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2021年12月 1日 (水)

【永久保存版】どれだけ知ってる?「ウエスト・サイド・ストーリー」をめぐる意外な豆知識 ( From Stage to Screen )

スティーヴン・スピルバーグ監督によるリメイク版『ウエスト・サイド・ストーリー』が2022年2月11日から公開される。公式サイトはこちら

映画『ウエスト・サイド物語』(旧作)が公開されたのは1961年。今から60年前である。アカデミー賞では作品賞・監督賞など10部門を受賞した。日本では封切られてから511日間、約1年半に渡りロングラン上映されたという。これは前年の『ベン・ハー』を凌ぐ記録となった。

元となったブロードウェイ・ミュージカルが初演されたのは1957年。舞台版で演出・振付を担当したジェローム・ロビンズが映画版ではロバート・ワイズと共同監督を務めた。しかし実はトニー賞で最優秀振付賞と美術賞の2部門しか受賞していない。だから当初は決して評価が高いと言えなかった。因みにこの年、ミュージカル作品賞・演出賞・主演男優賞などに輝いたのは『ザ・ミュージック・マン』である。『ザ・ミュージック・マン』はこれでトニー賞を受賞したロバート・プレストンがそのまま同役を演じ1962年に映画化されているが、それ程話題にはならず日本では未公開。なおトニー賞にオリジナル楽曲賞が加わるのは1962年の"No Strings"から。だから意外なことにレナード・バーンスタイン(レニー)は『ウエストサイド物語』の作曲に関して、いかなる賞も受賞していない。『南太平洋』『努力しないで出世する方法』『コーラス・ライン』『レント』『ハミルトン』などピューリッツァー賞を受賞したミュージカル作品は多々あるが、『ウエストサイド物語』は歯牙にも掛けられなかった(シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を土台にしているからではないかと思う人がいるかも知れないが、『レント』だってプッチーニのオペラ『ボエーム』を換骨奪胎した作品である)。また作曲家のアーロン・コープランド、チャールズ・アイヴズ、サミュエル・バーバー、モートン・グールド、ウィントン・マルサリス、ジョン・コリリアーノ、スティーヴ・ライヒらはピューリッツァー賞の音楽部門を受賞しているが、レニーは生涯無冠に終わった。

結局ブロードウェイ初演時には観客も業界人も、この作品の革新性を十分理解出来ていなかったのだと思われる。1950年代といえば『王様と私』『野郎どもと女たち(ガイズ & ドールズ)』『マイ・フェア・レディ』といったオーソドックスな、言い方は悪いがOld-fashioned Musicalが主流だった。そんな中で『ウエストサイド物語』は破格の作品であった。

作詞はスティーヴン・ソンドハイム、当時27歳。後に作曲も兼任するようになり、『リトル・ナイト・ミュージック』『カンパニー』『スウィーニー・トッド』『イントゥ・ザ・ウッズ』『フォーリーズ』『パッション』などの名作ミュージカル群を世に送り出した。トニー賞受賞8回、ミュージカル『ジョージの恋人(日曜日にジョージと公園で)』でピューリッツァー賞1回、そしてマドンナが歌った映画『ディック・トレイシー』の主題歌"Sooner or Later"ではアカデミー歌曲賞を受賞している。2021年11月26日に死去、91歳だった。

【日本での上演史】日本人キャストで初演したのはなんと宝塚歌劇団。1968年月組・雪組合同公演だった。振付・演出はジェローム・ロビンズとサミイ・ベイス。劇団四季は1974年から上演している。僕は高校生の頃、岡山県の倉敷市民会館で劇団四季版を観劇した。1980年代の話である。オープニングのダンス・シーンでダンサーがコケるなど、まだまだ上手とは言い難かった。宝塚版は1999年星組公演を宝塚大劇場で観た。出演者は稔幸、星奈優里、絵麻緒ゆう、彩輝直ほか。この作品の場合、女性だけだと群舞シーンでどうしても迫力に欠け、またプエルトリコ系シャーク団の面々はドーランを塗って肌を浅黒くしていることに違和感を覚えた。民族対立がテーマとしてあるわけで、同じ民族の日本人だけで演じるのはどうしても限界がある。それは白人が顔を黒く塗ってアフリカ系アメリカ人を演じるミンストレル・ショーがアメリカ合衆国で廃れたことと無関係ではない。

