妖精の女王ティターニアはインドから連れて帰った男の子をかわいがっているが、それをオベロンが引き渡せと迫る。男の子を産んで直ぐ死んだ母親はティターニアと恋人同士みたいに仲良しだったので、その取り替え子(Changeling)を養うことは彼女にとって「友情の証」なのである。大親友だったハーミアとヘレナの絆(ひとつのクッションに一緒に座って刺繍をしたと表現されている)も男たち(ライサンダーとディミートリアス)の出現で危うくなる。

またボトムの頭が魔法でロバに変容(メタモルフォーゼ)することについて。ロバというのは頭が足りない馬鹿の象徴であると同時に、精力絶倫をも意味するそうだ。言われてみればピーター・ホール演出版でもボトムの股間はもっこり誇張されていた。

あと気付いたのは、職人たちによる劇中劇「ピラマスとシスビー」は明らかに「ロミオとジュリエット」のパロディ(風刺)になっていること。更に恋人たち=ライサンダーとハーミアは彼女の父が結婚を認めないため、アテネの法「父の言いつけに背く娘は死刑とする」が及ばない土地に駆け落ちしようとする。この設定も実は「ロミオとジュリエット」と表裏一体であり、要するにジュリエットもあんなややこしい(仮死状態になる)薬を飲まなくたって、ふたりが駆け落ちしてヴェローナ外の都市で結婚すれば済んだ話ではないかと言っているのである(たとえロミオがティボルトを殺さなくとも、ふたりはヴェローナで一緒に暮らせる筈がない。つまり秘密裏の結婚は全く意味が無い)。大胆にも作劇上の嘘を作家自らがバラしているのだ。この重層性こそシェイクスピアの真骨頂である。

「夏の夜の夢」の世界は奥深い。貴方もその森の中で彷徨ってみませんか?

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何故人はフィクション(物語)を求めるのか?

2011年3月11日に発生した東日本大震災、あなたはいつの時点で福島原発がメルトダウンしていると気が付きましたか?

東京電力が正式に公表したのは5月24日だった。事故から70日以上が経過していた。

2016年2月25日、NHKニュースは次のように報道した。

東京電力は、福島第一原子力発電所の事故発生から2か月たって、核燃料が溶け落ちる、メルトダウンが起きたことをようやく認め大きな批判を浴びましたが、当時の社内のマニュアルでは事故発生から3日後にはメルトダウンと判断できたことを明らかにし、事故時の広報の在り方が改めて問われそうです。

福島第一原発の事故では1号機から3号機までの3基で原子炉の核燃料が溶け落ちるメルトダウン=炉心溶融が起きましたが、東京電力はメルトダウンとは明言せず、正式に認めたのは発生から2か月後の5月でした。

つまり東電と日本政府は事故発生から3日後(3月14日)に事態を正確に認識していたにもかかわらず、2ヶ月以上公表を控えていたことになる。「パニックを避ける」ためという、実にくだらない理由で。

でももしあなたが5月24日の公表を聞いて「ええっ、本当はメルトダウンしていたの!?」と驚いたのだとしたら、余りにも世間知らずと言えるだろう。【政府が国民を騙る筈はない/テレビで報道されていることは全て真実だ】と信じている者はお子様である。ありもしない【大量破壊兵器】を口実にイラクを侵略したアメリカ合衆国(共和党政権)も同じ穴の狢(ムジナ)と言えるだろう。

震災から4日後、僕はこうツイートした。

緊急事態宣言が発令された非常時に為政者は本当のことを語らない。それは当然のことである。だから自国の政府は信用出来ないと判っていたので、僕は首相官邸が情報をコントロール出来ない、海外メディアからの報道を収集することに専念した。

今振り返るとこういう未曾有の危機に直面して、沢山の映画を観ていたことが正しい判断を下す役に立ったなとつくづく想う。

人間が持つ、他の動物にない特性として「物語(フィクション)を欲する」ということが挙げられる。どうして我々は小説を読み、芝居や映画を観に行くのか?その行為は何かの役に立つのだろうか?

小説を読んだり、映画や芝居を観ることは愉しい。時を忘れさせてくれる。それは多分、「もうひとつの人生」を生きることなのだ。「風と共に去りぬ」のおかげで僕はアメリカの南北戦争の実態を知り、奴隷制度とか、土地の大切さとか色々なことを学んだ。「シンドラーのリスト」や「サウルの息子」を観れば、ユダヤ人強制収容所がどんな場所だったのか、ナチスがそこで何をしたのかを目撃することになる。シェイクスピアの「リチャード三世」や「オセロ」に登場するイアーゴーを通して人の悪意を、映画「エリザベス」や「エリザベス:ゴールデン・エイジ」によりエリザベス1世(The Virgin Queen)の人となり、イギリスの歴史を知る。「十二人の怒れる男」で陪審員制度の仕組みや、その理念が判る。ミュージカル「RENT」や「ラ・カージュ・オ・フォール」(あるいはその元となった映画「Mr.レディ Mr.マダム」やハリウッド・リメイク「バードゲージ」)を観ればゲイの人達の生態やものの考え方が理解出来るようになる。そう、物語は人間の多様性や、共通する行動パターン(=人間科学/行動科学)を学ぶための扉なのである。自分が一生かけても遭遇出来る筈のないことを擬似体験出来る。何度も生まれ変わってくる輪廻転生や、パラレル・ワールドを同時並行で生きるように。

我々は勉強のために小説を読んだり芝居・映画を観るわけではない。しかし沢山吸収すれば、必ず得るものはある。人生はより豊かになり、見聞を広めて賢くなれる。その見返りは大きい。

ー映画は人生の教科書ですー  (映画評論家/解説者 淀川長治)

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「光と影」の交差〜村上春樹と佐藤泰志

キネマ旬報ベストワン及び米アカデミー賞外国語映画部門の日本代表に選ばれた「そこのみにて光輝く」は大嫌いな作品で虫酸が走った。しかし、この映画で初めて知った佐藤泰志の小説は何故か読んでみたいという気持ちになった。続けて観た同じ原作者の映画「海炭市叙景」(キネマ旬報ベストテン 第9位)はなかなか味があった。そして佐藤の「移動動物園」を読んで、独特の世界に魅了された。

佐藤泰志はその死後、完全に忘れ去られた作家だった。2008年夏、佐藤の古里・函館のミニシアター「シネマアイリス」の支配人・菅原和博氏は「海炭市叙景」を読み、「この小説を映画で観たい」と想った。そこで北海道・帯広出身の熊切和嘉に打診すると、監督することを快諾。有志による製作実行準備委員会が発足した。映画は2010年に公開され、続けて呉美保監督が綾野剛主演で「そこのみにて光輝く」(2014)を函館で撮った。さらに佐藤泰志原作による函館三部作」最終章として山下敦弘監督の「オーバー・フェンス」が待機中。オダギリジョー、蒼井優、松田翔太が出演し、2016年に公開予定となっている。

