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2018年3月

神話としてのミュージカル「キャッツ」&「オペラ座の怪人」〜野生の思考による構造分析の試み

6歳の息子が「もう一度観たい!」と言うので3月24日(土)「キャッツ」を上演中の大阪四季劇場に足を運んだ。僕は多分5回目かな。初回は黒いテントに猫の黄色い一対の目が浮かぶ仮設劇場「キャッツ・シアター」で上演された1985-86年の(第1回)大阪公演だった。

今回の出演者はグリザベラ:木村智秋、シラバブ:五所真理子、オールドデュトロノミー:正木棟馬、マンカストラップ:加藤迪、ラム・タム・タガー:田邊真也、ミストフェリーズ:松出直也 ほか。

ミュージカル「キャッツ」は1981年にロンドンで幕を開け、2002年まで21年間に及ぶロングランとなった(最長ロングラン公演記録は現在も上演中の「レ・ミゼラブル」)。ブロードウェイ@NYでは82年に開幕し、2000年に閉幕。2006年1月に「オペラ座の怪人」に抜かれるまでロングラン記録を保持していた(オフ・ブロードウェイを含めると史上最長はミュージカル「ファンタスティックス」の42年間-17,162回)。トニー賞では作品(製作:キャメロン・マッキントッシュ)・演出(トレヴァー・ナン)・台本(T・S・エリオット)・楽曲(作詞:T・S・エリオット、作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー)・助演女優(ベティ・バックリー)・衣装デザイン・照明デザインの7部門を受賞した。日本では83年に東京新宿の「キャッツ・シアター」で幕を開け、2013年に「ライオンキング」に抜かれるまで日本演劇史上最多の上演回数を誇っていた(東京・大阪・名古屋・福岡だけではなく札幌・静岡・広島・仙台でも上演)。

原作はノーベル文学賞を受賞した詩人T・S・エリオットの「キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法」。可笑しいのはエリオットは1965年に亡くなっており、死後18年経ってトニー賞を2部門(台本、作詞)受賞したことになる。

どうして「キャッツ」はこれ程までのメガヒット・ミュージカルとなったのか?当然、(当時は)天才作曲家(だった←今は昔)ロイド=ウェバーの功績も大きいだろう。当初「サンセット大通り」のために作曲された♪メモリー♪は世界的大ヒットを飛ばしたし、時には賛美歌風・ゴスペル調になったり、(ミック・ジャガーをイメージした)ラム・タム・タガーはロックンロールを歌い、マキャヴィティが登場するとジャズになり(ヘンリー・マンシーニ「ピンク・パンサー」「ピーター・ガン」を彷彿とさせる)、海賊猫グロールタイガーとシャム猫軍の戦いに於ける歌は中国風で、明らかにプッチーニのオペラ「トゥーランドット」を意識した仕上がりとなっている。つまり多様性に満ち、才気煥発の極みなのだ。

もう一つの要因として挙げられるのは、今回の観劇で初めて気が付いたのだが、「キャッツ」が明らかに神話の構造を持っているということ。それが観客の無意識に作用したと言えるだろう。

以下、社会人類学者レヴィ=ストロースの「神話論理」に基づき、「キャッツ」の構造分析を試みよう。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的は連続不連続のあいだの調停である。神話は二項対立を用いて自然と文化の対立を語る。「キャッツ」のあらすじはこうだ。

満月が青白く輝く夜、街の片隅のゴミ捨て場。ジェリクルキャッツたちが年に一度開かれる"ジェリクル舞踏会"に参加するため集まってくる。今宵は長老猫が天上に昇るジェリクルキャッツを選ぶ特別な舞踏会。再生を許され新しい命を得るただ一匹の猫は誰か。夜を徹して歌い踊る猫たち。やがて夜明けが近づき、グリザベラの名前が宣言される。

劇の冒頭、舞台中央の円盤型の照明がグングン上昇する。その下に現れるのがシラバブ(英国版ではジェミマ)。生まれたばかりの子猫で真っ白。つまりこれは彼女の誕生を意味している。そして物語の最後に娼婦猫グリザベラは昇天する。その先にあるのは死と再生だ。ここにまず二項対立コード符号)が複数ある。

誕生↔死
純粋無垢(innocent)↔汚れ(dirty)
大地(重力の拘束)↔天上(重力からの解放)

垂直方法への分離、重力のある地平と無重力の場との往還、つまり「天と地のコミュニケーション」により神話の駆動力は生み出される。

そしてもう一つの二項対立がある。

長老オールド・デュトロノミー↔犯罪王マキャヴィティ

第二幕でオールド・デュトロノミーはマキャヴィティに誘拐される。ここで二項対立(聖人↔罪人)は「近すぎる接近」をし、交わる。

長老の誘拐という問題を解決するのは魔術師ミスター・ミストフェリーズ。彼は二項対立に加わる第三の項媒介者)、つまりトリックスターだ。彼の体は白と黒の斑(まだら)である。

Mist

それは白↔黒反転の換喩になっている。つまり道化師が着る、だんだら縞の衣装と同じ。シェイクスピア「マクベス」に登場する3人の魔女の台詞で言い表すなら「きれいは汚い、汚いはきれい」となる。気まぐれなトリックスターは境界を超え出没することに特徴がある。そして価値を転倒させる

トリックスターの活躍でジェリクルキャッツたちは長老を取り戻すことが出来た(近すぎる接近→適正な距離への再配置)。故にその直後、対称的な位置にあるグリザベラとシラバブは一緒に「メモリー」を歌い(調和調停)、他の猫達もそれまで忌み嫌っていたグリザベラ(汚い)の昇天(きれいへの反転)を承認するのである。こうして大地と天(垂直方向二項対立)を熱狂的な歌と踊り(媒介する第三の項)で結ぶ「ジェリクル舞踏会」はデュオニソスギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒/酩酊の神)の祭りとなった。

また鉄道猫スキンブルシャンクスの場面で僕は思わず「アッ!」と声を出しそうになった。猫達は集めたゴミを組み立ててSL機関車にする。これってレヴィ=ストロースが言うところのブリコラージュに他ならないではないか。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。正にここに「野生の思考」が息づいている。

神話構造(structure)はロイド=ウェバーのミュージカル「オペラ座の怪人」にも認められる。二項対立は、

華やかなオペラ座の舞台(光)↔地下湖(闇)

この垂直方向の差異(掛け離れた距離)は「キャッツ」の天上↔地上と同等である。そして、

クリスティーヌ(無垢)↔オペラ座の怪人(殺人者)
娘↔父(クリスティーヌはファントムに亡き父の姿を重ねている)
生徒(受動)↔教師(能動)
歌手↔作曲家

といった複数のコードが有り、さらに別の二項対立が絡む。

ラウル・シャニュイ子爵↔オペラ座の怪人(恋仇)
Young↔Old
きれい↔醜い

では、【華やかなオペラ座の舞台(光)↔地下湖(闇)】という垂直方向二項対立媒介するもの(第三の項)は何か?言うまでもないだろう、音楽である。何しろオペラ座の怪人はクリスティーヌのことを「音楽の天使(Angel of Music)」と呼んでいるのだから。重力に拘束され大地に足を引きずる我々と、重力から開放された天使の差異も垂直方向に形成されるのである。

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涼風真世・山口祐一郎 主演/ミュージカル「マディソン郡の橋」

3月28日(水)梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティへ。「マディソン郡の橋」大阪公演初日を観劇。

Bridge

ミュージカル「マディソン郡の橋」は2014年にブロードウェイで初演された。つまり「ブロードウェイと銃弾」と同じ年だ。作詞・作曲はジェイソン・ロバート・ブラウン。本作で彼はトニー賞のオリジナル楽曲賞・編曲賞を受賞した。因みにこの年、ミュージカル作品賞・演出賞を受賞したのは「紳士のための愛と殺人の手引き」。

ロバート・ジェームズ・ウォラーの原作小説は1992年にアメリカで出版され、日本語訳は翌93年に登場し、売れに売れた。多分僕は93-4年頃、図書館から借りて読んだ。NHK-BSの「週刊ブックレビュー」で取り上げられて、興味を持ったのだと記憶している。

因みに「マディソン郡の橋」はトーハン調べ1993年の年間ベストセラーで【単行本・文芸】第1位、【総合】第2位、94年も【単行本・文芸】第1位、【総合】第3位となっている。95年にはクリント・イーストウッド主演・監督で映画化され、僕は日本公開時に映画館で観た。撮影時クリントは64歳で「年寄り過ぎやしないか?」と感じたことを今でも憶えている。

今回この記事を書くにあたり調べて初めて知ったのだが、後に第二部「マディソン郡の橋 終楽章」と、第三部(未翻訳)まで書かれたんだね。びっくりした。

ジェイソン・ロバート・ブラウンの楽曲は映画化された「ラスト・ファイブ・イヤーズ」とか、やはりトニー賞で楽曲賞を受賞した「パレード」とか好きなので、是非観た(聴きた)かった。

しかしミュージカルとして再会して、相変わらず陳腐な「昼メロ」みたいな話だなと思った。上戸彩とか、斎藤工が出てきそう。英語で言えば"soap opera"ね。不倫を美化するのは如何なものか?余りにも綺麗事過ぎて鼻持ちならない。カントリー風の音楽は文句なしに素晴らしかった。

山口祐一郎は「金太郎飴」みたいな男優なので、いつも通り。涼風真世が良かった!ちょっと甘えたような台詞回しがキュート。はっきり言って映画版のメリル・ストリープより、はまり役だと思った。彼女をこれだけ魅力的に感じたのは「シー・ラヴズ・ミー」(95-98年)以来かも!?しかし、ミュージカル「貴婦人の訪問」は酷かったなぁ。

荻田浩一(オギー)の演出には疑問を感じた。舞台上に四角い枠が傾斜をつけて3つ横並びにぶら下がっていて、そのひとつひとつが場面転換に合わせて上下するのだが全く意味不明。一体、何を表現したいの?写真のフレーム??

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ミュージカル「ブロードウェイと銃弾」

3月6日(火)梅田芸術劇場へ。

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ウディ・アレンの映画「ブロードウェイと銃弾」は1994年10月に北米で公開され、僕は翌95年の日本公開時に映画館で観ている。正直それほど好きじゃなかった。後にアレン自身が台本を書き、ブロードウェイ・ミュージカルとして上演されたのが2014年。振付・演出は「コンタクト」「プロデューサーズ」のスーザン・ストローマン。当初音楽は「コーラスライン」のマーヴィン・ハムリッシュが担当したが、アレンが気に入らず、最終的に1920-30年代のジャズや流行歌から採用された。

福田雄一の演出は今回初体験。テンポが良くて華やかさもあり、中々良かった。浦井健治と城田優はコメディ・タッチの演技も上手く、とりわけ秀逸だったのがギャングの愛人オリーヴを演じた平野綾。おつむが足りない「アニメ声」の役だが、平野は何しろ「涼宮ハルヒの憂鬱」でハルヒの声を担当している。自家薬籠中の物だった。他に出演は前田美波里、ブラザー・トム、保坂知寿、愛加あゆ など。

映画より断然舞台版の方が面白かった。劇場こそ相応しい題材だったんだね。ウディ・アレンは「僕が考える最も優れたブロードウェイ・ミュージカルは 『マイ・フェア・レディ』『ザ・ミュージック・マン』そして 『ガイズ・アンド・ドールズ(野郎どもと女たち)』さ」と語っているが、NYを舞台にヤクザ稼業の面々が登場するという意味で「ガイズ・アンド・ドールズ」に非常に近い作品だなと思った。

また、当初敵対していた二人がいつの間にか共同作業で台本を仕上げる関係になるという点で、三谷幸喜の芝居「笑の大学」にそっくりだなと気が付いた。調べてみると
「笑の大学」が最初ラジオドラマとしてNHK-FMで放送されたのが1994年(舞台初演は96年)。両者の発表はほぼ同時期であり、どちらがどちらを真似たということもなさそうだ。正にシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)である。

