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2019年9月

アド・アストラ

評価:B+

Adastra

公式サイトはこちら

いい映画だ。しかし「2001年宇宙の旅」に匹敵する、と巷で喧伝されているほどのものとは思わない。

広大な宇宙を旅しているはずなのに、心の内奥への探索にいつの間にか置き換わっており、個人的な問題(家族)に収束するという点で「インターステラー」や「ファースト・マン」を彷彿とさせる。

あと、コンラッドの小説「闇の奥」がベースになっているので、映画「地獄の黙示録」の構造にも近い。ただし、「闇の奥」と「地獄の黙示録」の主人公が奥地(ジャングル)に探しに行くのは肉親ではないのだが。

というわけで「心の旅路」という邦題が本作には相応しいかも知れない。

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〈知識〉と〈教養〉の間(はざま)で

当ブログを10年以上書いていると、「知識量がすごいですね」と言われることが時折ある。

多分、そう声を掛けてくださる方に他意はないのだろうが、どうも素直に受け取れない自分がいる。何かしら〈含むところがある〉ように感じてしまうのだ。「単に知識をひけらかしているだけでしょ?」とか、「衒学的な人ですね」と暗に非難されているような。「博識ですね」とか「教養がありますね」なら手放しで嬉しいのだが……。考え過ぎだということは分かっている。面倒くさい奴でごめんなさい。

僕の認識として〈知識〉があるとはクイズ王決定戦で優勝するとか、教科書や辞書を丸暗記するとか、そういった類のことである。つまり記憶力の問題ね。

一方、〈教養〉を辞書(三省堂 大辞林 第三版)で調べると次のようにある。

  1. 社会人として必要な広い文化的な知識。また、それによって養われた品位。
  2. 単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために、学び養われる学問や芸術など。

だから映画やミュージカルが大好きでたくさん観て、音楽をたくさん聴いて、本を読んで、その過程で自然に身についた知識なら、〈教養〉と呼ばれてしかるべきではないだろうか?

マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」に次のようなエピソードがある。

日曜学校で聖書を二節暗唱すると、青い札を一枚貰える。青い札が十枚貯まると、赤い札に交換してもらえる。赤い札十枚が黄色い札一枚。黄色い札十枚と引換えに、日曜学校の先生がごく質素な装幀の聖書をくれる。つまり聖書の文句を二千節覚える必要がある。トムはリコリス菓子とかビー玉、ちょっとした小物などで他の子供達を買収し、交換した札を集めてまんまとその栄誉を手に入れる。そしてその場にいた判事から次のように褒められる。

「実に大したものだよ。それだけ頑張って覚えたことを、君は今後も絶対に後悔しないだろうよ。知識はこの世で何より価値あるものだ。知識があってこそ偉人も善人も生まれる。トマス、君もいつの日か偉人にして善人となることだろう。そのとき、昔をふり返って、みんなあの日曜学校のおかげだ、と思うことだろう。先生がたが教えてくださったおかげだ、校長先生が励ましてくださり見守ってくださり美しい聖書をくださったおかげだ、(中略)そう思うことだろう。きっと思うとも、トマスーそして君は、この二千節はどんな金より大事と思うだろうーそうとも、絶対に」

    マーク・トウェイン(柴田元幸 訳)「トム・ソーヤーの冒険」新潮社

丸暗記した〈知識〉なるものの胡散臭さ、馬鹿馬鹿しさを見事に暴き出した文章である。意地悪だけど、ユーモアがある。

知識(knowledge)〉と〈教養(culture)〉は違う。「教養がありますね」と言われるような、そういうものに わたしはなりたい。そのために今後も切磋琢磨して、雨ニモマケズ〈エンターテイメント日誌〉を書いてゆく所存である。

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映画『蜜蜂と遠雷』公開記念!これだけは聴いておきたいピアノの名曲・名盤30選

無茶は承知である。ヴァイオリンやチェロと違って、ピアノの楽曲は桁外れに多く、そこから名曲を30選ぶ作業は困難を極めるし、余り意味がないのかも知れない。

どうしてピアノのために書かれた楽曲がダントツに多いのか?答えは明白。殆どの作曲家がピアノを弾けるからである

例えばヴァイオリンやフルートのソナタをその楽器を演奏出来ない人が作曲する場合を想像してみよう。音域の高低はどこまで行けるのか?重音奏法はどの組み合わせが可能か?など、テクニックの限界を勉強する必要がある。プロ奏者の意見も聴いて、綿密な打ち合わせをしなければならない。面倒くさい、というわけ。ピアノならそういう行程を省くことが出来る。

原則として1作曲家1作品のみとした。ただし、(同時期に作曲され)連作と見なせるもの、演奏時間が10分未満の小品については例外的に複数曲選んで良いこととした。

さらに膨大な候補から曲を絞るために、一旦(クラシック音楽の)室内楽曲を外すことにした。室内楽については既に下記事で紹介しているからである。

よつて、

  • メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲 第1番
  • ブラームス:ピアノ四重奏曲 第1番
  • ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲 第4番「ドゥムキー」 
  • ショーソン:ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のためのコンセール
  • フォーレ:ピアノ五重奏曲 第1番
  • バルトーク:2台のピアノと打楽器のためのソナタ

については〈別枠〉として後述する。

それからチェンバロのために書かれた作品を含めるかどうか相当悩んだ。大バッハはどうしても入れたい、しかしフランソワ・クープランやラモーまで含めると収集がつかない。そこで〈モダン・ピアノでも演奏される作品に限る〉という条件を付けることにした。

一概にピアノと言っても、モーツァルトの少年時代には鍵盤楽器=チェンバロだったわけで、モーツァルト存命中にスクエア・ピアノやフォルテピアノが登場し、時代が下ってショパンが所有していたのはエラールとプレイエルのピアノ。その後ベーゼンドルファーやスタインウェイなどのモダン・ピアノが主流となった。こうした楽器の進化(音域の拡大)の歴史は踏まえておく必要があるだろう。ベートーヴェンも鍵盤の数が増えるごとに、それを最大限活かすようソナタを作曲した。

「僕は気分のすぐれないときはエラールのピアノを弾く。このピアノは既成の音を出すから。しかし身体の調子の良いときはプレイエルを弾く。何故ならこの楽器からは自分の音を作り出す事が出来るから」 by フレデリック・ショパン

大体、作曲された順に並べた。さらに、まず最初に聴いて欲しい極め付きの10曲 (Best 10)に◎を付けた。

  • J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 ◎
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲 第23番
  • ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ 第30-32番 ◎
  • シューベルト:後期ピアノ・ソナタ 第19-21番 ◎
  • ショパン:ピアノ協奏曲 第1番
  • シューマン:子供の情景
  • リスト:3つの演奏会用練習曲より「ため息」 ◎
  • ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」
  • チャイコフスキー:四季
  • サン=サーンス:動物の謝肉祭
  • サティ:ジムノペディ
  • グラナドス:スペイン舞曲集より「オリエンタル」「アンダルーサ」 ◎
  • グリーグ:叙情小品集
  • ドビュッシー:アラベスク第1番、「夢」 ◎
  • ラヴェル:「水の戯れ」、組曲「鏡」から「海原の小舟」
  • モンポウ:内なる印象
  • プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第3番
  • ガーシュウィン:ラプソディー・イン・ブルー ◎
  • ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
  • メシアン:鳥のカタログ
  • プーランク:ピアノ協奏曲 ◎
  • アンダーソン:ピアノ協奏曲
  • バド・パウエル:クレオパトラの夢
  • ビル・エヴァンス:ワルツ・フォー・デビイ ◎
  • ルグラン:映画『恋』(The Go-Between)サウンド・トラック
  • ナイマン:映画『ピアノ・レッスン』サウンド・トラック 
  • ジョン・ウィリアムズ:映画『サブリナ』サントラ ◎
  • 吉松隆:ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」
  • 久石譲:Summer(映画『菊次郎の夏』より)、レスフィーナ(映画『アリオン』より)
  • ダリオ・マリアネッリ:映画『つぐない』サントラ

