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2019年7月

2019年7月29日 (月)

新海誠監督「天気の子」がトロント国際映画祭に出品される意義について。

新海誠監督「天気の子」がトロント国際映画祭(9月5~15日開催)のスペシャル・プレゼンテーション部門に出品されることが決まった。この部門は観客賞(ピープルズ・チョイス・アワード)の選考対象となっている。

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トロントには審査員が選ぶ賞(コンペティション)がなく、観客賞が最高賞となっているが、実はアカデミー賞の前哨戦として極めて重要な賞なのだ。

2018年の観客賞に選ばれた「グリーンブック」はアカデミー作品賞を受賞。2017年の「スリー・ビルボード」はアカデミー作品賞にノミネートされ、主演女優賞を受賞。2016年の「ラ・ラ・ランド」もアカデミー作品賞にノミネートされ、監督賞や主演女優賞に輝いた。

他にトロントの観客賞がアカデミー作品賞および外国語映画賞に直結した例として「それでも夜は明ける」「英国王のスピーチ」「スラムドッグ$ミリオネア」「アメリカン・ビューティ」「グリーン・デスティニー」(台湾)「ライフ・イズ・ビューティフル」(伊)「炎のランナー」などがある。

もしも「天気の子」が観客賞を受賞出来れば、それはアニメーション映画として史上初の快挙であり、アカデミー長編アニメーション映画賞のノミネート確定ということになる。取らぬ狸の皮算用になりませんように。

僕が気になっているのは、恐らく秘密裏に作業が進んであるであろう英語吹き替え版(RADWIMPSの英語歌含む)がトロントに間に合うのか、どうか?ということ。映画に登場するスマホの文字もすべて英語に置き換えて上映すれば(「君の名は。」では技術的に無理だった)、よりトロントの観客にアピール出来るであろうに……。

Break a leg ! (意味はこちら。メル・ブルックス作のミュージカル「プロデューサーズ」で覚えました)世界へはばたけ「天気の子」!!

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2019年7月27日 (土)

父親殺し〜【考察】新海誠監督「天気の子」の心理学

ネタバレあります。未見の方は要注意。また、下記事も合わせてお読み下さい。

1)父親殺し

映画の冒頭、主人公である16歳の家出少年・帆高は「さるびあ丸」という船で離島から東京に向かっている途中に異常気象の雨に襲われ、甲板から転落しそうになったところをオカルト雑誌のライター、須賀圭介に助けられる。つまり、手をキャッチされる。これは帆高が読んでいるサリンジャー(著)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の内容に呼応している。

崖っぷち近くにある、だだっ広いライ麦畑で子供たちが大勢集まって何かゲームをしている。中には前をよく見ていなくて勢い余って崖から落ちそうになる子がいる。彼らをそっと見守り、危ない時はキャッチ(捕手)してあげられるような大人になりたい、と16歳の主人公ホールデンは妹フィービーに対して語る。

父親不在の「天気の子」において、Catcher(命の恩人)として登場した須賀は、帆高にとっての〈父親代わり〉となる。 社会に出たときの規範であると同時に、胡散臭い男なので〈なりたくない自分=〉でもある。つまり相反する感情がそこにはある。

帆高=ホールデンならば、〈父親代わり〉としての須賀は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 に於ける誰に対応するだろう?と僕は考え、ホールデンが退学した学校の恩師アントリーニ先生かな、と思った。

アントリーニ夫婦はニューヨークのすごくしゃれた高層アパートメントに住んでおり、「入り口から二歩階段を下りたところにある居間に入ると、バーなんかもついている」と書いてある(村上春樹訳、白水社)。

ここで村上春樹と柴田元幸(東京大学名誉教授)の対談「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)から引用しよう。

柴田 あのアパートメントというのが、何段か階段を降りてリビングに入っていくようになっているということが書いてあって、ちょっと地下なんですよね。それであそこだけ、暖かい。なんとなく子宮的。
村上 たしかにそうですね。フィービーの部屋だって暖かくないです。

僕はハッとした。帆高が住み込みで働くことになる須田の事務所は半地下にあるのだ!