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超難解映画「めぐりあう時間たち」の構造分析

映画「めぐりあう時間たち」(The  Hours)は2002年のアメリカ映画(パラマウント・ピクチャーズ/ミラマックス)。監督は「リトル・ダンサー」のスティーブン・ダルドリー。アカデミー賞では作品/監督/主演女優/助演女優(ジュリアン・ムーア)/助演男優(エド・ハリス)/脚色/編集/作曲/衣装デザインの9部門にノミネートされ、ニコール・キッドマンが主演女優賞を受賞した(この年作品賞を受賞したのは同じミラマックスの「シカゴ」)。

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僕は03年の日本公開時に映画館でこれを観たが、難しいなと思った。実際インターネットで感想を検索すると「難解」という表現が目立つ。分かり辛さの原因の一つとしてヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んでいるかどうかが内容を把握する上で重要な鍵になってくる。僕は本作を観た後で小説を読んだ。そしてこの度レヴィ=ストロースによる神話の構造分析の手法を学び、もう一度この難解映画に取り組んでみようと決意した。幾つかの場面がとても印象深く、心に澱のようにたまっていたのである。

"The  Hours"は異なる時代を生きる3人の女性のある一日を描く。彼女たちを結びつけているのは「ダロウェイ夫人」だ。4つの物語が同じ構造(structure)を持ち、並行して進む。以下あらすじと、①②③……は共通のコード(符号)を示す。フロイトは「性欲」という単一のコードで無意識の全てを解読しようとしたが、レヴィ=ストロースは複数のコードを等価に扱う。コードは必ずしも同一ではなく、【入水自殺(死を選ぶ)↔飛び降り自殺(死を選ぶ)↔生を選ぶ↔小鳥の(自然)死】といった変換を認める。

ヴァージニア・ウルフは1925年に「ダロウェイ夫人」を上梓し、1941年に夫レナードへ感謝と①「今までの私たち以上に幸せな二人は他にはありません」という言葉を残して、②川へ入水自殺した。③彼女は幻聴に悩まされており、統合失調症だと言われているが、うつ病や、両方に似た症状を呈する非定型精神病という説もある(自殺に至るのはうつ病の特徴である)。④ヴァージニアは同性愛者であり、恋人は詩人で作家のヴィタ・サックヴィル=ウェスト。ヴァージニアが28年に発表した小説「オーランドー」はヴィタをモデルにしている。オーランドーは男→女と性を変えながら数世紀に渡り生き続ける。ヴィタは両性愛者であり、外交官の夫との間に2人の子供をもうけた。子育てが一段落した頃(1918年)、幼馴染の女性とフランスに駆け落ちした。その時彼女は男装していたという。しかし結局恋人との関係を精算し、夫のいるロンドンに戻った。その後22年にヴァージニアと出会い、二人の関係は31年まで続いた。

A)ダロウェイ夫人:⑤「花は私が買って来るわ、とダロウェイ夫人が言った」という書き出しで始まる。クラリッサ・ダロウェイが、⑥自宅でパーティを開くことになっている朝から、パーティが終わる夜までの1日の物語。彼女は若い頃のことを回想し、④「若いときのサリー・シートンとの関係。あれは結局、恋愛だったのではないだろうか?」と考える。また彼女は青春時代、頭脳明晰でロマンティックなピーター・ウォルシュではなく、⑦堅実なリチャード・ダロウェイとの人生を選んだことが正しかったのか自問する。これに並行して第一次世界大戦から帰還した元兵士セプティマスの物語が描かれる。③彼は友人が爆死したため神経症で幻影に苦しみ、②アパートの窓から飛び降り自殺をする。クラリッサはパーティに出席した精神科医から彼の話を聞く。

ヴァージニア・ウルフによると小説の第一稿においてセプティマスは存在せず、パーティの終わりにクラリッサが死ぬ予定だったという。つまりクラリッサ+セプティマス=作者の分身であり、クラリッサの身代わりとしてセプティマスは死んだのだ。

B)1923年、英国。過去に二度自殺未遂騒ぎを起こしたヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)が療養していた郊外リッチモンド(ロンドンの中心部から電車で約30分)での1日が描かれる。姉のヴァネッサとその三人の子供たちがロンドンから訪ねて来る。②彼女は子どもたちが庭で死んだ小鳥の葬儀をあげるのを見守る。姉一家が帰る間際、④感情が昂ぶったヴァージニアは姉に激しく口付けする。 一家を送り出した彼女は突然、駅に向かう。慌てて追って来た⑦優しい夫に、「ロンドンが恋しい。この町では死んでしまう」と⑧リッチモンドの静かで隔離された生活に不満を爆発させ、「この郊外の今にも窒息しそうな麻痺を選ぶくらいなら、都会の暴力的なまでの刺激を私は選ぶ」と⑨自分の人生に対する自己決定権を涙ながらに訴える。夫はロンドン行きに同意するが、冷静さを取り戻した⑩ヴァージニアはおとなしく今住む家に帰る。

C)1951年、⑧ロサンゼルス郊外の閑静な住宅地。専業主婦のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は⑦優しい夫と愛する息子に囲まれ、現在第二子を妊娠中である。彼女は「ダロウェイ夫人」を愛読している。夫の誕生日を忘れていて、⑤夫は自分自身で花を買ってくる。⑥彼女がお祝いのケーキ作りをしていると親友のキティが訪れ、子宮の腫瘍の為に入院すると言う。④「子供を産まなければ一人前の女ではない」と泣くキティに、ローラは思わず接吻してしまう。キティが帰ると、⑨生きたいように生きられず絶望している彼女は②自殺をする為に息子を人に預け、一人ホテルへと向かう。その一室で③水が部屋に満ちてくる幻影を見る。しかし結局自殺は思いとどまり、⑩彼女は帰宅する。

D)2001年、ニューヨーク・マンハッタン。⑥編集者のクラリッサ(メリル・ストリープ)は詩人で小説家である友人リチャード(エド・ハリス)の受賞パーティのを開く計画を立て、⑤花を買いに行く。クラリッサは彼と恋仲だった若き日々の思い出を胸に、現在はエイズに侵され、③幻覚に悩まされるなど精神的に混乱しているリチャードの世話を続けている。④彼女は広く快適なNYのアパートで女性のパートナー、サリーと暮らしている。パーティの準備を終えたクラリッサがリチャードを訪ねると、リチャードは「君の為に生きて来た。でももう行かせてくれないか」①「私達ほど幸せな二人はいない」と言い、②クラリッサの目の前で窓から飛び降り自殺をする。 パーティは中止となり、リチャードの死の知らせを受けた母親ローラがトロントから駆け付ける。彼女はリチャードの小説の中で「怪物」と呼ばれ②「殺されて」いた。ローラは第二子を生むと夫と子供たちを捨て家出し、カナダで職を得て暮らしていたのだ。彼女はクラリッサに「後悔してどんな意味があるのでしょう、ああするしかなかった。誰も私を許さないでしょう。でも②私は死ぬより生きることを選んだ」と語った。

映画では具体的に語られないが、【Bパート】でヴァージニア・ウルフが「ロンドンが恋しい」と言うのは、恋人のヴィタ・サックヴィル=ウェストに逢いたいということを示唆している。

そして2001年NYの【Dパート】でリチャードが「君の為に生きて来た」と言うのは、クラリッサに自分を捨てて出ていった母ローラの面影を重ねていることを意味している(ローラは「ダロウェイ夫人」を愛読しており、リチャードはクラリッサを「ダロウェイ夫人」と呼ぶ)。【Dパート】のクラリッササリーの関係は小説「ダロウェイ夫人」を踏襲しているが、大きな差異はヴァージニア・ウルフが小説を執筆した当時のイギリスで同性愛は犯罪であり、事実が発覚すれば逮捕されたことにある。実際オスカー・ワイルド(1854-1900)は男色を咎められ収監されたし、「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」を書いたE・M・フォースター(1879-1970)が同性愛をテーマに1913年に執筆した「モーリス」が出版されるは作者の死後、1971年のことである。しかし2001年のNYでは同性愛をカミング・アウトし、堂々と一緒に暮らすことが可能になった。つまり【A/Bパート】↔【Dパート】の関係性を見ると構造(structure)は不変だが、社会のあり方が変化したのだ。しかし、もしかしたらクラリッサは現在、サリーと暮らしているのが本当に正しい選択だったのか?と自問しているのかも知れない(コードの変換)。ローラの身代わりとしてリチャードは死ぬ。同時に彼はクラリッサの身代わりであった可能性もある(リチャードの死で彼女の迷いは断ち切れた)

そして本作の主題が浮かび上がってくる。生き死にや恋愛に関して自己決定権を得ること。だがその自由を獲得した者が必ずしも幸福になれるわけではない。恐らくそこに人間の本質がある。

レヴィ=ストロースは『神話論理』冒頭「序曲」の中で次のように述べている。

音楽作品は、その内的組織ゆえに、過ぎ行く時間を停止させている。音楽は時間を、風に吹き上げられるテーブルクロスのように、捕まえ折り返す。

これはそのまま映画"The  Hours"にも当てはめられるのではないだろうか?

レヴィ=ストロースは神話の読み方を交響曲の総譜(スコア)に喩えた。より分かり易く弦楽四重奏の譜面で説明しよう。

B

"The  Hours"ではA〜Dパートがそれぞれの段に分かれていると思ってくれたら良い。楽譜を横に追っていけばそこにメロディが現れる。これが通時的変化。今度は縦に視線を動かすと、そこに重層的なハーモニーが響く。これが共時的なものの味方である。つまり神話は左から右へ読むだけではなく、同時に垂直に、上から下へも読まなければならない。そうして初めて一つのまとまりとして理解でき、神話の意味を引き出すことが出来る。それは"The  Hours"も同様なのである。

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レヴィ=ストロース「野生の思考」と神話の構造分析

最初の切っ掛けは2016年に兵庫芸文で観たベンジャミン・ブリテンのオペラ「夏の夜の夢」だった。

観劇の予習としてシェイクスピアを翻訳した松岡和子とユング派臨床心理学の第一人者・河合隼雄との対談「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)を読み、ユング心理学に興味を持った。ぶっちゃけ「これは物語や映画の読解/分析に使える!」と思ったのである。そして河合隼雄の著書を30冊以上読み漁っているうちに河合と中沢新一(宗教学・人類学者)の対談本「ブッダの夢」に出会った。そこで中沢からフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(著)「野生の思考」の紹介があった。

ユング心理学を習得した後、今度は長年の懸案事項だったニーチェ哲学に取り組んでみようと決意した。食わず嫌いで敬遠していた「ツァラトゥストラはかく語りき」は読んでみるとすこぶる面白く、平易だった。

続いてニーチェの思想を受け継いだ20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズとミシェル・フーコーを勉強してみた。

ドゥルーズの「シネマ」は大いに役立った。そしてドゥルーズやフーコーが「ポスト構造主義」と呼ばれていることを知った。では「構造主義」とは何ぞや??調査したところ、その親玉(Boss)がレヴィ=ストロース(1908-2009)であることが判った。ならば次の標的(Target)は彼しかいないだろう。狙いは定まった。

レヴィ=ストロースでまず魅了されたのが「野生の思考」で言及されるブリコラージュという概念である。日本語では「日曜大工」「器用仕事」「寄せ集め細工」などと訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。ブリコルール(器用人)は手持ちのものを調べ直し、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選び、組み立てる。詳しくは下記事で紹介した。

レヴィ=ストロースは南北アメリカ大陸の先住民の神話を詳細に研究した。神話を通して人類の無意識を探ろうという姿勢はユング心理学に共通している。

「神話論理」四部作でレヴィ=ストロースは次のように説く。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である。

自然と文化の対立を語る神話が、様々なコードを用いて様々な二項対立(天と地、生のもとと火にかけたもの、新鮮なものと腐ったもの、裸と着衣、空っぽのものと詰まったもの、容れるものと容れられるもの=能動と受動、内のものと外のものなど)を語るのは、この調停不可能な根源的対立の調停を行う(隔たりを緩和したり、その間を循環する第三の項〘例えば天と地を結ぶ雨など水/つる植物〙を導入する)ためである。

自然から文化への移行は、連続体としての自然に差異を導入して不連続化することによってなされる。この不連続化は言葉と交換(彼の著書『親族の基本構造』で明らかにされたように女性や財の交換)による他者とのコミュニケーションという、人間社会の基本的条件をもたらす。

