サリンジャー(著)村上春樹(訳)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
何故今、「キャッチャー」なのか?それは2019年7月19日になれば自ずと分かるだろう。
J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を最初に読んだのは大学生くらいの頃。野崎孝の訳だった。主人公のホールデン・コールフィールドに全く感情移入出来なかったし、ちっとも面白くなかった。どうしてこれが20世紀アメリカ文学を代表する作品と讃えられているのか、僕にはさっぱり理解出来なかった。
今回村上春樹の訳で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社)を読み直して、随分印象が変わった。
この現象って、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の場合に似ている。やはり20歳の頃、野崎孝の訳で「華麗なるギャツビー」を読んで退屈で死にそうになったのだが、20年後に村上春樹の訳で読み直し深い感銘を受けた。多分、野崎孝のせいではないだろう。僕自身が変わった(成長した??)のだ。息子が生まれたということも大きい。
ホールデンは16歳で、ペンシルベニア州の田舎にある全寮制高校を退学処分になり、ひとりぼっちで大都会ニューヨークに出て来て彷徨する。彼は煙草を吸ったり酒を飲み虚勢を張っているが、実際のところは繊細で傷付きやすく、痛々しい”硝子の少年”である。そういうのが行間から滲み出しているのだが、大学生の僕には読み取れなかった。
ホールデンは反抗的で饒舌だが、その仮面(ペルソナ)の裏側にはヒリヒリするような焦燥感や空虚さを抱え、愛されることを切実に求めている。世間の荒波にもまれ、もがいている様子がいじらしい。本文中「落ち込んでしまった」という言い回しが繰り返され、彼はしばしば泣く。
この小説は一般に言われるような、「社会に反抗する純粋(innocent)な若者の物語」じゃ全然ないなと思った。むしろイノセンスの役割を担っているのはホールデンの妹フィービーや、白血病で亡くなった弟アリーである。フィービーやアリーこそ、ホールデンにとっての子ども元型(永遠の少年=プエル・エテルヌス)であろう。
ホールデンの語りで彼の兄DBは作家で、四年間軍隊に入っていて戦場に行ったことが分かる。Dデイに敵前上陸もしたという。これはサリンジャー自身のことである。彼は自ら志願して陸軍に入隊し、ノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加した。その後、ナチスが建設したユダヤ人絶滅収容所の惨状も目の当たりにし、後年手の震えが止まらないなどPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされることになる。なお、彼の父はポーランド系ユダヤ人だった。
サリンジャーの(「ナイン・ストーリーズ」に収録された)短編を映画化した「愚かなり我が心」が公開されたのが1949年のクリスマス。評判は惨憺たるものでこれを観て激怒したサリンジャーは以後、二度と自作の映画化を許さなかった。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が出版されたのは1951年7月16日である。だから本文中で映画のことをこてんぱんに貶している。「キャッチャー」はビリー・ワイルダー(「サンセット大通り」「アパートの鍵貸します」)やエリア・カザン(「波止場」「エデンの東」「草原の輝き」)ら、錚々たる映画監督たちが映画化を希望したが、サリンジャーは決して首を縦に振らなかった。
DBは魂をハリウッドに売り渡した。映画嫌いのホールデンとしてはそれが許せない。つまりDBはこれから社会に出る上での規範であると同時に、「なりたくない自分=影」でもある。ここらへんの相反する心情が実に複雑で味わい深い。
この小説の主人公はイノセントな子どもにも戻れないし、かといってインチキ(phony)な大人にもなりたくない。移行期の真っ只中で宙ぶらりんだ。その揺らぎこそが、本作の核(コア)だろう。
崖っぷちにあるライ麦畑で子どもたちが無心に遊んでいる。我を忘れて駆け出して崖から落っこちそうになる子どももいる。そんな彼らを見張り、危ない時は捕まえてあげるような大人になりたいとホールデンは言う。しかし本当は、キャッチして欲しいのは自分自身なんだよね。でも誰ひとりとして、彼をしっかりと抱きしめてくれる人はいない。だから「ライ麦畑でつかまえて」という最初の邦題は中々秀逸である。これを(Catcherは”捕まえる人”だから)誤訳だと言い立てる輩もいるのだが、作品の本質を全く理解していない妄言であろう。
結論。「キャッチャー」という小説は一言で表現するなら、「不安定で孤独な魂が、自己のあるべき場所を探して、大都会を無我夢中で彷徨う(右往左往する)物語」と言えるのではないだろうか?しかし結局、答えは見つからないまま幕を閉じる。
ケヴィン・コスナーが主演した映画「フィールド・オブ・ドリームス」(1989)に登場する作家テレンス・マンはサリンジャーをモデルとしており、W.P.キンセラの原作小説「シューレス・ジョー」では隠遁生活を送るサリンジャーその人として登場する。つまり〈ライ麦畑→トウモロコシ畑〉に変換されているのだ。映画の中で、有害図書を禁止しようとするPTA集会が開かれるが、その攻撃対象となっているのは言うまでもなく「キャッチャー」だ。天からの声"Ease his pain"(彼の傷を癒せ)の彼=サリンジャーである。
人間不信に陥ったサリンジャーは、「キャッチャー」の訳者あとがきを載せることさえ許さなかった。だから村上春樹が書いた幻のあとがきは、彼と柴田元幸(英米文学翻訳家)との対談本「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)に収録されている。これはたいへん示唆に富む内容である。
トルーマン・カポーティは子ども(イノセンスの魔法)から一気に大人になり、アドレッセンス(思春期)という移行段階がない。スコット・フィッツジェラルドはアドレッセンス(思春期)がいちばん大切であり、彼にとっての少年時代のイノセンスはあくまでアドレッセンスへの準備段階で、アドレッセンスの大きな賞品である妻ゼルダを手に入れたフィッツジェラルドは引き伸ばされた青春を謳歌した。サリンジャーの場合はヨーロッパの戦場で激しい戦闘に参加しアドレッセンスを奪われ、「キャッチャー」を書くことで宙ぶらりんで困惑しかなかった思春期を総括している。そこで自分が成人社会よりも、子どものイノセンスのほうに激しく惹かれていることを確認する、という村上の分析はお見事と言うしかない。しかし結局、サリンジャーの子どもへの信頼は後年裏切られることになるのだが……。
あとサリンジャーとグレン・グールド(ピアニスト)との類似点についての村上の指摘には唸った。
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