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2020年10月

【いつか見た大林映画】第9回〜未発表短編「海外特派員 ある映像作家の場合」と、ボードレールの詩「人と海と」

2020年4月10日に亡くなった、大林宣彦監督の未発表白黒短編『海外特派員 ある映像作家の場合』が事務所倉庫の棚にあった謎の段ボール箱から発見され、京都国際映画祭でオンライン上映されたのを鑑賞した。公式サイトはこちら

大林監督が30歳頃(1968年前後)に製作した作品(16mmフィルム)だと思われるとのこと。上映時間13分。監督本人や妻でプロデューサーの恭子さん、娘の千茱萸さん、監督の仲間らが登場する。憧れを持って来日した北欧のデザイナーの青年が日本の現状に一度は失望するが、海でCM撮影中の大林監督らと出会い、希望を取り戻すという物語。

「大林映画はピアノ映画だ!」と看破したのは映画評論家の故・石上三登志だった(『彼のオートバイ、彼女の島』や『野ゆき山ゆき海べゆき』でナレーション担当)。僕はそれに「大林映画は海の映画だ!」を付け加えたい。自主映画時代の『EMOTION=伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(1967)の頃から、尾道三部作・新三部作は言うに及ばず、遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』まで終始一貫して認められる特徴である。

『海外特派員 ある映像作家の場合』では、ボードレールの『悪の華』から詩『人と海と』が引用される。

自由な人よ、常に君は海を愛するだろう!
海は君の鏡、逆巻き返す怒涛のうちに
君が眺めるもの、あれは君の魂 

この朗読に続き、ナレーションが「私は心の疲れを感じる時、海に来ます。海はそんな人達でいっぱいでした」と語る。

そして最後「私がこの夏、海で知り合った大林宣彦とその愉快な仲間たち。彼らが教えてくれたこと。それは、どんなときでも人は自分の自由な心を捨てない勇気を持つことだということです。もし心が疲れたら、あなたも海に行かれるといい。あなたはそこで、あなた自身の大林宣彦に出会うことでしょう」というナレーションで締め括られる。

本作を観て僕がはっきりと理解したのは、大林監督は海を〈自由な心〉の象徴と見做していたのだな、ということ。

このボードレールの詩を福永武彦の訳(『悪の華』初版)でも見てみよう。大林は福永の小説『草の花』映画化をライフワークとしていたが、実現には至らなかった。恭子プロデューサーは監督の死後、「できることならあと2作撮らせてあげたかった。思い入れのあった福永武彦の『草の花』と檀一雄の『リツ子その愛・その死』。それができなくなってしまったのは残念です」と語った。『草の花』もまた、船で海を渡る場面がある。

『人と海と』

自由人よ、君は常に海を愛するだろう!
海は君の鏡、波の無限に揺れやまない
繰返しに、君は自分の魂を映すだろう、
そして君の精神も、そのにがさは深淵に劣ることはない。

君は自分の面影に進んで身を沈めよう、
君はこの面影を瞳に腕に抱きしめる、そして胸に
苦しげに燃え上がる想いさえ、ふと紛れよう、
野獣のように人馴れぬ波の哀歌に。

暗い心の持主で、君等の口は共にかたい。
人よ、誰が君の深淵の奥底までを知るだろう、(再版:奥底までを測っただろう、)
海よ、君のひそかに隠す財産を知る者はない、
それほど一途(いちず)に、君等は自分の秘密を守るだろう!

しかも君等は悔(くい)も感じず、憐れみもなく、
力の限り闘い合った、劫初(ごうしょ)の遠い昔から、
死と殺戮とにそれほど君等の血は乾く、
おお永遠の闘争者、憎しみとけぬこの同胞(はらから)!

【出典:福永武彦編集「ボードレール全集 I」1963年 人文書院刊】

大林監督の遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』では中原中也の詩が沢山引用され、ランボーの詩『永遠』も登場する。中原中也の訳では以下の通り。

『永遠』

また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。

【出典:「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫】

有名な小林秀雄の訳は、

また見つかった、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。

【出典:ランボオ「地獄の季節」岩波文庫】

このランボーの詩は、ジャン=リュック・ゴダールの映画『気狂いピエロ』でも引用されている。

ここでランボーが言う「永遠」とは、「神」とかプラトンが説いた「イデア」とかいった不変不動のものじゃない。太陽は水平線の彼方にゆっくりと沈み、波も絶えず詩人の方に押し寄せる。つまり「永遠」とは永久機関のように動き続けるものなのだ。

命は海からやってきた。胎児は羊水の中で時を過ごす。羊水の塩分濃度はほぼ海水に等しく、人間の子供は母の内なる海から生まれてくると言える。人が海に向き合う時、彼は原初の自分をそこに見るのだろう。

