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2021年1月

2021年1月29日 (金)

わが心の歌 25選 ⑦ ビートルズ「ノルウェイの森」と村上春樹/ジュ・トゥ・ヴ

今回取り上げるビートルズ『ノルウェイの森』はなんと言っても村上春樹が書いたベストセラー小説のタイトルになったことで有名だ。トラン・アン・ユン監督による映画版でも最後にビートルズの歌が流れる。実はこの小説に関して僕は、村上氏本人とメールを交わしたことがある。1997年のことだ。

Soul

Spotifyでの試聴はこちら

楽曲の静謐さ、喪失感と言ってもいい物悲しさに僕は心を打たれるのだが、特筆すべきはジョージ・ハリスンが演奏するシタールの響き。レコード化されたポップ・ミュージックでシタールが使用されたのはこの曲が初めてだそう。ハリスンは1965年頃に友人の勧めで聴いたラヴィ・シャンカールのレコードでシタールに興味を持ち、ロンドンの店で楽器を購入した。1966年秋にはハリスン自らインドに赴いてシャンカールから直接レッスンを受けている。これがきっかけでハリスンはインドの瞑想に傾倒、他のメンバーも彼から感化され、1968年2月ビートルズの4人は超越瞑想の開祖マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーから直接メディテーションの修行を受けるためインドに滞在した。

では冒頭の歌詞から見ていこう。

I once had a girl
Or should I say she once had me
She showed me her room
Isn't it good, Norwegian wood

ある時、女の子をひっかけた
いや、彼女が僕をひっかけたと言うべきか
彼女は自分の部屋に誘ってくれた
素敵じゃないか、ノルウェイの森だ

ここで最大の問題は"Norwegian wood"とは一体何か?ということ。1966年に日本でアルバム『ラバー・ソウル』が発売されたときから「ノルウェーの森」と訳された。村上春樹の小説が出版された後でも、この邦題はおかしいのではないか?という意見がつきまとった。

朝日新聞御用達のズレてる評論家・内田樹も『ノルウェイの森』というタイトルは誤訳だと、得意げに断言している(こちら)。

一方、村上春樹の『ノルウェイの木をみて森を見ず』というエッセイ(新潮文庫『雑文集』収録)には次のようにある。

 翻訳者のはしくれとして一言いわせてもらえるなら、Norwegian Woodということばの正しい解釈はあくまでも〈Norwegian Wood〉であって、それ以外の解釈はみんな多かれ少なかれ間違っているのではないか。歌詞のコンテクストを検証してみれば、Norwegian Woodということばのアンビギュアスな(規定不能な)響きがこの曲と詞を支配していることは明白だし、それをなにかひとつにはっきりと規定するという行為はいささか無理があるからだ。それは日本語においても英語においても、変わりはない。捕まえようとすれば、逃げてしまう。もちろんそのことばがことば自体として含むイメージのひとつとして、ノルウェイ製の家具=北欧家具、という可能性はある。でもそれがすべてではない。もしそれがすべてだと主張する人がいたら、そういう狭義な決めつけ方は、この曲のアンビギュイティーがリスナーに与えている不思議な奥の深さ(その深さこそがこの曲の生命なのだ)を致命的に損なってしまうのではないだろうか。それこそ「木を見て森を見ず」ではないか。Norwegian Woodは正確には「ノルウェイの森」ではないかもしれない。しかし同様に「ノルウェイ製の家具」でもないというのが僕の個人的見解である。

 この、Norwegian Woodというタイトルに関してはもうひとつ興味深い説がある。ジョージ・ハリスンのマネージメントをしているオフィスに勤めているあるアメリカ人女性から「本人から聞いた話」として、ニューヨークのパーティーで教えてもらった話だ。「Norwegian Woodというのは本当のタイトルじゃなかったの。最初のタイトルは"Knowing She Would"というものだったの。歌詞の前後を考えたら、その意味はわかるわよね?(つまり、"Isn't it good, knowing she would?" 彼女がやらせてくれるってわかっているのは素敵だよな、ということだ)でもね、レコード会社はそんなアンモラルな文句は録音できないってクレームをつけたわけ。ほら、当時はまだそういう規制が厳しかったから。そこでジョン・レノンは即席で、Knowing She Wouldを語呂合わせでNorwegian Woodに変えちゃったわけ。そうしたら何がなんだかかわかんないじゃない。タイトル自体、一種の冗談みたいなものだったわけ」。

なんと、実に面白いではないか!

また、歌詞の最後はこうだ。

And when I awoke I was alone
This bird had flown
So I lit a fire
Isn't it good Norwegian wood?
僕が目を覚ますと、ひとりぼっちだった
小鳥は飛び去った(女の子は消えていた)
だから僕は火を付けた
素敵じゃないか、ノルウェイの森

ここで再び大きな謎が仕組まれている。「僕が火を付けた(I lit a fire)」ものは何か?次のような説がある。

1)煙草 2)ハッパ(大麻) 3)暖炉の薪 4)ノルウェイ産木材で建てられた、女の子が住むログハウス(丸太小屋)

4)丸太小屋(または北欧家具)に火を付けた、というは猟奇的でトンデモ説のように思うでしょ?ところが、これを採用すると村上春樹の初期短編小説『納屋を焼く』に繋がるのだ!女の子が消失するという筋立てもジョン・レノンの歌詞に一致している。