Minstrel

同様に、登場する人種が多様なミュージカル『ラグタイム』や『RENT』も日本人キャストのみでは難しい。

【歌の吹替問題】1961年の映画は泣く子も黙る掛け値なしの名作であるが、いくつかの問題を孕んでいる。まずナタリー・ウッドの歌はマーニ・ニクソン、トニー役リチャード・ベインマーの歌はジム・ブライアントが吹替ている。またアニタ役リタ・モレノの歌唱の一部をベティ・ワンド、リフ役ラス・タンブリンの歌唱の一部をタッカー・スミスが吹替ている(ラス・タンブリンは後にTVシリーズ『ツイン・ピークス』に精神科医役で出演した)。歌が吹替であることは公開当時秘密にされており、クレジットにも歌手の記載がない。またレコードの売上も吹替歌手に対して一切支払われなかったため、後に裁判沙汰となった。

【マーニ・ニクソン】最強の“ゴースト・シンガー” マーニは『王様と私』(1956)のデボラ・カーや『マイ・フェア・レディ』(1964)のオードリー・ヘップバーンの歌も吹き替えている。『王様と私』でマーニは「吹替したとバラしたら二度と仕事が出来ないようにしてやる」とスタジオから脅され、公表しないという誓約書にサインさせられた。しかし気のいいデボラ・カーはインタビューでマーニのことに言及し彼女に感謝したたため、20世紀フォックスは慌てふためいた。

『ウエストサイド物語』のナタリー・ウッドは自分の歌が映画で使用されると撮影終了まで信じていた。だから後で吹替のことを聞き、ショックを受けたためポスト・プロダクションにおける録り直し・調整に一切協力しなかったという。

『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門ノミネートされ8部門で受賞した。しかし実際はオードリーが歌っていないことが広く知れ渡っていたので彼女はノミネートすらされず、その年に主演女優賞を受賞したのは『メリー・ポピンズ』のジュリー・アンドリュースだった。ジュリーは舞台版『マイ・フェア・レディ』イライザ役のオリジナル・キャストであり、映画で起用されなかった彼女に対して同情票が集まったと言われている。『マイ・フェア・レディ』で主演男優賞を受賞したレックス・ハリソンは授賞式の壇上で「ふたりのイライザに感謝します」とスピーチした。

マーニのことを気の毒に思ったロバート・ワイズ監督は映画『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)で彼女を修道院のシスター役に起用する。『マイ・フェア・レディ』の一件があったのでマーニは主演のジュリー・アンドリュースとの初対面ですごく緊張した。しかしジュリーはスタスタと彼女に歩み寄り「マーニ、私は以前からあなたのファンです」と言った。『サウンド・オブ・ミュージック』は殆どの役者が自分で歌っているが、修道院長役のペギー・ウッドの代わりに“すべての山を登れ”をメゾソプラノ歌手のマージェリー・マッケイ が吹替ている。ただしこのシーンは公開直前に監督の指示でカットされた(ビデオ/DVD/Blu-rayでは復活している)。

【その後のミュージカル映画】『ウエストサイド物語』で本人の歌ではないのにアカデミー助演女優賞を受賞したということで、リタ・モレノは後々まで非難されることになる。また『マイ・フェア・レディ』のごたごたもあり、以降のミュージカル映画では役者本人が歌うことが通例となった(ただし一部例外もあり『オペラ座の怪人』でオペラ歌手カルロッタを演じたミニー・ドライヴァーの歌は吹替である)。またその反動か、女優本人が歌うと(たいした演技でなくても)比較的容易くアカデミー賞が受賞出来るという珍現象が近年まで続いている。具体例を挙げるなら『ファニー・ガール』のバーブラ・ストライサンド、『キャバレー』のライザ・ミネリ、『シカゴ』のキャサリン・ゼタ=ジョーンズ、『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』のリース・ウィザースプーン、『ドリームガールズ』のジェニファー・ハドソン、『レ・ミゼラブル』のアン・ハサウェイ、『ラ・ラ・ランド』のエマ・ストーン、『ジュディ 虹の彼方に』のレネー・ゼルウィガー。男優の場合、この法則が当てはまらないというのも面白い。

