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2018年6月

シリーズ【大指揮者列伝】クリストフ・フォン・ドホナーニを知っていますか?

クリストフ・フォン・ドホナーニは1929年ドイツで生まれた。祖父はハンガリーの著名な作曲家エルンスト・フォン・ドホナーニ。父ハンス・フォン・ドホナーニは1902年ウィーンに生まれ、ドイツで法律家となり、反ナチスのレジスタンス活動に身を投じた。ヒトラー暗殺計画に加担したためキリスト教神学者だった叔父ともども1945年4月8日に強制収容所で処刑された。享年43歳。ドイツが無条件降伏したのは6月5日、たった2ヶ月後のことである。2003年イスラエルは彼の功績を讃え、ヤド・ヴァシェム(ホロコースト)記念館の壁にドホナーニの名を刻んだ。

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(↑ハンス・フォン・ドホナーニ生誕100年を記念したドイツの切手)

父がナチスに殺された時、クリストフは15歳だった。彼の解釈に何か音楽を突き放して見つめているような冷めた視線を感じるのは、恐らくその根底に人間不信があるからではないかと僕は考えている。感情移入した(emotional)とか、情熱的(passionate)といった言葉とは対極にある芸術諦念虚無感が支配する世界と言い換えても良いだろう。なおクリストフの兄クラウスは政治の道に進み、ハンブルク市長を務めた。超エリート一家である。

辰巳渚
辰巳渚

クリストフ・フォン・ドホナーニはウィーン・フィルと英デッカにメンデルスゾーン:交響曲全集、ベルクのオペラ「ヴォツェック」「ルル」など夥しい録音を行ったが、恐らく1995年のブラームス/シェーンベルク編:ピアノ四重奏曲第1番 他のCDが最後だろう。その後両者の関係はプツリと途絶えてしまう。1984-2002年にクリーヴランド管弦楽団の音楽監督、97-08年にフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者を務めた。2004年から北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者となったが、だんだん携わるオケの質が低下していると感じるのは僕だけだろうか?

悲惨だったのがデッカにクリーヴランド管弦楽団と全曲レコーディングしようとしたワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」4部作だ。序夜「ラインの黄金」は93年12月に、第一夜「ワルキューレ」は92年11月に録られた。デッカとしてもショルティ/ウィーン・フィル(1958-65)以来、久々(2度目)のスタジオ録音になる筈だった。しかし計画は途中で頓挫、第二夜「ジークフリート」以降は実現しなかった。なんと中途半端な!前代未聞の醜聞(スキャンダル)!!

結局デッカとの契約はあと5年残されていたのに、首を切られてしまった。人気がなくCDが全く売れなかったとはいえ、酷い話だ。新譜が出ないから日本でも忘れ去られ、近年では「え、未だ生きてたの?」「引退したんじゃない?」とSNSで囁かれる始末。88歳、バリバリの現役です。ヘルベルト・ブロムシュテットより2歳若い。2018年もパリ管の指揮台に立っている。

どっこい生きている。

ドホナーニの特徴はまず明晰であること。セッション録音の技術も相まってだろうが解像度が高く、オーケストレーションの細部まで隈無く聴こえる。見通しが良く非常に精緻だ。そしてバーンスタインとか大植英次みたいな「オレ流」、つまり主観的表現ではなくあくまで客観的。音楽そのものに語らせる。ドホナーニは作品(楽譜)になにも足さないし、なにも引かない。タメとか外連味とかとは無縁で、大見得を切ったりはしない。でも、神は細部に宿る。だからといって冷え切った(cold)とか、よそよそしいということもない。せいぜい人肌程度の温もりはある。レニーみたいに熱くならないだけだ。日本酒で喩えるなら凍結酒ではなく、「ぬる燗」。

彼の指揮するブラームス:交響曲第1番 第1楽章は「ダ・ダ・ダ・ダン」という「運命」の動機(モティーフ)が、他の指揮者の誰よりも鮮明に聴こえてくる。だからこそこのシンフォニーが「ベートーヴェンの第10交響曲」と呼ばれる理由が了解出来るのだ。因みに調性はハ短調であり、ベートーヴェンの第5番と同一。アーノンクールは「死を意味する調性」だと語っている。

クリーヴランド管とはブルックナーのシンフォニーを3−9番まで録音した。贅肉を削ぎ落としたスリムな響きで、淀むことなく素っ気ないくらいサクサク進む。鈍重でソース焼きそばのようにこってりした朝比奈隆の信者(ブルヲタ←ほぼ全員男性)が多い日本で、決して粘らず、あっさり爽やか透明な彼のブルックナーは「物足りない」「神々しさがない(←そもそもドホナーニはキリスト教の神を信じていない)」「こんなのブルックナーじゃない!」と非難轟々、散々こき下ろされた(ドホナーニは塩焼きそば。或いは朝比奈=豚骨ラーメンに対する、ざるそばと評しても良いかも知れない)。しかしフルトヴェングラー、カラヤン、ベーム、ヴァントなど重厚な大巨匠の時代が終わり、「颯爽とした」「軽い」ピリオド・アプローチ(アーノンクール、ガーディナー、ノリントン、ラトル、ミンコフスキ、パーヴォ・ヤルヴィ、ロト、クルレンツィスら)の洗礼を受けた21世紀のいま見直すと、新鮮な驚きや発見がある。そろそろドホナーニも再評価されて良いのではないだろうか?

それにしてもドホナーニ時代クリーヴランド管の鉄壁のアンサンブルは驚異的だ。ジョージ・セルの死後、ロリン・マゼール統治下の低迷期を抜けて、第2の黄金期を築いたと言っても過言ではなかろう。

最後に推薦ディスクをご紹介しよう。本来ならドホナーニを語る上でオペラは外せない。ベルク「ヴォツェック」「ルル」そしてR.シュトラウス「サロメ」「エレクトラ」といったところが代表的演目だろう。しかしオペラを聴覚のみで鑑賞することは決してお勧めしない。歌詞対訳なしでは十分な理解を得られないし、その条件を満たす(日本語で書かれたテキストが付随する)国内盤CDを入手することは現在、ほぼ不可能だ。というわけで、彼が振るオペラをお愉しみになりたければDVDでご鑑賞ください。

更にクリーヴランド管とレコーディングしたブルックナー交響曲集や、ベートーヴェン&ブラームス交響曲全集のCDは現在極めて入手困難な状況である。そもそも今やCDを買う時代ですらない握手券としてのCDの価値は唯一の例外とする)。それは既に骨董品収集家(マニア)=化石人類の領域だ。世界の趨勢はダウンロードや配信サーヴィスであり、未だにCDが売れているのは日本だけ。(アイドル・ヲタ以外の)日本の高校生の殆どがCDを一度も買ったことがないというのが実情である。故に推薦アルバムはiTunesでダウンロード出来たり、Amazon MusicやNaxos Music Library (NML)で聴けるものに絞った。

  • メンデルスゾーン:交響曲全集 ウィーン・フィル
    (強いて一曲に絞るなら「スコットランド」)
  • ドヴォルザーク:交響曲 第7−9番 クリーヴランド管
    (強いて一曲に絞るなら「新世界より」)
  • ベルリオーズ:幻想交響曲 クリーヴランド管
  • バルトーク/ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲 クリーヴランド管
  • ショスタコーヴィチ:交響曲 第10番 クリーヴランド管
  • マーラー:交響曲 第6番 クリーヴランド管

ショスタコーヴィチはヒリヒリするくらい非情で無機質。スターリン政治の恐怖が浮き彫りにされる。ベルリオーズにファンタジーは皆無で、あちらこちらから研ぎ澄まされた狂気が迸る。また眼前に寂寞として荒涼たる景色が果てしなく広がるマーラーを聴きながら心に浮かぶのは、ダンテ「神曲」地獄篇に登場する《この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ》という銘文である。余談だが、未完に終わったマーラーの交響曲第10番 第3楽章は楽譜に「プルガトリオ(煉獄)」と書かれている。マーラーがダンテを読んでいたことは間違いない。

さて、次回のシリーズ【大指揮者列伝】はイギリスの指揮者ジョン・バルビローリ(Sir John)を取り上げる予定。「バルビ節」とは何か?を紐解いていこう。7月中には記事をupしたい。何しろ夏といえばディーリアスの季節だから。

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柳家喬太郎独演会@兵庫芸文(2日連続)

