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2019年3月

2019年3月30日 (土)

小豆島へ

3月22日(金)から25日(月)にかけて淡路島、小豆島、香川県を旅した。

香川では勿論、うどん巡り。最近のお気に入りは「釜あげうどん 長田in香の香」@善通寺市。以前釜あげうどんといえば〈東のわら家、西の長田〉と称される時代があったが(麺通団の書「恐るべきさぬきうどん」全盛期)、今や「香の香」こそが〈釜あげうどんの王者〉であることは論を俟たない。そのやや濃いめの塩味に中毒性がある。あと今回初めて行った「うどん 一福(いっぷく)」@高松市も細麺で旨かったなぁ!土曜日だったが、14時には麺がなくなり営業終了となった。

小豆島のお昼は井上誠耕園直営の カフェレストラン「忠左衛門」でいただいた。下の写真は「忠左衛門」からの眺め。

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オリーブ牛のハンバーグ、パエリア、蒸し牡蠣などが美味しかった。オリーブの風味が絶品で、パンを浸しても、サラダにかけても旨味を増す。

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小豆島の日の出である。

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朝はオリーブ公園へ。

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ここは実写版「魔女の宅急便」(2014年、清水崇監督)ロケ地で、ギリシャ風車がある。

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また〈グーチョキパン屋〉のロケセットが移築され、「雑貨 コリコ」に。

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下写真のような奇妙なオブジェも。

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オリーブ公園から渡し船で二十四の瞳映画村へ。

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小豆島といえば壺井栄原作・木下恵介監督の映画「二十四の瞳」(高峰秀子主演)と、角田光代原作・成島出監督「八日目の蝉」(永作博美・井上真央主演)がなんと言っても有名。そのロケセットがここに保存されている(「二十四の瞳」は田中裕子主演リメイク版の方)。ここからの海の眺めは最高!さすがしっかりしたロケハンがされている。

また宿泊した小豆島国際ホテルは海に望む部屋風呂がなんとも心地よく、癒やされた。

小豆島は手延べそうめんも有名。「八日目の蝉」の主人公は逃亡の果てに小豆島にたどり着き、素麺屋で働くのだ。

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2019年3月29日 (金)

ホイットニー〜オールウェイズ・ラヴ・ユー

評価:A

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公式サイトはこちら

ホイットニー・ヒューストンをめぐるドキュメンタリー映画である。監督のケヴィン・マクドナルドは「ブラック・セプテンバー/五輪テロの真実」でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞。劇映画「ラストキング・オブ・スコットランド」も見応えがあった。

いや〜面白かった!歌手を描いたドキュメンタリー映画といえば、やはりアカデミー賞を受賞した「AMY エイミー」があるが、断然僕は本作の方を支持する。

観ていて辛い作品ではある。大スターになった女の子を家族が食い物にしてゆく。つまらない男に引っかかり、(幼少期に従姉妹ディー・ディー・ワーウィックから受けた性的虐待がトラウマとなり) 薬に溺れ、身を滅ぼす。彼女の娘も同じ道を歩むことになる。しかしここには人間の真実の姿、どうしようもない本性がある。

なお、ディー・ディーの姉ディオンヌ・ワーウィックは妹にかけられた疑惑を「バカげた話」と完全否定している(当人は死去)。

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2019年3月18日 (月)

フェルメール展@大阪市立美術館と、インディアンイエロー、ヱヴァンゲリヲン

3月17日(日)、大阪市立美術館@天王寺で開催されている「フェルメール展」へ。

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東京では日時指定制だったが大阪はなし。混雑を危惧したが午後3時以降なら入場待ちもなく比較的空いており、じっくり鑑賞出来た。

今回来たフェルメールの絵は《マルタとマリアの家のキリスト》《取り持ち女》《リュートを調弦する女》《手紙を書く女》《恋文》《手紙を書く婦人と召使い》の6点。

これ以外に僕は《手紙を読む青衣の女》《真珠の耳飾りの少女》を見ている。

フェルメールといえば《真珠の耳飾りの少女》を筆頭にラピスラズリを原料とする”フェルメール・ブルー”の美しさが有名だが、今回目立ったのは黄色。《手紙を書く女》や《恋文》で顕著な効果を上げた。フェルメールが好んだのは”インディアンイエロー”。インド・ベンガル地方の特産品で、マンゴーの葉だけを食べさせた牛の尿を集めて乾燥させるという方法で作られていた。しかし牛は過度の栄養失調となり衰弱死が多発。動物虐待だと非難され、1908年以降は市場での取引が禁じられた。故に現在では幻の色となった。

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今回まとめて作品を鑑賞して感じたのは、フェルメールの絵において【室内=自己(self)のメタファー】なのではないか?ということ。そして【(画面左上方にある)窓から差し込む光=他者からの干渉/外的刺激】を表現しているように思われた。その存在は【あこがれ/希望】であると同時に、【不安/畏れ】の対象でもあり得る。登場人物の心情を示すのが、背景に描かれた絵や地図だ。

具体的には《手紙を書く婦人と召使い》の背景に掲げられた、旧約聖書「出エジプト記」に基づく《モーセ(赤子)の発見》だったり、

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《恋文》で背景の絵に描かれた帆船だったり、

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《リュートを調弦する女》の壁に貼られたヨーロッパ地図だったりする。

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庵野秀明の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」に当てはめるなら、フェルメールにおける【室内=自己(self)のメタファー】↔【ヱヴァのATフィールド=「誰もが持っている心の壁」の内側】、【窓から差し込む光=他者からの干渉/外的刺激】↔【ヱヴァの使徒】という対応関係が成立するだろう。

フェルメール展は5月12日(日)まで。

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2019年3月16日 (土)

【考察】日本人は何故、CDを買い続けるのか? 〜その深層心理に迫る

外部記事で次のようなものがある。

つまり現在、日本はCDが世界で一番売れている国なのだ。他の国は全て音楽ストリーミング配信を聴くか、iTunesなどダウンロードに完全移行している。

正にガラパゴス化である。どうしてこんな珍妙奇異な現象が我が国だけで起こっているのだろう?

