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2019年6月

新海誠と、和歌&王朝文学〜「君の名は。」から「天気の子」へ

新海誠監督のアニメーション映画「言の葉の庭」(2013)の雪野百香里(ユキちゃん先生)と主人公のタカオ(高校生)は、万葉集にある次の歌を互いに口ずさみ、心を通わせる。

(女)雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ
(男)雷神の 少し響みて 降らずとも 吾(われ)は留(と)まらむ 妹(いも)し留めば

映画「君の名は。」(2016)の企画書には「古今和歌集」に収載された小野小町の歌が引用されている。

思ひつつ 寝(ぬ)ればや人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

そして「君の名は。」の古文の授業でユキちゃん先生は黒板にチョークで万葉集の歌を書いている。

誰そ彼と 我をな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つ我そ

誰そ彼(たれそかれ)」が「黄昏(たそがれ)」の語源であり、「かはたれ時」とか、「逢魔が時」と呼ばれたりもする。「君の名は。」ではその派生語として「かたわれ時」となり、さらに〈片割れ→半月 Half Moon〉という連想に繋がる(瀧が高山で来ているTシャツにHalf Moonが描かれている)。瀧と三葉という半月どうしが結合することで満月(Full Moon)になるわけだ。

2002年のデビュー作「ほしのこえ」から新海誠はセカイ系の旗手と呼ばれた。セカイ系の定義は以下の通り。

ヒロイン(きみ)と主人公(ぼく)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。

この姿勢は「君の名は。」まで見事に一貫している。そして恐らく「天気の子」も。

きみとぼく」のやり取りを詠ったのが和歌である。新海誠のセカイの中心(セカチュー)には和歌がある。これは彼が中央大学文学部国文学専攻を卒業したことと無関係ではあるまい。

「ほしのこえ」で地球と冥王星軌道にまで引き離された男女は携帯電話(当時はガラケー)でメールのやり取りをする。音声ではない

「秒速5センチメートル」(2007)の引き離された男女は手紙で文通したり、高校生になった貴樹(主人公)は出す当てのないメールを書いては消し、書いては消し、を繰り返している。小学校時代に貴樹と、ヒロインである明里が電話で言葉を交わす場面が唯一あるが、この時ふたりは携帯電話を持っていなかったから仕方なかったのである。中学生になり、明里が引っ越した栃木まで貴樹が東京からJRを乗り継いで訪ねていく場面がある。途中で大雪となり、到着したのは深夜だった。初キスを交わしたふたりは岩舟駅近くの誰もいない小屋で一夜を過ごす(新海誠が大好きな倉本聰作「北の国から'87初恋」へのオマージュ)。明け方、貴樹は始発の電車に乗り、明里が見送る(ふたりにとって最後の逢瀬となった)。ここで描かれているのは通い婚だった平安時代の日常風景だった〈後朝(きぬぎぬ)の別れ〉(男女が一夜をともにした翌朝の別れ)であり、「古今集」でも数多く詠われている。

「君の名は。」で瀧と三葉はスマートフォンを活用して交換日記を交わす。瀧が初めて三葉に電話しようとすると通じない。つまり全篇を通して、ふたりは音声でコミュニケーションを取ることが一切ないのである。これは極めて特異なことだと言える。

瀧が三葉に”すきだ”という気持ちを伝えるのも、口頭ではなく文字である。

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つまり新海誠は話される言葉を信じていない人の心の想いを伝えられるのは書かれた言の葉だけなのである。この姿勢は「天気の子」でも継承されるだろう。

「君の名は。」の男女入れ替わりという主題は平安時代後期に成立した王朝文学「とりかへばや物語」に源流をたどることが出来る。そもそも新海誠が最初に提出した企画書のタイトルは「夢と知りせば(仮)-男女とりかえばや物語」だった(詳しくはこちら)。さらに「古事記」「日本書紀」に記されたイザナギ(男神)とイザナミ(女神)の神話が加味されている。

僕はつい先日、紫式部の「源氏物語」を読み終わった。どうしても「天気の子」公開日までに間に合わせたかった。確かな根拠はない。しかし、新海誠のセカイをより深く理解するためには王朝文学の最高峰である「源氏物語」を熟知しておくことが必須であるという直感があったのだ。

「源氏物語」の後半、宇治十帖では浮舟の死と再生が描かれる。これを読みながら、「何処か三葉の死と再生に似ている」と思った。

新海誠のセカイでは夢が重要な役割を果たす。ここで大切なことは、現代人と、古代日本人の夢の捉え方は違うということである。そして勿論、新海誠は平安時代の思考法でセカイを見つめている。

フロイトの「夢判断」やユング心理学を経て、現代人は夢が潜在意識の顕現であることを知っている。例えば私たちの夢の中に他者が登場した時、それは私たちが潜在意識の中でその人のことを思っているからだと解釈する。しかし古代日本人は、「その人が私のことを思っているから、私の夢に現れた」と見做す。つまり小野小町の詠んだ、

思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

は「ある男に対して恋心をつのらせていると、男の夢の中に入っていけた」と言っているのである。その行程が、「古今集」の中に登場する〈夢の通い路〉であり、〈夢の直路(ただち)〉だ。

恋ひわびて うち寝るなかに いきかよふ 夢の直路は うつつならなむ

「源氏物語」に次のようなエピソードがある。六条御息所(光源氏の愛人で七歳年長、非常に教養が高い)が葵祭の見物の際に光君の正妻・葵の上との車争いに巻き込まれ、敗れる。公衆の面前で恥をかかされた六条御息所は恨みに思い、彼女の体から生霊が彷徨い出て葵の上を呪い殺す(六条御息所本人は無意識のまま実行される)。また彼女の死後も死霊が紫の上(光君の若妻)に取り憑き、悩ます。これも正に〈他者の夢の中に入っていく〉行為である。

他者の夢の中に入っていく〉という着想は「秒速5センチメートル」や「君の名は。」で重要な役割を果たすし、恐らく「天気の子」にも出てくるだろう。この着想に取り憑かれたハリウッドの映画監督もいる。「巴里のアメリカ人」「バンド・ワゴン」のヴィンセント・ミネリであり、「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」のデイミアン・チャゼルだ。詳しくは下記事に書いた。

平安時代の人々は現世のことを〈浮世(うきよ)〉と呼んだ。これはふわふわして頼りなく、実感が乏しいものであると同時に、〈憂き世〉を意味した。一方、彼岸・あの世を〈常世(とこよ)〉とした。永遠に変わることのない理想郷のことである。そして「君の名は。」の中で一葉ばぁちゃんは〈常世〉のことを〈隠り世(かくりよ)〉と呼んだ。寧ろ古代人は〈浮世=仮相、常世=実相〉と考えていたのではないだろうか?これはどこかアボリジニ(オーストラリア先住民)の語る〈ドリームタイム〉に近いものがある。

最後に、紀貫之(古今集選者)の辞世の歌をご紹介しよう。

手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ
(手にすくった水に映る月の光のように、あるかないか覚束ない、儚いこの世だったことよ)

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大切なことは言葉にならない〜【考察】映画「海獣の子供」をどう読むか?

