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2020年3月

新型コロナで引きこもっている貴方へー2000年以降の映画ベスト60!おまけでTVアニメ・ベスト10!

新型コロナウィルスが世界的に猛威をふるい、外出を控えている方も多いだろう。こんな時はDVD/Blu-rayやNetflix,Amazonプライム・ビデオなど動画配信サービスで映画を観たい気持ちになる。そんな貴方にお勧めの作品をご紹介しよう。

定義としては2000年1月〜2019年12月末の間に、製作された国で公開された映画を対象とする。例えば「パラサイト 半地下の家族」は日本で2020年1月の公開だが、韓国では2019年に公開されたので候補となる。

ここで20年単位で映画史を最初から振り返ってみよう。

  • 1900-1919:黎明期。メリエス「月世界旅行」、グリフィス「イントレランス」など。
  • 1920-1939:モンタージュ理論の確立(エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」)。サイレント(無声)映画の成熟と終焉、トーキーの台頭。チャップリン、キートン、ロイドら三大喜劇王からローレル&ハーディ、マルクス兄弟の時代へ。ミュージカル映画が花盛り。そして39年「風と共に去りぬ」で最高潮へ!
  • 1940-1959:戦争を経て映画の黄金期到来。ハリウッドではワイラー、ワイルダー、ヒッチコック、フォード、ホークスら巨匠たちが精力的に活躍し、ディズニー・アニメも頂点を極めた。一方で赤狩りという暗い影も。日本では黒澤明、溝口健二、小津安二郎、木下惠介らが最も脂が乗っていた時代。イタリアではネオレアリズモ(ロッセリーニ、デ・シーカ、ヴィスコンティ)が盛んに。白黒→カラー、スタンダード→ワイドスクリーン(シネスコ、ビスタビジョン〉へ。
  • 1960-1979:テレビの台頭とともに映画産業は斜陽に。大手スタジオは衰退、撮影機材の軽量化でカメラは撮影所を飛び出して街へ!フランス・ヌーヴェルヴァーグ(トリュフォー、ゴダール、レネ、マル)、松竹ヌーヴェルヴァーグ(大島渚、吉田喜重、篠田正浩)、日活ヌーヴェルヴァーグ(中平康、川島雄三)、大映ヌーヴェルヴァーグ(増村保造、鈴木清順)、独立プロの隆盛(近代映画協会、新生映画社、新東宝など)、ATG(日本アート・シアター・ギルド)設立。アヴァンギャルドの時代。アメリカはベトナム戦争、ヒッピー文化と並行してニューシネマへ。既成の価値観の否定・破壊。音楽はフォーク・ソングやロックンロール主体に。
  • 1980-1999:ヨーロッパ映画やニューシネマの衰退。77年の「スター・ウォーズ」「未知との遭遇」を経てルーカス、スピルバーグが時代を席巻。ハリウッド・ルネッサンス期到来、オーケストラ演奏によるゴージャスな劇伴復活。メグ・ライアン主演のロマンティック・コメディが花盛り。ハーヴェイ・ワインスタインがミラマックスという帝国を築く(「イングリッシュ・ペイシェント」「恋におちたシェイクスピア」でアカデミー作品賞受賞)。日本では角川映画の台頭、メディアミックス。大林宣彦、大森一樹、森田芳光ら自主映画出身監督が主流に。ぴあフィルムフェスティバル(PFF)アワードの時代。そしてバブル期(ホイチョイ・プロダクション「私をスキーに連れてって」「彼女が水着にきがえたら」「波の数だけ抱きしめて」、桑田佳祐「稲村ジェーン」、小田和正「いつか どこかで」、村上龍「ラッフルズホテル」、椎名桜子「家族輪舞曲」)を経てバブル崩壊。90年代は浮ついた、軽薄な時代だった。

では2000年以降の20年間はどういう時代だったのだろう?僕が選んだ代表作は以下の通り。リンクを張ってあるものは、タイトルをクリックすれば各々のレビューに飛ぶ。

  1. 君の名は。 (2016) 日本
  2. 風立ちぬ (2013) 日本
  3. 千と千尋の神隠し (2001) 日本
  4. ラ・ラ・ランド (2016)
  5. 蜜蜂と遠雷 (2019) 日本
  6. パラサイト 半地下の家族 (2019)
  7. ダークナイト (2008)
  8. 秒速5センチメートル (2007) 日本
  9. 桐島、部活やめるってよ (2012) 日本
  10. インファナル・アフェア (2003)
  11. 天気の子 (2019) 日本
  12. 花筐/HANAGATAM (2017) 日本
  13. マルホランド・ドライブ (2001)
  14. 殺人の追憶 (2003)
  15. インセプション (2010)
  16. 告白 (2010)  日本
  17. 1917 命をかけた伝令 (2019)
  18. シカゴ (2002)
  19. ソーシャル・ネットワーク (2010)
  20. ボウリング・フォー・コロンバイン (2002)
  21. そして父になる (2013) 日本
  22. ペンギン・ハイウェイ (2018) 日本
  23. パンズ・ラビリンス (2006)
  24. ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還 (2003)
  25. ハート・ロッカー (2008)
  26. ゼロ・グラビティ (2013)
  27. メッセージ (2016)
  28. ソング・オブ・ザ・シー 海のうた (2014)
  29. おくりびと (2008) 日本
  30. 舟を編む (2013) 日本
  31. オールド・ボーイ (2003)
  32. ダンケルク(2017)
  33. シン・ゴジラ (2016) 日本
  34. 時をかける少女 (2006) 日本 ←細田守監督アニメ版
  35. 別離 (2011)
  36. グリーン・デスティニー (2000)
  37. バトル・ロワイヤル (2000) 日本
  38. 沈黙 -サイエンス- (2016)
  39. 007 スカイフォール (2012)
  40. 海獣の子供 (2019) 日本
  41. ハリーポッターとアズカバンの囚人 (2004)
  42. クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲 (2001) 日本
  43. マッドマックス 怒りのデス・ロード (2015)
  44. ゆれる (2006) 日本
  45. 野のなななのか (2014) 日本
  46. 八日目の蝉(2011)日本
  47. GO (2001) 日本
  48. はじまりのうた (2013)
  49. ツリー・オブ・ライフ (2011)
  50. マン・オン・ワイヤー (2008)
  51. DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on
    少女たちは傷つきながら、夢を見る (2012) 日本
  52. なごり雪 (2002) 日本
  53. アナと雪の女王 (2013)
  54. ビール・ストリートの恋人たち (2018)
  55. Mr.インクレディブル (2004)
  56. シティ・オブ・ゴッド (2003)
  57. 英国王のスピーチ (2010)
  58. 華麗なるギャツビー (2013)
  59. A.I. (2001)
  60. パシフィック・リム (2013)
  61. 不都合な真実 (2006)
  62. 呪怨 (2000) 日本

総じて、いくつかの特徴を挙げられるだろう。

  • 日本のアニメーションの質の高さが、世界的に認知されるようになった。今や宮崎駿の名を知らない映画人なんて皆無だろう。新海誠の名も浸透しつつある。
  • アジア映画の世界進出。それを象徴する事件が韓国「パラサイト 半地下の家族」のアカデミー作品賞・監督賞受賞だ。また台湾のアン・リーは「ブロークバック・マウンテン」と「ライフ・オブ・パイ/虎と漂流した227日」で2度アカデミー監督賞を受賞し、中国のチャン・イーモウが監督した「HERO 英雄」や「LOVERS」など武侠映画も世界的に大ヒットした(しかしマット・デイモンを主演に迎えた「グレートウォール」は惨憺たる失敗に終わった)。「リング」「呪怨」「仄暗い水の底から」などJ(ジャパニーズ)ホラーも立て続けにハリウッド・リメイクされた。あと「ゴジラ」が2回目のハリウッド・リメイクされ、デル・トロ監督「パシフィック・リム」ではKaijuたちが大暴れした。
  • #MeToo運動が盛り上がり、ハーヴェイ・ワインスタインが逮捕された。帝国の滅亡。
  • 女性監督(「ハート・ロッカー」「ゼロ・ダーク・サーティ」のキャスリン・ビグロー、「ゆれる」「夢売るふたり」の西川美和、「グローリー ー明日への行進ー」のエヴァ・デュヴァネイ)や黒人監督(「ムーンライト」「ビール・ストリートの恋人たち」のバリー・ジェンキンス 、「ゲット・アウト」「アス US」のジョーダン・ピール )の躍進。
  • SNS時代の到来。「ソーシャル・ネットワーク」「スティーブ・ジョブズ」など。
  • アメリカのアニメーション映画はフルCGに移行した。そして、ジョン・ラセター復帰によるディズニーの完全復活を高らかに世界に宣言したのが「アナ雪」。しかし #MeToo運動の余波を被り、ラセター再び同社から放逐された。一体これからどうなる、ディズニー!?
  • 映画のVFXもCGで何でも出来るようになり、アメコミ映画が隆盛を極めた。しかし逆に感覚が麻痺してしまい、特撮に対する驚きとか新鮮さを感じることがなくなってしまった(アメコミ・ヒーローの病理)。
  • ここ20年くらいで地球の気候が大きく変わったことを実感し、この先どうなるんだろう?と不安を覚えることが多くなった。「天気の子」「不都合な真実」など。

