アート・ギャラリー

2019年8月 9日 (金)

「あいちトリエンナーレ」の騒動と〈表現の自由〉について。

愛知芸術文化センターで開催されている「あいちトリエンナーレ」の企画展『表現の不自由展・その後』が物議を醸し、3日間で中止に追い込まれた。特に問題になった展示物は以下の通り。

  • 韓国の、いわゆる「従軍慰安婦像」
  • 「焼かれるべき絵 / 焼いたもの」と題された昭和天皇の写真
  • 時代ときの肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」

― idiot JAPONICA ―とは「間抜けな日本人」という意味であり、墓の上には特攻隊の青年たちが寄せ書きした日の丸の旗が置かれている。

特攻隊員を美化/英雄視するつもりは毛頭ない。しかし、気の毒な戦争の犠牲者であることは確かだ。そんな彼らを「間抜けな」と侮辱する行為は決して許せないし、その展示を認めた輩を僕は人として軽蔑する。

「あいちトリエンナーレ 2019」の芸術監督を務める津田大介(早稲田大学教授)の父親は日本社会党(現:社民党)の副委員長・高沢寅男の議員秘書を務め、大介は中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったとしんぶん赤旗で述べている(出典はこちら)。バリバリの左翼である。どうしてこの人が芸術監督に選ばれた?Twitterで弁明した企画アドバイザーを務める東浩紀(批評家、哲学者)も実に情けない。

昭和天皇の写真を焼く「作品」も対象が天皇だから「不敬」だと言うつもりはない。例えばアドルフ・ヒトラーの写真であろうが、焼いて踏みにじる行為は「不快」だし、それを芸術作品だと僕は決して認めない。単なる「ヘイト」である。ナチス・ドイツの犯罪を憎むのなら、まずはヒトラーの著書「わが闘争」を読み、彼のスピーチを詳細に検討する必要があるだろう。敵を知らなければ彼の主張する理屈を論破出来ないし、当時の民衆がどうしてカリスマに熱狂し、間違った方向に進んだのかを分析出来る筈がない。写真や肖像画を焼く行為は何も問題を解決しない。それこそ間抜けな人間のすることだ。

そもそも中国や韓国のことを悪く言うと、朝日新聞、東京新聞など左翼ジャーナリズム日本ペンクラブは直ちに「ヘイト・スピーチ」と断罪し、「ヘイト・スピーチを許すな!」と声高に騒ぎ立てる癖に、特攻隊や天皇制、トランプ大統領への「ヘイト」に対しては、ころっと言うことが変わり「表現の自由を守れ!」と擁護するのはどういう了見か?完全に矛盾しており、ご都合主義にも程がある。天皇制がそんなに憎いのならば堂々と紙面でそう主張し、憲法を改正すればいいだろう。しかし摩訶不思議なことに朝日新聞、東京新聞日本ペンクラブは強硬に日本国憲法改正に反対している。矛盾だ。

また、いわゆる「慰安婦像」はそもそも芸術と言えるのか、それともプロパガンダ(政治的主張)に過ぎないのか?まずそこから議論を始める必要がある。つまり芸術文化センターに飾る価値基準を満たしているのだろうか?果たして韓国以外で100年後にも美術館で鑑賞する人はいるか?時の洗礼を受けて生き残れる筈もなかろう。

ドラクロアの絵画「民衆を導く女神」が素晴らしいのはその政治的主張ではなく、1830年に起きたフランス7月革命を主題としていることを鑑賞者が知らなくても胸を打つ作品だからである。

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そもそもいわゆる「従軍慰安婦」が、強制的に日本軍に連行されたという証拠すら一切見つかっていない。この件に関して朝日新聞社は根拠のない自社記事の過ちを認め、謝罪したではないか。それなのにどうして〈表現の自由〉を振りかざし「あいちトリエンナーレ」を擁護する?謝罪は口先だけってこと?事実とは異なる政治的主張(反日感情)を日本の公的施設で表明させる必要はない。