なお、『納屋を焼く』は後に韓国映画『バーニング 劇場版』の原作になっており、これが収められた短編集の一篇『螢』は『ノルウェイの森』の原型となった小説である。

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さて、『ジュ・トゥ・ヴ (Je te veux)』はエリック・サティが1900年に作曲したシャンソン。フランス語で〈je=一人称「私」〉〈tu=親しい人に対する二人称。「あんた」とか「君」といったニュアンス〉〈veux=「〜を欲する」「〜を求める」という意味。原形はvouloir〉。だから日本語では「お前が欲しい」「あなたが大好き」などと訳される。愛らしく、とても美しい歌で、しばしばピアノ独奏曲としても演奏される。パトリシア・プティボンの歌唱がおすすめ。こちら

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2021年1月23日 (土)

今年度アカデミー作品賞受賞は200%確実!話題沸騰「ノマドランド」クロエ・ジャオ監督の前作「ザ・ライダー」をNetflixで観る。

今年のアカデミー作品賞は『ノマドランド』で決まり。対抗馬なし、無風状態。賭けてもいい。もしもこの予想に異議を唱える者がいるならば、受けて立つよ。映画公式サイトはこちら

『ノマドランド』は既にヴェネチア国際映画祭で金獅子賞および、トロント国際映画祭で最高賞の観客賞を受賞している。ヴェネチアの金獅子がアカデミー作品賞に直結したのはギレルモ・デル・トロ監督『シェイプ・オブ・ウォーター』があり、トロントの観客賞を受賞した『スラムドッグ$ミリオネア』『英国王のスピーチ』『それでも夜は明ける』『グリーンブック』は併せてアカデミー作品賞の栄冠に輝いている。

アカデミー監督賞についてはデヴィッド・フィンチャー『Mank/マンク』の可能性もなくはないが、順当に行けばまずは『ノマドランド』のクロエ・ジャオ(38歳)だろう。こちらの確率70%。中国生まれのアジア人であり、女性。多様性が叫ばれている昨今のアカデミー賞において、非常に有利な条件である。昨年は韓国のポン・ジュノだったしね。女性としては『ハート・ロッカー』(2008)のキャスリン・ビグローに続いて史上2人目の快挙となる。

さて本題に入ろう。『ザ・ライダー』(2017)はクロエ・ジャオが『ノマドランド』の前に撮った映画であり、インディペンデント・スピリット賞で作品賞・監督賞・撮影賞・編集賞の4部門にノミネートされた(その年、作品賞・監督賞を制したのはジョーダン・ピール『ゲット・アウト』)。日本未公開だが、Netflixから配信されている。公式サイトはこちら。またAmazon Prime Videoでも299円でレンタル出来る(こちら)。

評価:A+

Rider

ロデオ競技中の落馬によって頭部に重傷を負ったブレイディ・ヤンドロウの実話に触発されており、彼をモデルにしたブレイディ・ブラックバーンを本人が演じた。またヤンドロウの父と自閉症の妹も本人役で出演しており、一切プロの俳優は起用されていない。ブレイディが兄のように慕う、元ロデオスターのレイン・スコットも登場する。レインは暴れ牛から振り落とされ脊髄損傷を負っており、不全麻痺の状態。首には痛々しい気管切開の痕がある。彼が五体満足で元気だった頃の動画がスマートフォンで再生される。

出演者が全員素人という手法は、ヴィットリオ・デ・シーカ監督『自転車泥棒』(1948)やルキノ・ヴィスコンティ監督『揺れる大地』(1948)などイタリアのネオ・レアリズモを彷彿とさせる。トロント国際映画祭で『ザ・ライダー』を観て感動した女優のフランシス・マクドーマンドは企画を温めていた『ノマドランド』の監督としてクロエ・ジャオに白羽の矢を立てた。マクドーマンドは同映画でプロデューサーと主演を兼任している。『ノマドランド』に出演するプロの役者は二人だけで、その他は実際に車上生活を送っている人々が起用された。

『ザ・ライダー』は映像が息を呑むほど美しい!圧倒される。特にマジックアワーの撮影を多用している点で、ネストール・アルメンドロスがアカデミー撮影賞を受賞したテレンス・マリック監督『天国の日々』のことを想い出した。また月夜とか遠雷、キャンプファイヤーの火の上をカウボーイたちが飛ぶ場面がすごく印象的(三島由紀夫『潮騒』の有名な台詞「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」みたい)。アメリカの遙かなる大地、荒野 Wildernessに魅了された。自然描写が傑出しており、スローモーションによる馬のたてがみの捉え方が秀逸。撮影監督のジョシュア・ジェームズ・リチャーズは『ノマドランド』でも続投しており、既に全米映画批評家協会賞・ボストン映画批評家協会賞・シカゴ映画批評家協会賞・ヒューストン映画批評家協会賞などで撮影賞を受賞している。

あと、ある場面でホレス・マッコイが書いた小説のタイトル『彼らは廃馬を撃つ』(They Shoot Horses, Don't They?)を想い出した。これはジェーン・フォンダ主演、シドニー・ポラック監督で映画化されており、邦題は『ひとりぼっちの青春』。

兎に角、『ザ・ライダー』を体験したらクロエ・ジャオの桁外れの才能を浴びて茫然自失となり、ただただひれ伏すしかなくなるだろう。『ノマドランド』の前に、先ず『ザ・ライダー』より始めよ。これを観ずに死ねるか!