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「東京って怖えぇ」と言う帆高にとって、須田の事務所は暖かく、穴ぐらにある隠れ家のような落ち着ける場所である。

須賀の娘・萌花は喘息を患っている。そしてアントリーニ先生の奥さんも喘息がひどい。ここにも共通項がある。

アントリーニ先生はホールデンに次のように言う。「私の目にはありありと見えるんだよ。君が無価値な大義のために、なんらかのかたちで高貴なる死を迎えようとしているところがね」(村上春樹訳、白水社)。まるで「天気の子」のヒロイン・陽菜に対する言葉みたいではないか。

映画のクライマックスで帆高は須田に銃口を向け、引き金を引く。これは通過儀礼としての象徴的な〈父親殺し〉であると言えるだろう。つまり「僕はあんたたちみたいに”常識”とか”倫理”に囚われたインチキな(phony)大人には絶対ならない!そうなるくらいならいっその事、青臭い(=童貞)と言われようがアドレッセンス(思春期)に留まる」という決意表明と解釈出来る。

その直後、警官に取り囲まれた帆高を助けるために陽菜の弟が飛び込んでくる。それまで彼を「センパイ」と呼んでいた帆高は「凪 !?」と叫ぶ。さらに天空にいる陽菜を奪還する場面で初めて彼は「陽菜さん」ではなく、「陽菜!」と呼び捨てにする。つまり、姉弟に対して〈弟分〉のような甘えた気持ちで接して来た帆高は、〈父親殺し〉を契機に〈家長〉としての自覚を持ったのである。そして2年半後、嘗て「大人になれよ、少年」と言っていた須田は帆高を「青年」と呼ぶ。

「天気の子」同様、空から魚が降ってくる村上春樹の小説「海辺のカフカ」は15歳の少年が主人公で、父親から「母と交わり父を殺し、姉とも交わる」という呪いをかけられたため家出を決意する。ベースにあるのはギリシャ悲劇「オイディプス(エディプス)王」。つまり〈父親殺し〉をめぐる物語だ。「天気の子」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「海辺のカフカ」は密接に繋がっている(三位一体)。「君の名は。」でいうところの〈ムスビ産霊〉〉だ。

エンドロールでRADWIMPSの野田洋次郎はこう歌う。

君にとっての「大丈夫」になりたい

帆高は心理的な〈父親殺し〉を経ることにより文化的社会的規範から自由になり、自我を確立して陽菜にとっての「キャッチャー」になったのである。

新海誠は長野県小海町の建設会社「新津組」(公式サイトはこちら)社長の息子として生まれた。父は息子に家業を継がせるつもりだったと語っている(記事はこちら)。しかし新海はアニメーションという仕事を選んだ。そこには当然大きな葛藤があったろう。心理的な〈父親殺し〉が必要だったのかも知れない(「新津」を捨て「新海」を名乗る)。なお、新海と父の関係は「君の名は。」のテッシー(勅使河原)父子に投影されている。

2)夢の効用〜「フィールド・オブ・ドリームス」

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (古今集)

陽菜が天に昇る夢を帆高と陽菜の弟・、須賀、そして須賀の娘・萌花が同時に見る。つまり四人は夢を共有している。そこには〈夢の通い路〉〈夢の直路(ただち)〉がある。

はかなしや 枕さだめぬ うたたねに ほのかにまよふ 夢の通ひ路(千載集)

恋ひわびてうち寝るなかにいきかよふ夢の直路はうつつならなむ(古今集)

映画「フィールド・オブ・ドリームス」にはサリンジャーをモデルにした作家テレンス・マンが登場する(原作小説ではサリンジャーその人となっている)。

そして「フィールド・オブ・ドリームス」でも複数の登場人物たちが同じ夢を共有する。これって単なる偶然だろうか?

3)人柱は何故生まれたか?

旱魃(かんばつ)という言葉の、旱(かん)は「ひでり」、魃(ばつ)は「ひでりの神」を意味する。中国神話によると、中国を統一した黄帝は戦争の際、敵陣営の風雨を司る雨師と風伯に対抗して体内に大量の熱を蓄えている娘・魃を呼び寄せ対抗した。魃が雨を止めることで黄帝は勝利を掴んだが、魃は力を使いすぎて天へ帰れなくなっていた。日照りが続いたため、魃は北方の山中に幽閉された。跋は日本における巫女のような存在であり、100%の晴れ女である。

古代アステカ人は雨乞いや豊穣を祈願して人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。またマヤ文明に於いて旱魃は雨の神チャクの怒りによるものだと考えられたため、14歳の美しい処女を選び、聖なる泉に生贄として捧げた。この生贄の儀式はメル・ギブソンが監督した映画「アポカリプト」にも描かれている(ダイヤログは全編マヤ語)。

人柱など人身御供は〈神とのコミュニケーション〉の手段として活用された。人と人とのコミュニケーションの基本は〈価値の交換〉である。言葉の交換もそうだし、物々交換の代わりとして現在では貨幣経済が主流となった。貨幣が〈価値の担保〉になったのである。同様に人が神様に何かをお願いするためには、等価のものをこちらから差し出さなければならない。つまり〈代償を支払う〉必要がある。それが人柱、人身御供だ。

4)指輪は何故、陽菜の指をすり抜けたのか?

