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父親殺し〜【考察】新海誠監督「天気の子」の心理学

ネタバレあります。未見の方は要注意。また、下記事も合わせてお読み下さい。

1)父親殺し

映画の冒頭、主人公である16歳の家出少年・帆高は「さるびあ丸」という船で離島から東京に向かっている途中に異常気象の雨に襲われ、甲板から転落しそうになったところをオカルト雑誌のライター、須賀圭介に助けられる。つまり、手をキャッチされる。これは帆高が読んでいるサリンジャー(著)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の内容に呼応している。

崖っぷち近くにある、だだっ広いライ麦畑で子供たちが大勢集まって何かゲームをしている。中には前をよく見ていなくて勢い余って崖から落ちそうになる子がいる。彼らをそっと見守り、危ない時はキャッチ(捕手)してあげられるような大人になりたい、と16歳の主人公ホールデンは妹フィービーに対して語る。

父親不在の「天気の子」において、Catcher(命の恩人)として登場した須賀は、帆高にとっての〈父親代わり〉となる。 社会に出たときの規範であると同時に、胡散臭い男なので〈なりたくない自分=〉でもある。つまり相反する感情がそこにはある。

帆高=ホールデンならば、〈父親代わり〉としての須賀は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 に於ける誰に対応するだろう?と僕は考え、ホールデンが退学した学校の恩師アントリーニ先生かな、と思った。

アントリーニ夫婦はニューヨークのすごくしゃれた高層アパートメントに住んでおり、「入り口から二歩階段を下りたところにある居間に入ると、バーなんかもついている」と書いてある(村上春樹訳、白水社)。

ここで村上春樹と柴田元幸(東京大学名誉教授)の対談「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)から引用しよう。

柴田 あのアパートメントというのが、何段か階段を降りてリビングに入っていくようになっているということが書いてあって、ちょっと地下なんですよね。それであそこだけ、暖かい。なんとなく子宮的。
村上 たしかにそうですね。フィービーの部屋だって暖かくないです。

僕はハッとした。帆高が住み込みで働くことになる須田の事務所は半地下にあるのだ!

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「東京って怖えぇ」と言う帆高にとって、須田の事務所は暖かく、穴ぐらにある隠れ家のような落ち着ける場所である。

須賀の娘・萌花は喘息を患っている。そしてアントリーニ先生の奥さんも喘息がひどい。ここにも共通項がある。

アントリーニ先生はホールデンに次のように言う。「私の目にはありありと見えるんだよ。君が無価値な大義のために、なんらかのかたちで高貴なる死を迎えようとしているところがね」(村上春樹訳、白水社)。まるで「天気の子」のヒロイン・陽菜に対する言葉みたいではないか。

映画のクライマックスで帆高は須田に銃口を向け、引き金を引く。これは通過儀礼としての象徴的な〈父親殺し〉であると言えるだろう。つまり「僕はあんたたちみたいに”常識”とか”倫理”に囚われたインチキな(phony)大人には絶対ならない!そうなるくらいならいっその事、青臭い(=童貞)と言われようがアドレッセンス(思春期)に留まる」という決意表明と解釈出来る。

その直後、警官に取り囲まれた帆高を助けるために陽菜の弟が飛び込んでくる。それまで彼を「センパイ」と呼んでいた帆高は「凪 !?」と叫ぶ。さらに天空にいる陽菜を奪還する場面で初めて彼は「陽菜さん」ではなく、「陽菜!」と呼び捨てにする。つまり、姉弟に対して〈弟分〉のような甘えた気持ちで接して来た帆高は、〈父親殺し〉を契機に〈家長〉としての自覚を持ったのである。そして2年半後、嘗て「大人になれよ、少年」と言っていた須田は帆高を「青年」と呼ぶ。

「天気の子」同様、空から魚が降ってくる村上春樹の小説「海辺のカフカ」は15歳の少年が主人公で、父親から「母と交わり父を殺し、姉とも交わる」という呪いをかけられたため家出を決意する。ベースにあるのはギリシャ悲劇「オイディプス(エディプス)王」。つまり〈父親殺し〉をめぐる物語だ。「天気の子」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「海辺のカフカ」は密接に繋がっている(三位一体)。「君の名は。」でいうところの〈ムスビ産霊〉〉だ。

エンドロールでRADWIMPSの野田洋次郎はこう歌う。

君にとっての「大丈夫」になりたい

帆高は心理的な〈父親殺し〉を経ることにより文化的社会的規範から自由になり、自我を確立して陽菜にとっての「キャッチャー」になったのである。

新海誠は長野県小海町の建設会社「新津組」(公式サイトはこちら)社長の息子として生まれた。父は息子に家業を継がせるつもりだったと語っている(記事はこちら)。しかし新海はアニメーションという仕事を選んだ。そこには当然大きな葛藤があったろう。心理的な〈父親殺し〉が必要だったのかも知れない(「新津」を捨て「新海」を名乗る)。なお、新海と父の関係は「君の名は。」のテッシー(勅使河原)父子に投影されている。

2)夢の効用〜「フィールド・オブ・ドリームス」

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (古今集)

陽菜が天に昇る夢を帆高と陽菜の弟・、須賀、そして須賀の娘・萌花が同時に見る。つまり四人は夢を共有している。そこには〈夢の通い路〉〈夢の直路(ただち)〉がある。

はかなしや 枕さだめぬ うたたねに ほのかにまよふ 夢の通ひ路(千載集)

恋ひわびてうち寝るなかにいきかよふ夢の直路はうつつならなむ(古今集)

映画「フィールド・オブ・ドリームス」にはサリンジャーをモデルにした作家テレンス・マンが登場する(原作小説ではサリンジャーその人となっている)。

そして「フィールド・オブ・ドリームス」でも複数の登場人物たちが同じ夢を共有する。これって単なる偶然だろうか?

