【いつか見た大林映画・番外編その3】オールタイム・ベスト・ワン「はるか、ノスタルジィ」と時間イメージ
1993年に大林宣彦監督「はるか、ノスタルジィ」を映画館(大阪での単館上映)で観て以来、ず〜っと僕は本作をオールタイム・ベスト・ワンだと言い続けてきた。
2016年に新海誠監督「君の名は。」が現れて、そろそろ第1位の座を譲り渡しても良いんじゃないかと思い始めた。しかしつい先日、大林宣彦映画祭@シネ・ヌーヴォ(大阪市九条)で実に25年ぶりにスクリーンで「はるか」に再会し、やっぱり正真正銘これこそが僕のベスト・ワンだと確信した。プリントの状態がすこぶるよく、特に青色が美しかった。
実は今まで「はるか」のどこが凄くて何に魅了されたのか、明言を避けてきたという後ろめたさを感じていた。いくら熱く語ったってどうせ観ている人は殆どいないんだしという諦念があり、僕自身秩序立てて述べるskill(腕前・技量)もなかった。しかし今は違う。「はるか」のことを僕以上に愛している人は世界中どこを探したっていないという絶対の自信がある(←大林監督はこういう思考を”好意的誤解”と呼んだ)。「もう逃げないでください」と言うはるか(石田ひかり)の声が聞えてくる。出会ってから25年。遂に彼女と対峙すべき時が来た。覚悟は決めた。僕は「おかしなふたり」の成田(永島敏行)の台詞を自分に言い聞かせる。「自分の人生にだけは乗り遅れちゃいけねぇ。まだ間に合うぜ、まだ間に合うぜ」……
大林映画「野のなななのか」(2014)の劇中にパスカルズ演じる【野の音楽隊】が一列になって演奏しながら練り歩く場面が何度も登場する。因みにパスカルズでパーカッションを担当しているのはバンド「たま」のランニング姿が印象的だった石川浩司。「この空の花ー長岡花火物語」(2012)では画家・山下清を演じている。
これを観て僕が想起したのがフェデリコ・フェリーニ監督の名作「8 1/2」(1963)の大団円である。道化師たちの楽隊がニーノ・ロータ作曲の行進曲を吹きならマーチングするのだ。
この場面で映画監督のグイド(マルチェロ・マストロヤンニ)は「人生は祭りだ!一緒に過ごそう。(È una festa la vita, viviamola insieme !)」 という名台詞を吐く。
大林映画はどこかフェリーニの映画に似ている。そのことに初めて気付かされた瞬間だった(「はるか、ノスタルジィ」にも高校生のマーチングバンドと主人公たちがすれ違う場面がある)。
「はるか、ノスタルジィ」のあらすじはこうだ。
小樽を舞台とした少女小説で人気の作家・綾瀬慎介(勝野洋)は、少年時代の痛ましい記憶を胸の奥深く閉じこめていた。しかし小説の挿絵を描いていた紀宮(ベンガル)の突然の死をきっかけに、久しぶりに古里の小樽を訪ねる。そこで彼は記憶の中の少女・三好遙子(石田ひかり)にそっくりな、「はるか」という名の少女と出会い、封印した筈の記憶が蘇る。そんな時、綾瀬の前に佐藤弘(松田洋治)という少年が現れる。それは彼の本名であった。綾瀬慎介はペンネーム。彼は本名で勝負することを捨てた。
つまり映画の一画面の中に、主人公の現在と、少年時代の彼が同時に存在する。そして「はるか」は突然、三好瑤子に入れ替わったりもする。
これは20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズがその著書「シネマ」で論じた結晶(時間)イメージに該当する。
- ジル・ドゥルーズ「シネマ」〜哲学者が映画を思考する。(2017.12.07)
ベルクソン(同じくフランスの哲学者)の逆さ円錐モデルで説明しよう。
円錐の全体SABが綾瀬慎介の記憶に蓄えられたイマージュの総て(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり綾瀬の知覚である。Pは現在彼がいる世界(小樽)そのもの。「はるか」もそこに生きている。A"B"が紀宮と出会った頃の大学生の綾瀬であり、更に遡ったA'B'が少年時代の佐藤弘と三好遙子が存在する場所。過ぎ去り、死に向かう現在(S)と、保存され、生の核を保持する過去(A'B',A"B",A'"B'",……)は絶えず干渉しあい、交差しあう。綾瀬はこの円錐(記憶)の中を自由に過去へと飛翔し、また戻ってくるのである。
この仕組/構造(structure)はフェリーニの「8 1/2」と全く同じであり、フェリーニの次の言葉がその本質を的確に教えてくれる。
「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」
類似した構造(structure)は大林監督の「さびしんぼう」や「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 夕子悲しむ」、イングマール・ベルイマン監督「野いちご」にも認められる。「野いちご」の老いた主人公は自分が生まれ育った家を訪ねて、そこに兄弟や許嫁が昔のままの姿で現れるので「はるか、ノスタルジィ」のプロットに近い。また「さびしんぼう」で主人公のヒロキ(尾美としのり)が紛れ込むのは、母(藤田弓子)の記憶に蓄えられた結晶=逆さ円錐SABである。その過去A'B'から、さびしんぼう(なんだかへんて子)が現れる。そして母の記憶の結晶とヒロキの間で触媒の働きをするのは、風に飛ばされお寺の境内中を舞う1枚の写真である(一方、「はるか、ノスタルジィ」において綾瀬とはるかの間で触媒となるのは壊れた写真機)。
