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2019年5月

2019年5月30日 (木)

#MeToo のおかげでデュトワ降臨!!大阪フィル定期(ダフニス・幻想交響曲)または、〈棚ぼたの奇跡〉

映画「恋におちたシェイクスピア」や「シカゴ」などアカデミー賞を獲りまくっていたプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが女優らに対してセクシャルハラスメントや性的暴行を長年にわたり繰り返していたことが告発され逮捕された。ここから盛り上がりを見せたのが #MeToo 運動である。「アメリカン・ビューティ」でアカデミー主演男優賞を受賞したケヴィン・スペイシーは映画業界から追放され、ウディ・アレン監督は映画を撮れなくなり、「千と千尋の神隠し」北米公開に尽力してくれたジョン・ラセターはディズニー及びピクサー・アニメーション・スタジオ(両社でチーフ・クリエイティブ・オフィサーを兼任)を去らなければならない状況に追い込まれた(挨拶でハグする時間が、他の人より長いという理由で!)。

クラシック音楽業界ではジェームズ・レヴァインが芸術監督を努めていたメトロポリタン歌劇場から永久追放された。また2016年秋からロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に就任したダニエレ・ガッティは複数の楽団員にキスを迫るなどセクハラ行為をしていたことが発覚し、2018年8月に電撃解任された(記事はこちら)。コンセルトヘボウの後任は未だ決まっていない。

2017年12月22日、AP通信はシャルル・デュトワ(82)が過去にセクハラ行為を繰り返していたと複数の女性被害者の証言を基に報じた。この報道が引き金となり、翌18年2月末に名誉音楽監督の地位にあるNHK交響楽団宛にデュトワから「現状では私自身のみならず、オーケストラ、そして親愛なるお客様が音楽を十分に楽しめる環境にない」などと申し出があり、12月定期演奏会の出演を辞退した。問題となったのはなんと、30年前の行為であった#MeToo もここまで行くと、Too Much !なのでは?

結局第一線での仕事を失ったデュトワがいわば〈都落ち〉みたいな形で、大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮台に初めて立つに至ったというわけ。正に棚ぼたである。前立腺がんの治療に専念するために降板した尾高忠明の代演として、大フィルのR.シュトラウス/楽劇「サロメ」(演奏会形式)もデュトワが振ると発表され、関西のクラシックファンは騒然となった。みんな狂喜乱舞である。最近の彼は上海交響楽団とも親密な関係を結んでいるようだ(上海でも「サロメ」をやったそう)。アジアでは風当たりが強くないのだろう。

世界のオーケストラ・ランキングを考えると、まずベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ、ロンドン交響楽団、シカゴ交響楽団などがAランクに位置する(最近のウィーン・フィルの凋落ぶりは目を覆いたくなる)。NHK交響楽団や東京交響楽団など在京オケ、そして京都市交響楽団はBランク。大フィルは高く見積もってもせいぜいCランクだろう。弦楽器に関してはBランクと言っても良いが、如何せん管楽器が弱い。これを僕は以前、弦高管低と評した。そんな地方オケを世界的指揮者デュトワが振ってくれるなんて、僥倖としか言いようがない。

クリーブランド管弦楽団を慈しみ育てた指揮者ジョージ・セル、フィラデルフィア管弦楽団のユージン・オーマンディ、シカゴ交響楽団のフリッツ・ライナー、ゲオルグ・ショルティらのことをオーケストラ・ビルダーと呼ぶ。デュトワもオーケストラ・ビルダーの典型であり、彼のおかげで以前は無名だったモントリオール交響楽団が一流のオーケストラとして世界で認知された(逆に次々とオケを駄目にするダニエル・バレンボイム、ウラディーミル・アシュケナージらはオーケストラ・デストロイヤーと言えるだろう。両者の共通点は著名なピアニスト出身であること)。

5月24日(金)フェスティバルホールへ。デュトワ/大フィル定期を聴く。

  • ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
  • ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲
  • ベルリオーズ:幻想交響曲

デュトワの十八番ばかりズラッと並んだ。

淀川工科高等学校吹奏楽部の丸谷明夫先生(丸ちゃん)は1995年以降、全日本吹奏楽コンクールで金賞を取り続けている(前人未到の20回連続!!)。近年の淀工は自由曲として大栗裕/大阪俗謡による幻想曲と、ラヴェル/「ダフニスとクロエ」第2組曲の2曲をローテーションしている(コンクールには時間制限があるので”無言劇”はカット)。淀工の「ダフニス」は全国大会(@普門館)で生演奏を聴いたことがあるが、はっきり言って大フィルの管楽器より上手い。まぁプロは3日で曲を仕上げ、高校生たちは同じ曲を半年以上毎日練習するわけで、そこに差が生じるのは致し方ない。

魔術師デュトワがタクトを振ると、オーケストラは普段と違い、洗練された音を奏でた。マドレーヌかマシュマロのような柔らかさ。「ダフニスとクロエ」はリズミカルだけれど、(”マーチの丸谷”として知られる)丸ちゃんの鋭利なキレに対してデュトワは〈切れない〉魅力に満ち溢れていた。だからといって響きが曖昧模糊と濁ることもなく、極めて解像度が高い。

フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは著書「神話論理」4部作の中で、アメリカ先住民の神話に登場する虹のことを「半音階的なもの」 と呼んだ。そしてデュトワが紡ぐ、半音階を駆使した「ダフニス」は、虹色に輝いていた。この鮮やかな色彩感は誰にでも醸し出せる技じゃない。僕の目の前には両性具有的な世界が広がっていた。

あと驚いたのが、大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮:福島章恭)が参加していたこと。全曲演奏ならまだしも、組曲なので当然合唱抜きだと思っていた。大変贅沢な体験をさせてもらった。

1830年に26歳のベルリオーズが作曲した幻想交響曲は、彼自身の狂気の愛を扱っている。レナード・バーンスタインは本作を「史上初のサイケデリックな交響曲」と評した。特に第4楽章「断頭台への行進」と第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」はもう、薬物中毒でラリっているとしか考えられない(どうもベルリオーズは作曲時にアヘンを吸っていたらしい)。

ベルリオーズが激しい恋心を燃やし、失恋の憂き目にあった相手は彼がパリで「ハムレット」を観劇した時にオフィーリアを演じていたアイルランド女優ハリエット・スミスソンである。可笑しいのは本作を世に問うた後にベルリオーズはスミスソンと再会し、今度は彼の愛が受け入れられて1833年に二人は結婚した。しかし夫婦仲はすぐに冷え込み40年には別居、彼女が亡くなるとベルリオーズはすでに同居していた歌手マリー・レシオとすかさず再婚した。結局、彼の一方的な愛は「幻想」に過ぎなかったのである。おとぎ話みたいに、"and they lived happily ever after."とはいかなかった……。

遅めのテンポの幻想交響曲にはフワッとした膨らみがあった。第1楽章では、かそけき幽玄の雰囲気がそこはかとなく漂う。いくらでもグロテスクに描ける第5楽章は寧ろ妖艶で、ひとりの女に血道を上げる男の滑稽さが浮かび上がる。考えてみればベルリオーズの愚かしさは、アレクサンドル・デュマ・フィスが書いた「椿姫」の主人公アルマンとか、アベ・プレヴォーが書いた「マノン・レスコー」の騎士デ・グリューにどこか似ている(どちらもフランスの小説である)。 ゆとりがあって、あくまで優雅な表現。お洒落でモテモテの伊達男デュトワの面目躍如であった。ちなみに彼はマルタ・アルゲリッチらと4度の結婚歴がある。そしてアルゲリッチと離婚した原因は、彼がヴァイオリニストのチョン・キョンファと浮気していたことが発覚したためだという。やれやれ。

 

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2019年5月25日 (土)

四神の構造と古代日本人の心

中国の神話において、天の四方の方角を司る霊獣のことを四神という。僕が初めて四神について耳にしたのは、古典落語「百川(ももかわ)」であった。江戸時代に日本橋にあった料亭「百川」を舞台にした作品で、四神旗が登場する。

現在、紫式部の「源氏物語」を読み進めているのだが、平安時代の王朝物語を理解するためには四神についての基礎知識が必要不可欠だということが次第に分かってきた。特に光源氏が造営した六条院において、どの方角に各々の姫君を住まわせたかという配置である。

1998年に奈良県の明日香村にあるキトラ古墳で、東西南北の四壁に四神青龍白虎朱雀玄武)が描かれていることが発見された。ここは7世紀から8世紀に築造されたと考えられており、遣隋使〜遣唐使が派遣されていた時期に一致する。

桓武天皇は、延暦十三年(西暦794年)に長岡京から平安京へと遷都したが、都が葛野大宮の地に選定されたのも、四神相応の「平安楽土」とみなされたことが理由のひとつだった。

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キトラ古墳で発見された絵を方角と季節、色に対応させた図でご紹介しよう。

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さらに五行説(五行思想)に照らし合わせた割り当てもある。五行思想は古代中国に端を発する自然哲学で、万物は火・水・木・金・土の五種類の元素からなるという説である。

玄武」(冬)は亀に巻き付く蛇として示される。亀は万年と言われるように長寿の象徴であり、蛇は自らの尻尾に噛み付くとこで円環・ウロボロスを形成し、年に数回脱皮を繰り返すことから死と再生を意味する(始まりもなく終わりもない)。五行思想ではを司る。

朱雀」(夏)≒鳳凰であり、五行思想ではを司り、永遠の命を象徴する。

よって北南、〈玄武朱雀〉ラインは不滅(eternity/immortal)に関わる軸となっている。

青龍」は花開く春と結びつき、若々しい未来への希望、潜勢力を象徴する。五行思想ではを司る。「青龍」の青は「草木が青々と茂っている」という表現でも分かる通り、緑色が該当する。実際にキトラ古墳の彩色は下のようになっている。

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白虎」は実りの秋と結びつき、豊穣を象徴する。五行思想ではを司る。

東西、〈青龍白虎〉ラインは〈日の出(誕生)ー日没(黄昏)〉の道筋であり、浮世・有限・無常(limited/mortal)に関わる軸と解釈することも出来よう。

つまり北南は〈宇宙・自然〉軸で、東西が〈人の命・文化〉軸と見なせば、二項対立が成立する。

フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは「神話論理」四部作の中で次のように語っている。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である。

