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2019年1月

【考察】魔女とは何者か?〜リメイク版「サスペリア」を観る前に絶対知っておくべき2,3の事項(ユング心理学など)

評価:A 公式サイトはこちら

Sus

ダリオ・アルジェント版「サスペリア」(1977)が公開された時、僕は小学生だった。だから当然映画館に行っていないが、「決して、ひとりでは見ないでください」というキャッチコピーが流行り、子どもたちの間でも大いに話題になった。ループするゴブリンの音楽も心底怖かった。

アカデミー作品賞にノミネートされた「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督による41年ぶりのリメイク版も同じコピーが用いられている。

アルジェント版は、上品に評すなら〈鮮血の美学〉ということになろう。しかし身も蓋もない言い方をすれば、可憐な処女たちが真っ赤な血に染まる光景を見て楽しむ〈悪趣味な見世物小屋映画〉である。現代では余り使われなくなった言葉だが、スプラッター映画の代表作と言える。そのルーツを辿ると19世紀末から20世紀半ばまでフランス・パリに存在した見世物小屋「グラン・ギニョール劇場」にたどり着く。日本だと江戸末期から明治時代にかけ流行った無惨絵が相当するだろう。

上映時間99分のアルジェント版に対し、リメイク版は152分。何と53分も長くなっている!実に1.5倍。凝りに凝った再創造で、高尚な、全くの別物(別ジャンル)に仕上がっている。レイヤー(層)が幾重にも重ねられ、一筋縄ではいかない。はっきり言って原典を超えたね。

舞台となるのはオリジナルと同じ1977年のベルリン。しかしアルジェントが無視した当時の西ドイツを取り巻く政治的状況ードイツ赤軍が引き起こした一連のテロ事件「ドイツの秋」ーが今回は丹念に描かれる。またバレエ学校で教えるのもトウシューズを履くクラシック・バレエから、裸足で踊るモダン・ダンスに変換されている。これは実在したドイツの振付師マリー・ヴィグマン(1886-1973)によるNEUE TANZ(ノイエ・タンツ)をベースにしている。彼女の代表作はズバリ〈魔女の踊り〉だ。

クラシック・バレエが目論むのは究極的に〈重力からの開放〉である。それは天空を目指し、一歩でも〈神=天国〉に近付こうとする。つまり背景にキリスト教がある。一方、新版「サスペリア」の舞踏はあくまでも大地に根ざし、地面に這いつくばろうと志す。ベクトルが間逆なのだ。僕は〈デュオニュソスの饗宴〉のイメージなのではないか?と感じた。キリスト教にとってデュオニソスは排斥すべき異教の神であり、哲学者ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中でディオニュソスを陶酔的・激情的芸術を象徴する神として、アポロンと対照的な存在と考えた。つまり次のような関係性がある。

  • クラシック・バレエ=アポロン的 ←対立→ NEUE TANZ〈魔女の踊り〉=ディオニュソス的

また大地に根ざしたディオニュソス的舞踏として、ストラヴィンスキーが作曲したバレエ音楽「春の祭典」が挙げられよう。ニジンスキー振付による1913年パリのシャンゼリゼ劇場での初演は阿鼻叫喚の大混乱に陥り、一大センセーションを巻き起こしたことは余りにも有名である(映画「シャネル&ストラヴィンスキー」で描かれた)。それは反キリスト的だったからだ。新版「サスペリア」の舞踏は「春の祭典」を彷彿とさせる。

オリジナル版「サスペリア」ではバレエ学校(=魔女の館)の校長エレナ・マルコスが〈嘆きの母 Mater Suspiriorum〉であることが明らかになり、やはりアルジェントが監督した映画「インフェルノ」には〈暗闇の母 Mater Tenebrarum〉、「サスペリア・テルザ 最後の魔女」には〈涙の母 Mater Lachrymarum〉が登場する。この三人の母は魔女の総元締め、ラスボスであり、シェイクスピア「マクベス」に登場する三人の魔女が原型だろう。彼女たちはキリスト教における三位一体=〈父(神)〉〈子(イエス)〉〈精霊〉と対になっている。またリメイク版「サスペリア」ではパトリシア、サラ、オルガという三位一体もある。

オリジナル版で「魔女」は邪悪な者、つまりキリスト教における悪魔(脱天使)として描かれていた。しかしリメイク版は違う。

リメイク版にはオリジナル・キャラクターとして心理学者ジョセフ・クレンペラー博士が登場する。言語学者でユダヤ系ドイツ人のヴィクトール・クレンペラー(1881-1960)がモデルである。彼は第二次世界大戦下をドイツ国内で生き抜き、「私は証言するーナチ時代の日記」を書いている。戦後は東ドイツの大学で教鞭をとった。有名な指揮者オットー・クレンペラーは従兄弟にあたる。因みにオットーはナチス政権が樹立された1933年にスイス経由でアメリカに亡命した。

ジョセフ・クレンペラー博士の部屋にカール・グスタフ・ユングの著書「転移の心理学」が置かれている。これ、非常に重要。書名を日本語字幕にちゃんと書き起こした松浦美奈の翻訳を称賛したい。彼女は作品の本質を深く理解している。

クレンペラー自身、戦争の混乱の中、生き別れになった妻アンケ(オリジナル版のヒロイン、ジェシカ・パーカーが演じる)に対して抱いている罪悪感を、無意識のうちに行方不明になった少女パトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)に投影している転移。またヒロイン・スージー(ダコタ・ジョンソン)は幼少期に母に虐待された記憶があり、彼女が抱く〈理想の母親像〉をマルコス・ダンス・カンパニーの振付師マダム・ブランに投影する転移。ラスボスのエレナ・マルコスが〈マザー〉と呼ばれるのも転移だ。マルコスは腐敗しつつある自らの肉体を捨て、若い娘の体を「器」として、魂を転移しようと画策する。