物質の最小単位は「素粒子」であり、「量子(quantum)」ともいう。「量子」は粒子の両方の性質を持っている。光は光子という(素粒子)で出来ている。同時にの性質も持つ。波長の違いで我々は「色」を認識する。波長が短ければ「青色」に見え、波長が長ければ「赤色」に見える。 音もであり、波長が長い(周波数が低い)と低音に、短い(周波数が高い)と高音に聞こえる。なお、周波数とは単位時間あたりの振動数である。つまり海を見つめることは、根源的な量子論に思いを馳せることでもある。そこには生の本質がある。大林監督はそれを〈自由な心〉と表現した。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが言うところの〈生成変化〉である。

『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の登場人物、山倉(竹内力)と室田(三浦友和)が初めて出会うのは広島県福山市鞆の浦にある港で、次のような会話を交わす。

山倉「初めて見る海はいいもんだ」
室田「毎日眺めてもいいもんだ」
山倉「……ということは、あなたはこの街の方で」
室田「……ということは、お前さん旅の人だね」

また映画の最後に、大林監督のナレーションが入る。

確かに僕は海を見た。
ひとりぼっちで見た。
あのさびしい海は
本当に海だったのだろうか?
しかし、たとえそれが嘘の海であり
この物語が空想の物語であったにしろ
それはそれで良いのだろう。
たとえ物語が絵空事であるにせよ
この恋の想いだけは
確かに僕のものなのだから。

海は心の鏡であり、人はそこに恋の想いを映し出す。

また今年の京都国際映画祭で久しぶりに大林映画『四月の魚』に再会した。主演&音楽は元YMOの高橋幸宏。高橋は『海辺の映画館 キネマの玉手箱』にも“ファンタ爺”役で出演している。四月の魚ーポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)とはサバのことである。やはり海が関わっている。

『四月の魚』の主人公は「汚れっちまった悲しみに」と口ずさみ、中原中也の詩『一つのメルヘン』を暗唱する。

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄(いままで)流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

光子は水滴に変換され、「さらさら」とになって流動する。ここに大林映画の真髄がある。

僕の現在の職場からは瀬戸内の海が見える。多分、無意識のうちに導かれて、ここに辿り着いたのだろう。そして毎朝、海辺に来ての音に耳を傾ける。それは正に、大林宣彦とのひそかなる対話なのである。

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ニューロティック・スリラーと「ガス燈」ーガスライティングとは何か?

今年公開されたエリザベス・モス主演『透明人間』はガスライティング(英: gaslighting)〉映画であった。心理的虐待の一種であり、被害者(妻)にわざと誤った情報を流し、被害者が自身の記憶や正気を疑うよう仕向ける手法。用語の起源はイングリッド・バーグマンがアカデミー主演女優賞を受賞したジョージ・キューカー監督の映画『ガス燈』(Gaslight,1944) に遡る。

『ガス燈』は元々舞台劇で、既に1940年に英国でも映画化されている。嘗てはニューロティック・スリラーと呼ばれた。ニューロティックとは「神経症的」を意味する。

Gaslight

ニューロティック・スリラーは1940年代にハリウッドで流行った。マール・オベロン主演『黒い河』(Dark Waters,1944)とか、ダグラス・サーク監督『眠りの館』(Sleep,My Love,1948)、オリビア・デ・ハビランド主演『暗い鏡』(The Dark Mirror,1946)、ロバート・シオドマク監督『らせん階段』(The Spiral Staircase,1946)などがある。またアルフレッド・ヒッチコックが監督した『断崖』(1941)とか、イングリッド・バーグマン主演『白い恐怖』(Spellbound,1945)もそう。因みにspellboundとは「魔法にかかった」「呪文に縛られた」という意味。やはり背景には第二次世界大戦の暗い影があったのではないだろうか?

またヒッチコック監督『レベッカ』(1940)のヒロイン(『断崖』のジョーン・フォンテイン)は結婚後女主人として大邸宅マンダレイに行き、そこで事故で亡くなった前妻レベッカを慕っていた使用人ダンヴァース婦人から徐々に精神的に追い詰められていくという話で(自殺教唆もあり)、〈ガスライティング〉のバリエーションと言えるだろう。『レベッカ』は『シンデレラ』『ベイビー・ドライバー』のリリー・ジェームズと『ソーシャル・ネットワーク』『君の名前で僕を呼んで』のアーミー・ハマー共演で今年リメイクされ、つい先日Netflixから配信されたばかり。

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余談だが『風と共に去りぬ』メラニー役で有名なオリビア・デ・ハビランドとジョーン・フォンテインは仲の悪い実の姉妹であり、イギリス人の両親の間に東京で生まれた。

『ガス燈』のバーグマンも、『レベッカ』『断崖』のフォンテインも、恐怖に怯えた演技が見どころになっている。両者ともその演技でアカデミー主演女優賞を受賞したのだから、実においしい役だ。なんとフォンテインはヒッチコックの監督作品でアカデミー賞を獲得した、ただ一人の俳優である