「天気の子」のクライマックスで昇天した陽菜の指から、帆高から貰った指輪が抜け落ちる。多くの人はこれが、陽菜の体が透明になったせいだと考えているが、果たしてそうだろうか?ならば、陽菜が着ている服やチョーカー(首飾り)も地上に落下しなければ矛盾する。

人柱になった陽菜は神への供物であり、巫女=コミュニケーション・ツールだ。巫女は処女でなければならない。しかし男から貰った指輪は穢(けがれ)だ。だから神は弾き飛ばしたのである。

助けに来た帆高は陽菜がいる、かなとこ雲の上(=神の座)に乗ることが出来ない。それは彼が穢(けがれ) だからである。

5)「崖の上のポニョ」

本作は「天空の城ラピュタ」との類似点を沢山指摘出来る。陽菜が身に付けているチョーカー(首飾り)は飛行石みたいだし、「天気の子」の雲の周りを龍神が泳いでいるのは「ラピュタ」の”竜の巣”に相当する。そして男の子と女の子が両手を繋いで落下する場面も共通している。さらに「ラピュタ」の美術監督として圧倒的に美しい雲を描いた山本二三が「天気の子」では気象神社の天井画を描いている。しかし、物語の構造的に一番近いのは「崖の上のポニョ」であろう。

水没する世界。でもキミ(ポニョ/陽菜)とボク(宗介/帆高)さえいれば大丈夫、なんとかなるさ。

なお、宮崎駿は水没する世界というイメージが大好きで、「パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻」「ルパン三世 カリオストロの城」などで繰り返し描いている。

それで想い出したのだが、新海誠「秒速5センチメートル」の少年少女は古代カンブリア紀の話をしていた(明里は「私、ハルキゲニアが好きだな」と言うのだけれど、多分それは新海誠が村上春樹を好きっていうこと)。そして「崖の上のポニョ」には古代デボン紀の魚が登場する(公式サイトの解説はこちら)。

6)両性具有

以前、こんな記事を書いた。

「天気の子」で両性具有を担っているのが陽菜の弟・凪である。実際「君の名は。」同様、凪は男女入れ替わりを実行する。それは王朝文学「とりかへばや物語」に繋がっている。

7)ミュージカル「RENT」

予報1を観たときから、主題歌「愛にできることはまだあるかい」冒頭のコード進行が、ピューリッツァー賞やトニー賞を総なめにしたブロードウェイ・ミュージカル「RENT(レント)」の名曲"Seasons of Love"(作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン)と全く同じなことに気付いていた。試聴はこちら。「どういう意図があるのだろう?」と、それからずーっと考え続けてきた。ふと思ったのは、「RENT」はAIDSが蔓延した絶望的な世界の中で、身近な人たちとの愛を拠りどころに一日一日を大切に生きていこうというメッセージを発している。そういう意味で「天気の子」に近い志向を持っていると言えるだろう。

8)もやもや感の正体

「天気の子」に否定的な意見を持つ人の多くが異口同音に言っているのが結末が「モヤモヤする」ということである。どういうことか?

セカイ系の旗手・新海誠は処女作「ほしのこえ」からバッドエンドを描いてきた。その究極形が「秒速5センチメートル」であり、〈キミとボク〉の関係はすれ違いのまま幕を閉じる。ここで大きく舵を切って大ヒットを飛ばしたのが「君の名は。」である。〈キミとボク〉もハッピー、セカイもハッピーエンドを迎えた(アメリカで初めて上映されたとき、雪の降る東京の街角で瀧と三葉がすれ違う場面では客席から"Oh my god !"〘あーあ、またか!〙というため息が漏れたという)。しかし、「天気の子」の場合、〈キミとボク〉はハッピーだけれど、セカイにとってはバッドエンドだ。このベクトル(進む方向)の差異が違和感の正体だろう。

 

以上どうでしたか?新海誠の超ディープな世界をご堪能頂けただろうか。それではサヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

Sayonara

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2019年7月19日 (金)

新海誠監督「天気の子」は反キリスト映画である。(速攻レビュー)

評価:AAA

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7月19日午前9時、「天気の子」公開初日全国一斉初回上映を鑑賞。今更僕が言うまでもないことだが、文句なし、大傑作である。今度こそ、米アカデミー外国語映画賞を受賞出来るんじゃないかな?「トイ・ストーリー4」なんか目じゃないね。世界へはばたけ!「天気の子」。