ここでユング心理学における〈(シャドウ)〉について述べたい。詳しくは河合隼雄(著)「の現象学」(講談社学術文庫)を読まれることをお勧めする。平易な文でサクサク読める。

ユングは〈(シャドウ)〉を「自分がなりたくないと思うもの」「苦手なものや生き方」と定義した。自分が自分の要素としては受け入れられなくて、無意識の中に抑え込み蓋をしたは消えてなくなってしまったわけではなく、しっかりと〈無意識〉の中に存在する。そしてある時、ひょんなことから〈〉が他者に投影される(転移)。河合隼雄は以下のように述べている。

 集団のの肩代わり現象として、いわゆる、いけにえの羊(scapegoat)の問題が生じてくる。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。つまり、集団内のをすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。(中略)

 ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる民衆の攻撃を避けようとして、外部のどこかにの肩代わりをさせることがよくある。ここでもすでに述べたような普遍的な影の投影が始まり、ある国民や、ある文化が悪そのものであるかのような錯覚を抱くようなことになってくる。 
    〈河合隼雄「影の現象学」より〉

9・11同時多発テロの翌年、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)がイラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」と決めつけたのも影の投影である。イラク戦争でアメリカは勝利したが、ブッシュ政権が主張した「大量破壊兵器」は結局、見つからなかった。所詮はまぼろし、イリュージョン影の投影)に過ぎなかったのだ。

魔女」とは何者か?それは一神教であるキリスト教がヨーロッパ大陸に浸透する前からあった土着の民間信仰である。しかしキリスト教は彼女たちを敵と見做し、「邪悪な者」として迫害した(魔女狩り)。すなわち影の投影である。いけにえの羊(scapegoat)ーナチス・ドイツがユダヤ人に対してした行為と同じ構造があり、リメイク版「サスペリア」はこの見地に立脚している。もの凄く高度なことを成し遂げている。

アメリカから来たヒロイン・スージーがキリスト教の一派、メイナイト教会からの逸脱者(異端)であるということも見逃せない。メノナイトから分派したのがアーミッシュで、アーミッシュについては映画「刑事ジョン・ブック 目撃者」をご覧あれ。メノナイトの人々はドイツからアメリカに渡った移民であり、ここにドイツ→北米→ベルリンという循環構造がある。

ルカ・グァダニーノ監督はゲイであることを公表している。カトリック教会において、ゲイは異端であり、排斥の対象である。だから自分の身の上をスージーに重ねている側面もあるのではないか?と感じた。

つまり本作には次のような等式が成立する。

ダンスカンパニー(魔女の巣窟)≒キリスト教団の反転/陰画(ネガ)≒ドイツ赤軍≒第三帝国(ナチス・ドイツ)≒フリーメイソン(大きな「目」や、上向き三角形と下向き三角形の結合がシンボル)

そして「組織は必ず教条主義に陥り、腐敗する」という信念が映画全体を貫いている。恐るべき作品である。

スージーの実家には次のような警句が額縁に入れられ、飾られている。

「母はあらゆる者の代わりにはなれるが、何者も母の代わりにはなれない」(A mother is a woman who can take the place of all others, but whose place no one else can take.)

つまり「母は影の投影転移)の対象にはならない」ということだ。最後まで観れば本作が「そして母になる」がテーマの映画であったことが判明するだろう。

オルガが鏡の間に閉じ込められ、拷問(?)を受ける場面は江戸川乱歩の怪奇小説「鏡地獄」を想い出した。なお、江戸川乱歩もゲイである。またホラー映画と見せかけて、最後は〈愛の物語〉に収束するという手法は、大林宣彦監督の「HOUSE ハウス」や「麗猫伝説」を彷彿とさせる。「HOUSE ハウス」は北米版Blu-ray,DVDが発売されており、イタリアでも上映された。ルカ・グァダニーノが観ている可能性は充分ある。そして驚くべきことに「HOUSE ハウス」の公開年はオリジナル版「サスペリア」と同じ1977年なのである!

俳優ではティルダ・スウィントンが圧倒的に素晴らしい。彼女を観るためだけにでも映画館に足を運ぶ価値がある。マダム・ブラン、クレンペラー博士(ルッツ・エバースドルフという偽名で)、そしてラスボスのマルコス(=嘆きの母??)の一人三役をこなしている。

イギリスの役者には「変装の名人」というカテゴリーがあり、その代表格がアレック・ギネス(初代オビ=ワン・ケノービ)、ピーター・セラーズ(クルーゾー警部)、そして現在はティルダ・スウィントンである。ギネスは日本人に化けたこともあり( "A Majority of One" )、彼がセラーズと共演した「マダムと泥棒」(1955)は両者が火花を散らし、実にスリリングだった(「名探偵登場」でも共演)。ティルダが男に変装するのはこれが初めてではなく、ヴァージニア・ウルフの小説を映画化した「オルランド」(1992)では男女の区別なく、転生を繰り返す主人公を演じた。

Suspiria

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映画「マスカレード・ホテル」

評価:B+

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意外な(ゴメン!)拾いもの。正直、全く期待していなかった。実はTOHOシネマズのマイルが溜まったので、12月末に「1ヶ月フリーパスポート」を手に入れた。無料(ただ)だから観たという次第。

東野圭吾のミステリー小説は好きで結構読んでいる。彼の最高傑作だと思うのは「白夜行」だが、堀北真希が主演した映画は救いようのない駄作だった。「g@me」とか「レイクサイド マーダーケース」も観たが、どうも映像化では恵まれていないという印象。今回が一番出来が良かった。

豪華出演者による、いわゆる《グランド・ホテル形式》✕ミステリーの融合が見事に成功しており、張り巡らされた伏線が最後に綺麗に回収され、心地よい。緻密な構成だ。

〈お客様に対するおもてなしとは何か?〉というテーマは、三谷幸喜脚本によるフジテレビのドラマ「王様のレストラン」(1995年放送)に通じるものがある。言わずと知れた不朽の名作だ。