ガスライティング〉という用語は現在、臨床心理学および学術研究論文でも使われている。映画の影響力ってすごい。フェデリコ・フェリーニの映画『甘い生活』から生まれた〈パパラッチ〉とか、ウィリアム・ワイラー監督『ローマの休日』から生まれた〈ヘップバーンカット〉を思い出した。

半世紀以上廃れていた〈ガスライティング〉映画が近年復活したのは、間違いなく大物映画プロデューサーだったハーヴェイ・ワインスタインによる性的暴行の告発および逮捕に端を発する #MeToo 運動が盛り上がった結果だろう。エリザベス・モスが製作総指揮・主演したHuluのディストピア・ドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』も #MeToo の申し子だ。

映画やテレビ・ドラマは時代を写す鏡である。

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「隠れ左翼」の見抜き方

「左翼」はWikipediaで次のように定義されている。

「左翼」という用語は通常、「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」を指し、革命運動、社会主義、共産主義、社会民主主義、アナキズムなどを支持する層を指すことが多い。

社会主義と共産主義の違いについて日本共産党が公式見解を示している→こちら。つまり同じ意味である。

20世紀は社会主義国家建設という壮大な「実験」が行われたが、ことごとく失敗した。1989年にベルリンの壁が取り払われ、91年にソビエト連邦も呆気なく崩壊。浦山桐郎監督の映画『キューポラのある街』(1962)は在日朝鮮人の北朝鮮帰還運動を肯定的に捉えられており、朝日新聞も帰国事業に加担したが、その末路が惨憺たるものだったことはご承知の通りである。エッ、中国はどうかって?今の香港やチベット自治区、ウイグル自治区で何が行われているか、とくとご覧あれ。人民の意志が尊重されているとは到底言い難い。インターネットやSNSは中国政府により検閲され、Netflixの配信サービスも始められない状況である。

日本の左翼運動は1960年代に安保闘争や東大安田講堂事件などで大いに盛り上がったが、1972年、連合赤軍が起こした〈あさま山荘事件〉で一気に世間からの支持を失い、急速に萎んでいった。

故に現在の日本ではおおっぴらに自分たちが社会主義・共産主義を支持していると言いづらい状況になっている。若い人たちから馬鹿にされるのが落ちだ。そこで彼らは自分の本心を隠すこと(カモフラージュ)に奔走するはめになった。

学生運動華やかなりし頃、活動の中心を担ったのは東大生や京大生ら、エリートだった。彼らが大人になり、現在では日本ペンクラブに所属する作家や、弁護士、大学教授(文系)、知識人たちに左翼思想を持つ者が多い。

そこで日本の「隠れ左翼」を可視化/あぶり出すためのバロメーター、診断基準を考案した。

1) 日本学術会議が新会員として推薦した105人中6人を菅首相が任命しなかったことに関して、「学問の自由」を侵害したなどと連日書き立て、世の中を扇動している。また「反教養」「反知性主義」といった表現を好む。
2) モリカケ(森友・加計学園)や桜を見る会の問題について、あたかも重大犯罪であるかのように執拗に書き立てた(しかし結局、事件性は何もなかった)。
3) ドナルド・トランプや小池百合子が大嫌い。特に「アメリカ・ファースト」とか「都民ファースト」といった発想、ナショナリズムを憎んでいる。そのくせ「ヘイトを許すな!」というフレーズがお気に入り(自己矛盾)。「人類は皆兄弟」だと思っている。
4) 安倍晋三・元総理や菅義偉・総理、橋下徹・元大阪市長をヒトラーに喩えたり、ファシスト/ポピュリスト呼ばわりした。当然、大阪維新の会のことを苦々しく思っているから「大阪都構想」に断固反対。
5) 自称「リベラル」。「格差社会」という言葉に激しいアレルギー反応(アナフィラキシー)を示し、アメリカ民主党に親近感を抱いている。オバマ大統領の頃は良かったと昔を懐かしみ、美化している。
6) 自分たちが気に入らない勢力に対して「ネトウヨ」というレッテルを貼りたがる。
7) グローバリズムを信奉している。故に新型コロナウィルスが世界に蔓延したことの一因がグローバリズムにあることを決して認めない。
8) 「国会前のデモに何万人集まった」とかといったくだらないことを大々的に報道する。
9) あいちトリエンナーレ『表現の不自由展』の騒動について開催継続を主張し、芸術監督・津田大介を擁護した。また今でも津田にコラムを書かせたり、意見を求めたりするなど親しくしている。
10) 嘗て韓国の「いわゆる」従軍慰安婦問題を書き立てて、「反日」感情を煽った。しかし全てはでっち上げ、フェイク・ニュースであり、日本軍が慰安婦を強制的に連行したという証拠は一切見つかっていない。
11) 日本国憲法の改正に反対。「護憲派」を自任する。
12) 自らを「市民」と名乗る。あるいは「市民団体」をヨイショする。

