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2018年5月

嘘つき野郎 ダニエル・デイ=ルイスの「ファントム・スレッド」とヒッチコック映画

評価:A

「ファントム・スレッド」の公式サイトはこちら。アカデミー賞で衣装デザイン賞を受賞。ほか作品賞・監督賞・主演男優賞(ダニエル・デイ=ルイス)・助演女優賞(レスリー・マンヴィル)・作曲賞の計6部門にノミネートされた。マーク・ブリッジスが衣装デザイン賞を受賞するのは「アーティスト」に続いて2度目である。彼の受賞スピーチが一番短かったということで、ご褒美にKawasakiのジェットスキーを獲得した。

Mark

上の写真、後ろに座っているのはプレゼンターのヘレン・ミレン。

Phantomthread

ダニエル・デイ=ルイスの引退作ということになっているが、声を大にして言いたい。彼奴(きゃつ)は大嘘つきである!僕は全く信じない。そもそも彼は1998年に突然、「役者を廃業して靴職人になる!」と宣言し、イタリアで修行を始めた。そこへマーティン・スコセッシ監督が足を運び、口説き落として「ギャング・オブ・ニューヨーク」で俳優復帰したという経緯がある。「リンカーン」で史上最多3度目のアカデミー主演男優賞を受賞した後もしばらく休業していた。今度はファッションデザイナーとして活動を始めると、ほざいているそうな……。アホか!彼奴(きゃつ)は宮崎駿や「トラフィック」のスティーブン・ソダーバーグ監督(引退宣言を撤回し「ローガン・ラッキー」で復帰)と同類(引退詐欺師)である。ほとんどビョーキだね。まぁ見ててみな、絶対戻ってくるから。そもそも靴職人とかファッションデザイナーとか、言うことが浮き世離れしているよな。支離滅裂だ。もう61歳だぜ!?

ポール・トーマス・アンダーソン監督は「マグノリア」とか「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」とか、ちっとも面白くなかったが、「ザ・マスター」(2012)で見直した。

「ファントム・スレッド」もスリリングでワクワクした!また言うまでもないが数々の衣装が素敵。ため息が出た。デイ=ルイスも文句なしに素晴らしい。男の色気がある。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の山師とか、リンカーン大統領を演じた男と同一人物だなんて全く信じられない。気難しい役柄だが、見ていて微笑ましい。

本作は明らかにアルフレッド・ヒッチコック監督「レベッカ」(1940)の構造を踏襲している。【
デイ=ルイス演じるデザイナー(「ファントム・スレッド」)↔イギリスに大邸宅マンダレイを所有するマキシム(ローレンス・オリヴィエ「レベッカ」)】、【デザイナーの姉(「ファントム・スレッド」)↔マンダレイ家の家政婦長ダンヴァース夫人(「レベッカ」)】、【ウェイトレスからデザイナー夫人となるアルマ(「ファントム・スレッド」)↔上流階級婦人の付き人( lady's companion)としてモンテカルロでマキシムと出会い、結婚する「わたし」(ジョーン・フォンテイン「レベッカ」)】【デザイナーが見る母の幽霊(「ファントム・スレッド」)↔レベッカ(死者)】という変換がある。

そして物語後半、デイ=ルイス演じるデザイナーが毒キノコを食べさせられるのかどうか、というサスペンス演出はやはりヒッチコックが監督しジョーン・フォンテインが主演した「断崖」(1941)を彷彿とさせる展開になっている(ヒロインは果たして、夫から保険金目当てで毒入りミルクを飲まされるのか、否か?)。

最後に、ロックバンド「レディオヘッド」のメンバーでもあるジョニー・グリーンウッドが作曲した匂い立つような音楽がシックでこよなく美しかったことを力説しておきたい。彼は「ノルウェイの森」も良かった。

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フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法

評価:B+

Florida

映画公式サイトはこちら

ウィレム・デフォーがアカデミー助演男優賞にノミネートされた。監督は全編iPhoneで撮影した映画「タンジェリン」が話題となったショーン・ベイカー。今回は35mmフィルムで撮影されているが、魔法がかかるラストシーンのみiPhone仕様となる。

6歳の娘ムーニーを演じるブルックリン・キンバリー・プリンスの演技が驚異的。

明らかに育児放棄をテーマにした是枝裕和監督「誰も知らない」(カンヌ国際映画祭最優秀男優賞受賞)の構造をそっくりそのまま拝借している(監督も影響を受けたことを認めている)。ただ本作の勝因は舞台設定をフロリダのディズニーワールド近傍にある、貧困層が住み着くモーテルにしたこと。「マジック・キャッスル(魔法の城)」という命名が皮肉である。アメリカで彼らは“隠れホームレス”と呼ばれているそう。【富裕層が集まる夢の国(ディズニーワールド)↔貧困層(マジック・キャッスル)】【子供たちの無邪気で屈託のない明るさ↔母親の後ろ暗さ】といった二項対立が鮮烈である。This is America. 色彩感も良かった。

ウィレム・デフォーの役回りはさしずめ、冴えない守護天使だね。

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アカデミー作品賞ノミネート/ゲイ映画「君の名前で僕を呼んで」にラヴェルの音楽が流れる理由(わけ)

評価:B

Callme

アカデミー賞で脚色賞(ジェームズ・アイヴォリー)を受賞、ほか作品賞・主演男優賞(ティモシー・シャラメ)・歌曲賞の計4部門にノミネートされた。監督はイタリア人ルカ・グァダニーノ。映画公式サイトはこちら

ジェームズ・アイヴォリーといえば「眺めのいい部屋」(1986)、ハワーズ・エンド(92)、そして(ノーベル文学賞を受賞した)カズオ・イシグロ原作「日の名残り」(93)など文芸映画を撮らせたら超一級の監督という印象があった。しかし最近、名前を聞かないなぁと思っていたら久々の復活である。なんと現在89歳、アカデミー賞史上最年長での受賞(全部門)となった。企画初期の段階ではアイヴォリーも共同監督を務める予定だったが、フランスの出資者から(2人が撮影現場で対立するんじゃないかと)懸念が出て、結局身を引いたという。

本作の話題で初めて知ったのだが、アイヴォリー自身がゲイだったそう。ところが公私にわたり長年パートナーだった映画プロデューサーのイスマイル・マーチャントが2005年に亡くなってしまった(1961年にMerchant Ivory Productionsを設立)。それで意気消沈し、すっかり創作意欲を失っていたということらしい。

考えてみればE.M.フォースター原作「モーリス」(87)もバリバリのゲイ映画であった。

英ガーディアン紙のインタビュー記事でアイヴォリーは、「君の名前で僕を呼んで」に下半身を露出したヌードシーンがないことに不満を持っていると述べている。シャラメ君とアーミー・ハマーの出演契約にフルヌードが禁止条項として盛り込まれていたためだという。

本作を観た率直な感想を言えば、結局同性愛という設定を男女に変換してみれば、割とありきたりな恋愛(はつ恋の)映画だな、と。それは同様のテーマを持つ「キャロル」とか、アン・リーがアカデミー監督賞を受賞した「ブロークバック・マウンテン」にも感じたことである。

シャラメ君演じる主人公エリオは17歳であり、女の子にも興味があって、同性愛者というよりは、思春期特有の両性愛的感情のように僕には思われた。

舞台が北イタリアなので、イギリスの令嬢がイタリアのフィレンツェを訪れ、そこで恋に落ちるアイヴォリー監督「眺めのいい部屋」のことを想い出した。そういう意味でアイヴォリー色が色濃い。

物語の設定は1983年。街にダスティン・ホフマン主演、映画「トッツィー」のポスターが張ってあり、映画「フラッシュダンス」の挿入歌"Lady,Lady,Lady"(作曲はイタリア生まれのジョルジオ・モロダー)に乗って踊る場面もある。当時僕は高校生だったが「トッツィー」も「フラッシュダンス」も映画館で観ているので、なんだか懐かしかった。

本作は全編に渡ってピアノ曲に彩られている。冒頭シャラメ君が弾いているのはJ.S.バッハのカンタータ「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」。そして彼が次第に恋に落ちると、フランス印象派の作曲家モーリス・ラヴェルのピアノ組曲「鏡」より”海原の小舟”が断片的に流れ始める。そして同じラヴェルの「マ・メール・ロワ」から”妖精の庭”も使用されている。何故ラヴェルなのか?実は既に10年前、拙ブログ記事にその答えを書いていた。

”海原の小舟”は高速アルベジオ(分散和音)が水の煌めきを巧みに表現しており、正に「ときめく」感情にピッタリと寄り添っている。

2020年に続編製作が予定されており、グァダニーノの構想ではリチャード・リンクレイター監督のビフォア・シリーズ(Before Sunrise、Before Sunset、Before Midnight )のようにしたいとのこと。

