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映画「チック、チック…ブーン!」を語る前に、ミュージカル「RENT/レント」について触れない訳にはいかない。

ミュージカル『イン・ザ・ハイツ』『ハミルトン』で主演・台本・作詞・作曲と八面六臂の活躍をし、トニー賞を総なめにした上にピューリッツァー賞までさらった鬼才リン=マニュエル・ミランダの監督デビュー作で、Netflixから配信されているミュージカル映画『チック、チック…ブーン!(tick, tick...BOOM!) について熱く語りたいのだが、その前にアンドリュー・ガーフィールド演じる主人公ジョナサン・ラーソンについて押さえておく必要がある。ならば彼が台本・作詞・作曲を兼任したミュージカル『RENT/レント』にも触れない訳にはいかないだろう。

1980年代後半から90年代初頭にかけ世界中でHIV感染症が猛威を奮い、沢山の人々がAIDSで倒れた。亡くなった有名人を何人か挙げると、映画『ジャイアンツ』『風と共に散る』に出演した俳優ロック・ハドソン(1985年死去)、ミュージカル『コーラスライン』の原案・振付・演出をしたマイケル・ベネット(1987年死去)、フランス映画『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』を監督したジャック・ドゥミ(1990年死去)、ディズニー・アニメ『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』の作詞家ハワード・アッシュマン(1991年死去)、英国のロックバンド・クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリー(1991年死去)、ヒッチコック映画『サイコ』に主演したアンソニー・パーキンス(1992年死去)、映画『愛と哀しみのボレロ』にも出演した20世紀バレエ団の花形ダンサー、ジョルジュ・ドン(1992年死去)、ソ連生まれのバレエ・ダンサー、ルドルフ・ヌレエフ(1993年死去)など

この時代を象徴する黙示録として生まれた演劇分野における代表作が『RENT』であり、トニー・クシュトナーが書いた戯曲『エンジェルス・イン・アメリカ』である。後者は原作者自身が脚色し、映画『卒業』のマイク・ニコルズが監督したテレビ(HBO)のミニ・シリーズも優れているのでお勧めしたい。アル・パチーノ、メリル・ストリープ、エマ・トンプソンといった豪華出演陣で、現在ではU-NEXTから配信されている。

『RENT』はプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を原作としており、ヒロイン・ミミの名はそこから来ている。「ムゼッタのワルツ」の旋律も引用される。作品を鑑賞する前に是非知っておきたい知識として「ボヘミアン」という概念が挙げられる。元々は流浪の民=ロマを指す言葉だが、「ボヘミアン・アーチスト」とは芸術家や作家、世間に背を向けた者などで、伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている人々のこと。『ラ・ボエーム』ではパリの屋根裏部屋で暮らす詩人・画家・音楽家・哲学者であり、それが『RENT』ではニューヨーク・イーストヴィレッジで暮らす若者たちに置換されている。『RENT』とは家賃のことだが、『借りぐらし』と言い換えることも可能だろう。

『RENT』が(オフからオンに進出し)ブロードウェイで初演されたのは1996年4月29日。トニー賞のミュージカル部門で最優秀作品賞・台本賞・楽曲賞・助演男優賞(エンジェル役:ウィルソン・ジャーメイン・ヘレディア)を受賞し、『エンジェルス・イン・アメリカ』同様ピューリッツァー賞の最優秀戯曲賞にも輝いた。しかしラーソンはオフ・ブロードウェイ・プレビュー公演初日未明(1996年1月25日)に突然亡くなった。死因がAIDSだと勘違いしている人もいるが、実際はマルファン症候群に合併した大動脈解離だった。享年35歳。だからラーソン本人はこの作品が大成功を収め、数々の賞を勝ち取るという未来を知る由もなかった。なお、彼には女性の恋人がいたし(付き合っていた恋人をレズビアンに奪われたらしい)、ゲイではなくストレートだったようだ。

本作が画期的で素晴らしい点は多様性(diversity)に対して寛容であるということだろう。性癖ではストレート、ゲイ、ドラァグクイーン、レズビアン、バイセクシャルが登場し、ヘロイン中毒で注射器からHIV感染した者もいる。人種も白人(WASPとユダヤ人)、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック(ラテン)系、アジア系(嘗てブロードウェイ公演にMayumi Andoという日系の役者が出演していた)と多岐に渡る。『チック、チック…ブーン!』で描かれているようにラーソンは誰に対しても隔てなく接する。Friendlyで、共感性が極めて高いのだ。多様性(diversity)に不寛容(intolerant)だったトランプ政権下、"I can't breathe."という言葉を残し警官に殺されたジョージ・フロイド事件に端を発するBlack Lives Matter(BLM)運動を経たいま、『RENT/レント』が訴えかける価値観がより一層の輝きを放ち僕たちの心を照らしてくれる、そう感じられる。