ロシア生まれで現在は京都市在住のピアニスト、イリーナ・メジューエワは著書「ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ」(講談社現代新書)で次のように述べている。

すべてを含んでいるという点でバッハは特別だと思います。バッハ以前の音楽も、あとの時代の音楽も、全部バッハの中に入っているという意味です。(中略)すべてがそこに始まり、そこに終わるというか、バッハを超えるものがない。まさに絶対的な存在です。

つまり〈すべての道はバッハに通ず〉。

Bach

本来ならJ.S.バッハからは平均律クラヴィーア曲集を選ぶべきなのかも知れない。12の調性、さらに長調と短調を全て網羅した(12×2=24)「平均律」は後のショパンやショスタコーヴィチが作曲した「24の前奏曲」に多大な影響を与えた。お勧めはすスヴャトスラフ・ リヒテルのアルバム。しかしCDだと4枚に及ぶ大作である。僕は2夜にわたり、生演奏で全曲聴き通したことがあるが、最後は疲労困憊した。

というわけでゴルトベルク変奏曲の方が聴き易いだろう。細田守監督のアニメーション映画『時をかける少女』では、ここぞ!という時にゴルトベルクが流れる。

モダン・ピアノによる演奏で何といっても有名なのはグレン・グールドで55年のモノラル録音は38分、81年のステレオ録音は51分と極端にテンポが異なる。楽譜に記された繰り返しを全て実行すると70分を優に超えるが、メジューエワみたいに変奏曲によってリピートしたり、しなかったりという変則的なピアニストもいる。お勧めの演奏はイゴール・レヴィット。僕はチェンバロで聴くことが多く、ピエール・アンタイとかグスタフ・レオンハルト、アンドレアス・シュタイアーらの演奏を好む。

多分、モーツァルト/ピアノ協奏曲の最高傑作は第20番だろう。第2楽章は映画『アマデウス』のラストシーンで用いられ、第3楽章は明らかにベートーヴェン/ピアノ・ソナタ 第19番 第1楽章の原型である。もう、びっくりするくらいそっくりだ。ベートーヴェンやブラームスはこのコンチェルトに心酔しており、カデンツァを作曲している。またモーツァルト/ピアノ協奏曲 第21番は第2楽章が映画『みじかくも美しく燃え』のテーマ曲として使われたことで有名。しかし僕は敢えて、余り世に知られていない第23番を推したい。無邪気で、天衣無縫。天使と言葉をかわしているような心地がする。ミュージカル『モーツァルト!』で歌われたように、彼こそ〈神が遣わした奇跡の人〉であることが実感出来るだろう。推薦盤はポリーニ(p)&ベーム/ウィーン・フィルや、グルダ(P)&アーノンクール/コンセルトヘボウ管、バレンボイム(弾き振り)/ベルリン・フィル。

あと僕はピアノ・ソナタ 第11番が大好き。有名な第3楽章「トルコ行進曲」ではなく、第1楽章の主題と変奏が特にお気に入りで、聴いていると自分の幼少期を懐かしく想い出す。そういう、〈無垢な子供に還る〉力がモーツァルトの音楽にはある。また恩田陸が『蜜蜂と遠雷』で〈最もモーツァルトの天才を感じる〉と書いたソナタ 第12番も勿論素晴らしい。内田光子とか、マリア・ジョアン・ピリスの演奏でどうぞ。

モーツァルトの音楽は、長調から短調へ(またはその逆)転調する境界域神が宿ると僕は思っている。メジューエワも、〈モーツァルトほど転調したときにどきっとさせる作曲家はいない〉と書いている。

ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタ30-32番は同時期(52歳)に作曲され、アルフレート・ブレンデルは「シューベルトの後期ピアノ・ソナタ19-21番と同様に、一連のものとして捉える必要がある」と述べている。この頃ベートーヴェンはJ.S.バッハの音楽に傾倒しており、第30,32番には変奏曲、31番にはフーガが仕込まれている。この傾向は後期弦楽四重奏曲(第13番以降)も同様である。最後のソナタの翌年にディアベリ変奏曲が書かれたが、これもゴルトベルク変奏曲を意識した作品である。

メジューエワは語る。

 最後の三つのソナタは一つのトリプティク(三部作)というか、三大ソナタ。演奏会でもまとめて取り上げられることが多いですね。第30番も第31番も素晴らしいですが、それでも第32番はずば抜けた存在です。最高傑作と言っていい。(中略)ベートーヴェンはやっぱり三曲をセットとして考えていたかもしれませんね。三曲全体でのバランスを取るというか、フーガは第31番でじゅうぶんやったから、ここ(32番)はフガートにしておこう、とか。 (「ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ」より)

第32番は全2楽章で構成され、第1楽章がハ短調、第2楽章がハ長調である。これは交響曲第5番の第1楽章がハ短調で、終楽章がハ長調であることに呼応している。つまり〈苦悩を乗り越えて、歓喜に至る〉というコンセプトのバリエーションであり、彼の集大成と言えるだろう。但し、確かに第1楽章は激しい怒りとか懊悩・絶望が渦巻いているが、第2楽章は静的(static)で、天国的と言うか諦念と浄化がある。交響曲第9番「合唱付き」 終楽章のような〈歓喜〉ではない。僕はこの曲からゲーテの『ファウスト』を連想する。第1楽章がファウストとメフィストフェレスの道行き、第2楽章がグレートヒェンによるファウストの魂の救済。ロシアのピアニスト、マリア・ユーディナは第2楽章の解説として、ダンテ『神曲』の一節を引用する。光が差してきて、自分が変わる、という部分。ベアトリーチェによるダンテの救済。結局、『ファウスト』や宮崎駿『風立ちぬ』の元ネタは『神曲』なわけで、同じことである。ポリーニの演奏でどうぞ。

シューベルト最晩年のピアノ・ソナタ第19−21番は1828年9月に一気に書き上げられた。故にこれらは3部作と見做される。2ヶ月後の11月19日に作曲家死去、享年31歳だった。

ピアノ・ソナタ 第21番についてメジューエワは〈間違いなくシューベルトの最高傑作です〉と断言する。

僕は若い頃、冗長で退屈な曲だと思っていた。昔の自分の無知蒙昧に恥じ入る気持ちでいっぱいである。転機となったのはシューベルトの歌曲「魔王」と同じ構造であることに気が付いたこと。第1楽章、左手の低音部は死神を表し、シューベルトを黄泉の国に引きずり込もうとする。最初の悪魔的トリルが不気味に響き渡り、象徴的。右手の高音部は儚い白鳥の歌を弱々しく歌う。第4楽章冒頭の一音はピリオド。「これで終わり」ーその終止符を打ち消すように音楽は走るが、何度も何度も執拗にピリオドが打たれ、「これで終わり」と宣言する。恐るべき楽曲である。

推薦盤は後期ソナタ3曲まとめてならポリーニ、ブレンデル、内田光子あたりで。第21番に限るならジョージア(グルジア)出身のカティア・ブニアティシヴィリ(ブニたん)の演奏が悪魔に取り憑かれたようで圧巻。

下記事でショパンのオーケストレーション能力について、けちょんけちょんに貶した。

しかし敢えてその、ピアノ協奏曲 第1番を選択した。オーケストラは単なる伴奏に過ぎず面白みに欠けるが、全編を彩る美しい旋律の数々に魅了され、陶然となる。僕の愛読書、福永武彦『草の花』にこのコンチェルトが登場する。そしてわが生涯のベスト・ワン映画、大林宣彦監督『はるか、ノスタルジィ』にも。大林監督は『さびしんぼう』を撮った頃から『草の花』映画化を構想していた。