ここで議論の混乱を避けるため、現象を2つに分ける必要がある。①AKB48や坂道グループのCDの売上げ②それ以外 である。①の理由は明白。CD購入は音楽を聴くためではなく、「握手券」や「”総選挙”の投票用紙」としての価値に置き換えられている。いわゆる「AKB商法」だ。ファンは同じCDを大量に買い、封入された「握手券」だけを抜き取って後は捨てる。

僕が注目したいのは②の方。「握手券」「チェキ券」「CDお渡し会参加券引き換えチケット」など付加価値・特典がないCDを日本人が未だに買い続けるのは何故なのか?そこにはどのような心理的要因が働いているのであろう。

クラシック音楽CDを買い続けている人のブログやtwitterの投稿を読むと、どうやらその理由は次の2つに集約されるようだ。①配信よりもCDの方が高音質である。②(空気や振動のように実体がない)音楽を物質(もの)として所有していないと、どうも心もとない。安心出来ない。

そこでまず①について検証してみた。僕が持っているクラシック音楽CDと、同じ音源をデジタル音楽配信サービスSpotifyで聴き比べるブラインド・テストを行った。試聴機はTechnicsのハイレゾ対応一体型ステレオシステムOTTAVA f SC-C70である。被験者は複数人参加してもらった。そしてCDに対してSpotifyの音質に遜色はなく、むしろ音源によってはSpotifyの方が勝っているという結論に達した。これはクラシック音楽専門配信サービスNAXOS Music Libraray(NML)も同様である。

そもそも音質にこだわるならばハイレゾ(High Resolution)音源をダウンロードすれば良いだけのこと。CDを圧倒的に上回る情報量を持っており、その音質は最早新次元である。ピアソラ(バンドネオン)の「ライヴ・イン・ウィーン」をハイレゾで購入したが、目の前で本人が演奏していると錯覚するくらいの〈生音〉に驚愕した。ビル・エヴァンスの音源も、まるで僕自身がヴィレッジ・ヴァンガード(マンハッタンにあるジャズクラブ)でグラス片手に彼のピアノを聴いているような臨場感がある。つまり①は、なんの根拠もない風評・幻想に過ぎない。

②は悪く言えば〈物欲〉、よく言えば〈ものを大切にする心〉なのだが、その根底には付喪(つくも)神〉が無意識のうちに存在しているのではないかと僕は考える。つまり〈(実体のある)CDには音楽の神様が宿っている〉という土着信仰である。

付喪(つくも)神〉とは、日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿ったものである。 荒ぶれば禍をもたらし、和(な)ぎれば幸をもたらすとされる。〈九十九神〉とも書き、「長い時間」「多種多様な万物」という意味合いを含んでいる。

〈つくも〉とは元々〈つつも(次百)〉であったと言われている。古語で、ものの満ち足らないことを意味する〈つつ〉に、百を意味する〈も〉を加えることで、「百に一足りない」という意味になっている。

〈つつも〉から〈つくも〉に転訛(なまった)のは平安初期に成立した「伊勢物語」からとされており、主人公である在五中将(=在原業平)が、老いてもなお色恋を求め自分(業平)の家に来て覗き見する老婆を詠んだ歌に登場する。

百年(もゝとせ)に 一年(ひとゝせ)たらぬ つくも髪 我を恋ふらし 面影にみゆ
(百歳に一年足りない白髪の老婆が私を恋しく思っているらしい。まぼろしになって見える。)

つまり〈九十九(つくも)〉とは白髪のことを指す。この時既に魑魅魍魎・山姥のイメージが重ねられている。余談だが、埼玉県には女性の長い髪を御神体とする「毛長(けなが)神社」がある。詳細はこちら

九十九髪〉という言葉が〈付喪神〉に転じたのは室町時代と言われており、「伊勢物語抄」では百鬼夜行のこととされる。

かの有名な妖刀〈村正〉伝説も付喪神〉である。(映画化・テレビドラマ化・宝塚歌劇で舞台化もされた)藤沢周平の小説「蝉しぐれ」には〈秘剣村雨〉なんて妖刀が出てくるし、ゲーム・アニメ・2.5次元ミュージカルなどで大人気「刀剣乱舞」の刀剣男士は全員付喪神〉である。日本人はこういうのが大好物なのだ。

ニニギノミコトが日本を統治するために天から舞い降りるとき、天照大神(アマテラスオオミカミ)から託された鏡・剣・勾玉を〈三種の神器〉という。うち〈草薙剣〉は名古屋にある熱田神社の御神体となっている。

また奈良県にある石上神社の御神体である〈布都御魂(ふつのみたま)〉は日本神話に現れる建御雷命(タケミカヅチノミコト)の所有していた霊剣で、命(ミコト)の分身とされる。

一方、欧米諸国に目を転じると自由意志を持った〈付喪神〉に該当するものはほぼ皆無である。強いて挙げるなら、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場するトネリコの樹に刺さったノートゥング(剣)や、アーサー王伝説に登場するエクスカリバーくらいだろう。エクスカリバーは石に刺さった剣で、それを引く抜くことがアーサー王の血筋の証明となる。ノートゥングの役割も全く同じ。つまり〈剣=神〉ではなく、それを所有する者が英雄(あるいは王位継承者)であることを認証するための道具に過ぎない。「ハリー・ポッター」シリーズでホグワーツ魔法学校入学時に、生徒たちが入る寮を決める〈組分け帽子〉みたいなものだ。

