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【考察】高橋留美子「めぞん一刻」はラブコメの元祖?(新海誠「天気の子」との関係も)

高橋留美子原作『めぞん一刻』のテレビ・アニメ版(全96話)を初めてU-NEXTの配信で観た。そのきっかけとなったのはギルバート・オサリバンが歌った"Alone Again"である。詳しくは下記事に書いた。

"Alone Again"は石原真理子主演、澤井信一郎監督の映画『めぞん一刻』実写版(駄作)の主題歌としてエンドロールで流れた。そして1986年の映画公開に合わせて、特別にアニメ版の第24話でオープニングに"Alone Again"、エンディングに同じくオサリバンの"Get Down"が使用された。"Get Down" は「おすわり」という意味。可愛い恋人を犬に見立てた歌なので、『めぞん一刻』の内容にピッタリ。この〈幻のオープニング&エンディング〉 が一回きりで終わったのは著作権・使用料の問題であったようだ。

また第27話『消えた惣一郎!?思い出は焼き鳥の香り』では物語の終盤に挿入歌として"Alone Again"が使用された。これが大変な名場面で、僕は甚く感動した。脚本は後に押井守監督『機動警察パトレイバー the Movie 1 & 2』や、金子修介監督の平成ガメラ三部作で名を馳せることになる伊藤和典。こんな情景だ。

夕暮れの坂道。行方不明になった惣一郎(=犬。名前は死んだ夫に由来する)を探していた音無響子(アパート「一刻館」管理人)は坂の下方から見上げ、犬を連れて歩く五代裕作(「一刻館」住人で大学生)を見つける。そのシルエットから死んだ夫が蘇ったのではないかと錯覚した響子は思わず「惣一郎さん!」と叫ぶ。遠くを走る電車。その時、街灯が坂下から順番に灯り、五代の顔が照らされる。ここで"Alone Again" が静かに流れ始める。「五代さん……」がっかりしたような、それでいて逆に嬉しそうにも聞こえる響子の呟きだった。

これは『めぞん一刻』のターニング・ポイントと言える極めて重要なシーンで、響子の亡き夫への未練が、五代に対する愛に変化(していることを自覚)する瞬間を捉えている。

そして僕は即座に新海誠監督『天気の子』を思い出した。東京・田端駅近くの不動坂で帆高が陽菜の体が透き通っていることを発見する場面だ。刻限は夕方であり、灯る街灯の演出もそっくり。どう考えても間違いなく『めぞん一刻』へのオマージュだろう。新海監督は大学生の頃『めぞん一刻』を愛読していたことをインタビューで語っているし、そもそも年上の女の人を好きになる主人公という設定は既に『言の葉の庭』で使っている。アニメ版で音無響子の声を務めた島本須美が『天気の子』でも声の出演をしているのは決して偶然ではないだろう。

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さて、今回『めぞん一刻』という作品を通して観て感じたのは「これってもしかしたらラブコメの元祖なんじゃないか?」ということだった。

ラブコメの女王といえば言わずと知れたメグ・ライアンだ。彼女が脚本家ノーラ・エフロンと組んだラブコメ三部作の第一作『恋人たちの予感(When Harry Met Sally...)』が公開されたのは1989年。それ以前のハリウッド映画のラブコメは思いつかない。

高橋留美子の漫画『うる星やつら』初掲載は1978年、『めぞん一刻』が80年である。柳沢きみお『翔んだカップル』をラブコメの元祖とする説もあり、この連載開始が1978年。あだち充が『みゆき』の連載を開始したのが1980年、『タッチ』が81年なのでほぼ同時期と言えるだろう。

2021年現在、『愛の不時着』など韓国ドラマはラブコメの絶頂期を迎えている。しかし韓国でラブコメの源流を探ると、せいぜい2001年に公開された映画『猟奇的な彼女』あたりだろう。やはり世界的に眺めても、高橋留美子はラブコメの元祖(同時多発した作家の一人)と言えるのではないだろうか?

以前ハリウッド映画には〈スクリューボール・コメディ〉というジャンルがあった。スクリューボールは当時のクリケットや野球の用語で「スピンがかかりどこへ飛ぶか予測がつかないボール」を指し、転じて突飛な行動をとる登場人物が出てくる映画をこう呼ぶようになった。代表作に次のような作品がある。

・或る夜の出来事(1934)
・特急二十世紀(1934)
・赤ちゃん教育(1938)
・ヒズ・ガール・フライデー(1940)
・フィラデルフィア物語(1940)
・レディ・イヴ(1941)
・教授と美女(1941)
・結婚五年目/パームビーチ・ストーリー(1942)

従って、これらを撮ったフランク・キャプラ、ハワード・ホークス、ジョージ・キューカー、プレストン・スタージェスらが〈スクリューボール・コメディ〉の名手と言える。

またこれと一部重なるが〈ロマンティック・コメディ〉とか、〈ソフィスティケイテッド・コメディ〉と呼ばれるジャンルがあり、その代表作が以下の通り。

・極楽特急(1932)
・生活の設計(1933)
・青髭八人目の妻(1938)
・ニノチカ(1939)
・天国は待ってくれる(1943)
・ローマの休日(1953)
・麗しのサブリナ(1954)
・昼下がりの情事(1957)
・お熱いのがお好き(1959)
・アパートの鍵貸します(1960)

上記のリストでも明らかな通り、このジャンルの名手といえばエルンスト・ルビッチとビリー・ワイルダー、女優の代表選手はオードリー・ヘップバーンということになる。

しかしここからプッツリと伝統は途絶え、〈ロマンティック・コメディ〉暗黒時代が1960年代〜70年代〜そして『恋人たちの予感』が登場する80年代後半までほぼ30年間続くことになる。

やはり大きな影を落としたのがベトナム戦争と米ソ冷戦(ベルリンの壁が築かれるのが1961年)、そしてアフリカ系アメリカ人による公民権運動だろう(キング牧師による「ワシントン大行進」が1963年、マルコム・X暗殺が65年)。混乱の時代だった。

1960年代にフランス・ヌーベルバーグ(新しい波)が台頭し、60年代後半にアメリカン・ニューシネマに飛び火した。フランソワ・トリュフォーとジャン・リュック・ゴダールが乗り込んでカンヌ国際映画祭を中止に追い込んだのが1968年、同じ時期日本は安保闘争や東大安田講堂事件(1969)に揺れ、72年のあさま山荘事件に雪崩込んでいく。前衛・アヴァンギャルドの時代であり、独立プロやATGが活発になった。ハリウッドでは大手映画会社が市場を牛耳るスタジオ・システムが呆気なく瓦解し、〈ロマンティック・コメディ〉どころではなくなった。ようやく『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』が公開された1977年辺りから映画界は落ち着きを取り戻していく。〈ハリウッド・ルネッサンス〉の到来である。

あと『めぞん一刻』で感じたのは、非常に落語的だということ。一浪し三流大学に入学した五代はアパートの住人たちから「意気地なし」「甲斐性なし」「落ちこぼれ」と言われる。また日曜日の昼間から住人4人が寝間着姿で五代の部屋に集まって、ぐうたらしていると、五代は響子から「若いうちからこんな生活してたら、駄目になっちゃいますよ」と言われる。

駄目でいいんだという価値観。「ダメ人間万歳!」つまり、立川談志が言うところの〈人間の業の肯定〉が『めぞん一刻』の根底にある。

立川談志の著書に「現代落語論」がある。そしてその続編「あなたも落語家になれる」に、かの有名な一節が登場する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。

この解説で『落語』を『めぞん一刻』に置き換えると、そのままピッタリ当てはまるのだ。

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