「君の名は。」については過去に当ブログで語り尽くしたので、ここで繰り返さない。

「風立ちぬ」については下記。

多分、客観的に見れば宮崎駿の最高傑作はベルリン国際映画祭で金熊賞、さらにアカデミー長編アニメーション映画賞を受賞した「千と千尋の神隠し」だろう。文句なしだ。しかし「風立ちぬ」の魅力は宮さんが自分の抱える矛盾を肯定したことにある。ダンテ「神曲」を下敷きにしている点でも深みを増した。たとえ悪魔に魂を売り渡そうと、芸術を突き詰めるのだという覚悟に痺れる。

「ラ・ラ・ランド」については以下の記事をご参照あれ。

蜜蜂と遠雷」は言わずと知れた音楽映画の金字塔。

ダークナイト」はジョーカーのキャラクター造形が秀逸。キーワードは虚無と混沌(カオス)。

「インファナル・アフェア」を超える香港映画は今のところない。究極のフィルム・ノワール。マーティン・スコセッシ監督が「ディパーテッド」としてハリウッド・リメイクし、アカデミー作品賞・監督賞を受賞したが、オリジナルの足元にも及ばない。

「マルホランド・ドライブ」はデヴィッド・リンチ監督の最高傑作。ある意味デヴィッド・フィンチャーの「ファイト・クラブ」と似ているとも言える。またビリー・ワイルダー「サンセット大通り」とイングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」を下敷きにしている。

インセプション」が秀逸なのは登場人物たちが現実と夢(=深層心理・仮想現実)を行き来し、さらに夢を三層に分けたこと。クリストファー・ノーラン監督は間違いなくユング心理学の影響を受けている。

「殺人の追憶」は「パラサイト 半地下の家族」と並び、紛れもなく韓国映画の金字塔。ヒリヒリとして背筋が凍りつく大傑作。ポン・ジュノ監督恐るべし。岩代太郎の音楽も出色の出来。

「ハリーポッターとアズカバンの囚人」はシリーズ三作目にして頂点を築いた。後に二度アカデミー監督賞を受賞する(「ゼロ・グラビティ」「ローマ」)アルフォンソ・キュアロンの美意識が冴え渡る。クリス・コロンバスが監督した一、二作目の出来も悪くない。

アイルランドのダブリン出身ジョン・カーニー監督の「ONCE ダブリンの片隅で」「はじまりのうた」「シング・ストリート 未来へのうた」は三部作となっている。これらが気に入ったら次はAmazon プライムのドラマ「モダン・ラブ 〜今日もNYの片隅で〜」をどうぞ。

DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」は3・11東日本大震災のドキュメンタリーとして秀逸である。あと〈会いに行けるアイドル〉〈地下アイドル〉が日本を席巻した記憶として。しかし2018年末、新潟で活躍するNGT48のメンバーだった山口真帆に対する暴行事件と、その後の運営会社ASKの対応の拙さから、すっかり世間の熱は冷めてしまった。

「呪怨」は奥菜恵や酒井法子が主演した劇場版ではなく、それより先んじて東映ビデオが発売した東映Vシネマ版(元祖)が一番怖い!これね。

続いて、TVアニメ部門。

  1. 魔法少女まどか☆マギカ
  2. コードギアス 反逆のルルーシュ
  3. 四畳半神話大系
  4. 宇宙よりも遠い場所
  5. 進撃の巨人
  6. 響け!ユーフォニアム
  7. ヴァイオレット・エヴァーガーデン
  8. 甲鉄城のカバネリ
  9. ちはやふる
  10. 鬼滅の刃

「四畳半神話大系」の湯浅政明監督は、2020年1月から放送されたアニメ「映像研には手を出すな!」で一世を風靡した。姉妹編として劇場アニメ「夜は短し歩けよ乙女」も併せてどうぞ。どちらもNetflixで配信中。

「宇宙よりも遠い場所」はニューヨーク・タイムズの「ベストTV 2018 インターナショナル部門」(The Best International Shows)に選出、激賞された。Netflixで配信中。

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ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽 〜ピアノ四重奏の夕べ〜(東京は無観客ライブ・ストリーミング配信/大阪は公演決行!)

3月16日(月)大阪のザ・フェニックスホールへ。

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実はその前日15日(日)に東京・春・音楽祭でも同じプログラムでコンサートが予定されていたが、新型コロナウィルス感染拡大のため公演中止となり、東京文化会館 小ホールから【無観客ライブ・ストリーミング配信】された。大阪では幸運にも実演が聴けたというわけ。

曲目は、

  • モーツァルト:ピアノ四重奏曲第1番
  • フォーレ:ピアノ四重奏曲第1番
  • ドヴォルザーク:ピアノ四重奏曲第2番

メンバーはヴァイオリン:ガイ・ブラウンシュタイン(元ベルリン・フィル第1コンサートマスター、イスラエル生まれ)、ヴィオラ:アミハイ・グロス(ベルリン・フィル首席奏者、イスラエル生まれ)、チェロ:オラフ・マニンガー(ベルリン・フィル ソロ・チェロ奏者、ドイツ生まれ)、ビアノ:オハッド・ベン=アリ(イスラエル生まれ)。

ベルリン・フィル|デジタル・コンサートホールで見慣れた面々である。

しかしこうしてプロフィールを眺めると、ベルリン・フィルの弦楽器奏者はユダヤ人が多いのだなということに気付かされる。現在、第1コンサートマスターを務める樫本大進や首席ビオラ奏者・清水直子をはじめとして日本人奏者も沢山いて、ユダヤ人+日本人がヴァイオリン・ヴィオラのセクションに占める割合は相当高いのではないだろうか?さすが〈弦の国〉だ。

ところが一方、面白いことにベルリン・フィルの低弦:つまりチェロとコントラバス奏者に日本人は一人もいない。ヴァイオリン・ヴィオラは得意だけれど、低弦は苦手という現象は一体全体どういうわけ??誰か事情にお詳しい方、ご教示頂ければ幸いである。閑話休題。

ウィーンの音楽家たちによる角が取れ、馥郁たる香り漂う演奏と異なり、重厚で厳格なモーツァルトだった。こういうのも悪くない。

フォーレは水を得た魚のようにピチピチと跳ねる。第一楽章は靄がかかった中から音楽が立ち現れ、第二楽章のスケルツォは鋭い。

全体を通して改めて感じたのは、室内楽とは対話なのだなということ。耳を澄ませてお互いの声をよく聴き、邪魔しない。その〈親密さ Intimacy〉こそ最大の魅力である。

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ジュディ 虹の彼方に

評価:A

映画公式サイトはこちら

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僕はジュディのことが昔から大好きで、1963-64年にCBSで放送された「ジュディ・ガーランド・ショー」北米版DVD-BOXも持っている。

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レネー・ゼルウィガーの歌声は決して本人に似ているわけではない。しかし彼女の演技力のおかげで、正にそこにジュディがいると実感させる、有無を言わさぬ説得力があった。ジュディ自身がアカデミー賞を手にすることは生涯なかったが、彼女を演じたレネーと、娘のライザ・ミネリが主演女優賞を受賞したことは、運命の女神ってずいぶん意地悪だな、と思う。

ロンドンで最後のステージに立とうとする晩年のジュディの姿にフラッシュバックし、映画「オズの魔法使い」のドロシー役としてオーディションを受けた頃の彼女とMGM社長ルイス・B・メイヤーとのやり取りを同時並行に描くことで、本作は大変見ごたえのあるものになっている。

太りやすい体質だったジュディはスタジオから痩せ薬として覚醒剤(アンフェタミン)を飲むことを強要され、そのせいで眠れなくなったため、さらに睡眠薬が処方された。こうして薬漬けになった彼女は後年、様々な問題を抱えることになる。

