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2018年10月

映画「アンダー・ザ・シルバーレイク」と〈陰謀論〉について。

大傑作ホラー映画「イット・フォローズ」のデビッド・ロバート・ミッチェル監督最新作ということで劇場に足を運んだ。公式サイトはこちら

評価:B+

魑魅魍魎が跋扈する街ハリウッドを舞台とする、陰謀論の話である。ポスターから既に凝っていて、メッセージ(映画を紐解く鍵)が密やかに忍び込まされている。その一部を切り取った。

Under_the_silver_lake

泡の中にギター、海賊姿の男の顔、ジェームズ・ディーンの顔、風船の女、双眼鏡、JESUSと刻まれた十字架(逆さま)などが隠されている。また髪の毛にはSEXという文字が。

カフェの窓ガラスにスプレーで書かれた落書き"Beware The Dog Killer"(犬殺しに気をつけろ)ではじまる本作の主人公は、夢を抱いて映画の都にやって来たけれど仕事がなく、家賃滞納でコンドミニアムから追い出されそうなヲタク青年(アンドリュー・ガーフィールド;エマ・ストーンと交際していたが2015年に破局した)。「ラ・ラ・ランド」の悪夢版という宣伝文句は言い得て妙で、どちらもグリフィス天文台が登場し、ジェームズ・ディーンが絡んでくる。で、「ラ・ラ・ランド」のふたりはそこから空中浮遊し昇天するのだが、本作の主人公は地底に潜ってゆく。見事に好対照を成している。なお、エマ・ストーンはガーフィールドと別れた後から運に恵まれ、「ラ・ラ・ランド」でアカデミー主演女優賞を受賞した。

本作は完全に映画ヲタク向け仕様であり、普段あまり古典名画を観ない人にはチンプンカンプンかも知れない。前半部はアルフレッド・ヒッチコックに対するオマージュが散りばめられており、双眼鏡での覗きや、美女が登場する瞬間にコマ落としになる演出は「裏窓」、車での追跡や逆ズームは「めまい」、花火は「泥棒成金」といった具合。「イット・フォローズ」のディザスターピース(リッチ・ブリーランド)が作曲した音楽はバーナード・ハーマンを模倣している。映画評論家・町山智浩氏は「めまい」にそっくりだと述べているが、僕はハーマンがオーソン・ウェルズと組んだ「市民ケーン」の方に似ていると想う。で、映画中盤で主人公が古城に住むソングライターを訪ねる場面があるのだが、これ完全に「市民ケーン」の豪邸ザナドゥーね(ここは「オズの魔法使い」だと、町山氏は解説する)。主人公の部屋には「大アマゾンの半魚人」のポスターが貼ってあって、こちらはアカデミー作品賞・監督賞を受賞したギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の元ネタ。フィルム・メーカーに大人気の作品なんだね。後に失踪する美女の部屋で主人公が一緒に観る映画は「百万長者と結婚する方法」で、テレビの横にマリリン・モンロー、ローレン・バコール、ベティ・グレイブルのフィギュアが置いてあるという周到(マニアック)さ。そのブロンドの美女が裸になってプールで泳ぐ場面は、マリリン・モンローの遺作で未完に終わった「女房は生きていた(Something's Got to Give )」の再現。編集されたフィルムは37分しかなく、勿論未公開。いやはや!!あと海賊姿の男は、やはりハリウッドを舞台とするデヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」のカウボーイを変換したものであり、「マルホランド・ドライブ」からも多大な霊感を得ている。だから、自分の部屋に警官と管理人が立ち入るのを別の部屋から主人公が眺める場面で映画は締めくくられるのだが、なんだか幽体離脱みたいで、この語り部は「マルホランド・ドライブ」(さらにその元ネタ、ビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」)同様に、既に死んでいるんじゃないかという仮説も捨てきれない。映画全体を〈腐乱死体が見た夢〉だと解釈すれば、周囲の人々が主人公に対して「臭い!」と嫌な顔をするのも頷ける。まるで迷宮Labyrinth)を彷徨うような映画である。

この監督の前作「イット・フォローズ」で魅了されたのは、なんといっても映像表現である。何だかね、カメラが動いただけで怖いんだ!特にヒロインが廃墟の中で車椅子に拘束されている場面の移動撮影には息を呑んだ。あと360°を超えるパン(撮影技法)とか。つまりキャメラがぐるっと水平方向に一回転して、更に回るなかで劇的な状況変化が起きる。これを観たナイト・シャマランが撮影監督のマイケル・ジオラキスを新作「スプリット」に起用したのも頷ける。そしてジオラキスが続投した「アンダー・ザ・シルバーレイク」の映像も冴えに冴えている。

本作の主人公は妄想性人格障害パラノイヤ(偏執病)と思われる。僕が真っ先に連想したのはスタンリー・キューブリック監督「博士の異常な愛情」でスターリング・ヘイドンが演じたリッパー准将。彼は「水道水フッ化物添加はアメリカ人の体内の〈エッセンス〉を汚染しようとする陰謀だ」と陰謀論を説く。

昔からフリーメーソン陰謀論とか色々あって、子供の頃、日本テレビ「矢追純一UFO現地取材シリーズ」を観ていたら、ケネディ暗殺は「1947年のロズウェル事件で墜落したUFOの生存者グレイ(宇宙人)はアメリカ空軍が管理するエリア51で保護され、そこではUFOの研究が続けられている、と世間に公表しようとしたケネディを邪魔に思った秘密機関MJ-12(マジェスティック・トゥエルヴ)のメンバーたちが首謀者である」という陰謀論を流していた。因みにこのエリア51はスピルバーグの「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」やテレビドラマ「Xファイル」にも登場する。あと、アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」には、ユダヤ人陰謀論が延々と書かれている。正にパラノイヤの産物である。

何故、陰謀論が世間を跋扈するのか?それは結局、人間というものは〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉とか〈我々が生きる目的は何か〉〈我々はどうして死ななければならないのか〉とかを、自らに問わずにはいられない生き物だからだろう。そいう心理過程を経て宗教が誕生した。そして陰謀論は、〈この複雑に糸が絡み合った、混沌とした世界(カオス)を、どうにか単純化して理解したい〉という欲望から生まれたと言える。その根底には存在の不安がある。つまり、

  • 宗教一神教):この世界を創造した人物(=神)を設定(単純化)し、世界の成り立ち(生者必滅の理由など)を理解したい。因果を知りたい。
  • 陰謀論:この世界で起こる全ての問題/事件を、単一の首謀者(人物またはグループ)が計画したことであると単純化し、理解したい。

結局、両者の構造は全く同じなのである。〈全ては偶然の産物に過ぎず、計画者など誰もいない〉という考え方は、どうやら多くの人々にとって我慢ならない、受け入れ難いもののようである。

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大阪桐蔭高等学校吹奏楽部×映画「ボヘミアン・ラプソディ」奇跡のコラボ!!

まずはこの映像からご覧あれ。→夏の甲子園を盛り上げた大阪桐蔭吹奏楽部が映画『ボヘミアン・ラプソディ』とコラボ!(You Tube)

20世紀フォックスの公式サイトですよ!!信じられる!?明らかにワーナー・ブラザースがヒュー・ジャックマン主演の映画「グレーティスト・ショーマン」で大阪府立 登美丘高校ダンス部とコラボしたこの動画に対抗している。大阪桐蔭吹部の生徒さんたちは幸せだ。一生の宝物になるね。桐蔭は夏の甲子園の応援歌としてクイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を演奏したので、おそらくそのパフォーマンスが映画会社の目に止まったのではないだろうか?なお、MV冒頭はオフ・ブロードウェイのパフォーマンスショー"STOMP"仕立てになっている(動画はこちら)。

Bohemian

さて、今年の全日本吹奏楽コンクール高校の部は関西代表の3校のうち金賞が丸谷明夫先生率いる淀川工科高等学校1校のみで、大阪桐蔭と明浄学院高等学校は銀賞という結果だった。九州代表の3校(玉名女子・精華女子・福工大付城東)が全て金賞だっただけに、悔しい思いが残る。関西の吹奏楽の実力って、こんなものじゃないでしょう?大阪桐蔭が自由曲にデュカス作曲「魔法使いの弟子」を選んだことに対する僕の心情は、関西吹奏楽コンクールの前日に下の記事に綴った。