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2021年1月21日 (木)

明日海りお、千葉雄大(主演)ミュージカル・ゴシック「ポーの一族」

1月12日(火)及び18日(月)に梅田芸術劇場でミュージカル『ポーの一族』を観劇した。観客の男女比は男が5%程度(多く見積もっても10%に満たない)。宝塚大劇場の状況と大差ない。

Poe

キャストは宝塚版に引き続きエドガー:明日海りお、アラン:千葉雄大、シーラ・ポーツネル男爵夫人:夢咲ねね、メリーベル:綺咲愛里、大老ポー:福井晶一、老ハンナ/神智学協会のブラヴァツキー(二役):涼風真世ほか。台本・演出は小池修一郎。初日には原作者の萩尾望都が観劇したそう。

基本的に台本も演出家も作曲家も宝塚版と同じなので、宝塚版と梅田芸術劇場版の印象は大きく異ならなかった。小池修一郎は『エリザベート』の宝塚版と東宝版でがらっと演出・台本を変えてきたし、宝塚歌劇『華麗なるギャツビー』と井上芳雄を主演に迎えた梅芸の『グレート・ギャツビー』では音楽を一新(吉崎憲治・甲斐正人→ブロードウェイで活躍するリチャード・オベラッカー)した人なので、意外だった。構想に33年温めてきたライフワークだけに宝塚で上演した時点で理想の完成形に到達していたということなのだろう。

言うまでもないことだが、明日海りおは鉄板のはまり役なので文句なし。パーフェクト。シーラ役は宝塚版の仙名彩世より、今回の夢咲ねねの方が良かった。物腰がふわっと柔らかくエレガント。メリーベル役は可憐さという点において宝塚版の華優希に軍配を上げる。アランは宝塚版の柚香光がそもそもヴィジュアルは素晴らしいが歌ダメ・(足が上がらず)踊りダメな男役なので、千葉くんはそう見劣りしなかった。音は外さないし、そもそも柚香へのあて書きだからソロもなく歌で頑張る必要がない。容姿が美しかったらそれで良い。背丈もちょうど明日海とバランスが取れており、この組み合わせに違和感はなかった。

それにしても〈永遠の命〉を得られても日陰の身であり、子供を生むことも出来ない。血を吸うことで仲間を増やすだけ。バンパネラは哀しい。僕は〈限られた命〉である人間のほうが断然良いと改めて思った。

ひとが、〈永遠の命〉を得られたとき、それは、ひとにとって、幸福なのだろうか? 不幸なのだろうか?……本作の問いは手塚治虫『火の鳥』に繋がっている(萩尾望都は十七歳の時、手塚の『新撰組』を読んで漫画家になる決意をした。詳しくはこちら)。

『ポーの一族』は和製ミュージカルに於ける一つの到達点である。絶対見逃すな!

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2021年1月14日 (木)

アフォリズムを創造する〈決定版〉

現在小学三年生の息子へ。いつか大きくなったら読んで欲しい。また、新成人のみなさんへの餞(はなむけ)の言葉と受け取ってもらっても良いだろう。

「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語だ」……新海誠監督『天気の子』の一節である。世界の秘密を、あなたにそっと教えよう。以下の記事の集大成だ。

「アフォリズム Aphorism」の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス『アフォリズム』より)。ニーチェの多くの著書(『喜ばしき知恵』『善悪の彼岸』など)はアフォリズム集の形態で書かれている。

〈アフォリズム〉人間性は少なくとも過去2,000年間、全く進歩していない。進化したのは科学技術とシステム(社会制度)だけ。そこを履き違えてはいけない。

1,000年前に書かれた紫式部『源氏物語』を現代人が読んでも、作中人物に共感することが出来る。愛、嫉妬、恨み、悲しみといった感情に変わりはない。それは2,000年以上前に書かれたギリシャ悲劇(『オイディプス王』など)も同じ。

つまり人間性(こころ)に関する限り、人類は何も進歩していない。もし進歩しているというのなら、どうして20世紀にヒトラーやスターリン、ポル・ポトのような人物が現れるのか?説明出来ないだろう。

一方で、人種差別や女性差別は減り、身分制度も多くの国でなくなり、職業選択の自由など基本的人権は尊重されるようになってきた。つまり司法制度や、社会システムは進化し続けている。しかし、それを〈人類の進化〉と勘違いしてはいけない。

〈アフォリズム〉視点をズラす(移動する)ことで、物事の本質が見えてくることがある。

海で夕日を見ている情景を想像してください。〈太陽は下方に移動して水平線に沈む〉。あなたの主観(視点)として、これは正しい。しかし実際は違う。〈地球はあなたの視線とは反対方向(背中側)に自転しているので、見かけ上、太陽が沈むように錯覚している〉。つまり視点(観測地点)を太陽上に移動して、地球ではなく太陽が固定されていると考えれば、真相に近づくことが出来る(さらに太陽は銀河の中心を周回している)。これがコペルニクス的転回である。

高橋みなみがAKB48のメンバーだったとき、総選挙のスピーチで「努力は必ず報われる!」とぶち上げて世間から失笑を買った。確かに彼女の視点から見ると正しい。努力してオーディションに合格し、48グループの総監督にまで上り詰めた。確率100%である。しかし最大限の努力をしてもオーディションに落ちた女の子の視点に立つどどうだろう?「努力は報われなかった」確率0%である。オリンピック選手もよく似たようなことを言うけれど、全ては錯覚に過ぎない。彼らの影には、一生懸命トレーニングを積み重ねたが良い成績が出ず、消えていったアスリートたちがごまんといる。どのポジションから観測するかで話は違ってくる。