評価:A+

Kaiju

度肝を抜かれた。日本のアニメーション映画界に新たな地平を開く、途轍もないマイルストーン彗星の如く現れた。公式サイトはこちら

大切なことは言葉にならない

だからこそ、漫画やアニメーション映画という手法があるのだということが、有無を言わさぬ説得力で迫ってくる凄みがある。

20世紀のアニメーションは「セル」と呼ばれる透明シートに描かれる動画(セル画)と、絵画のように描かれる背景画を組み合わせて撮影される方法が用いられていた。だからカメラは横移動(パン)や縦移動(ティルト)が出来るが、基本的に背景画そのものは動かない。ウォルト・ディズニーはこの平板な画面に奥行きを与えるためにマルチプレーン・カメラを開発し、「白雪姫」(1937)の撮影に使用した(詳しい技術解説はこちら)。

「海獣の子」の冒頭で圧倒されるのは、主人公・琉花が画面奥から真っ直ぐ正面方向に向かって駆けてくる場面である。 当然背景画も動く。20世紀には表現出来なかった手法であり、CGIを使っているわけだ。この手書きによる人物・キャラクターの絵と、CGIの融合が何の違和感もなく空前絶後の高いレベルで達成されており、舌を巻く。CGI監督:秋本賢一郎と、手書きの迫力がビシバシ伝わってくるキャラクターデザイン・総作画監督:小西賢一(「かぐや姫の物語」も圧巻だった)の卓越した仕事ぶりに対して、惜しみない賞賛の拍手を送りたい。実はこの手法、宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」(2001)の極一部で試されていたが、レベルが違う。隔世の感がある。

映画が終了し劇場内が明るくなると、周囲に微妙な空気が流れていた。自分たちが観たものは、一体何だったのだ!?という戸惑い。「難解だ」という声もちらほら聞こえて来るが、僕はそう思わなかった。

まず抑えておくべきことは、「海獣の子供」は現代の神話であるという点だ。フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースは「神話通時的であると同時に、共時的に読める」と述べている。共時的とは、〈過去・現在・未来は同時にここにある〉とする考え方である。

著書〈神話論理〉四部作でレヴィ=ストロースは「神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である」と説く。

劇中に登場する海洋学者アングラードとデデはRWA BHINEDAと船体に書かれた船に乗っている。「ルワ・ビネダ(rwa=2つ、bhineda=相反する) 」とはバリ語(インドネシア)で、「世界は対極する2つが存在し、その対極する2つがあるからこそ世界は成り立っている」という思想である。つまり二項対立だ。

「海獣の子供」には次のような二項対立がある。

  • 天(空・宇宙・永遠・連続)↔地(限りある生命・不連続
  • 海(自然)↔陸(人間が築いた文化

〈天↔地〉の二項対立を結び、調停する役割を担うのが〈隕石〉や〈海から来た少年〉だ。また〈海(自然)↔陸(文化)〉を調停するのは主人公・琉花 であり、 〈母なるもの〉と言えるだろう。胎児が浮かぶ羊水は海水と同じ成分を持ち、魚類の体液に近い0.85%の塩水である。つまり人間の子供は、母の内なる海から生まれてくるのだ。そして〈母なるもの〉を象徴するのが琉花 が幼い頃聞いた子守唄であり、クジラが歌うソングだ。

本作を貫くテーマは明快である。ポール・ゴーギャンの絵のタイトルでもある〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉、そして〈我々の魂(こころ)の中には宇宙が広がっている〉。これは、ここ最近僕自身も考えていたことである。

非常に哲学的命題であり、小学生には到底歯がたたないだろう。僕は3つの映画を思い出した。スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」、テレンス・マリック「ツリー・オブ・ライフ」、そして新海誠「君の名は。」である。

「海獣の子供」は、地球の生命の起源は地球ではなく、他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものとする〈パンスペルミア説〉に基づいている。ギリシャ語でパン=汎(すべて)+スペールノ(種をまく)を意味する言葉に由来し、〈胚種広布説〉とも邦訳される。紀元前5世紀に活躍した古代ギリシャの自然哲学者アナクサゴラスの提唱した概念、スペルマタ(種子:最も微小な物質の構成要素)にその起源を辿ることが出来る。本編で描かれる事項には次のような意味合いがある。

〈海=母、子宮〉〈隕石=精子〉〈海の子供たち=卵子〉〈ザトウクジラの体内=産道〉〈誕生祭=受精・銀河の誕生・産み直し〉〈琉花(主人公)=巫女・触媒〉〈食べること=命を引き継ぐこと circle of life〉

伊勢神宮では神様は常に新しい神殿でお迎えしなければならないという発想から常に新しく造営する式年遷宮が行われているが、これは「常若(とこわか)」という考え方を表すとされる。古くなったものを作り替えて常に若々しくして永遠性を保つという発想だ。つまり〈誕生祭=常若〉である。

隕石が地球に落ちて受精し、細胞分裂が始まるという描写は「君の名は。」に共通している。おまけに両者共にへその緒を切断する場面もある。五十嵐大介 による原作漫画が発表されたのは2006年ー2011年であり、おそらく新海誠がこれに影響を受けたのであろう。

次に本作とユング心理学における元型(Archetype)との対応を見てみよう。〈ザトウクジラ=太母(The Great Mother)〉→琉花を呑み込む。 〈海の子供たち=トリックスター・影(Shadow)〉→トリックスターは境界を超える。〈デデ=老賢人(The Wise Old Woman〉、そして隕石を琉花に渡した後、光の粒子になって雲散霧消した「空」はヌミノース(汎神)化したと解釈出来るだろう。押井守監督「攻殻機動隊」の最後に草薙素子がインターネットの海に溶けて神になったように。

誕生祭の描写は「2001年宇宙の旅」のクライマックスでスターゲイト(ワームホール)を抜ける場面(スリット・スキャンと呼ばれる手法が用いられた)を彷彿とさせる。そして「ツリー・オブ・ライフ」でこの映像を再現するためにテレンス・マリック監督は「2001年」のダグラス・トランブルをVFX(特殊視覚効果)コンサルタントとして招聘した。「ツリー・オブ・ライフ」は、ある家族の歴史が地球の創世記にリンクする壮大な物語であり、ミクロからマクロへという構造が「海獣の子供」に一致している。