中国では北が最も重要だった。北極星は不動であり、他の星は北極星を中心に回転する。故に北極星は天子の象徴となった

これが日本に輸入されると変換が行われた。何故なら日本の帝は太陽神・天照大神の末裔という設定になっており、「日出処(ひいづるところ)の天子」だからである。つまり日本では東が方角の中で最も重要なのだ

「源氏物語」では皇太子のことを東宮と呼んでいる。東=春であり、太陽が昇る方角だからであろう。また光源氏が朧月夜との醜聞により須磨(さらに明石)に謫居するのは、日が沈む西方向への移動という意味合いもあろう。

人生を四季に例え、若年期を「春」、壮年期を「夏(しゅか)」、熟年期を「秋(はくしゅう)」、老年期を「冬(げんとう)」と表現することがある(青龍朱雀白虎玄武が一文字ずつ入っている)。詩人・北原白秋の号はこれに由来する。北原隆吉が「白秋」の雅号を初めて名乗ったのは16歳の時。その時彼は福岡県柳川市に住んでいた。柳川は京都御所から見て西の方角である

また会津藩では武家男子を中心に17歳以下を白虎隊、18歳から35歳までを朱雀隊、36歳から49歳までを青龍隊、50歳以上を玄武隊として軍を組織した。会津戦争(薩摩藩・土佐藩による新政府軍 vs. 徳川旧幕府軍)における白虎隊の悲劇は余りにも有名である。

二項対立を見てみると、〈玄武・冬↔朱雀・夏〉は〈水(川・雨)↔火〉であり、〈下降↔上昇〉〈冷たい↔熱い〉という対立を示している。

〈青龍・春↔白虎・秋〉は〈空↔虎穴(洞窟)〉という垂直方向の差異(対立)に置き換えられる。また五行思想で考えるなら東西〈〉の間、中央にが位置する。

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から上方に伸び、下方に掘り進むと手に入るわけで、ここでもベクトルが対称を成している。

また〈(青龍+玄武)↔(白虎+朱雀)〉は〈湿ったもの(wet)↔乾いたもの(dry)〉の対立として考えることが出来る。

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2019年5月24日 (金)

我々は何者か?〜映画「アメリカン・アニマルズ」

評価:A+

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暫定、今年上半期のベスト・ワン!!公式サイトはこちら

観に行こうと思った切っ掛けはTBSラジオ「アフター6ジャンクション」でパーソナリティのRHYMESTER 宇多丸と、スクリプトドクターの三宅隆太が絶賛していたからである。

バート・レイトン監督は元々ドキュメンタリー畑の人で、本作が劇場用映画第一作となる。

2004年にアメリカ合衆国ケンタッキー州トランシルヴァニア大学の図書館で起こった窃盗事件を描く実話である。大変ユニークなのは、主人公たちがチームを組んで強盗・強奪を行うケイパーもの(Caper Film)であると同時に、現在の当事者たち(本人)がインタビューに答えるドキュメンタリー・パートがバランスよく織り込まれる構成になっていること。

犯人の大学生たちが参考にしているのがスタンリー・キューブリック監督の映画「現金に体を張れ」(1956)でスターリング・ヘイドンが仲間たちに犯罪計画のプレゼンテーションをしている場面だったり、そのテレビを鑑賞している部屋に「オーシャンズ11」(2001)のDVDケースがあったり、タランティーノの「レザボア・ドッグス」(1992)を真似たりといった具合。あと、計画を実行に移す場面でスプリットスクリーン(分割画面)になるのは、スティーブ・マックィーン主演ノーマン・ジェイソン監督「華麗なる賭け」(1968)へのオマージュね。

映画の冒頭、大学入学のための面接試験で面接官は絵描き志望の主人公にこう問う。“Tell us about yourself as an artist.”=「芸術家としての君自身のことを教えてほしい」。言い換えるなら「君の魂について語ってくれ」「お前は誰だ?」ということになろう。

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主人公は口ごもる。これは非常に哲学的問いであり、我々観客の心にも突き刺さる。

つまり本作のプロットを端的に表するならば、【「何者」でもない青年が「何者」かになろうとして、結局自分は「何者」でもなかったと知る】物語であると言えるだろう。この場合「何者」とはSomethingを持った人であり、「ひとかどの人物」と言い換えることも出来る。そういう意味で、本作のテーマは映画化もされた朝井リョウの小説「何者」(直木賞受賞)に通底するものがある。我々は一体、何者か?

主人公は自己愛性パーソナリティ障害と思われる。その特徴は、「自分は特別で重要な存在である」と誇大な感覚を持っていること。常に自分の能力を過大評価し、自慢げで見栄を張っているように見える。幼児の持つ誇大感全能感という正常な錯覚を、青年期まで持ち続けた状態。映画「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」に登場した、元謀報員を自称する(トーニャ・ハーディングの)ボディガード・ショーンも同様。しかしそういう気持ちは、多かれ少なかれ、誰もが心に抱いているのではないだろうか?結局人間は「他人とは違う何かSomething)を自分は持っている」という錯覚・イリュージョン(=自尊心)なしには生きられない動物(Animals)なのだろう。

それを象徴するのが北米版ポスターに掲げられたキャッチコピー【誰も自分が「普通の人」だと思いたくない】である。

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ポール・ゴーギャン〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉

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2019年5月23日 (木)