「あいちトリエンナーレ」は愛知県が7億8,600万円、名古屋市が2億1,000万円を負担し、文化庁から受ける予定の交付金は約8,000万円。つまり税金が10億円も投入されていることを忘れてはならない。

表現の自由〉はある。しかし節度と礼節をわきまえた上でというのは最低限の条件だろう。品位のあるレストランで騒げば追い出されるのは当たり前。そういう場において、〈表現の自由〉は伝家の宝刀になり得ない。つまり時と場合による。

それでも朝日新聞社日本ペンクラブがあくまで〈表現の自由〉を求めるのなら、自分たちで出資し、持ち前の施設で展覧会を開催すれば誰も文句は言わないだろう。名古屋市長や日本政府から干渉される心配もない。ご自由にどうぞ。

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2019年3月18日 (月)

フェルメール展@大阪市立美術館と、インディアンイエロー、ヱヴァンゲリヲン

3月17日(日)、大阪市立美術館@天王寺で開催されている「フェルメール展」へ。

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東京では日時指定制だったが大阪はなし。混雑を危惧したが午後3時以降なら入場待ちもなく比較的空いており、じっくり鑑賞出来た。

今回来たフェルメールの絵は《マルタとマリアの家のキリスト》《取り持ち女》《リュートを調弦する女》《手紙を書く女》《恋文》《手紙を書く婦人と召使い》の6点。

これ以外に僕は《手紙を読む青衣の女》《真珠の耳飾りの少女》を見ている。

フェルメールといえば《真珠の耳飾りの少女》を筆頭にラピスラズリを原料とする”フェルメール・ブルー”の美しさが有名だが、今回目立ったのは黄色。《手紙を書く女》や《恋文》で顕著な効果を上げた。フェルメールが好んだのは”インディアンイエロー”。インド・ベンガル地方の特産品で、マンゴーの葉だけを食べさせた牛の尿を集めて乾燥させるという方法で作られていた。しかし牛は過度の栄養失調となり衰弱死が多発。動物虐待だと非難され、1908年以降は市場での取引が禁じられた。故に現在では幻の色となった。

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今回まとめて作品を鑑賞して感じたのは、フェルメールの絵において【室内=自己(self)のメタファー】なのではないか?ということ。そして【(画面左上方にある)窓から差し込む光=他者からの干渉/外的刺激】を表現しているように思われた。その存在は【あこがれ/希望】であると同時に、【不安/畏れ】の対象でもあり得る。登場人物の心情を示すのが、背景に描かれた絵や地図だ。

具体的には《手紙を書く婦人と召使い》の背景に掲げられた、旧約聖書「出エジプト記」に基づく《モーセ(赤子)の発見》だったり、

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《恋文》で背景の絵に描かれた帆船だったり、

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《リュートを調弦する女》の壁に貼られたヨーロッパ地図だったりする。

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庵野秀明の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」に当てはめるなら、フェルメールにおける【室内=自己(self)のメタファー】↔【ヱヴァのATフィールド=「誰もが持っている心の壁」の内側】、【窓から差し込む光=他者からの干渉/外的刺激】↔【ヱヴァの使徒】という対応関係が成立するだろう。

フェルメール展は5月12日(日)まで。

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2018年12月 7日 (金)

【総括】20世紀の芸術(現代美術・現代音楽)とは一体、何だったのか?

僕は20世紀後半(昭和40年代〜平成)を生きてきた。小学校4年生くらいからクラシック音楽を聴くようになったが、当初から不思議に思っていたことがある。

コンサートで演奏されるのは大体19世紀の作曲家(リスト/ワーグナー/ブルックナー/マーラー)までで、20世紀以降の現代音楽は殆ど取り上げられない。強いて言えばストラヴィンスキー「春の祭典」やバルトーク「管弦楽のための協奏曲」など数曲あるが、それでもせいぜい20世紀前半止まりだ。

結局、シェーンベルク/ヴェーベルン/ベルクら新ウィーン楽派、ブーレーズ/ノーノ/シュトックハウゼンらセリー音楽トータル・セリエリズム)といった無調音楽は一般聴衆から拒絶され、コンサートのメイン・プログラムに入れると全く集客出来ず、閑古鳥が鳴くという状況が現在も続いている。