「マスカード・ホテル」の鈴木雅之監督は「王様のレストラン」のチーフ・ディレクターであり、製作を務める石原隆も「王様のレストラン」の企画に携わっている。そして「王様のレストラン」の梶原善と田口浩正が「マスカレード・ホテル」に出演しているという次第。

ホテルのロビーのセットが非常に豪華で映画の醍醐味を味わえる。「作り物めいている」という批判があるが、それは「王様のレストラン」もおなじこと。〈嘘から出た実(まこと)〉というものもあるのだ。

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三谷幸喜(作)ミュージカル「日本の歴史」

1月11日(金)シアター・ドラマシティでミュージカル「日本の歴史」を観劇。

作・演出は三谷幸喜。公式サイトはこちら

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卑弥呼から始まって、第二次世界大戦まで1700年に渡る日本の歴史が上演時間2時間半の中で一気に描かれる。それに米テキサス州を舞台に繰り広げられる、ある一家の開拓史が交差する。

一言で評すなら本作は三谷幸喜の奇想が生んだ意欲作であり、かつ壮大な失敗作である。はっきり言って日本の歴史とアメリカ人の家族史が有機的に結びつかず、噛み合っていない。取って付けたような印象。

テキサス州の油田が噴出する場面はジェームズ・ディーンの遺作「ジャイアンツ」であり、ホテル建設やショービジネスの台頭はウォーレン・ベイティの「バグジー」、頼りない兄貴という設定は「ゴッドファーザー」と、ハリウッド映画の元ネタがミエミエというのもいただけない。

出演は中井貴一、香取慎吾、川平慈英、シルビア・グラブ、新納慎也、宮澤エマ、秋元才加(元AKB48)の7人。彼らがとっかえひっかえ何役も演じる。

中井貴一が歌えるのか心配だったが杞憂に終わった。問題なし。香取慎吾✕三谷幸喜といえばNHK大河ドラマ「新選組!」なので、もしかしたら香取演じる近藤勇がもう一度見れるかも?とちょっと期待したのだが、はぐらかされた。

テキサス州のパートは全く違和感がなかった。考えてみれば出演者にハーフが多いからだろう。川平慈英は母親がアメリカ人、秋元才加は母親がフィリピン人、シルビア・グラブは父親がドイツ系スイス人、宮澤エマは宮澤喜一・元総理の孫で父親がアメリカ人だ。

音楽は萩野清子。舞台上では彼女がピアノを弾き、総計4名によるアンサンブルだった。僕は荻野と三谷のコンビ作として舞台「コンフィダント・絆」「グッドナイトスリプタイト」「国民の映画」「ホロヴィッツとの対話」、そして映画「ザ・マジックアワー」「ステキな金縛り」を観ている。しかし彼女の音楽に感心したことは一度もない。だから今回も余り期待していなかったのだが、意外にも良かった。ただ、2曲目のリズムはミュージカル「キャバレー」のナンバー、《ウィルコメン》そのまんまで、如何なものか?と思ったが。

2000年に初演(真田広之 主演)、2003年に再演(白井晃 主演)された三谷のミュージカル「オケピ!」の方が僕は断然好きだ。岸田國士戯曲賞受賞!

ところで三谷さん、そろそろ和製ミュージカル映画を創って欲しいのですが。気は熟したのでは?今か今かと、首を長くして待ってまっせー!

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新時代の幕開け!〜米アカデミー賞候補発表

第91回アカデミー賞のノミネートが発表された。授賞式は現地時間で2月24日(日本時間で25日午前10時〜)に開催される。日本からは「万引き家族」が外国語映画部門に、「未来のミライ」が長編アニメーション部門候補に見事に選出された。

ここで、昨年12月5日にupした拙ブログ記事をご確認ください。

遡ること1ヶ月以上前にレディ・ガガの主演女優賞ノミネート、そして「万引き家族」と「未来のミライ」のノミネートをきっちり予想していたわけだが、僕より早かったひと、誰かいます?

それにしても、今回驚かされたのはアメコミ原作のマーベル・スタジオ「ブラックパンサー」(7部門候補)とメキシコ映画「ROMA/ローマ」(最多10部門候補)の大躍進だろう。漫画原作の映画が作品賞にノミネートされるのは史上初である。

そもそもアカデミー作品賞のノミネートは5作品と決まっていた。しかし規定が拡大(今年は8作品)されるきっかけになったのはクリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」(2008)が世間で非常に高い評価を受けたにもかかわらず、作品賞・監督賞にノミネートされなかったことに端を発する。つまりスーパーヒーローもの(DCコミックスのバットマン)に対する過小評価が引き金となっているので、漸く本来の目的(偏見の払拭)を果たせたと言えるだろう。「ブラックパンサー」の出演者がほぼ全員アフリカ系アメリカ人というのも画期的だ。作品賞を受賞した「ムーンライト」の流れを引き継いでいる。

「ROMA/ローマ」で喋られるのはスペイン語とミシュテカ語(メキシコ原住民の言葉)である。非英語圏の映画が大量ノミネートされるのも前代未聞だし、主演女優賞(ヤリッツァ・アパリシオ)と助演女優賞(マリーナ・デ・タビラ)で候補になったのにも仰天した。ヤリッツァ・アパリシオはこの映画に出演するまで全く演技の経験がないズブの素人である。ハリウッドで頑張っているプロの女優たちは形無しだ(落選した「メリー・ポピンズ・リターンズ」のエミリー・ブラントが可哀想)。

まぁそれだけ、「ROMA/ローマ」に風が吹いているということだろう。この勢いに乗れば、外国語映画賞のみならず本丸(作品賞)も一気呵成に攻め落とせるかも!?対抗馬と目されている「グリーンブック」が監督賞候補を逃しているだけに、一層可能性が高まった。なお作品賞&外国語映画賞のダブル受賞はアカデミー史上、前例がない