またロンドンでの彼女と、ステージを観に来たゲイ・カップルとの心の交流がとっても素敵だった。ジュディはLGBTのアイコン的存在となっているが、彼らが掲げるレインボーフラッグは美しさと多様性を象徴しており、もしかしたらジュディが歌った「虹の彼方に」と密接に結びついているんじゃないかな、と映画を観ながら思った。

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新型コロナウィルスとの戦い〜イタリアの医療崩壊と学徒動員、ブロードウェイ閉鎖

2020年3月6日、フランスのマクロン大統領はテレビ演説し、「我々は(ウイルスとの)戦争状態にある」と何度も強調した。

3月16日、ドイツのメルケル首相は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて国民向けにテレビ演説し、「第二次世界大戦以来、最大の試練に直面している」との認識を示した。彼女がテレビ演説を行うのは極めて異例である。

イタリアのコンテ首相は3月21日、テレビ演説で現状を「この国にとって戦後で最も厳しい危機だ」と表明した。そして翌22日、死者数が5476人に達し(感染者は5万9千人)、既に中国の死者数を上回った。イタリアでは人工呼吸器の数が足りず、医師・看護師ら医療スタッフは不眠不休の労働で疲弊し、医療崩壊が起こっている。同国政府は卒業試験を控える医学生約1万人に対し、試験を免除して、即戦力として通常より8~9か月早く医療現場に投入することを決めた。

これって、正に日本における第二次世界大戦末期の学徒動員・学徒出陣(1943- )と同じ状況ではないか!幕末の戊辰戦争で例えるなら会津藩・白虎隊の悲劇。ドイツで言えばやはり1943年以降に実施されたヒトラーユーゲント(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)の出兵に相当するだろう。つまり今、世界は戦時下にある。

アメリカではブロードウェイの劇場や映画館、レストランが閉鎖。ニューヨーク州は外出禁止令を出した。アメリカの場合、第一次・第二次世界大戦でも戦場にならなかった(日本軍が到達出来たのはハワイの真珠湾まで)。つまり本土空襲がなかったわけで、劇場やハリウッドのスタジオが閉鎖されるなんて前代未聞である。そういう意味でこれだけの危機的状況は南北戦争(1861-65)以来と言えるのではないだろうか?

日本では2月末にいち早く、安倍総理の大規模イベント中止要請(Request)に対して、演劇・ミュージカルを上演する劇場やコンサート・ホールが自主的に公演を中止した。あくまでリクエストだから強制力はないのに、日本国民は相変わらず御上(おかみ)に対して羊のように従順だなぁと思った。そもそも〈大規模イベント〉の定義が曖昧である。〈忖度した〉とも言えるし、我が国特有の〈同調圧力〉に屈したとも言える。〈出る杭は打たれる〉のである(どこよりもいち早く劇場公演を再開した宝塚歌劇団は徹底的にSNS等で叩かれ、またたく間に再休演に追い込まれた)。そのくせ一ヶ月も立たないうちに音を上げ、政府に対しやれ損害を保証しろだの、「演劇の死」だの、騒がしいことこの上ない。どうも「戦争状態にある」という認識が彼らには欠けているのではないだろうか?

対してブロードウェイの劇場は3月12日にニューヨーク市長が非常事態を宣言するまで、公演を一切止めなかった。〈要請〉と〈強制〉には大きな隔たりがある。さすがアメリカの演劇人は気骨があるなぁと改めて感心した。これぞ"The Show Must Go On"の精神だろう。一度始めてしまったら、何があっても中止出来ないという意味である。野田秀樹さんには是非とも彼らの爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。覚悟が違う。

欧米諸国の演劇のルーツをたどると、古代ギリシャ演劇に行き着く。「オイディプス王」なんか、紀元前427年頃の作品である。エピダヴロスの古代劇場は紀元前4世紀に設計された。なんと今から2400年前に常設劇場があったのである。日本の場合、推古天皇のときに朝鮮半島や中国大陸から伝わったとされる伎楽(ぎがく)はパレード+滑稽味を帯びた無言劇で、奈良時代に伝わった散楽(さんがく)は軽業・曲芸・奇術・踊りなど大衆芸能だった。ちゃんとした舞台で演じられる演劇としては室町時代に成立した猿楽(能)まで待たなければならない。観阿弥・世阿弥親子が登場するのが14世紀だからせいぜい600年程度の歴史である。その差を今回の新型コロナウィルス騒動で見せつけられた気が僕にはした。「演劇の死」なんかじゃない、「日本演劇の敗北」である。

新型コロナウィルスは我々に様々な目を開かせてくれる。

立憲民主党の蓮舫は安倍総理が中国と韓国からの入国制限に踏み切ったことに対して国会で「エビデンスはあるのか?」と食い下がった。

ノーベル生理学・医学賞を受賞した京大の山中伸弥教授はYOSHIKIとの対談で次のように述べている。「今よく言われるのは『エビデンスはあるんですか?』『科学的エビデンスに基づいた対策ですか?』という議論もあると思うんですね、でもこれはエビデンスを待っていたらいつまでも対策は出来ません。人類が初めて経験してるんですから、エビデンスなんかどこにもないんです。じゃあ、その間何もしなかったら手遅れになってしまいます」

ここから学ぶべき教訓。意味も分からずに「エビデンス」を連呼する人間を絶対に信じるな!

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新型コロナウィルスが僕たちに教えてくれること

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は常々思っている。例えば災害時。大地震が起こると発展途上国では暴動に発展し、商店への略奪がしばしば起こる。貧富の格差、貧しい者の富める者に対するルサンチマン(嫉妬・怨嗟)が一気に吹き上がる。その点日本人は阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も救援物資が配給されるのを割り込みもせず列を作って辛抱強く待ち、その姿が世界から称賛された。僕たちは非常時でも品格を失わなかった。

新型コロナウィルスの騒動で、世界は総鎖国状態になっている。ヨーロッパ諸国もこの緊急事態にナショナリズムを剥き出しにし、国境を閉ざした。EUと称するグローバリズム(緩やかな社会主義)の正体・欺瞞が白日の下に晒された。イタリアが医療崩壊しても近隣諸国は自国のことでいっぱいいっぱいで、知らんふりだ。結局、「世界は一家、人類はみな兄弟」じゃなかった。なんと中国から医師300人で構成される専門家チームがイタリアに派遣された。皮肉なことにイギリスのEU離脱は正しかったことが、こんな形で証明された。

アメリカやヨーロッパで、アジア人差別が横行している。彼らは「私は人種差別なんかしていない」という仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨て、本来の顔を覗かせた。

日本では音楽家や演劇関係者の頭の中がお花畑であることがはっきりと分かった。

野田秀樹氏の、このまま劇場を閉ざしていたらそれは「演劇の死」を意味するという発言には心底驚かされた。いやいや野田さん、まだ1ヶ月そこらでしょう。1945年の東京大空襲で首都が焼け野原になっても、広島・長崎に原爆が投下されても演劇は死ななかったんですよ。そんなやわなものじゃないでしょう?泣き言言いなさんな、みっともない。貴方はもっと骨のある人だと思っていました。失望しました。

3・11東日本大震災のとき、当時政権与党だった民主党が如何に経験不足で頼りない党かということが露見し、全国民は呆れ返った。その後に行われた総選挙で惨敗、結局民主党という組織そのものが消滅した。3・11がなければ、民主党はもう暫く存続出来たのではないだろうか?亡国の危機を迎えることによってその化けの皮が剥がれたのである。

今回のコロナウィルスによる危機を迎えても、韓国は日本に対する攻撃を緩めない。恨(ハン)は決して変わらない。

また、朝日新聞の鮫島浩氏が次のようにツィートしている。

日本政府による〈陰謀論〉だ。

日本が韓国やイタリアに比べて、検査件数が少ないことは事実だ。しかしそれは対外的に日本の安全性をアピールしたいという〈隠蔽工作〉なんかじゃない。軽症者が病院を占拠して重症者が入院できないといった、医療崩壊を防ぐことに狙いがある。鮫島氏はイタリアみたいに日本も医療崩壊すれば良いと考えているのだろうか?まぁこの人は憎き安倍政権を打倒出来さえすれば、国が滅んでも気にしないのだろう。安倍総理をこき下ろすことだけが目的化している。