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神話の構造「スター・ウォーズ」と「指輪物語」&「ニーベルングの指環」

1876年に第1回バイロイト音楽祭において初演されたワーグナーの「ニーベルングの指環」4部作は北欧神話に基づいている。J・R・R・トールキンの「指輪物語」(The Lord of the Rings)は1954-5年に出版され、それに先立って「ホビットの冒険」が37年に出版された。そして1977年にジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」が公開される。

以下、この3作品の構造が全く同じであることを証明していくが、そこに宮﨑駿「崖の上のポニョ」も絡めたい。ポニョの父フジモトは彼女のことを”ブリュンヒルデ”と呼ぶ。「ニーベルングの指環」の登場人物である。つまり彼女と妹たちはワルキューレ(北欧神話に登場する半神)なのだ。ポニョが津波の上に立ち宗介のところに現れる場面で久石譲の音楽がワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」にそっくりなのは決して偶然じゃない。「ニーベルングの指環」で【神々の黄昏→人類の台頭】が描かれるのに対し、「ポニョ」は【人間の時代の終焉→新人類(ポニョと宗介の子供= a Star Child)誕生】をテーマにしている。洪水の後に古代デボン紀の水中生物たちが現れるのはそのためである(公式サイトへ)。なお「スター・ウォーズ」で作曲家ジョン・ウィリアムズが採用したライトモティーフ(示導動機)の手法は「ニーベルングの指環」に由来する。

構造分析はフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)の手法に倣った。

「ニーベルングの指環」のあらすじはこちら。人物相関図はこちら。「指輪物語」の概要についてはこちらとか、こちらの年表をご参照あれ。

「ニーベルングの指環」では

  • ヴォータンの支配する天上の神々の世界↔地下のニーベルング族《垂直方向の差異

という二項対立があり、その中間地点=地上の人間世界では

  • ヴェルズング族(ジークムント、ジークリンデ)↔フルンディングの一族

という二項対立がある。ジークムント、ジークリンデはヴォータンが人間に産ませた双子の兄妹なので

  • 神々(その長がヴォータン)↔フルンディング(人間界)

の相克にも置き換えられる。これが最終夜「神々の黄昏」では

  • ジークフリート(ジークムントとジークリンデの間に生まれた息子)↔グンター(ライン河畔ギービッヒ家の当主)+ハーゲン(グンターの異父兄弟、父はニーベルング族のアルベリヒ)

となる。

「指輪物語」では

  • 冥王サウロン+サルマン(白の魔法使い)↔人間+エルフ(自然と豊かさを司る半神)+ガンダルフ(灰色の魔法使い)《水平方向の差異

「スター・ウォーズ」では

  • 銀河共和国(滅亡後はレジスタンス)&ジェダイの騎士(白っぽい服装)↔銀河帝国(シスの暗黒卿、ダース・ベイダー)(黒っぽい服装)《光と闇、明度の差異

変換される。ここで興味深いのが「指輪物語」で魔法使いが両陣営に分かれていること。「スター・ウォーズ」でもジェダイの騎士が light sideとdark side両方に布陣している。これに相当するのが「ニーベルング」では人間である。【神と結合し、子(ジークムントとジークリンデ)を産む女↔地下世界の住人ニーベルング族と結合し、子(ハーゲン)を産む女】

では上述した二項対立を結び、その境界を超え循環する第三項は何か?「ニーベルング」「指輪物語」については言うまでもなく指輪であり、「スター・ウォーズ」ではForce(日本語では〈理力〉〈霊力〉、中国語では〈原力〉と訳された)が該当する。指輪フォースも絶大な力を秘めていることは確かだが、その実態はよく判らない(指輪の場合は欲望のメタファーでもある)。得体が知れない。レヴィ=ストロースはこれをゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)と名付けた。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。そしてゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシア(オセアニア)の原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。ジャック・ラカン(1901-81)の精神分析においてその機能を果たすのは「ファルス」(象徴的な男根)と言える。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)は浮遊する過剰シニフィアンである。意味が無いのではなく、その多義性に特徴がある。なお「ハリー・ポッター」シリーズにおけるゼロ記号は勿論、魔法だ。

「ニーベルングの指環」ではライン川の3人の乙女が守る黄金を地底の住人アルベリヒが奪い、鍛えて指輪を造る。最終的にブリュンヒルデの手で指輪はラインの乙女たちのもとに戻る。その時、ライン川が氾濫し大洪水が発生する。「指輪物語」においてサウロンはモルドールにある滅びの山(火山)の火口で金属を鍛えて指輪を造る。そして最終的にフロドが滅びの山の火口に指輪を葬る。その行為は大噴火というカタストロフィー(破滅的な災害)を起こす《からへの変換》。両者に共通するのは「一体化していたあるものを無理矢理引き剥がし過渡の分離をしたために起こった混乱・無秩序・悲劇を解消するために、仲介者がそれを本来あるべき場所に戻す」という構造(プロット)である。また「指輪物語」では白の魔法使いサルマンの居城があるアイゼンガルドをエント(木に似た巨人)がアイゼン川のを引き入れて水没させる。では「スター・ウォーズ」の場合はどうだろう?フォースという神秘的な力を持つアナキン・スカイウォーカー(=ダース・ベイダー)はダース・シディアス(シスの暗黒卿/パルパティーン)の計略にはまり、妻や子供たちと引き離される。しかし最後に、家族のもとに還る(エピソード6 ジェダイの帰還)。その際に核爆発によるデス・スター内部からの崩壊=カタストロフィーが発生する(初代および第2デス・スター、そしてエピソード7のスターキラー基地は全て同じ運命をたどる)。大洪水火山の噴火核爆発ーこれら「すべてを呑み込む」性質(昔話では山姥、ユング心理学におけるグレートマザー/太母に相当)は不変である。

洪水という主題は「崖の上のポニョ」にも現れる。旧約聖書では言うまでもなく《ノアの方舟》だ。

「スター・ウォーズ」におけるR2-D2とC-3POの役割は傍観者/語り部で、かつコメディリリーフだ。つまり彼らは(二項対立の)境界を超え、行き来するトリックスターである。その直接の影響が黒澤明「隠し砦の三悪人」であることは余りにも有名だが、「指輪物語」の中ではさしずめホビットが該当しよう。”語り部”の役割はビルボ・バギンズ→フロド・バギンズに、”コメディリリーフ”の役割はピピンとメリーが分け合い担っている。シェイクスピア「夏の夜の夢」のトリックスター・妖精パックも語り部であり、劇の最後に口上を述べる。「指輪物語」に於けるトリックスターはの神ローゲ(北欧神話のロキLoki)だろう。ローゲはいたずら好きで狡猾な半神だ。つまり人間と神の境界に潜む。神出鬼没であり、「ワルキューレ」ではヴォータンからの召喚に応じ岩山のブリュンヒルデを魔ので囲む。そして「神々の黄昏」では神々の居城=ヴァルハラ城を焼き尽くす。トリックスターの面目躍如である(ロキは「終わらせる者」という意で、両性具有であるという)。ギリシャ神話のトリックスター・プロメテウスは神の世界から人間界にをもたらす。は【生のもの→調理したもの】という、自然から文化への移行を象徴している。また宮﨑駿「ハウルの動く城」に登場するカルシファー≒ロキと考えてほぼ間違いない。

  • 「ニーベルング」ジークムントとフンディングの戦いのときヴォータンが現れ、自らが与えた剣ノートゥングを打ち砕く。武器を失ったジークムントは、フンディングの槍に刺されて絶命する↔「指輪物語」ゴンドール(都)の執政デネソールは戦で重傷を負った次男ファラミアが死んだと勘違いし、ファラミアもろとも焼身自殺を図る↔「スター・ウォーズ」ダース・ベイダーはルークとライトセーバーで戦い、ルークの腕を切り落とす《親族の過小評価
  • 「ニーベルング」洞窟の中で大蛇に変身したファフナー(巨人族)が財宝を守っている。ジークフリートが退治し、指環と隠れ頭巾を奪う↔「ホビットの冒険」スマウグ(ドラゴン)が財宝を守っている。ビルボが黄金の杯を盗む

隠れ頭巾というガジェット(小道具・仕掛け)は「ホビットの冒険」「指輪物語」において、指輪をはめると姿が消えるという設定に変換されている。また「スター・ウォーズ」ではジェダイの騎士がフォースの力(理力)で自分の気配を消すことが出来る。「ハリー・ポッター」にも隠れマントが登場する。