『草の花』の主人公・汐見が、亡くなった親友、藤木の妹・千枝子を誘い日比谷公会堂にショパンピアノ協奏曲第1番を聴きに往く場面がある。終演後の情景を引用しよう。

 新橋から省線に乗ると、釣革につかまった二人の身体が車体の振動のために小刻みに揺れるにつれて、時々肩と肩がぶつかり合った。そうするとさっき聞いたコンチェルトのふとした旋律が、きらきらしたピアノの鍵音を伴って、幸福の予感のように僕の胸をいっぱいにした。満員の乗客も、ざわざわした話声も、薄汚れた電車も、一瞬にして全部消えてしまい、僕と千枝子の二人だけが、音楽の波の無限の繰返しに揺られて、幸福へと導かれて行きつつあるような気がした。僕はその旋律をかすかに、味わうように、口笛で吹いた。千枝子が共感に溢れた瞳で、素早く僕の方を見た。

実に音楽的描写である。また小説の終盤、ひとりでコンサート会場にいた汐見に千枝子の友人・とし子が話しかけてくる。

ーショパンって本当に甘いんですわね、と尚もにこにこしながらとし子が言った。

ショパンは本当に甘いのか?ーこれは大変、興味深い問いである。稀代のショパン弾きとして知られ、「ノクターン全集」でレコード・アカデミー賞に輝いたメジューエワは次のように述べる。

 一般的にショパンのイメージは甘いというか、女性的で繊細な音楽と捉えられることが多いようですが、私にとっては古典的な作曲家。作曲家としても人としても厳格。ロマンティストですが、現実主義者でもある。男性的な感じ、あるいは英雄的な感じも非常に強い人。そういった意味ではベートーヴェンの精神性にも負けていないと思います。(中略)
 ショパンはもちろんロマン派のど真ん中の人で、音楽もロマンティックで感情豊かなものです。でもショパン自身はリアリスト。すべてを客観的に見ている。 (「ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ」より)

貴方はどうお感じになるだろう?推薦盤はアルゲリッチのピアノ独奏。伴奏はアバド/ロンドン交響楽団でも、デュトワ/モントリオール交響楽団でも、どちらも好し。

シューマンについて、メジューエワは〈インスピレーションという言葉が似合います〉〈すごいスピードで次から次へ目まぐるしくアイディアが出てくるんですね〉〈エモーションをちょっとコントロールできていない〉〈ちょっとクレイジーでファンタジー豊かな人〉と評している。シューマンのcraziness(狂気)は、彼が罹っていた神経梅毒(梅毒が中枢神経系に感染し、引き起こす髄膜炎)と無関係ではあるまい。結局、やはり梅毒に罹患していたスメタナ同様、精神病院で最後を迎えることになる。しかし27歳で作曲した「子供の情景」にその狂気はなく、穏やかで幸福なの世界が描かれている。アルゲリッチの演奏で。

シューマンでは力強く凛々しいノヴェレッテ 第1番も好き。大林宣彦監督『ふたり』の中で石田ひかりがこの曲を弾く場面はとても印象的だった。リヒテルでどうぞ。また「子供の情景」第7曲〈トロイメライ〉は大林映画『転校生』に登場する。

リストなら『蜜蜂と遠雷』で演奏されるピアノ・ソナタ ロ短調(アルゲリッチ、ポリーニ、ポゴレリッチ)とか、村上春樹の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に登場するラザール・ベルマンが弾く「巡礼の年」なども考えたが、最も透明で美しい「ため息」を選んだ。大林宣彦監督はこの曲が大好きで、東宝の正月映画『姉妹坂』では全編に流れるし、テレビ映画『三毛猫ホームズの推理』やBS-TBSで放送された『告別』でも使用された。ホルヘ・ボレットの演奏で。余談だが原田知世が主演した大林映画『時をかける少女』の〈土曜日の実験室〉の場面では、音楽室の方からリスト「愛の夢 第3番」が微かに聴こえてくる。

ムソルグスキーの音楽は一言で評するなら〈泥臭い〉。言い換えれば〈ロシアの土の匂い〉がする。メジューエワは〈混沌(カオス)〉と形容している。〈野生の思考〉で作曲されているので、ソナタ形式などきっちりとした構造からは程遠い。シューマン同様、理屈よりもインスピレーションの人と言っていいかも知れない。

ムソルグスキーの交響詩「禿山の一夜」はリムスキー=コルサコフが編曲したバージョンで知られており、クラウディオ・アバドの指揮で初めて原典版を聴いたときは腰を抜かした。全然違う曲だった!!もっさり、ドロドロしており、リムスキー=コルサコフ版はそのアクを抜き去り、洗練されたオーケストレーションが施されていた。泥を撹拌し、濁りのない上澄み液だけ抽出した感じ。友情からした仕事なのだろうが本末転倒というか、完全に原曲の魂(soul)が雲散霧消している。

展覧会の絵」には無数の編曲がある。最も有名なのがラヴェルの管弦楽編。他に冨田勲(管弦楽編/シンセサイザー編)、フンテク編、ゴルチャコフ編、ストコフスキー編、アシュケナージ編、大栗裕によるマンドリンオーケストラ編、エマーソン・レイク・アンド・パーマー(EPL)によるプログレッシブ・ロック編、また伊藤康英による「二台八手ピアノ、サクソフォーン四重奏、混声合唱と吹奏楽のための交響的カンタータ」版なんてのもある(実演を聴いた)。それだけ編曲したいという意欲を掻き立てる余白というか、があるのだろう。ピアノ原曲ではキーシン、ウゴルスキ、ポゴレリッチ、ブニアティシヴィリ(ブニたん)の演奏がお勧め。

チャイコフスキーは泣く子も黙る華麗なるピアノ協奏曲 第1番を敢えて外した(リヒテル&カラヤン/ウイーン響、アルゲリッチ&アバド/ベルリン・フィル)。より親密な(intimate)「四季」を推す。1月〈炉端にて〉とか、5月〈白夜〉、6月〈舟歌〉、11月〈トロイカ〉、12月〈クリスマス〉など、ほんわり暖かく包み込むように鳴り響き、郷愁を誘うんだよね。アシュケナージかプレトニョフの演奏で。本当はリヒテルを強く推したいのだが、抜粋なのが残念。鋼(はがね)の叙情。

サン=サーンスピアノ協奏曲 第2番(パスカル・ロジェのピアノとシャルル・デュトワの指揮)を推そうと決めていた。第4番も好し。しかし、よくよく考えると「動物の謝肉祭」にも2人のピアニストが登場する。特に〈水族館〉はキラキラ輝く珠玉の名曲だ。ユーモアもあるし。というわけで宗旨替えした。アルゲリッチ、クレーメル、マイスキーらの演奏でどうぞ。

フランス人や日本人以外のピアニストがエリック・サティを弾くことは滅多にない。例えばロシアのリヒテル、ギレリス、ベルマン、メジューエワとか、オーストリアのブレンデル、グルダ、ドイツのケンプ、バックハウス、ポーランドのツィメルマン、イタリアのポリーニ……誰も弾かない。3つのジムノペディとか、3つのグノシェンヌとか、技術的に簡単過ぎるのだ。腕に覚えがある奏者にとっては物足りない。しかし、曲の難易度(弾き手の達成感)と聴き手の感動が比例するわけではない。簡素で素朴な美しさに心惹かれる、もものあはれを知ることもある。サティは(後に登場する久石譲も)そういった類(たぐい)の音楽なのだ。チッコリーニやティボーデ、ロジェ、高橋アキの演奏でどうぞ。またジムノペディ第1番と第3番にはドビュッシー編曲によるオーケストラ版もある(第2番を省いているのが可笑しい)。デュトワ/モントリオール交響楽団で。

グラナドスはスペインのリズムが心地よい。旋律は太く男性的だが、哀愁を帯びている。「オリエンタル」「アンダルーサ」はギター編曲版もあり、ビクトル・エリセ監督の映画『エル・スール』で印象的に使われた。

アルベニスやグラナドスはラローチャの演奏が唯一無二。

ノルウェイの作曲家グリーグで一番有名なのはピアノ協奏曲だが、日本では余り聴く機会がない抒情小曲集を推す。心に沁みる逸品。ギレリスかアンスネスの演奏で。オーケストラ用に編曲された抒情組曲もある。バルビローリ/ハレ管で。

