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2017年12月

2017年12月28日 (木)

2017年映画ベスト40 & 個人賞発表!

今年から新ルールを導入する。2017年に劇場で初公開された作品及び、Netflixなどインターネットで配信された映画を対象とする。ただし、「ザ・クラウン」「ハウス・オブ・カード」「マインド・ハンター」「侍女の物語(The Handmaid's Tale)」など連続ドラマは除外する。タイトルをクリックすれば過去に僕が書いたレビューに飛ぶ仕組み。

  1. ラ・ラ・ランド
  2. ブレードランナー2049
  3. ダンケルク
  4. 女神の見えざる手
  5. メッセージ
  6. 沈黙 サイレンス
  7. 夜は短し歩けよ乙女
  8. KUBO/クボ 二本の弦の秘密
  9. オクジャ/okja (Netflix配信)
  10. スター・ウォーズ/最後のジェダイ
  11. ブレンダンとケルズの秘密
  12. 三度目の殺人
  13. 美女と野獣(ディズニー実写版)
  14. ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ
  15. ドリーム
  16. IT/イット “それ”が見えたら、終わり。
  17. お嬢さん
  18. 美しい星
  19. モアナと海の伝説
  20. キングコング:髑髏島の巨神
  21. LION/ライオン
  22. ハクソー・リッジ
  23. エル ELLE
  24. 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?
  25. ボヤージュ・オブ・タイム
  26. 帝一の國
  27. ムーンライト
  28. 怪盗グルーのミニオン大脱走
  29. エタニティ 永遠の花たちへ
  30. セールスマン
  31. 3月のライオン
  32. gifted/ギフテッド
  33. マッドバウンド 哀しき友情 (Netflix配信)
  34. ヒトラーの忘れもの
  35. 否定と肯定
  36. ベイビー・ドライバー
  37. 怪物はささやく
  38. 劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜
  39. ノクターナル・アニマルズ
  40. ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち
  41. 少女ファニーと運命の旅

今年は本当に面白い作品が多かった。だから従来よりも多い、ベスト40に膨れ上がった。例えばパク・チャヌク監督の「お嬢さん」が17位になってしまい、戸惑っている。文句なしに愉しめたし、ベスト10圏内に入るだろうと予想していたから。それだけ充実した年だったということだ。

総括として、映画を映画館で観る時代が終わろうとしているという切実な実感がある。今回のベスト40でもNetflix配信作品が2本入選した。また圏外だったが、アカデミー作品賞候補になった(主演男優賞・脚本賞受賞)「マンチェスター・バイ・ザ・シー 」はAmazon配給作品である。近い将来、新作映画はネット配信で観るのが当たり前という世界が間違いなく到来する。映画館で勝ち抜けるのはIMAXシアターなど特殊な上映環境のみであろう。それはシネコン普及により、町の単館映画館がことごとく駆逐されていった過去に似た状況だ。映画館でフィルム上映していた時代にはまだ生き残れる道があった。しかしデジタル上映に切り替わった今となっては、家庭の4Kテレビで観ても画質に大差ない。袋小路Dead - End. バイバイ。

久しぶりに個人賞も選んでみよう。

監督賞:ドゥニ・ヴィルヌーヴ(ブレードランナー2049メッセージ
アニメーション監督賞:トラヴィス・ナイト(KUBO/クボ 二本の弦の秘密
変態で賞:パク・チャヌク(お嬢さん)、ポール・バーホーベン(エル ELLE
スローモーション大杉で賞:メル・ギブソン(ハクソー・リッジ
悠久の時賞:トラン・アン・ユン(エタニティ 永遠の花たちへ
脚本賞(オリジナル):デイミアン・チャゼル(ラ・ラ・ランド
脚色賞(原作あり):上田誠(夜は短し歩けよ乙女
主演女優賞:ジェシカ・チャステイン(女神の見えざる手
主演男優賞:ライアン・ゴズリング(ラ・ラ・ランドブレードランナー2049
助演女優賞:キャリー・マリガン(マッドバウンド 哀しき友情
助演男優賞:イッセー尾形(沈黙 サイレンス
AI(Artificial Intelligence)/ホログラム演技賞:アナ・デ・アルマス(ブレードランナー2049
撮影賞:ロジャー・ディーキンス(ブレードランナー2049
編集賞:リー・スミス(ダンケルク
美術賞:デヴィッド・ワスコ、サンディ・レイノルズ・ワスコ(ラ・ラ・ランド
衣装デザイン賞:メアリー・ゾフレス(ラ・ラ・ランド
作曲賞:ジャスティン・ハーウィッツ(ラ・ラ・ランド
歌曲賞:米津玄師(作詞・作曲)「打上花火」(打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?
録音・音響効果賞:ダンケルクのスタッフ一同
視覚効果賞:ブレードランナー2049のスタッフ一同
特別賞:湯浅政明〜【詭弁踊り】の創作に対して(夜は短し歩けよ乙女)デビルマン@Netflixも期待してます。

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2017年12月27日 (水)

アンジェリーナ・ジョリー監督「最初に父が殺された」(カンボジア映画)

評価:B

Firsttheykilledmyfather

アンジェリーナ・ジョリーが監督したカンボジアとアメリカ合衆国の合作映画。会話はクメール語であり、アカデミー外国語映画賞のカンボジア代表として出品されたが、先日発表された【選考において次の段階に進む9作品】の中には入れなかった(日本代表「湯を沸かすほどの熱い愛」も落選)。Netflix作品であり、現在世界へ配信されている。上映時間136分。公式サイトはこちら。予告編あり。

クメール・ルージュの虐殺を生き延びたカンボジア女性の回想録が原作であり、実話だ。志は立派である。真摯に創られているが、如何せんアンジーは映画監督としての才能が欠如している。稀に俯瞰ショットにハッとする瞬間もあるが、兎に角スローモーションの演出が多すぎる。くどい。素人が陥りやすい落とし穴にまんまと嵌まっている。これなら”ひとりミュージカル映画”「愛のイエントル」のバーブラ・ストライザンド監督の方が遥かにマシ。ついでに言うなら僕は「ハクソー・リッジ」を高く買うが、メル・ギブソンの演出もスローモーションがtoo muchだと想っている。

映画スターで監督としても優れた才能だと今までに感じたのはクリント・イーストウッドと、チャールズ・ロートン(「狩人の夜」)、そしてエリッヒ・フォン・シュトロハイム(「愚かなる妻」「グリード」)くらいかな。アカデミー作品賞・監督賞を受賞したリチャード・アッテンボローの「ガンジー」(1982)にしろ、ケビン・コスナーの「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990)にしろ、僕に言わせればたしかに真面目な映画だけれど冗長で凡庸、面白みに欠ける。だって今や「ガンジー」とか「ダンス・ウィズ・ウルブズ」を不朽の名作だと褒める人なんて誰もいないでしょ?餅は餅屋だ。

ただ、歴史の勉強になるという意味で、「最初に父が殺された」の資料的価値はあると言えるだろう。

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2017年12月26日 (火)

映画「マッドバウンド 哀しき友情」

評価:B+

Mudbound

Netflixで世界同時配信されると共にアメリカでは単館で劇場公開された映画。 なんでそんなややこしいことをするかというと、アカデミー賞候補の資格を得るため。「この一年間の間に、ロサンゼルス地区の映画館で7日以上にわたり上映された作品」が対象となるという規定があるのだ。だから「君の名は。」も昨年末に一週間だけロスで先行上映されたというわけ。Netflixはこの手法で昨年も「最後の追跡」を世界配信&LA限定公開し、アカデミー作品賞候補に食い込んだ。

ルイジアナ州ニューオリンズ(アメリカ南部/ジャズ発祥の地)を舞台に、第二次世界大戦を挟み、白人青年と黒人青年の友情の行方を追う。公式サイトはこちら(予告編あり)

いただけないのが邦題だ。原題はシンプルにMudboundなのに、「哀しき友情」って副題は必要かな??それ自体がネタバレなんですけど。いや、日本で劇場公開するのなら理解出来るよ。ある程度タイトルで説明しないと客を呼べないからね。でもネット配信でしょ?視聴率は関係ないし、心ある人は必ず観るよ。

重厚で良い作品だ。アカデミー賞にノミネートされる可能性は十分あるだろう。ただ人種差別というテーマには最早、新鮮味がないね。直近でも「それでも夜は明ける(2013)」「ムーンライト(2016)」が作品賞を受賞しているわけだし。二番煎じ感は否めない。

キャリー・マリガンは「わたしを離さないで」とか「ドライヴ」「華麗なるギャツビー」など幸薄い女を演じさせると絶品なのだけれど、今回の役もドンピシャ!彼女に似合いすぎていて思わず笑ってしまった。キャリー、君は最高だ。

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2017年12月25日 (月)

【いつか見た大林映画】第6回 「はるか、ノスタルジィ」と20世紀篇落穂拾い

「姉妹坂」は1985年12月に斉藤由貴主演・相米慎二監督「雪の断章」と併映で東宝の正月映画として公開された。また86年03月14日「輝き 沢口靖子・少女の時間」という番組がテレビ東京で放送された。これは大林宣彦監督が「姉妹坂」で主演した沢口靖子のアルバムから(赤ん坊の時から東宝シンデレラに初代グランプリに輝くまで)写真を選び、パラパラ漫画みたいに編集、それを二人が観ながら語り合うという構成だった。「姉妹坂」は一般の方々にお薦め出来るような完成度から程遠いが、登場人物が交わす視線の先に誰がいるかを追っていくと表面上描かれたものとは全く別の物語が浮かび上がるという仕掛けが施されており、僕は嫌いじゃない。この視線に語らせる演出法は「廃市」でも試みられているが、「姉妹坂」の方がより徹底している。また全面的にリストのピアノ曲 ”ため息”(3つの演奏会用練習曲より)がフィーチャーされており印象的だ。

88年の松竹映画「異人たちとの夏」は原作が山田太一(「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」)、脚色が市川森一(「傷だらけの天使」「淋しいのはお前だけじゃない」)という布陣で、主人公(風間杜夫)の死んだ両親を演じた片岡鶴太郎と秋吉久美子がその年の映画助演賞を総なめにした。また特撮場面で500万円を投じハイビジョンが使われたが、これは「ふたり」(91)への布石となった。風間杜夫が幽霊(異人)たちに生気を吸い取られて痩せ衰えていくのだが、その特殊メイクが僕は好きじゃなかった(色々細工をくっ付けるので、寧ろ顔が大きくなり不自然)。