「ニーベルング」における【父ヴォータン↔娘ブリュンヒルデ】の二項対立は「指輪物語」では【ゴンドール(都)の執政デネソール↔息子(次男)ファラミア】の確執に変換されている。その背景には死んだ長男ボロミアに対するデネソールの偏愛がある。「スター・ウォーズ」では言うまでもなく【父ダース・ベイダー(アナキン)↔息子ルーク・スカイウォーカー】だ。プリクエル(前日譚、エピソード1-3)では【師オビ=ワン・ケノービ(父代わり)↔アナキン・スカイウォーカー】の衝突に置き換えられている。ギリシャ神話《エディプス王》的”父殺し”の主題はエピソード7の【ハン・ソロ↔カイロ・レン】に引き継がれる。

「指輪物語」のファラミアは父に愛してもらいたいと切望している。しかしそれは決して満たされない。これは旧約聖書《カインとアベル》の物語の引用だ。後にスタインベックの小説「エデンの東」になった。カインが弟アベルを殺すのは、神ヤハウェがアベルしか愛さなかったから。つまり嫉妬である。「ニーベルング」ではブリュンヒルデとの結婚の宴を開いたギービッヒ家の当主グンターを異父兄弟ハーゲンが殺し、指輪を奪おうとするという形で現れる(「神々の黄昏」)。「スター・ウォーズ」プリクエルでは女王パドメ・アミダラとオビ=ワンが密通ているのではないかという疑心暗鬼・嫉妬から、アナキン・スカイウォーカーがオビ=ワンとの死闘になだれ込む(「最後のジェダイ」ではレイを巡ってカイロ・レンが叔父ルークに嫉妬する)。

「ニーベルング」のジークムントとジークリンデという双子の主題は「スター・ウォーズ」の双子ルークとレイアに再現される。エピソード4ではルークがレイアに恋心を抱いているようにも描かれる《近親相姦的、親族の過大評価》。「指輪物語」ではアラゴルン(帰郷した人間の王)と結ばれるエルフ族のアルウェンに双子の兄エルラダンとエルロヒアがいるという設定として現れる。双子とは一つの卵子が二つに分化することの暗喩であり、自然(神々の黄昏)→文化(人間の台頭)への移行を象徴している。

ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」の撮影時に繰り返し観ていたという黒澤明「七人の侍」もまた、【武士道の終焉→庶民(農民)の時代の到来】を描いている。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はその著書「シネマ」の中で「七人の侍」に触れ、「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在すると語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

ジェダイの騎士(「ニーベルングの指環」では神々)の置かれた立場も正に、侍と同じなのである。

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【いつか見た大林映画】第7回「恋人よわれに帰れ LOVER COMEBACK TO ME」と尾道映画祭

2月24日(土)から泊りがけで約20年ぶりに尾道を訪れた。

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上の写真は千光寺公園近くから眺めた尾道水道の風景。大林映画「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」ではこの岩にピアノが置かれ、右手の小指がないドジなヤクザ・永島敏行が「エリーゼのために」を弾く。

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泊まったのは料亭旅館「魚信」。大林映画「ふたり」では石田ひかり演じるヒロインの親友・真子(柴山智加)の実家として登場し、「あした」や「マヌケ先生」もここでロケされた。

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兎に角、新鮮な魚が美味しかった!部屋からの眺めも最高。

翌25日は尾道映画祭@尾道商業会議所記念館へ(会場の定員は50名)。最新作「花筐」上映後、大林宣彦監督、映画出演者である常盤貴子、満島真之介、原雄次郎らが登壇し、早稲田大学名誉教授で映像作家でもある安藤紘平の司会でティーチインが行われた。招待された(監督の母校)尾道市立土堂小学校児童からの質問に答える形式である。

そもそも「花筐」は上映時間2時間49分もあり、年齢制限がPG-12(12歳未満は、保護者の助言・指導が必要)だ。レイプシーンもあるしね。小学生に観せて大丈夫!?と危惧の念を抱いた。案の定、上映途中にトイレに行く生徒が数名いた。

満島真之介は小学生からの質問にも真剣に答えるnice guyだった。現在、園子温監督の映画に参加しているということで、2日前に園監督を尾道に連れてきて大林監督に引き合わせたそう(園は大林監督の著書「いつか見た映画館」にも応援メッセージを寄せている)。また大林監督を評して《海と山と一体になった人》と。「花筐」ロケ地・唐津の海(日本海)で泳いだときは怖かった。外から襲って来る感じ。一方で尾道(瀬戸内)の海は内側に何かいる気配を感じたと。また彼は沖縄出身で、地元の人は海で泳ぐのに水着に着替えないそう。Tシャツ・短パンといった普段着のまま海に入り、家に帰ったらそのまま服を脱がず入浴し塩を洗い流すのだと語った。

実は僕、常盤貴子があまり好きじゃなかったのだけれど、実物を目の前にするとさすがに綺麗だし、気さくで気配りができる素敵な女性だった。彼女は映画終盤のパーティー・シーンで盆の上に乗り、助監督が手動でそれを回している状態でダンスしたというエピソードを披露し、大変興味深く聴いた。 

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続いて「恋人よわれに帰れ LOVER COMEBACK TO ME」を初めて鑑賞。1983年9月23日にフジテレビで放送されたテレビドラマであり、ビデオ化・DVD化が一度もされず幻の作品となっていた。なお火曜サスペンス劇場で放送された「可愛い悪魔」と「麗猫伝説」は16mmフィルムで撮影されたが、「恋人よ」はビデオ撮りである。

出演は沢田研二、大竹しのぶ、泉谷しげる、小川真由美ほか。進駐軍兵士役で登場したトロイ・ドナヒューは後に大林映画「漂流教室」にも出演している。脚本は「夢千代日記」の早坂暁。「転校生」同様、J.S.バッハ”G線上のアリア”が使用さた。大竹しのぶが広島の被爆者で、弟が包帯で顔までぐるぐる巻きになり死んでいくのだが、その姿を見てハッとした。「アッ、雪子だ!」と。大分県臼杵市で2001年(同時多発テロの年)にロケされた大林映画「なごり雪」で須藤温子演じるヒロインが交通事故に合い、同じような姿になるのである。そうか、あの場面にも監督の戦争への想いが込められていたんだ……。

朝鮮戦争への兵役を拒否した日系二世役のジュリーは追っ手から逃れ、大竹しのぶとともに広島港から瀬戸内の無人島に渡る。まるで幽霊のようにボートで迎えに来るのが小川真理子。その立ち姿を見た瞬間、「うぉぉカロンの艀(はしけ)じゃないか!!」と思わず叫びそうになった。カロンとは死者を「死の島」に導く水先案内人であり、「花筐」と共に大林監督の(未だ実現していない)ライフワークである「草の花」を執筆した福永武彦最後の小説「死の島」(題名はベックリンの絵に由来)で言及される。そして「死の島」には広島で被爆した画家・萌木素子が登場する。なんと「恋人よわれに帰れ」は大林版「死の島」だったのだ。そして劇中、原爆は2度炸裂した。

Die_toteninsel

椹木野衣(美術評論家)氏を迎えた《車座シンポジウム》で大林監督は次のように語った。

常識は世間と表現者では違う。表現者は作品と対話する。通常、悲しい時には悲しい音楽が、楽しい時には明るい音楽が流れる(劇伴)が、黒澤明監督は逆に付けた。つまり悲しい時に明るい音楽を流したのである。これが対位法だ。

表現者は世の中をより良くするために命がけで生きている。第二次世界大戦中、小津安二郎監督は「目の前にあることは、受け入れざるを得ないではないか」と言って軍報道部映画班としてシンガポールに行った。しかしフィルムは1秒たりとも回さなかった。それが彼の覚悟だった。敗戦後直ちに引揚船には乗らず、しばらく現地で捕虜生活を送った(半年を経て帰国)。

映画は理解するものではなく、フィロソフィー(哲学/哲理)を描く。そして戦争や災害など大きな出来事に遭遇し、Panic(わけの分からない恐怖、恐慌)をきたしたときはそれを解きほぐす効用を持つ。

英語にthe film artistという言葉があるが、僕は20歳の時に「映画作家」になった。自ら「映画監督」と名乗ったことはない。

ここで安藤教授から木下惠介監督が第二次世界大戦中(1944年)に陸軍省の後援で撮った国策映画「陸軍」の紹介があり、いかにしてその中に反戦の意志を忍び込ませたかが解説された(結果として木下は情報局から睨まれ、敗戦の日まで仕事が出来なくなった。この辺の事情は原恵一監督の映画「はじまりのみち」に詳しく描かれている)。

安藤教授は若い頃、寺山修司の劇団=演劇実験室「天井桟敷」に在籍し、寺山とパリに行った時、彼の勧めで16mmカメラを購入し映像を撮るようになったという。コロンビアの作家ガルシア=マルケスの小説「百年の孤独」を映画化した彼の遺作「さらば箱舟」に触れ(完成後原作者と係争となって公開できず、改題および原作クレジットの削除などの条件を受諾して2年後に公開された)、寺山の言葉「百年たったら、帰っておいで」を紹介した。