日本では石や岩も御神体になっている。京都・伏見稲荷の境内社である「御剱社(みつるぎしゃ)」や、群馬県の「榛名(はるな)神社」、三重県の「花の窟(はなのいわや)神社」がそれに該当する。

無機物を神と見做す思想は、オーストラリアの先住民アボリジニの神話にも見られる。彼らの言う〈ドリームタイム〉に登場する先祖は、岩や石に变化(へんげ Metamorphose)する。嘗ては「エアーズロック」と呼ばれた、オーストラリア大陸にある一枚岩「ウルル」も、彼らの先祖(神)そのものである。故に「ウルル」は2019年10月26日から観光客向けの登山が禁止となる。

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それから、次に語ることは日本人に限ったことではないが、「映画は映画館で観るべきだ」と主張する人々が少なからずいる。スティーヴン・スピルバーグ監督もその一人で、Netflixなど配信サービスの映画がアカデミー賞を受賞するのは相応しくないと強硬に反対の姿勢を貫いている。フィルムで撮っていた時代なら僕も意義を認めるが、現在はデジタル撮影/デジタル上映が殆ど。理性的に判断すれば、映画館で観るメリットは皆無だろう。

結局、上記の人々は潜在意識の中で映画館の暗闇を〈映画の神様が降臨する社(やしろ)/教会〉のような場所として神聖視しているのではないだろうか?こうなると理屈ではなく最早宗教であり、彼らを説得し、翻意を促すことは極めて困難である。実に厄介な話だ。

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2019年3月15日 (金)

アカデミー長編アニメ映画賞&アニー賞受賞「スパイダーマン:スパイダーバース」

アカデミー賞の長編アニメーション映画部門及びアニー賞で作品賞を制覇した「スパイダーマン:スパイダーバース」を小学校1年生の息子と一緒に観た。

評価:A+

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僕は基本的にアメコミ映画が好きじゃない。ヒーローなんて胡散臭い存在だとしか思わない。しかし何故か「スパイダーマン」はサム・ライミ監督の三部作、アンドリュー・ガーフィールドとエマ・ストーンが共演した「アメイジング・スパイダーマン」二部作(監督はハリウッド実写版「君の名は。」の白羽の矢が立ったマーク・ウェブ!)、リブートされた「スパイダーマン:ホームカミング」を全て観ていて(自分でもその理由が判らない)、本作が何と7本目になる。そして「スパイダーバース」がずば抜けて一番面白かった!

マルチバース(multiverse)の話である。宇宙(universe)が1つ(uni)ではなく、多数(multi)である可能性を考慮し、それら数多くのuniverseの集合体を指す言葉だ。この「宇宙」の外に別の「宇宙」があるかも知れないと現在、多くの物理学者たちは考えている。なお「宇宙」の「宇」は「四方上下」(三次元空間全体)、「宙」は「往古来今」(過去・現在・未来の時間全体)を意味し、「宇」は空間的広がり、「宙」は時間的広がりに対応し、英語におけるspace-timeと同義である。

パラレルワールド(平行世界)と言い換えても良いだろう。時空が歪み、様々な「宇宙」からスパイダーマンたちが一箇所に集結するというアイディアが秀逸である。

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そもそも「マーベル・シネマティック・ユニバース」(Marvel Cinematic Universe)という概念もスーパーヒーローが共有する架空の世界(宇宙)を意味しており、我々のいる宇宙や、マーベル・コミックの描く世界とも別物である。

本作が斬新なのは3DCGと2Dの融合である。基本的にはCGアニメーションだが、アクションシーンで突如擬音が吹出しで文字化され、コミックス仕様に一瞬変化するのだ。あと背景が粒立っており、紙面の質感を意識している。その志は高い。2002年に設立されたソニー・ピクチャーズ アニメーションはエポックメイキングな作品を創り出した。

アカデミー長編アニメ映画賞は2012年の「メリンダとおそろしの森」から17年「リメンバー・ミー」まで6年連続でディズニーとピクサーが交代で独占し続けてきた。そこにソニーが風穴を開けたことはデカイ。さぁ、来年は日本から新海誠「天気の子」が殴り込みをかけるゾ!大いに期待したい。

 

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2019年3月14日 (木)

【考察】映画「コードギアス 復活のルルーシュ」と「カリ城」の緊密な関係

評価:A

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公式サイトはこちら

僕はテレビ放送された「コードギアス 反逆のルルーシュ」全50話をNetflixで観た上で本作に臨んだ。

驚いたのは死んだ筈のシャーリーが生きていたことである。劇場でも「あの娘、死んだんじゃなかったっけ!?」という会話がちらほら聞こえた。

後で知ったのだが、テレビの総集編となる劇場版三部作でシャーリーは死なないことに設定が変更されたようである。つまりパラレルワールド平行世界)ね。ちなみに現在、劇場版三部作は全てAmazon プライムにて課金なしで視聴出来るようになった

というわけで「復活のルルーシュ」を観たいと思う方は、最低限の予備知識として「反逆のルルーシュ」TV版か劇場版をご覧になっておくことを強くお勧めする。ただし劇場版(1本)はテレビの約17話分(417分)を140分に短縮しているので、流石に無理がある(分量1/3)。省かれたエピソードも多く、出来ればTV版に挑戦してみてください。絶対面白いから。