どの程度の症状で検査するかによって感染者数は変化する。それを国別に比較することに意味はない。しかし死亡者数は誤魔化せない。重症で人工呼吸機に繋いでいる患者にウィルスのPCR検査をしないなんていうことはあり得ないからである(日本では死亡後に感染が判明した症例もある)。

〈陰謀論者〉たちは保健所が検査させないように策略をめぐらせていると主張するが、日本では2020年3月6日から新型コロナウィルス検査が保険適応となった。つまり保健所を介さず、医師の判断で検査出来るようになったのである。

3月19日現在、日本国内の死亡者は29人。韓国は91人。中国以外で多い順にイタリア2978人、イラン1135人、スペイン598人、フランス264人となっている。「日本は何とか持ちこたえている」というのは紛れもない事実だ。更に言えば日本の人口は約1億2600万人である。韓国が約5100万人でイタリアが6048万人。死亡率(人口10万対比死亡数)を計算すると、さらに格差は広がる。ここで〈陰謀論者〉たちは死亡者数を検査した人の数で割って「日本の死亡率は高い」と主張するのだが、これはインチキである。このやり方だと、症状の全くない人まで沢山検査した国のほうが見かけ上率が減ってしまう。ナンセンスだ。どうして彼らはここまでして、日本を貶めたいのだろう?実に情けない。

さらに朝日新聞の小滝ちひろ編集委員・ソーシャルメディア記者はツイッターに次のような投稿をした。

「(略)戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」

ここでも世界を覆う災厄よりも、憎っくきトランプ大統領が右往左往している姿を見る方が嬉しいという本性が剥き出しになっている。時の権力者へ自らの憎悪をぶつけることが目的化し、他のことが全く見えなくなっているのだ。なんと愚かなことだろう。

 

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あなたは共感出来ますか?〜映画「名もなき生涯」

評価:A-

Ahiddenlife

映画公式サイトはこちら

第二次世界大戦時にヒトラーへの忠誠宣誓を拒否したオーストリアの農夫フランツ・イェーガーシュテッターの物語。いわゆる「良心的兵役拒否者」だ。巨匠テレンス・マリック監督にとって、初の実話となる。

「ツリー・オブ・ライフ」(2011)以降、マリックの脚本はまるで詩のようだ。そこがマリック節に慣れていない、一般客にとって敷居が高くなっている原因でもある。本作も会話というよりは夫婦の往復書簡が中心になっている。

自然光で撮られた映像が極めて美しい。優れた作品であることは間違いない。しかし、僕は次の一点でどうしても引っ掛かった。

大義もないのに戦場で人を殺したくない。その気持は良く理解出来る。しかし兵役を拒むことで家族にも害が及ぶ。それは果たして〈正しい〉ことなのか?

主人公のみならず妻や子供も投獄されるリスクはあった(実際にはそんなことにならなかったが)。相手はナチス・ドイツだ。何をするかわからない。

フランツがオーストリア人(アーリア人種)というだけで幸運だった。弁護士が付き、裁判も行われた。ちゃんと人間として扱われたのだ。ユダヤ人だったら有無を言わさず一家全員、絶滅収容所送りだったろう。さらに主人公には「兵役に就かず、病院で働く」という選択肢まで与えられた。至れり尽くせりである。しかし彼はヒトラーに忠誠を誓うという一文の書かれた書類にサインすることを拒む。頑固にも程がある。「こんな紙切れ一枚、形だけのものじゃないか」と弁護士は彼を説得しようとするが失敗に終わる。

はっきり言ってアホである。人間には本音と建前というものがある。それを使い分けるのが大人の態度だろう。「嘘も方便」という諺もある。バカ正直を貫くよりも、周りの人・家族を守ることこそ、優先すべきだろう。僕は決してフランツに共感出来ない。こんなの美談じゃない。

シェイクスピア(作)「リア王」の主人公は年老いたため、領地を分配しようと、三人の娘に自分をどれくらい愛しているかを尋ねる。長女と次女は歯の浮くような綺麗ごとを並び立てるが、末娘のコーデリアは何も言うことはないと答えたため、リア王は激怒して彼女に何も与えず、その場で親子の縁を切ってしまう。

精神科医・岡田尊司は著書「あなたの中の異常心理」(幻冬舎新書)の中で、「リア王」について次のように書いている。

 ある意味、コーデリアもリア王も、人間の二面性を理解し、上手に扱うことに失敗しているという点では似ていると言える。(中略)
 どちらも気性が真っ直ぐで、誠実だが、その一方で強情で、我の強い面をもち、一面的な見方にとらわれてしまいやすいのである。物事には、相反する側面があるということを受け入れることができず、どちらか一方の見方に立つと、自分の立ち位置でしか物事が考えられない。(中略)
 コーデリアにしても、自分では自分の気持に誠実に振る舞っているつもりになっているが、それによって、リア王の気持ちに何が起こり、結果的に双方にとって不幸を招くということが見えていない。つまり、この一瞬の意地を貫くことが、双方にとっての長期的な利益や幸福を守ることよりも優先されてしまうのである。
 真っ正直でウソがつけず、誠実な性格というものは、その意味で面倒を引き起こしやすい一面をもつと言えるだろう。それは、心に二面性を抱えられないという内面構造の単純さに由来する問題であり、語弊を恐れずに言えば、ある種の未熟さを示していると考えられる。

フランツについても全く同じことが言える。

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クラシック音楽をどう聴くか?〜初心者のための鑑賞の手引き

クラシック音楽に興味があるけれど、どう聴いたら良いのサッパリかわからない、途方に暮れるという若い方、特に中学生・高校生に向けてこれを書いてみようと思う。勿論、大人の初心者の方も大歓迎だ。出来る限りわかり易く、奥深い森への道案内をしたい。

記事全体の構成をご紹介しよう。①「まず、何から手を付けたら良いの?」……取っ掛かりに最適の曲をご紹介する。②映画を大いに活用しよう!……ぼんやり観ているだけで良いので即効性があり、とっても効果的だ。③「演奏時間が30分以上もある交響曲とかソナタを、どう受け止めれば理解出来るの?」……そのコツを伝授する。意外と簡単。

では早速始めよう。

①「まず、何から手を付けたら良いの?」

僕の経験からお話しよう。最初にクラシック音楽って楽しい!と開眼したのは小学校4,5年生の頃。切っ掛けはヴィヴァルディの「四季」だった。

初心者にとって長大なクラシック音楽は雲を掴むようで覚束なく、聴いていると眠くなってしまう。抽象的で、具体的な絵とか形(目に見えるもの-vision)や物語がないからである。しかしヴィヴァルディの「四季」は標題音楽であり、物語がある。それを読みながら聴けば、情景が目に浮かんでくる。CDの解説書を読めば良いのだが、最近はSpotify,Amazon Musicなど定額制音楽配信(サブスクリプション)サービスを利用している方も多いだろう。そういう場合に便利なのがWikipediaである。「四季」の解説はこちら。【ヴィヴァルディ】【四季】でgoogle検索すれば、直ぐ見つけられる(キーワードに【wiki】 を加えても、加えなくても良い)。おすすめの演奏は◎ビオンディ/エウローパ・ガランテ、◯スタンデイジ/ピノック/ イングリッシュ・コンサート、◯カルミニョーラ/ヴェニス・バロック・オーケストラといったところ。

Siki

ヴィヴァルディ「四季」に似た趣向の作品としてベートーヴェン:交響曲第6番「田園」が挙げられる(【ベートーヴェン】【田園】でググる=google検索)。お勧めの演奏は◎ベーム/ウィーン・フィルか、◯ネルソンス/ウィーン・フィル、◯パーヴォ・ヤルヴィ/ドイツ・カンマーフィル。同じベートーヴェン:交響曲第5番「運命」は苦難(第1楽章 ハ短調)を乗り越えて歓喜(第4楽章 ハ長調)へ!という明快なコンセプトがあるのでこれも判り易い。◎クライバー/ウィーン・フィルか、◯アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 、◯クルレンツィス/ムジカエテルナあたりで。この「運命」のコンセプトに追随したのがチャイコフスキー/交響曲第5番、マーラー/交響曲第5番、ショスタコーヴィッチ/交響曲第5番。ただしショスタコの場合は屈折しており、一筋縄ではいかない。

