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2018年1月

【いつか見た大林映画・番外編】監督来阪!自作を語る。〜大林宣彦映画祭@シネ・ヌーヴォ

実は【いつか見た大林映画】第7回として9・11同時多発テロの年に大分県臼杵市で撮影された「なごり雪」から始まる21世紀の作品群を語る準備をしていたのだが、急遽事態が大きく動いたので番外編をお送りすることになった。

キネマ旬報ベストテンで第2位&日本映画監督賞、さらに毎日映画コンクールで日本映画大賞に輝いた最新作「花筐」が1月27日(土)に大阪・ステーションシネマ@JR大阪駅で初日を迎えた。公開日に合わせて大林監督が来阪し、舞台挨拶を行った。その様子は新聞記事になっている→こちら

舞台挨拶後監督はタクシーに乗り、九条にある映画館シネ・ヌーヴォ(69席のミニシアター)に駆け付けた。ここで20日から「大林宣彦映画祭」が日本最大規模で開催されているのである。上映されるのは16mmフィルムの個人映画時代やテレビ映画を含め38作品に及ぶ(昨年9月東京・新文芸坐で開催された映画祭では30本だった)。

監督は「ねらわれた学園」上映終了後に挨拶されたのだが、僕はその次の上映「可愛い悪魔」を観ようとロビーで待っていた。そこへ監督御一行が到着。

ロビーにはコレクターから提供された大林映画の珍しいポスターなどが展示されており、「うちにないのがあるわ」と大林恭子プロデューサー。

また壁には所狭しと数々の映画監督によるサインが書き込まれており、館主が「是非、高林陽一監督の隣にサインをお願いします」とリクエスト。

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ちなみに高林陽一(2012年没)は1960年代、大林監督も参加した実験(個人)映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」の仲間である。そして高林監督が1970年に撮った35mmドキュメンタリー映画「すばらしい蒸気機関車」や、1975年のATG映画「本陣殺人事件」の音楽は大林宣彦が担当している(映画「あした」以降に登場する作曲家・學草太郎は大林監督のペンネームである)。

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映画館には元・OBs関西(←説明はこちら)のメンバーも駆けつけており、また大阪・ステーションシネマの舞台挨拶を聞いてから、こちらにハシゴした強者も。

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今年1月9日に80歳の誕生日を迎えられたので観客は「ハッピー・バースデイ」を歌い、監督を迎えた。司会者が高林監督のとなりにサインして貰ったと紹介すると、「いやぁ、嬉しかったねぇ」と。そして館内を見渡して「ここはいい映画館ですね。天井が高くて。ちゃんとスタンダード・サイズが上映出来るそうで、いま日本には殆どなくなっちゃんたんじゃないかな。フィルムの上下をカットされたんじゃ悲しいよね」(スタンダードは横縦比4:3、現在の標準はビスタサイズであり、ハイビジョン画面16:9はヨーロッパビスタとアメリカンビスタの中間)

「ねらわれた学園」については「当時僕の作品は『こんなの映画じゃない!』と映画評論家の人たちから散々非難を浴びましてね。だったら『これならどうだ!』と挑発的な気持ちで撮ったのがこの作品です。思えばあの頃の僕は悪ガキでしたね」

「劇場デビュー作『HOUSE ハウス』はいまや、世界中の映画祭から引っ張りだこでね、招待されて行ってみると観客がハウス・コスプレを着て迎えてくれるんです」

「『HOUSE ハウス』を製作する前から『花筐』のシナリオは書き上げていて、それから40年経って漸く映画が完成したのだけれど、中身は『HOUSE ハウス』の頃とちっとも変わっていなかったねぇ」

「僕は昔から『映画作家(フィルムメーカー)』と名乗っていて、一度も『映画監督』と自称したことはないのだけれど、それは(東宝・松竹・東映など)権力・体制に対して一生アマチュアを貫くぞという覚悟だったんです。いわば第二次世界大戦中の軍部に対する庶民の心意気だったんですね」

「黒澤明監督は生前僕に、『大林くん、僕は東宝の社員として会社を儲けさせることを常に考えないといけなかったが、会社をクビになって漸くアマチュアになれた。いま僕は自由だ!』と仰って映画「夢」を撮られた。そこには戦死した軍人の亡霊や、原子力発電所の爆発が描かれていました。そして現在はスタジオ・システムが完全に崩壊して、映画監督はみなアマチュアになった」

「僕は今80歳というジジイですが、志半ばに倒れても、40代の《大林チルドレン》と呼ばれる若い監督たちが第一線で活躍しているから、彼らがやり残した仕事を引き継いでくれるでしょう」

「そして僕自身も新藤兼人監督の遺志を継いで、まだ誰も撮らなかった原爆のメカニズムを解明する映画を創りたいと思います」

新藤兼人は広島市出身。原爆をテーマにした映画「原爆の子」「さくら隊散る」を撮っている。また「第5福竜丸」は水爆実験の被害者を描く。さらにテレビ用に製作されたドキュメンタリー番組「8・6」では広島へ原爆を投下したエノラ・ゲイ号の機長だったポール・ティベッツに、新藤自ら会いに出向いた。そして「ヒロシマ」というシナリオが残されたが、これは映像化が叶わなかった。「(原爆投下の瞬間)一秒、二秒、三秒の間に何がおこったかをわたしは描きたい。五分後、十分後に何がおこったか描きたい。それを二時間の長さで描きたい。一個の原爆でどんなことがおこるか」と新藤は書いている。

Kawai

さて秋吉久美子主演「可愛い悪魔」(1982)は「麗猫伝説」(83)同様、火曜サスペンス劇場で放送されたテレビ映画である。大林監督は他にテレビ用として、斉藤由貴主演「私の心はパパのもの」(88)、石田ゆり子主演で「彼女が結婚しない理由」(90)、陣内孝則×葉月里緒奈で「三毛猫ホームズの推理」(96)、陣内孝則×宮沢りえで「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」(98)を撮っている(全て視聴済)。

市販された本作のVHSビデオは持っているが、スクリーンで観るのは初めて。なお2月2日に待望のDVDが発売される。「麗猫伝説」はビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」のプロットを下敷きにしており、「可愛い悪魔」の元ネタはマーヴィン・ルロイ監督「悪い種子」(1956)だ。「悪い種子」のことは映画評論家・町山智浩(著)「トラウマ映画館」で知った(「可愛い悪魔」については一切触れられていない)。

Badseed

はっきり言ってオリジナルより「可愛い悪魔」の方が面白い。ミステリーというよりもホラーに近く、「HOUSE ハウス」の姉妹編という表現が相応しいだろう。転落した人物の身体がポキっと不自然に折り曲がったり、火だるまになったり、結構残酷描写がある。20年ぶりくらいの鑑賞だったが、2階から落とされた金魚鉢が赤座美代子の顔にスポッと嵌まる場面は強烈に覚えており、ここで映画館も爆笑となった。「嗚呼、笑っていいんだ」と僕もホッとした。また監督本人と「HOUSE ハウス」の音楽を担当した小林亜星、そして秋川リサの特別出演シーンがとっても愉快だ。あとエンドロールに和製ドラキュラ役者・岸田森の名前を見つけて驚いた。エエッ!、出てたっけ??帰宅後、調査したところ「ミリタリー風の変な制服姿の別荘の番人」役だったと判明。途轍もない怪演で、全然気が付かなかった。因みに岸田は大林映画「金田一耕助の冒険」にもドラキュラ役で特別出演している。そして「可愛い悪魔」の放送から半年も経たないうちに亡くなった。

「可愛い悪魔」は音楽の使い方が抜群に上手い。物語の冒頭、屋外の結婚式で流れるのがシューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」第2楽章。これがレコードで、強風に煽られて音飛びする演出が絶妙なのだ。またアルビノーニのアダージョとか、パッヘルベルのカノンなどが印象的。