まぁ今年は桐蔭の野球部が強すぎたし、梅田隆司先生が大好きな「魔法使いの弟子」でもう一度、全国大会に挑みたいというお気持ちもよく分かるのだが……(梅田先生は大阪市立生野中学校と大阪市立城陽中学校の教諭時代にこの曲で全国大会に出場されている)。

それにしても大阪桐蔭の演奏するクイーンは若々しく、溌剌としていて実に素晴らしい。(クラシック音楽ではなく)こういう曲でこそ、彼らの本領は発揮される。特に「ボヘミアン・ラプソディ」の中間部、オペラティックな曲調(スカラムーシュ・ファンダンゴ・ガリレオ・フィガロ)のところで、桐蔭の十八番=合唱になるのが最高だね!胸がスカッとした。当然来年2月の定期演奏会でも聴けると思うが、その際「伝説のチャンピオン」にも合唱を取り入れて欲しいな。切にお願いします。

We are the champions - my frends
And we'll keep on fighting -
till the end -

俺たちは勝者だ!友よ
そして俺たちは戦い続ける
死を迎える日まで

なんて聴いたら、泣いちゃいそう。

大阪桐蔭吹部の生徒さんたちへ。クイーンの曲を演奏する上で映画評論家・町山智浩氏の解説がとても参考になると思うので、是非ご一読ください→こちら

映画「ボヘミアン・ラプソディ」について。撮影中から色々不穏なエピソードが聞こえてきた。実はブライアン・シンガー監督(「ユージアル・サスペクツ」「X-メン」)が休暇後にも現場に戻らず、撮影終了2週間前にして監督を解雇されたと報道された。どうも主演のラム・マレックと衝突していたらしい。シンガーの代理でデクスター・フレッチャーが起用されたが、その時点で主要撮影の3分の2が完了していた為に監督のクレジットはシンガーになったという。またリードボーカルのフレディー・マーキュリーがゲイで、死因がAIDSだということも映画ではっきり言及されていないと風の便りで聞いた。そんなんで本当にまともな作品に仕上がっているのか??疑問は残るが、僕は観に行くつもりだ。

映画の予習として現在、「伝説の証 ~ロック・モントリオール1981&ライヴ・エイド1985 」Blu-rayと「ライヴ・アット・ウェンブリー・スタジアム」DVDを鑑賞中。断然、前者の方がお勧め!まずフィルム撮りなので、画像が綺麗(後者はビデオ撮り)。それから前者は歌詞の日本語訳が字幕になっているのでありがたい(後者は歌っている間に字幕スーパーが一切ない)。

ライヴ映像を観ながら気が付いたのだが、クイーンには「レディオ・ガ・ガ Radio Ga Ga」という曲がある。何と、これがレディー・ガガの名前の由来なんだね!彼女の初期の楽曲に携わった音楽プロデューサーがこの芸名を与えたそう。因みにレディー・ガガ主演の映画「アリー/スター誕生」は大評判で、アカデミー主演女優賞ノミネートが確実視されている。日本では12月21日に公開される。

最後に、AIDSで倒れた芸術家やパフォーマーたちを列記しておく。

  • ロック・ハドソン 1985年死去(映画「ジャイアンツ」「風と共に散る」に出演)
  • マイケル・ベネット 1987年(「コーラスライン」原案/演出/振付、「ドリームガールズ」演出)
  • ジャック・ドゥミ 1990年(映画「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」監督)
  • フレディー・マーキュリー 1991年
  • ハワード・アッシュマン 1991年(ディズニー「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」作詞)
  • ジョルジュ・ドン 1992年(20世紀バレエ団ダンサー、映画「愛と哀しみのボレロ」出演)
  • アンソニー・パーキンス 1992年(映画「サイコ」主演)
  • ルドルフ・ヌレエフ 1993年(ソ連生まれのバレエ・ダンサー)

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バッティストーニ指揮/血湧き肉躍るヴェルディ「アイーダ」

10月24日(水)兵庫県立芸術文化センターへ。

  • ヴェルティ:オペラ「アイーダ」

を観劇。

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国内4つの劇場で上演する共同制作公演で、

アンドレア・バッティストーニ/東京フィルハーモニー交響楽団、兵庫芸術文化センター管弦楽団(バンダ)、二期会合唱団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団らによる演奏。バレエは東京シティ・バレエ団。

独唱はモニカ・ザネッティン(アイーダ)、福井敬(ラダメス)、清水華澄(アムネリス)、上江隼人(アモナズロ)、妻屋秀和(ランフィス)、ジョン ハオ(エジプト国王)ほか。演出はジュリオ・チャバッティで大道具・衣装・小道具はローマ歌劇場が製作した。

バッティストーニはイタリア・ヴェローナ生まれの31歳。故郷にあるローマ帝国時代の闘技場(アレーナ)が会場となる野外オペラ祭でも看板演目「アイーダ」を振っている。また現在、ジェノヴァ・カルロ・フェリーチェ歌劇場の首席客演指揮者を務めている。

僕の席は最前列ど真ん中。1.5m先にバッティストーニの頭が見える状態。彼は全て暗譜で振ったので度肝を抜かれた!切ればが吹き出すような熱血指揮ぶりを眺めていると、「若き日のリッカルド・ムーティはこんな感じだったんじゃないか?」と思った。時折、唸り声を発し、〈勝ちて帰れ(Ritorna vincitor) !〉では一緒に歌っていた。

バッティストーニの棒振りスタイルは、フェラーリ、ランボルギーニ、アルファ ロメオなどイタリアのスポーツカーを想起させる。熱き血潮が滾る第2幕フィナーレではアクセルをグイグイ踏む込み、ガンガン加速して、聴衆を興奮の坩堝に叩き込んだ

かと言ってただオケを鳴らすだけではなく、しっかりと弱音の美しさも際立たせ、強弱がくっきりとしたメリハリある音楽づくりが成し遂げられていた。

舞台上だけではなく、オーケストラ・ピット(オケピ)の中で巻き起こるドラマにも目が離せない!こんな体験は、カルロス・クライバーが指揮するヴェルディの「オテロ」や、R.シュトラウスの「ばらの騎士」に近いものがあるのではないだろうか?因みに僕は中学生の時に、カルロスが指揮するミラノ・スカラ座の「ラ・ボエーム」(フランコ・ゼフィレッリ演出)を旧フェスティバルホール@大阪市で観劇している。

モニカ・ザネッティンの体型は細く、美しい人で、声量もあって文句なし。情感あふれる歌いっぷりだった。

福井は時折声が掠れるのが気になったが、及第点。掘り出し物だったのが上江のアモナズロ。美声で迫力があった。アムネリスはX。普段、ジュリエッタ・シミオナート(カラヤン盤)とかエレナ・オブラスツォワ(アバド版)などの名唱を聴き慣れていると、いかんせん物足りない。

美術や衣装はミラノ・スカラ座や新国立劇場で上演されたフランコ・ゼフィレッリ版みたいな絢爛豪華でド派手なものではないが、シックで品があり、まるでルキノ・ヴィスコンティ監督の映画を観ているようであった(因みにゼフィレッリは若い頃、ヴィスコンティの助監督を務めた)。

兎に角、これだけの充実したパフォーマンスを、たった1,2000円で観られるなんて、なんて幸せなことだろう。今回の公演に携わった諸氏に心から感謝したい。

ところで、イタリア・オペラでテノールが演じる役には、ある共通する特徴がある。

  1. 直情径行型:何も考えず直ちに行動する。すぐ激昂する。
  2. コロッと騙されやすい:つまり、おつむが少々足りない。
  3. 嫉妬深い:単純な誤解から女を殺したり、暴力を振るう。

ヴェルディなら、「椿姫」のアルフレードとか「イル・トロヴァトーレ」のマンリーコ、「オテロ」のタイトルロール、そして「アイーダ」のラダメスがその典型だろう。またプッチーニ「トスカ」の主人公は女だけれど、上記特徴にピッタリ当てはまる。逆にドイツ・オペラには、こういう性格の人物は稀だ。