20世紀の聴衆が現代音楽に対して嫌悪感を抱き、そっぽを向いてしまった主な理由として〈シェーンベルクによる十二音技法の発明無調音楽への完全移行〉という流れが挙げられる。はっきり言って、聴いていて心地よくない。不快だ。我々の耳は依然として調性音楽を求めている。では何故、〈作曲家の意志↔聴衆の嗜好〉に埋めようのない乖離が起こってしまったのか?そこにはヨーロッパ人が根強く持つ進歩思想、つまり【芸術は、新しい形式が古いそれに続くという、進歩の状態に絶えずある】と見なす思想が横たわっている。

進歩思想は生物の進化論と深く関わっている。ここで多くの人が持つ誤解を解いておきたいのだが、チャールズ・ダーウィンは進化(evolution)という言葉を使っていない。彼の著書「種の起源」に登場するterm(用語)はmodification(変更・修正・調整)である。種の保存(遺伝)、自然選択(淘汰)、存在し続けるための努力(生存競争)がその理論の根幹を成す。つまりダーウィンは〈遺伝子の突然変異→環境に適応したものが生き残る〉ことを主張しているのであって、その変化は必ずしも進化を意味しない。例えば人間の足の指を考えればいいだろう。使わないから退化している。手指の変化と真逆の関係にあるのだ。

進歩思想の深層にはキリスト教(およびユダヤ教)が潜んでいる。旧約聖書の創世記によると、最初の男アダムは神に似せて造られた。つまり人間は神の似姿であり、成長とともに父親(理想像)に近づかなければならないという強迫観念妄執に彼らは囚われている。これを父性原理という。

1970年代くらいまで欧米人(と西洋かぶれの日本の知識人・エリート大学生)は本気で進歩史観を信じていた。【歴史とは人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程である】と見なす歴史観である。イギリスにおけるホイッグ史観がその代表例で、【歴史とは人類が理性によって現状を克服し、精神の自由を実現させていく過程である】とするドイツのヘーゲル史観や、カール・マルクスによる唯物史観も同様。マルクスにとっての最終形態は共産主義社会の到来であり、その実現(=正義)のためには暴力革命も肯定される。その成れの果ての姿が連合赤軍によるあさま山荘事件であり、(テルアビブ空港乱射やダッカ日航機ハイジャックなど)日本赤軍事件であった。

音楽における進歩思想は【無調音楽という新しい進歩の段階に入ったのだから、いまさら調性音楽という前の段階には逆行出来ない】ということになるだろう。故に20世紀に調性音楽を守ろうとした作曲家たちは「時代遅れ」「ナンセンス!」という烙印を押され、映画音楽やミュージカルなどのジャンルに散っていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、ジョン・ウィリアムズ、ニーノ・ロータ、クルト・ワイル、レナード・バーンスタイン、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド・ウェバー、久石譲らである。

映画音楽に使用したモティーフを流用したコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は1947年に初演されて以降、半世紀に渡って馬鹿にされ、蔑まれ、無視され続けてきた。しかし21世紀に入り漸く調性音楽の復権が進み、日本でもオーケストラの定期演奏会でしばしば取り上げられるようになった。

現代美術においてもは進歩思想が跋扈した。つまり具象を否定し、抽象絵画に走ったのである。そして鑑賞者の共感と支持を完全に失った。このように20世紀における現代音楽と現代美術、そして共産主義国家建設という壮大な実験(と失敗)は完全にリンクしていた

僕に言わせれば芸術における進歩思想は愚の骨頂であり、殆ど狂気の沙汰である。文学や演劇を例に取れば分かり易いだろう。ここで読者に2つ質問をしよう。

  • あなたは紫式部「源氏物語」よりも、村上春樹の小説の方が進歩(進化)していると思いますか?
  • あなたは古代ギリシャ悲劇「オイディプス王」「エレクトラ」やシェイクスピアの作品よりも、現代演劇の方が進歩(進化)していると思いますか?