さて「復活のルルーシュ」だが、大河内一楼の脚本は相変わらず冴え渡り、谷口悟朗監督の演出もキレッキレ。

本作でナイトメアフレーム(人型機動兵器)の戦闘シーンは3DCGと手書きの両方が混ざり合った構成になっている。実は谷口監督が演出に関わっていないOVA「コードギアス 亡国のアキト」のナイトメアフレームはフル3DCG仕様なのだが、ハッキリ言って戦闘シーンのワクワク感が皆無である。つまり絵が無機質で冷たく、色気がない。完全な失敗作であった。一方、創意工夫が凝らされた「復活のルルーシュ」のアクションは絶妙なバランスとなった。

本作の冒頭部、C.C.と廃人同様のルルーシュが旅を続けるのを遠景から捉えたショットに僕は既視感(デジャヴュ)を覚えた。いつか見た、何故か懐かしい景色。でも初見時には思い出せなかった。

2回目の鑑賞で漸くその〈正体〉に気がついた。物語の終盤、全ての問題が解決し、海上に集結した超合衆国の軍隊がジルクスタン王国に続々と上陸作戦を開始する場面である。僕は内心で叫んだ。「アッ、これって宮崎駿『ルパン三世 カリオストロの城』の最後、ようやくインターポール(国際警察)が動き出し、沢山の警官たちがパラシュートでカリオストロ公国に降下してくる場面の変換じゃないか!!」

そう考えれば全てのパズルのピースが埋まった。〈お城に幽閉されたお姫様(ナナリークラリス)を救うために、主人公たちが奪還計画を実行する〉という基本プロットも全く同じだ。

そしてジルクスタン国王シャリオに仕える大将軍ボルボナ・フォーグナーは「カリ城」でカリオストロ伯爵に執事として仕え、裏では特殊部隊「カゲ」の長官を兼任するジョドーを変換したキャラクターである(その末路も極めて類似している;「無益な殺生はせぬ」by 五右衛門)。

だから「復活のルルーシュ」冒頭の二人連れの旅も、「カリ城」でルパンと次元がカジノの大金庫からゴート札を盗んだモナコ公国からカリオストロ公国に向かう情景をスケッチしたオープニング・クレジットへのオマージュだったのだ。

「反逆のルルーシュ」における宮崎アニメに対する数々のオマージュについてはこちらに詳しく書いた。

概ね満足できる作品だった。特に最後、C.C.のあんな素敵な笑顔が見れて本当に良かった。ただシャーリーの運命を変えたことが新作で全く生かされていないし、「反逆のルルーシュ」で生き残った登場人物の誰一人として「復活のルルーシュ」で死なないというのは、いくら〈ファンサービス〉のための〈お祭り〉とはいえ、ご都合主義なのでは?と些かの不満を申し添えておく。〈非情さ〉こそが「コードギアス」最大の魅力ではなかったか。

最後にいくつか豆知識(トリビア)を。

本作には〈アラムの門〉が登場する。ヘブライ語と密接な関係があるアラム語で〈トリイ〉とは〈門〉という意味である。アラム語はかつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されていたという。つまり〈アラムの門〉≒〈トリイ(鳥居)〉であり、〈神(=Cの世界/集合無意識)にアクセスするための門〉と言えるだろう。

途中ルルーシュは「またお前たちに助けられたな」と言う。最初誰のことなのか判らなかったが、多分、「お前たち」とはCの世界にいるユーフェミアやロロの魂のことなのだろう。

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2019年3月13日 (水)

「妙技爛漫〜バーゼルの喜び!〜」いずみシンフォニエッタ大阪 定期

3月1日(金)いずみホールへ。

飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪の定期演奏会を聴く。

  • A.ゴーサン:Eclips(日蝕) 日本初演
  • リゲティ:ヴァイオリン協奏曲
    (独奏:神尾真由子)
  • オネゲル:交響曲 第4番〈バーゼルの喜び〉

本編に先立って、恒例のロビー・コンサートあり。

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「泉(いずみ)」に因んだ音楽で、アルフォンス・アッセルマン(1845-1912)はハープ奏者兼作曲家。マルセル・トゥルニエ(1879-1951)はその弟子。ドビュッシーらフランス印象派を彷彿とさせる作風。因みにトゥルニエはローマ賞の二等賞を受賞しており、これは5回挑戦して最高位が「第二等次席」(事実上の第三位)だったモーリス・ラヴェルより上なんだよね。芸術家に対する真の評価は〈時の洗礼〉を受けないと下せないものだ。

フランスの作曲家アラン・ゴーサン(1943- )のEclipseはけったいな楽曲だった。そういえば武満徹にも琵琶と尺八のための「エクリプス(蝕)」があった。

リゲティの協奏曲はオカリナやリコーダーも登場し、スコルダトゥーラ(変則調弦)されたヴァイオリンとヴィオラ1丁ずつ、そして平均律で鳴らされるその他管弦楽との微細な音のズレ、微分音やハーモニクスを多用した響きで音の迷宮を創り出す。プレトークで飯森が、「絶対音感を持つ音楽家は演奏中に気が狂いそうになる」と発言していたのが印象的だった。神尾は大変な熱演。ただコパチンスカヤがラトル/ベルリン・フィルと同曲を演奏している時に(@デジタル・コンサートホール)、終盤でヴァイオリンを弾きながら歌う場面があるのだが、神尾はなし。一体全体、楽譜の指示はどうなってんの!?まぁコパチンは裸足でパフォーマンスするような野生児だから、何を仕出かすか見当もつかないところがあるのだが。

リゲティといえばスタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」(1968)である。「アトモスフェール」とか「レクイエム」が使用された。僕の場合、リゲティの面白さが漸く分かってきたのはつい最近のこと。キューブリックが「2001年」を撮ったのが39歳。恐るべき先見の明だ。