【人種問題】『ウエスト・サイド物語』のジェット団はポーランド系アメリカ人の不良グループであり、シャーク団はプエルトリコからの移民である。そのリーダー、ベルナルドの妹マリアはアメリカ合衆国に来てまだ1ヶ月という設定。しかし旧映画版でマリアを演じたナタリー・ウッドはサンフランシスコ生まれで両親はロシアからの移民。ベルナルド役ジョージ・チャキリスはオハイオ州生まれで両親はギリシャ系。つまりプエルトリコ出身のリタ・モレノ以外は殆ど白人がメイクでプエルトリコ人を演じていたのである。

【リン=マニュエル・ミランダと『イン・ザ・ハイツ』】ブロードウェイ・ミュージカル『ハミルトン』でトニー賞を総なめにし、ピューリッツァー賞まで手に入れたリン=マニュエル・ミランダはプエルトリコ系で、幼少期は年に1ヶ月間、祖父母が住むプエルトリコで過ごした。『ハミルトン』の前作『イン・ザ・ハイツ』もトニー賞のミュージカル作品賞や楽曲賞を受賞したが、この作品はニューヨーク・マンハッタン島北部のワシントンハイツを舞台にしている。ここはドミニカ共和国、キューバ、プエルトリコ、メキシコ等からの移民が集まりスペイン語が飛び交うラテン系アメリカ人(ラティーノ)社会を形成している。

ミュージカル映画「イン・ザ・ハイツ」

『イン・ザ・ハイツ』が『ウエスト・サイド物語』から多大な影響を受けていることは論を俟(ま)たない。『ウエスト・サイド』とはマンハッタン島の西側を指す。 セントラルパークを挟んでイースト・サイドが高級住宅街、ウエスト・サイドには多くの貧しい移民が住んでいた時代の物語だ。

ミランダは2009年ブロードウェイ再演『ウエストサイド物語』スペイン語版の脚本を執筆し、スティーヴン・ソンドハイムと共に歌詞をスペイン語に翻訳した。更に彼は高校生の時に学校で『ウエストサイド物語』の演出も手がけたという。

スピルバーグがニューヨークでWSSを撮っている時に、ちょうど映画『イン・ザ・ハイツ』も撮影中でロケ現場がすぐ近くだった。だからミランダは居ても立っても居られず、撮影の合間にスピルバーグの現場に見学に行ったと告白している(こちらの記事)。折しもミュージカル・ナンバー“マリア”を歌っているところだった。

また2021年11月にNetflixから配信されたミランダの初監督作品『チック、チック…ブーン!』(大傑作!!)はミュージカル『RENT/レント』の作詞・作曲・脚本でトニー賞やピューリッツァー賞を受賞したジョナサン・ラーソンを主人公とするミュージカル映画だが、新作の試聴会(ワークショップ)に現れたスティーヴン・ソンドハイムから掛けられた言葉が、もうすぐ30歳になるのに世間から中々才能を認められなくて焦るラーソンの気力をいかに奮い立たせたかが描かれている(映画最後の留守電はソンドハイム本人の声で、話している内容も本人が書き直したそうだ)。歌詞の中でラーソンは高校生の時に親友と学芸会で『ウエストサイド物語』を演じたと語り(“クール”の旋律が引用される)、また"Sunday"というナンバーでは『ウエストサイド物語』オリジナル・プロダクション(初演)でアニタを演じたチタ・リベラが特別出演している。さらに『イン・ザ・ハイツ』にも「酔っぱらったチタ・リベラみたいだ」という台詞がある。

【スピルバーグ版の改善点】まず出演者全員、本人が歌っている。またスピルバーグはヒスパニック系の登場人物はヒスパニック系のバックグラウンドを持つ者に演じてもらうことにこだわり、プエルトリコ人役33名のうち20名が厳密なプエルトリコ人、またはプエルトリコにルーツを持つ者たちを選んだ。マリア役は新人のレイチェル・ゼグラー。母親はコロンビア人で、ディズニー実写版『白雪姫』の主演に抜擢されている。アニタ役アリアナ・デボーズは父親がプエルトリコ系。またリタ・モレノも再び本作に出演している。彼女はオリジナル版でシャーク団とジェット団の中立地帯の役割を果たした食料雑貨店の店主ドクの未亡人を演じた。