アングラードは次のように言う。「この世界に在るもののうち、僕ら人間に見えているものなんてほんの僅かしかないんだ。宇宙を観測する技術が進んでわかったのは、どんな方法でも観測できない“暗黒物質”があるという事。(中略)つまり、宇宙の総質量の90%以上は正体不明の暗黒物質が占めている事になる」

人間の中には、たくさんの記憶の小さな断片がバラバラに漂っていて、何かのキッカケで、いくつかの記憶が結びつく。それが思考。それは宇宙における星々・銀河の誕生に似ている。つまり、広大な無意識の中から意識・思考が芽生えるのは宇宙の構造を模倣しているというわけだ。実は僕も同じような発想をしていた。

琉花の瞳の中には海がある。つまり〈人=海=宇宙〉なのだ。

宮崎アニメを担当するときはメロディアスな久石譲の音楽は今回、ミニマル・ミュージックの手法が主体で非常に攻めの姿勢である。さらに米津玄師の主題歌が加わるという豪華布陣。聞くところによると米津は10代の頃から原作漫画の大ファンで、今回の映画化を知り自ら手を上げたのだそう。

 

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飢餓感を煽る映画「天気の子」宣伝戦略と、東宝の強気の商売

2018年12月13日、東宝の2019年ラインナップ発表に併せて新海誠監督 最新作「天気の子」の製作発表が行われた。この時初めて映画のタイトルが明らかにされた。

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ポスターではヒロインの顔が見えない状態であり、音楽の担当者は伏せられ、予告編もなかった。

3年前、やはり12月に製作発表された「君の名は。」では最初から予告編が公開され、RADWIMPSが音楽を担当することも明らかにされていた。つまり「天気の子」では勿体ぶって焦らす、〈小出し作戦〉に戦略が変更されたのだ。

年が明けて2019年4月10日にRADWIMPSが音楽を担当することが発表され、同時に予報(予告編)が初めてお披露目された。なんとこの間5ヶ月も新しい情報を封印していたわけだ。ここで漸く、主人公二人の顔(キャラクターデザイン)が明らかにされた。

さらに一ヶ月半後の5月25日、ボーカルとして女優の三浦透子が起用されることが発表され(RADWIMPS×女性ボーカル)、併せて予報②が登場した。

飢餓感を煽るハングリーマーケティング(Hungry Marketing) である。こういうふうに情報を小出しにする度にマス・メディアが大々的に取り上げてくれるという宣伝効果もある。畳み掛けるような、波状攻撃である。

「君の名は。」公開の時点で新海誠監督はまだまだ無名で、大々的に試写会を行い、監督が全国を回ってキャンペーンに努めたが、今回は試写会を一切行わないという作戦に出た。つまり最早、新海誠は宮崎駿に並ぶ国民的作家であり、事前の根回しなど一切必要ないわけだ。期待値は高く、黙っていても客は映画館に足を運んでくれる。「君の名は。」は試写会での前評判が高く、SNSを通して口コミで徐々に広まっていったが、今回は公開初日からSNSでの感染爆発( pandemic ) 、「バズる」ことが期待出来る。ビッグバンだ。

公開初日の7月19日午前0時から東京・TOHOシネマズ新宿と大阪・TOHOシネマズ梅田で世界最速上映が行われることが決まった。しかし午前2時に上映が終わっても終電がないんですけど!?ホテルに泊まるか、車で観に来いというわけか。無茶ぶりである。

公開日まであと約1ヶ月。僕は6月16日(日)にTOHOシネマズの劇場内グッズ売場で、「『天気の子』の前売り券(ムビチケカードなど)を販売する予定はないのですか?」と訊ねた。「現在のところありません」というのが店員からの回答だった。もしかしたら本当に「天気の子」の前売りはしないつもりなのかもしれない。

東宝は相当強気だ。観客全員が割引なしの通常料金を支払うことになれば、一人あたりの単価が高くなる。しかもTOHOシネマズはこの6月に一般料金を100円値上げした(1900円)。今から考えると、これも「天気の子」公開に連動したものだったのかも知れない。恐らく東宝が狙っているのは「千と千尋の神隠し」の興行収入308億円を抜くことなんじゃないだろうか?「君の名は。」の最終興行収入は250.3億円で、今一歩、日本記録に届かなかった(現在歴代 第2位)。「天気の子」に対する期待は大きい。映画公式サイトはこちら

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ゴジラ キング・オブ・モンスターズ(うんちくあり)

評価:B+

公式サイトはこちら

まずは映画レビューを集計する北米のサイトRotten Tomatoes(腐ったトマト)をご覧頂きたい。

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プロの評論家の肯定的意見が40%しかなく、「腐った(Rotten)」評価を与えられているが、一般観客の評価は85%と極めて高い。これだけ両者で差異が出ることは希少である(「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」の場合、評論家の評価が91%で「新鮮(Fresh)」、一般客が44%で真逆の結果になっている)。

プロット・脚本に疵があることは確かである。「どうしてそうなるの?」と登場人物たちの行動原理に首を傾げてしまう場面も多々ある。しかし本作の主眼はあくまで〈怪獣プロレス〉〈怪獣バトル〉であり、はっきり言ってしまえば人間ドラマなんて二の次だ(どうでもいい)。日本では到底成しえないVXF技術の効果も抜群で、当初の目的は見事に達成出来ていると言えるだろう。そもそも本家・東宝のゴジラ・シリーズですら、1954年の第1作は掛け値なしの傑作だが、キングギドラのデビュー作「三大怪獣 地球最大の決戦」(64)だって、「怪獣大戦争」(65)だって、本多猪四郎(監督)×円谷英二(特技監督)のコンビは変わらないものの、脚本はグダグダである。

本作に於けるゴジラ・モスラ・ラドン・キングギドラの大乱闘には童心に帰ってワクワクさせられた。怪獣たちは神々しいまでに美しい。マイケル・ドハティ監督の怪獣愛が作品から滲み出ており、どうしても評価に下駄を履かせざるを得ない。伊福部昭のテーマは勿論のこと、古関裕而が作曲し、ザ・ピーナッツが歌った「モスラの歌」まで流れてきたのには心底びっくりした。おまけに(何の意味もなく)チャン・ツィイーが双子という設定になっているではないか!!さらに第1作へのオマージュとしてオキシジェン・デストロイヤーは登場するし、芹沢博士(渡辺謙)はあんなこと(←ネタバレ回避)するしで、いやはや参りました。あとラドンが飛び立つところで、ラドンの影が街並みを横切る場面は「(怪獣オタクの心を)わかってるぅ〜」と嬉しくなった。