こうした映画公開と連動して、「海炭市叙景」を皮切りに長らく絶版となっていた佐藤の小説が次々と文庫本として出版されるようになり、今やちょっとしたブームとなっている。

佐藤泰志は1949年4月26日生まれ。対して毎年のようにノーベル文学賞候補として話題となる村上春樹は1949年1月12日生まれ。たった3ヶ月しか違わない。完全に同世代である。

佐藤は北海道函館市で幼少期を過ごし、高校3年生(18歳)の時「市街戦の中のジャズメン」で有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。小説の中でフリージャズを牽引したサックス奏者オーネット・コールマンについて言及している。二浪の後、國學院大學に合格し20歳で上京。23歳の時に同棲していた彼の恋人(後の妻)は國學院大學を中退し、国分寺のジャズ喫茶に務めた

村上春樹は京都市に生まれ、生後まもなく兵庫県西宮市夙川に転居。一浪の後、19歳で早稲田大学第一文学部に入学した。上京した時期もほぼ一致している。1970年代初頭にジャズ喫茶「水道橋スウィング」の従業員となり、在学中の1974年(25歳)、国分寺にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店した。小説中にしばしば洋楽のタイトルが登場するのも両者に共通した特徴である。

村上は1979年「風の歌を聴け」と翌年の「1973年のピンボール」で2度芥川賞候補となったが、受賞には至らなかった。一方、佐藤は1981年「きみの鳥はうたえる」、82年「空の青み」、83年「水晶の腕」並びに「黄金の服」、85年「オーバー・フェンス」で5回芥川賞候補となったが一度も受賞出来ず。88年「そこのみにて光輝く」は三島由紀夫賞と野間文芸新人賞の候補になったが、やはり選考委員から佐藤の名が呼ばれることはなかった。1990年(平成2年)妻子を残して自殺(東京にある自宅近くの植木畑で縊死)、享年41歳だった。

佐藤の死の原因を文学賞が受賞出来なかったことに求める論調をしばしば見かける。しかしそれは完全に間違いだ。作家というのは自殺するものである。ノーベル文学賞を受賞した川端康成(ガス自殺)やヘミングウェイ(ライフルで頭を撃ち抜く)もそう。名誉/栄光を受けたどうかは関係ない。作家はみな孤独であり、自己を見つめ身を削る作業なので気も滅入るだろう。他に例を挙げるなら北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、火野葦平、 三島由紀夫、江藤淳、森村桂(「天国にいちばん近い島」)、野沢尚(「破線のマリス」で江戸川乱歩賞受賞)らも自死している。

佐藤は1977年に自律神経失調症の診断を受け通院を始め(医者の勧めで始めた運動療法=ランニングを題材に「草の響き」が書かれている)、1979年12月9日には睡眠薬による自殺未遂で入院した(その翌月に長男が誕生している)。81年、作家として生計を立てることを諦め函館市に転居。職業訓練校の建築科に入学するが(この時の体験が「オーバー・フェンス」を産んだ)、「きみの鳥はうたえる」が第86回芥川賞候補作となり、翌年3月に東京に戻る。函館と東京を行き来する人生だった。

佐藤の小説を読んでいて強く感じるのは息が詰まるような閉塞感である。行き止まり。「黄金の服」で主人公はヒューバート・セルビーの《ブルックリン最終出口》を読んでいる。しかし結局、彼がその小説を読み終わることはない。出口なし。「オーバー・フェンス」で主人公は草野球のグラウンドに立ち、はるか遠方に見えるフェンスの向こう側に思いを馳せるが、最後までそれを超えることはない。函館を舞台にした小説の空間も閉じているし、東京を舞台にしていても同じだ。「黄金の服」には《今、必要なのは東京から逃げ出すことだ。》という一節が登場する。しかし、東京を抜けだしたとしても主人公が自由になれるわけではない。この感覚はやはり自殺した落語家・桂枝雀の創作落語(「夢たまご」「春風屋」「山のあなた」)と相通じるところがある。

佐藤が18歳(高校生)の時に書いた「市街戦のジャズメン」を支配しているのは焦燥感である。ここ(函館)に自分の居場所はないという苛立ち。しかし大学卒業後1976年に書かれた「深い夜から」は東京の映画館を舞台にした短編だが、やはり主人公は苛立ち、怒り、その場から逃げ出そうとしている。彼が心の安らぎを得られる場所は何処にもない。

佐藤泰志にあって村上春樹にないもの。それは《昭和の匂い》。登場人物たちは無闇矢鱈(むやみやたら)とタバコを吸い(まるで宮﨑駿の「風立ちぬ」みたいだ)、男は平気で女の顔を殴る。ブルーカラーが多いのも特徴だろう。市井の人々のささやかな日常。村上文学には欠如した要素だ。実際、昭和に書かれた村上の「風の歌を聴け」も「羊をめぐる冒険」も全く昭和を感じさせない。

佐藤の小説を読んでいると気が滅入るのは確かである。しかし何か心に引っかかる、琴線に触れるものがあることも間違いない。そしてそれは、僕が村上春樹の小説から一度も感じたことがない感情なのだ(エッセイスト/翻訳家としての村上の才能は高く評価しているのだが)。ちなみに今まで僕が読んだ村上の小説は「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」「ノルウェイの森」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「少年カフカ」「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」である。

佐藤の死後出版された未完の連作短編集「海炭市叙景」の最後を飾る「しずかな若者」は暗喩に満ちた逸品だ。別荘地でひとり過ごす19歳の大学生が主人公。彼はジャズとジム・ジャームッシュの映画が好き。設定が非常に村上春樹的で、それまで敗者(Loser)のための文学を書き続けてきた佐藤「らしくない」。しかし丘の中腹にある別荘地の上には墓地が広がっており、主人公は来年ここを訪れることはないだろうと考えているー忍び寄る死の影。彼は車に乗り、丘を下ってゆく。周囲は一旦暗くなり、やがて陽だまりに出るという一歩手前で小説はプツンと終わる。僕にはこの《陽のあたる場所》が、村上春樹の世界を象徴しているとしか想えない。佐藤はそこへ必死に手を伸ばすが、結局届かない。花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ。生は暗く、死もまた暗い。……彼の小説は痛々しく、そして切ない。

村上春樹と佐藤泰志。同世代でありながら作品の性格は全く異なり、光と影の関係にあると言えるだろう。両者を読み比べ、運命の女神の気まぐれに想いを馳せる時、小説世界はどんどん広がり、多様な色彩を帯びて光り輝くのである。

  • 北海道新聞に掲載された佐藤泰志の長女が語る父親像が興味深い→こちら

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「バニー・レークは行方不明」と、パリ万博・消えた貴婦人の謎

町山智浩(著)「トラウマ映画館」で紹介され、ずっと興味を持っていたオットー・プレミンジャー監督の映画「バニー・レークは行方不明」(1965)DVDが漸くレンタル開始となったので早速観た。