Tera

映画は”風化しないジャーナリズム”だと大林監督は語る。だから今すぐに理解されなくても良い。百年後に見えてくるものもある。

大林監督は寺山と親交があり、「大林さんの映画は僕の作品に似ている」「いや、君のが僕のに似ているんだよ」と言い合う間柄だったという。

椹木氏は大林映画「この空の花 長岡花火物語」を巨大な壁画に喩えた。額縁のない絵の中に彷徨いこんだような。時間(の感覚)がおかしくなると。また「転校生」とか「はるか、ノスタルジィ」の物語はまるで輪廻転生のようだとも。

「映画は記録ではなく記憶を描くんです。過去も未来もない。混沌とするから記憶になるんです」と大林監督。またヴィジュアリスト・手塚眞(手塚治虫の息子で大林映画「ねらわれた学園」に出演)から「花筐」の登場人物ミナの名前はブラム・ストーカーの「ドラキュラ」から採ったんですか?と訊かれた。言われるまで全く気が付かなかった、でも「(原作者の)檀一雄さんはきっとブラム・ストーカーを読んでいたんじゃないかな」と。

大林映画「HOUSE ハウス」「恋人よわれに帰れ」「野ゆき山ゆき海べゆき」「花筐」などに原爆が登場するが、大林監督はスタッフに敢えて「美しく描いてくれ」と言う。「美しいからこそ怖いんだよ。天使が悪魔の顔をしている」戦争映画を白黒で撮ると《過去のカタルシス》になってしまう。だから色鮮やかに描く。

次回作は原爆をテーマにしようと考えており、新藤兼人監督の遺稿シナリオ「ヒロシマ」について触れた。「(原爆投下の瞬間)一秒、二秒、三秒の間に何がおこったかをわたしは描きたい。五分後、十分後に何がおこったか描きたい。それを二時間の長さで描きたい。一個の原爆でどんなことがおこるか」と新藤は書き残している。「ピカ、ドンの二秒間に人々の物語がある」と大林監督。

「宇宙に真っ白いものはないんです。真っ白なスクリーン、その不自然な空間に何を描くのか?それは我々にとって原稿用紙であり、(油絵の)キャンバスなんです。映画が今まで何を語ってきたのかを一言で言えば、人は傷つきあって、許しあって、愛を覚える、ということです。 手話っていうのは国によって違います。どうして世界共通語ではないのか?つまり違いを楽しむということなんです。そうか、僕はこうするけど、君はそうするんだね。そこに好意とか共感が生まれるのです」

こうして含蓄のある2時間はあっという間に過ぎ去っていった。

予告:次回の【いつか見た大林映画】は大阪市内で開催された講演会「いのちのセミナー」で大林監督が語ったことについて詳細にご報告します。乞うご期待!

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モリーズ・ゲーム

評価:B-

Mollysgame

映画公式サイトはこちら

映画「ソーシャル・ネットワーク」「マネーボール」「スティーブ・ジョブズ」のシナリオを手掛け、テレビ・ドラマでは「ザ・ホワイトハウス」「ニュースルーム」で名高い脚本家アーロン・ソーキンの映画監督デビュー作である。これは見逃せない!と勢い勇んで映画館に駆けつけたのだが、正直肩透かしを食らった。

策士策に溺れる
……これに尽きるだろう。確かに「ソーシャル・ネットワーク」や「スティーブ・ジョブズ」みたいに構成は凝っている。しかしそれが物語に貢献しているとはとても思えない。ただ意味もなく、ややこしくしているだけ。モーグルのオリンピック代表選手を目指していたアスリートが何故、高額ポーカー・ゲームの経営者に転身したのか?最後の落とし所が娘の父親に対する反抗心に持っていくのもいただけない。お前はフロイトか!

あとジェシカ・チャステインがやたらと露出度が高い服装をしているのだが、そのくせ精彩に欠ける。「ゼロ・ダーク・サーティ」や「女神の見えざる手」の彼女の方が余程魅力的だった。これは演出力の差だろう。

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アカデミー助演女優賞受賞「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」

評価:A+

Itonya

トーニャ・ハーディングの母親を演じたアリソン・ジャニーが助演女優賞を受賞し、他に主演女優賞(マーゴット・ロビー)、編集賞にノミネートされた。公式サイトはこちら

むっちゃ面白かった!!痺れた。チャーリー・チャップリンの次の言葉を想い出した。

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

(人生は間近で見ると悲劇だが、遠くから眺めれば喜劇である)

実話である。トーニャ当人にとっては本当に気の毒な話なのだが、彼女の周りが見事にクズばっかりなので、不謹慎ながら笑ってしまう。特に元謀報員を自称する彼女のボディガード・ショーンは最高だね!《映画史上最低で賞》を彼にあげたい。

フィギュアスケートのシーンの編集が切れ味鋭くお見事。また「信頼できない語り手」という趣向が味わい深い。

僕が本作を観ながらすごく近いなと感じたのが「フォックスキャッチャー」である。

五輪選手が主人公の実話という共通項だけではない。両者ともに見事なアメリカ論になっているのである。「フォックスキャッチャー」はマッチョ信仰、そして「アイ、トーニャ」は貧富の差、White Trash (Poor White)の有り様について。なんて惨めなんだろう。藻掻いても藻掻いてもそこから抜け出せない哀しみ。トーニャのお母さんって映画「8 Mile」(アカデミー歌曲賞受賞)に登場したエミネムのお母さん(キム・ベイシンガー)みたいだった。エミネムはデトロイトのトレーラーハウスで暮らしていたんだ。彼の場合はそこから脱出して成功を掴んだのだからトーニャと好対照だね。人生いろいろ。

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カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞「ザ・スクエア 思いやりの聖域」

評価:A

Thesquare

スウェーデン映画である。カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞し、アカデミー賞の外国語映画部門にもノミネートされた。公式サイトはこちら

当然ダイアログはスウェーデン語なのだが、序盤に主人公である現代美術館のチーフ・キュレーター(学芸員)にアメリカの女性記者が英語でインタビューをする場面が登場し、「なんだか見たことある人だなぁ」と数秒考えて気が付いた。

Huluから配信されている「ハンドメイズ・テイル/侍女の物語」でエミー賞並びにゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞したエリザベス・モスだった(作品賞もダブル受賞)。彼女は「侍女の物語」のプロデューサーも兼任している。これ、すこぶる面白いんだ。上のポスター、左端黒服の女性がエリザベス・モス。

可笑しかったのは本作と、次に観た「アイ、トーニャ」でスラングcuntが使われていたこと(意味の説明はこちら)。

リベラルであろうとしながらもエリート意識から逃れられない人々の滑稽さが赤裸々に暴き出される。

アートの世界でもSNSで一生懸命情報を発信したり、YouTubeの炎上を狙うなどの努力が涙ぐましい。あと北欧型福祉国家のスウェーデンに乞食がいるのに驚かされた。40年位前には日本にもいたけれど、最近は見かけなくなった(ホームレスとはちょっと違う)。難民対策に苦悩するヨーロッパの姿が浮き彫りにされた。

クスクス笑いながら観ていると、終盤主人公の幻想世界に入って行き、空恐ろしくもなる仕掛けが施されていた。

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デュメイ/関西フィルのドヴォルザーク:弦楽セレナーデ

5月16日(水)ザ・フェニックスホールへ。

Spring

オーギュスタン・デュメイ(指揮&ヴァイオリン)/関西フィルハーモニー管弦楽団のメンバーによる弦楽アンサンブル(コンサートマスター:岩谷祐之)で、

  • ドヴォルザーク:ロマンス ヘ短調 作品11
  • ブラームス:ハンガリー舞曲 第2番、第5番
  • メンデルスゾーン:無言歌集より ①安らぎもなく(作品30-2)
    ②後悔(作品19-2)③さすらい人(作品30−4)
  • ドヴォルザーク:弦楽セレナーデ

前半「ロマンス」から無言歌①まではデュメイのソロ&弦楽アンサンブルによる演奏で、無言歌②以降デュメイは指揮に専念した(指揮棒なし)。

デュメイは決してヴァイオリンを咽び泣かしたりしない。その音は鋭く尖っていて、情熱が迸る。

僕は過去にチャイコフスキーの弦楽セレナーデを4回、生演奏で聴いている。

ところがドヴォルザークの方はなんと今回が初めて!実は意外に演奏されないのだ。CDではカラヤン/ベルリン・フィルの名盤が有名で、チャイコフスキー&ドヴォルザークのカップリングが多いのにね。

デュメイはここでも感傷に浸ることなく、山椒は小粒でもぴりりと辛い。第3楽章 スケルツォ:ヴィヴァーチェは目の前の草を鎌でバッサバッサと薙ぎ倒すかのように進む。第4楽章 ラルゲットは硬質な抒情がキラッと光り、畳み掛けるような第5楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェは動的で弾けていた。