ここでうんちくを傾けておくと、「モスラ」の原作小説「発光妖精とモスラ」を執筆したのは中村真一郎・福永武彦・堀田善衛という錚々たる文学者たちである。福永の息子が芥川賞作家の池澤夏樹。蛾を意味する英語のMothを名称に取り入れた。元祖ラドンは阿蘇山の火口に生息しており、朱雀(火の鳥)のイメージが重ねられていると思われる。

またキングギドラの原型は「古事記」「日本書紀」に記載されたヤマタノオロチ(八岐大蛇である。円谷英二は八岐大蛇が登場する「日本誕生」(1959)で培った技術をキングギドラ開発に投入した。そして庵野秀明(総監督・脚本)による 「シン・ゴジラ」で決行されたヤシオリ作戦は、スサノオ(須佐之男)が八岐大蛇を退治する際に酔わせるために用いた酒「八塩折之酒(やしおりのさけ)」に由来する。

モンスターやSF映画にはしばしばマッドサイエンティスト mad scientist(常軌を逸した科学者)が登場する。その原型であり、最も有名なのはメアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」のヴィクター・フランケンシュタインだろう。他に「博士の異常な愛情」のストレンジラブ博士、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のエメット・ブラウン博士(通称ドク)がいる。「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」にもマッドサイエンティストが登場するのだが、極めてユニークなのは女性だということである。これは僕が知る限り、映画史上初なのではなかろうか?新機軸を打ち出したと言っても過言ではなかろう。

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ウルトラマン落語キター!〜柳家喬太郎独演会 2018@兵庫芸文

6月8日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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〈昼の部〉

  • 柳家小んぶ:安兵衛狐
  • 柳家喬太郎:抜け雀
  • 翁家和助:太神楽(だいかぐら)曲芸
  • 柳家喬太郎:ハンバーグができるまで

〈夜の部〉

  • 柳家小んぶ:幇間(たいこ)腹
  • 柳家喬太郎:抜けガヴァドン(ウルトラマン落語
  • 翁家和助:太神楽曲芸
  • 柳家喬太郎:死神

喬太郎は柳家さん喬の総領(一番)弟子。小んぶは十番弟子で現在、二ツ目だそう。

「安兵衛狐」は上方の「天神山」を江戸に移植したものであり「本来は前座ネタじゃないんですけれど、お客様からは温かい反応を頂き、ありがたいことです」と喬太郎。僕みたいに昼・夜通しで聴く客が300人ほどいるそう(中ホールのキャパは800席)。さらに翌日、岸和田での独演会にも足を運ぶ予定というツワモノも。

喬太郎はマクラで初めて仕事で大阪に来たときのエピソード(乾電池まつりの司会)や種子島での落語会に日帰りで行ったことなどを話した。

「抜け雀」で宿が大人気になり、増築したという件で「本館・新館・アネックスが出来た」と。これは兵庫芸文の近くにあるショッピング・モール〈阪急西宮ガーデンズ〉のことであり、大受け。さすが地元ネタも巧みに盛り込んで上手い。

「死神」では死神を消すための呪文の最後に〈エッ、マジ?蒼井優が!?〉を挿入。会場が大爆笑になったことは言うまでもない。

夜の部で、昼の部の「抜け雀」と全く同じ内容の導入部を喬太郎が話し始めた瞬間、僕は「アッ、『抜けガヴァドン』キター!」とこころの中で叫んだ。実は2015年にTORII HALL(トリイホール)で聴いていたのである。出囃子も「ウルトラQ」だったしね。

4年前は元ネタとなったウルトラマン第15話「恐怖の宇宙線」を未見だった。だからガヴァドンA?、ガヴァドンB??と中々イメージが沸かなかったのだが、今回は我が家にウルトラマンBlu-ray Boxを購入済みで、予備知識はバッチリ。大いに愉しんだ。佐々木守(脚本)実相寺昭雄(監督)の回は名作揃いである。このコンビによるウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」がある事情から初回放送後に封印され、現在では欠番扱いとなり、観ることが叶わないのは返す返すも残念だ。因みに彼らの最高傑作が「怪奇大作戦 京都買います」であることは論を俟たない。

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〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その3〉影・トリックスター・ヌミノース

の続きである。

無意識の中にあり、本能に結びついたこころの原初的なイメージ=元型(Archetype)をさらに挙げていこう。

・影(シャドウ):ユングは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」と定義した。人格の否定的側面、隠したいと思う不愉快な性質、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の〈他者〉、自分自身の暗い側面などである。

誰もがみな影を担い、個人の意識的な生活の中で影を実体化する度合いが低くなればなるほど、影はより暗く濃密になる。もし劣等な部分が意識されれば、人はそれを修正する機会をつねにもつ。さらに、その場合、劣等な部分が他のさまざまな関心といつも触れあい、ずっと変化しつづける。しかし、もし劣等な部分が抑圧され、意識から離れて孤立するなら、けっして修正されることなく、気づかぬうちに表に突然現れやすい。あらゆる点で、それは無意識の思わぬ障害となり、われわれのもっとも善意に満ちたもくろみを邪魔する。

影(シャドウ)は自我と対を成す(光↔影の関係に等しい)。その代表はなんと言っても「ジキルとハイド」だろう。そしてミュージカル「スウィーニー・トッド」。「新約聖書」でイエスが40日間荒野を彷徨った時に彼を誘惑した悪魔(サタン)や、「エクソシスト」に登場する悪魔、「魔法少女まどか☆マギカ」の魔女も影。魔女狩りは影の投影を背景にしているという話はリメイク版「サスペリア」にある。

河合隼雄は次のように述べている。

 集団のの肩代わり現象として、いわゆる、いけにえの羊(scapegoat)の問題が生じてくる。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。つまり、集団内のをすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。(中略)

 ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる民衆の攻撃を避けようとして、外部のどこかにの肩代わりをさせることがよくある。ここでもすでに述べたような普遍的な影の投影が始まり、ある国民や、ある文化が悪そのものであるかのような錯覚を抱くようなことになってくる。 
    〈河合隼雄「影の現象学」より〉

身近な例を見てみよう。なにかムシャクシャしたり頭にくることがあったとき、机を蹴飛ばしたり壁やドアを殴りつけたりする光景にしばしば出くわすだろう。それは自分のを無機物に対して投影しているのである。呪いの道具としての〈わら人形〉も同じ。この(無意識の)投影が無垢な子どもを標的(scapegoat)にして行われたとき、児童虐待が生じる。つまり児童は何も悪くないのに、影の投影なので攻撃が止むことはない。ナチスドイツと同じ理屈である。子供を一時的に保護しても、親元に返せば元の木阿弥である。こうした場合、虐待する側にカウンセリングを受けさせることを法律で義務付ける必要があるのではないか、というのが僕の意見である。閑話休題。