6月23日(土)、24日(日)、兵庫県立芸術文化センター中ホールへ。

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1日目

  • 春風亭正太郎:五目講釈
  • 柳家喬太郎:ほんとのこというと(喬太郎 作)
  • 江戸家小猫:動物ものまね
  • 柳家喬太郎:ぺたりこん(三遊亭圓丈 作)

2日目

  • 春風亭正太郎:四段目(上方では「蔵丁稚」)
  • 柳家喬太郎:錦の袈裟
  • 江戸家小猫:動物ものまね
  • 柳家喬太郎:名人長二 〜仏壇叩き〜
          (三遊亭圓朝 作)

喬太郎はこまつ座で上演された井上ひさし作「たいこどんどん」(演出:ラサール石井)に出演したエピソードを披露。ふんどし姿になる場面があり、バレエの衣装を売っている店に行ってTバックを購入した。もの凄く恥ずかしかったと。そもそもの切掛は映画やドラマでも活躍する春風亭昇太が電話を掛けてきて、ラサール石井からの出演依頼を伝え、「出なよ」と説得されたそう。

また福家書店で書店員として働いていた頃の想い出も。

神戸・新開地に出来る寄席小屋「喜楽館」については、「いかがわしい場所にあるのは正しい!」と。そして東京の新宿末広亭や鈴本演芸場などが、いかに「いかがわしい場所」にあるかを面白可笑しく解説してくれた。

「ぺたりこん」はカフカ「変身」のような不条理噺である。そこに浮かび上がるのは人の悪意や醜さであり、実に面白い作品だ。

圓朝の傑作では喬太郎の描く人物像に凄みがあった。ちょっと怖いくらい。

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《増補改訂版》「コードギアス 反逆のルルーシュ」の魅力とその構造を徹底分析する。

TBSラジオで65年間続いた野球中継(午後6時からのナイター)が2018年3月末で終了し、代わって4月から月〜金曜日にヒップホップ・グループRHYMESTER(ライムスター)宇多丸(49)がパーソナリティを務めるカルチャー・キュレーション番組「アフター6ジャンクション」 #utamaru #アトロク が開始された。そして1ヶ月経ち、蓋を開けてみるとTBSラジオは聴取率1位を独走する結果となった。これがめっちゃ面白いので、僕も毎日通勤時にラジオクラウドで愛聴している。

5月22日(火)に【宇垣美里アナ&藤津亮太が語る「今からでも間に合うコードギアス一夜漬け入門」】という特集が組まれた。神戸市出身で同志社大学在学中にミスキャンパス同志社のグランプリを獲得、つい先日は「週刊プレイボーイ」のグラビアを飾ったTBSの宇垣アナ(27)が、助っ人・藤津亮太(アニメーション評論家)の力を借りて「コードギアス」を一度も見たことのないライムスター宇多丸に対してその魅力をとことん語り、「全力で」推しまくるという企画であった。宇垣アナは「ルルーシュと結婚したい!」と公言するくらいの熱狂的ファンである(その一方でルルーシュの親友・枢木スザクのことを「ウザク」と呼ぶ)。

僕はCLAMPによる耽美な、そして癖のあるキャラクターデザイン(絵柄)が苦手で今まで敬遠していたのだが、ラジオを聴きその内容にすこぶる興味を惹かれた。調べてみたところNetflixで配信されているのを発見、放送終了後19日間で全50話を一気に見通した。最終回が終了した直後からRe; turnし、2回目の鑑賞に突入。

「コードギアス」シリーズは2006年10月より第1期、2008年4月より第2期がテレビ放送された。現在はその総集編である劇場版3部作が公開中。

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本作最大の魅力は物語の反転にある。敵と味方が目まぐるしく入れ替わる。息もつかせぬ展開とは正にこのこと。そして戦争に《正義の側》と《悪の側》という絶対的な価値は存在せず、あくまで相対的なものだと教えてくれる。宇垣アナも激賞していたが、とにかく大河内一楼の脚本が圧倒的に素晴らしい!

藤津亮太は《全部のせ》と評したが、確かにその通りだった。

ユーフェミア(神聖ブリタニア帝国・第三皇女)は上空から落ちてきて枢木スザクに抱きとめられる。これは宮崎駿「天空の城ラピュタ」冒頭の引用であり、スザクが猫に指を噛まれるのは「風の谷のナウシカ」(ナウシカ↔キツネリス”テト”)。そして日本が神聖ブリタニア帝国に占領され、名前を奪われて「エリア11」と呼ばれる設定には「千と千尋の神隠し」が木霊する。ルルーシュがスザクにかけるギアス「生きろ。」は勿論、「もののけ姫」だ。中華連邦における花嫁略奪は「ルパン三世 カリオストロの城」。天子(てんし)≒クラリスであり、彼女がまだ幼いときに黎 星刻(リー・シンクー)≒ルパンの命を救ったという設定も同じ。

またルルーシュがギアスの力を用いてある登場人物の記憶を消去するのだが、これは筒井康隆のSF小説(ジュブナイル)「時をかける少女」にそっくり。他にも、ピカレスクロマン、軍師もの(頭脳戦)、くノ一(女忍者)、メイドアニメ、学園ラブコメ、ボーイズ・ラブ、「機動戦士ガンダム」をはじめとするロボットアニメ等の要素がてんこ盛り

本作はシェイクスピア「ハムレット」の構造を踏襲している(第1話、サイドカーでルルーシュは「ハムレット」を読んでいる)。ハムレットは殺された父の仇を取るために王に即位した叔父と、その妻になった母を暗殺しようと計略をめぐらせる。一方、ルルーシュは暗殺された母を守らなかった父、ブリタニア皇帝シャルルを討つために着々と準備を整える(父↔母が変換されている)。ハムレットは気が触れたふりをする。(Hamlet pretends to be mad.)「コードギアス」第2期で監視されているルルーシュも記憶を取り戻していないという見せかけの演技をする。

さらに「父殺し」というギリシャ神話「オイディプス王」のテーマが重ねられる(フロイトはこれに基づきエディプス・コンプレックスという概念を提示した)。フランスの人類学者レヴィ=ストロースは彼の著書「構造人類学」の中で「オイディプス王」の構造を分析している。この神話には《オイディプスは父を殺す》《オイディプスの息子エテオクレスはその兄弟ポリュネイケスを殺す》という【親族関係の過小評価/価値を切り下げられた親族関係】と、《オイディプスは母と結婚する》《オイディプスの娘アンティゴネは、反逆者として死んだ兄ポリュネイケスを、禁を破って埋葬する》という【親族関係の過大評価】の二項対立があると述べている。では「コードギアス」はどうか?《父殺し》だけではなく《ルルーシュは兄である第3皇子クロヴィスを暗殺する》という【親族関係の過小評価】があり、一方で《ルルーシュは妹ナナリーを溺愛する(彼が反逆する目的は全てナナリーの安全を守り、彼女を幸せにするためだけにある)》《第2皇女コーネリアは妹(第3皇女)ユーフェミアを溺愛する》という【親族関係の過大評価】が対立する。

またルルーシュとスザクは幼馴染の親友→敵対関係に移行し、以後も揺れ動く。これは永井豪の漫画「デビルマン」に於ける不動明(=デビルマン)と飛鳥了の関係を彷彿とさせる。「デビルマン」におけるデーモン≒ギアスと考えてほぼ間違いないだろう。2018年にNetflixから配信が開始された湯浅政明監督によるアニメ「DEVILMAN crybaby」(全10話 傑作!)の脚本を「コードギアス」の大河内一楼が執筆しているのは決して偶然ではない。さらに「デビルマン」の源流を辿ると、ダンテの「神曲」とミルトンの「失楽園」にたどり着く(永井豪の自作「魔王ダンテ」が原型)。「コードギアス」R2(第2期)TURN1「魔神が目覚める日」のサイドカーでルルーシュが読んでいるのは"La Divina Commedia"つまり「神曲」である。

ルルーシュと魔女C.C.(シーツー)が結ぶ契約は、ゲーテの小説「ファウスト」における主人公とメフィストフェレスの関係の変換である。これは後に「魔法少女まどか☆マギカ」の魔法少女↔キュゥべえに踏襲される。さらに「コードギアス」第2期(R2)冒頭の記憶を失った登場人物たちが、違和感を覚える日常を送っている姿は「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」冒頭部に重なる。