「可愛い悪魔」の魅力はそれが内包する狂気である。これほど狂った大林映画を僕は他に知らない(「麗猫伝説」のSMシーン《白い肌に狂う鞭》も相当凄いけどね)。

1月30日(火)。今度はシネ・ヌーヴォで尾道三部作・外伝「日本純情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 夕子悲しむ」を観た。

Futari

劇場公開は1988年だが、ぼくは一足お先にA MOVIE FESTIVAL ONOMICHI '87のプレミア上映を観ている。また広島県福山市鞆の浦でのロケ見学もしていて、南果歩・三浦友和・竹内力と一緒に写真を撮ってもらった(→こちら)。その後レーザーディスク(LD)やDVDで繰り返し鑑賞しているが、スクリーンで再見するのは映画祭以来、実に31年ぶり。

いろいろなことどもが脳裏に蘇ってきた。例えば時折登場するちんどん屋を演じるのは尾道商店街の中にあったジャズ喫茶TOM(監督が愛飲していたのはTOMソーダ)のマスターとその夫人。「今日は鞆の浦で撮影しているよ」と僕に教えてくれたのもTOMのマスターだった。

「麗猫伝説」には瀬戸内キネマ撮影所が登場。そして「おかしなふたり」で瀬戸内キネマは寂れた映画館に生まれ変わっている。

大林監督には「いつか見たジョン・ウェイン」という著書がある。

Itsuka

「おかしなふたり」で竹内力が着る潜水服はジョン・ウェインの映画「絶海の嵐」(ウェインが最後に巨大イカと格闘)と「怒涛の果て」(ウェインが巨大タコと格闘。そして全編ゲイル・ラッセルを熱く見つめ続ける)へのオマージュ。そして終盤延々と続く三浦友和&永島敏行の殴り合いはジョン・フォード監督が故郷アイルランドでウェインを撮った「静かなる男」への讃歌だ(スピルバーグ監督の「E.T.」で地球外生命体が酔っ払いながらテレビで観るのも「静かなる男」)。

それにしても本作において南果歩は女優として絶頂期だったなと改めて想う。特に1分52秒に及ぶ、物干し台に立つ彼女をクローズ・アップで捉えた長回しは奇跡のように美しい!この後、辻仁成、渡辺謙と相次いで結婚。2016年には乳がんの手術を受けた。色々あったけど、彼女には幸せになってもらいたいとスクリーンを見つめながら祈るような気持ちになった。

今回初めて気がついた事が幾つかあった。「ふたり」「あした」「異人たちとの夏」や、特に近年の作品で顕著だが、大林映画は生者と死者が当たり前のように同居している作品が多い。「おかしなふたり」の場合、現在と過去が渾然一体となっている。それは登場人物が過去を回想するフラッシュバックというよりは寧ろ、同時にそこにある。まるでフェリーニの「8 1/2」みたいに。

我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。(フェデリコ・フェリーニ)

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズは、その著書「シネマ」の中で、「8 1/2」やアラン・レネの「去年マリエンバートで」を論じ、それらを(チャップリン、キートン、ヒッチコックなど運動イメージを表す古典的映画に対して)時間イメージと名付けた。

そして正(まさ)しく「おかしなふたり」や「時をかける少女」も、時間イメージの映画であった(過去と現在が同時にそこにある時間イメージは、「転校生」の男女入れ替わりという設定をミックスさせ、新海誠監督「君の名は。」に継承されることになる。新海誠も紛れもなく《大林チルドレン》だ)。

「おかしなふたり」の室田夫婦(三浦友和・南果歩)とその娘は、ちっぽけなとある港町に閉じ込められている。そこでは時間が永劫回帰(by ニーチェ)している(ルイス・ブニュエル「皆殺しの天使」のように)。しかし、それって考えてみれば「時をかける少女」に於ける芳山和子(原田知世)の状況と同じだよね!「おかしなふたり」の最後、室田一家はボートを漕いで町(閉鎖空間)からの脱出に成功する。漸く時間は未来に向かって動きはじめる。このラストは大林映画「廃市」とそっくりだ(止まっていた主人公の懐中時計は水郷・柳川を離れると再び動き出す)。うわ〜っ、みんな繋がっていた!!

あとボートで目覚めた三浦友和が涙を流していることを新たに発見した。これも新海誠「君の名は。」みたいだ。

福永武彦の小説「廃市」で直之は「僕」にこう語る。

「いずれ地震か火事が起るか、そうすればこんな町は完全に廃市になってしまいますよ。この町は今でももう死んでいるんです。」

そして映画「おかしなふたり」で往年の映画スター・水城龍太郎は次のような台詞を喋る。

「ものくるほしくも、いつか見た夢、いつか見た映画。わたしは影でございます。スクリーンが燃えてなくなるとき、わたしの命もまた、ともに終わらねばなりません。あれが青春ならば、あれが愛ならば、わたしは単なる思い出。古い思い出に捕らわれて、わたしらはみんな、生きながら死んでいるのでございます。」

全く同じことを言っている。

瀬戸内キネマ炎上シーンは、後年公開されアカデミー外国語映画賞を受賞したイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」と奇しくも似ている。そして1台しかない映写機で「流し込み上映」をする点でも両者は一致している(詳しい解説はこちら)。

今年の正月に元・OBs広島のH氏から久しぶりに連絡を貰い、2月23-25日に開催される尾道映画祭に行くことになった(公式サイトはこちら)。H氏に会うのも、尾道を訪ねるのも、映画「マヌケ先生」エキストラ出演以来だから約20年ぶり。まるで「はるか、ノスタルジィ」の綾瀬慎介(勝野洋)になったような、摩訶不思議な感じだ。というわけで映画「花筐」は尾道で観ます。

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#クラシック名曲マイベスト10

Twitterのハッシュタグで #クラシック名曲マイベスト10 というのがあって、これを眺めているだけでもすこぶる愉しい。多種多様。書き手の「人となり」が窺い知れる。

ある種の傾向も見えてくる。オーケストラ曲(協奏曲含む)やピアノ曲ばかり聴いている人が結構多い(室内楽少なっ!)とか、メンデルスゾーンやサン=サーンスが不人気とか。

ぶっちゃけ星の数ほどある名曲の中から10選ぶなんて不可能。無茶振りだ。しかし話の種としては面白い。「へーそんなに良いんだ。一度聴いてみよう」という切っ掛けになるかも知れない。よって僕も参戦することにした。

これはお遊び、ゲームだ。そしてゲームには規則が要る。僕がこういうときに重視するのはバランス感覚である。偏らないこと。そこで2つのルールを設定した。

  1. 一作曲家一作品とする。
  2. 交響曲・管弦楽曲・協奏曲・室内楽・器楽・歌劇・歌曲・音楽史(ルネサンス〜バロック期)とすべてのジャンルを網羅する。

その結果、次のようなラインナップとなった。

  • コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲
  • フランツ・シュミット:交響曲第4番
  • J.S.バッハ:マタイ受難曲
  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番
  • プーランク:フルート・ソナタ
  • 武満徹:系図 ―若い人たちのための音楽詩―
  • ディーリアス:夏の夕べ(「3つの小さな音詩」より)
  • ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」
    (または「トリスタンとイゾルデ」
  • ドビュッシー:2つのアラベスク
  • シューベルト:歌曲集「冬の旅」
    (または歌曲「魔王」「水の上で歌う」「影法師Doppelgänger

コルンゴルトフランツ・シュミットについては下記事をお読みください。

J.S.バッハに関してはマタイ受難曲をゴルトベルク変奏曲無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ、あるいは無伴奏チェロ組曲に置換可。

ベートーヴェンの最高傑作も、弦楽四重奏曲第14,15番大フーガ後期ビアノ・ソナタ第30−32番のどれにするか決めかねる。

プーランクピアノ協奏曲もとても美しくて好き。

武満徹系図( Family Tree )は少女の語り手とオーケストラのための作品である。テキストは谷川俊太郎の詩集「はだか」。僕は日本初演を果たした遠野凪子(当時15歳)の語りが一番好き。上白石萌歌とかも演じており、異色なところでは京都市交響楽団定期演奏会の吉行和子!!あのぉ、少女じゃないんですけれど……。