クリストファー・ノーラン監督「ダークナイト」におけるジョーカーはブルース・ウェイン(バットマン)のなんじゃないかな?ティム・バートン監督版のジョーカーはどちらかといえばトリックスター(後述)寄りなのだけれど。

影(シャドウ) が(他者への投影ではなく)分離して実体化したのが ドッペルゲンガー(二重身)。この言葉はそもそもハイネの詩に由来する。シューベルトが歌曲にしていて「影法師」と訳されている。ドッペルゲンガーものとしてイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」、デヴィッド・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 「複製された男」 、ダーレン・アロノフスキー監督「ブラック・スワン」 がある。

トリックスター:トリックスターは錬金術にみられるメルクリウス(英語読みでマーキュリー Mercury)の姿に非常によく似ている。悪賢い冗談や、ひどい悪戯を好み、姿を変える力がある。二重の性質(半獣、半神)や、困難や責め苦に身を晒す絶え間ない衝動を持っている。さらには救済者の形姿に近似する。完全に負の英雄だが、その愚かさによって、他の者が一生懸命努力しても達成出来なかったことを軽々と成し遂げてしまう。ユングは、トリックスター像が心理学的にみてと等価だと考えた。彼は次のように述べている。「トリックスターは、個々人の劣等な性格特徴を集約した、集合的なの形姿である」トリックスター・イメージの活性化は、惨禍が生じたこと、もしくは危険な状況が生じていることを意味する。トリックスターはエナンチオドロミア Enantiodromia(反対方向に向かうこと。最小のものから最大のものにいたるまで、自然の生命現象すべての循環を支配する原理)を引き起こす傾向を象徴する。トリックスターの行為は必然的に意識に対する補償的関係を反映する。

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シェイクスピア「夏の夜の夢」に登場する妖精パックが典型。「ピーターパン」のティンカーベルもそうだし、基本的に妖精とか道化師は全てトリックスターと考えて間違いない。道化師が着る、だんだら縞の衣装は反転の換喩である。トリックスターは価値を転倒させる。道化師の代表はシェイクスピア「リア王」。「ヘンリー四世 」や「ウィンザーの陽気な女房たち 」に登場するファルスタッフもそう。そして「マクベス」の冒頭で〈きれいは汚い、汚いはきれい〉と呪文を唱える3人の魔女。悪い奴としては「オセロ」のイアーゴー。ハンカチというガジェットを駆使し、オセロの嫉妬心を利用して、彼の妻デズデモーナに対する愛を憎しみに変換する。ずる賢い悪戯である。また「ロミオとジュリエット」のマキューシオもトリックスターと呼べるのではないだろうか?彼の死を契機にロミオが激高し、悲劇の幕が上がるのだから。

ゲーテ「ファウスト」のメフィストフェレス、「魔法少女まどか☆マギカ」のキュゥべえ、「ハウルの動く城」のカルシファーらは〈契約〉を持ちかける。「アラジン」のジーニー(ランプの魔人)はランプの持ち主に逆らえないため、主人によって善悪が決定する二重の性質を持っている。そしてワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のローグ(北欧神話のロキがモデル。マーベル・コミック「マイティ・ソー」にも登場)や「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラム、そして「ハリー・ポッター」シリーズのドビー。「千と千尋の神隠し」のカオナシ"No-Face"は凶暴になって暴走したり、突如大人しくなったり気まぐれなので、トリックスターの素因が十分にある。八百万の神でもなく、人間でもない、その狭間に蠢く影(シャドウ)に近い存在。スティーヴン・キングの小説「IT -イット-」に登場するピエロもトリックスター=影だ。

さらに「レ・ミゼラブル」のテナルディエ夫妻。同じくヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダム・ド・パリ」を原作とするディズニー・アニメ「ノートルダムの鐘」のクロパン。彼が司る道化の祭り、トプシー・ターヴィー(Topsy Turvy)とは「逆さまの」という意味。 これは中世ヨーロッパにおいて、その秩序を支えているキリスト教の教義を全く逆転せしめる「愚者の祭り」(教会の最下位の僧侶が司教に祭りあげられ、ミサのパロディを行った)が起源である。クロパンと同じ役割を担うミュージカル「キャバレー」のM.C.もトリックスターだ。そして「オペラ座の怪人」の怪人。マジシャンであり、黒いマントに白い仮面を身にまとっている。反転の象徴である。地下に棲んでいるというのも、いかにも〈集合的無意識の住人(元型)〉らしいではないか。ミュージカル「エリザベート」のトート(死神)もそう。

人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウスでも分かる通り、トリックスターは境界を超える。「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男は人間と妖怪との間に生まれた半妖怪であり、境界域に生きている 。だから彼の服も白と黒の間=灰色なのだろう。南北戦争で南軍と北軍の境界を超え活躍する「風と共に去りぬ」のレット・バトラー、ロシア貴族でありながらプロレタリアート(革命政府)とも懇ろにつき合う世渡り上手な「ドクトル・ジバゴ」の悪徳弁護士コマロフスキー。そしてジョン・ヒューズ監督「フェリスはある朝突然に」の主人公。

「新約聖書」(ジーザス・クライスト=スーパースター)のユダも紛れもないトリックスターだ。彼は果たして悪者なのだろうか?しかしイエスが世の中に〈救世主〉と認知され、キリスト教が世界に敷衍するためには、イエスが磔にされ、死後に復活する必要があった。つまり、イエスがユダに裏切られることは必須であり、彼はイエスの協力者だったと言えるだろう。なにしろ十字架がキリスト教の象徴(symbol)になるのだから。

最後に。元型ではないが、ユング心理学において極めて重要な用語について触れておこう。

・ヌミノース:神イメージの一側面。意志という恣意的な働きによって引き起こしえない力動的な作用もしくは効果である(さらに知りたい方はこちらをご覧あれ)。ヌミノース経験にとって超越的な力(神のごときもの)を信頼しようとする準備状態、すなわち、何らかの信仰が必要条件だとユングは考えた。ヌミノースとの出会いは、どの宗教体験にもみられる属性であり、それまでの無意識内容が自我の制約を突き破って意識的人格を圧倒するのだと彼は確信した。「スター・ウォーズ」のフォースが代表例だろう。ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」やトールキンの「ロード・オブ・ザ・リング」における指輪の力、「コードギアス」のギアス、「ハリー・ポッター」シリーズの魔法もそうだし、「未知との遭遇」の圧倒的光や5つの音(交信メロディ)、「攻殻機動隊」の最後にインターネットの海に溶けて汎神となった草薙素子、そして「君の名は。」のムスビ。宮水一葉曰く「土地の氏神さまのことをな、古い言葉で産霊(むすび)って呼ぶんやさ。(中略)糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神さまの呼び名であり、神様の力や」。つまり集合的無意識の領域にあり、【元型=人格イメージ】を形成する前の、(自己や元型の間隙を)空気の振動や液体のように漂う状態と言えるのではないだろうか?これはソシュール言語学におけるゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)に相当する。詳しいことは下記事を参照されたい。