僕は1998年の日本初演を大阪シアター・ドラマシティで観ている。演出はマーサ・ベンタ、出演は山本耕史、宇都宮隆、KOHJIRO、浜口司、KONTA、森川美穂ほか。これが酷い出来で、全く好きになれなかった。怒り心頭に発して途中で帰りたくなったくらい。要因はいくつか挙げられる。まず山本くん以外はミュージシャンを本業とする人が多く、演技が拙かった。またロックコンサートと勘違いするくらいの大音響で、難聴になるんじゃないかと耳を塞ぎたくなった。そして、やはり日本人だけのキャストで本作を上演するのは土台無理な話なのではないか?多様性の欠片もなく、作品の本質が見失われてしまう。それは『ウエストサイド物語』にしろ、『ラグタイム』にしろ同じことだ。

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2005年にクリス・コロンバス監督による映画版を鑑賞し、初めて本作の素晴らしさが理解出来た。映画ではアンソニー・ラップ(マーク役)、アダム・パスカル(ロジャー)、ジェシー・L・マーティン(コリンズ)、ウィルソン・ジャーメイン・ヘレディア(エンジェル)、テイ・ディグス(ベニー)、イディナ・メンゼル(モーリーン)と6人のブロードウェイ・オリジナル・キャストが集結した。新しいキャスト、ミミ役ロザリオ・ドーソン、ジョアン役トレイシー・トムズも良かった。なお、イディナ・メンゼルとテイ・ディグズは本作での共演が縁で2003年に結婚したが、2013年に離婚している。またトレイシー・トムズは舞台版『RENT』のオーディションに何度も落ちていたが、映画での好演が高く評価され、3年後に同じジョアン役でブロードウェイの舞台に立てた。

イディナ・メンゼルは後にディズニー・アニメ『アナと雪の女王』のエルサ役に抜擢され、"Let It Go"が世界中で大ヒット、センセーションを巻き起こし、アカデミー歌曲賞を受賞したことは記憶に新しい。アンソニー・ラップは #MeToo 運動が盛り上がった2017年、14歳のときに舞台で共演したケヴィン・スペイシーが自宅で開いたパーティに招かれ、その夜に彼からセクシャル・ハラスメントを受けたと告白。追い詰められたスペイシーはハリウッド追放の憂き目にあった。

映画『チック、チック…ブーン!(tick, tick...BOOM! )』では、ジョナサン・ラーソンが創作活動をしながら、軽食レストラン(ダイナー)でウェイターとして働く様子が描かれているが、ある日そこに見習いウェイターとしてやって来たのが、後にコリンズ役を演じることになるジェシー・L・マーティンである。そして『チック、チック…ブーン!』のダイナーで歌われる"Sunday"というナンバーではアダム・パスカル、ウィルソン・ジャーメイン・ヘレディアそしてミミのオリジナル・ブロードウェイ・キャスト、ダフニ・ルービン=ヴェガが浮浪者(bums)役で登場する。

ただ残念だったのは舞台の初演から『RENT』映画化まで9年も経過したこと。役者も年を取るので特に初演時24歳だったアンソニー・ラップは映画でおっさんになっていた。アダム・パスカルとかウィルソン・ジャーメイン・ヘレディアはそんなに老けた印象はなかったのだが。実際のところ舞台でジョアンを演じたフレディ・ウォーカーは年齢を理由に映画出演を辞退している。

元々『RENT』の映画化権は #MeToo ムーブメントの果てに逮捕された悪名高き映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが設立したミラマックスが所有していた。当初ミラマックスはロブ・マーシャル監督(『イントゥ・ザ・ウッズ』『メリー・ポピンズ・リターンズ』)に興味ないか?と話を持ちかけたが、マーシャルは「もっといいアイディアがある」とミュージカル『シカゴ』映画化を提案、そちらの企画が通って2002年に公開され、アカデミー作品賞を獲得した。また『RENT』の歌詞の中で言及されるスパイク・リー監督も興味を示したが、結局うまく行かなかった。そういった経緯でミラマックスが権利を手放し、クリス・コロンバス(『ホーム・アローン』『ハリー・ポッターと賢者の石』)がチャンスを掴んだというわけ。

