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2020年7月

【考察】日本人と比較して、なぜ欧米人はマスクを嫌がるのか?〜文化的側面からその謎に迫る!

世界を席巻した新型コロナウィルス禍ではっきりしたことがある。日本人はなんの抵抗もなく自主的にマスクをするが(2020年7月末現在、通勤電車での装着率ほぼ100%)、ヨーロッパやアメリカ合衆国の人々はマスクをとても嫌がる。

2020年6月20日トランプ大統領がオクラホマ州で行った6,000人を超える大規模集会において、会場ではマスクが入場者に配布されたものの、実際に着用している人はほとんどいなかった。こちらの記事の動画をご覧頂きたい。この時、スタッフの数名がコロナに感染していたことが後に判明し、同規模の集会を開くことは二度と不可能になった。

感染が拡大する一方のフランスでは中々国民がマスクをしようとしないので、5月11日から国内全土で11歳以上の乗客に対し,公共交通機関利用時のマスク着用が義務付けられた。同義務違反は135ユーロ、日本円でおよそ1万6600円の罰金対象となっている。

イギリスでは7月24日からロンドンなどの都市でマスク着用を義務化する対象を公共交通機関に加え、店舗やスーパーを利用する際にも拡大する方針を明らかにした。着用しなかった場合は最大で100ポンド、日本円でおよそ1万3500円の罰金を支払わなければならない。あちらでは法律で取り締まり、多額の罰金を科さなければ埒が明かないのだ。彼らにとってコロナが流行る前は、マスクをするのは病人か医療従事者に限られると考えられていた。市中感染を予防するためにするという発想は皆無だったのである。次のような記事が参考になるだろう。

しかし日本では以前より、花粉が飛散する時期にマスクをする人は多かった。昔の暴走族やヤンキーも〈ファッションとして〉マスクをしていた

お隣の韓国でも日本と同様の風習があり、KPOPアイドルたちが〈ファッションとして〉マスクをしていた(詳細こちら)。

西洋と東洋のこの文化的価値観の違いは一体、何に由来するのであろうか?

日本のことわざ、慣用句には次のようなものがある。

以心伝心(元々は禅宗の語)

目は口ほどに物を言う

口は災いの元

いずれもコミュニケーションにおける目の優位性(>口)を表現している。

これに対して新約聖書「ヨハネによる福音書」の冒頭はこう記されている。

はじめに言葉ありき

欧米人にとって言葉によるコミュニケーションは何よりも重要で、契約書を重視する。旧約聖書に記されたモーセの十戒も石版に書かれた神との契約書(取り決め)である。一方、「日本人は契約という概念がない」「態度がはっきりしない」「何を考えているかわからない」と彼らから非難されることになる。

欧米人は幼少期から論理的に相手を言い負かすことを学ぶ。その典型例がアメリカ合衆国では高校の授業でも行われるディスカッションやディベート(Debate)である(詳細こちら)。兎に角、自分の意見を主張することが重要。ところが日本はそうじゃない。言外のニュアンスを大切にする。

日本独自の文化、和歌や俳句にもその特徴がよく出ている。31文字(和歌)や17文字(俳句)という短い言葉に凝縮して、気持ち・心を伝えようとする。一方、ヨーロッパの定型詩ソネットは14行から成り、長い。

日本の少女漫画の主人公は、やたらと瞳が大きい。極端な場合、顔の長径の1/4くらいあったりする(例えばこちら)。アメコミ(アメリカン・コミックス)や、フランスの漫画〈バンド・デシネ〉と比べれば、その違いは歴然としている。日本人にとって目は感情を表現する武器なのである。だから欧米と比較すると、日本ではサングラスが普及しない。サングラスをすると「人相が悪くなる」(ヤクザとか悪徳警官みたい)というイメージを持たれるから。目がコミュニケーションをとる主な手段となっている。

Jin
映画『仁義なき戦い』より

Alita

上の写真はジェームズ・キャメロンが製作・脚本を担当したした映画『アリータ:バトル・エンジェル』の一場面である。原作は木城ゆきとの漫画『銃夢』。原作に敬意を払い目が大きいままにしたため、リアルなCG映像だとどうしても違和感がつきまとうことになった。

欧米人は相手の口元を見てコミュニケーションを図るので、マスクが邪魔になる。しかし日本人は相手の目を見るのでマスクが妨げとならないという根本的な違いがあるのだ。

"Watch your mouth !"という慣用句がある。「言葉遣いに注意しろ、口のきき方に気をつけろ!」という意味である。しかしマスクをしていたら口をwatch出来ない。

Jul Ann

上の写真はジュリア・ロバーツとアン・ハサウェイである。ギョッとするくらい口が大きい。キャメロン・ディアスもそう。つまりアメリカでは口が大きいことが美人の条件になっている。では日本で、これだけ大口の女優が果たしているだろうか?僕は全く思いつかない。強いて言えば今井美樹だが、彼女は歌手活動が中心であり、映画女優として出演したのは『犬死にせしもの』など3作品しかない。

Uki

江戸時代の口紅は、主に紅花(べにばな)から作られていた。最も有名だったのは〈小町紅〉。 紅は大変高価なものだったので、唇いっぱいに塗るのではなく、小さく塗るのが一般的だった。口を小さく見せたいという意図もあっただろう。当時は〈おちょぼ口〉が美人の必須条件だった。

日本人は口を重視しない。だからマスクで覆い隠しても問題ないのである。

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めっちゃ怖い!「透明人間」

評価:A+

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映画公式サイトはこちら

めっちゃ怖かった!映画館でいたたまれない気持ちになった。こんな感情を覚えたのはいつ以来だろうとしばらく真剣に考えて、思い当たったのが清水崇 監督の『呪怨』。それも2003年に公開された奥菜恵主演の劇場版とか、酒井法子主演の『呪怨2』じゃない。2000年に東映ビデオから発売されたオリジナルビデオ版。実に20年ぶりである。

今回の『透明人間』は予算がたった700万ドル(約7億7,000万円)だ。超低予算映画である。日本でいうとアニメーション映画『AKIRA』程度。それも1988年公開当時の金額だから、多分『AKIRA』の方がお金が掛かっている。因みにクリストファー・ノーランの『インセプション』の製作費が1億6,000万ドル、最新作『TENET テネット』は2億ドルを超えている。桁が違う。

そもそもエリザベス・モス主演というのが低予算を感じさせる。彼女はHuluのドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』(僕はシーズン3まで全部観た。大傑作)でエミー賞の主演女優賞を受賞し一世を風靡したが、所詮はテレビ女優である。しかも撮影当時37歳。(ニコール・キッドマンとかシャーリーズ・セロン、メリル・ストリープは別格として)普通ならハリウッド映画で主演を張れる年齢ではない。

『透明人間』はアイディアの勝利である。『呪怨』も結局、予算が少ないバージョンの方が出来が良かったりする。『リング』もハリウッド版より日本の第1作が一番怖い。

〈見せない恐怖〉という意味においてスピルバーグの『ジョーズ』に近い。『ジョーズ』なんかサメそのものは張りぼてで、ちゃちだ。テレビ映画『激突!』は最後までトレーラー運転手の顔を見せなかった。新型コロナウィルスの恐怖も敵が見えないことにある。また、透明人間を追ってカメラが誰もいない空間をパンする演出はヒッチコックの『レベッカ』を思い出した。『レベッカ』もタイトルロールを敢えて見せないことで彼女の存在感を増した。

最新の『透明人間』はまた、〈ガスライティング(英: gaslighting)〉ものでもある。心理的虐待の一種であり、被害者(妻)にわざと誤った情報を流し、被害者が自身の記憶や正気を疑うよう仕向ける手法。起源はイングリッド・バーグマンがアカデミー主演女優賞を受賞したジョージ・キューカー監督の映画『ガス燈』(1944)に遡る。元々は舞台劇だそう。ヒッチコックの『断崖』(1941)も夫の意図的な工作ではないのだが、双子と言いたくなるほど『ガス燈』に近い作品だ。『断崖』ではジョーン・フォンテインがアカデミー主演女優賞を受賞、彼女は『レベッカ』の主演でもあり、こういう怯えた演技が上手い。因みについ先日なくなったオリビア・デ・ハビランド(『風と共に去りぬ』のメラニー役)はジョーンの姉であり、この中の悪い姉妹は東京都で生まれた(両親はイギリス人)。閑話休題。

あとね、男から精神的・肉体的な虐待を受けた女が最初は逃亡を試み、物語の中盤以降からは反撃に転じるという構造が『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』とそっくりなのも面白い。エリザベス・モスは大した女優だ。

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ええっ、プレイリスト・ムービーって何!?「WAVES/ウェイブス」

評価:A+

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公式サイトはこちら

傑作。何より感性が新しい。〈プレイリスト・ムービー〉は初体験だし、これぞ21世紀の映画だ。サブスクリプション(定額制音楽配信サービス)時代の賜物である。実際Spotifyでは〈映画公式プレイリスト〉が公開されている→こちら

映画冒頭、車の中をカメラが水平方向に360度クルクル回転し続ける映像は〈新感覚〉だ。スクリーン・サイズが伸び縮みするのも面白い。惚れた。

ちょうどね、アレに近い感覚じゃないかな?1960年に公開されたジャン・リュック・ゴダールの映画『勝手にしやがれ』を初めて観たときの観客の衝撃。ジャンプカットとか、独創的なカメラワークとか「何だこれ!?」って狐につままれた感じ。考えてみればゴダールやトリュフォーを代表とするフランス〈ヌーヴェルヴァーグ〉とは、「新しい波」、NEW WAVEを意味する言葉。ちゃんと"WAVES"に繋がっているじゃないか。

従来の映画文法は壊され、既成概念はひっくり返された。必見。

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【考察】「源氏物語」で紐解く古代日本人の深層心理と、その生活様式