手塚治虫の「火の鳥」や「2001年宇宙の旅」のモノリス、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 「メッセージ」の”ばかうけ”(宇宙船)、ピーター・ウィアー監督「ピクニック  at ハンギング・ロック」の岩山も、ヌミノース象徴(実体化した姿)と言えるだろう。

参考文献:① A.サミュエルズ 他(著)山中康裕(監修)「ユング心理学辞典」創元社 ② 河合隼雄(著)「影の現象学」講談社学術文庫

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〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その2〉太母・老賢人・子供・アニマ・アニムス・ペルソナ

の続きである。今回は集合的(家族的・文化的)無意識 Collective unconsciousの中にある、元型 Archetypeについて詳しく見ていこう。

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元型とは夢などに登場する、こころの原初的なイメージである。本能に結びついたこころの行動を構造化するための型と言える。集合的無意識がこのイメージを生み出し、拡大させる。次のようなものがある。

・太母(The Great Mother):慈しみ、すべてを優しく包み込む良い母親像。育み、支え、成長と豊穣を促進する。一方で誘惑し、呑み込み、奈落の底・暗黒に引き摺り込む悪い母親像をとることもある。運命のように逃れられない、身の毛のよだつ存在。また大地的/霊的の二元性で分類する方法もある。すなわち、地下に住む、農耕に関わる太母ディオニュソス的 by ニーチェ「悲劇の誕生」) と、神聖で、天上的、処女的な形態をとって現れる太母(アポロン的)である。具体例として「新約聖書」の聖母マリア、「風の谷のナウシカ」の王蟲、「天空の城ラピュタ」のドーラ、そして「崖の上のポニョ」のグランマンマーレ等が挙げられる。また「千と千尋の神隠し」の湯婆婆(ゆばーば)と銭婆(ぜにーば)の関係は、「オズの魔法使い」の西の悪い魔女(エルファバ)と北の良い魔女(グリンダ)に似ている。山姥のように恐ろしい太母としては「リング」の貞子、「呪怨」の伽椰子が該当するだろう。貴志祐介の小説「黒い家」やスティーヴン・キングの小説「ミザリー」、「キャリー」の母親もそう。ヒッチコック映画「サイコ」のノーマン・ベイツは恐ろしい太母に完全に呑み込まれ、こころを占拠されてしまった状態と言える。スピルバーグ「未知との遭遇」で太母はUFOの形態として現れる。そして最後に登場するマザーシップは曼荼羅そのものだ。

アボリジニ(オーストラリア先住民)のドリームタイム(現地の言葉でTjukurpa チュクルパ/alcheringa アルチェリンガ) 神話に登場する虹蛇(Ngalyod) も太母と同義である。 またドリームタイム=集合的無意識だ。

・老賢人(The Wise Old Man):いわゆる長老役ね。「風の谷のナウシカ」のユパや大ババ、「ライオン・キング」のラフィキ(祈祷師)、「ロード・オブ・ザ・リング」のガンダルフ(魔法使い)、「ハリー・ポッター」のダンブルドア(魔法学校の校長)、「スター・ウォーズ」シリーズのヨーダ、「E.T.」のE.T.(地球を去る直前に「僕はここにいる」とエリオットの心臓を指差す)など。イニシエーションある集団や社会で、一人前の成人として承認されること。 また、その手続きや儀礼)において、老賢人(=マナ人格、現代の「カリスマ」に相当)は理想的イメージとして必要不可欠である。イニシエーションのプロセスで、対立するものの再結合、精神と物質のコニウンクチオ(錬金術における、互いに似ていない物質の結合の象徴)が個人に起こる。

・子供永遠の少年=プエル・エテルヌス、The Divine Childなど):永遠の少年=プエル・エテルヌスは向こう見ずで楽天的、想像にふけることを好み、理想主義を愛し、過度に精神的な姿勢を取ることがある。ユングは、人が自分自身を新たに再生出来ないことの投影から生じると考察した。時に無邪気さによる救済をもたらし、新たな出発を思い描く能力を与えてくれる。その代表はピーターパンだろう(ネバーランド=集合的無意識)。マイケル・ジャクソン全盛期には〈ピーターパン症候群〉という言葉が流行った。これを提唱した心理学者ダン・カイリーは「成長する事を拒む男性」と著書の中で定義した。ちなみにマイケル・ジャクソンはスティーヴン・スピルバーグ監督と組んで、ミュージカル映画「ピーターパン」に主演する企画を温めていた。しかし結局実現せず、ミュージカル用に楽曲を準備していたジョン・ウィリアムズは、それをスピルバーグの「フック」に転用した。40歳の大人になったピーターパンをロビン・ウィリアムスが演じた。ギリシャ神話に登場するイカロスもプエル・エテルヌスだ。蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶け、墜落して死んでしまう。最終話がこれにそっくりな手塚治虫「鉄腕アトム」もそう。そしてピノキオと鉄腕アトムを取り込んだ、スタンリー・キューブリック(原案)スティーヴン・スピルバーグ(脚本・監督)「A.I.」の少年型ロボット・デイビッド。オーソン・ウェルズ監督「市民ケーン」の〈バラのつぼみ(Rose Bud)〉も少年期のinnnocenceを象徴する元型だ。プエルは太母の庇護のもと、成長することなく死と再生を繰り返す。

一方、The Divine Childは未来を志向する無限の潜在力(potential future)、発展性を持っていて、未熟で不完全な状態から将来、英雄や神に成長する可能性を秘めている(a symbol of the developing personality) 。

大林宣彦監督の「さびしんぼう」や「はるか、ノスタルジィ」は、子供元型が主人公の目の前に現れる物語である。「はるか、ノスタルジィ」で少女小説を書いている中年の作家・綾瀬慎介(ペンネーム)はバンカラ姿の学生・佐藤弘(慎介の青年時代、本名)と物語の最後に統合される。つまり個性化(individuation)・自己実現が描かれている。大林監督はしばしば「僕はベテランの少年(16歳)」だと語る。言い換えるなら「僕のこころの中には子供元型が生きている」ということになるだろう。