〈アフォリズム〉努力しても夢が叶わないことは多々ある。ある程度努力して成果が上げられなかったら、諦めることも肝心だ。

〈アフォリズム〉「人は何故生きるのか」と問うことに意味はない。「この地球に人間(知的生命体)が誕生したことには何か意味があるはずだ、創造主の目的があるはずだ」という考え方は因果論であり、必ずしも正しくない。「全ては偶然、意味なんかない」と考え、淡々と生きた方が楽。

「何故生きるか」と自問するのは人間だけである。それは人が考える動物だからである。猿とかイルカ、カエルが「何故生きるか」と考えたりはしない。故にその問いに意味はない。

〈アフォリズム〉生物は必ずいつか死ぬ。その恐怖心から人は永遠に不変・不滅の存在を設定した。それが神であり、プラトンが説くイデアだ。だが万物は流転する。

〈アフォリズム〉「神は存在するか、否か?」という問いに対して立証責任があるのは「存在する」と主張する側だけである。「悪魔の証明」と同じ。神の不在は証明出来ないが、だからといってそれが神が存在する根拠にはならない。

簡単なことだ。「ツチノコはいない」と証明することは出来ない。AとB、二人の会話に耳を傾けてみよう。

 A「本州や四国、九州をくまなく探したけれどツチノコは見つかりませんでした」
 B「でも無人島に生息しているかも知れない」
 A「地球全土を調べたけどツチノコはいませんでした」
 B「では地中に潜っているのかも知れない」

きりがない。同様に「宇宙人(地球外生命体)はいない」ことを証明することも不可能だ。

 A「銀河系をくまなく探したけれど宇宙人は見つかりませんでした」
 B「ではアンドロメダ星雲にはいるかもしれない」

……果てしなくこの問答は続く。不在の証明は出来ないが、だからといってそれが存在の証明に繋がることもない。

ほとんど不可避的に人々は「それはなぜ起こったのか」という問いを発する。すべての事象がそれに先行する何かによって引き起こされたと想定する。確かにこの種の因果関係が存在することもあるが、そうではないこともある。例えば放射性元素の崩壊は統計学的に予想し、測定できるが、ラジウム原子が崩壊するとき、なぜ他の原子ではなくその特定の原子が崩壊するかという問いに対していかなる因果的な説明もできない。「ただそのようなもの」なのだ。量子力学にも不確定性原理がある。例えばある原子核の周囲に漂う電子(=量子:物質の最小単位)が、ある瞬間にどこの位置に存在するかは不確定であり、確率的にしか予想できない。観測して初めて場所が確定する。つまり電子は確率の雲の中にある。

もし神に意思があるのならば、量子の不確定性原理が説明できない。神がいると仮定すれば、神の意思は揺らいでいることになるからだ。ならば神は人間と同じで、絶対的で全知全能の存在ではなくなる。そんな設定(=神)、必要ですか?いないと考えたほうがすっきりする。

遺伝子の突然変異もそう。突然変異が発生する理由(因果関係)など何もない。単なる偶然だ。コンピューターのバグとか、ダウン症など染色体異常の発生も同じ。確率は計算できるが、理由はない。想像してみてください。貴方にダウン症の子供が生まれたとしよう。果たしてそこに〈神の意志〉はあるだろうか?単に確率のなせる技に過ぎない。

遺伝子の突然変異が発生する。それにより生まれたものが環境に適していれば生き残るし、適さなければ淘汰される。これが〈種の進化〉だ。つまり進化は〈神の意志〉ではなく、〈偶然と自然淘汰(適者生存)〉の繰り返しによる産物なのだ。因果関係など差し挟む余地はない。

「人間(知的生命体)が存在すること自体が奇跡。だから神様はいらっしゃる」という論理も間違い。順番が逆。我々は考える動物である。だから神を想定する。牛や豚は神様のことを知らない。何故ならば彼らは思考しないからである。故に彼らにとって神は存在しない。観測する者がいなければ、観測される者もいない。語られない神は、神たり得ない。神様が先なのではなく、人の存在が先なのだ(コペルニクス的転回)。「人間が神を創造した」が正解。神とはつまるところ、思い入れに過ぎない。

〈アフォリズム〉生きるとは何かが生まれ、成長し、絶えず変化し続けること。idea(着想)然り、skill(訓練によって培われた能力)然り。生成変化しないものに価値はない。

〈生成変化〉とはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが提唱した概念である。フランス語では"devenir"(ドゥヴニール:〜になる、〜に変わる)。ドゥルーズは定住することなく草原を自由に駆けめぐる遊牧民=ノマドのように生きよ、と説く。このことについてもっと深く考えたかったら映画『ノマドランド』(公式サイト)をご覧なさい。

〈アフォリズム〉「いま」しか存在しない。過去を後悔しても仕方がない。過去はあくまで記憶・記録でしかなく、修正出来ない。未来を思い煩うな。未来は予想・推測で、頭の中にしか存在しない。予定通りいかない。番狂わせが面白い。「いま」を楽しめ。

ただし、これは二十歳を過ぎたらという条件がつく。学校を卒業し就職するまでは、十年後の「ありたい自分」「なりたい職業」を想定し、その目標に向かって努力することは必要だろう。学生時代に遊び呆けて大学入試や就活に失敗したら後々生きることに苦労する。学ぶことは怠るな。一生が勉強だ。skillを磨け!!

〈アフォリズム〉執着は捨て置け。荷を下ろし身軽になって、自由な体で翔べ!