僕は20歳を過ぎた頃から、折角日本に生まれたのだからいつか紫式部『源氏物語』は読まなければならないと切実に思い、しかしその余りの長大さ(文庫本で10巻)に繰り返し挫折してきた。漫画だったら読めるんじゃないかと考えて大和和紀『あさきゆめみし』にも挑戦したのだが、光源氏が須磨に退去した辺りであえなく音を上げた。次々と登場する女君がみな同じ顔に見えて、途中で混乱してわけがわからなくなってしまったのだ。小説の量が膨大過ぎて歯が立たないという経験はマルセル・プルースト『失われた時を求めて』に似ている。『失われた…』は何度挑戦しても第1巻より先に進まない(しかし未だ、諦めてはいない)。

『源氏物語』現代語訳として与謝野晶子、谷崎潤一郎(生涯に3度)、円地文子、田辺聖子、橋本治、瀬戸内寂聴ら錚々たる文学者が取り組んでいる。今回、僕が愛読している小説『対岸の火事』『八日目の蝉』『紙の月』や『愛が何だ』を書いた角田光代が訳したということで早速手にとってみると、兎に角スラスラ読めて驚いた!約2、3ヶ月で呆気なく通読出来た。女優・美村里江(旧芸名:ミムラ)も高校時代、谷崎潤一郎の現代語訳で挫折したが角田光代訳で漸く読破したとラジオで語った(こちら)。これに気を良くして僕は『あさきゆめみし』にも再度挑み、今度は完走した。さらに光源氏の死後(下巻)の部分は谷崎訳も目を通した。

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藤原俊成は鎌倉初期の建久四年(1193年)に開催された歌合で「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」と言った。

平安時代、『古今和歌集』(905年)より後に成立したと考えられる『伊勢物語』は歌物語である。その影響が色濃い『源氏物語』(1010年頃)でも沢山和歌が詠まれており、歌物語的性格がある。特に『古今集』からの引用が非常に多いので、『源氏物語』の前に、高田祐彦(訳注)『古今和歌集』(角川文庫)を読まれておくことをお勧めする。なお新海誠監督(中央大学 文学部文学科国文学専攻)のアニメーション映画『君の名は。』や『天気の子』は沢山の歌が挿入されているが、これは王朝文学の影響と思われる。

また副読本として臨床心理学者・河合隼雄の『源氏物語と日本人 ー紫マンダラ』(岩波現代文庫)と、大野晋(国語学者)×丸谷才一(小説家)の対談本『光る源氏の物語』(中公文庫)上下巻がとても参考になった。当時の風俗を知るという意味で『あさきゆめみし』も十分価値がある。

現代人が『源氏物語』を読むに当たり、まず受け入れがたいのが光源氏の華麗なる女遍歴であろう。精力絶倫と言うか、稀に見るプレイボーイぶりである。

京都大学および国際日本文化研究センター教授を定年退官後(65歳)初めて『源氏物語』を通読したという河合隼雄は『源氏物語と日本人 ー紫マンダラ』で次のように述べている。

 恥ずかしいことであるが、私は長い間『源氏物語』を読んだことがなかった。若いときに、人並みに挑戦ーといっても現代語訳であるがーを試みたが、「須磨」に至るまでに挫折した。青年期にはロマンチックな恋愛に憧れていたので、それとまったく異なる男女関係のあり方が理解できなかったのである。それは端的に言って、「馬鹿くさい」と感じられたほどであった。次から次へと女性と関係をもつ光源氏のあり方には、腹立ちさえ覚えたのである。

僕も20代の頃に、同様な感想を持った。しかし時代背景をしっかり鑑みなければならない。

平安時代の平均寿命は男性33歳、女性27歳ぐらいだったと言われている。出産時に亡くなる女性の割合が高く、また乳児死亡率も高かった。

例えば2017年の日本における乳児死亡率は(1000人比で)1.9。江戸時代の記録はないが、1918年(大正7年)は188.6だった。つまり5人生まれたら1人は死んでいたことになる。因みに大正時代の平均寿命は43歳。それより寿命がもっと短い古代は推して知るべしだろう。江戸時代において生後1年までの死亡率は20-25%と推定されている。

佐藤千春の報告(『栄花物語のお産』日本医事新報)によると、平安時代は経産婦47人中11人、実に23.4%がお産で亡くなっているという。つまり当時、子供を生むのは命懸けだった。実際のところ、光源氏の母・桐壺更衣は出産後に体調が思わしくなく源氏が3歳の時に亡くなり、源氏の正妻・葵の上も夕霧を出産直後に命を落とす。

生物に課せられた使命は「種の保存」である。人工を減らさないためには男女1組あたり、2名の子供を成人になるまで育てなければいけない。ましてや天皇や貴族の場合、跡取りとして健康な男児が必要だった。しかし死亡率などから概算すると、平安時代の男性は1人あたり平均3−4人子作りする必要があった。光源氏が残した子供は3人。①葵の上ー夕霧 ②藤壺の宮ー冷泉帝 ③明石の方ー明石の君 である。決して多くはなく、標準的と言えるだろう。

生来、男に浮気性が多いのは生物学的必然である。種馬の如くせっせと種を植えなければ自分のDNAを後世に残すことが出来ない。しかしその辺の事情は近代医学の進歩で変わってきた。一方、女性の場合は一旦妊娠すると出産を経て産褥期が終わるまで約1年かかるわけで、男と比較して(子供の)生産性が高くない。だから生物学的に浮気をする謂れもない。世界にハーレムとか大奥というシステムが出来たのも上述したような理由からであろう。

平安時代において死因の三大疾患は①結核 54% ②脚気 20% ③皮膚病 10%だった。結核の原因は栄養失調。脚気はビタミンB1の欠乏。古代人は肉を食べなかったので慢性的にタンパク質が不足していた。宇治十帖に登場する大君(おおいきみ)の死因は神経性食欲不振症(摂食障害)と考えられる。皮膚病の原因は不衛生。平安時代の貴族は月に4−5回しか入浴しなかった。それも当時はお湯を沸かして室内を蒸気で満たしたサウナ風呂で、殆ど体を洗わない。入浴日は占いによる吉兆で決めていた。縁起の悪い日に入浴して垢を落とすと、毛穴ら邪気が入り込み命を失うと信じられていたという。裸では入らず「湯帷子」(ゆかたびら)という単衣を着用し、簀の上に敷物を敷いてその上に座る。これがゆかた風呂敷の語源である。裸で湯に浸かるようになったのは江戸時代以降である

また女性が長い髪の全体を洗うのは、多く見積もっても月一回程度だったようだ。『源氏物語』には宇治の中君が洗髪する場面があり、神無月(十月)に洗髪することは禁忌である旨が書かれている。つまり当時、お香が流行ったのは、(西洋の香水と同様に)体臭を消すという目的が大きかったんじゃないかな?因みに全長2mを超える髪を洗って乾かすまでは、朝から日暮れまで一日がかりだったとか。

平安時代の日本人は現在に生きる我々同様、宗教に対して鷹揚だった。『源氏物語』で朱雀帝はまず天皇として登場する。しかし32歳で冷泉帝に譲位し上皇となり、後に出家する(その際に娘である女三宮を光源氏に降嫁させる)。天皇は一応、天照大神(アマテラスオオミカミ)の末裔という設定になっており、神道のトップに立つ存在だ。その人が仏教に帰依するって矛盾してない?考えてみれば天武天皇の発願で奈良の大仏が建立されたというのも、おかしな話である。

また朝顔の姫君は斎院(さいいん)を努めた。斎院とは伊勢の斎宮(さいぐう)と同様に、平安時代から鎌倉時代にかけて京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)に奉仕した未婚の内親王または女王である。しかし彼女も後に出家して尼になる。神に仕える巫女が仏に宗旨変え??皆いいかげん、テキトーである。まぁこのおおらかさが、日本人らしいと言えるだろう。なお当時、女性の出家は坊主にせず、肩口で切りそろえる程度だった。それを「肩そぎ」あるいは「尼削ぎ」と言った。 現在でいうところのセミロング、おかっぱ頭である。

平安朝の人々は「末法(まっぽう)」という終末思想に囚われていた。仏の教えが世間に行き渡らず、衰退してしまうとされる時代のこと(ノストラダムスの大予言みたいなものだ)。 永承七年(1052)に「末法」が到来するというのである。死後への不安から、天皇や貴族も仏教に帰依し、極楽往生を願った。『源氏物語』に登場する女たちの7割方が出家するのもそのためである。光源氏や薫も出家したいと話す。そして末法元年の翌年(1053)に建立されたのが宇治平等院鳳凰堂である。 小説が書かれた時点で平等院はなかった。

六条御息所の面白いのは生霊として人(夕顔/葵の上)を取り殺すところにある。それも無意識にだ。死後もこの世を彷徨い、紫の上や女三宮に取り付く。

平安時代の人々は生きている状態で魂(たましい)が肉体から遊離すると考えていた。これは精神(理性)と欲望(本能=自然に近い状態)との分離を目指した西洋と対照的な観念である。

古今和歌集 九七七番を見てみよう。

身をすてて行きやしにけむ思ふよりほかなるものは心なりけり
(我が身を捨てて心だけは知らないうちにそちらへ行っていたのでしょうか。自分の思いと別にあるものは心だったのです

また九九二番、

    女ともだちと物語して、別れてのちにつかはしける
飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する
(いくら語り合っても満ち足りない。お別れしても、あなたの袖の中に入ってしまったのでしょうか、私の魂が手元から消え失せたような気持ちがします)

他に離別歌 三七三番、

    あづまの方へまかりける人に、よみてつかはしける
思へども身をしわけねば目に見えぬ心を君にたぐへてぞやる

(あなたのことを思っても、身体を分けてついてゆくことは出来ません。だから目に見えない心をあなたに寄り添わせて遣わします)

恋歌 六一九番、

よるべなみ身をこそ遠くへだてつれ心は君が影となりにき
(あなたのそばに身を寄せるところがないので、身体は遠く離れているけれど、心はあなたの影になって寄り添っていました)