僕たちのラストステージ

評価:A

Stanollie

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コメディアン、ローレル&ハーディの晩年を描く。彼らは映画スターだが、最後の舞台はボードヴィルへの帰還となるので、そういう意味でチャールズ・チャップリンが監督・主演した「ライムライト」(1952)を思い出した。これはチャーリーの永遠のライヴァル、バスター・キートンと初共演を果たした映画でもあり、彼の演技が凄すぎて「チャップリンがキートンの出演場面を大幅にカットした」という伝説を生んだ(後に事実無根と判明)。

物悲しくて、それでも観終わった時にはほっこり心が温まる作品で、とっても良かった。お勧め。

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2019年5月22日 (水)

魂のゆくえ

評価:B

First

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マーティン・スコセッシが監督した映画「タクシードライバー」の脚本家として知られるポール・シュレイダーの脚本・監督作品。アカデミー脚本賞(オリジナル)にノミネートされた。構想を50年間温めていたのだそうである。原題は"First Reformed"。物語の舞台となる創立250周年を迎える教会の名前である。アメリカの独立宣言が1776年だから、それ以前ということになる。

結論から先に述べる。(「タクシードライバー」+「冬の光」)÷2=「魂のゆくえ」 以上。

以下「魂のゆくえ」↔イングマール・ベルイマン監督「冬の光」(1962年)との類似点を列挙しよう。

  • シュレイダーは厳格なカルヴァン主義(プロテスタント改革派教会Reformed Churchの教理)を実践する家庭で育ち、カルヴァン大学に進学した。彼は17歳になるまで映画を観ることを許されなかった。↔ベルイマンの父は厳格な牧師だった。彼は父への反発心から〈神の沈黙〉三部作を撮った。
  • 映画の主人公は牧師である。【両者完全一致
  • 主人公はある日、礼拝の後で信者の女性から「夫が悩んでいる(ノイローゼ気味)なので相談に乗って欲しい」と話しかけられる。彼女は妊娠している。【両者完全一致
  • 「魂のゆくえ」の信者(夫)は地球温暖化が進む未来に絶望している(生まれてくる子供が可愛そうだ)。↔「冬の光」の信者(夫)は中国が核兵器を開発していることに絶望している(核戦争の恐怖)。
  • ある日、信者(夫)は森で猟銃自殺する。【両者完全一致

というわけで、余りにも「冬の光」そっくりなのでびっくりした。パクリというか、原作:イングマール・ベルイマンと表記しなければ、倫理上許されないレベルである。

次に過去作「タクシードライバー」(1976)との共通点を列記する。

  • 主人公は孤独である。
  • 「タクシードライバー」のトラヴィスはベトナム戦争帰りの元海兵隊員で心を病んでいる。↔「魂のゆくえ」の牧師は息子を従軍牧師として入隊させ、イラク戦争で戦死させてしまい、その罪悪感に苛まれている。
  • 主人公は別れた妻が現在働いている職場にテロを仕掛けるが、未遂に終わる。【両者完全一致

いやはやである。

結局、オリジナリティー0の本作を高く評価する映画評論家やアカデミー会員たちは、そもそもベルイマンの「冬の光」を観ていないんじゃないか?彼らの無知蒙昧には呆れ果てるしかない。映画のいろはでしょ?

「魂のゆくえ」を観ながら思ったのは、演出家としてスコセッシの方が一枚も二枚も上手だなということ。そして「監督」ポール・シュレイダーの最高傑作は、やはり緒形拳が三島由紀夫を演じた「Mishima」(日本未公開!)であろう。これは文句なしに素晴らしい。

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2019年5月20日 (月)

バースデー・ワンダーランド

評価:B+

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公式サイトはこちら

原恵一監督のアニメーション映画としては、「河童のクゥと夏休み」(←退屈!)「カラフル」「百日紅」よりは好きだけれど、クレヨンしんちゃんの「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」や「アッパレ!戦国大合戦」には及ばないという印象。

ファンタジーとしての異世界観は悪くない。キャラクター・デザイナーとしてロシア出身のイリヤ・クブシノブを起用したことが功を奏している。

ただ如何せん、物語が弱いことは否めない。なぜ主人公のアカネが〈救世主〉に選ばれたのか説得力に欠けるし、結局彼女が果たした役割は儀式を執り行う王子に寄り添っただけだからね。「これでいいのか?」というモヤモヤした気持ちが残る。

最後にシャンソン「聞かせてよ愛の言葉を (Parlez-moi d'amour)」が流れたのはグッと来た。 リュシエンヌ・ボワイエ の歌唱が有名で、太平洋戦争中に勤労動員先の軍の宿舎で下士官からこの歌をこっそり聞かせてもらった武満徹(当時14歳)が衝撃を受け、作曲家になろうと決意したというエピソードが残っている。

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菊池洋子 モーツァルト 音のパレット 第3回

5月19日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。菊池洋子のオール・モーツァルト・プログラムを聴く。

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  • ピアノ・ソナタ 第15番
  • ピアノ・ソナタ 第12番
  • ピアノ・ソナタ 第8番
  • ピアノ・ソナタ 第17番
  • 小さなジグ K.574(アンコール)
  • トルコ行進曲(アンコール)

菊池は日本人として初めてモーツァルト国際コンクールで優勝した。

玉のようにコロコロ転がるモーツァルトを堪能した。

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2019年5月13日 (月)