ドビュッシーの音楽を〈印象派〉たらしめているのは、①ありとあらゆる音階の駆使 ②polytonality(複調、多調)である。一番良いサンプルはピアノ曲集「版画」だろう。第1曲「塔」はガムラン音楽の影響を受け、東南アジアの五音音階(ペンタトニック)が用いられている。第2曲「グラナダの夕べ」はアラビア音階ーいろいろあるが、マーカム・ヒジャーズカルとマーカム・ナワサルだけ覚えておけばよいだろう。詳しくはこちらのサイトをご覧あれ。第3曲「雨の庭」では全音音階半音階長調短調が混在する。正に音階の見本市である。またpolytonality(複調、多調)とは、簡単に述べれば右手と左手で同時に弾く調が異なること。

月の光」があるベルガマスク組曲を選んでも良かったのだけれど、僕がその美しさに心奪われ、うっとり聴き惚れるのはアラベスク第1番と「」なんだな〜。サンソン・フランソワの演奏でどうぞ。

ラヴェルを聴くと「色彩豊かだなぁ」といつも感じる。響きから色彩を感知するからくりは半音階の駆使にある。半音階は脳内で無意識のうちに色彩のグラデーションに変換され、虹色に輝く。「水の戯れ」も「海原の小舟」も、日差しを浴びた水の煌めきが鮮烈である。

3曲で構成される「夜のガスパール」もいいね!第1曲「オンディーヌ」は水の精のことで、「水の戯れ」「海原の小舟」と併せて「水」三部作と呼ばれたりもする。「水の戯れ」「海原の小舟」はフランソワ、「夜のガスパール」はアルゲリッチの演奏でどうぞ。

フレデリコ・モンポウはスペイン、カタルーニャの作曲家。「内なる印象」はsensitiveで、ひそやかな音楽。そっと取り扱いたい。なかんづく〈秘密〉は絶品!聴いていると悲しい気持ちになる。ラローチャの演奏で。

プロコフィエフ/ピアノ協奏曲 第3番は『蜜蜂と遠雷』のクライマックスでも演奏される名曲中の名曲。過去を懐かしむようなクラリネットのソロで開始され、それから次々と目まぐるしく場面が転換、気まぐれな年頃の女の子みたいにに表情がコロコロ変わっていく。「プロコフィエフって踊れるよね」(by 栄伝亜夜『蜜蜂と遠雷』)アルゲリッチの独奏でどうぞ。アバドの指揮でもデュトワの指揮でもO.K.

ガーシュウィン/ラプソディー・イン・ブルーは『のだめカンタービレ』でもお馴染み。このJazzyな楽曲のイメージを喚起するためには、ウディ・アレンの映画『マンハッタン』か、ディズニーの『ファンタジア2000』をご覧になることを強くお勧めする。音源はレナード・バーンスタインかアンドレ・プレビンのピアノで。ユジャ・ワン(P)&ドゥダメル/ウィーン・フィルもスリリング。

ラフマニノフ/パガニーニの主題による狂詩曲の白眉はズバリ、第18変奏 アンダンテ・カンタービレである。全ての想いは下のブログ記事で激白した。

まぁ、エルガー/エニグマ変奏曲における第9変奏〈ニムロッド〉みたいなものだ。ユジャ・ワン(p)&アバド/マーラー室内管、アシュケナージ&プレヴィン/ロンドン交響楽団またはマツーエフ(P)&ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管あたりでどうぞ。

フランスの作曲家メシアンの最高傑作といえば世の終わりのための四重奏曲であることは衆目の一致するところだろう。しかし既にこちらの記事で取り上げたので、今回はピアノ独奏曲「鳥のカタログ」にした。メシアンと吉松隆といえば、なんてったってである。ウゴルスキの演奏で。

プーランクの音楽ほど、〈軽妙洒脱〉〈お洒落〉〈エスプリに富む〉という表現がぴったりなものはないだろう。ピアノ協奏曲はその極北にある。パスカル・ロジェ(P)&デュトワ/フィルハーモニア管の演奏にとどめを刺す。聴け、そして震えろ。

ルロイ・アンダーソンはオーケストレーションの腕を見込まれて、アーサー・フィードラー/ボストン・ポップス・オーケストラのために「ジャズ・ピチカート」「シンコペイテッド・クロック」「トランペット吹きの休日」「トランペット吹きの子守唄」など小品を沢山提供した。"A Christmas Festival"という、数々のクリスマス・ソングをメドレーにしてアレンジした傑作もある。ピアノ協奏曲の第1楽章はまるでニューヨークを舞台にしたメグ・ライアン主演のロマンティック・コメディのよう。第2楽章はキューバ(またはマイアミビーチ)でのバカンスで、第3楽章は一転してロデオというかウエスタン風。アメリカらしい、愉快な傑作である。ビーゲル(P)&スラットキン/BBCコンサート・オーケストラで。

クレオパトラの夢」はジャズ・ジャイアント、バド・パウエルが作曲・演奏した。村上龍が司会をしたテレビのトーク番組『Ryu's Bar 気ままにいい夜』のテーマ曲として使用された。秋の夜長にグラスを傾けながら聴きたい、グルーヴィー(groovy)な逸品。試聴はこちら

ワルツ・フォー・デビイ」はジャズ界のピアノの詩人ビル・エヴァンスが残した、優しくロマンティックな名曲。ビル・エヴァンス・トリオの録音が幾つも残っている。最初が1961年マンハッタンにあるヴィレッジ・ヴァンガードのライブで、最後は1980年サンフランシスコのジャズ・クラブ、キーストン・コーナにて収録。試聴はこちら。またエヴァンズのソロ曲「ピース・ピース(Peace Piece)」も素敵。静謐で深い。1958年のアルバム「エヴリバディ・ディグズ・ビル・エヴァンス」における本人のものか、イゴール・レヴィットの演奏を推す。

ミシェル・ルグランの作曲した映画「The Go-Between(1971)はカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールに輝いた。ピアノ協奏曲仕立てになっており、主題と変奏で構成される。悲劇の予感。サントラCDが発売されていないので、こちらでお聴きください。

カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したニュージーランド映画「ピアノ・レッスン」(1993)の主人公エイダ(ホリー・ハンターがアカデミー主演女優賞を受賞)を一言で評すなら”女ヒースクリフ”である。彼女の激情狂恋は間違いなくエミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」に繋がっている。実際にジェーン・カンピオン監督(女性)は「嵐が丘」を撮りたいと熱望しているという。試聴はこちらマイケル・ナイマンはこの映画音楽を基にピアノ協奏曲を書いており、そちらもお勧め。

ジョン・ウィリアムズの「サブリナ」(1995)は現在、サントラCDが輸入盤で購入可能。ひとまず作曲家本人のピアノ、小澤征爾が指揮するこちらの演奏でお聴きください。夢の中の舞踏会にいるような、究極の美しさ。ジョンは天才だ。また2019年の新譜で「サブリナ」のバイオリン&オーケストラ版も登場した(アンネ=ゾフィー・ムターのアルバム「アクロス・ザ・スターズ」)。

Sabrina

Across

あとね、「E.T.」の"Over the Moon"も大好き!こちら

当初、久石譲からは僕の偏愛する大林映画「はるか、ノスタルジィ」の、”Tango X.T.C.”(タンゴ・エクスタシー)にしようと決めていた。しかし冷静になって聴き直してみると、果たしてピアノ主体の楽曲と言えるのか?と疑問がふつふつと湧き上がってきた。確かにピアノは使われている。しかしサントラで主旋律を弾くのはシンセサイザーだし、後のコンサート用編曲ではそこをバンドネオンが担当したりしている(試聴はこちら)。というわけで映画「菊次郎の夏」から爽やかな日差しを感じさせる”Summer”(試聴はこちら)と、映画「アリオン」からロマンティックな”レスフィーナ”(試聴はこちら)を選んだ。あと「千と千尋の神隠し」の”あの夏へ”とか、「ハウルの動く城」の”人生のメリーゴーランド”とかをお愉しみください。