レヴィ=ストロースがしようとしたことは「人間が神話の中でいかに思考するかではなく、神話が人間の中で、人間に知られることなく、いかに思考するか」であった。

彼は「私の思考」という主体性を棄て、無意識という空虚な場での他者との交差を重視した(「私たちの各自が、ものごとの起こる交差点のようなものです」)。

レヴィ=ストロースによる神話の構造分析は映画に応用することが出来る。

例えば宮﨑駿「風の谷のナウシカ」の二項対立差異)を挙げてみよう。

森・王蟲(オーム)↔都市文明・人間

樹を育てる水↔全てを焼き尽くす火の七日間(巨神兵)

この2極を結びつける(調停する/媒介する)のがナウシカの存在である。

ではアカデミー作品賞・監督賞に輝いたギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」の場合はどうか。

アマゾンの半魚人(自然)↔軍人ストリックランド(核戦争危機)

傷口の治癒力↔銃弾・破壊

自由奔放なイライザの女性性↔男根(ファルス)至上主義(phallocracy)

この物語の中で調停役として媒介するのは特定の形はなく間隙を満たす「水(water)」であり、それは「愛」の隠喩(metaphor)でもある(無意識の中では、愛と憎しみは一体である)。そして男根の表徴(symbol)となるのが①ストリックランドの指(半魚人に噛み千切られ、接合しても腐ってゆく)②半魚人を叩きのめす電気棒③キャデラック などである。

宮﨑駿「崖の上のポニョ」にも似た構造(structure)が認められる。

ポニョ(魚=自然)↔宗介(人間=文化)

ポニョが住む海底の家↔宗介が住む崖の上の家

ポニョの家と宗介の家には水平方向(距離)と垂直方向(高低差)の大きな隔たりがある。それを媒介・緩和するのが津波、やはり水なのだ。またナウシカの手助けをするのが、彼女が手厚く葬ったペジテ王女ラステルの兄アスベルであり、一方ポニョを手伝うのが彼女の妹たちであるという対応関係/コードの変換にも注目すべきだろう。そしてポニョは父フジモトから「ブリュンヒルデ」と呼ばれることからも判る通り、神話「ニーベルングの指環」と同じ構造(structure)を持つ。「ニーベルングの指環」が【神々の黄昏→人間の時代の到来】を描くように「崖の上のポニョ」は【人間の黄昏→新人類(ポニョと宗介の子供)の誕生】を示唆している。つまり宗介=ジークフリートという関係式が成り立つ。

「風の谷のナウシカ」では最後に腐海から木の芽が生えてくる。地球は再生される。「崖の上のポニョ」の最後は古代魚が泳ぐデボン紀に戻り(公式サイトの解説)、車椅子のお婆ちゃんたちは立ち上がり駆けまわる(若返る)。「シェイプ・オブ・ウォーター」で半魚人が画家ジャイルズの禿頭に手を当てると、そこから髪の毛が生えてくる(再生)。

レヴィ=ストロースが確立した構造主義は大変ためになるのだが、いきなり「野生の思考」を読むのはハードルが高すぎるだろう。定価が税込みで5千円強なので値段も高いしね。そこでお勧めしたい入門書を幾つかご紹介しよう。

  1. 中沢新一:100分 de 名著「野生の思考」(NHKテキスト)
  2. 小田亮:レヴィ=ストロース入門(ちくま新書)Kindle版あり
  3. 鷲田清一・山極寿一:都市と野生の思考(インターナショナル新書)Kindleあり

1.はNHK Eテレで放送された番組のテキストで、番組をYouTubeで視聴も可能。
2.は
「神話論理」四部作の要旨までバッチリ判る優れもの。
3.は「野生の思考」を日本人に応用するとどうなるかが語られる
、哲学者にして京都市立芸大学長・鷲田清一と、ゴリラ研究の世界的権威にして京都大学総長・山極寿一との対談。実に愉しき知の冒険である。

最後に、今までレヴィ=ストロースの構造分析を応用して書いた記事をご紹介しておく。

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アカデミー賞受賞「シェイプ・オブ・ウォーター」2回目の鑑賞で大発見!

「シェイプ・オブ・ウォーター」がアカデミー賞で作品賞・監督賞・美術賞・作曲賞を受賞した後に、ギレルモ・デル・トロ監督が31年間連れ添った妻(1986年結婚)と2017年2月に別居し、9月に離婚が成立していたことを発表した。

アカデミー賞授賞式では彼の横に美女が座っていたのだが、脚本家キム・モーガンであることが判明(写真はこちら←5枚あり)。彼女はデル・トロが監督する予定になっている、1947年のフィルム・ノワール"Nightmare Alley"(日本では劇場未公開で現在「悪魔の往く町」というタイトルでDVD発売中)リメイクの脚色を手がけているらしい。で調査したところ彼女もバツイチで、前夫はカナダのガイ・マディン監督だそう。

授賞式でデル・トロの名前が呼ばれ、彼が壇上に向かっている時に客席の彼の娘をカメラが捉えたのだが、不貞腐れたような顔でダルそうに拍手していたのが最高に可笑しかった。そりゃ父が母を棄てて、間髪をいれず別の若い女と公の場で睦み合っていたら、娘としては面白くないわな。「不潔!サイテー」と叫ぶ彼女の心の声が聞こえるようだった。人生いろいろである。

さて映画の2回目を観て、新たに気付いた点、また前回記事で書き切れなかったことを列記してみよう。

1)何故ジェームズ・キャメロンなのか?:エンドロールのSpecial Thanksでメキシコの仲間(アミーゴ)であるアルフォンソ・キュアロン、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥらとともにジェームズ・キャメロン監督の名が登場する。1回目に観た時は「何故キャメロン?」と理由が分からなかった。2回目で「アッ!」と叫びそうになった。映画冒頭、カメラは水中をグングン進み、扉を開けて水没したヒロイン・イライザの室内に入ってゆく。そこでは眠るイライザと家具が浮遊している。これって映画「タイタニック」冒頭の水中撮影とそっくりじゃん!

2)怪物(Monster)とは誰か?:映画の冒頭で語られる、ナレーションを引用しよう。

"Would I tell you about her? The princess without voice. Or perhaps I would just warn you, about the truth of these facts. And the tale of love and loss. And the monster, who tried to destroy it all."

「声を失ったお姫様、彼女のことを語ろうか?それとも起こった出来事の真実を聞かせて、君に警告を与えようか?それは愛と喪失、そして全てを破壊しようとした怪物(Monster)の物語だ」

この映画を初めて観る人は当然モンスター=半魚人のことだと思うだろう。「お姫様」と並列して語られるから当然である。しかし実はこれが巧妙なミスリードなのである!映画を最後まで観た人には分かる。だって半魚人は何も破壊していないのだから。つまりモンスターとは明らかに別のキャラクターのことを言っているのである。

3)Positive Thinking:軍人で機密機関「航空宇宙研究センター」警備責任者のストリックランドはノーマン・ヴィンセント・ピールが1952年に出版した「積極的考え方の力」(The Power of Positive Thinking)を読んでいる。ピールはニューヨーク・マンハッタン五番街に面したマーブル共同教会の牧師を半世紀以上勤めた人で、デール・カーネギー、ナポレオン・ヒルと並ぶ自己啓発の御三家と呼ばれている。またハンバーガーチェーン店マクドナルドの創業者レイ・クロックを描く映画「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」で主人公はノーマン・ヴィンセント・ピールが吹き込んだレコードをいつも熱心に聴いている。そして「積極的考え方の力」はドナルド・トランプ大統領の愛読書なのである。つまり「シェイプ・オブ・ウォーター」はNegative thinkingの弱い者たち(イライザの協力者)が力を合わせてThe Monster of Positive Thinkingと対決する寓話とも読み取れるのである。

4)色彩設計:「航空宇宙研究センター」の壁やイライザたちが着る制服は青緑色で統一されている。言うまでもなく水中のイメージだ。

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またストリックランドが購入する高級車(キャデラック・ドゥビル)の色はGreen(緑)ではなく、Teal(ティール)だとディーラーから説明がある。Tealとは日本語で「鴨の羽色」のことで、マガモの頭から首にかけての羽毛の色からとられた名前である。

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鴨は淡水域、湿原、海洋などに生息し、やはり水と深い関わりを持つ。

5)"Bojangles"(ボージャングル):イライザが住むアパートの隣人でゲイの画家ジャイルズは白黒テレビでシャーリー・テンプル主演映画「少連隊長(Little Colonel)」を観ている。ここで彼が言う「ボージャングル」とは世界最高のタップ・ダンサーと称されたビル・”ボージャングル”・ロビンソンのこと。実はテンプルとボージャングルはアメリカ映画史上初の白人と黒人のダンス・ペアだった。当時白人と黒人のダンサーが映画の中で一緒に歌い踊るということは滅多になかった。僕が知る限りフレッド・アステアは一度もなかったし、ジーン・ケリーはヴィンセント・ミネリ監督「踊る海賊」のナンバー、"Be A Clown"でニコラス・ブラザーズと一度踊ったきり。またMGMのミュージカル大作「ショウ・ボート」(1951)で混血の娘ジュリー役にキャスティングされたレナ・ホーン(黒人)は結局降ろされて、同役を白人のエヴァ・ガードナーが演じた。そういう時代だった。

6)アリス・フェイ:やはり白黒テレビで放送されているミュージカル映画"Hello, Frisco, Hello"(日本未公開)の中でアリス・フェイが"You'll Never Know"を歌う。これは1943年度のアカデミー歌曲賞を受賞している。アリス・フェイの名前を知っている日本人はもう殆どいないだろう。彼女の不幸は20世紀フォックスと専属契約を結んだミュージカル女優だったことだろう。何しろミュージカル映画と言えばMGMの専売特許だった時代である。60年代に衰退したMGMミュージカルは70年代に「ザッツ・エンターテイメント!」というアンソロジー映画として息を吹き返すのだが(Part 3まで製作された)、フォックスの場合はそんな気運すらなく、70年代は「スター・ウォーズ」や「エイリアン」などSFブームに呑み込まれてゆく。ちなみに「少連隊長」も20世紀フォックス作品であり、「シェイプ・オブ・ウォーター」を製作したフォックス・サーチライト・ピクチャーズは1994年に設立された20世紀フォックスの子会社である。

7)キューバ危機:物語の時代背景は東西冷戦下の1962年である。途中ラジオから「ミサイル基地が見つかった」というニュースが流れるが、これはキューバ危機の発端となった。

8)辻一弘:エンドロールにKazuhiro Tsuji の名前を発見!勿論、「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」でアカデミー賞を受賞したメイクアップ・アーティスト、辻一弘氏だ。辻さんは半魚人の目の部分を担当したそうだ。

9)半魚人=王蟲(オーム)?:前述したようにイライザは基本的に青緑色の服を着ている。ところがラスト・シーンで彼女が身につけているコートは赤色だ。何故か?

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ここで彼女は銃で撃たれ、コートはに染まる。2回目の鑑賞で脳裏をよぎったのが宮﨑駿のアニメーション映画「風の谷のナウシカ」である。

物語の終盤でナウシカはペジテの赤い服を着ている。

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しかし囮として囚われた王蟲(オーム)の子供を開放しようとして、その傷口から噴出する体液を浴びて深い青色に変わる。

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つまり「シェイプ・オブ・ウォーター」と「風の谷のナウシカ」には

  1. 人間に捕らえられ、利用されようとした生物(半魚人/王蟲)をヒロインが開放する。
  2. その過程でヒロインは負傷し、着衣が血/体液で染まる。
    「シェイプ・オブ・ウォーター」青緑→赤
    「風の谷のナウシカ」赤→深い青
  3. 半魚人は傷口を癒やしたり髪の毛を生やす神秘的力を有す。
    王蟲もナウシカの傷を癒やし、木を芽吹かせる力がある。
  4. 半魚人はアマゾン川で神と崇められている。
    王蟲は森の守り神。

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という構造(structure)の一致、対応関係(変換)が認められる。つまりギレルモ・デル・トロにとって半魚人=王蟲イライザ=ナウシカなのだ。これぞ構造人類学者レヴィ=ストロースが言うところの神話的「野生の思考」である。

映画「パンズ・ラビリンス」(2006)で主役の少女を演じたイバナ・バケロは撮影前にデル・トロから「風の谷のナウシカ」のコミック本を全巻貰ったと証言している。

また「パシフィック・リム」(2013)に出演した菊地凛子によると、撮影中に落ち込んでいる時、監督が「となりのトトロ」の♪さんぽ♪を歌って、励ましてくれたそうだ(こちらの記事)。

デル・トロはあるインタビューに答え、こう語っている。

「日本の配給会社に『宮崎さんに会いたい』と頼んだけれど、宮崎さんは忙しくて時間がつくれないらしい。残念だけど、仕方ないよね」

宮さん、どうか彼に会ってあげて!

