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2018年3月27日 (火)

超難解映画「めぐりあう時間たち」の構造分析

映画「めぐりあう時間たち」(The  Hours)は2002年のアメリカ映画(パラマウント・ピクチャーズ/ミラマックス)。監督は「リトル・ダンサー」のスティーブン・ダルドリー。アカデミー賞では作品/監督/主演女優/助演女優(ジュリアン・ムーア)/助演男優(エド・ハリス)/脚色/編集/作曲/衣装デザインの9部門にノミネートされ、ニコール・キッドマンが主演女優賞を受賞した(この年作品賞を受賞したのは同じミラマックスの「シカゴ」)。

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僕は03年の日本公開時に映画館でこれを観たが、難しいなと思った。実際インターネットで感想を検索すると「難解」という表現が目立つ。分かり辛さの原因の一つとしてヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んでいるかどうかが内容を把握する上で重要な鍵になってくる。僕は本作を観た後で小説を読んだ。そしてこの度レヴィ=ストロースによる神話の構造分析の手法を学び、もう一度この難解映画に取り組んでみようと決意した。幾つかの場面がとても印象深く、心に澱のようにたまっていたのである。

"The  Hours"は異なる時代を生きる3人の女性のある一日を描く。彼女たちを結びつけているのは「ダロウェイ夫人」だ。4つの物語が同じ構造(structure)を持ち、並行して進む。以下あらすじと、①②③……は共通のコード(符号)を示す。フロイトは「性欲」という単一のコードで無意識の全てを解読しようとしたが、レヴィ=ストロースは複数のコードを等価に扱う。コードは必ずしも同一ではなく、【入水自殺(死を選ぶ)↔飛び降り自殺(死を選ぶ)↔生を選ぶ↔小鳥の(自然)死】といった変換を認める。

ヴァージニア・ウルフは1925年に「ダロウェイ夫人」を上梓し、1941年に夫レナードへ感謝と①「今までの私たち以上に幸せな二人は他にはありません」という言葉を残して、②川へ入水自殺した。③彼女は幻聴に悩まされており、統合失調症だと言われているが、うつ病や、両方に似た症状を呈する非定型精神病という説もある(自殺に至るのはうつ病の特徴である)。④ヴァージニアは同性愛者であり、恋人は詩人で作家のヴィタ・サックヴィル=ウェスト。ヴァージニアが28年に発表した小説「オーランドー」はヴィタをモデルにしている。オーランドーは男→女と性を変えながら数世紀に渡り生き続ける。ヴィタは両性愛者であり、外交官の夫との間に2人の子供をもうけた。子育てが一段落した頃(1918年)、幼馴染の女性とフランスに駆け落ちした。その時彼女は男装していたという。しかし結局恋人との関係を精算し、夫のいるロンドンに戻った。その後22年にヴァージニアと出会い、二人の関係は31年まで続いた。

A)ダロウェイ夫人:⑤「花は私が買って来るわ、とダロウェイ夫人が言った」という書き出しで始まる。クラリッサ・ダロウェイが、⑥自宅でパーティを開くことになっている朝から、パーティが終わる夜までの1日の物語。彼女は若い頃のことを回想し、④「若いときのサリー・シートンとの関係。あれは結局、恋愛だったのではないだろうか?」と考える。また彼女は青春時代、頭脳明晰でロマンティックなピーター・ウォルシュではなく、⑦堅実なリチャード・ダロウェイとの人生を選んだことが正しかったのか自問する。これに並行して第一次世界大戦から帰還した元兵士セプティマスの物語が描かれる。③彼は友人が爆死したため神経症で幻影に苦しみ、②アパートの窓から飛び降り自殺をする。クラリッサはパーティに出席した精神科医から彼の話を聞く。

ヴァージニア・ウルフによると小説の第一稿においてセプティマスは存在せず、パーティの終わりにクラリッサが死ぬ予定だったという。つまりクラリッサ+セプティマス=作者の分身であり、クラリッサの身代わりとしてセプティマスは死んだのだ。

B)1923年、英国。過去に二度自殺未遂騒ぎを起こしたヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)が療養していた郊外リッチモンド(ロンドンの中心部から電車で約30分)での1日が描かれる。姉のヴァネッサとその三人の子供たちがロンドンから訪ねて来る。②彼女は子どもたちが庭で死んだ小鳥の葬儀をあげるのを見守る。姉一家が帰る間際、④感情が昂ぶったヴァージニアは姉に激しく口付けする。 一家を送り出した彼女は突然、駅に向かう。慌てて追って来た⑦優しい夫に、「ロンドンが恋しい。この町では死んでしまう」と⑧リッチモンドの静かで隔離された生活に不満を爆発させ、「この郊外の今にも窒息しそうな麻痺を選ぶくらいなら、都会の暴力的なまでの刺激を私は選ぶ」と⑨自分の人生に対する自己決定権を涙ながらに訴える。夫はロンドン行きに同意するが、冷静さを取り戻した⑩ヴァージニアはおとなしく今住む家に帰る。