イタリア・オペラの登場人物は〈過剰な人々〉である。理性の欠片もない。しかし久しぶりに今回「アイーダ」を再見して、こういう欲望の赴くままに突っ走る生き方も素敵だなと思った。つまりイタリア・オペラは禁欲とか倫理などを押し付けてくるキリスト教へのアンチテーゼであり、野生の思考が息づいているのだ。カトリック教会が支配的なイタリア社会に於いて、オペラは長年ガス抜きの役割を果たしてきたのだろう。そもそも「アイーダ」で描かれるエジプトは非キリスト教社会だ。「オテロ」はムーア人=異教徒だし、「椿姫」の原題La traviata(ラ・トラヴィアータ)の意味は〈道を踏み外した女〉、つまりアウトローはみ出し者。いずれもキリスト教的価値観からの逸脱束縛からの開放を虎視眈々と狙っている。

イタリア人の多くが「ドイツ・オペラは退屈だ」と思う気持ちがよく理解出来た。我を忘れた熱狂陶酔はイタリア・オペラにしかない。

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神田沙也加主演 ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の〈正体〉

10月20日梅田芸術劇場へ。ミュージカル「マイ・フェア・レディ」舞台版を人生初観劇した。

この作品との最初の出会いは高校生の時、1980年代である。「雨に唄えば」「サウンド・オブ・ミュージック」などミュージカル映画が大好きになった僕は「マイ・フェア・レディ」のサウンド・トラックLPレコードを購入し、歌詞対訳を見ながら繰り返し聴いた。「スペインの雨」"The Rain In Spain"とか「踊り明かそう」"I Could Have Danced All Night"は英語歌詞を丸暗記した(今でもそらで歌える)。DVDはおろか、レンタルビデオとかレーザーディスク(LD)すらなかった時代である。映画自体を見ることが出来たのは、大学生になってからだった。正直冗長で退屈だった。ロバート・ワイズ監督のような映画的飛躍(編集のキレ)がなく、まるごとセット撮影(ロケ一切なし)で、まるで舞台を観ているかのようだった。

ジョージ・キューカー監督の映画「マイ・フェア・レディ」(1964)にオードリー・ヘップバーンが出演したのは35歳だった。はっきり言って年を取りすぎ、そして痩せすぎ。全く魅力がないヒロインだった。おまけに歌はマーニ・ニクソンによる吹替えである(マーニは「王様と私」のデボラ・カー、「ウエストサイド物語」のナタリー・ウッドの吹替えもしている)。ちなみに1956年にジュリー・アンドリュースがブロードウェイの舞台でイライザを演じたのは20歳の時。製作者ジャック・L・ワーナーは大馬鹿者である(彼はヒギンズ教授役をケーリー・グラントに打診し、けんもほろろに断られている)。

映画「マイ・フェア・レディ」は結局、作品賞・監督賞・主演男優賞(レックス・ハリソン)などアカデミー賞で8部門受賞したが、オードリーはノミネートすらされず、代わって主演女優賞を征したのは「メリー・ポピンズ」のジュリー・アンドリュースだった。ぶっちゃけジュリーの演技は大したことないので、同情票が集まったものと見られる。

この主演女優をめぐる大騒動の結果、後に創られるハリウッド製ミュージカル映画で主演級の俳優の歌に吹替えを使うのは一切なくなった。逆に映画で本人が実際に歌えば、アカデミー賞が受賞し易いという状況が生まれている(「ファニー・ガール」のバーブラ・ストライサンド、「キャバレー」のライザ・ミネリ、「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」のリース・ウィザースプーン、「シカゴ」のキャサリン・ゼタ・ジョーンズ、「ドリームガールズ」のジェニファー・ハドソン、「レ・ミゼラブル」のアン・ハサウェイ)。

映画「マイ・フェア・レディ」にジュリーが出演出来なかったのは痛恨の極みなのだが、もし彼女が役を掴んでいれば逆にスケジュール的に「メリー・ポピンズ」に出演することもなかっただろう。どちらが幸いだったのか、難しいところである。因みに僕は現在、彼女が歌うブロードウェイ・オリジナル・キャスト版とロンドン・キャスト版のCDを所有している。

原作はバーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」。題名はギリシャ神話に基づく。こちらを1938年にレスリー・ハワード主演で映画化したバージョンの方が出来は良い。ちなみにレスリー・ハワードは翌年「風と共に去りぬ」にアシュレー役で出演。43年に彼が乗っていた旅客機をチャーチル首相搭乗機と勘違したドイツ空軍が誤爆し、非業の死を遂げた。

2009年にはキーラ・ナイトレイ主演で映画「マイ・フェア・レディ」のリメイク企画が持ち上がった(記事はこちら)。ヒギンズ教授役はリヴァイヴァルの舞台でも演じたジョナサン・プライスが適役なのでは?と思っていたのだが、結局立ち消えになった。そして2014年、周防正行監督の映画「舞妓はレディ」は極めて質の高い「マイ・フェア・レディ」のパスティーシュであった。

以前から舞台版を是非観たいと希っていたのだが、大地真央が花売り娘イライザ役を長年牛耳っていたので、全く行く気になれなかった。彼女が演じ始めたのが34歳の時で、結局54歳まで続けた。言語道断である。恐らくギネスブックに申請すれば世界最年長記録であろう。ババアのイライザなんか絶対嫌だ。

大地真央の次に抜擢されたのは霧矢大夢真飛聖。どちらも宝塚男役トップスター出身であり、やはり年を取りすぎていた。

僕は待ち続けた。そして神田沙也加出演の報を聞き、漸く「時は来た!」と快哉を叫んだのであった。

Kanda

翻訳/訳詞/演出:G2

出演は神田沙也加、別所哲也、相島一之、今井清隆、平方元基、前田美波里ほか。

僕は神田沙也加が初舞台を踏んだミュージカル「INTO THE WOODS」(宮本亜門演出)を2004年6月に東京の新国立劇場中劇場で観ている。赤ずきんちゃん役で、未だ17歳だった。

彼女のイライザは素晴らしかった!すっごく可愛いし、はっきり言ってオードリー・ヘップバーンより断然いい。歌も、映画吹替えのマーニ・ニクソンを上回っていた。「踊り明かそう」のナンバーは柔らかくしっとり歌い上げ、イライザのレディとしての覚醒を見事に表現していた。パーフェクトである。長年待った甲斐があった。また今井清隆のドゥーリトルははまり役だったし、歌わない前田美波里も気品と威厳があって素敵だった。

ポスターでも分かる通り、衣装はブロードウェイ版及び、映画で美術・衣装デザインを担当したセシル・ビートン(アカデミー賞ダブル受賞)のデザインを踏襲している。例えばアスコット競馬場の場面は全員の衣装が白黒のモノトーンで統一されているといった具合。

実は、映画「マイ・フェア・レディ」を初めて観たときから、僕はモヤモヤとした違和感、腑に落ちない〈何か〉が気にかかっていた。この居心地の悪さの正体は、一体……?

本作はしばしば世間で〈ロマンティック・コメディ〉と称されるが、それは果たして本当だろうか?そもそもイライザとヒギンズは恋愛関係なの??劇の終盤、戻ってきたイライザに対してヒギンズは"Where the devil are my slippers?"(私のスリッパは一体どこにある?)と言うのだが、それって〈愛の告白〉ですか???少なくとも〈将来の妻〉に対して言う台詞ではないだろう。

30年以上抱えていた問いに対して、明快な解(かい)を見出したのは、つい最近のことである。

この物語の中で非常に不可解なのはピッカリング大佐の存在である。ヒギンズとピッカリングは共に〈独身主義者 bachelor〉であり、意気投合したふたりは一緒に暮らし始める……。そうか!彼らはゲイカップルで、最後にイライザを養女として迎え入れる。そう解釈すればすべての謎が氷解する。つまりミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」と同じ構造なのだ。娘に「スリッパはどこだ?」と訊ねるのなら、不自然じゃない。

そして映画版の監督ジョージ・キューカーとセシル・ビートンはゲイだった。成る程、繋がっている。

最後に。今後イライザとして観たい日本のミュージカル女優たちの名を挙げておこう。

  • 昆夏美
  • 木下晴香
  • 高畑充希
  • 上白石萌歌

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神話としての「タイタニック」〜トム・サザーランド演出ブロードウェイ・ミュージカル再演

10月17日(水)梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティへ。ミュージカル「タイタニック」大阪公演初日を観劇。

Titanic

トム・サザーランド演出版・初演のレビューは下記。

今回の配役は、アンドリュース(設計士):加藤和樹、イスメイ(オーナー):石川禅、機関士:藤岡正明、一等客の客室係:戸井勝海、ジム・ファレル(三等客):古渡辺大輔、通信士:上口耕平、アリス・ビーン(二等客):霧矢大夢、アイダ・ストラウス(一等客):安寿ミラ、イシドール・ストラウス:佐山陽規、ケイト・マーフィー(三等客):屋比久知奈、船長:鈴木壮麻ほか。

それにしても芥川英司(劇団四季時代)→鈴木綜馬→鈴木壮麻と芸名をよく変える人だなぁ(本名は鈴木孝次)。でも初演の船長役:光枝明彦より良かった。傲慢で身勝手なオーナーを演じた石川禅もはまり役。概して役者陣のアンサンブルはお見事!