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【いつか見た大林映画・番外編その3】オールタイム・ベスト・ワン「はるか、ノスタルジィ」と時間イメージ

1993年に大林宣彦監督「はるか、ノスタルジィ」を映画館(大阪での単館上映)で観て以来、ず〜っと僕は本作をオールタイム・ベスト・ワンだと言い続けてきた。

2016年に新海誠監督「君の名は。」が現れて、そろそろ第1位の座を譲り渡しても良いんじゃないかと思い始めた。しかしつい先日、大林宣彦映画祭@シネ・ヌーヴォ(大阪市九条)で実に25年ぶりにスクリーンで「はるか」に再会し、やっぱり正真正銘これこそが僕のベスト・ワンだと確信した。プリントの状態がすこぶるよく、特に青色が美しかった。

実は今まで「はるか」のどこが凄くて何に魅了されたのか、明言を避けてきたという後ろめたさを感じていた。いくら熱く語ったってどうせ観ている人は殆どいないんだしという諦念があり、僕自身秩序立てて述べるskill(腕前・技量)もなかった。しかし今は違う。「はるか」のことを僕以上に愛している人は世界中どこを探したっていないという絶対の自信がある(←大林監督はこういう思考を”好意的誤解”と呼んだ)。「もう逃げないでください」と言うはるか(石田ひかり)の声が聞えてくる。出会ってから25年。遂に彼女と対峙すべき時が来た。覚悟は決めた。僕は「おかしなふたり」の成田(永島敏行)の台詞を自分に言い聞かせる。「自分の人生にだけは乗り遅れちゃいけねぇ。まだ間に合うぜ、まだ間に合うぜ」……

大林映画「野のなななのか」(2014)の劇中にパスカルズ演じる【野の音楽隊】が一列になって演奏しながら練り歩く場面が何度も登場する。因みにパスカルズでパーカッションを担当しているのはバンド「たま」のランニング姿が印象的だった石川浩司。「この空の花ー長岡花火物語」(2012)では画家・山下清を演じている。

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これを観て僕が想起したのがフェデリコ・フェリーニ監督の名作「8 1/2」(1963)の大団円である。道化師たちの楽隊がニーノ・ロータ作曲の行進曲を吹きならマーチングするのだ。

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この場面で映画監督のグイド(マルチェロ・マストロヤンニ)は「人生は祭りだ!一緒に過ごそう。(È una festa la vita, viviamola insieme !)」 という名台詞を吐く。

大林映画はどこかフェリーニの映画に似ている。そのことに初めて気付かされた瞬間だった(「はるか、ノスタルジィ」にも高校生のマーチングバンドと主人公たちがすれ違う場面がある)。

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「はるか、ノスタルジィ」のあらすじはこうだ。

小樽を舞台とした少女小説で人気の作家・綾瀬慎介(勝野洋)は、少年時代の痛ましい記憶を胸の奥深く閉じこめていた。しかし小説の挿絵を描いていた紀宮(ベンガル)の突然の死をきっかけに、久しぶりに古里の小樽を訪ねる。そこで彼は記憶の中の少女・三好遙子(石田ひかり)にそっくりな、「はるか」という名の少女と出会い、封印した筈の記憶が蘇る。そんな時、綾瀬の前に佐藤弘(松田洋治)という少年が現れる。それは彼の本名であった。綾瀬慎介はペンネーム。彼は本名で勝負することを捨てた。

つまり映画の一画面の中に、主人公の現在と、少年時代の彼が同時に存在する。そして「はるか」は突然、三好瑤子に入れ替わったりもする。

これは20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズがその著書「シネマ」で論じた結晶(時間)イメージに該当する。

ベルクソン(同じくフランスの哲学者)の逆さ円錐モデルで説明しよう。

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円錐の全体SABが綾瀬慎介の記憶に蓄えられたイマージュの総て(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり綾瀬の知覚である。Pは現在彼がいる世界(小樽)そのもの。「はるか」もそこに生きている。A"B"が紀宮と出会った頃の大学生の綾瀬であり、更に遡ったA'B'が少年時代の佐藤弘と三好遙子が存在する場所。過ぎ去り、死に向かう現在(S)と、保存され、生の核を保持する過去(A'B',A"B",A'"B'",……)は絶えず干渉しあい、交差しあう。綾瀬はこの円錐(記憶)の中を自由に過去へと飛翔し、また戻ってくるのである。

この仕組/構造(structure)はフェリーニの「8 1/2」と全く同じであり、フェリーニの次の言葉がその本質を的確に教えてくれる。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

類似した構造(structure)は大林監督の「さびしんぼう」や「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 夕子悲しむ」、イングマール・ベルイマン監督「野いちご」にも認められる。「野いちご」の老いた主人公は自分が生まれ育った家を訪ねて、そこに兄弟や許嫁が昔のままの姿で現れるので「はるか、ノスタルジィ」のプロットに近い。また「さびしんぼう」で主人公のヒロキ(尾美としのり)が紛れ込むのは、母(藤田弓子)の記憶に蓄えられた結晶=逆さ円錐SABである。その過去A'B'から、さびしんぼう(なんだかへんて子)が現れる。そして母の記憶の結晶とヒロキの間で触媒の働きをするのは、風に飛ばされお寺の境内中を舞う1枚の写真である(一方、「はるか、ノスタルジィ」において綾瀬とはるかの間で触媒となるのは壊れた写真機)。

大林映画で流れる時間は神話的時間であり、フランスの言語学者ソシュールの用語を借りるなら、その文法(語り口)は通時的(関連する複数の現象や体系を、時間の流れや歴史的な変化にそって記述するさま)であると同時に、共時的(現象が継時的変化としてではなく、一定時の静止した構造としてあるさま。また、時間的・歴史的な変化の相を考慮に入れずに、ある対象の一時点における構造を体系的に記述しようとするさま)であることを理解しておかなければならない。「野生の思考」を書いたフランスの構造人類学者レヴィ=ストロース神話的時間が「可逆的かつ不可逆的で、共時的でも通時的でもある」と、その二重性を強調した。構造人類学が共時態を重視するのは、地層の断面(≒ベルクソンの逆さ円錐モデル/記憶の結晶)におけるように、〈いま・ここ〉のただなかに過去が共時的に現れていることを重要視しているのである(参考文献:小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書)。

「はるか、ノスタルジィ」の時間は循環し、【三好遥子→はるか→遥子】というサイクルが最後に発生する。ドイツの哲学者ニーチェが言うところの永劫回帰の層に入ってゆくのである。この循環は「さびしんぼう」のエピローグでも認められる(原作はどちらも山中恒)。

ちなみにニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」に基づく音楽が冒頭から流れるスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」ではボーマン船長が最後に赤ん坊(スター・チャイルド)に回帰する。スター・チャイルドとは、ニーチェが語った超人と同義である。また永劫回帰が描かれた作品として押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」やルイス・ブニュエル「皆殺しの天使」も挙げておこう。

大林映画の中で時間は停止し(「廃市」「麗猫伝説」「野のなななのか」に登場する止まった時計)、逆戻りしたりもする(「時をかける少女」)。「時をかける少女」では次のような会話が交わされる。

「だって、もう時間がないわ。どうして時間は過ぎてゆくの?」
「過ぎて行くもんじゃない。時間は、やって来るもんなんだ」

さらに生者と死者が同居する世界が描かれる(「異人たちとの夏」「その日のまえに」「この空の花―長岡花火物語」「野のなななのか」)。そこには生と死の境界線がない現在と過去の間にもないように。

人は常に誰かの代わりに生まれ、ー
誰かの代わりに死んでゆく。
だから、人の生き死には、ー
常に誰か別の人の生き死にに、
繋がっている。
(「野のなななのか」より)

人は循環し、輪廻転生を繰り返す。まるで手塚治虫が漫画「火の鳥」で描いたように。

そしてー

「ものくるほしくも、いつか見た夢、いつか見た映画。わたしは影でございます。スクリーンが燃えてなくなるとき、わたしの命もまた、ともに終わらねばなりません。あれが青春ならば、あれが愛ならば、わたしは単なる思い出。古い思い出に捕らわれて、わたしらはみんな、生きながら死んでいるのでございます。」
(「おかしなふたり」より)

となる。

大林監督がラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」に出演した際、ラッパーでDJの宇多丸が「時をかける少女」に関して、「尾美としのりの役回りはヒッチコック『めまい』のミッジではないですか?」と問い、監督が「おっ、鋭いね」と返す場面があった。これを聴いて僕はハッとした。そうか!堀川吾朗(尾美としのり)は芳山和子(原田知世)の幼馴染で、彼女のことが好きだけれど、和子は未来から来た深町一夫(高柳良一)のことしか見ていない。これはヒッチコック「めまい」に於けるミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)→スコティ(ジェームズ・スチュアート)→マデリン/ジュディ(キム・ノヴァク)の関係と一緒だ。そしてヒッチと撮影監督ロバート・バークスが開発した、床が落ちるような「めまいショット」を大林監督は「逆ズーム」と命名し、「時をかける少女」のラストシーン(大学の薬学部・廊下)で用いている。

さらに驚きべきことに気が付いた!よくよく考えてみれば「はるか、ノスタルジィ」の仕組/構造(structure)は「めまい」にも一致している。「めまい」のスコティは嘗て愛した女マデリンが自分のせいで死んだと信じ落ち込む。そんなある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見し追う。彼女はジュディと名乗った。スコティはジュディにマデリンと同じ服を着せ、髪型も似せようとする。それとそっくりな行為を「はるか、ノスタルジィ」の綾瀬は、はるかに対してするのである。そして本作における尾美としのりは再びミッジの役回りを演じている。また映画のオープニング・クレジットで石田ひかりは回転している(右回転)。これも「めまい」でソール・バスがデザインしたタイトルバック(左回転する渦巻)を彷彿とさせる。ひかりの時計回転は時間イメージでもあるし、回帰する物語であることの宣言でもあるだろう。「この空の花ー長岡花火物語」に登場する、回転運動をする一輪車の少女のように。

大林宣彦ほど豊穣な時間イメージを持つ映画作家は他にいない。僕はそう断言する。

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團伊玖磨:オペラ「夕鶴」@兵庫芸文と「蝶々夫人」

3月10日(土)兵庫県立芸術文化センター・中ホールで團伊玖磨作曲「夕鶴」を鑑賞。

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このオペラを観るのは2回目だ。

配役は、

  • つう:佐藤美枝子
  • 与ひょう:松本薫平
  • 運ず:柴山昌宣
  • 惣ど:豊島雄一

園田隆一郎/ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団、夙川エンジェルコール

今回つくづく感じたのはプッチーニ「蝶々夫人」との類似性である。実はこの両者、物語の構造(structure)が全く同じであることに気がついた。

  1. 團伊玖磨の管弦楽法や旋律の歌わせ方(カンタービレ)は明らかに「蝶々夫人」を意識している。
  2. 両者ともに日本の民謡・わらべ唄が引用されている。
  3. 異文化・異人の結合と乖離をテーマにしている。
    「蝶々夫人」大和撫子↔アメリカ人の男
    「夕鶴」鶴(メス)↔人間の男
  4. 二人の間には子供(またはそれに準ずるもの)が生まれるが、女はその忘れ形見を男に残して死ぬ。
    「蝶々夫人」息子を残して自決する。
    「夕鶴」鶴の千羽織を二枚織り、一枚(=子供)は大事にとっておいてねと言い残し、最後の体力を振り絞って空に羽ばたく(その先にあるのは死である)。
  5. 「夕鶴」与ひょうの「つう・・・つう・・・」という呼びかけで終わる。
    「蝶々夫人」幕切れでピンカートンが"Butterfly! Butterfly! Butterfly!"と3回叫ぶ。