Bunny_

こういうプロットだ。

アメリカからロンドンにやって来たシングルマザーのアン・レークは引っ越し早々、4歳の娘バニーを保育園に送り届けるが、その数時間後に娘が行方不明になってしまう。半狂乱になって兄と行方を探すアン。しかし保育園のどこにも子供が存在したという痕跡がない。保育士の誰もバニーを見ていない。写真もない。捜査に乗り出した警部(ローレンス・オリヴィエ)は、消えた娘というのは彼女の妄想ではないかと疑い出す……。

なおイヴリン・パイパーが書いた原作小説(ハヤカワ・ポケット・ミステリ刊)は1957年の作品である。

僕には既視感(デジャヴ)があった。小学校2,3年生の頃に読んだ物語を彷彿とさせたのである。

おぼろげな記憶を頼りに、漸くその本を突き止めた。「名探偵トリック作戦」(藤原宰太郎、学習研究社、1974)のカラー巻頭漫画「消えた母の秘密」であった。

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問題編

1889年フランス革命100周年を記念する万国博覧会が開催されていたパリの街を船で旅行中の一組の母娘が訪れた。二人はそれまでインドを訪問しており、パリに寄ったのは博覧会を見物するためであった。しかし母親の体調は優れず、ホテルの部屋で寝込んでしまう。ホテル付きの医者に診せるが彼の手には負えない。娘は自分で医者を探すべくホテルを飛び出した。   

漸く頼りになりそうな医者を見つけてホテルに戻ったときには既に数時間が経過していた。娘はホテルの従業員に母の具合を尋ねる。しかし彼は思わぬ言葉を口にした。
「お客様はお一人で宿泊されていらっしゃいますが」       
そんな筈はないという彼女の訴えに彼はただ首を傾げるのみ。部屋に行けばわかると、娘は従業員らを連れて自室に向かった。だが、扉を開けて彼女は愕然とする。 壁紙や調度品……部屋の何から何までが異なっており、母親の姿は影も形もなかった。彼女が持つ鍵と鍵穴は一致する。ルーム・ナンバーを間違えたわけではない。

娘は母を診察したホテル付きの医者を問い質した。しかし彼もまた、「そのような方を診た覚えはありません」と否定。彼女はホテル中の人々に尋ねたが、誰一人としてそのような人が宿泊していた事実は知らない。異国で一人ぼっちになった娘は途方に暮れるばかりであった。

解決編

真相は次のようなものであった。母親はインドでペストに罹っており、ホテルに着いた直後に息を引き取った。だが万博の最中このような事実が知れ渡ったらパリの街中が混乱し、ホテルの営業は大打撃を被る。そこでホテルはパリ当局と共謀して、娘が外出している間に母親を別の場所に隔離し、突貫工事で部屋を改装、関係者全員で口裏を合わせて最初からそんな人物が存在しなかったかのように振舞ったのだった。

これはベイジル・トムスンの短編集"Mr. Pepper, Investigator "(1925)の中の1篇「フレイザー夫人の消失」(新潮文庫「北村薫のミステリー館」収録)が原典だった。また直木賞を受賞した推理作家・北村薫によるとコオリン・マーキーの「空室」(【新青年】1934年4月号掲載)も同趣旨の物語であり、さらにそれらの大本を辿るとパリ万博で実際にあった話だという。しかしいくらなんでも実話とは信じ難いので、一種の都市伝説みたいなものなのだろう。はっきりと原作者が特定出来ないということ自体、ミステリアスである。

アメリカの評論家アレクサンダー・ウールコットはエッセイ「ローマが燃えるあいだ」(1934)で「消えた貴婦人」について触れ、この話の出典は1889年のパリ万国博覧会開催中に発刊されたデトロイト・フリー・プレス紙のコラムであると書いている。 しかしウールコットが出典として挙げている記事は、調べてみると実際には存在しないのだという。

「フレイザー夫人の消失」はアルフレッド・ヒッチコック監督の映画「バルカン超特急」(1938)やウィリアム・アイリッシュの短編小説「消えた花嫁」(1940)、ディクスン・カーのラジオ・ドラマ「B13号船室」(創元推理文庫「幽霊射手」収録)の元ネタにもなっている。

そして「バルカン超特急」や「バニー・レイクは行方不明」を参考にして、ジュリアン・ムーア主演の映画「フォーガットン」(2004)やジョディ・フォスター主演「フライトプラン」(2005)が相次いで製作された。

さらに漫画「MASTER キートン」(作:勝鹿北星/画:浦沢直樹)の「青い鳥消えた」というエピソードが「バニー・レイクは行方不明」に酷似している。

これだけ多数のヴァリエーション(パスティーシュ)を生むということは、やはりそれだけ魅力のある物語なのだろう。僕も幼少期に読んだ「消えた母の秘密」を未だに覚えているのだから強烈な印象を受けたわけで、正にトラウマと言って差し支えない。どうしてこれほどまでに惹かれるのだろう?じっくり考えてみた。

  1. 自分のことを周囲の誰も覚えてくれていないという恐怖。ーそれは自分の死後も何事もなかったように世界が続いていくことへの畏怖の念でもあるだろう。
  2. 自分が愛し、親しくしている人々が、実は単に自分の幻想だけの存在なのではないかという恐怖。フランソワ・オゾンの映画「まぼろし」やテリー・ギリアム監督「未来世紀ブラジル」のラストシーンを想い出して欲しい。

結局これらは、人間の実在の不確かさ、生きることの意味への不安にも繋がっているのだろう。

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近・現代芸術をより深く理解するための必読書

将来これを読むであろう息子(現在4歳)と、未来を生きる若い人たちに向けて書いてみよう。君たちが悔いのない人生を送るための先輩からの餞(はなむけ)のメッセージだと思って読んで欲しい。

今更言うまでもなく、僕たち日本人は(好むと好まざるとに関わらず)欧米で生まれた文明・文化にどっぷり浸かって日々の生活を送っている。洋服を着て車や電車(または自転車)に乗り通勤・通学し、(平均律に基づく)洋楽を聴き、(エジソンを経てフランスのリュミエール兄弟を起源とする)映画やテレビを観て愉しみ、サッカー・野球・テニスに興じる。家庭用ガスや電化製品も欧米の発明品である。また我が国の憲法や議会民主主義はイギリスのそれを参考として制定されたものだし、病気になれば病院を受診して西洋医学の恩恵に与(あずか)る。アメリカで産まれたパソコンやスマホは最早、僕達にとって必要不可欠だ。

こういったものと全く関わることなく、江戸時代以前の暮らしを送っている人なんて皆無だろう。しかし西洋の文明・思想が、どういう背景から形成されてきたのか?そのルーツを正確に知っている人は意外と少ない。そこで欧米のみならず現代日本の芸術・文化の成立史を知る上でも是非抑えておきたい書物を幾つかご紹介しよう。