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・ペルソナ:ギリシャ・ローマ時代に役者がつけた仮面のラテン語にその名称の起源がある。ペルソナは人が世界に立ち向かうときに身につける仮面である。ユングはそれを一つの元型とした。ペルソナには逆らい難さと普遍性があり、社会に個人が関与するとき、関係性と交換を促進する手段として役立つ。「社会的元型」であり、個々の社会がペルソナの基準を形成し、時代を経て変化する。例えば〈男らしさ〉〈女らしさ〉〈ホテルマンらしい表情〉〈ファストフードのスマイル0円〉など。「はるか、ノスタルジィ」の主人公・綾瀬慎介も作家という仮面をかぶっている。ペルソナを知るための最良の教材はアニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ」であろう。

・アニマ・アニムス:男性が抱く内なる女性像(アニマ)と、女性のこころの中で活動する男性像(アニムス)である。たましいの導き手としての役割も果たし、創造的な可能性に結びつく。

アニマの代表例はゲーテ「ファウスト」のグレートヒェン(マルガレーテ)やダンテ「神曲」のベアトリーチェ、そして当然「神曲」にインスパイアされた宮崎駿「風立ちぬ」の菜穂子も然り。また松本零士「銀河鉄道999」のメーテルはアニマ太母が融合した姿心的複合体 Complex)と言えるだろう。星野鉄郎にとって理想の女性であり、かつ母親代わりなのだ。同じ構造が「源氏物語」藤壺の宮にも当てはまる。藤壺は光源氏の亡き母・桐壺更衣に瓜二つであり、幼い光源氏は母として慕う。しかし彼は成長すると彼女と性交し、子をもうけてしまう(後の冷泉帝)。なお、メーテルの原点はジュリアン・デュヴィヴィエ監督「わが青春のマリアンヌ」(1955)であり、マリアンヌもアニマだ。松本零士には「わが青春のアルカディア」という作品もある。

アニムスは童話にしばしば登場する白馬の騎士がそう。「白雪姫」の主題歌"Someday My Prince Will Come"である。「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラは自分の心のアニムスをアシュレーに投影しているが、物語の最後にそれが幻想(虚像)に過ぎず、本当のアシュレー(実像)はメラニーに依存しないと生きていけないつまらない男だと漸く分かる。大林宣彦監督「時をかける少女」における未来から来た少年・深町一夫も主人公・芳山和子(原田知世)のアニムスと言える。この主題は映画冒頭に登場するテロップに集約されている。

ひとが、現実よりも、理想の愛を知ったとき、それは、ひとにとって、幸福なのだろうか?不幸なのだろうか?

つまり〈理想の愛〉=アニムスである。実は大林監督が18歳の時に読み、いつか映画化したいと温めている福永武彦の小説「草の花」の主題もアニマ・アニムスをめぐる物語である。主人公・汐見茂思 は死んだ友・藤木忍の姿を妹の千枝子に投影してしまう。千枝子はその事に気づき、汐見の元を去る。

ペルソナとアニマ・アニムスの関係は下のようになる。

ペルソナ(自我と外界との仲介/意識的、集合的な適応に関わる) 対立 アニマ・アニムス(自我と内界との仲介)

に続く。To be continued...

参考文献:A.サミュエルズ 他(著)山中康裕(監修)「ユング心理学辞典」創元社

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〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その1〉こころの図〜自我・自己・意識・無意識

僕がユング心理学に初めて興味を持ったのは、2016年夏のことだった。兵庫芸文で上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の夢」の予習として、翻訳家・松岡和子の対談本「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)を読んだら、そこに日本におけるユング派臨床心理学の第一人者・河合隼雄が登場し、「作品全体が四つの層からできている」と言い出したのである。この〈意識-無意識〉構造の分析には心底感動し、納得した。詳しくは下記事に書いた。

そして僕は気が付いたのである。「ユング心理学は映画・演劇・文学など物語の読解に役に立つ」と。

アンソニー・スティーヴンズがユングの理論を描いた、〈こころの図〉をご紹介しよう。〈こころ〉はドイツ語でSeele。〈魂〉とも訳され、英語ではpsycheとなる。

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円の外層にConsciousness(意識)、内層にUnconscious(無意識)があり、さらにPersonal unconscious(個人的無意識)と深層のCollective unconscious(集合的無意識)に分かれる。集合的(家族的・文化的)無意識はアニメ「コードギアス」シリーズで〈Cの世界〉と呼ばれる。集合的無意識の中心にSELF(自己)がある。一方、表層の意識内にEGO(自我)があり、Ego-Self axis(自我ー自己軸)で自己と繋がっている。集合的無意識内の自己の周囲にA=Archetype(元型)があり、個人的無意識の領域にはC=Complex(感情に色付けされた心的複合体)がある。フロイトが提唱した〈エディプス・コンプレックス〉が該当する。

ユングはこれを受け、女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き、母親に対して強い対抗意識を燃やす状態を指す〈エレクトラ・コンプレックス〉を提唱したが、フロイトはそのような名称は不要として否定した。なおエディプス(オイディプス)もエレクトラもギリシャ神話の登場人物である。また円の外側は外界である。

元型は、本能に結びついたこころのイメージであり、〈太母〉〈老賢人〉〈子ども〉〈ペルソナ(仮面)〉〈アニマ・アニムス〉〈トリックスター〉〈影(シャドウ)〉などがある。詳しくは後述する。ユングは〈トリックスター〉を〈影〉と等価だと考えたので、両者は密接しており、融合した元型と考えても良い。また〈ペルソナ〉は自我と外界との仲介としての位置にあり、〈アニマ・アニムス〉は自我と内界を仲介するので、対立するものとみなせる。

こころの多層構造をそのまま映像としてみせたのがクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」である。無意識の最深層には虚無(limbo)がある。ノーランはユング心理学から多大な影響を受けており、「バットマン・ビギンズ」では精神科医が元型(archetype)について触れる。「インセプション」でも〈投影(projection)〉とか〈影〉とか、ユング心理学用語が次々と飛び出してくる。

また、アポロ11号の月面着陸までを描いたハリウッド映画「ファースト・マン」(実話)でデイミアン・チャゼル監督は月を集合的無意識象徴(symbol)として描いたので、僕は唖然とした。

村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」において、〈井戸に降りていく〉という行為は、深層心理の奥底まで潜っていくということに等しい。詳しくは「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という対談本で村上自らが語っている。

新海誠の映画「君の名は。」も集合的無意識までDiveすれば、他者と繋がることが出来るという発想に基づいている。それが〈ムスビ(産霊)〉だ。なお、新海誠は村上春樹の大ファンで「秒速5センチメートル」や「雲のむこう、約束の場所」の登場人物たちは村上の著書を読んでいる。

「君の名は。」空前の大ヒットを受けて、川村元気プロデューサーは「集合的無意識にヒットした」と分析している(記事はこちら)。そもそもこの言葉は、詩人の谷川俊太郎から聞いたようだ(こちら)。

に続く。 To be continued...