3年前のレビューにも書いたが、トム・サザーランドの演出は舞台装置が余りにも簡素で、不満が残る。例えば、タイタニックが氷山に衝突し、沈没しかかった場面で装置が傾くわけでもなく、救命ボートを海面に降ろす場面でもボートそのものが存在しないので、「あとは観客の皆さんの想像力で補ってください」と言われても限界があるだろう。抽象的描写で、状況が分かり辛い場面が多々あった。

だからといってブロードウェイのオリジナル・プロダクションのように大掛かりな装置を組むとツアーのための運搬が困難になり、大阪公演は実現不可能だったろう(演出変更になる前の「ミス・サイゴン」のように)。痛し痒しである。

モーリー・イェストンの音楽は文句なしに素晴らしい。特に第一幕 終盤(氷山にぶつかるまで)。ワルツが続き、優雅でありながら何処か物悲しさが漂う。

初演の感想で「グランド・ホテル形式の台本が古臭くてイマイチ」と書いたのだが、今回考えを改めた。

1912年に発生したタイタニックの悲劇は最早、20世紀の神話と言えるだろう。1931年頃に書かれたと推定される宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に於いて既にタイタニック号の乗客が登場する。

南北アメリカ大陸の先住民の神話を詳細に研究したフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは「神話論理」四部作で次のように説く。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である。

本作の場合、調停不可能根源的(二項)対立とは、言うまでもなく生と死である。どうして人は死ななければならないのか?納得出来る答えはない。だから我々は普段、そのことを忘れて(忘れようと努力して)生きている。しかし「タイタニック」の物語は、遅かれ早かれ誰にでも(一等客であろうと三等客であろうと)分け隔てなく、死が訪れるのだ(生者必滅)ということを思い出させてくれる。だったら、残された人生を一日一日、精一杯生きるしかない。メメント・モリ(自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな)、カルペ・ディエムseize the day:その日の果実を摘め/その日をつかめ)。そう僕は得心がいった。正に神話による調停作用、カタルシス(精神の浄化作用)である。そして勿論、小説「銀河鉄道の夜」にもこのカタルシスがある。

またミュージカル「タイタニック」には欧米が築いた近代合理主義・科学技術文明の終焉レクイエム)が描かれているのだ、と感じられた。オーナーのイスメイが「タイタニックは不沈。この船そのものが救命ボートだ(だからボートが足りなくても大丈夫)」と豪語する場面があるのだが、この万能感は正に「人間は神になり代われる存在なのだ」という幻影を示している。彼の発言の根底にはキリスト教徒が持つアントロポモルフィズム(人間形態主義/人神同形論)つまり、神を人間と同じような姿で想像するという基本理念がある(神は最初の男アダムを、神に似せて創造したー「創世記」)。また「ノアの箱舟」のイメージを重ねてもいるのだろう。しかしイスメイの誇大妄想野望は、氷山という自然との遭遇で呆気なく打ち砕かれるのである(文化⇔自然の二項対立)。

〈時間というのは過去→現在→未来という不可逆的・一方通行の流れであり、その中で人類は着実に「進歩」して来た。そしていつの日にか神に近づくことが出来るであろう〉これが欧米人が一般的に抱いて来た歴史観である。しかし、それは果たして本当だろうか?だったらどうして20世紀にアドルフ・ヒトラーやポル・ポトのような為政者が誕生したのだろう?「進歩」の果てに中国の文化大革命が成立したのか?アメリカ大統領について言えば、イラク戦争を引き起こしたジョージ・W・ブッシュはエイブラハム・リンカーンよりも「進歩」しているのだろうか?疑問符ばかりである。

〈人類の歴史は「進歩」の歴史〉という、通時的歴史観は崩壊した。これからはもっと共時的に思考する姿勢が求められている。そう、20世紀の神話「タイタニック」は我々に語りかけているように僕には思われるのである。

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究極のカルト映画「ピクニック at ハンギング・ロック」の衝撃と、ドリームタイム

ピーター・ウィアーが監督したオーストラリア映画「ピクニック at ハンギング・ロック」は豪州で1975年に封切られ、日本公開は11年後の1986年4月だった。有名な役者が出ているわけではないし、そもそも本邦で上映される予定はなかった。

Picnicathangingrock

状況に変化が生じたのはウィアーがハリウッドに渡り、ハリソン・フォード主演で「刑事ジョン・ブック 目撃者」を撮ったことに端を発する。日本公開が1985年6月22日。アカデミー賞では作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞・作曲賞・撮影賞・美術賞・編集賞の8部門でノミネートされ、脚本賞・編集賞の2部門を受賞した。つまり「目撃者」が高く評価され、有名になったおかげで過去の出世作が発掘されたというわけだ。

僕は「目撃者」を映画館で観て甚く感銘を受けた。「ピクニック at ハンギング・ロック」については日本公開当時にキネマ旬報の特集記事を読んだ。そこに書かれていたのは〈1900年の聖バレンタインデー。オーストラリアにある寄宿学校の女生徒たちが山にピクニックに出かけ、失踪するという実際に起った事件に基づいている。しかし最後まで真相は明かされない難解な映画〉といった内容だった。この紹介文に尻込みし、結局鑑賞するのを見合わせた。

30年以上の時を経て、「ピクニック at ハンギング・ロック」はすっかりカルト映画の仲間入りをした。そしてつい先日、WOWOWで放送されたのを機会に初めて観て、雷に打たれたような衝撃を受けた。打ちのめされた。なんて素晴らしい作品なんだ!巷の評判を信じた僕が大馬鹿だった。間髪入れず充実した特典ディスクが付いたBlu-rayを購入した。

ピーター・ウィアーの作品はこれまでに「危険な年」「目撃者」「モスキート・コースト」「いまを生きる」「トゥルーマン・ショー」「マスター・アンド・コマンダー」と観てきたけれど、紛れもなく「ピクニック at ハンギング・ロック」こそが彼の最高傑作であり、それだけに留まらずオーストラリア映画史上のベスト・ワンだと断言出来る。「マッドマックス」なんか目じゃない。

Directors

インターネット上で検索すると、未だに本作が実話だと信じている人が少なくないのだが、明らかに間違いである。特典ディスクに原作者ジョーン・リンジーのインタビューが収録されているが、彼女はTrue storyだなんて一言も言っていない。また映画の最後にも〈この作品はフィクションです。もし実在の人物・団体と類似していたしても、全くの偶然です。〉とクレジットされる。

1998年、本作がクライテリオン・コレクションとしてDVDで発売された時、映像も音もブラッシュアップされディレクターズ・カット版として生まれ変わった。非常に高画質だ。そして驚くべきことに、再編集によりオジリナル版よりも7分短くなったのである(大抵は長くなる)。Blu-rayにはオリジナル版も収録されているのだが、正直カットされたシーンは確かに蛇足であり、再編集版の方が引き締まって更に良くなっている。特典映像にはヒロイン・ミランダ役:アン・ランバートのコメントが入っていて、「公開されたら映画は観客みんなの共有財産よ。たとえ監督といえども手を加える権利なんか無いわ。短くするなんて!!」と激怒しているので、笑ってしまった。逆に同級生イルマ役のカレン・ロブソンは監督から手紙を貰い、彼女の出演場面を新たにカットした理由が述べられ、「決して君の演技が拙かったわけじゃないんだ」と書き添えられていたそうで、まんざら嫌でもなさそうだった。

神隠し(Spirited Away)に遭った女学生ミランダは、言わば美の化身として描かれている。劇中、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に喩えられるし、彼女の姿と白鳥が二重写しになったりもする。ルッキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」(1971)の少年タッジオみたいなものだ。

究極の美は手が届かない存在だ。「ベニスに死す」の主人公・作曲家アッシェンバッハは最後にタッジオに向けて手を伸ばすが、触れることは叶わない。また「ピクニック at ハンギング・ロック」の校長室に飾られた、英国のフレデリック・レイトン男爵が1895年に描いた絵画「燃え上がる6月(Flaming June)」がとても印象的だ。