などがある。つまり遊離魂は〈影〉そのものだった。ここに古代日本人の心のあり方が読み取れる。

光源氏、頭の中将、匂宮、薫ら『源氏物語』に登場する男たちはよく泣く。〈男らしさ〉とは一体何なのだろう?僕らはそろそろ、そういった(武家社会時代に形成された)固定概念から開放されるべきだ。

米国の人類学者ルース・ベネディクトは著書『菊と刀』(1946)の中で、西洋は〈罪の文化〉で、日本は〈恥の文化〉だと分類した。〈恥の文化〉とは他者の非難や嘲笑を恐れて自らの行動を律することを指す。

光源氏は〈世間体〉を気にしている。後朝(きぬぎぬ)の別れでも、人目に触れないように女の家から極めて早朝に発ったりする。個人主義(Going my way)ではなく、〈場〉の雰囲気を毀さないよう、〈空気を読む〉ことに腐心している。

また六条の御息所が生霊となり、最後は鬼になるのは〈恥〉をかいたからだ。浮舟とその母も、他人に侮られるとか、物笑いのたねになることをすごく気にしている。

結局、千年経っても人の心のあり方は少しも変わらない。進化したのは社会保障、司法、医療、教育などの〈システム〉や〈科学技術〉であり、人間そのものではない。21世紀に生きる僕たちでもちゃんと『源氏物語』の感情に共感し、寄り添える。薫ー大君ー浮舟の関係性が、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画「めまい」の構造(スコティーマデリンージュディ)と全く同じだと気付いた時には驚いた。

『源氏物語』はマザー・コンプレックスの話であるとも言える。母性社会日本に相応しい(欧米諸国は父性原理で動いている)。光源氏が慕う藤壺の宮は源氏の母・桐壺更衣に生き写しと描写される。つまり母+アニマ(男性が抱く内なる女性像)。一方、源氏が幼少期から育てる紫の上は藤壺の宮の姪で、藤壺に似ている。つまり母+アニマ+娘の役割を果たす。

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河合隼雄『源氏物語と日本人 ー紫マンダラ』より

さて次に『源氏物語』最大の謎に目を向けよう。光源氏とは一体、何者だったのか?

角田光代は中巻の「訳者あとがき」に次のように書いている。

 上巻で、ずっと光君という人を追いながら、私にはどうしてもその顔が見えなかった。神のような、神の子のような、あるいは運命というものの象徴としての存在のような、人間的なものから離れた何かのようにしか思えなかった。

『源氏物語幻想交響絵巻』を作曲した冨田勲(故人)も、「私は源氏物語を読んでいて、光源氏の顔が全く思い浮かばないんです」と語った。

僕が思うに、光源氏とはプラネタリウムの光源(投影機から発する光)のような存在と言えるのではないだろうか。そして天井の曲面スクリーン一杯に写し出される数々の星座が女君たちというわけ。光源氏は様々な女性たちの生き様を浮かび上がらせるための装置であり、実体がない。だから実写映画やテレビドラマで『源氏物語』は成功しない。生身の男優が演じてもリアリティに欠けるのである。むしろ宝塚の男役が相応しい。

河合隼雄はこの仕掛を「マンダラ」と呼んだ。

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河合隼雄『源氏物語と日本人 ー紫マンダラ』より

光源氏の輝きは、太陽(昼)というよりは月(夜)に近い。紫の上が詠んだ歌、

氷閉ぢ石間の水はゆきなやみ空澄む月のかげぞながるる

「石間(いしま)の水」は遣水のこと。上の句は幽閉された自分自身のことを指し、下の句は自由戀愛を謳歌する光源氏のメタファー。つまり「光」=「月光(つきかげ)」なのである。とすると月読命(ツクヨミ)のイメージが重ねられていると解釈することが出来るだろう(天照大神と須佐之男とで三姉弟)。

菅原孝標女が『源氏物語』に夢中だった少女時代を振り返って(平安時代中頃に) 書いた『更級日記』には次のような一文がある。

「われはこのごろわろきぞかし。盛りにならば、かたちも限りなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ。」と思ひける心、まづいとはかなくあさまし。
(「私はいまのところ器量が悪いけれど、女盛りの時期を迎えれば顔貌も限りなく良くなり、髪もとても長く伸びるでしょう。光源氏が愛した夕顔や、薫君が愛した浮舟のようにこそ未来の自分はありたいものだわ」と思っていた心はむなしく、みっともない限りだ)

『源氏物語』の現代語訳をした円地文子は『源氏物語のヒロインたち』という対談本の中で夕顔について次のような所感を述べている。

どこか遊女性がありますね。娼婦性っていうのかしら。そういうものはあると思いますよ。

この小説はさながら、〈平安時代の女性コレクション〉という絢爛豪華なショーを見ているかのようだ。女性図鑑・カタログ・絵巻と言い換えても良い。

角田光代はこちらのインタビューで次のように語っている。

もし紫式部がこれを全部一人で書いたという前提で考えるのならば、私はたぶん作者が意図して自分のコントロール下で書き進められたのは「明石」の帖までだと思うんですよ。「明石」以降はちょっと自分でも思いもよらないほうにいってしまって、物語や登場人物が勝手に歩いていっちゃって、ときどきコントロールするために短い挿話を差し込んでいるんだけど、物語の大きな流れはたぶん作者の手を離れちゃったんじゃないかなという印象があるんですよね。

書き手として私が考えるのは、小説というのはたぶん自分ができるすべての力を注いでつくったとしても、できるのは百パーセントまでで──それすらも難しいんですけども──それ以上は絶対にいかないと思っていたんですね。でも小説が百パーセント以上の力を発揮することがあって、それは作者じゃなくて、小説に宿った力がそうさせることがごく稀にあるとなんとなく考えていたんです。それの超弩級版がまさにこの『源氏物語』じゃないかなって、最近は思っています。

(中略)女たちのほうが勝手に生き生きと息づきはじめてしまったのかもしれない。それも作者の思惑を超えて、のような気がします。 

松尾芭蕉に「紅梅や見ぬ恋作る玉簾」という俳句がある。平安時代の貴族の男女の出会いは〈見ぬ恋〉であった。寝殿造りは御簾(みす)や几帳(きちょう)、屏風で女の姿を隠し、外部から目に触れないようにしていた。だから「どこそこの家の娘は大層別嬪さんらしい」という噂は耳にすれど、実際に垣間見ることはほぼ不可能であった。通い婚だった当時は、初夜に至るまで互いに顔を知らず、しかも逢瀬は真っ暗なので相手の顔も見えず、事が終わってから昇ってきた朝日で漸く容姿が確認出来るというのが通常であった。だから事後に「しまった!こんな筈じゃなかった」と後悔することも当然あるわけで、『源氏物語』第六帳〈末摘花〉でもそんな顛末が面白おかしく書かれている。

20世紀フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースは著書『親族の基本構造』の中で、オーストラリアの原住民らを研究し、近親相姦の禁忌と、母方交叉イトコ婚が推奨されるのは何故かを解明した。そこには〈女性の交換〉という原理があった。人間社会の基本はコミュニケーションであり、それは言葉や物(お金を含む)を交換することにある

平安貴族にとっても、娘=交換価値であった。その最高の価値は入内し、中宮として天皇に寵愛され、嫡男を生み、その男児が春宮→天皇という道を進むことであった。藤原道長はそうして摂政となり、一族は栄華を極めた。

つまり、いかにして地位の高い男を婿に迎えるかということが彼らにとって最も重要事項であり、見ぬ恋〉 は 娘=交換価値 を高めるために必要であったと言えるだろう。

最後に。『源氏物語』上巻を読んでいる途中で、「おや?」と引っ掛かった。明らかに欠落部分があると感じたのである。光源氏と藤壺の二回目の秘密の逢瀬が描写されるが、一回目については全く言及されない。また六条御息所が唐突に登場し、源氏との馴れ初めが書かれていない。この疑問は後に、大野晋×丸谷才一の対談本『光る源氏の物語』を読んで解消された。

藤原定家(1162-1241:小倉百人一首撰者)の書いた注釈書のなかに「一説には 巻第二 かゝやく日の宮 このまきもとよりなし」とある。つまり『輝く日の宮』という巻が元々あったが、定家の時代に既に失われていた可能性が示唆される。

丸谷は紫式部のパトロン・藤原道長の意向で削除されたという説を述べており、興味深い。脱落したこの巻を補う丸谷の同名小説も読んだ。また瀬戸内寂聴も同様の趣旨で小説『藤壺』を書いている。

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映画「のぼる小寺さん」とシーシュポスの神話

評価:A

Noboru

公開後、大評判なので何の予備知識もなく観に行った。主演の工藤遥が元モーニング娘。ということは、現在このブログを書いている時点で資料に当たり、初めて知った。原作は漫画なのだそう。全4巻。公式サイトはこちら

古厩智之監督作品は16mmフィルム『灼熱のドッジボール』(15分)がぴあフィルムフェスティバル(PFF)でグランプリを受賞して、そのスカラシップで撮った初の劇場映画『この窓は君のもの』(1995、日本映画監督協会新人賞受賞)と、長澤まさみ主演『ロボコン』(2003)を観ている。どちらも瑞々しい青春映画で大好きだった。それ以来、実に17年ぶりの再会である。

シナリオを書いた吉田玲子はアニメーション映画『リズと青い鳥』と『若おかみは小学生!』の脚色の上手さが際立っていた。今回の仕事も文句なし。

『ロボコン』は高専のロボットコンテストを題材にしていたが、今回は高校のボルダリング部。目新しい。僕の学生時代にはそんな部活動は存在しなかった。調べてみると、全国高等学校選抜スポーツクライミング選手権大会が初めて開催されたのは2010年だという。

本作には〈何故、小寺さんは壁を登り続けるのか?〉という大きな問いがある。それは〈何故、人は生きるのか?〉という哲学的な問いに等しい。

〈何故、人は生きるのか?〉生物学的に言えば、答えは単純明快である。〈子孫を残し、繁栄させるため〉〈命をつなぐため〉ーそれしかない。それは新型コロナウィルスも同じ(宿主の人間が死んでしまったら体内のウィルスも死滅するで元も子もないのだけれど、そこまでは脳のないコロナは予想出来ない。だから闇雲に増殖しようとする。がん細胞もまた然り)。しかし医学の進歩で人間の寿命は伸び、子供が成人になっても僕らは生き続けることになった。子供をもうけない人も天寿を全うする。その目的は?どうせ皆、最後は死ぬのに……。結局、この問いを突き詰めていくと〈たまたまこの世に生を受けたから〉という答えしか残らないのではないだろうか?