全くナンセンスな問いだ。それぞれの時代に様式(style)の変化はあるだろう。しかしそれは進歩ではない。そしていつの時代にも優れた作品と、そうでないものがある。それだけのことだ。同時代の人間にはその真価を見抜けず、時の洗礼を経なければ判らないこともある(例えばマーラーやコルンゴルトの音楽)。それが自然淘汰である。

また進歩史観の間違い・迷妄も次の2つの問いにより簡単に証明出来る。

  • あなたは19世紀ドイツの首相ビスマルクよりも20世紀に普通選挙で首相に就任したアドルフ・ヒトラーの方が優れた政治家だと思いますか?
  • あなたはエイブラハム・リンカーンよりもジョージ・W・ブッシュの方が優れたアメリカ大統領だと思いますか?

賭けてもいい。少なくとも過去2,000年間、人間性(humanity)は一切進化していない。もし人類が進化していると思うのなら、それは単なる錯覚である。代わって間違いなく進化していると言えるのは科学技術であり、富の再分配など社会(補償)制度、つまりsystemだ。

確かに人類の知識(知恵)は増えている。でもそれは進化じゃない。文字という媒体(現代ではコンピューター)により知識の蓄積が可能となり、それを幼少期から効率よく脳に詰め込むための教育制度(system)が発達したのだ。履き違えてはいけない。

故に人の心(意識+無意識=自己)を表現する芸術に、進化などあろう筈がないのである。

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2018年11月28日 (水)

国立民族学博物館再訪と〈虹蛇〉について。

まずは下記事からお読みください。

ドリームタイム(夢の時)〉のことをもっと知りたくて、万博記念公園(@大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館(みんぱく)を再び訪れた。

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コンビニで前売り券を買えば、入場料はたった350円である。小・中学生は観覧無料。

みんぱくのレストランにはエスニックランチが用意されており、限定の〈ブン・リュウ・クゥア、ベトナム炒飯、デザート付き〉ランチを食べた。

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本館2階の回廊部分=インフォメーション・ゾーンには、28のビデオテークブースがあり、世界のさまざまな地域で暮らす人びとの生活や儀礼、芸能などを紹介する映像を観ることが出来る(無料)。何と番組数は700本を超え、僕はオーストラリア北部アーネムランドに暮らすアボリジニ(ジナン族)の歌と踊り・彼らの雨季の生活・乾季の生活・雨乞い・アボリジニの楽器〈ディジャリドゥ(管楽器)とラーラカイ(拍子木)〉を観た。いずれも興味深い内容だった(各15分程度)。

みんぱくは展示物の写真撮影可ということを知り、今回はしっかり撮った。

まずはイントロダクション(無料)に設置された柱状棺(遺骨を納める容器)から。

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拡大しないと分かり辛いが、オーストラリア北東部(アーネムランド)の樹皮画で特徴的な、並行する斜線が緻密に交差する〈クロスハッチング画法〉で描かれている。一方、中央オーストラリアの砂漠地帯では〈ドット・ペインティング〉と呼ばれる点描画が主流になる。

探求ひろばの「世界にさわる」コーナーでは展示資料を実際に手にとることが出来る。

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これはアボリジニの投槍器(アトラトル)。写真左の突起に槍の中空部を引っ掛ける。そして反対側の端っこをしっかり握りしめ、ふりかぶって投げると、てこの原理で遠くまで速く飛ぶという仕組みだ。なお有史以来、オーストラリアで弓矢は一切導入されなかった

一方、日本で和弓が用いられるようになったのは縄文時代、1万1千年くらい前からだそう。弓矢の代わりにアボリジニが用いたのがブーメランで、やはり最古のものは1万1千年くらい前のものだという。

有料展示室に入り、岩壁画のレプリカに出会う。現地から招かれたボビー・ナイアメラ氏が1週間をかけて、自ら持参した泥絵の具(鉱物質顔料)を使って、合成樹脂製の岩壁の上に絵を描いた。