Flaming_june

右奥に配置されたキョウチクトウには毒性があり、微睡みから死への移ろいの可能性を示唆している。また遠景に見えるのはエーゲ海に浮かぶロードス島である。

映画に於いてこの絵は、イギリスからの植民者の末裔である女学生たちの、19世紀ヴィクトリア朝時代の堅苦しい宗教的・道徳的拘束(手袋、コルセットなど)からの開放を象徴している。

彼女たちは何処に消えたのか?「町山智浩の映画ムダ話」を聴いて、そのヒントが後年ピーター・ウィアーが撮った豪州映画「ザ・ラスト・ウェーブ」(1977、日本未公開)にあることを知り、早速Amazon.co.jpからDVDを取り寄せて観た。

Thelastwave

〈黒い雨や大粒の雹(ひょう)が降るなど異常気象が続くオーストラリア。先住民・アボリジニ同士の殺人事件を担当することになった白人弁護士(リチャード・チェンバレン)は、大陸が津波に襲われ水没する予知夢に連夜悩まされていた……。〉

主人公がアボリジニ文化を研究するウィットバーン博士を訪ねる場面があるのだが、その博士を演じるのは「ピクニック at ハンギング・ロック」で女生徒たちと共に蒸発したマクロウ先生役ヴィヴィアン・グレイである。彼女はアボリジニ独特の考え方「ドリームタイム(夢の時)」について解説する。アボリジニは(我々が知覚出来る)現世と、ドリームタイムという、並行する二つの世界を同時に生きている。彼らにとってはむしろドリームタイムの方が本物(real)なのだ。ドリームタイムは無限の、精霊(Spirit)の周期であり、彼らには”時間”(過去→現在→未来という不可逆的流れ)という概念がない……。

つまり「ピクニック at ハンギング・ロック」の失踪した女生徒とマクロウ先生は、ドリームタイムの世界に移行した、と解釈すれば全ての謎が氷解する。ハンギング・ロックで時計が止まった理由や(ドリームタイムには過去→現在→未来という流れがない)、巨大な石がトーテム(象徴)としてドリームタイムへの入口となったこと、等々。

「ピクニック at ハンギング・ロック」にアボリジニは一切、登場しない。しかしハンギング・ロック(岩)そのものと、そこに登場するトカゲや鳥など動物たちがアボリジニのメタファーなのである(ドリームタイムの中で彼らは他の動物に変容・転生する能力を持つと神話は語る)。それは白人文化とアボリジニ文化との衝突を意味している。劇中で繰り返し、「少女たちは誰かにレイプされて殺されたのではないか?」という問いが発せられるが、そこに白人たちの、「我々が蹂躙・虐殺したアボリジニの人々から、いつか復讐されるのではないか?」という恐怖心・潜在意識が反映されている。〈異文化との遭遇〉という主題は後にウィアーが監督した「刑事ジョン・ブック 目撃者」で再び取り上げられることになる。

こうして考察していくと、2年後に公開されたスティーヴン・スピルバーグ脚本・監督の「未知との遭遇」(1977)が、「ピクニック at ハンギング・ロック」から多大な影響を受けていることが判る。岩山がトーテム(象徴)の役割を果たしていること(異次元との接触点)、失踪した人々のうち帰還する者もいるが、主人公ロイ(リチャード・ドレイファス)は家族を捨て、あっちの世界に行ったきりになってしまうなど、はっきり言って、物語の構造は全く同じである

「ピクニック at ハンギング・ロック」で、イギリスから叔父の家に遊びに来ていた青年マイケルはミランダに一目惚れし、捜索にも参加する。彼が湖畔でミランダの幻を見る場面には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章が静かに流れる。実は映画「いまを生きる」にも「皇帝」第2楽章が登場する。アメリカ・バーモント州にある全寮制学院ウェルトン・アカデミーに就任した英語教師(ロビン・ウィリアムス)がロンドンに残してきた妻の写真を見ながら、彼女に手紙を書くシーンだ。つまり男性が遠く離れた女性を想う時、「皇帝」が流れるという法則がウィアーにはあるようだ(全寮制の学校が舞台となり、生徒のひとりが自殺するという状況も両者に共通している)。ちなみに彼が監督した「フィアレス」では「皇帝」の第3楽章が使用されているらしい。どんだけ好きなんだよ!!

また寄宿学校の校長室には英国の画家ハーバート・トーマス・ディックシーが1900年に描いた"The Watcher on the Hill"も飾られている。

Watcheronthehill

この虎はまるで、ドリームタイムに無断で侵入しようとする余所者を入り口で見張っている番人のようだ。校長先生はこれに拒絶され、崖から突き落とされたのだろう。

町山氏からドリームタイムという言葉が飛び出した時、武満徹(1930-1996)が「夢の時(Dreamtime)」というオーケストラ曲を書いていることを直ちに思い出した。調べてみると案の定、アボリジニの概念を題材にした作品だった。

俄然興味が湧いた。もっともっと詳しく知りたい!こうなったら徹底的にドリームタイムについて勉強してみよう。そう僕は決意したのだった。

続く To Be Continued...

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欧米的「理性」からの脱却

〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉

Paul_gauguin

ポール・ゴーギャンがタヒチ島で描いた絵のタイトルである。

明治維新以降、日本政府はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を目標として、富国強兵に務めた。幕末期にペリーの黒船や、英仏軍の大砲の威力を目の当たりにし、「このままでは日本は植民地になってしまう!」という危機感がそこにはあった。西洋をお手本とした近代化は急務であった。

第二次世界大戦で焼夷弾による(東京・大阪・神戸などへの)大空襲や原爆投下で日本は焦土と化し、惨憺たる敗戦後に我が国が最大の指標=目指すべきGoalと見做したのはアメリカ合衆国である。それはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)占領政策の成果でもあった。ハリウッド映画や、1950年代から開始されたテレビ放送の中で見る、アメリカ中流家庭の豊かさは日本人の憧れとなった。テレビ・洗濯機・冷蔵庫という電化製品は「三種の神器」と呼ばれ、我々の親世代はがむしゃらに働いた。その結果、昭和40年代(1965年以降)の日本人は"economic animal"と揶揄された。

そして21世紀となり、いつの間にか日本人はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を追い抜かし、豊かな国に暮らしていた。最早規範とすべき国はなく、欧米が築いた近代合理主義・科学技術文明を盲目的に賛美し、追従する時代はとうの昔に終わった。我々は今後、独自の道を模索していかなければならない。

欧米諸国の人々の多くはキリスト教徒である。アメリカ合衆国では国民の78.4%がクリスチャンであり、うち51.3%をプロテスタント、23.9%をカトリック教徒が占めている(2008年ピュー・フォーラムによる調査)。

実際、アメリカ人は教会によく行く。総人口の四割、一億人以上が毎週あるいは定期的に、おのおのの教会に礼拝に行くという国は、先進工業国ではほかにはない。
      (ハロラン芙美子 著「アメリカ精神の源」より)

アメリカでは2009年に正教会、カトリック教会、そしてプロテスタントの福音派指導者が合同で「マンハッタン宣言」を発表し、人工妊娠中絶や同性愛という「罪」を容認する法制度に対して、異議を唱えた。1920年代にはテネシー、オクラホマ、フロリダ、ミシシッピー、アーカンソーの各州において、公立学校でダーウィンの進化論を教えてはならないという州法が存在した(進化論は旧約聖書の記述に合致しないので)。なおケネディはカトリック教徒であり、ジョージ・W・ブッシュを支持したのは反中絶・反同性愛を叫ぶキリスト教原理主義(Christian fundamentalism)の人々であった。つまりアメリカ合衆国は宗教国家であることを見逃してはならない。

ユダヤ教やキリスト教にはアントロポモルフィズム(人間形態主義/人神同形論)つまり、神を人間と同じような姿で想像するという基本理念がある。それは旧約聖書の「創世記」にはっきりと書かれている。神は最初の男アダムを神に似せて創造した。そして最初の女イヴはアダムの肋骨から創られた。つまり人は神の似姿なのである。だからすべての動・植物の中で人間は一番偉く、自然を自由にコントロールしたり、生殺与奪の権利を持っていると彼らは考える。地球上に於いて人は神に最も近い存在であり、万物のリーダーとしての重責を担っているというわけだ。