夏になると無性に聴きたくなるのがディーリアスの音詩(Tone Poem)。「夏の歌」「夏の庭園で」にも置換可。

ニーベルングの指環」の歴史的意義/後世への多大な影響については下記事で詳しく述べた。

印象派を代表して、玻璃のように繊細なドビュッシーのピアノ曲を。「」とか「月の光」に置換可。オーケストラ曲「牧神の午後への前奏曲」や、無伴奏フルート独奏曲「シランクス(パンの笛)」もいいね。

シューベルトは当初、後期ピアノ・ソナタ第19−21番を挙げようと計画していた。しかしふと、思い直した。シューベルトと言えば「歌曲王」。それを避けて通るのはいくらなんでも失礼、外道の所業だろう。「冬の旅」は暗く、悲痛である。若くして梅毒に感染し、死の恐怖に怯えながら生き、(当時の治療法だった)水銀中毒により31歳の若さで亡くなった作曲家の人生と、「冬の旅」の主人公はピタッと重なる。

魔王」は18歳の時に作曲された劇的な傑作。「水の上で歌う」は映画「バトル・ロワイヤル」で印象的に使われていた。また「ドッペルゲンガー(二重身)」をテーマにベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」やデヴィッド・フィンチャー「ファイト・クラブ」、ドゥニ・ヴィルヌーヴ「複製された男」が創られた。

続いてMore 10 (Another version)を挙げよう。

  • シベリウス:交響曲第7番
  • ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」
  • ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲第4番「ドゥムキー」
  • チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」
  • モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番
    (またはアダージョとフーガ K.546、交響曲第25番
  • マーラー:交響曲第9番
  • サティ:ジムノペディ(または「あんたが欲しいのジュ・トゥ・
  • ブラームス:弦楽五重奏曲第2番
  • フランク:ヴァイオリン・ソナタ
  • ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」

シベリウスは後期交響曲第4,5,6番のどれもいいなぁ。迷う。

ヴェルディのオペラは「椿姫」「ドン・カルロ」「アイーダ」「仮面舞踏会」「オテロ」など傑作が数多(あまた)あるが、僕は「シモン・ボッカネグラ」にとどめを刺す。指揮者クラウディオ・アバドがこよなく愛した作品でもある。

ドヴォルザークからは民族色に溢れた、またチャイコフスキーからは哀しみに満ちた室内楽を選んだ。

モーツァルトピアノ・ソナタは第3楽章「トルコ行進曲」で有名だが、はっきり言ってどうでもいい。このソナタの白眉は第1楽章 変奏曲である。何ともInnnocent(無垢)な気持ちになる。僕が小学校4年生の頃、母に買ってもらったイングリット・ヘブラーが弾くLPレコードに収録されており(併録はソナタ8番と9番)、繰り返し聴いた。モーツァルトの真髄は長調から短調に転調する瞬間にある。そこに神が宿る。

マーラー第9番にはこの世への執着/未練を示した「大地の歌」を経て、諦念と浄化がある。最後にはひたすら青い空が広がり、清々しい気持ちになれる。未完に終わった第10番も良い。

ブラームス交響曲第4番も迷ったけれど、ここは室内楽の名手を讃えて。ヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」も捨てがたい魅力がある。

裏ベスト

  • アレグリ:ミゼレーレ(無伴奏合唱曲)
  • テレマン:フルートとリコーダーのための協奏曲
  • ブルックナー:交響曲第7番
  • レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第3番(または第5番)
  • ラヴェル:序奏とアレグロ(七重奏曲)
  • エルガー:チェロ協奏曲
    (または
    弦楽四重奏×弦楽合奏による序奏とアレグロ
  • メシアン:世の終わりのための四重奏曲
  • グラナドス:スペイン舞曲集より「オリエンタル」「アンダルーサ」
  • バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番
    (または弦楽四重奏曲第4,5番
  • ヤナーチェク:歌劇「利口な女狐の物語」
    (または弦楽四重奏曲第1,2番

ローマのシスティーナ礼拝堂で歌われ、楽譜が門外不出の秘曲だった「ミゼレーレ」を14歳だったモーツァルトが二度聴いただけで正確に採譜したというのは余りにも有名なエピソードである。透明感あふれるタリス・スコラーズの合唱でどうぞ。

ヴォーン・ウィリアムズについては下記記事をお読みください。

ラヴェル序奏とアレグロはNHK BS プレミアム「クラシック倶楽部」のオープニングテーマに採用されている。

エルガーのチェロ協奏曲はデュプレ×バルビローリの、火の玉と化した壮絶な演奏をお聴きあれ。

グラナドスオリエンタル」「アンダルーサ」は勿論オリジナルのピアノも良いのだが、是非ギター編曲版も聴いて欲しい。あと映画「エル・スール」は必見。

バルトークコンチェルトは冒頭のヴァイオリン独奏を聴くと、否応なく「嗚呼、ハンガリーだなぁ」としみじみ想う。

ヤナーチェクは色っぽいね。弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」は不倫音楽だ。

次点

  • ベルリオーズ:幻想交響曲
  • フォーレ:レクイエム
  • シューマン:子供の情景
    (またはノヴェレッテ第1番
  • メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」
    (またはピアノ三重奏曲第1番
  • ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
  • ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第8番
    (またはヴァイオリン/ヴィオラ・ソナタ
  • プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」
    (または交響曲第7番
  • ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー
  • ハワード・ハンソン:交響曲第2番「ロマンティック」
  • モンポウ「内なる印象」(特に第8曲「秘密」が白眉)

オイストラフ60歳の誕生日のために作曲されたショスタコーヴィチヴァイオリン・ソナタと、遺作となったヴィオラ・ソナタは無機質というか、空恐ろしい虚無の音楽である。殆どの聴き手は拒絶反応を示すのではないだろうか?でも作曲家の心の深淵を覗き込むような体験が出来る、稀有な作品と言えるだろう。

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イザベル・ファウストとスティーブ・ジョブズ/バッハ無伴奏Vn.ソナタ&パルティータ全曲演奏会

1月23日及び24日に連続で、イザベル・ファウストの弾くJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲演奏会を聴いた@いずみホール。

Faust

【第1夜】

  • 無伴奏Vn.ソナタ 第1番
  • 無伴奏Vn.パルティータ 第1番
  • 無伴奏Vn.ソナタ 第2番

【第2夜】

  • 無伴奏Vn.パルティータ 第3番
  • 無伴奏Vn.ソナタ 第3番
  • 無伴奏Vn.パルティータ 第2番

第2夜で曲順の入れ替えを行っているのは言うまでもなく、最後に【音楽世界遺産】である超弩級の名曲「シャコンヌ」を擁する無伴奏Vn.パルティータ第2番を持ってくるためである。余談だが1977年に遙かなる宇宙を目指し打ち上げられたボイジャー探索機には遠い未来、それが遭遇するかもしれない地球外知的生命体(宇宙人)に向け人類からのメッセージとしてゴールデンレコードが搭載されており、そこには無伴奏Vn.パルティータ第3番の第3曲「ロンド風ガヴォット」が選ばれている(演奏はグリュミオー)。詳しいリストはこちら

Lp

どうして「シャコンヌ」じゃないんだ?という疑問は当然湧くが、恐らく収録時間の問題だろう。CDじゃなくレコードだからね。「ガヴォット」が3分弱。対して「シャコンヌ」はファウストのCDだと12分26秒。

ファウストは東京でしばしば無伴奏ソナタ&パルティータ全曲演奏会を開いているが、大阪では今回が初めて。僕は京都市のバロックザールで一度聴いており(レビューはこちら)、その時は3曲のみだった。またチョン・キョンファが一晩で6曲全曲演奏を行う無謀な挑戦にも足を運んだが、途中で弾くのが止まるわボロ雑巾みたいな状態で、惨憺たる結果に終わった。