本題に戻ろう。他に標題音楽としてホルスト:組曲「惑星」(カラヤン/ベルリン・フィル)、リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」(デュトワ/モントリオール交響楽団)、ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲「展覧会の絵」(ショルティ/シカゴ交響楽団)、チャイコフスキー:組曲「くるみ割り人形」(カラヤン/ベルリン・フィル)、サン=サーンス:組曲「動物の謝肉祭」(アルゲリッチ、マイスキー、クレーメルほか)、プロコフィエフ:交響的物語「ピーターと狼」、グリーグ:劇付随音楽「ペール・ギュント」組曲(カラヤン/ベルリン・フィル)、メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(プレヴィン/ウィーン・フィル)、ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲、交響詩「海」(ブーレーズ/クリーヴランド管)、レスピーギ:交響詩「ローマの松/祭り/噴水」(ローマ三部作) などが挙げられる。ローマ三部作は◎ムーティ/フィラデルフィア管か、◯バッティストーニ指揮/東京フィルハーモニー交響楽団で。

ロックが好きな人にはストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」がピッタリ。ピンク・フロイドの「原子心母」とか、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの「タルカス」、イエス(バンド)などプログレッシブ・ロックに近い。◎クルレンツィス/ムジカエテルナか、◎ロト/レ・シエクル、◯ブーレーズ/クリーヴランド管で。

標題音楽じゃないけれど、ジャズ好きにはガーシュウィン:「ラプソディ・イン・ブルー」や「パリのアメリカ人」がお勧め。指揮&ピアノはバーンスタインかプレヴィン、レヴァインで。

またベルリオーズ:幻想交響曲は失恋のショックで悶々とし、アヘンを吸いながら作曲された狂気の音楽(サイケデリック・ミュージック)だ。すこぶる面白い!◎アバド/シカゴ交響楽団や◯ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊、◯ロト/レ・シエクルの演奏でどうぞ。

小品ではデュカス:交響詩「魔法使いの弟子」、スメタナ:交響詩「モルダウ」、ムソルグスキー(リムスキー=コルサコフ編):交響詩「禿山の一夜」、ボロディン:交響詩「中央アジアの草原にて」、シベリウス:交響詩「フィンランディア」「トゥオネラの白鳥」、ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」「春の声」「ウィーンの森の物語」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」、イヴァノヴィッチ:ワルツ「ドナウ川のさざなみ」、ワルトトイフェル:スケーターズ・ワルツ、メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」、マスネ:タイスの瞑想曲、ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲、スッペ:オペレッタ「軽騎兵」序曲、ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」序曲、ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、歌劇「ローエングリン」第三幕への前奏曲、マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲あたり。シュトラウス一家のワルツ・ポルカならウィーン・フィルの演奏で。指揮者はカルロス・クライバー、ボスコフスキー、ティーレマン、ネルソンスあたり。その他の小品は◯カラヤン/ベルリン・フィルか、◯ロビン・ステープルトン/ロイヤル・フィルで。Spotifyで【ステープルトン】と入力し、検索すれば僕が作成したプレイリストが出てくる。

女性の場合はオーケストラ曲よりもピアノ曲のほうが馴染みやすいかも知れない。モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番「月光」、第17番「テンペスト」、第23番「熱情」、エリーゼのために、ドビュッシー:月の光(ベルガマスク組曲)、夢、アラベスク第1番、亜麻色の髪の乙女、ショパン:革命、雨だれ、エオリアン・ハープ、英雄ポロネーズ、子犬のワルツ、シューマン:トロイメライ(子供の情景)、ノヴェレッテ第1番、リスト:愛の夢第3番、ため息(3つの演奏会用練習曲)、ラ・カンパネッラ(パガニーニ大練習曲)、グリーグ:ノクターン(抒情小曲集)といったところか。ピアニストとしてはピリス(モーツァルト)、内田光子(モーツァルト)、河村尚子(ベートーヴェン、ショパン)、ポリーニ(ベートーヴェン、ショパン)、アルゲリッチ(ショパン、シューマン)、フランソワ(ドビュッシー)、メジューエワ(ベートーヴェン、シューマン、ショパン)、ボレット(リスト)、アムラン(リスト)、ギレリス(ベートーヴェン、グリーグ)なら間違いなし。

②映画を大いに活用しよう!

映画は得体の知れないクラシック音楽を、明確なvision(視覚)に結びつける力がある。一番のお勧めはディズニーの「ファンタジア」(1940)。「ファンタジア 2000」もある。①でご紹介した小品がいくつも登場する。次に恩田陸原作の日本映画「蜜蜂と遠雷」。浜松国際ピアノコンクールがモデルになっている。またウディ・アレンの「マンハッタン」を観ればガーシュウィンの曲が大好きになるだろう。そしてMGMミュージカルの最高傑作「巴里のアメリカ人」。劇団四季が上演している舞台版を観てもいいい。あとクロード・ルルーシュ監督「愛と哀しみのボレロ」、アカデミー作品賞・監督賞に輝いた「アマデウス」。〈春の祭典〉初演時に於ける阿鼻叫喚の大混乱を活写した「シャネル&ストラヴィンスキー」や、ブラームスとクララの関係を描く「クララ・シューマン 愛の協奏曲」も面白い。また古い白黒映画だが今井正監督「ここに泉あり」と、大指揮者ストコフスキーも出演するディアナ・ダービン主演「オーケストラの少女」は名作中の名作。ジェニファー・ジョーンズ主演の美しい幻想映画「ジェニーの肖像」は全編にドビュッシーの名曲が散りばめられている。

あと大林宣彦監督「さびしんぼう」ではショパンの〈別れの曲〉、「ふたり」ではシューマンの〈ノヴェレッテ第1番〉とベートーヴェンの第九、「転校生」では〈トロイメライ〉〈タイスの瞑想曲〉〈アンダンテ・カンタービレ〉、細田守監督のアニメ版「時をかける少女」ではJ.S.バッハの〈ゴルトベルク変奏曲〉、ルキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」ではマーラーの交響曲第5番が好きになるだろう。おっと、ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」も忘れちゃいけない。〈ジークフリート牧歌〉〈子供の情景〉が印象的。タイムトラベルもの「ある日どこかで」はラフマニノフの〈パガニーニの主題による狂詩曲〉、中国映画「太陽の少年」は〈カヴァレリア・ルスティカーナ〉間奏曲がフィーチャーされている。またスタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」を観る前には是非、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読んでおきたい。貴方がさらにディープな世界を体験したければ、ケン・ラッセル監督「マーラー」、「エルガー 〜ある作曲家の肖像〜 Elgar : Portrait of a Composer」、そしてディーリアスの晩年を描く「夏の歌 Song of Summer」をご覧あれ。

③「演奏時間が30分以上もある交響曲とかソナタを、どう受け止めれば理解出来るの?」

長大な交響曲や、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルートなど独奏楽器のためのソナタは、基本的に同じ構造を持っている。その共通項さえ把握しておけば、比較的聴き易くなるだろう。

古典派のハイドンからロマン派のシューマン、ブラームスあたりまで、交響曲や協奏曲、ソナタの大半は3楽章か4楽章で構成される(5楽章の「田園」など例外はあるが、ごく僅か)。全3楽章の場合は第2楽章、全4楽章の場合は第2,3楽章のことを【中間楽章】と呼ぶ。そして速度(tempo)は【開始楽章ー中間楽章ー終楽章】が、【急(fast)ー緩(slow)ー急(fast)】となっている。全4楽章の場合、【中間楽章】は【緩徐(slow)楽章】と【舞踏(dance)楽章】で構成される。ハイドンとモーツァルトの時代、【舞踏楽章】は基本にメヌエットだったが、ベートーヴェンがそれをスケルツォに変えた。イタリア語で「冗談」を意味し、語源的にはふざけた、諧謔(かいぎゃく)的音楽を指す。道化的と言い換えても良い。チャイコフスキーの場合、スケルツォの代わりにワルツを置いた。またブルックナーのスケルツォはホルンが活躍する「狩り」の音楽だ。【緩徐楽章】と【舞踏楽章】の順番はまちまち。マーラー:交響曲第6番みたいに、指揮者の解釈によって入れ替わる場合もある。

【開始(第1)楽章】は大半がソナタ形式である。【提示部ー展開部ー再現部ー結尾部(Coda)】で構成される。時に冒頭に【序奏】が置かれることがある。開始楽章は前述したようにテンポが速いが、【序奏】は対照的にゆったりしている。代表的なものにモーツァルト:交響曲第39番、ベートーヴェン:交響曲第7番、ブラームス:交響曲第1番がある。