「執着」とは「あのとき、ああしておけばよかった」という後悔、「こうあらねばならない」というこだわりを指す。冷静になって考えると、案外くだらないことに人は執着しているものだ。囚われている執着に気付くためには自分から離れて、自分を客観視するskillを身につける必要がある。瞑想が有効な手段となるだろう。詳しくはハーバート・ベンソン(ハーバート大学医学部教授)著『リラクセーション反応』を読むか、Netflixから配信されている『ヘッドスペースの瞑想ガイド』をご覧あれ。

〈アフォリズム〉矛盾を恐れるな。人間は本来、矛盾した存在である。

このことを僕は宮崎駿の生き様から学んだ。具体的には彼のアニメーション映画『風立ちぬ』を観れば分かる。首尾一貫している必要なんかないんだ。気楽に生きようぜ。

〈アフォリズム〉「個」を大切にする欧米人に対して、日本人は「公」を重んじる。個人の内にある倫理観よりも、その行為が「場」の均衡を乱すか否かが重要視される。「場」ではお互いが監視し合い、秩序を乱す者がいれば「制裁」行動が発令される。

日本は未だ「ムラ」社会であり、「いじめ」の構造を内包している。新型コロナ禍でこれが如実に現れた。「自粛警察」や「マスク警察」が典型例。その背景には不安や恐怖心がある。基本的に日本人は臆病者なのだ。まぁこの「監視社会」「忖度」が良い方向に働けば「気配り」「お・も・て・な・し」に繋がるのだが……。

〈アフォリズム〉人間は均一じゃない。能力に差異はあるし、趣味嗜好も異なる。それが個性。平等であるべきなのは力を発揮する「機会」においてのみ。「差別」はいけないが、「区別」は必要だ。

どんな家庭環境に生まれようが(出自に関わらず)、優秀ならば最高の教育を受けるチャンスが与えられるべきだし(学業の自由)、肌の色や人種で職業選択の自由が奪われるべきではない。しかしその人が持つ能力や仕事量で社会的地位や財産に差が出るのは当然である。「差別」と「区別」は違う。

〈アフォリズム〉社会主義/共産主義の誤謬は「平等」を履き違えたことにある。働き者と怠け者が同じ給料なら誰も働かない。

〈アフォリズム〉「他人より良い暮らしがしたい」という欲望が社会を動かす。それを否定すれば社会は衰退する。

自らの欲望を肯定せよ。但し健康を害さず(アルコール依存症/生活習慣病など)、他人に迷惑がかからない範囲において。禁欲したって、人生つまらないじゃない?

〈アフォリズム〉衰退した社会主義/共産主義の隠れ蓑としてグローバリズムが流行った。しかしその限界を露呈したのが新型コロナウィルスである。世界各国はナショナリズムに走り、国境を封鎖した。人類は皆兄弟ではなく、地球は均一ではない。地域の特性を大切にし、互いの違いを尊重しよう。

社会主義と共産主義の違いについて日本共産党が公式見解を示している→こちら。つまり同じ意味である。

〈アフォリズム〉世の中、言ったもん勝ち。

なにか言いたいことがあっても、相手に伝えなければ心に不満が募るばかりである。問題は何も解決されない。言った場合、相手は怒るかも知れないし、軋轢が生じて気まずい雰囲気になるかも知れない。しかし問題が改善される可能性はある。少なくとも吐き出すことで鬱憤は晴れ、身が軽くなるだろう。コミュニケーションを図ることが人間の基本である。それを怠るな。自分ひとりで悩みを抱え込んだら心は病む一方である。

〈アフォリズム〉「なぜ生きるのか?」「生きることの意味は?」その価値を創造するのは、あなた自身である。

アメリカの自動車工場で働いている人 ー仮にA氏としようー が健康であろうが死のうが、日本で生活するあなたに関係ない。しかしA氏の家族や友人にとってはそうではない。A氏の生には意味があり、価値がある。それはA氏が彼の人生の中で、周囲の人々と築いた「関係性」に拠るものだ。つまり「関係性」の中にしか、人が生きる意味や価値は存在しない。村上春樹は読者との「関係性」に於いて価値があり、ベートーヴェンは彼の音楽を聴く鑑賞者との「関係性」に於いて価値がある。村上春樹の小説を読まない人にとって彼の名前はなんの意味も、価値も持たない。

ミクロの世界において量子論を基礎づける三つの考え方は粒性・不確定性・相関性関係性)である。これはマクロの世界に生きる人間にもそのまま当てはまる。

〈アフォリズム〉量子論・多元宇宙論(マルチ・バース)など現代物理学を学ぶことが叡智につながる。つまり、世界の秘密にアクセス出来る。

まずはカルロ・ロヴェッリ 著『すごい物理学講義』(栗原俊秀 訳/河出文庫)と、野村泰紀 著『マルチバース 宇宙入門』(星海社新書)からどうぞ。

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2021年1月13日 (水)

スパイ小説「あの本は読まれているか」と「ドクトル・ジバゴ」の想い出

アメリカ探偵作家クラブが授与するエドガー賞の最優秀新人賞にノミネートされた、ラーラ・プレスコットのデビュー作『あの本は読まれているか』(The Secrets We Kept)は2019年にアメリカで出版され、2020年4月に翻訳が出た。〈あの本〉とはロシアの詩人・作家であるボリス・パステルナークが書いた小説『ドクトル・ジバゴ』のことである。1957年にイタリアで出版されたがロシア革命に対して批判的ということでソビエト連邦内では発禁処分となり、58年にノーベル文学賞を受賞するもソ連当局の圧力により辞退を余儀なくされた。結局、ソ連国内で『ドクトル・ジバゴ』ロシア語版が出版されるのはペレストロイカを推進したゴルバチョフ書記長時代の88年である。それから3年後の91年にソ連は呆気なく崩壊した。