オネゲルの交響曲 第2番は第二次世界大戦中に作曲された陰鬱な音楽だ(1942年初演)。また戦争が終結した45年から46年にかけ作曲された交響曲 第3番〈典礼風〉について作曲家は次のように述べている。「私がこの曲に表そうとしたのは、もう何年も私たちを取り囲んでいる蛮行、愚行、苦悩、機械化、官僚主義の潮流を前にした現代人の反応なのです」やはり戦争が暗い影を落としている。ところが一転、第4番は軽やかで無邪気な曲想になっている。僕は本作を聴きながら、「もしオネゲルが戦争のない時代に生きていたとしたら、明るくてモーツァルトのように天衣無縫な音楽をもっともっと沢山書いていたのではないか?」という気がした。ただ仮にそうなったとして、我々聴き手にとって幸せだったのか否かは判らない。

作曲家を襲った不幸・災厄が、その創作活動にとっては必要不可欠だったりすることが間々(まま)ある。生きるとはかような、理不尽で儘ならないものである。

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ワーグナー〈ニーベルングの指環〉第2日「ジークフリート」@びわ湖ホール

3月2日(土)びわ湖ホールへ。ワーグナーの楽劇「ジークフリート」を鑑賞。

14時開演で終演が19時20分の長丁場。途中30分の休憩が2回あり、実質上演時間は4時間強。

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配役はジークフリート:クリスティアン・フランツ、ミーメ:トルステン・ホフマン、さすらい人(ヴォータン):青山貴、エルダ:竹本節子、ブリュンヒルデ:池田香織、森の小鳥:吉川日奈子 ほか。沼尻竜典/京都市交響楽団の演奏。

ミヒャエル・ハンペの演出、ヘニング・フォン・ギールケの美術は当然、序夜「ラインの黄金」からの基本姿勢を貫いており、舞台前面にシルクスクリーンが張られ、後方も映像が投影されプロジェクション・マッピングで挟み撃ちにする手法が用いられている。だから演じる歌手たちがまるで〈絵の中の人物〉のように見え、〈夢〉の中を彷徨っているような錯覚を起こす仕掛けになっている。僕が連想したのは黒澤明監督の映画〈夢〉で、マーティン・スコセッシ演じるゴッホが自分の描いた〈絵〉の中を彷徨う場面(ショパンの「雨だれ」が流れる)。

ハンペの演出は今流行りの〈読み替え〉ではなくオーソドックスだが、テクノロジーが新しいので目に愉しく、僕はすごく好感を持っている。

歌手に関して。フランツはよく通る美声で◯。青山貴もいい声しているが、些か声量不足。圧巻だったのが池田香織。彼女の深く豊かな声に魅了された。ゴメン、日本人歌手を舐めてました。森の小鳥(吉川)も爽やかで、耳に心地よかった。

改めて「ジークフリート」は非の打ち所がない完璧な音楽だと舌を巻いた。

〈ニーベルングの指環〉がバイロイトで初演されたのが1876年。ロマン派の極北であり、調性音楽の完成された姿である。本作を聴いた当時の作曲家たちはみな、打ちのめされたのではないだろうか?これ以上先に進める余地はない。Dead End,行き止まり

そうした絶望感の中で生まれた逆転の発想が、〈調性音楽の破壊=十二音技法、無調音楽の誕生〉に繋がったような気がする。

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2019年3月 8日 (金)

TBSラジオ「アフター6ジャンクション」に投稿したメールが読まれました。お題はNetflix映画『ROMA/ローマ』

ヒップホップグループ、RHYMESTER 宇多丸がパーソナリティを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」 #アトロク #utamaru の〈週間映画時評 ムービーウォッチメン〉で映画『ROMA/ローマ』について書いた僕の投稿が読まれた。

いや〜聴いていて本当に嬉しかった。宇多丸さん、構成作家の古川耕さん、そして関係者の皆様、ありがとうございました!

以下、送ったメールの原文ママ。

遂にNetflix配信の映画がアカデミー外国語映画賞・撮影賞・監督賞の3部門を獲ってしまいました。作品賞という最後の牙城は崩せませんでしたが「映画は映画館で観る時代」の終わりの始まりを告げる出来事のように僕には思われます。それだけの力を持った、グーの音も出ない傑作でした。

僕が本作を観ながら強く感じたのは「これはキュアロン版『フェリーニのアマルコルド』だな」ということでした。〈アマルコルド〉とはフェリーニの故郷である北部イタリアのリミニ地方の言葉で〈私は覚えている〉という意味。監督の幼少期を描いていることが共通していますし、そもそもフェリーニにも『ローマ』という作品があります。『ROMA/ローマ』のヒロイン、家政婦クレオの人物像はフェリーニが監督しジュリエッタ・マシーナが演じた『道』のジェルソミーナや『カビリアの夜』のカビリアを彷彿とさせます。決して清純とは言えないけれど、身勝手な男を許してしまう、慈悲深く全てを包み込むような存在。更にそのイメージは「新約聖書」に登場するマグダラのマリアに繋がっています。そして映画中盤、年越しホームパーティの場面でターンテーブルに1970年にリリースされたロイド=ウェバーのロック・オペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』LPレコードが置かれ、そこから流れるのがマグダラのマリアの歌 "I Don't Know How To Love Him"(私はイエスがわからない)であるということが、キュアロンの意図を明白に指し示しています。

また家族でアメリカ映画『宇宙からの脱出』を映画館で観る場面は「うゎ!『ゼロ・グラビティ』の原点はこの体験にあったんだ」と気付かせる仕掛けになっていて、そういう意味では『ニュー・シネマ・パラダイス』的であったりもします。