さらに「ROMA/ローマ」が作品賞・監督賞・外国語映画賞のいずれを受賞するにせよ、Netflix初の快挙であり、映像配信サービスの新時代を告げる歴史的大事件となるだろう。

映画を映画館で観る時代は間もなく終わろうとしている。

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モンテヴェルディ:オペラ「ポッペアの戴冠」@いずみホール

1月19日(土)いずみホールへ。〈古楽最前線!〉シリーズ、

  • モンテヴェルディ:オペラ「ポッペアの戴冠」

を観劇。20分✕2回の休憩を含め、上演時間4時間の長丁場だった。

Monte

本作は作曲家の死の前年1642年に初演された最初期のバロック・オペラである。

ローマの暴君ネロ(ネローネ)とその後妻ポッペアを巡る史実に基づいており、ポッペアは許嫁の将軍オットーネを裏切りネロを誘惑、徳の道を説く哲学者セネカを自殺に追い込む。ネロは皇后のオッターヴィアを小舟で島流しにし、ポッペアがその後釜に座る。そんな彼女とネロを天上から愛の神が祝福して幕を閉じる。

要約するなら、「不倫は文化だ!」(by 石田純一)、最後に「愛は勝つ」(by KAN)、そして「悪徳の栄え」(by マルキ・ド・サド)でめでたしめでたし、ということになるだろう。勧善懲悪からかけ離れた、こんなimmoral(不道徳な)オペラは後にも先にもない。前代未聞である。幕切れの甘美で陶酔的な愛の二重唱とワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の近似性を指摘する人もいる。しかしトリスタンとイゾルデは不倫の清算を〈死〉で贖うが(そこにカタルシスがある)、「ポッペアの戴冠」はハッピーエンドである。正反対だ。

指揮者のアーノンクールは本作を次のように評している。「基本的なテーマは、破壊的な、それも社会をも破壊してしまう愛の力である」

欲望(愛欲・出世欲)の肯定。それは倫理よりも優先される。もしかしたらモンテヴェルディはAntichrist(反キリスト者)なのではないか?とすら思った。考えてみれば彼の代表作「聖母マリアの夕べの祈り」はあくまでマリア(母なるもの)に対する崇敬であって、キリストを讃えているわけじゃないものね。

特に感銘を受けたのが哲学者セネカが自死を強要され舞台から去った直後の、小姓ヴァレットと侍女ダミジェッラの恋の戯れ。彼らは「出来る限り長く生きて、愛し合いたい」と歌い、ここに死と生の二項対立がくっきりと浮かび上がる。鮮烈である。

ヴァレットは机上の空論を振り回す哲学者を徹底批判する。理性なんかクソくらえ。彼岸(イデア)を否定し、本能や「今」にしか価値がないとする彼の主張は250年後に登場するニーチェの思想(「神は死んだ」)にピッタリ重なる。何という先見性だろう!

本作の主題はラテン語の〈カルペ・ディエム〉(=英語で言えばSeize the day;その日を掴め/その日の花を摘め)そして〈メメント・モリ〉(死を想え)に通じるのではないかと感じた。

また似た言葉として次のようなものがある。

いのち短し 恋せよ乙女(ゴンドラの唄)

人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり(吉田兼好「徒然草」)

生ける者(ひと) 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は 楽しくをあらな(大伴旅人「万葉集」)

指揮・チェンバロが渡邊順生、コンサートマスターが伊佐治道生。古楽器オーケストラは弦楽奏者8名+リコーダー、ドルツィアン(ファゴットの原型)、コルネット、テオルボ(リュート族の撥弦楽器)という編成。

歌手もオケも全員日本人で、これだけ高い質の演奏を実現出来たのだから大したものだ。歌の方は特に斉木健詞(セネカ)、望月哲也(ネローネ)、阿部雅子(ポッペア)、山口清子(ドゥルジッラ)、向野由美子(小姓ヴァレット)が素晴らしかった。一方、加納悦子(オッターヴィア)、岩森美里(乳母アルナルタ)はいまいち。話題のカウンターテナー・藤木大地(オットーネ)はまぁまぁかな。ダミアン・ギヨン、アンドレアス・ショル、米良美一らのレベルには到達していないなという印象を受けた。

古きを温(たず)ねて新しきを知る。斬新で、とにかくワクワクした!

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尾高忠明の武満とエルガー〜大阪フィル定期

関西フィルの首席指揮者・藤岡幸夫のシベリウスとヴォーン=ウィリアムズは超一級品である。同様に、大フィルの音楽監督に就任した尾高忠明と言えば、武満徹とエルガーを振らせたら(現役指揮者では)右に出る者がいない(出演キャンセルが続く小澤征爾は現役として認めない)。彼は英エルガー協会からエルガー・メダルを授与された唯一の日本人である。

1月17日(木)フェスティバルホールへ。

尾高忠明/大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く。ヴァイオリン独奏は神尾真由子。

  • 武満 徹/トゥイル・バイ・トワイライト
  • ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲 第1番
  • エルガー/交響曲 第1番

twilとは「あや織り」のことでtwilightは「薄明/黄昏時」。移ろいゆくもの、ゆらぎが、きめ細やかな音のパレットで捉えられる。ぼんやりして焦点が定まらない世界。

武満にはとか、雨・海)をテーマにした作品が非常に多い。「夢の時」「夢の引用」「夢の縁へ」「夢見る雨」「ウォーター・ドリーミング」「雨の樹」「雨の庭」「雨ぞふる」「海へ」「星・島」「From me flows what you call time(私から”夢”と呼ばれるものが流れ出す)」等々。夢も水も形が定まらない曖昧な存在、ゆらぎである。それは黄昏(「君の名は。」の”かたわれ時”)とか、も同じだろう。「虹へ向かって、パルマ」という作品もある。