2014年に「冷戦中、アメリカのCIAはソ連を崩壊させる手段として『ドクトル・ジバゴ』を使用した」という驚くべき九十九の機密文書が解除された。ワシントンポストのこの記事を父親がラーラ・プレスコットに送ってくれたという。しかしその文書は人物名に手が加えられていたり、一部が黒塗りされたりしていた。

Sevret

パステルナークに、妻とは別にオリガという愛人がいて、彼女が『ドクトル・ジバゴ』のヒロイン、ラーラのモデルだったというのはこの小説を読んで初めて知った。確かにユーリ・ジバゴにはトーニャという正妻がおり、ラーラとは不倫関係だ。なお『あの本は読まれているか』の著者の名前がラーラなのは、母親が映画の大ファンでそれに因んで名付けたという。そしてプレスコットは幼少期にモーリス・ジャールが作曲した〈ラーラのテーマ〉の旋律が流れるオルゴールを聞いて時を過ごした。正に〈運命の子〉と言えるだろう。

僕が『ドクトル・ジバゴ』のことを初めて知ったのは、音楽を通してであった。1978年、小学校5年生のとき映画館で観た『スター・ウォーズ』に衝撃を受け映画音楽が大好きになり、アカデミー作曲賞を受賞した『ドクトル・ジバゴ』(1965)サウンド・トラックLPレコードを買った。中学生だった。まだVHSビデオデッキすら家庭に普及していなかった時代で、レンタルビデオ店もなかった。3時間を超える長い映画なのでテレビ放送も望みなし。だからレコードの解説や写真で想像を膨らませるしかなかった。そこで原作小説に取り組むことにした。

僕が岡山市立図書館から借りて初めて読んだのは時事通信社記者・原子林次郎が訳した版である。しかし当時はロシア語の原典が入手困難で、イタリア語訳版と英訳版を相互に参照しながらの不完全な重訳である旨が訳者あとがきに記されていた。そして1980(昭和55)年、同じ時事通信社から待望の、ロシア文学の専門家である江川卓による原典を底本とする翻訳が出た。僕は上巻1,500円、下巻1,700円のハードカバーが出版されるやいなや、なけなしのお小遣いを叩いて購入した。この江川版は89年に新潮文庫に収められたが、今では絶版になっている。現在入試可能なのは2013年に出版された工藤正廣訳のみで、なんと8,800円もする!気軽に読める小説ではなくなってしまった。むしろDVD,Blu-rayや配信で鑑賞可能なので、映画の方がアクセスしやすいだろう。デヴィッド・リーン監督の名作であり、僕は『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』よりも好き。ラーラを演じたジュリー・クリスティはイメージそのままで一分の隙もないし、悪徳弁護士コマロフスキー役のロッド・スタイガーも素晴らしい。

夢中になって『あの本は読まれているか』を一気呵成に読んだ。主人公はCIAに勤めるタイピスト兼、女スパイで『ドクトル・ジバゴ』をソ連国内に浸透させる諜報活動に従事する。事実は小説より奇なり。僕のために書かれたのではないか?と錯覚を起こすくらい気に入った。そして改めて自分がどれだけ『ドクトル・ジバゴ』を愛しているかを思い知った。もう、好き、好き、大好き!

『あの本は読まれているか』はLGBTQというテーマも絡んできて、さすが21世紀の小説という感じ。そして何より当時のCIAの人々が〈物語の力〉を信じていたっていう事実が素敵じゃない?正に〈ペンは剣よりも強し〉。超オススメ。こちらも映画化されることを是非期待したい。

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2021年1月 8日 (金)

【考察】高橋留美子「めぞん一刻」はラブコメの元祖?(新海誠「天気の子」との関係も)

高橋留美子原作『めぞん一刻』のテレビ・アニメ版(全96話)を初めてU-NEXTの配信で観た。そのきっかけとなったのはギルバート・オサリバンが歌った"Alone Again"である。詳しくは下記事に書いた。

"Alone Again"は石原真理子主演、澤井信一郎監督の映画『めぞん一刻』実写版(駄作)の主題歌としてエンドロールで流れた。そして1986年の映画公開に合わせて、特別にアニメ版の第24話でオープニングに"Alone Again"、エンディングに同じくオサリバンの"Get Down"が使用された。"Get Down" は「おすわり」という意味。可愛い恋人を犬に見立てた歌なので、『めぞん一刻』の内容にピッタリ。この〈幻のオープニング&エンディング〉 が一回きりで終わったのは著作権・使用料の問題であったようだ。

また第27話『消えた惣一郎!?思い出は焼き鳥の香り』では物語の終盤に挿入歌として"Alone Again"が使用された。これが大変な名場面で、僕は甚く感動した。脚本は後に押井守監督『機動警察パトレイバー the Movie 1 & 2』や、金子修介監督の平成ガメラ三部作で名を馳せることになる伊藤和典。こんな情景だ。

夕暮れの坂道。行方不明になった惣一郎(=犬。名前は死んだ夫に由来する)を探していた音無響子(アパート「一刻館」管理人)は坂の下方から見上げ、犬を連れて歩く五代裕作(「一刻館」住人で大学生)を見つける。そのシルエットから死んだ夫が蘇ったのではないかと錯覚した響子は思わず「惣一郎さん!」と叫ぶ。遠くを走る電車。その時、街灯が坂下から順番に灯り、五代の顔が照らされる。ここで"Alone Again" が静かに流れ始める。「五代さん……」がっかりしたような、それでいて逆に嬉しそうにも聞こえる響子の呟きだった。