佐藤美枝子は情感豊かで、芝居中に何度も涙を流していた。松本薫平の純朴そうな与ひょうも○。オーケストラは雄弁だった。

岩田達宗の演出は、最後つうが千羽織を抱えて織屋から出てくる場面で、明らかに赤ちゃんを抱っこするような姿勢だったのが印象深く、もののあはれを感じた。

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井上道義/大フィルのショスタコ第2・3交響曲

3月9日(金)フェスティバルホールへ。

井上道義(ミッキー)/大阪フィルハーモニー交響楽団・合唱団による定期演奏会を聴く。

  • バーバー:ピアノ協奏曲
    (独奏 アレクサンデル・ガジェヴ)
    ラフマニノフ:エチュード「音の絵」Op.39-5(ソリスト・アンコール)
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第2番「十月革命に捧げる」
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第3番「メーデー」

アレクサンデル・ガジェヴはイタリア生まれの33歳。達者な演奏だった。バーバーのコンチェルトは初めて聴いたが、JAZZっぽい語法満載の面白い曲。

1927年に初演されたショスタコの交響曲第2番は作曲家が20歳の作品。第3番が23歳である。

オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がプラウダ批判を浴びるのが1936年、29歳の時。生命の危険を感じた彼は交響曲第4番初演を凍結し、25年間封印。代わりに用意周到に準備した第5番が熱狂的に歓迎され、名誉を回復する。

単純明快な第5番と比較すると、第2・3番はアヴァンギャルド(前衛的)で、顕著なモダニズムを示している。僕が想い出したのはその頃(大正末期から昭和初期に)日本で流行った「モボモガ」という言葉。モダン・ボーイとモダン・ガールの略称である。つまり若き日のショスタコは正真正銘モボだったのだ。そして後に自分に降り懸ってくる災厄など夢にも知らず、脳天気に共産主義の正義と明るい未来を信じていたことが楽曲から窺い知れる。才気煥発過剰な音楽で、青春は爆発だ!!

「アホでも分かる」ようにするため第5番で多用されるユニゾンも、この初期の交響曲では影を潜めている。

結局プラウダ批判、そして1948年のジダーノフ批判を経て、ショスタコの音楽はどんどん変質してゆく。明るさは消え、アイロニー(皮肉)と自嘲、苦渋と諦念に満ちたものになり、最終的に晩年のヴァイオリン・ソナタとか、遺作のヴィオラ・ソナタでは感情すら喪失し、虚無だけが支配する空恐ろしい世界になる。そして音符は灰となり、雲散霧消する。

ショスタコがもしスターリン時代のソ連に生きていなければ、全然違った作曲家になったのではないか?そんなことどもを夢想しながら音楽に聴き入った。

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ワーグナー〈ニーベルングの指環〉第1日「ワルキューレ」@びわ湖ホール

3月3日(土)びわ湖ホールへ。ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」第1日「ワルキューレ」を鑑賞。昨年観た序夜「ラインの黄金」の詳細なレビュー及び作品論はこちら。4年間掛けて4部作を上演するプロジェクトである。2日間の公演ともにチケットは完売。

演出:ミヒャエル・ハンペ、美術・衣装:ヘニング・フォン・ギールケ、沼尻竜典/京都市交響楽団。

主な配役はジークムント:アンドリュー・リチャーズ、フンディング:斉木健詞、ヴォータン:ユルゲン・リン、ジークリンデ:森谷真理、ブリュンヒルデ:ステファニー・ミュター、フリッカ:小山由美 ほか。

前回同様、舞台前面にシルクスクリーンが張られプロジェクション・マッピングが効果的に用いられた。ハンペは奇を衒わず台本に忠実、つまりオーソドックな演出で、見応えがあった。現在流行りの「読み替え」演出は失敗することの方が多いので、こういう王道を往くのも、たまには悪くない。特に最後〈ヴォータンの告別と魔の炎の音楽〉は眠りにつくブリュンヒルデを予想以上に大きな炎が包み、びっくりした。

あと今回初めて気が付いたことがある。ライトモティーフ(示導動機)のひとつ〈愛による救済の動機〉とレナード・バーンスタイン作曲ミュージカル「ウエストサイド物語」の〈あんな男に〜私は愛している(A Boy Like That - I Have A Love)〉の後半部(アニタとマリアの二重唱)がそっくりなのである!!これ絶対オマージュだよね。因みにレニーは「ウエストサイド物語」の〈サムウェア〉にチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の旋律(終結部のチェロ)も引用している。

ジークムントの声は線が細かったが美しかった。ブリュンヒルデは声量があり○。あとフンディング役の斉木健詞が豊かな低音で聴衆を魅了した。一般論として日本人歌手は低音が弱いので、希少な存在だ。沼尻の指揮は室内楽的なアプローチだった。

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「シェイプ・オブ・ウォーター」がアカデミー作品賞を受賞した歴史的意義を「野生の思考」で読み解く。

2018年僕のアカデミー賞予想は17部門的中であった。過去に20部門的中させたことがあるので、今年はまぁまぁかな。

それにしても獲れないだろうと諦めかけていた「シェイプ・オブ・ウォーター」が見事作品賞を受賞したのには息を呑んだし、心底嬉しかった。大アマゾンの半魚人を主人公とするモンスター映画がアカデミー作品賞を受賞する時代が訪れようとは、一体誰が想像しただろう?これはもう歴史的快挙大事件である。

僕のアカデミー賞に対する不信感は1983年に遡る(今から35年前!!!)。この年、作品賞・監督賞でスピルバーグの「E.T.」が凡庸な「ガンジー」に敗れたのである。どちらが歴史的傑作で後世に多大な影響を及ぼしたか?火を見るより明らかだろう(スピルバーグは「未知との遭遇」でも監督賞候補になったが、「アニー・ホール」のウディ・アレンに攫われた)。この時からスピルバーグの「アカデミー賞欲しい病」が始まった。宇宙人が出てくるSF映画ではアカデミー会員に認めてもらえない。彼は方針転換し、アカデミー賞を獲るために「カラー・パープル(受賞失敗)」「シンドラーのリスト(成功)」「プライベート・ライアン(成功)」を撮った。

故にギレルモ・デル・トロは作品賞受賞スピーチで幼いころメキシコで観た「E.T.」について触れ、数週間前にスピルバーグから言われた言葉を紹介した。

"If you find yourself there, find yourself at the podium, remember that you are part of a legacy. You are part of a world of filmmakers, and be proud of it.”

「もし君が受賞出来て表彰台(壇上)に立てたなら、君は映画遺産(レガシー)の一部になるんだ。偉大な先達の映画製作者(フィルムメーカー)たちが築いてきた世界の一員に加わることになる。そのことを誇りに思いなさい」

この言葉に込められた含意を僕なりに翻訳すればこうなる。「35年前にE.T.で俺が味わった無念をどうか君が晴らしてくれ。絶対にこのモンスター映画でオスカーを勝ち取り、新たな歴史を刻め!!胸熱である。

デル・トロの受賞で、メキシコの三羽烏(The Three Amigos of Cinema)が揃い踏みとなった。アルフォンソ・キュアロンが「ゼロ・グラビティ」で、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは「バードマン」と「レヴェナント」で2年連続アカデミー監督賞を受賞しているからである。3人は大の仲良しで、共同取締役として「チャチャチャ・フィルム」を立ち上げた(ニューヨーク・タイムズの記事はこちら!←写真あり)。「シェイプ・オブ・ウォーター」のエンド・クレジットでもspecial thanksとしてジェームズ・キャメロン、コーエン兄弟らとともにキュアロンとイニャリトゥの名が挙げられている。

「シェイプ・オブ・ウォーター」と共に、ピクサー・アニメーション「リメンバー・ミー」の舞台としてもメキシコが脚光を浴びた。また大プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ問題に端を発し、性暴力被害者が#MeTooや#TimesUpとSNSで声を上げ、それは授賞式にも波及した。そして主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドはスピーチの中でアカデミー賞候補になった女性を全員立たせ、“Inclusion Rider”をぶち上げ話題を攫った。

これを切っ掛けに、ハリウッドはさらに大きな変革の時を迎えるだろう。

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評価:A

「シェイプ・オブ・ウォーター」も弱者・マイノリティに寄り添う映画である。本作の登場人物たちはみな孤独で、差別される者たちだ。半魚人(モンスター)、障害者、女、黒人、LGBT、そしてソ連のスパイ。彼らはひとりひとりだと無力だが、力を合わせることで何事かを成し遂げるのだ。

ハリウッドという夢の工房は生まれたての頃から世界中の才能を貪り食ってきた。サイレント時代のチャップリンはイギリスから大志を抱いて渡ってきた。ルドルフ・ヴァレンティノはイタリアから、グレタ・ガルボやイングリット・バーグマンはスウェーデンからやって来た。特に第二次世界大戦中はナチス・ドイツを逃れてユダヤ人を中心とする大量の亡命者が押し寄せた。この頃、フランスの大監督ジュリアン・デュヴィヴィエ(望郷、舞踏会の手帳)やルネ・クレール(巴里の屋根の下、巴里祭)、ジャン・ルノワール(大いなる幻影、ゲームの規則)らも一時期アメリカに身を寄せた。

デル・トロが授賞式のスピーチで言及したダグラス・サーク(天はすべて許し給う、風と共に散る)とウィリアム・ワイラー(ローマの休日、ベン・ハー)の場合を見てみよう。

サークはデンマーク人の両親の元、ドイツのハンブルクで生まれた。妻がユダヤ人だったため、1937年にドイツを離れアメリカへ亡命した。

ワイラーはアルザス地方のミュルーズ(現在はフランス領だが当時はドイツ帝国)で生まれた。両親はユダヤ人だった。映画を志し、職を求めて1920年18歳で渡米した。第二次世界大戦中は陸軍航空隊中佐として従軍し、「メンフィス・ベル」や「サンダーボルト」など戦争ドキュメンタリー映画を撮った(ワイラーとは別の戦闘機に乗り込んだ撮影監督は撃墜され、死亡した)。その際に故郷ミュルーズに立ち寄ったが、家族はドイツ軍に連れ去られた後で、もぬけの殻だった。

つまり映画界ではまずヨーロッパ→ハリウッドという才能の流出があり、20世紀後期以降はその流れが中南米&オセアニア→ハリウッドに変わったということである。因みにオセアニア(オーストラリア・ニュージーランド)の才能としてはニコール・キッドマン、ヒュー・ジャックマン、メル・ギブソン、ピーター・ジャクソン(ロード・オブ・ザ・リング)、バズ・ラーマン(ムーラン・ルージュ、華麗なるギャツビー)、ジョージ・ミラー(マッドマックス 怒りのデス・ロード)らがいる。

「シェイプ・オブ・ウォーター」は現代のお伽噺であり、一つのメルヘンだ。ここからは臨床心理学者・河合隼雄の著書「母性社会日本の病理」「昔話と日本人の心」「昔話の深層 ユング心理学とグリム童話」等で得た知識を基に論を進めてゆきたい。河合は日本人として初めてユング派分析家の資格を取得した人だが、スイス・チューリッヒにあるユング研究所では神話や昔話の研究をしているという。それらと心理学に一体どんな関係があるのか不思議に思われるかも知れない。神話や昔話は人から人へと口伝えされた伝承である。そこには数多くの人々の集合的(普遍的)無意識が集積していると考えられるのだ。日本の落語も同様である。

ここで面白いのは西洋の昔話・童話には人間と他の生き物(獣・物の怪)が結婚して子供が生まれるという物語が一切ないということである。「美女と野獣」にせよ、「カエルの王子」にせよ、元々人間だった者が魔法で野獣やカエルに変えられてしまい、人間に戻ってから結婚するのである。アンデルセンの「人魚姫」は人間の姿に変身するが、結局王子様とは結ばれず、泡になって消えてしまう。