ただ、これほどダークな世界観だなんて、想像以上だった。そういう意味で賛否は真っ二つに分かれるだろう。正に世も末、末法である。

「君の名は。」ではキラキラと光り輝く東京が描かれていたが、一転して「天気の子」では大都会の深い闇が描かれる。「ブレードランナー」のように。カメラの目はどんどん東京の路地に潜り込んでゆく。

絶望的な世界だけれど大丈夫、なんとかなるさ、きみさえいれば。と、そっと背中を押してくれる映画である。

新海誠はぶれない。〈きみとぼく〉の関係性が、〈世界の危機〉〈この世の終わり〉に直結しているセカイ系構造は処女作「ほしのこえ」から「天気の子」まで一貫して不変である。しかし、ぐんぐん深化している。

本作の主題を一言で表現するなら〈自己犠牲の否定〉であろう。誰かの犠牲の上でしか成り立たない世界なんか要らない、と新海は高らかに宣言する。実に小気味好い。

そもそもキリスト教はイエスの自己犠牲に立脚した宗教である。その象徴が十字架だ。欧米文化において自己犠牲のテーマは繰り返したち現れた。例えばアンドレ・ジッドの小説「狭き門」、そしてワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」。僕が大嫌いなラース・フォン・トリアー監督の映画「奇跡の海」(カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ受賞)もそう。我が国に於いても大巨匠・宮崎駿の「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」だって、基本的に自己犠牲の物語である。結果的にナウシカやパズー、シータは助かるが、それはたまたま。子どもたちの為の漫画映画だから取って付けたようなハッピー・エンドに無理矢理しているわけで、所詮大人の事情である。ナウシカ、パズー、シータは死を覚悟していたのだから。彼らに対して「天気の子」の帆高は全身全霊No!を突きつける。そこが新しい。正に21世紀の映画である。

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【考察】映画「天気の子」を超ディープに味わうための、7つの事項(新海誠と村上春樹)

本記事のタイトルは村上春樹のエッセイ「讃岐・超ディープうどん紀行」から採った。映画「天気の子」についてあれこれ語っていこう。

1)村上春樹

家出少年・帆高が、ネットカフェでどん兵衛に乗せている本がJ.D.サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ライ麦畑でつかまえて)である。白水社から出ているバージョンで、ここで重要なのが村上春樹訳であるということ。

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ペンシルヴァニア州(田舎)にある全寮制の高校を退学処分になった16歳の少年が、大都市ニューヨークに行き、彷徨う物語である。

新海誠監督のアニメーションにはしばしば村上春樹の小説が顔を出す。「雲のむこう、約束の場所」のヒロインは村上の「アフターダーク」を読んでいる。

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「秒速5センチメートル」のヒロイン・明里は雪の降る駅のプラットホームで、村上の「・納屋を焼く・その他の短編」(新潮文庫)を読んでいる。

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」という短編は、後に書かれた長編「ノルウェイの森」の原型である。余談だが「納屋を焼く」はイ・チャンドン監督の映画「バーニング」(韓国)の原作となった。

「言の葉の庭」のユキノの台詞「わたしたち、泳いで川を渡ってきたみたいね」と、「君の名は。」の奥寺先輩最後の台詞「幸せになりなさい」はいずれも「ノルウェイの森」からの引用である。

また村上の短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(講談社文庫「カンガルー日和」に収録)が「君の名は。」プロット発想の原点にある(これは新海誠監督ご本人に僕が問い合わせ、確認を取った)。

僕が強く希望するのは、村上春樹×新海誠による対談の実現である。東宝さんか、どこかの出版社さん、真剣に検討して頂けませんか?

2)奇跡はいつも、鳥居の下から始まる

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100%の晴れ女〉こと、陽菜(←また100パーセントの女の子 だ!)が祈りながら鳥居をくぐると、奇跡が起きる。これは「君の名は。」において三葉が鳥居の下で「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫ぶと、その願いが実現することに呼応している。

なお、上のキャプチャー画像で〈調査求ム!〉の最初に載っている〈空から魚〉とは、村上春樹の小説「海辺のカフカ」に出てくる現象である

「海辺のカフカ」は家出少年が東京から四国の香川県高松市に行く話だ。つまり〈東京→島〉。家出少年が〈島→東京〉に来る「天気の子」と綺麗な対称を成している。

3) 