これが一部割愛され、紹介された。実際に放送された番組公式書き起こしはこちら。音声でも聴ける。

氏の映画評はキュアロンが〈水の作家〉であるとか、映画冒頭で〈天と地〉が対比され、ラストで家政婦クレオが階段を登っていく(垂直方向への移動)とか、「なるほどな〜」という気付きが色々あった。

そして『ROMA/ローマ』は3月9日(土)より全国48館のイオンシネマで上映されることが決まった。

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僕が最初、宇多丸氏に注目した切っ掛けは、彼が〈オールタイム・ベスト・テン〉で大林宣彦監督『時をかける少女』を10位に選出したことだった(1位はメル・ギブソン監督「アポカリプト」)。

大林映画を愛する人に悪い人はいない」というのが僕の信念である。大林監督と宇多丸氏はラジオで2回対談しているし(「ザ・シネマハスラー」「ウィークエンドシャッフル」)、『時をかける少女』について彼の〈深町くん昏睡レイプ犯説〉は青天の霹靂だったが、一理あるなと感心もした。

KIRINJIの「The Great Journey feat. RHYMESTER」(試聴はこちら)という曲で、宇多丸氏がラップするパートには〈目指すは二人きりの実験室さ〉という歌詞があり、キエるマキュウというアーティストに宇多丸氏が提供した楽曲のタイトルはそのものズバリ〈土曜日の実験室〉。『時をかける少女』のファンなら当然、何のことか判るよね?

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2019年3月 7日 (木)

映画「天才作家の妻 40年目の真実」& 待ってろ、グレン・クローズは今から本気出す!

評価:B

公式サイトはこちら

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本作でグレン・クローズ(現在71歳)がアカデミー主演女優賞を受賞出来なかったのはとっても気の毒だった。同情票が集まり、いけると思ったのだが……。なんと7回目の落選である。

ただアカデミー予想でも書いたように正直、作品が弱かった。彼女の演技も到底、突出したものではなかった。本人も「哀れみのオスカーなんかいらない」と発言しているので、残された僅かなチャンスに期待しよう。因みに今までの作品の中で、僕が彼女のベスト・アクトだと考えるのは、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた「危険な関係」(1988)である。

「天才作家の妻」ではグレン・クローズの演技ばかり話題になるが、寧ろ僕は夫役のジョナサン・プライスが良かった。ジョナサンは舞台ミュージカル俳優でもあり、「ミス・サイゴン」のエンジニア役でトニー賞主演男優賞を受賞している。ミュージカル映画「エビータ」ではアルゼンチンのペロン大統領を、ロンドン・ウエストエンドでは「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授役も演じている(←これは観たかった!)。

一方、グレン・クローズはアンドルー・ロイド・ウェバーの舞台ミュージカル「サンセット・ブルーバード」のノーマ・デズモンド役(無声映画期の大スター)でトニー賞主演女優賞を受賞している。

そしていよいよ、ミュージカル映画「サンセット大通り」の企画が本格的に動き出した(記事はこちら)。待望の真打登場である。

今度のグレン・クローズはマジだ。「サンセット大通り」でオスカーを〈全力で〉獲りに来る!最早情け容赦はしない。「サンセット」ならば誰にも〈哀れみのオスカー〉とは言わさない。

そして僕はいま、世界最速のアカデミー賞予想をする。ミュージカル映画「サンセット大通り」が完成した暁には(2020年公開予定)、グレン・クローズが念願のオスカーを手に入れる。(監督が誰になろうが)200%間違いない!読者の皆さん、この予言を覚えておいてね。

それと僕は10年前からミュージカル版の映画化が実現したら、ノーマに雇われる脚本家ジョー・ギリス役(ビリー・ワイルダー監督のオリジナル版ではウィリアム・ホールデンが演じた)を是非ヒュー・ジャックマンに演って欲しいと書き続けてきた。実際にヒューは舞台版のオーストラリア公演で同役を演じている。しかし年月が経ち彼も年をとった。ジョー・ギリスは〈若いツバメ〉の役なんで、その辺どうなんだ?……ギリギリまだ行ける??……う〜〜ん。

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女王陛下のお気に入り

評価:A

Thefav

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文句なしに面白い。オリヴィア・コールマンがアカデミー主演女優賞を受賞。また受賞は逃したが、レイチェル・ワイズとエマ・ストーンがアカデミー助演女優賞にノミネートされた。この3人の繰り広げる演技バトルが凄い。圧巻だ。誇り高いレイチェルに対してアバズレのエマの対比が鮮烈。

実質的に3人が主演である。それを主演・助演に分けたのは映画会社の戦略に過ぎない。つまり3人が主演女優賞にノミネートされたら、票を奪い合って共倒れになるからである。

こういうのはよくあることで、例えばミュージカル映画「シカゴ」(2002)では実質2人が主演なのに、レニー・ゼルウィガーが主演、キャサリン・ゼタ=ジョーンズが助演に分けられ、後者がアカデミー賞を受賞した。なお「シカゴ」はミラマックスの作品で、セクハラや性的暴行で逮捕され失脚したハーヴェイ・ワインスタインが製作総指揮を務めた。

本作はコスチューム・プレイだが、衣装デザインが洗練されておりパーフェクト。またワインスタインを葬り去った #MeToo 運動も踏まえたオリジナル脚本が極めて現代的で素晴らしい。ただ、魚眼レンズを駆使した映像の意図は分からないではないが、やり過ぎ TOO MUCH

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ビール・ストリートの恋人たち

評価:A+

Beale_street

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監督は「ムーンライト」でアカデミー作品賞を受賞したバリー・ジェンキンス。本作でヒロイン・ティシュの母親を演じたレジーナ・キングがアカデミー助演女優賞を受賞した。