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虹蛇Ngalyod;ンガルヨッド)の腹の中には飲み込まれた人が描かれている。これはレントゲン画法と呼ばれ、先進国では児童画の特徴の一つと言われ、幼児から小学校低学年にかけて現れる。魚やゴアナ(大トカゲ)、カンガルーもレントゲン画法で描かれており、背骨や内臓が見える。またマッチ棒のように細い棒人間は精霊ミミである。

アボリジニはオーストラリア先住民の総称であり、18世紀後半にイギリス人が入植した頃、彼らが話す言語の数は200を優に超えていた(現在は激減し、50〜100程度と言われる)。オーストラリア大陸は場所によって気候がかなり異なり、例えば北部のアーネムランドでは雨季と乾季が明確に分かれている。雨季(11月から4月)に道路は冠水し、車での交通も不可能になる。一方、オーストラリアの中央部には砂漠地帯が広がっている。また南部やタスマニア島は南極大陸に近く、クジラを見ることが出来る。タスマニア島の最高気温は夏でも22℃くらい。

だから一概にアボリジニ神話と言っても、地域により差異があり、サバナ気候の北部で太陽は恵みをもたらす創造主として描かれるが、中央部の砂漠地帯では忌避される存在であり、崇拝の対象になり得ない。しかしオーストラリア全土の神話に例外なく登場する〈ドリームタイム〉の祖先がいて、それが虹蛇なのである。つまりスイスの心理学者ユングが言うところの、集合的無意識に存在する元型(archetype)だ。

フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南米の神話に登場するのことを「半音階的なもの」と呼んだ(半音階を駆使した楽曲で一番有名なのはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」である)。の段階的色調変化(グラデーション)や半音階は、A→Z(例えば、ド→ソ)への大きな変化の間隙を、短い間隔の変化で埋めていくものであり、一種の中間状態をつくり、流動的に揺れ動く状況を生み出す。または雨が上がり、晴れ間が広がり始める時ー雨季と乾季の境界に現れる。つまり虹蛇は、【自然→文化】へ、あるいは【無意識→意識】へ、さらに言えば【夢の時ドリームタイム我々が知覚出来るこの世界〈yuti;ユティ〉】への移行段階を象徴しているのである。

アボリジニは時間を【過去→現在→未来】という不可逆(一方通行)の、通時(経時)捉え方をしない。彼らは共時的に思考する。〈ドリームタイム〉という概念が正にそれだ。つまり過去・現在・未来は同時にここにある。レヴィ=ストロースは、神話は通時的に読むと同時に、共時的に読めると述べている(そもそも通時的・共時的という用語は言語学者ソシュールの著書から来ている)。

レントゲン画法もまた、共時的手法である。アボリジニは(彼らにとって食料でもある)カンガルーやゴアナを描く時、同時にそれを屠殺・剥皮し、解体した時の内臓や骨格を見ているのだ。

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泉から鎌首をもたげた蛇の姿は、虹の足(写真はこちら)のイメージに重ねられる。そして蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。つまり虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在なのである。

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

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円環を形成することで始まりも終わりもない完全なもの、永遠性、永劫回帰を表象する。つまりウロボロスドリームタイムと同義なのだ。

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下の写真は管楽器ディジュリドゥ。

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自然の状態で内空をシロアリに食べられたユーカリの幹から作られる。音の高さを変えるための指穴(tone hole)すらない。つまり表層の彩色以外、楽器(発音機構)としての加工が皆無なのである。

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写真上がクーラモン(木製・樹皮製の容器)で、下のバスケットにも虹蛇が描かれている。

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ブーメランにはゴアナがレントゲン画法で描かれている。

オセアニアにとどまらず、みんぱくはアイヌや日本を含め膨大な展示物があり、1日では到底全てを見て廻れない。エスニックなレストランも愉しいし、通い詰めたくなるワンダーランドである。アボリジニ関連以外では特にパプアニューギニアの仮面に強く惹かれた(例えばこちらこちら)。

また行こう。

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2013年8月21日 (水)

宮崎駿「風立ちぬ」とモネの「日傘を差す女」

宮崎駿監督「風立ちぬ」のポスターになった場面はクロード・モネが描いた「日傘の女」へのオマージュであることは既に多くの人が指摘しており、今更言うまでもない。

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そこでこの記事では「どうして、いきなりモネ!?」という疑問を解明すべく、考察してみたい。

まず「日傘の女性、モネ夫人と息子日傘をさす女)」を見て下さい。

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モデルは妻のカミーユと息子のジャン。描かれたのは1875年。その4年後にカミーユは32歳の若さで亡くなった。そして彼女は結核を患っていた。つまり「風立ちぬ」に繋がっているのだ!