ルルーシュが持つギアス=《絶対遵守》の力が、原作 - 大場つぐみ・作画 - 小畑健による漫画「DEATH NOTE(デスノート)」(2003年12月から2006年5月まで連載)の効力に類似していることも指摘しておこう。

----- 以下ネタバレあります。未見の方はご注意ください。 -----



ルルーシュは仮面で素顔を隠して「ゼロ」と名乗るのだが、これはゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)を示している。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシアの原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)は浮遊する過剰シニフィアンであり、その多義性に特徴がある。「ゼロ」の仮面もルルーシュだけではなく、C.C.(シーツー)、篠崎咲世子(くノ一/女忍者)、スザクらがかぶる。物語の中を漂い、循環するのである。

ゼロ」の仮面同様、本作でゼロ記号として働いているのが言うまでもなくギアスだ。ワーグナー「ニーベルングの指環」やトールキン「指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)」における指輪、「スター・ウォーズ」のフォース、「ハリー・ポッター」シリーズの魔法同様、ギアスという得体の知れない力は二項対立を結び、両極間を循環する第三項である。

ルルーシュ(ゼロ)が純血派の将校ジェレミアに対してハッタリで言う「オレンジ」という言葉もまた、ゼロ記号としてシニフィエ(意味されている対象)が定まることなく浮遊する。

皇帝の騎士としてナイトオブラウンズ(Knights of the Round)が登場するが、これは日本語に訳すと「円卓(roundtable)の騎士」となる。スザクが乗る人型兵器(ロボット)「ランスロット」もまたアーサー王物語に登場する円卓の騎士のひとり。彼はアーサー王と決裂し、円卓の騎士は王の軍勢に加わる者とランスロット派に二分され、戦うことになる。この構造が「コードギアス」に引き継がれている。アーサー王の狙いはブリタニア(現在のイギリス)の平定であったが、「コードギアス」には神聖ブリタニア帝国が登場する。ロイド、セシルらが所属しランスロットを開発した技術部・特派は後に「キャメロット」という組織へと発展解消した。キャメロットはアーサー王の王国であり、キャメロット城が築かれた。また生徒会で飼われている猫の名はずばり、アーサーである。

ナイトオブラウンズのNo.3(ナイト・オブ・スリー)が乗る人型兵器の名は「トリスタン」。これはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の主人公。元々はケルトの説話であり、後にアーサー王物語に取り込まれた。円卓の騎士のひとりとしてランスロットに次ぐ強さの持ち主だったという。

また機動兵器「ジークフリート」が登場するが、これはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場する英雄。元は北欧神話である。

生死に関係なく、人の心と記憶が集まる「Cの世界(集合無意識/Collective unconscious)」という概念はユング心理学に由来する。それはシャルルやV.V.(ヴイツー)から「神」と呼ばれている。

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シャルルが読んでいる本に登場する、ユングによる「心」の構造である。中心に自己(SELF)があり、それを取り巻く円の内側(深層)が集合的無意識(Collective unconscious=Cの世界)。A元型(Archetype)で、アニマ(男性の思い描く理想的女性像)、アニムス(女性が思い描く理想的男性像)、太母(the Great Mother)、老賢人(the Wise Old Man)等が該当する。その外側に個人的無意識(Personal unconscious)が存在し、心的複合体=感情複合(Complex)を内包する。その代表例がフロイトが提唱したエディプス・コンプレックス。さらに「心」の表層に意識(Consciousness)があり、自我(EGO)が配置されている。

シャルルがいる神殿のような仮想空間は「アーカーシャの剣」。アーカーシャとは古代インド・サンスクリット語で「虚空」を意味し、存在の一切を統括する法則を指す。「剣」と命名されているのはアーサー王が持つ剣「エクスカリバー」を意識してのことだろう。これには魔法の力が宿るとされ、ブリテン島の正当な統治者の象徴である。石に刺さったエクスカリバーを引く抜くことがアーサーの血筋を証明することになる。一方、ジークフリートは「ノートゥング」という剣を鍛え直すのだが、そちらは神々の長ヴォータンが人間の女に産ませた息子ジークムントに与えたもので、木に刺さって誰も抜けなかったノートゥングを彼が引き抜く。2つの剣は見事に対称を成している。

シャルルとV.V.(ヴィツー)の悲願は《嘘のない世界》を創生する計画=「ラグナレクの接続」である。Cの世界に干渉し、不老不死のコードの力を使って全人類を集合無意識へと回帰させるというもの。つまり、個々人の意識間にある壁(新世紀エヴァンゲリオンでいうところのATフィールド)を取り払い、全人類の意識を強制的に共有状態にすること。ラグナレク(ラグナロク)とは北欧神話の世界において神々と巨人族が争う世界終末戦争のことであり「神々の黄昏」ともいう。ここでも「ニーベルングの指環」に接続している。

シャルルとV.V.は《嘘のない世界》を志向するが、その一方でルルーシュとスザクは《秘密と嘘に塗(まみ)れた世界》に生きている。この二項対立の根底には【個々人の思考に差異がなく、コミュニケーションが必要ない世界が仮に実現したとして、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか?】【競争や対立、諍いのない暮らしは果たして人に幸福をもたらすか?】【人が本心を隠し仮面(ペルソナ)を被るのは善きことか、否か?】という哲学的問いがある。そして更に《限りある生命↔永遠の命》の相克に思いを馳せることになる。

またラグナレクの接続の場面で"Lasciate ogni speranza, voi ch'entrate."(この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ)というダンテ「神曲」の一節が登場することも付け加えておく。

最後に、最終話 TURN 25「Re;」について考察する。果たしてルルーシュは本当に死んだのだろうか?ここでまず、ナナリーが血まみれのルルーシュの手を触れた時に、ルルーシュの記憶が彼女に流れ込む場面に注目したい。これはルルーシュがC.C.と出会い、彼女からギアスを授けられた第1話 = STAGE 1「魔神が生まれた日」の再現になっている。そしてラストシーン、C.C.が荷馬車に積まれた藁の上から語りかけている相手は誰なのか?彼女の額には未だコードが浮かんでいるか?御者の顔はどうして見えない?これらを考えれば、答えは自ずから解るだろう。こうして物語は振り出しに戻り(Re;turn)、循環する。STAGE 1「魔神が生まれた日」の冒頭。暗闇の中でドックンドックンと心臓の鼓動が聞こえ、やがて瞳が開かれて最初に視界に浮かぶのがC.C.の姿である。さて、この瞳は誰のもの?

大河内一楼、恐るべし!!「コードギアス 復活のルルーシュ」を待て。

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TO BE CONTINUED...

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藤岡幸夫/関西フィルのシベリウス第1番と、《大島ミチルーヘッセーユングー仏教》complex(複合体)

6月21日(木)ザ・シンフォニーホールへ。藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

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  • 大島ミチル:オーケストラと合唱のための組曲《アウグストゥス》
    ~ヘルマン・ヘッセの短編集『メルヒェン』より~ (世界初演)
  • 大島ミチル:《塵JIN》&《輪RIN》  ~クラリネット、マリンバ、
    オーケストラのための2つのラプソディ~ (世界初演)
  • シベリウス:交響曲第1番

合唱は大阪府立夕陽丘高等学校音楽科、クラリネットはリチャード・ストルツマン、マリンバはミカ・ストルツマン(旧姓:吉田ミカ、熊本県天草市出身、ニューヨーク在住)。

大島ミチルは子供の頃読んで大好きだったというヘルマン・ヘッセの短編集「メルヒェン」の中から「アウグストゥス」という小説を元に、自ら詞を作り上げた。こんな物語だ。

アウグストゥスという名の少年が生まれた時、未亡人となった母は隣人の不思議なおじいさんビンスヴァンゲンから「望みを一つだけ叶えてあげよう」と言われ、息子が「誰からも愛される人に」と願う(天使の笛の音が聴こえる)。その通り少年は誰からも愛され、チヤホヤされるのが当たり前の生活を送った挙げ句の果てに彼は故郷を捨て、ひとり旅立つ。天使の音楽は聴こえなくなり、母は孤独に死ぬ。凛々しい青年に成長した彼は社交界で放蕩の限りを尽くし、友を騙し、貴婦人と愛欲生活に浸るが、やがて虚しさを感じて自殺を図る。そこにドアがノックされ、ビンスヴァンゲンが現れる。「君の母の願いを叶えたが、愚かなことだった。いまの君に欠けているものを与えたい。望みを一つだけ叶えてあげよう」と言う。アウグストゥスは「これからは僕が人を愛することが出来ますように」と願う。周囲の態度は一変した。「お前は詐欺師だ!」「悪魔だ!」「金を返せ!」と罵倒され、ついに投獄される。牢獄を出た時には既に老いていた。もう誰も彼を知らない。しかし彼は幸福を感じる。みんなを愛しているし、何もかもが美しく愛おしい。冬が来てアウグストゥスは故郷に帰る。ビンスヴァンゲンに「素晴らしい旅だった。だけど僕は少し疲れてしまった」と告げ、眠りに就く。彼は天に向かう扉へ少しずつ近づく。そこに子供の頃のように天使の音楽が聴こえてくる。「おやすみアウグストゥス」愛してる。「アーメン」