陽菜の瞳の中には青空がある。これは「君の名は。」が多大な影響を受けたと思われる五十嵐大介の漫画「海獣の子供」の”空”くんを彷彿とさせる。

4)末法思想

「君の名は。」で男女が入れ替わるという設定は、平安時代後期に成立した王朝文学「とりかへばや物語」に源流をたどることが出来る。新海監督が最初に提出した企画書のタイトルは「夢と知りせば(仮)-男女とりかえばや物語」だった。

平安時代の人々は「末法(まっぽう)」という終末思想に囚われていた。仏の教えが世間に行き渡らず、衰退してしまうとされる時代のこと(ノストラダムスの大予言みたいなものだ)。 永承七年(1052)に「末法」が到来するというのである。死後への不安から、天皇や貴族も仏教に帰依し、極楽往生を願った。「源氏物語」の多くの登場人物たちが出家するのもそのためである。そして末法元年の翌年(1053)に建立されたのが宇治平等院鳳凰堂だった。

「君の名は。」の隕石の落下も、「天気の子」で降り続ける雨も、末法思想に繋がっていると感じるのは僕だけではあるまい。どこか「ブレードランナー」の世界観を彷彿とさせるものもある。〈きみとぼく〉の関係性が、〈世界の危機〉〈この世の終わり〉に直結しているのはセカイ系作家の特徴である。

5)

「君の名は。」の劇中歌は4曲あり、「多すぎる」と世間で喧伝された。しかし「天気の子」は5曲になり、1曲増えた。

「伊勢物語」や「源氏物語」などの王朝文学は男女が交わす和歌が途中で多数挿入されている。つまり新海作品においてRADWIMPSの歌は、和歌と同様の役割を果たしていると言えるのではないだろうか?

6)月刊「ムー」

「天気の子」には再び、雑誌「ムー」が登場する。「君の名は。」の校庭で仲良し三人組がお昼を食べている時に、テッシーが「ムー」を掲げて、 「エヴェレットの多世界解釈に基づくマルチバースに無意識が接続した」と三葉に熱く語る場面がある(詳しくはこちら)。これはアメリカ合衆国の物理学者ヒュー・エヴェレット3世のことで、専門は理論物理学、量子力学。 実はテッシー、まともなことを話していたのである。マルチバース(多元宇宙論)は未だ否定されていない、有力な学説なのだ。

「天気の子」で映し出される「ムー」の特集記事に「彗星が落ちた日 Part 6」とあるので、ティアマト彗星が落ちた「君の名は。」の世界と地続きのようだ。

7)アメリカ合衆国での映画配給会社

「君の名は。」がオスカー(長編アニメーション部門)候補に食い込めなかったのは、北米配給を弱小企業のFunimation Entertainment(ファニメーション)に委託したことが大きい。ロビー活動のノウハウもなく、結局経営不振でソニー・ピクチャーズに吸収合併されてしまった。今回「天気の子」の北米配給はGKIDS。ここは配給したアニメーション作品を数多くアカデミー賞候補に送り込んでいる(リストはこちら)。マイナー系で具体例を挙げるとブラジルの「父を探して」、フランスの「くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ」「僕の名前はズッキーニ」、カートゥーン・サルーン(アイルランドのスタジオ ) の「ブレンダンとケルズの秘密」「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」「生きのびるために」、そして何より細田守監督「未来のミライ」!鬼に金棒である。今度こそ間違いなく、レッドカーペットを歩く新海監督を見ることが出来るだろう。イケイケ、最終目標は打倒ディズニー/ピクサーだ!

それと「君の名は。」で出来なかった、スマホの文字を各国の言語に置き換える技術はきっと「天気の子」で克服されている筈。一々、横に字幕をつけられると鬱陶しいからね。

 

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2019年7月18日 (木)

サリンジャー(著)村上春樹(訳)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

何故今、「キャッチャー」なのか?それは2019年7月19日になれば自ずと分かるだろう。

J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を最初に読んだのは大学生くらいの頃。野崎孝の訳だった。主人公のホールデン・コールフィールドに全く感情移入出来なかったし、ちっとも面白くなかった。どうしてこれが20世紀アメリカ文学を代表する作品と讃えられているのか、僕にはさっぱり理解出来なかった。

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今回村上春樹の訳で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社)を読み直して、随分印象が変わった。

この現象って、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の場合に似ている。やはり20歳の頃、野崎孝の訳で「華麗なるギャツビー」を読んで退屈で死にそうになったのだが、20年後に村上春樹の訳で読み直し深い感銘を受けた。多分、野崎孝のせいではないだろう。僕自身が変わった(成長した??)のだ。息子が生まれたということも大きい。