【提示部】では主題(テーマ)が提示される。ハイドン、モーツァルトからブラームスあたりまで基本的に第二主題まで。ブルックナーの交響曲は第三主題がある。肥大化したマーラーの交響曲はもっと複雑で、第3番なんか第四主題まである。第一主題が長調の場合、第二主題は属調、第一主題が短調なら第二主題は平行調となる。例えば第一主題がハ長調(ドレミファソラシ)なら第二主題はト長調(ソラシドレミファ#)、半音階で七つ上(完全五度)。第一主題がイ短調(ラシドレミファソ)なら第二主題はハ長調(ドレミファソラシ)となる。つまり転調することで第二主題の開始が分かる。交響曲の場合、第一主題(動)は弦楽器、第二主題(静)は木管楽器が主体となる。基本的に【提示部】の終わりには繰り返し記号がある(最初に戻る)。聴衆に主題を覚えてもらうためだ。しかし指揮者によっては繰り返しを無視してサッサと次に移る人もいる。古楽器系オーケストラを振る指揮者は大抵、律儀に繰り返しを実行する(アーノンクール、ブリュッヘン、ノリントン、コープマン、ホグウッド、延原武春、鈴木秀美、ガーディナー、インマゼール、ラトル、パーヴォ・ヤルヴィ、ミンコフスキ、ロト、クルレンツィスら)。

【展開部】提示部で示された主題を様々に変奏、料理する。第一主題だけ扱われることが多い。

【再現部】提示部の主題が元の形で再現される。第二主題→第一主題の順番になることがしばしば。

【終楽章】はソナタ形式か、ロンド形式。特に協奏曲はロンド形式が圧倒的に多い。ロンド形式とは異なる主題をはさみながら、同じ旋律(ロンド主題)を何度も繰り返す。図式化すると、

A-B-A-C-A-D-...-A

つまり、常にAに戻ってくる。フランス語でrond(ロン)/ronde(ロンド)は「丸い」という意味で、英語ではround(ラウンド)となる。日本語で輪舞曲というのはそのため。

【舞踏楽章(メヌエット/スケルツォ/ワルツ)】は、ほぼ三部形式(A-B-A)だと考えて間違いない。Aを主部、Bを中間部(トリオ)という。トリオが2回登場するA-B-A-B-Aという特殊形もある(ベートーヴェン:交響曲第7番)。また複合三部形式というのもあり、主部や中間部がさらに細かくa-b-a/c-d-cで構成される。

【緩徐楽章】は一番バラエティに富む。ソナタ形式だったり、展開部を欠くソナタ形式(A-B-A-B)だったり(ベートーヴェン:交響曲第4番)、 ロンド形式だったり(ベートーヴェン「英雄」)、主題と変奏曲だったり(ベートーヴェン「運命」)する。

今まで述べてきた形式が基本形だが、時にフーガが登場することもある。代表例がモーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」やベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番、サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」、ブルックナー:交響曲第5番の終楽章。ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番は終楽章が後に独立し「大フーガ」となり、続く弦楽四重奏曲第14番は第1楽章がフーガ。

ブラームス:交響曲第4番は特殊で、第4楽章がシャコンヌ(またはパッサカリアとも言う)。たった8小節のシャコンヌ主題に、30もの変奏及びコーダが続く。これはJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の終曲シャコンヌと併せて聴きたい。バッハのシャコンヌはストコフスキーや斎藤秀雄の編曲による管弦楽版もある。

いかがでしたか?例外もあるが、概ね基本構造はどれも同じ。何も難しいことはない。だから「ここまでが提示部(第一主題/第二主題)、この先が展開部…」といった具合に構造を意識して聴こう。これから聴く曲がどういう形式になっているか、予め解説書かWikipediaに目を通せば良い。Wikiには大抵の曲が載っているから。便利な時代になったものである。

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アメコミ・ヒーローの病理

アカデミー作品賞・監督賞などに10部門ノミネートされた 「アイリッシュマン」のマーティン・スコセッシ監督が、マーベル映画は「テーマパークのようなもので、映画とは呼べない」と発言したことで物議を醸している。

僕はアメリカン・コミックスを原作とする映画をこれまで沢山観てきた。スパイダーマンはサム・ライミ監督三部作、マーク・ウェブ監督による「アメージング・スパイダーマン」二部作、そしてトム・ホランド主演でリブートされた「スパイダーマン:ホームカミング」などに付き合った(計七作品)。「アイアンマン」は全三部作観たし、評判が良かった「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」上映館にも足を運んだ(途中であくびばかり出て、激しい睡魔に襲われた)。「もういいや。好みじゃない」とウンザリした僕にとどめを刺したのが「アベンジャーズ」だった。そして次のようなレビューを書いた。

マーベル映画は〈正義 Hero〉が〈悪党 Villain〉を退治する単純なプロレス映画に過ぎない、というのが最終的に僕の導き出した結論である。

日本のウルトラマンも〈怪獣プロレス〉と揶揄されることがあるが、内容はもっと屈折していて深い。初代ウルトラマンで佐々木守がシナリオを書いた「故郷は地球」のジャミラは元宇宙飛行士で、宇宙開発競争の犠牲者として描かれる。「恐怖の宇宙線」のガヴァドンは子供たちの書いた絵から生まれ、それを退治しようとするウルトラマンは寧ろ彼らの想像力を奪う敵となる。つまり善悪が逆転するのだ。また脚本家チームの金城哲夫や上原正三は沖縄出身であり、侵略を受けた被征服民(琉球民族)の怒りを作品に投影している(金城は6歳のときに沖縄戦を体験している)。

ここでオーストリア・ウィーン生まれの、児童を専門とする精神分析家メラニー・クライン(1882-1960)の打ち立てた「対象関係論」をご紹介しよう。

一歳半から三歳くらいまでの期間によちよち歩きを始めた子供は母親からの分離を達成する。この分離 - 個体化の過程で、同時に「対象恒常性」の発達が成し遂げられる。空腹を満たしてくれるのは「良い母親」であり、満たしてくれないのは「悪い母親」。一人の同じ母親としては、まだつながらずに「分裂」している。こうした関係をクラインは「部分対象関係」と呼んだ。そうした関係が、一人の同じ母親とのトータルな関係として受け止められるようになったのが「全体対象関係」であり、その移行が生じるのが、この時期である。

ところが重症のパーソナリティ障害では、「全体対象関係」の発達が不十分で、容易に「部分対象関係」に後退しやすい。自分の思い通りになれば「良い」人で、「味方」だが、思い通りにならなければ「悪い」人や「敵」に容易に変わってしまう。「すべて良い」「すべて悪い」、「全か無か(all or none)の二分法で両極端な思考や感情の動きを示す。

クラインはこうした状態を、「妄想・分裂ポジション」と呼び、一方で「全体対象関係」が発達し、相手とのトータルなつながりが生まれて自らの非を認めることが出来る状態を「抑うつポジション」と呼んだ。

Personality
引用文献:岡田尊司「パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか 」( PHP研究所)

結局、正義(ヒーロー)か悪(ヴィラン)かの二分法で物事を判断するアメコミ・ファンは、未熟な「部分対象関係」で思考しているのではないだろうか?

但し例外もあって、DCコミックスの「バットマン」シリーズに登場するジョーカーは複雑なキャラクターだ。善・悪に分類出来ない二重性があり、トリックスターと言えるだろう。

だから僕はクリストファー・ノーランが監督した「ダークナイト」を大傑作だと思うし、ホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞に輝いた「ジョーカー」は余り好きではないけれど、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、キネマ旬報ベストテンで外国語映画第1位に選出されるなど、高い評価を受けたことは納得出来る。

実はスコセッシの発言も、非難しているのはマーベルだけでDCコミックスは含まれていないんだよね(「ジョーカー」は「タクシー・ドライバー」「キング・オブ・コメディ」などスコセッシ映画へのオマージュに溢れている)。僕は彼の意見に全面的に賛成する。

世界を単純に正義と悪で二分する思考法(妄想・分裂ポジション)はマーベル映画だけではなく、アメリカ人全般(特に共和党支持者)に当てはまる特徴である。その典型例が9・11後のイラク戦争であり、ジョージ・W・ブッシュ大統領 (当時)はイラクが大量破壊兵器を所有していると言いがかりをつけ、フセイン大統領を「悪の枢軸」と決めつけて侵略戦争を開始した。しかし結局大量破壊兵器なんか存在しなかったことはご承知の通りである(詳しい事情を知りたい方は映画「バイス」をご覧あれ)。そもそも9・11とイラクは何の関係もないわけで、結局は石油の利権が欲しかっただけ。そんなブッシュを熱狂的に支持したアメリカ国民は相当イカれている(nuts)としか言いようがないではないか(2001年同時多発テロ直後の大統領支持率は史上最高の90%に達した)。

