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【いつか見た大林映画】第9回〜未発表短編「海外特派員 ある映像作家の場合」と、ボードレールの詩「人と海と」

2020年4月10日に亡くなった、大林宣彦監督の未発表白黒短編『海外特派員 ある映像作家の場合』が事務所倉庫の棚にあった謎の段ボール箱から発見され、京都国際映画祭でオンライン上映されたのを鑑賞した。公式サイトはこちら

大林監督が30歳頃(1968年前後)に製作した作品(16mmフィルム)だと思われるとのこと。上映時間13分。監督本人や妻でプロデューサーの恭子さん、娘の千茱萸さん、監督の仲間らが登場する。憧れを持って来日した北欧のデザイナーの青年が日本の現状に一度は失望するが、海でCM撮影中の大林監督らと出会い、希望を取り戻すという物語。

「大林映画はピアノ映画だ!」と看破したのは映画評論家の故・石上三登志だった(『彼のオートバイ、彼女の島』や『野ゆき山ゆき海べゆき』でナレーション担当)。僕はそれに「大林映画は海の映画だ!」を付け加えたい。自主映画時代の『EMOTION=伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(1967)の頃から、尾道三部作・新三部作は言うに及ばず、遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』まで終始一貫して認められる特徴である。

『海外特派員 ある映像作家の場合』では、ボードレールの『悪の華』から詩『人と海と』が引用される。

自由な人よ、常に君は海を愛するだろう!
海は君の鏡、逆巻き返す怒涛のうちに
君が眺めるもの、あれは君の魂 

この朗読に続き、ナレーションが「私は心の疲れを感じる時、海に来ます。海はそんな人達でいっぱいでした」と語る。

そして最後「私がこの夏、海で知り合った大林宣彦とその愉快な仲間たち。彼らが教えてくれたこと。それは、どんなときでも人は自分の自由な心を捨てない勇気を持つことだということです。もし心が疲れたら、あなたも海に行かれるといい。あなたはそこで、あなた自身の大林宣彦に出会うことでしょう」というナレーションで締め括られる。

本作を観て僕がはっきりと理解したのは、大林監督は海を〈自由な心〉の象徴と見做していたのだな、ということ。

このボードレールの詩を福永武彦の訳(『悪の華』初版)でも見てみよう。大林は福永の小説『草の花』映画化をライフワークとしていたが、実現には至らなかった。恭子プロデューサーは監督の死後、「できることならあと2作撮らせてあげたかった。思い入れのあった福永武彦の『草の花』と檀一雄の『リツ子その愛・その死』。それができなくなってしまったのは残念です」と語った。『草の花』もまた、船で海を渡る場面がある。

『人と海と』

自由人よ、君は常に海を愛するだろう!
海は君の鏡、波の無限に揺れやまない
繰返しに、君は自分の魂を映すだろう、
そして君の精神も、そのにがさは深淵に劣ることはない。

君は自分の面影に進んで身を沈めよう、
君はこの面影を瞳に腕に抱きしめる、そして胸に
苦しげに燃え上がる想いさえ、ふと紛れよう、
野獣のように人馴れぬ波の哀歌に。

暗い心の持主で、君等の口は共にかたい。
人よ、誰が君の深淵の奥底までを知るだろう、(再版:奥底までを測っただろう、)
海よ、君のひそかに隠す財産を知る者はない、
それほど一途(いちず)に、君等は自分の秘密を守るだろう!

しかも君等は悔(くい)も感じず、憐れみもなく、
力の限り闘い合った、劫初(ごうしょ)の遠い昔から、
死と殺戮とにそれほど君等の血は乾く、
おお永遠の闘争者、憎しみとけぬこの同胞(はらから)!

【出典:福永武彦編集「ボードレール全集 I」1963年 人文書院刊】

大林監督の遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』では中原中也の詩が沢山引用され、ランボーの詩『永遠』も登場する。中原中也の訳では以下の通り。

『永遠』

また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。

【出典:「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫】

有名な小林秀雄の訳は、

また見つかった、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。

【出典:ランボオ「地獄の季節」岩波文庫】

このランボーの詩は、ジャン=リュック・ゴダールの映画『気狂いピエロ』でも引用されている。

ここでランボーが言う「永遠」とは、「神」とかプラトンが説いた「イデア」とかいった不変不動のものじゃない。太陽は水平線の彼方にゆっくりと沈み、波も絶えず詩人の方に押し寄せる。つまり「永遠」とは永久機関のように動き続けるものなのだ。

命は海からやってきた。胎児は羊水の中で時を過ごす。羊水の塩分濃度はほぼ海水に等しく、人間の子供は母の内なる海から生まれてくると言える。人が海に向き合う時、彼は原初の自分をそこに見るのだろう。

物質の最小単位は「素粒子」であり、「量子(quantum)」ともいう。「量子」は粒子の両方の性質を持っている。光は光子という(素粒子)で出来ている。同時にの性質も持つ。波長の違いで我々は「色」を認識する。波長が短ければ「青色」に見え、波長が長ければ「赤色」に見える。 音もであり、波長が長い(周波数が低い)と低音に、短い(周波数が高い)と高音に聞こえる。なお、周波数とは単位時間あたりの振動数である。つまり海を見つめることは、根源的な量子論に思いを馳せることでもある。そこには生の本質がある。大林監督はそれを〈自由な心〉と表現した。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが言うところの〈生成変化〉である。

『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の登場人物、山倉(竹内力)と室田(三浦友和)が初めて出会うのは広島県福山市鞆の浦にある港で、次のような会話を交わす。

山倉「初めて見る海はいいもんだ」
室田「毎日眺めてもいいもんだ」
山倉「……ということは、あなたはこの街の方で」
室田「……ということは、お前さん旅の人だね」

また映画の最後に、大林監督のナレーションが入る。

確かに僕は海を見た。
ひとりぼっちで見た。
あのさびしい海は
本当に海だったのだろうか?
しかし、たとえそれが嘘の海であり
この物語が空想の物語であったにしろ
それはそれで良いのだろう。
たとえ物語が絵空事であるにせよ
この恋の想いだけは
確かに僕のものなのだから。

海は心の鏡であり、人はそこに恋の想いを映し出す。

また今年の京都国際映画祭で久しぶりに大林映画『四月の魚』に再会した。主演&音楽は元YMOの高橋幸宏。高橋は『海辺の映画館 キネマの玉手箱』にも“ファンタ爺”役で出演している。四月の魚ーポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)とはサバのことである。やはり海が関わっている。

『四月の魚』の主人公は「汚れっちまった悲しみに」と口ずさみ、中原中也の詩『一つのメルヘン』を暗唱する。

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄(いままで)流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

光子は水滴に変換され、「さらさら」とになって流動する。ここに大林映画の真髄がある。

僕の現在の職場からは瀬戸内の海が見える。多分、無意識のうちに導かれて、ここに辿り着いたのだろう。そして毎朝、海辺に来ての音に耳を傾ける。それは正に、大林宣彦とのひそかなる対話なのである。

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