吉松隆メモ・フローラ(花についてのメモ)」は地下に眠る玻璃のように繊細で、密やかに燦めいている。それはある意味、宮沢賢治の世界を彷彿とさせる。そもそもこのタイトル、賢治が自宅の花壇の設計のために残したノートの題なのだそう。田部京子(p),藤岡幸夫/マンチェスター室内管弦楽団のアルバムでどうぞ。吉松には左手のピアニスト舘野泉のために作曲した「KENJI…宮澤賢治によせる」という作品もある。

Memo

また吉松ならピアノ独奏のための「プレイアデス舞曲集」もお勧め。こちらも田部京子で。

アカデミー作曲賞を受賞した映画「つぐない」(2007)の音楽の真髄は、ピアノとタイプライターの競演にある。これは秀逸。試聴はこちら。アイディアの元祖としてルロイ・アンダーソンの「タイプライター」があるわけだが(こちら)。

続いて〈別枠〉。

メンデルスゾーンはその実像に比べ、クラシック音楽愛好家から〈軽く見られている〉という気がして仕方ない。ブルヲタ(ブルックナー・ヲタク)とか、マラヲタ(マーラー・ヲタク)というのは一大勢力だが、僕は「メンデルスゾーンが一番好き!」という人に出会ったことがない(そもそも、ブルヲタマラヲタはオーケストラ曲しか聴かない)。多くの人々はロマン派の作曲家に対して苦悩とか挫折とか、心理的葛藤を求めている。しかしメンデルスゾーンの音楽にはそういった要素が見られない。彼はユダヤ人で、父は裕福な銀行家であった。だから苦労ということを知らずに一生を送ったのである。28歳で美人と結婚し、5人の子にも恵まれた。言うことなしである。なお一時代を築いたメンデルスゾーン銀行だが、ナチス・ドイツが政権を握ると1938年に解体されてしまった。

メンデルスゾーンは20歳の時に指揮者としてJ.S.バッハ/マタイ受難曲を100年ぶりに蘇演したことでも知られている。だから彼の音楽はバッハに近く、決して感情的にならない。『蜜蜂と遠雷』で演奏される「厳格な変奏曲」もバッハのゴルトベルク変奏曲や、ベートーヴェンのディアベリ変奏曲を彷彿とさせる仕上がりになっている。

ピアノ独奏曲ならまず、フランスのピアニスト、ベルトラン・シャマユが弾くピアノ作品集をお勧めしたい。Spotifyはこちら、NAXOSはこちら。特にロンド・カプリチオーソと無言歌 第6巻 第2曲「失われた幻影」が素敵。「厳格な変奏曲」も入っているので、これ一枚で全体像が把握出来る。

メンデルスゾーン/ピアノ三重奏曲 第1番は端正な美しさ。〈悲劇の季節〉という言葉がぴったり。トリオ・ワンダラーかボロディン・トリオの演奏で。

ブラームスフォーレ室内楽の二大巨頭である。ブラームス/ピアノ四重奏曲 第1番はシェーンベルクによるオーケストラ編曲版でも知られる。白眉は第4楽章、ずばりロマ(ジプシー)の音楽だ。こんなに燃えるブラームスは他に例を見ない。ダンス・ダンス・ダンス!アルゲリッチ/クレーメル/バシュメット/マイスキーの競演でどうぞ。

フォーレ/ピアノ五重奏曲 第1番は冒頭ピアノの眩(まばゆ)いアルペジオ(分散和音)が例えようもなく美しい!これは一つのメルヘンだ。ル・サージュ(ピアノ)&エベーヌ弦楽四重奏団の演奏で。

チェコの作曲家ドヴォルザーク/ピアノ三重奏曲 第4番「ドゥムキー」は民族色が強い。”ドゥムキー”とは18世紀ポーランドに起こり、ウクライナ、チェコ、スロバキアなどスラヴ諸国に広まった民謡形式、”ドゥムカ”の複数形である。ゆっくりとした哀歌の部分と、テンポの速い明るく楽しい部分の急激な交代を特徴とする。6つの楽章から成るが、ソナタ形式は全く無い。スーク・トリオか、ファウスト/ケラス/メルニコフの演奏で。なお、チャイコフスキーにも「ドゥムカ」というピアノ曲がある。

ショーソン/ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のためのコンセールは幻夢的。第2楽章は月の光に浮かび上がるまぼろし。

バルトークは『蜜蜂と遠雷』の本選で風間塵が弾くピアノ協奏曲 第3番を選んでも良かったのだが(アンダ&フィリッチャイ/ベルリン放送交響楽団)、2台のピアノと打楽器のためのソナタを取り上げたのには理由がある。バルトークはピアノを打楽器と見なしていることが明確に判る楽曲だからである。この作曲家独自のユニークな着想であり、他には余り例を見ない。アルゲリッチ、フレイエほかでどうぞ。

チェンバロは爪で金属弦をはじいて音を出す機構である。つまり撥弦楽器だ。だからハープ、ギター、琴、三味線の仲間ということになる。一方、ピアノはハンマーフェルトで弦を叩く打弦楽器だ。最も近い兄弟はイランのサントゥールやハンガリーのツィンバロム(ツィンバロン)。

Santur Cimbalom

木琴(シロフォン)・鉄琴も親戚筋に当たる。故にピアノと打楽器は相性が良いのである。『蜜蜂と遠雷』でマサルが弾くバルトーク/ピアノ・ソナタも、打楽器として扱われている。

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デュメイ/関西フィル「シンドラーのリスト」「ニュー・シネマ・パラダイス」

9月21日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。オーギュスタン・デュメイ(指揮・ヴァイオリン)/関西フィルハーモニー管弦楽団を聴く。

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  • ベートーヴェン:ロマンス 第2番
  • モーツァルト:セレナーデ 第7番「ハフナー」より第4楽章 ロンド
  • ジョン・ウィリアムズ:「シンドラーのリスト」テーマ
  • エンニオ・モリコーネ:「ニュー・シネマ・パラダイス」愛のテーマ
  • ガーシュウィン:2つの小品
    (休憩)
  • ドヴォルザーク:交響曲 第9番「新世界より」

前半がデュメイの弾き振り、後半は指揮に専念した。

デュメイのヴァイオリンの音色は高貴noble。「シンドラーのリスト」は深い哀しみがあった。それはweep(涙を流す)というよりは、greaf(絶望による悲痛・悲嘆)というニュアンスの方が近いと感じられた。

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柳家喬太郎なにわ独演会(昼・夜 通し)

9月14日(土)ドーンセンター・ホール@大阪市へ。柳家喬太郎の独演会を昼・夜 通しで聴く。

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昼の部

  • 林家八楽:からぬけ
  • 柳家喬太郎:初音の鼓
  • 柳家喬太郎:午後の保健室(喬太郎作)
  • 林家二楽・八楽:紙切り
  • 柳家喬太郎:縁切榎

夜の部

  • 林家八楽:子ほめ
  • 柳家喬太郎:親子酒
  • 柳家喬太郎:稲葉さんの大冒険(三遊亭圓丈作)
  • 林家二楽・八楽:紙切り
  • 柳家喬太郎:心眼

一席目と二席目の間に一旦舞台から退出する喬太郎。「一々高座をおりずに続けて演れば良いようなものですが、こういうのを専門用語で〈気を取り直す〉と申します」と(勿論、出鱈目)。

「午後の保健室」は3人の叙述トリックという手法が斬新。1人ならアガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」など数多(あまた)あるが、これだけの人数を出来るのは落語ならではだろう。

「稲葉さんの大冒険」において、松の木を背中に担いで移動する場面では「桂枝雀師匠『宿替え』へのオマージュです」と言い、喝采を浴びた。シュールで悪魔的。抱腹絶倒の新作落語。

「心眼」は三遊亭圓朝作。目が見えない方が、実は世の中のことをよく見通すことが出来るという皮肉。実に巧妙な噺である。

喬太郎の出演する落語会はもう数十回足を運んでいるのだが、未だに彼の新作「ハワイの雪」に当たっていない。もうそろそろ、関西でかけてくれませんか、喬太郎さん?

