【考察】何故、虹を詠んだ和歌は希少なのか?
神戸生まれの詩人・最果タヒの著書「千年後の百人一首」「百人一首という感情」に続いて現在、「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」を読み進めているところである。若い頃の僕は完全に理系人間だったので、自分が将来古文に親しむようになろうとは夢にも思わなかった。人生先のことは分からないものである。
そもそも百人一首に興味を持ったのは広瀬すず主演の映画「ちはやふる」三部作のおかげ。だから原作漫画を書いた末次由紀には感謝しなければならない。また「万葉集」や「古今和歌集」を読みたいと思ったのはアニメーション映画「言の葉の庭」「君の名は。」を観たことが切掛なので、ただただ新海誠監督に感謝あるのみ。映画って本当に素晴らしい。
百人一首を一通り読んで激しい違和感を覚えた。〈虹〉を詠んだ歌が一首もないのである。
7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた「万葉集」(全部で四千五百首以上ある)で〈虹〉を詠んだものは、次のたった一首しかない。群馬県の歌である。
伊香保〈いかほ〉ろの 八尺〈やさか〉のゐでに 立つ虹〈のじ〉の あらはろまでも さ寝をさ寝てば
(榛名山麓にある高い堤に立つ虹のように、人目につくほどあなたと共寝さえできれば、なにも悔いることはない)
これ以降は、「玉葉和歌集」に収録された藤原定家(1162-1241)の、
むら雲の 絶え間の空に 虹たちて 時雨過ぎぬる をちの山の端
あたりまで、ほぼ皆無である。なんとこの間、五百年も経過している。
〈虹〉は儚く、美しいのに、何故和歌の素材として忌避されるのか?ここにはきっと何か、重大な秘密が隠されている筈である。ぞわぞわした。その理由を探求する過程で、〈古代人の心〉つまり古来日本人の持つ無意識・深層心理が見えてくるのではないか?僕はそう考えた。
最初に立てた仮説は、「古代人はあまり虹を見る機会がなかったんじゃないか?」というものだった。雨があがり、日光が差し込んできた瞬間に虹は生まれる。狩猟民族なら虹を見る機会も多かろう。しかし日本人は農耕民族である。しかも着物だから濡れると厄介なので雨天時に出歩いたりしない。特に平安時代、和歌を読んだのはもっぱら天皇や貴族だったわけで、屋敷にこもった状態で虹に遭遇する機会など殆どなかったのではなかろうか?
しかし、どうも説得力に乏しい。もやもやした気持ちが残る。貴族だって〈野駆け〉(花見やもみじ狩りなど、山野を歩き回って遊ぶこと)をしたわけだし、天皇も〈行幸〉(外出)中に雨に降られることもあっただろう。滝にだって虹は出るし……。
というわけで僕は答えを求めて、さらに調査を続けた。そして〈虹〉の語源を調べていて、衝撃的な事実を知った。
岩波書店の「広辞苑」では〈虹〉について次のように説明されている。
形声。「虫」(=へび)+音符「工」(=つらぬく)。にじを、空にかかる大蛇に見たててできた文字。
「虹」を意味する漢字(虹、蜺、蝃、蝀)に虫偏が多く存在する点を見ても解る通り、中国語では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習が多い。
エエッ、これってアボリジニ(オーストラリアの先住民)神話にしばしば登場する虹蛇(Ngalyod;ンガルヨッド)と全く同じ発想じゃないか!!青天の霹靂だった。
つまり古代中国人も、遠く離れたアボリジニも虹と蛇を同一視していた。正にフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースが言うところの〈野生の思考〉であり、ユング心理学における集合的無意識( Collective unconscious:アニメ「コードギアス」シリーズではCの世界と呼ばれる)の産物以外の何物でもない。