ギリシャ神話に『シシュポス(シーシュポス)の岩』というエピソードがある。小説『異邦人』で有名なアルベール・カミュの随筆『シーシュポスの神話』冒頭部を引用してみよう。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。

無益で希望のない労働ほど怖しい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。

正にカミュが得意とするところの〈不条理である。しかし考えてみれば、人生とはこの〈不条理の繰り返しなのだ。一生懸命働いて財産を築く。銀行に沢山貯金をする。そして死ぬ。結局、残ったお金は本人にとって無意味となる(勿論、子孫のためにはなるけれど)。

〈何故、小寺さんは壁を登り続けるのか?〉その答えはシーシュポスが岩を繰り返し山頂まで運び上げる行為と同じだろう。イギリスの登山家ジョージ・マロリーは「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」と記者から問われて、「そこに(山が)あるからさ(Because it's there. )」と答えた。〈何故、人は生きるのか?〉結局この答えも、"Because it's there."に集約されるだろう。

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又吉直樹原作の映画「劇場」と朝井リョウ原作「何者」

評価B+

Gekijo

『劇場』は7月17日(金)に劇場公開されると同時にAmazon Prime Videoで配信(課金なし)された。配給は吉本興業。映画公式サイトはこちら

当初は4月17日に全国280スクリーンで劇場公開が決まっていた。しかし新型コロナウィルス禍で突如4月7日に緊急事態宣言が出たために延期になっていた。そのときAmazon社から独占配信の打診があり、製作費をかなり回収できるほどの配信料が提示された。通常の2次使用配信だったらあり得ない額だったという。話し合いの結果、全国のミニシアター20館で同時公開ということで決着した。さらに世界242カ国で配信されることも決まった。

小劇場が多い下北沢が舞台となる。人を傷つけてしまっても演劇を続けようとする主人公の永田(山崎賢人)。彼は誰からも認められていないのに自尊心だけ高く、他者を激しく攻撃する。同棲する紗希(松岡茉優)がディズニーランドに行きたいとせがんだときも「だから、俺はディズニーと勝負しているわけなんよね」と言い放つ。クリント・イーストウッドのことを褒めても不機嫌になる。救いようのないダメ男である。彼の自己愛は無限に増大している。しかし実際のところ、〈何者〉でもない。結果を何も出せていない。

僕は観ている途中で、物語の構造が佐藤健主演で映画化された朝井リョウの『何者』そっくりだなと思った。『何者』の主人公も『劇場』の永田同様に、大学の演劇サークルで台本を書いていた。『何者』で有村架純が演じた瑞月と、『劇場』における紗希が果たす役割も非常に似ている。また『何者』の監督・三浦大輔は元々演劇界において作・演出で名を馳せる人。そういう意味においても『劇場』と共通点がある。

ただ作劇術としては『何者』の方が一枚上手、ひとひねりが効いている。上述したプロットにSNSというガジェットを加味したことによって、そのスパイスが劇的効果を生んだ。

これは芥川賞作家(又吉)と直木賞作家(浅井)の実力差なのかも知れないな、とふと思った。エンターテイメント路線の直木賞は手練のベテラン作家が受賞することが多い。今年の馳星周(55歳)なんか正にそう。処女作『不夜城』で受賞していてもおかしくなかった。一方、純文学系の芥川賞は〈ポッと出の〉新人が受賞することも多く、感性とか勢いだけで過大評価されがち。だから引き出しが直ぐ空になって、後が続かない。感性だけで技術が伴わないから。芥川賞がどれだけ多くの〈一発屋〉を生んできたかはこちらの一覧表をご覧あれ。あなたが知っている作家、何人いますか?

イケメンの山崎賢人が「そこまで汚い格好しなくても……」というくらいに頑張っている。そういえば一時期のブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオも「顔じゃなく、演技を認めてくれ!」とやさぐれた役を演じて藻掻いていたな、と懐かしく思い出した。その甲斐あって、ふたりとも中年になってアカデミー賞を受賞出来た。めでたしめでたし。

松岡茉優は鉄板の演技力で、安定の上手さだった。

最後に。本作で少し気になったのは同棲しているのに永田と紗希の性生活について全く描かれていないということ。匂わすことすらしていないのはとても不自然。リアリティに欠ける。まさかセックスレスの関係だったとか!?あり得ないだろう。

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わが心の歌 25選 ⑥ ミュージカル「回転木馬」と、サッカーとの摩訶不思議な関係/メグ・ライアンの想い出

作詞:オスカー・ハマースタイン2世、作曲:リチャード・ロジャースという、『オクラホマ!』や『王様と私』で知られるコンビによるミュージカル『回転木馬 Carousel 』は1945年にブロードウェイで初演された。1993年にはキャメロン・マッキントッシュ製作、『ミス・サイゴン』のニコラス・ハイトナー演出で再演され、トニー賞を5部門受賞(ミュージカル・リバイバル作品賞/ミュージカル演出賞/振付賞/装置デザイン賞/ミュージカル助演女優賞:オードラ・マクドナルド)。因みに初演時はトニー賞創設前であった(初回授賞式は1947年)。56年には20世紀フォックスで映画化された。主演はシャーリー・ジョーンズとゴードン・マクレー。また2006年ごろにヒュー・ジャックマン主演で映画のリメイク企画があったのだが、立ち消えになっている(記事こちら)。

日本では69年に宝塚雪組が初演した(宝塚大劇場)。84年に宝塚星組が宝塚バウホールで再演し、95年に東宝が帝国劇場他で上演。僕は1996年7月9日~8月27日 大阪・劇場飛天(現在の梅田芸術劇場)における上演を観た。演出:ニコラス・ハイトナー、振付:サー・ケネス・マクミラン、訳詞は『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』の岩谷時子。涼風真世、石川禅、吉岡小鼓音、市村正親らが出演した。このプロダクションはこれっきりで、2009年に東京の銀河劇場でロバート・マックイーン演出、笹本玲奈・浦井健治 主演で再演されたようだが、関西には来なかった。

一番好きなナンバーは、なんといっても"You'll Never Walk Alone"である。映画版ではオペラ歌手(コントラルト)クララメイ・ターナーが歌った。

これは現在サッカーのサポーター・ソングとして、英国のリヴァプールFCやJリーグのFC東京のファンの間で愛唱されている。

 

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上はリバプールFCのエンブレムだが、ここにも "You'll Never Walk Alone"の文字が刻まれている。

世界でなんと、20以上のサッカー・チームのサポーター達がこれを歌い継いでいるのである!次のような歌詞だ。

When you walk through a storm
Hold your head up high
And don't be afraid of the dark

嵐の中を歩くとき
顔を上げ、しっかり前を向きなさい
暗闇を恐れないで

At the end of the storm
There's a golden sky
And the sweet silver song of a lark

嵐の向こうには
光り輝く空が広がっている
そして雲雀の優しく澄んだ歌声が聴こえる

Walk on through the wind
Walk on through the rain
Though your dreams be tossed and blown

風の中を歩きなさい
雨の中を歩きなさい
たとえ夢が吹き飛ばされたとしても

Walk on, walk on
With hope in your heart
And you'll never walk alone

歩いて、歩き続けなさい
希望を胸に抱いて
独りぼっちじゃないよ

And you'll never walk alone

あなたは独りぼっちじゃない

まずフランク・シナトラの歌唱で聴いてみてください。こちら!あと歌なしのフランク・チャックスフィールド&オーケストラの演奏もどうぞ。こちら

同じハマースタイン2世&ロジャースのコンビ作『サウンド・オブ・ミュージック』で修道院長が歌う「すべての山に登れ(Climb Every Mountain)」は内容的にこの歌に非常に近い(映画版の動画はこちら)。僕は中学生の時に初めて「すべての山に登れ」を聴いて、心を打たれた。からだの奥底からじわじわと勇気が湧いてくる気がした。

ミュージカル『回転木馬 (Carousel)』の主人公ビリーはすぐに妻や娘に手を上げる暴力夫であり、#MeToo 運動が盛んな現代には受け入れ難いかも知れない。しかしどの楽曲も極上の出来であり、オーケストラだけで演奏されるカルーセル・ワルツも僕は大好き。こちら!物語後半のビリーは悔い改めているので、どうか許してやってください。

原作は1909年にハンガリー・ブタペストで初演された戯曲『リリオム』。1934年にフリッツ・ラングが監督したフランス映画『リリオム』も傑作。ユダヤ人のラングはこの時ちょうどアドルフ・ヒトラー政権を逃れてドイツからフランスに亡命していたのだが、ドイツ軍がフランスに侵攻したため、さらにアメリカ合衆国に渡ることになる。

『回転木馬』を鑑賞するには映画版を観るのも良し、もっとお勧めなのがリンカーンセンターで開催された公演を収録したDVD。

Carousel

ただし、北米のリージョン1対応DVDなので、日本国内の(リージョン2)プレイヤーでは観ることが出来ない。

ところが!コロナ禍のおかげ(?)で2020年7月10日よりミュージカル全編がYouTubeで無料配信されているのを発見した!!!こちら画面右下あたりのスイッチをクリックすれば、英語字幕を呼び出す機能も。

ヒロイン=ジュリーを演じるのはケリー・オハラ。渡辺謙と『王様と私』で共演し、トニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞した。その友人キャリー役は『ビューティフル − キャロル・キング・ミュージカル』でトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞したジェシー・ミューラー。ビリー役はメトロポリタン・オペラにしばしば出演しているバリトンのネイサン・ガン。また「6月は一斉に花開く(June Is Bustin' Out All Over)」や、"You'll Never Walk Alone"を歌うステファニー・ブライスもメトで活躍するメゾ・ソプラノ。これ以上望みようのない超豪華キャストである。オーケストラはニューヨーク・フィル。至れり尽くせりだ。

劇中clambakeという言葉が出てくるのだが、これは海浜で焼け石を使ってハマグリなどを焼いて食べるピクニックのことを指す。日本人には馴染みがない習慣なのでピンとこない。あと「6月は一斉に花開く」は名曲だが、日本で6月といえば梅雨の季節なので、やはりどうもイメージが湧かない。余談だがこの歌詞中に"March went out like a lion"(3月はライオンのように過ぎ去っていった)とあり、な、なんと羽海野チカの漫画『3月のライオン』に繋がっている!