89年に公開された「北京的西瓜」は船橋市郊外で八百屋を営む夫婦と中国人留学生の交流を描く実話。「異人たちとの夏」で好評を博した片岡鶴太郎主演で企画されたがスケジュールが空かず、ベンガルに変更となった。中国で再会する場面を実際に現地でロケする予定だったが、折り悪く天安門事件が勃発した。中国側からは「スタッフの安全を保証する」と打診されたが、監督は中止を決断した。その場面では37秒間画面が真っ白になる。これは事件が起こった1989年6月4日の数字を全て足した時間に相当する(1+9+8+9+6+4=37)。アヴァンギャルド(前衛的)だし、心の痛みを伝えたいという監督の意図はよく分かるのだが、なんとも歪な、欠落のある作品に仕上がった。なお本作を観て感銘を受けた作曲家の久石譲が「手弁当で大林組に参加したい」とラブコールを送り、「ふたり」「はるか、ノスタルジィ」という名コンビ誕生の契機となった。

「はるか、ノスタルジィ」は「転校生」「さびしんぼう」の原作者・山中恒の故郷・小樽を舞台にした映画である。「ふたり」が撮影された翌年、同じ石田ひかり主演で91年初夏に撮影が開始され、11月に完成した。脚本を大林監督が単独で執筆するのはこれが初めて。故に微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌のような想いが溢れ出る作品に仕上がった。1992年10月25日にWOWOWで「はるか、ノスタルジィ:スペシャル・ディレクターズ・カット・WOWOWヴァージョン」が先行放送された。93年に公開された劇場版の上映時間は165分でWOWOW版は118分、47分短かった。特に映画後半部分がバサッとカットされており、ヒロインはるかの母親は登場しない。

Haru

これは我が人生に於いて最愛の映画である。阪本善尚の流麗なカメラワーク、薩谷和夫渾身の美術、久石譲の魂を震わせる美しい音楽。野口久光によるポスターも素晴らしい。そして大林宣彦の変態性、ここに極まれり!(←褒めてます)

物語は中年の主人公(勝野洋)が久しぶりに小樽に帰郷し、そこで出会った(もしかしたら本当の自分の娘かもしれない)少女と最終的に性交し、もう一度生きてみようと再起する物語である。ある意味ニーチェの言う「永劫回帰」的でもある(特にエピローグ)。大林監督にも一人娘がいて、無意識の欲望潜在意識を描いた罪の匂いがする作品とも解釈可能だろう。監督は手塚治虫のことを”sister complexの作家”と看破したが、ならば大林宣彦は”daughter complexの作家”であると言える。自分自身を赤裸々なまでに曝け出した、大林映画のエッセンスが凝集された一本である。

また「花筐」と共に大林監督のライフワークである福永武彦の小説「草の花」で重要な役割を果たすショパン:ピアノ協奏曲 第1番がここで流れたのには衝撃を受けた。監督、僕は未だ映画「草の花」の実現を諦めていません!!何時までも待ち続けます。

「はるか、ノスタルジィ」公開当時、この映画が週刊ポストで取り上げられた。実に情けない内容で、要はヒロインを演じた【石田ひかりの乳首が見えるか?見えないか?】という話題であった。彼女は92年10月から93年4月までNHKで放送された朝ドラ「ひらり」で主演を努めた。また92-93年と連続で紅白歌合戦の司会に抜擢されている。記事によると元々彼女のヌードシーンが撮られていたが、朝ドラヒロインが決まったので、このまま公開したのでは不味いだろうと監督が再編集し、際どいシーンをカットしたというのである。そういう視線で観ると、確かに奇妙なショットがある。映画終盤、学生時代の主人公(松田洋治)が石田ひかりの服を引き裂く場面で、カメラが不自然に寄るのだ。どうもカメラ機器自体によるズーミングというよりは、編集段階でトリミング(画面の一部だけを切り出す加工処置)しているような動きなのである。で、結論を言えば、ほんの一瞬だけ見えます。興味ある人はDVDで確かめてみて。

「はるか、ノスタルジィ」に憧れて、小樽に何度か旅をした。映画に登場する喫茶店「海猫屋(創業40年を経て2016年に閉店)」や「さかい屋」、鰊御殿に行ったし、【はるかの丘】も見つけた。また現地で上手い魚介料理を安く食べさせてくれる「一心太助」という店が大のお気に入りとなったが、伝え聞くところによると2006年11月にノロウィルスの食中毒をおこし、閉店になったそうだ。また大林映画では「廃市」の福岡県柳川市、原田知世主演「天国に一番近い島」(1984)のウベア島@ニューカレドニアでもロケ地巡りをした。

92年には「青春デンデケデケデケ」が公開された。原作は直木賞を受賞した芦原すなおの自伝的青春小説。ロックバンドを結成した高校生たちの群像劇である。瀬戸内海を挟み、尾道の向かい側にある香川県観音寺市でロケされた。ベンチャーズ、チャック・ベリー、ナット・キング・コール、コニー・フランシスなどのロックンロール、ポピュラー音楽がふんだんに流れる。大林監督はクラシック音楽、特にショパン・シューマン・リストなどロマン派のピアノ曲を偏愛しているので、この素材は意外であった。しかし大変魅力的な作品に仕上がった。未だ10代だった浅野忠信が出演している。

1996年9月23日、赤川次郎原作「三毛猫ホームズの推理」がテレビ朝日系で放送された。主人公(警視庁捜査一課の刑事)を陣内孝則、その妹を葉月里緒菜が演じた。95年に葉月は映画「写楽」で共演した真田広之との不倫が発覚。「恋愛相手に奥さんがいても平気です」と語り激しいバッシングを受けた。その後真田は手塚理美と離婚した。98年に大林監督は映画「SADA〜戯作・阿部定の生涯」の主演に葉月里緒菜を起用するが、ドタキャンされ黒木瞳に交代となった。黒木は葉月より15歳も年上なので、ここは”魔性の女”葉月で阿部定を見たかったなぁ。余談だが、劇団大人計画の阿部サダヲの芸名は阿部定に由来する。この年葉月はハワイ州在住の寿司職人と電撃結婚するも、わずか2ヶ月で離婚。かなり精神的にヤバイ状態だった。故に98年2月21日にオン・エアされた「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」では陣内の妹役を宮沢りえが演じた。

「三毛猫ホームズの推理」の函館ロケで”行き止まり”という喫茶店が登場する。葉月がそこでお兄ちゃん(陣内)を待っていて、店内に流れているのがリストの”ため息”。

98年に公開された「風の歌が聴きたい」は実在する聴覚障害の夫婦の出会いから、宮古島でのトライアスロン参加するまでを描く。天宮良と中江有里が好演した。僕は本作を岡山市内の映画館ではなく、三木記念ホールでOBs Club広島のH夫妻と一緒に観た。確か1日限りの上映だったと記憶している。日本語字幕付きだった。そして最後に主題歌を森公美子が手話と共に歌った。爽やかな作品で、時系列を入れ替えているのがいかにも大林映画らしかった。

TO BE CONTINUED...

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映画「否定と肯定」

評価:B+

Denial

原題はDenial、「否定」。公式サイトはこちら

1996年に起こった実話である。「ホロコースト否定論」を主張するイギリスの歴史家デビッド・アービングが、彼を非難したアメリカ在住のユダヤ人歴史学者デボラ・E・リップシュタットを名誉毀損で訴えた裁判の顛末を描いている。歴史の真実を裁判で争うという点で大変興味深い事例である。

イギリスでの裁判には莫大な費用がかかるので、93年に「シンドラーのリスト」を撮ったスティーブン・スピルバーグは彼女に資金援助したという。そのエピソードも劇中に出てくる。

日本の左翼の連中がこの映画に勢い付いて「それ見たことか!(いわゆる)従軍慰安婦問題における日本の主張も、ホロコーストは無かったと言う歴史修正主義者と同じじゃないか」と得意げに主張しているのだが、片腹痛い。(いわゆる)従軍慰安婦問題について日本政府は韓国人の慰安婦がいたことを否定していない。韓国側と日本側の争点は、【日本軍が慰安婦を強制連行したのか、それとも(本人には知らせずこっそり)親が金で売ったのか】の一点に絞られている。ここを見失ってはいけない。そして現在、彼女たちが強制連行されたという証拠は一切ないのである。歴史修正主義者とはむしろ、虚偽の報道をして国際問題にまで発展させた朝日新聞社のことであろう(後に過ちを認め紙面で謝罪。しかし時既に遅し)。

レイチェル・ワイズ演じる主人公は正直、いけ好かない女で全く共感出来なかったが、原告と被告のどちらに立証責任があるかという米国と英国における司法制度の違いも分かり、すこぶる面白かった。弁護士役のトム・ウィルキンソン、アービング役のティモシー・スポールらベテランが重厚で味わい深い演技を見せてくれた。

しかし裁判よりも印象深かったのは、リップシュタットと彼女の弁護団がアウシュヴィッツ強制収容所を訪れる場面である。魂が吸い込まれそうな、寂寞として空恐ろしい風景であった。

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2017年12月22日 (金)

「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」あるいは、【神々の黄昏】

評価:A

まずはアメリカのRotten Tomatoes(腐ったトマト)での評価をご覧頂きたい。各種雑誌・新聞などに掲載されたプロの映画評論家によるレビューを横断的に解析し、まとめたウェブサイトである。映画ごとに肯定的なレビューが多いか否定的なレビューが多いかを集計してパーセント表示している。

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画面左【92%】が北米在住の評論家による肯定的評価の集計である。具体的には337のレビューを解析し、Fresh(新鮮)が310人、Rotten(腐った)が27人となっている。

ところが、画面右、一般観客15万人の肯定的評価は【52%】。40%の落差があるのだが、これは前代未聞の珍事である。つまり賛否両論真っ二つに割れているということ。そして往年のファンの間では否定的意見が大勢を占めている。因みにエピソード7「フォースの覚醒」はプロ:93%、一般:88%、エピソード1「ファントム・メナス」はプロ:55%、一般:59%であり、乖離はいずれも5%以内だった。

ライアン・ジョンソン監督は撮影当時43歳。若い。僕が彼を高く評価したいのは、今までのシリーズの約束事を全てぶっ壊した点だ。次にこういう展開になるだろうという観客の予断をことごとく裏切ってゆく。だからこそファンたちは「こんなのスター・ウォーズじゃない!」と激怒し、騒いでいるのだ。

「スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望」は1977年に北米で公開された(日本では78年)。今年が40周年である。当時の若者達は何故この作品に熱狂したのか?それはルーク・スカイウォーカーという辺境の農場でくすぶっている名もなき若者が、ある出来事を契機に外の世界に飛び出すチャンスを掴み、帝国軍と戦ってヒーローになるという英雄譚・血湧き肉躍る冒険活劇だったからである。観客は彼の姿に自分の夢を託したのだ。