小説の存在すら今まで全く知らなかったが、僕はこの合唱曲を聴きながら円環構造があることに気が付いた。少年が生まれ(天使の音楽+)、旅立ち(天使の音楽ー)、回帰して死ぬ(天使の音楽+)。そして頭に浮かんだ映像のイメージはチベット仏教の曼荼羅図であり、禅宗における円相だった(映画「メッセージ」"Arrival"を参考にされたし)。

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スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは1912年頃より自分の無意識の世界と対決をはじめ、凄まじいヴィジョンと夢に悩まされる。そして1916年に最初の曼荼羅図形を書いた。

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後に彼は中国研究の権威リヒャルト・ヴィルヘルムからチベット仏教の曼荼羅を紹介され、自分が書いたものと余りにも似ていることに驚いた。これこそ集合的無意識(Collective unconscious=Cの世界)の産物であると言えるだろう。

ヘルマン・ヘッセは仏陀の本名を冠した「シッダールタ」という小説を書いている。彼は第一次世界大戦の影響で、深い精神的危機を経験した(父の死や妻の精神病悪化が重なった)。彼は小さな村で静養をしながら、ユングの弟子である精神分析医ヨーゼフ・ベルンハルト・ラング博士の診察を72回受けた(博士は彼に絵を描くことを勧めたという)。そうして完成したのが「デミアン」である。その後ヘッセはユング本人とも親交を深め、ユングが設立した「心理学クラブ」を訪れた記録も残っている。

ユングは「元型」という集合的無意識内に住む住人(アーキタイプ)の概念を提示した。「太母(the Great Mother)」「アニマ(女性像)」「アニムス(男性像)」に並び、「老賢人(the Wise Old Man)」がいる。「アウグストゥス」に登場するビンスヴァンゲンこそ、正に「老賢者」なのである。つまりこの小説は「アーメン」など表層はキリスト教の偽装をしているが、その深層には仏教の思想が根を張っていると言えるだろう。

20世紀フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースは著書「親族の基本構造」の中で、オーストラリアの原住民らを研究し、近親相姦の禁忌と、母方交叉イトコ婚が推奨されるのは何故かを解明した。そこには「女性の交換」という原理があった。人間社会の基本はコミュニケーションであり、それは言葉や物(お金を含む)を交換することにある。ではアウグストゥスの場合はどうか?若い頃の彼は一方的に愛された(贈与の一方通行)。だから幸福になれなかった。しかし年老いた彼は愛す(お返しをする)ことで交換が成立し、初めて「人間」になれたのである。

第1幕はメルヒェン、第2幕で子供の無邪気さが描かれ、第3幕は円舞曲。そして第4幕で激情が走り、魂の救済で幕が閉じられる。大変美しい音楽で深く感銘を受けた。老賢者ビンスヴァンゲンとアウグストゥスが会話する場面で何だかミクロス・ローザ(ロージャ・ミクローシュ)作曲「ベン・ハー」風になるのが可笑しかった(イエス・キリスト登場シーン)。

続く珍しい楽器の組み合わせ(吹奏楽器クラリネットと打楽器マリンバ)によるコンチェルトは第1曲が「塵」。仏教用語で煩悩や感覚の対象だそう。第2曲が「輪(わ)」。円環の理(ことわり)でヘッセに繋がっている。登壇した大島ミチルは「音色を楽しんで欲しい」と語ったが、冒頭は独奏者のみの演奏で、スロー・テンポで開始される。「節回しがコープランドを彷彿とさせるな」と想いながら聴いていると次第に速くなり、Jazzyに。第2曲は西部劇調(「ロデオ」「ビリー・ザ・キッド」)の音楽にミニマル・ミュージック(パターン化された短い音型が反復される=永劫回帰)の要素が加味され、これぞアメリカン!引き出しの多い作曲家だなとほとほと感心した。いやー、スリリングで面白かった!

プログラム後半は藤岡幸夫渾身のシベリウス。関西フィルとこのシンフォニーを演奏するのは6回目であり、自家薬籠中の物としている。藤岡はイギリスのハレ管弦楽団定期にデビューした時もこのシベリウス1番を取り上げたという(なんと豪胆な)!ハレ管はジョン・バルビローリが手塩にかけて育てたオーケストラであり、シベリウス自身も指揮台に立った。藤岡によるとハレの楽員から色々教えてもらい、第1楽章冒頭クラリネット・ソロのあと弦楽器のトレモロが続く箇所で作曲家は「ここは吹雪だ」と言ったそう。第3楽章はPirate(海賊)。

藤岡の解釈はゆったりとして雄大。そして熱い。ギラギラしていてマグマが噴き出すかのよう。第2楽章中間部は激情が走る!第3楽章スケルツォは狂騒。そして第4楽章は堂々たる横綱相撲。圧巻だった。ライヴレコーディングによるCDの全集が楽しみだ。

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トリオ・ヴァンダラー@兵庫芸文

6月16日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。トリオ・ヴァンダラーを聴く。1987年にパリで結成された常設のピアノ三重奏団で、シューベルトの「さすらい人」から名前を採られている。88年にミュンヘン国際コンクールで優勝。

実は常設のピアノ三重奏団って世界的に見ても珍しい。例えば日本人が結成した弦楽四重奏団ならクァルテット エクセルシオとかロータス・カルテット、解散した東京クヮルテットとかあるけれど、ピアノ・トリオは聞いたことないでしょう?

嘗てはチェコのスーク・トリオとか、アメリカのボザール・トリオ、ロシアのボロディン・トリオ等あったが、皆解散してしまった。だから現役ではトリオ・ヴァンダラーが恐らく実力No.1だろう。

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  • ハイドン:ピアノ三重奏曲 第41番
  • ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 第7番「大公」
  • シューベルト:ピアノ三重奏曲 第2番

ハイドンは悲劇の予感が漂う。ピアノが華やか。

「大公」は音の波がうねり、グルーヴ(高揚感)があった。ヴァイオリンは抑制が効いており、しかしいざという時はちゃんと前に出て主導権を握る。

僕は中学生の頃から明朗なシューベルトのピアノ・トリオ第1番を愛聴していた。しかし第2番は正直今まで面と向かって聴いたことがなかった。今回の演奏会で初めてこの曲の魅力に開眼した次第である。

本作は1827年11月に作曲されたとされ、D929である。未完成交響楽や交響曲 ハ長調「ザ・グレート」、最後の弦楽四重奏曲 第15番 (D887)より後で、翌28年9月(死の直前)に最後のピアノ・ソナタ第19−21 番(D958-960)が作曲された。つまりすでに梅毒の宣告を受け、死を意識していた時期の作品である。

もののあわれとか、生きる哀しみをひたひたと感じさせる音楽だ。第2楽章アンダンテはピアノ伴奏の上にチェロが主題を奏で、まるでバリトンが歌う歌曲集「冬の旅」のよう。ホールが寂寞とした雰囲気に包まれた。

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またアンコールのドゥムキーが最高に素晴らしかった!是非次回来日時には全曲を聴きたい。

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アルテミス・カルテット@兵庫芸文

6月10日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。アルテミス・カルテットを聴く。

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  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第3番
  • ヤナーチェク:弦楽四重奏曲 第1番「クロイツェル・ソナタ」
  • モーツァルト:弦楽四重奏曲 第19番「不協和音」
  • メンデルスゾーン:SQ  No.3 第3楽章 アンダンテ(アンコール)
  • J.S.バッハ:四声のコラール「聖霊の豊かなる恵みを」(アンコール)
ベルリンを拠点に活動する彼らの演奏を前回聴いた感想は下記。
15年にヴィオラ奏者フリーデマン・ヴァイグルが亡くなり、第2ヴァイオリンのグレゴール・ジーグルがヴィオラに移ってアンシア・クレストンを新たに迎えた。創立メンバーで残っているのはチェロのエッカート・ルンゲのみ。