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デュメイが弾くコルンゴルト!!「終の棲家、アメリカ」関西フィル定期(余談:テルミン秘話)

4月29日(日)ザ・シンフォニーホールへ。関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

Kan

指揮はインドネシアに生まれ、ハノーファー高等音楽院で大植英次に師事したアドリアン・プラバーヴァ。アムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管ではベルナルト・ハイティンクの副指揮者を務めた。ヴァイオリン独奏はオーギュスタン・デュメイ(関西フィル音楽監督)で、プラバーヴァの招聘はデュメイの指名だという

  • ミクロス・ローザ:映画「深夜の告白」組曲
  • コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲
  • バルトーク:管弦楽のための協奏曲(オケコン)

ミクロス・ローザはハンガリー出身で(ハンガリー式読みはロージャ・ミクローシュ)、映画「白い恐怖」「二重生活」「ベン・ハー」で3度アカデミー作曲賞を受賞している。

大指揮者ブルーノ・ワルター(ベルリンに生まれたユダヤ人)はロージャの「主題と変奏、フィナーレ」をしばしば演奏会で取り上げており、レナード・バーンスタインがワルターの代役でニューヨーク・フィルに華々しいデビューを飾った折も、この曲を振った。

「深夜の告白」(1944)はビリー・ワイルダー監督の映画で、ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」(1970)ではハイフェッツが初演したロージャのヴァイオリン協奏曲 第2番が流用されている(ホームズの趣味はヴァイオリン演奏なので)。二人の最後の共同作業は78年の「悲愁」Fedora。「サンセット大通り」の焼き直しであり、ウィリアム・ホールデンも出演している。僕はロージャ晩年の「針の目」(1981)の音楽が大好きで、15歳の時にサントラのLPレコードを買った。後にCDで買い直そうと血眼になって探したのだが結局手に入らず、漸く昨年、iTunes Storeで発見し、早速ダウンロードして聴いた。感無量だった。

「深夜の告白」の”前奏曲”は重々しく感じるが、続く”面会”になると甘美な音楽となり、チェロのソロがこよなく美しい。「白い恐怖」を彷彿とさせる。余談だがここで面白いエピソードをご紹介しよう。

映画音楽に電子楽器テルミンを使用したのはロージャが史上初だった。

Ter

で、テルミンが登場するのが北米で1945年11月16日に公開されたビリー・ワイルダー監督「失われた週末」(アル中が主人公)と同年12月28日に公開されたアルフレッド・ヒッチコック監督「白い恐怖」の2作品である。「白い恐怖」のプロデューサーは「風と共に去りぬ」や「レベッカ」で知られるデヴィッド・O・セルズニック。「失われた週末」公開直後にロージャのもとにセルズニックの秘書から電話がかかってきたそうだ。曰く「セルズニック氏は自分の作品より先にテルミンが使用された別の映画が公開されたと聞き、大変怒っておられます」どうやら作品の完成自体は「白い恐怖」の方が先だったようである。

驚かされたのはプラバーヴァが「深夜の告白」とオケコンを暗譜で振ったこと。演奏頻度が高いバルトークは理解できるが、ロージャまでとは恐れ入った。新作でも暗譜で振る大植イズムが弟子にも浸透しているのか!?

21世紀に入り、漸くコルンゴルトの時代が到来した。

東京に遅れた関西だが、コルンゴルトのコンチェルトは大阪交響楽団、大フィルに続いて関西フィルでも遂に取り上げられた。しかも名手デュメイで!!10月には日本センチュリー交響楽団の定期で演奏される。

デュメイはたっぷりと豊かに歌う。繊細だが決して甘過ぎない。第2楽章は硬質な抒情があった。pp(最弱音)、ハーモニクス(倍音)の美しさが際立つ。最後は澄み切った青空に、音がスーッと消えていった。ロンド形式の第3楽章はキレッキレ。カミソリのような鋭さがあった。オケはリズミカルで弾け、間奏でデュメイが金管に向い満足そうに頷く姿も見られた。特にヴァイオリンとフルート・ソロとの掛け合いは最高!圧巻の演奏だった。嘗てデュメイはEMIや独グラモフォンから沢山のアルバムをリリースしていたが、最近はとんと音沙汰がない。是非コルンゴルトはレコーディングして貰いたいものだ。

オケコンも切れ味鋭く、緊張とその緩和のメリハリ、コントラストが鮮烈だった。第3楽章「エレジー」は夜の静寂(しじま)を切り裂く悲痛な鳥の叫び。正直、師匠である大植さんのオケコンより良かった。さすがデュメイが見込んだ男だけのことはある。プラバーヴァ、恐るべき才能だ。

この演奏会の直後、福島駅からJR環状線に飛び乗って京橋駅まで大阪桐蔭高等学校吹奏楽部を聴きに行ったのだが、それはまた、別の話。

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ソンドハイムのミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」とシェイクスピア「夏の夜の夢」

5月4日(祝)梅田芸術劇場へ。スティーヴン・ソンドハイム作詞・作曲のミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」を観劇した。

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実はこの作品を以前、近鉄劇場でも観ている。1999年7月5-18日の全17公演で演出はジュリア・マッケンジー、音楽監督・指揮は宮川彬良だった。その時のキャストは以下の通り。

デジレ・アームフェルト(女優):麻美れい
フレデリック・エーガーマン(弁護士):細川俊之
シャーロット・マルコム(伯爵夫人):安寿ミラ
カールマグナス・マルコム(伯爵):寺泉 憲
フレデリカ・アームフェルト(デジレの娘):松下 恵
ヘンリック・エーガーマン(フレデリックの息子):岡田真善
アン・エーガーマン(フレデリックの幼妻):高塚恵理子
ペトラ(エーガーマン家のメイド):池田有希子
マダム・アームフェルト(デジレの母):東恵美子

今回の演出は役者として本作に出演した経験もあるマリア・フリードマン。1973年のブロードウェイ初演を演出したのが「屋根の上のヴァイオリン弾き」「キャバレー」「オペラ座の怪人」「スウィーニー・トッド」のハロルド・プリンスで、トニー賞においてミュージカル作品賞、楽曲賞、ミュージカル台本賞ほか計6部門を受賞した(その年に演出賞を制したのは「ピピン」のボブ・フォッシー)。デジレのナンバー"Send in the Clowns"は数多くの大女優が歌っており、僕が聴いたことがあるのはジュディ・デンチ(英国で出演)、グレン・クローズ、そしてキャサリン・ゼタ=ジョーンズ(2010年再演版に出演し、トニー賞でミュージカル主演女優賞を受賞)である。1979年に劇団四季が日本初演した際にデジレを演じたのは越路吹雪!他に久野綾希子、市村正親、鹿賀丈史、島田祐子らが出演した。

イングマール・ベルイマン監督のスウェーデン映画「夏の夜は三たび微笑む」(1955年)に着想を得たこのミュージカルのあらすじはこうだ。

19世紀末のスウェーデン。18歳のアン(蓮佛美沙子)と再婚した弁護士フレデリック(風間杜夫)はなかなか妻に手が出せず、結婚して11ヶ月経てもアンは処女。神学校に通う息子のヘンリック(ウエンツ瑛士)は密かに義母アンに恋心を抱いていた。フレデリックとアンはある日、芝居を観に出かける。主演女優のデジレ(大竹しのぶ)はフレデリックの昔の恋人。舞台に立つデジレを見た瞬間アンはふたりの関係を察し、泣きながら席を立つ。14年ぶりに再会を果たしたデジレとフレデリックは旧交を温めるように寝室に向かうが、デジレの現在の恋人で女房持ちのカールマグナス伯爵(栗原英雄)が突然来訪する。伯爵はふたりの仲を怪しみ、帰宅後妻のシャーロット(安蘭けい)にフレデリックのことを調べるよう命令する。早速アンを尋ねたシャーロットは全てを暴露し、互いの夫をデジレに取られたと慰め合う。一方フレデリックのことが気になるデジレは自分の母親と娘フレデリカが住む田舎の屋敷に、一家を招待することを計画。伯爵夫妻もこの件を嗅ぎつけ、強引に田舎に向かった。遂に顔を合わせることになった三組の家族。それぞれがさまざまな思惑を抱きながら、一夜を共にすることになる。

デジレの母はWikipedia(English ver.)の説明によると"courtesan"、つまり(王侯貴族・金持ちなどを相手にした)高級売春婦である。

5人(女性3+男性2)によるリーベスリーダー(the Liebeslieder Singers)がコーラスを担う。"Liebeslieder"はドイツ語で、英語では"love songs"となる。つまり「恋の歌の歌い手」だ。

音楽の特徴は、ほぼ全てが3拍子=ワルツで作曲されているということ。モーリス・ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」や「ラ・ヴァルス」からひらめきを得ており、大変優雅な作品である。