◎この12項目のうち、2項目が当てはまれば極めて濃厚、3項目以上なら確実と言えるだろう。

以下、幾つかの項に関して解説を加える。

1)そもそも日本学術会議の問題は既得権益や、悪しき前例を見直そうという話であり、「学問の自由」とは一切関係がない。ナンセンス!首相が任命しないからといってその人が「学問の自由」を奪われるわけではない。美味しい汁を吸えなくなるというだけ。全く馬鹿げた論点のすり替えである。

2)モリカケや桜を見る会について確かに一部の人が得したり、接待を受けたのかも知れない。しかしそれが国会を止めるほどの重大事か?ロッキードとか贈収賄事件とはわけが違う。細部にとらわれすぎて全体に注意を向けず、物事を疎かにしている。「木を見て森を見ず」は正にこのこと。

4)日本学術会議のメンバーとして任命を拒否された立命館大学院・松宮孝明教授は「菅総理大臣は現行憲法を読み替えて自分がヒトラーのような独裁者になろうとしているのか」と批判した。僕は「またか!」と爆笑した。安倍元総理も何度となく「ヒトラー」呼ばわりされた。左翼のいつもの手口だ。しかし不思議と彼らはスターリンとかポル・ポト、中国の文化大革命を指導した四人組など共産主義国家の独裁者に喩えたりしない。では松宮教授に尋ねるが、一体菅首相が誰を殺したというのか?共産党を禁止にしたり、共産党員を強制収容所送りにしたか?あなたがヒトラーやナチス・ドイツが行った残虐行為を正しく理解しているとは到底言えない。学者の風上にも置けない。承認されなくて大正解だ。

ポピュリズムとは大衆に迎合して人気をあおる政治姿勢のこと。左翼知識人がポピュリズムという言葉を好むのは、基本的に「大衆は愚かだ」と決めつけているから。自分たちはエリートであり、少数精鋭の自分たちこそ正しく、知性の欠けた大衆を啓蒙し、導かなければならないと考えている(諸説あります)。

上の立憲民主党のツィートが「大阪のオバチャンを馬鹿にしている」と物議を醸した。「わからないなら反対を」とか、完全に大阪府民を舐めている。ここに左翼の特徴がよく表れている。

アメリカ大統領選でドナルド・トランプが勝ったときも、反トランプのマス・メディア(ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNなど)やハリウッドのセレブたちの主な反応はトランプを支持するブルー・カラーの労働者たちを馬鹿にしたものだった。つまり彼らの論調は「大衆は物事の本質を分かっていない」。民主党を支持する自分たちこそ賢く正しいというわけである。一方的にトランプは悪だと決めつけているので、どうして彼を支持する層が多いいのかについて冷静に分析出来ない。「トランプ支持者はアホだ」で思考停止している。

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6)朝日新聞・東京新聞など左翼ジャーナリズムが「ネトウヨ」という用語を好むことは5年前に一度論じた。

7)グローバリズムとは、地球を一つの共同体と見なして、世界の一体化(globalization)を進める思想である。 これって実はジョン・レノンが『イマジン』で歌った、アナーキズム無政府主義)の変形に過ぎない。アナーキズムとは国家を望ましくなく不必要で有害なものであると考える思想であり、国家の廃止を呼びかけるもの。マルクスが唱えた国家社会主義と対立する思想ではあるが、共産主義の分派である。

グローバリズムを信奉するマス・メディアはイギリスのEU離脱に異議を唱えた。何故ならば、EUも国境を取り払いヨーロッパを緩やかな共同体(commune)にしようとする意図を持っているからである。

9)『あいちトリエンナーレ』問題については下記事で詳細に分析した。

この問題と「表現の自由」は一切関係がない。論点のすり替えである。そういう点で日本学術会議の会員任命問題について「学問の自由」を持ち出してくる手口と全く同じ。ワンパターン。

10)東京新聞や朝日新聞は「国会前デモ」の記事が大好き(こちらこちら)。しかし、たとえ国会前に10万人集まろうが、それが民意を反映しているとは言えない。現政権が気に入らなければ選挙で落とせばいいだけのことである。日本は民主主義の国なんだから。革新派の人たちは自己主張が激しいから、声が大きく目立つだけ。一方、大勢を占める保守派は必死に意見を述べる必要がないので黙っている。それをサイレント・マジョリティーという。

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しかし左翼の人々は「大衆はアホだ」と見下しているので、選挙結果(多数決)を冷静に受け入れることが出来ない。「少数派(オレたち)の意見に耳を傾けろ」と声高に主張する。じゃあ、どうやって意思決定するの??