まず本の話に進む前に、欧米人の考え方の根幹をなすカルペ・ディエムCarpe Diem(その日を摘め)/メメント・モリMemento Mori(死を想え)という警句を押さえておこう。下記記事を参考にされたし。

では次のステップに移る。

1)ギリシャ神話

そもそも「ヨーロッパ」の語源はギリシャ神話に登場する姫の名「エウロペ」である。ゼウスは策略をめぐらし彼女と交わり、後にクレタ島の王となるミノスらを産ませた。

ギリシャ神話あるいは、ホメロス(アオイドス=吟遊詩人)の叙事詩「イーリアス」「オデュッセイア」を原作とするオペラを列記してみよう。

  • 「ピグマリオン」ラモー(作曲)
  • 「オルフェオ」「ウリッセの帰還」モンテヴェルディ
  • 「オルフェオとエウリディーチェ」グルック
  • 「イドメネオ」モーツァルト
  • 「ゼルミーラ」ロッシーニ
  • 「地獄のオルフェ(天国と地獄)」オッフェンバック
  • 「メディア」ケルビーニ
  • 「トロイアの人々」ベルリオーズ
  • 「プロメテ」「ペネロープ」フォーレ
  • 「エレクトラ」「ナクソス島のアリアドネ」「ダナエの愛」
    R.シュトラウス
  • 「エウロペの略奪」「見捨てられたアリア-ヌ」「解放されたテセウス」ミヨー
  • 「オディプス王」ストラヴィンスキー

ちなみに楠見千鶴子(著)「オペラとギリシャ神話」(音楽の友社)によるとギリシャ神話に関連するオペラは150以上もあるという。如何にギリシャ神話がヨーロッパ文化に影響を及ぼしていたかという証拠である。

劇団四季がしばしば上演する20世紀フランスの劇作家ジロドゥ(1882-1944)の「アンフィトリオン38」「エレクトル」「トロイ戦争は起こらないだろう」もギリシャ神話を題材にしている。ラシーヌ(1639-1699)の「アンドロマク」やコクトー(1889-1963)の「オルフェ」、アヌイ(1910-1987)の「アンチゴーヌ」「ユリディス」もしかり。

またミュージカル「マイ・フェア・レディ」の原作はバーナード・ショウの戯曲「ピグマリオン」(1913年初演)。タイトルになったピュグマリオーンとはギリシャ神話に登場するキプロス島の王であり、現実の女性に失望していた王は自ら理想の女性・ガラテアを彫刻した。その像を見ているうちに彼はガラテアに恋をするようになる。そしてこの物語は映画「プリティ・ウーマン」や「舞妓はレディ」に継承されていく。

ゲーテファウスト」第二部にはギリシャ神話からの引用がふんだんに登場するので、ある程度の知識がないと歯がたたないだろう。シェイクスピア夏の夜の夢」もしかり。

カンヌ国際映画祭で国際批評家大賞を受賞し、日本でもキネマ旬報ベスト・ワンに輝いた、ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の代表作「旅芸人の記録」(1975)という作品がある。第二次世界大戦前後に跨がる近代ギリシャ史を描く大作だが、旅芸人の一座の名前ーアガメムノン、クリュタイムネストラ、エレクトラ、アイギストス、オレステスなどはギリシャ神話及び「イーリアス」の登場人物である。そしてプロットも古代神話に基いている。

ウディ・アレン脚本・監督の映画「誘惑のアフロディーテ」(1995)のアフロディーテとは恋の女神のことであり、ローマ名はウェヌス。この英語読みがヴィーナスである。また映画には古代ギリシャ劇のコロス(合唱隊)が登場する。

ウォルト・ディズニーの最高傑作「ファンタジア」でベートーヴェン/田園交響曲のセクションで描かれるのもズバリ、ギリシャ神話の世界である。ゼウス(ジュピター)、ヘーパイストス(バルカン)、ディオニューソス(バッカス)、パン……。君たちは何人、言い当てられるだろうか?

手軽にギリシャ神話の知識を得るには芥川賞作家・阿刀田高ギリシャ神話を知っていますか」(新潮文庫)や「私のギリシャ神話」(集英社文庫)をお勧めしたい。ユーモアがあって読み易い。しかもベージ数が少ない!非常に優れたガイドブック(入門書)である。

2)旧約聖書/新約聖書

一般に旧約聖書はユダヤ教、新約聖書はキリスト教の聖典だと思われがちだが、キリスト教徒にとっては旧約と新約を合わせたものが「聖書」である。どちらも不可欠なのだ。

ディズニーの「ピノキオ」で鯨に呑み込まれて生還するエピソードがあるが、あれは旧約聖書「ヨナ書」に基づいている。ちなみにカルロ・コッローディが書いた原作小説「ピノッキオの冒険」では鯨ではなく鮫に呑み込まれる。なお、旧約聖書には”大きな魚”と書かれているだけなので、鯨とも鮫とも解釈出来る。

ジェームズ・ディーン主演の映画が有名なスタインベックの小説「エデンの東」はタイトルそのものが旧約聖書に基いている。そしてプロットは旧約聖書「創世記」第4章に登場する兄弟カインとアベルの物語をなぞる形式を取る(監督のエリア・カザンはユダヤ人で元共産党員。赤狩りでの自分の裏切り〘非米活動委員会での証言〙に対する周囲の反応を、エデンの東に追放されたカインの物語に重ねている)。

またジョン・フォード監督の映画でも知られるスタインベックの「怒りの葡萄」の出典は新約聖書「ヨハネの黙示録」。新天地を求めてカリフォルニアに向かう一家の物語は旧約聖書「出エジプト記」のモーゼに率いられたユダヤ民族の旅を彷彿とさせる。

スピルバーグ監督「未知との遭遇」もまた、「出エジプト記」が骨子となっている。繰り返し出てくる山のイメージはモーゼが神から十戒を授かったシナイ山を暗示している(主人公の家族はテレビでセシル・B・デミル監督の「十戒」を観ている)。また主人公が子どもたちに「ピノキオ」を観に行こうと誘う場面もある。

アカデミー撮影賞を受賞し、全篇が”マジック・アワー”で撮影されたことで余りにも有名なテレンス・マリック監督の「天国の日々」のタイトルも旧約聖書が出典。イナゴが襲ってくる意味も聖書の知識がないとチンプンカンプンだろう。カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞したマリックの「ツリー・オブ・ライフ」とはエデンの園にある生命の樹のことであり、知恵の樹と対をなす。映画の冒頭には旧約聖書のヨブ記が引用され、これがテーマに深く関わっている。

庵野秀明ヱヴァンゲリヲン新劇場版」(旧・新世紀エヴァンゲリオン)を理解する上でも聖書の知識は必須だよね。そもそもエヴァンゲリストとはキリスト教における伝道者のことだから。