Whenharrymetsally

「It Had To Be You」(ハリー・コニック Jr.) はメグ・ライアン主演、ロブ・ライナー監督『恋人たちの予感』(When Harry Met Sally...)で使用された楽曲。試聴はこちら。脚本を書いたノーラ・エフロン(1941-2012)は後に監督業に進出し、メグ・ライアン主演で『めぐり逢えたら』『ユー・ガット・メール』とロマンティック・コメディ三部作を仕上げた。なおノーラはウォーターゲート事件の真相を暴いた記者、ワシントン・ポスト紙のカール・バーンスタインと結婚していた時期があり、映画『大統領の陰謀』シナリオの手直しにも関わっていたらしい(アカデミー脚色賞受賞)。だからスティーヴン・スピルバーグが監督し、ワシントン・ポスト社が舞台となる『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』のエンドロールに「ノーラ・エフロンに捧ぐ」とクレジットされている(ラストシーンは『大統領の陰謀』冒頭部に直接繋がっている)。

「もしあなただったら」と訳されたりもする "It Had to Be You"は1924年に発表された。アイシャム・ジョーンズが作曲し、カス・カーンが作詞した。ハリー・コニック Jr.のパフォーマンスはフランク・シナトラを彷彿とさせ、「ビッグ・バンド・スタイル」の再来と評された。マーク・シャイマンによるゴージャスなアレンジの功績が大きい。シャイマンは後にブロードウェイ・ミュージカル『ヘアスプレー』や『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『チャーリーとチョコレート工場』を作曲した。

"It Had to Be You"はメグのお相手役だったビリー・クリスタルのテーマ曲となり、彼がアカデミー賞授賞式司会者に起用された際、登場場面で必ずこの曲が演奏された(計9回担当)。

『恋人たちの予感』はメグ・ライアン絶頂期の作品で彼女が最高にキュート、掛け値なしに名作なのだが、公開当時劇場で観たときから僕にはどうしても納得がいかないことがあった。映画冒頭で〈セックス抜きで男女の友情は成立するのか?〉と問題提起されるのだが、最後にハリーとサリーは性交してしまう。つまり〈セックス抜きで男女の友情は成立しない〉と結論を下しているのである。そんなのあり??僕は憤った。許し難い背信行為である。

結局この問題に決着をつけてくれたのがアイルランド出身ジョン・カーニー監督の『ONCE ダブリンの片隅で』(2007)と『はじまりのうた』(2013)。漸く我が意を得たりと溜飲を下げることが出来た。またジョン・カーニーが監督したAmazon プライム・ビデオのドラマシリーズ『モダン・ラブ ~今日もNYの街角で~』第1話“私の特別なドアマン”も同趣旨の大傑作である。こちらからどうぞ。

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わが心の歌 25選 ⑤ 本当は恐ろしい「Alone Again」/Woman 〜“Wの悲劇”より

Alone Again」(ギルバート・オサリバン)

今年の2月頃、まだ新型コロナウィルスが蔓延する前、スポーツ・ジムに行ったときに館内の有線放送で"Alone Again"がかかっていたので懐かしく思った。1986年に公開された高橋留美子原作、石原真理子主演、澤井信一郎監督の映画『めぞん一刻』実写版(駄作だった)の主題歌としてエンドロールで流れた歌である。映画の公開に合わせて、同時期に放送されていたテレビアニメ版のテーマソングとしても起用されたという。

"Alone Again"はアイルランド出身のシンガーソングライター、ギルバート・オサリバンが1972年にリリースした楽曲である。アメリカ合衆国のBillboardシングルチャートで6週連続1位、日本でもオリコン洋楽シングルチャートで5週1位を獲得した。Spotifyではこちら

どういうことを歌っているのだろう、とふと気になったので調べてみた。そしたら朴訥な歌い方でのんびりした曲調とは似ても似つかない内容だったので、驚愕した!

歌詞対訳を掲載しよう(小生訳、無断転載禁止)。

In a little while from now
If I'm not feeling any less sour
I promise myself to treat myself
And visit a nearby tower
And climbing to the top
Will throw myself off
In an effort to make clear to whoever
What it's like when you're shattered
Left standing in the lurch
At a church where people saying
My God, that's tough, she stood him up
No point in us remaining
We may as well go home
As I did on my own
Alone again, naturally

今からしばらく経って
もしこの酸っぱい気持ちが収まらなかったら
こうしてやろうと誓いを立てているんだ
近くの高いビルまで行き
屋上に登って
身を投げようって
みんなにはっきり分からせてやるのさ
心を粉々にされたら、どんな感じかって
教会の結婚式でひとり置き去りにされ
タキシード姿で立ったまま人々が口々に言い合うのを聞いた
「これはキツイな!」「花嫁さんにすっぽかされたのね」
「これ以上ここにいても仕方ないね」
「もう帰りましょうか」
僕自身もそうするしかなかった
またひとりぼっちだ。自然にね

To think that only yesterday
I was cheerful, bright and gay
Looking forward to, well, who wouldn't do
The role I was about to play
But as if to knock me down
Reality came around
And without so much as a mere touch
Cut me into little pieces
Leaving me to doubt
Talk about God and His mercy
Oh, if he really does exist
Why did He desert me
In my hour of need?
I truly am, indeed
Alone again, naturally

たった昨日まで僕は
朗らかで、元気よく、陽気だった
明るい未来を期待していた、でもまさか
こんな道化役を演じるなんて考えてもみなかった
ところが僕を叩きのめすように
現実が襲いかかってきた
そして指一本触れられることなく
僕はズタズタに引き裂かれた
放っておかれた僕は疑問を抱いた
神の慈悲についての話さ
ああ、もし神が本当に存在するのなら
彼はどうして僕を見捨てたのか?
一番必要としているときに
僕は真実、本当に
またひとりぼっちだ。自然にね

It seems to me that there are more hearts
Broken in the world that can't be mended
Left unattended
What do we do?
What do we do?

心が折れて癒やされずにいる人たちが
世界にはもっとたくさんいるように思う
誰にも寄り添ってもらえずに
僕らはどうしたらいい?
どうしたら?

Alone again naturally

またひとりぼっちだ。自然にね

Now, looking back over the years
And whatever else that appears
I remember I cried when my father died
Never wishing to hide the tears
And at sixty-five years old
My mother, God rest her soul
Couldn't understand why the only man
She had ever loved had been taken
Leaving her to start
With a heart so badly broken
Despite encouragement from me
No words were ever spoken
And when she passed away
I cried and cried all day
Alone again, naturally
Alone again, naturally

何年も前のことを振り返り
立ち現れる光景のあれこれに向き合うと
父さんが死んだとき泣いたことを思い出した
僕は溢れ出る涙を拭おうともしなかった
当時母さんは65歳だった
(神様、どうか彼女の魂に安寧を)
母さんは理解出来なかった
彼女が生涯ただ一人愛した男が
どうして天に召されなかればならないのか
そして、心がめちゃめちゃにされたまま
これからの生活を始めなければならないか
僕がいくら励ましても
一言も返答はなかった
そして母さんが逝去したとき
僕は一日中泣いて、泣いた
またひとりぼっちだ。自然にね
またひとりぼっち……

いやはや。Oh,my God ! Jesus Christ!である。

つまりダスティン・ホフマン主演、マイク・ニコルズ監督、アメリカン・ニューシネマを代表する映画『卒業』のラストシーン、結婚式当日に教会で花嫁を略奪され、ひとり取り残された新郎の心情を歌っているとも解釈出来る。『卒業』の公開が1967年なので時期としても合っている。いわゆるアンサーソングと言って良いのではないだろうか?

そして彼は、まるでイングマル・ベルイマンの映画みたいに、〈神の不在〉を確信し、絶望して死にたいと思う。もの凄い歌詞だ。

これだけ曲調と歌詞が乖離していても良いんだな、ということを学んだ。究極のギャップ萌えだ。

「Woman」薬師丸ひろ子主演の角川映画『Wの悲劇』(1984)主題歌。併映は大林宣彦監督、原田知世主演『天国にいちばん近い島』だった。

映画自体、澤井信一郎監督の最高傑作である。夏樹静子の原作小説を舞台劇に封じ込めた〈入れ子構造〉が最大の勝因であろう。薬師丸ひろ子が劇団の研究性を演じ、ベテラン女優役の三田佳子が圧巻の貫禄だった。映画の中で三田は女優として生きるために〈妻〉や〈母〉としての自分を捨てるが、実生活の彼女はそれらに執着したたため、後に〈悲劇〉に見舞われることになる(詳しくはこちら)。人生とは皮肉なものである。

主題歌は松本隆の歌詞が秀逸で、

ああ時の河を渡る船に
オールはない 流されていく

ここが特に素晴らしい!「百人一首」に採用された、曽禰好忠の和歌(新古今集)を踏まえている。

由良(ゆら)の門(と)を 渡る舟人(ふなびと) 
かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな

(由良の流れが激しい河口を漕ぎ渡る船頭が、流れに櫂を取られて失くしてしまい当て所なく漂うように、 この先どうなるか分からず途方に暮れる私の恋の道行きだなぁ)

これを〈時の河〉と表現したのが発明である。時空を超えた茫漠たる果てしなさ、悠久の時を感じさせる。

淡々とした薬師丸ひろ子の歌唱も悪くないが(試聴こちら)、情感のこもった上白石萌音のカヴァーが更に上回っている(こちら)。ストリングスのアレンジが美しく、心に沁みる。

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シリーズ《映画音楽の巨匠たち》第8回/究極のエンニオ・モリコーネ!