カミーユの死後7年経過した1886年にモネは再び同じ題材の作品に取り組んでいる。それが下の二点である。

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女の顔はぼんやりして見分けがつかなくなっている。あたかも黄泉の国からふと、現世に立ち現れたかのようだ。これはモネが夢で見た情景、幻想なのかも知れない。そういう意味において、やはり「風立ちぬ」ラストシーンの世界観を彷彿とさせる。

なお、最後の絵については女性の影がないと指摘する声もある。ただ僕は、光が右斜め前方から射しているので、影は左後方にあるんじゃないかと解釈しているのだが、皆さんはどうお考えになるだろうか?

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2013年1月 7日 (月)

エル・グレコ展

国立国際美術館@大阪市へ。

エル・グレコの「受胎告知」はわが郷里・岡山県倉敷市にある大原美術館所蔵なので、幼い頃から親しんできた。しかし彼がギリシャのクレタ島生まれで、ヴェネツィア、ローマを経てスペインに没したという経歴は知らなかった。

今回、気に入った作品を幾つかご紹介しよう。

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聖ラウレンティスの前に現れる聖母
(1578-81年、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アンティグア財団、モンフォルテ・デ・レモス)

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聖母戴冠(1603-05、カリダード施設院、イリェスカス)

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聖衣剥奪(1605年、サント・トメ教区聖堂、オルガス)

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受胎告知(1600年頃、ティッセン=ボルネミッサ美術館、マドリード)

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無原罪のお宿り(1607-13,サンタ・クルス美術館寄贈、トレド)

エル・グレコの絵は背景がのことが多いが、人物の衣装にを配することにより、鮮烈な印象を生み出している。また天使がチェンバロやコントラバスを弾き、正に壮大な「天上の音楽」を奏でているのも圧巻だった。

あと「鳩」が光源となり、光と影を生み出しているのが面白いね!

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2012年11月 4日 (日)

マウリッツハイス美術館展と「真珠の耳飾りの少女」

僕は数年前から、オランダ、デン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館に行こうと本気で計画していた。ここは古楽のメッカ、オランダ王立デン・ハーグ音楽院(フラウト・トラヴェルソの有田正広さん、バロック・ヴァイオリンの寺神戸亮さん、バロック・チェロの鈴木秀美さんらがここで学んでいる)があることでも知られている。

その目的はフェルメールが描いた「真珠の耳飾りの少女」を鑑賞することにあった。

2003年にイギリス・ルクセンブルク合作の「真珠の耳飾りの少女」という映画があった。アカデミー賞で撮影賞・美術賞・衣装デザイン賞にノミネートされたことでも伺えるように、高い評価を得た作品であった。画家フェルメールを演じたのは後に「英国王のスピーチ」でアカデミー主演男優賞に輝くコリン・ファース。モデルの少女をスカーレット・ヨハンソンが演じた。僕はこの映画がすごく好きで、特に撮影と音楽の美しさに陶酔した。ちなみに音楽は「ラスト、コーション」「英国王のスピーチ」「ハリー・ポッターと死の秘宝」「アルゴ」のアレクサンドル・デプラ(デスプラ)である。

どうしてもこの絵を、本物を観たいと希った。そしてその願いは、何と日本で叶うことになった。

神戸市立博物館へ。

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マウリッツハイス美術館展でまず印象に残ったのがルーベンスの「聖母被昇天」(アントワープの大聖堂にある作品の下絵)。小説「フランダースの犬」でネロとパトラッシュが死ぬ瞬間まで見つめていた絵だ。

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この絵の美しさの秘密はその構図にある。絵の左下端を焦点として、放射状に人物や事物が描かれているのだ。

そして待望の「真珠の耳飾りの少女」。

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吸い込まれそうなくらい白い肌、何かを語りかけてくるような眼差し。少女は微笑んでいるようでもあり、同時に哀しみを湛えているようでもある。貴重な鉱石ラピスラズリを原料とする絵の具「ウルトラマリンブルー」も勿論、印象的。観ていて出るのはただ、感嘆の溜め息ばかり。生きててよかった。

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2011年10月 3日 (月)

京の茶漬け&「フェルメールからのラブレター展」「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」@京都市美術館

京都へ!

