SNSで大評判だったので、カルロ・ロヴェッリ(著)富永星(訳)「時間は存在しない」(NHK出版)を読んだら、すこぶる面白かった。タイム誌の「ベスト10ノンフィクション(2018年)」に選出されている。
現代の物理学は、相対性理論と量子論という2大理論を土台にしている。時空の理論である一般相対性理論は、主にマクロ(巨視的)な世界を扱い、量子論は原子や素粒子(原子をさらに分解した最小単位)など、ミクロな世界を支配する法則についての理論である。ミクロな時空では、一般相対性理論が役立たない。そこでこの2大理論を融合し、両立させるために有力な候補とされるのが、「ループ量子重力理論」と「超ひも(超弦)理論」の2つ。ループ理論は時空(時間と空間)にそれ以上の分割不可能な最小単位(量子)が存在することを記述し、時間の消失という概念上の帰結を示す。
カルロ・ロヴェッリはイタリアの物理学者で、「ループ量子重力理論」の第一人者である。
「時間は存在しない」の英題は"The Order of Time"なので、「時間の順序」という意味になる。数式がほとんど出てこないので、文系の人でも十分理解出来るだろう。以下備忘録も兼ねて、どういった内容かご紹介しよう。
アリストテレスは「時間とはなんぞや」という問いに対し、時間とは変化を計測した数であるという結論に達した。何も変わらなければ、時間は存在しない。なぜなら時間は、わたしたちが事物の変化に対して己を位置づけるための方法なのだから。目を閉じていても時間が存在するのは、わたしたちの思考に変化があるからである。
アインシュタインは空間と時間が時空間の持つ二つの様相であり、エネルギーと質量もまた同じ実体がもつ二つの面にすぎないと考えた。だからエネルギーが質量に変わったり、質量がエネルギーに変わったりする過程が、かならず存在するはずである。そこからE=mc2という有名な公式が導き出された(E:エネルギー、m:質量、c:光速度)。そして質量をエネルギーに変換することで、核兵器や原子力発電の開発に繋がった。
世界は何からできているか?ニュートンは〈空間/時間/粒子〉と考えた。電磁場の基礎理論を確立したファラデーとマクスウェルはさらに〈粒子〉を〈場/粒子〉に分けた。アインシュタインは1905年の特殊相対性理論で〈時空間/場/粒子〉とし、1915年の一般相対性理論で〈場/粒子〉にまとめた。時空間と重力場は、同じものである。
「時空間は曲がる」。これが、一般相対性理論を支えている発想である。地球が太陽の周りを回るのは、太陽の周りの時空間が太陽の質量により屈曲しているからである。地球は傾いた空間を真っ直ぐに進んでいるのであって、その姿は漏斗(ろうと)の内側で回転する小さな玉によく似ている。
上図はNASAの人工衛星が観測した、地球の質量による時空間(=重力場)の歪み。この周囲(蟻地獄・すり鉢状になった内側部分)を、慣性の法則に従い月が直進している。
ある場所に存在する物質の量が多ければ多いほど、その場所における時空間の歪みは大きくなる。
曲がるのは空間だけではなく、時間もまた重力の影響を受けて屈曲する(映画「インターステラー」で描かれた)。アインシュタインは地球上で標高が高い場所(地球の中心部から遠い位置)では時間が速く過ぎ、低い場所では遅く過ぎると予見した。それは後に精度の高い時計を用いて証明される。
例えば超大質量を持つブラックホール近くまで宇宙船で旅をして、そこに数日留まり、地球に戻ったら地上の人たちが自分よりも早く年老い、顔見知りが誰もいなくなっている、なんて浦島太郎みたいなことが実際に起こり得るのである。
また特殊相対性理論によると、光速に近いスピードで移動する乗り物の中にいる人は地球上で静止している人と比較し、ゆっくりと時間が過ぎる(ウラシマ効果という)。この仮説も後に高精度な時計で実証された。
私たちはゼリー状の時空間に浸かっている、と想像してみて欲しい(アインシュタインはクラゲなど無脊椎動物をイメージした)。時空間は押し潰されたり、引き伸ばされたり、折り曲げられたりする。時間は相対的なものであり、絶対的に流れる時間は存在しない。