今までの《映画音楽の巨匠たち》シリーズで焦点を当てたのは、

なんと第7回を上げてから2年も経過してしまった!

次回《映画音楽の巨匠たち》はバーナード・ハーマンか、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト、あるいは久石譲を取り上げたいと考えている。

なんて書いたのだが、予定通りには行かない。番狂わせが面白い。

2020年7月6日にエンニオ・モリコーネが亡くなった。享年91歳、大往生である。20世紀イタリアを代表する映画音楽作曲家として、ニーノ・ロータとモリコーネが二大巨頭であった。「あとは雑魚」と評しても過言ではない。僕の考えるモリコーネのベスト12を挙げる。

  1. ニュー・シネマ・パラダイス
  2. Once Upon a Time in the West(ウエスタン)
  3. ミッション
  4. The Good, the Bad and the Ugly(続・夕陽のガンマン)
  5. Once Upon a Time in America
  6. A Fistful of Dynamite(夕陽のギャングたち)
  7. 天国の日々
  8. Sacco e Vanzetti (死刑台のメロディ)
  9. カリファ
  10. マレーナ
  11. プロフェッショナル
  12. Mr.レディMr.マダム

これらをまとめて聴けるよう、サブスクリプション音楽配信サービスSpotifyに〈究極のエンニオ・モリコーネ!〉というプレイリストを作成した。こちらからどうぞ。最初の『ニュー・シネマ・パラダイス』はサントラではなく、ジョン・マウチェリ/ハリウッド・ボウル管弦楽団のアルバムから。ヴァイオリン独奏はギル・シャハムで『王様のレストラン』『半沢直樹』の音楽で有名な服部隆之による編曲が秀逸。続く『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』はモリコーネがオーケストラを指揮し、ヨーヨー・マがチェロを弾いたアルバム。『天国の日々』はサブスクにサントラがなかったので、仕方なくフルートとピアノ用に編曲されたものを選んだ。本物はこちらのYouTubeで聴いてください。アカデミー撮影性を受賞したネストール・アルメンドロスによる〈マジック・アワー〉の映像美が絶品。映画未見の方はこの機会にじっくりと味わってください。

僕は『ニュー・シネマ・パラダイス』の“愛のテーマ”が死ぬほど好きなのだが、サントラではこの曲のみ息子のアンドレア・モリコーネ作曲と表記されている。しかしその後のアルバムではアンドレア・モリコーネの記載がなかったりして、曖昧な扱いのまま現在に至る。いずれにせよモリコーネの最高傑作だ。

映画『ミッション』は(キリスト教という“素晴らしい”宗教を南米の未開人に教えてやるという)西洋人の傲慢が鼻につき大嫌いなのだが、音楽は別。白眉は限りなく美しい“ガブリエルのオーボエ”。そしてフィナーレ、合唱曲 “この地上が天国であるように”と“ガブリエルのオーボエ”が対位法として重なるハーモニーは正に至高体験へと誘ってくれる。

ジャン=ポール・ベルモンドが主演した1981年のフランス映画『プロフェッショナル』を取り上げたのは、名曲"Chi Mai"が入っているから。1971年の映画『マッダレーナ Maddalena』(日本未公開)のために作曲された楽曲の再使用である。『マッダレーナ』は人妻と不倫した僧侶が苦悩の果てに、海へ入水自殺してしまう話だそうだ。

1920年アメリカ合衆国マサチューセッツ州で起こった冤罪事件で、イタリア移民のサッコとヴァンゼッティが死刑になるまでを描く『死刑台のメロディ』はモリコーネが珍しく主題歌を作曲したという点で希少価値がある。ジョーン・バエズが歌った。

『カリファ』のテーマ曲は後にNHK特集『ルーブル美術館』(1985-86)に流用された。

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またモリコーネはNHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』(2003)の音楽も担当している。

フランス・イタリアの合作映画『Mr.レディMr.マダム』は後にミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール』に生まれ変わった(作曲家は別人)。ハリウッドでのリメイクがロビン・ウィリアムス主演『バードゲージ』。いわゆるラウンジ・ミュージックだ。〈お気楽なモリコーネ〉を味わって欲しい。

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僕は2005年10月6日に旧フェスティバルホール@大阪市で開催された、エンニオ・モリコーネのコンサートを聴いている。指揮がモリコーネでオーケストラはローマ・シンフォニー、他にピアノ:アントネット・マイオ(ジルダ・ブッタの代演)、ソプラノ:スザンナ・リガシーといった布陣。『アンタッチャブル』で始まり、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』〜デボラのテーマ、『海の上のピアニスト』『ニュー・シネマ・パラダイス』『マレーナ』『続・夕陽のガンマン』『夕陽のギャングたち』『ウエスタン』『殺人捜査』『シシリアン』『ある食卓のテーブル』『マッダレーナ』『ミッション』などが演奏された。これがモリコーネにとって最初で最後の関西公演となった。

1960年代のモリコーネの代表作といえば、なんと言ってもセルジオ・レオーネ監督と組んだマカロニ・ウェスタンである。アメリカではSpaghetti Westernと呼称され、日本語の命名者は淀川長治氏だそう。イタリアやスペインで撮影された西部劇で、『荒野の用心棒』(1964)が一世を風靡した。口笛を使ったモリコーネのテーマ曲も大ヒット。僕が知る限り西部劇で口笛を使ったのはこれが初めてではないだろうか?ジャンルが異なれば『戦場にかける橋』(1957)のクワイ川マーチとか、ディミトリ・ティオムキンが作曲したジョン・ウエイン主演『紅の翼』(1954)とかあるのだが。

1960年代のモリコーネは実験的だった。『夕陽のガンマン』(1965)や『シシリアン』(1970)ではビヨ〜ンと鳴る口琴(こうきん/ Jew's Harp)が使用された。また『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』はザンフィルの奏でるパン・フルートが印象的。

60年代は実験音楽が盛んだった。アメリカではジョン・ケージがプリペアド(仕組まれた/細工された)・ピアノのための音楽を発明し、日本では黛敏郎がミュージック・コンクレート(電子音楽/具体音楽)に取り組んでいた。モリコーネもこの流れの中にいた。いわゆるアヴァンギャルド(前衛)だ。

またモリコーネ×レオーネの映画で特筆すべきは歌手エッダ・デル・オルソとのコラボレーションである。その記念すべき最初の作品が『続・夕陽のガンマン』(1966)で、以降『ウエスタン』『夕陽のギャングたち』などに参加。レオーネの遺作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984)が映画としてはエッダとモリコーネのコンビ最後の作品である。その後はテレビのミニシリーズ『サハラの秘宝』(1988,THE SECRET OF THE SAHARA)があるだけ。エッダのスキャットを聴いているだけで心が癒やされる。それは幼い日に聴いた子守唄のように懐かしく響く。60-70年代のモリコーネはエッダ抜きには語れない。

モリコーネとロータの音楽に共通するのは歌心に満ちていることであろう。それはドニゼッティ、ベッリーニ、ロッシーニの時代からヴェルディ、プッチーニに至る、イタリア・オペラの伝統を受け継ぐ作曲家であるという点が大いに関与している。モリコーネが音楽を担当し、ベルナルド・ベルトルッチが監督した映画『1900年』が、「ジョゼッペ・ヴェルディが死んだ!」という道化師の叫びとともに始まるというのは象徴的である。

モリコーネは『天国の日々』『ミッション』『アンタッチャブル』『バグジー』『マレーナ』でアカデミー作曲賞にノミネートされ、6回目の『ヘイトフル・エイト』で初受賞を果たした。これは彼の大ファンであるクエンティン・タランティーノ監督の尽力の賜物と言えるだろう。授賞式でのタラちゃんの満面の笑みが忘れられない。正直に言って『ヘイトフル・エイト』の音楽は中の下くらいの出来。功労賞だ。むしろ大傑作『ニュー・シネマ・パラダイス』がノミネートすらされなかったということに納得がいかない。結局、アカデミー賞において外国語映画は圧倒的に不利なのだ。それは6回ノミネートされたうち、5作品がアメリカ映画だという事実を見れば明白だろう。

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#MeeToo 運動とウディ・アレン「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」

かつて〈ニューヨーク派〉と呼ばれる映画監督たちがいた。映画の都ハリウッド@ロサンゼルス(西海岸)よりも、ニューヨーク(東海岸)でロケすることを好む人々。古くはシドニー・ルメット、ジョン・カサヴェテスなど。現役ではマーティン・スコセッシやウディ・アレンが代表格。1989年のオムニバス映画『ニューヨーク・ストーリー』ではスコセッシとアレン、そしてフランシス・コッポラが監督を務めた。『イカとクジラ』『フランシス・ハ』『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』のノア・バームバックもニューヨーク派と言えるだろう。最新作『マリッジ・ストーリー』はNYとLAの二都物語になっている。

Rainy

ウディ・アレン脚本・監督の『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は2017年に撮影されたが同年、映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ問題が大々的に報じられ、社会的な #MeToo 運動に発展していった。アレンは1992年に交際していたミア・ファローの養女に対して性的虐待を行った容疑で訴えられ捜査の結果、証拠不十分で不起訴となっていたが、#MeToo の余波でこの件が蒸し返された。ディラン・ファローは7歳の時に性的虐待を受けたと繰り返し主張し、アマゾン・スタジオは本作を含め4本の映画契約を破棄、アメリカでの公開を見送った。アレンはこれを不服として、2018年2月に同スタジオを契約不履行で訴えた。そして『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の出演者たちは軒並み本作に出演したことを後悔する声明を発表、ティモシー・シャラメはギャラを全額寄付した。