欧米人と日本人との思考の違いは「庭」のあり方に典型的に現れている。野趣あふれる日本庭園は野山(自然)の中に在り、自然と一体化しようと欲する。一方、初期イギリス式庭園やフランス式庭園、イタリア式庭園は幾何学模様や生け垣による迷路など人工的産物であり、自然を型にはめ人の意思で徹底的に管理しようとする。アメリカ合衆国郊外の建売住宅地に見られる広い芝生の庭も然り(その起源は英国貴族の庭園にある)。

旧ソビエト連邦の社会主義リアリズムとは人類の進歩と発展を信じると同時に、人間の理性の普遍性を信じる芸術(美術・音楽・文学)だった。人類は進歩の結果、やがて理想の共産主義を建設するのであり、共産主義が最高の発展段階である以上、それを設計した人間の理性もまた最高のものでなければならない、というわけである。共産主義は唯物論だ。唯物論とは宇宙の根本は物質であり、「神はいない」という思想である。だから社会主義リアリズムの最終目標は人類(共産党員)=神になればいい、ということになる。ここにキリスト教思想の残滓がある。余談だが唯物論の根本的誤りはエネルギーを無視していること。世界は確固たる物質で構成されているのではなく、突き詰めれば全てはエネルギーであるというのが量子力学の考え方だ。

欧米の白人は有色人種に対して差別意識を持っている。これは衆目の一致するところだろう。しかし彼らの①アフリカ大陸の黒人や南北アメリカ先住民、オーストリア先住民(アボリジニ)に対する扱いと、②インド人やアジア人に対する扱いに明らかな違いがあることにお気づきだろうか?①アフリカの黒人たちは奴隷としてアメリカ大陸に売り飛ばされた。南北アメリカの先住民やアボリジニたちは無慈悲に大量虐殺され、「居住区」という名の不毛の地に強制的に移住させられた。そして豊穣で住心地の良い場所は白人が独占した。一方、②インド人が奴隷売買の対象になることはなかったし、居住地に関してアジア人が南北アメリカ先住民のような扱いを受けることもなかった。一体全体この差異は何なのか?

アフリカの民族、南北アメリカ先住民、アボリジニに共通する特徴は無文字社会であるということだ。だから欧米人は彼らのことを「未開 primitive」と見做した。未開人は知能が獣レベルであり、家畜同様に扱ってもいいという発想が根本にある。文字による記録=歴史がないが故に、アフリカは「暗黒大陸」と嘲笑された。だからアラビア語を使用するアラビア半島や北アフリカの人々は、中〜南部アフリカの無文字社会の人々よりは遥かにマシな扱いを受けた。彼らの肌が白いということとも無関係ではないだろう。つまり欧米人は肌の色と、文字を持つかどうかという2つの観点から他文明を差別(階層)化していたのである。彼らがいくら屠殺しても構わないと考える牛や豚と、「知性があるから捕鯨を絶対認めない」と主張するクジラやイルカの扱いに差を設けるのも、同じ理屈である。

19世紀末のオーストラリアではスポーツハンティングという名の虐殺が日常のように行われていた。詩人メアリー・ギルモアは幼少期の思い出を「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙(1938年3月4日)に次のように書いている。

水飲み場の周辺に何百人ものアボリジニが死んでいた。大人たちが集まり、アボリジニの狩りに出かけるところを何度も見た。欧州から獰猛な狩猟犬が輸入された。アボリジニたちを狩りだし、食い殺させるためだった。ある時は小さな子供たちが、野犬のように撃ち殺された両親の遺体のかたわらで死んでいるのも見た。

そもそもオーストラリア政府はアボリジニを国民とみなしていなかったので、人口動態国勢調査対象からも外し続け、アボリジニを人口統計に入れたのは1973年の憲法改正以降であった。現在、アボリジニの人口はイギリス人の入植前と比較し、10分の1以下に減少した。またタスマニア島にいた3万7千人の原住民は根絶やしにされた(Black War)。これが白豪主義の実態である。

しかし1962年人類学者レヴィ=ストロースにより、無文字社会も高度に知的で豊かな文化を育んでいたことが立証された。

欧米人は何よりも理性を重要視する。古代ギリシャのプラトン哲学が典型的だが、イデアこそ最高のものだと彼らは考える。我々の肉眼で見えるものではなく、「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に至ることが人類の最終目標なのだ。つまりイデア=真理であり、キリスト教がヨーロッパに広まるにつれ、それは神の国(天国)と言い換えられるようになった。

17世紀の数学者デカルトは、心と体は明確に分離したものだと主張した。西洋科学は20世紀半ばまで、この心身分離モデルを疑うことなく用いてきた。彼らは肉体を軽視し、意識 consciousness自我 ego自制心 self controlを重んじた。ここから派生してきたのが徹底的な個人主義 individualismである。

肉体・欲望の軽視はキリスト教の禁欲主義に如実に現れている。聖職者が神に近づくためには性欲は禁忌とされ、信徒が夫婦生活の営みとして性交する場合も、快感を求めてはいけないとされた。19世紀ヴィクトリア朝時代の英国紳士はマスターベーション(自慰)がタブーであり、自慰によってオルガスムが得られることを覚えた女子は医学的に問題のある子と見做され、陰核(クリトリス)を切り取られたり焼灼されたりといった「治療」が施された。そして1976年にカトリック教会は自慰行為を「重大な道徳的退廃」とした。つまり彼らが目指しているのは肉体を否定し、精神世界=理性でのみ生きることなのだ(極端な例が鞭身派・去勢派)。その背景に、アダムがエデンの園に生えた知恵の木から=リンゴをもぎ取って、食べてしまった(欲望に抗えなかった)という原罪がある。

こうしたキリスト教の迷妄に対して、最初に異を唱えたのはドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェだろう(19世紀末)。彼は「神は死んだ」と宣言し、「からだが大事」と説いた。これは精神至上主義から離脱し、身体性・皮膚感覚をもっと大切にしようという姿勢であり、欲望の肯定であった。

ニーチェの思想を継承したのがジークムント・フロイトカール・グスタフ・ユングである(20世紀初頭)。フロイトが提唱したエディプス・コンプレックスの真の目的はキリスト教(禁欲)の否定性欲の肯定にあった。ユングの〈意識 consciousness無意識 unconsciousness自己 self 〉という考え方も、理性だけに目を向けるのではなく、身体性を取り戻すという意図がある。深層心理学の誕生である。そして20世紀中頃に、この身体性・皮膚感覚はレヴィ=ストロースにより「野生の思考」と名付けられた。

従来より八百万の神を信じるアニミズムが浸透し、「野生の思考」を持つ日本人はブリコラージュが得意である。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。クリスマスや聖バレンタイン(←ローマ帝国の迫害で殉教した聖職者)デーを祝い、七五三や正月にはお宮参りをし、葬式は仏式といった宗教的出鱈目さや、中国伝来の漢字と日本特有の平仮名を組み合わせた複雑な言語体系など、ブリコラージュの典型例であろう。

父性原理で何でもかんでも切断・分離し、精製する(純度を高める:その度を越した姿がナチス・ドイツのアーリア人種純血主義)ことを得意とした欧米の手法が行き詰まり、音を立てて瓦解している今こそ、理性と身体(からだ)や、意識と無意識の統合、すべてを包み込む母性原理野生の思考が求められている。そう、僕は確信する。

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関西弦楽四重奏団/ベートーヴェン・チクルス 第3,4回

関西弦楽四重奏団によるベートーヴェン・チクルス。第3,4回@ザ・フェニックスホール。

Ksq

7月2日

  • 弦楽四重奏曲 第5番
  • 弦楽四重奏曲 第11番「セリオーソ」
  • 弦楽四重奏曲 第7番「ラズモフスキー第1番」
10月1日
  • 弦楽四重奏曲 第6番
  • 弦楽四重奏曲 第3番
  • 弦楽四重奏曲 第9番「ラズモフスキー第3番」
この団体は低音域のヴィオラとチェロが雄弁なので、綺麗な音のピラミッドを構築し、安心して聴ける。緊密なアンサンブルを堪能した。

しかし、相変わらず曲ごとに第1/第2ヴァイオリン奏者が交代するのは如何なものか?「仲良しクラブ」じゃないんだから。プロとしてしっかり決断すべき。こういうのが合議性(民主主義)の悪いところ。芸術には時として専制君主(強力なリーダー)が必要な場合がある。例えばアルバン・ベルク弦楽四重奏団のギュンター・ピヒラーとか、テツラフ・カルテットのクリスティアン・テツラフのように。

ちゃんと最終回まで聴きに行きます。

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クワイエット・プレイス

評価:B+

Quiet

映画公式サイトはこちら

「音を立てたら、即死。」というキャッチコピーが秀逸。良く出来たB級ホラーである。

襲ってくるモンスターは聴覚が異様に発達しているが、目は全く見えない。このゲームのルールは、盲目の退役軍人の家に窃盗目的で忍び込んだ若者たちの恐怖体験を描く映画「ドント・ブリーズ(息をしないで!)」の構造を踏襲している。

Dont
↑ポスターも似てるでしょ?