バロックザールで3曲聴いたときよりも今回の方が遥かに感動が大きかった。全然違う。やはり6曲を集中して、通しで聴くというのが鍵なのだろう。音楽は清冽で、暗闇の中でメラメラと真直ぐに燃える蝋燭の太い芯のような演奏であった。

ファウストはバロック・ヴァイオリンに裸のガット弦を張りバッハの無伴奏を弾いたことがあるそうなのだが、CDや今回は愛器ストラディバリウス「スリー・ピング・ビューティ」+スチール弦+バロックボウ(弓)という組み合わせ。その理由はこちらのインタビューで彼女が詳しく語っている。なおバロック弓は現代のものよりも約5cm短く、重量も15gほど軽い。よって構え方や運弓法(ボウイング)に違いが出てくる。ノン・ヴィブラートによるピリオド・アプローチ(古楽奏法)。ピッチを揺らすのは装飾音のみ。

彼女の奏でる音を聴きながら僕が想起したのは故スティーブ・ジョブズの座右の銘「洗練を突き詰めると簡潔になる(Simplicity is the ultimate sophistication. )」。大バッハの音楽はiPhoneの姿形に似ている。ファウストの舞台衣装もそうで、一見地味でシンプルだがその実とってもお洒落。どうやらイッセイミヤケのプリーツプリーズらしい。そしてスティーブ・ジョブズが生前愛用していた黒のタートルネックも三宅一生がデザインしたものだった(詳しくはこちら)。一部でセントクロイ・コレクションだという情報が飛び交っているがそれは間違い。ちゃんと伝記に明記されている。ある日ニューヨークにあるイッセイミヤケの事務所にジョブズ本人から電話があり、100着まとめて注文したという。彼は同じものを毎日着替えていた。

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僕はこの2日間、ファウストと共に深い、深い思索の森を散策した。それは「森林浴」と言ってもいい、魂が浄化される体験であった。周りの聴衆も殆どが連日足を運んだ人たちばかりで、いわば我々は「旅の仲間」「同志」だった。彼女がバッハを奏でる様子は農家の夫人が真摯な祈りを捧げている姿を連想させる。そう、ミレー「晩鐘」のイメージだ。

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そして本屋大賞を受賞した宮下奈都(みやしたなつ)著「羊と鋼の森」の次の一節を想い出した。

 自分が迷子で、神様を求めてさまよっていたのだとわかる。迷子だったことにも気づかなかった。神様というのか、目印というのか。この音を求めていたのだ、と思う。この音があれば生きていける、とさえ思う。

神はそこ(ホール)にいた。その神はキリスト教徒が思い描くような手の届かない彼岸の存在、絶対的な真理・イデアではなく、偉大な人間(バッハ)の想像力(イマジネーション)と叡智によって創り出されたものであった。

稀有な演奏会だった。現在望みうる最高のバッハ。是非何年後かにまた彼女で聴きたい。さらに五嶋みどりやアリーナ・イブラギモヴァが弾くバッハの無伴奏Vn.全曲演奏会も期待したい。いずみホールのスタッフの方々、よろしくお願いします。

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再び、明日海りお主演 宝塚花組「ポーの一族」へ!

1月19日(金)有給休暇を取り、宝塚大劇場へ。

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初見のレビューは下記。

大好きな作品だが、2回目でより一層深い感銘を受けた。座席の位置も大いに関係しているだろう。前回は1階席21列目で今回は10列目だった(SS席は7列目まで)。観劇は近ければ近いほど良い。当たり前のことだ。

平日にも関わらず満席。しかも立ち見がざっと数えて80人くらい!びっくり仰天である。

言葉を尽くしてもこの作品の魅力を伝えることは不可能だ。兎に角観てください、それしかない。

エドガー役の明日海りおと、アランを演じる柚香 光がヴィジュアル的に完璧、申し分ない。萩尾望都による原作漫画でエドガーは14歳という設定なのだけれど、何の違和感もない。ちゃんと(妖しい)少年がそこにいた。そしてメリー・ベル役の華 優希がお人形さんみたいで超かわいい!!ウットリ見惚れた。「人は見た目が100パーセントby 桐谷美玲)は100%真実である。少なくとも宝塚歌劇においては。娘役トップ・仙名彩世は大人の魅力だね。シーラ・ポーツネル男爵夫人は美貌で男を誑(たぶらか)かす/籠絡する悪い女だから。←褒め言葉

改めて太田 健の手による楽曲はやはり素晴らしい。どんどん転調して凝っている。それに引き換え寺田瀧雄の「ベルサイユのばら」とか「風と共に去りぬ」なんか単調すぎて聴くに堪えない。昭和演歌の世界だね。宝塚歌劇は着実に進化を遂げている。

僕は当初、台本・演出の小池修一郎が何故「エリザベート」のリーヴァイとか「スカーレット・ピンパーネル」のワイルドホーン、「ロミオ&ジュリエット」のプレスギュルヴィックらに作曲を依頼しないのだろうと訝しんだ(今の彼の実力なら断られないだろう)。何しろ構想32年のライフワークである。しかし2回目の観劇でその理由が判った気がする。小池は原作の台詞をそのまま活かしたいと考えていた。萩尾望都が作詞したものもある。とすると詞先(しさき)方式で楽曲を制作するしかない。日本語のニュアンス、自然なイントネーションを外国人作曲家に正確に伝えるのは非常に困難な作業になる。その点、「NEVER SAY GOODBYE」とか「眠らない男・ナポレオン」「グレート・ギャツビー」の場合、曲先方式で何ら問題はない。予め出来上がった楽曲のメロディに合わせて、小池が作詞を調整することが出来るわけだ。恐らくそういった事情だったのではないだろうか?因みにNHKのドキュメンタリー番組で知ったのだが、AKB48グループや坂道シリーズ(乃木坂46/欅坂46)の作詞をする際、秋元康は全て曲先方式を採っている(1,000曲ほどストックがあるデモ音源から毎回選曲をする)。

大階段が登場しフィナーレの舞台が華麗に展開され、芝居がはねたあとも現実世界に戻ってくることがとても困難だった。帰途についても身体がふわふわして足が地に着かないもどかしさを感じる。僕の宝塚初観劇が宙組「エリザベート」1998年で今年が20年目なのだけれど、こんなことは前代未聞、全く初めての体験だった。小池版「ポーの一族」恐るべし!この作品には魔物が潜んでいる。この世のものではない。

真面目な話、今年度の菊田一夫演劇賞 大賞はこれで決まりじゃない?

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!〜関西弦楽四重奏団/ベートーヴェン・ツィクルス第2夜

1月22日(月)ザ・フェニックスホールへ。関西弦楽四重奏団によるベートーヴェン・ツィクルス第2夜を聴く。

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  • 弦楽四重奏曲 第4番
  • 弦楽四重奏曲 第8番「ラズモフスキー第2番」
  • 弦楽四重奏曲 第15番

第1回(レビューはこちら)が長調ばかりだったのに対し、今回は短調の楽曲がずらりと並んだ。

初期の第4番は例えば鋭いナイフのような切れ味のアルバン・ベルク弦楽四重奏団の方向性とは違って、小気味良い演奏。「若気の至り」という言葉を想い出した。

ラズモフスキー第2番はしなやかに歌う。終楽章は「狩り」を連想した。馬のギャロップ。躍動感があった。このカルテットは特にヴィオラとチェロの低音部が卓越しており、土台がしっかりと支えた美しいピラミッド型音響を成している。

弦楽四重奏曲(SQ)第15番は名曲中の名曲。ベートーヴェンの最高傑作は?と問われたら僕は後期ピアノ・ソナタ第30−32番と、SQの第14番か第15番を挙げる。どちらがbetterかは計り知れない。どれも最高!論じても意味がない。