シャラメは2018年に『君の名前で僕を呼んで』でアカデミー主演男優賞にノミネートされており、アレンは「ティモシーと彼のエージェントは、私を非難すれば授賞する可能性が高くなると思った。だからそうしたんだ」とコメントしている。

これはアレンが気の毒である。ワインスタインの犯罪については100人を超える女性たちの証言があり間違いないが(現在服役中)、ディラン・ファローについては本人の主張だけで証拠が全くない。彼女は裁判でも敗訴しているわけで、今更アレンの罪を社会的に問うのは絶対におかしい。狂っている。「疑わしきは罰せず」が大原則だろう。アマゾン・スタジオだって契約時にディラン・ファローとの揉め事は把握していたわけで、#MeToo 運動が盛り上がったからといって約束を反故にするのは後出しジャンケンで卑怯だ。

『ローズマリーの赤ちゃん』『テス」のロマン・ポランスキー監督は1977年にジャック・ニコルソン邸で当時13歳の子役モデルに淫行した容疑で逮捕され、仮釈放中に米国から海外逃亡した。#MeToo が切っ掛けとなって、この一件を理由に2018年5月に彼は映画芸術アカデミーから除名されたのだが、全くもって変な話である。何故なら2002年にポランスキーは『戦場のピアニスト』でアカデミー監督賞を受賞しているのだ(アメリカに入国したら逮捕されるので代理人が受け取った)。当然この時点でアカデミー会員は全員、淫行事件のことを知っていたし、僕も知っていた。1977年の件で資格を剥奪されたのなら、『戦場のピアニスト』の受賞も無効になる筈だ。滑稽・茶番と言わざるを得ない。因みに『戦場のピアニスト』はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞している。閑話休題。

評価:A

公式サイトはこちら

ペンシルベニア州のヤードレー大学に通うカップルが週末をNYで過ごすことが決まり、生粋のニューヨーカーであるティモシー・シャラメがはしゃいで「父親のコネでミュージカル『ハミルトン』のチケットを取ってもらうよ!」と言う場面でグッと来た。現在は新型コロナウィルス蔓延のためブロードウェイの劇場は全て閉鎖されており、『ハミルトン』を生で観劇することは2021年まで叶わない。そういえばアレンがイギリスで撮った『マッチポイント』(2005)ではデートでアンドリュー・ロイド・ウェバーの新作ミュージカル『ウーマン・イン・ホワイト』を観に行ってたよなぁと懐かしく思い出した。

奇しくも本作が日本で公開された7月3日(金)からDisney+で映画『ハミルトン』が世界同時配信された。これは初演キャストによる劇場公演を2016年に映像収録したもので、当初は2021年に劇場公開が予定されていた。しかしコロナ禍の煽りを食い、急遽配信に切り替えられたのだ。ところが配信までに日本語字幕が間に合わなかった。何やってんだDisney+、ふざけんな!Netflixの爪の垢でも煎じて飲め。閑話休題 Part 2。

シャラメの役名がギャツビーなのは間違いなくスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を意識している。小説の舞台もニューヨークであり、アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』にはスコット&ゼルダ・フィッツジェラルド夫妻が登場する。

スコット・フィッツジェラルドはジャズ・エイジと呼ばれる狂騒の20年代の作家であり、アレンはこの時代の音楽が大好き。劇中シャラメがピアノを弾き語りする"Everything Happens To Me"は1940年の曲。ジャズのスタンダードとしてセロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、キース・ジャレットらがレコーディングしている。ウディ・アレンの映画には度々ジョージ・ガーシュウィン、アービング・バーリン、ジェローム・カーン、リチャード・ロジャース、ハロルド・アーレンらが1920-50年代に作曲した“グレイト・アメリカン・ソングブック”の楽曲が登場する(詳細こちら)。

ギャッビーは言う。「僕はスカイ・マスターソンみたいになりたい」字幕ではギャンブラーとだけ説明されていたが、スカイはNYを舞台とするブロードウェイ・ミュージカル『野郎どもと女たち(ガイズ & ドールズ)』の主人公で、映画ではマーロン・ブランドが演じた。また『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』でクラップ・ゲームの話題が出てくるが、「クラップしようぜ」というのが『ガイズ&ドールズ』の登場人物ビッグ・ジュールの口癖なのだ。

さらに1958年のMGMミュージカル映画『恋の手ほどき(GIGI)」(監督はヴィンセント・ミネリ)について言及され、後にバーのピアニストが"GIGI"を奏でたりもする。粋だね!

エル・ファニング演じるアシュレーはアリゾナ出身のお嬢さんで、セレーナ・ゴメス演じるNYガールのチャン(ギャツビーの幼馴染)は「アリゾナの人って休日には何するの?サボテンでも眺めるとか?」と馬鹿にする。因みにアリゾナ州はハリウッドのあるカリフォルニア州のお隣で、メキシコにも接している。

これで思い出したのがブロードウェイ・ミュージカル"42nd Street"。主人公ペギー・ソーヤーはペンシルベニア州アレンタウンからミュージカルのオーディションを受けるためにニューヨークにやって来た田舎娘で、演出家のジュリアン・マーシュに「アレンタウンだと!」と吐き捨てるように言われる場面がある。この田舎者を揶揄する感じって、いかにもニューヨーカーらしいんだよね(ビリー・ジョエルの楽曲に「アレンタウン」があり、歌詞で町の雰囲気が分かるだろう)。

また本作に登場する映画監督について、「彼が落ち込んだときにはノーマ・デズモンドみたいに酒に酔いつぶれるのさ」と評されるのだが、これはビリー・ワイルダー監督『サンセット大通り』に準拠している。

撮影監督は『地獄の黙示録』『レッズ』『ラストエンペラー』で3度アカデミー賞を受賞したヴィットリオ・ストラーロ。室内撮影がオレンジ色の光線で、まるでヨーロッパ映画のよう。ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を思い出した。

僕は『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観て、ウディ・アレンのニューヨークに対する愛に心打たれた。あっけらかんと明るいアシュレーは(ハリウッドを含む)西海岸の象徴であり、憂いを帯びたチャンは天気の悪い東海岸(ニューヨーク)の象徴。その両者の間でギャツビーが揺れ動くという構造になっている。また神経質で情けないギャツビーのナレーションで映画全体が彩られるという趣向は、アレンが主演・ナレーションを兼任しアカデミー作品賞・監督賞を受賞した『アニー・ホール』(1977)を彷彿とさせる。これもニューヨークが舞台である。

しかし"I ♡ NY"(アイ・ラブ・ニューヨーク)の精神に溢れた本作がアメリカ本国での公開が決まっていないというのは、返す返すも残念なことである。

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【考察】「パラサイト」のポン・ジュノが絶賛した映画「哭声/コクソン」を構造分析し、事件の真相(深層)に迫る!

『哭声/コクソン』は2016年に製作された韓国映画で、日本では17年に公開された。「哭声」とは「泣き叫ぶ」という意味で、コクソンという音声は舞台となる地名「谷城」も表している。つまりタイトルそのものがdouble meaningになっている。レーティングはR15+。

ナ・ホンジン監督のデビュー作は過去に論評している。

そもそもホラー映画はあまり好みではないので、本作は見逃していた。他に、話題となった『新感染 ファイナル・エクスプレス』『アイアムアヒーロー』『ミッドサマー』も未見。どうも食指が動かない。

しかし今更ながらAmazon prime videoで観ようと思った切っ掛けは、『パラサイト 半地下の家族』で米アカデミー作品賞・監督賞・脚本賞など6部門を受賞したポン・ジュノが〈2010年代の映画5本〉に黒沢清監督『散歩する侵略者』やウエス・アンダーソン監督『ファンタスティック Mr.Fox』と並んで、『哭声/コクソン』を挙げていたからである(詳細こちら)。

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評価:B+

兎に角、國村隼が最高!彼のベスト・パフォーマンスではないだろうか?韓国で最も権威がある青龍映画賞で助演男優賞と人気スター賞をダブル受賞したのも頷ける。なんとこれが映画賞初受賞だそうである。因みに彼は本編で日本語しか喋らない。

ナ・ホンジンはクリスチャンだそうで、映画冒頭にルカ伝(新約聖書)からの引用がある。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」死後三日目に復活したイエスの言葉である。

外務省の大韓民国基礎データによると、韓国は宗教人口比率53.1%(うち仏教:42.9%,プロテスタント:34.5%,カトリック:20.6%)だそうで、つまりプロテスタントとカトリックを合わせてキリスト教信者は29.3%ということになる。日本人全体のクリスチャンの割合は1%前後なので、えらい違いだ。

物語前半は寒村に起きる猟奇的連続殺人事件という意味で、横溝正史の『八ツ墓村』を彷彿とさせる、ところが後半に入ると、少女に取り憑いた悪魔祓いの話になり、明らかに『エクソシスト』を意識した展開になってくる。さらに観客の予想を裏切る展開が待ち構えている。

ナ・ホンジンは『哭声/コクソン』のテーマを“混沌、混乱、疑惑”だと語る。本作を観て、「なんじゃこりゃあ〜!」(by ジーパン刑事「太陽にほえろ!」)とか、「全く意味がわからなかった……」と戸惑う声が多数あると聞く。以下ネタバレ全開で完全解説する。心の準備はよろしいか?