ホールデンは16歳で、ペンシルベニア州の田舎にある全寮制高校を退学処分になり、ひとりぼっちで大都会ニューヨークに出て来て彷徨する。彼は煙草を吸ったり酒を飲み虚勢を張っているが、実際のところは繊細で傷付きやすく、痛々しい”硝子の少年”である。そういうのが行間から滲み出しているのだが、大学生の僕には読み取れなかった。

ホールデンは反抗的で饒舌だが、その仮面(ペルソナ)の裏側にはヒリヒリするような焦燥感や空虚さを抱え、愛されることを切実に求めている。世間の荒波にもまれ、もがいている様子がいじらしい。本文中「落ち込んでしまった」という言い回しが繰り返され、彼はしばしば泣く。

この小説は一般に言われるような、「社会に反抗する純粋(innocent)な若者の物語」じゃ全然ないなと思った。むしろイノセンスの役割を担っているのはホールデンの妹フィービーや、白血病で亡くなった弟アリーである。フィービーやアリーこそ、ホールデンにとっての子ども元型永遠の少年=プエル・エテルヌス)であろう。

ホールデンの語りで彼の兄DBは作家で、四年間軍隊に入っていて戦場に行ったことが分かる。Dデイに敵前上陸もしたという。これはサリンジャー自身のことである。彼は自ら志願して陸軍に入隊し、ノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加した。その後、ナチスが建設したユダヤ人絶滅収容所の惨状も目の当たりにし、後年手の震えが止まらないなどPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされることになる。なお、彼の父はポーランド系ユダヤ人だった。

サリンジャーの(「ナイン・ストーリーズ」に収録された)短編を映画化した「愚かなり我が心」が公開されたのが1949年のクリスマス。評判は惨憺たるものでこれを観て激怒したサリンジャーは以後、二度と自作の映画化を許さなかった。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が出版されたのは1951年7月16日である。だから本文中で映画のことをこてんぱんに貶している。「キャッチャー」はビリー・ワイルダー(「サンセット大通り」「アパートの鍵貸します」)やエリア・カザン(「波止場」「エデンの東」「草原の輝き」)ら、錚々たる映画監督たちが映画化を希望したが、サリンジャーは決して首を縦に振らなかった。

DBは魂をハリウッドに売り渡した。映画嫌いのホールデンとしてはそれが許せない。つまりDBはこれから社会に出る上での規範であると同時に、「なりたくない自分=」でもある。ここらへんの相反する心情が実に複雑で味わい深い。

この小説の主人公はイノセントな子どもにも戻れないし、かといってインチキ(phony)な大人にもなりたくない。移行期の真っ只中で宙ぶらりんだ。その揺らぎこそが、本作の核(コア)だろう。

崖っぷちにあるライ麦畑で子どもたちが無心に遊んでいる。我を忘れて駆け出して崖から落っこちそうになる子どももいる。そんな彼らを見張り、危ない時は捕まえてあげるような大人になりたいとホールデンは言う。しかし本当は、キャッチして欲しいのは自分自身なんだよね。でも誰ひとりとして、彼をしっかりと抱きしめてくれる人はいない。だから「ライ麦畑でつかまえて」という最初の邦題は中々秀逸である。これを(Catcherは”捕まえる人”だから)誤訳だと言い立てる輩もいるのだが、作品の本質を全く理解していない妄言であろう。

結論。「キャッチャー」という小説は一言で表現するなら、「不安定で孤独な魂が、自己のあるべき場所を探して、大都会を無我夢中で彷徨う(右往左往する)物語」と言えるのではないだろうか?しかし結局、答えは見つからないまま幕を閉じる。

ケヴィン・コスナーが主演した映画「フィールド・オブ・ドリームス」(1989)に登場する作家テレンス・マンはサリンジャーをモデルとしており、W.P.キンセラの原作小説「シューレス・ジョー」では隠遁生活を送るサリンジャーその人として登場する。つまり〈ライ麦畑→トウモロコシ畑〉に変換されているのだ。映画の中で、有害図書を禁止しようとするPTA集会が開かれるが、その攻撃対象となっているのは言うまでもなく「キャッチャー」だ。天からの声"Ease his pain"(の傷を癒せ)の=サリンジャーである。

人間不信に陥ったサリンジャーは、「キャッチャー」の訳者あとがきを載せることさえ許さなかった。だから村上春樹が書いた幻のあとがきは、彼と柴田元幸(英米文学翻訳家)との対談本「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)に収録されている。これはたいへん示唆に富む内容である。

