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2020年8月

大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」

評価:A+

Umibe

公式サイトはこちら。2019年11月24日(日)に広島国際映画祭で観た時のレビューはこちら。このとき僕は大林監督に握手をして頂いた。車椅子姿だった。

本作を一言で評するならカオス、混沌である。いきなり宇宙船から見た青い地球の姿が画面に現れ、やがて2019年尾道の映画館をワームホール(抜け道)として、武士の時代へとタイムリープ(時間跳躍)する。このぶっ飛び方は橋本忍(脚本・監督)のカルト作『幻の湖』を彷彿とさせる。

本作は歌って踊るミュージカルであり、無声映画、トーキー、アクション、チャンバラ(剣劇)、ターザンなどの要素がごった煮になっている。正におもちゃ箱をひっくり返したようなハチャメチャぶり。闇鍋をつつく感覚で次に何が飛び出すか判らない。初めて大林映画を観る人なら目を大きく見開き、戸惑い、頭が混乱するだろう。アヴァンギャルド(前衛)だ。そういう意味において、大林監督の16mm自主映画『EMOTION=伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(1967)への回帰とみなすことも可能だろう。

あまりにも投入された情報量が多すぎて、一回観ただけでは脳内で処理しきれない。僕も二回目で漸く全体像を把握することが出来た。

登場する時代・歴史的人物を順不同で挙げよう。

  • 秀吉に切腹を命じられた千利休
  • 宮本武蔵 対 佐々木小次郎「巌流島の決闘」
  • 新選組による芹沢鴨暗殺
  • 近江屋での竜馬暗殺
  • 戊辰戦争(白虎隊/娘子隊の悲劇)
  • 長岡藩の藩士小林虎三郎による米百俵
  • 西郷隆盛と西南戦争
  • 大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)
  • 満州事変と川島芳子・李香蘭(山口淑子)
  • 日中戦争
  • 沖縄戦
  • 広島への原爆投下

登場する映画監督は、

  • マリオ・バーヴァ『白い肌に狂う鞭』(馬場鞠男:主人公)
  • フランソワ・トリュフォー『恋のエチュード』(鳥鳳介)
  • ドン・シーゲル『ダーティハリー』(団茂)
  • 小津安二郎(『東京物語』『晩春』演じるのは手塚眞)
  • 山中貞雄(『人情紙風船』演じるのは犬童一心)
  • ジョン・フォード(『駅馬車』『捜索者』演じるのは大林宣彦)

明らかにオマージュを捧げている映画たち

  • 稲垣浩監督『無法松の一生』(園井恵子が出演)
  • アルフレッド・ヒッチコック『見知らぬ乗客』(割れた眼鏡に映る映像)
  • ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』(ランボーの詩『永遠』の引用)
     また見付かつた。 
     何がだ? 永遠。
  • スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(スターチャイルド)
  • 新藤兼人『さくら隊散る』『ヒロシマ』(遺稿シナリオ)

そして自作からの引用ー登場人物の名前(『転校生』斉藤一美、『時をかける少女』芳山和子、『さびしんぼう』橘百合子、『HOUSE ハウス』ファンタ)、映像(『マヌケ先生』『その日のまえに』)。

因みに本作の舞台となる映画館〈瀬戸内キネマ〉は過去の大林映画『麗猫伝説』『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群れ』にも登場する。但し『麗猫伝説』では撮影所の名称として。

また一人の俳優が何役も演じるという手法は手塚漫画におけるスターシステム(詳細は手塚治虫公式サイトのこちら)を彷彿とさせる。大林監督は以前ブラック・ジャックを映画化(『瞳の中の訪問者』)しているし、息子の手塚眞が本作に出演しているのも決して偶然ではない。

〈過去→現在→未来〉という通時的流れ、順を追った直線的時間の概念は本作で通用しない。『海辺の映画館』は共時的(元々はフランスの言語学者ソシュールの用語)だ。過去・現在・未来は同時にここにある。死者も生者も共存する世界。それが混沌の正体だ。共時性は過去作『さびしんぼう』や『はるか、ノスタルジィ』『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群れ』『異人たちとの夏』『この空の花 長岡花火物語』でも認められる特徴である。

映画で過去は変えられないが、未来は変えられるかも知れない。大林監督の願いーそれは執念と言い換えても良いーが本作にはこめられている。観客は単なる傍観者であることを許されない。「映画の中に入っておいで。そしてあなたも行動しなさい、立ち止まっていては駄目だ。いいかい?よーい、スタート!」という掛け声が聞こえる。そして永遠に「カット」の声は掛からない。恐ろしい作品である。