アメコミのような文化はヨーロッパになく、また〈マッチョ信仰〉もアメリカ人固有の宗教であり、アメコミと大いに関係がある。スーパーマンだってキャプテン・アメリカだって、マイティ・ソーも、みなマッチョだ。シルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガー、スティーヴン・セガールら強靭な肉体を持つ俳優がスターになれるのもアメリカならでは。遡れば西部劇のジョン・ウェインだってそう。つまりアメリカ人の〈マッチョ信仰〉は建国史(西部開拓史)と密接に結びついている。このあたりのことは下記事で詳しく論じた。

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映画をワン・カットで撮る夢〜「1917 命をかけた伝令」

評価:A+

1917

兎に角、全編(疑似)ワン・カットという手法の没入感が凄い!公式サイトはこちら

実際には撮影期間が65日で、1ショットは長いもので9分だったそう(撮影監督ロジャー・ディーキンス談)。

映画をワン・カットで撮るという実験に最初に取り組んだのはアルフレッド・ヒッチコック監督「ロープ」(1948)である。当時の撮影用フィルムは1巻10分なので、10分以内の長回しのテイクが10カット用いられ、最終的に約80分の作品となっている。カットが入るところでは登場人物の背中や家具などにクローズアップし、全体がつながって見えるように演出している。

「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」(山田宏一/蓮實重彦 訳)の中でヒッチは次のように述べている。

「わたしは、一本の映画をまるまるワン・カットで撮ってしまうという、じつにばかげたことを思いついた。いまふりかえって考えてみると、ますます、無意味な狂ったアイディアだったという気がしてくるね」

しかし結局、トリュフォーとの対話を経て次のような結論に至る。

「カット割りこそ映画の基本だ」

その無謀な試みに再挑戦したサム・メンデスは、今回見事に成功している。「ロープ」では映画で流れる時間と上映時間がピッタリ一致するようになっているが、「1917」は日中に始まり、夜間撮影を経て翌日の夜明けを迎える。ワン・カットなのに何故!?という疑問を持たれるのは当然だが、どういう仕掛けなのかは実際の映画を御覧ください。

カメラは2人の伝令兵にピッタリと寄り添い、観客は彼らと一緒に戦場を体験する。ヴァーチャル・リアリティに近い感覚。

川に飛び込む場面以外、基本的にカメラが登場人物の目線より上に据えられることはない。だから我々は、延々と伸びる塹壕の閉塞感とか、高台を超えるとその先に敵兵がいるのではないか?という恐怖を彼らと共に味わうことになる。

意外にも格調高く、宗教的な映画であった。まず伝令兵が塹壕を出て敵地に向かおうとするときに上官があたかも司祭が聖水を振りかけるように彼らの背中に酒を撒く場面があり、目的地に向かう道中で生まれたばかりの生命に出会い(赤ちゃんに寄り添う女性は聖母マリアを彷彿とさせる)、やがて夜明けを告げる教会の鐘の音が鳴り響き、漸くたどり着いた森では静かに"(I Am a Poor) Wayfaring Stranger"(私は貧しい彷徨い人)という歌が聞えてくる。これは有名なアメリカの民謡・ゴスペル(福音音楽)で、19世紀ー特に南北戦争時代に流行った。

それをどうしてイギリス兵が聴いているのか?というのが問題だが、第一次世界大戦では約200万人のアメリカ兵、通称「サミー(Sammy)」が大西洋を渡ってヨーロッパに遠征し、連合国軍の一員として戦った。そのうち5万人以上が戦死、20万人以上が負傷したという。1917年には"I'm Writing to You, Sammy"という歌がニューヨークのレーベル、Broadway Music Co. からリリースされている。冒頭の歌詞はこうだ。

I'm writing to you Sammy
And you're somewhere in France

サミー、私は貴方に手紙を書いています。
貴方はフランスの何処かにいるのね。

Im_writing_to_you_sammy

映画にはインド人や黒人の兵士も登場する。

そして最後、伝令兵が座り込むのは旧約聖書の創世記に記された“生命の樹(Tree of Life)”だ。ここはどうしてもアンドレイ・タルコフスキーの遺作「サクリファイス」を思い出した。「サクリファイス」は核戦争をテーマにしており、明らかに「1917」に繋がっている。

Opfer

「私の周りを暗い雲が覆い、私が行く道は荒れて険しい。私はヨルダン川を越えて行く。しかし、苦難に満ちたこの世界を旅した先には黄金色に輝く野原が広がっている。そこは神に救い出された者たちが休むところ」という"Wayfaring Stranger"の歌詞と映画の物語がピッタリと一致している(シンクロニシティ)。

そして、それまでずっと暗雲立ち込めていた雲が“生命の樹”を中心として次第に晴れ渡っていく演出は荘厳で、お見事としか言いようがない。

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呪われた映画「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」

評価:A

Donqui

映画公式サイトはこちら

構想30年、艱難辛苦を乗り越えて遂に完成した。企画が立ち上がったのは1988年だった。2000年9月に「ドン・キホーテを殺した男」はスペイン・マドリードでクランクイン。ドン・キホーテ役は「髪結いの亭主」のフランス俳優ジャン・ロシュフォール(7ヶ月かけて英語の特訓を受けた)。お供のサンチョ・パンサはジョニー・デップが配役された。

しかし撮影二日目に大雨で鉄砲水が発生、撮影機材がことごとく流されてしまった。さらに乾燥した風景が一転、大量の水を含んで土の色がすっかり変わってしまい、一日目に撮影済みのフィルムが使い物にならなくなった。それから数日後、今度はロシュフォールが腰椎椎間板ヘルニアを発症、乗馬出来なくなりパリに戻ってしまう。結局ドクター・ストップがかかり彼は二度と戻ってこなかった。泣きっ面に蜂。こうして撮影が中止となり、脚本の権利は保険金を支払った保険会社に移った。この様子はフィルムに収められ、ドキュメンタリー映画「ロスト・イン・ラ・マンチャ」として公開された。実に痛ましい記録である。

この後、テリー・ギリアム監督はジェラール・ドパルデューやロバート・デュバル、ユアン・マクレガー主演で企画を練るが全て頓挫。2015年にはクランクイン直前にジョン・ハートの膵臓がんが発覚し、制作中止となる。いやはや、呪われているとしか言いようがないではないか。

嘗て「市民ケーン」のオーソン・ウェルズ監督も映画「ドン・キホーテ」を企画した。1960年代を通して撮影は断続的に続けられ、ウェルズが死ぬ直前まで自宅のガレージで編集作業が行われたが、遂に日の目を見ることはなかった。

漸く完成に漕ぎ着けたギリアム版の原題は「ドン・キホーテを殺した男(The Man Who Killed Don Quixote) 」のままである。タイトル・ロールは「未来世紀ブラジル」のジョナサン・プライス、サンチョ役がアダム・ドライバー。実はジョナサンは2020年「2人のローマ教皇」で米アカデミー主演男優賞に初ノミネートされ、同時にアダムは「マリッジ・ストーリー」で同賞にノミネートされた(どちらもNetflix作品)。

物語は入り組んでいる。CM監督の主人公がスペインで、ドン・キホーテが風車を巨人と見間違えて突進する場面を撮っている。彼は学生時代に卒業制作として、やはり「ドン・キホーテ」の映画を創ったことを思い出し、ロケ地の村を訪ねる。そこでドン・キホーテを演じた靴職人のハビエルに再会するが、彼は狂人と化していた。このあたりからどこまでが現実で、どこからが主人公の妄想なのか、観客は分からなくなってくる。迷宮(labyrinth)だ。

考えてみれば「未来世紀ブラジル」(1985)も同様の構造を持っていた。ギリアムの頭の中は常にドン・キホーテのことでいっぱいだったのだ。

しかし本作の紆余曲折を見ていると、映画づくりとは正に風車に突進するドン・キホーテのようなもの、見果てぬ夢だな、とつくづく感じ入る次第である。

兎に角、念願が叶って本当に良かった。おめでとう!!

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幻の映画「Mishima」〜三島由紀夫とは何者だったのか?