一般相対性理論はさらに、空間が海の波のように振動することを予見した。そして2015年に初めてブラックホールから放出された重力波が地球上の検出器で直接に観測され、その功績が讃えられ2017年にキップ・ソーン(映画「コンタクト」「インターステラー」でアドバイザーを務めた)ら3人がノーベル物理学賞を受賞した。
時間の最小単位はプランク時間であり、これ以上分割出来ない。その値に満たないところでは、時間の概念は存在しない。ミクロな世界で時間は「量子化」される。「量子」とは基本的な粒のことであって、あらゆる現象に「最小の規模」が存在する。時間は連続的ではなく、粒状である。一様に流れるのではなく、いわばカンガルーのようにぴょんぴょんと、一つの値から別の値に飛ぶものとして捉えるべきなのだ。なお余談だが、音を量子化したもの(最小単位の粒)を「フォノン(音響量子・音子)」という。
この世界は「物」(物質、存在する何か、ずっと続くもの)ではなく、「出来事」(絶えず変化するもの、恒久ではないもの)によって構成されている。出来事、過程の集まりと見れば、世界をよりよく把握し、理解し、記述することが可能になる。「物」と「出来事」の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。世界は硬い石ではなく、束の間の音や海面を進む波でできている。私たちは「出来事」が織りなすネットワークの只中で暮らしている、と考えればうまくいく。
とても分り易かったので、さらに量子論のことを知りたくてロヴェッリ が「時間は存在しない」より前に書いた「すごい物理学講義」(原題は『現実は目に映る姿とは異なる』/英題"Reality Is Not What It Seems")を続けて一気に読破した(栗原俊秀 訳/河出書房新社)。彼は本書で「メルク・セローノ文学賞」「ガリレオ文学賞」を受賞している。僕はオーストラリアの先住民・アボリジニの神話〈ドリームタイム〉について色々勉強しているうちに、〈ドリームタイム〉が量子論に極めて類似することに気が付き、以前から興味を持っていたのだ。
「すごい物理学講義」はデモクリトスの原子論にはじまり、アルキメデス『砂粒を数えるもの』や、地球が球体であることを明確に指摘した現存する最古の文章、プラトンの『パイドン』について言及され、さらにアインシュタインの「三次元球面」がダンテ『神曲』の描く宇宙像に一致しているという議論に発展し、ワクワクした。
量子論を基礎づける三つの考え方は粒性・不確定性・相関性(関係性)である。エネルギーは有限な寸法をもつ「小箱」から成り立っている。量子とはエネルギーの入った「小箱」のことであり、それが持つエネルギーはE=hvで表せる(E:エネルギー、h:プランク定数、v:振動数)。
自然の奥底には「粒性」という性質があり、物質と光の「粒性」が、量子力学の核心を成す。その粒子は急に消えたり現れたりする(不確定性)。情報(=ある現象の中で生じうる、たがいに区別可能な状態)の総量には「限界」がある。
粒状の量子が間断なく引き起こす事象(相互作用)は散発的であり、それぞれたがいに独立している。量子たちは、いつ、どこに現れるのか?未来は誰にも予見できない。そこには根源的な不確定性がある。事物の運動は絶えず偶然に左右され、あらゆる変数はつねに「振動」している。極小のスケールにあっては、すべてがつねに震えており、世界には「ゆらぎ」が偏在する。静止した石も原子は絶え間なく振動している。世界とは絶え間ない「ゆらぎ」である。しかし我々人間は、その余りにも小さ過ぎる「ゆらぎ」を知覚出来ない。自然の根底には、確率の法則が潜んでいる。ひとたび相互作用を終えるなり、粒子は「確率の雲」のなかへ溶け込んでゆく。(本には書かれていない喩え話をしよう。量子は”モグラたたき”のモグラみたいなものと言えるのではないだろうか。次にどこに現れるか予想がつかない。ただし、モグラは常に一匹しか出てこない。出没する範囲は決まっていて、出現頻度=確率が高い場所もある。)