これは『めぞん一刻』のターニング・ポイントと言える極めて重要なシーンで、響子の亡き夫への未練が、五代に対する愛に変化(していることを自覚)する瞬間を捉えている。

そして僕は即座に新海誠監督『天気の子』を思い出した。東京・田端駅近くの不動坂で帆高が陽菜の体が透き通っていることを発見する場面だ。刻限は夕方であり、灯る街灯の演出もそっくり。どう考えても間違いなく『めぞん一刻』へのオマージュだろう。新海監督は大学生の頃『めぞん一刻』を愛読していたことをインタビューで語っているし、そもそも年上の女の人を好きになる主人公という設定は既に『言の葉の庭』で使っている。アニメ版で音無響子の声を務めた島本須美が『天気の子』でも声の出演をしているのは決して偶然ではないだろう。

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さて、今回『めぞん一刻』という作品を通して観て感じたのは「これってもしかしたらラブコメの元祖なんじゃないか?」ということだった。

ラブコメの女王といえば言わずと知れたメグ・ライアンだ。彼女が脚本家ノーラ・エフロンと組んだラブコメ三部作の第一作『恋人たちの予感(When Harry Met Sally...)』が公開されたのは1989年。それ以前のハリウッド映画のラブコメは思いつかない。

高橋留美子の漫画『うる星やつら』初掲載は1978年、『めぞん一刻』が80年である。柳沢きみお『翔んだカップル』をラブコメの元祖とする説もあり、この連載開始が1978年。あだち充が『みゆき』の連載を開始したのが1980年、『タッチ』が81年なのでほぼ同時期と言えるだろう。

2021年現在、『愛の不時着』など韓国ドラマはラブコメの絶頂期を迎えている。しかし韓国でラブコメの源流を探ると、せいぜい2001年に公開された映画『猟奇的な彼女』あたりだろう。やはり世界的に眺めても、高橋留美子はラブコメの元祖(同時多発した作家の一人)と言えるのではないだろうか?

以前ハリウッド映画には〈スクリューボール・コメディ〉というジャンルがあった。スクリューボールは当時のクリケットや野球の用語で「スピンがかかりどこへ飛ぶか予測がつかないボール」を指し、転じて突飛な行動をとる登場人物が出てくる映画をこう呼ぶようになった。代表作に次のような作品がある。

・或る夜の出来事(1934)
・特急二十世紀(1934)
・赤ちゃん教育(1938)
・ヒズ・ガール・フライデー(1940)
・フィラデルフィア物語(1940)
・レディ・イヴ(1941)
・教授と美女(1941)
・結婚五年目/パームビーチ・ストーリー(1942)

従って、これらを撮ったフランク・キャプラ、ハワード・ホークス、ジョージ・キューカー、プレストン・スタージェスらが〈スクリューボール・コメディ〉の名手と言える。

またこれと一部重なるが〈ロマンティック・コメディ〉とか、〈ソフィスティケイテッド・コメディ〉と呼ばれるジャンルがあり、その代表作が以下の通り。

・極楽特急(1932)
・生活の設計(1933)
・青髭八人目の妻(1938)
・ニノチカ(1939)
・天国は待ってくれる(1943)
・ローマの休日(1953)
・麗しのサブリナ(1954)
・昼下がりの情事(1957)
・お熱いのがお好き(1959)
・アパートの鍵貸します(1960)

上記のリストでも明らかな通り、このジャンルの名手といえばエルンスト・ルビッチとビリー・ワイルダー、女優の代表選手はオードリー・ヘップバーンということになる。

しかしここからプッツリと伝統は途絶え、〈ロマンティック・コメディ〉暗黒時代が1960年代〜70年代〜そして『恋人たちの予感』が登場する80年代後半までほぼ30年間続くことになる。

やはり大きな影を落としたのがベトナム戦争と米ソ冷戦(ベルリンの壁が築かれるのが1961年)、そしてアフリカ系アメリカ人による公民権運動だろう(キング牧師による「ワシントン大行進」が1963年、マルコム・X暗殺が65年)。混乱の時代だった。

1960年代にフランス・ヌーベルバーグ(新しい波)が台頭し、60年代後半にアメリカン・ニューシネマに飛び火した。フランソワ・トリュフォーとジャン・リュック・ゴダールが乗り込んでカンヌ国際映画祭を中止に追い込んだのが1968年、同じ時期日本は安保闘争や東大安田講堂事件(1969)に揺れ、72年のあさま山荘事件に雪崩込んでいく。前衛・アヴァンギャルドの時代であり、独立プロやATGが活発になった。ハリウッドでは大手映画会社が市場を牛耳るスタジオ・システムが呆気なく瓦解し、〈ロマンティック・コメディ〉どころではなくなった。ようやく『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』が公開された1977年辺りから映画界は落ち着きを取り戻していく。〈ハリウッド・ルネッサンス〉の到来である。

あと『めぞん一刻』で感じたのは、非常に落語的だということ。一浪し三流大学に入学した五代はアパートの住人たちから「意気地なし」「甲斐性なし」「落ちこぼれ」と言われる。また日曜日の昼間から住人4人が寝間着姿で五代の部屋に集まって、ぐうたらしていると、五代は響子から「若いうちからこんな生活してたら、駄目になっちゃいますよ」と言われる。