「万葉集」は全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。この時代は中国文化の影響が大きく、天智(てんじ)天皇の近江朝(おうみちょう)には漢文学が隆盛をきわめた。
つまり古代日本人は、〈虹と蛇〉を結びつけて考える中国の概念を共有していたということになる。
古代において、蛇は禍福に強く関わっている存在だった。以下「民族大辞典」より日本各地での伝承をご紹介しよう。
「蛇が道を横切ると悪いことが起きる」(宮城県)
「蛇に道切りをされると、なにか持ち物を落とすから、蛇に道を横切られた時は三歩退け」(奈良県吉野郡)
「蛇の夢を見れば験が悪い」(三重県四日市)
「蛇の夢を見れば、よくないことが起こるから、氏神様にお参りしなければならない」(長野県)
僕が住む兵庫県宝塚市には蛇神社がある。宝塚で幼少期を過ごした手塚治虫の漫画「モンモン山が泣いているよ」にこの蛇神社が登場する。
蛇は水を司る。全国で信仰されている水神さまは大抵、蛇や龍(または河童)を祀っている。
つまり〈虹=蛇〉は干ばつ時に雨という恵みをもたらすが、時には人々に牙を向き、川の氾濫など洪水を引き起こす怖ろしい神(災厄)にもなり得る。
中国の神話に登場する四神(しじん)とは四方の神、すなわち
- 東ー青龍(せいりゅう)
- 西ー白虎(びゃっこ)
- 南ー朱雀(すざく):火の象徴。鳳凰。
- 北ー玄武(げんぶ):水神。カメの甲に蛇が巻きついた形に表す。
を指す。やはり蛇が水神を表象している。江戸時代の祭りには「四神旗」が必ずといってよいほど使われ、落語「百川」でも言及される。
だから雅(みやび)で「もののあはれ」を表現する短歌の世界に、畏れ多い存在である〈虹=蛇〉が登場しないのは当たり前なのではないだろうか?こうして僕の疑問は氷解した。
ところが明治維新以降、突如として〈虹〉は和歌の世界に立ち現れる。
明治・大正・昭和を生きた与謝野晶子(1878-1942)の歌に次のようなものがある。
小百合さく 小草がなかに 君まてば 野末にほひて 虹あらはれぬ
とき髪を 若枝にからむ 風の西よ 二尺に足らぬ うつくしき虹
わが恋は 虹にもまして 美しき いなづまとこそ 似むと願ひぬ
晶子はこの他にも多数、〈虹〉を詠んでいる。
また昭和生まれの俵万智には幼子を見つめる母の想いを詠んだ、次のような美しい歌がある。
一生を見とどけられぬ寂しさに振り向きながらゆく虹の橋
つまり「万葉集」から千年以上経過し、〈虹=蛇〉という結びつきがすっかり忘却の彼方へ追いやられてしまった。そこへ明治以降、〈虹は美しい〉という新しい概念が欧米から輸入され、人々の意識に定着し、和歌の世界にも取り込まれた。そういうことなのではないだろうか?
映画「オズの魔法使い」でジュディ・ガーランドが歌った〈虹の彼方に(Over the Rainbow)〉こそ、欧米人の虹に対する見方を代表するものである。
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コメント
花よりはかない、虹には無常があります。
虹の架け橋には来世に過去世をも映し出す天上のはしごの役割があります。
なつかしい人達に会える。会いたいというあこがれを実現してくれそうな予感さえ感じます。
寂しさは一生つきまとうもの。哀しみは一瞬にして去っていくもの。
しかし、あの世できっと会えるという夢があれば人は生きることが少し楽になるような気がします。
投稿: ハル | 2021年6月17日 (木) 21時25分
仰るとおりです。虹のイメージは和歌に似つかわしい。しかし何故か、奈良〜平安〜鎌倉時代の和歌では全くと言っていいくらい歌われていない。そこに、しっかりとした理由があったのです。大変魅力的な〈謎〉でした。
投稿: 雅哉 | 2021年6月27日 (日) 06時46分