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「天気の子」劇場用パンフレット第2弾登場!〜新海誠監督が質問に答えてくださいました。

9月14日(土)より、新海誠監督「天気の子」劇場用パンフレット第2弾が発売された。

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「新海誠監督がみなさまからの質問にお答えします!」(36の質問)というコーナーがあり、1,000件を超える応募の中から、僕の質問が「君の名は。」に続いて採用された。

僕の質問は以下の通り。

船の甲板から転落寸前の帆高の手をキャッチして登場した須田は命の恩人であり、〈父親代わり〉の存在です。しかし物語の最後に帆高は須田に拳銃の銃口を向け、引き金を引きます。僕にはこれが象徴的な〈父親殺し〉に見えました。心理的〈父親殺し〉を経ることによって帆高は自我を確立し、陽菜にとっての「キャッチャー(大丈夫)」になれた。〈父親殺し〉は「天気の子」同様、空から魚が降ってくる村上春樹の小説「海辺のカフカ」のテーマでもあります。僕は「天気の子」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「海辺のカフカ」が三位一体のように感じるのですが、見当外れでしょうか?

新海誠監督からの回答は劇場用パンフレットを購入してお読み頂きたいが、かいつまんで言うと、『天気の子』の脚本を書き終えたあたりで「海辺のカフカ」を再読し、共通点の多さに少し驚いた。無意識のうちに影響を受けていたのかもしれない、ことのこと。

質問者の年齢が併記されているのだが、可笑しかったのは僕が最高齢だったこと。平均年齢が若い。

また「山本二三 気象神社絵画・天井画」のインタビュー記事も興味深く読んだ。「天空の城ラピュタ」「時をかける少女」の美術監督である。

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余談だが、採用されなかった質問も載せておこう。

オカルト雑誌のライター、須賀は船の甲板から転落しそうになった帆高のキャッチャー(捕まえ手)として登場します。帆高が熱心に読んでいるサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」において帆高が16歳の少年ホールデンだとすると、須賀は誰に相当するだろう?と考えて、ホールデンの恩師アントリーニ先生じゃないか、と思いました。アントリーニ夫婦はニューヨークのすごくしゃれた高層アパートメントに住んでおり、「入り口から二歩階段を下りたところにある居間に入ると、バーなんかもついている」と書いてあります(村上春樹訳、白水社)。一方、帆高が住み込みで働くことになる須田の事務所は半地下にあります。この暖かくて、子宮的なイメージの一致は新海監督が意図的にされた設定なのでしょうか?

 

映画「フィールド・オブ・ドリームス」にはサリンジャーをモデルにした黒人作家テレンス・マンが登場します(原作小説「シューレス・ジョー」ではサリンジャーその人となっています)。帆高はサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を熱心に読んでおり、映画の終盤に陽菜が天に昇る夢を帆高と陽菜の弟・凪、須賀、そして須賀の娘・萌花が共有します。一方、「フィールド・オブ・ドリームス」でも複数の登場人物たちが同じ夢を見ます。これは単なる偶然なのでしょうか、それとも監督が意図されたことなのでしょうか?



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映画「アス Us」とドッペルゲンガー

評価:A

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公式サイトはこちら

いわゆるドッペルゲンガー(二重身)ものである。簡単に言えば可視化された〈もう一人の自分〉。まずユング心理学に於ける影(シャドウ) の概念を知っておく必要がある。人の深層心理に存在する元型(archetype)のひとつで、ユングは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」と定義した。人格の否定的側面、隠したいと思う不愉快な性質、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の〈他者〉、自分自身の暗い側面などである。影(シャドウ) はしばしば他者に投影される。ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害、いけにえの羊(scapegoat)が代表例。影(シャドウ)が(他者への投影ではなく)独立して実体化した姿がドッペルゲンガーだ。一つの肉体の中で影(シャドウ)が主体と入れ替われば多重人格(解離性同一性障害)となる。「ジキルとハイド」が有名。

さらに本作では、ポスターでも分かる通り社会的元型ペルソナ(仮面)も加味されている。詳しくは下記事をお読み頂きたい。

ドッペルゲンガーものの最初がイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」(1966)であり、デヴィッド・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」(1999)、ダーレン・アロノフスキー監督「ブラック・スワン」(2010)ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 「複製された男」(2013)などが後に続いた。舞台作品ではミヒャエル・クンツェが台本を書いたウィーン・ミュージカル「モーツァルト!」がドッペルゲンガーものだ。

デヴィッド・リンチ監督「マルホランド・ドライブ」(2001)もこのジャンルに含めて良いかも知れない。いわば親戚筋にあたる。

「ゲット・アウト」でアカデミー脚本賞を受賞したジョーダン・ピール監督が「アス Us」で成し遂げた新基軸は、ゾンビ映画の構造をそのまま用いてドッペルゲンガーものに変換したことにある。アイディアが実に秀逸。〈自分自身が襲ってくる〉これは怖い。さらに貧富の格差が広がる一方の、アメリカ合衆国の社会問題にも切り込んでいる。地下トンネルに蠢く人々=Usは貧困層のメタファーでもある。

あとヒッチコック映画へのオマージュを強烈に感じた。ハサミで襲ってくる場面は「サイコ」(多重人格もの)だし、Usに押し倒され格闘するルピタ・ニョンゴが画面手前(観客側)にある凶器に手を伸ばす場面は明らかに「ダイヤルMを廻せ!」のグレース・ケリーそっくり。そしてUs に占拠された町から車で家族が脱出しようとするのは「鳥」のラストシーンといった具合。

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〈音楽の魔法〉映画公開目前!直木賞・本屋大賞ダブル受賞〜恩田陸「蜜蜂と遠雷」の魅力とそのモデルについての考察

直木賞・本屋大賞をダブル受賞した恩田陸の小説「蜜蜂と遠雷」は松岡茉優主演で映画化され、10月4日に公開される。公式サイトはこちら

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四人のピアニストがコンクールで競うのだが、それぞれ河村尚子(クララ・ハスキル国際コンクール優勝)、福間洸太朗(クリーヴランド国際コンクール優勝)、金子三勇士(バルトーク国際ピアノコンクール優勝/父が日本人で母がハンガリー人)、藤田麻央(チャイコフスキー国際コンクール 第2位)という、日本を代表する若手ピアニストたちが演奏を担当しているというのも大いに話題となっている。僕はこの内二人の実演を聴いたことがある。

恩田陸は執筆にあたり三年に一度開催される浜松国際ピアノコンクールに四回足を運び、ひたすら聴き続けたという。構想から十二年かけて小説は完成した。

ピアノを主題にした小説といえば「蜜蜂と遠雷」より先に、宮下奈都の「羊と鋼の森」が本屋大賞を受賞している。

恩田陸が浜松で取材を始めたのが2006年のコンクールから。編集者の志儀氏によると、それから二年以上も全く書かなかったそうだ。雑誌で連載が始まったのは2009年4月、終わったのが2016年5月。足掛け七年かかっている。一方、「羊と鋼の森」の連載開始が2013年11月なので「蜜蜂と遠雷」の方が早い。恩田が「二次予選で風間塵を敗退させる」と言い出した時、志儀氏は「さすがにそれはダメだ」と言った。

2003年に書類審査で落とされたピアニストが敗者復活的なオーディション@ウィーンで拾われ、浜松の本選で最高位(第1位なしの第2位)に入った。ポーランド生まれのラファウ・ブレハッチである。それまで自宅にアップライトピアノしかなく、コンクール出場直前になってワルシャワ市がグランドピアノを貸与したという。そしてブレハッチは2005年にショパン国際ピアノコンクールで優勝した。なお現在は審査方法が変わり、予備審査は書類だけではなく演奏DVDの送付が義務付けられるようになったそう(音声データだけでないのは替え玉応募を防ぐためだろう)。