駄目でいいんだという価値観。「ダメ人間万歳!」つまり、立川談志が言うところの〈人間の業の肯定〉が『めぞん一刻』の根底にある。

立川談志の著書に「現代落語論」がある。そしてその続編「あなたも落語家になれる」に、かの有名な一節が登場する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。

この解説で『落語』を『めぞん一刻』に置き換えると、そのままピッタリ当てはまるのだ。

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2021年1月 7日 (木)

Netflix配信映画「マ・レイニーのブラックボトム」

評価:A

Maraineysblackbottom

2020年12月18日よりNetflixから配信された。公式サイトはこちら

アカデミー賞でヴィオラ・デイヴィスの主演女優賞ノミネートは確実、また故チャドウィック・ボーズマン(『ブラックパンサー』)が主演男優賞を受賞する可能性は高い。既に彼はロサンゼルス映画批評家協会賞とシカゴ映画批評家協会賞を獲得している。

「ブルースの母」と呼ばれた伝説的歌手マ・レイニー(1886-1939)が主人公。ボーズマンの役はそのレコーディングに参加した野心家のトランペッター。原作はオーガスト・ウィルソンが執筆した舞台劇。ウィルソンの父はドイツからの移民で母はアフリカ系アメリカ人。代表作は戯曲"Fences"で2016年にデンゼル・ワシントン監督・主演で映画化され、アカデミー賞では作品賞など4部門にノミネート、妻役のヴィオラ・デイヴィスが助演女優賞を受賞した。日本では劇場公開されずソフトスルー、邦題は『フェンス』。黒人版『セールスマンの死』といった内容である。今回もデンゼル・ワシントンはプロデューサーとして関わっている。

映画の出来として『マ・レイニーのブラックボトム』は明らかに『フェンス』より上。コンパクトな物語りながら1927年当時の黒人の生きづらさが見事に描かれている。またブランフォード・マルサリスの音楽が出色の出来。

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2021年1月 5日 (火)

Netflix配信映画「シカゴ7裁判」鑑賞に役立つ豆知識

評価:B+

Chicago7

公式サイトはこちら

『シカゴ7裁判』は『ソーシャル・ネットワーク』でアカデミー脚色賞を受賞したアーロン・ソーキンが脚本・監督した映画で、新型コロナウィルスの流行により配給のパラマウントが劇場公開を断念しNetflixに権利を売却、2020年10月16日より配信された。他にソーキン脚色作として『スティーブ・ジョブズ』がある。2017年に彼が監督デビューした映画『モリーズ・ゲーム』の出来はイマイチだったが、今回は腕を上げた。

本作は実話だが、日本人にとっては馴染みがない話で取っ付きにくいだろう。1968年8月28日、大統領選挙を控えたイリノイ州シカゴで民主党の全国大会が開かれていた。それに合わせて全国から反ベトナム戦争派の若者たちが集結し、集会やデモを繰り広げた。やがてデモ隊と警察が衝突し、数百名の負傷者を出す事件へと発展した。その時に逮捕された各グループのリーダー格が〈シカゴ・セブン〉である。

ボビー・シール率いるブラックパンサー党も日本人にはちんぷんかんぷんだろう。暗殺された黒人解放指導者マルコムXの暴力主義を受け継ぐ団体で、マーティン・ルーサー・キングの戦略には否定的な連中である。

さらにややこしいのが彼らが逮捕されたのは、暗殺されたケネディの後に自動的に副大統領から大統領に昇格した民主党のジョンソン政権時代であり、裁判が始まったときには共和党のニクソン政権に交代していた。当然司法長官も左派系のラムゼイ・クラークから、右派のジョン・N・ミッチェルに交代した。ここで押さえておきたいことは後にニクソンはウォーターゲート事件(民主党本部への不法侵入・盗聴)を起こし、その際に大統領再選委員会のトップだったミッチェルは、不法活動に対する有罪判決を下され拘束された最初の司法長官となった。詳しいことは映画『大統領の陰謀』をご覧あれ。そして民主党のケネディが始めたベトナムへの軍事介入は共和党政権においても引き継がれた。このあたりの政治的駆け引きが日本人には非常に分かり辛い。

アーロン・ソーキンの政治的立場は明確で、民主党支持が鮮明に打ち出されている。最初この脚本が完成したのは2007年で、根幹には共和党のブッシュ大統領が2003年に起こしたイラク戦争に対する批判があった。そして実際に撮影が始まった2019年にはトランプ政権への怒りがあった("The whole world is watching"「全世界が見ているぞ!」)。さらにボビー・シールに対するあからさまな人種差別行為を通してブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter、通称「BLM」)の根深さを浮き彫りにしようとしている。つまり1968年を描くことで2020年を照射しようという狙いがあり、その目論見は見事に成功している。しかし、だからといってそれが作品の面白さに結びつくわけではない。僕は劇映画で政治的主張を語るべきではないと考えている。それはドキュメンタリーの役割だ。どうも本作はプロパガンダ的臭気が強く、浅ましいと感じる。威勢がよかったころのオリバー・ストーン監督の映画(『7月4日に生まれて』『ニクソン』)に近い胡散臭さだ。

アカデミー賞では作品賞・監督賞・オリジナル脚本賞・助演男優賞などでノミネートされると予想される。特に青年国際党(イッピー)共同創立者アビー・ホフマン役のサシャ・バロン・コーエンが好演。

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