新海誠と、和歌&王朝文学〜「君の名は。」から「天気の子」へ
新海誠監督のアニメーション映画「言の葉の庭」(2013)の雪野百香里(ユキちゃん先生)と主人公のタカオ(高校生)は、万葉集にある次の歌を互いに口ずさみ、心を通わせる。
(女)雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ
(男)雷神の 少し響みて 降らずとも 吾(われ)は留(と)まらむ 妹(いも)し留めば
映画「君の名は。」(2016)の企画書には「古今和歌集」に収載された小野小町の歌が引用されている。
思ひつつ 寝(ぬ)ればや人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
そして「君の名は。」の古文の授業でユキちゃん先生は黒板にチョークで万葉集の歌を書いている。
誰そ彼と 我をな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つ我そ
「誰そ彼(たれそかれ)」が「黄昏(たそがれ)時」の語源であり、「かはたれ時」とか、「逢魔が時」と呼ばれたりもする。「君の名は。」ではその派生語として「かたわれ時」となり、さらに〈片割れ→半月 Half Moon〉という連想に繋がる(瀧が高山で来ているTシャツにHalf Moonが描かれている)。瀧と三葉という半月どうしが結合することで満月(Full Moon)になるわけだ。
2002年のデビュー作「ほしのこえ」から新海誠はセカイ系の旗手と呼ばれた。セカイ系の定義は以下の通り。
ヒロイン(きみ)と主人公(ぼく)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。
この姿勢は「君の名は。」まで見事に一貫している。そして恐らく「天気の子」も。
「きみとぼく」のやり取りを詠ったのが和歌である。新海誠のセカイの中心(セカチュー)には和歌がある。これは彼が中央大学文学部国文学専攻を卒業したことと無関係ではあるまい。
「ほしのこえ」で地球と冥王星軌道にまで引き離された男女は携帯電話(当時はガラケー)でメールのやり取りをする。音声ではない。
「秒速5センチメートル」(2007)の引き離された男女は手紙で文通したり、高校生になった貴樹(主人公)は出す当てのないメールを書いては消し、書いては消し、を繰り返している。小学校時代に貴樹と、ヒロインである明里が電話で言葉を交わす場面が唯一あるが、この時ふたりは携帯電話を持っていなかったから仕方なかったのである。中学生になり、明里が引っ越した栃木まで貴樹が東京からJRを乗り継いで訪ねていく場面がある。途中で大雪となり、到着したのは深夜だった。初キスを交わしたふたりは岩舟駅近くの誰もいない小屋で一夜を過ごす(新海誠が大好きな倉本聰作「北の国から'87初恋」へのオマージュ)。明け方、貴樹は始発の電車に乗り、明里が見送る(ふたりにとって最後の逢瀬となった)。ここで描かれているのは通い婚だった平安時代の日常風景だった〈後朝(きぬぎぬ)の別れ〉(男女が一夜をともにした翌朝の別れ)であり、「古今集」でも数多く詠われている。
「君の名は。」で瀧と三葉はスマートフォンを活用して交換日記を交わす。瀧が初めて三葉に電話しようとすると通じない。つまり全篇を通して、ふたりは音声でコミュニケーションを取ることが一切ないのである。これは極めて特異なことだと言える。
瀧が三葉に”すきだ”という気持ちを伝えるのも、口頭ではなく文字である。
つまり新海誠は話される言葉を信じていない。人の心の想いを伝えられるのは書かれた言の葉だけなのである。この姿勢は「天気の子」でも継承されるだろう。
「君の名は。」の男女入れ替わりという主題は平安時代後期に成立した王朝文学「とりかへばや物語」に源流をたどることが出来る。そもそも新海誠が最初に提出した企画書のタイトルは「夢と知りせば(仮)-男女とりかえばや物語」だった(詳しくはこちら)。さらに「古事記」「日本書紀」に記されたイザナギ(男神)とイザナミ(女神)の神話が加味されている。
僕はつい先日、紫式部の「源氏物語」を読み終わった。どうしても「天気の子」公開日までに間に合わせたかった。確かな根拠はない。しかし、新海誠のセカイをより深く理解するためには王朝文学の最高峰である「源氏物語」を熟知しておくことが必須であるという直感があったのだ。
「源氏物語」の後半、宇治十帖では浮舟の死と再生が描かれる。これを読みながら、「何処か三葉の死と再生に似ている」と思った。
新海誠のセカイでは夢が重要な役割を果たす。ここで大切なことは、現代人と、古代日本人の夢の捉え方は違うということである。そして勿論、新海誠は平安時代の思考法でセカイを見つめている。
フロイトの「夢判断」やユング心理学を経て、現代人は夢が潜在意識の顕現であることを知っている。例えば私たちの夢の中に他者が登場した時、それは私たちが潜在意識の中でその人のことを思っているからだと解釈する。しかし古代日本人は、「その人が私のことを思っているから、私の夢に現れた」と見做す。つまり小野小町の詠んだ、
思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
は「ある男に対して恋心をつのらせていると、男の夢の中に入っていけた」と言っているのである。その行程が、「古今集」の中に登場する〈夢の通い路〉であり、〈夢の直路(ただち)〉だ。
恋ひわびて うち寝るなかに いきかよふ 夢の直路は うつつならなむ
「源氏物語」に次のようなエピソードがある。六条御息所(光源氏の愛人で七歳年長、非常に教養が高い)が葵祭の見物の際に光君の正妻・葵の上との車争いに巻き込まれ、敗れる。公衆の面前で恥をかかされた六条御息所は恨みに思い、彼女の体から生霊が彷徨い出て葵の上を呪い殺す(六条御息所本人は無意識のまま実行される)。また彼女の死後も死霊が紫の上(光君の若妻)に取り憑き、悩ます。これも正に〈他者の夢の中に入っていく〉行為である。
〈他者の夢の中に入っていく〉という着想は「秒速5センチメートル」や「君の名は。」で重要な役割を果たすし、恐らく「天気の子」にも出てくるだろう。この着想に取り憑かれたハリウッドの映画監督もいる。「巴里のアメリカ人」「バンド・ワゴン」のヴィンセント・ミネリであり、「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」のデイミアン・チャゼルだ。詳しくは下記事に書いた。
平安時代の人々は現世のことを〈浮世(うきよ)〉と呼んだ。これはふわふわして頼りなく、実感が乏しいものであると同時に、〈憂き世〉を意味した。一方、彼岸・あの世を〈常世(とこよ)〉とした。永遠に変わることのない理想郷のことである。そして「君の名は。」の中で一葉ばぁちゃんは〈常世〉のことを〈隠り世(かくりよ)〉と呼んだ。寧ろ古代人は〈浮世=仮相、常世=実相〉と考えていたのではないだろうか?これはどこかアボリジニ(オーストラリア先住民)の語る〈ドリームタイム〉に近いものがある。
最後に、紀貫之(古今集選者)の辞世の歌をご紹介しよう。
手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ
(手にすくった水に映る月の光のように、あるかないか覚束ない、儚いこの世だったことよ)
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