聖書を原典で読むというのはキリスト教徒でもなければ敷居が高すぎる。そこでまたまた登場、阿刀田高旧約聖書を知っていますか」「新約聖書を知っていますか」(新潮文庫)が重宝する。またキリストの生涯を知るには映画「偉大な生涯の物語」(音楽:アルフレッド・ニューマン)とか、フランコ・ゼッフィレッリ監督のテレビ映画「ナザレのイエス」(音楽:モーリス・ジャール)などをお勧めしたい。数ある宗教映画の中でなぜこれか、というと音楽が僕のお気に入りなんだよね。他意はない。アンドリュー・ロイド=ウェバーのロック・ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」もいいね!ウェバー22歳の作曲。彼は文字通り天才だった(過去形)。さらに言えば、ウェバーの"Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat"は旧約聖書の物語に基づくミュージカルである。

3)ダンテ「神曲」

宮﨑駿は「風立ちぬ」シナリオ作りにあたり、ダンテの「神曲」を参考にしたと明言している(こちらの記事)。つまり「風立ちぬ」のヒロイン・菜穂子は「神曲」のベアトリーチェであり、ラストシーンでカプローニと堀越二郎が立っている草原は煉獄(天国と地獄の中間地点)なのだ。そこへ天から菜穂子が降りてきて「来て」と言うのが絵コンテ(シナリオ)の第1稿だった。つまり「神曲」同様、彼女は二郎を天国に導こうとしていたのである。しかしアフレコの最終段階になって台詞は「生きて」に変更された。「風立ちぬ」が「神曲」をベースにしていることが判れば、ダンテを道案内するウェルギリウス(実在した古代ローマ詩人)の役回りをカプローニが担っていることが明快になるだろう。だからイタリア人なのである

永井豪は幼少期に読んだ子供向け「神曲」に掲載されたギュスターヴ・ドレの挿絵に衝撃を受けたという。そして後に「神曲」にインスパイアされた漫画「魔王ダンテ」や「デビルマン」を書いた。また「神曲」そのものも漫画化している。

フランツ・リストダンテ交響曲を作曲した。チャイコフスキーは「地獄篇」第5歌を基に幻想曲(管弦楽曲)「フランチェスカ・ダ・リミニ」を書いている。ちなみにチャイコフスキーはゲイだったので、キリスト教的価値観から判断すると死後は地獄に落ちると覚悟していた筈である。だから禁断の恋の果てに地獄で苦しむフランチェスカとパオロに共感したのだろう。またゲーテの「ファウスト」も明らかに「神曲」の影響を受けている。つまりベアトリーチェは約500年の歳月を経てグレートヒェンとして生まれ変わったのだ。

しかし脱線の多いダンテ「神曲」を全篇読むのは苦行だ。そこで伝家の宝刀!阿刀田高やさしいダンテ『神曲』」(角川文庫)をどうぞ。永井豪の漫画版とか、挿絵が豊富な「ドレの神曲」(宝島社)でもいいんじゃないかな?

4)シェイクスピアの戯曲

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の作品は現代でも盛んに上演されている。戯曲を「読む」必要はない。是非舞台を観て欲しい。ただ地方によっては演劇に接する機会が少ないかも知れない。そういう場合は映画が便利だ。ローレンス・オリヴィエ主演・監督「ハムレット」「ヘンリィ五世」「リチャード三世」、フランコ・ゼッフィレッリ監督「じゃじゃ馬ならし」「ロミオとジュリエット」、ケネス・ブラナー主演・監督「ヘンリー五世」「から騒ぎ」「ハムレット」、トレヴァー・ナン監督「十二夜」等をお勧めする。またヴェルディのオペラ「マクベス」「オテロ」「ファルスタッフ」もいい。「オテロ」はプラシド・ドミンゴ主演、フランコ・ゼッフィレッリ監督の優れたオペラ映画がDVDで出ている。

他にシェイクスピアに基づく(霊感を受けた)クラシック音楽を挙げよう。

  • パーセル/歌劇「テンペスト、または魔法の島」
  • ベートーヴェン/ピアノソナタ第17番「テンペスト」
  • シベリウス/劇音楽「テンペスト」
  • トーマス・アデス/歌劇「テンペスト」(2004年初演)
  • シューマン/「十二夜」より”道化の終幕の歌”
  • ウェーバー/歌劇「オベロン」
  • メンデルスゾーン/劇付随音楽「夏の夜の夢」
     (「結婚行進曲」が有名)
  • ブリテン/歌劇「夏の夜の夢」
  • ベルリオーズ/大序曲「リア王」
  • ベルリオーズ/劇的交響曲「ロメオとジュリエット」
  • グノー/歌劇「ロメオとジュリエット」
  • チャイコフスキー/幻想的序曲ロメオとジュリエット」
  • チャイコフスキー/幻想的序曲「ハムレット」
  • トーマ/歌劇「ハムレット」
  • ロッシーニ/歌劇「オテロ」
  • ドヴォルザーク/序曲「オセロ」
  • ヴェルディ/歌劇「オテロ」
  • ヘルマン・ゲッツ/歌劇「じゃじゃ馬ならし」
  • ハンス・ロット/「ジュリアス・シーザー」への前奏曲
  • ニコライ/歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」
  • サリエリ/歌劇「ファルスタッフ」
  • ヴェルディ/歌劇「ファルスタッフ」
  • エルガー/交響的習作「ファルスタッフ」
  • ウォルトン/「ハムレット」「ヘンリィ五世」「リチャード三世」の音楽
  • ヴォーン・ウィリアムズ/シェイクスピアの詩による3つの歌

最低限押さえておきたいシェイクスピア作品は「ハムレット」「オセロー」「マクベス」「リア王」の四大悲劇と「ロミオとジュリエット」「リチャード三世」、喜劇なら「ヴェニスの商人」「十二夜」「ウィンザーの陽気な女房たち」「(真)夏の夜の夢」あたりかな?「夏の夜の夢」にインスパイアされた作品として小池修一郎作・演出の宝塚歌劇「PUCK」や、イングマール・ベルイマン監督のスウェーデン映画「夏の夜は三たび微笑む」も推薦したい。後にこれを原作としてスティーヴン・ソンドハイム作詞・作曲のブロードウェイ・ミュージカル「ア・リトル・ナイト・ミュージック」が誕生する。またミュージカル「ウエストサイド物語」が「ロミオとジュリエット」のパスティーシュであることは論を俟たない。あとディズニーの「ライオンキング」は手塚治虫の「ジャングル大帝」だけではなく、「ハムレット」もベースにしている。

日本では黒澤明監督の「蜘蛛巣城」が「マクベス」の翻案である。黒澤の「」は「リア王」。因みに「乱」がランクインしている、米タイム誌が選ぶ「シェイクスピア映画のベスト10」リストはこちら。アカデミー作品賞を受賞した「恋におちたシェイクスピア」(1998)も是非観て欲しいのだが、「十二夜」がベースになっているので出来れば予習をして臨もう。