ブレハッチのエピソードが「蜜蜂と遠雷」の風間塵に反映されているのは言うまでもない。またトリックスター的彼の性格は、クロアチアのピアニスト、イーヴォ・ポゴレリチを彷彿とさせる。破天荒なポゴレリッチの演奏は1980年のショパン国際ピアノコンクールで物議を醸し、予選で落選。審査員の一人マルタ・アルゲリッチは「彼は天才よ!」と選考結果に激昂し、辞任した。彼女が審査員として復帰するまでそれから20年を要した。世に言う「ポゴレリッチ事件」である。事態を重く見た事務局は急遽彼に審査員特別賞を与えることにした。かえってこの騒動で一気にスターダムにのし上がったポゴレリッチはドイツ・グラモフォンと契約し、数多くのアルバムをリリースした。

トリックスター・風間塵(16歳)は「ギフト」か「災厄」か?彼は師匠ホフマンに「狭いところに閉じこめられている音楽を広いところに連れ出す」と約束していた。小説の最後で少年は夜明けの海の波打ち際に立ち、こう思う。「耳を澄ませば、こんなにも世界は音楽に満ちている」とても魅力的なキャラクターである。彼を本選まで残した幻冬舎の編集者・志儀氏の判断は正しかった。

僕は全日本吹奏楽コンクールが普門館で開催されている時代に〈高校の部〉を3年連続で聴いたことがあるので、何となくコンクールというものの雰囲気が分かる。一番目に演奏するコンテスタントが不利というのも同じ。審査のたたき台にされ、様子見で高得点が出ないのである。そして朝から晩まで一日中聴き続けているだけで、最後はヘトヘトに疲れる。これを何日も続ける審査員は本当にご苦労様である。

浜松国際ピアノコンクールはブレハッチ以外にも、次のようなスターを世に送り出した。

  • 第4回 第2位:上原彩子→チャイコフスキー国際コンクール優勝
  • 第7回 優勝:チョ・ソンジン(韓国)→ショパン国際ピアノコンクール優勝

小説の中でコンテスタントのひとり、ジェニファ・チャンは「女ラン・ラン」と呼ばれ、次のように描写されている。

ふと、最近のハリウッド映画はエンターテイメントではなく、アトラクションである、と言った映画監督の言葉を思い出す。チャンの演奏は、なんとなくそれに近いような気がする。

これは正にラン・ランの演奏を聴いたときの僕の印象を的確に言い当てている。確かにテクニックは完璧で達者だから感心はするのだけれど、後に何も残らない。すなわち、感動はしないのだ。

また楽器店勤務のサラリーマンで年齢制限ギリギリでコンクールに参加する高島明石はこう問う。「生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか」ー明石のモデルは間違いなく宮沢賢治だろう。賢治は詩や童話を書きながら、同時に農民として汗水たらして働いた。賢治の詩「春と修羅」をモチーフにしたコンクール課題曲を一番共感を持って弾くのが明石なのは決して偶然じゃない。

浜松はYAMAHAの町であり(本社がある)、ヤマハ吹奏楽団浜松は全日本吹奏楽コンクール職場の部の金賞常連団体である(指揮者は須川展也)。〈生活者の音楽〉というか、「セミ・プロじゃん、ズルい!」という気がしないでもない。

因みに映画で課題曲「春と修羅」は大阪出身の藤倉大が作曲している(現在はイギリス在住)。彼が「尾高賞」を受賞したオーケストラ曲"secret forest"世界初演を僕はいずみホールで聴いた。作曲家も来場していた。

「春と修羅」は無調音楽だが決して耳に不快ではなく、美しく宇宙的広がりを感じさせるものに仕上がっている(既に配信された音源を聴いた)。四人のコンテスタントがそれぞれ別のカデンツァを弾く趣向も個性が出て愉しい。

ラファウ・ブレハッチは恩田陸との対談で恩田から「演奏を終えて『今日はよくできた』と思う日もありますか」と訊かれ、次のように述べている。

ピアノも調律も音響も、その他の条件も全て整っている環境で、満員のお客様が期待に満ちて待っている中、私も完璧に深い演奏ができたなら、ある種の満足感は得られるでしょう。しかし、たとえそうであっても、翌日はまた別の演奏になります。結局のところ、究極の理想に近づいていく過程こそが美しいのであって、生きている間はその理想にはたどり着けないのではないでしょうか。 (出典はこちら

まるで哲学者のような奥深い言葉だ。そして「蜜蜂と遠雷」は正にその過程を描いている。〈ミューズ(音楽を司る女神)との対話〉と言い換えても良い。だから読んでいるうちに、審査結果(順位)なんかどうでもよくなってしまう。だってそれがゴールじゃないのだから。そこからはじまるのだ。恩田によると、本選まではやって、結果わからずで終わらせようか、なんていう案もあったという。当初の構想のままで良かったのではないだろうか?

幼馴染で、コンクール会場で久しぶりに再会した亜夜(嘗ての天才少女)とマサル(ジュリアードの王子様)の会話。

「あたし、プロコフィエフのコンチェルトって全部好き。プロコフィエフって踊れるよね」
「踊れる?」
「うん、あたしがダンサーだったら、踊りたい。バレエ音楽じゃなくても、プロコフィエフの音楽って、聴いてると踊っているところが見える」
(中略)
「僕、三番聴いていると、『スター・ウォーズ』みたいなスペース・オペラを想像するんだよね」
「分かる、宇宙ものだよね、あれは。二番はノワール系」
「そうそう、暗黒街の抗争みたいな」

これにはとても共感した。「スター・ウォーズ」の音楽に出会ったとき、僕は小学校高学年だった。その頃からジョン・ウィリアムズはプロコフィエフの影響を受けているなと強く感じていた。特に「スター・ウォーズ」の”小人のジャワズ”、そして「スーパーマン」の”レックス・ルーサーの小屋”におけるファゴットの使い方が、凄くプロコフィエフ的なんだ。

マサルはラフマニノフのピアノ協奏曲 第三番について「ピアニストの自意識ダダ漏れの曲」と表現する。またショパンについては、本選で協奏曲の指揮をする小野寺の心情が次のように綴られている。

ソリストには憧れの名曲といえど、オーケストラにとっては退屈という曲が幾つかあるもので、ショパンの一番はそれに含まれるのではなかろうかと思う。小野寺は、ショパンコンクールの本選はショパンの一番と二番という選択肢しかないから、幾ら国の誇りであり、ショパン好きであっても、オーケストラはさぞしんどいだろうな、と密かに同情している。

全く同感である。はっきり言って”ピアノの詩人”ショパンのオーケストレーションは稚拙だ。しばしばシューマンのオーケストレーション技術が問題とされ、彼の交響曲を振る時にマーラー編曲版のスコアを使う指揮者も少なくないが(トスカニーニ、シャイー、スダーンら)、ショパンに比べればよほどマシである。ショパンの協奏曲におけるオーケストラの役割は添え物でしかなく、特にトランペットなんか伴奏の和音を間抜けにプープー吹くだけ、といった体たらくだ。

膨大なディスコグラフィを残したヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルはラフマニノフの二番を一度だけワイセンベルクと録音しているが、三番は皆無。ショパンの一番も全く録音を残していない(他者が編曲したバレエ音楽「レ・シルフィード」は一度だけある)。レナード・バーンスタインも同様。つまり演奏する価値がないと見なしていたわけだ。天下のウィーン・フィルもショパンの一番をレコーディングしたのはラン・ランと一回きり。超一流オケは歯牙にもかけないのである。

あと次の一節が心に残った。

音楽家というのは、自分のやりたい音楽が本当に自分で分かっているとは言いがたい。長くプロとしてやってきていても、自分がどんな演奏家なのか実は見えていない部分もある。好きな曲ややりたい曲と、その人に合っていてうまく表現できる曲は必ずしも一致しない。

アマチュア吹奏楽の世界にも同じことが言える。普段のポップス・コンサートでは伸び伸びと、水を得た魚のようにピチピチ跳ねるパフォーマンスを展開するのに、吹奏楽コンクールになると途端に硬い、オーケストラの編曲ものを選んでしまい、窮屈で縮こまった演奏に終始して実力を発揮仕切れない団体を何度も目撃して来た。