ブルッフの神尾は野太い音を奏で、張りのある演奏だった。

尾高のエルガーは骨太である。第1楽章はNoble(気高い)、第2楽章のスケルツォは勇ましい。叙情的な第3楽章アダージョでもしっかりと一本の芯が通っている。そして闘争的な終楽章。アスリートのようにしなやかな筋肉を持った、男臭い演奏だった。僕は「う〜ん、マンダム」のCM(演出は大林宣彦)で有名な俳優チャールズ・ブロンソンを思い出した。動画はこちらとか、こちら。現役のスターならさしずめ、ベネチオ・デル・トロかな。

最後に、尾高さんに今後どうしても取り上げてほしい曲を挙げておく。

  1. 武満徹:系図 ―若い人たちのための音楽詩―
    (ナレーターは絶対に10代の若い女の子で!上白石萌音・萌歌姉妹を推薦)
  2. 武満徹:夢の時 Dreamtime
  3. エルガー:オラトリオ「ゲロンティアスの夢」

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新演出!東宝ミュージカル「マリー・アントワネット」ダブルキャスト観劇記

梅田芸術劇場でミュージカル「マリー・アントワネット」を2度、観劇。

1月9日(水)ソワレのキャスト、

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14日(月・祝日)ソワレのキャストは、

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僕は東宝が製作したこのミュージカルの初演を2007年に梅芸で観ている。原作は遠藤周作の小説「王妃 マリー・アントワネット」で、演出は栗山民也。作詞・作曲は「エリザベート」「モーツァルト!」「レベッカ」のクンツェ&リーヴァイ。その時の配役は、

  • マリー・アントワネット:涼風真世
  • マルグリット・アルノー:新妻聖子/笹本玲奈(ダブルキャスト)
  • アニエス・デュシャン:土居裕子
  • フェルセン伯爵:井上芳雄
  • ルイ16世:石川禅
  • オルレアン公:高嶋政宏
  • カリオストロ:山口祐一郎

新妻と笹本両方の出演回に足を運んだ。栗山民也はその後、ドイツ・ブレーメン(09年)公演でも演出家として招聘された。また本作は韓国(14年)やハンガリー(16年)でも上演された。

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今回はロバート・ヨハンソンによる新演出版となり、台本も大幅に改訂された。カリオストロという役も消滅した。どうやらロバート・ヨハンソンは韓国で活躍している人らしく、韓国バージョンを逆輸入したというのが真相らしい。

  • ローズ・ベルタン:彩吹真央
  • ジャック・エベール:坂元健児
  • オルレアン公:吉原光夫
  • ランバル公爵夫人:彩乃かなみ

〈遠い稲妻〉〈孤独のドレス〉〈私たちは泣かない〉等、新曲がふんだんに追加され、第1幕冒頭フェルセンのソロ〈マリー・アントワネット〉や、第2幕フィナーレで全員が歌う〈どうすれば世界は〉も初演版にはなかった。

旧演出版はギロチンで次々と人の首がはねられるし、民衆は理性を欠いた単なる暴徒だし、「なんて血なまぐさいミュージカルなんだ!」と思った。容赦のない異色作。ただ僕はそれを面白がったが、当然後味は悪く、繰り返し観ようという気にはなれなかった。

ところが新演出版はガラリと雰囲気が変わり、王妃とフェルセンの悲恋にフォーカスが当てられてロマンティックな作品になった。宝塚歌劇「ベルサイユのばら ーフェルゼンとマリー・アントワネット編ー」に接近した、と言えば分かり易いかも知れない。

というわけで、とっても見やすい、王道を征くミュージカルに生まれ変わった。但し、復讐の連鎖で成立する世界を憂う終曲〈どうすれば世界は〉の内容が、木村信司作による宝塚歌劇「王家に捧ぐ歌」に類似している点は些か気になった。

元々、本作のタイトルは「MA」だった。

Logo

MAはマリー・アントワネット( Marie Antoinette )のイニシャルであると同時に、 掃き溜め生まれのマルグリット・アルノー( Marguerite Arno )も意味している。つまり〈ふたりでひとり〉、一人の女性の分身光と影を描いていると解釈出来る。言い換えるならばドッペルゲンガー二重身)であり、ミュージカル「モーツァルト!」に於けるヴォルフガングとアマデの関係にそっくりである。同じ遺伝子を持つ人間でも、環境により全く違った性格に育つというわけだ。

僕は花總まり演じるマリー・アントワネットを都合3回観ている。

  • 「ベルサイユのばら2001」@宝塚大劇場、2001年
  • 「1789 -バスティーユの恋人たち-」@梅芸、2016年
  • 「マリー・アントワネット」@梅芸、2019年

マリーの没年が37歳であり、花ちゃんは現在45歳。流石に最初は「この役には年を取りすぎでは?」と感じたが、追い詰められてゆく物語の後半に進むに従いどんどん良くなっていくので驚嘆した。「ベルばら」時代より演技に深みを増し、断然素晴らしい!〈女であること〉ゆえの哀しみ。気品があり、「やっぱりコスチューム・プレイで彼女の右に出るものはいないなぁ」と改めて確信した。笹本玲奈は歌が上手いし特に欠点はないのだけれど(若さという利点もある)、やっぱり庶民のマルグリット・アルノーの方が似合っていた。

今回のマルグリットについては目力(めぢから)があってパワフルなソニンに軍配を上げる。昆夏美も決して悪くないんだ。しかし、花總まり✕ソニンのコンビの方が強烈過ぎた。圧巻だった。

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大竹しのぶ「ピアフ」

12月16日(日)ピロティホールへ。

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大竹しのぶが主演する「ピアフ」を観劇。演出は栗山民也。〈ミュージカル〉と銘打ってはいないが、大竹がガンガン歌いまくるので〈セミ・ミュージカル〉と言えるだろう。