1985年の映画「Mishima」を漸く北米版Blu-rayで観ることが出来た。製作総指揮がフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカス、監督がポール・シュレイダー。「タクシー・ドライバー」の脚本家である。配給はワーナー・ブラザース。カンヌ国際映画祭で本作は芸術貢献賞を受賞したが、その対象となったのは作曲家フィリップ・グラス、撮影監督ジョン・ベイリー、そして美術を担当した石岡瑛子の3人だった。当初日本でも公開される予定だったが、同性愛描写を不服として瑤子未亡人が反対し、結局中止となった。その後も日本でのテレビ放送、ビデオ/DVD化も一切されず、30年以上幻の作品になっていた。遂に念願が叶った!

Mishima

三島由紀夫(1925-70)を演じるのは緒形拳。他に沢田研二、佐藤浩市、永島敏行、三上博史、笠智衆、平田満、大谷直子、加藤治子、萬田久子ら豪華出演陣である。

三島が自決する日を朝の起床から追う「1970年11月25日」と、フラッシュバックによる回想のシークエンスを軸に、三島の小説「金閣寺」「鏡子の家」「奔馬(「豊饒の海」第二巻)」のダイジェストが挿入されるという構成。この石岡瑛子が手掛けた舞台装置が抽象的で様式化されており、才気煥発している。またフィリップ・グラスが手掛けたミニマル・ミュージックが滅法美しい。なおシュレイダーは当初、「鏡子の家」の代わりに男色小説「禁色」を希望していたが、遺族側の承諾が得られずに断念した。

これを観てつくづく感じたのは、三島由紀夫とは矛盾に満ちた男であったということだ。そういう意味において宮崎駿に似たところがある。

三島は19歳の時に徴兵され、軍の入隊検査を受けるが軍医から「肺浸潤」と診断され即日帰郷となった。彼が入るはずだった部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、戦闘でほぼ全滅した。これは軍医の誤診だったとも、仮病を使って兵役逃れをしたとも言われている。何れにせよここで三島は死ではなく、生き延びることを選んだわけだ。しかし後に彼は自衛隊に体験入隊したりした挙句の果て、自ら組織した民兵組織「楯の会」隊員4名と自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、割腹自殺を遂げる。享年45歳だった。

三島はリルケ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領だったチェコ・プラハに生まれた)の影響を受け、次のようなことをインタビューで語っている。

リルケが書いておりますが、現代人というのは、もうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、という様な事をどっかで書いていたように記憶しますが、いま現代の死は病気にしろ、あるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものの無い時代に我々は生きております。

さらにフランスの詩人で小説家のラディゲと、そのパートナーだったコクトオ(つまり同性愛)に魅せられて「ラディゲの死」という短編を書いている。そしてランボオやバルザック、スタンダールらフランス文学を愛した。また彼の自宅はヴィクトリア調コロニアル様式の洋館で、庭にはアポロン像が立っていた。

その一方で天皇を崇拝し、古今和歌集や能などに傾倒した。三島は「日本文学小史」の中で次のように述べている。

 われわれの文学史は、古今和歌集にいたつて、日本語といふものの完熟を成就した。文化の時計はそのやうにして、 あきらかな亭午(ていご:真昼)を斥す(=指す)のだ。ここにあるのは、すべて白昼、未熟も頽廃(たいはい)も知らぬ完全な均衡の勝利である。 日本語といふ悍馬(かんば:あばれうま)は制せられて、だく足も並足も思ひのままの、自在で優美な馬になつた。調教されつくしたものの美しさが、なほ力としての美しさを内包してゐるとき、それをわれわれは本当の意味の古典美と呼ぶことができる。 制御された力は芸術においては実に稀にしか見られない。

戦争で死に損ない、そのことを恥じていた三島は〈美しい死〉〈英雄的な死〉に魅せられていた。彼は若い頃から(老化で体が醜くなる直前の)45歳で死ぬと周囲の人に公言しており、割腹自殺は長年に渡る綿密な計画に基づいていた。「豊饒の海」4部作を書き上げた日に自決しているのがその証である。また31歳(1956年)からボディービルディングに勤しんだのも〈完璧な肉体〉を希求していたことを示している。1960年には映画「からっ風野郎」に主演した。

映画監督の大島渚は「政治オンチ克服の軌跡=三島由紀夫」という文章で次のように述べている。

 ……この最も俳優に不向きな体質、ということは精神状態も含んで言うのだが、そういう体質の人のなかにどうしても俳優になりたいという人間がいるのである。そういう俳優志望者に私なども時々襲われるのであるが、この人たちは全く始末が悪い。とにかく思い込んでしまってきかないのである。三島さんもそういう思い込んでしまう人間のように私には見えた。私は、そんな三島さんを主役の俳優として使わなければならなかった『空っ風野郎』の監督増村保造氏のことを思って同情を禁じえなかった。と同時に、私は三島さんという人はなかなかこの世の中に適応しえない人間なのであろう、しかもそれを適応すべくすごい努力をしていらっしゃるというふうに一種同情の目で見たのであった。
 三島さんは何故、いわゆる体位向上を心掛けられたのだろうか。いわゆる肉体についてのコンプレックスならば、私なども同様である。青春時代は骨ばかりだったし、ちょっと肉がついていい感じと思っていたら一足飛びに百キロになんなんとするデブになってしまった。今は少し節制してやややせたが見て格好のいい形態ではない。しかしもう諦めている。三島さんはなぜ体型を根本的にまで変えられたのか。自分の文学が貧弱な肉体或いは異常な肉体の産物だというふうに見られるが厭だったのか。とすれば、健康な肉体或いは正常な肉体の産物である文学でも、対応関係としては等価ではないか。或いは、自分の肉体が貧弱から健康へ、異常から正常へ変わっても、自分の文学は変わらぬということが言いたかったのか。それだったら、もう一回、貧弱な肉体、異常な肉体へ帰ってみたほうがもっと面白かったではないか。私はヨボヨボの三島さん、デブデブの三島さんを見たかった。しかし、三島さんは、それを断乎拒否して死んでゆかれた。だから、そこにはやはり三島さんの美意識の問題があったのだろう。
 私は文学の評論家ではないから、三島さんの文学の美の問題については深入りしたくないが、私の考えでは三島さんの美意識は私などの美意識と決定的にちがっていた、と言える。というより、私などの創作過程における美意識の置きかたと三島さんのそれは決定的にちがっていたと思う。対談の時に三島さんは私の『無理心中・日本の夏』をわからないと言われた。それは無理もない。三島さん的な美意識からは絶対にわかる筈はないからである。そして三島さんは何故美男美女を使わないのかと言われた。このあたりが三島さんの美意識の限界なのである。つまり三島さんの美意識は大変通俗的なものだったのだ。そしてそれだけならよかったのだが、三島さんは一方で極めて頭のよい人だったから、おのれの美意識が通俗的なものだということに或る程度自覚的だったのである。そこから三島さんの偽物礼讃、つくられたもの礼讃が生まれたのだった。そして自分自身をもつくり上げて行ったあげく、死に到達してしまったのである。

大島渚は三島由紀夫との対談で「美しい星」や「鏡子の家」を映画化したいと発言している。大島は京都大学法学部で学んでいた当時、京都府学生自治会連合の委員長として学生運動に携わった。これは日本共産党の強い影響下にあった全学連の下部組織であり、つまり彼は筋金入りの左翼だった。また1960年に日米安保闘争をテーマにした映画「日本の夜と霧」を発表。同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、翌年退社した。ゴリゴリの左翼・大島が右翼の三島に深い理解(同情・憐れみ)を示しているのは非常に興味深い。本来なら水と油の関係である筈なのに。

大島が阿部定事件を題材に1976年に撮った「愛のコリーダ」を観ながら、映画の製作動機は1970年の三島自決事件の衝撃にあったのではないかという気がして仕方がなかった。藤竜也演じる吉蔵は半ば自殺したようなものであり、《エクスタシーの絶頂で、若い肉体のまま死にたい》という願望が垣間見られるからである。死の直後に第三者の手で肉体の一部が切断されるという点でも両者は共通している(三島は切腹後、介錯人の手で首を切り落とされた)。

三島由紀夫は完全主義者だった。そして究極の美を追い求めた。しかしそれはあくまでも仮面(ペルソナ)であって、その裏には繊細で傷付きやすい脆い魂と肉体(=自己 self)が潜んでいた。

Kamen

2020年3月20日にドキュメンタリー映画三島由紀夫 vs 東大全共闘50年目の真実」が公開される。ナレーターはあの東出昌大!公式サイトはこちら

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