West

今回脚色を担当したのはトニー・クシュナー。1993年に舞台『エンジェルズ・イン・アメリカ』でピューリッツァー賞戯曲部門を受賞した。スピルバーグとは既に『ミュンヘン』『リンカーン』で組んでいる。『エンジェルズ・イン・アメリカ』は『レント』と並ぶ、人々がAIDSに恐れ慄いていた90年代を代表する演劇作品である。

【スピルバーグとミュージカル】長いスピルバーグのキャリアの中で、ミュージカルを監督するのは本作が初めてである。実は『E.T.』(1982)が完成した時期に、マイケル・ジャクソン主演でミュージカル映画『ピーターパン』を撮るという企画が持ち上がっていた。1982年といえばアルバム『スリラー』が発売された年で、マイケルの全盛期だった。その準備として朋友ジョン・ウイリアムズ作曲、レスリー・ブリッカス作詞で歌も数曲完成していたのだが、結局実現しなかった。この時作曲された楽曲は後に、大人になったピーターパン(ロビン・ウィリアムス)を主人公とするスピルバーグ映画『フック』(1991)に流用された。しかし残念ながら駄作であった。ジョンの音楽は良かったのだが……。

【シンフォニック・ダンス】レニーは1960年にシド・ラミンとアーウィン・コスタルに編曲を依頼して、『ウエスト・サイド物語』の音楽を素材にオーケストラのための演奏会用組曲『シンフォニック・ダンス』を創作した。初演は61年。因みにシド・ラミンとアーウィン・コスタルは61年の映画版でアカデミー賞のミュージカル映画音楽賞(つまり編曲賞)を受賞している。

構成は以下の通りで、全曲が切れ目なく演奏される。演奏時間は約30分。

  1. プロローグ 
  2. サムウェア 
  3. スケルツォ
  4. マンボ 
  5. チャチャ
  6. 出会いの場面  〜クール 〜フーガ
  7. ランブル(乱闘) 
  8. フィナーレ 

レニーの指揮で2種類のレコーディングが残されており、日本では彼から直接薫陶を受けた指揮者・大植英次や佐渡裕らがしばしば演奏会で取り上げている。また現在ベルリン・フィルの芸術監督であるキリル・ペトレンコも数回この楽曲を指揮している。

実に面白いのは『ウエスト・サイド物語』の中でいちばん有名な“トゥナイト”を敢えて外していること。恐らくこのナンバーばかり流行って、レニーはウンザリしていたのではないだろうか?「俺はこれだけじゃなく、他にもいい曲をたくさん書いているんだぞ!」と。

またミュージカルが1957年にブロードウェイで初演された時、パーカッションが沢山必要だったのでオーケストラ・ピットにヴィオラが入らず、ヴィオラ抜きの編成だった。だからシンフォニック・ダンス版の"サムウェア”でレニーはヴィオラ・ソロから始まることにこだわったのだそう(大植英次 談)。

【『ロミオとジュリエット』との関係】WSSがシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に基づいていることは先に書いた。レニーは“サムウェア”にチャイコフスキーの幻想序曲『ロメオとジュリエット』の旋律(終結部のチェロ)を引用している。

【グスターボ・ドゥダメル】スピルバーグ版でオーケストラの指揮をするのはベネズエラ出身のグスターボ・ドゥダメル。画期的音楽教育システム「エル・システマ」の申し子である。17歳でシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラの音楽監督に就任し世界に名を馳せ、2009年からはロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督となった。2017年にはウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートの指揮者を務め、ベルリン・フィルの演奏会にもしばしば登場している。シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ時代にはアンコールで『シンフォニック・ダンス』からマンボを演奏するのが定番で、来日公演でもラテンの血が滾るパフォーマンスで聴衆を熱狂させた。正に彼以外考えられない、ドンピシャの起用である。ドゥダメルがニューヨーク・フィルと組んで、そこにどのような化学反応(chemistry)が生じるのか?今から愉しみで仕方がない。

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