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2020年1月18日 (土)

格差社会は悪なのか?

カンヌ国際映画祭で連続してパルム・ドール(最高賞)を受賞した「万引き家族」(日本)と「パラサイト 半地下の家族」(韓国)、そして「バーニング 劇場版」(韓国)、「アス Us」(アメリカ)、「ジョーカー」(アメリカ)が同時多発的に格差社会を描いているということで話題になっている。

左翼ジャーナリズムや、自らを「市民」と名乗り、デモ行進を実行するプロ市民/活動家たち(現在では「リベラル」という便利な言葉/隠れ蓑がある)はトランプ大統領(共和党)や安倍総理が大嫌いなので、彼らのせいで「格差が広がっている」と煽る(民主党・オバマ大統領政権の頃は好意的だった)。

しかし格差って、そんなに悪いことなのだろうか?

例えば朝日新聞社の言論サイト「論座」に掲載された、〈努力についての不都合な真実〉をお読み頂きたい。自分の給与が勤続12年でたった14万円だと嘆き、〈日本終わってますよね?〉とツイートした人に対して、事業家の堀江貴文氏が〈日本がおわってんじゃなくて「お前」がおわってんだよ 〉とリプライしたことについて次のように論じている(以下引用)。

 経済的成功者に、貧困問題を語らせると、たいていこういう結末になる。彼らが異口同音に言うのは「努力せよ。さすれば、貧困は解決せん」というシンプルなご託宣だ。(中略)
 だが、こういうロジックは、根本的に間違っていると思う。まず、努力すれば、たしかに、当該の人の給料が上がるかもしれない。競争力が増し、他人に勝って、よりよい地位を得て給料も増すからだ。しかし、その人が競争に勝つということは、逆に言えば、あらたに「競争に負ける」人も生み出すことでもある。

まことにもって奇妙な理屈である。勝者が生まれれば、同時に敗者も生まれる。当たり前のことだ。自由競争の基本であろう。例えば短距離走を考えてみよう。「競争に負ける」人を生み出してはいけないのだったら、この著者はどうすればいいというのだろう?みんなで仲良く並んで同時にゴールする?笑止千万である。この理論に従えば、東京オリンピック開催も止めたほうが良いということになる。プロ野球や高校野球、Jリーグも禁止ね。学校のテストで100点とったら「競争に負ける」人も出る。どうする?全員が同点だと意味ないし、いっそのことテストも入試も廃止か。じゃあ選別の方法は?

どうもこの人が言いたいのは、社会全体で経済発展して、みんなで生活水準を上げ、Win-Win(私も勝って、あなたも勝つ)関係になりましょうということのようだ。じゃあ仮に日本全体が底上げされたと仮定しよう。しかしその場合、必然的に「競争に負ける」国を生み出すだろう。果たして地球全体がWin-Winになる経済なんてあり得るの?

フランス革命前のフランスや、江戸時代の日本も格差社会だった。フランスの平民が貴族になることは出来なかったし、高等教育も受けられなかった。長屋に住む熊さん・八っつぁん(上方落語では喜六・清八)が武士になることも出来なかった。まして大坂の豪商・鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)との経済格差は桁外れである。

経済格差があることは今も変わらない。しかしその頃と、21世紀の現代では厳然たる違いがある。それは〈自由〉と〈平等〉があることである。自分の意見を言うことも〈自由〉だし、職業を選ぶことも〈自由〉。たとえ貧乏な家庭に生まれても本人に才能や才覚があり、一生懸命勉強すれば一流大学に入学し、一流企業に就職することが出来る。奨学金制度だってある。学歴がなくても起業が成功し、大金持ちになるIT企業社長もいる。つまり機会(チャンス)は〈平等〉に与えられている。それを生かすも殺すも本人の努力と実力次第だ。

しかし左翼ジャーナリズム(自称リベラル)は今の日本やアメリカは〈平等〉じゃないと言う。貧富の差があるからだと。つまり彼らが主張する〈平等〉は意味が違う。意図的に履き違えている。経済的に、みな〈平等〉で格差のない社会〜それは共産主義国家の実現を意味する。つまりマルクス主義への回帰を未だに彼らは夢見ているのだ。

20世紀は社会主義国家建設という〈実験〉が世界的に幾つか行われ、ことごとく失敗した。ソビエト連邦や中国の文化大革命は理想的な世界、ユートピアを果たして生み出したか?労働党が政権を握った時代、イギリス国民は幸せになれたか?北朝鮮は地上の楽園か?答えは明白であろう。

マルクス主義が愚かで、致命的に間違えているのは〈人間の欲望〉を無視していることである。「他人より儲けて、いい暮らしがしたい」「社会的に高い地位に就いて、人々から尊敬されたい」という、格差を生み出そうとする欲望〉が社会を活性化し、経済を動かす。〈欲望〉という言葉が嫌だったら〈意欲〉や〈向上心〉でもいい。勉強して良い大学に行かなくても、仕事をサボるばっかりしても同じ給料がもらえるのならば、誰も勉強しないし働かない。そういう社会は衰退し、いずれ滅ぶだろう。格差のない社会は人をダメにする。努力が報われない世界を〈平等〉とは言えない。

現代日本には〈自由〉と〈平等〉がある。それに加え江戸時代と比較すると、社会福祉社会保障制度システム)が進化した。経済格差はあるが最低限の生活が保証されているということである。敗者(loser)でも生きていける。

1756年の飢饉では岩手と宮城の両県で合計約5万人の死者を出している。1784年東北地方を中心に発生した天明の大飢饉では津軽藩だけで10万人以上の餓死者を出した。人口動態統計によると1950年(昭和25年)の餓死者数は9,119人。 これが2017年「食糧の不足」による死亡者数は22人である。この中には一人暮らしの老人も含まれるわけで、生活保護制度のある現在は貧困による死者は事実上いないと言っていいだろう。

読者にいま一度問う。格差社会ですか?

追伸:ポン・ジュノ監督の大傑作「パラサイト 半地下の家族」のレビューは近々掲載予定です。

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