ところが日本の場合、「鶴女房(鶴の恩返し/夕鶴)」は鶴と人間が結婚し、「狐女房(落語では「天神山」/「安兵衛狐」)」はキツネと人間が結婚し子作りをする。羽衣伝説は天女と人間が結婚し、やはり子供が出来る。どうして欧米にはこのような物語がないのだろう?そこにはキリスト教が濃い影を落としている。

旧約聖書の「創世記」で最初の人間(アダム)は神に模して創造される。そして女(イヴ)はアダムの肋骨から創られた。つまり人は神の似姿(肖像)なのであり、特別な存在、つまり一番偉いのだ。故に他の動物とは明確に区別される。未だにダーウィンの進化論を絶対に認めないキリスト教徒の一派がいる所以である(→進化論裁判)。

キリスト教は父性原理の宗教だ。三位一体「父(神)と子(イエス)と精霊」が重要であり、女性は一切関与しない。女性はローマ法王になれない。父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。光と闇、天国と地獄、天使と悪魔、正義と悪といった具合に二項分類する。それを発展させたのが二進法で計算処理するコンピューターだ。0か1か、白か黒か。人間と自然も完全に分けて考える。自然はあくまでも利用する対象であり、客観的に自然現象を観察し、近代科学を飛躍的に発展させた。彼らにとって最も崇高なものは理性であり概念である。皮膚感覚(感性)は下等なものとして蔑ろにされた。

一方、日本人は母性原理で生きて来た。天照大神(アマテラスオオミカミ)も女性である。母性原理は全てを包み込み、呑み込む。我々は自然と自分たちを一体と見做し、切断しない。だから狐や鶴とでも結合出来るのである(西洋人にとっては「考えられない」「気持ち悪い」行為だろう)。日本の社会では個人主義も徹底されず、他者と交流(やりとり)も以心伝心に重きを置き、「なあなあ」の、何となく「くっついた」関係で生活している。

自然を客観視し徹底的に管理・制御(control)しようとする欧米諸国と、そのまま溶け込もうとする日本の違いはイギリス式/フランス式庭園と、日本庭園の差異に如実に現れている。

人間と自然を別のものとして分離し、肉体と精神をも分けて考えようとする西洋的・キリスト教的思考に異を唱えたのがフランスの構造人類学者レヴィ=ストロースが書いた「野生の思考」(1962年出版)である。人間と自然(他の動物)の間に壁はないし、肉体と精神もひとつだと彼は主張した。そして南北アメリカ大陸先住民の神話研究に没頭した。

彼は神話的思索の方法をブリコラージュと表現した。ブリコラージュは「器用仕事」とか「寄せ集め細工」「日曜大工」と訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。ブリコルール(器用人)は手持ちのものを調べ直し、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選び、組み立てる。夜遅く帰宅し、冷蔵庫にあるありあわせのものでちょちょいと料理するイメージだ。

ではお伽話であり現代の神話とも言える「シェイプ・オブ・ウォーター」に於けるデル・トロの思考はどうだったか?中を覗いてみよう。

まず1954年のユニバーサル映画「大アマゾンの半魚人」があった。デル・トロは6歳の時にテレビで観ている。それにアンデルセンの「人魚姫」をくっ付けた(ヒロインは声を失っている)。さらにダグラス・サーク監督のメロドラマ風味を加え、副菜としてスタンリー・ドーネン(雨に唄えば)やヴィンセント・ミネリ(巴里のアメリカ人、バンド・ワゴン)などMGMミュージカル要素を添えた。1960年代に流行ったスパイ映画の雰囲気(007シリーズ、さらばベルリンの灯、国際諜報局、寒い国から帰ったスパイ)も盛り込んだ。また葛飾北斎が描いた鯉の鱗が半魚人のデザインに応用されており、ヒロイン・イライザが住むアパートの壁紙にもそのモティーフが用いられている。正にブリコラージュ野生の思考である。

因みに「シェイプ・オブ・ウォーター」で半魚人を演じるダグ・ジョーンズはデル・トロの「ヘルボーイ」シリーズでも半魚人エイブを演っている。

それにしても半魚人と人間の女性がセックス(結合)する映画がヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、ハリウッドもその価値を認めたのは画期的である。欧米人(キリスト教徒)たちは変わりつつあり、野生の思考を取り戻そうとしている。そんな手応えを今、ひしひしと感じている。

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カーゲル「フィナーレ」〜いずみシンフォニエッタ大阪 定期

2月10日(土)いずみホールへ。

飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪の記念すべき第40回定期演奏会を聴く。

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  • レスピーギ(川島素晴 編):ローマのいずみ
  • 西村朗:オーボエ協奏曲「四神」(世界初演)
    【オーボエ独奏 トーマス・インデアミューレ】
  • カーゲル:フィナーレ

「ローマのいずみ」は1管編成の室内管弦楽版で、「ローマの泉」だけではなく「松」「祭り」のエッセンスも積み込まれ、アイディア満載だった。

カーゲルのフィナーレは第1回定期演奏会でも演奏された曲で、途中で指揮者が倒れ、担架で運ばれるという演出が可笑しかった。これは「見る音楽」だ。フジテレビ系バラエティ番組「トリビアの泉」でも取り上げられ、お茶の間で話題になったという。

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瀬奈じゅん主演:ブロードウェイ・ミュージカル「ファン・ホーム ある家族の悲喜劇」と時間イメージ

3月4日(日)兵庫県立芸術文化センターで"FUN HOME"を観劇。

アリソン・ベクダルが書いた自伝的漫画(グラフィックノベル)を原作とするミュージカルである。レズビアンの女性を主人公とするミュージカルはこれがブロードウェイ初。2015年のトニー賞ではミュージカル作品賞・台本賞・楽曲賞・主演男優賞・演出賞の5部門を受賞した。

男性の同性愛者を主人公とするミュージカルなら過去に「ラ・カージュ・オ・フォール」(トニー賞でミュージカル作品賞、及び再演&再々演でベスト・リバイバル・ミュージカル作品賞を2回受賞!)とか、「レント」(トニー賞でミュージカル作品賞及びピューリッツァー賞受賞)があった。しかし僕は"FUN HOME"に一番感銘を受けた。ミュージカルを観劇して、こんなに泣いたことは未だ嘗て無い。この衝撃は1998年に宝塚大劇場で宙組「エリザベート」を初観劇して以来と形容しても決して過言ではない。

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作詞・台本:リサ・クロン、作曲:ジニーン・テソーリはふたりとも女性であり、日本版も翻訳:浦辺千鶴、訳詞:高橋亜子、演出:小川絵梨子となっている。

主人公アリソンを3人の女優が演じる(瀬奈じゅん、大原櫻子、笠井日向)。単なる回想形式ではなく、彼女らは同時に舞台に存在する

この手法は20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズがその著書「シネマ」で論じた結晶(時間)イメージだなと想った。

ベルクソンの逆さ円錐モデルで説明しよう。

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円錐の全体SABがアリソンの記憶に蓄えられたイマージュ全体(=結晶)。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。つまり瀬奈じゅんの知覚である。Pが現在彼女がいる世界(宇宙)そのもの。A"B"が大学生のアリソンであり、更に遡ったA'B'が小学生のアリソン。過ぎ去り、死に向かう現在(S)と、保存され、生の核を保持する過去(A'B',A"B",A'"B'",……)は絶えず干渉しあい、交差しあう。アリソンはこの円錐(記憶)の中を自由に過去へと飛翔し、また戻ってくるのである。

この仕組/構造(structure)はフェデリコ・フェリーニの映画「8 1/2」(1963)と同じであり、フェリーニの次の言葉がその本質を的確に教えてくれる。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」

なお「8 1/2」はアーサー・コピット(脚本)、モーリー・イェストン(作詞・作曲)の手でブロードウェイ・ミュージカル「ナイン」になっており、「シカゴ」「メリー・ポピンズ・リターンズ」のロブ・マーシャル監督で映画化もされた。

結晶(時間)イメージは他にアラン・レネ監督の映画「去年マリエンバートで」であるとか、大林宣彦監督「さびしんぼう」「はるか、ノスタルジィ」「野のなななのか」等で顕著なのだが、これを舞台に応用した作品は極めて珍しい。そういう意味で"FUN HOME"は革新的な作品であると言える。

ゲイだった(しかしカミングアウトは出来なかった)父親の想い出を娘が語るわけだが、アリソンは身体が女で心が男。これは正真正銘、父と息子の物語である。だから普遍性があるのだ。アリソンは自分が父親と似た者同士なのだということを彼に伝えたい。しかしどうしても言葉に出せないもどかしさ。決定的な時はいつの間にか過ぎ去ってしまい、人はあまりにも遅くそれに気付く。何とも切ない。

FUN HOMEとは「たのしい我が家」でもあり、同時に葬儀屋を営んでいるのでFuneral Homeの意味も含まれる。イメージが真逆であり、奥深い。

驚異的だったのは小学生時代のアリソンを演じた笠井日向(さかいひなた)。歌唱力が抜群で圧倒的存在感を放っていた。天才少女発見!!ほかクリスチャン:楢原嵩琉、ジョン:阿部稜平ら、子役のレベルの高さにはほとほと感心した。

大学生のアリソン役・大原櫻子は喉の調子が今ひとつ。

瀬奈じゅんは宝塚歌劇時代に「エリザベート」(タイトルロール&トート閣下)や「ME AND MY GIRL」を観ている。中性的で淡白な男役だったので印象は冴えないものだったが、今回の役は彼女の持ち味にピッタリ!今までのベスト・アクトであった。元々余り歌が上手くないが、本作はそんなに歌唱が多くなく、気にならない。

アリソンの父ブルースを演じた吉原光夫は朗々と完璧に歌いこなし文句なし。さすがMr.ジャン・バルジャン。劇団四季時代「ジーザス・クライスト・スーパースター」のユダ役も素晴らしかった。

母役の紺野まひるは久しぶりに見た。年をとり、やつれた感じがしたが役作りなのかも知れない。兎に角、似合っていた。

僕はこの音楽もすごく好き。非常にスティーヴン・ソンドハイムを彷彿とさせる。ニューヨークを舞台にしたソンドハイムの「カンパニー」(1970年初演)をペンシルベニア州の片田舎にそのまま移した感じ。「カンパニー」の主人公ロバートは35歳で独身なんだけれど、ゲイなんじゃないかと僕は睨んでいる。初演当時(今から48年前)、あからさまにそういうことを描くのは難しかったろう。

また高橋亜子による訳詞は熟れていて、この人は岩谷時子(レ・ミゼラブル、ミス・サイゴン)の立派な後継者だなと想った。

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2018年アカデミー賞大予想!

では恒例の第89回アカデミー賞受賞予想である。相当自信がある(鉄板)部門には◎を付けた。

  • 作品賞:スリー・ビルボード
  • 監督賞:ギレルモ・デル・トロ(シェイプ・オブ・ウォーター)◎
  • 主演女優賞:フランシス・マクドーマンド(スリー・ビルボード)◎
  • 主演男優賞:ゲイリー・オールドマン(ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男)◎
  • 助演女優賞:アリソン・ジャネイ(アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル)◎
  • 助演男優賞:サム・ロックウェル(スリー・ビルボード)◎
  • 脚本賞(オリジナル):マーティン・マクドナー(スリー・ビルボード)
  • 脚色賞(原作あり):ジェームズ・アイボリー(君の名前で僕を呼んで)◎
  • 視覚効果賞:猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)
  • 美術賞:シェイプ・オブ・ウォーター◎
  • 衣装デザイン賞:マーク・ブリッジス(ファントム・スレッド)
  • 撮影賞:ロジャー・ディーキンス(ブレードランナー 2049)◎
  • 長編ドキュメンタリー賞:顔たち、ところどころ
  • 短編ドキュメンタリー:Edith+Eddie
  • 編集賞:ダンケルク
  • 外国語映画賞:ナチュラルウーマン◎
  • 音響編集賞(Sound Editing):ダンケルク
  • 録音賞(Sound Mixing):ダンケルク
  • メイクアップ賞: ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男◎
  • 作曲賞:アレクサンドル・デスプラ(シェイプ・オブ・ウォーター)◎
  • 歌曲賞:This Is Me(グレイテスト・ショーマン)
  • 長編アニメーション賞:リメンバー・ミー◎
  • 短編アニメーション賞:Dear Basketball
  • 短編実写映画賞:DeKalb Elementary

はっきり言う。演技賞4部門と監督賞は200%間違いない。対抗馬なし。しかしさっぱりわからないのが作品賞だ。「シェイプ・オブ・ウォーター」か、「スリー・ビルボード」か?どちらかなのは確かだが、どっちに転んでもおかしくない。僕は「パンズ・ラビリンス」の頃からずっとデル・トロの大ファンなので「シェイプ・オブ・ウォーター」に軍配が上がって欲しい。モンスター映画史上初の作品賞だしね。しかし!両者を観て、僕の直感は「スリー・ビルボード」に行くと告げている。昨年「ラ・ラ・ランド」が穫れずに、「ムーンライト」に行った悪夢が蘇る。あれはもう、トラウマだ。だから僕の予想が外れることを心から祈る。こんな複雑な心境で迎えるアカデミー賞授賞式なんか初めてだ。

メイプアップも200%確実。アイクアップ・アーティストの辻一弘さん、受賞おめでとう!!日本人として誇りに思います。

撮影賞のロジャー・ディーキンスは今回14回目のノミネートで受賞ゼロ。余りにも酷すぎる。今年こそは絶対頼むぜ!!!本来なら「007 スカイフォール」で彼が受賞すべきだったのだ。

編集賞は「ベイビー・ドライバー」の可能性も捨て難い。視覚効果賞は「猿の惑星」と「ブレードランナー 2049」の一騎打ちだが、過去「エクス・マキナ」が受賞したように最近はモーション・キャプチャーが高く評価される傾向がある(つまり、猿)。長編ドキュメンタリーは「イカロス」かも?