恩田陸の小説は昔から好きで処女作「六番目の小夜子」から読んでいる。やはり本屋大賞を受賞した「夜のピクニック」や、疾風怒濤の息もつかせぬ展開をする「ドミノ」も良かったが、北の湿原地帯にある全寮制の学園で展開される幻想的な「麦の海に沈む果実」がこれまで一番のお気に入りだった(萩尾望都の漫画「トーマの心臓」とか、金子修介監督の映画「1999年の夏休み」に近い世界観)。しかし間違いなく「蜜蜂と遠雷」こそ、現時点で彼女の最高傑作だろう。ただし、マサルがリストのピアノ・ソナタを演奏する場面で、わけのわからない中世の物語が登場したのはいただけなかった。僕が幻冬舎の編集者だったら、「恩田さん、これはあかん。話が陳腐やわ」と駄目出しをしただろう。志儀氏は「仕方ないけど、この手は1回だけにしようね」と言ったそう(出典はこちら)。映画版ではどう処理するのだろう?僕がこの曲からイメージするのはエミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」かな。あのムーア(荒野)の感じとか、ヒースクリフの〈狂恋〉がピタリとはまるように思う。

なお現在、〈映画「蜜蜂と遠雷」公開記念!これだけは聴いておきたいピアノの名曲・名盤30選〉というブログ記事を鋭意作成中。乞うご期待!!10月4日には間に合わせます。

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タランティーノの「野生の思考」

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」もそうなのだが、クエンティン・タランティーノ監督(以下、タラちゃんと呼ぶ)の作品は映画的記憶に満ちている。その愛はどちらかというとB級映画・TVに傾いている。例えばセルジオ・レオーネが監督しエンニオ・モリコーネの音楽が鳴り響くマカロニ・ウエスタン(英語ではSpaghetti Western)であるとか、「キル・ビル」でオマージュを捧げた梶芽衣子主演 「修羅雪姫」 や、千葉真一主演「服部半蔵 影の軍団」といったようなものたちである。

Onceuponatime

TBSラジオ「アフター6ジャンクション(アトロク)」でパーソナリティを務めるラップグループRHYMESTER宇多丸がタラちゃんにインタビューした際、「貴方の作品にヒップホップ・アーチストが用いる手法に近いものを感じる」と話すと、彼は素直にそれを認めた。では宇多丸が指摘した、ヒップホップにおける〈サンプリング〉とは何か?Wikipediaから引用しよう。

既存(過去)の音源から音(ベース音等)や歌詞の一部分を抜粋し、同じパートをループさせたり継ぎ接ぎするなど曲の構成を再構築することで名目上別の曲を作り出す手法のこと。あくまで曲の一部分を引用するだけなので、基本的な歌詞やメロディーラインをそのままなぞるカバーやアレンジとは別物である。

そうか、タランティーノ映画の本質は〈ブリコラージュ〉なんだ!とそこで、はたと気づいた。フランスの文化人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)が著書「野生の思考」で提唱した概念で、神話的思索の方法である。

ブリコラージュは「器用仕事」とか「寄せ集め細工」「日曜大工」と訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。ブリコルール(器用人)は手持ちのものを調べ直し、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選び、組み立てる。夜遅く帰宅し、冷蔵庫にあるありあわせのものでちょちょいと料理するイメージだ。

つまり音楽のサンプリングブリコラージュに他ならず、タラちゃんも同様な「野生の思考」をしている。敵を火炎放射器で焼き殺すなんて発想もその賜物だろう。既成の映画音楽を再使用するやり方もブリコラージュそのものだ。

タラちゃんの映画に感じる野性味はその残酷描写にだけではなく、ブリコラージュという他の映画作家には余り見られない手法にもあったということがよく分かった。

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映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の基礎知識(または、ポランスキーという男)

評価:A 公式サイトはこちら

Once

1969年のハリウッドを舞台にした本作を愉しむ上で、知っておくべき基礎知識を挙げておく(特に最初の2項目は最重要)。

マンソン・ファミリーシャロン・テート事件、ヒッピー、反戦運動(ベトナム戦争)、いちご白書(大学闘争)、トリュフォーやゴダールによるカンヌ国際映画祭粉砕事件(五月革命)、アメリカン・ニューシネマ(俺たちに明日はない/イージー・ライダー)、マカロニ・ウエスタン(英語ではSpaghetti Western)

ウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイ主演「俺たちに明日はない」(1967)の監督として当初、フランソワ・トリュフォーに白羽の矢が当たったが断られ、次にジャン・リュック・ゴダールに依頼されたがやはり合意に至らなかった。つまり、〈フランス・ヌーヴェルヴァーグ→アメリカン・ニューシネマ〉という流れは抑えておきたい。共通項は〈既存の価値観・システムの破壊〉であり、ヒッピーなどのカウンターカルチャー、学生運動に繋がっている。マンソン・ファミリーはその文脈の中にある。

本作のタイトルそのものが、マカロニ・ウエスタンで名を揚げたセルジオ・レオーネ監督の映画"Once Upon a Time in the West(ウエスタン)" および、"Once Upon a Time in America" へのオマージュである。

劇中、車を運転しているブラッド・ピットが、道路脇でヒッチハイクをしようとしているヒッピー娘と目が合い、その時に流れ出す曲がサイモン&ガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」。そうか、マイク・ニコルズ監督の「卒業」が公開されたのはこの頃だ、と嬉しくなった。

あと映画のエンディングで流れる曲が、僕の偏愛するモーリス・ジャールが作曲した映画「ロイ・ビーン」の音楽だったので感激した。ポール・ニューマン主演、ジョン・ヒューストン監督による西部劇。ちゃんとサントラCD持ってるよ!

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クエンティン・タランティーノ監督はセルジオ・レオーネと長年組んでいたエンニオ・モリコーネが大好きで、「ヘイトフル・エイト」の音楽をモリコーネに依頼してそれがアカデミー作曲賞初受賞に結実したのだけれど、まさか今回モーリス・ジャールで来るとは。憎いねぇ〜。

シャロン・テートが夫ロマン・ポランスキー(ポーランド出身の映画監督)へのプレゼントとして本屋で購入するのがトマス・ハーディの「テス」。1977年にポランスキーはジャック・ニコルソン邸での少女淫行の罪で逮捕され、一時釈放中に国外脱出して79年にイギリスでこの小説を映画化することになる(主演したナスターシャ・キンスキーとも、彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいたという)。以後、彼はアメリカへ一度も入国していない。 #MeToo 運動を受けて、ポランスキーは2018年5月に映画芸術科学アカデミーから除名されるのだけれど、おせぇよ!!事件から41年も経っているんだぜ。しかもその間に「戦場のピアニスト」(2002)で彼にアカデミー監督賞を与えてるし。勿論、逮捕・収監の可能性があるためポランスキーは授賞式に参加していない。

シャロン・テートを演じたマーゴット・ロビーが素晴らしい。特にミニ・スカート姿が超キュート。彼女が映画館で自分の主演作を観る場面があるのだけれど、スクリーンに映し出されているのはシャロン・テート本人。これが正に至福の時間であり、彼女を〈事件の被害者〉ではなく、〈映画女優〉として現代に蘇らせようとしているタランティーノの優しさ・愛に心打たれた。

実は予感があった。「イングロリアス・バスターズ」でタランティーノはアドルフ・ヒトラーとナチスの高官たちを、パリの映画館で焼き殺している。つまり彼は歴史を修正することを厭わない。ならばシャロンが死なない道(選択肢)もあり得るのではないか?……そして実際どうだったかは映画を観てのお楽しみ。ネタバレ無し

あとレオナルド・ディカプリオ演じる役者のモデルはマカロニ・ウエスタン(荒野の用心棒/夕陽のガンマン/続・夕陽のガンマン)で大スターとなったクリント・イーストウッドと思われる。

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