中間の第3楽章は病気のせいで作曲を一時中断し、回復した後に追加されたもので、「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」と題されている。ゆったりした教会旋法の部分と、より速めの「新しい力を得た」部分とが交差する。真摯な祈りと、漲る力/大いなる自信に溢れている。僕は小学校5−6年生の頃に読んだ武川寛海(著)「ベートーヴェンの虚像をはぐ」(現在絶版)のことを想い出した。

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この本の中で有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」の話題が取り上げられて、そもそもベートーヴェンは信心深いカトリック教徒なのだから、その教えに背く自殺を本気で考える筈がない。遺書に書かれたことは単なる妄想の産物だと一刀両断されており、目から鱗が落ちた。SQ 15番を聴けば、彼の信仰心が如何に篤かったかが窺い知れる。

終(第5)楽章は運命という波に呑み込まれて、アッと言う間に遥か彼方に押し流されてしまうような印象を抱く。厳しく、決然とした超弩級の名演だった。はっきり言って第1回よりも格段の進化を遂げており、今後の展開が一層愉しみとなった。

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クラシック音楽業界の虚飾を剥ぐ〜大フィル初演!コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲

1月18日(木)フェスティバルホールへ。

角田鋼亮/大阪フィルハーモニー交響楽団による定期演奏会で、

  • コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲
  • マーラー:交響曲第1番「巨人」

を聴く。ヴァイオリン独奏は竹澤恭子(ソリスト・アンコールはレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ:揚げひばり)。

僕がエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトが作曲した映画音楽「シー・ホーク」を初めて聴いたのは高校生の時。スタンリー・ブラック指揮、ロンドン・フェスティバル管弦楽団によるLPレコードだった。そして「なんて壮大な楽曲だろう、この人は天才だ!」と想った。

それから時を経て彼のヴァイオリン協奏曲を初めてCDで聴いたのが今から約30年前。その濃厚なロマンティシズムにいっぺんに魅了された。パールマン、プレヴィン/ピッツバーグ響の演奏で、EMIの輸入盤。当時、国内盤は一切なかった。0である。初演者ヤッシャ・ハイフェッツの名盤ですら手に入らなかった。コルンゴルトは完全に忘れ去られた(日本人は端から知らない)存在だったのだ。

今では東京で五嶋みどり、神尾真由子、諏訪内晶子らがこのコンチェルトを演奏するなど、すっかり市民権を得た。しかし大阪は東京より遥かに遅れていて、大阪交響楽団が定期演奏会で取り上げたのが漸く2016年末。

大フィルに至ってはそもそもコルンゴルトの楽曲を演奏すること自体、今回が初めてである。なお関西フィルは今年4月29日の定期演奏会で(独奏:オーギュスタン・デュメイ!)、日本センチュリー交響楽団は10月25日の定演で(独奏:荒井英治)で同曲を取り上げる。遂にコルンゴルトの時代が来たのだ。

このコンチェルトがアメリカで初演されたのが1947年。70年も経過している(日本初演は1989年)。どうしてこれ程までに適正な評価が遅れてしまったのか?その理由は大きく2つある。

  1. 初演された当時はアルノルト・シェーンベルクの十二音技法を経て、無調音楽が主流の時代になっており、「調性音楽は過去の遺物、時代錯誤だ!」と楽壇から無視された。
  2. 全楽章の主題(テーマ)全てがコルンゴルトが過去に手掛けた映画音楽から採られており、聴衆からも「映画に身を売った作曲家」と蔑まれた。

映画音楽を馬鹿にする風潮は今のクラシック音楽業界にも根強くあり、例えばオーケストラの定期演奏会で映画音楽が取り上げることは極めて稀である。要するにお高くとまっているのだ。プロコフィエフ「アレクサンドル・ネフスキー」「キージェ中尉」は例外中の例外。彼の場合、映画はあくまで副業であり、主軸がコンサート・ピースだからだろう。

現在はウィーン・フィル、ベルリン・フィル、NHK交響楽団も「スター・ウォーズ」や「E.T.」「ハリー・ポッター」などを演奏するようになったが、あくまでポップス・コンサートや野外コンサートに限られている。大フィルも今度、武満徹とジョン・ウィリアムズの特集を組むが、やはり枠外(「Enjoy !オーケストラ」)だ。定期演奏会では歌劇の序曲やチャイコフスキーのバレエ音楽が演奏されるのに、映画音楽はどうして無視されるのか?そこには偏見以外の理由があろう筈がない。

つまりアメリカ合衆国においてアフリカ系アメリカ人による公民権運動が始まる前(20世紀前半)の状態、人種隔離政策ならぬ「音楽隔離政策」が未だにクラシック音楽の世界では当たり前のように蔓延(はびこ)っているのである。マーティン・ルーサー・キング牧師の有名な演説"I Have a Dream"(1963)じゃないけれど、僕も次のように叫びたい。

わたしには夢がある!何時の日にか映画音楽がジャンルの色で差別されることなく、ベートーヴェンやチャイコフスキー、マーラーらの作品と肩を並べ、オーケストラの定期演奏会で取り上げられる日が来ることを。

闘いの日々は続く。TO BE CONTINUED...

さて、本日の演奏についてだがまず第1,2楽章の異様に遅いテンポに驚いた。僕は今までにこのコンチェルトのCDをハイフェッツ含め10種類以上聴いているが(ヒラリー・ハーンのDVDも)、竹澤は史上最遅である。豊穣な響きでたっぷりと歌うが、些か間延びした印象を受けたことも否めない。第3楽章は標準的な速さになり、引き締まった。力強く張りがあり、雄弁だった。そしてオーケストラを含め音色は美しく、総論として満足した。

マーラーについては歌い方、テンポ、ダイナミズム、どれをとっても良く言えば「中庸」、悪く言えば「中途半端」。楷書的な解釈で、はっきり言って「おもろない」。シンフォニーの冒頭から、盛り上がりに欠けたフィナーレまで頭の中では「この指揮者、一体何を表現したいの??」という疑問符がグルグル回り続けていた。彼の描こうとするヴィジョンが全く見えて来ない。

これは僕の持論だが、クラシック音楽はあくまで欧米の文化なんだから、若い指揮者は日本国内のポストだけで満足していたのでは駄目だ(その良い例が金聖響)。若い時こそ海外に武者修行に飛び出さなくちゃ!小澤征爾だって、大野和士や尾高忠明だって、一流の人たちは皆そうしてきた。角田鋼亮よ、旅に出て揉まれて来い!!

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映画「勝手にふるえてろ」と松岡茉優の変遷

評価:A+

Katte

映画公式サイトはこちら

松岡茉優、22歳。彼女が出演する映画を初めて観たのは「桐島、部活やめるってよ」(2012)だった。同年の「悪の教典」も観たが、全く記憶に残っていない。未だに彼女がどの役を演じたのか判らない。そんな影の薄い女だった。松岡茉優という名前を意識し始めたのは宮藤官九郎が脚本を書いたNHK連続テレビ小説「あまちゃん」(2013)からである。ちなみに彼女の役どころは全国の地元アイドルから選抜されたグループGMT47のリーダー・入間しおり。しかし「アメ女」センター役の足立梨花の方が断然可愛かった(GMT47は「アメ女」の2軍)。ここでの松岡の印象は”不細工な娘(こ)”。余談だがGMT47は当然AKB48のパロディで、後年結成されたAKB48:チーム8は逆にGMT47をモデルにしている。

彼女に対する評価が180度転換したのが映画「ちはやふる ー下の句ー」。クイーンとして眩いばかりに光り輝いていた。

さて、「勝手にふるえてろ」である。原作は史上最年少19歳という若さで芥川賞を受賞した「蹴りたい背中」の綿矢りさ、脚本・監督:大九明子。ガーリーパワー(女子力)が炸裂している。

無様でみっともない恋愛映画だ。でもそこが愛おしい。こんなタイプの作品、観たことない!特に後半、松岡が突然歌い出す場面(ミュージカル仕立て)は本当に痛々しく、本作の白眉である。彼女がダサ可愛くて最高だ。ヒロインの友人役を務める石橋杏奈もすごく良かった。

あとロックバンド「クイーン」のボーカリスト、故フレディ・マーキュリーをめぐるギャグには大爆笑したのだが、若い観客には理解出来たのだろうか?