歌曲賞の対抗馬は「リメンバー・ミー」。僕は両者を聴き比べた上で断然"This Is Me"の方が好き。インパクトがある。

短編アニメーション候補"Dear Basketball"を観て度肝を抜かれたのは音楽が「スター・ウォーズ」「ハリー・ポッター」のジョン・ウィリアムズだったこと。贅沢過ぎる!!音楽だけでジーンとするもんね、そりゃずるいわ。

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大林宣彦監督最新作「花筐」を12のキーワードで読み解く!

大林宣彦監督「花筐/HANAGATAMI」の原作は「火宅の人」で有名な檀一雄。シナリオは1977年「HOUSE ハウス」で劇場用映画デビューする前に既に完成しており、晩年の原作者も映画化を了承していた。構想40数年におよぶライフワークである。キネマ旬報ベストテンで第2位&日本映画監督賞、毎日映画コンクールで日本映画大賞に輝いた。

過去キネ旬ベストテンに入選した大林映画を列挙しよう。

  • 1982年「転校生」第3位
  • 1984年「廃市」第9位
  • 1985年「さびしんぼう」第5位
  • 1986年「野ゆき山ゆき海べゆき」次点(第11位)
  • 1988年「異人たちとの夏」第3位
  • 1989年「北京的西瓜」第6位
  • 1991年「ふたり」第5位
  • 1992年「青春デンデケデケデケ」第2位
  • 2004年「理由」第6位
  • 2012年「この空の花―長岡花火物語」次点(第11位)
  • 2014年「野のなななのか」第4位

また「さびしんぼう」で読者選出日本映画監督賞を受賞しているが、評論家の選ぶ監督賞は今回初となる。

この最新作を2月25日(日)尾道映画祭にて初鑑賞。

評価:A+ 公式サイトはこちら

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上映後、大林監督、映画出演者である常盤貴子、満島真之介、原雄次郎らが登壇し、早稲田大学名誉教授で映像作家でもある安藤紘平の司会でティーチインが行われたのだが(映画を観た尾道市立土堂小学校児童からの質問に答える形式)、詳しいことは後日【いつか見た大林映画】に書きたいと考えている。

さて、まず発音問題から語っていこう。本作は当初「花かたみ」というタイトルが予定されていた。

Hana

大林監督があとがきを書いている光文社文庫版も「はなかたみ」とルビが振られており、製作発表当時、監督も清音で発音されていた。ところが公開版では濁音に変わった。どういう事情なのか娘の大林千茱萸さんにTwitterで質問をしてみた。その回答が下の通りである。

また「良い映画を作れば、難しい漢字でも皆読めるようになるわよ」という大林恭子プロデューサーの助言により、ひらがなは用いず原作通り「花筐」となった次第である。

1)ドラキュラ映画:「花筐」は正真正銘のドラキュラ映画である。を吸う場面が何度も繰り返される。大林監督のアヴァンギャルドな16mm実験個人映画「EMOTION 伝説の午後=いつか見たドラキュラ」(1967)はロジェ・ヴァディム監督「バラ」(1960)へのオマージュだ。これは女吸鬼の物語である。そして「花筐」ではバラに転化(メタモルフォーゼ)し、またバラに戻る場面が登場する。

ヒロイン・美那は太陽光を嫌がる。何故なら彼女は吸鬼だからである。そしてブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」(1897年刊)に登場するヒロインの名前もミナ。大林監督は映画完成後、(ヴィジュアリストで「ねらわれた学園」に出演した)手塚眞にそのことを指摘されるまで全く気が付いていなかったという(原作通りの名前だから)。しかし、もしかしたら檀一雄はブラム・ストーカーの小説を知っていたのではないかと、尾道映画祭で語られた。正に映画とは、辻褄が合った夢である。

「金田一耕助の冒険」では岸田森がドラキュラを演じた。また実現はしなかったが大林監督は手塚治虫の漫画「ドン・ドラキュラ」を映画化しようと企画し、「花筐」を手掛けた桂千穂によるシナリオも完成していた。そして「HOUSE ハウス」にもバラが描かれている。

)化け猫映画:本作に出演している年老いた入江若葉を見ながら、大林監督の「麗猫伝説」に出演した頃の彼女の母・入江たか子にそっくりになったなと驚愕した。調べてみると化け猫映画「麗猫伝説」出演当時たか子72歳、「花筐」の若葉は73歳であった。「HOUSE ハウス」も化け猫映画だ。「花筐」で常盤貴子が演じる”おばさま”こと江馬圭子は「HOUSE ハウス」で南田洋子が演じた”おばちゃま”と同一人物である。許婚が戦死したという設定も同じ。また「HOUSE ハウス」で鰐淵晴子が演じた、オシャレの父の再婚相手の名前は江馬涼子。40数年前の企画で鰐淵は江馬圭子を演じる予定だったという。

映画「花筐」における英語の授業で使用されるテキストはエドガー・アラン・ポーの「黒猫」。原作では(「ドリアン・グレイの肖像」「サロメ」で知られる)オスカー・ワイルドとなっている。大林監督はポー原作の怪奇映画(「アッシャー家の惨劇」「赤死病の仮面」「恐怖の振り子」など)を撮ったロジャー・コーマンの大ファンを公言しており(石上三登志との対談「ロジャー・コーマンは映画に対して根源的な存在だ」がキネマ旬報に掲載された)、その中に「黒猫」を原作とするヴィンセント・プライス主演「黒猫の怨霊」(1962)がある。このシナリオを書いたのが「アイ・アム・レジェンド」「縮みゆく人間」「奇蹟の輝き」などで知られるSF作家リチャード・マシスン。でマシスンが原作・脚本を担当した映画「ある日どこかで」(1980)を大林監督はこよなく愛し、「時をかける少女」(1983)の参考資料として作曲家の松任谷正隆(ユーミンの旦那)に見せている。だから「時かけ」の音楽とジョン・バリーが作曲した「ある日どこかで」の雰囲気はよく似ているのだ。

3)集大成:「花筐」はまずモノクロームの映像で始まり、そこに舞い込む桜の花びらだけが桃色に染まる。そして一気に総天然色へ。正しく「時をかける少女」の導入部が繰り返される。そして障子に浮かび上がる少女のシルエット。これも「時かけ」と同じだ。崖から海に飛び込む場面は「時かけ」の深町くん。井戸は「HOUSE ハウス」で、素っ裸で海を泳ぐ鵜飼(満島真之介)は「おかしなふたり」の竹内力を彷彿とさせる。”わんぱく戦争”(戦争ごっこ)で倒れた子供たちが「お母さん!」と泣き叫ぶのは「野ゆき山ゆき海べゆき」の再現。また男3人と女4人が集う場面ではお互いの視線が錯綜とし、誰が誰を愛しているのか観客を眩惑させる。「廃市」と「姉妹坂」で試みられた手法である。原作にはない蛍が乱れ飛ぶ場面は「廃市」。そして原作には出てこない自転車は「転校生」「さびしんぼう」「麗猫伝説」「あした」であり、医師の登場は「野ゆき山ゆき海べゆき」「マヌケ先生」だ。「HOUSE ハウス」の主人公オシャレ(池上季実子)のお祖父さんも医院を開業している。これは岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)を卒業後、軍医として出征した父・大林義彦への想いに繋がっている。

4)回転・円(circle):「花筐」はおびただしいまでの「回転」や「円」のイメージで埋め尽くされている。回るレコード、常盤貴子と矢作穂香は口づけを交わしながら回転する。また常盤貴子によると終盤のダンス・パーティでは盆の上に乗せられて、助監督が床を回転させている状態で踊ったという。

劇中何度も写し出される月は常に満月だ。不自然極まりない。新海誠「君の名は。」の月が半月・三日月・満月と変化したことと対照的である。そしてどちらも大きな意味がある

「花筐」の満月は日の丸に変化し、井戸は丸い。

大林監督の娘婿・森泉岳士が描いたポスターをご覧頂きたい。

Hanagatami

チベット仏教・曼荼羅のイメージである。これも円だ。曼荼羅はユング心理学で重要なアイテムである。ユングは曼荼羅こそ自己(self)の象徴であり、普遍的(集合的)無意識の中にある元型(グレートマザー、太母)と考えた。それは「未知との遭遇」に登場するマザーシップに繋がっている。

「はるか、ノスタルジィ」のオープニング・クレジットで石田ひかりは回転している。「この空の花 長岡花火物語」の花火は円だ(3次元的には球だが、映画は2次元なので)。そして「この空の花」に登場する一輪車に乗る少女は回転運動をする。回転についてはアルフレッド・ヒッチコック監督の名作「めまい」(1958)へのオマージュという側面もあるだろう。「はるか、ノスタルジィ」の物語の骨格は「めまい」を踏襲している。

それだけではなく回転は時間イメージであり、ニーチェが言うところの永劫回帰、生まれ変わる=輪廻転生のイメージでもあるだろう。「はるか、ノスタルジィ」にも【三好遥子→はるか→遥子】という転生・繰り返しがある。それは「さびしんぼう」も同じ。

「時をかける少女」の芳山和子(原田知世)と深町一夫(高柳良一)は次のような会話を交わす。

「だって、もう時間がないわ。どうして時間は過ぎてゆくの?」
「過ぎて行くもんじゃない。時間は、やって来るもんなんだ」

これは明らかに時計の針の動きによる時間イメージであり、やがて回帰することを示唆している。

大林宣彦も「花筐」で「HOUSE ハウス」に回帰した。スター・チャイルド(@2001年宇宙の旅)の誕生である。それにしても可笑しいのは「HOUSE ハウス」が「こんなの映画じゃない!」と評論家たちから罵倒され、キネ旬ベストテンで完全に無視されたのに、「花筐」はすこぶる高い評価を受けたことである。それだけこの40年間で日本映画をめぐる状況は目覚ましい変化を遂げたということなのだろう。考えてみれば昨年、キネ旬ベストテンの第2位が「シン・ゴジラ」で、脚本賞が庵野秀明だもんね。ちょっと前だったら絶対あり得なかったことだ。嘗てサブカルチャーだったものが、いつの間にかカルチャーのど真ん中に立っていた。