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お昼に京都御所近く、丸太町の「十二段家」で京の茶漬けをいただく。

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ここはご飯がすごく美味しいので、一膳目はお茶をかけずそのままで。また出し巻きが、おだしが効いていて絶品。

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季節の一品は鱧(はも)と秋の京野菜。

そして京都市美術館へ。

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「フェルメールからのラブレター展」は10月16日まで開催中。世界に三十数点しか存在しないフェルメールの絵画が三点も集まったというのは画期的ではないだろうか?手紙を読む女、そして手紙を書く女たち。窓から差し込む光、それが作り出す影とのハーモニー。そしてラピスラズリを原料とする”フェルメール・ブルー”の美しさが印象深い。

またデ・ホーホの「中庭にいる女と子供

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そして「室内の配膳室にいる女と子供

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二枚の絵の遠近感が素晴らしかった。開放されたドアや窓から見える風景が効果的。

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フェルメール展は入場待ちが40分かかったが、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」は待ち時間なし。こちらは11月27日まで。フェルメール展の半券提示で入場料100円引きだった。

ゴッホの自画像がこの展示の”売り”だが、僕はむしろモネの二点が良かった。

まず「ヴェトゥイユの画家の庭

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三人の人物の配置が見事。燦燦と降り注ぐ陽光、鮮やかな色彩感。この絵を観ながら心の中でディーリアスの音詩(tone poem)、例えば「夏の庭園にて」とか「夏の歌」が流れるのを感じた。考えてみればディーリアスは晩年をパリ郊外にある田舎町グレ・シュル・ロアンで過ごした。両者に共通するものがあるのは決して偶然ではあるまい。

そして僕が最も心奪われたのは「日傘の女性、モネ夫人と息子日傘をさす女)」何度も何度もこの絵に戻ってきて、見入ってしまった。

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モデルは妻のカミーユと息子のジャン。被写体が逆光というのが斬新だし、ヴェールに覆われたカミーユの表情が魅惑的。また実際の絵を観て初めて気付いたのだが、彼女の上半身と下半身で吹いている風向きが逆なのである。

この絵が描かれたのは1875年。その4年後にカミーユは32歳の若さで亡くなった。そして歳月が経ち1886年にモネは再び、同じ題材の作品に取り組んだ。それが下の二点である。

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顔に注目。この時の画家の心境や如何に、と僕は想いを馳せるのである。

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2011年3月 5日 (土)

誕生150年記念/アルフォンス・ミュシャ展

堺市立博物館へ。

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19世紀末から20世紀初頭のパリに花開いたアール・ヌーヴォーを代表する画家、アルフォンス・ミュシャ展に行く。

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そもそも大阪府・堺市は、500点に及ぶミュシャのコレクションを持っており(→アルフォンス・ミュシャ館公式サイトへ)、僕は以前サントリーミュージアム天保山で開催されたミュシャ展にも足を運んだのだが、今回の展覧会は今まで見たこともない作品が沢山海外から取り寄せられており、大変見応えがあった!感動した。

今回特に気に入ったのは、まずチョコレートの宣伝ポスター。

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そして「ムーズ川のビール」

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モラヴィア(オーストリア帝国領、現在のチェコ)に生まれたミュシャが後年、故郷に帰ってから描いた「モラヴィア教師合唱団コンサート用ポスター」の少女も可愛く魅力的である。

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また元々、堺市のコレクションにあるのだが、下の「音楽」という作品をご覧頂きたい。