以前大竹はNHK紅白歌合戦でもピアフの持ち歌を披露しており、自家薬籠中の物としている。まさに入魂の演技で、凄みを感じる。ピアフと大竹が渾然一体となっており、最早その境目が分からない。故・杉村春子にとっての、「欲望という名の電車」のブランチのような関係である。そういえば大竹もブランチを演じた。

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ミュージカル「レベッカ」

12月23日(日)梅田芸術劇場シアター・ドラマシティへ。

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「エリザベート」「モーツァルト!」を生んだ作詞・作曲のコンビ、クンツェ&リーヴァイが手掛けたミュージカル「レベッカ」を観劇。8年前のレビューは下記。

前回観たキャストは「わたし」:大塚千弘、マキシム:山口祐一郎、ダンヴァース婦人:シルビア・グラブ。今回はマキシムが変わらず、「わたし」:平野綾、ダンヴァース婦人:涼風真世。ほか出演は森公美子、石川禅、吉野圭吾ら。演出は山田和也。

チケットを入手するのに相当苦労した。「わたし」はトリプル・キャストで、大塚と平野の回は先行抽選に申し込んでも落選ばかり。乃木坂46・桜井玲香の回だけ全日、余裕で余っているという状況。僕は桜井が大嫌いなので、絶対に嫌だった。で、5,6回目の挑戦で漸く平野が当たったという次第。歌唱力がある人なので文句なし!彼女は京アニ「涼宮ハルヒの憂鬱」のタイトルロールで一世を風靡したわけだが、ミュージカル「レディ・ベス」のエリザベス一世、「モーツァルト!」のコンスタンツェ、そして「ブロードウェイと銃弾」のアニメ声の愛人と、それぞれの役で全く声質を変えて演じているのが凄い。100の声を持つ女優である。

ダフネ・デュ・モーリア原作による「レベッカ」といえばアルフレッド・ヒッチコック監督の映画が余りにも有名だが、2019年にはリリー・ジェイムズ、アーミー・ハマー主演でリメイクされることが決まっている。Netflixから配信される予定(詳細はこちら)。

つまり「ロミオとジュリエット」とか4度映画化された「スター誕生」同様に、最早古典的名作であり、その主題はいつの時代にも通用する普遍性があるということだ。

〈その死後も影響力を発揮し、死者が生者を支配する〉というのが「レベッカ」の基本構造である。これは世間一般でも見られる現象で、例えば朝比奈隆(指揮者)亡き後の大阪フィルハーモニー交響楽団は未だに朝比奈の亡霊に囚われているとしばしば感じる。後任の音楽監督(大植英次、尾高忠明)が、あまり得意じゃないのにベートーヴェン・チクルスを(無言の圧力で)させられたり、就任記念演奏会にブルックナーのシンフォニーを取り上げたり。また上方落語に目を向けると、故・桂枝雀の芸の支配下にある噺家は(枝雀一門であるかどうかに関わらず)少なくない。

落語は伝承芸能(口伝)なので、弟子の背後に師匠の影が見えることはしばしばある。しかし枝雀自身は米朝師匠の枠を打ち破り、軽やかに全く新しいものを打ち立てた。死者の影から逃れて、どうやって自分の足で立ち上がるか。それが「レベッカ」の主眼である。

やっぱりクンツェ&リーヴァイの音楽はいいね!

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米アカデミー外国語映画賞&監督賞最有力!「ROMA/ローマ」とフェデリコ・フェリーニ

アルフォンソ・キュアロンが監督したメキシコ映画「ROMA/ローマ」はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、米アカデミー賞でも外国語映画賞及び監督賞受賞をほぼ確実にしている(既にゴールデングローブ賞を同部門で受賞)。焦点は最早、外国語映画として史上初の作品賞(大トリ)を勝ち取るのか!?に移っている。因みに過去、フランス映画「アーティスト」(2011)が作品賞を受賞しているが、ダイアログは英語だった。日本では12月にNetflixから配信されており、本作がアカデミー作品賞や監督賞、外国語映画賞を受賞すれば、配信作品として史上初の快挙となる。

スティーヴン・スピルバーグ監督は動画配信サービスが手掛けた映画に対して、「私は(映画賞の選考対象になるために)数か所の劇場で1週間上映されたくらいの作品を、アカデミー賞候補の選考対象にするべきではないと思っている」「実際にはテレビのフォーマットで製作したならば、それはテレビ映画だと思う」と述べているが、最早時代の流れを押し止めることは出来ないだろう。スピルバーグのように、自由に映画が撮れるような潤沢な資金を持つフィルムメーカーなど稀有の存在なのである。

評価:AA  公式サイトはこちら

Roma

視聴したのは我が家の55型 4Kスマートテレビである。白黒映画。撮影には6Kの65mmデジタル・シネマカメラ ARRI ALEXA 65(詳しくはこちら)が使用された。つまりフィルム撮影ではないので、映画館で観るメリットは皆無である

ROMAというタイトルだがイタリアが舞台ではない。メキシコシティのコロニア・ローマ地区を指す。

キュアロンはここで中流階級の白人家庭に生まれた。本作は彼の幼少期を、住み込みで働く先住民のお手伝いさんクレオを主人公として描いている。映画の最後に「リボへ」という献辞が登場するが、キュアロンの乳母のこと。1970年末から71年にかけての物語である。当時彼は9歳だった。

本作を一言で評すなら、キュアロン版「フェリーニのアマルコルド」。これに尽きるだろう。

Amarcord

「アマルコルド」もアカデミー外国語映画賞を受賞したが、フェデリコ・フェリーニ監督の故郷である北部イタリアのリミニ地方の、今はもう死語になっている言葉"a m'arcord "(私は覚えている)が語源である。「ROMA/ローマ」は幼少期の想い出を描く「アマルコルド」を基調としつつ、やはりフェリーニの自伝的映画「青春群像」の要素も散りばめられている。また身勝手な男を優しく許してしまうヒロイン・クレオのイメージは、間違いなくジュリエッタ・マシーナがフェリーニの「道」で演じたジェルソミーナや、「カビリアの夜」の娼婦カビリアに繋がっている。