自然界のあらゆる事象は相互作用である。ある系における全事象は、別の系との関係のもとに発生する(相関性)。速度とは「ほかの物体と比較したときの」ある物体の運動の性質である。わたしたちに知覚できるのは「相対的な」速度だけであり、速度とは、一個の物体が単独で所有できる性質ではない。量子力学が記述する世界では、複数の物理的な「系」のあいだの関係を抜きにしては、現実は存在しない。関係が「事物」という概念に根拠を与えている。事物が存在するのは、ある相互作用から別の相互作用へ跳躍するときだけである(量子跳躍)。現実とは相互作用でしかない。(”モグラたたき”の喩えで言えば、ボード上以外にモグラは現れない。ボードという場がなければ、モグラは存在しない。ボードとモグラには相関性がある。)
原子や光をはじめ、宇宙に存在するあらゆる事物は、量子場によって形づくられている。量子場は、電子や光子(←何れも素粒子)のように、粒状の形態をとって現れる。または、電磁波のように、波の形で現れることもある。テレビの映像や、太陽の光や、星の輝きをわたしたちに伝えているのは、電磁波である。
光は光子という粒(素粒子)で出来ている。同時に波の性質も持つ。波長の違いで我々は「色」を認識する。波長が短ければ「青色」に見え、波長が長ければ「赤色」に見える。更に波長が長くなると「赤外線」に、もっともっと長くなるとラジオやテレビの電波になる。逆に波長が短くなると、「紫外線」→「X線(レントゲン)」→「γ(ガンマ)線」となる。これらは全て電磁波の仲間である。音も波であり、波長が長い(周波数が低い)と低音に、短い(周波数が高い)と高音に聞こえる。なお、周波数とは単位時間あたりの振動数である。詳しくは下のリンク先をご参照あれ。図もあって分かり易い。
「素粒子」と「量子(quantum)」は同じものを指し示している。「素粒子」は粒子的な側面が強調されており、「量子」は粒子と波の両方の性質を言い表している。
ループ理論によると空間もまた粒状である。この世には最小の体積が存在し、それより小さな空間は、存在しない。つまりプランク時間と同様に、体積を形づくる最小の「量子」が存在する。それは最小の長さ=プランク長で表される。
最小の「量子」は密接にくっついて「時空間の泡(スピンフォーム)」を形成する。石鹸の泡に似た構造だ。
上図 b のように、1)空間の最小単位(図 a )を点で表す。2)多面体(最小の量子)の面を、それを垂直方向に貫く線で表す。3)空間の最小単位が集まった構造を点と線のネットワーク(スピンネットワーク)として表す。すると下図のようになる。
空間とはスピンの網である。そこでは「節(結び目)」が基礎的な粒子を、「リンク(結び目と結び目をつなぐ線)」が近接に存在する粒子たちの関係性を表している。スピンの網が、ある状態から別の状態へと変化する過程(量子跳躍)によって、時空間が形成される。スピンの網の結び目は、ほどけたり合わさったりして、刻々と姿を変える。
世界は何からできているのか?答えは単純である。粒子とは量子場の量子である。空間とは場のことにほかならず、空間もまた量子的な存在である。この場が展開する過程によって、時間が生まれる。要約するなら、世界はすべて、量子場からできている。時空間が生み出される場のことを「共変的量子場」と呼ぶ。この世界を構成するすべてのもの、つまり、粒子も、エネルギーも、空間も時間も、たった一種類の実態(=共変的量子場)が表出した結果に過ぎない。
量子力学の世界には静止している事物は存在せず、そこでは「すべて」が震えている。いかなるものも、ひとつの場所に、完全かつ継続的に静止していることはできない。これが、量子力学の核心である。