5)両性愛と三島由紀夫:「花筐」の鵜飼は美しい肉体の持ち主だ。榊山はそんな彼に憧憬の念を抱く。鵜飼が素っ裸になり海で泳ぐ場面を小説はこう描写している。

ブロンズのように美事な姿態が、月下の砂丘を弾丸のように走りはじめた。

また榊山と鵜飼がお茶を飲みながら会話する場面はこうだ。

黙ったまま二人ともニッと笑った。それは何にたとえられぬほどはげしくお互いの愛情を語るのである。

ここで友情ではなく愛情と表現されていることが重要だろう。

若き日の三島由紀夫はこの小説を愛し、「檀一雄『花筐』―覚書」を執筆している。そこに次のような一節がある。

少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、おもふに恋愛と不良化の二つであらう。

三島は男色家だった。そして後年ボディビルで体を鍛えた彼の姿は、あたかも鵜飼に憧れていたかのようだ。

しかし榊山と鵜飼の間に肉体関係はなく、あくまでプラトニックなものだ。「ブロンズ」とか「大理石のよう」という表現でも判る通り、それはギリシャ彫刻のように肉体美を愛でるような感触。ふたりとも女性にも興味があるわけで、それは思春期特有の両性愛的嗜好なのだろう。

人にはみな生まれつきバイセクシュアルの傾向があり、同性愛は異性愛へと発達する途上のひとつの段階として現われうる。成人になってからの同性愛は、心理的性的発達が「停滞」したことによって生じる、とフロイトは主張している。ゲイは「未熟」だと言っているわけだから異論もあろうが、そういう説もあるということだ。

大林監督が「花筐」と同様に、いつの日にか、と映画化を望んでいる福永武彦の小説「草の花」は【 ①冬②第一の手帳③第二の手帳④春 】という4部構成になっている。「第一の手帳」では主人公・汐見茂思の藤木忍(旧制高等学校弓道部の後輩)への一方的な愛が描かれ(忍は19歳で死ぬ)、「第二の手帳」では汐見と藤木忍の妹・千枝子の恋が描かれる。しかし結局、千枝子は「あなたは私を愛しているのではなく、私を通して死んだ兄の姿を見ているのでしょう」と言い、汐見のもとを去る。これも同性愛→異性愛という両性愛的物語であり、肉欲を伴わないという点でも「花筐」に近い作品と言えるだろう。

余談だが大林映画「あした」では三島由紀夫「潮騒」の焚火の場面が再現されている。

「初江!」
と若者が叫んだ。
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはいるが、清らかな弾んだ声で言った。裸の若者は躊躇しなかった。爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、火の中へまっしぐらに飛び込んだ。
(三島由紀夫「潮騒」)

6)寺山修司:大林監督は歌人、劇作家、そして映画監督でもあった寺山修司と交流があった。尾道映画祭で語ったところによると、寺山から「大林さんの映画は僕の作品に似ている」と言われ、「いや、君のが僕のに似ているんだよ」とやり返したそう。

「花筐」には顔を真っ白に塗った兵士が登場する。これは「野ゆき山ゆき海べゆき」や「おかしなふたり」でも行われた演出だ。そして寺山の撮った自伝的映画「田園に死す」(1974)に繋がっている。

Tera

7)「ポールとヴィルジニー」と海:大林監督が少年時代からこよなく愛し、ジョルジュ・サンドの「愛の妖精」と共に尾道の海の見える丘で読み耽った小説、ベルナルダン・ド・サン=ピエールの「ポールとヴィルジニー」については下記事で触れた。

いやはや、まさか「花筐」でこの小説が前面に押し出されてくるとは夢にも思わなかった!監督の著書では繰り返し言及されてきたが、映画に名前が出てくるのは初めてである。原作には勿論、記載がない。吉良とその従姉妹・千歳が小さな島出身という設定にされたのも「ポールとヴィルジニー」を踏まえてのものだろう。長らく絶版だったが、現在は幸いなことに光文社古典新訳文庫で読むことが出来る。

「ポールとヴィルジニー」は絶海の孤島で展開される物語であり、「花筐」も海のイメージに満ち溢れている。

8)結核:「花筐」の美那は結核を患い、喀血する。肺病を患う美少女は大林映画が繰り返し描いてきたモティーフ(Motif)だ。「マヌケ先生」の有坂来瞳しかり、「あの、夏の日」の宮崎あおいしかり。「おかしなふたり」の竹内力もしきりと咳をし、肺が弱かった。福永武彦の小説「草の花」の汐見茂思は結核でサナトリウムに入院し、術中死する。福永本人も結核で闘病生活を送った(つまり汐見茂思は福永の分身である)。

大林監督の叔父は結核に倒れ、自宅で療養した。折しも日本は戦争中であり、「非国民!」となじられた。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と中原中也の詩を口ずさむ叔父にたかいたかいをされ、近づいては遠ざかる天井の木目模様を見たのが最も古い記憶だという。

9)原爆:「HOUSE ハウス」の前半部、結婚式の記念写真で炊いたフラッシュが原爆のキノコ雲に変わる。そして夢のように美しい(←対位法)キノコ雲(原子雲)は「恋人よわれに帰れ」(しかも2回!動画はこちら)や、「野ゆき山ゆき海べゆき」にも登場する。また「マヌケ先生」では原爆が投下された1945年8月6日午前8時15分の広島市が描かれるが、爆発した瞬間に画面は真っ白になる。そして「花筐」では……。

10)はぐれ鬼:映画「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 夕子悲しむ」の最後に大林監督が自らナレーターとして語る言葉をご紹介しよう。

ひとは、今日もまた
恋にはぐれて
くるほしくー

胸、張り裂けながら
ただ、耐えて耐えて
生くるのみかー

夕子、ー
君を忘れない

「おかしなふたり」の竹内力や永島敏行は【恋にはぐれた鬼】である。「HOUSE ハウス」のおばちゃまや、「時をかける少女」の尾美としのりの役回りも【はぐれ鬼】。その原点はヒッチコック「めまい」のミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)に遡る。彼女はジェームス・スチュアート演じる元刑事の主人公を愛しているのに、振り向いてもらえない。この作品でヒッチと撮影監督ロバート・バークスが開発した、床が落ちるような「めまいショット」を日本で最初に試みたのが大林監督であり、「逆ズーム」の命名者でもある。そして「時をかける少女」のラストシーン(大学の薬学部・廊下)でも逆ズームが用いられている。ちなみにスピルバーグも「ジョーズ」や「E.T.」など好んで逆ズームを使っている。

では「花筐」の【はぐれ鬼】は誰?言うまでもなく、あきね(山崎紘菜)である。千歳(門脇麦)もそうかもね。あんなの「愛」じゃないし。

11)デジタル・シネマ:シネマ・ゲルニカであり、"A MOVIE ESSAY"の「この空の花 長岡花火物語」から大林宣彦はフィルムを棄て、デジタル撮影に移行した。そしてデジタル・シネマは「野のなななのか」「花筐」と続いた(これらを一括りにして戦争三部作という)。どうしてフィルム撮りを止めたのか?監督は2010年に心臓病で倒れ、体内にペースメーカーの埋め込み手術を受け九死に一生を得た。「デジタルに命を助けられなのだから、その恩に報いなきゃいけないだろう」ということなのだそう。「花筐」は相変わらずハメコミ合成が(過剰なまでに)多いのだが、最新デジタル技術のお陰で「HOUSE ハウス」や「ねらわれた学園」の頃と比べると違和感がなくなった。なんかね、合成がしっくり馴染んでいるんだ。

12)チェロ:「大林作品はピアノ映画だ!」と看破したのは映画評論家の故・石上三登志(「HOUSE ハウス」に出演、「彼のオートバイ、彼女の島」「野ゆき山ゆき海べゆき」ではナレーションを担当)である。「花筐」の音楽にも確かにピアノの音色が響いているのだが、寧ろ中心主題となっているのはJ.S.バッハ作曲「無伴奏チェロ組曲 第1番」の前奏曲である。大林映画では前例のない異常事態だ。何故チェロなのか?

ここで僕が連想するのは宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」である。2008年に公開された大林映画「その日のまえに」は宮沢賢治のモティーフ(Motif)がふんだんに投入されている。重松清の原作小説には一切、賢治について言及されていないにも関わらず。永作博美が演じたヒロインの名前も、わざわざ「とし子」に変更されている。これは賢治の妹の名前であり、詩「永訣の朝」に登場する。そして彼女も結核で早世した。「その日のまえに」に”くらむぼん”という謎のチェロ弾きが現れるが、これは賢治の童話「やまなし」に出てくる言葉。つまり「花筐」でチェロを弾く、江馬圭子の戦死した夫・良=宮沢賢治と解釈しても良いだろう。妹(美那)が結核という状況も賢治と完全に一致する(宮沢賢治記念館には賢治が実際に使用していたチェロが展示されている)。

なお、「花筐」パンフレットの対談に登場する岩井俊二監督の映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」で黒木華演じる主人公がSNSで用いるハンドル名はクラムボンで、後にカンパネルラに改める。カンパネルラは言うまでもなく「銀河鉄道の夜」の登場人物である。

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ここまで12のキーワードで大林映画「花筐」を解きほぐして来た。12時は時計の一回りであり、十二支、十二辰(古代中国天文学における天球分割法)でもある。本評論も円環の理(えんかんのことわり)をもって、ここで終わりとしよう。

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尾高忠明/大フィルの奏でる武満徹とジョン・ウィリアムズ

2月9日(金)ザ・シンフォニーホールへ。尾高忠明/大阪フィルハーモニー交響楽団で、

【第1部】武満徹の世界

  • 3つの映画音楽(「ホゼー・トレス」から”訓練と休息の音楽”〜「黒い雨」から”葬送の音楽”〜「他人の顔」から”ワルツ”)
  • 夢千代日記
  • 「波の盆」組曲

【第2部】ジョン・ウィリアムズの世界

  • 「未知との遭遇」組曲
  • 「ハリー・ポッターと賢者の石」ヘドウィグのテーマ
  • 「シンドラーのリスト」メイン・テーマ
  • 「E.T.」フライング・シーン
  • 「ジョーズ」メイン・テーマ
  • 「スター・ウォーズ」メイン・テーマ

補助席も出て満席。会場内は熱気に満ち溢れていた。

何よりありがたかったのは武満徹の音楽を沢山聴けたこと。東京と比較すると関西で武満が聴ける機会は稀だ。大フィルも関西の作曲家、例えば大栗裕とか貴志康一の作品ならたまに「義務感」で仕方なしに演奏するのだが、関東の作曲家になるとからっきし駄目。黛敏郎とか芥川也寸志など皆無に等しい。京都市出身の松村禎三ですら1989年(平成元年)3月の定期で1回取り上げられたきりという惨状である。

だから武満と親交が深かった尾高が音楽監督に就任するのは大歓迎である。特に聴きたいのが究極の名曲「系図(Family Tree)  ー若い人たちのための音楽詩ー」。頼みまっせ!!!

ただ尾高が今年2月札幌交響楽団の定期で「ファミリー・トゥリー」を取り上げたときの語りは中井貴惠(60歳)だったのだが、どうか老人は勘弁して下さい。若い人たちのための音楽詩ーなので。日本の初演は遠野凪子(なぎこ)で、当時15歳。今なら上白石萌音/萌歌 姉妹あたりを推薦しておく(萌歌は山田和樹/日本フィルで「系図」の経験あり)。

ホゼー・トレス」は劇的でダイナミック。「乱」はオーボエ・ソロが諸行無常を嘆き、無意識・混沌が描かれる。

武満が「乱」の音楽を担当した時、黒澤明はロンドン交響楽団かハリウッドのスタジオ・オケを起用するよう要望した。それに対し武満は岩城宏之/札幌交響楽団がいいと主張、喧嘩になった。結局武満が黒澤を札幌のホールまで連れていき音を聴かせたところ、漸く納得したという。そんなエピソードを尾高は披露した。

ノスタルジックな「波の盆」は塗り薬がひたひたと傷口から体内に浸透し、全身をゆったり癒やすような雰囲気。

ジョン・ウィリアムズの世界では会場に来ている子供たちをステージに上がらせ、奏者の間近で聴かせた。これが前衛的な「未知との遭遇」というのがイカしてる!尾高は確信犯だね。

ハリー・ポッターはチェレスタの後の繊細な最弱音がキレッキレだった。

E.T.は流麗。

大フィルの「スター・ウォーズ」は大植英次・音楽監督時代に何度か聴いているのだが、今回の演奏が最もレベルが高かった。これはホルン首席・高橋将純氏の功績が大だろう。大植時代に高橋さんはいなかったからね。

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