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2020年12月28日 (月)

燃ゆる女の肖像

評価:A+

Portrait

カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。公式サイトはこちら

クィア・パルムとは2010年に創設された賞でLGBTQをテーマにした映画に与えられる。今までにグザヴィエ・ドランの『わたしはロランス』や、トッド・ヘインズの『キャロル』などが受賞しているが、女性監督が受賞するのは本作が初めて。クィア(Queer)とは、元々は「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉であり、同性愛者への侮蔑語であったが、1990年代以降は性的少数者全体を包括する肯定的な意味で使われている。黒人が「ニガー(nigger)」といった差別的な用語であえて自称して、意味の転換を図って行く感じに似ている。

監督のセリーヌ・シアマは同性愛者であり、『燃ゆる女の肖像』でエロイーズを演じたアデル・エネルと暮らしていたが、映画撮影前に同棲を解消したそう。

僕は以前より、『モーリス』『ブエノスアイレス』『ウェディング・バンケット』『キャロル』『恋人たち』『ムーンライト』など名作と誉れ高いLGBTQ映画は大抵、分け隔てなく観ている。しかし正直、面白いと思ったことは殆どない。それは僕が異性愛者だからだろう。例えば『君の名前で僕を呼んで』にしろ、アカデミー監督賞を受賞したアン・リーの『ブロークバック・マウンテン』にしろ、男女の恋愛を単に男と男に置き換えただけで、「凡庸な恋愛映画じゃないか」と鼻白み、退屈してしまうのだ。しかし『燃ゆる女の肖像』はそうじゃなかった。

冒頭5分位観ていて、カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いたジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』にすごく似ているなと感じた。小舟で女が島に到着する設定、そして荒々しい波の描写が女の心のあり方を反映している点。調べてみると案の定、『ピアノ・レッスン』との類似を指摘する声が少なからずあった。男と女の性愛が、女と女に置き換えられている。

『ピアノ・レッスン』との明確な相違は、本作が〈眼差しの映画〉であること。つまり誰が誰を見ているかというのが極めて重要なのだ。

AがBを見ている。BもAを見つめる。二人は相思相愛なのかも知れないし、互いに憎しみ合っているのかも知れない(それは表情で分かる)。両者は簡単に変換可能である。

一方、AがBを見ている。しかしBはAを見ていない。この場合、AはBのことが好き。しかしBはAに無関心なのかも知れない。また逆に、BもAのことが気にかかっているのだけれど恥ずかしかったり、恋に落ちるのが怖くて意識的に目を逸らしているのかも知れない。

劇中で語られるギリシャ神話『オルフェウスとエウリュディケ』が〈眼差しの物語〉を象徴している。オルフェウスは黄泉の国に死んだ妻を取り返しに行った帰り道、「見るな」の禁を破り、振り向いて後ろからついてくる彼女を見た。彼は単なる愚か者なのか?それともそこには何か深い思慮があったのか?

このように各人の視線を追うことで、そこにダイナミックなドラマが生まれるのだ。

これを意識的に演出したのが大林宣彦監督の『廃市』と『姉妹坂』だった。各登場人物の交差する視線の先には台詞で語られる、シナリオに書かれた物語とは全く別の〈心のあや〉が紡がれていたのである。

『燃ゆる女の肖像』ではヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲『四季』の『夏』から第3楽章が劇的効果を生んでいる。正に激情。調べてみると演奏しているのは英国屈指のバロック・ヴァイオリニスト、エイドリアン・チャンドラーと、彼によって1994年に創設されたピリオド・アンサンブル、ラ・セレニッシマ。

僕の人生において最初、激烈な『四季』に脳天をぶち抜かれたのがアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏(1977)だった。その次はビオンディ(Vn.)/エウローパ・ガランデ(1991)。そして今回、第3波の衝撃(サードインパクト)に襲われた。う〜ん、最高!!

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