「夏の夜は三たび微笑む」はシェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」を基にしている。ベルイマンは映画監督としてだけではなく、舞台演出家としても名を馳せた。「夏の夜の夢」も当然演出している→こちら

ベルイマンには”神の沈黙”三部作がある。彼の父親は厳格な牧師で、キリスト教に対する強烈な嫌悪感があり、映画「仮面/ペルソナ」ではイエス・キリストを蜘蛛として描いている(生贄の羊=神への供物)。その気持ちがヘンリックの描写に反映されている。

ではベルイマンがどのように「夏の夜の夢」を換骨奪胎(ブリコラージュ)し、現在の形に練り上げていったかを分析してみよう。A Little Night Musicはドイツ語でEine kleine Nachtmusik(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)、日本語では「小夜曲」となるので、以下そう呼称する。

  • 両者とも夏の夜の森が舞台となる。「夏の夜」月夜↔「小夜曲」白夜
  • 「夏の夜」は貴族社会・職人社会・妖精世界の3つが混じり合う↔「小夜曲」では3つの家族が入り乱れる

Night

  • 「夏の夜」における妖精たち(豆の花、蜘蛛の巣、蛾の羽根、芥子の種)↔「小夜曲」リーベスリーダー
  • 「夏の夜」妖精の王オーベロンと女王ティターニアはとりかえ子を巡ってけんかをする↔「小夜曲」デジレの娘フレデリカの父親はもしかしたらフレデリック?(最後まで真相は明かされない)
  • 「夏の夜」ヘレナはディミートリアスを追いかけるが、許婚ハーミアに執心する彼は見向きもしない。しかしパックのいたずら(キューピッドの矢の魔法から生まれた媚薬)でディミートリアスはヘレナにゾッコンになる↔「小夜曲」ヘンリックはアンが好きだが見向きもされない。しかし最後に二人はくっつく
  • 「夏の夜」ヘレナはハーミアに嫉妬する↔「小夜曲」アンはデジレに嫉妬する
  • 「夏の夜」ヘレナを巡ってライサンダーとディミートリアスは決闘する↔「小夜曲」デジレを巡ってフレデリックとカールマグナス伯爵は決闘する
  • 「小夜曲」エーガマン家のメイド・ペトラはマダム・アームフェルトの執事フリードと屋外でセックスしようとする。正に「野生の思考」の持ち主であり、「夏の夜」では職人ニック・ボトムに該当する。ボトムはパックのいたずらでロバの頭に変容されてしまう。西洋においてロバというのは頭が足りない馬鹿の象徴であると同時に、精力絶倫を意味する。本能のまま生きる「夏の夜」の職人たちは最も無意識に近接した深層にいる。それは「小夜曲」の使用人たちも同様。その対極(意識の浅層)に位置するのが禁欲=理性で自己を制御しようとするヘンリック。
  • では「夏の夜」のいたずら好きなトリックスター・妖精パックは「小夜曲」では誰か?僕はマダム・アームフェルトだと考える。「夏の夜」はパックの口上で締め括られ、「小夜曲」もマダムの口上で終わる。トリックスターは境界を超え行き来する。マダムは【婚姻↔非婚姻(独身)】の境界に潜む。招待状を出して一同を集結したのも彼女だ。

演技者について。再演のニュースを聞いた当初は、風間杜夫や蓮佛美沙子らミュージカル出演経験の乏しい役者が何人かいて、「大丈夫かいな?」と危惧していた。しかし蓋を開けてみると杞憂に終わった。特に大竹しのぶと風間杜夫のコンビは、歌唱力だけ取れば確かに麻実れい&細川俊之に一歩譲るが、その分、演技力で大幅に上回っていた。味わい深く、この洒落た一夜の夢を堪能した。しかし前回の上演から19年も経ってしまったので、次回はもっと間を開けず、再演してもらいたいものだ。待ってます。

最後に。僕が今までに観たソンドハイム作品を好きな順に挙げよう(「ウエストサイド物語」など歌詞担当のみの作品は省く)。

  1. メリリー・ウィー・ロール・アロング
  2. スウィーニー・トッド
  3. 太平洋序曲
  4. リトル・ナイト・ミュージック
  5. イントゥ・ザ・ウッズ
  6. サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ ~日曜日にジョージと公園で~
  7. パッション
  8. カンパニー

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コルンゴルト:左手のためのピアノ協奏曲(多分)日本初演!「ウィーン世紀末のルーツ」〜大阪交響楽団定期

4月27日ザ・シンフォニーホールへ。

寺岡清高/大阪交響楽団の定期演奏会を聴く。ピアノ独奏はオーストリア生まれのクリストファー・ヒンターフーバー。

  • フランツ・シュレーカー:弦楽のための間奏曲
  • エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト:左手のためのピアノ協奏曲
    (多分)日本初演
  • アルノルト・シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」
    (エルヴィン・シュタイン編)

コルンゴルトやシュレーカー、シェーンベルクの音楽はナチス・ドイツにより「退廃音楽」の烙印を押された。コルンゴルト、シュレーカー、シェーンベルク、編曲者シュタインの4人は全員ユダヤ系であり、シュレーカーは晩年職を失い失意のうちに1934年にベルリンで亡くなったが(ヒトラーが首相に就任したのが33年)、残る3人はアメリカに亡命した。

歌劇「烙印を押された人々」 で知られるシュレーカー22歳の作品は悲しく、儚い音楽だった。

コルンゴルトのコンチェルトは1923年に(第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト)パウル・ウィトゲンシュタインの委嘱で作曲され、1926年に出版された。ウィトゲンシュタインの委嘱により生まれた作品は他に次のようなものがある。

  • ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲
  • プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第4番
  • ブリテン:ディヴァージョンズ
  • R.シュトラウス:家庭交響曲余録
  • コルンゴルト:2つのヴァイオリン、チェロと左手のピアノのための組曲
  • フランツ・シュミット:2つのピアノ五重奏曲
  • フランツ・シュミット:ベートーヴェンの主題による協奏的変奏曲
  • フランツ・シュミット:左手のためのピアノ協奏曲

これらの幾つかは脳梗塞で右半身に片麻痺が残った舘野泉が演奏しているが、どうやらコルンゴルトのコンチェルトは未だだったようだ。

華やかで豊穣、ロマンティックで夢見るような調べ。生で聴けて本当に幸せ。寺岡さん、来年は是非ともコルンゴルトのベイビー・セレナーデ(多分日本初演)か、交響曲 嬰ヘ調を!!

シェーンベルク「ペレアスとメリザンド」は濃密な官能性があり、めくるめく色彩感で溢れていた。この演奏を聴きながらあるアイディアがひらめいたので、下記事にまとめ上げた。

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シリーズ《音楽史探訪》「トリスタンとイゾルデ」から「ペレアスとメリザンド」へ〜その構造変換を読み解く。

ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が初演されたのは1865年であった。その起源はケルトの説話であり、12世紀の中世フランスで韻文の物語にまとめられ、イギリスに於いてアーサー王物語に組み込まれた。そしてトリスタンは円卓の騎士に一人になった。

一方、ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンク(「青い鳥」の作者)が書いた戯曲「ペレアスとメリザンド」がブリュッセルで出版されたのが1892年。翌93年にパリで初演された。

「ペレアスとメリザンド」は多くの作曲家の創作意欲を掻き立てた。フォーレ(フランス)は1898年ロンドン初演のための劇付随音楽を作曲し、これに基づいたオーケストラ組曲を1900年に発表した。ハープの分散和音にフルート独奏が乗るシシリエンヌは余りにも有名である。

1902年にはドビュッシー(フランス)によるオペラが初演された。台詞のカットや移動があるものの、彼はメーテルリンクの戯曲にほぼ忠実な形で台本にしている。

1905年にはシェーンベルク(オーストリア)唯一の交響詩「ペレアスとメリザンド」が初演された。シェーンベルクが無調音楽や12音技法を確立する前の作品であり、ワーグナーの楽劇を彷彿とさせるライトモティーフ(示導動機)が用いられ後期ロマン派の香りが濃厚である。

そして同年、戯曲のヘルシンキ初演のためにシベリウス(フィンランド)が劇付随音楽を作曲し、オーケストラ組曲にまとめ上げた。

ドビュッシーやシェーンベルクがライトモティーフ(示導動機)を導入していることでも分かる通り、「ペレアスとメリザンド」に携わった作曲家たちが「トリスタンとイゾルデ」を意識しているのは明白である。後半生のドビュッシーはワーグナーに批判的だったが、若い頃の彼はワグネリアン(心酔者)だった。1880年代初期にはウィーンで「トリスタン」を観劇し、かつそのスコアを所有して丸ごと暗記していたという逸話があり、85年に留学先ローマのアポロ劇場で「ローエングリン」を鑑賞した記録も残っている。彼が初めてバイロイト詣でするのは1888年。「パルジファル」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に接し、翌89年にはバイロイトでも「トリスタン」を観劇している。

