【考察】新海誠監督「天気の子」の神話学
神話としての「天気の子」を読み解くに当たり、フランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)の考え方をご紹介しておこう。
南北アメリカ大陸の先住民の神話を詳細に研究した「神話論理」四部作で彼は次のように説く。
神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続と不連続のあいだの調停である。
自然と文化の対立を語る神話が、様々なコードを用いて様々な二項対立(天と地、生のもとと火にかけたもの、新鮮なものと腐ったもの、裸と着衣、空っぽのものと詰まったもの、容れるものと容れられるもの=能動と受動、内のものと外のものなど)を語るのは、この調停不可能な根源的対立の調停を行う(隔たりを緩和したり、その間を循環する第三の項〘例えば天と地を結ぶつる植物〙を導入する)ためである。自然から文化への移行は、連続体としての自然に差異を導入して不連続化することによってなされる。この不連続化は言葉と交換(彼の著書『親族の基本構造』で明らかにされたように女性や財の交換)による他者とのコミュニケーションという、人間社会の基本的条件をもたらす。
「天気の子」には、
空(雲)・彼岸(ひがん)↔東京という大都会・此岸(しがん)
という二項対立がある。これは、
自然↔文化
を意味している。さらに、
神(永遠の命・連続)↔人間(限りある命・不連続)
重力からの開放↔重力による拘束
に繋がる。ではその二項対立の間を結ぶ第三の項は何か?
〈神(空)→人〉へのメッセージとして次のようなものが挙げられる。
- 雨、水の魚
- 落雷
- 雲の切れ間から光が差し込む“天使のはしご”
逆に、〈人間→神〉へ語りかけるためのコミュニケーション・ツールとして次のようなものがある。
- 精霊馬(しょうりょううま):ご先祖様をお迎えしたり、お送りしたりする乗り物。 主に夏野菜の「キュウリ」と「ナス」で作られる。
- お盆の迎え火(煙)
- 巫女・人柱=陽菜
死者を荼毘に付した際に立ち上る煙(けぶり)を題材にした、次のような和歌もある。
- 空蝉はからを見つつもなぐさめつ深草の山煙だに立て(古今)
- あはれ君いかなる野辺の煙にてむなしき空の雲となりけむ(新古今)
主人公の帆高は陽菜が〈人柱〉になることを全身全霊で否定する。つまり神(天気)と人間(文化)間の調停を拒むわけだ。ここが新しい。人間の業(ごう)の肯定。交渉は決裂したため、文化(都市)は水没し、自然に還る。
エンドロールに流れるRADWIMPSの野田洋次郎が作詞した「愛にできることはまだあるかい」の歌詞を見てみよう。
何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたか
なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも、きれいかい
答えてよ
これは、命に限りのあるもの(人間)=不連続 が、永遠の命を有するもの(神)=連続 に対して発した問いである。
そもそも映画(アニメーション)作りとは、命に限りのあるもの(人間)が、永遠の命を有するもの(映画)に、その想いや願いを託すことであると定義出来る。
さらに、「天気の子」に認められる顕著な二項対立として、
帆高(16歳の家出少年)↔社会
が挙げられる。
アドレッセンス(思春期)↔インチキな(phony)大人たち
の対決と言い換えても良いだろう。
その調停を担うのが拳銃であり、(象徴的な)「父親殺し」を経て帆高は社会(代表者:須賀)と和解する。
そもそも、
キミとボクの幸せ・愛↔世界の秩序・均衡を保つという大義・正義
の対立が”セカイ系”の基本構造であった。
次にユング心理学の手法を用いて「天気の子」を見てみよう。耳慣れない用語があれば、下記事を参考にされたし。
- 〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その1〉こころの図〜自我・自己・意識・無意識
- 〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その2〉太母・老賢人・子供・アニマ・アニムス・ペルソナ
- 〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その3〉影・トリックスター・ヌミノース
帆高にとって陽菜はアニマ(男性が抱く内なる女性像)であると言える。陽菜の弟・凪はinnocent(純真な)子供元型 Archetypeであると同時に、男女入れ替わりをするので、いたずら好きなトリックスターの役割も担っている。オカルト雑誌のライター・須賀は「なりたくない自分」、つまり影(シャドウ)だ。
須賀圭介は過去に囚われている。個人事務所「K&Aプランニング」のKは圭介、Aは死んだ妻・明日花の頭文字である。3年後(エピローグ;令和6年)に有限会社から株式会社に成長しても「K&Aプランニング」という名前を変更しない。旧事務所の冷蔵庫には明日花が書き残したメモが張りっぱなしであり、圭介は薬指に結婚指輪を2本はめている(1つは明日花のもの)。つまり須賀は延長された青春(アドレッセンス)を今も生きている(ゼルダという伴侶を得てジャズ・エイジを謳歌したアメリカの作家スコット・フィッツジェラルドみたいに)。だから、帆高が人生を棒に振っても会いたい子(陽菜)がいるという話を刑事から聞いて涙を流す。しかし同時に須賀はそんな〈駄目な自分〉を自覚しており、〈大人にならなければならない〉と自らに言い聞かせてもいる(須賀の台詞「ーもう大人になれよ、少年」)。故に彼は雨水で溢れた半地下の窓を開き、事務所を水浸しにしてしまう。無意識の内に〈過去を洗い流そう〉としたのだ。そしてクライマックスの廃ビルで須賀は大人の仮面(ペルソナ、社会的元型)を被り、「警察に自首しろ」と〈世間の常識〉を振りかざし帆高を説得しようとする。しかし帆高は拳銃を撃ってその仮面を割り、剥ぎ取る。こうして我に返った須賀は一転して帆高を助ける。
劇中に登場する占い師の女性、瀧の祖母(立花冨美)、そして気象神社の神主は老賢人(The Wise Old Man/Woman)だ。さらに雲の周囲を泳ぐ龍は帆高を呑み込むので、日本の昔話に登場する山姥と同じ意味合い=太母(The Great Mother)と言える。五十嵐大介の漫画「海獣の子」における、ザトウクジラの果たす役割だ。「天気の子」にもクジラが登場するのは決して偶然ではない。
また陽菜の体を取り巻く〈水の魚〉はヌミノース(宗教体験における非合理的なもの)である。それは波動であり、リズムだ。音楽用語で言えばグルーヴが該当する。
こうして見ていくと、「天気の子」のプロットがいかに入念に練られたものか、良くお判り頂けたのではないだろうか?
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