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ジョン・ヒューズ新発見!〜「フェリスはある朝突然に」「ブレックファスト・クラブ」

正直ジョン・ヒューズ監督のことは今までよく知らなかった。「ブレックファスト・クラブ」(1985)、や「フェリスはある朝突然に」(1986)などは端からティーンエージャー(Teen-ager)向けの取るに足らない学園ものだろうとなめてかかり、ずーっと無視していた。そもそもヒューズが脚本を書いた「ホーム・アローン」(1990)も初めて観たのは息子が生まれてからだった。

ところが最近、ジョン・ヒューズが多くのフィルムメーカーたちから崇拝され、こよなく愛されていることが次第に分かってきた。

まずは映画「スパイダーマン:ホームカミング」(2017)と、「ブレックファスト・クラブ」のポスター比較をご覧あれ。

Spi2 Break

そして「スパイダーマン:ホームカミング」ポスターの別バージョンと、「フェリスはある朝突然に」。

Spi Ferris

劇中、住宅地でスパイダーマンが敵の一味を追いかけるシーンは完全に「フェリスはある朝突然に」を再現している。徹底的なオマージュである。

また「デッドプール」(2016)で主人公がカメラに向かい観客に話しかける手法とか、エンドロール後のオマケ映像でデップーがガウン姿でスクリーンに登場し、喋る内容とかが「フェリスはある朝突然に」のパロディになっているのである(全く同じガウンを着ている)。

アナ・ケンドリック主演「ピッチ・パーフェクト」(2012)では主人公が「ブレックファスト・クラブ」を観る場面があり、これが重要なキーとなる。

さらにスティーヴン・スピルバーグ監督の「レディ・プレイヤー1」でも登場人物がジョン・ヒューズについて熱く語る場面があるといった具合。

つまり村上春樹の表現を借りるなら、ジョン・ヒューズの映画は〈時の洗礼を受けて〉生き残ったのだ。というわけで、遅ればせながら両作品を観たというわけ。

「ブレックファスト・クラブ」(現在Amazon プライムで配信中)で驚いたのは、恐らく実質的に本作は〈スクールカースト〉を初めて描いた映画なのではないか?ということ。「クルーレス」(1995)、「キューティ・ブロンド」(2001)、「ミーン・ガールズ」(2004)や、アメリカのTVドラマ「glee/グリー」(2009)の先駆けとなった、正にエポックメイキング epoch-makingな作品であった。上映時間の約9割が図書室での会話劇として展開されるという手法も斬新である。ジョン・ヒューズのミューズ、モリー・リングウォルドが素晴らしい。彼女が演じる〈お嬢様〉が食べる、お昼の弁当には爆笑した。

一方、「フェリスはある朝突然に」(現在Netflixで配信中)でマシュー・ブロデリックが演じる主人公フェリス・ビューラーは、ユング心理学でいうところのトリックスターだと思った。

トリックスター(集合的無意識に存在する元型 Archetypeのひとつ)とは神話や伝説の中で活躍するいたずら者で、その狡猾さと行動力において比類ない。善であり悪であり、壊すものであり作り出すものであり(scrap and build)、変幻自在で神出鬼没、全くとらえどころがない。単なるいたずら好きの破壊者で終始することもあれば、時として英雄にも成り得る(例えば人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウス)。境界を超えて出没するところにトリックスターの特徴がある。

面白いことにフェリスは物語の最初と最後で変容しない。なにか大切なことに気が付いて(教訓を学んで)成長したりしない。いたずら者に終止し、一切反省しない。これは〈青春映画〉として極めて異例である。むしろ変わるのは妹のジーニーであり、親友のキャメロンだ。つまりフェリスは(学校のルールや社会秩序、キャメロンの車を)破壊することによって他者に変容をもたらす者トリックスターなのだ。

そしてフェリスが仮病を使ってサボったハイスクールの教室では黒板にユング心理学の用語、〈夢 Dream〉〈アニマ Anima・アニムス Animus〉〈自我 Ego〉〈元型 Archetype〉などがチョークで書かれている。ジョン・ヒューズがトリックスターを念頭にシナリオを執筆したのは絶対に間違いない。

妹ジーニーが警察署で出会う、ドラッグ使用で逮捕された青年役でチャーリー・シーンがちょいと登場する。未だ彼が「プラトゥーン」に出演し大ブレイクする前である。もの凄く存在感があり、彼の台詞が哲学的で示唆に富む。神の啓示といっても過言ではないだろう。

映画序盤、フェリスはこう言う。

Life moves pretty fast. If you don't stop and look around once in a while, you could miss it.
(人生は光陰矢の如し。もし君が、時折立ち止まって周囲を見渡さなかったら、「それ」を見逃しちゃうぞ)

これってつまり、ラテン語の警句カルペ・ディエムCarpe Diemと同義なんじゃないかなと思った。「その日を摘め」「一日の花を摘め」という意味で、英語ではseize the day(その日をつかめ)と訳される。詳しくは下記事に述べた。

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真風涼帆 主演/宝塚宙組「オーシャンズ11」

5月18日(土)宝塚大劇場へ。宙組「オーシャンズ11」を観劇。

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ダニー・オーションを真風涼帆が演じ、親友ラスティーに芹香斗亜、ヒロイン役は星風まどか。

2011年星組(柚希礼音、夢咲ねね)2013年花組(蘭寿とむ、蘭乃はな)に続く、3回目の上演である。僕は星組・花組公演も観ている。

台本(脚色)・演出は小池修一郎。小池の好みはふたつのタイプに分けることが出来る。ひとつはスコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」や萩尾望都「ポーの一族」のような哀感漂う物語。主人公はある人に憧れを懐くが、手を伸ばしても決して届かない。もうひとつが底抜けに明るい脳天気なお話。「エクスカリバー」とか「オーシャンズ11」がその典型だ。またエコとか地球環境を守るとか言っている団体が実は……というのもお得意のパターンで、「PUCK」「オーシャンズ11」が該当する。さらに「LUNA -月の伝言-」のヒロインも環境保護団体の一員という設定。

「オーシャンズ11」はお気楽な作品だが退屈しないし、男役の〈カッコよさ〉が堪能出来る。僕はスティーブン・ソダーバーグ監督の映画版より宝塚版の方が好き。ただ今回、星風まどかは確かに美人なのだけれど、夢咲ねねの方が良かったなぁ。

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