結局彼らの本音としては一部のエリート(オレたち)が愚衆を手取り足取り導く国家が望ましく、普通選挙という制度(=愚衆政治)そのものが気に入らないのだろう(諸説あります)。

また〈デモ参加者=正義〉という幻想・錯覚は1960年代の安保闘争の時、自分たちが国会前で暴れたことへの郷愁(ノスタルジア)でもあるだろう。

忘れてならないこと。デモとは対象に心理的圧力を加えることにより自分たちの主張や要求を実現しようとする示威運動であり、国家に対するデモ(対企業は別)が有効なのは帝政時代のロシアとか現在の中国など、普通選挙が実施されていない地域においてのみである。アメリカ合衆国ではキング牧師らの公民権運動(1963年ワシントン大行進など)のおかげで、1965年に投票時の人種差別を禁じた投票権法が漸く成立した。

11)本来、革新派である筈の左翼が「護憲派」というのは世界にも類がないだろう。完全に矛盾しており、ねじれ現象が起こっている。僕が「奇形左翼」と呼ぶ所以である。そもそも現行の日本国憲法はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が英語の草案を作り、それを翻訳したものだから、左翼が大嫌いなアメリカから押し付けられたものである。1946年11月3日に公布されて以降、一度も国民投票にかけられたこともなく、総意を得ていると言い難い。しかし左翼ジャーナリズムは国民投票にまで持っていかないように必死でキャンペーンを張っている。何が民主主義・主権在民だ。滑稽としか言いようがない。どうしてこんなねじれが起こったか?それは大日本帝国憲法時代、1925年に制定された治安維持法などにより、日本の左翼が辛酸を嘗めたことに起因している。例えば『蟹工船』を書いた小林多喜二は1933年に特高警察により逮捕、拷問され獄中死している。だから悪夢の大日本帝国憲法よりは、戦勝国のアメリカさまから屈辱的に押し付けられた新憲法の方がマシというわけ。左翼は憲法改正=9条改正という短絡的思考しか出来ず、すぐに新聞紙上で「軍国主義の足音が聞こえる」とかいった表現が踊ることとなる。彼らは悪夢の再現に怯えている。

これは1950年代に共和党のジョセフ・マッカーシー議員によって行われた赤狩り(マッカーシズム)で痛い目に遭ったハリウッドの映画人たちが共和党を憎み、民主党を熱狂的に支持している構造に似ている(共和党を支持するクリント・イーストウッドやアーノルド・シュワルツェネッガーなど例外はあるが少数派)。

12)大方「市民団体」「平和団体」と名乗るものは怪しい(例外もあります)。常に疑いの目で見ることを心がけよう。

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ぶっちぎりのロケットスタート!「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」

前代未聞、桁外れの特大ヒットである。僕が観た兵庫県西宮市のTOHOシネマズでは公開初日金曜日の上映回数が30回!レイトショーは20時00分、10分、20分、30分、40分と10分刻みの上映開始で、「電車の時刻表か!」と呆れた。TOHOシネマズ新宿は全12スクリーンのうち11スクリーンを稼働し、1日で42回上映したという。週末3日間の興行収入は46億円を突破。日本国内で公開された映画(洋画含む)の興行収入と動員の歴代1位となった。昨年の興収トップだった『天気の子』と比較して、約3倍とぶっちぎりである。最終的に『天気の子』の記録、141億9000万円を超えるのではないだろうか。

東宝は『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に社運を賭けており、新型コロナ禍で落ち込んだ収益をここで一気に挽回するぞと鼻息が荒い。

評価:A

Kime

京アニ『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、テレビ・シリーズを観ていなくてもこれまでの経緯がわかるような親切な構成だったが、『鬼滅の刃』はそんなことを一切斟酌しない。テレビ・シリーズを観ていることが大前提で話は展開する。僕も当然、全26話を鑑賞した上で映画館に臨んだ。

原作者・吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)は覆面漫画家であり、その正体は男なのか女なのかが議論の的になっている。僕は女性だと確信している。漫画家・きたがわ翔と山田玲司も対談(『れいとしょう』)の中で、女性説を支持している。その根拠となっているのが鬼殺隊に退治された鬼の死に際。人間だった頃の回想が長々とあり、この世の未練を切々と語る。それを傾聴した主人公・炭治郎が「可哀想に。辛かったろう」と涙を流す。その共感性の高さが女性作家ならではだというのだ。つまりemotional、今流行りの言葉で表現するなら「エモい」。

『無限列車編』も過剰なまでにエモい、そして熱い、いや、熱苦しい。些かtoo muchで辟易すると言えなくもないが、それは本シリーズ一貫した特徴なので、肯定的に受け取りたい。僕は幼少期から女性作家と相性が良いのだ(マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ」、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』、アガサ・クリスティの推理小説、紫式部『源氏物語』、角田光代『対岸の彼女』『八日目の蝉』、宮部みゆき『火車』)。

夢と無意識がテーマという点でも大いに気に入った。とってもカール・グスタフ・ユング的。そういう意味で『君の名は。』『インセプション』『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『劇場版 まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』に近い。テレビ・アニメ『宇宙戦艦ヤマト2199』なら第14話〈魔女はささやく〉が該当する。こういうの、大好物です。