ところが「エピソード5 帝国の逆襲」あたりから雲行きが怪しくなる。フォースの強いスカイウォーカー家という血族の物語になってゆくのだ。が全て。ジェダイの騎士とは中世ヨーロッパのテンプル騎士団みたいなもので、つまり貴族社会である。そしてスター・ウォーズは神話になった。神も血筋であり、人は神になれない

作曲家ジョン・ウィリアムズはこのシリーズに対してワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」を参考にして各キャラクターにライトモティーフ(示導動機)を与えた。「フォース(ルーク)のテーマ」「ミレニアム・ファルコン号のテーマ」「王女レイア」「ハン・ソロとレイア姫(帝国の逆襲)」「ルークとレイア(ジェダイの帰還)」「帝国軍のマーチ(ダース・ベイダーのテーマ)」「ヨーダのテーマ」「皇帝のテーマ」「イウォークのテーマ」「反乱軍のテーマ」「レイのテーマ」「カイロ・レンのテーマ」「スノークのテーマ」「ジェダイ・テンプル(寺院)のテーマ」といった具合だ(Theme = Motif)。

ニーベルングの指環」は北欧神話に基づく4部作であり、最後は「神々の黄昏」。神々の時代が終わりを告げ、やがて人類の夜明けが来るというところで締め括られる。トールキンの「指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)」も「ニーベルングの指環」の影響を強く受けた。またリドリー・スコット監督の「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」もこの物語からヒントを得ている(劇中でアンドロイドのデイヴィッドは「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」から”ヴァルハラ城への神々の入場”をピアノで弾く)。また宮﨑駿「崖の上のポニョ」の人魚の名前がブリュンヒルデなのも第2作「ワルキューレ」から採られている。因みにマーヴェル・コミックスのマイティ・ソー(Thor)とは北欧神話における雷神トール(Thor)のことであり、「ニーベルングの指環」にはドンナーという名前で登場する(詳しくはこちら)。さらに言えばルキノ・ヴィスコンティ監督によるドイツ三部作の第1作「地獄に堕ちた勇者ども」の原題は「神々の黄昏 ( Götterdämmerung )」であり、第2作「ベニスに死す」を経て、第3作「ルートヴィヒ」でワーグナーが登場する。

「最後のジェダイ」でライアン・ジョンソンはジェダイの騎士の終焉を描く。正しく「神々の黄昏」である。そしてなんて関係ねーよ、名も無き若者たちでもフォースの力を得られるんだ!と新たなる希望(New Hope)を高らかに宣言する。それは明らかにエピソード4への原点回帰なのだ。全てをぶっ壊して、また一から始めようというわけ。実はこの動向は、名も無き者たちの貢献を描く「ローグ・ワン」から始まっていた。

これは神学が支配していた中世ヨーロッパで、文化を人間の手に取り戻そうというルネサンス(フランス語で「再生」「復活」という意味)運動に呼応する。

また映画史的に言えば、既成の映画撮影所(旧体制)から飛び出して、若者たちが手持ちカメラで街頭ロケを始めたイタリアン・リアリズム(ネオレアリズモ)、フランス・ヌーヴェルヴァーグ〈新しい波〉、アメリカン・ニューシネマに近いとも言えるだろう。そもそもエピソード4はアメリカン・ニューシネマへのアンチテーゼだった筈なのに、いつの間にか自分自身が体制派・守旧派に成り下がっていたのである。壊しては新しいものを作り、また壊しては作り直す。これが芸術文化の理(ことわり)である。そして新しいものは最初、激しい非難に晒される。これも世の常であろう。しかし、生成変化しないものには何の価値もないのである。

不満だったのはアジア系のローズだ。初代エピソード4で主要な役は全員白人だった。それではさすがにまずかろうとエピソード5で黒人ランド・カルジリアンが登場。ディズニー主導となったエピソード7では万事抜かりなく主役の3人に白人・黒人・ラテン系(オスカー・アイザックはグアテマラ出身)を配しバランスを取った。そしてエピソード8にアジア系。はっきり言う。Political Correctness(政治的・社会的に公平・中立。差別・偏見を含まないこと)なんか、どうでもええねん。白人だけで結構。それでもアジア系を出したいなら、せめてペ・ドゥナとかもっと可愛い女優にしてほしかった。ローズは不細工過ぎ!萎える。

  ー 以下ネタバレあり ー

「最後のジェダイ」のプロットは大筋で「帝国の逆襲」を踏襲している。4つの星が舞台になるのも同じだし、どちらも最初は基地撤退作戦だ。「最後のジェダイ」でレイがルークに特訓をしてくれるよう懇願するシーンは「帝国の逆襲」でヨーダのもと修行するルークに重なる。「帝国の逆襲」で一番重要なのは洞窟の場面であり、ルークはそこでベイダー(=自分の影)と対峙する。これが「最後のジェダイ」では鏡の間となる。間違いなくオーソン・ウェルズ監督「上海から来た女」の影響を受けているが、本作がユニークなのは時相のズレである。それは連続写真のようでもあり、フィルムのコマを眺めているようでもある。こうして新しい時間イメージが生まれた。

ジョン・ウィリアムズの音楽は「フォースの覚醒」で♪王女レイアのテーマ♪♪ハン・ソロとレイア姫♪を組み合わせていたが、「最後のジェダイ」では♪王女レイアのテーマ♪がメインで流れる。そしてルークと再会する場面では♪ルークとレイア♪が!本作はキャリー・フィッシャーへのレクイエムという側面もある。極めつけはエンド・クレジット。

In Memory of Our Princess:CARRIE FISHER

と表示され、そこに再びドドーンと♪王女レイアのテーマ♪が高鳴るのだ!

しかし最後にレイアは死ぬだろうと予想していたのに彼女は生き残り、ルークが逝ってしまったのには驚かされた。一体、エピソード9ではどうするの!?

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2017年12月20日 (水)

緊急特集!「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」の重力問題について考える。

ネタバレはありません。

「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」つまりエピソード8が公開され、評価が面白いくらい真っ二つに割れている。正に賛否両論。で否定派の主な主旨としては「無駄な作戦が多すぎて尺が長い」「フォースって何でもありかよ!?ご都合主義じゃね?」「シナリオにスキがありすぎてグダグダ。ツッコミどころ満載」等に集約出来るだろう。僕の評価、詳しいレビューは後日に回すとして、ここで【重力問題】についてまずは触れておきたい。こんなしょーもないことで足を引っ張られたのではたまったもんじゃない。因みに僕は昨日IMAX 2D(109シネマズ大阪エキスポシティ)で観てきた。

ことの発端はTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」である。公式サイトの全文書き起こしはこちら。映画冒頭、スター・デストロイヤーを反乱軍が重爆撃機で攻撃する場面について、宇多丸氏はこう語った(以下引用)。

この乗り物だけ、なぜか異常に遅いんですよ(笑)。 いっぱい爆弾を積んでいるから? えっ、重力? だったら「宇宙空間とは?」って(笑)……「宇宙空間とは?」っていう意味では、爆弾を落とすために(重爆撃機の)下を開くんですよね。宇宙空間ですよ。下がバコッて蓋が開いて、覗いていたりするわけです。そこから爆弾を「落下」させるんですよ。(中略)無理矢理につくった見せ場だから、こういう無理矢理なことが起こる。

まず押さえておくべきは旧シリーズ(エピソード4−6)からスター・デストロイヤーやミレニアム・ファルコン号の船内で乗員は宇宙服を来ていないし、普通に歩いている。ということは船内に空気が生成されており、重力発生装置が作動しているという設定なわけだ。タイ・ファイターなどの乗り物がスター・デストロイヤーから発着する際にハッチが開放されていても中の作業員は通常通り働いている。どうして空気は漏れないのか?空気には質量があり、重力が働いているからである。地球の空気が宇宙に出ていかない理屈と同じだ。つまりスター・ウォーズに登場する宇宙船は直線運動をする惑星表面みたいなものだと考えれば良いだろう。

では重爆撃機から放たれた爆弾はどちらの方向に動くか?ここで万有引力の法則を考えてみよう。「物体同士が受ける力は、互いの質量に比例し、距離の2乗に反比例する」というものだ。重爆撃機の質量よりもスター・デストロイヤーの質量のほうが遥かに大きい。つまり爆弾はスター・デストロイヤーの引力(重力)に引っ張られて「落下」するのである。Q.E.D.

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キャラバンの到着!〜大阪桐蔭高等学校吹奏楽部 サンタコンサート2017

12月16日(土)大阪ビジネスパーク TWIN21アトリウムへ。大阪桐蔭高等学校吹奏楽部のサンタコンサートを聴く。指揮は梅田隆司先生。

50分ずつ4ステージに分かれており、総計3時間20分、吹奏楽漬けになった。

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)は63歳の時に収録されたテレビのインタビュー番組の中で「どうして貴方は毎週末に展覧会や映画館に足を運ぶのですか?」と尋ねられ、優れた(芸術)作品との「出会い(rencontre)」を信じているからだと答えている。出会うためには「外に出て、待ち伏せする必要がある」。

この言葉に強い共感を覚えた。僕が足繁く映画館や劇場に通うのも、そして桐蔭の演奏を聴きに行くのも、新たな「出会い」を待ち構えているからに他ならない。

その成果の一つが「銀河鉄道999」であり、西村友が作曲した珠玉のミュージカル「銀河鉄道の夜」との出会いであった。

梅田先生率いる桐蔭吹奏楽部は次から次へと新しい楽曲に取り組み、ドゥルーズの言葉を借りるなら、常に生成変化している。そのことに僕は魅入られるのである。生成変化のないものには全く価値が無い

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今回のセットリストを列記しよう。

【注釈】リク:リクエストコーナー。バットで打ったボールを取った聴衆が、前方スクリーンに写し出された50曲を超えるリストの中から選ぶ仕組み。

① Kid's Stage

  • クリスマススウィングコレクション(サンタが町にやってくる、もろびとこぞりて、We Wish You a Merry X'mas、ジングル・ベル)
  • 赤鼻のトナカイ
  • すてきなホリデイケンタッキーフライドチキン/クリスマスCMソング)
  • プリキュアアラモード
  • 宇宙戦隊キュウレンジャー
  • 名探偵コナン
  • 「アナと雪の女王」メドレー
  • スタジオジブリ・メドレー(さんぽ、世界の約束、となりのトトロ)
  • ゲゲゲの鬼太郎
  • アンパンマンのマーチ
  • 夢をかなえてドラえもん
  • 「忍たま乱太郎」〜勇気100%