La_strada

つまり【クレオ ≒ ジェルソミーナ/カビリア ≒ マグダラのマリア(新約聖書に登場する罪深い女)】という等式が成立する。

1971年を迎えた新年パーティの場面で、ターンテーブルのレコードから流れるのはアンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲したロック・オペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」である。じつはこれ、1970年にまず先行で2枚組LPレコードが発売され、ブロードウェイで初演されたのは71年なのだ。で、かかっている曲は"I Don't Know How To Love Him"(私はイエスがわからない)で、マグダラのマリアが歌うナンバーなのである!ね、一目瞭然でしょ?

こうして考察していくと、なぜタイトルが(紛らわしい)ROMAなのか、得心が行くだろう。「道」「アマルコルド」など、フェリーニ映画の多くはローマのチネチッタ撮影所で生み出されており、そのものズバリ"ROMA"(フェリーニのローマ)という作品もある。つまり本作は和歌で言うところの〈本歌取り〉なのである。

Roma

またキュアロンの「ROMA/ローマ」では大型車〈フォードのギャラクシー〉が父親の威圧的存在感を象徴するのだが、最初にこの車が登場した時に父親がカーステレオで聴いているのがベルリオーズ:幻想交響曲の第2楽章(演奏はコリン・デイヴィス/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)。このシンフォニーは〈幻の女〉に囚われたひとりの男の狂気を扱っているのだが、それがしっかり映画の内容にリンクしている。

アメリカ映画「宇宙からの脱出」を家族で劇場に観に行く場面がある。これでピンときたのが、「うゎ!『ゼロ・グラビティ』(アカデミー監督賞受賞)の原点はこの体験にあったんだ」ということ。

キュアロンと言えば撮影監督エマニュエル・ルベツキ(「ゼロ・グラビティ」「バードマン」「レヴェナント」で3年連続アカデミー撮影賞受賞)とのコンビが有名である。しかし今回ルベツキは参加出来ず、キュアロン自らがカメラを回した。で「トゥモロー・ワールド」同様に、ここぞという時の長回しが効いている。まず映画冒頭の俯瞰ショットはジャック・ドゥミ監督「シェルブールの雨傘」(1964)以来と言っていいくらいの鮮烈な印象を受けた。またクライマックス、海辺での移動撮影(ドリーショット)が「どうやって撮ったの!?」というくらい凄い。

本作には女性に対する敬意・感謝と、メキシコ先住民に対する贖罪の気持ちがいっぱい詰まっている。掛け値なしの傑作である。

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再び法師温泉へ!

「また行きたい!」という小学校1年生の息子のたっての希望もあり、年末年始は2年連続、群馬県の法師温泉で4泊5日を過ごした。

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前回も書いたが、僕が法師温泉のことを初めて知ったのは1986年4月26日に公開された角川映画「彼のオートバイ、彼女の島」(大林宣彦監督)を劇場で観た時だった。原田知世の姉・貴和子と竹内力のデビュー作である。

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訪れて初めて知ったのだが、やはり大林監督が演出し高峰三枝子、上原謙が出演した国鉄のCM「フルムーン」(1981年放送)や、映画「テルマエ・ロマエ II」もここでロケされた。

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今冬は全国的に雪不足で、法師温泉も12月28日まで全く積もっていなかったという。しかし寒波の到来で僕らが宿に着いた29日にはすっかり白銀の世界に変貌していた。近くにある赤沢スキー場は翌30日から営業を開始した。

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上写真の法師乃湯だけではなく、野趣あふれる露天風呂の玉城之湯もある。雪が深々と降りしきる中、笠をかぶり入る湯は格別の味わいがある。朝6時頃入浴すると、湯船から有明の月が見えた。

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
(百人一首 より;坂上是則)

ごうごうと森が鳴る音も聴こえた。

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スキー場には2回訪れた。柔らかい新雪が降り積もる30日に息子の乗るソリはあまり滑らなかったが、根雪でアイスバーンとなった元旦には滑走距離がぐんぐん伸びた。

愉しそうにソリで滑る息子を眺めながら、中学生くらいになって彼に映画「市民ケーン」を観せたら、薔薇のつぼみ(Rosebud)の真相が明らかになる場面で「主人公の気持ち、僕よく分かるわぁ」と言うんじゃないかな、と思った。

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スキー場から宿に戻ると、温めのお湯で悴む手足を癒やした。

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(みそぎ)の感覚。僕は日本の神話(古事記)でイザナギが黄泉の国から地上に戻ってきた際の逸話を思い出した。彼が左の目を洗った時に生まれたのが天照大御神(アマテラスオオミカミ)で、右の目からは月読命(ツクヨミノミノミコト)、鼻からは須佐之男命(スサノオノノミコト)が生まれたという。

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ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート今昔物語

旅先の宿・法師温泉でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団恒例のニューイヤーコンサート 2019をNHKの中継で観た。

今年現地の特設スタジオにゲストとして登場したのはウィーン・フィルの元コンサートマスター、ライナー・キュッヘル夫妻と、2018年11月26日に同団のヴィオラ奏者と結婚した中谷美紀。興味深かったのは、NHKのアナウンサーが「女優の」ではなく「俳優の中谷美紀さんです」と紹介したこと。これはきっと中谷のこだわりなのだろう。それから彼女の結婚について一切触れなかったことも反って異様で、可笑しかった。プライベートに関してはアンタッチャブルということなのかな?中谷の口から「シェーンベルク」などといった固有名詞が飛び出したので、感心することしきり。