しなやかで力強く、一糸乱れぬ緊密なアンサンブルを堪能した。

ヤナーチェクは艶っぽい。そのことはオペラ「利口な女狐の物語」で痛感した。そして彼の弦楽四重奏曲 第1番、第2番は正真正銘、不倫音楽である。
内面から迸る情熱と、闇を引き裂く叫び、そこには狂気があった。

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映画「羊と鋼の森」

評価:A

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原作小説については下記事で詳しく語った。

小説がお気に入りだとその映画化に裏切られることが多いが、本作ではそんなことが全く無かった。公式サイトはこちら

映画序盤、主人公がピアノ調律師見習いとして先輩に同行した家庭でふたごの姉妹に出会う。最初に姉の和音(かずね=ハーモニー)が弾くのがラヴェル「水の戯れ」、続いて妹・由仁(ゆに=ユニゾン)がショパン「エチュード op25-9 蝶々」を暗譜で演奏する。これ、原作で妹の方は「ショパンのエチュード」とだけ言及されているが、姉の方は「たぶん、指を動かすための練習曲」としか書かれていないので何を弾くのだろうと興味津々だった。音楽で見事に二人の性格の違いを描き分けており、舌を巻いた。ラヴェルは後に「亡き王女のためのパヴァーヌ」も流れる。

また、ふたごが連弾する曲も原作では指定されていないのだが、モーツァルト「きらきら星変奏曲」がとっても物語の雰囲気にあっていた。

本作は非常に繊細にを描写している。ピアノのだけじゃない。ハンマーフェルトを削る、体育館に響き渡る靴、深々(しんしん)と雪が降り積もる、靴が雪を踏みしめる、等々。そして無音の張り詰めた緊張感も大変魅力的。卓越した音の映画である。

真面目で誠実な主人公を山崎賢人が好演。三浦友和の調律師もはまり役だ。上白石萌音・萌歌姉妹は背丈も、顔の大きさも顔の形も違うので「ふたご」からかけ離れているというか、実の姉妹にすら見えないのだが、ちゃんと作品世界に寄り添っていて○。

あと、If もしも....この小説が1990年代に映画化されていたとしたら(そもそも出版すらされていないのだが)、ふたごのキャスティングは石田ゆり子・ひかり姉妹が演じていたのではないかと夢想した。上白石萌音がベートーヴェン「熱情」を弾く場面が、僕には大林宣彦監督「ふたり」(1991)でシューマンのノヴェレッテを弾く石田ひかりの残像にピタリと重なったのである。ちなみに吉行和子は「ふたり」にも、「羊と鋼の森」にも出演している。

仄暗い森の中を手探りで模索しながらも、しっかりと人生の第一歩を踏み出す若い人たちの物語が、映画「羊と鋼の森」でくっきり輪郭を表した。

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映画「万引き家族」をめぐるイデオロギー論争(政戦)を叩き斬る!

カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)に輝いた「万引き家族」に対して右翼と左翼の両陣営が熾烈な戦い(イデオロギー論争)を展開している。

右翼の主張の代表例を挙げる。

高須クリニック院長のツィートは6月1日に発せられた。「万引き家族」の公開は6月8日である。マスコミ試写しか行われていない段階で、果たして高須氏はちゃんと映画を観た上で発言したのだろうか?どうもそうとは考え難い。結局、右翼による是枝批判の多くは中身も知らず、タイトルの印象だけで発信されている。作品も観ずに論じるなどは愚の骨頂である。そもそも「万引き家族」という名詞のみで、それを肯定しているのか、否定しているのか判断出来ますか?例えば「アドルフ・ヒトラー」という映画を中身も知らずに、「ヒトラーを賛美するなどけしからん!」と難癖つけるようなものではないか。

本作で描かれている家族は特殊な例である。だからといってそれを是枝監督は一般化して、日本の行政/体制批判をしているわけではない。我が国の「恥」を晒すことが目的じゃない。そもそもそんな内容だったらケイト・ブランシェットらカンヌの審査員たちの心を動かす筈はないではないか。つまりテーマ(Invisible people;見えない人々)に普遍性があり、国境を超えて観客の琴線に触れるものがあったということである。

一方、左翼の連中も相変わらずどうかしている。そもそも今回の論争の発端は一部ジャーナリストが、カンヌのパルム・ドール受賞に対して安倍首相が是枝監督を祝福しなかったことをフランスのマスメディア(フィガロ紙)が批判したと煽ったことにある。この《外圧を利用する》というのは日本の左翼の常套手段であり、朝日新聞によるいわゆる従軍慰安婦問題キャンペーンもまず韓国側を焚きつけることから始まった(後に朝日新聞社は誤報を謝罪)。30年経っても同じ手口で、全く進歩がない。外国人が何を騒いでいようが、はっきり言ってどうでもよろしい。我田引水のこじつけで、安倍政権批判をしたいだけでしょ。じゃあ訊ねるが、今村昌平監督が「楢山節考」でパルム・ドールをさらった時、中曽根康弘首相(当時)は直ちに祝意を述べましたか?宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」がベルリンで金熊賞を受賞した時、小泉首相は?全く馬鹿げている。

また是枝監督が韓国紙・中央日報のインタビューに応じて語ったことを取り上げ、鬼の首を取ったように映画を安倍政変批判に結びつけようとする愚か者たちがいる。

ドイツの哲学者フルードリヒ・ニーチェが芸術家について語った言葉を引用しよう。

彼は自分の作品や自分について的外れなことを語り、言ったり考えたりする。こうしたことは、創造的な芸術家にあって、ほとんど正常な状態のように、私には思える。ー親ほど自分の子供を知らない者はない。
 (村井則夫 訳「喜ばしき知恵」)

つまり小説家や映画監督は信頼できない語り手」であり、彼らの発言を鵜呑みにすべきではない。作品が語ろうとすることは、あくまでその作品自体に耳を傾けるべきだろう。作品が全てだ。原一男監督のドキュメンタリー映画「全身小説家」をご存知だろうか?小説家・井上光晴に取材した作品で、結論として彼の発言が全くの嘘っぱちであることが暴かれてゆく。

以下、是枝監督のブログ(6月5日)から引用する。

 正直な話、ネットで『万引き家族』に関して作品を巡ってではなく飛び交っている言葉の多くは本質からはかなり遠いと思いながら、やはりこの作品と監督である僕を現政権(とそれを支持している人々)の提示している価値観との距離で否定しようとしたり、逆に擁護しようとしたりする状況というのは、映画だけでなく、この国を覆っている「何か」を可視化するのには多少なりとも役立ったのではないかと皮肉ではなく思っている。(中略)個別の取材で記者に問われれば、専門家ではないが…と断りを加えた上で(この部分は大抵記事からはカットされる)自分の社会的・政治的なスタンスについては可能な限り話す。そのことで自分の作った映画への理解が少しでも深まればと思うからである。これを「政治的」と呼ぶかどうかはともかくとして、僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだと考えて来たし、そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。

映画という文化をダシにして、イデオロギー論争に持ち込もうとするな!恥を知れ、と言いたい。

僕の基本スタンスは「思想(マルクス主義)を憎んで人(作品)を憎まず」なので、左翼映画監督の作品も結構観てきた。代表例を挙げよう。

今井正(真昼の暗黒、橋のない川)、山本薩夫(真空地帯、あゝ野麦峠)、熊井啓(地の群れ、海と毒薬)、大島渚(日本の夜と霧、戦場のメリークリスマス)、山田洋次、高畑勲、宮崎駿

故に政治的メッセージ、イデオロギー色が強い「左翼映画」とはどういうものか、実態を把握しているつもりだ。そして是枝監督作品はそれらとは一線を画しており、反体制的ではないと断言出来る。

また文部科学大臣が是枝監督に対面して祝意を伝えたいとの意向を伝えると、「公権力とは距離を保つ」ことを理由に辞退したことに対して、「文化庁の助成金を貰っているのに矛盾している」と批判があった。しかし《助成金を与える=政府がスポンサー》では決してない。

日本芸術文化振興会は「我が国の優れた映画の製作活動を奨励し、その振興を図るため、日本映画の製作活動を助成します」としている。《陸軍省後援 情報局國民映画》と銘打たれた木下惠介監督「陸軍」(1944)とは全く異なるシステムであり、あくまで中立な立場での税金の投入だ。現政権に対して忖度(そんたく)する必要は全くない。