Rent

評論家や世間での映画『RENT/レント』の評判は芳しくない。その多くはコロンバスの演出が凡庸だという意見に集約されるだろう。しかし僕のような観劇をこよなく愛する人間=theatergoerの目から見ると出来は決して悪くない。つい先日見返したのだが、2021年の現在でも決して古びていない優れた作品だった。兎に角、舞台版に対する監督の敬意がひしひしと伝わってくる。彼は何も余分な要素を付け足したりしない。オーソドックスな正攻法であり、だから逆に映画ファンからは物足りないと言われるのだろう。オリジナル版では第2幕冒頭で歌われる名曲中の名曲"Seasons of Love"を映画冒頭に持ってきているが、劇場のステージに登場人物が横一列に並び、一人一人に真上からスポットライトを当てるという舞台演出をそのまま踏襲しており、好感度大。だからある意味、この映画版はDisney+から配信されているミュージカル『ハミルトン』に近いと言えるかも知れない。

舞台のオリジナル・キャストが映画版で6名も揃うというのは僕が知る限り前例がない。次に多いのが『プロデューサーズ』の4名(ネイサン・レイン、マシュー・ブロデリック、ゲイリー・ビーチ、ロジャー・バート)だろうか?ただトニー賞を12部門受賞した『プロデューサーズ』は舞台版の振付・演出を手がけたスーザン・ストローマンが引き続き映画版を監督しているのだが、惨憺たる出来。舞台演出の才能と映画的センスは全く別物なのだと思い知った。尚、僕は2001年8月下旬(同時多発テロ2週間前)にブロードウェイのセント・ジェームス劇場でオリジナル・キャストが勢揃いした『プロデューサーズ』を観劇している。それはそれは素晴らしい作品で、映画版とは雲泥の差だった。この折にパレス劇場ではディズニー製作のミュージカル『アイーダ』も観た。アイーダ役がヘザー・ヘッドリー(同役でトニー賞受賞)、ラダメス役がアダム・パスカルというオリジナル・キャストで、パーフェクトなパフォーマンスだった。閑話休題。

2008年ブロードウェイでの最終公演が『レント・ライヴ・オン・ブロードウェイ』というタイトルでDVD/Blu-ray発売されており、そちらもお勧め。何しろ劇場の雰囲気がそのまま愉しめる。カーテンコールではオリジナル・ブロードウェイ・キャストが勢揃いし、新旧キャストで"Seasons of Love"を高らかに歌い上げる。注目すべきは最終公演でミミを演じたレネイ・エリース・ゴールズベリイ。美人だし、歌も踊りも滅法上手い。彼女は後にミュージカル『ハミルトン』でスカイラー三姉妹の長女を演じ、トニー賞でミュージカル助演女優賞を受賞する(映画『チック、チック…ブーン!』にもカメオ出演している)。またカンパニーの中には映画版でジョアンを演じたトレイシー・トムズもいる。

本作が言いたいことを集約するなら"No day but today"(今日という日しかない)に尽きるだろう。

Finale Bの歌詞と対訳を一部ご紹介しよう。

 There is no future
 There is no past
 Thank God this moment's not the last

 There's only us
 There's only this
 Forget regret or life is yours to miss.
 No other road
 No other way
 No day but today

 未来なんかない
 過去もない
 今(この瞬間)が最後の時でなくて良かった

 僕らしかいない
 これしかない
 後悔は忘れよう、でなきゃ人生を逃してしまう
 他の道はない
 他のやり方もない
 今日という日しかない

日本初演から二十数年を経たいま、"No day but today"はより切実に僕の心に響くようになった。人生も半ばを過ぎて、死を意識するようになったことと無縁ではあるまい。

「今日という一日を大切に生きよう」というメッセージは、なにも不治の病に罹った人だけに向けたものではない。それは映画『いまを生きる』でロビン・ウィリアムズが口ずさんだラテン語の警句"Carpe Diem"(カルペ・ディエム:その日をつかめ/その日の花を摘め)と密接に結びついている。黒澤明『生きる』で志村喬が死ぬ直前に歌った、大正時代に流行った『ゴンドラの唄』(吉井勇 作詞/中山晋平 作曲)の歌詞「いのち短し 恋せよ乙女」や、『万葉集』で大伴旅人(おほとものたびと)が詠んだ歌「生ける者(ひと) 遂にも死ぬるものにあれば この世にある間(ま)は 楽しくをあらな」も同じことを言っている。

いまを生きる 2014.10.01
ミュージカル「RENT」オリジナル・キャスト〜アダム・パスカル&アンソニー・ラップ /ライヴ ! 2010.12.31

映画『RENT/レント』は現在、Netflix、U−Next(見放題)、Amazon Prime Video(有料レンタル100円)などから配信されている。

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