あと本作は、煉獄さんの〈承認欲求〉が満たされるまでの物語という捉え方も可能だろう。

客層の男女比はほぼ半々で、やや女性が多めか。クライマックスではあちらこちらからすすり泣く声が聞こえてきた。

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「TENET テネット」に迸る映画愛

映画『TENET テネット』の物語構造やその哲学、背景とする物理学については下記事で詳しく論じた。

時間を順行する人物と、逆行する人物が錯綜する本作で何が起こっているのか、初見で完全に理解出来る人は皆無だろう。僕は3回目の鑑賞(IMAX)でようやく各登場人物のタイムラインを把握することが出来た。

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わかり易さを全く念頭に置いていない本作の不親切な製作方針は、観客への理解を促すためにシナリオに書かれていた説明用ナレーションをばっさりカットしてしまったスタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』を彷彿とさせる。クリストファー・ノーランは『インターステラー』にモノリス(石版)に似た外見の人工知能ロボットを登場させているので、『2001年』を意識していたことは間違いない。繰り返し観ることが前提なのだ。

『TENET テネット』に登場する「時間反転装置」はタイムマシーンではなく、「時間の矢」を反転するだけなので、10日前に戻るには10日かかる。事物が逆行する世界は正に映画フィルムの逆再生に他ならない。これは映画誕生から間もなく我々の祖先が目にした驚きであり、エイゼンシュテインが確立したモンタージュ理論に先立つものだった(*)。

*注釈:1896年に公開されたリュミエール兄弟の『壁の突破』( Démolition d'un mur )で逆再生は映画史に初登場する。動画はこちら。これが『テネット』の時間挟撃作戦におけるビル破壊シーンに繋がっていると感じるのは僕だけではないだろう。

観客は映画の中に流れる時間を感じるが、それは映写機の中で次々と送り出されてくるコマと、シャッターの瞬きで生み出されるイリュージョン(幻想)でしかない。フィルムを送り出すスピードを変化させることで時間を止めたり、ゆっくりにしたり、早送りしたり、逆再生したりすることが出来る。つまり『TENET テネット』の劇中で問われる主役(Protagonist)とは、映画そのものであるとも言えるのではないだろうか?僕はノーランに映画の原風景を見せてもらったような気持ちになった。

名もなき男が大富豪である敵とヨットで豪遊する場面は明らかに007などスパイ映画へのオマージュであり、終盤でフランス映画『太陽がいっぱい』を彷彿とさせたり(死体をロープで縛りボートで牽引する場面)、『カサブランカ』の名台詞(「ルイ、これが美しい友情の始まりだな」)が引用されたりと映画愛に溢れた傑作である。

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「半沢直樹」土下座の歴史と、それを強要する心理学

先日放送されたTBS『半沢直樹』2nd seasonを面白く観た。総合視聴率(リアルタイム視聴率とタイムシフト視聴率の合計)は44.1%だった。40%超えは2016年10月にビデオリサーチ社が調査を開始して以降、史上初だそう

上の記事で本作(第一期)の魅力の一つは〈かぶく(傾く)〉様式美にあり、香川照之(市川中車)、片岡愛之助というふたりの歌舞伎役者が出演していることを指摘した。第二期ではさらに市川猿之助、尾上松也とふたりの歌舞伎役者が加わり、濃い顔芸に磨きがかかった。顔の筋肉の動かし方が独特。香川演じる大和田(取締役)が「お・し・ま・い・death!」と手のひらで首を掻き切るような仕草をしたりして〈やり過ぎ Too Much〉だけれど、視聴者には大受けした。大和田と半沢(堺雅人)が不正に手を染めた銀行員・曾根崎 を問い詰める際に「さあ、さあ、さーアサァサァサァ!」と歌舞伎でお馴染みの掛け合いをする場面もあった。

さて、物語における巨悪にしてフィクサーである進政党 幹事長の箕部啓治(柄本明)の前で大和田(香川照之)が半沢(堺雅人)に土下座を強要する場面でこう言う。

「この日本には相手に思いを伝えるのに古来から引き継がれた素晴らしい礼法がある」

ここで僕は強烈な違和感を覚えた。確かに土下座の所作は古代からあったろう。しかし、謝罪の場面で土下座するという習慣は比較的近代なのではないか?つまり、途中から意味が変わってきたのではないかと考えたのである。

そこで調査を開始すると、土下座の歴史について書かれた唯一の文献であるらしいパオロ・マッツァリーノ(著)『誰も調べなかった日本文化史』(ちくま文庫)の存在が判明したので、早速購入して読んだ。

正座した上で手のひらを地に付け、額が地に付くまで伏す所作は『魏志倭人伝』に既に記載されており、邪馬台国の時代からあったようだ。しかし古代はこれを「平伏」と言った。そして謝罪の意味はなく、神様や天皇、将軍など偉い人に対する誠意や畏敬の念の示す目的で行われた。