「公権力とは距離を保つ」という監督の姿勢は映画が政治のプロパガンダとして利用された過去の反省を踏まえてのことだろう。その頂点を成すのがレニ・リーフェンシュタール監督がナチ党の全国党大会を記録した「意志の勝利」(1934)であり、1936年ベルリン・オリンピックを記録した「オリンピア(民族の祭典/美の祭典)」だ。過ちを繰り返してはならない。

さて、「万引き家族」の評価はA+。公式サイトはこちら

是枝監督の「そして父になる」には《家族とは血の繋がりなのか?それとも一緒に過ごした時間なのか?》という問いがあった。そのテーマが本作では更に深化されている。さらに児童虐待/育児放棄を扱った「誰も知らない」の要素も加味されており、文字通り是枝作品の集大成となっている。

「家族って何だろう?」「絆って何?」と色々考えさせられる。

安藤サクラ(32)の演技が圧巻!他に樹木希林(75)、柄本明(69)、リリー・フランキー(54)、松岡茉優(23)、城桧吏(11)、佐々木みゆ(6)と各世代を代表する芸達者が集まった。

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君たちはどう生きるか?

将来、当ブログを読むであろう息子(現在小学校1年生)に向けてこの文章を書く。僕が今まで生きてきた過程で学び、培ってきたフィロソフィー(哲学/哲理)を語ろう。

① 生成変化しない者に価値はない。

生成変化とは、20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが打ち立てた概念である。2018年、秋元康が作詞した乃木坂46の"Against"(卒業する生駒里奈に贈った楽曲)が生成変化とは何かを教えてくれる(視聴はこちらから)。

僕らは変わらなきゃいけない
永遠なんか信じるな!
昨日の自分とは決別して
生まれ変われ!

このままここに居続けるのは
誰のためにもならない
新しい道を切り拓いて
立ち向かうんだ
アゲインスト (秋元康 詞)

僕は10代の頃から「昔は良かった」と言うような大人には絶対になりたくない!と決意していた。そして幸いなことにならなかった。「今」が一番楽しいし、「今」が一番充実していて、濃密な時間を生きている(現在進行形)と胸を張って言い切れる。20歳の自分より「今」の自分の方が絶対に賢い。昔の映画の方が面白かった?そんなの嘘っぱちだ。ただ感性が衰えただけ。

《生きながら死んでいる、化石のような大人》にはなるな!そのためには本を読み続けること。新しいもの(音楽・映画・演劇など)を貪るように吸収し、感性を磨くこと。生涯が学びの場だ。そのことを肝に銘じるべく、次の詩を紹介しよう。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

(中略)

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

(茨木のり子/詩集「自分の感受性くらい」所収)

② 境界を超えろ。自分の周囲にあるを壊せ!

漫画「進撃の巨人」のを思い出してくれたらいい。

「新世紀エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン新劇場版)」で言えばA.T.フィールドね。境界を超えるとはつまり、生成変化に繋がる。更に言い換えるなら《トリックスター(遊戯的撹乱者)になれ!》ということ。

対立する二つの陣営があったら、どちらにも組みすることなく、両者を仲介し、循環する存在になれ。思いっ切り混ぜっ返せ。それがトリックスター(遊戯的撹乱者)だ。循環をニーチェ哲学の言葉で言い表すなら永劫回帰となる。

行動せよ。考えるだけではなく体を動かせ。

③ 欲望に忠実に生きなさい。但し、他人の迷惑にならない範囲で。

「禁欲」は美徳ではない。愚かなだけ。履き違えるな。折角この世に生を得たんだ、チャンスは二度とない。せいぜい限りある人生を楽しまなくちゃ勿体ない。しかし新しい土地を得たいからと戦争して他国を侵略しちゃいけないし、性欲を満たしたいからと強姦するのも駄目。他人の犠牲の上に自分の幸福を築くな。これが最低限のルール(抑止力)だ。

立川談志「現代落語論」の言葉を借りるなら、「人間の業(ごう)」を肯定するということ。彼の著書「あなたも落語家になれる」から以下引用する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。
落語をお聴きなさい。

④ 矛盾を恐れるな。首尾一貫しなくていい。

矛盾していていいんだということはアニメーション作家(引退詐欺師!)・宮崎駿の生き様から学んだ。

将来を見据えた、理路整然とした人生設計なんか要らない。「予定通りいかない。番狂わせが面白い(ミュージカル「エリザベート」より死神トートの台詞)」出たとこ勝負だ!

若い頃僕は、例えば海外旅行に行く時に第1日目はここへ行って、次はあそこ、と時間刻みの綿密な計画を立てていた。でもある日、旅の醍醐味って想定外の出会いにあることに気が付いたんだ。事前の計画は大雑把でいい。後は現地で得る自分の感(臭覚・触覚 etc.)を信じるのみ。

野生の思考
を絶えず研ぎ澄まし、その場にあるありあわせのものでブリコラージュ(器用仕事/寄せ集め細工)すること。為せば成る。なんとかなるさ。

⑤ 行き詰まったらその場で踏ん張らず、直ちに「全力で」逃げなさい。逃げるは恥でも役に立つ。

学校でいじめられて、どうしようもなくなったら転校すればいい。それだけのこと。ジル・ドゥルーズの提唱する概念で語るなら、皆が当たり前と思って歩く道を逸れ、逃走線を描け!ノマド(遊牧民)として生きよ。ということになる。君が今いるそこだけが世界じゃない。失敗したら新天地で何度でもやり直せばいい。もっと視野を広げてごらん。追い詰められて、思い詰めて、自殺するなんて馬鹿げている。徹底的に自分を肯定すること

⑥ 生きる意味を考えるのは構わない。でも答えを求めるな。正解なんかないんだ。

人間というのは自分が生きる意味をどうしても考えてしまう生き物だ。余り思いつめると新興宗教にはまり、地下鉄でサリンをばらまいたりする羽目になる。マルクス思想に絡め取られ、銃を握りしめて浅間山荘に立てこもった若者たちもいたな。でもね、人は誰しも、いつかは必ず死ぬ。金持ちも、貧困層も、頭が良かろうが悪かろうが皆平等だ。そして息を引き取る最後の瞬間まで自分は何故いまここにいるのか、その意味を考え続ける。多分それ自体が「生きる」ということなんだ。つまり答えのない質問(The Unanswered Question)を問い続けること。人生には「目的」も、「神の計画」もない。「過程」が全てだ。

神は死んだ(by ニーチェ)。万物は流転する。

もしも僕の生に何らかの意味があるのだとしたら、それは「つなぐ」ことなのだろう。僕の人生の中で得たものを次世代に伝える。そうすれば君たちはさらに「その先に」進める筈だ。人類の歴史はその繰り返し(経験と知識の集積)だった。だから僕は今、ブログを書いている。君たちもリレーに参加し、つなぎなさい。但しゴールはないんだ。

⑦ 正義とか悪、不変の真理を説く者を信じるな。徹底的に疑え!

「正義」を騙(かた)る者の胡散臭さをまざまざと見せつけたのはジョージ・W・ブッシュ元アメリカ大統領である。イラクのフセイン大統領を「悪の枢軸」と決めつけ、大量破壊兵器があると主張して侵略戦争を実行した。しかし結局、大量破壊兵器は影も形も見つからなかった。2001年9月11日に勃発した同時多発テロの直後にブッシュの支持率は92%に達し、「史上最高」を記録した。ブッシュもどうかと思うが、熱狂的に彼を讃え、信じたアメリカ国民も救いようがない。アドルフ・ヒトラーを支持した当時のドイツ国民と大した違いはない(ナチス党は普通選挙で第一党となった)。どうして人はこんなに騙されやすいのだろう?暗澹たる気持ちになった。

大学生の頃、手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」を読んで衝撃を受けた。そこには【戦争に「正義の側」と「悪の側」などというものは存在しない】ことが明確に書かれていたのである。ナチス・ドイツに迫害されイスラエルを建国したユダヤ人は結局、4度にわたる中東戦争を通じてパレスチナ人を虐殺している。そこまで手塚は描いている(後にポール・バーホーベン監督「ブラックブラック」にこのテーマは継承された)。結局「正義」とか「悪」という価値観はあくまで相対的なものであって、絶対的なものではないのだ。時代や場所によって変わるし、戦争では勝った者が「正義」であり、勝者が敗者を一方的に裁くことになる(ジャンヌ・ダルク処刑裁判/ニュルンベルク裁判/東京裁判)。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは言い得て妙だ。故に「永遠に不変(普遍)の真理」など存在しない。そういうものを説く教祖・司祭の言葉は眉唾ものと思い、化かされないようご用心なさい。