トルーマン・カポーティは子ども(イノセンスの魔法)から一気に大人になり、アドレッセンス(思春期)という移行段階がない。スコット・フィッツジェラルドはアドレッセンス(思春期)がいちばん大切であり、彼にとっての少年時代のイノセンスはあくまでアドレッセンスへの準備段階で、アドレッセンスの大きな賞品である妻ゼルダを手に入れたフィッツジェラルドは引き伸ばされた青春を謳歌した。サリンジャーの場合はヨーロッパの戦場で激しい戦闘に参加しアドレッセンスを奪われ、「キャッチャー」を書くことで宙ぶらりんで困惑しかなかった思春期を総括している。そこで自分が成人社会よりも、子どものイノセンスのほうに激しく惹かれていることを確認する、という村上の分析はお見事と言うしかない。しかし結局、サリンジャーの子どもへの信頼は後年裏切られることになるのだが……。

あとサリンジャーとグレン・グールド(ピアニスト)との類似点についての村上の指摘には唸った。

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2019年7月17日 (水)

トイ・ストーリー4

評価:A

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映画公式サイトはこちら

ピクサー・アニメーション・スタジオによる、初めての長編映画「トイ・ストーリー」から僕は映画館で観ている。日本での公開が1996年3月なので、23年前ということになる。「トイ・ストーリー3」で漸くアカデミー長編アニメ映画賞を受賞するのだが、それは第1作の時点でこの賞が存在しなかったからだ。長編アニメ部門が新設されたのは2001年、第1回目の受賞がドリームワークスの「シュレック」で、2回目が「千と千尋の神隠し」だった。

しかし天下の「トイ・ストーリー」シリーズも4作目になると流石にマンネリだろうと高を括り、中々食指が動かなかった。漸く重い腰を上げたのは、新海誠監督「天気の子」のオスカー受賞を阻む者がいるとしたら、やはり本作を無視出来ないと考えたからである。孫氏曰く、「(かれ=敵)を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」。兵法の基本である。

いやーしかし、恐れ入りました。圧倒的スピード感、そしてアッと驚く展開。ボー・ピープがお嬢様姿から一転、自立したタフな女に成長していたのも、さすが #MeToo 運動を経た21世紀の女性像だなと、そのアップデイトぶりに感心することしきり。やはりピクサーはプロット/脚本の練り上げ方が半端じゃない。ジョン・ラセターがスタジオを去った後もクオリティが落ちることがなかった。「天気の子」にとって手強い敵である。

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2019年7月16日 (火)

令和元年のミュージカル「レ・ミゼラブル」ニュー・キャスト!

7月10日(水)梅田芸術劇場へ。ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観劇した。

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初めて観るキャストが何人かいた。

ジャン・バルジャン:佐藤隆紀(Le Velvets -男性ヴォーカル・グループ) 、エポニーヌ:唯月ふうか、コゼット:生田絵梨花(乃木坂46-アイドル・グループ)、ファンテーヌ:濱田めぐみ、ジャベール:上原理生(今までアンジョルラス役だったが、今年からジャベールに)

以前、こんな記事を書いた。

僕が初めてレミゼを観たのが1994年の正月。梅芸がまだ「劇場飛天」と呼ばれていた時代だ。なんとあれから25年も経ってしまった!唯月ふうかとか、生ちゃんとか、まだ生まれてないよね。

「こんな暗くて貧乏くさいミュージカルなんか嫌いだ」とか、「イデオロギー的に真っ赤っ赤」とか散々文句を言いながら、いつの間にか観劇回数は十回を超えた。元祖ジャン・バルジャン、コルム・ウィルキンソンの生ライヴまで足を運んだ。

四半世紀を経てつくづく感じるのは、日本ミュージカル界の実力向上だ。歌い手たちの歌唱力もぐんぐん上がっているし、何よりも東宝のオーケストラが格段に上手くなった。レミゼ@劇場飛天の頃はホルンがしょっちゅう音を外していたし、金管が危なっかしくて仕方なかった。それが今では安心して聴ける。隔世の感がある。

佐藤隆紀は美声で、25周年記念コンサートでバルジャン役に抜擢されたアルフィー・ボーに雰囲気が近い感じがした。

エポニーヌといえば何と言っても「国際キャスト・レコーディング」に選抜され、エリザベス女王の御前でも英語で歌った島田歌穂の存在感が圧倒的である。今回の唯月はちょっと蓮っ葉で、でも健気なエポを情感豊かに演じ、歌も素晴らしく、文句なしだった。初めて島田エポと互角に勝負出来る役者が現れた。彼女の地声は高く、ちょっとアニメの声優っぽいのだが、舞台では低く落とし、違和感はない。余談だが、僕が初めて彼女の演技を観たのは「ピーターパン」だった。大きな事故があり、公演中止になったときも梅芸に来ていた。