原作は黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンが書いた"If Beale Street Could Talk"(ビール・ストリートに口あらば)。“ビール・ストリート”は、テネシー州・メンフィスにある通りの名前。この場所はアフリカ系アメリカ人によって作られた音楽〈ブルース〉発祥の地であり、ブルースからジャズが派生した。ルイ・アームストロングや、B.B.キングなど伝説的なミュージシャンたちがここで演奏した。

映画の舞台となるのはニューヨークのハーレム地区なので、実際のビール・ストリートは一切出てこない。つまり“ビール・ストリート”とはアフリカ系アメリカ人にとって、〈強さ〉とか〈心の拠り所〉〈未来への希望〉の象徴なのだ。だから邦題は些か紛らわしい。

静謐で力強い映画である。カメラが登場人物の顔を正面から捉えたショットとか、小津安二郎監督からの影響が色濃い。「ムーンライト」もそうだったがバリー・ジェンキンスの作品に登場する男たちは寡黙である。本作を観ている途中で気がついた。「そうか、『東京物語』の笠智衆だ!」主人公は多くを語らないので、観客は能動的に、台詞の行間や表情から彼らの想いを探っていかなければならない。凄く知的で文学的作品である。なおジェンキンスは元々、小説家を志していたそうだ。

誇張された色彩の映像が美しい。冒頭の俯瞰ショットなんか、まるでジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」みたいで魅了された。黄色〜橙色が重要な役割を果たし、〈救い〉とか〈仄かな希望〉を象徴している。

またアカデミー作曲賞にノミネートされた、ニコラス・ブリテルによる音楽がしみじみ素晴らしい。Jazzを基調とし、本来ホーンセクション(金管)が演奏するところを弦楽器に委ねているのがユニーク。特にサウンドトラックでは〈アガペー〉と題された曲(トラック3)は、ソプラノサックスなど木管楽器に海鳥の鳴き声を託しており、鮮烈な印象を覚えた。必聴。

また〈チョップド&スクリュード〉が用いられていることも特筆すべきだろう。90年代にヒューストンを中心とするアメリカ南部のヒップホップ・シーンで生まれたリミックスの手法で、「極端に曲のピッチを落とした上で、さらに半拍ずらしてミックスする」というもの。

とにかく最高!必見だ。

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メアリーの総て

評価:A

Mary_shelley

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メアリー・シェリーが駆け落ちして「フランケンシュタイン」を書き上げたのが18歳というのが驚きだったし、女性作家だと本が売れないからと匿名で出版されたとか、妹がバイロン卿の子供を生んだとか、波乱万丈の彼女の人生に目が釘付けになった。

「フランケンシュタイン」の原題は「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」(Frankenstein: or The Modern Prometheus)なので、これがリドリー・スコット監督の「プロメテウス」に繋がり、その続編「エイリアン;コヴェナント」ではメアリーの夫パーシー・ビッシュ・シェリーの詩が読まれるというわけ。

女性が虐げられていた時代の話であり、 #Me Too 運動も想起させ、極めて現代的テーマを内包した作品だ。観ていてワクワクした。

エル・ファニングは美しい娘に成長した。現在20歳。彼女を初めて見たのが映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(2008)。撮影当時8歳。お姉ちゃんのダコタは今や、見る影もないからね。ところで北米版「となりのトトロ」DVDは、サツキとメイの声をファニング姉妹が吹き替えしているんだって!観てみたいな。

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クリード 炎の宿敵

評価:A

Creed

まさか「ロッキー」シリーズで泣くことになろうとは想像だにしなかった。

クリード チャンプを継ぐ男 」を脚本・監督したライアン・クーグラーは「ブラックパンサー」の監督に起用されたため、今回はシルヴェスター・スタローンが脚本を執筆し、監督はクーグラーの指名でスティーブン・ケイプル・Jr.に白羽の矢が立った。やはりアフリカ系アメリカ人である。卓越した演出力だった。

今回の真の主役は「ロッキー4」の宿敵、イワン・ドラコ(ドルフ・ラングレン)とその息子だろう。彼らがすべてを持っていってしまった。いやはや、参った!

あ、「ロッキー4」を観ていなくても本作の鑑賞になんの問題もないから、ご安心を。

スタローンの父親はシチリアにルーツを持つイタリア系アメリカ人ということで、彼の生き様は「ゴッドファーザー」の世界を彷彿とさせる。つまり(血の繋がっていない)ファミリーをとても大切にするのだ。ドルフ・ラングレンの再起用もそうだし、別れた元妻のブリジット・ニールセンまで出演させちゃうんだから懐が深い。スタローンは本当に〈いいヤツ〉だ。

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2019年3月 2日 (土)

虹についての考察(万葉集から能「道成寺」、LGBTまで)

まずは大前提として下記事をご一読ください。

更に出来得ることなら、次も併せて目を通して戴ければありがたい。

アボリジニ(オーストラリア先住民)の神話と、そこにしばしば登場する〈虹蛇〉について書いた。

概要を述べる。アボリジニの概念〈ドリームタイム〉には守り神のような存在〈虹蛇〉が棲み、両性具有水を司る。鎌首をもたげた蛇の姿と虹の足が重ねられたイメージ。蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在である。

古代中国人も虹と蛇を結びつけて思考していた。「虹」という漢字の虫偏(むしへん)は大蛇/龍を意味する。漢文で書かれた「万葉集」が編纂され、漢文学が隆盛を極めた古代日本(7世紀〜8世紀)の人々もその概念を共有していた。平仮名が公的な文書に現れるのは905年に完成した「古今和歌集」からである。

では蛇は男性と考えられたのか?女性なのか?古代人の思考は昔話に顕現する。「蛇女房」と「蛇婿入り」という、どちらも人間と結婚する噺がある。つまり古代日本における蛇のイメージもアボリジニ神話と同様、両性具有と考えられる。一方、「鶴女房(鶴の恩返し)」はあるが、鶴が人間の男として現れる噺は聞かない。鶴は女性原理の象徴なのだ。