5)ミルトン「失楽園」

ジョン・ミルトン(1608-1674)はイギリスの詩人で共和派の運動家。「魔法少女まどか☆マギカ」テレビ・シリーズの方はゲーテ「ファウスト」を下敷きにしているが、劇場版[新編]「叛逆の物語」はミルトンの「失楽園」がベースになっている。暁美ほむらがどうして最後に自らを「悪魔」と名乗るのかは「失楽園」を読めば納得出来る。

またトールキンの「指輪物語」(ロード・オブ・ザ・リング)やプルマンの「ライラの冒険」三部作(黄金の羅針盤etc.)、ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズなども間違いなく「失楽園」の影響を受けている(黄金の羅針盤は「失楽園」で言及されている)。つまりイギリスで隆盛を誇るファンタジー文学の原点が「失楽園」だと言えるだろう。余談だが「指輪物語」は神話「ニーベルングの指環」からの影響も見逃せない。こちらは本ではなく、ワーグナーのオペラを観ることをお勧めたい。ちなみに宮﨑駿「崖の上のポニョ」も「ニーベルングの指環」に繋がっている(くわしくはこちら)。

「失楽園」第6巻(全12巻)最後でサタン率いる反乱天使の軍団がことごとく追い詰められ、地獄の果てへと突き落とされる場面で、僕は宮﨑駿監督「天空の城ラピュタ」のクライマックス・シーン(破壊兵器であるラピュタの下層部分だけが地に堕ち、一本の大木に支えられた上層部が上昇していく)を想い出した。

なお、「神曲」の煉獄に相当するのが「失楽園」では「混沌(Chaos) と「夜」の領域である。

映画評論家・町山智浩氏はクリストファー・ノーラン監督「ダークナイト」と「失楽園」の関連性を指摘している。つまり一見目的がないようにみえるジョーカー(=サタン)が引き起こす犯罪の真の狙いは「神への挑戦」であり、だから彼は我々(神の創造物である人間)に選択を迫り、試すのである。そしてこの町山氏の解釈は諫山創進撃の巨人」に繋がってゆく(→諫山氏のブログへ)。「壁の中」は神に庇護されたエデンの園であり、家畜の安寧・虚偽の繁栄がある。一方「壁の外」は混沌(Chaos)であり、嵐が吹き荒び危険が待ち構えている。しかしそこには自由がある。だから人間は決して拐(かどわ)かされたのではなく、自らの意志で林檎を囓ることを選択し、自由の翼を得て羽ばたくのだ。実写版「進撃の巨人」のシナリオに町山氏が参加しているのは決して偶然ではない。

「失楽園」は平井正穂訳の岩波文庫版でどうぞ。名訳でサクサク読める。訳注が豊富なのも勉強になってありがたい。

6)ゲーテ「ファウスト」

シューベルトの歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」の出典はゲーテの「ファウスト」第一部である。この詩には他にグリンカヴェルディ(6つのロマンツェ)ワーグナーゲーテのファウストのための7つの小品)らも曲を付けている(ワーグナーにはファウスト序曲も)。

ベルリオーズ幻想交響曲」第5楽章は「ワルプルギスの夜の夢」。これは「ファウスト」に登場する。第4楽章「断頭台への行進」も「ファウスト」のイメージだ。この作曲家にはそのものズバリ「ファウストの劫罰」という作品もある。

メンデルスゾーンはゲーテのテキストに基づきカンタータ「最初のワルプルギスの夜」を、シューマンは独唱、合唱、管弦楽のための「ゲーテのファウストからの情景」という大作を書いている。またフランスのシャルル・グノーオペラ「ファウスト」を作曲し、ハンガリーのフランツ・リストは合唱を伴うファウスト交響曲を書いた。因みにリストに「ファウスト」を読むよう勧めたのは友人のベルリオーズである

俗に「千人の交響曲」と呼ばれるマーラー交響曲 第8番の後半は「ファウスト」第二部から最後の場面より歌詞が採られている。さらにイタリアの作曲家ブゾーニオペラ「ファウスト博士」を1916年に着手したが未完に終わった。ヴェルディの「オテロ」や「ファルスタッフ」の台本を書いたボーイトオペラ「メフィストフェーレ」を作曲している。

これだけ数多くの作曲家に刺激を与えた小説(戯曲)って、他にはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」(ベッリーニとグノーのオペラ、ベルリオーズの劇的交響曲とチャイコフスキーの幻想序曲、プロコフィエフのバレエ、バーンスタインの「ウエストサイド物語」とプレスギュルヴィックによるフランス産ミュージカル←大好き!)くらいしか思い付かない。

そもそも「ファウスト」を日本語で最初に完訳したのは文豪・森鴎外である。そして太宰治は長編小説「正義と微笑」で森鴎外訳「ファウスト」を引用し、芥川龍之介も「三つのなぜ」でファウストについて考察している(全文は→こちら)。

天才・手塚治虫は生涯で3度「ファウスト」を漫画化している。まず20歳頃の赤本時代の「ファウスト」、42歳頃に「百物語」、そして未完の遺作となった「ネオ・ファウスト」である。ゲーテ「ファウスト」第二部にホムンクルス(人造人間)が合成される場面があるが、僕はこれを読みながら鉄腕アトム誕生の情景を連想した。あとアトムの最後は太陽に向かうわけだけれど、それってギリシャ神話のイカロスだよね(ファウストの息子オイフォリオンも同じ運命をたどる)。鉄腕アトムの物語は後にキューブリック/スピルバーグの映画「A.I.」に引き継がれる(「鉄腕アトム」を観たキューブリックは手塚治虫に「2001年宇宙の旅」の美術監督を引き受けてくれないかと打診している。しかし当時、多くの連載と「虫プロダクション」を抱えていた手塚にはそんな余裕はなく、断っている)。

黒澤明監督「生きる」で主人公が飲み屋で偶然知り合う小説家(伊藤雄之助)は次のような台詞を言う。「あなたの無駄に使った人生をこれから取り返しに行こうじゃないですか!私はね、今夜あなたのために喜んでメフィストフェレスの役を務めます。代償を要求しない善良なるメフィストの役をね。おあつらえ向きに黒い犬もいる。こらっ案内しろ!」つまり「生きる」は「ファウスト」を下敷きにしており、魂の救済者=小田切みきがグレートヒェンなのである。市役所の市民課長である主人公が自分の死を迎える直前に公園を完成させるのは、ファウストがその晩年に干拓事業を成し遂げることに符合する。

またアニメ「魔法少女 まどか☆マギカ」に登場するきゅうべえや、漫画「デスノート」の死神リュークは明らかに「ファウスト」のメフィストフェレスである。ついでに言えば、リュークがいつも持っている林檎は旧約聖書でアダムとイヴがエデンの園から追放される契機となった知恵の木に生える果実であり、それを食べることを唆したのが蛇に化身した悪魔=メフィストなのである。