ノリが良く、キレのある演奏だった。

② Classic Stage

  • ウィンターワンダーランド in Swing
  • ノートルダムの鐘 初披露
  • 「リトル・マーメイド」メドレー(アンダー・ザ・シー、キス・ザ・ガール、パート・オブ・ユア・ワールド) リク
  • 嵐メドレー(A・RA・SHI、Happiness Believe、マイ・ガール、One Love、愛を叫べ、Troublemaker、Love so sweet) リク
  • 交響組曲「ジブリ・シネマコレクション」(ハウルの動く城【空中散歩】、千と千尋の神隠し【ふたたび】、天空の城ラピュタ【ゴンドアの想い出】、もののけ姫【アシタカとサン】、となりのトトロ【さんぽ】、ハウルの動く城【世界の約束】、となりのトトロ【となりのトトロ】) リク

「ノートルダムの鐘」は【トプシー・ターヴィー】の戯けた感じがとっても良かった!あと「リトル・マーメイド」の【アンダー・ザ・シー】はトロピカルで垢抜けている。

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③ Pops Ⅰ Stage

  • 歌劇「タンホイザー」〜歌の殿堂を讃えよう(ワーグナー)
  • 桐蔭ファンファーレ
  • 海を超える握手(スーザ)
  • ガーシュウィンの「スワニー」によるユーモレクス(スーザ)
  • パリのアメリカ人(ガーシュウィン)
  • 「ロシュフォールの恋人たち」〜キャラバンの到着(ルグラン)
  • 美女と野獣(メンケン)
  • スター・ウォーズ(ジョン・ウィリアムズ)
  • ミュージカル「銀河鉄道の夜」〜銀河を超えて(西村友)

第3部は全てマーチングによるパフォーマンス。下の写真2枚は「パリのアメリカ人」の様子である。

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演奏の精度では昨年の「ポーギーとベス」に一歩譲るが、正に創作ダンスを観ているようで凄く愉しかった!

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そして待望の、ミシェル・ルグラン作曲「ロシュフォールの恋人たち」より【キャラバンの到着】!パンチの効いたホーン・セクション、炸裂するリズム。これぞルグラン・ジャズ。カッケー!!

僕は2016年サンタコンサートの感想で「キャラバンの到着」と「ラ・ラ・ランド」をリクエストしていた。因みにこの時点で映画「ラ・ラ・ランド」は公開前だった。

元々、死ぬほど好きな楽曲なので大興奮したが、何しろジャック・ドゥミ監督「ロシュフォールの恋人たち」は50年前に公開された映画である。演奏する生徒さんや親御さんたちはどういう感想を持っておられるのか、とても気になるところ。是非そのあたり忌憚のない本音をコメント頂ければ幸いである。

それから西村友作曲による大変美しいミュージカル「銀河鉄道の夜」だが、今年の定期演奏会で聴いたバージョンとは終結部のアレンジが変更になっていたので驚いた。何かね、とっても華やかになった。最高だね。

④ Pops Ⅱ Stage

  • We Wish You a Merry X'mas
  • 生命の奇跡・リベラ
  • レ・ミゼラブル リク
  • 美空ひばりメドレー(愛燦燦、川の流れのように) リク
  • 「塔の上のラプンツェル」メドレー リク
  • 「ウエストサイド物語」メドレー リク
  • ディズニー・ファンティリュージョン! リク
  • 銀河鉄道999
  • 「ピノキオ」〜星に願いを

リクエストコーナー(リク)でもし僕がボールを掴んだら、絶対映画「君の名は。」の歌4曲メドレーと叫ぼうと心に決めていた。しかし結局、当たった8人が誰も「君の名は。」を指名しなかったのは些かショックであった。昨年あれだけ大ヒットしたのに!!RADWIMPSの曲はそんなに愛されていないのか……。

で大阪桐蔭の演奏を聴きに来るの人々の好みの傾向としては「ディズニー」と「ミュージカル」がキーワードなのだなということが良く分かった。

あと僕は会場でのリハーサルから聴いていたのだが、そこで演奏された「メリー・ポピンズ」メドレー(チム・チム・チェリー、スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス、 凧をあげよう)が本番でなかったのには肩透かしを食らった。今度の定期で演るのかな?因みに来年、梅田芸術劇場で舞台版「メリー・ポピンズ」が上演され(チケットは既に確保)、また「シカゴ」「イントゥ・ザ・ウッズ」のロブ・マーシャル監督によるディズニー映画「メリー・ポピンズ・リターンズ」(リメイクではなく続編)が待機中である。

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主演はジュリー・アンドリュースに代わり、エミリー・ブラント。歌の作曲はシャーマン兄弟に代わり、マーク・シャイマン(ブロードウェイ・ミュージカル「ヘアスプレー」「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」)が担当する。あとミュージカル「ハミルトン」でブロードウェイを席巻し、「モアナと海の伝説」の主題歌を作曲したリン・マニュエル・ミランダも出演するよ。また余談だがディズニーはロブ・マーシャルに実写版「リトル・マーメイド」の監督もオファーしているとのこと(現時点で契約には至っていない)。

来年2月の大阪桐蔭高等学校吹奏楽部定期演奏会@フェスティバルホールでは満を持して「ラ・ラ・ランド」が遂に登場するらしい。いやもう待ち遠しくて、居ても立ってもいられないね!

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2017年12月18日 (月)

「銀河鉄道999」に見る、松本零士の病理

僕が小学校低学年の頃、コミックスは「オバケのQ太郎」とか「ドラえもん」等を中心に読んでいて、完全に藤子不二雄派だった。大学生になると「ブラック・ジャック」「火の鳥」「ブッダ」「アドルフに告ぐ」など手塚治虫や「トーマの心臓」「ポーの一族」など萩尾望都を読み漁った。一方、松本零士には全く食指が動かなかった。彼が描くメーテルら美女たちが好みでなかったのも大きいだろう。

初めて「銀河鉄道999」に興味を覚えたのは、大阪桐蔭高等学校吹奏楽部のアンコール定番曲としてゴダイゴの主題歌を聴き、大のお気に入りになったからである。そこで映画を観てびっくり仰天した。その経験を通して思索したことについて下の記事に詳しく書いた。

メーテルのイメージが、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画「わが青春のマリアンヌ」(1955)に由来することにも触れた。

さてこの度、4Kテレビ購入と同時に加入したNetflixに「銀河鉄道999」のテレビ版が配信されていることを知り、一気に45話(ワルキューレの空間騎行 後編)まで観た(Netflixでの配信は12月15日に終了)。そこで気づいたことをまとめよう。

「銀河鉄道999」を支える三つの太い柱がある。

  1. エディプス(マザー)・コンプレックス=母性社会日本の病理
  2. ルサンチマン
  3. 人情噺=江戸落語的

Bosei

1.については上記事で縦横無尽に語ったので省略する。

ルサンチマンとはドイツの哲学者ニーチェが創造した概念である。弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情のことを指す。ニーチェはイエス・キリストの思想を批判する目的でこの言葉を用いた。当時のユダヤ人たちはローマ帝国に支配され、貧しく、恨みの感情を抱いていた。ここで価値の転倒(発想の転換)が起こる。「虐げられている俺達が正しい。支配者(ローマ帝国)こそ悪だ!そして現世では幸福になれなくても、死後天国に行けばきっと幸せになれる」(彼岸=絶対的不動の善・真理の設定)

このルサンチマンの心理はフランス革命やロシア革命にも当てはまる。圧政に苦しむ民衆・人民こそが正義。贅沢三昧の生活を享受するルイ16世/ロマノフ家/ブルジョアジーは悪。だから彼らを処刑せよ!奴らの財産は俺達のものだ!!

いわゆる従軍慰安婦問題など韓国人が日本人に対して抱いている、どうしても拭い去ることが出来ない恨【ハン】(解説はこちら)という感情もルサンチマンの亜種であろう。

「銀河鉄道999」で鉄郎とメーテルは様々な星に停車する。その多くで人々は貧しい生活を強いられ、権力者への恨みをつのらせている。鉄郎はアンドロメダ星雲にあるという、機械の体をタダでくれるという星を目指して旅をするが、それは正しく彼岸=永遠=イデア(哲学者プラトンが説く理想郷)である。

このルサンチマンをこじらせた世界観は松本零士の生い立ちと無関係でない。彼は福岡県久留米市に生まれた。父親は元軍人で、戦後は実家のある大平村で素焼きをし、小倉では大八車を押して野菜の行商をしながら線路脇のバラックに住んでいたという。彼がどれほど貧しい生活を送っていたかは→こちらの記事に詳しい。

松本零士と対象的なのが手塚治虫の漫画である。手塚漫画にはマザー・コンプレックスもなければ、ルサンチマンも皆無である。

手塚は代々医者の家系に生まれた。曽祖父は蘭方医で、漫画「陽だまりの樹」のモデルになっている。父は宝塚倶楽部の会員であり、一家はしばしば宝塚ホテルで食事をした。そして幼少期に母には宝塚少女歌劇団に連れて行ってもらっていた(この体験が「リボンの騎士」の原点となる)。家には8mmカメラがあり、当時の治虫の映像が残っている。また家の映写機でディズニーのアニメを初めて観たという。1930年代の話である。つまり手塚は正真正銘「良家のお坊ちゃん」だったのだ。

松本零士と手塚治虫。ふたりの「お育ちの違い」が作品に明白に反映されているというのは興味深い現象である。三つ子の魂百までとは、言い得て妙だ。

江戸落語にもルサンチマンが渦巻いている。貧乏長屋に住む庶民の、武士の横暴に対する怒り・怨念。「たがや」がその代表例だろう。そして江戸っ子は人情噺を好む。一方、豊かな商人の街に発展した上方落語にはルサンチマン人情噺も綺麗サッパリない。つまり松本漫画 ≒ 江戸落語/手塚漫画 ≒ 上方落語という図式が成り立つのである。

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2017年12月15日 (金)

「4 Stars」ラミン・カリムルー、城田優ら日米英のミュージカルスターが集結!