本作は12月18日に公開されたので、昨年の映画。しかし拙ブログのベスト選や個人賞は既に発表してしまったので、今年の枠に無理やり入れることにする(大林宣彦監督「花筐」も同様)。そして現時点で2018年の主演女優賞は松岡茉優に決めた!余程のことがない限り、この決定が覆ることはないだろう。

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ハンス・ロットの日本初演とマーラー「巨人」ハンブルク稿〜大響定期

1月12日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

寺岡清高/大阪交響楽団で、

  • ロット:ハムレット序曲(日本初演)
  • ロット:「管弦楽のための組曲 変ロ長調」からの二章(日本初演)
  • ロット:「管弦楽のための組曲 ホ長調」からの二章
  • マーラー:交響形式による二部の音詩「巨人」(ハンブルク稿)

ハンス・ロットは交響曲第1番をこのコンビで二度聴いている。

25年という作曲家の短い生涯については上記事で詳しく語ったのでここで繰り返さない。

交響曲第1番は級友マーラーに多大な影響を与えた点でも見逃せないし、聴き応えのある佳曲だと想う。このシンフォニーは2019年2月9日、10日にパーヴォ・ヤルヴィ/NHK交響楽団が、2019年2月9日に川瀬賢太郎/神奈川フィルハーモニー管弦楽団が定期演奏会で取り上げるということで巷で話題騒然となっている。なんと同じ日に競演!!ハンス・ロット再評価(いや、新発見?)の機運は大いに高まっている(パーヴォは既にフランクフルト放送交響楽団と同曲をレコーディング済み)。

だが今回取り上げられたハムレット序曲は作曲家18歳、管弦楽のための組曲は19−20歳の頃の作品であり、習作の域を出ていない。ワーグナーやリスト(前奏曲)の影響がモロに出ており、はっきり言って駄曲。図書館規模で網羅されているナクソス・ミュージック・ライブラリーですら収録されていない有様だから、推して知るべし。

マーラー「巨人」ハンブルク稿は、楽譜が失われたブタペスト初演稿に続く、第2稿である。次のような副題が付いている。

第1部青春の日々から】 第1楽章「終わりのない春」 第2楽章「花の章」 第3楽章「順風に帆を上げて」

第2部人間喜劇】 第4楽章「カロ風の葬送行進曲」 第5楽章「地獄から天国へ」

カロ風の葬送行進曲は下の版画に触発されたもの。

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森に棲む動物たちが、(本来は自分たちを殺す存在である)狩人を埋葬しようとしているという倒錯した情景が描かれている。

第3(決定)稿との一番大きな違いは「花の章」がカットされたことだろう。勿論「花の章」がオマケとして付いた「巨人」のCDは持っているし、大植英次/大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏で実演を(アンコールとして)聴いたこともある。しかしラトル/バーミンガム市響のCDなどは「巨人」とは別枠で「花の章」が収録されており、第2楽章という中に組み込まれた形で聴くのは今回が初めて。今までとは全く違った景色が見えてきた。甘い香り。青春の儚さ、その光と影といったものがより鮮明に浮かび上がってきたのである。僕は決定稿よりハンブルク稿の方が好きかも。

ただ演奏の方は粗さが目立った(特に終楽章)。児玉宏が大響の音楽監督を務めていた時は定期会員になり毎月足を運んでいたが(夢のような時代)、外山雄三がミュージック・アドバイザーに就任して以降はプログラムの内容といい全く魅力のないオケに成り下がってしまった。今やデュメイ音楽監督の下で弦楽アンサンブルを鍛えられた関西フィルの方が実力が上ではないだろうか?大響もそろそろ目を覚ました方がいい。

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音楽を愛するすべての人へ!〜【本屋大賞】宮下奈都「羊と鋼の森」と大林映画「ふりむけば愛」

 森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。

最初の一文から一気に心を鷲掴みにされた。そしてこれは僕のために書かれた小説なのだという強い確信を持った。

宮下奈都(みやしたなつ)著「羊と鋼の森」は2016年に本屋大賞に選ばれた。また紀伊國屋書店のスタッフが全力で推すキノベス!でも堂々第1位に輝いた。現在東宝で映画化が進行中で、公開日は2018年6月8日を予定している。主演は山崎賢人。

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本屋大賞を受賞した時からずっと読みたいと思っていたのだが、1,620円もする単行本にはおいそれと手を出せなかった。漸く図書館で予約した順番が回ってきたので、いそいそと借りに行ったという次第。本を開くやいなやページをめくる手が止まらなくなった。なお文庫本(702円)は2018年2月9日に発売予定。

調律師の物語である。「羊と鋼の森」とは言うまでなくピアノの暗喩だ。「鋼」は弦(ピアノ線)のことであり、「羊」はハンマーヘッドを包む羊毛で出来たフェルトを指す。ハンマーが弦を叩くことで音が鳴る。つまりピアノは弦楽器であり、かつ打楽器なのだ。

主人公は高校の体育館で板鳥という調律師の仕事を間近に見て、そこに「森」を感じる。僕は頻繁にクラシック音楽の演奏会に足を運んでいるが、正直今までピアノの響きに「森」の気配を察知したことはない。しかしコンサートでしばしば「森」の中で彷徨している気分に浸る体験はあって、それは特にバロック・ヴァイオリンやバロック・チェロの音色に対してである。これら古楽器に張られているガット弦には羊の腸が使われている。また胴体(函)は木製だ。過去に僕が「森」について言及した記事を下に挙げておく。

音楽とは「森」である。臨床心理学者・河合隼雄はグリム童話などに登場する森は無意識のメタファーだと論じている。音楽もまた、無意識を表現する芸術だ。

調律師が主人公の小説ってすごく珍しい。他に思い浮かばない。よくよく考えて、一本の映画を想い出した。ジェームズ三木(脚本)、大林宣彦(監督)の「ふりむけば愛」(1978、東宝)だ。主演は山口百恵と三浦友和のゴールデンコンビ。

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「大林作品はピアノ映画だ!」と看破したのは映画評論家・石上三登志だが、本作で百恵はピアノ調律師を演じた。実は百恵・友和の出会いそのものが大林が演出したグリコCMだった。映画の題名は大林が「このふたりは、僕と5年近くコマーシャルをやっているうちに、幼なじみだったのがいつの間にか気がついたら恋人になっていたんだよな、フッと振り向いたらそこに恋人がいたんだよ」と言ったら、三木が「ああ、ふりむけば愛ですね、それで行きましょう」という会話から生まれた。サンフランシスコ・ロケの際に大林は早々と必要なカットを撮り終え、ふたりが自由に過ごせる日を丸一日設けてあげた。百恵が大阪厚生年金会館でのリサイタル中に「私が好きな人は、三浦友和さんです」とファンの前で恋人宣言するのは翌1979年である。

そしてな、な、何と、東宝映画「羊と鋼の森」で調律師・板鳥を演じるのは三浦友和なのである!!こんな偶然ってあり得る!?いやいや、これは必然に違いない。

予告編は公式サイトの"trailer"からどうぞ→こちら!大変美しい映像に仕上がっている。

物語の舞台となるのは北海道で、映画は旭川市でロケされた。小説執筆当時、宮下は家族と大雪山国立公園内にある富村牛(トムラウシ)集落@十勝管内新得町で1年間暮らしていたという(山村留学)。だから主人公の名前が外村(とむら)なのだ。