C)1951年、⑧ロサンゼルス郊外の閑静な住宅地。専業主婦のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は⑦優しい夫と愛する息子に囲まれ、現在第二子を妊娠中である。彼女は「ダロウェイ夫人」を愛読している。夫の誕生日を忘れていて、⑤夫は自分自身で花を買ってくる。⑥彼女がお祝いのケーキ作りをしていると親友のキティが訪れ、子宮の腫瘍の為に入院すると言う。④「子供を産まなければ一人前の女ではない」と泣くキティに、ローラは思わず接吻してしまう。キティが帰ると、⑨生きたいように生きられず絶望している彼女は②自殺をする為に息子を人に預け、一人ホテルへと向かう。その一室で③水が部屋に満ちてくる幻影を見る。しかし結局自殺は思いとどまり、⑩彼女は帰宅する。

D)2001年、ニューヨーク・マンハッタン。⑥編集者のクラリッサ(メリル・ストリープ)は詩人で小説家である友人リチャード(エド・ハリス)の受賞パーティのを開く計画を立て、⑤花を買いに行く。クラリッサは彼と恋仲だった若き日々の思い出を胸に、現在はエイズに侵され、③幻覚に悩まされるなど精神的に混乱しているリチャードの世話を続けている。④彼女は広く快適なNYのアパートで女性のパートナー、サリーと暮らしている。パーティの準備を終えたクラリッサがリチャードを訪ねると、リチャードは「君の為に生きて来た。でももう行かせてくれないか」①「私達ほど幸せな二人はいない」と言い、②クラリッサの目の前で窓から飛び降り自殺をする。 パーティは中止となり、リチャードの死の知らせを受けた母親ローラがトロントから駆け付ける。彼女はリチャードの小説の中で「怪物」と呼ばれ②「殺されて」いた。ローラは第二子を生むと夫と子供たちを捨て家出し、カナダで職を得て暮らしていたのだ。彼女はクラリッサに「後悔してどんな意味があるのでしょう、ああするしかなかった。誰も私を許さないでしょう。でも②私は死ぬより生きることを選んだ」と語った。

映画では具体的に語られないが、【Bパート】でヴァージニア・ウルフが「ロンドンが恋しい」と言うのは、恋人のヴィタ・サックヴィル=ウェストに逢いたいということを示唆している。

そして2001年NYの【Dパート】でリチャードが「君の為に生きて来た」と言うのは、クラリッサに自分を捨てて出ていった母ローラの面影を重ねていることを意味している(ローラは「ダロウェイ夫人」を愛読しており、リチャードはクラリッサを「ダロウェイ夫人」と呼ぶ)。【Dパート】のクラリッササリーの関係は小説「ダロウェイ夫人」を踏襲しているが、大きな差異はヴァージニア・ウルフが小説を執筆した当時のイギリスで同性愛は犯罪であり、事実が発覚すれば逮捕されたことにある。実際オスカー・ワイルド(1854-1900)は男色を咎められ収監されたし、「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」を書いたE・M・フォースター(1879-1970)が同性愛をテーマに1913年に執筆した「モーリス」が出版されるは作者の死後、1971年のことである。しかし2001年のNYでは同性愛をカミング・アウトし、堂々と一緒に暮らすことが可能になった。つまり【A/Bパート】↔【Dパート】の関係性を見ると構造(structure)は不変だが、社会のあり方が変化したのだ。しかし、もしかしたらクラリッサは現在、サリーと暮らしているのが本当に正しい選択だったのか?と自問しているのかも知れない(コードの変換)。ローラの身代わりとしてリチャードは死ぬ。同時に彼はクラリッサの身代わりであった可能性もある(リチャードの死で彼女の迷いは断ち切れた)

そして本作の主題が浮かび上がってくる。生き死にや恋愛に関して自己決定権を得ること。だがその自由を獲得した者が必ずしも幸福になれるわけではない。恐らくそこに人間の本質がある。

レヴィ=ストロースは『神話論理』冒頭「序曲」の中で次のように述べている。

音楽作品は、その内的組織ゆえに、過ぎ行く時間を停止させている。音楽は時間を、風に吹き上げられるテーブルクロスのように、捕まえ折り返す。

これはそのまま映画"The  Hours"にも当てはめられるのではないだろうか?

レヴィ=ストロースは神話の読み方を交響曲の総譜(スコア)に喩えた。より分かり易く弦楽四重奏の譜面で説明しよう。

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"The  Hours"ではA〜Dパートがそれぞれの段に分かれていると思ってくれたら良い。楽譜を横に追っていけばそこにメロディが現れる。これが通時的変化。今度は縦に視線を動かすと、そこに重層的なハーモニーが響く。これが共時的なものの味方である。つまり神話は左から右へ読むだけではなく、同時に垂直に、上から下へも読まなければならない。そうして初めて一つのまとまりとして理解でき、神話の意味を引き出すことが出来る。それは"The  Hours"も同様なのである。

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