12月14日(木)梅田芸術劇場で「4 Stars」を鑑賞。

4stars

前回(2013年)のレビューはこちら

今回の出演者は以下の通り。

シンシア・エリヴォ:2016年ミュージカル「カラー・パープル」でトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞。「天使にラブ・ソングを」にも出演。初来日。

シエラ・ボーゲス:ディズニー製作によるブロードウェイ・ミュージカル「リトル・マーメイド」アリエル役オリジナル・キャスト。「オペラ座の怪人」ラスベガス版と25周年記念コンサート、「ラヴ・ネヴァー・ダイズ」ロンドン公演でクリスティーヌを演じた。

ラミン・カリムルー:「オペラ座の怪人」の続編「ラヴ・ネヴァー・ダイズ」ファントム役オリジナル・キャスト。また「オペラ座の怪人」25周年記念コンサートでもファントムに抜擢された。その後「レ・ミゼラブル」ロンドン/ブロードウェイ公演でジャン・バルジャン役を務めトニー賞ミュージカル主演男優賞にノミネート。また「レ・ミゼラブル」25周年記念コンサートではアンジョルラスを演じた。

城田優:宮本亜門演出「スウィーニー・トッド」で水夫アンソニー役に起用される。小池修一郎演出ウィーン・ミュージカル「エリザベート」でトート、フレンチ・ミュージカル「ロミオとジュリエット」でロミオを演じ人気が爆発。映画「亜人」にも出演。

今回のセット・リスト(順不同)は、

  • アナザー・デイ・オブ・サン♪「ラ・ラ・ランド」(シエラ・城田)
  • マリア♪スペイン語「ウエストサイド物語」(城田)
  • 美女と野獣♪「美女と野獣」(シンシア・城田)
  • 愛の芽生え♪「美女と野獣」(シエラ・城田)
  • 闇が広がる♪日本語「エリザベート」(ラミン・城田)
  • 私だけに♪日本語「エリザベート」(シエラ)
  • カフェ・ソング♪「レ・ミゼラブル」(ラミン)
  • We Kiss in a Shadow♪「王様と私」(シエラ・ラミン)
  • Hello, Young Lovers♪「王様と私」(シンシア)
  • 君住む街で♪「マイ・フェア・レディ」(ラミン)
  • 踊り明かそう♪「マイ・フェア・レディ」(全員)
  • カラー・パープル♪「カラー・パープル」(全員)
  • 僕は怖い♪日本語「ロミオ&ジュリエット」(城田)
  • エメ(愛)♪フランス語「ロミオ&ジュリエット」(シエラ・城田)
  • 蜘蛛女のキス♪「蜘蛛女のキス」(城田)
  • Losing My Mind/Not a Day Goes By♪「ソンドハイム・オン・ソンドハイム」(シンシア/シエラ)
  • マディ・ウォーター♪「ビッグ・リバー」(ラミン・城田)
  • 私のお気に入り♪「サウンド・オブ・ミュージック」(シンシア・城田)
  • 僕こそ音楽♪日本語「モーツァルト!」(城田)
  • ネバーランド♪「ファインディング・ネバーランド」(ラミン)
  • Part of Your World♪「リトル・マーメイド」(シエラ)
  • 天国へ行かせて♪「天使にラブ・ソングを」(シンシア)
  • Colors of the Wind♪「ポカホンタス」(シエラ)
  • アルゼンチンよ、泣かないで♪「エビータ」(シンシア)
  • The Music of the Night♪「オペラ座の怪人」(ラミン)
  • 墓場にて♪「オペラ座の怪人」(シエラ)
  • 彼を返して♪「レ・ミゼラブル」(ラミン)
  • Home(私の夢が叶う場所)♪「ファントム」(シエラ)
  • アイム・ヒア♪「カラー・パープル」(シンシア)
  • Easy As Life♪「アイーダ」(シンシア)
  • アンセム♪「チェス」(歌い出しラミン→全員)
  • Were Did the Rock Go♪「スクール・オブ・ロック」(シエラ)

いやもう、シンシア・エリヴォの「カラー・パープル」が生で聴けただけでも感無量!ソウルフルな絶唱だった。2001年にブロードウェイで観劇したディズニー版「アイーダ」のヘザー・ヘッドリー(お相手ラダメス役はアダム・パスカルだった)に匹敵する喉の持ち主だ。圧倒された。

ラミン・カリムルーの「オペラ座の怪人」も現役としては世界一の歌唱力じゃないかな?どこまでも伸びるいい声だ。おまけに「レ・ミゼ」のジャン・バルジャンだけではなく、マリウスの歌まで聴けたのも最高。また「エリザベート」闇が広がる♪を日本語で歌ってくれたのは嬉しかった。しかも発音が完璧!度々来日しているマテ・カマラス(ハンガリー)よりも上手かったのには驚かされた。そして「チェス」アンセム♪の朗々とした歌声に聴き惚れた。

シエラ・ボーゲスの歌声の魅力は透明感。ディズニーの「リトル・マーメイド」や「ポカホンタス」はパーフェクトだった。「エリザベート」は似合っていなかったけれど、フランス語で歌った「ロミジュリ」エメ♪の美しさには陶然となった。

城田の「ロミジュリ」は6年前に生の舞台を観ているのだけれど、メキメキ歌が上達している。

あと「モーツァルト!」も素晴らしかった。ただ舞台で演じるには彼は背が高すぎるんだよね。検死報告によるとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは身長163cmだったそうな(城田は190cm)。イメージが違いすぎる。城田は日本人とスペイン人のハーフだが、スペイン語で歌った「ウエストサイド」マリア♪が余りにもハマりすぎていて唖然とした。は争えないね。

「4 Stars」は2013年の公演より明らかに進化しており、観客も大興奮だった。必聴!

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2017年12月10日 (日)

初心者のためのミュージカル映画講座〜「巴里のアメリカ人」から「ラ・ラ・ランド」へ

2017年夏の甲子園で大阪桐蔭高等学校吹奏楽部(指揮:梅田隆司 先生)は野球部の応援歌として「ラ・ラ・ランド」(♪Another Day of Sun♪)を初めて演奏し、世間の話題を攫った。また全日本吹奏楽コンクールの自由曲としてガーシュウィン作曲「パリのアメリカ人」を選択した(結果は銀賞)。全国大会で同曲が演奏されたのは2009年の相馬市立向陽中学校以来8年ぶり。因みに桐蔭を含め過去5回全国大会で取り上げているが、金賞を受賞した団体は未だない。

北米で2016に公開されたミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」はアカデミー賞で史上最多の14部門にノミネートされ、監督賞・主演女優賞・撮影賞・美術賞・歌曲賞・作曲賞の6部門を受賞した。監督のデイミアン・チャゼルは32歳、史上最年少の記録となった。

La La LandのLAはハリウッドのあるロサンゼルス(Los Angeles)のことを指し、【あっちの世界/あの世/我を忘れた陶酔境】を意味する。「あの娘はいま、ラ・ラ・ランドにいる」とは、「彼女の心はここにあらずで、空想に耽る不思議ちゃん」と揶揄しているのだ。

映画「ラ・ラ・ランド」の主軸には3つのオマージュがある。

  1. ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン主演マイケル・カーティス監督の映画「カサブランカ」
  2. 往年のハリウッド製ミュージカル映画、特にヴィンセント・ミネリが監督し、フレッド・アステアやジーン・ケリーが歌い踊ったMGM映画「バンド・ワゴン」&「巴里のアメリカ人」
  3. フランス・ヌーベルヴァーグの映画群、特にジャック・ドゥミ監督「ローラ」「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」=港町三部作

ヒロインのミア(エマ・ストーン)は映画「カサブランカ」に憧れを抱いており、自室に巨大なイングリッド・バーグマンのポスターを貼っている。そしてワーナー・ブラザース撮影所の、「カサブランカ」が撮影されたセットの向かいにあるカフェで働いている。彼女がパリにこだわるのも「カサブランカ」の影響だ("We'll always have Paris."「俺達にはパリの想い出がある」ボギーの台詞)。ここからは僕の解釈だが、「ラ・ラ・ランド」のエピローグ(5年後の冬)でキャメラは彼女の(妄想/ifもしもの世界)の中に入ってゆく。そこで彼女はハリウッドの大女優になっており、棄てたはずのバーグマンのポスターが忽然と街角に現れる。そして彼女は人妻ながら、別に好きな男がいるという「カサブランカ」のヒロイン、イルザ(バーグマン)と同じ役柄を演じる

ちなみに「カサブランカ(Casa Blanca)」とは《白い家》という意味であり、ハリウッドのメタファーとも言える。この映画は第二次世界大戦中の1942年に公開された。アメリカはナチス・ドイツと交戦状態にあり、ユダヤ人を中心にヨーロッパで活躍していた沢山の映画人が亡命し、ハリウッドに身を寄せていた。監督のマイケル・カーティス(1888-1962)はハンガリーの首都ブタペスト出身。彼もユダヤ人であり、ハンガリー名はケルテース・ミハーイ。左翼思想を持ち、長編デビュー作は共産党のプロパガンダ映画であった。しかし1919年にハンガリーにおける共産主義革命が失敗したため、ドイツに亡命し、後に渡米した。つまりカサブランカ=ラ・ラ・ランド=ハリウッドという図式が成り立つのである。

戦争を挟み、1930〜50年代はハリウッドの黄金期であった。大手映画会社にはそれぞれ得意分野があった。例えばドラキュラ、フランケンシュタインなど怪奇映画ならユニバーサル・スタジオといった具合に。そしてミュージカルといえばMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の独壇場であった。偉大なプロデューサー、アーサー・フリードの功績が大きい。フリードは元々作詞家で、作曲家ナシオ・ハーブ・ブラウンと組んでたくさんの名曲を生み出した。ジーン・ケリーが主演した名作「雨に唄えば」(1952)に出てくる歌は、表題曲を含め全てフリード&ブラウンの作品である。そしてフリードはブロードウェイで新進気鋭の演出家として名を馳せていたヴィンセント・ミネリをハリウッドに招聘した。ミネリのハリウッド・デビュー作は「キャビン・イン・ザ・スカイ」(1943)。出演者全員が黒人のミュージカル映画であり、プロデューサーは勿論フリードである(日本でもDVDやAmazon等の動画配信で観ることが出来る)。

当時のMGMが如何に豊穣で、どれくらい数多くミュージカルの名作を生み出していたかは是非、豪華絢爛たるアンソロジー映画「ザッツ・エンタテインメント」DVDをご覧頂きたい。パート3まで製作され、「ラ・ラ・ランド」が引用した場面も沢山収録されている。

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番外編として「ザッツ・ダンシング!」もお薦め。

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こちらはMGM映画に限定せず、「赤い靴」(←英国映画)「フラッシュダンス」とか、マイケル・ジャクソンまで登場する。