楽劇「トリスタンとイゾルデ」のあらすじはこうだ。

アイルランドの王女イゾルデは敵対するイングランド・コーンウォールのマルケ王との政略結婚のため、王の甥トリスタンに護衛され航海していた。かつての婚約者の仇でもあるトリスタンに密かに心惹かれるイゾルデは船上で服毒心中を図るが、侍女ブランゲーネが毒薬の代わりに愛の媚薬を手渡したため、それを飲んだトリスタンとイゾルデは瞬く間に熱愛に陥る。マルケ王の妻となったイゾルデだが、トリスタンとの逢瀬を重ねる。しかし密会の場に王が現れる。トリスタンは王の家臣メロートの剣によって瀕死の重傷を負うが、自分の城に戻りイゾルデを待つ。ようやくイゾルデが到着するが、トリスタンは愛するイゾルデの腕の中で息絶える。媚薬の仕業と知り2人を許そうと王一行がやってくるが、イゾルデもトリスタンの後を追って果てる。

ワーグナーが参照した大本の物語では、アイルランド王は強暴な竜の存在に悩んでおり、トリスタンが竜を退治するというエピソードがある。また後半の展開も異なり、トリスタンは金髪のイゾルデをマルケ王に返し、自身はコーンウォールを去るという条件で王と和解する。彼はブルターニュへ赴き、ブルターニュ王の娘、白き手のイゾルデと結婚する。その後、国は戦禍に巻き込まれトリスタンは瀕死の重傷を負う。自分の死期を悟ったトリスタンは使者に金髪のイゾルデからもらった金の指輪を託してコーンウォールに行くように頼んだ。そして帰りの船に金髪のイゾルデが乗っているなら白い帆を、乗っていないなら黒い帆を掲げて欲しいと言った。やがて、コーンウォールからの船が向かってきているという知らせが入り、トリスタンは白き手のイゾルデに船の帆の色を尋ねる。嫉妬に狂った彼女が「黒い帆です」と嘘をつくと、落胆したトリスタンは間もなく息を引き取った。

一方、「ペレアスとメリザンド」の物語は以下の通り。

架空の国アルモンドの王子ゴローは迷い込んだ森の奥深く、泉のほとりで見つけたメリザンドと名乗る不思議な女性に魅かれ、彼女の素性も分からないまま結婚する。祖父であるアルモンド国王アルケルの許しを得て帰国したゴローとメリザンドだが、メリザンドはゴローの異父弟ペレアスと城の庭にある「盲の泉」で親交を深める。メリザンドはゴローからもらった結婚指輪をもてあそぶ内にそれを泉の底へ落としてしまう。メリザンドが指輪をしていないことに気づいたゴローは激怒するが、メリザンドは「海辺で落とした」と嘘をつく。2人の親密さに疑念を持ったゴローは密会場面を目撃し嫉妬に狂ってペレアスを殺害してしまう。そのまま寝込んだメリザンドは、娘を産んだ後衰弱していき、ゴローからペレアスとの関係を問われ「愛したけれど、罪は犯していない」と答え絶命する。

両者には以下の対応関係が認められる。

  • トリスタンの【アイルランド↔イングランド】という二項対立がペレアスでは【森↔城】に置き換えられている《空間のコード》。アイルランドは言わずと知れた妖精の国。トリスタンの物語でも竜が棲んでいる。つまりこれは【自然↔文化】の対立であると言える。
  • トリスタンとイゾルデが恋に落ちるのは【アイルランド↔イングランド】の境界域にある海上。一方、ペレアスとメリザンドの場合は森と城の間にある泉だ。両者ともがモチーフになっていることにも注目。トリスタンたちが飲んだ媚薬も液体である。
  • イゾルデは結婚相手(国の最高権力者)の親族であるトリスタンを愛する↔メリザンドは結婚相手(王位継承者)の親族であるペレアスを愛する《婚姻・親族関係のコード》
  • トリスタンは愛する金髪のイゾルデから貰った指輪を後生大切にしている↔メリザンドは愛していないゴローから受け取った指輪をぞんざいに扱う《逆転の変換》《贈与のコード》
  • 白き手のイゾルデ金髪のイゾルデに嫉妬し、トリスタンを死に至らしめる(ワーグナーのオペラには白き手のイゾルデが登場しないので、王の家臣メロートの嫉妬に置き換えられている。メロートが幼馴染であるトリスタンに対して同性愛的感情を抱いていたという解釈も可能)↔ゴローはペレアスに嫉妬し、殺害する

以上の構造分析をお読みになれば、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に意識的/無意識的に影響を受けた作曲家たちが「ペレアスとメリザンド」に殺到した理由がお分かり頂けるだろう。なおフォーレは友人の作曲家ポール・デュカスに宛てた手紙の中で「トリスタン」からの一節を引用している。

またメリザンドは明らかに水の精として描かれており、メーテルリンクが「トリスタン」だけではなく、を司る精霊ウンディーネの物語にも触発されていることを付け加えておく(1811年に出版されたドイツの作家フーケの「ウンディーネ」や1939年にフランスのジロドゥが執筆した戯曲「オンディーヌ」が有名)。ドビュッシーのオペラでは省略されているが、ゴローがメリザンドを伴って城に帰ってくる日に女中たちはありったけのを使って城門周囲を洗い浄める。またメリザンドが臨終の際に彼女たちは病室の壁ぎわに並び、ひざまづく。どうやらメリザンドをあるじとして密かに見守っていたらしい。

続いてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が後世の作品に与えた音楽的影響について考察しよう。「トリスタン」といえば、何と言っても徹底的な半音階の追求である。調性を無視したかのような半音階の上行・下降は「無限旋律」と名付けられた。

フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースはその著書「神話論理」4部作の中で、神話に登場するのことを「半音階的なもの」と呼んだ。つまり半音階グラデーション(色調・明暗などの段階的変化)に対応している(レヴィ=ストロースは生から死への移行を示す魚獲りの毒、病気も「半音階的なもの」とした)

半音階の駆使はドビュッシーやラヴェルらに引き継がれた。フランス印象派の音楽を聴くと色彩豊かに感じられるのは、そのためである。

またシェーンベルクが発明した「12音技法」は従来のドレミファソラシという7音だけではなく、その間にある半音を含めた12音を平等に扱うという思想である。つまりその発想の原点にワーグナーの半音階がある

こうして見ていくと、20世紀の音楽の礎を築いたのが「トリスタンとイゾルデ」だったのだということがよく理解出来る。

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夜鷹は何故、そう呼ばれたか?

江戸を描いた時代小説や落語などにしばしば登場する「夜鷹」とは夜、道ばたで客を引いた、下等の売春婦のことを指す。

江戸落語「時そば」で言及される「夜鷹そば」の由来は諸説あるが、最も有力な説は夜鷹を相手に商売したからだという。夜鷹には「二十四文」の異名があり、二十四文が相場だった。蕎麦の相場は十六文(天ぷらそばが三十二文)。天保二年(1831)の川柳に次のようなものがある。

客二つ つぶして夜鷹 三つ食い

つまり夜鷹が客を2人相手すれば稼ぎが24文×2=48文なので、蕎麦が3杯食べられたという意味である(16×3=48)。これはしばしば「時そば」のマクラで紹介される。因みに江戸時代の一文の価値は現代の貨幣に換算すると25-30円程度なので、夜鷹の相場は700円前後!?正に最下層と言える。

「夜鷹」は江戸固有の呼び方、土着の言葉で、京都では「辻君」、大坂(大阪と表記されるようになったのは明治以降)では「惣嫁(そうか)」と呼ばれた。

ではどうして彼女たちは「夜鷹」に喩えられたのか?辞書などの説明では夜行性だからとしか書かれていない。しかし考えてみれば夜行性の動物なんて、ニシキヘビとかミミズク、フクロウ、アマガエル、サンショウウオ、タヌキなど沢山いる。何故ヨタカが選ばれたのだろう?そこに必然性があったことを僕は今になって初めて知り、衝撃を受けたのでご紹介したい。

フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースはその著書「やきもち焼きの土器つくり」(みすず書房)に於いて、南アメリカ・アンデス山脈に暮らすヒバロ族の神話を発端に、ヨタカについての考察を展開している。この鳥は目の後ろ耳元まで裂けた口や夜行性の習性を特徴に持つ。

Yotaka

彼らは巣を作らず、地面あるいは石の上に直に卵を二つ産み付ける。

それと対照的なのが、立派な巣作りをするカマドドリである。

Kamado

神話に登場するヨタカは三つの欲望ないしは感情、すなわち吝嗇嫉妬恨みがましさに結び付けられる。これらは口唇的欲望を共示している。口唇は肛門に対立し、身体の開口に関わっている。そして肛門/膣による欲望と変換による対応関係にある。ギニアのカリブ族は夜だけ活動するヨタカを、孤独と放蕩の象徴としており、ブラジルの先住民はしばしばヨタカの大口を女陰になぞらえる。

つまり江戸固有の土着の言葉「夜鷹」は鳥の開口を陰唇に見立て、その貪欲さを淫乱の隠喩としているのだ。

それだけではない。

Yotaka2

夜鷹の絵である。彼女はござを抱えている。なんとこれが商売道具なのだそうだ。つまり部屋を借りるとお金が掛かるので、ことは全て野外で済ませた。そして鳥のヨタカも巣(=家)を作らない。正にこれぞ「野生の思考」と言えるだろう。

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大阪桐蔭高等学校吹奏楽部フラワーコンサート 2018と「ノートルダムの鐘」構造分析

はじめに。ここを訪れた方は吹奏楽をこよなく愛している人だと信じている。故に是非、下記事も併せてお読み頂ければ幸いである。僕からの「小さな願い」です。(I say a little prayer for you.)

