【考察】マーラー:千人の交響曲の正体は一体、何なのか?@びわ湖ホール開館20周年記念
9月30日(日)、びわ湖ホールは開館20周年記念公演としてマーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」の演奏会を開催する予定だった。
ところが!台風24号がその日に関西を直撃することが判明し、開催が危ぶまれた。そこで9月28日になって、次のような告知がホームベージや公式twitterであった。
というわけで僕は、急遽29日(土)に行われることになった緊急特別公演を聴きに行った。
結局、30日の公演は中止になった(JRから30日昼頃より関西全域で運転を見合わせると発表があった)。
何しろマエストロの提案で緊急公演開催が決まったのが前日である。どれくらい人が集まるのだろう?と危惧したが、会場は4割くらいの入りとなった。これもインターネット・SNS時代ならでは。20年前だったら実現不可能だったろう。
さて、僕がこのシンフォニーを生で聴くのはこれが2回目。前回は1988年9月26日、旧フェスティバルホール。ジョゼッペ・シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団、合唱はコードリベット・コール 大阪すみよし少年少女合唱団 ほかの演奏だった。当時僕は大学生で、岡山からわざわざ新幹線に乗り大阪まで聴きに来た。旧フェスの音響の悪さに閉口した記憶がある(音が割れていた)。
兎に角、規模が大き過ぎて滅多に演奏されない楽曲だ。実際にマーラーが指揮した初演時はソリスト8名+オルガニスト1名+オーケストラ170名+児童合唱を含めた合唱850名で合計1,030名に及んだという。はっきり言って採算が取れない。これだけの出演者を集めて1回きりの公演だと大赤字だろう。
大阪フィルハーモニー交響楽団が小林研一郎指揮でこれを最後に演奏したのが1999年7月25日@旧フェス。19年前である。
30年ぶりにライヴを体験したわけだが、理解度/感銘の深さが全然違った。やはりゲーテの小説「ファウスト」をその間に読んだことが大きい。千人の交響曲 第2部では「ファウスト」最終場が歌われる。小説を読んでいなければ、マーラーが言わんとしたことは絶対に判らない。保証する。ヨーロッパの聴衆にとっては、知っていて当たり前の教養なのだ。最後は神秘の合唱が〈永遠に女性的なるものが、私たちを高みへと引き上げるのだ。〉と高らかに歌いクライマックスを築くのだが、グレートヒェンによるファウストの魂の救済を示している。シューベルトの歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」と同一人物ね。これはワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」で、【乙女ゼンタの自己犠牲→オランダ人(幽霊船船長)の救済】という形で変換されているが、構造は全く同じ。なお、1897年に念願のウィーン宮廷歌劇場指揮者に就任したマーラーは同年「さまよえるオランダ人」を新演出で上演している。
実は「ファウスト」には元ネタがあり、それはダンテ「神曲」である。地獄と天国の中間地点=煉獄篇で山に登ったダンテは山頂で永遠の淑女ベアトリーチェに出会い、彼女に導かれて天国へと昇天する。つまりファウスト≒ダンテ、グレートヒェン≒ベアトリーチェという関係式が成立し、メフィストフェレスに相当するのがダンテの水先案内人、詩人ウェルギリウスである。
ダンテ「神曲」は宮崎駿のアニメーション映画「風立ちぬ」にも多大な影響を与えた。ラストシーンで主人公の堀越二郎(≒ダンテ)とカプローニ(≒詩人ウェルギリウス)が立っているのは煉獄である。そこに天国から菜穂子(≒ベアトリーチェ)が迎えに来る。ここで彼女の台詞は「来て」だったのだが、最終的に「生きて」に変更された。鈴木プロデューサーは語る。
鈴木「宮さんの考えた『風立ちぬ』の最後って違っていたんですよ。三人とも死んでいるんです。それで最後に『生きて』っていうでしょう。あれ、最初は『来て』だったんです。これ、悩んだんですよ。つまりカプローニと二郎は死んでいて煉獄にいるんですよ。そうすると、その『来て』で行こうとする。そのときにカプローニが、『おいしいワインがあるんだ。それを飲んでから行け』って。そういうラストだったんですよ。それを今のかたちに変えるんですね。さて、どっちがよかったんですかね」
鈴木「やっぱり僕は、宮さんがね、『来て』っていってた菜穂子の言葉に『い』をつけたっていうのはね、びっくりした。うん。だって、あの初夜の晩に『きて』っていうでしょう。そう、おんなじことをやったわけでしょ、当初のやつは。ところが『い』をつけることによって、あそことつながらなくなる」
出典:鈴木敏夫(著)「風に吹かれて」中央公論新社
マーラーはダンテ「神曲」にも惹かれていたと推察される。未完に終わった彼の交響曲 第10番 第3楽章の楽譜には「プルガトリオ(煉獄)またはインフェルノ(地獄)」と書かれ、後半「またはインフェルノ」の部分に消された跡があるのだ。
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ではマーラーにとって永遠に女性的なるもの(≒グレートヒェン≒ベアトリーチェ)とは一体誰か?言うまでもないだろう。ミューズにしてファム・ファタール(運命の女)、妻アルマである。この場合、アルマが夫に対して愛情を持っていたかどうかは不問に付す。ユング心理学的に分析すれば無意識に存在する元型( archetype)=アニマ(男性が持つ、内なる女性性)を外界に投影したものということになる。正に誇大妄想による産物だ。アルマの姿は例えば交響曲第5番 第4楽章アダージェット、交響曲第6番 第1楽章ー第2主題(アルマのテーマ)、同 中間楽章アンダンテ・モデラートなどに繰り返し登場する。
あと第2部冒頭は聖なる隠者たちが潜む、山あいの谷が描写されるのだが、これを聴きながら僕はニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」の情景を想い出した。どちらにもライオンが登場するしね。考えてみれば、マーラーの交響曲第3番 第4楽章のアルト独唱は「ツァラトゥストラの輪唱」から採られた歌詞を歌うではないか!見事に繋がっている。
さて今回は沼尻竜典/京都市交響楽団(118名)、びわ湖ホール声楽アンサンブル(14名)、「千人の交響曲」合唱団(219名)、大津児童合唱団(44名)、そしてソリスト8名で計403名による演奏だった(指揮者を除く)。
沼尻の指揮は、びわ湖ホールにおけるワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」4部作でも感じることなのだが、とても室内楽的な響きがする。透明度が高く、細部に至るまで見通しがきいている。主観的に音楽にのめり込み、こってり濃厚なレナード・バーンスタインのアプローチとは対極をなすが、これはこれで聴き応えが在り、大満足だった。
ソリストの中ではソプラノII(悔悟する女):砂川涼子、ソプラノIII(栄光の聖母):幸田浩子、テノール(マリアを崇める博士):清水徹太郎が素晴らしかった。
さて、次回このシンフォニーを聴けるのは何年後だろう!?
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