ヴィンセント・ミネリに話を戻そう。彼は1944年にMGMの看板女優だったジュディ・ガーランド主演で「若草の頃」を撮り、翌45年に彼女と結婚した。ふたりの間に生まれたのがライザ・ミネリである(「キャバレー」でアカデミー主演女優賞受賞)。彼はその後もジュディ主演で「踊る海賊」(1948)を撮っている(相手役はジーン・ケリー)。しかし幸福な生活は長く続かなかった。ジュディは子役時代からMGMで仕事をしていたが、太りやすい体質だったためスタジオは13歳の彼女に痩せ薬としてアンフェタミン(覚醒剤)の内服を指示した。17歳で「オズの魔法使い」(1939)の主役に抜擢された時は既に常用者になっていた。その後多忙を極めた彼女はセコナール(睡眠薬)も併用するようになり、次第に薬物中毒の症状が現れ始める。自殺未遂、繰り返す薬物治療のための入退院、そして撮影所への遅刻や欠勤。結局主演が決まっていた「アニーよ銃をとれ」(1949)からは役を降ろされ、翌50年にMGMは彼女を解雇した。そして同じ年、ミネリとジュディは離婚した。なお余談だがジュディはワーナー・ブラザースの「スタア誕生」(1954)で劇的な再起を果たす。この一場面(♪The Man that Got Away♪ )も「ラ・ラ・ランド」に引用されている。

アーサー・フリード製作、ヴィンセント・ミネリ監督、ジーン・ケリー主演及び振付「巴里のアメリカ人」(1951)はアカデミー賞で作品賞・撮影賞・美術賞・衣装デザイン賞など6部門を制覇した(加えてジーン・ケリーに名誉賞が贈られた)。全編がガーシュウィン兄弟の楽曲に彩られている(劇中でピアノ協奏曲 ヘ調を弾くオスカー・レヴァントはガーシュウィンの親しい友人で、伝記映画「アメリカ交響楽」では本人役で出演)。圧巻なのがジョージ・ガーシュウィン作曲「パリのアメリカ人」をバックに踊られる、18分に及ぶクライマックスのダンス・シーン。MGM映画を代表する究極の名場面であり、「ザッツ・エンタテインメント」第1作の最後を飾った。なお本作は舞台化され2015年にブロードウェイで上演、トニー賞に12部門ノミネートされた。日本では2019年に劇団四季が上演することも決まっている→こちら

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はヴィンセント・ミネリについて次のように語っている。

ダンスがイメージに流動的な世界を与えるということだけでなく、イメージの数だけ世界があるということを発見したのは、ミネリであった。(中略)世界の複数性はミネリの第一の発見であり、映画における彼の天文学的な位置はそれに由来している。ではしかし、どのようにして一つの世界から別の世界へと移行するというのか。ここに第二の発見がある。つまりダンスはもはや単なる世界の運動ではなく、一つの世界から別の世界への移行であり、別の世界への入り口、侵入、探検なのである。(中略)色彩は夢であり、それは夢がカラーだからではなく、ミネリにおける色彩が、すべてを吸引するほとんど貪り食うような高い価値を獲得しているからである。したがって、そこに忍び込み、吸い込まれなければならない。(中略)ダンスはもはや世界を描く夢の運動ではなく、みずからを深め、ますます激しくなり、別の世界へと入るための唯一の方法となる。その別の世界とは、ある他者の世界、ある他者の夢あるいは過去なのである。(中略)ミネリにおいてミュージカルは、かつてないほど記憶の、夢の、時間の謎に近づいた。現実的なものと想像的なものとの識別不可能な点に近づくようにして。それは夢についての奇妙で魅惑的な着想であり、夢はある他者の夢につねにかかわっていればいるからこそ、あるいは傑作『ボヴァリー夫人』におけるように、夢そのものが、人を貪り食う仮借ない力能を、みずからの現実の主体として構成しているからこそ、折り込まれた夢である。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

僕はこの度「巴里のアメリカ人」を再見しながら、最後にジーン・ケリーが入って行くのは誰の夢なのかということに思いを馳せた。そして発見した。パリという街がドガやルノワール、ロートレック、ゴッホ、ユトリロら、ここに集まった画家たちに見せた夢の総体なのだと。

これは「ラ・ラ・ランド」に繋がっている。ミアとセブが最後に入っていくのはハリウッド(=ラ・ラ・ランド)という装置(生産工房)が、そこに集まってきた人々に見せる束の間のである。黒服を来たミアはそこに呑み込まれ、脱出不能になる。THE END.

あとドゥルーズも触れていたジェニファー・ジョーンズ主演「ボヴァリー夫人」(1949)も是非一度、ご覧頂きたい。紛うことなきミネリの最高傑作である。特に凄いのは舞踏会と、夫人が若い貴族と駆け落ちしようと深夜に乗合馬車を待っている場面。舞踏会では正に狂気が疾走する。彼女は若い貴公子たちに囲まれた自分の姿を鏡で見てウットリ酔い痴れ、その夢に呑み込まれてしまう。この舞踏会でのカメラワークをチャゼルは「ラ・ラ・ランド」でちゃっかり借用している(セレブ邸のプールにて、♪Someone in the Crowd♪)。

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↑ジュネス企画から発売されているDVDジャケット。

最後にヌーベルヴァーグについて語ろう。第2次世界大戦で戦場となったヨーロッパは破壊し尽くされた。その廃墟の中から真っ先に起こってきたシネマの運動がイタリアン・リアリズム(ネオレアリズモ)である。ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」'48やロベルト・ロッセリーニ「無防備都市」'45「戦火のかなた」'46がその代表作。ハリウッドで「無防備都市」を観たイングリッド・バーグマンは大感激し、直ちにロッセリーニに手紙を送った。そして彼女は夫や幼い娘を棄て、イタリアに飛んだのである。アメリカ国民は怒り、上院議会も彼女の不倫を激しく非難した(こうしてふたりの間に生まれたイザベラ・ロッセリーニは女優の道を進み、デヴィッド・リンチ監督「ブルーベルベット」や「ワイルド・アット・ハート」に出演することになる)。

やがてネオレアリズモがフランスに飛火し、1950年代後半にヌーヴェルヴァーグ〈新しい波〉が発生した。さらにヌーベルヴァーグに刺激を受けてベトナム戦争最中の1960年代後半にアメリカン・ニューシネマが勃発する。アメリカン・ニューシネマの代表作「俺たちに明日はない」の監督のオファーが最初はヌーベルヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーにあったことは余りにも有名である(トリュフォーは断り、次にジャン=リュック・ゴダールが打診された)。ヌーベルヴァーグ及びアメリカン・ニューシネマとは一体、何だったのか?簡単に言えば従来の映画の常識、既成概念の破壊である。若い映画作家たちは手持ちカメラを携えて撮影所から飛び出し、街頭でロケし始めた。つまりさすらいの映画だった(「イージー・ライダー」がその典型)。編集方法(モンタージュ)も劇的に変わった(ドゥルーズに言わせれば【知覚→情動〘感情〙→行動〘反応〙】という一連の「運動イメージ」の放棄/切断)。

では「ラ・ラ・ランド」とヌーベルヴァーグの関係を見ていこう。まず冒頭、地方からロサンゼルスに集まってきた若者たちが歌う♪Another Day of Sun♪はジャック・ドゥミ監督「ロシュフォールの恋人たち」'67(♪キャラバンの到着♪)への高らかな讃歌。楽曲もミシェル・グルランを意識して書いたと作曲家のジャスティン・ハーウィッツがインタビューで明言している。ミアが台本を書いて演じた一人芝居の役名は「シェルブールの雨傘」'64と同じジュヌビエーブ。衣装の色彩も港町三部作を彷彿とさせる。ミアとセブが抱き合ってキスした時にふたりの周囲をカメラがグルグル回る手法はクロード・ルルーシュ監督「男と女」'66。ミアがオーディションで叔母さんのエピソード@パリを語るが(真っ赤な嘘/FAKE)、これはフランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく'62でジャンヌ・モロー演じるヒロインがとった行動(橋からセーヌ川に飛び込む)からの借用である。またこのオーディション・シーンの演出・カメラワークはアニエス・ヴァルダ(ドゥミ夫人)監督「5時から7時までのクレオ」'62とそっくりに仕上げられている(ミシェル・ルグランが役者として現れ、主人公が歌うピアノ伴奏を務める場面)。さらにクライマックスのダンス・シーン(=)ではアルベール・ラモリス監督「赤い風船」'56の少年がマネキン姿で登場する。あとピアノを弾くセブと踊るミアを交互に、カメラが高速でパン(Pan,水平方向に首を振る撮影法)するのもヌーヴェルヴァーグの特徴である。

ヴィンセント・ミネリの後継者デイミアン・チャゼル。次の作品ではどのような夢の力能を我々に見せてくれるのだろうか?とても愉しみである。

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2017年12月 8日 (金)

【アフォリズムを創造する】その11「偶然の宇宙・偶然の哲学」

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神教は「人間は何らかの目的があって、神によつて創造された」と考える。そしてこの世界(宇宙全体)も創造物であり、唯一のデザイナー(設計者)がいるというわけだ。

この理論に対抗する哲学とはどのようなものだろうか?

英国の哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711-76)は「我々の精神に現れる全てのものは知覚(perception)である」「知覚は、印象(impressions)と観念(ideas)に区別される」「あらゆる観念は、印象に起源をもつ(観念は、記憶や想像によって印象が再現される時に現れる)」という前提に立ち、必然的な因果関係客観的真理の存在を否定した。従来哲学で語られてきた真理とは人間の経験に基づく因果関係のことであり、主観的である。人間は、物事に法則を考える傾向が強い。「ある事柄Aの後には、必ずある事柄Bが起こる」つまり「地球誕生以来、太陽は毎朝昇って来た(経験に基づく印象)。だから明日も、そして未来永劫、太陽は昇るだろう(観念/推測)」という主張。しかしヒュームは「今日までそれが正しかったからといって、明日もそうなるとは限らない(太陽は燃え尽きてしまうかもしれない)」と考えるのである。「神が存在するから今日の我々(知的生命体)がある」という主張も因果論だ。ヒュームは因果の接続を解除する、切断の哲学を説く。

フランスの哲学者クァンタン(カンタン)・メイヤスー(1967-  )は2006年に出版された著書「有限性の後で」の中で、この世界は、まったくの偶然で成り立っており、或るとき突然、絶対の偶然性で、何の理由もなく、別様の世界に変化しうると説く。つまり彼は因果論を否定し、ヒュームの主張を肯定する。

