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轟悠は宝塚の高倉健である。「ドクトル・ジバゴ」@シアター・ドラマシティ

2月12日(月)シアター・ドラマシティへ。轟悠(とどろきゆう/専科)主演、星組公演「ドクトル・ジバゴ」を観劇。台本・演出は原田諒。原田は「ロバート・キャパ 魂の記録」、「華やかなりし日々」が評価され、2013年に読売演劇大賞 優秀演出家賞を受賞、さらに2017年「For the people-リンカーン 自由を求めた男-」(轟主演)で読売演劇大賞 優秀演出家賞・優秀作品賞を受賞している。またスタッフとして作曲:玉麻尚一、装置:松井るみ(宮本亜門演出のミュージカル「太平洋序曲」ブロードウェイ公演でトニー賞にノミネート。他に「スウィーニー・トッド」の装置も)らが参加している。

Drama

現在は宝塚歌劇団理事でもある轟悠は雪組トップスターだった時代の「凱旋門」(2000年@宝塚大劇場)や「風と共に去りぬ」(2002年@日生劇場)を生で観ている。この度しみじみ感じたのは「年取ったなぁ」だった。あと頬がこけて「ちょっと痩せすぎじゃない?」しかし、役的に違和感はなかった。

現在の轟悠は【宝塚の高倉健】なんじゃないかと想った。背中で演技する。組子も轟の背中を見て男役の美学が何たるかを学ぶ。そこにはそこはかとなく哀愁が漂っている。年輪を刻んでいると言い換えても良いだろう。

僕は中学生の時に「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」の名匠デヴィッド・リーン監督が大作「ドクトル・ジバゴ」を撮っていることを知り、どうしても観たいと想った。スチール写真などを眺めてその映画に憧れたのだが、未だビデオデッキが一般家庭に普及していない時代であり、リバイバル上映もなく、中々観ることが叶わなかった(アカデミー作曲賞を受賞したモーリス・ジャールの音楽はサントラLPレコードを購入し、繰り返し聴いた)。そこでまず図書館からボリス・パステルナークの小説を借りてきて読んだ。訳者は原子林二郎。ところがこの翻訳には問題があり、原典であるロシア語版の入手が困難で、イタリア語訳版と英訳版を相互に参照した重訳だったのだ。当時は未だソビエト連邦であり、ロシア革命を批判する内容とみなされ発禁処分だったのである。本書の成果でノーベル文学賞が授与されることになったが、ソ連共産党がパステルナークをソ連の作家同盟から除名・追放すると宣告するなどして受賞の辞退を強制した。映画の方も当然、ロシアでの撮影許可が降りるはずもなく、スペインで人工の雪を降らせて撮られた(他にフィンランドやカナダでもロケ)。そして1980年、江川卓による待望のロシア語からの直接翻訳が出版された。早速高価な単行本上下巻を買って読んだのが高校生くらい。この江川訳は89年に新潮文庫に収められたが、現在はどちらの訳も絶版になっている。

大学の合格祝いにレーザーディスク(LD)プレイヤーを買ってもらい、真っ先に購入したソフトが映画「ドクトル・ジバゴ」(や「風と共に去りぬ」)だった。オリジナルは70mmワイドスクリーンだが、当時発売されていたのは箱型テレビ(横縦比4:3)に合わせたトリミング版。つまり画面の左右がカットされていた。これを後にワイドスクリーン版LDに書い直し、現在はDVDを所有している。また「午前10時の映画祭」に選出され、初めてスクリーンで観ることも出来た。

2015年「ドクトル・ジバゴ」はミュージカルとしてブロードウェイ劇場で上演された。台本:マイケル・ウェラー(「ヘアー」「ラグタイム」)、演出:デス・マカナフ(「ジャージー・ボーイズ」)、音楽:ルーシー・サイモンという布陣だった。4月21日に開幕し、閉幕が5月10日。プレビュー公演が26回で本公演がたった23回という、惨憺たる敗北であった。トニー賞へのノミネートも0だった。

さて宝塚歌劇版の話に入ろう。しっかりミュージカルしていたし、美術も演出も抜群のセンスで大満足であった。冒頭「血の日曜日」事件から一気に引き込まれた。

原田の演出で際立っているのは随所に現れる光の道である。この照明が美しい。僕は羽海野チカの漫画「ハチミツとクローバー」や「3月のライオン」で繰り返される月の道のモチーフを即座に思い出した。このイメージはそもそもムンクの絵が原点である(「ハチクロ」第8巻)。

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また舞台を分割して全く別の場所で起こっている出来事、あるいは、過去と現在を同時に見せる手法もstylishで格好いい。まるで映画におけるSplit Screen(分割画面)みたいだ。

今回の観劇で僕は「ドクトル・ジバゴ」とマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」の基本構造が全く同じであることに初めて気が付いた。

「風と共に去りぬ」はアメリが合衆国の南北戦争の話である。北部と南部が敵対する中、その境界を自由に行き来する存在がレット・バトラー。つまりバトラーはトリックスターなのだ。トリックスターとは神話や伝説の中で活躍するいたずら者で、 その狡猾さと行動力において比類ない。善であり悪であり、壊すものであり作り出すもの(scrap and build)。変幻自在で神出鬼没、全くとらえどころがない。その思いがけない働きによって従来の秩序が破壊され新しい創造が生じるきっかけとなることがある(例えば人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウス)。つまり既成の概念/価値観を転倒する。これはシェイクスピアの「マクベス」に登場する魔女3人の台詞「きれいはきたない、きたないはきれい」に呼応する。しかし単なる破壊者として終わることもある。境界を超えて出没するところに特徴がある。シェイクスピア「夏の夜の夢」の妖精パック、「リア王」の道化師、ユーゴー「ノートルダム・ド・パリ(ノートルダムの鐘)」のクロパン、「レ・ミゼラブル」のテナルディエ夫婦、日本神話では須佐之男(スサノオ)がその代表例である。

一方、「ドクトル・ジバゴ」の対立軸はブルジョアジー(ロシア皇帝・貴族) vs. プロレタリアート(市民・労働者)だ。ジバゴ一家は前者に属し、ボリシェヴィキ(左翼活動家)のパーシャ(瀬央ゆりあ)と、その恋人ラーラ(有沙瞳)は後者に属する。

ここで面白いのがラーラの母親の情夫、弁護士コマロフスキー(天寿光希)である。彼こそがこの物語全体のkey personであり、トリックスターなのだ。コマロフスキーは貴族の側でありながらラーラの母が働く仕立て屋に出入りする。革命後は革命政府と良好な関係を保ち、窮地に陥ったジバゴとラーラを助けようとする。境界を超え神出鬼没の存在である。

考えてみればジバゴとラーラが出会ったのもコマロフスキーのおかげである。この物語において彼は触媒であり、彼抜きでは登場人物たちの生成変化も起こらないのだ。

有沙瞳は別嬪さんだった。適材適所、申し分のないキャストである。必見。

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