〈追記〉『海辺の映画館』を観てびっくりしたのは、沖縄戦における日本軍による沖縄住民虐殺が描かれていたこと。寝耳に水で、これは果たしで史実なのだろうか?と疑問に思った。そこで調べてみると、ちゃんと沖縄県の公式ホームベージに「住民虐殺」についての県の見解が公表されているのを発見した。こちら。また『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞した佐木隆三(著)『証言記録 沖縄住民虐殺―日兵逆殺と米軍犯罪』も読み、『海辺の映画館』で描かれたことがちゃんと事実に基づいていることを確信した。

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岡本喜八(監督)「激動の昭和史 沖縄決戦」と、佐木隆三(著)「証言記録 沖縄住民虐殺」

大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』を観ていると、1945年の沖縄戦における日本軍による沖縄住民虐殺のエピソードが出てきて、寝耳に水だった。「これは果たして史実なのだろうか?」と疑問を抱いたので、調べてみることにした。

こういう時に当たる資料で重要なのは信憑性である。イデオロギー的に偏った人が書いたものは信頼できない。プロパガンダ的色彩が強くなるからである。その典型例が朝日新聞社による韓国のいわゆる従軍慰安婦に関する一連の捏造記事であろう。最初の報道から32年も経って漸く新聞社が全面的に誤報を認め、謝罪した。また系列会社が出版する週刊朝日が掲載した橋下徹大阪市長(当時)に関する記事『ハシシタ 奴の本性』も酷かった。こうした左翼ジャーナリズムは自分たちの主張を通すために何をしでかすか分かったもんじゃない。目的のためには手段を選ばない。クワバラ、クワバラ。虚偽報道(フェイクニュース)の罠に掛からないよう十分注意が必要である。

調査を開始すると早速、沖縄県の公式ホームベージに日本軍による「住民虐殺」についての県の見解が公表されているのを発見した。こちら。また『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞した佐木隆三(著)『証言記録 沖縄住民虐殺―日兵逆殺と米軍犯罪』(新人物往来社/後に徳間文庫)も図書館から借りて読んだ。

『復讐するは我にあり』は今村昌平監督で映画化され、キネマ旬報ベストテンで第1位に輝いたが、他に黒木和雄、深作欣二、藤田敏八が映画化を申し入れていたという。

また僕は8月15日の終戦(敗戦)記念日の前後に岡本喜八監督による東宝映画『激動の昭和史 沖縄決戦』と、玉音放送をめぐる攻防・クーデター未遂を描く『日本のいちばん長い日』もAmazonプライムで観た。

Okinawa

『ヱヴァンゲリヲン』の庵野秀明は岡本喜八監督の大ファンで、両者の対談において「『沖縄決戦』は、僕が生涯で一番何度も観た映画なんです。のべ100回以上観てますね」と発言している。『沖縄決戦』と『日本のいちばん長い日』は『シン・ゴジラ』に多大な影響を与え、岡本喜八の遺影が使用されている(株式会社カラーのコメント)。

佐木隆三は1971年から73年まで2年間沖縄のコザ市(現在の沖縄市)に住み、多数の証言を採集し『沖縄住民虐殺』を執筆、初出は『週刊アサヒ芸能』である。引用される文献も沖縄タイムス社刊『沖縄の証言』『鉄の暴風』、読売新聞社刊『秘録・沖縄戦記』、『琉球新報』社説・投稿欄など多岐にわたる。信じるに足る、しっかりしたルポルタージュである。

県外疎開で沖縄本島から九州に移った人々を除き、沖縄決戦のとき戦場に残っていた住民は49万人と推定される。そして人口の三分の一以上になる、約18万人が死んだ。日本軍(沖縄出身者を除く)の死者は約6万6千人、捕虜になったのが約7,400人だから生き残ったものはわずか1割に過ぎない。まさに玉砕戦である。そして軍人よりも一般住民の犠牲者の方が遥かに多かった。未成年者も師範学校および中学上級生は学徒隊を編成し、“鉄血勤皇隊”として戦線に投入され、師範学校女子部と第一高女は“ひめゆり看護隊”、第二高女は“白菊看護隊”として衛生兵同様に扱われた。

久米島における海軍兵曹長・鹿山正による久米島の敗戦後住民虐殺は衝撃的だ。犠牲者は二十人に及ぶ。1972年に「サンデー毎日」が大々的に報じ、ウィキペディアにも掲載されている。こちら。恐ろしいことにスパイ容疑で妻子(乳児含む)まで一家を皆殺しにするという犯行は1945年8月15日の玉音放送(ポツダム宣言受託発表)後の8月20日まで続けられた。スパイ容疑といっても米軍の捕虜になり、久米島攻略に際して軍に同行し、山中でうろたえている住民に「米軍は良民に危害を加えないから、抵抗せずに、安心して山を下りるように」と呼びかけた島出身の青年(25歳)を妻子ともども斬殺したり、朝鮮人だから怪しいとか、行商の品物が米軍の供与ではないかといった、確かな証拠もない噂レベルのはなしばかりである。当然軍事裁判もなく、問答無用の斬り捨て御免。鹿山兵曹長は「スパイの罪は六親等に及ぶ」と言い放った。彼は住民に対して「退山するものは、米軍に通ずる者として殺害する」と布告した。そして鹿島が戦後、このことに関して罪を問われることはなかった。