さて、4月29日(日)大阪ビジネスパーク TWIN21アトリウムへ。新1年生も加わった大阪桐蔭高等学校吹奏楽部のフラワーコンサートを聴く。指揮は梅田隆司先生。僕はこの直前の16時05分までザ・シンフォニーホール@大阪市福島で関西フィルの定期演奏会(ミクロス・ローザの映画音楽やエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲ほか)を聴いていたので、途中からの来場となった。

☆3rd Stage(16:30-17:10) マーチング

  • ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
  • ジョン・ウィリアムズ:「スター・ウォーズ」メドレー
  • ミシェル・ルグラン:「キャラバンの到着(ロシュフォールの恋人たち)」
  • アラン・メンケン:「美女と野獣」メドレー

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Jazzyで躍動感溢れる桐蔭の「キャラバンの到着」は最高だね!胸がスカッとする。至福の時。

続いて座奏で、

  • We Are The World(歌付き)
  • リクエストコーナー:EXILEメドレー

リクエストコーナーは梅田先生がバットで打ったボールを掴んだ観客がスライドに写された50曲の中から選ぶ方式。

☆4th Stage(18:00-18:40)

  • ジャスティン・ハーウィッツ:ミュージカル「ラ・ラ・ランド」ハイライト

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映画の一場面を彷彿とさせるキャンディー・カラーの衣装がとっても素敵。

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Magic Hour(カタワレ時)にエマ・ストーン(アカデミー主演女優賞受賞)とライアン・ゴズリングがハリウッドの都(=ラ・ラ・ランド)を見下ろす丘の上で対峙するダンス・ナンバー"A Lovely Night"はアルト・サックスとユーフォニアムの対話(デュオ)に置き換えられている。

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ステージ前面に設置されたタップ板(タップボード)で男子生徒が華麗にタップ・ダンスを披露。

そしてフィナーレ。音楽がミシェル・ルグランの「シェルブールの雨傘」と完全に一体化するヴォカリーズの合唱は極上の美しさ!天国的というか、ハーモニーに宇宙的広がりを感じた(映画でも無数の煌めく星々の下でふたりがデュエットダンスする場面だ)。僕が今まで聴いてきた桐蔭サウンドの中でも間違いなくベストの瞬間であった。これは是非とも全国の人々にも聴いて貰いたい。

続いてリクエストコーナー。

  • 名探偵コナン
  • アラン・メンケン:「リトル・マーメイド」メドレー
  • 甲子園応援歌〜「グレイテスト・ショーマン」ほか

若い人は知らないと思うけれど「名探偵コナン」の音楽は「太陽にほえろ!」のテーマと瓜二つなんだ→こちらで試聴!作曲はどちらも大野克夫。つまり自己模倣ね。続けて演奏すると→こうなる

舞台ミュージカル「リトル・マーメイド」は2018年10月13日(土)より大阪四季劇場で上演される。でも海中に於けるアリエルの髪型が酷すぎて絶句した→プロモーションVTR。ありえる?否、あり得ない!

「グレイテスト・ショーマン」は映画冒頭の曲。これが野球応援歌にピッタリでびっくりした。

☆5th Stage(19:30-20:10)

  • アラン・メンケン:ミュージカル「ノートルダムの鐘」ハイライト

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ヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」(ノートルダムのせむし男/ノートルダムの鐘)を社会人類学者レヴィ=ストロースの手法を用いて構造分析してみよう。

なおフロローの職業は原作で司祭だが、ディズニー版では最高裁判事に変更されている。

まず本作に認められる二項対立を挙げよう。

  • 鐘つき男カジモド(醜い、非対称)↔ノートルダム寺院(美の殿堂、ステンドグラスを含め全てが対称)/エスメラルダ(美貌)
    *これはミュージカル「オペラ座の怪人」におけるファントム(怪人)とクリスティーヌ(歌姫)の対立に相当する。
  • フロロー(聖職者、禁欲)↔エスメラルダ(ロマ〘ジプシー〙、欲望に従う)
    *ミュージカル「キャッツ」における〈長老オールド・デュトロノミー↔犯罪王マキャヴィティ〉に相当。エスメラルダはフロローの謀略により捕らえられ、魔女裁判で死刑宣告を受ける。一方、オールド・デュトロノミーはマキャヴィティに誘拐される。【逆転の変換】
  • フロロー(年寄り)↔大聖堂警備隊長フィーバス(若い)
    *「オペラ座の怪人」における〈ファントム↔ラウル・シャニュイ子爵〉の対立に相当。「キャッツ」では〈年老いた娼婦猫グリザベラ↔生まれたばかりの子猫シラバブ〉
  • ノートルダム大聖堂の鐘楼↔ジプシーの隠れ家「奇跡の法廷」【垂直方向の差異】
    *「オペラ座の怪人」における〈照明の当たる華やかな舞台(光)↔怪人が棲む地下湖(影)〉、「キャッツ」では〈天上↔地上のゴミ捨て場(夜)〉

では二項対立を結び/還流し、両者を仲介融和しようとする第三項は何か?

  • クロパン(道化でありトリックスター。境界を超え神出鬼没で、価値を転倒する者。きれいはきたない、きたないはきれい)。道化師は世界の反転を象徴するだんだら縞の衣装を着ている。
    *「キャッツ」では魔術師ミスター・ミストフェリーズ。「オペラ座の怪人」では仮面ペルソナ)。仮面を着けたファントムもマジシャンであり、神出鬼没のトリックスターだ。しかし仮面を外すと一転、その素顔は醜い老人に変わる。つまり彼には二重性があり、仮面はスイッチの役割を果たす。
  • トプシー・ターヴィー(愚者の祭り。規則を破って良い日。逆さま、無礼講。異教徒の「デュオニソスの祭り」を彷彿とさせる。デュオニソスとは豊穣と葡萄酒、酩酊の神。フローラン・シュミットが作曲した同名の吹奏楽の名曲がある
    *「オペラ座の怪人」ではマスカレード(仮面舞踏会)が相当。「キャッツ」ではジェリクル舞踏会。
  • 大聖堂の鐘の響き。それは天から地まで貫く。
    *「オペラ座の怪人」では”音楽の天使”クリスティーヌの歌声が相当。「キャッツ」ではグリザベラが歌う"Memory"。途中からシラバブが加わりハーモニーとなる。因みにシラバブはロンドン公演版でジェミマと名付けられており、そのオリジナル・キャストがサラ・ブライトマンだった(サラは後にクリスティーヌに抜擢される)。
  • 陽射し:歌詞に"Out there/Living in the sun"(太陽の光を浴びる あそこへ行きたい)とある。日光も天から地まで貫く。
    *「キャッツ」では冒頭のシラバブ誕生と最後のグリザベラ昇天で、垂直方向の一筋の光が天と地を結ぶ。

こうして分析を進めていくと、「ノートルダム・ド・パリ」「オペラ座の怪人」「キャッツ」の三者は全く同じ構造であることがご理解頂けるだろう。これが神話の構造、神話的思考である。

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続いてリクエストコーナー。

  • 美空ひばりメドレー(愛燦燦〜川の流れのように)

アンコールはご存知の定番、

  • 銀河鉄道999
  • 星に願いを

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「スリーナイン」のない桐蔭のコンサートなんて、星のない夜空のようなものだ。今回も音楽の愉しさを堪能させてもらった。

次回はそろそろ「メリー・ポピンズ」メドレーが聴けるんじゃないかと期待している。因みにロブ・マーシャル監督、エミリー・ブラント主演の映画「メリー・ポピンズ・リターンズ」北米公開は2018年12月25日。予告編はこちら

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