 

 

ーーーーーーーーーーーーネタバレ注意!ーーーーーーーーーーーー

 

 

【イエス・キリスト】コクソンの村人たちがユダヤ教時代のエルサレムの住人、國村隼演じる山の男(よそ者)をイエス・キリストと見立てることが出来る。國村はインタビュー記事の中で自分の役を「あの男は別に人ですらない」と語っている。彼は役作りで人間としてのイメージを捨てて、抽象的な「存在」であろうとしたという。

山の男(よそ者)は悪魔のようであり、時には救世主のようでもある。

映画の終盤、助祭(神父見習い)イサムが洞窟に入っていくと、死んだはずの謎の日本人を目撃する。男の掌には聖痕がある。イエスが十字架に磔刑された際、身動き出来ないよう釘を手に打ち込まれた傷穴だ。間違いなく男は救世主なのだが、イサムは彼を信じることが出来ず、イエスは悪魔に変化(メタモルフォーゼ)する。つまり信仰があるかないかで「存在」の解釈は二項対立(両極)のどちらにも転び得ることを表現している。

【カメラアイ(Camera-Eye)とdouble meaning】本作の小道具として登場するカメラや沢山の写真は「存在」を象徴している。つまり「ただ、そこにある」。それは映画自身のカメラアイ(視線)も同じ。「ただ、そこにある」ものを映している。その「存在」に「意味」を与えるのは観客だ。つまり見る者の意識・主観が「存在」をどう評価するかで、意味が変わってくる。これがdouble meaningだ。観客の意識を誘導する仕掛けがプロット・物語・台詞であり、映画の編集ということになる。とても哲学的な映画論が展開されていると言える。

【天使と悪魔】また事件の目撃者ムミョンは謎の女として描かれるが、彼女も日本人と同じ立ち位置と考えれば良い。天使か悪魔か?白い服はやはり天使のイメージだろう。そして悪魔=堕天使。double meaningとしての「存在」。それは空っぽの「器」と言い換えても良い。「器」に何を盛るかは観客次第。解釈によって中身は変化する。彼女が主人公の警官ジョングに石を投げることから、マグダラのマリア説もある。ただしマグダラのマリアは石を投げられる側なので、ベクトルは反対方向となる。マグダラのマリアもdouble meaningだ。「罪深い女」であると同時に、イエスが十字架に磔にされ、埋葬されるのを見送った聖人。復活したイエスを最初に目撃するのも彼女だ。元・娼婦と考えられているが、異論もある。清浄⇔不浄。「きれいは汚い、汚いはきれい」(シェイクスピア『マクベス』三人の魔女の台詞)。

映画終盤にムミョンがジョングの前に立ちはだかり、彼の自宅に悪霊除けの結界として金魚草の呪い封じを付けてきたことと、鶏が3回鳴くまで決して帰宅してはいけないと警告する。最後の晩餐の時にイエス=キリストがペトロに「あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言し、ペトロは「絶対にありえない」と否定するが、結局イエスの予言通りになるエピソードに則っている。つまりここでジョングは信仰心を試された。しかし彼は信じ抜くことが出来ず、悲劇を招くことになる。

【聖パウロ】祈祷師は聖パウロである。この正解はただひとつだけ。パウロ(ユダヤ名でサウロとも呼ばれる)は初め、熱心なユダヤ教徒としてイエスの信徒を迫害してきたが、ダマスコ(シリアの首都;ダマスカス)に向かう途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と天からの光とともにイエスの声を聞き、その後目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒がサウロのために祈ると彼の目から鱗のようなものが落ち、目が見えるようになった。こうして回心した彼はキリスト教徒となった。

祈祷師がソウル(韓国の首都)に逃げ帰ろうとした時、何か(オオシロカゲロウの大量発生)が車のフロントガラスにぶつかり、視界を奪われて停車する。その時彼は謎の男が悪霊でないことを悟る。「サウロの回心」がそっくりそのまま再現されていることがお分かり頂けるだろう。

本編から削除された別エンディングをご覧いただきたい→こちら!復活したイエスに寄り添うパウロ(サウロ)。去っていくふたり(救世主と使徒)を見送るマグダラのマリアという構造が描かれている。

【事件の真相】猟奇殺人の原因は、毒キノコを食べたことによる精神錯乱。犯人の血液から幻覚性キノコの成分が大量に検出され、家からキノコも大量に見つかった。またキノコは小さな胞子をつくって空気中に飛ばし、 これを吸い込んでキノコが体に入り込む。ジョングら警官たちが次第におかしくなっていくのもキノコの胞子が原因と考えられる。謎の日本人が住む家の近くに毒キノコが群生していたのであろう。この解釈では、謎の日本人と白い服の女ムミョンも幻覚ということになる。例えばジョングの妻や義母はふたりを見ていない。毒キノコ中毒になっていないからである。

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TBSラジオ「アフター6ジャンクション」に投稿したメールが読まれました。お題は映画『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』

6月26日(金)ヒップホップグループ、RHYMESTER 宇多丸がパーソナリティを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」 #アトロク #utamaru の〈週刊映画時評「ムービーウォッチメン」〉で僕の投稿が読まれた。これが2回目。今回のお題は『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』。

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以下、送ったメールの原文ママ。

僕は中学生の時に読んだオルコットの小説「若草物語」が大好きで、映画もジョーをキャサリン・ヘップバーンが演じた1933年版と、ジューン・アリソンによる49年版、ウィノナ・ライダーの94年版を観ています。そして今回の最新版が最高の出来でした!文句なしです。ジョー役のシアーシャ・ローナンが走っている画面を見ているだけで心が高鳴り、「レディ・バード」に続いて彼女とティモシー・シャラメとの相性の良さも抜群。特に舞踏会の場面で群衆から離れ、ふたりだけでポーチではしゃいで踊る場面は躍動感溢れ、ワクワクしました。

今回のグレタ・ガーウィグ版で目を瞠ったのは脚色の上手さです。原作の「続・若草物語」で作家志望のジョーが自分の原稿を出版社に持ち込む場面から映画は始まり、続いて7年前「若草物語」時代の回想になります。その後は青色を基調とする寒色系で描かれる現在と、暖炉の炎を連想させる橙色を基調とする過去を行ったり来たりするアクロバティックな構成になっています。そして映画終盤、ジョーが長編小説を書き始めると寒色系の画面に沢山の蝋燭の炎が灯り、そこからは彼女の脳内で創造されたフィクション部分が暖色、現実世界が寒色になるという創意工夫が凝らされています。

本作のテーマは〈結婚は経済の問題である〉ということに集約されるでしょう。「女が独身のまま自立するには売春宿を経営するか、女優になるしかないわ。まぁ、どちらも同じようなものだけど」という台詞を、かの大女優メリル・ストリープに言わせるとは大胆不敵!舌を巻きました。〈結婚することが女の幸せであり、ゴールである〉という当時の風潮に対してジョーは徹底的に抗います。

しかし原作を読んだことのある人なら知っています。「続・若草物語」の最後にジョーがベア教授と結婚することを。ジョーは原作者オルコットの分身ですが、オルコット自身は生涯を独身で通しました。果たしてこの矛盾にどう向き合うのか?グレタ・ガーウィグはメタフィクションの手法を用いて、この難問を鮮やかに解決しました。まさかこんな手があったとは!!と心底驚かされました。

グレタには是非今後、劇中でも言及されるブロンテ姉妹の「嵐が丘」や「ジェーン・エア」再映画化にも取り組んで欲しいと思います。

これが端折られて読まれた、番組公式書き起こしはこちら。実際放送された音声も聴ける。

正直、『若草物語』の読者は圧倒的に女性が多く、アトロクへの投稿も多分女性の感想のほうが有利だろうから、今回選ばれるのは難しいだろうなと思っていた。だから宇多丸さんや番組のスタッフの方々にはここで深謝したい。男性の意見というのが珍しかったのかも?

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mellow

評価:B+

Mellow

今年1月17日に公開された映画「mellow」をNetflixの配信で鑑賞。公式サイトはこちら。Netflixはこちら

角田光代原作の映画『愛がなんだ』が好印象だった今泉力哉監督の力量が、今回(オリジナル脚本)も遺憾なく発揮された。

あるバーを中心とした人間模様(成瀬巳喜男『女が階段を上る時』)とか、レストラン(三谷幸喜『王様のレストラン』)、喫茶店(『コーヒーが冷めないうちに』)、タクシー(手塚治虫『ミッドナイト』)とかいう設定は今までにもあったが、花屋を触媒にするというのは新基軸。雰囲気がオシャレで、僕はこの監督が醸し出す空気感が好き。特にともさかりえ演じる花屋の常連客が、夫同伴で主人公(田中圭)に「好きです」と告白する場面は爆笑した。何なんだこのシュールなシチュエーションは!?

ただ『愛がなんだ』と2作並べてみると、今泉監督って恋愛至上主義者なんだね。日本のクロード・ルルーシュ!?片思いの連鎖で、主人公モテすぎ。そこが引っかかる(鼻白む)人も少なくないだろう。

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エジソンズ・ゲーム

評価:B+

Current

公式サイトはこちら。原題はThe Current War。currentは「現在の」という意味もあるが、こちらは「電流」の方。「直流」か「交流」か。トーマス・エジソンと実業家ジョージ・ウェスティングハウスの「電流戦争」を描く。

本作は元々、ワインスタイン・カンパニー製作だったが、プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが監督に微に入り細を穿つ修正要求を突きつけ、編集がぐちゃぐちゃになったままトロント国際映画祭で上映されたため評判は惨憺たるものであった。その後 #MeToo運動が盛り上がりセクハラでワインスタインが逮捕され、彼の名をクレジットから削除、カンパニーも経営破綻したため映画の権利が売りに出された。そこで製作総指揮マーティン・スコセッシの協力の下、ディレクターズ・カットとして再編集されたというわけ。面白いことにこちらの方はRotten Tomatoesなど映画批評集積サイトで軒並みワインスタイン・カット版より高評価となった。なんとも数奇な運命を辿った映画である。

地味な話ではあるが、なかなか見応えがあった。なんだかスティーブ・ジョブズ対ビル・ゲイツみたいな感じ。俯瞰を多用したカメラワークがユニークだった。

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