キアロスクーロ・カルテット@兵庫芸文

4月27日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。アリーナ・イブラギモヴァ率いるキアロスクーロ・カルテットを聴く。

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  • J.S.バッハ:「フーガの技法」より
  • メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 第1番
  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第7番「ラズモフスキー第1番」
  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第2番より第3楽章(アンコール)

このカルテットは(通常のスティールではなく)ガット弦を張り、基本的にノン・ヴィブラート奏法(ピリオド・アプローチ)である。

チェロ以外は立奏で、チェロは下を支えるエンドピンがない古楽器。しかし楽譜は最新式で全員iPadを使用。譜めくりはフットスイッチで操作。

メンデルスゾーンは清新で軽やか。

ベートーヴェンはラ・サール弦楽四重奏団やアルバン・ベルク弦楽四重奏団ほど威圧的・厳格にならない。そこに「女の眼」を感じた。丁度良い匙加減。

今やピリオド・アプローチでベートーヴェンの交響曲を演奏するのは当たり前の時代になったが、後期の弦楽四重奏曲については殆ど前例がない。キアロスクーロ・カルテットが第13番以降に取り組む日は果たして来るのか?大いに注目したい。

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2019年5月11日 (土)

シアター一期一会 《私家版ナショナル・ストーリー・プロジェクト》

あれは忘れもしない1999年の春、地元の映画館「テアトル岡山」にトニー・スコット監督、ウィル・スミス主演の「エネミー・オブ・アメリカ」を観に行った時のことである。館内の客はまばらで、数人しかいなかった。そして映画の上映中、僕の席の前に座っていた男の携帯電話が鳴り始めた。「迷惑だなぁ」と思っていると、何とその男は電話に出て大声で喋り始めたのだ!我が目を疑った。

この頃は全国的にこうしたトラブルが絶えず、1996年10月20日にサントリーホールでクラウディオ・アバド/ベルリン・フィルによるマーラー「復活」交響曲の演奏中に(それも静かなところ)携帯電話が突如けたたましく鳴り響き、2005年には来日したキース・ジャレットのソロ・コンサートでも客席から着信音が流れ、それに切れたキースが演奏を中断し、「ここは禅の国だろう?日本には昔から瞑想(meditation)という習慣があるはずだ」と聴衆に諄々(じゅんじゅん)と説教して、そのまま帰ってしまうという事件が報道されたりもした。

その後コンサートホールには電波遮断装置が設置され、映画館はシネコンが普及し、必ず上映前にマナー講座が上映されるようになった。映画館で携帯に出る男を見たのは「エネミー・オブ・アメリカ」が最初で最後である。啓蒙活動は効果抜群、決して馬鹿に出来ない。

「テアトル岡山」は非常に音響が悪く、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」や「タイタニック」の大音響でスピーカーがビリビリ鳴るような、時代に取り残された映画館だった。2003年に閉館し、その跡地は駐車場になっている。映画「ニュー・シネマ・パラダイス」を観ると、いつも「テアトル岡山」のことを想い出す。

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2019年5月10日 (金)

劇場版 響け!ユーフォニアム 〜誓いのフィナーレ〜

評価:B

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テレビの総集編である前2作に続く劇場版3部作の完結編(今回は完全新作)であり、間にスピンオフ「リズと青い鳥」があったので、それを含めると4作目である。

正直残念な出来だった。結局、1st シーズン(TV版)が群を抜けた出来であった。

時間軸を考えると、1st シーズンは主人公の黄前久美子(ユーフォニアム)が京都の北宇治高校吹奏楽部 に入部し、吹奏楽コンクール京都府大会@京都コンサートホールで代表校を勝ち取るまで。2nd シーズンは関西大会を経て全国大会で銅賞になるまで。そして今回は2年生になった久美子の奮闘が描かれる。「リズと青い鳥」と同じ時期のanother sideに位置づけられており、だからコンクール自由曲は「リズと青い鳥」だ。

正直、最初から最後まで〈既視感(デジャヴュ ) 〉に満ちていた。【新入生の担当楽器を決める→パレード(マーチングイベント)に参加→6月のあがた祭→コンクールに向けたオーディション→コンクール本番】という流れの繰り返し。新鮮味が全くない。

石原立也の演出は凡庸。特にクライマックスになる筈のコンクールの演奏シーン(関西大会の会場がロームシアター京都なので、設定は多分2016年)は紋切り型の編集が退屈で、イラッとした。

ただ「響け!ユーフォニアム」以前にはこうした本格的吹奏楽アニメや映画は一切なかったわけで、TVで高視聴率を上げたわけでも、DVD/Blu-rayが売れたわけでも、劇場で大ヒットしたわけでもないのに、シリーズがこれだけ続いたことは、吹奏楽を心から愛する者として、大変ありがたいことである。そういう意味で京都アニメーションには心から感謝したい。

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映画「愛がなんだ」

評価:B+

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最初、観るつもりは全く無かった。監督も、誰が出ているかも知らなかった。気が変わったのはTBSラジオ「アフター6ジャンクション」で大腸憩室炎で緊急入院したパーソナリティの宇多丸に代わり、〈ムービーウォッチメン〉に登場したスクリプトドクターの三宅隆太が短評した映画8作品(持ち時間各2分)の中で、本作が一番好きだと語っていたからである。特に心惹かれたのは原作が角田光代だということ。