「蛇女房」はこんな噺だ。出産時に夫が「見るなのタブー」を破ったため蛇の正体がばれ、夫婦は一緒に暮らせなくなる。女房は別離の際、子供に乳代わりにしゃぶらせるよう自分の眼を与えるが、不思議な玉の評判が広まり、殿様に取り上げられてしまう。ここから2つのパターンの類話に分かれる。①困った夫は池に女房を探しに行き、彼女はもう片方の眼も与えて盲目となってしまう。時と方向が判らなくなると困るからと言い、蛇は夫に朝と晩に鐘を鳴らしてくれるよう頼む。②殿様の横暴に怒った蛇は洪水を起こし、城ごと押し流してしまう。

ここからはっきりと分かるのは【①蛇と寺の鐘の密接な結び付き②蛇は水を司る】ということである。

次に「今昔物語集」に書かれた〈安珍・清姫伝説〉を見てみよう。熊野に参詣に来た美形の僧・安珍を見て清姫は一目惚れし、言い寄る。修行の身ゆえ、困った安珍は清姫を騙して逃げる。清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。道成寺に逃げ込んだ安珍は梵鐘を下ろしてもらい、その中に潜む。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。遂に安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。

ここでも蛇と寺の鐘が結びついている。そして蛇と水の親和性も語られる。〈安珍・清姫伝説〉は後に能「道成寺」に変換された。寺の鐘は形態的に女性の子宮に似ており、そこに閉じこもる〈安珍・清姫伝説〉は胎内回帰願望と読み解くことも可能だろう。アボリジニ神話において、虹蛇に母子が呑み込まれる物語に類似している(レヴィ=ストロース著「野生の思考」に紹介されている)。

安珍・清姫伝説〉には続きがあり、蛇道に転生したふたりはその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。また能「道成寺」では死んだ清姫が白拍子の姿に変化(へんげ Metamorphose)し、再び寺を訪ね舞を舞う。アボリジニ神話の母子もその後、虹蛇に吐き出され生き返る。両者は死と再生というテーマで繋がっている。

こうして見ていくと、オーストラリアのアボリジニ・古代中国・古代日本を結ぶ〈虹=蛇〉という概念は、ユング心理学における元型のひとつ、太母(the Great Mother)に相当すると考えられる。

Jungsmodel

上図はユングによる「心」の構造である。中心に自己(SELF)があり、それを取り巻く円の内側(深層)が集合的無意識Collective unconscious=Cの世界)。A元型(Archetype)で、アニマ(男性の思い描く理想的女性像)、アニムス(女性が思い描く理想的男性像)、太母(the Great Mother)、老賢人(the Wise Old Man)等が該当する。その外側に個人的無意識(Personal unconscious)が存在し、心的複合体=感情複合(Complex)を内包する。その代表例がフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスだ。さらに「心」の表層に意識(Consciousness)があり、自我(EGO)が配置されている。

太母(the Great Mother)とは、子を慈しみ、優しく包み込むのような存在であると同時に、牙を向き人々に襲いかかり、すべてを呑み込む山姥のような姿として立ち現れることもある。安珍に襲いかかり焼き尽くす清姫や、殿様の狼藉に怒り川を氾濫させ、洪水で城下町を呑み込む蛇女房の姿は、正に太母(the Great Mother)そのものである。

虹=蛇〉は母であると同時に父でもある。蛇の頭部は男根を想起させる。両性具有の性質を象徴するのが〈〉だ。フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南北アメリカ先住民の神話を研究した「神話論理」において〈〉を「半音階的なもの」と呼んだ。つまりある音から、別の音に、段階的(微分)変化を経て移行することを意味する。具体的にはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」やラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」に顕著な手法である。

父性原理で思考する欧米の人たち(キリスト教徒)は全てのことを〈2項対立〉に分けて、切断する。正義か悪か、YesかNoか、男か女か。その中間項は一切認めない。いわゆる近代ヨーロッパにおける合理主義である。0か1かの二進法で計算するコンピューターの原理も同じ。だからキリスト教社会において同性愛者は差別され続けてきた。しかし日本など母性社会では違う。

ここでLGBTと虹の関係について述べよう。LGBTとは、「Lesbian」(レズビアン、女性同性愛者)、「Gay」(ゲイ、男性同性愛者)、「Bisexual」(バイセクシュアル、両性愛者)、「Transgender」(トランスジェンダー、性別違和を含む性別越境者)の頭文字をとった言葉で、Sexual Minority(性的少数者)の総称。そのシンボルとなっているのがレインボーフラッグである。1970年代から使用されているという。

Flagsvg

何故〈虹の旗〉なのか?

それは性別を男か女か、2つに分けて切断するのではなく、その移行段階グラデーション)、境界域に位置する人々を(排除せず)認めて欲しいという主張であり、多様性(Diversity)を象徴している。

今年のグラミー賞も、アカデミー賞も多様性(Diversity)が大きなテーマとして掲げられた。これが現在、世界を取り巻く潮流である。いま欧米社会は、失ってしまった〈野生の思考〉を取り戻そうと、必死に藻掻いている。

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

Ouro

蛇は円環を形成し、始まりもなく終わりもない。過去・現在・未来は同時にここにある共時的(対義語は通時的)表象であるウロボロスはアボリジニの概念〈ドリームタイム〉と同義である。

中国では新石器時代の紅山文化(紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)にウロボロスが現れている。

Kure

これぞ正に集合的無意識(Cの世界)・〈野生の思考〉の産物と言えるだろう。

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