祝!Netflixから配信〜フランソワ・トリュフォー「恋のエチュード」
2020年11月16日からNetflixでフランスのフランソワ・トリュフォー監督『恋のエチュード』(1971)と『柔らかい肌」(1964)の配信が開始された。Netflixはアメリカの会社であり、ヨーロッパ映画に弱い。今までトリュフォーの映画は1本もなかったし、イタリアのヴィスコンティやフェリーニ、ロッセリーニも皆無。これは一体、どういう風の吹き回し?なお『恋のエチュード』『柔らかい肌』はAmazonプライムとかU-NEXTとかからは配信されておらず、Netflix単独である。
トリュフォーといえばジャン=リュック・ゴダールと並び称されるヌーヴェルヴァーグの旗手である。ヌーヴェルヴァーグは1950年代末に始まったフランスにおける映画運動で、「新しい波」(New Wave)を意味する。血気盛んな若者たちは既成の映画製作システムをぶち壊し、手持ちカメラを担いで外に飛び出し、スタジオではなくパリの街中でゲリラ撮影を敢行した。ロベルト・ロッセリーニ監督『無防備都市』(1945)やヴィットリオ・デ・シーカ監督『自転車泥棒』(1948)に代表されるイタリアのネオレアリズモ→フランス・ヌーヴェルヴァーグ→アメリカン・ニューシネマという風に、その運動は飛び火した。ネオリアリズモの背景には第二次世界大戦の敗戦とイタリア共産党の台頭があり、ヌーヴェルヴァーグにはアルジェリア戦争(1954-62)、ニューシネマにはベトナム戦争(1955-75)や映画業界の斜陽化が暗い影を落とし、学生運動やヒッピー文化(カウンターカルチャー)と連動していた。アメリカン・ニューシネマの先駆的作品『俺たちに明日はない』(1967)は当初、トリュフォーに企画が持ち込まれたが断られ、次にプロデューサーはゴダールに接触したが結局合意には至らなかったという経緯がある。
『恋のエチュード』という映画があると僕が知ったのは20歳を過ぎた頃だったように思う。大林宣彦監督が何かの雑誌で本作への想いを熱く語っておられて、丁度『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』が尾道映画祭で上映された1987年前後だったと記憶している。他に大林監督が推薦していたのはゴダールの『軽蔑』、ロジェ・ヴァディム『戦士の休息』、アニエス・ヴァルダ『幸福』等だった(ある方が大林監督の選んだオールタイム・ベストをまとめたブログはこちら)。そして漸く発売されたレーザー・ディスク(LD)で観ることが叶った。その後、トリュフォーの映画は殆ど観たが、一番好きなのはやはり『恋のエチュード』だ。なお、大林監督の遺作『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』には鳥鳳助 (とりほうすけ)という人物が登場するが、言うまでもなくトリュフォーのもじりである。
『恋のエチュード』の原題を直訳すると『二人の英国女性と大陸』。原作者のアンリ=ピエール・ロシェはやはりトリュフォーが映画化した『突然炎のごとく』の著者でもある。『突然炎のごとく』は一人の女を愛する二人の男の話で、『恋のエチュード』は二人の姉妹を愛する一人の男の話。両者は表裏一体の関係にある。『恋のエチュード』でジャン・ピエール・レオ演じる主人公クロードは最後に自分の体験を元に『ジェロームとジュリアン』という小説を出版する。これは『突然炎のごとく』の原題『ジュールとジム Jules et Jim』に呼応している。
撮影監督はスペイン・バルセロナ出身のネストール・アルメンドロス。テレンス・マリック監督『天国の日々』でアカデミー撮影賞を受賞した。マジック・アワーにおける撮影があまりにも有名。『恋のエチュード』では緑色の部屋が印象的で、スイスの湖にある小さな島に於ける水上移動撮影も美しい。またこの場面でクラヴサン(チェンバロ)が主旋律を奏でるジョルジュ・ドルリューの音楽"Une Petite Île"(小島)がとっても素敵で、トリュフォーは『アメリカの夜』(1973)でも再使用している(ロウソクで照らされた仮面舞踏会の場面)。ウェス・アンダーソン監督もこの曲がお気に入りらしく『ファンタスティック Mr.FOX』で使っている。