外村は仕事先の家庭でふたごの高校生姉妹と出会う。彼女たちの名前は「和音(かずね)」と「由仁(ゆに)」。和音(わおん)は言うまでもなくハーモニーであり、由仁はユニゾンだ。ハーモニーもユニゾンも一人で奏でることが出来ないところがミソ。ふたりでひとり。このふたごを映画では上白石萌音・萌歌の姉妹が演じる。萌音も萌歌も音楽に纏わる名前。何だか出来過ぎている。

小説の中で原民喜(はらたみき)が、こんな文体に憧れていると書いた一節が引用される。

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体

板鳥はそんな音をつくり出すことを目指している。その想いは作者本人にも繋がっているだろう。

僕はこのブログで沢山のコンサートレビューを書いてきたが、つくづく音楽を文章で表現することの難しさを感じている。困難というよりも、殆ど不可能な作業である。そもそも作曲家というのは言葉に出来ない自分の想いを音符に託しているわけだから、土台無理なのだ。時には絶望的な気持ちにすらなる。宮下は本書でその不可能性に果敢に挑み、格闘し(藻掻い)ている。それが堪らなく愛おしい。

外村はドイツから来日した巨匠とも魔術師とも称されるピアニストを聴くために町のコンサートホールに行く。そのピアニストは板鳥に全幅の信頼を寄せている。板鳥が調律するのを眺めながら、彼は次のように述懐する。

 自分が迷子で、神様を求めてさまよっていたのだとわかる。迷子だったことにも気づかなかった。神様というのか、目印というのか。この音を求めていたのだ、と思う。この音があれば生きていける、とさえ思う。

僕もコンサートを聴いている最中に「音楽の神様がホールに舞い降りた」と直感する瞬間がある。しかしそれは数年に一度であり、滅多にあることではない。

コンサートの帰り道、外村は勤め先の楽器店の社長と次のような会話を交わす。

「こんな小さな町にいるよりも、もっと大きな場所で、たくさんの人の耳に触れるピアノを調律したほうが板鳥さんの腕を活かせるんじゃないでしょうか」
「ほんとにそう思うのかい。(中略)ここに素晴らしい音楽がある。辺鄙な町の人間にも、それを楽しむことはできるんだよ。むしろ、都会の人間が飛行機に乗って板鳥くんのピアノを聴きに来ればいい、くらいに私は思っているんだがね」

ここには地方に住む人間の挟持、気概がある。僕は確信した。宮下は東京に住んでいないと。調べてみると案の定、彼女は福井県福井市在住だった。

日本は今やクラシック音楽大国である。世界中の著名な音楽家が我が国に殺到し、飽食状態である。しかしそれは東京一極集中型であり、美味しい想いをしているのは関東の人々だけというのが実情だ。例えば昨年のベルリン・フィル来日公演もそうだったけれど、関東にだけ来てそのまま帰国する音楽家たちのなんと多いことか!大阪にすら来てくれない。東京都には9つのプロ・オーケストラがあるが、大阪府は4つ、京都府・兵庫県が1つ、滋賀県・奈良県・和歌山県は0である。日本の文化的「豊かさ」って一体、何なんだろう?とつくづく考えさせられる今日このごろである。

そんなこんなで共感することの多い小説だった。音楽を愛する全ての人々にお勧めしたい。特にピアノを習っていたり、吹奏楽部に所属する中学・高校生は是非読んでみて!

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明日海りお主演 宝塚花組「ポーの一族」あるいは、吸血鬼に取り憑かれた男たち。

1月7日(日)宝塚大劇場へ。花組公演「ポーの一族」を観劇。

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主な配役は、エドガー:明日海りお、シーラ・ポーツネル男爵夫人:仙名彩世、アラン:柚香 光、メリーベル:華 優希ほか。  

萩尾望都「ポーの一族」の連載が始まったのは1972年。バンパネラ(吸血鬼)ものであり、【永遠の命】がテーマになっている。今回の観劇で強く感じたのは、これは萩尾版「火の鳥」なんじゃないかということ。手塚治虫「火の鳥」黎明編が発表されたのは1954年。萩尾は高校2年生のときに手塚の「新選組」に強く感銘を受け、本気で漫画家を志した。彼女が手塚漫画について語っている映像はこちら。「火の鳥」についても言及している。「ポーの一族」執筆に際し萩尾が直接影響を受けたのは石森章太郎「きりとばらとほしと」だが、後に手塚も「ドン・ドラキュラ」を書いた(大林宣彦監督がこの映画化を企画したが、実現しなかった)。

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また時を越えて生き続けるという設定はヴァージニア・ウルフの小説「オーランドー」に近いと言えるかも知れない。エドガーは男とも女とも明確な区別がつかない、中性的イメージだしね。そういう意味でも明日海りおにピッタリで、完璧なキャスティングであった。柚香 光のアランも文句なし。ふたりとも漫画から抜け出たような美しさ。

有名な吸血鬼小説といえばシェリダン・レ・ファニュ「吸血鬼カーミラ」(1872年刊行)とブラム・ストーカー「ドラキュラ」(1897年刊行)にとどめを刺す。 どちらもアイルランドの作家という事実が興味深い。映画ならムルナウ監督「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922年独、原作はストーカーのドラキュラ)が原点で、「カーミラ」の映画化としてはロジェ・ヴァディム監督「バラ」(1960)が名作中の名作と誉れ高い。そして日本でこの「バラ」に取り憑かれているのが映画作家・大林宣彦である。

そして和製ドラキュラ役者としては岸田森の右に出る者はいないだろう。「を吸う」3部作が有名だが、大林映画「金田一耕助の冒険」(1979)でもドラキュラを演じた。

宝塚の小池修一郎もまた、バンパネラものを繰り返し手掛けてきた。

バンパネラ(吸血鬼)はキリスト教へのアンチテーゼとして闇の中から生まれた。ドラキュラが十字架や太陽光を忌避するのはそのためである。それは悪魔崇拝と結び付いている。悪魔は神に叛逆した堕天使だ(ミルトンの小説「失楽園」)。永井豪「デビルマン」も悪魔とドラキュラ伝説の密接な関係性について触れている。キリスト教徒は(プロテスタント・聖公会・カトリック・正教会の全てを合わせても)日本人の約1%を占めるに過ぎない。だから我が国はバンパネラを受け入れやすい土壌と言えるのではないだろうか。

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小池が萩尾にミュージカル化を申し入れてから32年。それだけ待った甲斐があったというものだ。明日海りお=エドガーというまたとない逸材を手に入れ、演出家としても円熟の極みにある。今の小池なら音楽を「エリザベート」のリーヴァイや「ロミジュリ」のプレスギュルヴィック、「スカピン」のワイルドホーンらに依頼することも可能だったろう(ワイルドホーンは雪組「ひかりふる路〜革命家、マクシミリアン・ロベスピエール〜」を担当した)。しかし彼は敢えて歌劇団の座付作曲家で臨んだ。これも日本人スタッフだけでやれるという自信の現れだろう。

作曲・編曲:太田 健は「アデュー・マルセイユ」「太王四神記」「カサブランカ」「オーシャンズ11」「銀河英雄伝説」「るろうに剣心」等で小池と組んできたが、今までで最高の出来である。小池の執念が憑依したかのような奇跡の完成度。文句なし!「風と共に去りぬ」「ベルサイユのばら」などを担当した寺田瀧雄と比べると、作曲技法の進化に隔世の感がある。

海外ものなら「エリザベート」「ロミオとジュリエット」「ミー&マイガール」など名作が多数あるが、宝塚歌劇オリジナル作品としては「ポーの一族」が頂点を極めたと断言しよう(レビューの最高峰は「ノバ・ボサ・ノバ」と「パッサージュ」)。なんて耽美な世界なのだろう!