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女性が耳をそばだて、音楽を聴いている情景を示しているわけだが、この絵には様々な工夫が凝らされ、ダイナミックに描かれていることに今回初めて気が付いた。

まず彼女の背景。木の枝に鳥がとまって囀っているが、これが五線譜と音符に見える。また女性を取り巻く円の中に描かれた指を順に目で追ってゆくと、まるでハープを爪弾いているかのような錯覚に陥る仕掛けが施されている。さらに絵の上、両隅にト音記号が描かれているのが分かりますか?画面下、女性のスカート部はヘ音記号だ。

それからミュシャの髪の毛の描き方とか、少女の周りに星を散らす手法とかが、日本の少女漫画に与えた影響の大きさも再認識した。

ミュシャってやっぱり凄い!必見。

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2010年7月21日 (水)

金沢・加賀温泉郷の旅

連休は金沢へ、ぶらり一泊旅行をした。

大阪駅からサンダーバードで二時間強。金沢に着いて直ぐに21世紀美術館へ。

全体的に客層が若く、お洒落な人が沢山いた。そして意外(?)にも外国人が多数来ていた。

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レアンドロ・エルリッヒの《スイミング・プール》をまず上から覗き込む。だまし絵の3Dバージョン?

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こちらは下から撮影。

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ジェームズ・タレルの《ブルー・プラネット・スカイ》。立方体の部屋に入ると、天井が正方形にぽっかり切り取られている。部屋の壁沿いに座ってぼーっと空を見つめる。不思議なほど空が近い。

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写真正面、屋根の上に立つのは、ヤン・ファーブル作《空を測る男》。

現在、21世紀美術館で開催されているのが、Alternative Humanities 〜 新たなる精神のかたち:ヤン・ファーブル × 舟越桂である。この展覧会が非常に良かった。

舟越桂の彫刻には見覚えがあった。よくよく考えて、はたと気がついた。あぁ、天童荒太の小説「永遠の仔」(日本推理作家協会賞受賞、「このミステリがすごい!」第1位)の表紙の人だ!

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実物は初めて見た。首がモディリアーニの絵のように長く、目がやぶにらみなのが特徴的。

ヤン・ファーブルの作品もとても面白い。特に虫のドレス《昇りゆく天使たちの壁》は印象的。グロテスク、だけど美しい。虫に対する偏執狂(monomania)的性癖を感じた。調べてみると、「ファーブル昆虫記」で有名なジャン=アンリ・ファーブルは彼の曾祖父にあたるそう。成る程、血は争えない。

その後兼六園をチラリと見るが、猛暑のためさっさと宿へ向かう。

カメリアイン雪椿は"暮しの手帖"にでも出てきそうな、レトロで乙女チックな宿。アンティークがそこかしこに置かれ、椿のモチーフが散りばめられている。鍵やテーブルマットも椿。

夕方になると、散歩がてら茶屋街へ。道すがら、旦那衆が茶屋へ通ったという"暗がり坂"があった。

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金沢の夕暮れ。橋の下では、釣りをする地元の人々がいた。

そして目的地「御料理 貴船」へ到着。

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先付けのジュレに入っていたウニの甘さ、ノドクロの造り、焼き鮎ご飯、生姜とレモンのデザート等が印象に残った。特に各々の部屋で炊かれる土鍋ご飯は美味しく、御代わりして全部平らげてしまった。

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翌朝、宿の朝食が凝っていて、加賀野菜のサラダが大変美味しかった。

金沢を発ち、山中温泉へ。「花つばき」で外来入浴を楽しむ。

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湯畑と名付けられた川沿いの大小の露天風呂群があり、愉しい。

加賀温泉郷では山中温泉は一番駅から遠く不便な場所にあるせいか他に客はおらず、貸切状態。蝉の鳴き声と木々を渡る風の音、渓流のせせらぎだけが聞こえてくる。

ここの鶴仙渓には川沿いに遊歩道があった。

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近くの酒蔵獅子の里にて活性純米吟醸(発泡性のお酒)を買ったり、魚そうめんや酒粕ソフトクリームを楽しんで帰路へ。心身ともにリフレッシュした旅であった。

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