⑧ 世の中、言ったもん勝ち。

これは本当に大切なことだ。きっちり自己主張すること。遠慮しては駄目、勿体ない。控えめにして出しゃばらないことが美徳だと考えている日本人は多いが、絶対に間違い。結局自分が損をする。間違っていてもいい、とにかく声に出す勇気を持つこと。それで失敗したら修正して言い直せばいい。それだけ。疑問があったら必ず手を挙げて質問してごらん。きっと世界が広がるから。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。

人間の条件はコミュニケーションを取ること。これに尽きる。そのためにはまず自分の意志を相手に伝えなければ始まらない。勿論言いっぱなしでは駄目で、相手の言葉にも耳を傾けよう。僕が敬愛してやまない大林宣彦監督の言葉を紹介する。「人は傷つきあって、許しあって、愛を覚える」(原文こちら)ーこれこそ数々の映画たちが今まで語ってきたことである。

⑨ くよくよ悩まず、結論を出すのは明日に延ばせ!

アメリカ合衆国の政治家ベンジャミン・フランクリンの格言で「今日できることをあしたにのばすな(Never put off till tomorrow what you can do today.)」がある。これは行動(Act)の話。僕が言っているのは思考(Thinking)のこと。僕が今まで出会った中で、最も影響を受けた(心に響いた)小説はマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」とレフ・トルストイの「戦争と平和」である。どちらも中学生の時に読んだ。以下「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラの名台詞を引用する。

"I'll think about that tomorrow. (中略)Tara! Home. I'll go home. And I'll think of some way to get him back. After all... tomorrow is another day."
「そのことはまた明日考えましょう。タラ!そうよ、我が家。お家に帰ろう。そして彼(=レット・バトラー)を取り戻す方策を練るのよ。だって結局、明日は明日の風が吹くのだもの」

よい考え、ひらめきは、ひょんなことから生まれることがある。例えば秋の虫や鳥の歌声に耳を傾けながら散歩している時、あるいは空に浮かぶ雲をボーッと眺めている時。それは不意にやって来る。だから焦らず、まずはゆっくり睡眠時間を取ろう。懸案事項は一晩寝かせることも大事。すると新たに見えてくるものもある。このブログ記事だって実は毎日少しずつ書き足しながら、1ヶ月ほどじっくり熟成させた成果なんだ。

最後に、フェデリコ・フェリーニ監督の映画「8 1/2」の名台詞を、未来を生きる君たちへの餞の言葉としたい。

⑩ "È una festa la vita, viviamola insieme."
  「人生は祭りだ!一緒に過ごそう」

さあ踊れ、そして騒げーっ!!

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ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞「犬ヶ島」

評価:B+

Dogs

日本を舞台にしたウェス・アンダーソン監督のストップモーション・アニメである。ベルリン国際映画祭で銀熊(監督)賞を受賞した(最高賞は金熊)。公式サイトはこちら

けったいな映画である。でもそこに監督の(へんてこな)個性が刻印されており、好感が持てる。

早坂文雄が作曲した黒澤明『七人の侍』のテーマ曲(オリジナル音源)が流れ、『酔いどれ天使』からは2つの歌「東京シューシャインボーイ」「小雨の丘」が引用されている。あと少年の父親が『天国と地獄』に於ける三船敏郎そっくりだったり、世界観が『野良犬』だったりと黒澤映画への愛が全編に満ち溢れており、観ていて面映ゆいくらいである。

先日のスピルバーグ監督『レディ・プレイヤー1』にはガンダムやメカゴジラが登場し、伊福部昭の音楽が流れたし、すげえな。「日本文化ばんざい!」

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ゲティ家の身代金

評価:B+

All

実話である。原題は"All the Money in the World"、公式サイトはこちら

本作でクリストファー・プラマーがアカデミー助演男優賞にノミネートされた。彼が演じる大富豪は元々、ケヴィン・スペイシー(57)が特殊メイクで演じ、撮影は終了していた。しかし2017年10月29日、スペイシーが当時14歳だった俳優(ミュージカル「RENT」初演キャスト:アンソニー・ラップ)にセクハラを行っていたとの報道が出て彼は業界から追放された。公開まで1ヶ月しかないという段階でリドリー・スコット監督は撮り直しを決意し、急遽87歳のプラマーが代役に起用され、テキパキ10日間でやり終えた。代役の年齢差が30歳というのが凄まじいが、プラマーの堂々たる演技は見事なものであった。

世界一の大金持ちジャン・ポール・ゲティをリドリー・スコットはまるでシェイクスピア「リチャード三世」みたいな、”孤独な王”として描く。そういう意味で僕は「エイリアン:コヴェナント」のアンドロイド、デイヴィッドのことを想い出した。
ここでデイヴィッドが諳んじるパーシー・ビッシュ・シェリーの詩、

『我が名はオジマンディアス 王の中の王
全能の神よ 我が為せる業を見よ そして絶望せよ!』

これは正にゲティのことである。

またミシェル・ウィリアムズ演じる母親の強さが印象的。「エイリアン」第1作のリプリーにしろ、「テルマ&ルイーズ」にせよ、リドリー・スコットはこういう女性像が大好きなんだ。

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映画「レディ・バード」と舞台ミュージカル

評価:A

Lady
アカデミー賞で作品賞、監督賞(グレタ・ガーウィグ)、オリジナル脚本賞(グレタ・ガーウィグ)、主演女優賞(シアーシャ・ローナン)、助演女優賞(ローリー・メトカーフ)の5部門にノミネートされた。女性監督としてのノミネートは史上5人目である(「ハート・ロッカー」のキャスリン・ビグローが唯一の受賞者)。公式サイトはこちら

母親や学校の先生に対して「私のことをレディ・バードと呼んで」と言う、イタイ女子高生の物語であり、グレタ・ガーウィグの自伝的作品だそう。映画の舞台となるのも彼女の出身地・カリフォルニア州サクラメントである。

ヒロインはこじらせ女子というか、17歳のくせに中二病かよ!と言いたくもなる。でも観ているうちに彼女のことが段々愛おしくなり、いつの間にか応援している。そんな映画である。

映画「ブルックリン」の主人公も最後、「彼女に幸あれ!」という気持ちにさせられたし、これはシアーシャの人徳なのだろう。うん、そうに違いない。

余談だが、本作の中盤に高校でミュージカルを上演する場面がある。これがスティーヴン・ソンドハイム作詞・作曲の「メリリー・ウィー・ロール・アロング」。そして生徒がオーディションで歌うのがやはりソンドハイムの「カンパニー」や「イントゥ・ザ・ウッズ」だったりするので嬉しくなった。ミュージカル・ファンは必見!

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平原綾香、柿澤勇人(主演)ミュージカル「メリー・ポピンズ」と、その構造分析

19世紀後半ヨーロッパで発展したクラシック・バレエの究極の目標は「重力からの開放」なのだと最近僕は考えるようになった。ダンサーはトウシューズで爪先立ち、あたかも重力が存在しないかのように片足でポーズ(アラベスクなど)をとったり、高速回転する。そしてより高い跳躍を競う。その精神(ある意味、「人間を家畜のように飼い馴らそうとする神への反逆」)はフィギュアスケートに受け継がれている。

ギリシャ神話に登場する王、オイディプス(Oidipūs)は「oidi(腫れた)」と「足(pus、pos)」を合わせた言葉で、「腫れた足」を意味している(この神話を基にフロイトは「エディプス・コンプレックス」という概念を打ち立てた)。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグ(1939- )は彼の著書「闇の歴史」の中でオイディプス王の神話群を分析し、そこに片足の不自由という主題が潜んでいると指摘した。オイディプスは大地に縛られている存在であり、故に彼は跛行しなければならない。なお、人間を大地に縛り付けているのは言うまでもなく重力である。

クラシック・バレエのみならず、「重力からの開放」を虎視眈々と狙っているのはパメラ・トラバースが執筆した児童文学「メアリー・ポピンズ」も同様である。さらにその意志は宮崎駿監督のアニメーション映画に繋がっている。故にこれら作品群は神話の構造を持っている。