角田光代とは相性が良くて、直木賞を受賞した「対岸の彼女」とか、「八日目の蝉」とかは大好きな小説である。現在読んでいる紫式部「源氏物語」も角田光代訳。サクサク読めて現在、中巻の半ばまで到達した。

ままならない男女関係が見事に描けている映画である。主人公・山田テルコは男にとって実に〈都合のいい女〉だ。しかし、だからといって恋愛が成就するわけでもない。厄介めんどくさい。でもそこには〈生きている〉という実感がある。

テルコを演じた岸井ゆきのは悪くないのだが、なんと言っても僕が驚嘆したのは友人の葉子を演じた深川麻衣。存在感があって圧倒的に素晴らしい。深川は「乃木坂46」の1期生で(既に卒業)、アイドル時代の彼女のことはよく知っているつもりだった。そもそも冠番組「乃木坂って、どこ?」(現在は「乃木坂工事中」に改名)は彼女たちが1stシングル「ぐるぐるカーテン」でデビューする前(2011年)から見ている。でも深川に魅力を感じたことは今まで一度もなく、こんなに演技が出来るなんて全く想像だにしなかった。最近は舞台ミュージカル「レ・ミゼラブル」や「ロミオ&ジュリエット」「モーツァルト!」で活躍する生田絵梨花よりよっぽど上手い(生ちゃんの魅力は歌唱力にある)。深川が演じるのはいわば〈ヒール役〉なのだが、「僕も彼女に踏みつけられたい!」と思った。

ただ角田光代原作中、映画自体の完成度としては、「八日目の蝉」や「紙の月」の方が一枚上手かな?

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2019年5月 9日 (木)

河村尚子の弾くベートーヴェンからロシアのピアニズムを聴き取る。

4月29日(祝)関西フィル定期のあと、兵庫県立芸術文化センターへ。河村尚子のオール・ベートーヴェン・プログラムを聴く。使用されたピアノはベーゼンドルファー 280VC。最高額のA席が3,000円なのだけれど、全く同じプログラムで東京の紀尾井ホールは4.500円なので、大変お得。河村は兵庫県西宮市出身であり、地元での平成最後のコンサートとなった。

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  • ピアノ・ソナタ 第26番「告別」
  • ピアノ・ソナタ 第27番
  • ピアノ・ソナタ 第29番「ハンマークラヴィア」

河村の演奏は左手の打鍵が力強く、たいへん歯切れがよい。言い換えるなら、不必要に足ペダルを多用しない。ギレリス、リヒテル、ラザール・ベルマンらに繋がるロシアのピアニズムを感じさせる。調べてみると案の定、彼女がハノーファの音楽大学で師事したウラジミール・クライネフはロシア出身のピアニストであった。それでいてちゃんと、女性らしい丸みを持った音を奏でる。

ウクライナ生まれでキエフ音楽院で学んだピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツは嘗てこう言い放った。

東洋人にはピアノは弾けない」

しかし河村は逆にそれを、しっかりとした武器として活用している。ホロヴィッツが思いもしなかった形で。つまり、

ロシア人の父性原理+日本人の母性原理(女性性)=河村のピアニズム

という式が成り立つ。同じことは6歳でモスクワに渡った松田華音の演奏にも言えるだろう。

大作「ハンマークラヴィア」は隙(すき)がなく完璧で、聴いていると肩がこり、息苦しくなる。感情移入を拒む楽曲であり、そういう意味ではJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集とかオルガン曲を彷彿とさせる。第4楽章にフーガが登場するしね。

河村は張り詰めた音を紡ぎ、緊迫感があった。改めて超人的というか、デモーニッシュな音楽だと思った。

心理学者カール・ユスタフ・ユングは次のような言葉を残している。

創造的な人は、自分自身の生活に対して、ほとんど力をもっていない。彼は自由ではない。彼はデーモンによって把えられ、動かされているのだ。

河村が語ったところによると、彼女は先日、山田和樹/NHK交響楽団と定期演奏会で共演し、矢代秋雄のピアノ協奏曲を弾いたそう。その模様は、7月7日にEテレで放送される予定。

アンコールの矢代秋雄:夢の船(四手用に書かれた楽譜を二手で演奏)は愛らしい小品。そして「告別」の終楽章が再び演奏された。

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2019年5月 3日 (金)

調性音楽の勝利!〜菅野祐悟の交響曲第2番初演:関西フィル定期

20世紀は〈戦争の世紀〉であると同時に〈実験の世紀〉だった。マルクス主義者たちが実行した〈社会主義国家建設〉という実験もそのひとつで、壮大な失敗に終わったことは記憶に新しい(終わっていないと信じている人々も極少数いるが……)。芸術の分野では〈十二音技法・無調音楽〉や〈抽象絵画〉〈アングラ演劇〉などの実験が流行った。それは言い換えるなら〈調性の破壊〉〈具象・輪郭線の破壊〉であり、共通項は〈フォルムの破壊〉だった。つまり〈秩序から無秩序・混沌への移行〉を試みたわけだ。根底には〈人類は常に進化し続けなければならない〉という強迫観念・迷妄があった。その結果、現代芸術は大衆/一般鑑賞者の支持を完全に失った。

しかし、考えてみて欲しい。例えば紫式部「源氏物語」と村上春樹の小説を比較して、文学は果たしてこの一千年の間に進化しているだろうか?また、人間の心のあり方(human nature)は進化しているだろうか?答えは自明であろう。