大林映画で流れる時間は神話的時間であり、フランスの言語学者ソシュールの用語を借りるなら、その文法(語り口)は通時的(関連する複数の現象や体系を、時間の流れや歴史的な変化にそって記述するさま)であると同時に、共時的(現象が継時的変化としてではなく、一定時の静止した構造としてあるさま。また、時間的・歴史的な変化の相を考慮に入れずに、ある対象の一時点における構造を体系的に記述しようとするさま)であることを理解しておかなければならない。「野生の思考」を書いたフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは神話的時間が「可逆的かつ不可逆的で、共時的でも通時的でもある」と、その二重性を強調した。構造人類学が共時態を重視するのは、地層の断面(≒ベルクソンの逆さ円錐モデル/記憶の結晶)におけるように、〈いま・ここ〉のただなかに過去が共時的に現れていることを重要視しているのである(参考文献:小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書)。
「はるか、ノスタルジィ」の時間は循環し、【三好遥子→はるか→遥子】というサイクルが最後に発生する。ドイツの哲学者ニーチェが言うところの永劫回帰の層に入ってゆくのである。この循環は「さびしんぼう」のエピローグでも認められる(原作はどちらも山中恒)。
ちなみにニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」に基づく音楽が冒頭から流れるスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」ではボーマン船長が最後に赤ん坊(スター・チャイルド)に回帰する。スター・チャイルドとは、ニーチェが語った超人と同義である。また永劫回帰が描かれた作品として押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」やルイス・ブニュエル「皆殺しの天使」も挙げておこう。
大林映画の中で時間は停止し(「廃市」「麗猫伝説」「野のなななのか」に登場する止まった時計)、逆戻りしたりもする(「時をかける少女」)。「時をかける少女」では次のような会話が交わされる。
「だって、もう時間がないわ。どうして時間は過ぎてゆくの?」
「過ぎて行くもんじゃない。時間は、やって来るもんなんだ」
さらに生者と死者が同居する世界が描かれる(「異人たちとの夏」「その日のまえに」「この空の花―長岡花火物語」「野のなななのか」)。そこには生と死の境界線がない。現在と過去の間にもないように。
人は常に誰かの代わりに生まれ、ー
誰かの代わりに死んでゆく。
だから、人の生き死には、ー
常に誰か別の人の生き死にに、
繋がっている。
(「野のなななのか」より)
人は循環し、輪廻転生を繰り返す。まるで手塚治虫が漫画「火の鳥」で描いたように。
そしてー
「ものくるほしくも、いつか見た夢、いつか見た映画。わたしは影でございます。スクリーンが燃えてなくなるとき、わたしの命もまた、ともに終わらねばなりません。あれが青春ならば、あれが愛ならば、わたしは単なる思い出。古い思い出に捕らわれて、わたしらはみんな、生きながら死んでいるのでございます。」
(「おかしなふたり」より)
となる。
大林監督がラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」に出演した際、ラッパーでDJの宇多丸が「時をかける少女」に関して、「尾美としのりの役回りはヒッチコック『めまい』のミッジではないですか?」と問い、監督が「おっ、鋭いね」と返す場面があった。これを聴いて僕はハッとした。そうか!堀川吾朗(尾美としのり)は芳山和子(原田知世)の幼馴染で、彼女のことが好きだけれど、和子は未来から来た深町一夫(高柳良一)のことしか見ていない。これはヒッチコック「めまい」に於けるミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)→スコティ(ジェームズ・スチュアート)→マデリン/ジュディ(キム・ノヴァク)の関係と一緒だ。そしてヒッチと撮影監督ロバート・バークスが開発した、床が落ちるような「めまいショット」を大林監督は「逆ズーム」と命名し、「時をかける少女」のラストシーン(大学の薬学部・廊下)で用いている。
さらに驚きべきことに気が付いた!よくよく考えてみれば「はるか、ノスタルジィ」の仕組/構造(structure)は「めまい」にも一致している。「めまい」のスコティは嘗て愛した女マデリンが自分のせいで死んだと信じ落ち込む。そんなある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見し追う。彼女はジュディと名乗った。スコティはジュディにマデリンと同じ服を着せ、髪型も似せようとする。それとそっくりな行為を「はるか、ノスタルジィ」の綾瀬は、はるかに対してするのである。そして本作における尾美としのりは再びミッジの役回りを演じている。また映画のオープニング・クレジットで石田ひかりは回転している(右回転)。これも「めまい」でソール・バスがデザインしたタイトルバック(左回転する渦巻)を彷彿とさせる。ひかりの時計回転は時間イメージでもあるし、回帰する物語であることの宣言でもあるだろう。「この空の花ー長岡花火物語」に登場する、回転運動をする一輪車の少女のように。
大林宣彦ほど豊穣な時間イメージを持つ映画作家は他にいない。僕はそう断言する。
- 【いつか見た大林映画】第6回 「はるか、ノスタルジィ」と20世紀篇落穂拾い ←ここでは触れなかった、”daughter complexの作家”としての大林宣彦について書いた。
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