あと車に閉じこもった姉と幼い弟をモンスターが襲い、屋外にいる大人が彼らをなんとか助けようと奔走するという展開はまんま「ジュラシック・パーク」である。

映画の9割以上はサイレント(無声)であり、また「大草原の小さな家」みたいなアメリカ開拓史ものを彷彿とさせる。つまり襲ってくるモンスターは、狼や熊、アメリカ原住民(虐げた彼らからいつか復讐されるんじゃないかという、植民者が抱く恐怖)のメタファーとも解釈出来るだろう。

TBSラジオ「アフター6ジャンクション」の映画時評コーナーで、パーソナリティーのRHYMESTER 宇多丸が「あの一軒家に灯る電気はどこから来ているんだ?」とツッコミを入れていたが、自家発電なんじゃないかな。アメリカにはそういう家庭が多いと聞く。「大草原の小さな家」をベースにした倉本聰「北の国から」でも、黒板五郎(田中邦衛)が自作した風力発電機を動かす場面があるしね。

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ブロードウェイ・ミュージカル「シティ・オブ・エンジェルズ」

9月27日(木)新歌舞伎座@大阪市へ。

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ミュージカル「シティ・オブ・エンジェルズ」は1989年12月から1992年1月までブロードウェイで上演され、トニー賞で最優秀作品賞・台本賞・楽曲賞・美術賞・主演男優賞・助演女優賞の6部門を受賞した。また94年のロンドン公演ではローレンス・オリヴィエ賞で最優秀ミュージカル作品賞を受賞している。

City2

日本初演は92年。主な出演者は中村雅俊、桑名正博、麻実れい、久野綾希子、尾藤イサオらだったそう。

久々の再演となる今回の演出・上演台本を担当したのは福田雄一。出演:山田孝之、柿澤勇人、渡辺麻友、瀬奈じゅん、木南晴夏、 山田優 ほか。

作曲はミュージカル「スウィート・チャリティ」のサイ・コールマン。スウィンギーでジャジー。都会的で、いかしてる。

福田のコメディ演出は軽やかで巧み。結構アドリブを許容しているが、芯はブレない。木南晴夏という女優は全く知らなかったが、つい先日玉木宏と結婚したんだね。「彼女はカンタービレ方面の指揮者が好きだから」という台詞が飛び出して、客席から「おめでとう!」の掛け声が。あと、まゆゆの下着姿にドキッとした。

柿澤勇人は安定の上手さで、心配した山田孝之や山田優の歌唱も全く問題なし。や〜、華やかで愉しかった!

映画のシナリオライターが生きる現実世界と、彼が書く探偵物のフィクションが交差する、入れ子構造の台本が何と言っても素晴らしい。再々演を切望する。

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柳家喬太郎「なにわ独演会」

9月22日(土)大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)7階ホールへ。

Doom

  • 柳家喬太郎:家見舞
  • 柳家喬太郎:そば清
  • 一龍斎貞寿(講談):八百蔵吉五郎
  • 柳家喬太郎:結石移動症(喬太郎 作)

冒頭、前座の体(てい)で登場した喬太郎は「おあとをお楽しみに、しばらくお付き合いください」と笑わせて根多へ。開口一番がシモネタで、トリは現代のソープランドが登場する新作だったので心底驚いた!攻めてる〜ぅ。これ、観客に子供がいたら演れないね。

「家見舞」は引越祝いに水瓶を担いで訪れた二人組に対して家主の兄貴分が「今度フナを持ってきてくれ、フナは澱を食うらしい」と言うのに対して、「フナには及ばんよ。何しろその瓶にはついこないだまでコイ(肥)が泳いでいたのだからな」と答えるのがサゲなのだが、耳で聴いただけでは〈鯉→肥溜め〉という連想が出来なかった。この地口落ち(ダジャレ)は現代人に通用しないんじゃないだろうか?

ドーンセンターでの口演は初めてで、「参画(さんかく)センターと聞いていたので、江戸川乱歩『三角館の恐怖』みたいにホールが三角形なのかと想像していたら、違いました」と喬太郎。流石上手いこと言う。

「そば清」のマクラは青森県に招かれた時、ホッケの刺身が出たそう。「鮮度がよくないとなかなか食べられないんですよ」と言われ、「食べてみましたが……焼いたほうが美味しい」に場内爆笑。また秋田市のフードコート(@フォンテAKITA)に「おしゃれそば」なるものがあると紹介。チャーシューと支那竹が入っているという。さらに二つ目の頃、「乾電池くんと輪投げをしよう!」というイベントの司会で初めて大阪に営業に来たエピソードも飛び出して、「マクラが迷走してます」と自戒の念。

東京の講談師は現在、男性よりも女性の数が上回っているという。しかしトーンが高い女性の声による講談はどうも違和感がある。

「結石移動症」はかなり冒険的な根多だが、考えてみれば古典落語には「明烏」「三枚起請」「 紺屋高尾」「居残り佐平次」「品川心中」など遊郭を舞台にした廓噺沢山あるわけだから、確かにこういうのもあっていいなと思った。

それにしても医学的に出鱈目な病名で、いかにも落語的。面白かった!

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【考察】マーラー:千人の交響曲の正体は一体、何なのか?@びわ湖ホール開館20周年記念

9月30日(日)、びわ湖ホールは開館20周年記念公演としてマーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」の演奏会を開催する予定だった。

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ところが!台風24号がその日に関西を直撃することが判明し、開催が危ぶまれた。そこで9月28日になって、次のような告知がホームベージや公式twitterであった。

Img_1848

というわけで僕は、急遽29日(土)に行われることになった緊急特別公演を聴きに行った。

結局、30日の公演は中止になった(JRから30日昼頃より関西全域で運転を見合わせると発表があった)。

Img_1847

何しろマエストロの提案で緊急公演開催が決まったのが前日である。どれくらい人が集まるのだろう?と危惧したが、会場は4割くらいの入りとなった。これもインターネット・SNS時代ならでは。20年前だったら実現不可能だったろう。

さて、僕がこのシンフォニーを生で聴くのはこれが2回目。前回は1988年9月26日、旧フェスティバルホール。ジョゼッペ・シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団、合唱はコードリベット・コール 大阪すみよし少年少女合唱団 ほかの演奏だった。当時僕は大学生で、岡山からわざわざ新幹線に乗り大阪まで聴きに来た。旧フェスの音響の悪さに閉口した記憶がある(音が割れていた)。

兎に角、規模が大き過ぎて滅多に演奏されない楽曲だ。実際にマーラーが指揮した初演時はソリスト8名+オルガニスト1名+オーケストラ170名+児童合唱を含めた合唱850名で合計1,030名に及んだという。はっきり言って採算が取れない。これだけの出演者を集めて1回きりの公演だと大赤字だろう。

大阪フィルハーモニー交響楽団が小林研一郎指揮でこれを最後に演奏したのが1999年7月25日@旧フェス。19年前である。

30年ぶりにライヴを体験したわけだが、理解度/感銘の深さが全然違った。やはりゲーテの小説「ファウスト」をその間に読んだことが大きい。千人の交響曲 第2部では「ファウスト」最終場が歌われる。小説を読んでいなければ、マーラーが言わんとしたことは絶対に判らない。保証する。ヨーロッパの聴衆にとっては、知っていて当たり前の教養なのだ。最後は神秘の合唱が〈永遠に女性的なるものが、私たちを高みへと引き上げるのだ。〉と高らかに歌いクライマックスを築くのだが、グレートヒェンによるファウストの魂の救済を示している。シューベルトの歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」と同一人物ね。これはワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」で、【乙女ゼンタの自己犠牲→オランダ人(幽霊船船長)の救済】という形で変換されているが、構造は全く同じ。なお、1897年に念願のウィーン宮廷歌劇場指揮者に就任したマーラーは同年「さまよえるオランダ人」を新演出で上演している。