『恋のエチュード』オリジナル版は132分だが映画が不評だったため劇場側の要請で20分ほどカットした118分のパリ公開版や、さらにカットした106分公開版がある。日本での初公開はアメリカ版だったが、僕が最初に観たLD版では既に132分に復元されており、Netflixから配信されているのも完全版である。特に初夜で血が流れるシーンに抗議が殺到したため、パリ公開版ではそのシーンがカットされているが、鮮烈な印象があり僕は好きだ。
僕が最も愛する場面はエピローグである。年老いたジャン・ピエール・レオがひとりぼっちでロダン美術館を彷徨する情景には観る度に胸をえぐられる。
ここに僕は『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』ラストシーンの大林宣彦監督によるナレーションをどうしても重ねてしまう。
ひとは、今日もまた
恋にはぐれて
くるほしく ー
胸、張り裂けながら
ただ、耐えて耐えて
生くるのみか ー
夕子、ー
君を忘れない
『恋のエチュード』はフランソワ・トリュフォー自らがナレーションしている点でも特筆すべき作品である。僕が知る限りこれが唯一無二だろう。『突然炎のごとく』(1961)はミシェル・シュボール、『二十歳の恋/アントワーヌとコレット』(1962)はアンリ・セール、『恋愛日記』(1977)はブリジット・フォセーがナレーターを務めている。そもそも大林監督は自作における尾美としのりの役回りを、トリュフォー映画『アントワーヌ・ドワネル』シリーズ(『大人は判ってくれない』など)におけるジャン・ピエール・レオに重ねていた節がある。
フランソワは1932年に私生児としてパリに生まれた。翌年に母は建築技師であったロラン・トリュフォーと結婚、父親不明の幼児はこの男に認知され、トリュフォー姓を名乗る。しかし望まれない子供であったフランソワは里子に出された後、一旦祖母に引き取られるが、祖母の死後は再び両親と暮らし始める(この時8歳)。しかし両親からの十分な愛情を受けられず、家出や非行を繰り返しながら不幸な少年時代を過ごした。そんなトリュフォー少年にとって唯一の逃げ場所が映画館であった。1946年(14歳)には早くも学業を放棄、16歳になったトリュフォーは自らシネマクラブを作る。フィルムのレンタル料でかさんだ借金や彼の非行に業を煮やした父親は息子を48年にパリ郊外にある感化院(少年鑑別所)に入れるが、一度も面会に来ない両親の代わりに映画評論家アンドレ・バザン(当時30歳)が身元保証人を引き受け、少年は出所することが出来た。この辺の体験が処女長編『大人は判ってくれない』に投影されている。なお、実の父親は68年に私立探偵の調査により特定された。
ゴダールとトリュフォーはバザンが初代編集長を務めた映画評論紙『カイエ・デュ・シネマ』に執筆する批評家としてキャリアをスタートさせた。トリュフォーの方が1歳若く、彼らは〈若き急進派〉と称された。映画評論家から監督に進出した例として、他にアメリカのピーター・ボグダノヴィッチや原田眞人(『わが母の記』『駆込み女と駆出し男』)がいる。
ふたりは仲が良かった。例えばゴダールの長編映画デビュー作『勝手にしやがれ』(1960)の原案はトリュフォーが担当しており、ゴダールの『女は女である』(1961)の中でトリュフォーの『ピアニストを撃て』に言及される。またゴダール『男と女のいる舗道』(1962)では『突然炎のごとく』が上映されている映画館が映し出される。
1968年にトリュフォーはゴダールと共にカンヌ国際映画祭粉砕を主張して大暴れした。しかしこの五月革命(五月危機)を契機にふたりは袂を分かつことになる。ゴダールは政治に生き、トリュフォーは映画への愛に回帰した。そんなトリュフォーをゴダールは「ブルジョア的で堕落している」と激しく非難した。トリュフォーが脳腫瘍で1984年に52歳で亡くなったときもゴダールは葬儀に参列せず、沈黙を守った。
これらの詳しい顛末をお知りになりたい方はドキュメンタリー映画『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』をご覧になることをお勧めする。
なお、トリュフォーはスティーヴン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』にフランス人UFO学者クロード・ラコーム役で出演している。スピルバーグは『アメリカの夜』に映画監督役で出ていたトリュフォーの演技を見て、彼の起用を決めたという。
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