多元宇宙論マルチバース)という考え方がある。複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学のひとつである。この説は私たちの宇宙誕生が必然なのか、偶然なのかという哲学的な問いに迫ろうとしている。つまり宇宙は無数に存在し(総数10500以上と試算される)、たまたま銀河や太陽系、地球が生まれ得る環境に成長した宇宙に、たまたま生命が生まれ、人にまで進化出来たというわけだ。ビッグバンの時に条件が違えば、灼熱の宇宙だったり、何もない虚無の空間が広がっているだけかも知れない。そんな(我々から見れば)失敗作??が多数ある。宇宙はその誕生以来、膨張を続けている(永久インフレーション)という理論や、大阪大学・橋本幸士教授らが研究している超ひも理論超弦理論)はマルチバースの可能性を示唆している。

Multi

私たちがいるこの宇宙は生命が誕生する条件を満たし、都合良く出来すぎている。どうしてこのような奇跡が起こるのか?それは他の無数にある失敗した宇宙には生命が生まれず、思惟出来ないからだ。単純なことだ。喩え話をしよう。

オリンピックで金メダルを獲った陸上選手がこう考えたとする。「努力は必ず報われる」……これは彼(彼女)にとって100%正しい。しかし世界を見渡せば、一生懸命努力を重ねたけれどオリンピックの代表にすら選ばれなかった選手が無数に、少なく見積もっても数千万人はいる(日本陸上競技連盟の登録者数に限っても40万人に達する)。つまり99.999...%の人にとって「努力は必ず報われる」は真実でないのである。多元宇宙論(マルチバース)に従うなら、私たちが地球の美しさや生命の奇跡について思惟するのは、この金メダリストと同じ立場においてなのである。あるいはジャンボジェット(ボーイング747)の墜落事故で、1人だけ生存者がいたと仮定しよう。彼にとって助かったことは奇跡であり、神の思し召しのように感じられるだろう。では他の死者たちにとってはどうか?そもそも死んでいるのだから、彼らには「神の意志」が作用したかどうかすら思考出来ないのである。このように立つ位置(観測する地点)によって、そこに見える因果関係主観的真理は異なるのである。アインシュタインが導き出した「相対性理論」によると、光の速度に近い超高速で進む宇宙船の中の乗組員が体験する「1秒」は、宇宙船の外から止まって眺めている人にとっては、1秒よりも長くなる。正に浦島効果(解説はこちら)が起こるのである!

ダーウィンの進化論も偶然の宇宙と根っ子が同じである。進化は遺伝子の突然変異で誘発される。突然変異は全くの偶然で起こる。その後に、自然淘汰により環境に適した種(遺伝子)は残り、そうでないものは滅ぶというわけだ。

パスカルの賭け」をご存知だろうか?フランスの哲学者パスカル(1623-62)が提唱したもので、「理性によって神の実在を決定出来ないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生の意味が増す」という主張である。僕は「パスカルの賭け」に対して、真っ向から異議を唱える!

例えば自分の家族が難病で亡くなったとしよう。あるいは交通事故で脊髄損傷を起こし、首から下が麻痺したという場合も想定される。もし貴方が神を信じていた場合、どう考えるか。「全ては神の思し召し」と納得出来るだろうか?大概の人は「どうして神は私にこんな試練をお与えになるのか?」(旧約聖書「ヨブ記」)と疑問や怒りを感じ、「神よ、どうして貴方は沈黙されるのですか?」(遠藤周作「沈黙」)と嘆くのではないだろうか。では全てが偶然と考えた場合はどうか?「難病になったのはたまたま」「交通事故に遭遇したのは単なる偶然、運が悪かった」その方が諦めが付くのではないだろうか。つまり偶然の哲学諦念の哲学と言い換えることも出来るだろう。

生きるとは賭けることである。それは偶然(運命のいたずら)に作用される。しかし、だからといって「人生なんてこんなものだ」とニヒリズムに陥るのは間違いだ。勉強しなければ名門校に合格出来ないし、日々練習を積み重ねなければオリンピックで金メダルを獲ることは不可能だ。つまり、力への意志(by ニーチェ)を持ち生成変化(by ドゥルーズ)することで、勝率を上げることが出来る。最初から勝負を捨てるな、積極的に挑め!

偶然の宇宙偶然の哲学」がもしも正しかったら、唯一の神は存在しないということになる。人類は数千年に渡る根源的な問いの答えを間もなく手に入れるだろう。

ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、彼が否定したのはユダヤ教、キリスト教など一神教であって、多神教ではない。ここを勘違いしてはいけない。ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中でデュオニソス的アポロン的という概念を打ち立てた。デュオニソスとアポロンはギリシャ神話に登場する神々である。彼は多神教であるギリシャ神話を愛でた。

最後にフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)の言葉で締めくくろう。

真理は到達されたり、発見されたり、作り直されたりするものではなく、創造されなければならない。〈新しいもの〉の創造以外に真理はない」

参考文献:

  • 野村泰紀(カリフォルニア大学バークレー校教授、バークレー理論物理学センター所長)著「マルチバース宇宙論入門」星海社新書(2017.7.25.発行)
  • 橋本幸士(大阪大学教授)監修×ニュートン編集部「超ひも理論」Newtonライト(2017.10.5.発行)
  • 千葉雅也 著「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」河出文庫
  • ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局

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2017年12月 7日 (木)

gifted/ギフテッド

評価:A

Gifted

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マーク・ウェブは監督デビュー作のインディー映画「(500)日のサマー」がとっても素敵だった。これで才能を認められ、大作「アメイジング・スパイダーマン」を任されたわけだが、スタッフは3作目をやる気満々だったのに、興行成績が振るわず実現しなかった。そこで登場したのがリブートの「スパイダーマン:ホームカミング」というわけ。で失意の彼が低予算映画に戻ってきたのが本作である。

いや、こういうのを撮らせると天下一品だね!初々しく溌剌としている(英語で表現するならVivid)。

7歳の天才少女のお話である。彼女の親権を巡って、母と息子(少女から見れば祖母と叔父)が裁判で争うことになる。悲しいのは両者とも少女を愛し、彼女の幸せを願っているという点では変わらないんだよね。英才教育を受けさせるべきか?フツーの子どもとして育てるべきか?どちらが正解かは判らない。色々考えさせられた。

巷では子役のマッケンナ・グレイスが可愛いと大評判なのだが、どちらかと言うと睫毛の長い別嬪さんという印象。なんかね、エリザベス・テイラーの若い頃に似た雰囲気なんだ。

Eri

お父さん役はクリス・エヴァンス。そう、キャプテン・アメリカだ。本作でもモテモテだった。

あと可笑しかったのが少女が自宅でレゴに夢中になっていたこと。理論物理学者で大阪大学教授の橋本幸士先生も幼少期からレゴをされていたという。

レゴが大好きな子どもは理数系という定理が成り立つのかも。

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ノクターナル・アニマルズ

評価:B+

Animals

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トム・フォード監督はファッションデザイナーとして余りにも有名だ。彼はゲイであることをカミングアウトしており、2014年には27年間交際を続けていたパートナーと同性婚している。お相手は13歳年上で、ふたりは養子を迎えている。

2010年に観た、彼の監督デビュー作「シングルマン」(コリン・ファース主演)の出来が割りと良かったので、新作も期待して映画館に足を運んだ。

「シングルマン」の主人公はゲイだったが、今回は男女間の交際がテーマになっている。しかし彼の作品らしく、脇役として数名ゲイ・キャラが登場する。

トム・フォード自らシナリオも執筆しており、見応えある力作に仕上がっている。この人のセンスは半端じゃない。タイトルは「夜の動物たち」という意味だが、暗闇に何か得体の知れないものがゴソゴソ動き回っているという不気味さが全編を支配する。それは欲望と言いかえることも可能だろう。人間の、原始的な本能。冒頭の強烈な映像からノックアウトだ。

エイミー・アダムス(現在43歳)が物凄い厚化粧で登場するのでギョッとするが、回想シーンではしっかり大学生に見えるのだから大したものだ。

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ジル・ドゥルーズ「シネマ」〜哲学者が映画を思考する。

20世紀フランスを代表する哲学者、ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 」全2巻(法政大学出版局)を読んだ。「シネマ1*運動イメージ」と「シネマ2*時間イメージ」は併せて800ページに及ぶ大作である。

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ドゥルーズ(1925-1995)の名前を初めて目にしたのはニーチェの著作/解説書を読んでいる時であった。

哲学史的にスピノザ - ニーチェ - ドゥルーズという一本の堅固な線があることを知った。そしてドゥルーズが映画について本を出していることに驚かされた。哲学者が映画を思考すると、どのような言葉が紡がれるのだろう?大いに興味が湧いた。

通読するには難儀した。2ヶ月掛かった。まず翻訳が良くない。大学で哲学を教えている教授らが訳しているので日本語としてこなれていない。原文は同じ単語なのに「シネマ1」と「シネマ2」で異なる日本語に置き換わっていたりもする。またドゥルーズ自身、簡単な概念をわざと難しく書く癖があるので厄介だ。そして長い。対してニーチェの著作はページ数が少ないし、非常に分かり易くスラスラ読める。しかし「シネマ」から得たものは多かった。努力は決して無駄でなかった。

ドゥルーズは巻頭で「これは映画史ではなく、映画に現れるかぎりでのイメージと記号の分類の試みである」と宣言している。だが実際には「シネマ1」で主に第二次世界大戦前の映画、具体的にはチャップリン、キートンらの喜劇、D・W・グリフィスらアメリカの作家、エイゼンシュタイン、ヴェルトフらソ連の作家、ラング、ムルナウらドイツ表現主義、そしてクレール、ルノワール、ガンス、エプシュタインらフランスの作家(主に無声映画)が話題の中心となり、「シネマ2」では戦後の映画、ロッセリーニ、デ・シーカらイタリアン・リアリズム(ネオリアリスモ)、ゴダール、レネらフランス・ヌーヴェルヴァーグ、他にもウェルズ、アントニオーニ、パゾリーニ、デュラス、キューブリックらの作品が取り上げられている。つまり映画史に沿った記述になっている。また嬉しいことに我が国からも小津安二郎、黒澤明、溝口健二らの作品が言及され(市川崑についても少し)、褒められている。

黒澤明「七人の侍」に関しては「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在するとドゥルーズは語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

見事な解読である。

本書はベルクソンの著書「物質と記憶」の注釈に始まり、カント、ライプニッツ、ニーチェなどの数々の哲学者についても言及される。

どういうことが書かれているか、「シネマ」から学んだことを具体的に幾つかご紹介しよう。まず映画における運動イメージの三つの水準について。①総体 ensemble=閉じられたシステム。映画においてはフレーミングで規定される。②移動としての運動。フレームの中で成立する運動=ショット。動く切断面であり変調。③全体 tout=ショットとショットを繋いで(モンタージュ)規定される。それ自身の諸関係に即して絶えず変化する(=絶対的運動あるいは宇宙的変動)。