江戸時代になって「下座」という言葉が登場するが、それは現在でいう「土下座」の様式ではなかった。

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上の図版で大名行列の様子を見てください。庶民の「下座」はただしゃがんでいるだけ、つまり蹲踞(そんきょ)の姿勢。手は土に付けていない。しかも『誰も調べなかった日本文化史』 によると、下座しなければならなかったのは徳川家将軍と御三家、そして将軍家から嫁いだ娘が通る場合だけだったという。 それ以外の諸藩の大名行列では立ったままでよかった。

江戸には参勤交代で全国から大名が集まってくるから、いちいち全部に下座していたら生活がままならなくなってしまう。当時日本全国に大小二百以上の藩があり、しかも往復するからその二倍。つまり一日平均一回以上の大名行列が通った計算になる。そりゃ、やってらんねェぜ。

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『誰も調べなかった日本文化史』によると、土下座に謝罪の意味が加わったのは大正時代後期から昭和初期にかけてだという。根拠となる資料は昭和七年刊行の国語辞典や、朝日新聞と読売新聞の記事データベース。極めて信憑性が高い。

結論。『半沢直樹』大和田取締役の土下座に関する発言には些か事実誤認があった。

さて、現在ではコンビニや衣料品店で客がクレームを付け、店員に土下座させたという事件が報道されたりしているが、これは立派な犯罪です。〈強要罪〉や〈脅迫罪〉に問われ、警察に逮捕される。

人に土下座させる者の心理。それは〈いじめ〉にも似た快感である。〈報酬系〉と呼ばれる神経伝達物質・ドーパミンが脳内に放出され、すっごく気持ちよくなる。ドーパミンは麻薬にも似た中毒性があり、より強い刺激を求めて行動は次第にエスカレートする。いわば〈自分に酔う〉感じ。

立っている人が、土下座している人を見下ろすと、そこに高低差があり、なんだか自分が偉くなったような錯覚に陥る。テレビ視聴者が『半沢直樹』の土下座に興奮するのも、そういった心理的メカニズムが働いている。それは時代劇『大岡越前』における、裁きの場面に直結している。「公事場(くじば)」と呼ばれる高みから「お白州(しらす)」という砂砂利に敷かれた筵(むしろ)に座る被告人=大悪党を見下す感覚。〈正義中毒〉だ。現在の裁判制度でも裁判長は一番高い場所に鎮座している。高低差が重要。

古今東西を問わず、お金持ちや権力者は高所に住みたがる。日本や西洋のお城がそう。映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』に描かれていたように、ハリウッドでは貧しい役者志望の若者は平地に住み、金持ちは山の上にプール付き豪邸を建てている。アカデミー作品賞・監督賞を受賞した韓国映画『パラサイト』は半地下に住む貧しい一家が、丘の上の豪邸に住む一家に対して〈恨(ハン)〉、嫉妬心を抱く物語だった。それは黒澤明監督の『天国と地獄』に対するオマージュにもなっている。

つまり〈垂直方向の差異=貧富・身分の差〉という図式が成り立つ。タワーマンションも高層階になるほど値段が高く、金持ちは最上階に住んでいる。空の高みから天下の平民たちを睥睨する、といった感覚か。神の視点。「猿もおだてりゃ木に登る」のだ。

英語で「(人より)優位な立場に立つ」「(人より)優れる」ことを"one-up someone"という。やはりup/downが肝心なのだ。「マウントをとる」のも高低差。 

兵庫県神戸市はご存知の通り港町であり、坂の町でもある。神戸港から六甲山の方面に向かって傾斜があり、次第に標高が高くなる地形だ。

その神戸市と大阪市を結び、三本の鉄道が平行に走っている。海側から山側へ、阪神線→JR線→阪急線という順で高くなる。そして明らかに乗る客層が異なっている。阪神線は庶民的なオッチャン、オバチャン、タイガースファンが多い。一方、阪急線は芦屋や夙川、武庫之荘など高級住宅街を走っており、気楽なジャージ姿で電車に乗れる雰囲気ではない。阪急沿線には「いかりスーパー」という高級スーパーが散在し、駐車場は外車ばっかりだ(嘘みたいな本当の話です)。

象徴的だったのは2006年に阪急が阪神電気鉄道の株式を取得し完全子会社化したときのエピソードだ。テレビのレポーターが阪神電車に乗っているオッチャンに阪急・阪神経営統合についてどう思うかを尋ねた。オッチャンの答えは「今後、素足でサンダル履いて阪神電車に乗れんようになったら困るわ」つまり関西人にとって阪急は高級イメージなのである。

土下座を強要する者は自分が「何か高級品になったような」イメージに浸っている。それは普段抱いている劣等感の裏返しでもある。

高低差が人間の深層心理に生み出すイリュージョン。なんだか滑稽で、興味深いでしょう?

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柳家喬太郎 なにわ独演会 〈第三回〉

9月26日(土)ドーンセンター・ホール@大阪へ。

Kyon

昼の部

  • 柳家喬太郎:禁酒番屋
  • 江戸家小猫:動物ものまね
    〈中入り〉
  • 柳家喬太郎:錦木検校(にしきぎけんぎょう)

喬太郎は次のようなことを語った。

最近、体脂肪を減らすのに役立つカラダカルピスを飲んでいます。ただ味はカルピスと別物ですね。森永コーラスみたいな。ご存知ですか?