つまり人間性とか芸術は、〈進化する〉という性質を一切持ち合わせていない。この一千年で進化しのは、科学技術(technic)であり、社会(保証)制度(system)だけである。そこを決して履き違えてはならない。

〈十二音技法・無調音楽〉は作曲技法(technic) が一つ、増えたというだけのことである。絵画でいうならばパレットに絵の具が一つ増えたことに等しい。だからといって調性音楽を否定することは三原色(赤・青・緑)を否定することに他ならず、愚の骨頂である。

だから20世紀は芸術にとって不毛の時代であった。調性音楽を守ろうとした誠実な作曲家たちは、映画音楽やミュージカルの世界に散らばっていった。その代表例がエリック・ウォルフガング・コルンゴルト、クルト・ヴァイル、ニーノ・ロータ、ジョン・ウィリアムズ、スティーヴン・ソンドハイム、アンドリュー・ロイド=ウェバーらである。

しかし100年間に及ぶ迷走を経て、芸術家たちは自分たちが犯したとんでもない間違いに漸く気が付き始めた。調性音楽の復権が始まったのである。エリック・ウォルフガング・コルンゴルトの再評価・発見がそれを象徴する出来事となった。そしてウィーン・フィルやベルリン・フィルが「スター・ウォーズ」を演奏する時代が遂に到来した。サイモン・ラトルはベルリン・フィルの定期演奏会でバーナード・ハーマン作曲「サイコ」(アルフレッド・ヒッチコック監督)の音楽も取り上げた。

藤岡幸夫は長年、調性音楽の復権に真剣に取り組んできた指揮者である。その豊かな成果が英シャンドスに録音した、一連の吉松隆の交響曲・協奏曲シリーズだろう。

そして最近、藤岡が新たにタッグを組み始めたのがNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」やテレビ「昼顔」等の音楽で知られる菅野祐悟である。2016年には関西フィルと「交響曲 第1番 〜The Border〜」を初演した。

このシンフォニーは4つの楽章から構成され、それぞれDive into myself/Dreams talk to me/When he was innocent/I amと副題が付いている。僕はこれを見て「ああ、この人はユング心理学から多大な影響を受けたんだなぁ」と感じた。つまり「夢(Dream)」を分析することで意識の層を潜り(Dive)、「個人的無意識(Personal unconscious)」を超えて深層の「集合的無意識(Collective unconscious)」に接続し、「元型(Archetype )」である「永遠の少年(プエル・エテルヌス)」や「自己(Self)」をしっかりと見据えて自己実現を図るという物語をそこから読み取った。

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この初演はライヴCDとなり、Amazon.co.jpのレビューでは2人が「交響曲にはなっていない」と書いている。

では「交響曲」の定義とは一体何か?〈オーケストラが演奏する〉は大前提だ。誰も異論はなかろう。他は〈3つ以上の楽章に分かれる〉とか、〈第1楽章がソナタ形式〉〈中間に緩徐楽章や舞曲(メヌエット/スケルツォ)を持つ〉とかだろうか?しかしシベリウスの交響曲 第7番を見てみよう。単一楽章でソナタ形式も持たない。この「交響曲」とシベリウスの交響詩「タピオラ」を分かつものは何か?答えは作曲家が「交響曲」と呼んだから。根拠はそれだけしかない。磯田健一郎(著)吉松隆(イラスト)「ポスト・マーラーのシンフォニストたち」(音楽之友社)にも、作曲家がそれを「交響曲」と呼べば「交響曲」なのだと書かれている。乱暴なようだが「真実はいつもひとつ」(by 江戸川コナン)。菅野祐悟に対して「交響曲にはなっていない」などとアホなこと抜かすな!無知蒙昧な輩はおとといきやがれ、である。

さて4月29日(祝)ザ・シンフォニーホールへ。藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

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  • ディーリアス:春を告げるカッコウ
  • エルガー:チェロ協奏曲(独奏:宮田大)
  • 菅野祐悟:交響曲 第2番 世界初演

大学生の頃からディーリアスの音楽はジョン・バルビローリ、トーマス・ビーチャム、エリック・フェンビー、チャールズ・マッケラスらの指揮で親しんで来た。藤岡の指揮はふわっとした響きで、テンポは上述した指揮者たちよりも幾分速め。リズミカルで、ゆりかごが揺れているような感じ(back and forth)。すごく心地良かった!藤岡のヴォーン=ウィリアムズが絶品なのは知っていたが、どうしてどうしてディーリアスもいける。もっともっと聴きたいな。因みに僕のお気に入りは「夏の夕べ(Summer Evening)」「夏の歌(Song of Summer)」そして「夏の庭で(In a Summer Garden)」。それと藤岡さん、演奏会形式で歌劇「村のロメオとジュリエット」全曲とかいかがでしょう?エッ、採算が取れない?そう仰るなら、せめて間奏曲「楽園への道」だけでもどうかお願い致します。