実は「ファウスト」には元ネタがあり、それはダンテ「神曲」である。地獄と天国の中間地点=煉獄篇で山に登ったダンテは山頂で永遠の淑女ベアトリーチェに出会い、彼女に導かれて天国へと昇天する。つまりファウスト≒ダンテ、グレートヒェン≒ベアトリーチェという関係式が成立し、メフィストフェレスに相当するのがダンテの水先案内人、詩人ウェルギリウスである。

ダンテ「神曲」宮崎駿のアニメーション映画「風立ちぬ」にも多大な影響を与えた。ラストシーンで主人公の堀越二郎(≒ダンテ)とカプローニ(≒詩人ウェルギリウス)が立っているのは煉獄である。そこに天国から菜穂子(≒ベアトリーチェ)が迎えに来る。ここで彼女の台詞は「来て」だったのだが、最終的に「生きて」に変更された。鈴木プロデューサーは語る。

鈴木「宮さんの考えた『風立ちぬ』の最後って違っていたんですよ。三人とも死んでいるんです。それで最後に『生きて』っていうでしょう。あれ、最初は『来て』だったんです。これ、悩んだんですよ。つまりカプローニと二郎は死んでいて煉獄にいるんですよ。そうすると、その『来て』で行こうとする。そのときにカプローニが、『おいしいワインがあるんだ。それを飲んでから行け』って。そういうラストだったんですよ。それを今のかたちに変えるんですね。さて、どっちがよかったんですかね」

鈴木「やっぱり僕は、宮さんがね、『来て』っていってた菜穂子の言葉に『い』をつけたっていうのはね、びっくりした。うん。だって、あの初夜の晩に『きて』っていうでしょう。そう、おんなじことをやったわけでしょ、当初のやつは。ところが『い』をつけることによって、あそことつながらなくなる」
     出典:鈴木敏夫(著)「風に吹かれて」中央公論新社

マーラーはダンテ「神曲」にも惹かれていたと推察される。未完に終わった彼の交響曲 第10番 第3楽章の楽譜には「プルガトリオ(煉獄)またはインフェルノ(地獄)」と書かれ、後半「またはインフェルノ」の部分に消された跡があるのだ

ではマーラーにとって永遠に女性的なるもの(≒グレートヒェン≒ベアトリーチェ)とは一体誰か?言うまでもないだろう。ミューズにしてファム・ファタール(運命の女)、妻アルマである。この場合、アルマが夫に対して愛情を持っていたかどうかは不問に付す。ユング心理学的に分析すれば無意識に存在する元型( archetype)アニマ(男性が持つ、内なる女性性)を外界に投影したものということになる。正に誇大妄想による産物だ。アルマの姿は例えば交響曲第5番 第4楽章アダージェット、交響曲第6番 第1楽章ー第2主題(アルマのテーマ)、同 中間楽章アンダンテ・モデラートなどに繰り返し登場する。

あと第2部冒頭は聖なる隠者たちが潜む、山あいの谷が描写されるのだが、これを聴きながら僕はニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」の情景を想い出した。どちらにもライオンが登場するしね。考えてみれば、マーラーの交響曲第3番 第4楽章のアルト独唱は「ツァラトゥストラの輪唱」から採られた歌詞を歌うではないか!見事に繋がっている。

さて今回は沼尻竜典/京都市交響楽団(118名)、びわ湖ホール声楽アンサンブル(14名)、「千人の交響曲」合唱団(219名)、大津児童合唱団(44名)、そしてソリスト8名で計403名による演奏だった(指揮者を除く)。

沼尻の指揮は、びわ湖ホールにおけるワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」4部作でも感じることなのだが、とても室内楽的な響きがする。透明度が高く、細部に至るまで見通しがきいている。主観的に音楽にのめり込み、こってり濃厚なレナード・バーンスタインのアプローチとは対極をなすが、これはこれで聴き応えが在り、大満足だった。

ソリストの中ではソプラノII(悔悟する女):砂川涼子、ソプラノIII(栄光の聖母):幸田浩子、テノール(マリアを崇める博士):清水徹太郎が素晴らしかった。

さて、次回このシンフォニーを聴けるのは何年後だろう!?

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珠城りょう・愛希れいか主演:宝塚月組「エリザベート」とオールタイム・ベスト(ワースト)・キャスト選考!

9月24日(月)宝塚大劇場へ。ウィーン・ミュージカル「エリザベート」を観劇。

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トート:珠城りょう、エリザベート:愛希れいか

そして当初予定されていた配役は以下の通り(ルドルフは役替り)。

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ところが、9月22日から2番手でフランツ・ヨーゼフ役の美弥るりかが体調不良で休演。暗殺者ルキーニ役だった月城かなとが繰り上がり、新人公演でルキーニを好演した風間柚乃が同役を演じた。

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僕が初めて宝塚大劇場を訪れて観たのが1998年の宙組「エリザベート」(姿月あさと・花總まり)だった(当時は岡山市在住)。それ以降のエリザは全組生で観ている。96年雪組と星組はDVDで鑑賞。また初演キャストはスペシャル・ガラ・コンサートで拝見した。

そして僕は現在、宝塚に住んでいる。

では今回の感想を、オール・タイム・ベスト(ワースト)を交えながら書いていこう。

【エリザベート】:娘役がタイトルロールを演じるのは男役中心の宝塚では異例。だからこれを花道に退団する生徒が多い。白城あやか大鳥れい蘭乃はな、そして愛希れいかである。愛希は美貌が冴え渡り、歌も上手かった。強い意志が感じられ、一本筋が通ったものがあった。オール・タイム・ベストは花總まり(雪'96・宙'98)が不動だが、愛希は次点に推したい。ワーストは瀬奈じゅん(月'05)。歌は下手くそだし、ドレスの裾さばきや所作がなってない。

【トート】:正直、珠城りょうは「おばさん顔」で好きじゃない。男役としての凛々しさが欠けている。雰囲気的に麻路さきに近いかな?しかしトートは意外といけた。優しい包容力があった。オール・タイム・ベストはダントツで明日海りお(花'14)、ワーストは見た目しか取り柄のない彩輝直(月'05)。

【フランツ・ヨーゼフ】:月城かなとは歴代で最も美形の皇帝であった。彫りの深い顔はまるでギリシャ彫刻のよう。素晴らしい!ただ急遽の代役なので、

フランツ「プレゼント あげよう。愛の証なんだ」
シシィ「勿体ない」
フランツ「着けてご覧」
シシィ「とても重い」

の場面で、なかなかポケットからネックレスが出てこず「間に合うのか!?」とハラハラした。案の定、ネックレスを首に巻く前に愛希が「とても重い」と言う羽目に。まぁ、こういうハプニングも生の舞台だからこそ。大いに愉しんだ。

オール・タイム・ベストは、歌唱と演技に関する限り北翔海莉(花'14)が抜きん出ている。これぞ芸。That's TAKARAZUKA !ヴィジュアルを加味すると稔幸(星'96)も忘れ難い。

【ルキーニ】:風間柚乃は研5(入団5年目)ながら大健闘。特に瑕疵は見当たらない。オール・タイム・ベストは天下無双の轟悠(雪'96)。圧巻。次点は霧矢大夢(月'05)。

【ルドルフ(大人)】暁千星は精彩を欠く。オール・タイム・ベストは朝海ひかる(宙'98)。

【ルドルフ(子供)】のオール・タイム・ベストは月影瞳星'96)で、彼女以外の印象は薄い。パレード(フィナーレ)のエトワールも月影の歌声が一番美しかった。

【ゾフィー】今回の憧花ゆりのは歴代ワーストかも。品格が欠けている。オール・タイム・ベストは出雲綾星'96・宙'98)。意地悪さが最高。

【エルマー】和央ようか(雪'96)がやっぱり一番かな。彼女に当て書きされた役というのが大きい。

【ヴィンディッシュ嬢】これはもう陵あきの(星'96・宙'98)の独擅場。彼女以上にこの役の狂気を余すところなく演じきった役者はいない。その衝撃が大きすぎて他の誰も物足りない。

総合的に今回の公演は気に入ったので、発売されたらBlu-rayを購入したいと考えている。

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