それからディズニー「ファンタジア」でムソルグスキー/禿山の一夜のセクションはワルプルギスの夜の夢を描いていると申し添えておく。

西洋人は契約を重視する。これは口約束が慣例の日本人には中々理解し難いことである。しかしファウストはメフィストフェレスから差し出された契約書にサインするし、旧約聖書では神とユダヤ民族とが契約を結ぶ。ここから「選民思想」が生まれる。つまり聖書そのものが契約書なのであるそして後に神との契約関係はひたすら律法を遵守することであると考えられるようになる。

「ファウスト」を読むなら「ブリキの太鼓」新訳でも話題になった池内紀訳の集英社文庫版がオススメ。文豪ゲーテって内容が重くて読み難いのかなとずっと先入観を持っていたのだが、意外にもサラッと読めた。今まで知らなかったのだけれど、戯曲仕立てなのでほとんど会話文で進行するから難解なところが皆無なんだよね。池内のエッセイ「ゲーテさんこんばんは」もいい。ゲーテってイメージと全然違って、好奇心旺盛で親しみがわく人物だったんだね!「目から鱗が落ちる」体験だった(←ちなみにこの諺、由来は新約聖書「使徒行伝」である)。

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フーケ「ウンディーネ」からジロドゥ「オンディーヌ」、そして「崖の上のポニョ」へ

切っ掛けはライネッケが書いた室内楽曲を聴いたことだった。

ライネッケはドイツの作曲家。ブラームスより9歳年長で「ドイツ・レクイエム」初演の指揮をしている。彼が1881年に発表したフルート・ソナタが「ウンディーネ」である。

僕は幻想的で美しい曲調にときめいた。フルート・ソナタの史上最高傑作はプーランク作だと確信しているが、プーランクを20世紀の代表とするなら、「ウンディーネ」は間違いなく19世紀に生まれた唯一無二の至宝だろう。

調べてみるとこの楽曲はフーケが1811年に書いた小説「ウンディーネ」の物語に沿ったものだということが分かった。フーケはドイツの作家であるが、父はフランス人で母がドイツ人。さらに、それに基づきフランスの劇作家ジロドゥが1939年に書いたのが戯曲「オンディーヌ」である。

そこで20世紀初頭にイギリスの絵画家・アーサー・ラッカムが挿絵を描き(←一級の芸術品だ)、岸田理生(きしだりお)が翻訳したフーケーの「ウンディーネ」を読んだ。岸田といえば金子修介監督の映画「1999年の夏休み」の脚本が印象的だった(原案は萩尾望都の漫画「トーマの心臓」)。

Rackham

美しい物語である。水の精と騎士の恋。そこに騎士の婚約者との三角関係が絡み、哀しい結末を迎える。ライネッケのソナタ各楽章はプロットの進行に添っている。

  1. 水の精ウンディーネの描写
  2. 嵐の場面(岬の漁師の家、騎士の来訪)
  3. ウンディーネと騎士、婚約者と3人での穏やかな日々(城での生活)
  4. やがて訪れる悲劇(魔物の出現、ドナウくだりでの諍い、騎士の死)

この小説を読み、宮崎駿監督のアニメーション映画「崖の上のポニョ」との類似に気がついた。水の精との異種婚姻、嵐や波と戯れるヒロイン(ドイツ語ウンディーネ/フランス語オンディーヌを直訳すると「波の女」となる)、人間と自然との対峙、等々。そしてヒロインのキャラクター設定は「ウンディーネ」よりもむしろジロドゥ「オンディーヌ」からの影響が強い。

「崖の上のポニョ」のレビューでも語ったが、父フジモトがポニョを「ブリュンヒルデ」と呼ぶように、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」(元はドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」)を下敷きにしていることは間違いない。ジロドゥ「オンディーヌ」にも「ニーベルンゲンの歌」への言及がある(第二幕)。

「崖の上のポニョ」とアンデルセンの「人魚姫」との関連性を論じる人もあるが、見当違いも甚だしい。アンデルセン童話の多くはキリスト教の影響が強く、「父さんのすることはいつもよし(おとうさんはすてき)」と日本の「わらしべ長者」との違いを見ればその傾向は明らかであろう。「人魚姫」は自己犠牲の話であり、そういう意味でむしろアンドレ・ジッド「狭き門」に近く、人魚が人間に恋する以外「ポニョ」と無関係である。

「ウンディーネ」→「オンディーヌ」という水の精にまつわる物語と、「ニーベルンゲンの歌」→「ニーベルングの指環」というふたつの潮流(どちらもドイツの伝説・神話だ)、さらに海に沈んだとされる「イスの町=ケル・イス」伝説(やはり「オンディーヌ」第二幕で言及される)が宮崎駿の脳内で融合したのが「崖の上のポニョ」と言えるだろう。

なお、光文社古典新訳文庫のジロドゥ「オンディーヌ」(二木麻里 訳)は解説が極めて充実しており、水の精の物語の源流は何か(メリジューヌ伝説)、それがどう発展してきたか、フーケ「ウンディーネ」との相違、メーテルリンク「ペレアスとメリザンド」との関係など読み物としてすこぶる面白く(相関図あり!)、興味のある方は是非一読をお勧めしたい。

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宝塚生活始まる。

僕が郷里岡山を離れ、関西に移り住んだのが今から8年前の3月。それ以来、大阪府堺市に生息していた。しかし、そろそろ手狭になったので、思い切って引っ越しをすることにした。第1候補に上がったのが宝塚市であった。

宝塚市に初めて足を踏み入れたのは忘れもしない、1998年宝塚宙組エリザベート(姿月あさと、花總まり、湖月わたる、朝海ひかる 他)観劇目的であった。静かで上品な街だなというのが第一印象であった。それ以来、宝塚歌劇観劇目的で何度も訪れ、ますます好きになっていった。

関西移住が決まって最初に検討したのも宝塚市だったのだが、仕事の都合で断念した。しかしこうして今、15年越しの夢が実現したわけだ。

新居購入の決め手になったのはベランダから宝塚大劇場が見えたこと。来年は宝塚歌劇100周年だそうで、これから色々愉しみである(今年は宝塚音楽学校100周年だそう)。

宝塚はガーリー(フェミニン)な街だ。ジェンヌや音楽学校の生徒さんも住んでいるので、歩く女性たちの美人率が極めて高い。だから街全体が華やかで気品がある。

「図書館戦争」「県庁おもてなし課」「「空飛ぶ広報室」など次々と映像化され、飛ぶ鳥を落とす勢いの作家・有川浩。彼女は高知県出身だが、現在は宝塚市在住。そして宝塚駅から西宮北口駅までの阪急今津線で紡がれる人生模様を群像劇として描いた小説が「阪急電車」である。有川も余程気に入っているのであろう、行間から宝塚愛が滲んで来た。これを読み、映画も観たことが「僕も住みたい」という気持ちを一層強くした。