エルガーのチェロ協奏曲と言えば、泣く子も黙るジャクリーヌ・デュ・プレとバルビローリ/ロンドン交響楽団による究極の名盤がある。唯一無二。ジャッキーの演奏が強烈すぎて、他のチェリストで聴きたいという気が全く起こらない。困ったものである。ミラノ・スカラ座にはヴェルディの「椿姫」に関して〈カラスの呪い〉という伝説があり、1955年にマリア・カラスが演じたヴィオレッタが余りにも素晴らし過ぎて、その後39年間「椿姫」が再演出来なかったのだが(64年にカラヤン、フレーニが試みたものの惨憺たる失敗に終わった)、エルガーのチェロ協奏曲に関しても間違いなく〈ジャッキーの呪い〉があると僕は踏んでいる(余談だが今年、ピアニストのアリス・紗良・オットがジャクリーヌと同じ病気、多発性硬化症を罹患したと報道された。心配である)。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(スラヴァ)が生涯、この曲を演奏しなかったのも、「ジャッキーには到底敵わない」という思いがあったのだろうと僕は確信している。

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上写真はジャッキーとスラヴァ。

この度、宮田大の演奏に接し、初めてジャクリーヌ・デュ・プレ以外にも聴く価値のあるエルガーを弾けるチェリストがいるのだと知った。ジャッキーが情熱的でエモーショナルなのに対して、宮田はまるで虚無僧のようである。そこから聞こえているのは〈わび・さび〉。ゆったりとした第1楽章は枯れ葉舞う秋を感じさせる。第2楽章はトリックスターがちょこまか飛び回り、第3楽章はカンタービレと緊張感ある弱音が実に美しい。そして魂が入った第4楽章にはグルーヴ(うねり)があった。

ソリストのアンコールはカタロニア民謡「鳥の歌」、実はクリスマス・キャロルである。この曲を聴くと、否応なくパブロ・カザルスのことを想い出す。ケネディが大統領だった頃のホワイトハウス・コンサート(CDあり)。そして94歳の時、ニューヨーク国連本部での演奏と「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」という有名なスピーチ(映像はこちら)。

菅野の新作には"Alles ist Architektur"と副題が付いている。ウィーン生まれの建築家ハンス・ホラインの言葉で、「すべては建築である」という意味である。僕はこの言葉を「すべては構造である」と読み替えることが出来るなと思った。つまり今回は、フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースの思想に繋がっている。

プレトークでは藤岡から「調性を取り戻す!」という決意の言葉が力強く発せられた。また藤岡によると菅野の和声進行は独特で、リハーサル中に作曲家から「そこは神の声で」と注文があったというエピソードも披露された。

各楽章には様々な建築家の言葉が添えられている。

第1楽章:「建築の偉大な美しさの一つは、毎回人生がふたたび始まるような気持ちになれることだ」レンゾ・ピアノ(イタリア)
第2楽章:「建築とは光を操ること。彫刻とは光と遊ぶことだ」アントニ・ガウディ(スペイン)
第3楽章:「建築は光のもとで繰り広げられる、巧みで正確で壮麗なボリュームの戯れである」ル・コルビュジエ(フランス)
第4楽章:「可能性を超えたものが、人の心に残る」安藤忠雄

しかし音楽を聴いているうちに、こうした作曲家のコンセプトにいちいち拘る必要はないのではないか、あまり意味はないという気がしてきた。

そこで僕が想い出したのはレナード・バーンスタインが台本・指揮・司会を努めたヤング・ピープルズ・コンサートで第1回目(1958年)にTV放送された「音楽って何?(What Does Music Mean ?)」である。最初に「ウィリアム・テル」序曲が演奏され、「君たちはこれを聴くとローン・レンジャーとか西部劇を連想するかもしれないが、作曲家のロッシーニはアメリカの西部なんか知らなかった」とレニーは語る。次に演奏されるのがR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」でレニーは次のような、でたらめな物語を述べる。「ある無実の男が刑務所に留置され、それを友人のスーパーマンが助けに来る。スーパーマンは看守を殴り、男をバイクの後ろにヒョイと乗せ、立ち去る。遂に彼は自由の身になった!」その後で本当のドン・キホーテ物語を紹介し、もう一度演奏する。レニーはカーネギー・ホールに集った子供たちに語る。「どうだった?でも音楽自体は何も変わらなかっただろう。つまり、作曲家が語る物語とか情景描写というのは所詮おまけ(extra)に過ぎず、音楽の本質とは一切関係がない

というわけで、以下は僕が感じたままに書こう。第1楽章は途中、鳥の声が聞こえてきたりして、ベートーヴェン「田園」のような自然描写の音楽だと思った。第2楽章で連想したのはルロイ・アンダーソンの「ジャズ・ピチカート」。あとバリのガムランみたいな雰囲気も。色彩豊かで万華鏡のような音楽が展開され、レヴィ=ストロースの「野生の思考」という言葉が思い浮かんだ。つまり音符のブリコラージュだ。

緩徐楽章の第3楽章はエンニオ・モリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」的。あとNHK「ルーブル美術館」でも再使用された映画"La califfa"の音楽(試聴はこちら)。メロディアスで心が癒やされる。そして終楽章は荘厳でパイプオルガンの響きがした。脳裏に浮かんだのは教会の尖塔。中間部に弦のトレモロから金管のコラールに移行する箇所があり、もろにブルックナーのシンフォニーだった。作曲家が「神の声」と言ったのはこの箇所ではなかったろうか?僕は「調性音楽の勝利!」と心の中で叫んだ。けだし傑作。今からライヴCD発売が愉しみである。

 

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