渡嘉敷島では329人、座間味島では53人の島民が日本軍の命令で集団自決を強要された。方法は手榴弾。隊長だった海軍の赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は食料を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」と主張した。そして住民は死に、大尉とその部下たちは生き残った。

また本島では天皇陛下の「御真影」を抱いて逃げまどっていた国民学校長がスパイ容疑で日本兵に銃殺される出来事があった。このエピソードは映画『激動の昭和史 沖縄決戦』にも登場する。

  • 軍人の証言から当時の日本軍は沖縄を植民地と考え、住民を見下していたことがわかる。沖縄人は朝鮮人と同様に差別されていた。
  • 「今後、沖縄語で会話する者は、すべてスパイとみなし、厳重処分に処す」という軍回報が発布された。
  • 村長など集落の有力者を狙ってスパイの嫌疑をかけ処刑し、食料を奪うこともあった。
  • 戦火を逃れ住民が壕や亀甲墓(中が家のようになっている)に隠れていると友軍(日本軍)が来て「出て行け」と命令し、彼らが代わりに入る。一緒に身を潜めた場合も、ひもじくて泣いている赤ん坊を「敵に見つかる、静かにしろ!」と兵士が殺すこともしばしばあったという。また便意を催し壕の外に出て用を達して帰ってきたら、艦砲が近くなる。すると「おまえ便所するふりしてスパイしたな」と兵隊に怒鳴られたという。

これらの心理的背景には極限状態にまで追い詰められた者の恐怖心と、保身(安全欲求)があった。住民が何を会話しているのか分からない恐怖。情報が敵に漏れて、自分たちの潜伏先を特定されるのではないかという恐怖。アメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)はこう言った。「恐怖は常に無知から生まれる (Fear always springs from ignorance. )」。またイギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」と述べている。

総攻撃が失敗し第三十二軍は司令部のあった首里から本島南部に撤退を余儀なくされる。南端に追い詰められ牛島司令官(映画では小林桂樹が演じた)と長参謀長(丹波哲郎)は1945年6月23日に切腹して果てた。しかしここからが問題で、牛島は各部隊に次のような命令を出した。

「いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」

つまり私は武士道に則りお先に死ぬが、お前たちは直属の上官に従い最後まで戦え。決して降伏することなく玉砕せよ、というのである。人命を尊重しない、全く無責任な話である。結果的にこれが8月15日の終戦(敗戦)まで、しっかりした指揮系統もないまま多くの日本兵や沖縄県民を縛り、悲劇を増幅させた。

〈生きて虜囚の辱めを受くることなく〉という箇所に、恥の文化にがんじがらめになった当時の日本人の問題点、というか欠陥が浮き彫りにされる。個よりも公(他人の目)が優先される。死を前提にした特攻という行為が許されたのも、この価値観が支配的だったからだ。そもそも切腹は決して美しい行為ではない。内臓は飛び出すし、介錯で頸動脈を斬ればあたり一面血の海だ。醜い死である。

神風特別攻撃隊に似た行為で沖縄で実行されたのが爆雷による肉弾攻撃。重箱くらいの大きさの箱に、火薬を詰める。タコツボに隠れて、敵戦車が来るとこの爆雷を抱いて飛び込む捨て身の戦法。やらされたのは兵隊ではなく、現地で動員された義勇隊だった。義勇隊と言っても名ばかりで半ば強制、疎開を許されなかった17歳から45歳までの男子が掻き集められた。この〈一人十殺一戦車〉の自殺戦法も『激動の昭和史 沖縄決戦』で描かれている。

日本兵は住民に鬼畜米英と教え込み、アメリカ兵につかまったら女は片っ端から強姦される、クロンボは赤ん坊を食いたがっている、などと言って脅した。だから怯えた住民は米軍に投降することが出来ず、青酸カリを飲んだり崖から投身自殺したりした。このあたりの詳しい事情は『沖縄決戦』や今井正監督の『ひめゆりの塔』をご覧あれ。

沖縄戦の実態は想像を絶する、悲惨な姿だった。これを学ぶ切っ掛けを作ってくれた故・大林宣彦監督に心から感謝したい。本当にありがとうございました。

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