大阪の中心地・梅田界隈まで電車で30分強という地の利の良さにもかかわらず、宝塚市は程よい田舎である。宝塚歌劇が出来る前はのんびりした温泉地だったという。今でも源泉かけ流しの温泉があるようなので、そちらの方もじっくりと味わいたい。泉質は有馬温泉に近いらしい。

今後も「宝塚便り」を時々ブログでご報告したいと想う。

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村上春樹と映画「華麗なるギャツビー」(3D 字幕版)

村上春樹がこよなく愛する小説はスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」である。因みに彼にとってのベスト3は「グレート・ギャツビー」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、そしてチャンドラー「ロング・グッドバイ」だそうだ。中でもギャツビーは別格だという。

僕が最初にこの小説を読んだのが大学生の頃。新潮文庫から出ている野崎孝 訳であった。正直、何が面白いのかさっぱり理解出来ず、再読したがやはりピンとこなかった。

2006年に待望の村上春樹による新訳が登場し、さらに2回読んだ(訳者へのインタビュー記事はこちら)。そして漸く、この小説の持つ虚無感・諦念の味わいが体に沁みて来た。バズ・ラーマン監督自身、村上春樹が日本語に翻訳していることを力説し、映画化に難色を示すスタジオを説得したと語っている(その記事はこちら)。

Thegreatgatsby

実はこの映画、北米のプロの映画評を集約したRotten Tomatoesでは非常に評判が悪い(こちら!)。トマトメーターは(総計243のレビュー中)49%で 《腐ったトマト》の烙印を押されている。つまり肯定派より否定派のほうが多い。因みに「ライフ・オブ・パイ」は88%、「スター・トレック イントゥ・ダークネス」は87%で《新鮮》になっている。だから恐る恐る映画館に足を運んだのだが……。

評価:A+

いや~、もうパーフェクトな出来で驚いた!フィッツジェラルドの小説から必要な要素を何も引いていないし、余分なものを加えたりもしない。過不足ない、理想的な映像化である。原作との違いは(1929年)世界大恐慌の後、語り部であるニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)がアルコール依存症で更生施設(サナトリウム)に入所する場面が加わった程度だろうか。これは原作の地の文を活かすために必要な処置だった。特に、有名な最後のセンテンスをマグワイアがそのままナレーションしたのにはびっくりした。バズ・ラーマンの原作に対するをひしひしと感じた。

大恐慌前の1920年代(ジャズ・エイジ)。好景気に浮かれるニューヨークが舞台となる。人々の足が地に着いていない感じは、なんだか日本のバブル時代(1986-91年)を彷彿とさせる。フィッツジェラルドやヘミングウェイは「ロスト・ジェネレーション(失われた世代)」と呼ばれたが、日本でもバブルがはじけた1991年3月以降は「失われた20年」と言われていている。

この物語に登場するのは薄っぺらな人物ばかりである(ニックが一番まとも)。連日繰り広げられる狂騒的で虚しいパーティ、中身は空ろな張りぼての大邸宅。会話の中でギャツビー邸は「遊園地(コニー・アイランド)みたいだ」と評されるが、まさしく映画のデザインはディズニー・ランドのシンデレラ城を彷彿とさせた。また豪華な花火は僕がラスベガスで見たそれを想い起こさせた。

デイジーというヒロインは主体性がなく流される、むかつく女である。見ていてイライラする。究極のBitchであると断言しても過言ではない。彼女に翻弄されるギャツビーは本当に気の毒である。恐らく本作に否定的な人たちは、このキャラクター設定が気に入らないのだろう。しかし忘れてならないのは、フィッツジェラルドの小説で描かれたデイジーも全くこの通りなのである。極めて忠実なのだ。デイジーみたいな女は我々の身近にも沢山いる。例えば男にマンションを貢がせて、あっさりメールで振ってしまう蒼井優なんかその典型と言えるだろう。東野圭吾(著)「容疑者Xの献身」とか、白石一文(著)「一瞬の光」のヒロインもまた、彼女によく似ている。

デイジーのモデルはスコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダである(ウディ・アレンの映画「ミッドナイト・イン・パリ」に登場)。ふたりは1920年代のニューヨークで放蕩の限りを尽くした。そしてスコットはゼルダの浮気に苦しんだ。ある意味彼女のせいで命を削られたと言ってもいい。では果たして、スコットは彼女と結婚したことを後悔しただろうか?僕はそう想わない。だってゼルダというミューズなくして世紀の傑作「グレート・ギャツビー」は決して生まれなかったのだから。ゼルダと共に生き、アルコール依存症となり44歳の若さで亡くなったスコットは仮にもう一度人生をやり直せたとしても彼女を選んだに違いない。それが男子の本懐というものだろう。堕ちていく快感。そしてデイジーを選んで滅びの道を歩むギャツビーにも同じ事が言える(蒼井優に捨てられた男たちもきっとそうだ)。いい夢を見させてもらったのだから、それだけで充分じゃないか。映画「ある愛の詩」の台詞にもあるだろう、

“Love means never having to say you’re sorry.”
 (愛とは決して後悔しないことだ)

ギャツビーはニューヨーク郊外のウエスト・エッグ岸辺の邸宅から、湾を挟んで対岸イースト・エッグに住むデイジー宅の埠頭の青い光を毎夜眺めている。このは「手を伸ばしても届かない憧れ」の象徴であり、小説の核(core)である。その辺のところをバズ・ラーマンもよく分かっていて、映画の冒頭からいきなりこのが登場し、執拗なまでに繰り返し描写される。「やるねぇ、押さえるべきところはしっかり押さえてるじゃん」と嬉しくなった。

キャリー・マリガンが驚異的に素晴らしい!小説の中からデイジーがそのまま飛び出してきたのかと錯覚する位である。最早、彼女以外のデイジーは考えられない。そのハマりっぷりは「風と共に去りぬ」でスカーレット・オハラを演じたヴィヴィアン・リーに匹敵すると断言しよう。

ギャツビーをレオナルド・ディカプリオが演じると聞いたときはミス・キャストじゃないかと考えていた。しかし実際観てみると、レオはさすが演技派だからそんなに違和感はなかった。

デイジーの夫・トムを演じたジョエル・エガートンがいい味出していた。ピッタリ。

豪華な美術装置や洗練された衣装も見応えがある。アカデミー賞にノミネートされたらいいね。

そして「ムーラン・ルージュ」の監督だけあって、バズ・ラーマンは音楽の使い方が卓越していた。無駄に3D(虚仮威し・ハッタリ)というのも愉しい。It's  show time, folks !

フィッツジェラルドの愛読者は必見である。

最後に余談だが、主人公がピストルで撃たれてプールに死体が浮かぶ設定はチャールズ・ブラケット&ビリー・ワイルダー脚本の名画「サンセット大通り」(1950)と同じだね。今回映像で観て初めて気が付いた。「グレート・ギャツビー」からの引用だったんだ。「サンセット」はハリウッドの虚飾を描く作品であり、内容的にも共通する所がある。

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