情報とは「起こりうる選択肢の数」である。サイコロを投げてある目が出た場合、「起こりうる選択肢」の数は六であるから「N=6」の情報を得たことになる。友達から誕生日を教えてもらえば、三百六十五通りの答えがあるから「N=365」の情報を得たことになる。そして「情報はひとりでに増えない」。熱い紅茶は冷める。熱とは、分子による微視的かつ偶発的な運動である。紅茶が熱ければ熱いほど、紅茶を構成している分子は速く動いている。つまり「情報が多い」。では、紅茶はなぜ冷めるのか?それは「熱い紅茶と(それに接する)冷たい空気」に一致する分子の並び方の総数(=情報)が、「冷たい紅茶と少しだけ温められた空気」に一致する分子の並び方の総数(=情報)より多いからである。速く動く分子は周囲のゆっくり動く分子を押しのけて混ざり、拡散する。紅茶がひとりでに温まることがないのは、情報がひとりでに増大することが決してないからである。熱力学におけるエントロピー(物体や熱の混合度合いのこと。「乱雑さ」とも呼ばれる)とは「欠けている情報」であり、ボルツマンの原理によるとエントロピーの総量は増大することしかしない(熱力学第二法則)。なぜなら情報の総量は減少することしかないからである。エントロピーは「ぼやけの量」(わたしたちに関わるもの)を測っている。
量子力学を形づくる全体の枠組みは次の公理で示される。
公理1 あらゆる物理的な系において、有意な情報の量は有限である。
公理2 ある物理的な系からは、つねに新しい情報を得ることが可能である。
公理1は、量子力学の「粒性」を特徴づけている。これは、実現する可能性がある選択の総数は有限であるという公理である。公理2は、量子力学の「不確定性」を特徴づけている。量子の世界では、つねに予見不可能な事態が発生するため、わたしたちはそこから新たな情報を引き出すことができる。
ビッグバンを起点に膨張し続ける宇宙は有限であり、逆に空間の最小単位も有限である。本当に「無限」なものなど存在しない。自分には理解できないものを、ひとは「無限」と呼ぶ。もし「無限」なものがあるとしたら、それはわたしたちの「無知」だけである。
この2冊の本を通じて、20世紀以降の現代物理学を知ることは、間違いなく哲学的思考に繋がっていると思った。「世界は何で成り立っているのか」「神は存在するか」「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」……物理学と哲学は不可分である。
なお、すべては「ひも」でできている!とする「超ひも(超弦)理論」を学びたい方は、Newtonライト『超ひも理論』(ニュートンムック)をお勧めしたい。ページ数が少なく(たった64ページ)、イラストが多く、たいそう簡便な本である。
日本人の物理学者の大半は「超ひも理論」を支持している。2008年にノーベル物理学賞を受賞した故・南部陽一郎博士のアイディアに端を発するからだろう。しかし今回「ループ量子重力理論」のことを初めて知り、明らかに後者の方に分があるなと僕は直感した。理由は以下の通り。
1)ひも理論は「固定された背景(時空間)の中を動くもの」であること。つまり時間や空間は、素粒子(=ひも)が運動するためのバックグラウンドとしてあらかじめ前提される。しかし、「万物は流転する」のではないだろうか?それに、もし連続した時間があるのだとしたら、量子の「不確定性」をどう説明する?むしろ時間を、パラパラ漫画やアニメーション、映画のフィルムのように断続的なものとして捉えた、ループ理論の方が理に適っている。つまり時間が連続的に流れていると私たちが知覚しているのは錯覚であると。
2)ひも理論を成り立たせるには、ひも状の素粒子が振動する「9次元空間」を想定しなければならない。しかし9次元の存在って証明出来るの??コンパクト化され、かくれた「6個の余剰次元」とか、無理があるでしょう。荒唐無稽だ。
3)ひも理論を証明するためには超対称性粒子の存在を見つけなければならない。しかし、すべての素粒子が未発見であり、ヨーロッパ原子核研究機構(セルン CERN)の加速器「LHC」による観測でも、多くの科学者の期待にもかかわらず、CERNは超対称性粒子を捕捉しなかった。素粒子に質量を与えるヒッグス粒子は1964年に予言されたとおり発見されたのだが(それによりピーター・ヒッグスは2013年にノーベル物理学賞を受賞した)。
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