濱田めぐみは昔から嫌いだった。特に印象を悪くしたのは劇団四季時代の「アイーダ」。ソロの楽曲の最後、最高音を出すべきところを1オクターブ下げて歌ったので、怒髪、天を衝いた。特にこの演目はブロードウェイでオリジナル・キャストのヘザー・ヘッドリーを観ていただけに、余計許せなかった。しかし意外や意外、ファンテーヌの濱めぐは悪くなかった。朗々と歌うよりは寧ろ、しっかりした芝居の積み重ねで観客を納得させるアプローチ。

生田絵梨花は演技力に難があるのだが、コゼットの場合は可愛ければ良い”お人形さん”みたいな存在なので、ドンピシャはまり役だった。生ちゃんは可憐で、決して音程を外さない(ピッチ・パーフェクト)。コゼットの歌に魅了されたのは純名里沙(1997年のキャスト)以来である。

そんなこんなで、見応え/聴き応えのある公演だった。

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きみと、波にのれたら

評価:B+ 映画公式サイトはこちら

Kimi

湯浅政明監督は優れたアニメーション作家である。本作も絵的に見どころがある。ただしかし、内容的に首をひねらざるを得ない。

まずテーマがダサい。まぁ舞台となるのは埼玉じゃなくて神奈川県なんだけれど。今どき〈サーファーの恋〉!?どうしても〈湘南→サザン・オールスターズ→昭和〉と連想してしまう。古臭いんだよ、企画自体がオヤジの発想。全然爽やかじゃない。

海の物語で、海水が立方体に切り取られて空中に浮かぶという表現は湯浅監督の「夜明け告げるルーのうた 」にもあったし、新鮮味が薄い。

クライマックスの大立ち回りも取ってつけたようで、なんだかなぁ。表現としては優れているが、廃墟のビルの中に巨大クリスマスツリーがあるなんて設定、現実にはあり得ないでしょ!?普通なら火災の危険性が高いから切って撤去するよ。わざとらしくて鼻につく。今回の吉田玲子のオリジナル脚本はペケ。彼女の最高傑作は「リズと青い鳥」だ。

最後に、僕が考える湯浅監督のベスト4を挙げておく。

  1. 四畳半神話大系(フジテレビ)
  2. DEVILMAN crybaby (Netflix)
  3. 夜は短し歩けよ乙女(映画)
  4. カイバ(WOWOW)

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2019年7月 9日 (火)

【考察】グルーヴ(groove)って、一体何?

最近、ジャズ・ミュージシャンやヒップホップのアーティストたちの口から〈グルーヴ(groove)〉という言葉を聞く機会が増えてきた(クラシックの音楽家たちは使わない)。2000年頃から広く使われ始めたようだ。しかしどうもその正体が見えてこない。そこでじっくりとこの言葉について考えてみた。

まずウィキペディアの定義を見てみよう。

音楽用語のひとつ。形容詞はグルーヴィー(groovy)。ある種の高揚感を指す言葉であるが、具体的な定義は決まっていない。

デジタル大辞泉では次のようになっている。

ジャズやロックなどの音楽で、「乗り」のことをいう。調子やリズムにうまく合うこと。

何だかわかったようなわからないような……。狐に化かされたような、モヤモヤした気持ちになるのは僕だけではあるまい。では次に語源からアプローチしてみよう。

grooveとは、そもそもアナログレコード盤の音楽を記録した「」を意味する言葉である。

ターンテーブル上で回転するLPレコードに針を落とした状態で、真横から見た光景を想像して頂きたい。針は溝に沿って上がったり下がったりする。それはまるで波乗り=サーフィンの様に見える。この〈サーファー気分=グルーヴィ〉と見做せば、なんとなくイメージが湧くのではないだろうか?

つまり僕は次のような定義を提唱したい。

音楽を聴いたり演奏した時に得られる、サーファーが波に乗れた時の快感、心地よさに相当する感情。(音の)波動律動うねり。それは多幸感をもたらすと同時に、時として畏怖の念を抱かせる存在でもある。

〈グルーヴ(groove)〉はいわば、ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)と言えるだろう。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。そしてゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシア(オセアニア)の原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。映画「スター・ウォーズ」のフォースもそう。ジェダイの騎士がフォースの力で敵を吹き飛ばしたりするが、あれこそ正に空気の波動であろう。つまり〈フォース=グルーヴ(groove)〉だ。ユング心理学においてはヌミノース体験に相当する。

神は細部に宿る

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