6月3日(日)梅田芸術劇場へ。ミュージカル「メリー・ポピンズ」を観劇。

「キャッツ」「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」で知られる大プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュが手がけ、ディズニー映画版でアカデミー作曲賞及び歌曲賞(チム・チム・チェリー)を受賞したシャーマン兄弟の音楽がそのまま流用されている。振付は「くるみ割り人形」やアダム・クーパーが出演した「白鳥の湖」で名高いマシュー・ボーン。

Marypoppins

出演者は、

メリー・ポピンズ:平原綾香、バート:柿澤勇人、バンクス氏:山路和弘、バンクス夫人:木村花代、バード・ウーマン/ミス・アンドリュー:島田歌穂ほか。

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映画「メリー・ポピンズ」はなんといってもこれでアカデミー主演女優賞を勝ち取ったジュリー・アンドリュースの印象が強い。

そして平原綾香はジュリーが主演した映画「サウンド・オブ・ミュージック」製作50周年記念版DVD/Blu-rayで彼女の吹き替えを担当している。これがとっても良かったので「メリー・ポピンズ」も期待していた。そして文句なしに素晴らしかった!これだけ歌える人だと、聴いていて本当に気持ちがいい。僕が舞台ミュージカル女優の歌に心底魅了されたのは純名里沙(宝塚時代〜東宝「レ・ミゼラブル」まで)、平野 綾(「モーツァルト!」「レディ・ベス」)そして「ミス・サイゴン」の本田美奈子くらいかな?平原もその仲間入りを果たした。

カッキー(柿澤)は軽妙なバートがぴったり!彼の舞台は色々観てきたが、劇団四季時代「春のめざめ」以来のはまり役ではないだろうか?

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舞台版は映画版とかなり異なっていたので驚いた。まず映画に登場した、笑うと空中に浮き上がってしまうアルバートおじさんのエピソードが丸々カットされている。逆に映画で出てこなかったミス・アンドリュー(バンクス氏幼少期の乳母。メリーが去った後、バンクス家にやって来る)が舞台版で復活。また楽曲「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」や「凧をあげよう」が歌われる位置(状況)が違う。そして映画版より舞台版の方が断然気に入った!

特に僕が感動したのが、バートが重力に逆らい劇場の壁・天井をタップダンスしながら360度ぐるっと回る場面。これは明らかにフレッド・アステアが主演したMGMミュージカル映画「恋愛準決勝戦」(1951)へのオマージュである(視聴はこちら)。スタンリー・ドーネン監督が編み出したこの特別な撮影方法は後に映画「2001年宇宙の旅」「ザ・フライ」「ポルターガイスト」等で再利用されたが、まさか舞台で再現されようとは想像だにしなかった。度肝を抜かれた。

以下、作品の構造分析をするが、フランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)の手法に倣った。

「メリー・ポピンズ」にはいくつかの二項対立がある。まず重要なのが、

  • 天空↔地上

であり、空から舞い降りるメリー・ポピンズは両者間を循環する第三項だ。シェイクスピア「夏の夜の夢」の妖精パック同様、神出鬼没で気まぐれなトリックスターだとも言える。バートと彼の仲間である煙突掃除人たちは地上と空の中間地点である屋根の上に棲息する。彼らも境界に潜み、自由に行き来するトリックスターである。だからメリーとバートは旧知の仲なのだ。因みに平原は演出家から、「メリーの正体は宇宙人なんだ」と言われたそう。

他に(二項対立仲介する)第三項として、

  • 天と地を結ぶ雨
  • 地上から天空に向かって揚げる凧
    (第二幕で凧と共にメリーは降りてくる)
  • 垂直方向に伸びる煙突から上空に立ち昇る煙
が挙げられる。また次のような二項対立もある。
  • 男↔女(1910年に時代設定した映画版でバンクス夫人は女性参政権運動に血道を上げている。舞台版では元女優で現在主婦という設定に)
  • 大人↔子供
  • 厳(いかめ)しい職場;銀行(建前)↔家庭(本音)
  • 富裕層(バンクス一家)↔召使い、鳩の餌売りをする老婆
  • メリー・ポピンズ(一匙の砂糖)↔ミス・アンドリュー(苦い毒消しの薬)
バンクス氏と婦人の喧嘩や、子供たちとバンクス氏の対立を仲介し、摩擦を緩和調停する役割を果たすのがメリー・ポピンズとバートである。これがトリックスターの本分だ。そして両極の項を結びあわせ、両者が混じり合うことを望むなら、その手段であり条件となるのが「穢れ」である。それ故にメリーとバートは煙突の筒を通って煤だらけになる。
抜群の面白さだったので、間違いなく再演されるだろう。今から待ち遠しくて仕方がない!

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日本人よ、もっと誇りを持て!

是枝裕和監督「万引き家族」(公式サイトはこちら)がカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した。

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現在までに同賞を勝ち取った日本映画は衣笠貞之助「地獄門」、黒澤明「影武者」、今村昌平「楢山節考」「うなぎ」そして「万引き家族」の5作品である。

大変めでたいことである。しかし「誇りに思う」とか「日本人スゴイ」とか気軽に言えない空気が我が国には蔓延している。未だにマスコミの大勢を占める左翼ジャーナリストたちの(日の丸とか、君が代とか)「愛国心」に対するアレルギー、嫌悪(Hate)がその原因となっている。

自分が生まれた国を自慢したくなるのは自然な気持ちの発露であるし、それを安易に「右翼」とか「国粋主義」「ファシズム」に結びつけようという彼らの思考は余りにも短絡的で愚かだ。お国自慢や家族自慢は「悪」ですか?馬鹿馬鹿しい。日本人はもっと自分たちに自信を持ったほうが良い。謙虚であることと、必要以上に卑下すること・自虐は全く別物である。

例えばある小学生が学校でいじめにあい、汚物扱いされているとしよう。「ああ僕/私って駄目な人間なんだ。消えてしまったほうがいい」と、そう考えてしまったらもうお終い。自殺という最悪の結果が待ち構えている。親が真っ先にすべきこと。まずいじめをやめさせること(しかし大抵の場合は難しい)。それが無理なら逃げ出すこと。転校して環境を変える。いちばん大切なことは駄目じゃないってことを本人に分からせ、自信を持たせることだろう。否定からは何も生まれない。徹底的に肯定し続けること

さて、カンヌで5回パルム・ドールに選ばれたことがどれだけ凄いことなのかを客観的データでお示ししよう。以下、ロシアやアジアなど近隣諸国の過去の成績を列挙する。

ソビエト連邦ーロシアの受賞が「偉大な転換」「鶴は翔んでゆく(戦争と貞操)」の2回、中国がチェン・カイコー「さらば、わが愛/覇王別姫」の1回、台湾・韓国は0。

では次点のグランプリ(審査員特別賞)はどうか?日本は市川崑「鍵」、小林正樹「切腹」「怪談」、勅使河原宏「砂の女」、小栗康平「死の棘」、河瀬直美「殯の森」の6作品。ソビエト連邦ーロシアは「惑星ソラリス」「シベリアーダ」「懺悔」「太陽に灼かれて」の4作品。中国はチャン・イーモウ「活きる」、チアン・ウェン「鬼が来た!」の2作品、韓国はパク・ヌチャク「オールド・ボーイ」(原作は日本の漫画)の1作品、台湾0である。

次に米国アカデミー外国語映画賞を見てみよう。なお1950−55年は「名誉賞」と呼ばれていた。

日本映画は黒澤明「羅生門」、衣笠貞之助「地獄門」、稲垣浩「宮本武蔵」、滝田洋二郎「おくりびと」の4作品。

ソビエト連邦ーロシアは「戦争と平和」「デルス・ウザーラ(但し監督は黒澤明)」「モスクワは涙を信じない」「太陽に灼かれて」の4作品、台湾がアン・リー「グリーン・デスティニー」の1作品、中国と韓国は0(韓国映画はノミネートすら一度もされたことがない)。

あと宮﨑駿「千と千尋の神隠し」がアカデミー長編アニメーション映画賞を受賞していることも忘れてはならないだろう(ベルリン国際映画祭では金熊賞=最高賞)。これもロシアを含むアジア諸国において、唯一の快挙である。

如何です?大したものじゃないですか。日本映画・ジャパニメーションは胸を張って世界に誇れる文化なのです。

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