3)人柱は何故生まれたか?

旱魃(かんばつ)という言葉の、旱(かん)は「ひでり」、魃(ばつ)は「ひでりの神」を意味する。中国神話によると、中国を統一した黄帝は戦争の際、敵陣営の風雨を司る雨師と風伯に対抗して体内に大量の熱を蓄えている娘・魃を呼び寄せ対抗した。魃が雨を止めることで黄帝は勝利を掴んだが、魃は力を使いすぎて天へ帰れなくなっていた。日照りが続いたため、魃は北方の山中に幽閉された。跋は日本における巫女のような存在であり、100%の晴れ女である。

古代アステカ人は雨乞いや豊穣を祈願して人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。またマヤ文明に於いて旱魃は雨の神チャクの怒りによるものだと考えられたため、14歳の美しい処女を選び、聖なる泉に生贄として捧げた。この生贄の儀式はメル・ギブソンが監督した映画「アポカリプト」にも描かれている(ダイヤログは全編マヤ語)。

人柱など人身御供は〈神とのコミュニケーション〉の手段として活用された。人と人とのコミュニケーションの基本は〈価値の交換〉である。言葉の交換もそうだし、物々交換の代わりとして現在では貨幣経済が主流となった。貨幣が〈価値の担保〉になったのである。同様に人が神様に何かをお願いするためには、等価のものをこちらから差し出さなければならない。つまり〈代償を支払う〉必要がある。それが人柱、人身御供だ。

4)指輪は何故、陽菜の指をすり抜けたのか?

「天気の子」のクライマックスで昇天した陽菜の指から、帆高から貰った指輪が抜け落ちる。多くの人はこれが、陽菜の体が透明になったせいだと考えているが、果たしてそうだろうか?ならば、陽菜が着ている服やチョーカー(首飾り)も地上に落下しなければ矛盾する。

人柱になった陽菜は神への供物であり、巫女=コミュニケーション・ツールだ。巫女は処女でなければならない。しかし男から貰った指輪は穢(けがれ)だ。だから神は弾き飛ばしたのである。

助けに来た帆高は陽菜がいる、かなとこ雲の上(=神の座)に乗ることが出来ない。それは彼が穢(けがれ) だからである。

5)「崖の上のポニョ」

本作は「天空の城ラピュタ」との類似点を沢山指摘出来る。陽菜が身に付けているチョーカー(首飾り)は飛行石みたいだし、「天気の子」の雲の周りを龍神が泳いでいるのは「ラピュタ」の”竜の巣”に相当する。そして男の子と女の子が両手を繋いで落下する場面も共通している。さらに「ラピュタ」の美術監督として圧倒的に美しい雲を描いた山本二三が「天気の子」では気象神社の天井画を描いている。しかし、物語の構造的に一番近いのは「崖の上のポニョ」であろう。

水没する世界。でもキミ(ポニョ/陽菜)とボク(宗介/帆高)さえいれば大丈夫、なんとかなるさ。

なお、宮崎駿は水没する世界というイメージが大好きで、「パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻」「ルパン三世 カリオストロの城」などで繰り返し描いている。

それで想い出したのだが、新海誠「秒速5センチメートル」の少年少女は古代カンブリア紀の話をしていた(明里は「私、ハルキゲニアが好きだな」と言うのだけれど、多分それは新海誠が村上春樹を好きっていうこと)。そして「崖の上のポニョ」には古代デボン紀の魚が登場する(公式サイトの解説はこちら)。

6)両性具有

以前、こんな記事を書いた。

「天気の子」で両性具有を担っているのが陽菜の弟・凪である。実際「君の名は。」同様、凪は男女入れ替わりを実行する。それは王朝文学「とりかへばや物語」に繋がっている。

7)ミュージカル「RENT」

予報1を観たときから、主題歌「愛にできることはまだあるかい」冒頭のコード進行が、ピューリッツァー賞やトニー賞を総なめにしたブロードウェイ・ミュージカル「RENT(レント)」の名曲"Seasons of Love"(作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン)と全く同じなことに気付いていた。試聴はこちら。「どういう意図があるのだろう?」と、それからずーっと考え続けてきた。ふと思ったのは、「RENT」はAIDSが蔓延した絶望的な世界の中で、身近な人たちとの愛を拠りどころに一日一日を大切に生きていこうというメッセージを発している。そういう意味で「天気の子」に近い志向を持っていると言えるだろう。

8)もやもや感の正体

「天気の子」に否定的な意見を持つ人の多くが異口同音に言っているのが結末が「モヤモヤする」ということである。どういうことか?

セカイ系の旗手・新海誠は処女作「ほしのこえ」からバッドエンドを描いてきた。その究極形が「秒速5センチメートル」であり、〈キミとボク〉の関係はすれ違いのまま幕を閉じる。ここで大きく舵を切って大ヒットを飛ばしたのが「君の名は。」である。〈キミとボク〉もハッピー、セカイもハッピーエンドを迎えた(アメリカで初めて上映されたとき、雪の降る東京の街角で瀧と三葉がすれ違う場面では客席から"Oh my god !"〘あーあ、またか!〙というため息が漏れたという)。しかし、「天気の子」の場合、〈キミとボク〉はハッピーだけれど、セカイにとってはバッドエンドだ。このベクトル(進む方向)の差異が違和感の正体だろう。

 

以上どうでしたか?新海誠の超ディープな世界をご堪能頂けただろうか。それではサヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

Sayonara

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