主観性の三つの物質的アスペクトについて。①ある主体が外的刺激(光、音)を知覚する。主観性は、おのれの関心を引かないものを、物〔=イメージ〕から差し引く。②知覚から行動への移行。③困惑させる知覚と、逡巡する行動とのあいだで、主体(不確定性の中心)のなかに出現する情動 intervalleを占めるもの。作用と反作用の間に現れる隔たり。

そして映画においては知覚イメージがロング・ショット(遠景)、行動イメージがフル・ショット(人物の全身像)、感情イメージがクロースアップ(顔またはその等価物で表現される情動)に相当する。

しかし状況ー行動、作用ー反作用、刺激ー反応という連鎖、感覚ー運動系の帯紐はアドルフ・ヒトラーのファシズム、ハリウッドのプロパガンダ(戦意高揚映画)に利用された。国家による大衆操作。運動イメージの到達点はレニ・リーフェンシュタール(ナチス党大会を記録した「意志の勝利」、ベルリン・オリンピックを記録した「民族の祭典」「美の祭典」の監督)である。

そして第二次世界大戦後、ヨーロッパの破壊し尽くされた廃墟など圧倒的状況が、感覚ー運動図式を断ち切り、登場人物は殆ど無力に陥った。彼は反応するよりも記録する。彼はひとつの視覚 visionに委ねられ、行動の中に巻き込まれるよりもむしろ視覚に追いかけられ、視覚を追いかける。純然たる見者となる。純粋に光学的な状況→直接的時間イメージという位置付けられない関係が現れるのだ。

ここで登場するのが結晶イメージであり、ベルクソンの逆さ円錐モデルで説明される。

B

円錐の全体SABが記憶に蓄えられたイマージュ全体。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。ABは純粋回想=保存された過去。Pは宇宙。意識は螺旋を描きながら絶えず内部を反復し、新たな過去A'B'、A''B''を生成し続ける。

この結晶時間イメージの代表例がアラン・レネの「去年マリエンバートで」'61であり、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」'63だ。フェリーニは語る。「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」過ぎ去り、死に向かう現在と、保存され、生の核を保持する過去は絶えず干渉しあい、交差しあう。もし保存された過去の領域へ飛翔しても求めている回想が応じず、イメージが顕在化しなければ現在に戻って来て、もう一度飛翔しなおせばいい。

僕が「8 1/2」を初めて観たのは高校生ぐらいの時だった。当時は何が面白いんだかさっぱり理解出来ず、ただただ退屈だった。しかし今回ドゥルーズを読み、フェリーニが言わんとしたことの輪郭が漸くはっきりして来た気がする。

また「シネマ」で紹介され、初めて知る機会を得た映画も沢山ある。ドライヤー「裁かるゝジャンヌ」'28、エプシュタイン「アッシャー家の末裔」'29、エイゼンシュテイン「全線」'29、ヴェルトフ「これがロシアだ」'29、イヴェンス「橋」'28、「雨」'29、ブニュエル「ビリディアナ」'61、「皆殺しの天使」'62、バスター・キートン×サミュエル・ベケット「フィルム」'65……。大変勉強になった。

ただ些か不満なのは、ヌーヴェルヴァーグに関して僕はトリュフォー派なので(「シネマ」では殆ど触れられない)、ドゥルーズはゴダールのことを実力以上に買いかぶっているのではないか、ということである。

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2017年12月 6日 (水)

KUBO/クボ 二本の弦の秘密

評価:A+

Kubo

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大傑作!一コマずつ被写体を動かして作り出す〝ストップモーション・アニメ〟。とにかく映像が凄い。アカデミー賞では長編アニメーション部門及び視覚効果部門にノミネートされた。舞台は日本だが、全く違和感がなかった。特に折り紙の表現が最高。

監督のトラヴィス・ナイトは1973年にナイキ創業者のフィル・ナイトの次男として生まれた。8歳の時、仕事で日本へ行く父親に同行した際、日本の美術や建築、テレビ番組、漫画などに強い感銘を受けたという。

ズバリ、本作のテーマは物語の効用であると言えるだろう。根底に「どうして人は物語を必要とするのか?」という問いがある。

タイトル「二本の弦(原題ではTwo Strings)」の本当の意味が判明するラストシーンで貴方の涙腺が決壊することを保証しよう。

エンディング・クレジットに流れるのはビートルズの「ホワイト・アルバム」に収録された"While My Guitar Gently Weeps"(作詞・作曲:ジョージ・ハリスン)。これをギターではなく、何と三味線が演奏するんだ。粋だねっ!試聴は→こちら

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IT/イット “それ”が見えたら、終わり。

評価:A

It

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スティーヴン・キングの原作小説は15年くらい前に読んだ。文庫本で全4巻。第2巻までが少年期、第3巻から27年後に飛び、成年期の物語となる。今回の映画化は前半部。「エクソシスト」の記録を塗り替える大ヒットを受けて後半部の映画化にもGOサインが出た。

はっきり言って原作より面白かった!そして最恐だった。こんなにドキドキしたのは何以来だろうと真剣に考えて思い浮かんだのが清水崇監督「呪怨」、それも2000年に発売された東映Vシネマ(ビデオ)版。正直、2003年に公開された奥菜恵主演の劇場版「呪怨」や、のりピー主演「呪怨2」はVシネマ版ほどのインパクトがない。

キング原作の中でも最上級の出来の良さだろう。以下、僕が優れていると思う映画化作品を公開年度順に列挙しておこう。

  • キャリー(76)
  • シャイニング(80)
  • デッド・ゾーン(83)
  • スタンド・バイ・ミー(86)
  • ミザリー(90)
  • ショーシャンクの空に(94)
  • ミスト(07)
  • IT/イット(17)

少年たちの物語という意味では「スタンド・バイ・ミー」(原作小説は短編「死体 THE BODY」)を彷彿とさせるし、狂信的な母親が登場するのは「キャリー」みたい。やはり本作はキングの集大成だなと再認識した次第である。

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2017年12月 1日 (金)

エマニュエル・パユ×エリック・ルサージュ@兵庫芸文

11月30日(木)兵庫県立芸術文化センターへ。

エマニュエル・パユ(フルート)とエリック・ルサージュ(ピアノ)のデュオを聴く。

P

  • モーツァルト:ソナタ 第17番(原曲はヴァイオリン・ソナタ)
  • シューベルト:「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲
  • ドビュッシー:ビリティス(カール・レンスキ編)
  • フォーレ:シシリエンヌ/コンクール用小品/幻想曲
  • プーランク:フルート・ソナタ

     ー以下アンコールー
  • マーラー:「子供の不思議な角笛」より《ラインの伝説》
  • マーラー:「亡き子をしのぶ歌」より
      《いつも思う。子どもはちょっと出かけただけなのだと。》

11月23-25日に東京と川崎でサイモン・ラトル/ベルリン・フィルの来日公演があった。その後、首席奏者であるパユはそのまま日本に留まり、各地でリサイタルを開催。ル・サージュはレ・ヴァン・フランセの仲間である。

パユは兵庫県と縁が深い。1989年に第2回 神戸国際フルートコンクールで優勝している。神戸市が補助金打ち切りを決め、コンクールが岐路に立たされた2015年には神戸市長に手紙を送っている→内容はこちら。その甲斐もあり、結局どうにか存続されることになった。

彼はiPadの電子楽譜を使用。譜めくりはフットペダルで。こういうやつ。

Foot

ただし楽章間は指でタップ。

最初のモーツァルトから弱音の美しさが際立つ。これが下手な奏者になると息のフーという音ばかり目立ち、掠れちゃうんだ。基本、頭と音尻はノン・ヴィブラートで、伸ばす中腹に装飾的ヴィブラートを掛ける感じ。

「しぼめる花」の序奏はさすらい人の姿が目に浮かぶよう。孤独で寂しい。変奏曲になると一転して華麗に。

「ビリティス」はドビュッシー特有のゆらぎが素敵。武満徹が愛したのイマージュ。全6曲で最初にギリシャ神話の半獣神《パン》が登場するのだが、僕が知っているだけでもドビュッシーは《パン》を3回取り上げている。まず「牧神の午後への前奏曲」(牧神=パン)、そして無伴奏フルートのための「シランクス」。旋律はそれぞれ異なるが、何れもフルートが「パンの笛」のイメージを担っているのが特徴。

フォーレは凛として格調高い。

フルートのために書かれた楽曲の史上最高傑作であるプーランクのソナタは冒頭のpure toneから魅了された。

アンコールのマーラーは優雅で洗練され、優しく繊細。文句なし。《フルートの貴公子》は相変わらずパーフェクトであった。

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デュメイ&横山幸雄/フレンチ・カーニバル!〜関西フィル定期

11月23日(祝)ザ・シンフォニーホールへ。オーギュスタン・デュメイ/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。ピアノ独奏は横山幸雄。

  • フランク:ヴァイオリン・ソナタ(デュメイ&横山)
  • サン=サーンス:ピアノ協奏曲 第2番
  • ドビュッシー:前奏曲集 第2巻 第6曲「風変わりなラヴィーヌ将軍」
    (ソリストアンコール)
  • ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
  • デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」
  • ビゼー:「アルルの女」よりアダージェット(アンコール)

関西に居ながらにして、世界で第一級のヴァイオリニスト・デュメイの演奏をしばしば聴く機会があるのは幸福なことだ。

フランクのソナタではピンと張り詰めた線があり、激しさと力強さが交差する。第4楽章の春の訪れと共に緊張感が少し緩む。そこには物語がある。

サン=サーンスは過小評価されている作曲家だと常々想っている。日本は無論のこと、(フランス以外の)ヨーロッパでも。イギリスのオケやベルリン・フィル、ウィーン・フィルはドビュッシーやラヴェルをしばしば演奏するが、サン=サーンスは滅多に演らない。皆無に等しい。彼の曲を聴く度に、「才気が迸ってるなぁ!」と感じる。ただ「知」が勝りすぎて「情」が乏しい側面は確かにあるので、不人気なのはそこが原因なのかも。つまり聴き手が感情移入出来ないわけだ。ピアノ協奏曲 第2番もJ.S.バッハ「平均律クラヴィーア曲集」を彷彿とさせる厳粛なピアノ独奏から開始され、そこから浪漫派の潮流の中に一気に聴衆を運び去る傑作。溜めて歌わせる演奏に酔い痴れた。

ベルリオーズは活発で歯切れよい。すばしっこくちょこまか動く。

デュカスでは冒頭の繊細な弱音に魅了された。魔法が効くと音楽はスキップし始める。速いテンポで切れ味鋭い解釈に、万雷の拍手が送られた。

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