今の御時世、マスクだとかフェイスシールドとか、私らの世代だと全学連 vs. 機動隊を思い出します。「接待を伴う飲食」なんて聞くと、全学連の学生を機動隊が接待している姿を想像したら、なんだか可笑しいですね。

10月1日から東京もGoToキャンペーンに追加されますが、だからって皆さん東京来ますか!?コロナにまみれる、みたいな。私らが地方にお邪魔するときは、最善の注意を払い、感染防止を心がけています。

4月から5月にかけて東京の寄席も中止になりました。落語協会では新型コロナウィルス感染拡大予防ガイドラインを設け、楽屋では全員マスク着用、前座が師匠方に出すお茶も急須ではなく紙コップです。あとガイドラインにコール&レスポンス禁止ってあるんですが、落語でそんなことします?ロックコンサートじゃないんだから。で、それ見てわざわざ高座でやっちゃった噺家がいたりして。入船亭扇辰

寄席に入るときは入り口で検温します。測ってくれた女の子が戸惑っているので「見せて」と言ったら33.7℃と表示されていました。私はワニか!?

東京かわら版で新型コロナに関して自宅でどう過ごしているかというアンケートがありまして、うちの師匠(さん喬)なんか「どうしたらいいかわからない」と真面目に答えていました。中には「下手な稽古はやるだけ無駄」とか、「何もせずぼーつとしていても、何か得るものがある筈」と書かれている方もおられて、とても共感しました。あと、ある師匠から「コロナ自粛で体内時計が狂っちゃった」と言われて、そうだなと思いました。今までは寄席で持ち時間15分とか20分と指定されると、だいたいそれくらいの時間で下りてくることが出来たのですが、感覚が分かんなくなっちゃった。

夜の部

  • 柳家喬太郎:ウルトラ仲蔵
  • 江戸家小猫:動物ものまね
    〈中入り〉
  • 柳家喬太郎:拾い犬

喬太郎の演じる円谷プロ公認・ウルトラマン落語は古典『抜け雀』のパスティーシュ『抜けガヴァドン』を複数回聴いたことがあるが、『中村仲蔵』のパスティーシュ『ウルトラ仲蔵』はお初。八つ裂き光輪(ウルトラスラッシュ)が炸裂する。いやー、笑った!大阪城で大暴れしたウルトラ怪獣ゴモラとか、ケムール人、ウルトラマンナイスも登場する。

『拾い犬』は2014年11月22日、11(わんわん)22(にゃんにゃん)に因んだ、横浜にぎわい座「わんvsにゃん寄席」で発表された新作落語。といっても設定は江戸時代なので〈擬古典〉と言ってい良い。ベースになっているのは上方の古典落語『鴻池(こうのいけ)の犬』と思われる。そもそも〈鴻=広い〉という意味だしね

喬太郎はコロナで自宅待機中にあまり稽古をせず、ロッテのチョコパイばかり食べていたとか、コロナ禍の外出自粛でターゲットにされた「接待を伴う飲食店」は災難だけれど、「接待」の定義はどこまで指すのか?「マック」のスマイル0円は「接待」ではないのか?あっ、しくじった!マクドナルドは大阪で「マック」じゃなく、「マクド」って言うんでしたっけ?埼玉県にはガールズバーならぬ、ボーイズバーがあった、といった話などをした。

配信の落語会について、「演りにくいんじゃないですか?」とよく尋ねられるが、そんなことは全く無い。笑ってくれるお客さんがいなくても平気。第一、入門した頃の寄席はいつも閑古鳥が鳴いていて、100席の小屋でも一杯にならなかった。満席に出来たのは古今亭志ん朝くらいだったと。

山口容疑者が酒気帯び運転で逮捕されたのが練馬と聞いてがっかりしました。しかも氷川台。だって元TOKIOですよ!そこで捕まりますか!?もっと六本木とか渋谷とか芸能人として相応しい場所にして欲しかった。こちらの方には練馬がどういう場所かピンとこないかも知れませんが、大阪で言えば「なかもず」?(ここで場内爆笑)あ、知りませんよ、行ったことありませんし。ただ地下鉄の路線図見ていてなんとなくそんな感じかなと。表記がひらがなで目についたので(注釈:中百舌鳥は堺市です)。

政治家は大抵、赤坂の料亭で会合を開きますが、あれは多分、霞が関から近いからでしょうね。でも赤坂に料亭がもしなかったとしたらどうするんでしょう?例えばCoCo壱番屋しかなかったらカレーを食べるんでしょうか?それとも、料亭が練馬に集中していたら、わざわざ練馬まで足を運ぶんですかね?

当初、昼の部も夜の部も喬太郎が三席ずつの予定だったのだが、マクラで盛り上がったので二席ずつと相成った。

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