それにしても宝塚では男役と娘役トップが恋に落ちるというのが芝居の基本形だが、「ポーの一族」は異色である。エドガーはシーラ・ポーツネル男爵夫人に思慕の念を抱いているが、それはあくまで母親代わりだ。いわば「銀河鉄道999」における哲郎のメーテルに対する気持ちに近い。だから最終的に恋が成就するのはエドガー↔アランなのだ。これは萩尾の漫画「トーマの心臓」に繋がっているし、同性愛という意味で「バラ」的でもある。正に21世紀の宝塚に相応しい題材と言えるだろう。

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幕間にラウンジで公演メニュー「バラのムース」を食べた。 これが無茶苦茶美味しかった!またオリジナルカクテル「バラのエナジー」も○。もう一度観に行く予定だが、また注文してしまいそう。

宝塚歌劇「ポーの一族」は今後の展開として「ベルサイユのばら」みたいに【小鳥の巣】編、【春の夢】編などシリーズ化を熱望する(今回はさしずめ【メリーベルと銀のばら】編)。小池さん、いくらでも思う存分やってください。とことん付き合います。

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大竹しのぶ 主演「欲望という名の電車」

1月6日(土)森ノ宮ピロティホールへ。

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テネシー・ウィリアムズ作「欲望という名の電車」を観劇。

配役はブランチ:大竹しのぶ、スタンリー:北村一輝、ステラ:鈴木杏、ミッチ:藤岡正明 ほか。

演出はイギリス出身のフィリップ・ブリーン。

大竹は本作の演技に対して紀伊國屋演劇賞(個人賞)を受賞した。

「欲望という名の電車」は1947年ブロードウェイで初演され、翌年ピューリツァー賞を受賞。アーサー・ミラー「セールスマンの死」と共に、20世紀のアメリカ演劇を代表する戯曲である。

舞台はニューオリンズ。ジャズ発祥の地として知られ、初演を演出したエリア・カザンが監督を務めた映画版におけるアレックス・ノースの音楽は非常にJAZZYな仕上がりになっている。今回の上演版もジャズ・テイスト満載だ。

同性愛・少年性愛・レイプという、ありとあらゆるタブーがふんだんに盛り込まれているので、第二次世界大戦直後の初演時には衝撃的だったろう。51年の映画版では自主規制(ヘイズ・コード:ハリウッド映画に於ける検閲制度)がかかり、その濃密さが些か薄まった印象がある。ちなみにテネシー・ウィリアムズはゲイだった。

好みかどうかは置いておいて、大いに観応えのある舞台だった。大竹しのぶはまぁ言ってみれば日本のメリル・ストリープなわけで、彼女の演技に文句あろう筈もない。野性味溢れる北村一輝や鈴木杏も見事であった。今度は松尾スズキ演出版も観てみたいな。

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法師温泉への旅と、「彼のオートバイ、彼女の島」

年末から年始にかけ、群馬県の法師温泉へ3泊4日の旅をした。

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宿泊した長寿館の公式サイトはこちら

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法師温泉のことを初めて知ったのは1986年4月26日に公開された、大林宣彦監督による角川映画「彼のオートバイ、彼女の島」を劇場で観た時だった。原田知世の姉・貴和子と竹内力のデビュー作となった。それから31年という時を経て、漸く行ってみたいという想いを叶えることが出来たのである。

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「彼のオートバイ、彼女の島」は一旦105分の作品として完成したが、併映の角川春樹監督「キャバレー」の尺が長くなったため「もっと短くなりませんか」とプロデューサーから要請され、15分カットし90分の作品として完成した、監督曰く【心意気の映画】である。

当時、「月刊シナリオ」に掲載された関本郁夫によるシナリオを読んだが、ヒロイン・美代子(ミーヨ)は最後に交通事故に遭って死ぬ。功(コウ)が泣き叫びながらバイクで駆ける場面がラストシーンとなっていた。しかし完成版で事故はコウの想像に過ぎず、ミーヨは無事でふたりで記念写真を撮る場面で終わる。

法師温泉は旅先で出会ったコウとミーヨが、再会する場所として登場。原田貴和子のフルヌードに当時の観客は度肝を抜かれた。

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大林監督はこのシーンの演出意図について川端康成の小説「伊豆の踊子」で、共同浴場から素っ裸で飛び出してきた踊り子が主人公に何かを叫ぶ場面、

子供なんだ。私たちを見つけた喜びでまっ裸のまま日の光の中に飛びし、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。

や、三島由紀夫「潮騒」で新治と初江が真っ裸で焚き火を挟んで向かい合う場面、

「初江!」
と若者が叫んだ。
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはいるが、清らかな弾んだ声で言った。裸の若者は躊躇しなかった。爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、火の中へまっしぐらに飛び込んだ。

などを引用し、少女の純潔性(innocence)を表現したかったのだと語った。なお余談だが、この「潮騒」の場面は後の新・尾道三部作「あした」で高橋かおりと林泰文が再現することになる。

長寿館に泊まって初めて気が付いたのは、ここは国鉄「フルムーン」CMのロケ地でもあったこと。上原謙、高峰三枝子が出演し、放送当時(1981年)大変話題になった。

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動画で観たい方は→こちら! 実はこの作品のディレクターは、誰あろう大林宣彦なのである(音楽はラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 終楽章)。上原謙は後に原田知世主演「時をかける少女」(1983)にもゲスト出演している。また最近では映画「テルマエ・ロマエ II」もここで撮影されたとか。

法師の湯はこんな感じ。

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入って分かったのは、湯船は実際には4つしかない。その真中を丸太が仕切っている(丸太の下はいけいけになっている)。 また各々で水温が違い、写真左奥(窓側)の湯船が一番ヌルい。6歳になる息子を連れて行ったのだが、この一番ヌルい湯がお気に入りになり、ここばかり入っていた(1日5回×30分ずつ!)。因みに法師の湯は基本的に混浴。午後8時−10時のみ女性専用になる。

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近くにある赤沢スキー場でソリ遊びもして、息子も冬休みを満喫していた。また近い将来、是非再訪したい。

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ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」2018年新春大阪公演初日

1月3日(水)梅田芸術劇場へ。ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」日本初演50周年記念公演 大阪初日を観劇。

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主な配役は、テヴィエ : 市村正親、ゴールデ(妻) : 鳳 蘭、ツァイテル(長女) : 実咲凜音、ホーデル(次女) : 神田沙也加、チャヴァ(三女) : 唯月ふうか、モーテル : 入野自由、パーチック : 広瀬友祐、フョートカ : 神田恭兵、ラザール : 今井清隆 ほか。  

この作品の歴史については5年前、2013年の公演時に詳しく書いたので下記事を参考にされたし。

タイトルの由来や、日本人がどうして本作に親しみを感じるのか、また物語の最後に結婚仲介人の老婆イェンテがエルサレムに、三女チャバがポーランドのクラフクへ向かって旅立つ深い意味についても述べてあり、読み返してみると特に付け加えることはない。

初演のテヴィエは森繁久彌だが、市村が引き継いでから既に13年が経過しているという。コミカルな演技で最初観た時は「軽妙過ぎるかな?」とも感じたが、むしろいっぱい笑いがあるからこそ哀しみが深まるのではないだろうか。

実咲凜音は宝塚歌劇トップ娘役時代に幾つか公演を観ている。

歌がそんなに得意でなく、声が良くないのだけれど、ダンスになると俄然他の姉妹より上手くてさすが宝塚出身者と唸った。

鼻っ柱が強い次女を演じた神田沙也加は凛とした佇まいで好演。彼女のイライザ@マイ・フェア・レディが愉しみだ。三女役の唯月ふうかも可愛くて文句なし。ただソロがないのが気の毒だった。ミュージカル「舞妓はレディ」、観に行きます!

神田恭兵はミュージカル「ミス・サイゴン」のトゥイ役(主人公キムの許婚)で何度か観ている。

高い美声に魅了された。テヴィエが、ラザールと長女との結婚の約束を交わす居酒屋の場面で、二人を祝福する第一声を発するロシア人がフョートカだということに、今更ながら初めて気が付いた。

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