さて、2019年新春の指揮者として抜擢されたのはドイツ・ベルリン出身のクリスティアン・ティーレマン。

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僕は時代に背を向ける守旧派・ティーレマンのことを〈生きた化石〉と揶揄しており、大嫌いなのだが、お手並み拝見と構えていたら意外にも極上の演奏で驚いた。

ピリオド・アプローチ(古楽奏法)が主流となった現代の演奏の多くはどちらかと言えば感情を排し、Dryである。ところが今年のニューイヤーはWetで、これだけ艶のある音は本当に久しぶりに聴いた気がした。ティーレマンはR.シュトラウスのオペラを得意としており、「ばらの騎士」へ通じる馥郁たる色香を感じた。リズムも軽やか。

僕が初めてニューイヤーコンサートを視聴したのは小学生の頃である。未だボスコフスキーが健在だった。考えてみれば過去40年の変遷を見てきたわけで、中には若い人にとって耳新しいこともあるんじゃないか?そう思い、今昔の違いを語ってみることにした。

1)昔は指揮者が固定制だった。

創始者であるクレメンス・クラウスが1954年に亡くなり、当時ウィーン・フィルのコンサートマスターだったヴィリー・ボスコフスキーが1955年から79年まで25年間、指揮者を務めた。ボスコフスキーの病気で登壇したのがロリン・マゼール。彼は7年連続で登板した。ボスコフスキーはヴァイオリンを弾きながら指揮台に立ち、時折り弓を指揮棒代わりに使った。この「弾き振り」スタイルはピッツバーグ交響楽団でヴァイオリニストとして活躍した経験を持つマゼールも踏襲した。そして87年のカラヤン以降は「弾き振り」がなくなり、毎年指揮者が交代するシステムとなった。因みに2020年に登壇する予定なのはラトビア出身のアンドリス・ネルソンスである。

2)昔NHKは第2部からしか生中継をしていなかった。

現在は日本時間の夜7時15分から第1部の演奏が開始され、休憩を挟み8時15分から第2部が始まるというスタイルだが、昔は第2部からしか放送がなかった。第1部も視聴出来るようになったのはNHK-BS放送開始(89年6月1日)以降と記憶している。地上波では従来どおり第2部のみ放送し、「衛星放送なら第1部から見れますよ、だらか専用アンテナを設置してくださいね!」という意向だった。

3)女性楽員問題と〈ザビーネ・マイヤー事件

ボスコフスキー時代、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの楽員は全員男性だった。1982年、ベルリン・フィルの芸術監督兼終身指揮者だったカラヤンが女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤー(当時23歳)をBPOに入団させようとしたが猛反発を受け、楽員全員による投票でマイヤーの仮採用は否決された。「マイヤーの音には、BPOの管楽器奏者にとって不可欠の、厚みと融合性が欠如している」というのが総意だった。この〈ベルリン・フィル入団騒動〉でマイヤーはかえって有名になり、現在では世界屈指のソリストとして認められている。〈ザビーネ・マイヤー事件〉でベルリン・フィルとの関係がすっかり冷え込んだカラヤンは晩年、ウィーン・フィルに客演することが多くなった。チャイコフスキーの後期交響曲やドヴォルザークの交響曲第8番、9番、ブルックナーの交響曲第7番、8番がウィーン・フィルとレコーディングされたのも、87年のニューイヤーコンサートにカラヤンが登場したのも、こういう経緯があった。またこの時にソプラノのキャスリーン・バトルが「春の声」を歌ったが、異例の出来事であり、カラヤン以降にゲスト出演者は全くいない。

カラヤンの死後シェフがクラウディオ・アバドに交代し、ベルリン・フィルは女性奏者をどんどん採用するようになった。しかしウィーン・フィルは頑なに男尊女卑を押し通し、女性の権利団体から国際的な非難を浴び続けた。外圧に耐えかねて漸く女性(ハープ)奏者の入団を認めたのは1997年のことである。現在は全楽員の約1割を女性が占め、初の女性コンサート・マスターも誕生した(アルベナ・ダナイローヴァ)。

4)客席の日本人

DVDで確認することが出来るが、ボスコフスキーが「弾き振り」していた頃のニューイヤーコンサートの客席には殆ど日本人がいない。しかし今年の中継を見ると、カメラが客席のどこを写しても、日本人だらけ。雨後の筍のごとく、うじゃうじゃいる。ここ40年で日本人が豊かになったことの証左であり、国際的に見てもとりわけ我々がニューイヤーコンサートを愛しているということなのだろう(年末に第九を聴く日本独自の習慣に似ている)。

5)ウィーン国立バレエ団

演奏中にウィーン国立バレエ団の踊る映像が挿入されるのは、ボスコフスキー時代から現在まで変わらない伝統である(映像ソフトとして販売される商品にはない)。しかしダンスの質が大きく変貌した。昔は「いもねーちゃんと、いもにーちゃんが田舎の古風な踊りを披露している」という印象だった。

はっきり言ってウィーン国立バレエ団は世界的に見て二流〜三流の団体である。因みに一流と言えるのはパリ・オペラ座バレエ、英国ロイヤル・バレエ、ボリショイ・バレエ、マリインスキー(旧キーロフ)・バレエ、アメリカン・バレエ・シアター(ABT)、ニューヨーク・シティ・バレエ、そしてミラノ・スカラ座バレエ団といったところである。

ところが今年のパフォーマンスを観ると、斬新で洗練された振付が施されており、ダンサーも白人だけではなく、アジア系も混ざり国際的になっている。目が覚めるような鮮烈な印象を受けた。

6)アンコール

アンコールで「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」が演奏されるのは今も昔も変わらぬ光景だ。しかし指揮者が「ラデツキー行進曲」で客席を振り向き、手拍子をコントロールするようになったのはマゼール以降である。ボスコフスキー時代は聴衆任せだったので、中間部の静かなところで手拍子がそれに同調出来ず、全く統制が取れていなかった。

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